元寇(文永の役・弘安の役)

登録日:2024/10/23 Wed 22:15:00
更新日:2025/03/13 Thu 18:36:14
所要時間:約 10 分で読めます





〈概要〉

元寇(げんこう)とは、鎌倉時代の日本大元帝国(モンゴル帝国)が侵攻してきた戦乱の総称。
1274年に起きた「文永の役」と1281年に起きた「弘安の役」を合わせてこう呼ぶ。

文永の役においては、日本側は大元軍の毒矢を用いた集団戦法、未知の兵器「てつはう」による妨害、
名乗りを挙げて一騎討ちをしてから戦う作法を妨害されて戦えないといった要因が重なり、大元側の圧倒的な戦力を前に未曾有の危機に陥った。
しかし、そこでタイミングよく神風台風)が吹き、大元側に甚大な被害が出たことで日本側は辛うじて勝利を収め侵略を免れた。

幕府は危機感を抱き九州北部に石塁を築き上げで防衛線を用意しておき、続く弘安の役では善戦。
そしてこちらでも再び神風が吹き、大元軍は壊滅、撤退した。

だが、日本(幕府)側も大元軍の侵攻こそ防げたとはいえ、領土防衛戦故に敵からの略奪や領土の収奪が出来ず、参戦した御家人(武士)に十分な恩賞を用意することが出来なかった。
当然、幕府からの恩賞を期待し、それなりの支出をして参戦した御家人たちの財政はひっ迫してしまい、
そこから幕府への諸々の不満が高まったことが、鎌倉幕府体制を傾かせる遠因の一つとなってしまった。

また、日本が他国から大がかりな侵攻を受けたのはこの「元寇」が最初と言ってよく、鎌倉幕府が倒れる遠因となった点も合わせて、日本史に於ける一大事件といえよう。




…というのが一般的なイメージだが、実際のところどうだったかという点については疑問が残る。

というのも、「文永の役において武士達は大元軍を相手になすすべもなかった」というのは「八幡愚童訓」という文献に見られる記述なのだが、
この文献は当時の僧侶の手によるものとされており、実態よりも武士達の戦果を過小に、神風の恩恵(≒自分達の祈祷の成果)を過大に表現している可能性が高い。

実際、先に触れた「『名乗りを挙げて一騎討ち』に拘ってまともに戦えなかった」という逸話についてはこの文献以外に記述がなく、
むしろ大元側の資料や武士達が幕府にあてた文書では「集団同士で混戦状態になっていた」「武士達が夜襲やゲリラ戦を仕掛けた」とされていて、矛盾が生じてしまっている。
そもそも「八幡宮から突如現れた白装束の軍団(=八幡神の化身)が矢を射かけて大船団を追い払ってくれました」なんて眉唾な記述がある時点で創作が混ざっているのは明らかで、
資料としての信憑性はかなり怪しいのだが、なにぶんこれ以外に参照できる資料が少なすぎるため、史実研究においても参考にせざるを得なかったのである。
もっとも武士は武士で報酬欲しさに戦果を盛って伝えていたという可能性も当然あるので、何から何まで僧侶達のフカした出鱈目だったと断ずることもできないのだが。

これらの理由と、鎌倉幕府蒙古軍両軍の士気にかなりの差があったのではないか*1という推察もあって、近年では、
「御家人(鎌倉武士)たちは少なくとも大元軍に『手も足も出なかった』ということはなく、彼らの抵抗に撤退を余儀なくされた大元軍がその帰り道に暴風雨の被害に遭った」
というのが元寇の実態なのではないかとも言われるようになりつつある。

一方、近年(2024年現在)のネットにおいては「鎌倉武士は大元軍以上のバーサーカーぶりを発揮して侵略者達を撃退した」と、
逆に当時の日本側(というか鎌倉武士)の抵抗の強さを過度に強調した言説もしばしば見られるようになっている。
これについては5ちゃんねるなんJ板の所謂「打線スレ」の影響が大きいと言われており、事実「元寇における鎌倉武士のバーサーカーな逸話」について出所を探ってみると打線スレに行き着いた、という話もある。
しかしこれらの逸話はかなり出所の怪しいもので、スレ内では「最新の研究結果」として語られているものの出典の全く示されていないものや、
「ソース」として文献の名前が挙げられているがその文献内に肝心の記載がないものが多数含まれており、なんであれば八幡愚童訓以上に信憑性がない。
以下の折りたたみ内の解説文は当記事の初版に書かれていたものを下敷きとしているが、こういった根拠の明確でない「鎌倉武士バーサーカー説」にかなり強く影響された内容になっているため、
興味のある方はその点に留意したうえで読み進めていただきたい。










〈この事件を題材にした作品〉


近代史以前における外国との戦争というインパクトがあり、かつ分かりやすい事件ということもあってか、
モチーフとして使われた作品もいくつか存在する。ここでは代表的な作品を挙げていく。

Ghost of Tsushima
ゲームを嗜んでいるアニヲタwiki民ならば名前くらいは聞いたことがあるであろう「誉は浜で死にました」の台詞が有名なサッカーパンチ開発のオープンワールドゲーム。
蒙古の襲来を受けた架空の対馬が舞台となっている。
プレイヤーは御家人の一人「境井仁」を操り対馬に攻め入る蒙古軍との死闘に身を投じていき、
やがて幼い頃から培ってきた侍の矜持と自身が信じる正義の間で葛藤を繰り広げる仁の生き様を追体験していく。
あくまで題材にしているだけであり、史実における元寇を再現しているわけではないが、時代考証からグラフィック・ストーリーどれをとっても抜かりのない出来のため、
数あるオープンワールドゲーム・中世日本舞台ゲームの中でも屈指の神ゲーと名高い一品である。

北条時宗(NHK大河ドラマ)
小説家の高橋克彦氏が執筆した原作「時宗」をベースに作られた大河ドラマ。
元寇の立役者の一人である八代執権・北条時宗の生涯を、狂言師の和泉元彌氏が演じている。
時宗が幼少期から父・時頼に多大な期待を寄せられ様々な人々との出会いで少しずつ成長していくのと同時に、
少しずつ心の距離が広がっていく異母兄・時輔との確執の模様が描かれた。
元寇が題材とあって海外の貿易商や役人、クビライを始めとした大元帝国の様子まで映像化されており、
このためだけに中国やモンゴルで海外ロケまで行ったという気合の入った作品となっている。
その甲斐あってか、最高視聴率は21.2%を記録した。

アンゴルモア 元寇合戦記
たかぎ七彦氏による漫画作品。文永の役での対馬の戦いの様子をフィクションを交えて描いている。
二月騒動の罪によって流刑を言い渡され対馬に流れ着いた主人公朽井迅三郎達が、
島の地頭である宗氏と共に迫り来る「アンゴルモア」こと大元大モンゴル帝国を迎え撃つ「アンゴルモア 元寇合戦記」(全10巻)と、
舞台を博多に移した続編「アンゴルモア 元寇合戦記 博多編」が連載されており、2018年夏にはテレビアニメ化もされた。

退魔戦記
豊田有恒氏による小説作品。
文永の役時の「神風」の正体は、モンゴル帝国が世界の覇者となった未来世界で虐げられてきた日本人だったという歴史SF。
豊田氏の他作品『モンゴルの残光』とリンクしており、2作ともに「史実通りの歴史を辿った未来世界からのタイムパトロールの男性」が登場する事から、
彼の名を冠して「ヴィンス・エベレットシリーズ」とも呼ばれる。
ただ単なる歴史改変ものだけでなく、エンディングでは、
「モンゴルが世界を征していたら、史実より技術進歩は早く進んでいたのでは?
という現代社会に対しての疑念も提示されている(『モンゴルの残光』の方に比べると軽めだが)。

HARAKIRI
戦国時代の日本をテーマとしたシミュレーションゲーム。
ゲームがある程度侵攻すると、西日本のどこか(九州とは限らない)にクビライ率いる元軍が上陸してくる。
……いろいろとおかしいが、このゲームは万事がこんな調子である。
専用兵科である元騎馬隊を率いて暴れまわり、防備の弱い勢力を容赦なく蹂躙するゲーム中盤の鬼門。
が、そんな彼らもゲームシステムからは逃れられず、元軍の武将に恥をかかせるとHARAKIRIして果てる。

装甲悪鬼村正-FullMetalDaemon MURAMASA-
一条正宗の記憶を観て元寇の惨禍を目の当たりにする。
人間だった頃の正宗は単なる鍛冶師に過ぎなかったが、蒙古の暴虐を目撃したことで「正義」を求めるようになり、劔冑へとその身を転じた。
登場人物の根幹に関わる重要シーンなのだが、背景画を使いまわしているせいで浜辺にビーチパラソルが突き刺さっているのは語り草となっている。

元寇(軍歌)
明治25年に作られた、弘安の役を題材とした軍歌。
国を守るために戦いに赴く武士たちの姿を勇ましく歌い上げ、最後は神風が大元軍を壊滅させて締め、という内容になっている。
はだしのゲン」でゲンがよく歌っている「おっさーんめしをくれ〜 はらいっぱいめしをくれ〜」というアレは実はこの曲の替え歌だったりする。

東方見文録
元寇と関わりがあるマルコ・ポーロの旅行記「東方見聞録」をテーマにしたファミコン用のアドベンチャーゲーム。
ストーリー展開が最初から最後までぶったまげたバカゲーで、真エンディングはスタッフ公認のサイケデリックな発狂物。

東南アジア大学歴史工学部旅行学科の四回生「東方見 文録(トウホウケン ブンロク)」は卒業論文を書くべく、
開発したタイムマシンで尊敬する偉人マルコ・ポーロが活躍した1275年にタイムスリップし、父ニコロと旅をしていたマルコの前に姿をあらわす。
いきなり出現した文録にニコロはショックで腰を抜かしてリタイアしてしまい、代わりに文録がマルコとともに中国を目指すことに。
……この時点でツッコミ所満載だが、こんなもんはほんの序の口である。
+ 以下、ゲーム終盤ネタバレ
マルコと共に元軍の船でジパング(日本)へ向かう文録だったが、彼は「元軍が日本に上陸するに神風が発生した」と思い込んでいたためいつまで経っても神風が吹かない状況に焦り、日本を救うべくタイムマシンを作動して歴史改変で神風を発生させるという暴挙に出る。
これでタイムマシンが暴走して大規模なタイムパラドックスが発生し、神風は神風でも神風特攻隊が襲来。
襲撃を受けた元軍はあっけなく壊滅し、巻き添えを食らったマルコは帰らぬ人に……。((描写からして機関銃を受けて死亡した模様。グロすぎるので没になったが、銃撃を受けたマルコの頭がバラバラに弾け飛ぶ画像データがROM内に存在する。))

こんな事態を引き起こしながらも、唯一生き残った文録は「日本が助かったのは事実だから自分は無実」と反省の色がゼロだった。
そうして彼は陸地に辿り着いたが、そこは彼が待ち望んでいた日本、もとい黄金の国ジパングではなかった……。

度重なる歴史改変を繰り返した男は、あまりに悲惨な末路を遂げる事になる……。







追記・修正は神風によって

窮地を救われた人にお願いします



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最終更新:2025年03月13日 18:36

*1 長く過酷な船旅の影響や、高麗・南宋等の兵も多くいた混成軍だったことから、大元軍側の士気は元々あまり高くなかったと推察されている

*2 最初の国書が送られた時は北条政村が執権を務めており、時宗は政村の補佐役である連署を務めていたが、国書が送られてから2ヶ月後の3月に政村の後任で時宗が執権に就任し、政村は入れ替わりに連署に就任した。

*3 実際に辿り着いたのは三回程度とされている

*4 新国号の由来は儒教の経典『易経』の「"大"いなるかな、乾"元"」の引用である。クビライ政権の直接統治下にあったのは、モンゴル高原・中華地域を中心とする東部ユーラシアだったため、漢語由来の国号と合わせて、クビライ政権は事実上の「中華王朝」としての側面も持つことになった。そのために、「元」と一字で呼ぶ原則が適用されることになったのである。

*5 ただこの内容の初出は、文永の役終結から数年後に認められた日蓮の書簡であり、即ち「伝聞」である。日蓮は現場に訪れたわけでもないので、伝えられている行為が事実とは全くもって断定できないため、認識には注意を要する。

*6 その威力はフライパン程度なら容易に貫通する程の力を持つ

*7 現代的にいうならばハンドガンが主力の軽装集団が防弾ジャケットを着込みライフル銃を構えた部隊に戦いを挑むようなものである。

*8 もともとの名前は不明

*9 この対応は、クビライに対して「俺らは抵抗するで?」という意思表明の他に、滞在を許して日本を散策されて余計な情報を吹き込まれるのを防ぐためであったともされている。ただ、やはり過激な対応であったことも確かのようで、同時代の日本人では日蓮が批判している。神奈川県藤沢市片瀬にある常立寺には「元使塚」があり、そこには「英雄」の意を示す青い布が巻かれている

*10 病死したとする説もある

*11 先発達が何割か来ていたという話もあるが、本来想定されていた戦力には到底及ぶものではなかった

*12 正確な数は不明だが、のちに編纂された「歴代鎮西要略」によると25万を超える武士が集結したという。尚、同書では大元軍について「幾百万とも知らず」ともあるので、日本軍・大元軍ともに相当に誇張されているのは確かだが、やはり大元軍の方が兵力優位ではあったのだろう。

*13 現代では県道が敷かれ、「海の中道」という愛称で呼ばれている

*14 但し日本側も鎮西奉行の少弍資能が負傷したうえに孫の資時が戦死するなど決して浅くない傷を負っている

*15 被害の大多数は船の作りが脆かった江南軍の船とされており、高麗の造船技術で作られた東路軍の船な被害は軽微だったとされている

*16 こちらも遠征軍を派遣したが状況は芳しくなく、特に1288年の「白藤江の決戦」でベトナムの名将・陳興道による大潮を利用して河口に元艦隊を座礁させる作戦によってベトナム遠征軍も壊滅してしまっている。

*17 この時期を歴史学では北元と呼んでいる。しかしモンゴル帝国自体はその後もモンゴル高原を中心に北部に強大な勢力として存在し続けており、1636年に女真族のホンタイジにモンゴル大カン位の証となる玉璽を渡すまで存続した。

*18 1297年に発布された徳政令は、当時の元号から「永仁の徳政令」と呼ばれる

*19 難を逃れた関係者もおり、特に有名なのは「中先代の乱」の中心人物となった「逃げ上手の若君」こと「北条時行」である。