〈プロローグ〉
1268年、当時大陸の覇権を握っていた大モンゴル国第5代大カンクビライの目下の懸案事項は当時大元に反抗していた南宋であった。
その南宋と(非公式ながら)国交を結び、国中に金銀、木材等の豊富な資源を持っているという日本の話を聞き、
南宋攻略の一助とするだけでなく、モンゴル帝国が築き上げた交易圏に日本をも組み込むべく服属させる事を目論む。
クビライはまず九州の太宰府へ使者をよこし、太宰府を通じて国書を時の鎌倉幕府執権北条時宗へ渡す。
しかし国書の内容を見た時宗は朝廷にとある進言を行う。それは…
という、黙殺とも様子見とも言える曖昧な対応であった。
現代社会の外交においても関係各国の顰蹙を買いかねない、無礼と言っても過言ではない対応であるが、
クビライの国書の内容も、日本側が「無礼」「高圧的」と受け取っても仕方ないものであることや、
南宋より渡来した禅僧から、大陸での大元の暴虐に関する報告を鎌倉幕府が受け取っていたことを加味すると、
日本(鎌倉幕府)からしても、例え無礼であろうと上述の対応を取らざるを得なかったとも言える。
ちなみにクビライの国書の内容は以下の通りである。
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国書の内容(現代語訳) |
天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。
私(クビライ)が思うに、昔から、小国の君主は、領土が接している場合は、修好に努力するものである。
私の先祖も天命を受けて中華の地を得た。異域の国々でも、その徳に服している者の数は計り知れない。
高麗も長い間、戦争に苦しんでいたが、私が即位してすぐに平和をもたらし、その本領を安堵してやった。それで高麗の国王も臣下も感激して来朝している。
名分からいえば、私と朝鮮王は君臣関係にあるが、実際は父子のように喜びを分かち合っている。この高麗は、私の国の東の属領である。
日本は高麗に密接しているうえに、開国以来、中国に来貢してきた。それなのに、私が皇帝になってからは使臣一人やってこない。これはきっと、私のことをよく知らないからだろう。
それで特に使いに手紙を持たせて派遣し、私の志を布告する次第である。
これからは好みを結び、互いに親睦を図りたいものである。
また聖人は『四海を以って家となす』と言うが、通好しなければ一家とは言えない。日本も私を父と思うことである。
このことが分からず、もし武力を用いなければならないようなことになれば、これはもとより好むところではない。日本国王よ、よく考えてください
…え?長くてよくわからないって?
より現代風に意訳するのならば…
天に愛された国、大モンゴル国大カンクビライです。日本の皆さんこんにちは。
日本ってうちの属国の高麗の隣にあるよね?
なら日本も大モンゴル国の属国も同然なのに日本は一度もうちに挨拶に来てないのはちょっとどうかと思ってたんだよ。だからこれを機に日本も仲良くしようよ!
これからはうちを父だと思って慕ってくれてもいいんだよ。
あ、それが嫌っていうなら戦争も辞さないけど暴力的なのは嫌いだからさ、日本は何が最善かよく考えて返事してね?
…以上、国書の現代語訳並びに意訳である。
現代の研究においても、(特に赤字の部分をめぐって)クビライの国書がどこまで無礼か否か、脅迫の意思があったか否かは争点の一つとなっている。
「いやどう見ても武力を盾に脅迫してるだろ」と思うかもしれないが、国書の原文には末尾に「不宣」とあり、この表現は友人・友好国に対して用いられるものである。
このことから、モンゴル皇帝が他国に送る文書としてはかなり丁重であるという見解が為されているのである。
一方で、例え話の体とはいえ、仮にも友好を求める相手国を「小国」と揶揄したり、武力侵略を示唆するなど、
相手国に「無礼」と受け取られても仕方ない部分が文面に散見されるのも確かである。
また、仮にクビライに脅迫の意思がなかったとしても、既に幕府は大陸でのモンゴル兵の大暴れを知っているので、
その上で幕府にこの文面を見て武力侵略を警戒するなという方が無茶だろう。
従わない相手を徹底的に叩きのめし、腕づくで従わせてこき使う乱暴者に「仲良くしようよ!」と言われてすぐに信じられるか、という話である。
実際のところ、クビライはこの国書が無視された後も、後述するように何度も使節を送り、朝貢・服属を求めているので、
少なくとも初回となるこの国書を送った時点では、まだ本気で日本を攻撃しようとは考えていなかったのかもしれない。
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国書を無視されるという無礼な態度に憤るクビライ側ではあったが、すぐさま戦争という運びにはならず、これ以降も六回程使節団を送り返事を待った。
しかし、それと並行して日本への遠征計画も準備が始まっている。
また、クビライは1271年に大モンゴル国(モンゴル帝国)の新たな国号として「大元」を定めた。
中華王朝としての側面も獲得したこの国家は、歴代中華王朝を一字で表す慣例においては「元」と呼称する。
結局、待てど暮らせど鎌倉幕府の黙殺姿勢は変わらず、6年の間に両国の関係は冷え切り、業を煮やしたクビライは遂に実力行使へと打って出ることになる。
〈文永の役〉
1274年10月、クビライは日本を攻め落とすべく総大将のクドゥンを筆頭に蒙漢軍2万人、高麗軍5600人、そして棺工水手(水夫)1万5千人。
合計4万強の人員と大型軍艦と船内に格納された小型船を合わせた900近くの船を率いて対馬へと侵攻。
日本側も指を咥えて見てはおらず対馬の守護大名宗助国は島中から武士を招集し、佐須浦(小茂田浜)にて迎え撃った。
だがこの時集まった武士たちは80前後と言われ、前述した大軍勢を前に宗助国軍は風前の灯火も同然。
善戦はしたものの大元側の集団戦法や短弓の弾幕・火薬兵器による攻撃を受け半日ももたずに武士達は全滅し、対馬はあっという間に占領された。
対馬を占領した大元軍は、そのままの勢いで南下し、壱岐も攻め落とした。
そして、壱岐と先の対馬での戦いで捕らえた民間人達の掌に穴を開け縄で括り見せしめと肉壁を兼ねて軍艦に飾り付けるという非道極まる行為を重ねた…と言われている。
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対馬・壱岐の大敗の裏で |
対馬・壱岐の大敗は幕府が大元軍の戦力・戦法を計るために捨て石同然の扱いをした結果とみる説がある。真実であれば人倫にもとる行為と言わざるをえない。
しかしながら、ここで得た情報によって後の戦いでは被害を抑えることに成功している事を考えると、一概に非道とも言い切れないのもまた事実である。
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時を同じくして幕府の総帥北条時宗は九州の御家人達に警護を固めるよう通達を行い息浜(博多)へ軍を集結させるとともに、
守護大名の少弐景能を総大将に任命し、来る大元軍上陸への備えを固めていった。
一方の大元軍も肥前の松浦郡を襲撃した後に早良郡へ停泊し、麁原山に本陣を敷き、
次いで赤坂に前線基地を設け先の戦での疲労を取るべく休息を取り、着々と太宰府侵攻の準備を進めていた。
しかしそこへ菊池武房率いる一団が奇襲を仕掛け大元軍は大混乱に陥り麁原山へと退却を余儀なくされる。
菊池武房の奇襲に出鼻を挫かれ本陣で体勢を立て直す大元軍の元に、息の浜に集結していた本隊も押し寄せ麁原山の麓鳥飼汐で両軍は激突することになる。
武士達は短弓よりも威力・射程に優れる和弓による狙撃戦法を行い、機動力を重視した大元軍の鎧はいとも容易く撃ち抜かれ、負傷者を増やしていく一方で、
大元軍の短弓は武士達の兜鎧を貫通する事ができないと、不利な戦いを強いられた。
武士達の攻撃は苛烈を極め、和弓で兵力が削がれた集団に騎馬部隊が突撃し撃ち漏らした兵を追い討ち元軍は更に兵士を失っていった。
増え続ける負傷者を前にクドゥンは後退を決め、大元軍は百道原へと逃げ込んだ。
しかしそれを武士達が易々と逃すはずもなく、追撃は夜まで続き両者共に引かない一進一退の攻防を繰り広げた。
やがて、まともに拠点も作れず疲労も溜まりつつあった大元軍が次第に押され、戦局は日本側に傾きつつあった。
百道原にて元軍指揮官達は話し合い、援軍は期待できず、負傷者も多数出ているこの状況に勝機を見出せず、
これ以上被害が大きくなる前に撤退を決め夜のうちに高麗へ向けて去って行った。
対馬・壱岐を攻め落としてからたった数日で、大元軍は撤退を余儀なくされ、こうして文永の役は日本側の勝利で幕を閉じた。
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撤退した大元軍のその後 |
文永の役ではこれまでイメージされていた大元軍の撤退理由だった神風は吹かなかったものの、悪天候が大元軍に牙を剥いたというのもあながち嘘ではない。
撤退時の航路はあいにくの荒れ模様で、何隻かの船は波風に飲まれて沈没するか、操舵不可へ陥り日本へ漂流してしまい、
当然それを見つけた鎌倉武士達に処刑される等、泣きっ面に蜂と言わんばかりの最悪の末路を辿ることになったという。
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〈文永の役のその後〉
文永の役は大元軍の敗北に終わったものの、クビライはたった一度の敗北で日本を諦めることは更々なかった。
前述のようにクビライにとっては、第一次日本遠征はあくまで「対南宋戦争の一環」という副次的なものであり、
文永の役前後の時期を通しても、クビライの主眼はあくまでも南宋攻略であった。
南宋の首都・臨安を無血開城させる前年である1275年から、クビライは第二次日本遠征の計画を立て始める。
しかし、ぶっちゃけ「服属さえしてくれればいいんだよ」という姿勢でもあったクビライは、前回同様再び使節団を派遣して日本に服属を求める旨の国書を送った。
こうして1275年8月、正使の杜世忠(モンゴル人)や副使の何文著(中国人)、計議官の徹都魯丁(色目人=ウイグル人)、書状官・果(色目人)、通訳・徐賛(高麗人)の5人からなる使節団は、
下関から上陸し、役人達に連れられて、当時の執権・北条時宗が待つ鎌倉へと向かった。
意外にも幕府側は使節団を通し今後こそ友好的な態度を示してくれると思われたが…
日本からすれば、自分から戦争を仕掛けて敗北した国から、またもや「ねぇ、属国になろうよ?」なんて態度の国書が持ってこられた事に、良い顔などできるわけもない。
それでなくとも、文永の役前の時点で大元との外交自体事実上無視していたことを考えれば、一貫して服属する気はなかったのであろう。
そういうわけで、滅茶苦茶武断的な外交姿勢であった鎌倉幕府の方針の元、使節団は問答無用で、鎌倉辰ノ口にて頸を刎ねられ処刑されたという。
そんな悲劇をよそに、1276年、大元は長きにわたって攻略を続けていた南宋を遂に降伏させ、江南地域を完全に支配下に収めただけでなく、南宋軍の吸収も行い、軍事力と経済力の大幅な拡大に成功していた。
クビライにとって目下第一の標的だった国を遂に滅ぼしたのである。
そんな折、先の日本訪問から帰ってこない先発の使節団の様子見と、服属勧告の念押しを兼ねて1279年に再度使節団を日本へ送るも、
後発の使節団も同じく処刑されてしまい、使節団は終ぞ帰ってくることはなかった。
家臣から使節団の末路を聞かされた大元政府は激怒。クビライもまた、武断的な日本の外交姿勢に怒りを顕わにし、既に進めさせていた遠征計画を本格化させ、第二次日本遠征を決定した。
〈弘安の役〉
文永の役から7年後の1281年、クビライは大元・高麗連合軍4万人と征服した旧南宋軍10万人を起用し、軍艦はおおよそ4000隻強を配備。
そして連合軍を東路軍、旧南宋軍を江南軍と命名。東路軍が先発隊として攻撃を仕掛け後から準備を整えた江南軍が合流し合計14万の大軍で太宰府を攻め落とす計画を立てた。
同年の5月に東路軍が高麗から進軍開始。文永の役同様に対馬・壱岐が最初に狙われ、前回同様抵抗を繰り広げるも、またしても短期間で壊滅させられてしまう。
そして6月中旬を目安に壱岐にて江南軍と合流し九州へと攻め入る算段だった。
ところが、この時江南軍側でアクシデントが起きる。
なんと総司令官に任命されていた人物が病に倒れ、その後任を決めるのに時間を取られてしまった。
そのせいで、結局江南軍が進軍を開始したのは合流する予定だった6月中旬を過ぎ下旬となってしまうことに。そんな計画で大丈夫か?
そんなこととはつゆ知らず東路軍は占領した壱岐にて江南軍の到着を待っていた。
ところが、捕虜となった島民から「日本軍は人員が足りておらず博多の海岸線は守りが手薄である」という情報が入った。
このことで、江南軍を待って攻めるよりも防衛準備が整っていない今のうちに博多を攻め落とした方が良いと考え、東路軍は当初の計画を破棄して博多湾へと侵攻を開始する。
しかし進軍した東路軍を待っていたのは…
文永の役で勝利した時宗達はそれに驕ることなく、再び戦が起きた時に備え、
大元軍が上陸してきた海岸線に「防塁」と呼ばれる高さ3メートル全長20キロにも及ぶ石の壁を張り巡らせていた。
さらには、文永の役に参加しなかった武士達に、
今回は許すが次も来なかったら厳重に処罰するから覚悟しろよ」
といった具合に号令を発したことで、九州各地から多くの武士達が集結。こちらも文永の役とは比べ物にならないほどの兵力が博多に結集していた。
事前の情報と異なる日本の防衛体制を前に東路軍は完全に怯んでしまい、博多湾上陸を諦め、博多に近い志賀島を占領してここを拠点に進軍を開始する準備を進めていた。
しかし、日も暮れた夜更け、筑後の御家人草野経永が家臣を引き連れて小舟から軍艦に乗り込み、瞬く間に20人前後を討ちとってしまう。
家臣達もそれに続く勢いで戦い挙句の果てには船に火を放ち軍艦を何隻か燃やして確実に戦力を削いでいった。
それを見た他の武士達も「草野に遅れをとってなるものか」と言わんばかりに舟を出し、夜襲で大混乱に陥る東路軍へ立て続けに攻撃を仕掛け、夜が明けるまで攻撃は続いたという。
しかし朝日が昇っても東路軍の悪夢は終わらないどころか苛烈さを増していく。
というのも、東路軍が占拠した志賀島は所謂陸繋島となっていて、日中は潮が引いて内陸から島へと渡る事が出来た。
これにより、陸と海の双方から武士達が攻撃を仕掛けてくるという地獄が待ち構えていたのだ。
それでも江南軍の到着を信じて東路軍は数日間志賀島で決死の抵抗を続けるも、昼夜問わず行われる攻撃に限界を迎え、
東路軍は志賀島を捨て壱岐まで後退して江南軍との合流を優先する決断をした。最初から待ってれば良かったのに
しかし前述のアクシデントによって、期日を大幅に過ぎても江南軍がやってくる気配はない。
計画の狂いに焦った東路軍司令官ヒンドゥ、洪茶丘、金方慶は、長い軍議の末に江南軍の到着を信じて壱岐に留まる選択をした。
そして6月も終わろうという月末に壱岐へ多くの船達がやって来て降り立った人々は東路軍へ向かって歩みを進めた。それを見た東路軍の兵士達はざわめきに包まれた。
志賀島から後退した後、東路軍は実に3週間程壱岐で足踏みをしていた。
その間に武士達は敵の居所を掴み、準備を整えた後壱岐に向けて出航し敵を殲滅せんと乗り込んできたのである。
最早退くことも叶わない東路軍はここでも抵抗を続けたが、先の戦いでの消耗が重くのしかかり戦況は悪化する一方だった。
しかし戦闘が始まってから実に1週間程が経過した頃、平戸島周辺に江南軍の艦隊が目撃されたという知らせが入る。
すぐさま東路軍は壱岐を捨てて友軍の元へ向かい、7月中旬頃鷹島にて本来の合流日時から1ヶ月近く過ぎてようやく両軍は合流を果たした。
10万近くの援軍が来たことで大元軍の士気は多少盛り返し、今度こそ大宰府を攻め落とすべく進軍を開始しようとした。
しかし、鷹島周辺の海域は潮の流れが複雑で、思うように船を進めることが出来ずに立ち往生してしまった。
そうこうしているうちに、大元軍ストーカーと化した武士達が追いつき、鷹島周辺で再び両軍は交戦を開始する。
戦いは昼夜を跨いで行われ、決死の攻防戦が繰り広げられたものの10万近くの援軍を得ても全く大宰府に進軍できない現状に、
大元軍には「日本侵攻なんて無理じゃないか?」というムードが広まりつつあり、撤退も視野に入り始めていた。
そして、そんな大元軍の心を完全に折る事態が起きてしまう。
戦いが始まってからおよそ3日後の7月末に鷹島へ台風が直撃し、島に多くの船を停泊させていた大元軍は甚大な被害を受けてしまう。
そして台風の損害を重く見た大元軍の指揮官達は「日本侵攻は不可能」と判断し、損害が薄い船に上官クラスの人間を集めると一目散に撤退。
鷹島には10万近くの兵が残されることとなった。
そして指揮官がいなくなった元軍の指揮系統は完全に崩壊。それを好機とみた武士達によって完全に押し切られていった。
最早その後の戦いは戦争というよりも掃討戦と言った方が正しい有様を呈していたようで、鷹島の各地には「首崎、血崎、血浦、死浦、地獄谷」などの悍ましい地名が残されている。
地名という断片的な情報ではあるものの、当時の戦いの凄惨さが窺い知れようというものである。
最終的に残された大元軍の10万強の兵のうち7万程の兵が戦死或いは処刑され、残された3万の兵は捕虜として捕まる悲惨な結果で鷹島の戦いは終わりを迎えた。
この決着をもってして、両軍共に大軍を動員し3ヶ月にも渡って続いた弘安の役は、再度日本の勝利という形で幕を下ろすのであった。
〈エピローグ〉
あまり知られていないが、実は鎌倉幕府では、「高麗遠征計画」が立案されていた。
これは文永の役終結後から既に持ち上がっていた計画で、大元軍が再度日本攻撃に踏み切る際に拠点とするであろう高麗を先んじて制圧しようというのが主な目的であった。
だが、文永の役後では大規模な防塁構築との二重負担が懸念され実施されずに立ち消え、弘安の役後でも理由は不明だが未実行に終わった。
恐らくは後述するように、主力となる御家人たちが窮乏しており、そのような余力がなかったためであろう。
尚、クビライも日本の逆攻勢を警戒して防備を固めていた。
さて、またしても敗北に終わった大元帝国であったが、クビライはなおも日本の服属を諦めていなかった。
1282年には執念深くも三度目の日本遠征計画を立てており、約3000隻の更なる造船を命ずる。
だが木材が不足しており、寺院から木を刈り取ったり、商船を改造するなど、結構無理に計画を推し進めており、
日本を攻めるための兵隊にも犯罪者達を起用するなど、この計画に各地は相当な負担を強いられた。
この時は臣下の諫言を聞き入れ、一度白紙に戻したのだが、翌年には再度遠征を計画。
その後も、日本侵攻の中止・あるいは延期を願い出る臣下が表れ、クビライもその時の帝国情勢を鑑みては遠征計画を中止するが、
帝国情勢が落ち着いた数年後には再び日本侵攻を計画するといった状況が繰り返された。
特に、旧南宋地域を中心とする大元帝国の領域の中で発生した盗賊蜂起や南宋復興反乱の対処や、ベトナム(陳朝大越国、及びチャンパ王国)との情勢の不安定化、
さらに、1287年の、モンゴル帝国の宗主国という立場であったクビライ政権の支柱である東方三王家の反乱(ナヤン・カダアンの乱)勃発など、
大小さまざまな不安定要素が多数現れる。クビライもその度に遠征計画を中止せざるを得なかった。
ちなみにこれらの状況の合間、改めて服属を求める使節を何度か日本に派遣してもいるが、特に効果はなかった。
そして1294年、モンゴル帝国内の内乱を一先ず収めきったクビライは、78年という長い生涯を終える。
後を継いだのはクビライの孫テムルだが、その皇后の下に元寇の生き残りが「将軍達が兵士を見捨てて逃げた」と直訴。
大々的な調査が行われ、自分の船に兵士を出来得る限り載せて脱出した武将は無罪となったが、自分達だけで逃げた大将達は厳罰に処せられた。
テムル以降は日本遠征計画も浮上することなく、結局第三次日本遠征は起きずに終わることとなった。
以降の大元は、モンゴル帝国の宗主国としてユーラシア東西大交流の担い手の一つになるも、
国内では後継者争いやその度に起きる内乱、さらに
ユーラシア規模で起こった疫病(黒死病、ペスト)や災害などで徐々に力を失っていく。
そして、1368年には
朱元璋率いる
大明政権によって、
大元政権はモンゴル高原に撤退、モンゴル帝国による中国支配は終わりを告げた。
一方、戦争の勝者となった鎌倉幕府も窮地に陥っていた。
今回の戦で活躍した多くの御家人達へ幕府は十分な恩賞を渡す事が出来ず武士の不満を集めつつあった。
それもそのはずで、今回の戦は外国から日本を守る戦いであり、大元から賠償金や土地を勝ち取ったわけでは無い。
これがために、恩賞を渡そうにも渡すことができず、「無い袖は振れぬ」状態となっていた。
御家人の多くは戦支度の為に借金をしており、それを返す為に家財や土地を売って返済する者まで現れる始末だった。
幕府は1297年に「徳政令」を発布して御家人の救済に努めたものの、十分に機能したとは言い難かった。この頃には没落する武士が現れ始め、幕府への不信感はますます募っていく。
やがて後醍醐天皇が倒幕計画を立ち上げ始めると、各地で戦が勃発。
後醍醐天皇側には次々と幕府に不満を抱える武士たちが加勢し、勢いづいていくのと対照的に、幕府側はじわじわと弱体化していき、
最終的に、元寇から約半世紀が経った1333年に起こった「元弘の乱」によって、執権・北条守時ら「北条得宗家」はその大半が自刃・戦死し、
ここに、源頼朝が開いて以来、約150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。
その後、足利尊氏を初代とする
室町幕府が起こり、一時の平和を享受していたが、6代将軍・
足利義教の代から徐々に屋台骨が傾いていき、
やがて起こった
応仁の乱を皮切りに、日本は
戦国時代という戦乱の時代へ突入していくこととなる。
高麗やその後を継いだ李氏朝鮮も壱岐・対馬の生き残りを中心とする
倭寇の襲来に悩まされた。
1419年に李氏朝鮮は1万8千人の兵で対馬に攻め込むも、今度は対馬側は山地に逃げ込んでゲリラ戦の構えを取る。
少数の対馬兵に手古摺っている間に日本本土からの援軍の第一波として松浦氏の兵の前衛部隊が合流したので、
朝鮮王・世宗は長期戦になって日本本土から大軍が来援したら勝ち目はないと見て兵を退いた。
この後、世宗は戦争ではなく、外交で倭寇を抑えようと言う方向に転換し、1428年の足利義教の6代将軍就任の祝賀との名目で通信使を派遣して国交を結んでいる。
つまり、この戦争に於いて、本当の意味での勝者はいないのである。
また、日本遠征自体は、大元帝国そのものの崩壊にそこまで影響していないため、仮に起きなかったとしても、大元が崩壊する結果は何も変わらなかったであろう。
日本史においても、元寇が鎌倉幕府の崩壊の原因の一つか否かについてはかなり議論されている。
鎌倉幕府が痛手を被ったのは事実なのだが、何せ上記の通り、元寇から幕府滅亡までに50年以上も経過しているのである。
鎌倉幕府の成立から滅亡までが約150年であることを考えると元寇以後の歴史が幕府全体の1/3を占める程に長いため、精々遠因に過ぎないのでは?という意見も根強い。
ただ、上述の通り、外国が日本列島に大規模な侵攻を仕掛けてきたのは(記録に残る限りでは)この元寇が初めてと言ってよく、
記事冒頭でも紹介した「神風」による勝利というイメージは、多くの日本人に今も強く刻まれているのも事実なので、
(特に日本史においては)やはり重大な事件であったことに変わりはない。
〈余談〉
ユーラシア大陸各地で戦いを繰り広げていたモンゴル帝国の長き歴史においても、文永の役・弘安の役は最東端の戦いであった。
最西端ではポーランドへ侵攻し、神聖ローマ帝国やキリスト教系騎士団とも戦っている。
世界広しといえど、ほぼ同時期に騎士と侍の両方を相手取った事のある国はモンゴル帝国だけであろう。
また、「恐ろしいもの」という意味の民族語彙に「むくりこくり」というのがある。
これは、蒙古・高麗連合軍の襲来を「蒙古高句麗の鬼が来る」と言って恐れたことに由来する。
そこから、駄々をこねて言うことを聞かない子供を「むくりこくりが来るよ」と脅してわがままを言うのをやめさせたという。
これは、日本でいうと桃山時代ごろの朝鮮出兵の際に、加藤清正が朝鮮半島の人々から「鬼上官」と呼ばれ恐れられていたのとよく似ており、
やはり言うことを聞かない子供たちをおとなしくさせる手段に用いられたのだそうな。