趙雲

登録日:2017/04/09 Sun 12:46:57
更新日:2021/02/21 Sun 19:49:14
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(ちょう)(うん)(?-229)とは、三国時代の人物。
字は子龍。
冀州、常山の人。


【常山】

出身は冀州常山の真定、今で言うと河北省の省都のあたり。
若い頃に地元で郡の役人として推挙され、お隣の公孫サンの元に配属されて重用された。
しかしこの地元というのが結構曲者で、常山は当時大盗賊集団「黒山賊」の支配下にあったのである。
そしてそのボスである張燕が朝廷から人材の推挙権を与えられていたので、実は趙雲には「もしかして山賊の出身なの?」という黒い疑惑がある*1別に前歴が怪しい人は劉備配下には珍しくもないけど。

191年になると、公孫サンの下にいた劉備が徐州の陶謙への援軍に送られることになり、趙雲もその配下につけられて劉備から主騎(親衛隊長)に任じられた。
その後兄の喪に服するという理由で一旦劉備の下を離れるが、200年になると当時袁紹の客将だった劉備の下にはせ参じ、再びその部下となった。


【長坂】

次に趙雲の行動がわかるのはどーんと飛んで208年。そう、趙雲の代名詞とも言うべき「長坂の戦い」である。

詳しい過程は省くが、この時の劉備は自身を慕う民衆を引き連れて曹操軍から逃げている最中だった。
しかし曹操軍の追撃によって軍も民もあっという間に散り散りになり、劉備は妻や子を放り出して自分と側近達だけで逃走を試みていた。
このため趙雲は捨てられた子(劉禅)と劉備夫人(甘夫人)を回収し、自ら護衛して無事劉備の下に送り届けたのである。劉備めっちゃ気まずかったんじゃないかな


【荊州・益州平定】

赤壁の戦いの後、南荊州に落ち着いた劉備は孫権と曹操が争っている隙に、曹操側についていた南荊州四郡を次々と攻略する。
趙雲もこの戦いに参加し、戦後は4郡のうちの一つ、桂陽の太守に任じられている。
この時、趙雲は降伏した元太守である趙範に「兄の未亡人の樊氏は超美人なんですけど、娶りませんか?」と言われたが、「同姓不婚*2の律に背きます」と断っている。
また趙雲が拒否したのは道徳問題ばかりではなく、「趙範という人物はいつ裏切るかわからない人だ」という判断があったからだという。そして後にその予測は的中し、趙範は出奔してしまっている。それ趙雲との関係が嫁取りの一件で気まずくなったからじゃないの?

その後劉備はなんやかんやあって益州へ侵攻するが、趙雲は最初張飛同様に荊州の留守を任されていた。
しかし益州での戦闘が手詰まりになると結局呼び出されることになり、諸葛亮張飛劉封らと共に劉備の本隊とは別ルートで侵攻している。


【VS孫尚香】

劉備は赤壁の後、同盟関係を結んだ孫権のを妻にしていた。
さてこの孫夫人(孫尚香)、劉備とは創作でこそロミジュリ風に脚色される相思相愛の仲だが、実際はそんな美しい話では全然なかった
孫夫人は嫁入りに際し武装させた多くの侍女、さらに自前の兵士まで持ち込んでおり、実質的に彼らによって劉備の奥向きは制圧されたも同然になっていた。
劉備は「寝室に入る度に命の危険を感じていた」とされるほどで、諸葛亮に至っては「北には曹操南には孫権、そして身内には孫夫人の脅威」とまで断言する始末。
まあぶっちゃけて言うと、孫夫人は嫁の形で送り込まれてきた工作員も同様だったのである。

劉備はこれに対抗するため、趙雲に奥向きのことを取り締まらせる。
言うなれば趙雲は将軍と兼任で劉備家の執事もやらされることになったわけだが、真面目な趙雲は見事にこの役を果たす。
後に孫夫人が嫡子劉禅をさらって呉に戻ろうとした時も、張飛と共にこれを阻止し、無事劉禅を取り戻している。


【一身之胆】

荊・益二州の支配者となった劉備は、次なる目標として魏に制圧されていた北の要地、漢中を目指した。「漢中の戦い」である。
翊軍将軍になっていた趙雲は、この戦いでもの凄い活躍をしている。

劉備軍が敵将夏侯淵を討ち取って定軍山を制圧した後、そこに堅固な陣を築き着陣した曹操の本隊と対峙していた頃のこと。
敵の兵糧ルートを分捕りにいった黄忠が戻らないのを心配した趙雲は、数十騎を連れて探しに出たのだが、途中で曹操が率いる大部隊と遭遇戦になってしまうのである。
趙雲は退却しながらもこれと戦い、逆に曹操を敗走させてしまったのだが、間もなく曹操は兵を立て直し追撃をかけてきた。
しかし陣地に帰り着いた趙雲は門を開けて旗や兵士も隠してしまい、完全なウェルカム状態にしてしまった。
すると曹操はこの無防備すぎる陣地を見て逆に「あわてるなこれは孔明の罠だ」状態になってしまい、伏兵を恐れて引き返してしまう。
これを見た趙雲は、その背後に猛烈な射撃を加えてこれを壊走させ、多数の兵を川に追い落として倒した。

翌日に劉備はこのことを知り、「趙雲は全身が胆*3だな!」と称賛した。
そしてこの圧倒的な武勇のため、以降趙雲は「虎威将軍」とあだ名されるようになったという。


【夷陵】

219年、荊州から北上中だった関羽は呉のだまし討ちによって殺されてしまう。
劉備はこの怨みを忘れず機会を伺い続け、221年、ついに呉を撃つべく軍を荊州へ進めた。夷陵の戦いである。

趙雲はこの戦いの前に「漢を簒奪した国賊は曹丕であって、孫権ではありません。魏を倒せば呉は放っておいても降伏してくるはずですし、今は魏との戦いに専念すべきです」と劉備を諫めたが、聞き入れられなかった。
このため趙雲は夷陵の戦いではお留守番役になったが、劉備が敗戦して戻ってくるとそれを出迎えに出ている。


【北伐】

その後劉備は失意のまま没し、後を継いで劉禅が即位した。二度も自身の命を救ってくれた趙雲に対し、劉禅は鎮東将軍の階級を送っている。

228年に諸葛亮が最初の北伐を起こすと、趙雲は主力部隊のための陽動として北伐の最重要拠点・漢中と、山脈を挟んだ魏の拠点郿城をつなぐ隘路である斜谷道を侵攻する。
魏にとって郿城は長安を守る最大の盾であり、また蜀漢の北伐に対応するための最重要拠点*4でもある。
当然魏としては絶対に失う訳にはいかない拠点であり、魏軍総大将である曹真は郿城を固めざるを得なくなった。
趙雲はその任務であった陽動を見事成功させたのである。

しかし敵将は魏軍が誇る歴戦の指揮官にして「配下の士気の高さは魏軍一」と謳われた大将軍曹真であり、そうそう上手く運ぶはずもない。
趙雲軍と曹真軍は「箕谷」という場所で激突するのだが、趙雲はこの戦いに敗北してしまったのだった

第1次北伐と言えば登山家の敗北ばかりが取りざたされるが、実は蜀軍で負けていたのは彼だけではない。
西の涼州に送った軍は魏の漢興太守游楚によって撃退され、曹真への陽動を成功させたはずの諸葛亮の本隊も、戦域中央の祁山を攻めあぐねていた*5
そして北では言うまでもなく馬謖張コウに完敗したし、趙雲もまた箕谷で曹真に敗れた。つまり全戦線で負けていたのである

しかしこれらの敗北の中で、一番危険なのは間違いなく趙雲軍のそれだった。
他戦線は負けたところで撤退すれば済むが、趙雲の背後には蜀軍の根拠地にして生命線、漢中があるのだ。

だが趙雲はこの危機にもひるまず、自ら最後尾の部隊を率いて整然たる後退戦をやってのける。
古来撤退戦は戦場で最も難しい戦闘とされているが、この趙雲の冷静な指揮によって軍は統制を失うことなく後退に成功し、置き捨てられがちな戦闘物資もきっちり持ち帰ることができた。
おまけに帰りには桟道*6を焼き払って敵の追撃を困難にするというそつのなさで、いまや蜀漢内でも最古参の将軍となった趙雲の面目躍如であった

ちなみにここで負けたことが趙雲の評価を下げるかというとそうでもない。
趙雲率いる軍隊は距離数千キロ、高低差2000~3500キロの秦嶺山脈を横断してきているのだ*7
そんな状況にも関わらずしっかりと撤退し軍需品も回収できたのは、趙雲だからこそと言える。

とはいえ敗戦は敗戦であり、戦後は責任を取らされ鎮軍将軍への降格処分を受けている。
しかし貧乏所帯の蜀漢にとって、貴重な軍需品を失わずに持って帰ってきたことの意義は大きく、諸葛亮は余剰物資をボーナスとして趙雲とその部下に支給しようとしたのだが、
「負けたのにボーナスは必要ありません。備蓄に回してください」と趙雲はこれをきっぱり拒否。諸葛亮からの評価をさらに上げている。

しかし翌229年、第二次北伐を待たずして没した。跡は息子の趙統が次いでいる。


【家族】

関羽や孔明の家族と比べると、いや張飛の家族と比べてすら非常に影の薄い子供たち。
伝統的な三国故事で名前が挙がることはほぼ皆無といってよく、地方劇などでは彼らを差し置いてオリジナル息子が普通に出てくる(『斬関平』の趙沖とか)。

趙統
家を継いだ方の息子。
ある意味で父のポジションをきっちり受け継いでおり、虎賁中郎督(親衛隊の上位将校のリーダー)、行領軍(首都防衛隊の司令官代行)と親衛隊職一筋の道を歩んだ。
それ以外の情報はほとんど皆無で、はっきりいって影はとても薄い。
しかし趙雲人気がかつてないほどに高まっている現代中国のサブカル分野では、息子枠として地味に支持層を伸ばしている模様。

趙広
家を継いでない方の息子。
蜀滅亡時には姜維の配下として戦い、戦死している。最終階級は牙門将軍(最下級の将軍)。

趙氏
関平に嫁ぎ、荊州の陥落時にも息子と共に逃げ延びて関羽の血脈を後世に残した……とWikipediaに堂々と書いてある娘。
が、しかしその元ネタである「江陵県志」というのはお国自慢的な地方発行紙に過ぎず、この話もあらゆる点でツッコミどころ満載な代物である(その子孫が作ったという関羽廟には、普通に演義キャラである周倉が祀ってあったりする)。
はっきりいって信ぴょう性は皆無というか、ぶっちゃけた話地方の観光客向けの作り話に過ぎないのだが、大丈夫かwikipedia?
とは言え 趙雲の娘なんてうまい立場の彼女を世の中が見逃すはずはなく 、最近の三国志ゲームではちょこちょこ顔を出している。

【趙雲別伝】

……とここまで書いておいてなんだが、重大な事実を明らかにすると、これまで挙げてきた趙雲の大活躍は、実は陳寿の書いた正史「三国志」には載っていない
これらの活躍の大半は、東晋の裴松之が「三国志」の註(注釈)に引用した「趙雲別伝」という書物に由来しているのである。

陳寿の本文における趙雲伝はとてつもなく短く、10年ちょっとしか劉備に仕えていない黄忠とほぼ同じ文章量しかない。関羽張飛馬超は勿論、魏延劉封と比べてすら圧倒的に少ない。
具体的に言うと
  • 最初は公孫サンに仕え、後に劉備に仕えた。
  • 長坂では劉備が捨てた劉禅と甘夫人を守った。牙門将軍になった。
  • 益州攻めでは最初お留守番だったが、後に諸葛亮に率いられて援軍にいった。翊軍将軍になった。
  • 鎮東将軍になって、第1次北伐に参加した。曹真に負けたが、大敗はしなかった。降格されて鎮軍将軍になった。
  • 229年に死んで、後に順平候と諡された*8。後は息子の趙統が継いだ。
何とこれだけ。美女にも負けずに節度を保ったこととか、劉備や孔明に何度も的確な助言をしたこととか、漢中での曹操をぶっとばした大活躍とか、そういうものは全て趙雲別伝の記述なのである。

そしてこの趙雲別伝というのは本来趙雲を称賛するために作られた書であり、史料としての信頼性は限りなく疑わしいとされている。
「そもそも時系列に矛盾がある」
「太守にまで上がってんなら本伝に書かれてない訳ないだろいい加減にしろ!」
「なんで曹操様が前線で下級指揮官やってるんですかwww」
「諸葛亮の処置が乱脈以外のなにものでもないんですが、それは」
等のツッコミが様々な歴史家によってされてきた。「っていうか趙雲家のセルフアピール伝記なんじゃないのコレ」とさえ言われる始末で、まあこの記述をそのまま信じるのは無理があると言わざるを得ない。

しかし公平に言うなら、こういった信憑性が怪しい史料を元にしているのは趙雲だけの話ではない。

裴松之は資料の信頼性を考慮せずにガンガン註に乗せまくったので、他の人物にもこういった二級資料から取られたエピソードは多く残っているし、それらも「正史」とあまり区別されずに使われることの方が多い。
例えば「張飛が劉巴の家に泊まったが、劉巴は『士たる者は英雄と語り合うもので、張飛のごときただの兵士と話すことなどない』と張飛に挨拶もしなかった」というエピソードは有名で、張飛を語る際には引用されることが多いが、
これも「零陵先賢伝」というウチの郷土凄い系本に由来するものであり、実は趙雲別伝に負けないぐらい信憑性は薄い。

また趙雲別伝の記述も、パッと見では「嘘臭いほどの大活躍だ!」と思ってしまうかもしれないが、実は具体的な「結果」だけ見てみるとそこまでぶっ飛んだものでもない
「結婚を進められたが断った」「曹操軍を撃退して何人か倒した」「夷陵ではお留守番だった」「負けたが物資は持ち帰った」「死んだ後、他の五虎将軍や諸葛亮等の超優秀な内政官が送られる称号を貰いました」と書いてみると、なんだ普通だな!と思えてくるのではないだろうか?
正史の他の部分と比べて決定的に矛盾する箇所もないし、後に神格化された関羽や張飛と比べればあくまで「人間の範疇の凄さ」に留まっている点から見ても、趙雲別伝に関しては「誇張しまくっているのは確実だが、まったくの0から捏造したというわけでもないだろう」という見解が一般的である。


【人物】

趙雲別伝の記述を丸々カットしたとしても、劉備から篤く信頼された優秀な武将だったのは間違いがない。
兄の喪に服すると言って離れた際に劉備は「もう趙雲は自分の所に戻って来ない」と語っている事や劉備が奥向きに立ち入らせている件から考えても、単なる上司と部下という関係を越えた信頼関係もあったのだろう。
趙雲別伝に書かれている重厚で清廉な趙雲の人柄は、実際の姿をちゃんと反映したものだったのかもしれない。

ただ武官としての立ち位置は、関羽や張飛、黄忠といった最上級のド主力には明らかに及ばない。
階級的にも彼らに比べると明らかに1,2ランク下であり、だいたい魏延をちょっと下回る程度である。

蜀漢に仕えた楊戯という人物がまだ蜀漢が健在だった241年に、それまで国を支えてきた重要人物を讃える書である「季漢輔臣賛」を書いたが、
いわばリアルタイムの史料であるこの書では、趙雲は陳到*9という武将とセットで「二人とも優れた兵士を率いてました。猛将でした。」とさらりと触れられているだけである。
ただし陳寿は趙雲の事を黄忠と並んで軍の爪牙となったと評しているので主力争いはともかく軍全体を支える屋台骨的存在としてはトップレベルだったのかもしれない。

将軍は大概が「俺が俺が」と言う自己主張の激しい性格のものが多く*10、特に趙雲以外の五虎将軍は皆個性的…言い換えればアクの強い者達が多い中で趙雲自身は自身の武功よりも蜀全体の事を考え裏方に回る立ち振る舞いをしていた事、馬超は名門出身、残りも後漢王朝から爵位を貰っている*11中で趙雲は身一つ加わった浪人のようなもので身一つ腕一つだけ(しかも評価される事の少ない裏方が主体の活躍で)でトップ層に這い上がった事実を試みれば趙雲は史実でも凄い将軍だったと証明しているとも言える


【創作作品におけるチャンシャンジャオチーロン】


よく「日本では人気の趙雲だが、本場中国では人気ない」と言われることもあるが、実際は普通に人気者である
もちろん張飛と孔明という二大巨頭、別格の関羽には及ばないが、それに次ぐぐらいの人気を誇っている。
ただし彼の場合、張飛や孔明、関羽といった他の人気メンバーとはブレイクするまでの経緯が大きく異なっている。
このため趙雲の扱いの大きさはジャンルによって大きな格差があり、大雑把に言って演劇・小説分野に強く、観光・史跡分野では扱いが小さい。


◆~黎明期~

趙雲は他のメンバーに比べると、三国故事のメインストリームへの登場が非常に遅かった。
理由は単純で、「武将枠には既に張飛がいたから」である。

当時の張飛は「単騎で万の軍勢を倒す武力チート」「とんちで孔明さえヘコませる知力チート」「名裁判で民に慕われる政治チート」「傍若無人だが人情家な性格チート」などを兼ね備えた全方位チート武将であり、つけいる隙がまったくなかった。
よって唐~元にかけての三国志モノはほとんど張飛一色といってもいい状態であり、趙雲もこの時代はよく言って「その他大勢」の一人にすぎなかった。

元代の雑劇(戯曲)には三国志モノが多く、現代に伝わるものでも20編を越える数があるが、その中に趙雲を主役とするものは一つもない
今日の三国志ファンならだれでも知ってるであろう「長坂坡(長坂一騎駆け)」すらない。ぶっちゃけた話麋竺あたりの方が活躍しているぐらいで、マジで影が薄かったのである。


◆~転換期~

そんな趙雲にスポットライトが当たりはじめるのは、エンタメ分野の水準が大きく向上した元後期~明の時代。
後に三国志創作の主軸となる「三国志演義」が生まれ、三国故事というジャンル自体にとって大きなターニングポイントとなったのがこの時代である。

三国志演義(正確にはそれに繋がっていった系統)はそれまでの三国故事とは違い、「正史」三国志を骨格とした歴史物語であった。このため
  • 張飛や孔明のワンマンショーではなく、正史を元にした群像劇になった。
  • 同時に各キャラに史書からのエピソードが取り入れられ、各武将たちの個性と存在感が大きく上昇。
  • 範囲攻撃(ブラストボイス)で敵兵を一掃する張飛」「地面に撒いた豆から術で兵士を作る諸葛亮」などのあまりに現実離れした部分が削られた。
などの大きな変化が起こり、それまではサブキャラどまりだった呂布、黄忠、馬超、ホウ統、そして趙雲らはそのキャラクターを大きく膨らませていった。

しかも趙雲は、前述の通り正史(の註の趙雲別伝)における活躍が既にうさんくさいほどド派手なものであったため、それを輸入するだけで充分なスーパー武人となりえた。
これは張飛や孔明といったそれまでのヒーローたちが、正史とのすり合わせることで現実離れした部分が削られていってしまったのと対照的である。

結果、明代になって完成した「三国志演義」における趙雲は、諸葛亮や関羽、張飛といった主要人物に匹敵するほど扱いが重くなっている
この時点で
■張飛や関羽と同レベルの戦闘力を誇り、武器は槍(三国志平話では涯角槍*12という名前がつけられてたが、演義には採用されなかった)
■短気で乱暴な張飛、義理堅いが尊大な関羽に対し、実直で冷静な優等生的性格。
■知勇兼備で敵の計略にひっかかったりもせず、道徳観も厳正。
などといった現在の趙雲に繋がる要素がほぼ確立されている。

よく張飛や関羽、孔明に対して「演義補正受けすぎィ!」などという声があるが、実際は彼らの創作要素は演義以前にさかのぼるものが殆どであり、完成時にはむしろそれまでに比べ弱体化したと言っていいほどである。
これに対し、趙雲の場合は文字通りの「演義補正」と言える。
演義の直接的な原型となった「三国志平話」ではまだ趙雲はその他武将という程度の扱いに過ぎなかったのに、演義ではいきなりメインキャラの1人にまで出世しているのだ。

これは同じ猛将枠である張飛に比べ、演義の執筆サイドである士大夫層からの好感度が高かったからだと考えられている。
「教養がなく短気で横暴だが、無邪気で義に篤い」という張飛のキャラは庶民からは大人気だったが、逆に教養がある人々の価値観からするとあまり好ましいものではなかった。
対して趙雲は正史(趙雲別伝)においても「忠義に溢れ沈着冷静、ストイックで倫理観も強い」という士大夫層にジャストミートな武人であったため、演義執筆に関わった人達が「武人の理想像」として趙雲を磨き上げていくことになったのである。

しかしこれは逆に言えば、趙雲が「エリート好みの優等生キャラ」になってしまったことも意味していた。
三国志演義はこの後普及率をどんどん伸ばしていき、最終的には三国志創作のメインストリームを独占することになるのだが、それでもやはり三国志の人気者と言えばまず張飛、それに関羽や孔明であった。
演義の成立によって趙雲は「格」を大きく上げたものの、大衆人気と言う点ではそれほどでもなかったのである。


◆~上昇期~

そんな趙雲の境遇が大きく変わったのは1700年代中頃、即ち清代中期のこと。そのきっかけとなったのは、清代における都市部での大衆演劇の隆盛だった。
近代的な商業システムがほぼ完成したこの時代、演劇業界でも大規模なマーケットが成立したため、それまでの「パトロン」という制限から解き放たれて観客の需要と直接向かい合うことが可能になり、急速な大発展を遂げたのである。
当然三国故事にもその流れは波及し、多くの三国志系の演目が誕生することになる。

が、しかしここで問題が発生する。当時の三国志故事の人気人物を見てみると
★張飛……大暴れ担当の獣人系。ヒゲ。
★関羽……神様。ヒゲ。
★劉備……オチ担当のおっさん。ヒゲ。
★孔明……道士(魔法使い)。ヒゲ。
……おわかりだろうか。本来エンタメ作品の主役たるべき若いイケメン枠がいない。まさかのヒゲ率100%である。

現代のラノベやアニメ、果てはハリウッドなどでもそうだが、大衆を狙ったエンタメにおいて美男美女が出てこない作品なんてものはそうそうない。
例え作中の設定ではブサメン・フツメンであっても、作画上の顔役者の方にはイケメン・美女が用意されるもの。「イケメンは正義」というのは残念ながらあまりにも露骨な真実なのだ。

そしてこうした「三国志にも美形キャラ求む!!!」の声に応えるべく白羽の矢が立ったのが、いまだ固定されたビジュアルイメージがなかった趙雲だった。
先に上げた4人は知名度・人気の高さゆえにイメージが固定されていて大幅な路線変更は難しかったが、いまだに大衆からの知名度が低かった趙雲に対してはそれが可能だったのである。


こうしてあっさり「イケメン若武者」枠をゲットした趙雲は、それまでと打って変わって急激に大衆人気を伸ばし、演劇分野においては関羽や張飛、孔明に並ぶ不動のポジションを確保することに成功した

この傾向は特に首都北京で発展した「京劇」において顕著で、三国志演義の名場面から「長坂坡」「陽兵関」「趙子龍招親」「截江奪斗」などの趙雲を主役とした演目が次々と作られていった。
京劇においてはしばしば劉備が趙雲を「四弟(劉備・関羽・張飛に次ぐ四番目の兄弟)」と呼ぶことすらあり、もはや完全に主役級になっている。

だがこの清代に急騰した趙雲人気は、あくまで北京を中心とした都市部に限定された人気でもあった。商業ベースの演劇興行というものは、基本的に人口の多い都市部でしか成立しえないからである。
このため地方では趙雲の人気は控えめなままであり、必然的に地方に存在する三国志関連の史跡や観光名所でも趙雲はあまりプッシュされなかった。

この傾向は現代でも続いており、日本人が「中国旅行の時に三国志で有名な○○にいったけど、劉備兄弟や孔明に比べると趙雲あんまり人気なかったなあ」としばしば漏らすことになる。


◆~現代~

現代における三国志創作は、基本的に2系統に分かれている。

1つは「歴史大河」としての方向性。これは日本におけるNHK大河のような方向性で、あくまで歴史モノとしての側面を重視した系統である。
こちらの系統では、やはり原作や伝統に即して孔明や関羽、張飛らが重んじられるため、趙雲の扱いはやや軽め

そしてもう1つはゲームや漫画、ラノベと言ったアニヲタ的分野である。
当然というべきか、エンタメ性重視、若い層がターゲットなこちら側では趙雲の人気は圧倒的
このジャンルにおいては日本のコーエーの影響が(日本でも中国でも)大きいが、コーエー式趙雲は清末~中華民国時代の出版物、あるいは京劇の影響が非常に強い。
即ち「イケメン」「若い」「武力は関羽・張飛級」「冷静で知略もある」「忠義に厚く、真面目で堅物」などの属性がそのまま残っており、どうやったってヒゲのおっさんに収束してしまう三兄弟よりも人気者になりがちである。

ちなみに現代では趙雲のイメージカラーは「白」とされることが多いが、これも京劇の要素をそのまま受け継いだもの。
京劇における趙雲の役柄は「武生」という分類になるが、これは化粧を薄くして自顔を出したイケメン担当で、華麗なアクションも伴う舞台の花形である。
武生は一般に清潔感のある白や青をメインカラーにすることが多く、これが「黒い張飛」「赤い*13関羽」と並ぶとわかりやすかったため、そのまま「白い趙雲」のイメージが定着したのである。


◆~嫁~

近世になってから人気が出た「イケメン若武者趙雲」は、その性質上「恋愛もの」に関わることが非常に多い。
このため「嫁」が異常に多く、その一部を紹介すると

樊夫人
前述した趙範の兄の未亡人。趙雲別伝にも記述がある、最もメジャーな嫁。趙雲は断ったって書いてあるんだけど……なんてツッコミは無粋である
名前やキャラクターは演目に応じてアレコレ設定されるが、最も有名なのは古演目「趙子龍招親(取桂陽)」に登場する『樊玉鳳』だろうか。
趙雲に1度婚姻話を断られるのは原作と同じだが、桂陽を攻略しに来た趙雲に対して、自ら鎧を着て出撃。互角の戦いを繰り広げるという女傑。その後諸葛亮や劉備の仲裁によって、改めて嫁になる。
まあ「美人で武人、英雄と戦いその嫁になる」という中国演劇の黄金パターンである。

馬雲リョク
近代の小説「反三国志」に登場する嫁。
馬超の妹で、「夫は英雄じゃないとダメ!」という過保護な兄のせいで婚期が遅れていた(22歳)が、馬超勢力が劉備勢力と同盟した時、証として趙雲の嫁になった。
こちらも武力系嫁で、作中では甘寧や周泰といった名だたる武将と一騎打ちして互角以上に戦っている。

孫軟児
「刺繍針」という民間伝承に登場する嫁。
趙雲の幼なじみで仲の良い夫婦だったが、「俺は戦場で傷を負ったことが一度もないんだよ」と笑う趙雲に対して、いたずら心で「じゃあちょっとちくっといってみましょうか」といって肩に針を刺してしまう。
するとそこから一気に血があふれ出し、止まることなく流れ出してついに趙雲はそのまま死んでしまった。夫を殺してしまった軟児は、絶望のあまり自害してしまう。
なんだよこの展開…

李翠蓮
戯曲「青銅剣」に登場する嫁。
長坂の戦いで劉備とはぐれてしまった趙雲は、迷っているうちに彼女と出会い、恋に落ちて結婚する(展開はやぁい!!)。
その後趙雲は劉備の下に戻ってしまったが、彼女はやがて趙雲の子である趙全定を産む。……趙統はどうした?

……関索もびっくりのハーレム野郎である。


『横山三国志』

清代から連綿と受け継がれてきたイケメン若武者趙雲像とは一線を画す、かの有名なドカベン趙雲
これは連載初期に中国からの資料を入手できなかったかららしく、資料がそろってきた中盤以降では、鎧だけ中国の「連環画三国志」のそれを拝借している。流石に顔までは変わらなかったが。
しかし元々趙雲の容姿は「男らしくて勇ましい」(趙雲別伝)「太マユで目が大きく顔がデカく、二重顎」(三国志演義)というものであり、つまり完全なガチムチ系である。
この為、ある意味では現代のイケメン趙雲よりもはるかに原作に忠実である、とも言える。

蒼天航路

劉備側もわりかし書かれているため、結構早い段階で登場。太眉が素敵な美男子であり、卓越した槍術を誇る偉丈夫。アニメでの声優は森川智之。
初登場時はただ一騎で戦場に現れ、公孫瓚に味方すると槍の一閃で麴義を討ち取るという衝撃のデビューを飾る。
その後、劉備に再会するまでの流れはだいたい演義と同じ流れだが、祖母の喪に服するために目を瞑っていたら失明するという訳のわからないことになっていたが
劉備と再会し、その目は光を取り戻した。大徳ハンパねぇっす
見せ場である長坂の戦いでは馬二頭に曲乗りしてジャンプ攻撃したり大暴れ。
その後も漢中での戦いでは許褚にスズメバチと評され、ハチ嫌いな曹操が嫌がったりしていた。


『反三国志』

馬超と並び、完全に主人公格
中華民国時代に書かれた小説で、そのキャライメージは清代末期の趙雲全盛期のそれを色濃く反映している。
つまり武力に優れ、知略に優れ、性格も真面目なイケメンという完璧超人であり、作中でも張飛や関羽よりもはるかに活躍している。
まさしく当時のエンタメ分野における趙雲人気を体現したような作品である。面白くはないけど。


『コーエー三国志』

文句なしに高性能で、蜀に限らず全武将の中でも最強クラス。
武力と統率はほとんど関羽と同レベルの高さを誇り、また知力も武官としては高めで安定感がある。ちなみに昔は高めどころか、軍師タイプにも負けないレベルだった(シリーズ1作目なんか知力90もあった)。また一度だけだが総合値で曹操を抜き一位タイ(周瑜と同率)になったことがある。*14
さらに隠しパラメータも優遇されており、関羽や張飛と比較すると「冷静な性格(=猪武者ではなく計略にもひっかかりにくいし、無謀な一騎打ちも受けにくい)」であることが多く、「義理」も負けず劣らず高い(おかげで忠誠度が下がりにくく、裏切りにくい)。
特殊能力が存在する場合、所持面においても優遇されており、全体を見ても数少ない能力持ちであることが多い。
相性面でも極めて劉備に近いタイプ。

そして当然というべきか、顔は全タイトルで完璧にイケメン。グラフィックの質が低かった初期タイトルでも彼と周瑜はかなり努力してイケメンに演出されている。
また彼に限った話ではないが、7、8ぐらいから顔が無双シリーズのそれに近づき始めた。無双7では「三国志12の趙雲の衣裳」が特典として配布されたが、それを着た無双趙雲はオリジナルのそれとまったく見分けがつかなかったほど。

ただし三國志11では年齢を重ねると顔が老将になるという日本においてはマイナーなグラフィックも用意されていた。
加齢で顔グラが変わるとは言ってもあまり違いはないキャラが多い中、趙雲のそれは全く異なる雰囲気ながらもイケメンとは別の魅力がある出色の出来なので興味のある方は後期シナリオをやってみるとよいだろう。


『三國無双』シリーズ

イケメン若武者枠。
シリーズ通しての主人公的な扱いなのか、オープニングムービーは趙雲の大立回りであることが多い。
詳しくは項目参照

『三国志~Three kingdoms~』

やはり京劇の影響か徐州攻防戦では颯爽と現れ白馬を駆り、戦場を縦横無尽に駆け回り、曹操に呂布と並ぶ豪傑と評される。
呂布が美形悪役ならこの趙雲は極めて正統派のイケメンと言える。

『三国志大戦』シリーズ

当然のように初作から蜀勢力の武将として登場。
高武力高知力に勇猛・魅力・復活と盛りだくさんの特技を持った高コスト騎兵である。
代償として計略は基本計略である「神速戦法」だが、本人の能力が強いせいで十二分に強力。
優秀なステータスと堅実な計略を持った騎兵という個性は今後のシリーズでも継承されていくことになる。
後には槍兵としても参戦し、こちらも優秀な能力に加え車輪・剛槍といった趙雲らしい派手な槍さばきの計略を所持している。

SDガンダム三国伝

演者はV2ガンダム。プラモはかなりのイケメン。
単騎駆けで有名な武将であるためか、愛馬に「飛影閃」という名がついた。
公孫瓚イージーエイトに仕えていたが、袁紹バウ(コミックワールド版では曹操ガンダム)によって城が包囲されたため公孫瓚から劉備の下へ向かうように勧められ、単騎で包囲を突破する。
なお本作には劉禅は登場しない上、劉備と孫尚香との仲も良好(というか孫尚香からの片想いに近い)ので趙雲の見せ場が演義よりも減っていたりする。
なお五虎将ならぬ「五誇将」においては趙雲がリーダーとされる。



「申し訳ありません、奥方様は追記:修正の邪魔になると自ら井戸に身を投げられまして……」

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最終更新:2021年02月21日 19:49

*1 その為か、作品によっては張飛と山賊をやっていたり、野盗の頭目に収まっていたりもする。

*2 同じ姓を持つものは遡れば同じ一族であり、同じ一族で結婚するのは道徳に外れる、という考え方

*3 きも。肝臓のことだが、「胆力がある」という表現のように、「肝臓の大きさ=度胸の大きさ」という意味で使う

*4 北へ迂回中の張コウもここを後方拠点としている

*5 ただし馬謖がやらかさずに張コウを足止めし1,2ヶ月ほど稼いでいれば落とせていたと思われる

*6 隘路の通行用に設けられた木製の通路

*7 当時は自動車など存在せず、兵隊は重武装の上で徒歩で未舗装かつ急勾配の山道を突破しなくてはならず激烈に消耗する。さらにこんな場所で馬車で兵糧を運ぶことなど到底不可能であったろうから兵糧運搬も困難である。戦闘になった時点で相当の消耗状態であったと予想される

*8 これを諡されたのは五虎将軍、諸葛亮、龐統、蒋琬、費禕、陳祗、夏侯覇と言った蜀のトップ層である。 また、順平候と諡されたのは趙雲の死後30年以上経過した時かつあまり面識のない姜維の進言によってである。 これは史実においても趙雲の評価が高かった証拠であると言える。

*9 劉備が豫州刺史時代から仕えた古参武将で丁度仕え始めた時期も趙雲と同じ頃だった。

*10 尤もそう言う性分でなければ碌な戦果を挙げることなど出来ないのだが…

*11 勿論、関羽と張飛は自身の能力で手にしたし、黄忠もそれに相応しい活躍をしているのだが。

*12 涯は「世界の果て」、角は「戦う・相手をする」、つまり「世界の果てまで行ってもかなう奴はいないぜ!」という意味。中二病である

*13 顔が

*14 三國志Ⅲにて。この作品では統率が陸指と水指に分かれており、赤壁の敗戦の影響か曹操の水指が低かった。