星野仙一

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星野仙一 - (2017/04/15 (土) 07:11:28) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2010/10/08(金) 02:35:14
更新日:2024/01/09 Tue 16:38:08
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星野仙一は元プロ野球選手、野球指導者、野球解説者、監督である。ポジションは投手。
楽天の監督。
岡山県倉敷市出身。
現在は株式会社楽天野球団取締役副会長。



【現役時代】
14年間の選手生活を中日ドラゴンズ一筋で過ごす。
通算成績は146勝121敗34セーブ。実はセ・リーグ最初のセーブ王である。と同時に沢村賞。

新人の時に巨人に入団する約束を反故にされたことで、
アンチ巨人・打倒巨人を全面に出し闘志をむき出しに投げる「燃える男」のキャラクターで人気を博した。

しかし同じ中日の同僚だった板東英二は、
「闘志あふれる男と言われるがあれは星野の実像ではない。交代も自分から替えてくれと言った方が多いのではないか。ホントは気の小さい男なのだ。」と話しており、
投手コーチだった故・稲尾和久氏も「自分で『代えてくれ』と言ったはずなのにマウンドを降りる時さも悔しそうにグラブを叩きつけた」
「後で問いただすと『わたしは弱気なところを見せられんのです』と弁解した」と作り物のキャラであったと言われている。



【中日監督として】
引退後は二期、合わせて11年間にわたって中日ドラゴンズの監督を務める。

ロッテの落合博満を牛島和彦らとの4対1トレードで獲得するなど大胆な補強を行った。

指導方針は徹底したスパルタと愛情。
指導のためなら鉄拳制裁も行い、情実的・感情的な選手起用も特徴であった。

中でも一番の被害者とされる捕手の中村武志は顔面が変形してマスクをかぶれないほど殴られたという。
あまりの酷さに打席に入った相手チームの打者も、それを見て思わず同情したという話もある。
しかしそれと引き換えにどんなミスをしようと優先的に試合で起用し続け、それに応えるように中村自身も着実に実力を付け、
FAで谷繁が移籍してくるまで中日の不動の捕手であり続けた。要はアメとムチである。

若手投手が打ち込まれると制裁を行うことでも知られる。
主な被害者は川上憲伸や朝倉健太、野口秀樹辺りか。
野口はオープン戦で四球を連発した事で星野の怒りを買い、何と試合中にグラウンドで正座させられていた。

また川上は1999年に消化試合ながら日本シリーズを控えた登板で、序盤から打ち込まれたにも関わらず懲罰目的で交代させて貰えず、7回14失点を記録した。
この甲斐があってなのか違うのか、野口と川上は後に中日を代表するエースに、朝倉も好成績を挙げている。

中日では二度のリーグ優勝を成し遂げ、2001年にBクラス転落とともに「健康上の理由」で退団。涙ながらにグラウンドを去った……


と思いきや



【阪神の監督に】
中日ファンに別れを告げた舌の根も乾かない2001年オフ、なんと阪神タイガースの監督に就任。

前任監督だった野村克也の「今の負け癖のある阪神を立て直せるのは熱血指導の西本さんか星野だ」という推薦もあって実現した。

補強では金本憲、伊良部、久慈、下柳、中村、ウィリアムスらを獲得。
同じくして今岡、赤星ら若手も伸びてきたの事もあり、2003年にリーグ優勝を果たした。

ダメダメダメダメ虎を猛虎に立ち直らせたと、一躍センセーションを巻き起こした。

この年の日本シリーズ前に「健康上の理由」で勇退を表明、阪神SDとなり指導者としては一線を退いた。

中日時代にもこの「健康上の理由」で二度退いている。
中日時代一期目に関してはこれは表向きで、1997年に亡くなった夫人の白血病発症が大きく関係しているとされる。
阪神時代に関しては、星野の患っている高血圧症の持病のためであり、どれも決して適当な事を言って辞めているわけではない。
え? じゃあ中日二期で辞めた健康上の理由はなんだって? それはお察しください。

余談だが、星野のネタとして有名な「わしが育てた」は、このSD時代にトークショーで行った発言である
「大半の(中日の)選手は私が育てたんだもの、力のある連中ばかりだよ」
と言うのが元ネタ。なお星野の一人称は「俺」か「私」であり、「わし」と言う事はない。

【星野JAPAN】
2007年、北京五輪日本代表監督に選ばれる。
SDとしての血が騒いだのか、監督に就任してすぐに『星野JAPAN』を商標登録したとか。

ベストメンバーを揃え、目指すは金メダルのみと騒がれたが、結果は4位に終わりメダルを逃した。

星野は中日、阪神監督時代でもリーグ優勝は何度も成し遂げたが、日本一には一度もなったことはない。
この事から、采配なのかそれともそういう天命なのか「星野は短期決戦では弱い」と決定付けられる一因になった。

にも関わらず2009年のWBC日本代表監督に内定が報じられ、非難が殺到、あえなく就任辞退に追い込まれたという経緯もある。

ちなみに星野本人はやる気満々だったらしいが、
イチローの「最強チームを作ると言いながら現役監督を排除するのはいかがなものか」と言う発言が引導を渡したとか。



【楽天監督就任】
2011年より、ブラウン監督に代わり楽天の新監督に就任した。

いきなり岩村、松井稼らメジャー帰国選手を獲得し、東日本大震災の発生もあって「がんばろう東北」を掲げ、必勝を誓ったが5位に終わる。

前述の二人が特に目立った成績(同じにするのも松井に失礼だが)だったのもあって、
2012年に大きな補強はフェルナンデスの出戻りくらいと財布の紐が固くなってしまった。
そんな事もあってか、デーブをコーチに招聘し最凶タッグを結成。

若手の育成に取り組み、有力選手が呪いにかかったように離脱していく中、
これをカバーするように、投げては美馬釜田らルーキーが、打っては枡田銀次らぶっちゃけクビになりかけだった若手が急成長。
前半戦を2位で折り返す快進撃で、他球団どころか自球団のファンまで仰天させた。

しかし、若手だらけなだけもあって夏場になり急ブレーキ。
一時は8連敗で5位に転落したが終盤までAクラス争いを繰り広げ、最終的には勝率5割の4位でシーズンを終えた。

2013年は、序盤こそ伸び悩むものの5月以降は復調。また、エース田中将大が覚醒し、開幕から24連勝無敗と言うプロ野球記録を樹立。
見事リーグ優勝を成し遂げる。そして、宿敵巨人を倒して悲願の日本一を達成した。

2014年はピッチャー陣が炎上、新外国人ユーキリスも不振で開幕から低空飛行が続き4月終了時にはBクラスへ。
また最下位がかかった(楽天が勝てば埼玉西武ライオンズが35年ぶりの最下位)シーズン最終戦で負けてしまい、最下位が確定。
本人の腰の難病もあり、今シーズン限りでの勇退を表明。

2014年11月9日、楽天のシニアアドバイザー就任。
2015年9月、株式会社楽天野球団取締役副会長に就任。

この項目はワシが追記修正した

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