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アタリショック - (2025/08/22 (金) 12:04:46) のソース
&font(#6495ED){登録日}:2011/04/20 Wed 09:30:24
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&font(#6495ED){所要時間}:約 24 分で読めます
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&bold(){アタリショック(Video game crash of 1983)}とは、1983年に北米のテレビゲーム市場で起こった一連の大規模な市場崩壊(売上不振)のこと。
今なお語り継がれるテレビゲーム市場黎明期を締めくくる汚点であり、訓話としてしばしば挙げられるバブル崩壊事件である。
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*アタリ社とは
事件の背景をより深く理解するために、まずは事件名の由来にもなった「&bold(){アタリ社}」の歴史について軽く触れておきたい。
1972年、ノーラン・ブッシュネルという人物がアタリ社を設立。
(余談だが、「アタリ」という社名は[[囲碁]]…つまり[[日本語]]に由来している。((「アタリ」とは自分の石で相手の石を囲んで取る一手前の状態を指し、「自社の勢力で他社を囲み陣地を広げる」という意味を持たせた……とされる。ノーランは日本棋院の囲碁初段を持つほどの腕前だった)))
同社はビデオゲーム開発を主業務とする当時としては珍しい会社で、アーケードゲームの開発を手掛ける一方、
当時小規模であった家庭用ゲーム市場において、片手で出来るテーブルテニス『ポン』((棒1本で表現された「ラケット」でボールを打ち合うルール。要するに「ボールを打つためのアタリ…当たり判定」の表現はスマホのフリーゲームでよくあるブロック崩しのあれと同じ))の開発に成功。
これが空前絶後の大ヒットとなり、ゲーム市場はにわかに活気付いた。
次々にゲーム市場への参入者が増える中、ノーランは次回作の開発予算を求めて融資を受けたがっていた。
しかし当時ゲーム市場は認知度が低く、また&b(){プログラム改変OK、コピーOK}という無法地帯であったため&footnote(当時はまだコンピューターにおける著作権や肖像権は扱いの難しい問題だった)、
他の企業からはヤクザ稼業という認識が強かったために敬遠され、融資を受けられずにいた。
しかし、アタリ社のゲーム作りのノウハウに目を付けたワーナー社がアタリ社を買収。
ノーランはめでたく出資を受けられる事になった。
当時、家庭用ゲームに人気が移ると考えたワーナー社はノーランに家庭用ゲーム機の開発を命じた。
そして1977年7月、ノーランは家庭用ゲーム機『アタリ2600(通称VCS)』を完成させる。
これはROMカートリッジに対応し、一つのハードで複数のソフトがプレイできる優れものであったが、当時多数の家庭用ゲーム機が発売されたためにユーザーは混乱。
いまいち売り上げは伸びなかった。
このことでアタリは4000万ドルの在庫を抱える羽目になる。
ワーナー社は家庭用ゲーム機を待ち望んでおり、このVCSを育てたい思いが強かったが、対してノーランは『VCSに見切りを付けて、さっさと次の製品の開発を行うべき』と主張。
考えの違いから二者は袂を分かち、ノーランはアタリ社を退職した。(単に売れなかったため解任されたとする説もある)
多数の在庫を残したアタリであったが、思わぬ救世主が現れる。
あのタイトーが開発した日本製ゲーム、『[[スペースインベーダー]]』である。
テーブルテニスから発想を受けて作られたそのゲームはアメリカに逆輸入され、大ヒット。
年末であった事も拍車を掛け、VCSに移植されたそれが助けとなりアタリの4000万ドルの在庫を消費する事に成功する。
*序章
―――[[年末には魔物が潜む>年末の魔物(KOTY)]]。
[[遥か未来、とある場所>クソゲーオブザイヤー ]]で語られたこの言葉は、今この当時においても真実であった。
たった一本のゲームが市場の流れを左右する。
それはまさしく、ゲーム市場というものの不安定さを浮き彫りにしていた。
―――[[悪魔]]とは狡猾である、ただ爪や牙で我らを傷付けるのではない。
―――奴らは甘言を吐くのだ……それは時折、人を盲目にする。
―――市場の熱気に紛れるその不安定さに誰かが気づいていれば、後にあのような事態は起こらなかったであろう……。
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当時アタリの売り上げは伸び、ワーナー社の利益の1/3を占めるまでになる。
このときワーナー社が始めたのが、アタリ社内部の綱紀粛正であった。
というのも、そもそもアタリとはノーランが個人的に結成した会社であり、彼の意向によって採用された(そして少なからず問題のある)人間が数多く残っていた。((結成間もない頃の組立工場のアルバイトにはあの[[スティーブ・ジョブズ]]もいた。))
しかし自由な気風((当時の工場は大音量で音楽を流してマリファナの匂いが立ち込めていたため、近隣住民には「ライブでもやってるのか?」と思われるほどだった。))を求めるアタリ社員の一部は改革に反対、アタリを抜け、新しい会社を設立する。
後に様々な名作や駄作を産み出す『アクティビジョン』の誕生である。
アクティビジョンはVCS専用のソフトを開発・販売し始めるが、アタリ社の許可を得ず独自にソフトを販売したために訴訟を起こされ、この裁判は長く続いた。
(前述の通り、当時はまだコンピューター関係の法整備が確立されていなかったため)
そうこうしているうちにアタリに[[ライバル]]が登場する。
1982年8月、コレコ社が開発した『コレコビジョン』が発売されたのだ。
これはVCSとの互換性を持ちながらVCSを遥かに上回る性能を持つマシンで、
さながら『&color(RED){セガサターン}のソフトも遊べる&color(BLUE){プレイステーション}』とでも例えるべき、ユーザーの需要にニッチに応えたこのマシンは、なんと100万台も売れた。(一説には600万台とも)
この互換性機能は当然アタリの了解を得ていなかったため、アタリに訴訟を起こされている。後日ロイヤリティの支払いによって和解した。
これに焦ったのはアタリ社……ひいては親会社であるワーナー社である。
同じく1982年、ワーナー社はコレコに対抗すべく、新ハード『アタリ5200』を開発。
だがこれはコケた。(というより、いまだにVCSの方が売れ過ぎていた)
そもそもアタリもVCSの市場に執心しすぎて5200にキラーコンテンツとなるソフトを送り込むことをしなかったのが災いしたのである。
そして1982年、ご存知ナムコの名作『[[&color(GOLD){パックマン}>パックマン]]』がアメリカに輸入され、アーケード版、VCS版ともに大ヒット。
&color(RED){ギネスに載るまでになる}。
しかし、VCS版の[[パックマン]]はいわゆる劣化移植であり、決して出来の良い物ではなかった。
それでも&bold(){『あのパックマンが家庭で遊べる』}という事で飛ぶように売れた。
……そう。
&bold(){売れてしまったのだ}・・・。
同年1982年、アタリとアクティビジョンの間で行われていた裁判が決着。
アクティビジョンがソフトを販売するにあたり、アタリ社にロイヤリティ(※ライセンス料)を支払う事で双方合意が成された。
このシステムは現在にも引き継がれている。
そして、この裁判結果は波紋を呼んだ。
アクティビジョンのような、ソフトだけを作って売る商売が、正式に認められたからである。
この流れを受けて、アメリカではソフトだけを作って販売する会社、今でいう『サードパーティー』が劇的に増えていった。この際、ピュリナのようなペットフードやクエーカーオーツといった朝食シリアルのような、ゲームとは全く関係ないメーカーもあった((こういったメーカーは「本来の」自社製品にオマケとしてゲームソフトをつける、懸賞商品や「何箱買えばゲームをつける」などのノベルティとしてゲームソフトが使えそう、という目的もあったとする説もある))。
アタリ社もロイヤリティ目当てに、これを次々と認可していく。
ゲーム開発という新たな市場の解放に企業は湧き、個人レベルの会社から大企業まで参入し、一躍ゲーム業界は活気付いた。
&bold(){&color(RED){崩壊の引き金は引かれた。}}
―――悪魔は未だ甘言を垂れ流している。
―――泡が弾けるのは一瞬のことだ。
―――積み木が崩れるのは一瞬のことだ。
―――全てが終わって振り返ってみても、もう既にそこに悪魔はいないのだ。
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*転落
アタリ社は&b(){ゲーム業界の覇者}として君臨し始めていた。
コレコを大きく引き離し、名実ともにトップに躍り出た。
ここでアタリ社はパックマンの成功を受けて、禁断の果実に手を出してしまう。
&b(){&color(RED){……それは、決して耳を傾けてはいけない}&color(PURPLE){悪魔の囁きであった}}。
&b(){「多少ゲームの出来が悪くても、とにかくゲームを出せば売れる。&color(RED){なら完成度など二の次だ、どんどん作って売りまくってしまえ}}」
そう、&b(){粗製乱造}である。
パックマンの成功は、誤った認識をアタリに与えていた。
無論パックマンのヒットは『(ナムコのアーケードゲーム原作)“パックマン”が持つ知名度』ありきのものであり、冷静に考えればこんな殿様商売が成功する訳が無いと、誰もが理解できた筈である。
……しかし、&color(RED){『流行』という名の熱に浮かされ}、&color(PURPLE){『一攫千金』という欲に目が眩んだアタリ社には}&bold(){もはや冷静な判断を下す理性など無かった。}
その中でも最も有名なのは伝説の[[クソゲー]]、『[[E.T>E.T. The Extra-Terrestrial]]』だろう。
クリスマス商戦に間に合わせるために、一説によればライセンス料と宣伝活動で予算と時間を浪費し、&b(){僅か6週間という突貫工事で開発された}とも言われている。
そんなクソゲーでありながら、150万本も売れてしまった事からも、当時の市場の熱気を垣間見れるだろう。
また、増えに増えたサードパーティーも問題を起こしていた。
前述のような今までゲームとは全く無関係の事業をやって来たノウハウ無しの飛び込みでゲーム開発を行ったために市場にはクソゲーが溢れ、さらには他社のゲームを丸パクりするという商品未満の品まで横行する有り様。
&color(darkslateblue){年末の魔物が雁首揃えて列を成し、百鬼夜行と化すという六道地獄も真っ青な事態}に陥っていた。
当然、これらのサードパーティーに認可を出していたのも他ならぬアタリ社であるため、その信用は地に墜ちた。
*崩壊
―――そして1983年。
&font(b,red){崩壊が加速する}。
&b(){昨年さんざんクソゲーを掴まされたユーザーは新作ゲーム全てを警戒し、『買い控え』の氷河期冬眠に入った。}
この当時はまだファミ通などのようなゲームレビュー雑誌などほとんど大衆に知られず、当然インターネットなんて民間には存在すらしなかった((1983年以前から一部研究機関や一部大学が繋がっていて規格開発なども色々と進んでいたが、この時期は基礎の完成や淘汰・標準化まで後一歩といったところ(民間への普及はまだまだ先)。例えばTCP/IP対応OSは1983年9月に初登場で、営利目的のインターネットサービスプロバイダは1989年開始である。))。
もちろん発売された中には、きちんと作られた良いゲームもあったのかもしれない。
しかし、&color(RED){ソフトを買う以外に確かめる術の無い}ユーザーに僅かな希望に高い金をつぎ込むという博打を打つ度胸は無く、市場はどんどん冷え込んでいった。
市場の支配権を手に入れたからゴミを量産しても利益が出ると思ったら大間違い、良いゲームを出す努力ができなければ、そもそも市場自体が消えてしまう。&font(b,red){コンピューターゲーム/ビデオゲームという概念がこの世から消えてしまう危機のただ中だった。}
熱した鉄を急激に冷やすと砕けるように、市場の崩壊ぶりも常軌を逸していた。
まず小さな会社は次々と倒産し、それによって市場に流れた不良在庫に対抗して各社が在庫の安売り、つまり&color(brown){ワゴンセール}を開始し、小売りは在庫を処分するだけで精一杯となり、新製品を仕入れなくなった。
当然ながら商品の流通が停止した結果、市場が完全に硬直した。
その有り様は株式市場にも大きな影響を与え、栄華を誇ったアタリとワーナー社は一転、信用と地位を地に墜とした。
覇者の敗北は市場そのものに影響を与え、コレコビジョンとインテリビジョン、
アタリVCSを凌駕する性能を誇る次世代機を擁するコレコとマテルが業界の覇者を目指し最前線に躍り出る…かに思われた。
天敵はゲーム機業界の外のはずだった場所からやってきたのである…
折しも北米のホームコンピュータ業界ではとにかく低価格化が進んでおり、
82年末の業界の盟主機と言えたコモドール64までに至るとスペックはゲーム機を遥かに越えている割に、VCSより高性能な家庭用ゲーム機に迫る低価格という有様であった。
そのため「ちょっとしたお金持ちで新しもの好きのギークボーイ」の持ち物だったホームコンピュータが、中流家庭あたりがターゲットの家庭用ゲーム機ユーザーにも手が届くレベルになっていた。
クソゲーまみれの家庭用ゲーム機からホームコンピュータに、いわゆるゲーム好きのギークボーイたちは次々と移行していった。
しかもすでに[[ウィザードリィ>WizardryⅠ 狂王の試練場]]やウルティマと言った[[RPG>RPG(ロールプレイングゲーム)]]など、アタリVCSやコレコビジョンなどではまだうまく実現できなかった様々なジャンルがホームコンピュータでは勃興し始めた時期であり((実例として、『ドラゴンクエスト(初代)』の制作スタッフのうち堀井氏と中村氏の言い出しっぺ2人が、それ以前のゲーマー専業時代にパソコン向けRPGをいろいろ遊んでいた(そしてDQ無印を作る際には先行者として参考になった)旨を回顧している。また堀井氏についてはこの経験がゆう帝としてのライター業にも役立ったのは想像に難くないだろう))、
安くなったホームコンピュータはいろんなゲームを遊びたい!という要求もあっさり満たすものとなっていたのである。
1983年の中だけでゲーム機業界はシェアをホームコンピュータに瞬く間に奪われていき、
既にアタリVCSやコレコビジョンとの戦いで体力を削られていたマテルはゲーム機業界からリタイアを決定。
インテリビジョンの部門を売り飛ばして撤退した。
コレコはホームコンピュータ業界でも活躍していたが、コレコビジョンの儲けをつぎ込んで作ったアダムがクソみたいな品質で大惨敗。
大赤字となり会社が傾く事態となったがまさかの&b(){キャベツ畑人形の大ヒット}で1983年をやり過ごすことに成功。
とはいえ結局、大赤字の元であるコレコビジョンとホームコンピュータ部門を売り飛ばし&b(){キャベツ畑人形を作る会社に成り下がった}あげく、破滅への道を転げ落ちることとなる((この時の後遺症や競合他社の買収、キャベツ畑人形への過剰投資などが重なりコレコは1988年に破産、翌年ハズブロが買収する))。
アタリも5200はさっぱり伸びず、1982年末の大損害も含めて損害は雪だるま式に膨らみ、親会社のワーナーもとうとうアタリを手放す決断をする。
こうして北米家庭用ゲーム機市場に存在した有力プレイヤーもとい有力メーカーは、1983年中にほぼほぼ壊滅。
アタリVCSが築き上げた大市場は一転して不毛の荒野に還ってしまった。
―――&b(){video game crash of 1983}.
後世の日本で&font(b,red){アタリショック}と呼ばれる出来事である。
その後、多くの中小企業は投資を回収できず倒産を余儀なくされ、大手サードパーティーですらいくつか倒産した。
アクティビジョンはコンピューターゲームにも手を出していたため、なんとか倒産は免れた。
そして、ユーザーは携帯機のゲーム&ウォッチと高性能のホームコンピュータに流れた……。
*その後
この年は、太平洋を隔てた日本でまさに[[任天堂]]が&b(){[[ファミリーコンピュータ]]}を発売した時期でもあった。
[[任天堂]]は[[ファミリーコンピュータ]]を発売する時に、アタリショックの二の舞を防ぐためにライセンス管理を徹底。
製作に当たっては俗に『ニンテンチェック』と呼ばれる厳しい品質チェックを行い、
発売する域に達していないモノには1からの作り直しを要求したため&b(){[[『ちゃぶ台返し(return tea table)』>ちゃぶ台返し#id_eebd2c1f]]}という言葉が生まれた。
その上ソフトの流通に関しても勝手なことが出来ないよう、問屋の互助団体である『初心会』を作り徹底的に締め上げた。
この厳しすぎるチェック体制は力の無いサードパーティーや、中小の小売店にとっては参入障壁になるなど、今となっては手放しで褒められたものではなかったが((実際に現在のSwitchや同2では(審査自体はあると思われるが)少なくとも日本国内のところについては緩められたらしく、かなりのインディーズでも参入しているケースが結構ある。『8番出口シリーズ』のような制作会社としては非常に小規模でもゲーム作品としてはかなり成功したものや『方向幕コレクションシリーズ』のように非常にニッチな需要向けかつゲーム要素のないようなアプリもNintendo Officialとして販売が認められているのが証拠))、ともかく家庭用ゲームに対する信頼の回復に役立ったことは事実だろう。
これがアメリカに1985年に&b(){Nintendo Entertainment System}(&b(){NES}、あるいは単にNintendo)として入ってくると、潤いを取り戻すがごとく着実に普及台数を伸ばしていくこととなる。
逆にアタリにここまでの事が出来ていれば、あるいは……。
この後の時代も家庭用ゲーム機では日本メーカー勢に押されっぱなしであり、2006年下旬で[[Xbox]]の発売に至るまで実に17年もの間、アメリカ産ゲーム機は覇権争いの壇上に立つことすらできなかったのである((さらに言えば、北米産ゲーム機そのものも1996年のAtari Jaguar発売終了を最後に一度途絶えていた。))。
しかしながら、ホームコンピュータやそのホームコンピュータが発展していったパーソナルコンピュータの登場によって、アメリカゲーム業界はユーザーごと家庭用ゲーム機からそちらに軸足を移し、活況を取り戻した後に[[DOOM>DOOM(ゲーム)]]や[[Quake>QUAKE(ゲーム)]]、[[TES>The Elder Scrollsシリーズ]]などのシリーズが生まれる素地を完成させることとなる。
*だが……
こうして教訓と共にゲーム史に刻まれたアタリショックではあるが、&bold(){因果関係については懐疑的な見方もある}。
「アタリが大赤字を出した事」や「ゲーム市場が冷え込んだ事」としてのアタリショックが嘘だと言う訳ではない。
これ自体は純然たる事実以外の何者でもなく、疑念を差し挟む余地は一切ない。
ならば何が疑われているのかと言えば、&color(#ff0000){「クソゲーを乱発、あるいは『E.T.』が引き金となった」}という部分である。
現在でまかり通っているこのような言説には&bold(){根拠や証拠がなく}、あくまで一説で憶測の域を出ないのだ。
後世の経済学者の分析によれば、「クソゲーが市場崩壊の直接的原因であるかは証明されていない」とされている。
そもそも、物が売れない事には様々な原因が絡み合っており、どれか一番の原因か、と断定するのは非常に難しいのである。
当然ながらアタリショックを実体験として経験した日本人はほとんどいない。
アタリショックの最大の原因とされ、伝説のクソゲーと謳われる『E.T.』も実際にプレイした日本人はほとんどいないだろう。
なんならアメリカ本国ですら、プレイした事のない人間は大勢いる(とあるイベントで「E.T.はクソゲーか」と尋ねたら全員が肯定したが、その中の誰もE.T.をプレイしていなかった、と言う逸話もある)。
当記事でも「それは当時[[クソゲーオブザイヤー]]があれば&b(){現在においても終身名誉顧問を務められるレベルのクソ以下の駄作}であり」などと言う記述が書かれていたが、数少ないプレイした人間の感想では「説明不足が問題だが、ルールが分かれば(当時基準で)せいぜい凡作」という評価まであるほど。
その程度にしか知られていないにも関わらず、伝聞だけでまるで確定した事実のように語られているのである。
(まあ、歴史と言うのは本件に限らずそういったものであるが。日本史・世界史でも従来説が覆され、それを一般には知られていない、と言う事例はたくさんある)
こうした事から、&bold(){アタリショックの原因そのものについてはある種の[[都市伝説>ゲームに関する都市伝説]]である}と言える。
「ゲーム市場が急激に冷え込んだ」というセンセーショナルな事実に対し、「原因はクソゲーである」という大袈裟で分かりやすい理由づけがなされた、とする説も根強い。
ちなみにそれを踏まえた上で、アタリショックの有力な理由候補として考えられているのは、以下のような理由があるとされる。
-ゲームの作りすぎ
-ゲームの種類も多すぎ
-売れ残ったゲームを在庫処理で安売りしすぎた((20~40ドルの新作ゲームの横に、「10本10ドル」で別のゲームが投げ売りされていた、と言う話もある。誰も新作ゲームなど買わない。))
-ブームが去った
-目新しいゲームが出なかったので飽きられた
-パソコンに客を取られた
もちろん、従来の「クソゲーのせい」と言う理由も、立派な理由候補の一つである(「それだけが理由」かどうかは疑わしい、と言うだけ)。
クソゲーがユーザーを苦しめ、大いに落胆させたということは紛れもない事実であろう。
ただ、それはクソゲーそのもの、ましてや伝説的に持ち上げられた『E.T.』一つで引き起こされたものなのかは、疑問符がつくと言わざるを得ない。
追記・修正はユーザーの事を第一に考えてお願いします。
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ところで、アタリショックの際に大量に作られ、返品された『E.T』は、実に&b(){トラック14台分、&color(RED){500万本}}にも及ぶと言われる。
それらは最終的に『ニューメキシコの埋立地に投棄した』と当時(1983年)のニュースで伝えられたが結局見つからず、
&b(){「砂漠に埋葬されたクソゲーがあるらしいww」}という[[都市伝説>ゲームに関する都市伝説#id_90756671]]レベルの話でしかなかった。
だが2014年4月。
アメリカニューメキシコ州アラモゴードの埋立地にて、&bold(){埋められたソフトが本当に発掘された}。
アタリショックの朽ち果てた遺産は、31年の時を超えて我々に警告を与えているのかもしれない。
&b(){『この事件を忘れるな、決して風化させてはならない』と……。}
なお、この事態は同年11月に&b(){『Atari:Game Over』}という題名でドキュメンタリー映画化されている。
2014年12月17日、発掘されたソフトの一本が米国のスミソニアン学術協会に渡り、
世界最大の博物館として知られる&b(){スミソニアン博物館}へ展示される事が決まったという。
ちなみに、埋められていたのはE.T.だけではなく、他のソフトやカタログ等も発掘されている。また、埋められていた部分が非常に深く、発掘困難であったため、実際に発掘されたのは1300本のみである。当記事には長いこと『埋められた500万本のソフトが本当に発掘された』と書かれていたが、&bold(){完全なデマ}なので注意。
追記・修正はクソゲーを埋葬してからお願いします。
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