曹操

登録日:2017/03/21 Tue 21:48:13
更新日:2022/02/07 Mon 16:37:30
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曹操(そう-そう)(155-220)
字は孟徳。後世では一般的に諡から魏武魏武帝と呼ばれる。
豫州、沛の人。


【出生】

後漢後期の155年、後漢王朝で大長秋(宦官侍中としての最高位)まで上り詰めた宦官曹騰の孫として生まれる。幼名は阿瞞。

その祖先は漢王朝の祖、劉邦に仕えた重臣曹参と夏候嬰にさかのぼる*1というのは有名だが、実は直系ではなくかなり埋もれた末端の家系。
というか実質的には祖父曹騰の代で官界に表れたといってよく、当時としてはかなり新興の家系である。

当時、宦官というのは「親からもらった身体を傷つけ、子孫を残して祖先の祭祀を続けることを拒む、人間以下の存在」として非常に卑しめられた存在であった。
曹騰は出世しても身を慎み、多くの人材を公平に推挙することで反感を和らげようとしたが、それにもやはり限界はあった。
その養子となった曹嵩、さらにその子である曹操もこの蔑視から逃れることは出来ず、「宦官の孫」としてのレッテルと生涯戦い続けることになる。

「富裕な家庭」「高祖から続く漢の名族出身」「三公に登った官僚の息子」といった点から誤解しがちだが、曹操は当時の感覚では素直に「名門のおぼっちゃま」とはいえない家系の出なんである。

とはいえども彼の時代における漢の政治といえば、乱れきっていてもはやほとんど終わっていた状態であり、
後述する彼の来歴から見ても分かるように、どれだけの名門であろうが財力や兵数といった即物的なもの以外はあまり信用できず、ちょっとしたかけ間違えで容易く崩壊する脆いものになっていた*2
そのため曹操自身の才覚と運もあり、成り上がるのに十分以上な土台が既に形成されていた。これが三国志で主人公になり辛い要因な気もする


【幼少時代】

と書いてチンピラと読んだ時代。

若い頃の曹操は任侠を気取って遊びまわり、親戚が注意しても聞かなかった。ニートではない!遊び人である!
有名な「後のライバル袁紹とタッグで花嫁泥棒」の逸話はこの頃であるが、信憑性はかなり怪しい。

当然世間からは単なる遊蕩児という評判だったが、曹操と会った名士達の中にはそのただならぬ才能を高く評価した者も多い。
特に許劭「治世の能臣、乱世の姦雄」という評価は、後の曹操の代表的な評価となる。

【官僚時代】

役人界の甲子園投手的ホープ時代。

175年、時は汚職政治の極みにあった霊帝期。
19歳(数え年で20歳)になって官職についた曹操は、チンピラ時代と一転し、法に厳正で容赦を知らないきれいな曹操になって評価を高めた。
黄巾の乱でも朝廷の若き将軍の一人として武勲をあげ、後に霊帝が新設した近衛軍「西園軍」にも最高指揮官の一人として抜擢されている。
と、三公にまで登った父曹嵩の威光もあって、官僚として順風満帆で出世していくが、
既に漢王朝体制は末期的症状にあり、その腐敗と混乱は留まるところを知らなかった。

189年に霊帝が崩御し、時代の主役は董卓へと移る。
董卓は宮廷の若きホープである曹操をも召しだそうとするが、曹操は仮病を使って故郷へトンズラを決め込んだ。
無論董卓の誘いを断った以上、ただ待っていてもお礼参りは確実であり、曹操は自分の財力で兵を集め、自らの軍事力を作り出してこれに対抗することにした。
無論これは純粋なる私兵、つまり私的な軍事行動であり、官僚としての正当行為ではない。

つまりこの時こそ、曹操が官僚としての朝廷秩序を離れ、群雄としての第一歩を踏み出した瞬間であった。

10年以上の官僚生活を経た後の189年冬、曹操34歳のことである。


【群雄時代】

波乱万丈の激動期にして絶頂期。不屈の精神と知性で天下へ飛翔した時代。

やがて董卓に反発した諸侯たちによって、反董卓戦争が始まる。
曹操も当然これに参戦するが、既に朝廷の権威喪失によってパパの地位は当てにならなくなっており、
味方には進言を却下されるわ、自分で出撃すれば徐栄にボコボコにされ死にかけるわで全くいいとこなしであった。

このため董卓死後の群雄割拠時代になると曹操勢力は一時的に衰退してしまうが、袁紹の支援を受けてしぶとく立ち直る。
当時袁紹は南の袁術、北の公孫瓚との関係が悪化しつつあり、両面作戦を避けるため曹操が南の防波堤となってくれることを期待していたのである。

袁紹の期待通り、曹操はたちまち南の袁術・呂布劉表陶謙らに充分対抗できる勢力に成長する。
だが曹操の勢いはそれだけにとどまらず、30万の黄巾残党を吸収したことを皮切りに、呂布を打倒したり、張繍を降伏させたりとさらに勢力を拡大していった。
袁紹は当初これに連携し周囲の敵に当たっていたが、次第にその戦力の強大化を脅威とみなすようになっていき、両者の関係は冷え込んでいった。

190年代も後半になると、両者の緊張状態はかなりの危険域に達していた。
ここで曹操は袁紹に対抗するため、混迷の続く首都長安から脱出していた献帝を保護。その庇護者となり、漢朝の正当性を武器にすることに成功する。
が、当然この件で袁紹との関係はさらに悪化し、また両者共通の敵であった公孫瓚・袁術が共に滅んだ今、決裂は避けられない状況となっていた。

そして200年、官渡一帯でついに両者は激突する。
曹操は四州に勢力を拡大したとはいえ、勢力圏のうち多くが戦禍から立ち直り切っていなかったり豪族たちが様子見に回ったりしていたため地力で劣っていた。
それでも戦力を巧みに運用し緒戦を制するが、兵力・兵站力の差で徐々に押し切られて防戦一方になり、ついには内部崩壊の兆しさえ見えるほどの大苦戦となった。
さすがの曹操も「もう帰ったほうがよくない?出直した方がよくない?」と弱気になるが、後方の管理を一任されていた荀彧からの激励で立ち直る。
そして打ち続く苦戦の中、敵将許攸の投降という僥倖を得ると、その情報を元に軍師荀攸に作戦を立てさせ、即座に袁紹軍の物資集積地点を強襲したのである。
しかも曹操自らが部隊を直接率いてという、まさに全力の一撃であった。

文字通り一か八かの一手だったが、袁紹側の判断ミスもあって作戦は見事成功。
集積した兵糧の大半を喪失した袁紹軍は撤退せざるを得なくなり、曹操はぎりぎりながらも一応の戦勝の形を得ることに成功した。

一方、敗れたとはいえ依然優勢な勢力を維持していた袁紹であったが、数年後に袁紹自身が死ぬと事態が急変する。
袁紹が死後の展望についてはっきりとした態度を示していなかったこともあり、その息子たちが愉快な逆噴射を始めたのである
曹操は謀臣郭嘉の言を容れてこの抗争に介入し、兄弟を争わせてついには袁家勢力を滅ぼすことに成功する。

ここに至り曹操は群雄たちの中で最大版図を達成。帝をも擁する一強勢力となり、事実上の中原の覇者としての地位を確立したのである。

207年、天を蓋わんばかりの威勢を示した曹操は52歳の絶頂期であった。

【赤壁時代】

慢心か?衰えか?あるいは天意か?大きな転換期となった時代。

曹操はその後も手を緩めることなく平定を進め、208年には併合した劉表勢力の水軍を主力に、江南を制すべく南征を決行。
これについては性急すぎると謀臣たちからの反対も強かったが、基本的に決断的、悪く言えばせっかちな曹操は構わず強行する。

しかし孫ファミリーの若きドンこと孫権はこれに屈せず、陣営内の怠り無い意思統一の後に徹底抗戦の意を示した。
孫権の元に江南の諸氏は一体となって戦意を高め、最終的に曹操率いる大軍は赤壁において名将周瑜が率いる孫権軍に完敗してしまうことになった。
曹操軍の被害の規模については諸説ある。
史書では「疫病が流行った」「曹軍の軍船が燃やされた」くらいしか書いておらず、
燃えたのも曹軍が撤退に当たって自ら燃やしたと言う記述もあったりして記述がブレブレなのだ。
が、当面の南征を諦めざるを得ないほどの損害だったのは間違いなく、つまり戦略レベルではまぎれもない大敗だった。

無論大打撃を受けたといっても一軍のことであり、曹操勢力全体にとっては致命的な傷ではなかったので以後も各国からは強大な国として立ちはだかり続ける。
しかしこの戦いで出来立ての水軍を殆ど喪失してしまった影響もまた大きく、以後曹操は孫権に対しては防戦一方の状況が続く。
結果論ではあるが、曹操一代による覇業は、事実上ここで頓挫してしまったといっていいだろう。


【三国鼎立】

生き急ぐかのような晩年。どんどん密度が濃くなる時代。

南下を諦めた曹操は西に目を向け、漢中の張魯、西涼の馬超などを相次いで攻略し、順調にその版図を広げていった。

しかし赤壁での壊滅的大敗はいかんともしがたく、手薄になった南方では孫権が勢いづき調子こいていた。
さらにその隙をついて流浪の身だった劉備も荊州に根を張り、さらには蜀をぶんどって一大勢力を築き上げてしまう。

そして蜀の地で力を蓄えた劉備は218年、曹操の支配下であった漢中の地に出征。
その勢いは凄まじく、曹操側は歴戦の宿将である征西将軍夏侯淵までも討ち取られる。
その後長安にいた曹操も漢中に着陣したが、既に要害を押さえて堅守する劉備軍を崩すことはできず、数ヶ月の小競り合いの後に撤退。

この敗北によって、孫権に続き劉備もまた曹操に対抗できる勢力を築き上げたことが天下に示された。
ここに至り中原の曹操江南の孫権蜀の劉備という形は完成し、文字通りの三国志の時代が到来したのである。

219年、曹操は64歳になっていた。


【崩】

「天下はいまだ定まらず、礼に則った葬儀や派手な副葬品は必要ない。軍人も役人も、みな持ち場を離れず仕事に精励せよ」

劉備勢力は勢いに乗ってその後も攻勢を強めていたが、三者係争の地であった荊州の領有権を巡り、同盟関係であった孫権勢力との関係が急激に悪化。
この隙をついて曹操は孫権からの降伏を受け入れ、魏へと侵攻中であった関羽軍の後背を襲わせてこれを撃退した。

これによって劉備勢力はその怒涛の勢いを決定的に弱められたものの、三国鼎立のバランスを崩すにはいたらず、
以後中国では40年以上に渡って三国が抗争する状況が続くことになった。

220年3月15日、洛陽で死去。享年65歳。



【子供達】


曹昂
曹操がヨソで人妻に手を出したせいで戦死してしまった長男。
養母であった正室にブチ切れられ、ひたすらごめんなさいしても許されず、離婚される始末となった。
曹操にとってこの一連の顛末は非常に堪えたらしく、死の間際になっても曹昂と正室へ懺悔する一言を残している。

曹丕
長男と思われがちだが、実は3男。陰湿な人格や二度に渡る戦争の失敗などで批判の多い魏朝初代皇帝。
控えめにいっても可愛くない子供代表みたいな人格なので両親からはけっこう嫌われており、他の兄弟にあるような親子間のほっこり逸話は皆無。
しかし愛されてはいなくとも信用はされており、曹操の元で重職を歴任して確かな手腕を示した。
また史上初めての成功例にして、以後の模範となった帝位禅譲の達成と新王朝の樹立、
迅速な災害対応や暫進的な経済政策、各種法制度改革など、皇帝としても決して悪い方ではない。
曹丕が基礎を築いた貴族制は以後600年に渡って存続し、著書で顕した「文章経国」の思想は文化大革命まで中華思想の根底を成すなど、
歴史的な意義はある意味父親より大きい。

曹彰
兵士の反乱時に67人切りを達成したという父の武勇を受け継いだ、脳筋4男。
勉強?べんきょうってなんだ?的な体育会系のノリと素直な性格を父に愛されたが、立場上その武勇を発揮する機会はあまりなかった。

曹植
英雄詩の体現者である父の詩想を受け継いだポエマー5男。
「豆を煮るに豆萁(まめがら)を燃やす」の語源。
偉大な文学者で、後世の宮廷サロンでは父をも越える有名人。
本人の希望はむしろ政治・軍事方面にあったようだが、そっちの才能は(主に人格面の問題で)哀しいほどに皆無で、
父の寵愛にも関わらず後継者の座を逸し、不遇の後半生を過ごした。

曹熊
早世したクマー。と言っても子供はいたが、こっちもあっけなく断絶。

曹沖
愛され7男。幼い頃から聡明で心優しく、パパの寵愛をめいっぱいに受けて、曹操は上を5人もすっ飛ばして後継者にしようという意向さえみせたが、12歳で早世。

曹節
献帝に嫁いだ、何女かわからんのだけど曹丕よりは年下の娘。
政略結婚にも関わらず夫には忠実で、兄の簒奪時に抵抗して逸話を残す。王莽の簒奪時の逸話を流用しただけ?そ、そんなことないし


推定50人以上の子供がいるので、他は省略。
一般的な曹操のイメージと違い、曹操は子供が多いだけでなく、子供達との逸話も非常に多く、基本的に「家族への愛情が深いタイプ」である。
まあ本人より部下のの方が悲しいと言われた曹昂、人格をえぐるようなハラスメントを受けた曹丕などの例を見ると、愛憎が深いといったほうがより正確かもしれない。


【人物】


正史には
 「文武両道」
 「常に書物を手放さなかった」
 「華美を好まず、服も粗末なものを用いた」
 「戦利品や恩賞も惜しみなく分け与えた」
 「信賞必罰を厳守していた」
などという君主の定型age表現も並んでいるが、一方で
 「人柄は軽はずみでフリーダム、音楽や芸人が大好き」
 「人と話すときはジョークを絶やさない」
 「ノリノリでヘドバンして食卓の皿に頭を突っ込んだことがある」
などといったファンキーなおっさん像も描写されている。

後者の話は出典が限りなく怪しい(曹瞞伝)という理由で捏造扱いされることもあるが、曹操自身「酒最高!宴会最高!」というはっちゃけた詩を詠んでいるし、捏造というより、要素を誇張したといったほうが正しそうである。
こういった二つの極端な人格描写は、どちらかが正しくどちらかが間違っているというようなものではなく、
その両方を持っていたのが曹操という人物であり、彼の人格的な魅力でもあったのではなかろうか。

【人事】


よく言われる「人材マニア」の呼び名の通り、人材の収集には非常に熱心だった。
「才能あるものであれば、例え悪人や身分の低い人間であろうとも厚く遇する」という趣旨の“求賢令”は非常に有名で、
後漢朝が人材登用に当たって重視した“孝廉(親孝行などの優れた道徳性)”の真逆を行く大胆な布告であったとされる。
だがあまり効果が無かったらしくやっぱり考廉を重視して連れてくるため、「陳平とかだって人格面はイマイチだったろ?とにかく才能ある奴をどんどん集めて来い」「他の偉人だってみんな考廉だとダメだったろうが!!いいから才能ある奴は全員一人残らず俺んとこに連れて来るんだよ!!」と三度も布告を出している。

しかし才能有る者は厚く遇するが、才能のない者は虫ケラ同然…といったフリーザ様的な人材運用に終始していたというわけでもない。
実際、当時の主な人材層であった「名士」達は、一般的な傾向として禰衡のように人物評価や徳行を専らとして実務を軽んじる面が強く、
名声は高くとも世俗的な才能を持っていない者も相当多かったのである。
しかしこういう人達も曹操の元で冷遇されたということはなく、その究極系である孔融のような人間もきちんと遇されていた。
曹操は単に人を集めるのが好きだっただけではなく、人の使い道を見つけることにも優れる、寛大かつ懐の広いリーダーでもあった。

例えば官渡における曹操だが、前述の通り大苦戦の上にかろうじて逆転勝利を収めた後、袁紹の陣地で大量の文書を発見した。
それはなんと、曹操の部下達から袁紹に送られた、内応を約束する手紙だった。
しかし曹操はこれを一瞥しただけで、差出人などを調べることもせず、まとめて焼き捨てることを命じた。
「私自身勝利を疑っていたのだから、部下達はなおさらだろう」と言い、この件を一切不問に附すことを宣言したのである。カッケェ。

ただこの寛容な人材登用姿勢の影には、曹操自身の卑しい出自からの引け目があったことも否定はできない。
何か隙があれば「そうか、そうか、つまりきみは宦官の孫なんだな」といわれてしまう在○認定のようなレッテルが曹操には常に付きまとっており、人材を冷遇することで自身に悪評が立つのを慎重に避けねばならない、ということでもあったのだろう。

そしてその姿勢のため、到底自分と相容れないような人材までも迎えてしまい、かえって害になってしまった例もまた多い。
三国鼎立の張本人となった劉備などはその究極系であり、曹操の名声を後世まで落とすことになった孔融も然り。
結果論でいうなら、司馬懿もまさしく害になったと言えるだろう。

しかし優秀な人材というのは、つまるところ「自分の判断で動ける人材」ということである。
優秀な人物の活用と言うのは、優秀であるからこそ常に危険がつき物なのであり、
そういう弊害を承知しながらも尚人材登用にこだわった曹操様だからこそ魅力があるというものであろう。

また、曹操の身内に有力武将が多かったことも見逃せない。
張遼をも上回る名将と評価された従兄弟の曹仁や、官渡決戦で本陣を守り袁紹軍の攻撃を防ぎ切った曹洪。
他にも曹仁の弟曹純や夏侯惇・夏侯淵と言った名将たちが軒並み曹操旗揚げ時から付き従っていた親族であった。
更にその後も、曹真や曹彰、曹休、夏侯尚といった名将が次々身内に生まれている。
勢力が大きくなっていくと、相対的なトップの権力が低下し、統率力の喪失から果ては乗っ取りと言う事態を招きやすい。
組織を大きくしつつ主導権を失わないためにはトップが自前戦力を準備し、どんな人材が来ようと「トップには逆らえない」と言う体制を作っておく必要があるのだ。
曹操の親族は裏切りや投降もなく*3、彼らが曹操陣営内において「曹操自身の権力」を確立していたと思われる。
だからこそ、害になりかねない人材も「いざとなれば自力で抑える」ことを前提に吸収できたともいえるのだ。
そして後に曹爽がやらかして曹一族の権力がなくなった結果魏は司馬氏に乗っ取られることとなる

【英雄好色】

ピンク色な方面でも曹操様の覇者っぷりは有名。
若き日の人妻略奪から始まり、女のせいで息子と忠臣が死んでしまったり、息子が略奪した女をうらやましがったりとそのエピソードも豊富。

単純な数値としても、32歳の時に生まれた曹丕の後、死ぬまでの33年間の間にさらに22人の男子をもうけている。
数が不明な女子を含めればその倍ぐらい行くだろうから、実に年間1.3人のハイペース子作りである。
外にあっては遠征、内にあっては崩壊した宮廷機構の再生と、死ぬほど忙しい生涯を送ったのは間違いないのだが……

もちろん女好きとはいえ単にハーレム厨だっただけではなく、女性という存在を大切にする漢でもあった。
曹操は臨終時、公的な布告としては、↑のように質実剛健でかっこいい乱世の君主っぷりを示しているのだが、子供達に残したプライベートな遺言では
「俺の奥さんや愛人達は、墓に毎日お参りにこさせてね?あと一月に2回は彼女たちに墓で踊ってもらってね?あ、勿論お前らも来ていいよ。時々ね?」
という本音丸出しの素敵なメッセージを残している。

しかしその後には
「俺の女たちの面倒はちゃんとお前らが見るように。宮廷で生活していけない者は、内職で稼げるようにしてあげるように。あとお香も彼女たちで分け合わせてちょーだい」
と現実的で細やかな心遣いも続いているのだ。気配りも出来る漢なのである(ちなみに曹丕は遺言どおり曹操の女達をそのまま宮廷に留めた結果、母親にキレられている)


【詩人として】

稀にファンからは「漢詩の創始者であり、三国志随一の詩人」とまでいわれることがあるが、これはちょっと正確ではない。
曹操が愛した漢詩は“楽府”という歌うことを前提にした詩であり、すでに前漢の時代には成立していた古典形式である。
「形式的な旧詩の世界を打破し、志や憂憤や苦難を詠った新しい詩の世界を作った」ともされるが、
そういう方向性の歌も既に在野の士大夫層の中に存在しており、曹操のオリジナルと言うわけでもない。
曹操は単にその愛好者であり、一作者兼有力保護者であったにすぎない。

また純粋に詩自体の相対的評価としても、建安文学の詩人たちの中ではそれほど優れているわけではない。
随所に出てくる豊富な文学的知識はともかく、その使い方や根本的なセンス、また構成や修辞などという点でも、息子たちにもやや劣るという見方が一般的である。

しかし曹操の詩の魅力はそういう歴史的な意義や技巧的な点ではなく「この詩を詠んだのが曹操という人物であること」自体にあると言えよう。
考えても見て欲しい。義務教育など考え方すらなかった時代、彼のように元々は武力で成り上がった者が、
まるで畑違いのことに対して「詩っていいよな、音楽っていいよなぁ」と興味を示し、自ら努力して作ろうとするだけでも凄いことなんである*4*5

例えば曹操は短歌行という詩を作っている。曹操の詩の中でも代表的なものの一つだが、なんとこれ宴会ソングである。
「人生とかどうでもいいよ!酒最高!宴会最高!お前ら最高!」というはっちゃけた詩であるが、
生涯を覇業で明け暮れ、戦争であらゆる苦難を体験し、様々な人間に支えられ裏切られ、乱世に消えた多くの命を見てきた曹操が、
どのような気持ちでこの詩を詠んだのか。
そんな曹操の人生自体を背景に考えることで、初めてその詩の真価が表れると言えるだろう。

つまりある意味で曹操の詩は「英雄詩」そのものであり、そういう面から評価をすれば中国史上、いや人類史上屈指の詩人といっても過言ではない。

【軍人として】

数多の戦場で陣頭指揮を取り、そして勝利を収めてきた曹操は、歴史学者からは後漢~三国時代における代表的な用兵家とされている。

その戦略・戦術的な特徴としては、何より積極果敢、かつ能動的であるという点が挙げられるだろう。
「兵は拙速を聞くも未だ巧久を見ず」「afferrare la fortuna per i capelli(幸運の女神は前髪しかない)」など、
戦争において積極的に主導権を掌握することの重要性は古今東西強調されているが、真に実践できる将帥は決して多くない。
その戦歴を見ても、曹操は常に自分から積極的に動いていくことで勝利をつかみ取っており、
この戦争の大原則を(実戦経験に裏付けられる形で)熟知していたと言えるだろう。
もっとも、こうした積極性は不用意と紙一重でもあり、曹操自身も前線に不用意に出過ぎて死にかけたことが何度もある。夏侯淵のことを思慮が浅いとか言えたクチじゃないよ!
こういった積極性と、それを成功に結びつける実力か強運がなければ群雄の中で抜きんでた存在になることは不可能だったのが当時の乱世であった。

また文筆家でもあった曹操は、孫子六韜などの兵法書に自ら注釈を入れて部下に配っていた。
曹操が注釈した孫子(孟徳新書とか魏武注孫子とか呼ばれる)は現代にも残っている*6が、そこには
「軍の用語や編成制度」
「軍勢に対する必要物資の量と、兵站線の構築方法」
「奇襲、及び予備戦力の重要性」
「速度の重要性」
などが極めて実戦に即した形で具体的に書かれており、曹操がこれを部下に対する軍事教育的な目的で編纂したことは明らかである。
テキストを編んで部下に軍事的教育を施す将軍、というのは世界史的に見てもかなり珍しく、近代以降の将校養成に通じる先進的なやり方ともいえるだろう。
組織的な、個々の将官任せでない将校・参謀養成が現実に行われるようになったのは、なんと19世紀のドイツまで待たなければならなかったのである。

【その他のエピソード】

陳寿の正史『三国志』は、正確さを重視する余り、人物にまつわるエピソードの紹介などは殆ど省かれてしまった。
この欠点を補うために陳寿の死から三百年後の南北朝時代、南朝「宋」の官僚である裴松之は、骨組みとしての正史の記述に「血肉」としての注を付けることにした。
この云わば裴松之版『三国志』こそ『三国志演義』の原型であり、現在我々が『三国志』としてイメージするモノである。
裴松之は陳寿が採用しなかったものも含め、史料の良否はあまり気にせず取り入れているため、信憑性に関しては怪しいものも多いが、当時の人々が曹操をどのように捉えていたかが分かるだろう。

  • エピソード1
ある時、曹操が賊を討伐する途中で兵糧が不足した。そこで曹操は担当官(姓名不詳)に対策を尋ねると、「枡を小さくして(規定に)足らせましょう」と答え、曹操はそれを採用した。ところが軍中で、曹操が兵士達を騙していると噂が立った。そこで曹操は担当官に「君に死んでもらい衆をなだめたい。さもなくば解決しないのだ」といって斬首した。担当官は梟首とされ、「小さな枡を使って糧食を盗んだので、軍門に斬った」と示した。

  • エピソード2
曹操は、若いころ放藻無頼の生活を送っていた。子供に甘い父親の曹嵩はこれを叱ろうともしない。ただ、叔父のひとりが、たびたび曹嵩に注意していた。これをうるさく思った曹操は、ある日、道でその叔父に出会ったとき、一計を案じ出会い頭に昏倒した。これに驚いた叔父は慌てて介抱し気を取り戻した曹操にどうしたのかと訊ねると曹操は「私にはどうも癲癇の気があるようです」と答えた。
叔父からこの話を聞いた曹嵩がびっくりして曹操を呼び寄せ「叔父さんはお前が癲癇を起こしたというのだが、もう治ったのか?」といった。それに対して曹操は笑って「この通り、わたくしは問題はありません。叔父上はわたくしのことを嫌っておいでですから、あることないことなど出任せをいって、お父上を困らせたのでしょう」といった。
それ以来、曹嵩は弟が曹操のことを報告しても、一切信用しなくなった。

  • エピソード3
霊帝の時代、後漢の政治は宦官によって牛耳られており、中でも中常侍の張譲は、その権勢を利用して私利私欲をむさぼり、政治の乱れの元凶ともいうべき人物だった。
若き日の曹操は、後漢王朝の政治の乱れを正そうとする志を持っていた。それゆえ、張譲をはじめとする宦官の横暴に対し、腹にすえかねるものがあった。
ある日、張譲の横暴に義憤を感じた曹操は、張譲を殺そうと張譲邸に侵入したものの、すぐに張譲に気づかれてしまう。
邸宅の使用人が、侵入者を捕らえんと向かってくるが、曹操は庭で戟を振り回し、並外れた武技でもって敵を寄せつけず、ついには土塀を乗り越えて、逃走に成功した。

  • エピソード4
当時、曹操の父親である曹嵩は、董卓によって引き起こされた戦乱を逃れるために徐州へ疎開していた。
ところがある時、曹嵩が徐州の兵に殺される事件が起こる。
父親が殺されたのを知った曹操は怒りに震え、復讐のため徐州に侵攻。
徐州に侵攻した曹操の軍勢は兵士だけでなく住民も虐殺し、史料には、「十五の県城を陥落させ、数十万の住民を殺した。泗水の流れは無数に浮かぶ死体のために淀み、無人の都市が残された」と記されている。
この徐州での大虐殺は、曹操 = 大悪党、というイメージを定着させ、曹操の悪評を高めることとなった。


【創作作品における曹操】


学術上の観点から言っても、曹操は毀誉褒貶の激しさという点では屈指の存在であり、評価が全く安定しない
「徳」が君主としての最優先事項ではなくなった近代以降は全体的に高くなってくるが、
それでも個人としての能力や歴史的意義も含め、安定した結論は出ていないといえる。

よって創作作品における曹操もまた多種多様な存在であり、作り手や受け手によって様々な顔を見せる。

『民間創作』

説話から始まって雑劇・講談に及ぶ民間創作レベルでは、非常にわかりやすい極悪非道な悪の親玉である。

しかしこれは「劉備や張飛たち正義サイドの敵=悪」という感じで、実際の曹操の要素が殆ど入っていない単純な悪役であることが殆ど。
せいぜい「簒奪者」という属性が残っているぐらいか。
よって業績や人間関係もかなり適当であり、息子の代を待たずに自分で簒奪しちゃったり、酷い時は夏侯惇や夏侯淵が曹操の兄弟になってたりもする。

また中国には「説曹操、曹操就到(曹操の話をするとすぐ曹操が来る)」という諺がある。
「噂をすれば影」というような意味だが、これは三国演劇における「登場人物が曹操に対する謀反を協議する」→「舞台ソデで曹操が聞いている」→「話は聞いたぞ!と殴りこんでくる」という定番描写から生まれたものである。
無論こんな逸話は曹操にはないが、そういうタイプのキャラだとされているということである。

民間における三国志創作の歴史は非常に長いが、時代に応じてキャラクター性を微妙に変化させてきた主人公サイド(蜀)の武将たちと異なり、
曹操のキャラクターは黎明期からほとんど変化がない。
そういう意味では実は作中でもかなり希少な存在である。


『三国志演義』系統

庶民向けの民間創作の流れを、士大夫層知識人が編集・再構成して生まれたのが三国志演義である。
よって正史における曹操の要素が入り込んだことで、大きく立場が向上している。
相変わらず悪役であることには変わりはないが、冷静で強大な覇者としての側面も表れ、単なる悪党からラスボスにランクアップしたような感じ。

ただしこの「ヒールとしての曹操」は庶民にはわかりにくかったのか、時代を下って版が新しくなるに従い、単に悪人としての点が強調されていくようになる。
特に中国・日本を含むアジア全域で「三国志演義」として流通している毛宗崗系本では、この点が顕著。
逆に、古い日本三国志ファンになじみ深い「吉川三国志」は、
明末の李卓吾系版→日本江戸時代の「通俗三国志演義」→「吉川版」というルートをたどっているため、まだヒールとしての曹操がかなり魅力的な形で残っている。


『三国志(横山光輝)』


ジャーン ジャーン ジャーン

「げえっ 関羽」

関羽の伏兵に驚く場面ばかりが強調される劉備のライバル
アニメ版のCVは松本保典氏。

蒼天航路

現代日本の曹操様再評価ムーブメントを生んだ作品。
三国志ブーム以前の94年に始まった先駆的な作品であり、現代創作の曹操像に大きな影響を与えている。
基本的に演義の展開を踏襲せず、正史を元に別タイプに脚色した新しいタイプの作品であり、
主人公の曹操は政治や軍事、文学や哲学などあらゆる分野に興味と才能を示す異才として描かれている。
「ならばよし!」


園田三国志

「こやつめ!ハハハ」
「ハハハ」


『コーエー三国志』

主役級の一人……というか孔明、呂布と並んで主役そのものであり、
性能・周辺イベント・台詞・モデリングなど、あらゆる面において最高級に優遇されている。

性能面ではやや控えめの武力(統率と武力が別れている場合)以外全ての数値が最高レベルで、能力値合計はほぼ全てのタイトルで1位の座を譲らない
パラメータ以外の補正や技能なども強力で、11の特技「虚実」などはもはやチートレベル。

顔は割りと度々変わっており、実はシリーズ初期では「よく言ってスリムな董卓」系の悪人面だった。
7あたりから無双チックなラスボス風にデザインが固定されるが、なんだか野望の信長とかぶってきたという意見も……


『三國無双』シリーズ

「覇道を行く者」}がキャッチコピー。誰だサリーちゃんのパパっていったやつは
CVは格ゲー時代から一貫して岸野幸正氏が担当している。
原型的には悪役サイドのボスとして作られたキャラであったが、3ぐらいから「全キャラがヒーローサイド」的な方針になったことで、大物感を強調したキャラになった。
近年では正史要素も入ってきたことで、より多角的な英雄になってきた感がある。二喬のために赤壁ってた時代は黒歴史。

演義の「ヒールとしての曹操」をさらにヒロイックに突き詰めたようなキャラで、正史系統の創作とはまた別のラスボス然とした魅力に溢れており、ファンも多い。
この度無双キャラの「上司にしたい武将人気投票」で当然のように一位に輝いた。
「それ以上言うな袁紹、お前の漢が軽くなる」

『白井式三国志』

極めて有能な人物であるが、スケベロリコンのため嫁さんにはフルボッコにされた挙句逃げられた。離婚後は家族思いの良いパパになっている。阪神ファン。
かなりワガママな性格で、献帝に対してはやたら扱いが酷い。
部下からはあまり慕われておらず、造反者を探るためにデスノート(玩具)を城に置いておいたところ、全ページにあらゆる筆跡・字体でビッシリ「曹操」と書かれていた。

『一騎当千』

作中最強勢力である許昌学院の頭。ワイルドな風貌のイケメン。
孫策以上に凶暴な竜を持っているため、普段は飄々とした態度を装っているが、実はとても仲間思いな熱い男。
義経との戦いで両目を潰されるが心眼に覚醒する。

BB戦士三国伝


恋姫†夢想

真名は華琳。金髪でドリルツインテール
けっこう年配(アニメ版の描写を見る限り20代半ばくらいは確実にある)のはずだが、小柄でスリムボディ。
文武に優れ、料理なども手広く熟せる完璧超人だが、ドSかつ男性に性的な意味で興味がない百合キャラ(実際はバイ)という強烈な個性も持つ。
自他共に厳しい性格で、普段は情け深く家臣に接しているが、失敗した者を容赦なく罰することも。また、『真』では主に主人公に対してツンデレぶりを見せる。
人気ランキングでも常にトップを争う、恋姫シリーズの顔の一人。
特に『真』の魏ルートラストの彼女と主人公の一連のやり取りは、恋姫史上屈指の名シーンとも称えられる。
演義で「ハアハア…関羽ハアハア…」だったのを拡大解釈して、アニメでは夜伽を迫ろうとしていた。

『十三支演義』

まぎれもなく本作のメインヒーローの一人。
頭が切れ、目的の為ならば手段を択ばない冷徹な美青年。
演義で「ハアハア…関羽ハアハア…」だったのを拡大解釈して、バッドエンドだと猫耳関羽ちゃんを妊娠させる。

おそ松さん

第二期の「三国志さん」にて登場。赤壁直前に単騎で負傷していたところをおそ松たちに助けられる。
位置的に荊州北部あたりで「松」の国を作って独立していた六つ子をスカウトして呉と戦わせた。
天寿を全うした後は地獄に落ちていたらしく、突然の事故で死んだ六つ子を蘇らせるため、地獄のを相手に戦っていた。
ちなみにCVは横山三国志と同じ松本保典氏。


「記事に対しては当に追記:修正すべし、人生幾何ぞ」

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最終更新:2022年02月07日 16:37

*1 曹操の父親はもと夏候姓だった。その後、宦官であった曹騰の養子となり、曹姓を継いだ。

*2 これは後のライバルでありかなり位の低かった劉備がどんどん成り上がっていけた理由の一つでもあり、『義』が尊ばれた理由の一つでもある。

*3 曹洪は後に曹丕に嫌われて庶民に落とされているが、他陣営に走ったりせず曹叡の代に赦免されて高官についている

*4 とはいえ、先述の通り曹操は宦官曹騰の孫であるので、詩や音楽をまるっきり知らなかったとは考えにくい。

*5 皇帝の身の回りの世話を主な仕事とする宦官は、機嫌を取るためにも、そういう教養も備えていたほうがいいからだ。曹騰が詩や音楽を学んでおり、孫の曹操にも学ばせていたというのは充分に考えられることである。

*6 ただし実際に曹操の作なのかについては異論もある