馬超

登録日:2009/10/21 Wed 02:48:26
更新日:2020/03/15 Sun 23:21:21
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馬超、字は孟起。諡は威侯。扶風郡茂陵県の人。
生年は176年、没年は222年。


【出自】

後漢の開祖・光武帝に仕えた名将である馬援の子孫で、馬騰の息子。
弟には馬休、馬鉄。従兄弟には馬岱がいる。

妻は楊氏。彼女は馬超が冀城を追われたときに処刑された。
また、董氏という寵姫もいたが、彼女は馬超が張魯を裏切った際に漢中に置き捨てられ、のち漢中を制圧した曹操により閻圃に下賜された。
馬超は董氏との間に馬秋という子を設けていたが、彼も董氏とともに置き去りにされたあげく張魯に処刑された。

幸い、もう一人の息子として馬承(母親は不明)が生き延びており、馬超死後にその地位を継いだが、彼はそれ以外の記述が一切なく詳細不明。
他に娘がおり、劉備の息子の安平王・劉理に嫁いだ。


馬援の一族は嘘か真か、春秋戦国時代の趙国の名宰相・趙奢の子孫を名乗っている。
孫堅が孫子の子孫だと言い張るぐらいのヨタ話ではあるが、少なくとも馬騰が馬援の子孫だというのは事実らしく、後漢王朝ではかなりの名門である。
その馬援も馬氏の始祖ではなく、前漢の武帝のころまでは確実にさかのぼれる家系であり、その子孫である馬超はまさに漢王朝の古流名門だといえる。

もっとも、その先祖は武帝に反乱を起こしたために馬氏を名乗れなくなったとか、そもそも異民族だったとかあり、純粋なエリート名門とはいいがたい点もあった。
馬騰もチベット系異民族・羌族との混血である。
それゆえ彼らは中央政府にも縁の深い名門にして、異民族とも顔が利く豪族という二つの側面を持ち、西北の辺境においては想像以上の声望と実力を持っていた。

その馬一族の長男が、馬超である。


【史実の馬超】

・経歴

馬超は先祖伝来の名声と実力に加えて、少年時代から武術も突出して高く、勇名も馳せていた。
しかし196年、馬騰と紛争を起こした韓遂配下の閻行との一騎打ちに敗れて矛で突き刺され、さらに折れた矛で絞め殺されそうになったという。
閻行がハンパなく強かったのか、当時の馬超が弱かったのかは定かではない。

202年、曹操袁紹決戦していた時期には、曹操配下の張既と傅幹の説得に応じた馬騰の指示で司隷校尉・鐘ヨウに従軍し、亡き袁紹の甥・高幹とその配下の郭援らの討伐に参戦。
馬超は負傷しながらも傷をその場で応急処置しつつ奮戦し、ついに高幹軍を大破。部下のホウ徳が郭援を打ち取り、討伐に成功した。

その後徐州刺史や諫議大夫に任ぜられ(ただしいずれも赴任はしていない。実際に徐州を収めたのはかつて呂布と組んでいた臧霸)、
208年に張既の説得により父親が入朝すると、馬超も扁将軍・都亭侯となり父親の軍を引き継いだ


・曹操への反抗

しかし211年、馬超は父や弟たちを抱えているはずの曹操に対して反旗を翻した
この頃曹操は西方へと矛先を向けており、さしあたって韓遂や張魯を仮想敵とみなし、先遣隊として夏侯淵などを派遣していた。
馬超は、このついでに自分たちも滅ぼされると警戒心を抱いていたようだ*1
また、一説には馬超は庶子だったらしく、さらに馬騰は鄴に赴くにあたって嫡子を連れて行ったという。
馬超にとっては、馬騰と嫡子を曹操に殺させ、涼州軍閥を完全に我が手に収めたかったのかもしれない。もちろん馬超の内心などは不明だが……

とにかく、涼州の馬氏軍閥を率いて反乱した馬超は、父親の義兄弟である韓遂*2、及び独立勢力であった楊秋、侯選、程銀(曹操に降伏グループ)、李堪、張横、梁興、馬玩(良くわからんけど死んだんじゃね?グループ)や羌族などの異民族と連合し、兵力十万と呼称する大軍勢で黄河の支流・潼水に布陣する。
これが俗に言う「潼関の戦い」である。

これに対して、曹操はまず曹仁を派遣し、七月には自らも軍を率いて討伐に赴いた。

曹操は潼関を迂回しようとしたが、その動きを察知した馬超は万を超える軍勢で猛烈な奇襲を敢行
渡河途中で兵が分断されていた曹操軍を突破し、曹操をもう少しの所まで討ち取れるというところまで迫った。
あまりの苛烈な攻撃に、曹操をして「あのガキが死なないと、俺は葬られる場所もないな」と呻くほど。
しかし、曹操の誇る最強の親衛隊・許褚の奮戦と、さらに校尉の丁斐が飼っていた牛馬を放って戦場を混乱させたため、ついに曹操を取り逃がしてしまう。
やがて曹操軍も疑兵や伏兵で馬超らの矛先を鈍らせ、次第に戦況は膠着。
設けられた会談の場で曹操を殺そうとするも許チョに阻まれ、最後は賈クの離間の計により陣中が疑心暗鬼に陥った所を突かれ、大敗
馬超は西へ羌族を頼り逃走した。

その後、入朝していた父親の馬騰、弟の休・鉄、それに韓遂の子供たちが責任を取らされ処刑されている。


流浪の貴公子

大敗して自前の勢力さえほとんど失った馬超だったが、彼の先祖代々の声望はいまだ健在であり、羌族の支援を受けて立ち直った。
そして212年、漢中の張魯からも援軍を迎え入れた彼は、再起した戦力で曹操軍を攻撃
涼州刺史の韋康を降伏の約束を反故にして殺害、冀城を根拠に据えて夏侯淵を撃退するなどして勢力を盛り返すが、
惨殺した韋康の元部下の楊阜たちの謀略を感づけずに惨敗。冀城を追われたばかりか妻の楊氏、その子供たちも処刑された。
やむなく張魯を頼り兵を借りて失地回復を狙ったが、趙昂とその妻王異の奮然を破れず、曹操の援軍が来た為に撤退。

張魯は馬超が来たことを喜んだものの、今までの所業があまりにもアレだったために悪名ばかりが知れ渡っており、幹部たちにも馬超を嫌うものが大勢いた。
結局、居場所がなくなった馬超は214年、家族や部下を置き去りにして出奔し、益州攻略中であった劉備の軍門に降る
劉備がその馬超が降ったとの知らせを聞くと「私は益州を手に入れたぞ!」と喜んだ。
このことは当時の馬超の勇名が依然として西方に響いていたことを物語っており、劉璋が劉備に降伏する直接のきっかけもこの報告であったという。
程なくして西平将軍・都亭侯に任ぜられる。


・劉備配下として

劉備軍の麾下ではトップクラスの名門であり、漢朝からの地位も高く、西方世界での知名度も抜群だったため、劉備陣営での評価はかなり高かった。
しかしこの頃の馬超はなんかもういろいろと尾羽打ち枯らしていたのか、往年のような大暴れは見せなくなる。
218年の漢中攻略では張飛とともに下弁方面の陽動作戦に参加するが、麾下の呉蘭と雷銅を討ち取られるだけに終わり、
その後は彭羕の叛意を密告したぐらいしか活躍がない。


219年に劉備が漢中王を自称すると左将軍となる。
実は、劉備に漢中王就任を進めた群臣たちの名簿には馬超が筆頭になっており、どうやら群臣たちの中でも立場は一等抜けたものがあったらしい。

そして劉備が皇帝を自称する221年には驃騎将軍涼州牧斄(たい)郷侯となる。
驃騎将軍は大将軍に次ぐほどの階級であり、軍人としてはこれ以上ないほどの名誉であった。

が、その翌年222年に47歳で死去。地位は(名前がわかる限りは)次男の馬承が継いだ。
死去する直前には「臣の一門宗族二百人余りは孟徳にあらかた誅殺されてしまい、ただ従弟馬岱だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を継承させてください。深く陛下にお託しいたし、もう申し上げることはございません」と上奏してもいる。
息子の馬承がいるのに、なぜか馬岱を推していることについては、馬承が劉備に投降してからの子であり、当時はまだ幼児だったからと推察される。馬超は張魯のもとを抜けるときに家族を置き去りにしているので、馬承はそのあとに生まれた可能性はある。


260年、威侯と諡される。


【評価】

錦馬や五虎大将というのは演義の創作だが、実際の史書や各人物の評価でもそれに値する武名を誇った、と言われている。
袁紹との決戦に勝利してからの曹操が、命の危機まで追い詰められたのは馬超ぐらいのものといっていい。
因縁のある楊阜は、かつて劉邦の時代に活躍した韓信や黥布をたとえに出していたし、陳寿も関羽張飛と並べている。

さらには羌族や氐(てい)族などの異民族にも慕われており、それが彼が幾度となく再起できた理由でもある。
包囲されながらも頑強に抵抗していた劉璋を、ついに劉備に降伏させたのも彼の存在ゆえであった。
いつのころかは不明だが、その娘を皇族の劉理に嫁がせたことからしても、その名声は外戚に選ばれるほどのものがあったようだ。


しかし、その勇猛さと引き換えに人間性はかなり悪い
当時の人間からも「親には背き主君にも叛逆し、人々を虐殺するとんでもない奴」「あんなのに仕えていたら州の士大夫の皆が恥を被る」「親を愛せない人間が、人を愛すると思いますか?」と散々に言われる始末。

そしてそれを裏付けるように、彼の行動はやたらと謀反・裏切り・騙し討ちが多く、離間にも引っかかりやすい。
そのたびに一族が巻き添えを食って一斉虐殺されるのだからたまったものではない(本人は曹操のせいだとといってるが原因は自分)。
張魯のもとから抜け出すときなどは、これまで艱難を共にしてきたはずのホウ徳さえ見捨てて一人で逃げている。


『山陽公載記』では、劉備からの待遇が良かったからと調子に乗り「玄徳、玄徳」と呼んだ為に関羽張飛がキレて馬超を殺そうとした、とある。
当時関羽は荊州の守備についており、馬超とは顔も合わせた事が無い為に、これはほぼ創作であろう*3
裴松之からも「いくら馬超がアレでも、さすがにそれは無い」と断言しているほど。
しかし問題は「馬超ならそれぐらいの非常識はやりそうだ」と見られていたことだろう。

そんな彼だが、良くも悪くも濃いキャラクター性からか人気は高く、三国志を題材とした作品では主役の場合があったりと出番に恵まれている。


【三国演義の馬超】

正史では「馬超が反乱→馬騰らの処刑」という時系列だが、演義では「馬騰らが曹操に処刑される→激怒した馬超が反旗を翻す」というように順番が逆になっていて、
馬超の真意はわからないが、親兄弟を見捨てて私利にて曹操に抗ったとも取れる正史より、馬超と後に仕える劉備の善玉、曹操の悪玉としての印象が強くなっている。

さらに潼関の戦いでは、曹操を追い詰めるにあたって、兵たちが「紅い袍を着たのが曹操だ!」と叫び、曹操が紅袍を脱ぎ捨てると「ひげが長いのが曹操だ!」と叫び、
ついに曹操がひげを小刀で切ると、今度は「ひげの短いのが曹操だ!」と声が響く、という小気味のいい場面がある。
あまりの強さに、演義では「錦馬超」「カムイ神威天将軍」などイカした二つ名がつけられ、それはラストの五虎大将で完成する。
さらに劉備投降前には、夜逃げ同然の史実とは違い、張魯の兵を借りてまずは劉璋の援軍として劉備軍と戦い、張飛との華々しい一騎打ちを見せ、錦馬の名に相応しい武勇を見せつける。
それ以前には許褚とも馬や槍の方が先に力尽きるほどの激闘を展開しており、曹操をしてかつての強敵・呂布を思わせるほど。


ところが、甥っ子のように可愛がってくれる韓遂を相手の言葉も聞かずに疑って韓遂配下から毛嫌いされたり、
韋康を裏切って殺したあげくにその元幕僚たちから恨まれたり、反馬超の強硬派だった楊阜を「忠義と気骨の士だから」とかばったらその彼に容赦なく駆逐されたりといった、
正史準拠の暴走ぶりにポンコツ要素まで加わって、ますますどうしようもないことになっている。
その上、冀城包囲のあたりは正史そのままの残虐さを披露するため、特に価値観の違う現代日本では馬超の評価はなかなか難儀なことになっている。
呂布とは脳ミソまで似ていたということか……
そして、劉備に帰参してからは正史同様、ロクに活躍しなくなる。

何気に寿命が少し延長されているが、司馬懿の五方面からの遠征のうち、異民族からの侵略コースに配置して牽制するというだけの役割で、本人の活躍などは一切なし。
その後は気が付いたら病死しているという描写で、五虎大将としてはおそらく最低の扱い。

ちなみに演義では彼の容姿について『顔色は冠の白玉の如く、眼は流星の如く、体躯は虎で肘は猿、腹は彪で腰は狼』(原文ほぼ直訳)と語られている。
言うまでもないが「この姿のままだった」という意味ではない。もしそうなら妖怪変化の類になってしまう。
対象の人となりを表すために猛獣や霊獣で例える、というのは古来からある中国人流の表現である。
例えば始皇帝は「史記」にて「鼻は蜂のようで目は切れ長、胸は鷲、声は山犬」などと表現されたが、当たり前だが彼は由緒正しい人間であり、「人相の例え」に過ぎない。もちろん史記も由緒正しい史書である。
むしろ、こうしたところから中国らしいユニークな表現方法や感性が見れる、と考えるべきだろう。三国演義は中国人の感性から生み出されたものなのだから。


各作品での馬超


  • 横山三国志
演義と流れは同じだが、降るようにと説得に来た李恢の言葉に「むむむ……」と悩み、李恢に「何がむむむだ!」と一喝される、という屈指の名(迷?)シーンがある。
ちなみに亡くなったシーンでは兜を脱いでいるため、馬超と書かなければ誰が亡くなったか分からない。

「我が叛気!我が義憤よ!」
許チョの例えでは『鷹』。
此方は正史に近い流れですすむが、潼関での敗戦は曹操軍の圧倒的な力に破れている。
その際に戦友であった馬玩を失い心身喪失状態になり、敗戦を続けてさまよい、劉備の所にたどり着きその徳に触れて心の支えを得、続く漢中攻略で大活躍をする。
余談ではあるが、三国志大戦にてレジェンド枠で蜀軍として参戦したのだが、
台詞がほとんど潼関の戦いでのものである上、撤退の台詞が、誰にやられようと「曹 操ーーー!」であるために、一部でネタにされていた。
ちなみにCVは無双シリーズと同じ人。
台詞から火縄銃の存在を知っていると思われる。

  • 真・三国無双シリーズ
とにかく正義(成宜ではない)がどーたらこうたら五月蝿く、とにかく暑苦しく、いつも一人でハイテンションでクライマックスな性格のキャラになっている。
結構出番が多くある意味では馬超を一番有名にさせたシリーズ。無双OROCHI2では主人公の一人に抜擢されている。
槍を地面に刺してくるくる。空中でもくるくる。攻撃の速度が速く、扱いやすい。見た目の割に攻撃範囲は狭い。
2ではユニーク武器の性能が終わってて(猛将伝で追加された5武器までカス)弱キャラだったが、3以降は馬に乗ったら化ける。
というか馬に乗ってからが本領というかもはや鬼畜の強さ。公式バグとまで言われる始末。
絶影鐙+羌族角+白虎牙+活丹+真空書はほぼデフォ。
5から武器が大剣になったが、6でまた槍に戻った。
無双乱舞が分身し四方死角から相手を蹴倒すというちょっと正義の味方っぽくない姑息な技に変更された。
「我が槍の唸りを聞けぇ!!」
中の人は某バラエティ番組で「あれを見てみろ!」と言う外国人の吹き替えを務めていたりする。

  • 三国戦記
初代では上半身裸でいかにも主人公っぽい感じの風貌だったが、他よりリーチが短い・攻撃ヒット時の獲得点が低い・拾えるアイテムが少ないなどぶっちぎりの弱キャラだった
(ただし、超必殺技の獣咬のロマン性能と孔明以外に唯一魔法剣が装備できる点は中々)
しかし続編の2では、新技や計略が追加されて大分強化された、もちろんロマン技の獣咬も健在
新・三国戦紀では参戦しなかったが、3で再びプレイアブルキャラに返り咲く……が、今までの戦紀とは違い武器が斧になり、ひたすらに「ソーヤァ!」するだけで敵の体力を奪い去るパワータイプのキャラクターに変貌してしまった。


  • STOP!劉備くん
アホの子。

  • SWEET三国志
なんというか空気。蜀取りの際に味方になるが、次の出番は夷陵で丸焦げ。

  • 一騎当千
今の所漫画では読み切りのみ登場。
アニメのXXでは実質もう一人の主役。ボクっ娘。

  • 恋姫†無双シリーズ
大食漢。眉毛。ポニテ。おもらしキャラ。
でも可愛い。
アニメ版では眉毛が薄くなった。

  • 三国志魂
怪獣
上述の演義の容姿をそのまま再現したらそりゃこうなるわな…

  • 三国志大戦
旧版
蜀では自身への敵からの計略効果を受けなくする効果を持つ一騎当千、
速度上昇+武力上昇+突撃威力を大幅に上げる白銀の獅子、の2枚が蜀版の代名詞となる。
大戦2時代には川原正敏氏の描く槍馬超も追加されていたが、すぐに排出停止となってしまった。
先述の蒼天航路コラボは白銀の獅子のコンパチとなって排出されている。
群雄は蜀版の白銀の獅子を全員に掛ける全軍突撃、範囲内の敵に武力差のダメージを与える錦馬超の閃光、が存在する。

第二版
当然続投となる。
蜀の馬超はどれもSRで兵種アクションを強化するものとなっており、
2.5コスの馬と槍が1枚ずつ、3コストの馬が1枚と非常に優遇されている。
その割を食って、というか蜀の有名武将SRは殆ど劉備は仕方ないにしても趙雲・馬超・姜維が大半を占めており、
決して人気がないわけではなく、スペックも良好なのだが関羽や張飛が蜀のSRで出てこれていないのを受けて
「また馬超か…」と蜀使いにはため息をつかれることもしばしば。
大戦2より復刻した横山馬超はこちらの白銀の獅子にて登場する。

群雄にも複数枚存在し、走っている最中はずっと武力が上がり続ける錦馬超の叛撃、大戦3からの復刻である全軍突撃、
「アニゲラ!ディドゥーーン!!」とのコラボカードである穿突の神速行が存在。
復刻した蒼天航路コラボは大戦3と同じイラストでこちらの叛撃馬超が適用された。
まあ、蒼天馬超は劉備に降ってからは殆ど出番なかったし、本来ならこっちが居場所といってもいいだろう。

ちなみに旧、第二版ともに馬超の娘が参戦している。
正史・演義ともに記述がほとんどない中父親の影響を受けて武闘派にされており、
登録名はその名も「馬姫」と書いて「バキ」と読む。

  • 三国志(北方謙三)
蜀に仕えるが病死を偽り、山中に隠棲。
袁術の娘を娶って一子を授かる。
本編の最後を締める。

  • 反三国志
妹が趙雲と結婚し趙雲とは義兄弟に山田やジョコプターを倒す。華きんを丸焼き塩味で食べた。

  • 三極姫
珍しく蜀ではなく群雄勢力として扱われており、女武将として登場。
スキルが使えるのとタイプが騎馬な為、中々高い性能を持っている。
ちなみにホウ徳も同じく群雄勢力だが馬岱は蜀の武将として扱われている。
気性が激しいが一途な性格をしている。

演者はブルーディスティニー1号機。第三部『戦神決闘編』の主人公。
設定は演義寄りだが、残虐さやポンコツぶりは全てカットされて主人公らしい熱血漢になった。
ブチ切れると目が赤くなって暴走する
ちなみに親父の馬騰が(何故か)3号機、従兄弟の馬岱が2号機、親友のホウ徳がイフリート改と関係者は全員ブルーディスティニー組が割り当てられている。
映画版では幼少期の姿で登場。ショタ可愛い。


・余談

「曹操が、草になって馬に食われるを見て占い師に尋ねたら
『「曹」(草と同音)が「馬」に滅ぼされることの現れ』と言われ
馬親子の討伐を決意する」
という民間伝承があるらしい。
  • 勿論孫の代に 「曹」奐 司「馬」炎 に禅譲させられることを踏まえた伝承である。


追記・修正は獅子頭の兜に獣面模様の帯、白銀の鎧に白い袍を装備してどうぞ。


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