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ベイダー(プロレスラー)

登録日:2026/02/04 Wed 15:32:53
更新日:2026/05/28 Thu 19:47:08
所要時間:約 15 分で読めます





it's Vader Time!!


Vader(ベイダー)のリングネームで知られるレオン・ホワイト(レオン・アレン・ホワイト)は、米国のプロレスラー/元アメフト選手。故人。(1955年5月14日 - 2018年6月18日)
享年63歳。

特に知られたリングネームは最初に新日本プロレスに参戦した際の“皇帝戦士”ビッグバン・ベイダー(Big Van Vader)だったが、他にも時期によりSuper Vader(スーパー・ベイダー)や、Big Vader(ビッグ・ベイダー)、また単にVader(ベイダー)のリングネーム等を用いていた。

この他、デビュー時には本名やベイダーに変身する以前には別のリングネームを用いていた。詳細は後述。
恐らくは、というかリングネームの元ネタはダース・ヴェイダーから。
日本デビュー当時は永井豪のデザインによる宇宙人風の兜(オーバーマスク)から白煙を噴き出させるパフォーマンスも定番だった。
永井豪によるとマスクのアイディアを考えただけでリングネームには関与していないとのこと。
また永井の案はオーバーマスクの下からモクモクと煙が吹き上がって顔を隠し、それが晴れる頃には下から新たなマスクが出たらかっこいいだろうというものだったが
実際に出来上がったのはマスクの頭頂部から勢いよく上にスモークが吹き上がって「全然違うじゃん!?」と驚いたそうな。

当人はカリフォルニア州リンウッド出身だが、ギミック上では後述の出身大学からかコロラド州デンバー、或いはロッキー山脈の出身ともしていた。

2m近い身長に、200kgにも迫る体重を誇る巨漢選手ながら、NFL出身の高い身体能力を誇り、格闘系の試合にも対応できる万能型の選手として日米にてトップレスラーとして活躍した。


【来歴】


プロレス以前

若い頃は(アメリカン)フットボールに打ち込んでおり、ハイスクールの頃には全米レベルのセンターとして40もの大学から勧誘される程だったという。
コロラド大学に進学してオフェンシブラインでプレー。
全米セカンドチームにも選出され、ジャパンボウルにて来日している。
卒業後はロサンゼルス・ラムズにドラフト3巡目で入団するも、大学時代から悩まされていた膝の怪我の度重なる手術からレギュラーシーズンの試合には出られないままに引退することになった。

尚、入団2年目の頃に第14回スーパーボウルのピッツバーグ・スティーラーズとの試合に出場したと主張し、自身でもその証となるスーパーボウルリングを誇示していたことでも有名だが、この話題については実際には出場しておらずリングはレプリカだったのではないかという疑惑がある。

プロレスデビュー

アメフトから引退した後は、腕っ節を活かしてWBA世界ヘビー級王者マイク・ウィーバーのスパーリングパートナーとして雇われるなどしていた。

そんな中でプロレスに転向することを決意し、レスリング出身の強豪でトレーナーとしても活動していたブラッド・レイガンズの指導を受けて、1985年に30歳にしてAWAにてプロレスデビュー。 
意外なことに、デビュー時は本名のレオン・ホワイトでベビーフェイスだった。
このAWA時代は日本マットを主戦場としていたスタン・ハンセンがチャンピオンとして活動していた時期であり、遅咲きながら同じくフットボール出身のベイダーをハンセンも気に入っていたのか、新人ながら幾度も挑戦権を与えられると共に試合を行っている。

その後は、ブル・パワーを名乗って伝統的なレスリングが根付いているヨーロッパに参戦。
ドイツのCWAでは新日本プロレスへの参戦でも知られる代表兼エースのオットー・ワンツに勝利してベルトを預けられるなど、ここでも優遇された扱いを受けている。
ちなみに、当時のCWAでは修行時代の蝶野正洋も世話になっており、言葉が通じないながらもマルティナ夫人と親交を深めていたとのこと。

そうして、新人といえるキャリアながら実績を重ねていたベイダーを見初めたのが外国人レスラーの世話役兼交渉窓口を担っていたマサ斎藤で、上記までの通りで親交のあるオットー・ワンツの下を訪れた際に声をかけて日本でのデビューが決定する。

新日本プロレス

こうして、1987年12月に大々的な日本デビューを果たす……ことになったのはいいものの、このデビューはベイダー当人とは微妙にズレた形で新日本プロレスどころか日本マット史に残る汚点/大事件として記憶されることになる。
何しろ、ベイダーは単に新外国人レスラーというだけでなく、人気タレントであるビートたけしに率いられてプロレス界に挑戦するというで結成されたTPG(たけしプロレス軍団)の刺客として登場。

更には、両国国技館大会というビッグマッチで本来の予告されていたメインイベント(しかも、アントニオ猪木vs長州力のIWGP王者戦というファン垂涎のカード)を反故にした上に猪木を3分程で秒殺するという衝撃的な登場を果たし……集まったファンに暴動を起こさせる程の大騒動となる。*1

……現在から振り返ってみれば、明らかに新日本プロレスとテレビ朝日がプロレスに興味があると話していたたけしをも巻き込んでの大仕掛けなのだが、当時のプロレスを純粋な目で見ていたファンの多くはそんな事情を察することが出来ず、しかも真面目に論じられてきた猪木の限界論を若い長州が打ち砕くのか……と日々の妄想を滾らせていてからのコレに怒りを爆発させてしまったのである。
……結局、会場に放火をする奴まで現れたという前代未聞の暴動の責任を取らされる形で新日本プロレスには300万円近くの損害賠償請求に加え、両国国技館無期限使用禁止のお達しが相撲協会から下った。*2
そして、本気でプロレスファンから睨まれてしまったたけしもまたプロレスに関わることを止めることになりTPGも自然消滅した。*3

このように、当初の目論見こそ大半が失敗に終わったもののベイダーの日本デビューだけは成功。
1988年からは新日本の外国人エースとして活躍していくこととなり、猪木や藤波、長州……後には三銃士の前に立ち塞がることとなった。
また、新日本プロレスがこれまでとは全く別方向からの勢力として招聘したソ連(ロシア)のレッドブル軍団(ロシアのアマレス軍団)ともしのぎを削った。
こうして、新日マットで圧倒的なパフォーマンスを見せつけたベイダーはIWGPシングル&タッグ王座にも就くなどして活躍した。
また、ベイダーの参戦していた頃は新日本と全日本プロレスが積極的に交流を持っていた時代であり、この時でも本格的に両団体のトップ層の日本人選手が本格的にぶつかることはなかったものの、その替わりなのかデビュー当時に胸を借りたハンセンとは両団体のトップ外国人として幾度か激突している。
結果は何れもノーコンテストとなったものの、特に1990年2月10日に行なわれたハンセンを挑戦者に迎えてのIWGP王座戦は自身で生涯のベストバウトと語る位の激闘となったものの、この試合はハンセンがベイダーの右目を抉り出した試合としても語り種となっている。
アクシデントとはいえ、これ程のことが起きた*4のに両者は最後まで試合を成立させている上に、後にベイダーが全日マットに参戦した時にはタッグを結成するなど関係が壊れるということはなかった。


WCW

1991年からは新日での活躍が認めらると、新日の提携先でもあった元NWA勢力が集うWCWから声がかかり、日本でのキャラクターそのままにトップ選手として迎え入れられてエースであるスティングからWCWヘビー級王座も奪取。
そのまま、ヒール側の実力者としてスティングの他にもリック・フレアーやロン・シモンズ(ファルーク)とも激闘を繰り広げたものの、当人にとってはハードヒットが出来る日本マット界の方が好みに合っていたようで、WCWに身を置きつつも再び日本マット界にも復帰することになる。

UWFインターナショナル

1993年5月に再来日したベイダーが参戦したのは古巣の新日ではなく、まさかのU系(格闘系プロレス)のUインターで“スーパーベイダー”を名乗って参戦。
通常のプロレスよりも“リアリティ”を意識したUインターでもゲーリー・オブライトと並ぶ最強外国人として君臨した。
相手の技を“受けない”はずのUインターでも、圧倒的な体格とパワーでパワーボムを成立させてしまうなど、改めての怪物的な強さを見せた。

猪木引退カウントダウン

そうして、WCWとUインターでの活躍が知られていた中で恩人の一人である猪木直々に声がかかり、当時に新日が不定期に展開していた猪木引退カウントダウンの1.4東京ドーム大会での対戦相手として指名がかかり、久々に“ビッグバン・ベイダー”として登場。
猪木との試合前でのやり取りでは直々に「何をしてもいい」と言われたとのことで、肉体に衰えが見えた50代後半の猪木に目を背けたくなるような超急角度ジャーマンを見舞って大観衆を騒然とさせた。
その他にもUインターでの参戦で身につけたベイダーハンマーでボコボコにしながら「ガンバッテー!」と叫ぶなど、傍目からは異様に見えるテンションで猪木を責め続けるが.最後は一瞬のアームバーで逆転負けを喫する。

WWF

東京ドームでの試合を終えるとWCWとの契約を終えて.希望していたWWFに参戦。
ここでもトップレスラーとして迎え入れられて、当時の主役であったショーン・マイケルズ、ブレット・ハート、ジ・アンダーテイカーらと戦い、再三に王座挑戦権も与えられたもののタイトルには届かず。
WWFが従来のアメリカンプロレスのスタイルから離れたアティチュード路線に転換しようとしていたこともあってか、短期間でフェードアウトすることになる。

全日本プロレス

97年5月に同じくWWFに参戦していたケン・シャムロックとの試合貸し出しの形でFMWに参戦して日本マット界に復帰。
そして、WWFとの契約を残したまま98年5月に全日本プロレスに参戦。
当時の全日本プロレスは“四天王プロレス”が聖域となっていた時期であり、既に40代に突入していたベイダーは流石に衰え始めたのではないかと言われていたものの、実際には相変わらずの圧倒的なパワーを見せつけて、次々と四天王すら撃破するなどの活躍を見せた。
WWFとの契約が正式に切れた11月からは本格的に参戦を開始。
再会した先輩ハンセンとの最強コンビで世界最強タッグ決定リーグ戦にて、圧倒的な破壊力を見せつけて全勝街道を歩むも準優勝。
翌99年早々のジャイアント馬場の逝去を経ての新路線では、新たなる最強外国人として三冠王座奪取。
ハンセンが一線を退き、オブライトが早逝して姿を消す中でスティーブ・ウイリアムスと組んで世界タッグ王座を奪取するなどするも、全日自体の分裂騒動により参戦を終える。

プロレスリングNOAH

2000年10月から、馬場への恩義から殆どが全日本への残留を口にした古参の外国人レスラーとは違い、同じく新参でWWF出身のスコーピオと共に早々にNOAHに参戦。
初代GHCタッグ王座に就くなど、NOAHでも最強外国人としての地位を維持するかと思いきや精細を欠きはじめて、試合中の負傷もあってか早々にフェードアウトした。
……実は、元からアルコール好きではあったが年齢を重ねる中でプライベートでの酒にまつわるトラブルが大きくなっており、遂には滞在中のホテルで自傷騒ぎなどを起こす等していたためにNOAHの上層部から切られた、という話も伝わる。

晩年から逝去まで

NOAHから離脱した後は実質的にセミリタイア状態となり、様々な団体や興行へのゲストや短期間での参戦をするようになる。

03年には“ビッグ・ベイダー”のリングネームでWJプロレスに参戦。

05年以降は、自身でも最も思い出深い“ビッグバン・ベイダー”にリングネームを戻している。

しかし、本格的に活動を縮小したのは2007年に長いレスラー生活の中で取り残す形になってしまっていた妻に離婚された後のことだといい、それ以降は飲酒も絶ったのだという。
しかし、この晩年にはフットボールとプロレスを長くつづけたことを原因とする心臓に関わる健康問題の不安が幾度も取り沙汰されるようになっていたことでファンを心配させており、実際にうっ血性心不全とも診断されていた。
せっかく、イベントや試合に参加しても会場で倒れてしまうなどしてしまっており、肘と膝の関節もボロボロであった。
2016年には2人の医師から余命2年と宣告されたと告白。
後に公表したことを後悔してると語りつつもプロレスビジネスに関わり続けたいと述べ、どうせならリング上で死にたいとすら語っていた。

そして、2018年3月に心臓手術を受けるも、事後がよくなかったのか5月に不整脈で再び手術。
その後に肺炎を患ってしまい、一月もの入院を経て6月に逝去。63歳だった。
尚、当人としては長く輝かしいキャリアの中でWWF(WWE)とNOAHではシングル王座を獲れなかったことを悔やんでいたという。

【得意技】

前述のように圧倒的な体格の持ち主でありながら驚異的な身体能力を誇り、数々の殺人技を使いこなした。
また、超大型選手でありながらパワー殺法とは相反する飛び技まで使いこなしたのは驚異的で、流石に飛び技に関しては似たような体格で別次元の運動神経を誇ったビガロには及ばないものの、パワー面ではベイダーの迫力が優っていた。
また、元々の格闘技のキャリアのスタートが現役ヘビー級ボクサーのスパーリングパートナーであったという事実からも解るように、格闘技系の動きにも対応できる多彩な才能があった。

■ビッグ・クランチ
ベイダーの使用するパワーボムのこと。
主に投げっ放しの形で使われることが多かった。
使用歴も長く、この技の威力を知らしめると共に流行させた一人である。
Uインター時代はうつ伏せに抱え上げた相手を強引に叩き落とす“リバース・パワーボム”も見せていた。

■チョークスラム
パワーボムと並ぶ得意技で、怪力を活かして自分の身長より高くまで相手を吊り上げてから落とすことが多かった。
NOAH参戦時には、相手をコーナーポストに後ろ向きに座らせた状態から股下を通して腕を差し入れて首を掴み、通常よりも更に高い位置から落とす“スカイハイ・チョークスラム”を開発している。

■投げっ放しジャーマン
パワーと体型もあってか凄まじい超急角度になることが多く、前述の通りで猪木に放ったものはプロレス史に残る程の衝撃的な場面となった。

■変形アバランシュホールド
相手を横向きに抱え上げた後に、そのままの体勢で浴びせ倒すように叩きつけていく技。
単純ながらキャリア前期にはフィニッシュとしても頻繁に用いられたが、レパートリーが増えてからはボディプレス系統の技への繋ぎとして、相手だけを投げ落とす形で使用することが多かった。

■ベイダー・ハンマー
パンチを使えないUインター参戦時に開発。
“オープン・ハンド・ブロー”とも呼称されるが、実際には前腕部の内側で相手を殴っていく技で、キャリア後年のベイダーの試合の組み立てに於いて猛威を奮った。
単純な攻撃なのだが、とにかく圧倒的な体格を誇るベイダーにやられると即座にグロッキーにまで追い込まれてしまうのである。

■ラリアット
やはり得意技で、ハンセンのように切れ味がある形ではなく、体格を活かして腕をぶつけていくだけの形式なのだが、それでも相手を十二分に仕留められるだけの威力はあった。
実際に仕留められた川田利明も、フィニッシュ級の威力があると認めた上で「ハンセンのようなラリアットを身につけられたらヤバい」と発言した時がある。

■ベイダー・アタック
所謂ボディアタック。
体格を活かして走り込んだり、コーナーポストに押し込んだ相手にぶちかますことが多かった。
また、無造作に走り込んできた相手にカウンターで当てることもあったが、その一撃だけで相手をグロッキーにする程の威力を誇っていた。
全日本プロレスに参戦時には、ぶちかました後にそのまま倒れ込むベイダー・アタックでタフな小橋建太を仕留めている。

■ビッグバン・クラッシュ
ベイダーの使用するボディ・スプラッシュ(ボディプレス)。
基本的にはその場飛びの形だが、セカンドロープに乗った状態から仕掛ける場合もあった。

■ベイダー・ボム
いわゆるリバース・スプラッシュと呼ばれる技。
相手をコーナー近くに横向きに寝かせた後でセカンドロープに乗り、セカンドロープを掴んだ状態からボディプレスを仕掛けて圧殺していく技。
WWF時代から見せるようになり、後年には通常時のフィニッシュとしても用いられることが多かった技。

■ベイダーサルト・プレス/ムーンサルトプレス
ベイダーのキャリアを通じても最大級の必殺技として認識されている技で、あの巨体を宙に舞わせてのムーンサルトプレス。
実は、ムーンサルト自体は肉体を回転させるという意味では決して難易度が高くないと言われつつも、やはりベイダー程の体格で実戦に使えるレベルで持ち技でしてみせたという部分が大きく、実際には外されたり返されることすらあったものの(ベイダー自身にとっても)最も危険な技としての認識を保っていたのだろう。

【余談】

  • “ベイダー”を名乗るようになってからは一応はマスクマンなのだが、試合の中でエキサイトして脱いでしまうことも多く、後にはお馴染みとなったマスクと言うよりは装飾品のようなバンド風のマスクのみを付けるようになった。
    そのため『水曜日のダウンタウン』にて筋肉芸人となった松本人志が実際にプロレス会場で“新人に混ざっててもバレない説”を検証した際にマスクの一つとして出された際には「丸見えやないか。ほとんど身や」とツッコミを受けた。

  • 格闘ゲーム『餓狼伝説』シリーズのビッグ・ベアのモデル。……そのため、せっかく素顔になったという設定なのに後に肖像権の都合からかライデンに戻ってしまった。

  • あまりリングコスチュームを洗う習慣がなかったらしく、三沢光晴曰く「悪臭も大きな武器であった」とのこと。(ついでに組んでたハンセンも)

  • 実は“ビッグバン・ベイダー”というキャラクターのみは最初にテレビ朝日に用意されて決まっていて、マサ斎藤が推すベイダーが選ばれたのは後からのことだったとのこと。
    ちなみに、他の候補は後にWWFでアルティメット・ウォリアーになるジェームズ・ヘルウィッグ、もう一人は当時は新日本の練習生で、後にWWFでデモリッションズ・クラッシュとなるブライアン・アダムスである。

  • 新日本プロレスにおける闘魂三銃士の武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也、および全日本プロレスにおける四天王の三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太の全員とシングルで対戦し、なおかつ全員に勝利を収めた唯一のレスラーである。



追記修正ガンバッテー!ガンバッテー!ガンバッテー!(ボコボコバカスカ)

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最終更新:2026年05月28日 19:47

*1 新日本ではこの年の3月に行われた大阪城ホール大会でも暴動騒ぎが発生しており、結果として1年に2回も暴動が起きてしまう事となった。

*2 その後、国技館使用禁止に関しては1989年2月に解除された。

*3 一説には、この頃のたけしが唐突にプロレスに接触したのはテレビ局に乗せられたのもあるだろうが、虚々実々の“リアリティ”をアドリブすら交えながら作り上げていくプロレスの構造に興味を示していたからという話も。しかし、この時の件で肝心のファンが真にプロレスの構造を理解していないことに気付いて失望したのがプロレスから手を引いた理由という話もある。……実際、たけしは以降の番組作りや映画作りでは普通にプロレスラーを起用しているので、寧ろ選手やプロレスの仕組みについては好意的なままだと考察できる。

*4 後に帰国したベイダーは眼球を摘出した上での眼窩底骨折の手術を受けている。