氷のコロシアム


氷獄塔の頂は、巨大な円形闘技場の
如き空間だった。青く澄んだ空には
大きな虹が架かり、磨き上げられた
氷の床がそれらを映して目映く輝く。

大気は薄く、冷たい。地表から数千
メートルの高空で、風は地平の彼方で
唸っているかに遠く響く――。

コロシアムの中央に、至高王はいた。
この限りなく天に近い高みから、
四方を睥睨している風であった。
仮面から覗いた口元に薄く笑みを
浮かべ、彼はD・S一行に向き直った。

D・S:
やい、カル! テメエまだ思い出さ
ねえのか? 何に取っ憑かれてるのか
知らねえが、これ以上俺様の邪魔を
すっと承知しねーぞ!

至高王:
フッ……憑かれているだと。魔戦将軍、
卿らもそのような戯言を真に受けて
私に刃向かうのか? イングヴェイ?
ラン?

ラン:
し、しかしカル様――

イングヴェイ:
我々は……真実が知りたいのです!

至高王:
卿らの忠誠とはそんなものか……
失望したぞ。良かろう。ならばそこで
私とD・S、どちらが正しいのかを
見定めるがいい――

ラン:
カル様……単に憑かれているようにも
見えない。何かお考えが――?

イングヴェイ:
済まぬD・S……我々はやはりカル様
に刃は向けられぬ

D・S:
仕方ねえ。魔戦将軍抜きで戦うって
ことになるか

D・S:
思い出させてやるぜ、カル!
テメエは俺のモンだってな!

至高王:
笑止! ここで氷の塵となれ、D・S!

至高王:
やはり魔人、手強いな……久しぶりで
遊び過ぎたか。そろそろ本気でいくと
しようか

D・S:
くそっ! ヤロウまだ余力を残して
いやがる……

ヴァイ:
押され気味だぜ! 魔戦将軍がいない
のが厳しいな――

イングヴェイ:
……このままでは! 私はどうすれば
いいのか……?

その刹那、凄まじい雷撃の束が数条、
蒼天から至高王めがけて降り注いだ。
虚を衝かれた至高王は稲妻の直撃を
受け、発火した衣服が全身を炎に包む。

イングヴェイ:
ああっ!? カル様ぁ――!

ネイ:
安心しろイングヴェイ。奴は――あの
至高王と名乗る男はカル=スなどでは
ない!

イングヴェイ:
あ、貴女は……雷帝アーシェス・ネイ!

長い髪をなびかせ、颯爽と現れたのは
単独で至高王の近辺を探るべく一行を
離れていたネイであった。

ネイ:
ただいまダーシュ。いいタイミング
だったかしら?

D・S:
アーシェス! さすが俺の可愛い娘
だぜ。ご褒美にこうだっ!

ネイ:
あああっ……そこはダメェ

ヴァイ:
んなコトやってる場合かあーっ!

カイ:
ネイ様! よくぞご無事で……ううっ

シーン:
ネイ様ぁ!

ネイ:
お前たちもよくダーシュを支えてくれ
たな……だが、再会を祝うのは後だ

ラン:
ネイ様――至高王がカル様ではない
とは、一体……?

ネイ:
うむ。あの男はカルに化けて魔戦将軍
を離反させ、うまくすれば我々が同士
討ちするように仕向けていたのだ――

イングヴェイ:
そんな! そんなことが――

ネイ:
奴の名はガイン・エスペランザ。この
名前に聞き覚えあるわよね、ダーシュ?

D・S:
ガイン……あいつが? だがどうして
――

ガイン・エスペランザ――その男の
名は、D・Sの記憶を百年近くも
さかのぼらせる……。

D・Sに付き従う四天王――それは
誕生以来四百年にわたるD・Sの
人生の中で、その一時代において
最強の配下四人に与えられる一種の
称号であった。

ある者は年老いて死に、またある者は
過去に幾度となく行われた苛烈な戦い
の中で命を落としていった。そうした
穴は新たに選出された実力者によって
埋められ、D・S四天王の座は代替わ
りしていくのである。

百年ほど前の時代。この当時は、現在
四天王と称される者はひとりとして
その座に就いてはいなかった。最も
普通の人間に近いガラはまだ世に誕生
しておらず、ハーフエルフのネイは
まだ幼い少女であった。そしてカルも、
D・Sに拾われたばかりで、未だその
非凡な魔法の才能を開花させては
いなかった――。

その時代、配下最強の四人の一角を
担う魔剣士に、ガインの名はあった。
当時の四天王はD・Sにとって仲間と
呼べる存在ではなく、むしろ力によっ
てねじ伏せられた者たち――即ち、
隙さえあればいつでもD・Sの寝首を
掻いて不思議のない連中であった。

とりわけこのガインは、D・Sから
支配者の座を奪い取ることに異常な
までの執念を燃やしていた。性情は
極めて残忍であり、歴代四天王の中で
も飛び抜けて悪の素養が強い男だった。

この頃、D・Sにとってある転機と
なる戦いがあった。魔力を打ち消す
秘密の隠された大陸で、その力の多く
を失ったD・Sは重傷を負い、再生も
ままならずに生死の境を彷徨うことと
なったのだ。

これを好機と見たガインは四天王軍を
離脱し、単身D・Sのもとへ向かった。
目的は暗殺である。圧倒的魔力と不死
性で君臨してきた魔人も、魔力の源が
枯渇した土地で恐れる必要はない。
ガインの必殺の剣をもってすれば、
半死半生のD・Sにとどめをさすこと
など造作もないはずであった――。

だが、支配者の座へと続く道行き半ば
でガインは死んだ。裏切りを察知し、
待ち伏せていたカルとの戦いに敗れた
のである。

当時のカル=スは少年であったが、
正面から四天王ガインとぶつかり、
裏切り者を粛正した。

その功績と、爆発的に開花した魔法の
才を認められ、この後カルはガインの
席に代わる形で四天王に名を連ねる
ことになったのであった――

D・S:
百年も昔にくたばったはずのガインが、
どうしてこんなところに出てきやがる?

ネイ:
支配者への妄執が捨てられず、長い
年月を彷徨い続けた忌まわしい亡霊よ。
それが私たちの敵の力を借りて、この
世界に肉を得た――

至高王(ガイン):
ククク……バレちまったかよ

ネイの雷撃によって黒焦げとなった
至高王の骸がむくりと起き上がった。
次の瞬間、全身を覆っていた炭化部分
が弾け、中から全く無傷の男が姿を
現した。

燃えるような赤の髪。欲望に憑かれた
ぎらつく双眸。そして、戦いを飾る
フェイスペイントの如くに、顔中に
施された色鮮やかな刺青――それは
輝く鉄球を埋め込んだ腕や胸にも彫り
込まれている。

それはまさしく、D・Sの記憶の奥底
から蘇った過去の亡霊――ガイン・
エスペランザであった。

ネイ:
くっ――あれしきの雷撃で倒せるとは
思わないが、無傷とは……

D・S:
ガイン……何を迷って出てきやがった

ガイン:
フハハハ! 長いこと待ってたんだぜ。
カルのガキや、テメエに復讐してやる
機会をよ! 迷ったなんて、言って
欲しくはねえなあ

ガイン:
百年も彷徨って、やっと実体を手に
入れたんだ。D・S、テメエを殺して、
この肉体を永遠に俺のものにしてやる!
俺が全ての支配者になるんだよ!

イングヴェイ:
貴様……よくもカル様の名を騙り、
我々魔戦将軍をたばかってくれたな。
言え! カル様はどこにいる!?

ガイン:
騒ぐな、雑魚が。カルのガキは今頃、
どことも知れぬ空間でくたばってる
だろうぜ。虚神王の手にかかってなあ!

ガイン:
ククク……いい気味だ。俺は忘れちゃ
いねえ。油断していたとは言え、あの
ガキの呪文で腕を千切られ、氷の魔剣
で頭を貫かれた痛みをよう――

ガイン:
テメエらは全員、同じ目に遭わせて
やる。ククク……テメエらのヒィヒィ
泣き喚く大合唱が聴こえてくるよう
だぜ

ネイ:
相変わらずの最低野郎ね、アンタは

ガイン:
ネイか……テメエはちょうど良く育っ
たじゃねえか。D・Sを片づけてから、
たっぷりと可愛がってやるぜぇ

ネイ:
下劣な……私を見るな!

D・S:
ガイン……テメエ、殺すぞ――

ガイン:
フハハ! やってみな! 俺はあの頃
とは違うぜ。今のテメエに勝てるワケ
がねえ! そら、昔の魔王っぷりを
見せてみなよ――

ガイン:
やはり魔人D・S、手強いな……久し
ぶりでチョイと遊び過ぎたようだぜ。
そろそろこの剣を使うとしようか――

ガインが取り出したのは、艶やかな
漆黒の刀身を持つ巨大な両刃剣だった。
黒い鋼の付け根には、地獄の獣の瞳を
想起させる大粒の紅玉が埋め込まれ、
その周りを甲殻類の背を思わせる蛇腹
状の鍔が囲んでいる。獰悪な魔剣士に
似合いの、禍々しき大剣であった。

D・S:
あの剣――くたばる前のガインが
使ってた魔剣か? だったらヤベえぜ

ヨルグ:
凄まじいまでの剣格だぞ……あの、
ムラサメ・ブレードに勝るとも劣らぬ
――

ジオン:
あれは……まさか、そんな――!?

シェン:
どうした兄者?

ジオン:
あの剣……俺は知っている……あれは
魂喰らい――

ガイン:
さあ死ね! 黒い断頭台――ッ!

ガインの手にした魔剣が一閃し、そこ
から巨大な刃状のエネルギーが撃ち
出された。魔力の凝縮された刃が、
衝撃波を伴って一行に襲いかかる――。

D・S:
マズイぜ! 魔法障壁じゃ防ぎ切れ
ねえ――

ガラ:
魔神剣!!

黒い衝撃波が迫った、その瞬間――
もうひとつの衝撃波がそれと正面から
ぶつかり、黒い断頭台のエネルギーを
相殺した。

ガイン:
何っ!?

ネイ:
お、オマエは――

そこに現れたのは、かつて鬼忍将と
して操られ、妖刀ムラサメを使いこな
すべくひとり修行に旅立った男――
ニンジャマスター・ガラであった

ガラ:
いよっ。アブねえとこだったな

D・S:
ガラ!

ガラ:
へへっ。お待たせしちゃったかあ?
やっぱしオレがいないとダメかね。
よお、ネイもいたのかよ?

ネイ:
ガラ! 今まで何してたのよー!

ガラ:
大体話は聞いた。あんなクソ野郎が
四天王だったなんざ恥さらしもいー
トコだぜ。オレが来たからにはもう
安心だ。ブチのめしてやろーぜ

D・S:
……ガラ。テメエ今までずっと
隠れてただろ?

ガラ:
エ……ななな何で!?

D・S:
やっぱそうかよ! やけにタイミング
良く出てきやがったと思ったら、影で
カッコ良く飛び出す機会を窺ってたな

D・S:
大方アーシェスに出番をさらわれて、
そのデカイ図体で息をひそめてやがっ
たんだろ! このカッコつけのバカ
ゴリラめ!

ネイ:
……ガーラー

ガラ:
い、イヤだってその……久びさの登場
なんだぜ? ネイの後からそっと出て
くるのって恥ずかしーじゃねーかよ

D・S:
だからテメーはバカだってんだ!
バカバカバカバカバカ! ゴリラ!

ガラ:
うぐぐ……せっかく助けてやったって
のに、この、この……

ガイン:
ケッ! 若僧の忍者がひとり増えた
ところでどうなるモンかよ! テメエ
もこの魂喰らいの餌にしてやるぜ

ガラ:
へっ、ポンコツが――現役四天王が
どれほどのモンか、試してみるかい!

魔剣“魂喰らい”が弾かれ、床に
突き立った。続けて魔剣士ガインが、
どう、とくずおれる。

ガイン:
ぐふうっ! バカな……こんな奴らに、
このガイン様が……う!?

地に顔を擦りつけたガインが、突如
激しくのたうち始めた。

ガイン:
ああ……やめろぉ……俺から身体を、
肉体を取り上げないでくれえぇ――

見る間に、ガインの身体から靄のよう
な物体が立ち上り始める。半透明の
それは、この男の霊体であった。実体
を得る依り代となっていた肉体から、
強制的に追われているように見える。

代わりに、氷の床から染み出すように
現れた陽炎の如き影が、ガインのもの
であった肉体に入り込んでいく。
獣の容貌を持つ青白い幻影――それは
地下遺跡の塔で一行を襲った、あの
思念体であった。

思念体が宿るにつれ、もはやガイン
とも見えぬ肉体に急激な変化が訪れた。
それはもとの数倍――否、数十倍の
質量に膨れ上がり、獣人化するように
ゴキゴキと骨格を成長、変形させて
いく。肉が骨をまんべんなく覆い、
凄まじい速さで体毛が伸びていく――。

狼を思わせる容貌の、巨大な半獣神が
そこにいた。実体化と同時に全身を
覆った衣服は、この魔神が人間に近い
嗜好を持っていることを示している。
巨大な剣を手に、それは吼えるように
嗤った。

狼麒:
亡霊などには任せておけぬな。所詮は
人間、私の貸し与えた肉体をろくに
使いこなせぬようではな――

狼麒:
この狼麒の策をことごとくしくじる
凡愚めが。貴様のような役立たずは、
己の魔剣に吸われてしまうがいいわ。
それ、餌になるがいい――

獣神――狼麒と名乗る巨神は、まだ
肉に未練を残して纏わりつくガインの
亡霊を掌で払い、魂喰らいの方向へと
漂わせた。と、魔剣の紅玉が輝き始め、
蛇腹状の鍔が自動的に開く。まるで
紅玉が強大な引力を発しているかの
如く、ガインの霊体は急速に吸い寄せ
られていった。

ガイン:
ぎゃああああ――! イヤだ、イヤだ、
こいつには、喰われたくないぃぃ――

無惨な叫びを残し、ガインの亡霊は
紅玉へと余さず吸い込まれていった。
魔剣の瞳は咀嚼するように数回点滅し、
やがて鍔は再び紅玉を囲んで閉じた。

D・S:
テメエが裏で糸を引いていたヤロウか。
狼麒とか言ったな。ツケはまとめて
テメエに払ってもらうぜ――

狼麒:
ふはははは――。貴様たちの戦闘力は
すでに見定めてあるわ。余りある勝算
があるからこそ、こうして私が出向い
たと何故判らぬ――愚昧よな、D・S

D・S:
あの時本気で俺たちを潰さなかった
こと、今から後悔することになるぜえ

狼麒:
違う……あの時とはまるで……貴様は
こんなにも力を……おおお

D・S:
さーあ、今とどめをくれてやるぜえ!

狼麒:
ま、待て! この氷獄塔を宙に支えて
いるのはこの私の魔力だ!
私を殺したなら、直下に封じた水龍も
死ぬことになるのだぞ――

D・S:
そー言うと思ったぜ。だがなあ、
だったらこの塔ごとブチ壊しちまえば
いーだけの話だぜ!

D・S:
後悔するんなら今のうちだぜ。今から
テメエは考えることも喚くこともでき
ねえ、無の世界へと旅立つんだからな

D・S:
地下の塔で得た魔力の全てをお見舞い
してやるぜえ――行くぞあああ!

D・S:
暗黒よ!! 闇よ――!!
負界の混沌より禁断の黒炎を呼び覚ま
せええっ!!

ネイ:
ダーシュ! そ、その呪文は――

ガラ:
うほおっ! キタな長いヤツが!

D・S:
パーラ・ノードイ・フォーモー
ブルール・ネーイ・ヴァセ・イー
ダー・イー・エイター・ナール

D・S:
アイドール・ヘーヴン・ン・ヘイル
イアイアンンマ――

D・S:
ダイオミ・ギーザ・オージ!!
さあ覚悟はできたかよ! 行くぜええ!

狼麒:
や、やめろおおううぅ――

D・S:
死黒核爆烈地獄!!

長い詠唱の間に高められた魔力が解放
され、氷のコロシアムの中心に倒れた
狼麒の周囲に球状の魔法障壁が発生
する。次の瞬間、その内部に凄まじい
熱量を持つ黒い炎が噴き上がった。

結界内に複数の空間を転移させ、原子
を重ね合わせることで発生した爆発
エネルギーが超高熱の負の炎を生み
出したのである。瞬間的に数億度にも
達する熱量が、狼麒の肉体から思念体
――アストラルボディに至るまでを
完全に灼き尽くしていく。

狼麒:
私までが……死ぬ? 神を凌ぐこの力
――そうか、最初から分け合う気など
なかったのだな……虚神王……愚者は、
わ、た、し、か――

狼麒の存在を灰も残さず焼き滅ぼした
黒炎は、その熱を保ったまま氷の床を
溶解させ、重力に従って凄まじい速度
で沈降を開始した。氷獄塔の中心を
貫いて、触れるもの全てを瞬時に蒸発
させ、ほぼ自由落下に近い速度で落ち
ていく――。

ガラ:
うへー。何だよオイ、塔を溶かしなが
らどんどん潜っていっちまってるぞ!

ネイ:
おかしいな……死黒核爆烈地獄は対象
を焼滅した後、余剰エネルギーを転用
して高熱塊を別次元へと飛ばしてしま
うはず――ダーシュ、何か考えが?

イングヴェイ:
カル様はいずこにおられるのか……む?
そう言えばガインの魔剣はどこに――?

ジオン:
魂喰らい――何故俺がこんな魔剣を
知っている? いや、俺はこいつを
使っていた……いつから? 俺は
影流の剣士……ではないのか……?

シェン:
兄者――その魔剣を手にした姿……
ううっ、頭が割れそうだ……何かを
思い出しそうな……マリエ? 誰の、
名前――?

突如、激しい震動が一行を襲った。
氷獄塔全体が揺れ動き、氷の闘技場に
巨大な亀裂が疾る。立っていられぬ
ほどの烈震に、黒炎が穿った大穴を
呆然と見守っていた一行から悲鳴が
あがる。

ザック:
わわっ! なななな何だ!?

カイ:
まさか……氷獄塔が崩壊するのか!?
今の呪文の熱で、氷が脆く……?

ヴァイ:
げええ!? ちょっと待てよオイ!
D・S、ホントにそうなのか?

D・S:
あーっはっはっはあ! ホントもウソ
もねー! 現にこうやってブッ壊れ
始めたじゃねえか! 計算通り!
ゲラゲラゲラゲラ! ぎゃははーっ!

ヴァイ:
何の計算だよ! のんきに笑ってる
場合じゃ……うわあっ!?

崩壊と同時に、氷獄塔は落下を開始
した。狼麒の死により、塔を支えて
いた浮遊の魔力が消滅し始めたので
あった。

死黒核爆烈地獄の火球は、遂に塔の
最下層を突破し、直下の永久氷河へと
落下した。凄まじい熱量は衰えること
なく、やがて落下地点を中心に熱が
伝播し始める。あたかも水滴が起こし
た波紋の如く、それは同心円上に広が
って凍土を瞬時に溶かしていった――。

氷河からなおも沈降した高熱塊は、
凍結した水龍の竪穴に達した。それが
頭上に降り注いだ瞬間、龍は目覚めた。
火球がその身体に宿り、氷と化して
いた水の肉体に流動性を取り戻して
いく。封印は解かれ、水龍はその全身
を波打たせた。

水龍に命を吹き込んだ火球は熱量を
凍結の封印と相殺し、手に入れた時と
同じ、赤く輝く魔力球へと戻っていた。
その光に向かい、竪穴の深淵から急速
に浮上する巨大な影があった。

それは、巨獣であった。竪穴の底は
エーテルの海と繋がっていたのだろう。
赤い光を求め、巨獣は口を大きく
広げて垂直に上昇してくる。そして、
水龍ごとその体内に包み込んだ――。

その刹那、巨獣の肉体は急激にその
形態を変化させ始めた。体表は透き
通り、細長く、より巨大になった
水龍の姿へと――。

巨獣は、水龍から分かたれた存在で
あった。凍結した水龍は知性、巨獣は
知性を失った暴風の如き力、そして
魔力球は龍の生命の力――それらが
ひとつに融合し、水龍は真の姿を取り
戻した。巨獣が赤い光に反応を示して
いたのは、わずかに残る知性と、元の
姿に戻らんとする本能によるもので
あったのだ。

直後、凄まじいエネルギーを漲らせた
水龍は、螺旋を描いて上昇を開始した。
崩壊し、砕けながら落下する氷獄塔を
巻き、膨大な、命ある激流が天へと
昇っていく――。

偽りの地表を覆う雪原は、今や完全に
融解していた。現れたエーテルの海は
大気に溶け、真の大地が白日のもとに
晒される。険しき雪と氷の双子山も、
緑なすなだらかな地肌を剥き出しに
していた。狼麒の魔力によって隠蔽
された大地は、その本来の姿をここに
取り戻したのである。

氷のコロシアムが崩れ去る直前、一行
は復活した水龍の渦にひとり残らず
取り込まれた。龍の描く螺旋は高く
天に昇り、D・Sたちを乗せたまま
空に架かる虹へと吸い込まれていく。
水飛沫の航跡を遥かな蒼弓に残し、
水龍は虹に沿って地平線へと消えて
いった――。

虹の光に包まれて、D・Sは夢を見た。

否、それは夢ではなかった。これまで
の龍と同じく、水龍の復活に伴って
惹き起こされた能力の増幅――その
強烈な高揚感に包まれながら、D・S
は失われた記憶の断片を急速に取り
戻しつつあった。記憶の中の映像が
めくるめく迅さで次々と現れ、意識の
表層を駆け抜けていく。

誕生して四百年、D・Sの送ってきた
人生は戦いの連続であった。初めて
目覚めた時、そこはすでに死闘のただ
中であった。旧世界が滅び、当時の
人類の大半が死んだ黙示録の戦い――。

やがて古き魔法が復活し、急激に変化
した世界に魔物が跋扈する暗黒と暴力
の時代。旧世界のテクノロジーにより
無限に近い魔力を生得していたD・S
は、その圧倒的な能力と闘いを好む
性癖から、伝説の魔人と畏怖される
存在となっていた。

溢れ出す魔力に活性化された肉体は
決して老いず、余りある時が退屈を
呼び、彼を血臭漂う戦場へと導いた。

ある時、彼は気づいた。自分には生ま
れつき欠落しているある種の感情が
あることを。哀れみや悲しみ、涙――
そして愛と呼ばれる不可思議なもの。

多くの人間たちが愛のために闘い、
死んでいく姿をD・Sは見てきた。
だが、それらしき感情を模倣しようと
しても、何故彼らが無謀で、くだらぬ
死を晒していくのかを理解することは
できなかった。

いつしか、D・Sはその感情を渇望
するようになっていった。世に生まれ
出た時から、分かたれ、隠された自ら
の半身――それを求め、彼は大軍団を
率いて征服戦争を起こした。しかし、
戦の半ばにしてD・Sは斃れ、復活の
日まで、かりそめの死を迎えることと
なった――。

激戦での死を予感し、あらかじめ転生
の儀式を施していたD・Sは、しかし
ルーシェという名の赤子の内に封印
されて生まれる。強力な封印を破る
ことはできず、D・Sは初めて――
自分の意志ではないにせよ――闘争
から隔離された十五年をルーシェの
中で過ごすことになった。

その少年時代、D・Sは出会う。
ティア・ノート・ヨーコに。

ヨーコは、一言で表すなら完全に限り
なく近い少女であった。完全ではない、
とは劣るところがあるという意味では
ない。完成されたものはもはやそれ
以上先に進むことはない。ヨーコは
不完全であるが故に常に成長し、その
魅力を増していく。そして決して、
完璧にまとまることはないのだ。

成長すればしただけ、完全であるため
のポテンシャルはより高くなる。彼女
は永遠に成長し続ける、いつかは世界
で最高の女性となる少女であった。

ともに育てられた彼女は、天涯孤独の
ルーシェにとって姉のように強く、
母のように優しく、恋人のように温か
い存在だった。そのルーシェの想いが
影に封じられたD・Sの人格に融合
したのか、それともヨーコという鍵が
D・Sの中の欠落した感情の扉を開い
たのかは判らない。だが、彼は見つけ
たのだ。求め続けたものを。

愛を。

封印から解き放たれて後、旧世界の
遺物・破壊神アンスラサクス復活を
巡る闘いの中で、ヨーコは世界を――
そしてD・Sを守るためにその命を
投げ出した。その時、死したヨーコを
蘇生させるため、D・Sは迷いなく
自らの魂を分け与えた。以後、ふたり
は魂の一部を共有する関係となった。

誕生して以来、渇望してきたものの
答えがヨーコであった。ヨーコの命を
贖えるなら、D・Sは世界すらも捨て
去る――彼にとってヨーコへの愛は、
己の死をも厭わぬこの世で唯一大切な
ものであったのだ。

失われていたヨーコの記憶が、途轍も
ない速度で蘇っていく。ヨーコと過ご
した日々が、ヨーコの様々な姿が、
一瞬に数百コマが流れる映像として
脳裏に氾濫する。最後に、深海とも
虚空とも知れぬ漆黒の世界に浮かぶ
ヨーコの裸身が見え、やがて視界は
虹色の光の奔流に埋め尽くされた。

意識がブラックアウトする寸前、
D・Sは誓った。

“ヨーコさん――絶対に取り戻すぜ。
敵が神でも悪魔でも、必ずだ――”



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最終更新:2020年10月31日 21:24