登録日:2025/12/30 Tue 18:17:10
更新日:2026/05/28 Thu 13:21:47
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エドワード・ドナルド・スロヴィク”Edward Donald Slovik”は第二次世界大戦で死亡した
アメリカ陸軍兵である。
当記事では愛称のエディ(Eddie)で統一する。
はじめに
まず軍隊というのは戦争で敵を殺し、また殺されることも想定された機関である。
このため規律は非常に厳しく「軍法会議」という軍人専用の裁判所が設置されて
違反者はそこで容赦ない裁きを受けることになる。
なにせ戦闘に参加したら殺される危険があったり、ミスや怠慢で大勢の仲間が死んだり
自分のせいで背後の国民が万単位で殺される可能性すらあるのだ。
一般刑法で死刑が廃止されている国家でも軍法会議では例外であり、
戦場に出たら死ぬかもしれないけど逃げた方が生き延びられるから逃げよう、では軍としては困る。
このため軍人の敵前逃亡は重罪であり、国によっては逃げようとした瞬間に上官が射殺できる権利すらある。
しかし第二次世界大戦当時のアメリカ軍はなんだかんだ言って民主主義国家の軍隊であり、
国民に選ばれた大統領に大きな権限があるが、その大統領は国民の不興を買ってはやっていけない国である。
このためホイホイと銃殺をするわけにはいかず、詳しい状況は後述するが
能動的な利敵行為やその他の犯罪をしていない単純な脱走だけの場合は
建前上は死刑だが、実際は行われていなかった。
逃亡は銃殺刑と言いつつもしばらく拘禁している間になんだかんだ理由を付けて処刑は免除していたのである。
しかしアメリカ軍が制定された南北戦争から2025年までの間にたった一人だけ
脱走しか行っていないのに銃殺された二等兵がいた。
それがこのエドワード”エディ”スロヴィクである。
生い立ち
エディは1920年にミシガン州デトロイトで生まれた。その姓の通りポーランド系アメリカ人である。
品行方正とはいえなかったようで子供のころから警察に目を付けられており
12歳のときに鉄工場で窃盗をして逮捕、そこから何度も逮捕されており
17歳の頃に投獄されて仮釈放を受けたが、
そこから3ヶ月も経たずに酒に酔って車を盗んで大事故を起こして再び刑務所に入る。
2年間のムショ暮らしを満喫して再度仮釈放を受けた1942年、
人生をまじめに考え出したエディはミシガン州の工場で働きつつも
そこで妻となる女性アントワネットと出会う。
この時期のエディは特に犯罪や不心得をした形跡はなかったのだが
本人の改心とアントワネットの愛のおかげだったのだろうか。
軍歴
さて、徴兵制度というと韓国のような「人生の一定期間を軍務に就いて終わるまでが徴兵義務」というイメージが多いが
タイの徴兵制度のように義務ではあるけどクジで当たりを引いたら回避できるチャンスがあるなどの様々なパターンもある。
当時のアメリカの徴兵制度は「徴兵登録庁に登録をして、呼び出しがあったら応じること」が義務であり
実際に徴兵されるかどうかは徴兵登録庁側の裁量であり、運がいいと徴兵されずに適正年齢を過ぎる可能性もあった。
このため黒人差別意識が根強い当時は
栄誉ある国防を黒人に就かせるのは気に入らないから徴兵しないか、しても目立たない裏方にしか就けない
でも黒人が名声ある仕事をしてるのは生意気だから
キャリアが潰れる時期を狙って徴兵をかける
なんて事例が問題になっていたこともある。
エディについては「度重なる素行不良で懲役経験もある」という状態から兵役不適格とされていたが
戦争の長期化による兵隊不足から基準が緩和されて
一年以上真面目に働いていたエディが軍務適格認定を受けたのである。
ちょうど結婚一周年記念のプレゼントとして招集通知が贈られた。
1941年1月にエディは軍務を開始し、基礎訓練の後は米国内の補給基地勤務を経て
8月にヨーロッパ戦線への参加を命ぜられフランスへ派遣された。
彼の手紙などの記録を見る限り、窃盗を繰り返して投獄されたといっても
ガラの悪いチンピラというより
気が弱くて自らを律することができなかった小心者
に近かったようだ。
武器や暴力を極端に嫌っていたため訓練中も彼が投げる手榴弾だけはダミー弾で
教官はエディの落伍を注意して特別に目をかけていたとされている。
後述の理由でエディがアントワネットに充てた手紙の大半は残っているが、
1/26
ハニー、君に顔を見せられなくてすまない。かなり苦労しているよ。軍隊生活は俺には向かないみたいだ。
1/31
歩兵隊に17週間いることになりそうだ。でもその後はわからない。正直に言うよ。手紙を書こうと机に座るたびに泣けてくるんだ。なんて不幸なんだ。
2/24
君も苦しんでいるんだねハニー。だけど俺にもどうにもできないんだ。どうすれば俺は君とまた一緒にいられるんだろう。
この場所は本当うんざりだ。
脱走したくなるよ
。どうしてもう6ヵ月くらい
追加で刑務所に入っておかなかったんだろう。
そうすればいつでも君と会えたのに。
1941年8月、エディは陸軍第28歩兵師団第109歩兵連隊G中隊に配属され、フランス内の任務地アルバフに移動することになっていた。
しかし友人の二等兵ジョン・タンキーともども夜間の砲撃時に原隊とはぐれてしまう。
駐留していたカナダ軍と合流して6週間ほど後方で暮らした後に10月8日に原隊に戻ったのだが、
エディは戻った直後に直属の上官に相談をする。
前線のライフル中隊での勤務が恐ろしすぎるから後方勤務に配属してほしい。
もし
前線勤務になったら脱走する
つもりなのだがそれは罪になるだろうか、と
上官はそれを受けて即座に軍法会議を開くが、
どちらかというとエディをただちに罰するためではなく
エディの主張はその通りになるだろうという説明と、
今なら何も聞かなかったことにするから前線でがんばってみないかという訓導のためだった。
もちろん軍法会議である以上公的な記録には残るため
後々の
材料として採用されてしまうのだが。
そして翌日、エディは脱走した
。
ジョン・タンキーが追い付いて戻るように説得を試みるもエディの意志は固く
エディは後方の司令部の部隊まで歩いた後にそこの下士官に手書きの手紙を手渡した。
私、エディ・D・スロヴィク36896415はアメリカ陸軍からの脱走を告白いたします。
私はフランスのアルバフに向かう予定でしたが、アルバフに行きませんでした。
私たちは砲撃にさらされながら自分たちの塹壕を掘っていましたがずっと恐怖で震えていました。
他にも震えて動けなくなっている者やそのまま死んだ者がいましたが
私も塹壕の中で震えて隠れているとやがて誰もいなくなりました。
私は街を出て一泊した後カナダ軍憲兵に自首してそこで6週間過ごしました。
アメリカの憲兵に引き渡されたあと上官に説得されました。
彼らは私の要望は叶えられないと言ったのでまた逃げ出しました。
もしまた前線に戻されるならばまた逃げ出すつもりです。
以上の内容に署名します。 二等兵エディ・D・スロヴィク アメリカ陸軍認識番号36896415
今回の脱走だけではなく最初のアルバフの件も事故ではなく意図的に合流をしなかったという
自白
である。
しかも上官に説得されてもなお自分の意志で決めた上での脱走。
戦場で銃弾が飛んでくる恐怖で衝動的に逃げたのではなく安全な状態で脱走しましたという告白を文章にしたためて提出したのだった。
手紙を受け取った下士官は軍警察を介した後に中隊長へ提出する。
中隊長は「今手紙を破り捨てれば何もなかったことにする。適当な理由で司令部が呼んだことにするから元の部隊に戻りたまえ」と
エディに告げるが彼の決心は変わらなかった。
大隊長も同じように説得するがそれでも同様だったので
「私はこれにより自分に起こることを了解して自分の意志でこの手紙を書きました。この手紙が軍法会議の材料に使われることも理解しています」
という文章を手紙の裏に書くように指示してエディは従った。
エディは師団の営倉に拘禁され、軍法会議の準備が始まる中で師団法務官ヘンリー・ソマー中佐がエディを説得する。
今起訴を取り下げれば部隊に復帰できる。後方勤務には回せないが
まったく別の歩兵連隊に転属させて君のことを知らない者と軍務ができるようにしよう。
残り9か月がんばって生き延びれば大手を振って奥さんの元に帰れるぞ、と。
これが3度目にして最後の説得ではあるのだが、エディは変わらず軍法会議を希望した。
これによりエディの軍隊生活は終了することとなる。
軍法会議
ここで当時の米軍の状況に触れておくと、エディが所属していた第28歩兵師団は
ヨーロッパ西部戦線、ドイツのヒュルトゲンの森で戦闘をする直前であった。
当時の一般兵の間でも戦闘は不可避で大量の犠牲者が出ることは周知されていた。
なおこの戦いは9月から翌1945年の2月まで続く長丁場の末にアメリカ軍の作戦失敗で終わるのだが、それは別の話
なにせ本来ならエディの軍法会議は所属している第28歩兵師団が運営すべきだったのだが
師団の高級将校は
全員が激戦の真っ最中なので
他師団の将校が代行していた。
そして前述の通りアメリカは国民のお子さんを戦線に無理やり徴兵する関係上
不満や不平が出るのも当然であり、それが爆発して選挙のマイナス材料となることは避けられがちである。
よってただ逃げただけでは懲役までで許していたのは事実だった。
どうもエディはそれを認識していたらしく、前線で戦うよりも軍法会議で懲役刑を受けることを狙っていたらしい。
ただし既に戦線は苛烈を極めており、戦死者も大勢出ている上に
エディのような逃亡や犯罪、戦闘できない程度の自傷をする兵も徐々に出始めていたのであり
アメリカ軍も無条件で免罰をしていたわけではなかったということまでは理解できなかったようだ。
今も
家族との再会を夢見て死の恐怖と戦う兵士は世界中に何万人もおり、
彼らに危険な命令を出さなければならない立場の将校がこれからエディを裁くのである。
11月11日に軍事法廷が開廷されて裁判長役は師団長のノーマン・コタ少将が就き、
検事役のジョン・クリーン大尉がエディの脱走を証言する証人を提示する。本人が執筆した自白の手紙もあるし
弁護役のエドワード・グッズ大尉も弁護材料を用意していたのだが
エディが提示を拒否させた。
エディはカナダ軍に勾留されていた6週間は厳しい労働にも進んで参加しており
戦闘行動を忌避しているだけで愛国心や奉仕精神自体はちゃんと備えているのだ、という主張で情状酌量を狙うことはできたし、
エドワードや判事はそれを提出する権利があることを説明したがエディは一切の証言を拒否した。
おそらくは確実に有罪になることを狙ったと思われるのだが、ちょうど他にも似たような軍事法廷が開かれており
情状酌量証拠を積み上げてなんとか死刑を回避できていた
というのは知らなかったらしい。
軍事法廷の9人の判事は全員一致でエディを「有罪、死刑」と宣告した。
ノーマン・コタ少将はそれを承認して告げた。
1944年10月のヨーロッパ戦線で私が知っている状況を踏まえて、我が国に対してこの判決を承認する義務が私にあると感じた。
もし承認せずエドワード・スロヴィクの目的を果たさせていたら、私はこれから前線で
良き兵士たちに対して
どう向き合えばいいのかわからない。
もちろん判決を受けたエディは愕然とし、最高司令官のアイゼンハワー大将に減刑嘆願書を送った。
しかし12月を過ぎヨーロッパ戦線がさらに地獄と化している時期であり、寛容を見せる余裕はなかった。
大将の補佐法務官フレデリック・ベルトレット少佐
エディが前線の塹壕よりも
快適な営倉の生活を、
戦闘の危険よりも拘禁を求めたことは疑いようがない。
彼や彼のような兵士をその望み通りにすれば拘禁は何の罰にも抑止にもならない。
彼は合衆国の権威に直接挑戦していて、それへの応答で今後の兵への懲戒が決まる。
兵の脱走に死刑が適用されるのは、その兵個人への報復や懲罰のためではなく軍隊が敵に対抗するための規律維持のためである。
本件に寛容を勧告する必要は感じない。
陸軍最高位法務官 E・マクニール
これはおそらくアメリカ陸軍80年のうち初めてのケースとなる死刑宣告だろう。
死刑は極端な刑罰だがこれは正当化されるべきと考える。
彼は
前線の戦闘を一度も経験せず
その部隊に合流する前に故意に逃走している。
それ以降の彼の行動も一貫して安全な拘禁と裁判を得るために計画的に活動している。
判決は予想外に重かったが、これを免除しては兵士たちが日々直面している危険からの解放を許してしまう。
徴兵前の
民間での不愉快な経歴
を考えても恩赦の必要性を感じない。
最後の説得をしていたヘンリー・ソマー中佐
本件の死刑判決は妥当だろう。エディは脱走の常習犯だ。
彼は一度も経験していない実戦が近づいてくるからと逃げ出し、必要があれば「また」逃げると公言しているのだ。
軍務を適切に終えた軍人は「名誉除隊」とされて
いくつも特権が与えられる上に国民が敬意を持つ対象とされる。
だが罪を犯した場合は「不名誉除隊」といって退職金や特権がない上に
前科のようにマイナスの評価として残り続けるのだ。
エディはこの軍事裁判で不名誉除隊と一年程度の懲役刑を想定したらしく、
元から前科者のエディは不名誉除隊も懲役刑も大したことではない。
しかし徴兵前からろくでもない奴を
特別に軍務で挽回する機会を与えたのに
さらに逃げたとなると
マイナス評価がさらにマイナスに作用したのだろう。
処刑とその後
12月23日、アイゼンハワー大将は処刑を承認した上にエディに続く脱走者の防止のために規律を引き締める命令を出した。
エディが妻アントワネットに送った最後の手紙である。
すべて終わったよ。俺の人生で運が良かったことは一つもなかった。
唯一の例外は君と出会って結婚したことだけさ。
幸せ過ぎて長くは続かないだろうなと思ったさ。奴らが俺を幸せなままにしとくはずがなかった。
ちなみにアメリカ軍はアントワネット夫人に対して
夫が有罪判決を受けて処刑されることを通知していなかった。
この通り本人の手紙を禁止していなかったしそんな大事なこと自分で言うでしょ?というスタンスだったそうだ。
1945年1月31日10:04 フランス郊外でエディの銃殺刑が執行される。
銃殺隊
エディ、緊張すんなよ。俺らなんかいないと思って気楽にしたほうがいいぞ!
エディ
大丈夫さ!俺はアメリカ軍を脱走したから撃たれるんじゃないぞ!
それだけなら今まで何千人も逃げてたんだ!
俺が12歳の時にパンとガムを盗んだから撃たれるのさ!
兵隊に見せしめが必要だから前科者の俺でそうするためにな!
射殺されたエディの遺体はフランスの郊外の重犯罪者用墓地に埋葬され、
墓碑には番号のみが刻印されたために軍の持つ対照表がなければどれがエディの墓かわからない状態だった。
アメリカ軍からすれば処刑が適切な男であってもアントワネットにとっては愛する夫である。
アントワネット
未亡人
はエディの名誉回復や遺体の返還、遺族年金の支給を求めて
1979年に亡くなるまでの34年間、大統領7代にわたって嘆願書を送り続けたがかなわなかった。
2025年に至るまで公的にはエディの名誉は回復されていないが
アントワネットの死後も有志が請求運動を続け、署名と寄付により
エディの遺体をミシガン州の墓地でアントワネットの隣に再埋葬することはできたのだった。
ANTOINET SLOVIK
WIDOW OF Pvt EDDIE SLOVIK
SEPT.7,1979
CONPASSION and JUSTICE unto moment unfullfilled.
慈愛と公正いまだ為されず
Pvt. EDDIE D SLOVIK
FEB.18,1920 - JAN.31,1945
HONOR and JUSTICE prevailed
名誉と公正為しえたり
まとめ
当時の感覚ではエディの銃殺は真っ当な判断であり異論もあまりなかったのだが
現在では良心的兵役拒否などの考え方も理解されており
後年のアメリカではいろいろと議論の原因となっているエディである。ぶっちゃけ政治利用する連中とかも絶えない
ここのコメ欄での議論はほどほどにお願いします。
現在のアメリカ軍であれば徴兵が復活したとしても前線以外で活躍できる措置も残すと思われるために
エディのような状況はまず発生しないと考えられる。
義務から逃げようとしたけど流れを読めなくて死刑にされたおまぬけちゃんとも
暴力を良しとせずに死刑にならざるを得なかった被害者ともいえるが
そんなエディについてひと時だけでも思いを馳せてくれれば幸いである。
追記・修正は逃げずにお願いします。
- 逃げ出したくなるのも理解できるし、そんな命の危険に晒されたことないから彼のことはバカにはできないな。 -- 名無しさん (2025-12-31 08:39:26)
- 臆病であることは罪ではない。だが自らに差し伸べられた救いの手を、そうとは知らずに(知ろうともせずに)振り払ってしまったことは愚かである -- 名無しさん (2025-12-31 09:09:09)
- 何事にも限度があるという例か -- 名無しさん (2025-12-31 18:24:46)
- 変に寛容な姿勢を見せたら新たな脱走兵が生まれかねないからな 見せしめは要る -- 名無しさん (2026-01-03 22:09:21)
- 米軍からすれば処刑は残当で自ら名乗り出ても殊勝ではなく軍をナメてる証左。本人は死にたくないってのはわかるが自分で最悪手を選び続けてる。奥さんにとっては更生した後の夫しか知らんし新婚一年後に徴兵されて犯罪者として遺体も返さないとか悪夢でしかない。そりゃ議論が盛り上がるわな -- 名無しさん (2026-01-08 18:17:45)
- ヒュルトゲンの戦いで米兵12万のうち3万人以上死んでるから、エディより先に劣悪な戦場で戦死した兵士が3万いるんだよな。そりゃ温情は出せない -- 名無しさん (2026-02-10 19:05:25)
最終更新:2026年05月28日 13:21