登録日:2015/03/31 Tue 15:42:53
更新日:2026/04/21 Tue 03:02:50
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仰彼朔風
-北風が吹きつけてくる
用懐魏都
-それは私の中の懐かしさを掻き立てて止まない
願騁代馬
-できるなら風のような駿馬を駆って
倏忽北徂
-今すぐにでも北へ走り出したい
「朔風詩」
曹植 (192-232)
字は子建。しかし後世では封地と諡から「陳思王」あるいは「東阿王」と呼ぶのが一般的。
豫州、沛の人。
なお、名の読み方について、日本では「曹植」と読まれていたこともあった。
【出生】
三国時代の英雄、
曹操の五男。
同母兄弟は自身を含め4人で、上から
曹丕、
曹彰、曹植、曹熊の順となる。
【人物】
幼い頃から文芸に関して際立った才能を示し、十歳になる頃には数十万字に及ぶ典籍を暗誦し、文章を自分で作ることもできたという。
曹操はあまりにその文章が見事なのでゴーストライターの存在を疑ったが、曹植少年は「お疑いならこの場ですぐにでも書いて見せましょうか?」と華やかな啖呵を切る。
曹操が銅雀台を完成させた時、子供達を呼んで賦(詩に近い韻文だが、字数や音韻の制限がずっと自由なもの)を書かせた。
曹植の詩は隔絶して素晴らしく、曹操はその自信が虚構でないことを知る。これにより曹操は、兄弟の中で特に曹植を寵愛するようになった。
【イメージと実際】
現代の曹植のキャラクターイメージは後世に作られた部分がとても大きい。特に兄嫁との悲恋が有名なためか、「線の細い、秘められた情熱の美形ポエマー」のようなイメージが先行している。
しかし実際の曹植は「大雑把で細かいことにはこだわらない」「いつでも心のままに振舞う」「身分に相応しい衣服も着ていない」「身の回りのものが華美でなくても頓着しない」という、
どちらかといえばフリーダムな爆発系芸術家タイプであった。
後には「曹植は
シラミを見つけても歯で噛み潰すほどで、全然気にしなかった」ともされており、李白のような無頼の詩人に近いイメージである。
【経歴】
曹操は戦争に赴くにあたり、未成年の子供達は一緒に連れて行くのが常であった。何しろ敵が多い立場であり、後方に置いていくのがむしろ不安だったのであろう。
曹植もそのような形であちこち連れまわされていたが、成人して23歳になると、ついに一人前のお留守番として後方の守将に任じられることになった。
曹操は自分が23歳だった頃のことを話し、奮起するよう励ましたという。
既に長子である曹丕が正統な太子として周囲に認知されていたが、この時期曹操はそれに反してでも、寵愛する曹植を太子に据えようかと考えていたとされる。
【驚飆接我出-つむじ風に巻き込まれ-「吁嗟篇」】
楊脩や丁兄弟などの側近たちはやる気満々になり、曹植に入れ知恵したり同僚から支持を集めたりして、何とか曹植が太子の座を奪えるように暗躍する。
しかし肝心の曹植自身のフリーダムな人格が全く改まらなかったため、この工作はなかなか身を結ばなかった。
まず曹操から高徳で知られた名士邢顒を付けてもらえたのはいいが、曹植は礼を欠いた態度で彼に失望されてしまった。
この為、後に曹操が臣下に「曹植を太子に代えることの是非」を諮問した時、邢顒自身を含め、臣下の殆どから「あ、無理無理絶対無理」と言わせる結果になってしまう。
それどころか妻の伯父であり、曹植が王位につけば外戚になれる立場の崔琰にすらNGを出されてしまう。
この件で名士達からの支持は大きく失ってしまったといえる。
またある時どういう理由か知らないが、皇帝専用の馬車道を勝手に通行し、門まで開けてしまうという行動に及んだ。
下手すれば族滅されちゃうほどの大不敬罪であり、まして「漢朝の忠臣」という名分の元に権力を握っている曹操にとっては洒落にならん暴挙である。
曹植「行け」
御者「い・・・行けと云われても・・・これでは進めません・・・」
曹植「皇帝専用道路が広いではないか・・・行け」
御者「皇帝専用道路~~?死刑になっちゃいますよォォォ」
曹植「関係ない。行け」
御者「は・・・・・・はいィィィィィィィ」
怒り狂った曹操によって、門の管理官は処刑される。臣下からもダメ出しが続いた挙句のこの不祥事によって、曹植は曹操の寵愛を一気に失い、立太子の件もお流れになってしまった。
曹操は「曹植でさえこんな有様ではもう誰を信じていいのかわからない」とまで嘆いたという。
【浮沈各異勢-各々の行く先は異なるのです-「七哀詩」】
それでも曹操は親としての愛情を捨てきれなかったのか、曹植へ挽回の機会を与えようとする。
219年当時、襄陽で
関羽と戦っていた曹仁への援軍の総指揮官という大役である。
だがその辞令を受け取りに来た時、当の曹植は泥酔しており、命令を受けることもできなかった。曹操はこの任を与えることを断念する。
そして翌年曹操は死に、曹丕が後を継いだ。
即位した曹丕の命令で、側近であった丁兄弟は殺され、曹植に残されたのは、エスカレートした継承闘争の敗者という立場だけであった。
【少年見雀悲-捕らえられた雀に少年は悲しさを覚えた-「野田黄雀行」】
やがて曹丕が帝位につくと、曹植も王に封じられた。
しかし他の兄弟が郡王クラスであるのに対し曹植は県王にとどまり、さらに1年刻みで頻繁に転封されるなど、徹底的にその力を奪う処置がなされた。
曹叡の代になっても、曹丕時代のような徹底的な監視体制こそ廃されたものの、やはり政治的な立場は与えられていない。
曹植は「仕事も無いのに高禄をもらい心苦しい」「一度でいいから私を試してみて欲しい」などと度々上奏したが、曹丕も曹叡もそれを聞き入れることはなく、封地を転転とする生涯であった。
232年12月27日、内臓疾患により病没。享年40歳の若さであったが、同じ母から生まれた兄弟たちの間では最も長生きだった。それが幸運なことであったのかはわからないが。
千仞易陟
-千尋の谷を渡ろう
天阻可越
-天に届く山だって越えていこう
昔我同袍
-かつて同じ寝床にいた兄弟達と
今永乖別
-今は永遠に別れることになってしまったが
「朔風詩」
【本是同根生-同じ根から生まれた豆と枝であるのに-「七歩詩」】
曹植は、兄であり皇位継承を巡る競争相手でもあった曹丕から、一方的にいびられ迫害されていたというイメージが強い。しかしこの印象は、史料の性質を踏まえると必ずしも単純な事実としてそのまま受け取れるものではない。
確かに、曹丕が皇帝として曹植を政治的に冷遇し、その地位や行動を厳しく制限したことは史実として認められている。一方で、兄弟間の個人的な感情や日常的な関係については、史料ごとに記述の性質が大きく異なり、後世の逸話や文学的脚色が多く混ざっている点には注意が必要である。
特に『魏氏春秋』や『魏略』といった正史の補助的な史料、あるいはそれらに基づく注釈、さらに後世の創作や物語的再構成によって、両者の関係はしばしば劇的に描かれている。そのため、実像以上に「残酷な兄と悲劇の弟」という構図が強調されてきた側面がある。
その代表的な逸話として知られるのが「七歩の詩」である。この話では、曹植は曹丕から「七歩歩く間に詩を作れ。できなければ処罰する」と難癖を命じられ、極めて短い時間で即興の詩作を強いられる。
曹植は歩きながら、「煮豆持作羹 漉豉以為汁 萁在釜下燃 豆在釜中泣 本是同根生 相煎何太急」と詠み上げたとされる。
そこでは、豆が煮られて羹となり、豆がらが釜の下で燃やされるという情景を通して、同じ根から生まれたものが互いに傷つけ合う構図が描かれる。そして最後に「本は同根に生まれたのに、どうしてこれほど急いで煮るように追い詰め合うのか」と結ばれ、同じ血を持つ兄弟が争い合うことの痛ましさを象徴的に示したとされる。
この詩は、単なる比喩ではなく、目の前にいる曹丕に対して「私たちは同じ家から生まれた存在ではないか」という形で、処罰を回避するための弁明でありながら、同時に道義的な問いかけにもなっている点が特徴である。
そのため「七歩の詩」は、単なる即興文学の逸話ではなく、兄弟間の権力関係・生存の危機・道徳的説得が一体化した象徴的エピソードとして後世に広く語られることになった。
一方で、曹丕と曹植の関係は完全な断絶ではなく、政治的緊張の中にありながらも手紙のやり取りや詩文の交換が確認されている。少なくとも私的な交流が一切途絶えていたわけではなく、単純な敵対関係として整理することはできない。
結果として、『三国志』に登場する人物関係の中でも、これほど具体的な交流記録が残る兄弟は珍しく、両者の関係は単純な「迫害と被害」という構図ではなく、政治・血縁・感情が絡み合った複雑なものだったと理解される。
【文学者として】
三国志ファンからは単に「三国時代最高の詩人」と呼ばれることも多いが、
実際は詩だけでなく賦や楽府(歌詞)、頌(祝詞)や誄(韻文の弔辞)、銘や議(報告書)など、韻文散文を問わず高い評価を得ている。
「文豪」といった感じが近いか。
父曹操、兄曹丕とあわせ「建安の三曹」と呼ばれるが、曹植はその中でも群を抜いたレベルにあるとされる。
流麗な筆致、力強い動詞、華麗な描写、劇的な構成と、文章におけるセンスの高さは圧倒的であり、後世となっても建安文学の代表者として長く語り継がれることになった。
【創作作品での曹植】
曹植は三国志の人物というより、むしろ文学者としての認識が一般的なので、庶民向けの講談や演劇で形成されてきた武将達とは補正の方向性が異なる。
その背景となったのは荒唐無稽な大立ち回りにwktkする庶民層ではなく、文人として彼を崇める高度教育を受けた
士大夫層であり、補正にもきちんと元ネタを考慮した説得力のあるものが多い。
ベクトルこそ違うとはいえ、その
ageっぷりは関羽や張飛のような有名どころに劣らない・・・どころかそれ以上というべきかもしれない。
例
「曹植が銅雀台で賦を作ったとき、賦に『皇室を援け~』という表現がある」
→「実は曹植は父や兄と違って漢室への忠誠が強かったんだよ!」
→「そのために簒奪をねらっていた父に疎まれて後継者になれなかったんだよ!」
→「つまり能力は素晴らしいのに、忠を貫いたがために後継者になれなかったんだ!」
→「な、なんだってー!」
「馬超との戦いに同行した時、曹丕へ別れの詩を送った記録がある」
→「曹植だってちゃんと従軍してたんだよ!」
→「曹操に従軍できたということは、当然戦場では大活躍だったんだよ!」
→
「つまり文才だけでなく、武将としても抜群の能力の持ち主だったんだ!」
→
「な、なんだってー!」
「楊脩への手紙で『男児の本会は詩文などではなく政治や軍事』と言っている」
→「ちゃんと政治や軍事に対する心構えもあったんだよ!」
→「むしろ政治の才がありすぎたために、危険視されて冷遇されたんだよ!」
→「つまり現実的な政治家としても、間違いなく歴史に残る才能を持っていたんだ!」
→「な、なんだってー!」
と時代が下るにつれこんな感じの超補正がかかっていき、最終的に
歴史に残る伝説的詩人であり、
趙雲並の豪勇な武人であり、
古の聖王達に並ぶ政治家であり、
正しい忠を貫く正義の人であり、
悪辣な父と陰険な兄に迫害された悲劇の人であり、
最低の夫に苦しんでいた兄嫁と愛し合った悲恋の人であり、最後は
仙術も修め仙人になるという
完璧超人と化した。
さすがに盛りすぎたか中世以降はやや落ち着くが、それでも単なる詩人にとどまらないという評価は残り、文人たちはジブリやエヴァの解説本並に痛い深読みした考察を書いたりしている。
演義は基本的に講談・雑劇といった庶民向け創作の系統が発展して出来たものなので、武勲がない曹植はあまり目立たない。
曹丕にいじめられることでその悪役っぷりを引き立てる役割こそ持っているが、活躍シーンと呼べるほどのものはない。
一応赤壁で周瑜が孔明の口車に乗って開戦を決意したとき、曹植が銅雀台で作った「登台賦」が引用されているのだが、
「二喬を側において昼夜分かたずギシアンしたい」という部分は勿論演義の創作であり、本来の賦にはない増加部分である。
高等教育を受けた文芸家の作なので、非常に扱いは良い。
曹彰と並んで「曹家のライトサイド」担当であり、帝位を簒奪しようとした父、それにおもねる兄に反発して出奔するという正義漢となった。
出奔後行方知れずとなっていたが、北方で一人の人物として生存しており、最終的には北方に逃げてきて王となった曹彰と再会。
曹彰は彼を迎えたがったが曹植はこの申し出を退け、君臣の再会だけを済ませてそれぞれの立場で生きていくことになったところで、この物語は終了となる。
演義で地味な人は正史準拠で能力を設定されることが多いが、「詩人」という要素は戦略SLGでは表現しにくいのか、知政と魅力が高めな「そこそこ優秀な文官」という程度の扱い。
無論詩人という要素がシステム上再現できる場合は最優先で割り振られている。
一年おきに漢詩大会が開催される7では隠しデータで「詩聖」の能力を持ち、最高得点付近を必ずキープできる。この詩聖能力は父・曹操や当時著名な文人たちも持っているが、曹植はなぜか知力90もあるためまず間違いなく毎回優勝する。たまに出場者ではなく審査員に抜擢されている場合があり、その時は他の武将たちに優勝の可能性が出てくる。
各武将に個性的な特技が設定された11では「詩想」といういかにもな特技を持つ。
モブ。普段だと悪役担当のお兄ちゃんの方が先に
イケメンで脱モブしている上、武人どころか軍師ですらないので、かなり参戦のハードルは高そう。
才気爆発タイプとフレーバーテキストにあるが、イラストは線の細い
イケメン。
何故かアイドルにもなった。
追記・修正は古籍数十万語を暗誦しながらお願いします
- 無双だとなぜ馬岱の武器をこいつに持たせて無双武将化しなかった…と思った -- 名無しさん (2015-03-31 17:56:06)
- 蒼天航路だとかなり扱い良かったな。文の天才で兄とも仲良く不倫もする。 -- 名無しさん (2015-03-31 20:52:17)
- 悲劇の才能といえば聞こえはいいが、結局自業自得の部分もあるわけか。大概後世では負の部分は黙殺され綺麗な部分だけ残る。 -- 名無しさん (2015-03-31 21:29:46)
- 自業自得な部分も多いよなコイツ -- 名無しさん (2015-03-31 22:03:53)
- あら、反三国志の最後は間違えて覚えてたか・・・修正してくれたひとサンクス -- 名無しさん (2015-03-31 23:11:09)
- そもそも別に悲劇でも何でもないような。 -- 名無しさん (2015-04-01 01:34:27)
- 兄貴の曹丕が文学を不朽の盛事と言っていたのとは対照的に男児たるもの武芸で名を上げる事が本望と言っていたりする -- 名無しさん (2015-04-01 09:15:30)
- ↑ 文学的才能がある人って自分の能力を「誰もが持ってて当然の素養」みたいなスタンスだからな。そもそも鍛えて何とかなる能力じゃないし -- 名無しさん (2015-04-01 19:47:35)
- 政治家への指向があったのは事実だが、正直本人に政治的センスはなさすぎる。泥酔事件はともかく、司馬門事件は若さ故の過ちで片付けられるレベルではない。責任のある地位が与えられなかったのも当然といえば当然なんだよなあ -- 名無しさん (2015-04-03 10:25:04)
- まあ殺されなかっただけ良かったなとしかw普通権力闘争に敗れたやつは闇に葬られるもんだ -- 名無しさん (2015-04-03 10:52:33)
- なんだか、この人自身に後継ぎになる野心あったのかなぁ。周りが担ぎ上げてただけにしか見えない。政治的な実績もないし。 -- 名無しさん (2015-06-03 20:27:08)
- 曹植系男子ってまんがもあったな -- 名無しさん (2016-12-04 17:17:41)
- ↑2 良くも悪くも欲がなかったのかもね。他人が努力して得られるものは才能で出来ちゃった感があるし -- 名無しさん (2017-03-23 14:30:38)
- 後継者になったら甘い汁吸えるはずの妻方の親戚にまで「後継者にするのはやめとけ」扱いされるって本当に何やらかしたのこの人……。いや、「皇帝の権威を穢すような真似をした」だけでも十分だとは分からなくもないけど……。 -- 名無しさん (2017-06-17 16:38:50)
- 三人が得意分野あるが故に劣る部分がコンプレックスになっていたのかな。 -- 名無しさん (2019-08-31 01:26:01)
- 曹操と敵対した崔エンにすら「御輿にする価値ない」って見限られたのは相当だぞw -- 名無しさん (2023-02-03 14:00:57)
- 大酒飲みでやらかして部下や兄弟に迷惑かけていたというエピソードがあるそうで、後の跡目争いにも響いたとか。 -- 名無しさん (2023-03-16 20:01:00)
最終更新:2026年04月21日 03:02