趙雲

登録日:2017/04/09 Sun 12:46:57
更新日:2024/04/08 Mon 14:09:33
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(ちょう)(うん)(?-229)とは、三国時代の人物。
字は子龍。
冀州、常山の人。


【常山】

出身は冀州常山の真定、今で言うと河北省の省都のあたり。
若い頃に地元で郡の役人として推挙され、お隣の公孫瓚の元に配属されて重用された。
しかしこの地元というのが結構曲者で、常山は当時大盗賊集団「黒山賊」の支配下にあったのである。
そしてそのボスである張燕が朝廷から人材の推挙権を与えられていたので、実は趙雲には「もしかして山賊の出身なの?」という黒い疑惑がある*1別に前歴が怪しい人は劉備配下には珍しくもないけど。

191年になると、公孫瓚の下にいた劉備が徐州の陶謙への援軍に送られることになり、趙雲もその配下につけられて劉備から主騎(親衛隊長)に任じられた。
その後兄の喪に服するという理由で一旦劉備の下を離れるが、200年になると当時袁紹の客将だった劉備の下にはせ参じ、再びその部下となった。


【長坂】

次に趙雲の行動がわかるのはどーんと飛んで208年。そう、趙雲の代名詞とも言うべき「長坂の戦い」である。

詳しい過程は省くが、この時の劉備は自身を慕う民衆を引き連れて曹操軍から逃げている最中だった。
しかし曹操軍の追撃によって軍も民もあっという間に散り散りになり、劉備は妻や子を放り出して自分と側近達だけで逃走を試みていた。
このため趙雲は捨てられた子(劉禅)と劉備夫人(甘夫人)を回収し、自ら護衛して無事劉備の下に送り届けたのである。劉備めっちゃ気まずかったんじゃないかな


【荊州・益州平定】

赤壁の戦いの後、南荊州に落ち着いた劉備は孫権と曹操が争っている隙に、曹操側についていた南荊州四郡を次々と攻略する
趙雲もこの戦いに参加し、戦後は4郡のうちの一つ、桂陽の太守に任じられている。
この時、趙雲は降伏した元太守である趙範に「兄の未亡人の樊氏は超美人なんですけど、娶りませんか?」と言われたが、「同姓不婚*2の律に背きます」と断っている。
また趙雲が拒否したのは道徳問題ばかりではなく、「趙範という人物はいつ裏切るかわからない人だ」という判断があったからだという。そして後にその予測は的中し、趙範は出奔してしまっている。それ趙雲との関係が嫁取りの一件で気まずくなったからじゃないの?

その後劉備はなんやかんやあって益州へ侵攻するが、趙雲は最初張飛同様に荊州の留守を任されていた。
しかし益州での戦闘が手詰まりになると結局呼び出されることになり、諸葛亮張飛劉封らと共に劉備の本隊とは別ルートで侵攻している。


【VS孫尚香】

劉備は赤壁の後、同盟関係を結んだ孫権のを妻にしていた。
さてこの孫夫人(孫尚香)、劉備とは創作でこそロミジュリ風に脚色される相思相愛の仲だが、実際はそんな美しい話では全然なかった
孫夫人は嫁入りに際し武装させた多くの侍女、さらに自前の兵士まで持ち込んでおり、実質的に彼らによって劉備の奥向きは制圧されたも同然になっていた。
劉備は「寝室に入る度に命の危険を感じていた」とされるほどで、諸葛亮に至っては「北には曹操南には孫権、そして身内には孫夫人の脅威」とまで断言する始末。
まあぶっちゃけて言うと、孫夫人は嫁の形で送り込まれてきた工作員も同様だったのである。

劉備はこれに対抗するため、趙雲に奥向きのことを取り締まらせる。
言うなれば趙雲は将軍と兼任で劉備家の執事もやらされることになったわけだが、真面目な趙雲は見事にこの役を果たす。
後に孫夫人が嫡子劉禅をさらって呉に戻ろうとした時も、張飛と共にこれを阻止し、無事劉禅を取り戻している。


【一身之胆】

荊・益二州の支配者となった劉備は、次なる目標として魏に制圧されていた北の要地、漢中を目指した。「漢中の戦い」である。
翊軍将軍になっていた趙雲は、この戦いでもの凄い活躍をしている。

劉備軍が敵将夏侯淵を討ち取って定軍山を制圧した後、そこに堅固な陣を築き着陣した曹操の本隊と対峙していた頃のこと。
敵の兵糧ルートを分捕りにいった黄忠が戻らないのを心配した趙雲は、数十騎を連れて探しに出たのだが、途中で曹操が率いる大部隊と遭遇戦になってしまうのである。
趙雲は退却しながらもこれと戦い、逆に曹操を敗走させてしまったのだが、間もなく曹操は兵を立て直し追撃をかけてきた。
しかし陣地に帰り着いた趙雲は門を開けて旗や兵士も隠してしまい、完全なウェルカム状態にしてしまった。
すると曹操はこの無防備すぎる陣地を見て逆に「あわてるなこれは孔明の罠だ」状態になってしまい、伏兵を恐れて引き返してしまう。
これを見た趙雲は、その背後に猛烈な射撃を加えてこれを壊走させ、多数の兵を川に追い落として倒した。

翌日に劉備はこのことを知り、「趙雲は全身肝っ玉*3でできてんな!」と称賛した。
そしてこの圧倒的な武勇のため、以降趙雲は「虎威将軍」とあだ名されるようになったという。


【夷陵】

219年、荊州から北上中だった関羽は呉の裏切りによって殺されてしまう。
劉備はこの怨みを忘れず機会をうかがい続け、221年、ついに呉を撃つべく軍を荊州へ進めた。夷陵の戦いである。

趙雲はこの戦いの前に「漢を簒奪した国賊は曹丕であって、孫権ではありません。魏を倒せば呉は放っておいても降伏してくるはずですし、今は魏との戦いに専念すべきです」と劉備を諫めたが、聞き入れられなかった。
このため趙雲は夷陵の戦いではお留守番役になったが、劉備が敗戦して戻ってくると彼を助けに迎え出ている。


【北伐】

その後劉備は失意のまま没し、後を継いで劉禅が即位した。二度も自身の命を救ってくれた趙雲に対し、劉禅は鎮東将軍の階級を送っている。

228年に諸葛亮が最初の北伐を起こすと、趙雲は主力部隊のための陽動として北伐の最重要拠点・漢中と、山脈を挟んだ魏の拠点郿城をつなぐ隘路である斜谷道を侵攻する。
魏にとって郿城は長安を守る最大の盾であり、また蜀漢の北伐に対応するための最重要拠点*4でもある。
当然魏としては絶対に失う訳にはいかない拠点であり、魏軍総大将である曹真は郿城を固めざるを得なくなった。
趙雲はその任務であった陽動を見事成功させたのである。

しかし敵将は魏軍が誇る歴戦の指揮官にして「配下の士気の高さは魏軍一」と謳われた大将軍曹真であり、そうそう上手く運ぶはずもない。
趙雲軍と曹真軍は「箕谷」という場所で激突するのだが、趙雲はこの戦いに敗北してしまったのだった

第1次北伐と言えば例の登山家の敗北ばかりが取りざたされるが、実は蜀軍で負けていたのは彼だけではない。
西の涼州に送った軍は魏の漢興太守游楚によって撃退され、肝心の諸葛亮の本隊も、戦域中央の祁山を攻めあぐねていた*5
そして北では言うまでもなく馬謖張コウに完敗したし、趙雲もまた箕谷で曹真に敗れた。つまり全戦線で負けていたのである

しかしこれらの敗北の中で、一番危険なのは間違いなく趙雲軍のそれだった。
他戦線は負けたところで撤退すれば済むが、趙雲の背後には蜀軍の根拠地にして生命線、漢中があるのだ。

だが趙雲はこの危機にもひるまず、自ら最後尾の部隊を率いて整然たる後退戦をやってのける。
古来撤退戦は戦場で最も難しい戦闘とされているが、この趙雲の冷静な指揮によって軍は統制を失うことなく後退に成功し、置き捨てられがちな戦闘物資もきっちり持ち帰ることができた。
おまけに帰りには桟道*6を焼き払って敵の追撃を封じるというそつのなさで、いまや蜀漢内でも最古参の将軍となった趙雲の面目躍如であった

ちなみにここで負けたことが趙雲の評価を下げるかというとそうでもない。
趙雲率いる軍隊は距離数千キロ、高低差2000~3500メートルの秦嶺山脈を横断してきているのだ*7
そんな状況にも関わらずしっかりと撤退し軍需品も回収できたというのは、間違いなく趙雲のスゴさを引き立てていると言える。

とはいえ敗戦は敗戦であり、戦後は責任を取って鎮軍将軍への降格処分を受けている。
しかし貧乏所帯の蜀漢にとって、貴重な軍需品を失わずに持って帰ってきたことの意義は大きく、諸葛亮は余剰物資をボーナスとして趙雲とその部下に支給しようとしたのだが、
「負けたのにボーナスは必要ありません。冬の備蓄に回してください」と趙雲はこれをきっぱり拒否。諸葛亮からの評価をさらに上げている。

しかし翌229年、第二次北伐を待たずして没してしまった。跡は息子の趙統が次いでいる。


【家族】

関羽や孔明の家族と比べると、いや張飛の家族と比べてすら非常に影の薄い子供たち。
伝統的な三国故事で名前が挙がることはほぼ皆無といってよく、地方劇などでは彼らを差し置いてオリジナル息子が普通に出てくる(『斬関平』の趙沖とか)。

趙統
家を継いだ方の息子。
虎賁中郎督(親衛隊の上位将校のリーダー)、行領軍(首都防衛隊の司令官代行)と親衛隊職一筋の道を歩んだ。
それ以外の情報はほとんど皆無で、はっきり言って影はとても薄い。ある意味、趙雲の息子らしいと言えばらしいのだが……
しかし趙雲人気がかつてないほどに高まっている現代中国のサブカル分野では、息子枠として地味に支持層を伸ばしている模様。

趙広
家を継いでない方の息子。
蜀滅亡時には姜維の配下として戦い、戦死している。最終階級は牙門将軍(最下級の将軍)。

趙氏
関平に嫁ぎ、荊州の陥落時にも息子と共に逃げ延びて関羽の血脈を後世に残した……とWikipediaに堂々と書いてある娘。
が、しかしその元ネタである「江陵県志」というのはお国自慢的な地方発行紙に過ぎず、この話もあらゆる点でツッコミどころ満載な代物である(その子孫が作ったという関羽廟には、普通に演義キャラである周倉が祀ってあったりする)。
はっきりいって信ぴょう性は皆無というか、ぶっちゃけた話地方の観光客向けの作り話に過ぎないのだが、大丈夫かwikipedia?
とは言え趙雲の娘なんてうまい立場の彼女を世の中が見逃すはずはなく、最近の三国志ゲームではちょこちょこ顔を出している。


【趙雲別伝】

……とここまで書いておいてなんだが、重大な事実を明らかにすると、これまで挙げてきた趙雲の大活躍は、実は陳寿の書いた正史「三国志」には載っていない
これらの活躍の大半は、東晋の裴松之が「三国志」の註(注釈)に引用した「趙雲別伝」という書物に由来しているのである。

陳寿の本文における趙雲伝はとてつもなく短く、10年ちょっとしか劉備に仕えていない黄忠とほぼ同じ文章量しかない。関羽張飛馬超は勿論、魏延劉封と比べてすら圧倒的に少ない。
具体的に言うと
  • 最初は公孫瓚に仕え、後に劉備に仕えた。
  • 長坂では劉備が捨てた劉禅と甘夫人を守った。牙門将軍になった。
  • 益州攻めでは最初お留守番だったが、後に諸葛亮に率いられて援軍にいった。翊軍将軍になった。
  • 鎮東将軍になって、第1次北伐に参加した。曹真に負けたが、大敗はしなかった。降格されて鎮軍将軍になった。
  • 229年に死んで、後(261年)に順平候と諡された。後は息子の趙統が継いだ。
何とこれだけ。美女にも負けずに節度を保ったこととか、劉備や孔明に何度も的確な助言をしたこととか、漢中での曹操をぶっとばした大活躍とか、そういうものは全て趙雲別伝の記述なのである。

そしてこの趙雲別伝というのは本来趙雲を称賛するために作られた書であり、史料としての信頼性は限りなく疑わしいとされている。
「そもそも時系列に矛盾がある」
「太守にまで上がってんなら本伝に書かれてない訳ないだろいい加減にしろ!」
「なんで曹操様が前線で下級指揮官やってるんですかwww」
「諸葛亮の処置が乱脈以外のなにものでもないんですが、それは」
等のツッコミが様々な歴史家によってされてきた。「っていうか趙雲家のセルフアピール伝記なんじゃないのコレ」とさえ言われる始末で、まあこの記述をそのまま信じるのは無理があると言わざるを得ない。

しかし公平に言うなら、こういった信憑性が怪しい史料を元にしているのは趙雲だけの話ではない。

裴松之は資料の信頼性を考慮せずにガンガン註に乗せまくったので、他の人物にもこういった二級資料から取られたエピソードは多く残っているし、それらも「正史」とあまり区別されずに使われることの方が多い。
例えば「張飛が劉巴の家に泊まったが、劉巴は『士たる者は英雄と語り合うもので、張飛のごときただの兵士と話すことなどない』と張飛に挨拶もしなかった」というエピソードは有名で、張飛を語る際には引用されることが多いが、
これも「零陵先賢伝」というウチの郷土凄い系本に由来するものであり、実は趙雲別伝に負けないぐらい信憑性は薄い。

とはいえ、本当の趙雲の実力は、ここから推し量ることは難しいといわざるを得ないのである…

【人物】

蜀漢に仕えた楊戯という人物がまだ蜀漢が健在だった241年に、それまで国を支えてきた重要人物を讃える書である「季漢輔臣賛」を書いたが、
いわばリアルタイムの史料であるこの書では、趙雲は陳到*8という武将とセットで「二人とも優れた兵士を率いてました。猛将でした。」とさらりと触れられているだけである。

武官としての立ち位置は、関羽や張飛、黄忠といった最上級のド主力には明らかに及ばない。
階級的にも彼らに比べるとはっきりと1,2ランク下だとされ、だいたい魏延をちょっと下回る程度である。


では趙雲別伝だけで名を挙げているのか、というとそうでもないのではないか、と見られている。
確かに趙雲別伝の記述はパッと見では「嘘臭いほどの大活躍だ!」と思ってしまうかもしれないが、実は具体的な「結果」だけ見てみるとそこまでぶっ飛んだものでもない
「結婚を進められたが断った」「曹操軍を撃退して何人か倒した」「夷陵ではお留守番だった」「北伐では負けたが物資は持ち帰った」「死んだ後、他の五虎将軍や諸葛亮等の超優秀な内政官が送られる称号を貰いました」と書いてみると、なんだ普通だな!と思えてくるのではないだろうか?
正史の他の部分と比べて決定的に矛盾する箇所もないし、後に神格化された関羽や張飛と比べればあくまで「人間の範疇の凄さ」に留まっている点から見ても、趙雲別伝に関しては「誇張しまくっているのは確実だが、まったくの0から捏造したというわけでもないだろう」という見解が一般的である。


趙雲別伝の記述は丸々無視して、その他の正史に準拠したとしても、
  • 261年に諡をもらっているが、同様に諡をもらったのはいずれも史実からして重要な地位にあった蜀の名臣ばかり*9である。死後かなり経っているため他の面々ほどではないにせよ、相当な高評価であることは間違いない。
  • 他の五虎将軍が後漢からも爵位をもらっている中、趙雲は爵位がない。つまり、後漢を尊重する立場上仕方なく与えたような爵位ではなく、将帥としてその実力のみで得た爵位である可能性が高い。
  • 五虎将軍は架空の肩書きだが、その由来は五人が正史でまとめて伝を立てられているからで、即ち五人を対等のものと扱っている。*10
と言った状況であり、位の低さにさえ目を瞑れば正史でも将帥として非常に高く評価されていることには違いない
その武勇を陳到とかいうマイナーキャラと一緒にされた一方で、陳寿は「黄忠と並んで軍の爪牙となった」と評している。

それならなぜさほど昇進していないのか、と言う問題が出てくるが、これは趙雲の将帥としての性格に由来するとみる説がある。
将軍は大概が「俺が俺が」と言う自己主張の激しい性格のものが多く、特に趙雲以外の五虎将軍や魏延などは皆個性的…言い換えればアクの強い者達が多い。
そういうアクの強さも言い換えれば戦果への貪欲さとも言え、将帥に必要な資質とも言える。
だが一方で、任務に忠実に、目立たない裏方任務をこなす将帥も必要である。当然そうした任務をこなしただけでは派手な武功には恵まれない。

実際、趙雲の事績は趙雲別伝を見ても「孫夫人の監視役をした」「阿斗を救出した」「怒り狂って呉征伐に出ようとした劉備を諫めた」など、総じて兵を率いての軍事行動とは直接関係ないものが目立つ。
第1次北伐では軍を率いているが、主力軍とは別働隊…要は囮部隊を率いており、武功という視点からはかなり損な役回りを引き受けている。

つまり、趙雲は先陣切って戦果を上げていく猛将タイプではなく、堅実に任務をこなしていく良将タイプであったと考えれば、色々な面で辻褄は合う。
正史ではその人となりについては判然としないが、無理に昇進させなくとも叛意を持ったりはしないという信頼があったのではないだろうか。*11


【創作作品におけるチャンシャンジャオチーロン】


よく「日本では人気の趙雲だが、本場中国では人気ない」と言われることもあるが、実際は普通に人気者である
もちろん張飛と孔明という二大巨頭、別格の関羽には及ばないが、それに次ぐぐらいの人気を誇っている。
ただし彼の場合、張飛や孔明、関羽といった他の人気メンバーとはブレイクするまでの経緯が大きく異なっている。
このため趙雲の扱いの大きさはジャンルによって大きな格差があり、大雑把に言って演劇・小説分野に強く、観光・史跡分野では扱いが小さい。


◆~黎明期~

趙雲は他のメンバーに比べると、三国故事のメインストリームへの登場が非常に遅かった。
理由は単純で、「武将枠には既に張飛がいたから」である。

当時の張飛は「単騎で万の軍勢を倒す武力チート」「とんちで孔明さえヘコませる知力チート」「名裁判で民に慕われる政治チート」「傍若無人だが人情家な性格チート」などを兼ね備えた全方位チート武将であり、つけいる隙がまったくなかった。
よって唐~元にかけての三国志モノはほとんど張飛一色といってもいい状態であり、趙雲もこの時代はよく言って「その他大勢」の一人にすぎなかった。

元代の雑劇(戯曲)には三国志モノが多く、現代に伝わるものでも20編を越える数があるが、その中に趙雲を主役とするものは一つもない
今日の三国志ファンならだれでも知ってるであろう「長坂坡(長坂一騎駆け)」すらない。ぶっちゃけた話麋竺あたりの方が活躍しているぐらいで、マジで影が薄かったのである。


◆~転換期~

そんな趙雲にスポットライトが当たりはじめるのは、エンタメ分野の水準が大きく向上した元後期~明の時代。
後に三国志創作の主軸となる「三国志演義」が生まれ、三国故事というジャンル自体にとって大きなターニングポイントとなったのがこの時代である。

三国志演義(正確にはそれに繋がっていった系統)はそれまでの三国故事とは違い、「正史」三国志を骨格とした歴史物語であった。このため
  • 張飛や孔明のワンマンショーではなく、正史を元にした群像劇になった。
  • 同時に各キャラに史書からのエピソードが取り入れられ、各武将たちの個性と存在感が大きく上昇。
  • 範囲攻撃(ブラストボイス)で敵兵を一掃する張飛」「地面に撒いた豆から術で兵士を作る諸葛亮」などのあまりに現実離れした部分が削られた。
などの大きな変化が起こり、それまではサブキャラどまりだった呂布、黄忠、馬超、ホウ統、そして趙雲らはそのキャラクターを大きく膨らませていった。

しかも趙雲は、前述の通り正史(の註の趙雲別伝)における活躍が既にうさんくさいほどド派手なやつの一人であったため、それを輸入するだけで充分なスーパー武人となりえた。
これは張飛や孔明といったそれまでのヒーローたちが、正史とのすり合わせることで現実離れした部分が削られていってしまったのと対照的である。

結果、明代になって完成した「三国志演義」における趙雲は、諸葛亮や関羽、張飛といった主要人物に匹敵するほど扱いが重くなっている
この時点で
■張飛や関羽と同レベルの戦闘力を誇り、武器は槍(三国志平話では涯角槍*12という名前がつけられてたが、演義には採用されなかった)
■短気で乱暴な張飛、義理堅いが尊大な関羽に対し、実直で冷静な優等生的性格。
■知勇兼備で敵の計略にひっかかったりもせず、道徳観も厳正。
などといった現在の趙雲に繋がる要素がほぼ確立されている。

よく張飛や関羽、孔明に対して「演義補正受けすぎィ!」などという声があるが、実際は彼らの創作要素は演義以前にさかのぼるものが殆どであり、完成時にはむしろそれまでに比べ弱体化したと言っていいほどである。
これに対し、趙雲の場合は文字通りの「演義補正」と言える。
演義の直接的な原型となった「三国志平話」ではまだ趙雲はその他武将という程度の扱いに過ぎなかったのに、演義ではいきなりメインキャラの1人にまで出世しているのだ。

これは同じ猛将枠である張飛に比べ、演義の執筆サイドである士大夫層からの好感度が高かったからだと考えられている。
「教養がなく短気で横暴だが、無邪気で義に篤い」という張飛のキャラは庶民からは大人気だったが、逆に教養がある人々の価値観からするとあまり好ましいものではなかった。
対して趙雲は正史(趙雲別伝)においても「忠義に溢れ沈着冷静、ストイックで倫理観も強い」という士大夫層にジャストミートな武人であったため、演義執筆に関わった人達が「武人の理想像」として趙雲を磨き上げていくことになったのである。

しかしこれは逆に言えば、趙雲が「エリート好みの優等生キャラ」になってしまったことも意味していた。
三国志演義はこの後普及率をどんどん伸ばしていき、最終的には三国志創作のメインストリームを独占することになるのだが、それでもやはり三国志の人気者と言えばまず張飛、それに関羽や孔明であった。
演義の成立によって趙雲は「格」を大きく上げたものの、大衆人気と言う点ではそれほどでもなかったのである。


◆~上昇期~

そんな趙雲の境遇が大きく変わったのは1700年代中頃、即ち清代中期のこと。そのきっかけとなったのは、清代における都市部での大衆演劇の隆盛だった。
近代的な商業システムがほぼ完成したこの時代、演劇業界でも大規模なマーケットが成立したため、それまでの「パトロン」という制限から解き放たれて観客の需要と直接向かい合うことが可能になり、急速な大発展を遂げたのである。
当然三国故事にもその流れは波及し、多くの三国志系の演目が誕生することになる。

が、しかしここで問題が発生する。当時の三国志故事の人気人物を見てみると
★張飛……大暴れ担当の獣人系。ヒゲ。
★関羽……神様。ヒゲ。
★劉備……オチ担当のおっさん。ヒゲ。
★孔明……道士(魔法使い)。ヒゲ。
……おわかりだろうか。本来エンタメ作品の主役たるべき若いイケメン枠がいない。まさかのヒゲ率100%である。

現代のラノベやアニメ、果てはハリウッドなどでもそうだが、大衆を狙ったエンタメにおいて美男美女が出てこない作品なんてものはそうそうない。
例え作中の設定ではブサメン・フツメンであっても、作画上の顔役者の方にはイケメン・美女が用意されるもの。「イケメンは正義」というのは残念ながらあまりにも露骨な真実なのだ。

そしてこうした「三国志にも美形キャラ求む!!!」の声に応えるべく白羽の矢が立ったのが、いまだ固定されたビジュアルイメージがなかった趙雲だった。
先に上げた4人は知名度・人気の高さゆえにイメージが固定されていて大幅な路線変更は難しかったが、いまだに大衆からの知名度が低かった趙雲に対してはそれが可能だったのである。


こうしてあっさり「イケメン若武者」枠をゲットした趙雲は、それまでと打って変わって急激に大衆人気を伸ばし、演劇分野においては関羽や張飛、孔明に並ぶ不動のポジションを確保することに成功した

この傾向は特に首都北京で発展した「京劇」において顕著で、三国志演義の名場面から「長坂坡」「陽兵関」「趙子龍招親」「截江奪斗」などの趙雲を主役とした演目が次々と作られていった。
京劇においてはしばしば劉備が趙雲を「四弟(劉備・関羽・張飛に次ぐ四番目の兄弟)」と呼ぶことすらあり、もはや完全に主役級になっている。

だがこの清代に急騰した趙雲人気は、あくまで北京を中心とした都市部に限定された人気でもあった。商業ベースの演劇興行というものは、基本的に人口の多い都市部でしか成立しえないからである。
このため地方では趙雲の人気は控えめなままであり、必然的に地方に存在する三国志関連の史跡や観光名所≒蜀のご当地でも趙雲はあまりプッシュされなかった。

この傾向は現代でも続いており、日本人が「中国旅行の時に三国志で有名な○○にいったけど、劉備兄弟や孔明に比べると趙雲あんまり人気なかったなあ」としばしば漏らすことになる。


◆~現代~

現代における三国志創作は、基本的に2系統に分かれている。

1つは「歴史大河」としての方向性。これは日本におけるNHK大河のような方向性で、あくまで歴史モノとしての側面を重視した系統である。
こちらの系統では、やはり原作や伝統に即して孔明や関羽、張飛らが重んじられるため、趙雲の扱いはやや軽め

そしてもう1つはゲームや漫画、ラノベと言ったアニヲタ的分野である。
当然というべきか、エンタメ性重視、若い層がターゲットなこちら側では趙雲の人気は圧倒的
このジャンルにおいては日本のコーエーの影響が(日本でも中国でも)大きいが、コーエー式趙雲はここまでで言及した清末~中華民国時代の出版物、あるいは京劇の影響が非常に強い。
即ち「イケメン」「若い」「武力は関羽・張飛級」「冷静で知略もある」「忠義に厚く、真面目で堅物」などの属性がそのまま残っており、どうやったってヒゲのおっさんに収束してしまう三兄弟よりも王道的な人気者になりがちである。

ちなみに現代では趙雲のイメージカラーは「白」とされることが多いが、これも京劇の要素をそのまま受け継いだもの。
京劇における趙雲の役柄は「武生」という分類になるが、これは化粧を薄くして自顔を出したイケメン担当で、華麗なアクションも伴う舞台の花形である。
武生は一般に清潔感のある白や青をメインカラーにすることが多く、これが「黒い張飛」「赤い*13関羽」と並ぶとわかりやすかったため、そのまま「白い趙雲」のイメージが定着したのである。


◆~嫁~

近世になってから人気が出た「イケメン若武者趙雲」は、その性質上「恋愛もの」に関わることが非常に多い。
このため「嫁」が異常に多く、その一部を紹介すると

樊夫人
前述した趙範の兄の未亡人。趙雲別伝にも記述がある、最もメジャーな嫁。趙雲は断ったって書いてあるんだけど……なんてツッコミは無粋である
名前やキャラクターは演目に応じてアレコレ設定されるが、最も有名なのは古演目「趙子龍招親(取桂陽)」に登場する『樊玉鳳』だろうか。
趙雲に1度婚姻話を断られるのは原作と同じだが、桂陽を攻略しに来た趙雲に対して、自ら鎧を着て出撃。互角の戦いを繰り広げるという女傑。その後諸葛亮や劉備の仲裁によって、改めて嫁になる。
まあ「美人で武人、英雄と戦いその嫁になる」という中国演劇の黄金パターンである。

馬雲リョク
近代の小説「反三国志」に登場する嫁。
馬超の妹で、「夫は英雄じゃないとダメ!」という過保護な兄のせいで婚期が遅れていた(22歳)が、馬超勢力が劉備勢力と同盟した時、証として趙雲の嫁になった。
こちらも武力系嫁で、作中では甘寧や周泰といった名だたる武将と一騎打ちして互角以上に戦っている。

孫軟児
「刺繍針」という民間伝承に登場する嫁。
趙雲の幼なじみで仲の良い夫婦だったが、「俺は戦場で傷を負ったことが一度もないんだよ」と笑う趙雲に対して、いたずら心で「じゃあちょっとちくっといってみましょうか」といって肩に針を刺してしまう。
するとそこから一気に血があふれ出し、止まることなく流れ出してついに趙雲はそのまま死んでしまった。夫を殺してしまった軟児は、絶望のあまり自害してしまう。
なんだよこの展開…

李翠蓮
戯曲「青銅剣」に登場する嫁。
長坂の戦いで劉備とはぐれてしまった趙雲は、迷っているうちに彼女と出会い、恋に落ちて結婚する(展開はやぁい!!)。
その後趙雲は劉備の下に戻ってしまったが、彼女はやがて趙雲の子である趙全定を産む。……趙統はどうした?

……関索もびっくりのハーレム野郎である。


『横山三国志』

清代から連綿と受け継がれてきたイケメン若武者趙雲像とは一線を画す、かの有名なドカベン趙雲呉の太史慈とは生き別れの兄弟である
これは連載初期に中国からの資料を入手できなかったかららしく、資料がそろってきた中盤以降では、鎧だけ中国の「連環画三国志」のそれを拝借している。流石に顔までは変わらなかったが。
しかし元々趙雲の容姿は「男らしくて勇ましい」(趙雲別伝)「太マユで目が大きく顔がデカく、二重顎」(三国志演義)というものであり、つまり完全なガチムチ系である。
この為、ある意味では現代のイケメン趙雲よりもはるかに原作に忠実である、とも言える。

性格や実力に関しては無双の人格者。ただし意外と短気な一面もあり、敵の挑発に対しキレたり仲の良い魏延を誘って抜け駆けしようとしたりやんちゃな一面も見せている。
「軍律を犯しても大功を立てれば手柄を認められるという不文律がある」という台詞は色んな意味でイメージ通りではないだろう。
とはいえ勿論成功させる辺りが流石趙雲と言える。
また細眼であるが本気でキレたり覚悟を決める時は目を開く。この時ばかりはかっこいいと言わざるを得ないだろう。

蒼天航路

劉備側もわりかし書かれているため、結構早い段階で登場。太眉が素敵な美男子であり、卓越した槍術を誇る偉丈夫。アニメでの声優は森川智之。
初登場時はただ一騎で戦場に現れ、公孫瓚に味方すると槍の一閃で麴義を討ち取るという衝撃のデビューを飾る。
その後、劉備に再会するまでの流れはだいたい演義と同じ流れだが、祖母の喪に服するために目を瞑っていたら失明するという訳のわからないことになっていたが
劉備と再会し、その目は光を取り戻した。大徳ハンパねぇっす
見せ場である長坂の戦いでは馬二頭に曲乗りしてジャンプ攻撃したり大暴れ。
その後も漢中での戦いでは許褚にスズメバチと評され、ハチ嫌いな曹操が嫌がったりしていた。

『反三国志』

馬超と並び、完全に主人公格
中華民国時代に書かれた小説で、そのキャライメージは清代末期の趙雲全盛期のそれを色濃く反映している。
つまり武力に優れ、知略に優れ、性格も真面目なイケメンという完璧超人であり、作中でも張飛や関羽よりもはるかに活躍している。
まさしく当時のエンタメ分野における趙雲人気を体現したような作品である。面白くはないけど。

『コーエー三国志』

なんだか文句なしに高性能で、蜀に限らず全武将の中でも最強クラス。
武力と統率はほとんど関羽と同レベルの高さを誇り、また知力も武官としては高めで安定感がある。ちなみに昔は高めどころか、軍師タイプにも負けないレベルだった(シリーズ1作目なんか知力90もあった)。また一度だけだが総合値で曹操を抜き一位タイ(周瑜と同率)になったことがある。*14
さらに隠しパラメータも優遇されており、関羽や張飛と比較すると「冷静な性格(=猪武者ではなく計略にもひっかかりにくいし、無謀な一騎打ちも受けにくい)」であることが多く、「義理」も負けず劣らず高い(おかげで忠誠度が下がりにくく、裏切りにくい)。
特殊能力が存在する場合はそちらも基本的に優遇されており、全体を見ても数少ない能力持ちであることが多い。
相性面でも極めて劉備に近いタイプ。

そして当然というべきか、顔は全タイトルで完璧にイケメン。グラフィックの質が低かった初期タイトルでも彼と周瑜はかなり努力してイケメンに演出されている。
また彼に限った話ではないが、7、8ぐらいから顔が無双シリーズのそれに近づき始めた。元からイケメン枠なので大差ないっちゃないが。
無双7では「三国志12の趙雲の衣裳」が特典として配布されたが、それを着た無双趙雲はオリジナルのそれとまったく見分けがつかなかったほど。

ただし三國志11では一部の武将に年齢を重ねると顔グラが加齢バージョンに変更されるという仕様が用意されていた。
変える必要あるのかわからんレベルの差しかない者も多い中、趙雲は別人レベルまで老け込んで老将としての魅力を醸した出色の出来となっており、興味のある方は後期シナリオをやってみるとよいだろう。
特に第一次北伐シナリオでは五虎将最後の生き残りとしてこの時代における全武将トップの武力で暴れまわれる。

三國志14では多くのプレイヤーからかつてないほどのヘイトを集めることとなった。というのも
  • 固有個性「洞察」により状態異常無効。本作のシステムのキモである兵站切りを成功させてもお構いなしに行動してくる。11においても古武将や新武将を登録していなければデフォルトでは完全に専用のユニーク個性である
  • 相変わらず最強クラスの能力に加え、大ダメージ+混乱付与の固有戦法「単騎駆」。強すぎて初期のアプデで弱体化されたがそれでもまだ十分強い。
  • 個性「一騎」の補正が乗った武力96からの一騎打ち。五虎将以外で渡り合えるのは呂布と許チョ、それと甘寧くらいで、公孫瓚配下の趙雲にイケブサコンビが負け続けるのは恒例行事。
    • なお、本作の一騎打ちはランダム発生+従来より発生率がはるかに高い+発生したら拒否不能+対決時もプレイヤーの介入不能という仕様。趙雲に一騎打ちを挑まれたら止めるのは不可能な上、個性「一騎」の効果により、ただでさえ高い一騎打ちの発生率がさらに上がる。
    • 自軍の一騎打ち要求も止められないので、下手に武官を趙雲にぶつけると趙雲に無用な一騎打ちを挑んで壊滅する。
  • 所持陣形・方円とのシナジーが凶悪。方円は陣形中最大の防御力を持つ代わりに攻撃力が壊滅的という陣形だが、趙雲は一騎打ち・大ダメージ戦法という別の攻撃手段があるので、彼が使えば堅くて攻撃力も鬼というチート陣形と化す。
  • 苦労して撃破しても捕縛防止効果のある名馬「白竜」を持っているので、捕虜にして処断という最終手段も使えない。
  • さらにパワーアップキットでは個性「護衛」に一騎打ち代行の効果が追加。諸葛亮を一騎打ちに巻き込んだぞ→代わりに趙雲が出てくる→「ぐわっ!(討ち死に)」(ちなみに筆者は司馬懿と曹真を切り殺された)
と、システム面がことごとく絶妙に噛み合ったことにより、味方にすればこの上なく頼もしいが、敵に回せば爆弾処理クラスに丁寧かつ慎重に処理しなければならない、鬼強い将として恐れられている。

『三國無双』シリーズ

イケメン若武者枠であり、蜀将筆頭。
格ゲーだった初代から通してシリーズ主人公的な扱いなのか、無双4以降のオープニングムービーは趙雲の大立回りであることが多い。
詳しくは項目参照

『Wo Lone』

三国志や無双シリーズと言った従来のコーエーの趙雲グラフィックの傾向にあった特撮ヒーローのような好青年タイプのイケメン
ではなく…無精ひげを生やしたワイルド系男前。
本編序章の終わりで徐州瑯耶で水落ちした主人公と泰山で出会い、ともに戦うこととなる。
最初に共闘できるNPCのため序盤のサブミッションなどでも引っ張りだことなり、大体の場合最初に絆ゲージがマックスになり彼の装備一式が手に入るだろう。
そういう意味でも本作のNPCとの共闘システムのチュートリアルを担うキャラである。
作中では黄巾の乱の時点で既に公孫瓚麾下として登場しており、物語中盤で出奔したことが本人から語られる。

『三国志~Three kingdoms~』

やはり京劇の影響か徐州攻防戦では颯爽と現れ白馬を駆り、戦場を縦横無尽に駆け回り、曹操に呂布と並ぶ豪傑と評される。
呂布が美形悪役ならこの趙雲は極めて正統派のイケメンと言える。

『三国志大戦』シリーズ

当然のように初作から蜀勢力の武将として登場。
高武力高知力に勇猛・魅力・復活と盛りだくさんの特技を持った高コスト騎兵である。
代償として計略は基本計略である「神速戦法」だが、本人の能力が強いせいで十二分に強力。
が、「さすがに2.5コスも払って「神速戦法」ってどうなん?」と言われたかは定かではないが、3では「人馬一体」に変わった。
優秀なステータスと堅実な計略を持った騎兵という個性は今後のシリーズでも継承されていくことになる。
槍兵も出ており、むっちゃ早い大車輪になったり、剛槍になったり、また車輪になったりしている。

新作では(コンパチを除くと)蜀では5枚登場。
1枚目はおなじみ「神速戦法」…だったのだが、SRで「神速戦法」はどう考えてもレアリティ詐欺。
しかも同スペック専用計略で夏侯威(UC)まで出されてしまう始末。
なので計略は寡兵の白銀の獅子もとい「子龍一騎駆」に変更された。
2枚目は槍。スペックこそ9/7/2と物凄い事になっているが無特技…。
計略も味方と敵の部隊数で効果が変わる超絶強化なのだが、状況的に欲しい効果が逆。「なんで岐略出るまで待てんかったのか」とか言われる。
3枚目は前述の「人馬一体」の復刻。
4枚目はそのリファイン。9/7/1勇猛魅力とスペックの限界に挑戦しまくっている。計略は相手の総武力次第で武力上昇値が決まり、一定以上だと攻城力を少し犠牲に移動速度が上がって兵力が尽きかけても一定時間死ななくなる「子龍是在」。
ついでに息子二人と娘まで参戦してきた。
5枚目は1枚目のコスプレ版で、バーテンダーになっている。
計略に単体強化ではなく号令を引っ提げており、範囲内の全員にかかっている妨害計略の効果を消しつつ自動回復と速度上昇を付与する。
しかしあまりに地味な効果の割に士気が重い上に生存力の低い槍兵であることから地味を通り越して空気化してしまい、エラッタされて武力も上がるようにされた。

何気に今回は公孫瓚の下にいた若武者という形で群雄でも1枚出ているが、長らくCPU専用であった。

『一騎当千』

横山版のイメージか糸目がチャームポイントの銀髪美人。常に飄々とした態度を崩さない。
居合抜きの達人で常に真剣「村正」を携えている危ない人。その腕前はコンクリートの柱をぶった切るほど。

『恋姫無双』

真名は星。元は公孫瓚配下だったが、関羽一派の旅に同行している。
こっちも飄々とした人物で、「神槍」と称される槍の達人であり、アニメ版では残像分身を行うなど高い俊敏性を誇る。あとメンマが好き。
メンマに対して異常な情熱を見せる、パピヨンマスクをつけて変態仮面美と正義の使者・華蝶仮面を名乗るなど、趙雲にあるまじきネタキャラ色の強さを誇る。

SDガンダム三国伝

演者はV2ガンダム。プラモはかなりのイケメン。
単騎駆けで有名な武将であるためか、愛馬に「飛影閃」という名がついた。
元々は袁紹バウに仕える武将であったが、猜疑心が強く狭量な袁紹を見限って離反。
その後、公孫瓚イージーエイトに仕えるが、袁紹バウ(コミックワールド版では曹操ガンダム)によって城が包囲されたため
公孫瓚から劉備の下へ向かうように勧められ、単騎で包囲を突破する。

……が、本作には劉禅は登場しない上、劉備と孫尚香との仲も良好(というか孫尚香からの片想いに近い)ので趙雲の見せ場が演義よりも減っていたりする。
なお五虎将ならぬ「五誇将」においては趙雲がリーダーとされるが、上記の通り割と空気気味なため違和感が強い

キットは飛影閃とセットの大型版で、「龍のオーラを纏う」というテイでV2バスターを再現したモードに組み替え可能。
また目のシールは通常版と必殺技発動版の2種類が付属するが、組み替え機能等は無いため必然的に1枚余る。周倉辺りの余ったホンタイさん顔にでも貼って遊ぼう。
後に飛影閃は単独で「白銀流星馬」として分割でもキット化されたため、アニメ版を再現した「真」シリーズでは差別化として飛影閃用の鎧が追加された。

SDガンダムワールド 三国創傑伝

演者はダブルオーガンダム
劉備ユニコーンガンダム率いる自警団「ドラゴンズ・ウォッチ」に所属していた古株*15であったが、第1話で仲間を守るためガケから落ちて行方をくらます。
しかし実は生きており、最終決戦に駆け付け敵陣の真っ只中を駆け抜け劉備ユニコーンガンダムの元にハロを届ける単騎駆けの活躍を見せ付けた。
第2シーズンSDガンダムワールド ヒーローズではネオワールドに入り浸って走り屋になるわ、アルセーヌガンダムXに弟子入りしてトレジャーハンタースタイルになるわ、上記趙雲ガンダムが見たらひっくり返りそうな暴走を繰り返している。
……おまけに『SDガンダムワールド ヒーローズ』の後日譚である外伝『SDガンダムワールド ヒーローズ THE LEGEND OF DRAGON KNIGHT』においてもBANDAISPIRITSによる関連商品発表で『SDガンダム外伝 ジークジオン編』オマージュの剣と魔法の世界に『SDコマンド戦記』と出る作品を間違えたとしか思えないような重火器満載の新形態でまさかのサプライズ参戦決定。多くのSDガンダムファンの笑いを誘った。

『ウルトラマン英雄伝』

演者はウルトラマンティガ
中国ではティガの人気が高いため、知名度の高い趙雲が選抜されたらしい。…やはり趙雲に選ばれた理由はであろうか。


「申し訳ありません、奥方様は追記修正の邪魔になると自ら井戸に身を投げられまして……」

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最終更新:2024年04月08日 14:09

*1 その為か、作品によっては張飛と山賊をやっていたり、野盗の頭目に収まっていたりもする。

*2 同じ姓を持つものは遡れば同じ一族であり、同じ一族で結婚するのは道徳に外れる、という考え方

*3 肝臓のことだが、「胆力がある」という表現のように、「肝臓の大きさ=度胸の大きさ」という意味で使う

*4 北へ迂回中の張コウもここを後方拠点としている

*5 ただしあくまで攻めあぐねていただけであり、馬謖がやらかさなければ攻略できていただろう

*6 隘路の通行用に設けられた木製の通路

*7 当時は自動車など存在せず、兵隊は重武装の上で徒歩で未舗装かつ急勾配の山道を突破しなくてはならず激烈に消耗する。さらにこんな場所で馬車で兵糧を運ぶことなど到底不可能であったろうから兵糧運搬も困難である。戦闘になった時点で相当の消耗状態であったと予想される

*8 劉備が豫州刺史時代から仕えた古参武将で丁度仕え始めた時期も趙雲と同じ頃だった。

*9 趙雲以外の五虎将軍や諸葛亮・法正・蔣琬・費禕・陳祗と言った内政トップ政治家、建国功臣である龐統、皇帝の外戚で北伐でも活躍している夏侯覇。

*10 「魏の五将」なども同じ理由でまとめられている。

*11 第1次北伐で困難な任務をこなしながらの降格処分も、「諸葛亮は趙雲を降格させる気がなかったのだが、泣いて馬謖を斬るほど軍がけじめを求められている状況を踏まえ、自分も降格させるよう計らった」という見方もある。

*12 涯は「世界の果て」、角は「戦う・相手をする」、つまり「世界の果てまで行ってもかなう奴はいないぜ!」という意味。中二病である

*13 顔が

*14 三國志Ⅲにて。この作品では統率が陸指と水指に分かれており、赤壁の敗戦の影響か曹操の水指が低かった。

*15 本作では関羽・張飛が五虎将軍の最新参である