登録日:2025/03/10 Mon 12:44:38
更新日:2025/03/12 Wed 00:37:19
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岡谷繁実(1835~1919)とは、幕末期の勤皇家、ならびに幕末~明治期の歴史家である。
生涯
岡谷繁実は、上州館林藩(現・群馬県)の藩士の子として生まれた。
当初は秋元家に馬回り役人として出仕した。嘉永五(1852)年に江戸で高島流砲術を学び、藩主・秋元志朝の御前で砲術の実演を行った。
嘉永六(1853)年に使番、安政三(1856)年に大目付、そののち取次役と徐々に出世していった。そうして、文久三(1863)年には中老に就任した。
大目付の職務を降りたのちは、水戸で幕府直轄の教学機関・昌平黌(昌平坂学問所)にて学んだ。取次役に就任したのち、吉田松陰や高杉晋作などと交流を持ち、勤皇家となったと伝わる。
同年には、舘林藩の分領がある河内(大阪府)の雄略天皇の陵墓の修補作業を、藩主・秋元志朝に進言してこれを認められる。
繁実は「御陵修理用掛」に就任し、陵墓の修理を成功させた。勤皇家としての面目を発揮した瞬間であった。
翌年の元治元(1864)年、第一次長州征伐が勃発すると、繁実は藩主・志朝の内命を受けて長州藩との交渉に赴いた。それは、志朝が長州藩と血縁関係にあり、志朝は幕府と長州藩の対立を何としても避けようとしたためである。
しかし、志朝のこの試みは裏目に出てしまう。繁実はこの裏工作が幕府に「長州と共謀している」とみなされてしまい、幕府から家禄没収と永蟄居の罰が下された。そうして、繁実は先祖代々のゆかりの土地である武蔵国深谷(現・埼玉県深谷市)に移住することとなった。
そうして、時は流れて慶応四(1868)年。繁実は太政官内において睦人親王(明治天皇)を大坂に遷都する案に異を唱え、蝦夷地経営に適する江戸への遷都を建白した。繁実の案は、同年7月に「東京奠都」として実現することとなる。
こののち、公卿・高松保実に仕え高松家の家老職に就任した。勤皇家・小沢一仙とともに草莽隊の「高松隊」として甲府に出兵するため参謀となるが、これは太政官の許可を得ていない出兵であったため、帰還を命ぜられた。こののち小沢は逮捕され、甲府で斬首刑となり、「高松隊」の名主であった高松実村(保実三男)は謹慎を命ぜられたという。
維新後、岡谷は新政府に出仕し、岩代国巡察使に随行して会津へ赴任して若松県大参事を務めた。この頃には朝敵となっていた会津松平家の再興を太政官に建言している。
明治二(1869)年には知人の罪に連座して大参事を罷免され、広島藩預かりとなった。この頃には、安政元(1854)年から手掛けていた戦国武将の辞典『名将言行録』(後述)が完成し、初版を発行している。
その後は広島藩を出て水沢県(現在の岩手県)七等出仕として復官し、内務省出仕を経て修史館御用掛となり、明治20(1886)年には政府を退職した。
退職後は歴史家として史談会の幹事を務め、歴史研究や検証活動に尽力した。足利学校の保存や金沢文庫の再興などは、繁実の功績の一つといって差し支えない。
晩年の明治三十三(1900)年には『皇朝編年史』を刊行し、明治四十四(1911)年には続巻を含めて『名将言行録』の増補版を刊行するなど、生涯を日本史の研究に注ぎ続けた。
大正八(1919)年、繁実は死去した。享年は数えで八十五歳であった。
著書『名将言行録』について
繁実の代表作『名将言行録』は、戦国武将、江戸時代初・中期の大名、家老、儒者の総勢192名が、何を語り、どのような行動を取って生涯を送ったかなどについて、各大名家に伝えられる1251部もの膨大な文献を徹底して調べ上げた(人物によっては巷説を集めたに過ぎないものもある)上で記した歴史書の一つである。
繁実は安政元(1854)年からこの書物の執筆を開始し、戊辰戦争の混乱がようやく落ち着きだす明治二(1869)年にはついに初版本を完成させ、これを発刊した。
本書は人物事典としてかなり優れており、本書が書かれなければ、戦国時代以降の武将に関する知識の殆どが現在に伝わることが無かったとまで言えるほどの価値を持つ。その価値は、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に居並ぶほどで、本書と『近世日本国民史』以外に戦国武将の詳細な履歴をつづった書物は存在しないといわれるほどである。
しかし、本書はいわゆる『古典籍』に分類されてはおらず、それも『歴史書』ではなく『講談本』の扱いを受けてしまっている。なぜ、そうした扱いを受けてしまっているのだろうか?
それは、本書の初版発行が明治になってからのことであり、明治以降に書かれた歴史叙述系の書籍は、日本史研究者からは基本的に『歴史書』ではなく『講談本』の扱いを受けるためである。この扱いにより、一時は史料としての価値がないとされることもあった。
結果として、繁実は歴史家の扱いを受けておらず、そもそも『国史大辞典』にも繁実の名が影も形もないのである。
これが、本書やその著者・繁実の最大の不幸であるといえよう。
また、有効な史料が不足している、または史料未発見の人物の記述に関しては、当時巷間で流布していた話を参集したにすぎない箇所もある。そうすると、のちに発見された史料とつじつまの合わない点が出てきてしまい、「史実と乖離している」とみなされることも珍しくはない。この点も、本書が『講談本』や『俗本』とみなされ、『歴史書』としての価値を落とされてしまっている原因の一つである。
追記・修正よろしくお願いします。
- 『名将言行録』ははじめに引用書目を掲げているが、ほとんどが軍記で更に日本外史の様な普及はしていたが、当時から内容に問題があるとされていたもの、節用集の様な辞書も挙げられている。あと推測だけど実際には全部は読んでないのではと思うものや、他に挙げられていない種本があるんじゃないかとおぼしき箇所が結構ある。。 -- 名無しさん (2025-03-11 01:07:30)
最終更新:2025年03月12日 00:37