元寇(文永の役・弘安の役)

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元寇(文永の役・弘安の役) - (2025/05/18 (日) 22:22:10) のソース

&font(#6495ED){登録日}:2024/10/23 Wed 22:15:00
&font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red)
&font(#6495ED){所要時間}:約 10 分で読めます

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#openclose(show=●目次){
#contents}

*〈概要〉
&b(){「&font(b,#c39143){&ruby(げんこう){元寇}}」}とは、&font(b,#0b5394){鎌倉時代の日本}に&font(b,#c39143){大元}帝国(&font(b,#c39143){モンゴル帝国})が侵攻してきた戦乱の総称。
1274年に起きた&b(){「文永の役」}と1281年に起きた&b(){「弘安の役」}を合わせてこう呼ぶ。

文永の役においては、日本側は大元軍の毒矢を用いた集団戦法、未知の兵器「&bold(){てつはう}」による妨害、
名乗りを挙げて一騎討ちをしてから戦う作法を妨害されて戦えないといった要因が重なり、大元側の圧倒的な戦力を前に未曾有の危機に陥った。
しかし、そこでタイミングよく&bold(){[[神風>神風(カミカゼ)]]}(&bold(){[[台風]]})が吹き、大元側に甚大な被害が出たことで日本側は辛うじて勝利を収め侵略を免れた。

幕府は危機感を抱き九州北部に石塁を築き上げで防衛線を用意しておき、続く弘安の役では善戦。
そしてこちらでも再び神風が吹き、大元軍は壊滅、撤退した。

だが、日本(幕府)側も大元軍の侵攻こそ防げたとはいえ、領土防衛戦故に敵からの略奪や領土の収奪が出来ず、参戦した御家人(武士)に十分な恩賞を用意することが出来なかった。
当然、幕府からの恩賞を期待し、それなりの支出をして参戦した御家人たちの財政はひっ迫してしまい、
そこから幕府への諸々の不満が高まったことが、鎌倉幕府体制を傾かせる遠因の一つとなってしまった。

また、日本が他国から大がかりな侵攻を受けたのはこの「元寇」が最初と言ってよく、鎌倉幕府が倒れる遠因となった点も合わせて、日本史に於ける一大事件といえよう。




…というのが一般的なイメージだが、実際のところどうだったかという点については疑問が残る。

というのも、「文永の役において武士達は大元軍を相手になすすべもなかった」というのは&b(){「八幡愚童訓」}という文献に見られる記述なのだが、
この文献は当時の僧侶の手によるものとされており、実態よりも&b(){武士達の戦果を過小に、神風の恩恵(≒自分達の祈祷の成果)を過大に表現している}可能性が高い。

実際、先に触れた「『名乗りを挙げて一騎討ち』に拘ってまともに戦えなかった」という逸話についてはこの文献以外に記述がなく、
むしろ大元側の資料や武士達が幕府にあてた文書では「集団同士で混戦状態になっていた」「武士達が夜襲やゲリラ戦を仕掛けた」とされていて、矛盾が生じてしまっている。
そもそも&bold(){「八幡宮から突如現れた白装束の軍団(=八幡神の化身)が矢を射かけて大船団を追い払ってくれました」}なんて眉唾な記述がある時点で創作が混ざっているのは明らかで、
資料としての信憑性はかなり怪しいのだが、なにぶんこれ以外に参照できる資料が少なすぎるため、史実研究においても参考にせざるを得なかったのである。
もっとも&bold(){武士は武士で報酬欲しさに戦果を盛って伝えていた}という可能性も当然あるので、何から何まで僧侶達のフカした出鱈目だったと断ずることもできないのだが。

これらの理由と、&font(b,#0b5394){鎌倉幕府}・&font(b,#c39143){蒙古軍}両軍の士気にかなりの差があったのではないか((長く過酷な船旅の影響や、高麗・南宋等の兵も多くいた混成軍だったことから、大元軍側の士気は元々あまり高くなかったと推察されている))という推察もあって、近年では、
「御家人(鎌倉武士)たちは&bold(){少なくとも大元軍に『手も足も出なかった』ということはなく、}彼らの抵抗に撤退を余儀なくされた大元軍が&bold(){その帰り道に}暴風雨の被害に遭った」
というのが元寇の実態なのではないかとも言われるようになりつつある。

一方、近年(2024年現在)のネットにおいては「鎌倉武士は&b(){&color(red){大元軍以上のバーサーカーぶりを発揮して侵略者達を撃退した}}」と、
逆に当時の日本側(というか鎌倉武士)の抵抗の強さを過度に強調した言説もしばしば見られるようになっている。
これについては[[5ちゃんねる>2ちゃんねる/5ちゃんねる]][[なんJ板>なんでも実況J]]の所謂「打線スレ」の影響が大きいと言われており、事実「元寇における鎌倉武士のバーサーカーな逸話」について出所を探ってみると打線スレに行き着いた、という話もある。
しかしこれらの逸話はかなり出所の怪しいもので、スレ内では「最新の研究結果」として語られているものの出典の全く示されていないものや、
&bold(){「ソース」として文献の名前が挙げられているがその文献内に肝心の記載がない}ものが多数含まれており、なんであれば八幡愚童訓以上に信憑性がない。
以下の折りたたみ内の解説文は当記事の初版に書かれていたものを下敷きとしているが、&bold(){こういった根拠の明確でない「鎌倉武士バーサーカー説」にかなり強く影響された内容}になっているため、
興味のある方はその点に留意したうえで読み進めていただきたい。


#openclose(show=史実?における元寇の流れ){

*〈プロローグ〉

1268年、当時大陸の覇権を握っていた&font(b,#c39143){大モンゴル国}第5代大カン&font(b,#c39143){クビライ}の目下の懸案事項は当時大元に反抗していた&font(b,#9c3dcc){南宋}であった。
その南宋と(非公式ながら)国交を結び、国中に&font(b,#daa520){金}&font(b,#afbfcc){銀}、木材等の豊富な資源を持っているという&font(b,#0b5394){日本}の話を聞き、
南宋攻略の一助とするだけでなく、モンゴル帝国が築き上げた交易圏に日本をも組み込むべく服属させる事を目論む。
クビライはまず九州の太宰府へ使者をよこし、太宰府を通じて国書を時の鎌倉幕府執権&font(b,#0b5394){北条時宗}((最初の国書が送られた時は北条政村が執権を務めており、時宗は政村の補佐役である連署を務めていたが、国書が送られてから2ヶ月後の3月に政村の後任で時宗が執権に就任し、政村は入れ替わりに連署に就任した。))へ渡す。
しかし国書の内容を見た時宗は朝廷にとある進言を行う。それは…


#center(){&font(b,#0b5394){クビライの申し出に否定も肯定もしない}}


という、黙殺とも様子見とも言える曖昧な対応であった。
現代社会の外交においても関係各国の顰蹙を買いかねない、無礼と言っても過言ではない対応であるが、
クビライの国書の内容も、日本側が「無礼」「高圧的」と受け取っても仕方ないものであることや、
南宋より渡来した禅僧から、大陸での大元の暴虐に関する報告を鎌倉幕府が受け取っていたことを加味すると、
日本(鎌倉幕府)からしても、例え無礼であろうと上述の対応を取らざるを得なかったとも言える。

ちなみにクビライの国書の内容は以下の通りである。


#region(国書の内容(現代語訳))

天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。
私(クビライ)が思うに、昔から、小国の君主は、領土が接している場合は、修好に努力するものである。
私の先祖も天命を受けて中華の地を得た。異域の国々でも、その徳に服している者の数は計り知れない。

高麗も長い間、戦争に苦しんでいたが、私が即位してすぐに平和をもたらし、その本領を安堵してやった。それで高麗の国王も臣下も感激して来朝している。
名分からいえば、私と朝鮮王は君臣関係にあるが、実際は父子のように喜びを分かち合っている。この高麗は、私の国の東の属領である。

 日本は高麗に密接しているうえに、開国以来、中国に来貢してきた。それなのに、私が皇帝になってからは使臣一人やってこない。これはきっと、私のことをよく知らないからだろう。
 それで特に使いに手紙を持たせて派遣し、私の志を布告する次第である。

 これからは好みを結び、互いに親睦を図りたいものである。
 また聖人は『四海を以って家となす』と言うが、通好しなければ一家とは言えない。日本も私を父と思うことである。
 このことが分からず、もし武力を用いなければならないようなことになれば、これはもとより好むところではない。日本国王よ、よく考えてください


…え?長くてよくわからないって?
より現代風に意訳するのならば…

天に愛された国、大モンゴル国大カンクビライです。日本の皆さんこんにちは。

日本ってうちの属国の高麗の隣にあるよね?
なら日本も大モンゴル国の属国も同然なのに日本は一度もうちに挨拶に来てないのはちょっとどうかと思ってたんだよ。だからこれを機に日本も仲良くしようよ!

これからはうちを父だと思って慕ってくれてもいいんだよ。
あ、&b(){&color(red){それが嫌っていうなら戦争も辞さないけど暴力的なのは嫌いだからさ、日本は何が最善かよく考えて返事してね?}}


…以上、国書の現代語訳並びに意訳である。
現代の研究においても、(特に&font(b,#ff0000){赤字}の部分をめぐって)クビライの国書がどこまで無礼か否か、脅迫の意思があったか否かは争点の一つとなっている。

「いやどう見ても武力を盾に脅迫してるだろ」と思うかもしれないが、国書の原文には末尾に「不宣」とあり、この表現は友人・友好国に対して用いられるものである。
このことから、モンゴル皇帝が他国に送る文書としてはかなり丁重であるという見解が為されているのである。

一方で、例え話の体とはいえ、仮にも友好を求める相手国を「小国」と揶揄したり、武力侵略を示唆するなど、
相手国に「無礼」と受け取られても仕方ない部分が文面に散見されるのも確かである。
また、仮にクビライに脅迫の意思がなかったとしても、既に幕府は大陸でのモンゴル兵の大暴れを知っているので、
その上で幕府にこの文面を見て武力侵略を警戒するなという方が無茶だろう。
従わない相手を徹底的に叩きのめし、腕づくで従わせてこき使う乱暴者に「仲良くしようよ!」と言われてすぐに信じられるか、という話である。


実際のところ、クビライはこの国書が無視された後も、後述するように何度も使節を送り、朝貢・服属を求めているので、
少なくとも初回となるこの国書を送った時点では、まだ本気で日本を攻撃しようとは考えていなかったのかもしれない。


#endregion



国書を無視されるという無礼な態度に憤るクビライ側ではあったが、すぐさま戦争という運びにはならず、これ以降も六回程((実際に辿り着いたのは三回程度とされている))使節団を送り返事を待った。
しかし、それと並行して日本への遠征計画も準備が始まっている。

また、クビライは1271年に大モンゴル国(モンゴル帝国)の新たな国号として&font(b,#c39143){「大元」}を定めた。
中華王朝としての側面も獲得したこの国家は、歴代中華王朝を一字で表す慣例においては「&font(b,#c39143){元}」と呼称する。((新国号の由来は儒教の経典『易経』の「"大"いなるかな、乾"元"」の引用である。クビライ政権の直接統治下にあったのは、モンゴル高原・中華地域を中心とする東部ユーラシアだったため、漢語由来の国号と合わせて、クビライ政権は事実上の「中華王朝」としての側面も持つことになった。そのために、「元」と一字で呼ぶ原則が適用されることになったのである。))

結局、待てど暮らせど&font(b,#0b5394){鎌倉幕府の黙殺姿勢}は変わらず、6年の間に両国の関係は冷え切り、業を煮やしたクビライは遂に実力行使へと打って出ることになる。



*〈文永の役〉

1274年10月、クビライは日本を攻め落とすべく総大将の&font(b,#c39143){クドゥン}を筆頭に&b(){蒙漢軍2万人}、&b(){高麗軍5600人}、そして&b(){棺工水手(水夫)1万5千人}。
合計&font(b,#c39143){4万強の人員}と&font(b,#c39143){大型軍艦と船内に格納された小型船を合わせた900近くの船}を率いて対馬へと侵攻。

日本側も指を咥えて見てはおらず対馬の守護大名&font(b,#0b5394){&ruby(そう){宗}&ruby(すけくに){助国}}は島中から武士を招集し、&b(){&ruby(さす){佐須}&ruby(うら){浦}(小茂田浜)}にて迎え撃った。
だがこの時集まった武士たちは&font(b,#0b5394){80前後}と言われ、前述した大軍勢を前に宗助国軍は風前の灯火も同然。
善戦はしたものの大元側の&font(b,#c39143){集団戦法や短弓の弾幕・火薬兵器による攻撃}を受け半日ももたずに武士達は&bold(){全滅}し、対馬はあっという間に占領された。

対馬を占領した大元軍は、そのままの勢いで南下し、壱岐も攻め落とした。
そして、壱岐と先の対馬での戦いで捕らえた&font(b,#ff0000){民間人達の掌に穴を開け縄で括り見せしめと肉壁を兼ねて軍艦に飾り付けるという非道極まる行為を重ねた}…と言われている。((ただこの内容の初出は、文永の役終結から数年後に認められた日蓮の書簡であり、即ち「伝聞」である。日蓮が実際に現場を訪れたわけではないので、その書簡に書かれた内容すべてが事実であったとは断定できない点には注意が必要である。))

#region(対馬・壱岐の大敗の裏で)

対馬・壱岐の大敗は&font(b,#ff0000){幕府が大元軍の戦力・戦法を計るために捨て石同然の扱いをした結果とみる説がある。}
これが真実であれば、もちろん敵対した武士たち以外の対馬・隠岐の人々をも徹底的に蹂躙した大元軍ほどではないが、
本来味方であるはずの武士たちを冷徹に捨て石として見捨てた幕府のやり方も非道であると言えるだろう。
ただ、この大敗と引き換えに得た情報は決して無駄にならず、その後の大元軍との戦いで幕府側の被害を抑えることに活かされていることを考えると、
仮に幕府側が捨て石として扱ったのが事実であったとしても、その姿勢を一概に非道と言い切れないのもまた事実である。

#endregion


時を同じくして幕府の総帥&font(b,#0b5394){北条時宗}は九州の御家人達に警護を固めるよう通達を行い&b(){&ruby(おき){息}&ruby(のはま){浜}(博多)}へ軍を集結させるとともに、
守護大名の&font(b,#0b5394){&ruby(しょうに){少弐}&ruby(すけよし){資能}}を総大将に任命し、来る大元軍上陸への備えを固めていった。
一方の大元軍も肥前の松浦郡を襲撃した後に&b(){早良郡}へ停泊し、&b(){&ruby(そ){麁}&ruby(はら){原}&ruby(やま){山}}に本陣を敷き、
次いで&b(){赤坂}に前線基地を設け先の戦での疲労を取るべく休息を取り、着々と太宰府侵攻の準備を進めていた。
しかしそこへ&font(b,#0b5394){菊池武房}率いる一団が奇襲を仕掛け大元軍は大混乱に陥り麁原山へと退却を余儀なくされる。

菊池武房の奇襲に出鼻を挫かれ本陣で体勢を立て直す大元軍の元に、息の浜に集結していた本隊も押し寄せ、麁原山の麓&b(){&ruby(とり){鳥}&ruby(かい){飼}&ruby(がた){汐}}で両軍は激突することになる。

武士達は短弓よりも威力・射程に優れる&font(b,#0b5394){和弓による狙撃戦法}を行い、&font(b,#c39143){機動力を重視した大元軍}の鎧はいとも容易く撃ち抜かれ((その威力はフライパン程度なら容易に貫通する程の力を持つ))、負傷者を増やしていく一方で、
大元軍の短弓は武士達の兜鎧を貫通する事ができないと、不利な戦いを強いられた。
((現代的にいうならばハンドガンが主力の軽装集団が防弾ジャケットを着込みライフル銃を構えた部隊に戦いを挑むようなものである。))

武士達の攻撃は苛烈を極め、和弓で兵力が削がれた集団に&font(b,#0b5394){騎馬部隊が突撃}し撃ち漏らした兵を追い討ち元軍は更に兵士を失っていった。

// 特に典拠の怪しい部分であるためCO。
#co(){
#region(あの手この手の詳細)


&b(){【あの手この手1】}

&b(){・てつはう}
元寇をイメージする際多くの人が挙げるであろう大元軍の火薬兵器。
鉄の球体に火薬を詰めた言うなれば当時流の手榴弾を騎馬部隊に投げつけその爆風と爆音で馬と騎手を怯ませ反撃の糸口を掴む算段であったが…



#center(){&b(){&font(#ff0000){武士達「馬が走らないなら自分で走ればいいじゃない」}}}



大元軍の目論見通りてつはうによって馬は怯んだり、負傷をして武士達は落馬してしまった。
そこまでは良かったのだが、落馬した武士達は戦意を失うどころか馬を捨てて自分の足で大元軍へ突撃し、
てつはうが爆発しようが短弓の射程距離に入ろうがお構いなしに太刀主体の肉弾戦を行うというバチバチの闘志を見せつけ殆ど意味がなかったとか。



&b(){【あの手この手2】}

&b(){・晒し首}
討ち取った敵将の首を槍などに突き刺して&b(){&color(red){「お前もこうなりたいか?」}}という無言の圧をかけ敵軍の士気を落とさせるという&b(){人権もクソもない陰湿な手段である。}
大元軍としては、


#center(){&b(){&font(black){武士A 「あれを見ろ!大将殿の首だ!」}}}

#center(){&b(){&font(black){武士B「本当だ!あのような事をするとは…」}}}

#center(){&b(){&font(black){大元軍「ははは、驚いたか?お前達もこうなりたくなければ}}}
#center(){&b(){&font(black){さっさと逃げることだな?」}}}

#center(){&b(){&font(black){武士A・B「………」}}}


となる事を思い描いていたが…



#center(){[[&sizex(4){&b(){だがそれが逆に鎌倉武士の逆鱗に触れた!}}>ウェカピポ(SBR)]]}


#center(){&b(){&font(#000000,#ffffff){武士A・B「……}&font(#ff0000,#ffffff){…許さん。」}}}

#center(){&b(){&font(black){大元軍「え?」}}}

#center(){&b(){&font(#ff0000){武士A「大将殿にあのような生き恥をかせるとは許すまじ!」}}}

#center(){&b(){&font(#ff0000){武士B「この命を懸けてでも大将殿の首を取り返し、}}}
#center(){&b(){&font(#ff0000){貴様らの首を持ち帰ってくれるわ!」}}}

#center(){&b(){&font(black){大元軍「」}}}


当時の武士達にとって首を取られる事は&b(){&color(red){大変な侮辱、そして恥でもあった。}}
そんなわけで武士達は大将の首が奪われ見せものにされてるなどと知った途端、死に物狂いで奪い返しに来るなどし、
大元軍からすれば、敵の士気を下げるどころか却って士気を上げる本末転倒なことになってしまった。


#endregion

}
増え続ける負傷者を前にクドゥンは&font(b,#c39143){後退}を決め、大元軍は&b(){&ruby(もも){百}&ruby(ち){道}&ruby(はら){原}}へと逃げ込んだ。
しかしそれを武士達が易々と逃すはずもなく、追撃は夜まで続き両者共に引かない一進一退の攻防を繰り広げた。
やがて、まともに拠点も作れず疲労も溜まりつつあった大元軍が次第に押され、戦局は&font(b,#0b5394){日本側に傾きつつあった}。

百道原にて元軍指揮官達は話し合い、援軍は期待できず、負傷者も多数出ているこの状況に勝機を見出せず、
これ以上被害が大きくなる前に&font(b,#c39143){撤退を決め}夜のうちに高麗へ向けて去って行った。
対馬・壱岐を攻め落としてからたった数日で、大元軍は撤退を余儀なくされ、こうして文永の役は&font(b,#0b5394){日本側の勝利}で幕を閉じた。


#region(撤退した大元軍のその後)
文永の役ではこれまでイメージされていた大元軍の撤退理由だった神風は吹かなかったものの、悪天候が大元軍に牙を剥いたというのもあながち嘘ではない。
撤退時の航路はあいにくの荒れ模様で、何隻かの船は波風に飲まれて沈没するか、操舵不可へ陥り日本へ漂流してしまい、
当然それを見つけた鎌倉武士達に処刑される等、泣きっ面に蜂と言わんばかりの最悪の末路を辿ることになったという。

#endregion






*〈文永の役のその後〉

文永の役は大元軍の敗北に終わったものの、&font(b,#c39143){クビライ}はたった一度の敗北で日本を諦めることは更々なかった。
前述のようにクビライにとっては、第一次日本遠征はあくまで&font(b,#c39143){「対&font(b,#9c3dcc){南宋}戦争の一環」}という副次的なものであり、
文永の役前後の時期を通しても、クビライの主眼はあくまでも&font(b,#c39143){南宋攻略}であった。
南宋の首都・臨安を無血開城させる前年である1275年から、クビライは第二次日本遠征の計画を立て始める。
しかし、ぶっちゃけ&font(b,#c39143){「服属さえしてくれればいいんだよ」}という姿勢でもあったクビライは、前回同様再び使節団を派遣して日本に服属を求める旨の国書を送った。

こうして1275年8月、正使の&ruby(とせいちゅう){杜世忠}(モンゴル人)や副使の&ruby(かぶんちょ){何文著}(中国人)、計議官の&ruby(チェドゥ・ウッディーン){徹都魯丁}(色目人=ウイグル人)、書状官・果((もともとの名前は不明))(色目人)、通訳・&ruby(じょさん){徐賛}(高麗人)の5人からなる使節団は、
下関から上陸し、役人達に連れられて、当時の執権・&font(b,#0b5394){北条時宗}が待つ鎌倉へと向かった。
意外にも幕府側は使節団を通し今後こそ友好的な態度を示してくれると思われたが…


#center(){[[&b(){時宗「騙して悪いが、仕事なんでな。死んでもらおう。」}>騙して悪いが(AC)]]}

#center(){&b(){使節団「えっ!?」}}


日本からすれば、自分から戦争を仕掛けて敗北した国から、またもや「ねぇ、属国になろうよ?」なんて態度の国書が持ってこられた事に、良い顔などできるわけもない。
それでなくとも、文永の役前の時点で大元との外交自体事実上無視していたことを考えれば、一貫して服属する気はなかったのであろう。
そういうわけで、&font(b,#0b5394){滅茶苦茶武断的な外交姿勢}であった鎌倉幕府の方針の元、&bold(){使節団は問答無用で、鎌倉辰ノ口にて頸を刎ねられ処刑された}という。
この対応は、クビライに対する徹底抗戦の意思表明の他に、朝廷を含めた幕府内外に対して「妥協や交渉の余地なし」と示して引き締めを図るためとも、また使者たちに滞在を許して日本を散策され、余計な情報を吹き込まれるのを防ぐためであったともされている((ただ、やはり過激な対応であったことも確かのようで、同時代の日本人では日蓮が批判している。神奈川県藤沢市片瀬にある常立寺には「元使塚」があり、そこには「英雄」の意を示す青い布が巻かれている))。

そんな悲劇をよそに、1276年、大元は長きにわたって攻略を続けていた&font(b,#9c3dcc){南宋}&font(b,#c39143){を遂に降伏}させ、&font(b,#c39143){江南地域を完全に支配下に収めた}だけでなく、&font(b,#9c3dcc){南宋軍}&font(b,#c39143){の吸収}も行い、軍事力と経済力の大幅な拡大に成功していた。
クビライにとって目下第一の標的だった国を遂に滅ぼしたのである。
そんな折、先の日本訪問から帰ってこない先発の使節団の様子見と、服属勧告の念押しを兼ねて1279年に再度使節団を日本へ送るも、
後発の使節団も&bold(){同じく処刑されてしまい、使節団は終ぞ帰ってくることはなかった。}
家臣から使節団の末路を聞かされた大元政府は&font(b,#ff0000){激怒}。クビライもまた、武断的な日本の外交姿勢に怒りを顕わにし、既に進めさせていた遠征計画を本格化させ、&font(b,#c39143){第二次日本遠征}を決定した。


*〈弘安の役〉

文永の役から7年後の1281年、クビライは&font(b,#c39143){大元・高麗連合軍4万人}と征服した&font(b,#9c3dcc){旧南宋軍10万人}を起用し、&font(b,#c39143){軍艦はおおよそ4000隻強を配備。}
そして&b(){連合軍を&font(b,#c39143){東路軍}、旧南宋軍を&font(b,#c39143){江南軍}と命名}。東路軍が先発隊として攻撃を仕掛け後から準備を整えた江南軍が合流し合計14万の大軍で太宰府を攻め落とす計画を立てた。
同年の5月に東路軍が高麗から進軍開始。文永の役同様に対馬・壱岐が最初に狙われ、前回同様抵抗を繰り広げるも、またしても短期間で壊滅させられてしまう。
そして6月中旬を目安に壱岐にて江南軍と合流し九州へと攻め入る算段だった。

ところが、この時江南軍側でアクシデントが起きる。
なんと総司令官に任命されていた人物が&font(b,#c39143){病に倒れ}((病死したとする説もある))、その後任を決めるのに時間を取られてしまった。
そのせいで、結局江南軍が進軍を開始したのは合流する予定だった6月中旬を過ぎ下旬となってしまうことに。((先発達が何割か来ていたという話もあるが、本来想定されていた戦力には到底及ぶものではなかった))%%そんな計画で大丈夫か?%%

そんなこととはつゆ知らず東路軍は占領した壱岐にて江南軍の到着を待っていた。
ところが、捕虜となった島民から&b(){「日本軍は人員が足りておらず博多の海岸線は守りが手薄である」}という情報が入った。
このことで、江南軍を待って攻めるよりも防衛準備が整っていない今のうちに博多を攻め落とした方が良いと考え、東路軍は当初の計画を破棄して博多湾へと侵攻を開始する。
しかし進軍した東路軍を待っていたのは…


#center(){&b(){海岸線を覆い尽くす石の壁と武士の集団であった}}


文永の役で勝利した時宗達はそれに驕ることなく、再び戦が起きた時に備え、
大元軍が上陸してきた海岸線に&font(b,#0b5394){「防塁」}と呼ばれる高さ3メートル全長20キロにも及ぶ石の壁を張り巡らせていた。
さらには、文永の役に参加しなかった武士達に、


#center(){&font(b,#0b5394){「日本の一大事よりも自分の領地が大事なのか?}}
#center(){&font(b,#0b5394){今回は許すが次も来なかったら厳重に処罰するから覚悟しろよ」}}


といった具合に号令を発したことで、九州各地から多くの武士達が集結。こちらも文永の役とは比べ物にならないほどの兵力が博多に結集していた。((正確な数は不明だが、のちに編纂された「歴代鎮西要略」によると25万を超える武士が集結したという。尚、同書では大元軍について「幾百万とも知らず」ともあるので、日本軍・大元軍ともに相当に誇張されているのは確かだが、やはり大元軍の方が兵力優位ではあったのだろう。))

事前の情報と異なる&font(b,#0b5394){日本の防衛体制}を前に東路軍は完全に怯んでしまい、博多湾上陸を諦め、博多に近い&b(){&ruby(しか){志賀}&ruby(のしま){島}}を占領してここを拠点に進軍を開始する準備を進めていた。
しかし、日も暮れた夜更け、筑後の御家人&font(b,#0b5394){草野経永}が家臣を引き連れて小舟から軍艦に乗り込み、瞬く間に&font(b,#ff0000){20人前後を討ちとってしまう。}
家臣達もそれに続く勢いで戦い挙句の果てには船に火を放ち軍艦を何隻か燃やして確実に戦力を削いでいった。

それを見た他の武士達も&font(b,#0b5394){「草野に遅れをとってなるものか」}と言わんばかりに舟を出し、夜襲で大混乱に陥る東路軍へ立て続けに攻撃を仕掛け、夜が明けるまで攻撃は続いたという。
しかし朝日が昇っても東路軍の悪夢は終わらないどころか苛烈さを増していく。
というのも、東路軍が占拠した志賀島は所謂陸繋島となっていて、日中は潮が引いて内陸から島へと渡る事が出来た((現代では県道が敷かれ、「海の中道」という愛称で呼ばれている))。
これにより、&font(b,#ff0000){陸と海の双方から武士達が攻撃を仕掛けてくる}という地獄が待ち構えていたのだ。

// 特に典拠の怪しい部分であるためCO。
#co(){

そしてここでも鎌倉武士達は&b(){武士道精神(狂)}を炸裂させ東路軍を追い詰めていく。


#region(武士道精神の詳細)



&b(){精神(狂)その1}

&b(){・肉の盾}



大元軍は&b(){&font(b,#ff0000){生け捕りにした敵兵を盾や遮蔽物に括り付けて実質的な人質として利用し、敵に攻撃を躊躇わせるという}}前述した晒し首よりも陰湿で非道な戦略を用いている。
この時も生け捕りにした武士を盾にして攻撃をやり過ごそうとした。
だが、敵に利用されることを&b(){&color(red){「恥」}}と考える鎌倉武士にはそんなもの通じるわけもなく、味方諸共矢の雨を降らせ、容赦ない攻撃は止む事が無かったという。それどころか…


#center(){&b(){&font(black){大元兵A「奴ら味方のことなんてお構いなしに弓を打って来やがる!」}}}

#center(){&b(){&font(black){大元兵B「あいつらイカれてる!このままじゃ俺たちはお終い…ん?お、おいあれを見ろ!」}}}

#center(){&b(){&font(black){大元兵A「なんだ?何があったて…嘘だろあいつら!?」}}}

#center(){&b(){&font(#ff0000){大元兵A・B「俺たちの戦法をパクリやがった!」}}}

#center(){[[&b(){武士「卑怯とはいうまいな?」}>葦名弦一郎]]}


&b(){「敵が嫌がるであろう肉の盾をやるということは奴らも嫌がるはずだ」}という考えに至った武士達は、目には目をと言わんばかりに大元軍の人壁戦法を真似して突撃を始める始末。
最早戦場は道徳も人道もあったものではない地獄を体現していた。



&b(){精神(狂)その2}

&b(){・細菌兵器攻撃}



武士達の攻撃によって東路軍は確実に消耗しつつあったが、この時武士の攻撃以外にも戦力を落とす事態が起きていた。
なんとあちこちの軍船内で&b(){&color(yellowgreen){疫病が蔓延し始めており、この疫病によって2〜3000人近くの兵がダウンしてしまい士気はますます下がる一方だった。}}
ではこの疫病が発生した原因は何かと言うと、


#center(){&b(){&font(black){大元兵A「おい、あっちの船から異臭がするぞ」}}}

#center(){&b(){&font(black){元兵B「確かに妙な匂いがするな。だが今はそんなことよりもここを死守すr」}}}

#center(){&b(){&sizex(5){&font(#b8d200){ドサッ}}}}

#center(){&b(){&font(black){大元兵A「何だ?敵が何か投げ込んできたぞ!」}}}

#center(){&b(){&font(black){大元兵B「待て、さっきの異臭と同じ臭いだ!こ、これは!?」}}}

#center(){&b(){&font(#b8d200){大元兵A・B「…牛馬の腐乱死体だ!」}}}


&b(){腐り果てた牛馬の死肉を敵船目掛けて投げ込み、船内の衛生環境を悪化させて病気を誘発させる}という、現代の戦争では禁忌とされる&b(){&color(yellowgreen){「バイオ攻撃」}}を堂々と行っていた。
先の放火に加えて疫病が発生した船も使えなくなるうえ、疫病にかかった兵達の面倒も見る羽目となり、東路軍損害はじわじわと積み上がっていった。

#endregion

}

それでも江南軍の到着を信じて東路軍は数日間志賀島で&font(b,#c39143){決死の抵抗}を続けるも、昼夜問わず行われる攻撃に限界を迎え、
東路軍は志賀島を捨て壱岐まで後退して江南軍との合流を優先する決断をした。%%最初から待ってれば良かったのに%%

しかし前述のアクシデントによって、&bold(){期日を大幅に過ぎても江南軍がやってくる気配はない}。
計画の狂いに焦った東路軍司令官&font(b,#c39143){ヒンドゥ、洪茶丘、金方慶}は、長い軍議の末に江南軍の到着を信じて壱岐に留まる選択をした。
そして6月も終わろうという月末に壱岐へ多くの船達がやって来て降り立った人々は東路軍へ向かって歩みを進めた。それを見た東路軍の兵士達はざわめきに包まれた。



#center(){[[&b(){武士「貴様ァァァ!逃げるなァァァ!」}>竈門炭治郎]]}



志賀島から後退した後、東路軍は実に3週間程壱岐で足踏みをしていた。
その間に武士達は敵の居所を掴み、準備を整えた後壱岐に向けて出航し敵を殲滅せんと&font(b,#0b5394){乗り込んできた}のである。
最早退くことも叶わない東路軍はここでも抵抗を続けたが、先の戦いでの消耗が重くのしかかり戦況は悪化する一方だった。((但し日本側も鎮西奉行の少弍資能が負傷したうえに孫の資時が戦死するなど決して浅くない傷を負っている))

しかし戦闘が始まってから実に1週間程が経過した頃、平戸島周辺に&font(b,#c39143){江南軍の艦隊}が目撃されたという知らせが入る。
すぐさま東路軍は壱岐を捨てて友軍の元へ向かい、7月中旬ごろ、&b(){鷹島}にて本来の合流日時から1ヶ月近く過ぎてようやく両軍は合流を果たした。

10万近くの援軍が来たことで大元軍の士気は多少盛り返し、今度こそ大宰府を攻め落とすべく進軍を開始しようとした。
しかし、鷹島周辺の海域は潮の流れが複雑で、思うように船を進めることが出来ずに立ち往生してしまった。
そうこうしているうちに、&font(b,#0b5394){大元軍ストーカー}と化した武士達が追いつき、鷹島周辺で再び両軍は交戦を開始する。

戦いは昼夜を跨いで行われ、決死の攻防戦が繰り広げられたものの10万近くの援軍を得ても全く大宰府に進軍できない現状に、
大元軍には&font(b,#c39143){「日本侵攻なんて無理じゃないか?」}というムードが広まりつつあり、撤退も視野に入り始めていた。

そして、そんな大元軍の心を完全に折る事態が起きてしまう。


#center{
|LEFT:BGCOLOR(black):&font(b){&br()&br()&br()&sizex(7){  &color(#F54738){台}}&br()&br()&sizex(7){  &color(#F54738){風}&color(#f0f8ff,black){、襲来}  }&br()&br()&br() }|
}


戦いが始まってからおよそ3日後の7月末に&bold(){鷹島へ台風が直撃}し、島に多くの船を停泊させていた大元軍は甚大な被害を受けてしまう。((被害の大多数は船の作りが脆かった江南軍の船とされており、高麗の造船技術で作られた東路軍の船な被害は軽微だったとされている。まあ江南軍の船は長江での戦闘を前提とした「水軍」であり、海戦用ではなかったのだろう。))
そして台風の損害を重く見た大元軍の指揮官達は&font(b,#c39143){「日本侵攻は不可能」}と判断し、損害が薄い船に上官クラスの人間を集めると一目散に撤退。
鷹島には&font(b,#c39143,#000000){10万近くの兵が残されることとなった。}

そして指揮官がいなくなった元軍の指揮系統は完全に崩壊。それを好機とみた武士達によって完全に押し切られていった。
最早その後の戦いは戦争というよりも&font(b,#0b5394){掃討戦}と言った方が正しい有様を呈していたようで、鷹島の各地には&b(){&font(b,#ff0000){&bgcolor(black){「首崎、血崎、血浦、死浦、地獄谷」}}}などの悍ましい地名が残されている。
地名という断片的な情報ではあるものの、当時の戦いの凄惨さが窺い知れようというものである。

最終的に残された大元軍の10万強の兵のうち&font(b,#ff0000){7万程の兵が戦死或いは処刑され、残された3万の兵は捕虜として捕まる悲惨な結果}で鷹島の戦いは終わりを迎えた。
この決着をもってして、両軍共に大軍を動員し3ヶ月にも渡って続いた弘安の役は、再度&font(b,#0b5394){日本の勝利}という形で幕を下ろすのであった。


*〈エピローグ〉

あまり知られていないが、実は鎌倉幕府では、&font(b,#0b5394){「高麗遠征計画」}が立案されていた。
これは文永の役終結後から既に持ち上がっていた計画で、大元軍が再度日本攻撃に踏み切る際に拠点とするであろう高麗を先んじて制圧しようというのが主な目的であった。
だが、文永の役後では大規模な防塁構築との二重負担が懸念され実施されずに立ち消え、弘安の役後でも理由は不明だが未実行に終わった。
恐らくは後述するように、主力となる御家人たちが窮乏しており、そのような余力がなかったためであろう。
尚、クビライも日本の逆攻勢を警戒して防備を固めていた。


さて、またしても敗北に終わった大元帝国であったが、クビライはなおも日本の服属を諦めていなかった。
1282年には執念深くも&font(b,#c39143){三度目の日本遠征計画}を立てており、約3000隻の更なる造船を命ずる。
だが木材が不足しており、&bold(){寺院から木を刈り取ったり、商船を改造するなど、結構無理に計画を推し進めており、}
&bold(){日本を攻めるための兵隊にも犯罪者達を起用する}など、この計画に各地は相当な負担を強いられた。

この時は臣下の諫言を聞き入れ、一度白紙に戻したのだが、翌年には再度遠征を計画。
その後も、&bold(){日本侵攻の中止・あるいは延期を願い出る臣下が表れ、クビライもその時の帝国情勢を鑑みては遠征計画を中止するが、&br()帝国情勢が落ち着いた数年後には再び日本侵攻を計画する}といった状況が繰り返された。
特に、旧南宋地域を中心とする大元帝国の領域の中で発生した盗賊蜂起や南宋復興反乱の対処や、&bold(){ベトナム}(陳朝大越国、及びチャンパ王国)との情勢の不安定化((こちらも遠征軍を派遣したが状況は芳しくなく、特に1288年の「白藤江の決戦」でベトナムの名将・陳興道による大潮を利用して河口に元艦隊を座礁させる作戦によってベトナム遠征軍も壊滅してしまっている。))、
さらに、1287年の、モンゴル帝国の宗主国という立場であったクビライ政権の支柱である東方三王家の反乱(&font(b,#c39143){ナヤン・カダアンの乱})勃発など、
大小さまざまな&font(b,#c39143){不安定要素}が多数現れる。クビライもその度に遠征計画を中止せざるを得なかった。
ちなみにこれらの状況の合間、改めて服属を求める使節を何度か日本に派遣してもいるが、特に効果はなかった。

そして1294年、モンゴル帝国内の内乱を一先ず収めきったクビライは、78年という長い生涯を終える。
後を継いだのはクビライの孫&font(b,#c39143){テムル}だが、その皇后の下に元寇の生き残りが「将軍達が兵士を見捨てて逃げた」と直訴。
大々的な調査が行われ、自分の船に兵士を出来得る限り載せて脱出した武将は無罪となったが、自分達だけで逃げた大将達は厳罰に処せられた。
テムル以降は日本遠征計画も浮上することなく、結局第三次日本遠征は起きずに終わることとなった。

以降の大元は、モンゴル帝国の宗主国としてユーラシア東西大交流の担い手の一つになるも、
国内では後継者争いやその度に起きる内乱、さらに&bold(){ユーラシア規模で起こった}疫病(黒死病、ペスト)や災害などで徐々に力を失っていく。
そして、1368年には&bold(){[[朱元璋>洪武帝/朱元璋]]}率いる&bold(){大明}政権によって、&b(){大元政権はモンゴル高原に撤退、モンゴル帝国による中国支配は終わりを告げた。}((この時期を歴史学では北元と呼んでいる。しかしモンゴル帝国自体はその後もモンゴル高原を中心に北部に強大な勢力として存在し続けており、1636年に女真族のホンタイジにモンゴル大カン位の証となる玉璽を渡すまで存続した。))


一方、戦争の勝者となった&font(b,#0b5394){鎌倉幕府も窮地に陥っていた}。
今回の戦で活躍した多くの御家人達へ幕府は十分な恩賞を渡す事が出来ず武士の不満を集めつつあった。
それもそのはずで、今回の戦は外国から日本を守る戦いであり、大元から賠償金や土地を勝ち取ったわけでは無い。
これがために、恩賞を渡そうにも渡すことができず、&font(b,#0b5394){「無い袖は振れぬ」}状態となっていた。

御家人の多くは戦支度の為に借金をしており、それを返す為に家財や土地を売って返済する者まで現れる始末だった。
幕府は1297年に&font(b,#0b5394){「徳政令」}を発布((1297年に発布された徳政令は、当時の元号から「永仁の徳政令」と呼ばれる))して御家人の救済に努めたものの、十分に機能したとは言い難かった。この頃には没落する武士が現れ始め、幕府への不信感はますます募っていく。
やがて&bold(){後醍醐天皇}が倒幕計画を立ち上げ始めると、各地で戦が勃発。
後醍醐天皇側には次々と幕府に不満を抱える武士たちが加勢し、勢いづいていくのと対照的に、幕府側はじわじわと弱体化していき、
最終的に、元寇から約半世紀が経った1333年に起こった「元弘の乱」によって、執権・&font(b,#0b5394){北条守時}ら「&font(b,#0b5394){北条得宗家}」はその大半が自刃・戦死し((難を逃れた関係者もおり、特に有名なのは「中先代の乱」の中心人物となった「逃げ上手の若君」こと「北条時行」である。))、
&bold(){ここに、源頼朝が開いて以来、約150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。}

その後、足利尊氏を初代とする&font(b,#cc4300){室町幕府}が起こり、一時の平和を享受していたが、6代将軍・[[足利義教]]の代から徐々に屋台骨が傾いていき、
やがて起こった[[応仁の乱]]を皮切りに、日本は&b(){[[戦国時代>戦国時代(日本)]]}という戦乱の時代へ突入していくこととなる。


高麗やその後を継いだ李氏朝鮮も壱岐・対馬の生き残りを中心とする&bold(){[[倭寇>海賊]]}の襲来に悩まされた。
1419年に李氏朝鮮は1万8千人の兵で対馬に攻め込むも、今度は対馬側は山地に逃げ込んでゲリラ戦の構えを取る。
少数の対馬兵に手古摺っている間に日本本土からの援軍の第一波として松浦氏の兵の前衛部隊が合流したので、
朝鮮王・世宗は長期戦になって日本本土から大軍が来援したら勝ち目はないと見て兵を退いた。
この後、世宗は戦争ではなく、外交で倭寇を抑えようと言う方向に転換し、1428年の足利義教の6代将軍就任の祝賀との名目で通信使を派遣して国交を結んでいる。


つまり、&color(#F54738){この戦争に於いて、本当の意味での勝者はいない}のである。


また、日本遠征自体は、&bold(){大元帝国そのものの崩壊にそこまで影響していない}ため、仮に起きなかったとしても、大元が崩壊する結果は何も変わらなかったであろう。

日本史においても、&bold(){元寇が鎌倉幕府の崩壊の原因の一つか否かについてはかなり議論されている。}
鎌倉幕府が痛手を被ったのは事実なのだが、何せ上記の通り、&bold(){元寇から幕府滅亡までに50年以上も経過しているのである。}
鎌倉幕府の成立から滅亡までが約150年であることを考えると元寇以後の歴史が幕府全体の1/3を占める程に長いため、精々遠因に過ぎないのでは?という意見も根強い。

ただ、上述の通り、&bold(){外国が日本列島に大規模な侵攻を仕掛けてきた}のは(記録に残る限りでは)この元寇が初めてと言ってよく、
記事冒頭でも紹介した&bold(){「神風」}による勝利というイメージは、多くの日本人に今も強く刻まれているのも事実なので、
(特に日本史においては)やはり&bold(){重大な事件}であったことに変わりはない。


*〈余談〉
ユーラシア大陸各地で戦いを繰り広げていたモンゴル帝国の長き歴史においても、&bold(){文永の役・弘安の役は最東端の戦いであった}。
最西端では&bold(){ポーランド}へ侵攻し、神聖ローマ帝国やキリスト教系騎士団とも戦っている。
世界広しといえど、ほぼ同時期に&bold(){&color(#3B4EF0){騎士}と&color(#F54738){侍}の両方を相手取った事のある国はモンゴル帝国だけであろう。}

また、「恐ろしいもの」という意味の民族語彙に「&bold(){むくりこくり}」というのがある。
これは、蒙古・高麗連合軍の襲来を「蒙古高句麗の鬼が来る」と言って恐れたことに由来する。
そこから、駄々をこねて言うことを聞かない子供を「むくりこくりが来るよ」と脅してわがままを言うのをやめさせたという。
これは、日本でいうと桃山時代ごろの朝鮮出兵の際に、加藤清正が朝鮮半島の人々から「&ruby(きじょうかん){鬼上官}」と呼ばれ恐れられていたのとよく似ており、
やはり言うことを聞かない子供たちをおとなしくさせる手段に用いられたのだそうな。

}








*〈この事件を題材にした作品〉

近代史以前における外国との戦争というインパクトがあり、かつ分かりやすい事件ということもあってか、
モチーフとして使われた作品もいくつか存在する。ここでは代表的な作品を挙げていく。

:[[Ghost of Tsushima]]|ゲームを嗜んでいるアニヲタwiki民ならば名前くらいは聞いたことがあるであろう&b(){「誉は浜で死にました」}の台詞が有名なサッカーパンチ開発のオープンワールドゲーム。
蒙古の襲来を受けた架空の対馬が舞台となっている。
プレイヤーは御家人の一人「[[境井仁]]」を操り対馬に攻め入る蒙古軍との死闘に身を投じていき、
やがて幼い頃から培ってきた侍の矜持と自身が信じる正義の間で葛藤を繰り広げる仁の生き様を追体験していく。
あくまで題材にしているだけであり、&bold(){史実における元寇を再現しているわけではない}が、時代考証からグラフィック・ストーリーどれをとっても抜かりのない出来のため、
数あるオープンワールドゲーム・中世日本舞台ゲームの中でも屈指の神ゲーと名高い一品である。

:北条時宗(NHK大河ドラマ)|
小説家の高橋克彦氏が執筆した原作「時宗」をベースに作られた大河ドラマ。
元寇の立役者の一人である八代執権・北条時宗の生涯を、狂言師の和泉元彌氏が演じている。
時宗が幼少期から父・時頼に多大な期待を寄せられ様々な人々との出会いで少しずつ成長していくのと同時に、
少しずつ心の距離が広がっていく異母兄・時輔との確執の模様が描かれた。
元寇が題材とあって海外の貿易商や役人、クビライを始めとした大元帝国の様子まで映像化されており、
このためだけに中国やモンゴルで海外ロケまで行ったという気合の入った作品となっている。
その甲斐あってか、最高視聴率は21.2%を記録した。

:アンゴルモア 元寇合戦記|
たかぎ七彦氏による漫画作品。文永の役での対馬の戦いの様子をフィクションを交えて描いている。
二月騒動の罪によって流刑を言い渡され対馬に流れ着いた主人公朽井迅三郎達が、
島の地頭である宗氏と共に迫り来る「アンゴルモア」こと大元大モンゴル帝国を迎え撃つ&b(){「アンゴルモア 元寇合戦記」}(全10巻)と、
舞台を博多に移した続編&b(){「アンゴルモア 元寇合戦記 博多編」}が連載されており、2018年夏にはテレビアニメ化もされた。

:退魔戦記|
豊田有恒氏による小説作品。
文永の役時の「神風」の正体は、&bold(){モンゴル帝国が世界の覇者となった未来世界で虐げられてきた日本人}だったという歴史SF。
豊田氏の他作品『モンゴルの残光』とリンクしており、2作ともに「史実通りの歴史を辿った未来世界からのタイムパトロールの男性」が登場する事から、
彼の名を冠して「ヴィンス・エベレットシリーズ」とも呼ばれる。
ただ単なる歴史改変ものだけでなく、エンディングでは、
「モンゴルが世界を征していたら、&bold(){史実より技術進歩は早く進んでいたのでは?}」
という現代社会に対しての疑念も提示されている(『モンゴルの残光』の方に比べると軽めだが)。

:[[HARAKIRI>HARAKIRI(PC-8801)]]|
戦国時代の日本をテーマとしたシミュレーションゲーム。
ゲームがある程度侵攻すると、西日本のどこか(九州とは限らない)にクビライ率いる元軍が上陸してくる。
……いろいろとおかしいが、このゲームは万事がこんな調子である。
専用兵科である元騎馬隊を率いて暴れまわり、防備の弱い勢力を容赦なく蹂躙するゲーム中盤の鬼門。
が、そんな彼らもゲームシステムからは逃れられず、元軍の武将に恥をかかせるとHARAKIRIして果てる。

:[[装甲悪鬼村正-FullMetalDaemon MURAMASA-]]|
[[一条>綾弥一条]]が[[正宗>正宗(装甲悪鬼村正)]]の記憶を観て元寇の惨禍を目の当たりにする。
人間だった頃の正宗は単なる鍛冶師に過ぎなかったが、蒙古の暴虐を目撃したことで「正義」を求めるようになり、劔冑へとその身を転じた。
登場人物の根幹に関わる重要シーンなのだが、背景画を使いまわしているせいで&bold(){浜辺にビーチパラソルが突き刺さっている}のは語り草となっている。

:元寇(軍歌)|
明治25年に作られた、弘安の役を題材とした軍歌。
国を守るために戦いに赴く武士たちの姿を勇ましく歌い上げ、最後は神風が大元軍を壊滅させて締め、という内容になっている。
&s(){「[[はだしのゲン]]」でゲンがよく歌っている&bold(){「おっさーんめしをくれ〜 はらいっぱいめしをくれ〜」}というアレは実はこの曲の替え歌だったりする。}

:東方見文録|
元寇と関わりがあるマルコ・ポーロの旅行記「東方見聞録」をテーマにしたファミコン用のアドベンチャーゲーム。
&bold(){ストーリー展開が最初から最後までぶったまげたバカゲーで、真エンディングはスタッフ公認のサイケデリックな発狂物。}
&br()東南アジア大学歴史工学部旅行学科の四回生「東方見 文録(トウホウケン ブンロク)」は卒業論文を書くべく、
開発したタイムマシンで尊敬する偉人マルコ・ポーロが活躍した1275年にタイムスリップし、父ニコロと旅をしていたマルコの前に姿をあらわす。
いきなり出現した文録にニコロはショックで腰を抜かしてリタイアしてしまい、代わりに文録がマルコとともに中国を目指すことに。&br()……この時点でツッコミ所満載だが、こんなもんはほんの序の口である。

#openclose(show=以下、ゲーム終盤ネタバレ){
マルコと共に元軍の船でジパング(日本)へ向かう文録だったが、彼は「元軍が日本に上陸する&bold(){前}に神風が発生した」と思い込んでいたためいつまで経っても神風が吹かない状況に焦り、日本を救うべく&bold(){タイムマシンを作動して歴史改変で神風を発生させるという暴挙に出る。}
これでタイムマシンが暴走して大規模なタイムパラドックスが発生し、&bold(){神風は神風でも[[神風特攻隊>特攻(戦術)]]が襲来。}
襲撃を受けた元軍はあっけなく壊滅し、巻き添えを食らったマルコは帰らぬ人に……。((描写からして機関銃を受けて死亡した模様。グロすぎるので没になったが、銃撃を受けたマルコの頭がバラバラに弾け飛ぶ画像データがROM内に存在する。))
&br()こんな事態を引き起こしながらも、唯一生き残った文録は「日本が助かったのは事実だから自分は無実」と反省の色がゼロだった。
そうして彼は陸地に辿り着いたが、そこは彼が待ち望んでいた日本、もとい黄金の国ジパングではなかった……。
&br()&bold(){度重なる歴史改変を繰り返した男は、あまりに悲惨な末路を遂げる事になる……。}
}







#center(){&b(){追記・修正は神風によって}}

#center(){&b(){窮地を救われた人にお願いします}}



#include(テンプレ2)
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}
#include(テンプレ3)

#openclose(show=▷ コメント欄){
#areaedit()
- たまにバナー広告に出てくる愛国系陰謀論の中身がこんな感じよね。定説は間違っていた、で興味を引きつつ、日本側の逸話は相当胡散臭いものでも精査せずに紹介してるっていう。  -- 名無しさん  (2024-10-23 22:55:59)
- 出典わからんコピペネタ随分引っ張ってきたな  -- 名無しさん  (2024-10-23 23:23:42)
- 項目作ろうと思って資料少し集めていたからまたタイムリーな。しかし出典が十分でないのはちょっと。今のところ、「大苦戦したけど台風のお陰で勝った」は割と創作に近いことは分かっているけど、文永の役で日本が圧倒したかまでは怪しいとこ。「蒙古襲来絵詞」とか絵を載せたいけど、パブリックドメインの場合の扱いはどうだっけ。  -- 名無しさん  (2024-10-24 00:04:25)
- 自分が見た歴史書だと、「元の侵略は節操のない無計画なものだった」という秀吉の朝鮮出兵に近い解釈だった(要するに神風でも日本の強さでもなく最初から元側の敗走は時間の問題だったというオチ)  -- 名無しさん  (2024-10-24 00:15:19)
- てつはうの扱いはここにも書かれてるけど、「元軍の主力の短弓は和弓より短射程な代わりに連射が効いた分対処に困らされた」「一対一の戦いが主だった当時の日本に対して集団戦が主だった元軍はお構いなしだったので被害もけっこう出た」という話も有名だと思うがその辺はどうだったんだろう。これもウソだった、なんて話は聞いてないが神風否定説や鎌倉武士狂犬説ほどのインパクトも無いからかこっちは否定も肯定もされてない印象  -- 名無しさん  (2024-10-24 00:35:39)
- そもそも元寇側が無理筋すぎた(大部分が徴発した兵だから士気が低い&騎兵がいたとしても馬が航海で弱ってた+パルティアンショット決められる地形じゃない)のと鎌倉幕府がちゃんと外交して侵攻の情報を事前に掴んでいたから上手く対処できたって前に見たな  -- 名無しさん  (2024-10-24 01:36:10)
- 喧嘩は相手を見て売りましょうっていい教訓やな…(白目)  -- 名無しさん  (2024-10-24 04:48:39)
- 神風で勝利を拾えたわけじゃないけど、日本側も日本側でそこそこ苦戦していたっていうのが落としどころじゃないだろうか  -- 名無しさん  (2024-10-24 06:59:26)
- 時宗は執権で将軍は惟康親王(源惟康)というイロハのイから雑にやるのやめてもらっていいっすか?  -- 名無しさん  (2024-10-24 07:19:55)
- 元軍は無敵と言われるけど、実際は苦戦したり、負けたり、最終的に勝っても時間がかかることも多かった。陸地から近い江華島に拠点を移した高麗を降伏させるまでも、約25年と複数回(wikiには第九次侵攻まで書かれてる)の侵攻が必要だったことを考えると、日本攻めは無理があったとしか思えない。  --    (2024-10-24 08:23:21)
- 人質の肉の壁は2chのコピペ以外にソース見当たらんが…  -- 名無しさん  (2024-10-24 08:29:27)
- この一件って中国ではあまり知られてないんだよね、まあ自分たちが支配されたことも侵略したことも認めたくないんだろうけどさ  -- 名無しさん  (2024-10-24 08:36:51)
- 鎌倉武士が「人質を肉壁にされても諸共攻撃した」とか「相手が嫌がると学習して模倣した」とか「牛馬の死肉を投擲した」というのはなんJの打線スレ発祥のネタ、要するにその打線スレのスレ主による創作だよ。まとめサイトとかに転載されてるなんJやVIPのスレにはそういうスレ内や他のスレで生まれたネタが多い。  -- 名無しさん  (2024-10-24 08:59:01)
- 鎌倉幕府を滅ぼした元凶はフビライということになる  -- 名無しさん  (2024-10-24 09:39:11)
- 聞いた話だと船が手抜き工事であっさり沈むような代物だったらしい  -- 名無しさん  (2024-10-24 10:00:24)
- 豊臣政権を滅ぼしたのも多分フビライなんだよな。(侵略する土地がなくなった政権がどうなるかという前例を与えてしまったため)  -- 名無しさん  (2024-10-24 10:16:31)
- 旧南宋艦隊は、もともと長江や沿岸部での運用を前提とした「水軍」だったから、海を渡って戦う「海軍」としての運用には向かなかったって話をどこかで聞いた気がする。  -- 名無しさん  (2024-10-24 10:48:32)
- 捕虜の掌に穴を~も記録が伝聞として僅かに触れられているだけで信憑性はかなり低いとされているけど、一応当時のソースがあるだけこの項目の他のエピソードと比較するとマシに見えてしまう。  -- 名無しさん  (2024-10-24 10:57:52)
- ただ疫病が元軍艦隊に流行ったのは確からしい。まあ赤壁の戦いでも華北軍には疫病が蔓延していたというし、やはり環境が違うと病には掛かるんだろう。  -- 名無しさん  (2024-10-24 11:12:06)
- 実の所、元(モンゴル)側がやった事を日本側にやり返されただけだよな(白目)。  -- 名無しさん  (2024-10-24 11:15:41)
- 神風が寺社勢力の恩賞要求のためというのはあり得るが、武士たちだって恩賞のために盛るからな(恩賞不足で苦しんだ武士が多い分誘惑も強くなる)。当時の武士の残した戦功資料を鵜呑みにして「鎌倉武士強いバーサーカー!!」みたいに言うのは流石に安易に過ぎる。  -- 名無しさん  (2024-10-24 11:27:12)
- 船が粗悪品だったというのも高麗はやる気満々でちゃんと作ってたとか諸説あったりする そもそも南宋にしろ高麗にしろ高波など外洋の過酷な環境向きの艦を作る技術に乏しかった可能性はある  -- 名無しさん  (2024-10-24 11:28:35)
- 竹崎季長みたいな中小の武士すら戦いの後に認められなかった恩賞について再審議求めて鎌倉にカチコミかけてるくらいだしな、盛って獲得した御家人あるいは武士は多かろう  -- 名無しさん  (2024-10-24 11:33:44)
- 去年末もXで小説家がツイートして問題になってたけど(Togetterにまとめがある)、なんJのネタを出典がわからない状態で転載すると真に受ける人が出て拡散するし、鎌倉武士の人質攻撃や死体投げネタは既に信じる人が増えてしまって「ネタをネタとして楽しむ」範囲に納まらなくなってるから、なんJのネタは消した方がいいと思う。  -- 名無しさん  (2024-10-24 12:14:21)
- ちなみに当時のしかもモンゴルの技術では無風で船を日本まで航行させると侵略前に疲労困憊なのは確実なので、夏〜秋に南から吹く風を利用して航行していた。要するに台風の時期でなければ侵略できなかったわけで神風は何度侵略しても吹いていただろう  -- 名無しさん  (2024-10-24 12:29:12)
- 武士たちとしてみれば、「敵は凶悪蛮族」「自分たちも部下を多数失った」「それでも勇猛に戦って敵を撃退した」と言うことにすれば恩賞は増える。戦場に関する史料なんて現場の武士が残すのが大半で、幕府でさえそうした報告を受けるのが大半だろう。あとは元側の記録か、考古学的史料と一致でもしていなければ、確実性の高い戦役の再現は今後も非常に困難だと考えざるをえない。  -- 名無しさん  (2024-10-24 12:54:28)
- ↑2 弘安の役は5月に出港してるし蒙漢軍が乗った東路軍の操船を担当するのは高麗軍の水兵(江南軍の方は旧南宋兵)だからモンゴルのというより高麗や南宋の技術で考えるべきじゃね、台風に遭ったのはその時期に来たからじゃなくて戦争が二ヶ月以上長引いた上に九州に上陸拠点も作れなかったから  -- 名無しさん  (2024-10-24 13:17:35)
- 時宗が将軍だったり、死んでるのに生き恥だったり、読む気が失せる。ネットミームがうるさいし雑な鎌倉武士狂犬コピペの寄せ集めという感じ。愚童訓の通説を否定するのであれば、否定するなりの作法というものがあるよね。  -- 名無しさん  (2024-10-24 14:09:26)
- 比較的マイナーな戦であった応仁の乱の項目との差はなんだろうと考えてみたけど、あっちは勢力図やお家事情が中心で戦闘内容については全くといっていいほど触れてないのか。情報出典や参考文献が書かれていないのは同じだけど、あちらは近年にある程度信用のある一般書が出たと知られているのはあり、追記による補足はあれども内容全否定のコメントはない。  -- 名無しさん  (2024-10-24 14:57:27)
- ↑神風なかった、奇跡が起きなかったら負けてたというほど追い詰められてはいなかったくらいは最近は歴史バラエティ番組で取り上げられるのとよくわからないことがネタにされる応仁の乱に比べたら大きく分ければ2陣営の特定の地域での争いで双方の史料が残ってるのでツッコミしやすいのもある。  -- 名無しさん  (2024-10-24 15:25:21)
- 「アニヲタwikiらしく噛み砕いて」とはいえ解説という形をとるならなんJ発のネタコピペは止めた方が…ああいうおもしろおかしくネタを創ってスレ内や板内で擦るノリは外では通じないし、それを知らない人がマジに受け取らないように外に持ち出すべきではないし  -- 名無しさん  (2024-10-24 16:24:04)
- コピペはコピペで分けて「ネタですよ」と明示できればワンチャン記載ありか…? いずれにせよ、結構な量の改稿が必要そうだね  -- 名無しさん  (2024-10-24 19:03:21)
- よくもまあこんな出展不明の胡散臭いコピペばかり集めたもんだ  -- 名無しさん  (2024-10-24 19:05:13)
- 歴史関連(特に評価が分かれているような出来事)に参考資料の提示は必須かもね。  -- 名無しさん  (2024-10-24 19:39:10)
- 僧侶が恩賞欲しさに武士の活躍を矮小化するのと同じように、武士も武士で恩賞欲しさに活躍を誇張する可能性だってあるだろう。なので歴史研究は複数の資料と多面的視点、一歩引いて考える態度が必要……なんだけどここは「世間で広く言われてる歴史観と実際は違うんですよ!」と言いたい(誇りたい)がために、武士の活躍を言うものならどれだけ史学的に怪しかろうがそもそもネタ(=作り話)だろうが正しい歴史扱いして、気がついたら逆の方向に片寄ってる、そんな感じになっちゃってる  -- 名無しさん  (2024-10-24 20:01:37)
- たぶんそこまで考えてなくてコピペを史実と思い込んだだけだゾ  -- 名無しさん  (2024-10-24 20:02:57)
- 文永の役が終わったのは元軍が日本に力を見せつけて降伏を迫るための戦略的撤退だったって説については書かれていないのか  -- 名無しさん  (2024-10-24 21:00:10)
- YouTubeの解説動画とかで雑に勉強しちゃったのかもね、あれもなんJのコピペのようなネタやデマを史実のように解説してることが多いんだよな  -- 名無しさん  (2024-10-24 21:08:35)
- どうなるのこの項目?コピペで削除?  -- 名無しさん  (2024-10-24 21:21:54)
- ↑3 九州も落とせてないのに「よっしゃ日本に十分に力を見せつけたぞ!これであいつらも降伏するだろう」と帰ったとしたら見通しが甘すぎるな…日本は元寇前は使者を生きて帰してたのに文永の役後には二度使者を切ってたり前以上に態度を頑なにしてるから元がそういう目論見だったなら完全に失敗してるし  -- 名無しさん  (2024-10-24 21:30:13)
- 驚くことに日本中が勝利に沸く中、このあと一所懸命の概念が崩壊して定住する武士が衰退すると予感して西国から関東まで一門を派遣して支部を増やしていった御家人の一団がいるんだ名を名を足利という  -- 名無しさん  (2024-10-24 22:21:01)
- 船に関しては、南宋は当然として高麗も外洋船作る技術はあったけど(技術的に同じな鄭和の航海があんななんだし)、もしかしたら元側が求めなかったかもしれない。大河を渡るのと同じだと考えたのかも。外洋向けのを作るより早く作れるし金もかからんだろうけどさ。  -- 名無しさん  (2024-10-24 22:29:05)
- ↑4どのあたりがコピペなのか明確にしておかないと削除の話はたぶんない。  -- 名無しさん  (2024-10-24 22:44:00)
- 20  -- 名無しさん  (2024-10-24 23:16:06)
- 20年ほど前に歴史の授業で使った教科書や参考書によると、「実の所神風は一回しか吹かなかったっぽい事が最近分かって来た」「日本海を船で渡らねばならない分、得意の騎馬戦術を使えず、大半を占める植民地から徴発した兵士は士気が低く、おまけに疫病にまで襲われた元軍はいろんな意味で不利だった」「大した恩賞を貰えず不満に思った武士の中には屛風絵に勝手に矢を書き足して頭に矢が刺さりながら戦った事にしてしまった奴もいた」(プラス先生の小話「鎌倉幕府も2回目の降伏勧告に際してはいい加減キレて返事代わりに使者の首を送り付けた」)……という感じだった。20年前でこれなら「2回とも神風のお陰で日本は守られた」説っていつまで信じられてたんだろうか  -- 名無しさん  (2024-10-24 23:23:47)
- 神風が過剰に持ち上げられたの  -- 名無しさん  (2024-10-24 23:33:38)
- チンギスがきてたらどうなったとかそういうのが読みたい  -- 名無しさん  (2024-10-24 23:35:04)
- 30年ほど前の高校の歴史の教科書の時点で「文永の役の時は、実は元軍の戦略的撤退だったという説もある」って書いてあって、先生が「その時期は台風が来るような季節じゃないから、そういう説が出てる」って説明してたぞ  -- 名無しさん  (2024-10-24 23:35:29)
- 御家人の窮乏ばかりが言われるが、本来抱えていなかった貴族や寺社所有の荘園に仕えた鎌倉幕府外の武士にも出動させた事で傘下に入れざるを得ず鎌倉幕府の統治力が限界を超えたとか、時宗の早世と安達泰盛の敗死で幕府改革になるはずの弘安徳政が頓挫して…みたいなのも鎌倉幕府崩壊に繋がったりはするんで、元寇は鎌倉幕府崩壊のきっかけで全ての原因ではないんよ  -- 名無しさん  (2024-10-24 23:39:54)
- ↑ごめんなさい途中で入っちゃった 過剰に持ち上げられたのはやはり戦前戦中の「日本は神国」「救国の神風が吹く」というプロパガンダが大きいんだろうな。なお実は太平洋戦争中、日本近海での大台風で米軍艦隊に少なからず被害が出たことが実際にある。が、米軍はその被害をものともせずやっぱりその後日本はご存知のとおりに……という、神風ホントに吹いてたのに米帝にはきかなかったという悲しい歴史が  -- 名無しさん  (2024-10-24 23:43:50)
- さらに↑もずれた……上のこれは↑4でお願いします。度々すみませんでした。  -- 名無しさん  (2024-10-24 23:46:18)
- どこかで見たコピペの内容  -- 名無しさん  (2024-10-24 23:58:30)
- 元寇が鎌倉幕府滅亡の直接原因説は最近微妙になってるしなんか……この項目浅くない?  -- 名無しさん  (2024-10-25 00:00:00)
- ↑一応、恩賞は時間はかかったものの出してるし、システムとしての幕府は倒れる程酷い状況では無かったって説あるしな。もっとも、滅亡原因謎(強いて言えば尊氏の裏切り)ってなんだそりゃあって話だそうだけど。  -- 名無しさん  (2024-10-25 00:43:55)
- 詰まる所、鎌倉幕府滅亡の原因は神風の有無も御家人貧乏説も内管領専横説も決め手にならず結論としては尊氏てめーは何なんだ!で終わってしまうのがなんとも  -- 名無しさん  (2024-10-25 00:45:14)
- 鎌倉幕府滅亡の原因に関しちゃ、社会矛盾が積み重なってって、それが爆発した結果じゃない?平氏政権潰れたのもそれだったし。為政者に全部向かうのが世の常だから。後は北条氏が理由付けて地方御家人の所領奪って一族に分け与えててヘイトため込んでたり、御内人優遇でそれ以外の東国御家人が不満ため込んだり。火種だけはいっぱいあったからな・・・。後は御家人の分割相続とそこからの再統合の過程での訴訟祭りとか。  -- 名無しさん  (2024-10-25 01:16:24)
- 「その時期は台風が来るような季節じゃない」という話をしている人が居たけど、文永の役の頃(現在で言う10月頃)はまだ台風シーズンではあるよ  -- 名無しさん  (2024-10-25 06:18:30)
- 台風が来たっていうこと自体はコンピュータでのシミュレーション解析や当時の記録からほぼ確定してるんで  -- 名無しさん  (2024-10-25 06:42:26)
- 確かに出典は記載して欲しいな…。どんなトンデモ説や妄想も事実のように書かれてはいくらこのwikiでもまずいでしょ  -- 名無しさん  (2024-10-25 07:54:57)
- 船に吊るすはともかく、捕虜の手に穴をあけて縄を通し、人数を数える時は耳を斬り落として数えたっていうのは昭和の小中学生向け日本史本で読んだ。その本には「『むごい』という言葉の語源は『モンゴル』から来ている」というトンデモ説まで書かれていたが、元・蒙古・ハン国と呼ばれていた当時に日本人がモンゴルという言葉知ってたか怪しい気がする。  -- 名無しさん  (2024-10-25 08:39:28)
- 「武士道精神の詳細」にある武士道精神(狂)エピはよくネットにコピペされてるなんJの打線スレの「元寇の鎌倉武士団打線(最新の研究)」だね。でもなんJは歴史板と違って信憑性とか気にせず外の怪しいネタからなんJ内で作られたネタまで飛び交う所だから外部の、それも一応Wikiにコピペするようなものじゃない。現にそのスレ内で鎌倉武士団打線作者による引用詐欺(引用文が出典の本に存在しない)があったことも判明してるし。  -- 名無しさん  (2024-10-25 09:50:34)
- 元軍の弓矢は小型だったけど毒が塗られていたって聞いたことあるけど、それは間違いだったのかな?  -- 名無しさん  (2024-10-25 10:44:06)
- ↑当時毒矢を使わなかった戦場がむしろあったんだろうか。トリカブトなんて大層なものでなくとも糞とか、それこそ土や泥水つけても毒矢にはなるし。  -- 名無しさん  (2024-10-25 10:57:33)
- ↑即死級の猛毒とか塗ってたら射る側だって危ないし、それでも毒矢にするかは軍によって差があったかも。  -- 名無しさん  (2024-10-25 11:32:31)
- 学問の場じゃないのであんまり突っ込むのもあれだけど独自研究というか仮想戦記に片足突っ込んでないかな  -- 名無しさん  (2024-10-25 12:41:47)
- 何回か繰り返し改訂していた者です。といっても、日本軍の動きや何をしたかなどは詳しくないので深く触れていません。結構モンゴル(大元)側の方を厚めに改訂しています。日本史メインの部分や日本軍の記述については、今のところ他者に譲りたいと思っています。  -- oda  (2024-10-25 16:23:04)
- 細菌兵器攻撃は歴史秘話ヒストリア(たぶん2018年9月19日の放送回)で取り上げてた記憶。紹介されていたのは汚物・排泄物だったけど  -- 名無しさん  (2024-10-25 17:47:22)
- なんかマンボウの多数の死因を嬉々として引用するみたいな話になってんな…  -- 名無しさん  (2024-10-25 18:21:00)
- 鎌倉武士って恐い  -- 名無しさん  (2024-10-25 18:54:00)
- ↑3汚物による攻撃は蒙古襲来絵詞の描写から学者が推測してるから説のひとつと言えるけど、この項目に書いてる「腐り果てた牛馬の死肉を敵船目掛けて投げ込み~」というのは単なるなんJのネタだからなあ…  -- 名無しさん  (2024-10-25 20:55:25)
- そもそも何で全部の国がモンゴルの属国にならにゃいかんの?地球はモンゴル帝国だけのものじゃないのに未だに使節団処刑で日本を批判してるモンゴルって小さい国だよな  -- 名無しさん  (2024-10-26 00:53:34)
- ↑むしろ中華全般がそんな理屈を振りかざして、使節をおくるだけ蒙古はまだ穏健なんよ  -- 名無しさん  (2024-10-26 02:57:35)
- このままネタとネットミームだらけにしておくならせめて「歴史」とか「アニヲタ歴史の時間」とかの歴史タグは外した方がいいんじゃね  -- 名無しさん  (2024-10-26 03:17:51)
- 現状デマ拡散にしかなってないしな  -- 名無しさん  (2024-10-26 03:20:33)
- TNID  -- 名無しさん  (2024-10-26 08:24:05)
- ↑3それと並行して「※この項目はネタやネットミームが多数含まれています。学術的な史実を知りたい方は他で改めて調べなおしてみることをお勧めします。」みたいな注を冒頭に入れたほうがいいな。↑2の言う通り歴史記事の顔してデマ拡散になってしまっているのが現状なわけだし  -- 名無しさん  (2024-10-26 08:37:00)
- ↑3この手のネタって作った人やコピペする人は「わかってて楽しむ」つもりでも、見る人がなんJが出典だとかなんJの空気とか知ってるわけじゃないから、結果的には信じる人が出てデマ拡散になったりするんだよな、歴史とか解説とか付いてると特に、素直な人は歴史の解説だと受け取りやすくなるし  -- 名無しさん  (2024-10-26 10:09:16)
- ネタで楽しむだけなら別にいいんだけど、いかにも「これが真実だ!」と言わんばかりにちょっと説得力がありそうな話も交えて「解説」という体で記述してるからネタにならないという問題がある。  -- 名無しさん  (2024-10-26 10:12:32)
- 実際鎌倉武士ネットミームに関しちゃ既に「元寇の鎌倉武士団打線」のスレで民明書房的な偽出典つけられてたのをマジに信じる人が出たり、「解説」という体で引用した動画などによってデマ拡散したりといった弊害が出てるからなあ  -- 名無しさん  (2024-10-26 10:21:19)
- 変な誤解が広まらないようにするためには「歴史上の出来事の記事を作る場合は、出典と参考資料を明確にする」というルールが必要かも  -- 名無しさん  (2024-10-26 10:37:49)
- モンゴルが騎馬民族ということを抜きにしてもこの時代の軍事技術や造船技術では数十万クラスでの渡海侵攻は容易ではない。日本だけじゃなくジャワへの出兵も失敗している。棒類に手こずったといっても大陸で使用されてる攻城兵器が投入されたら突破されるが輸送が無理だった。  -- 名無しさん  (2024-10-26 12:10:56)
- 普通ね、高度に組織化された軍隊に素人の集団じゃ勝ち目ないのよ。朝鮮征伐の小西隊や加藤隊みたいに相手は手も足も出ないだよね。威力偵察って言うけど三万人ちょっとで征服できる気でいたとは思うけどね。ただ日本側がガチの軍事政権で即応で戦える軍隊持ってたのが予想外だったんだと思う。世界的に見ても武士って珍しいからね。  -- 名無しさん  (2024-10-26 16:42:33)
- てつはうは殆ど意味なかったって書いてあるけど、落馬させて接近戦を余儀なくさせてるなら十分効果あったのでは…  -- 名無しさん  (2024-10-26 16:53:42)
- ↑2 元寇前に来日した趙良弼って使者が1年も滞在して偵察してったし帰国後クビライに報告も上げてるのにそれでも日本側に武士階級と即応交戦能力があるという前提に戦略立てなかったなら普通というより元の失策ってことになるような…使者が九州で止められてたことで日本の面積や国力を正確に測れず必要兵力を計算できなかったってのはあるかもしれないけど  -- 名無しさん  (2024-10-26 19:58:00)
- ↑5ルールにまですると既存の記事も全部アウトになるし歴史以外も出典は?と聞かれるようになったら不自由すぎる点がな。この記事が例外的にマズイとしてくれた方が  -- 名無しさん  (2024-10-26 20:52:20)
- 既存の歴史に関する項目でも出典を可能な限り明記した方が良いかと思いますが、誰が書くのかという問題が残りますね  -- 名無しさん  (2024-10-26 21:22:45)
- ルールに出典を明記なんてのは断固反対。そうしたいのなら本家Wikipediaでやれと。  -- 名無しさん  (2024-10-26 21:55:59)
- 史料的な意味での出典明記はwikipediaですら怪しいし(平気で歴史群像や俗流新書を載せる)、あんまり徹底しても意味ないんじゃないの。この記事の致命的なところは、冒頭で史料の名前を出してそれを「研究(※ただしなんjのコピペ)が進んだ今では否定されている」としている構成だよねぇ。それを直すなり消すなりして、あくまで出典不明ネタ塗れであることを明示するあたりが落とし所では。  -- 名無しさん  (2024-10-27 11:04:32)
- あの手この手の詳細と武士道精神の詳細の所あたりを削除して、鎌倉武士がバーサーカーって部分をマイルドに修正すれば記事としてそれなりにまともになるんじゃない  -- 名無しさん  (2024-10-27 14:54:22)
- いくら嘘は嘘であると見抜ける人でないと難しいとか、アニヲタwikiがおふざけ上等のwikiサイトだとしても、掲示板サイトの情報を鵜呑みにしてデマ拡散の片棒を担いでるとか流石にヤバいんじゃ…  -- 名無しさん  (2024-10-27 21:49:03)
- 従来の元寇観の大元である八幡愚童訓がデタラメ混ざってるのは事実なのだけど鎌倉武士コピペはそれ以上にデタラメで、しかしこれ参照すればその辺の話に対する正しい答えが分かると言えるような史料がない(だからデタラメ愚童訓を参照せざるをえなかったところがある)というのがこの問題の難しさなのよな  -- 名無しさん  (2024-10-28 09:00:08)
- [[司馬懿]]のページの晋書周りの記述が参考になると思う 「史学的に認められた歴史書ベースで書いただけどこうこうこういう理由で信憑性は怪しいよ」って書き方ならいいんじゃないかなって感じはする 鎌倉コピペな部分も現代では鎌倉コピペな印象を持たれるようになっている、みたいな感じでコピペ由来だと明示するなら書いても良いんじゃないかな  -- 名無しさん  (2024-10-28 11:31:06)
- 冒頭から「実際は異なる」「実際のところどうだったかというと」「判明しつつある」「近年明らかになって来た」とまるでこの項目の内容、特に鎌倉武士のバーサーカーネタが新たな真実や近年の研究結果であるかのような語り口でなんJ産バーサーカーネタ(武士道精神の詳細)に結び付けてるからなあ……。何も知らない人が信じそうな語り方をしてるのがネタ記事としても不味い。  -- 名無しさん  (2024-10-28 15:26:06)
- こういう日本SUGEEEE系の記事とか動画増えたよね  -- 名無しさん  (2024-10-28 15:37:34)
- とりあえずガセなのがほぼ明らかな「あの手この手」「武士道精神」あたりコメントアウトまたは削除の上、歴史の流れについては「こういう説もあるが出典は明確でない」という記述に変えてみようかと思いますがいかがでしょうか。歴史は専門外なので根本から書き直しをするのは難しいのですが、さすがに典拠不明のガセネタを最新の研究結果として触れ回るような内容のまま置かれているのはまずいと思うので…  -- 名無しさん  (2024-10-28 15:56:51)
- 本文の鎌倉武士バーサーカー説を削るのとは別途だが大河の時宗も手放しで傑作と言えるヤツだったか……?赤マフラーとか当時から割と悪い意味で話題になってた部分も多かったと思うが……  -- 名無しさん  (2024-10-28 16:08:56)
- もう項目名鎌倉武士コピペとか鎌倉武士バーサーカー説あたりにして、根拠不明のネタコピペであるのを前提に解説する項目にしてもいいかもな、江戸っ子大虐殺みたいな感じで  -- 名無しさん  (2024-10-28 20:00:49)
- ↑3 の通りの修正に加え、メインの解説文については折りたたんでみました。  -- 名無しさん  (2024-10-29 12:22:34)
- ↑ ニコ百だと「鎌倉武士蛮族説」という似た項目があるな。初出は「元寇の鎌倉武士団打線(最新の研究)」というスレとする説もあるので、コピペの元ネタがこれなら項目名もこのスレタイにするのも良いように思える。江戸っ子大虐殺と同じく、蛮族云々を前振りとして、後半で真面目な解説として元寇に触れる構成にするのには賛成  -- 名無しさん  (2024-10-29 12:27:28)
- 建て主に何を参考にしたか聞きたいところなんだけど、建て主は作成して以降一度も姿を見せてないんだよなぁ。  -- 名無しさん  (2024-10-29 14:36:46)
- 日本側の史料もファンタジー入ってるけど元側で元寇の記述がある元史も中国史屈指のポンコツ史料という  -- 名無しさん  (2024-10-29 15:00:02)
- ↑2 まぁ言っちゃなんだけど、今のところ建て主は「真偽不明のネット掲示板のコピペを真に受けちゃって、さも真実かのように項目を作っちゃった人」だからなぁ…。擁護する訳じゃないが、この状況で出てくるのは流石に恥ずかしいし、なにを弁解しても叩かれると判断してるんじゃない?  -- 名無しさん  (2024-10-29 15:01:28)
- 歴史系にはあるあるだけど、まとまった文量かつ真実性も保証された史料は存在しない、ファンタジー入った文献とわずかな物証から推測するしかできないってのがねえ・・・ これは嘘アレも嘘、じゃあ真実はって言われたときに真摯に書くとふんわりした話になるので断言調のデマに負けやすい  -- 名無しさん  (2024-10-29 15:44:01)
- クビライも2回やっても駄目だったんだから、再侵攻なんてキッパリ諦めれば良かったのに  -- 名無しさん  (2024-10-29 16:07:27)
- 鎌倉武士だけで戦って無くね?九州武士とか西国武士は?  -- 名無しさん  (2024-10-29 16:42:43)
- 準備は出来たかい…  -- 名無しさん  (2024-10-29 21:37:13)
- 300年後の朝鮮出兵で元寇に匹敵する大軍を動員してるの日本すごいじゃんって思った。  -- 名無しさん  (2024-10-29 21:40:00)
- 「外国からの本格的侵攻、それも当時のアジア最強の大元帝国との戦い」なんていう日本史上空前絶後の状況で、鎌倉武士コピペ並みに勝っていたならもっと喧伝されててもいいはずなのに、反武家の傾向が強い八幡愚童訓が有力扱いされるくらいにはそういった文書類が少ない。そもそも「武士の戦闘よりウチらの祈祷による大嵐の方がよっぽど効きましたぜ!」という主張が受け入れられる余地があった(=誰の目にも分かる完勝ならありえない)。ということから逆説的に考えると、自分達と完全に発想戦法が違う異文化との戦いに慣れてないせいで困惑気味の島国日本と、大陸を制した遊牧民国家ならではの機動力突破力が活かせない渡海強襲上陸を強いられた元の、お互い噛み合わない泥仕合というのが本当のところだった気がする。2回目は初回より日本優位というのも、未知の相手が多少なりとも既知の相手になってて多少なりとも困惑日本と、相変わらず持ち味が活かせない元との差が出たという事に見えるし。  -- 名無しさん  (2024-10-29 23:03:26)
- 史料は竹崎さん残してるじゃん。描き足されたこともあって本来の意味とは違う方向で解釈されがちだったけど。勝敗については橋頭保をロクに築けてないから向こうの完敗ってのは普通に事実だと思うんだよね。攻めに来ておいてこの体たらくは流石に大失敗だよ  -- 名無しさん  (2024-10-29 23:59:24)
- そもそもその竹崎さんだって「なんで幕府は恩賞くれないんだ、ムガー!!」ってやってた人だし、平たく言えば自慢話の類。成立も元寇からかなり後。貴重な史料ではあっても「手放しで信じる」というわけにはいかないよ。  -- 名無しさん  (2024-10-30 11:15:14)
- 本当は日本は戦略や戦術をしっかり立てた上で元に辛勝したのに、後年に神風のおかげとまとめたのは巡り巡って二次大戦敗戦の遠因になってるだろう  -- 名無しさん  (2024-10-30 18:53:32)
- ↑12 他snsに初版作成者とおなじ名前のアカウントが複数あるのを確認。同一人物かどうかは不明  -- 名無しさん  (2024-10-30 18:59:46)
- ただ竹崎さんの絵巻、あれだけ長いのに武士の描写に名乗りも一騎打ちも見当たらないので「『名乗りを挙げて一騎討ち』に拘ってまともに戦えなかった」という話の否定材料のひとつにはなりそう…というかこの絵巻で複数で凸してる武士が複数回描かれてるのになんでそんな話が定説になってたんだろう。  -- 名無しさん  (2024-10-30 19:02:19)
- このWikiで歴史系の項目がこんなことになるの、初めて見た  -- 名無しさん  (2024-10-30 19:17:21)
- ↑2 戦国とかも江戸時代に出来上がった風聞のほうが広まってて、実情とは離れた認識になってたしねぇ。今もそうなんだけど、史料って書いてあることより誰が何故どうやって調べて書いたのか、その背景のほうが大事だよなって。複数凸の話は平安あたりの武士の戦い方考えたらまあそうだよねって気はするけど -- 名無しさん  (2024-10-30 22:35:45)
- 中国側の正史にあたる元史はかなり拙速に編纂されたのもあって欠落や誤謬が多いんだけど、元寇も特に文永の役に関する記述が少なくて、実は元軍が撤退した理由も書かれていない(項目に書かれているのは高麗側の記録によるもの)。敵は多くてすぐ集まってくるけど、こっちは簡単には援軍を送れないから割に合わないって評価を戦後に下していたから、当初の予想より迅速かつ大規模な日本側の迎撃にかなり手こずらされたのは間違いないようだけど。  -- 名無しさん  (2024-10-31 08:43:32)
- 鎌倉時代の識字率ってわかんないけど、読み書きできそうな人がいる太宰府は戦場になってないんじゃない。あと昔から疑問だったんだけど、源平合戦とか前九年合戦とかわりと難易度が高い作戦やってるのに一騎討ち主体の日本軍って無理あるよね。  -- 名無しさん  (2024-11-02 23:41:22)
- 大河ドラマのってそんな視聴率あったのか。クソつまんなかったのに。  -- 名無しさん  (2024-11-06 16:48:28)
- ↑平均でなく最大視聴率だから妥当なところでは?  -- 名無しさん  (2024-11-07 20:39:10)
- 鎌倉幕府滅亡の原因が不明という事はフビライハンよりも強敵感がすんごい長崎円喜はどんだけやべー内管領なんだよ  -- 名無しさん  (2024-11-07 21:15:48)
- 長崎円喜は怪物なんかじゃないよ、権威がないから新しい施策を打つことも出来ず前例踏襲をし続けて鎌倉幕府を世間から置いてけぼりにしただけの、日本史に限らずどこにでもいる衰退期の政治家だよ  -- 名無しさん  (2024-11-09 13:32:24)
- ↑まあそれでも尊氏が蜂起しなかったら新田も楠も壊滅してただろうから秘密警察長官としては有能とは思う。つまるところ鎌倉幕府滅亡に関してはいろんな要因があるにせよ最終的には「尊氏!おめーは何なんだよ」になるという  -- 名無しさん  (2025-01-14 16:34:43)
- 不思議と両国関係は明政権よりも改善の余地があったのが…建国の父が互いに同一人物説出てくる程度にはだけど  -- 名無しさん  (2025-05-18 22:22:10)
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