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自分とは
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いつもの席で待つ夜
ミッドレッドの扉を開くと、静かな音楽と暖かな明かりがティーを迎えた。
「おかえり、ティーちゃん」
カウンターの向こうから、メーアが笑顔を向ける。
「ただいま」
ティーは、新しく買った青灰色のジャケットの袖を少し整えた。
その端では、マカロンと色違いで買った青いチャームが揺れている。
シエルも手元のグラスを棚へ戻しながら、ティーの姿を見た。
「その服で来るのは初めてだね」
「うん。気に入ってるから」
「よく似合ってる」
「ありがとう、シエル」
ティーは、いつものカウンター席へ座った。
隣の席は空いている。
マカロンとは、ここで会う約束をしていた。
昼間の買い物を終えてから、二人は一度それぞれの部屋へ戻った。
マカロンは新しい服を整理してから来ると言っていたが、予定の時間を少し過ぎても姿を見せていない。
ティーは連絡画面を一度開いた。
最後に届いているのは、
<少しだけ遅れる! 先に座ってて!>
というメッセージだった。
メーアが、淡い紫色の飲み物をティーの前へ置く。
「マカロンちゃん、遅れてる?」
「うん。でも、来るって」
「なら大丈夫だね」
ティーはグラスを両手で包んだ。
昼間の買い物は楽しかった。
みたらしっぽ。
チョコチップ。
二人と出会い。
自分の服を選び。
次に一緒に出かける予定までできた。
それでも今。
隣の椅子が空いているだけで、少し落ち着かなかった。
昨夜。
現実の身体について知らされたあと。
一番不安になっていたマカロンの姿を思い出す。
現実の自分にも、何かが起きているのかもしれない。
そう気づいた時の顔。
ティーは、紫色の飲み物へ一度だけ口をつけた。
その時。
入口のベルが鳴った。
振り返る。
新しく買った赤茶色のカーディガンと、深緑色のキュロットスカート。
桃色のチャーム。
マカロンが、扉の前に立っていた。
「こんばんは」
いつもの明るい声だった。
けれど。
笑顔の端には、少しだけ力が入っていた。
「こんばんは、マカロンちゃん」
「いらっしゃい、マカロン」
メーアとシエルが迎える。
マカロンは二人へ頭を下げたあと、ティーの隣へ座った。
「遅くなってごめんね」
「大丈夫」
ティーはマカロンの顔を見る。
「何か聞いた?」
マカロンの目が、わずかに大きくなった。
それだけで、答えはわかった。
「うん」
小さく頷く。
「指示者から、連絡が来た」
メーアは二人の表情を見て、カウンターの奥を示した。
「奥の席を使う?」
店の一番奥には、背の高い仕切りで囲まれた小さなテーブルがある。
周囲の会話が入りにくく、落ち着いて話したい客が使う場所だった。
マカロンは少し迷い。
ティーを見た。
「そこで話したい」
「うん」
二人が席を移ると、シエルが飲み物を運んできた。
ティーの紫色のグラス。
マカロンには、いつもの甘い桃色の飲み物。
「急がなくていいから」
シエルはそれだけを言い、静かに離れた。
二人きりになる。
マカロンは、すぐには話さなかった。
桃色のチャームを指先で触れながら、グラスの中の泡を見つめている。
ティーも待った。
言葉を急がせる必要はない。
やがて。
マカロンが、ゆっくり口を開いた。
「私の現実の身体ね」
声が、少しだけ震えていた。
「ずっと前から、病院にいたんだって」
「おかえり、ティーちゃん」
カウンターの向こうから、メーアが笑顔を向ける。
「ただいま」
ティーは、新しく買った青灰色のジャケットの袖を少し整えた。
その端では、マカロンと色違いで買った青いチャームが揺れている。
シエルも手元のグラスを棚へ戻しながら、ティーの姿を見た。
「その服で来るのは初めてだね」
「うん。気に入ってるから」
「よく似合ってる」
「ありがとう、シエル」
ティーは、いつものカウンター席へ座った。
隣の席は空いている。
マカロンとは、ここで会う約束をしていた。
昼間の買い物を終えてから、二人は一度それぞれの部屋へ戻った。
マカロンは新しい服を整理してから来ると言っていたが、予定の時間を少し過ぎても姿を見せていない。
ティーは連絡画面を一度開いた。
最後に届いているのは、
<少しだけ遅れる! 先に座ってて!>
というメッセージだった。
メーアが、淡い紫色の飲み物をティーの前へ置く。
「マカロンちゃん、遅れてる?」
「うん。でも、来るって」
「なら大丈夫だね」
ティーはグラスを両手で包んだ。
昼間の買い物は楽しかった。
みたらしっぽ。
チョコチップ。
二人と出会い。
自分の服を選び。
次に一緒に出かける予定までできた。
それでも今。
隣の椅子が空いているだけで、少し落ち着かなかった。
昨夜。
現実の身体について知らされたあと。
一番不安になっていたマカロンの姿を思い出す。
現実の自分にも、何かが起きているのかもしれない。
そう気づいた時の顔。
ティーは、紫色の飲み物へ一度だけ口をつけた。
その時。
入口のベルが鳴った。
振り返る。
新しく買った赤茶色のカーディガンと、深緑色のキュロットスカート。
桃色のチャーム。
マカロンが、扉の前に立っていた。
「こんばんは」
いつもの明るい声だった。
けれど。
笑顔の端には、少しだけ力が入っていた。
「こんばんは、マカロンちゃん」
「いらっしゃい、マカロン」
メーアとシエルが迎える。
マカロンは二人へ頭を下げたあと、ティーの隣へ座った。
「遅くなってごめんね」
「大丈夫」
ティーはマカロンの顔を見る。
「何か聞いた?」
マカロンの目が、わずかに大きくなった。
それだけで、答えはわかった。
「うん」
小さく頷く。
「指示者から、連絡が来た」
メーアは二人の表情を見て、カウンターの奥を示した。
「奥の席を使う?」
店の一番奥には、背の高い仕切りで囲まれた小さなテーブルがある。
周囲の会話が入りにくく、落ち着いて話したい客が使う場所だった。
マカロンは少し迷い。
ティーを見た。
「そこで話したい」
「うん」
二人が席を移ると、シエルが飲み物を運んできた。
ティーの紫色のグラス。
マカロンには、いつもの甘い桃色の飲み物。
「急がなくていいから」
シエルはそれだけを言い、静かに離れた。
二人きりになる。
マカロンは、すぐには話さなかった。
桃色のチャームを指先で触れながら、グラスの中の泡を見つめている。
ティーも待った。
言葉を急がせる必要はない。
やがて。
マカロンが、ゆっくり口を開いた。
「私の現実の身体ね」
声が、少しだけ震えていた。
「ずっと前から、病院にいたんだって」
走ったことのない身体
マカロンは、生まれた時から脚に障害を抱えていた。
脚へ動けという命令を送る神経が、うまく働かない。
幼い頃は支えがあれば立つこともできた。
けれど、成長するほど症状は少しずつ進み。
病院と自宅を行き来する生活が長く続いていた。
「私、現実では」
マカロンは、自分の両脚を見る。
この世界では。
自由に立てる。
走れる。
高いところから飛び降り。
銃を持ちながら、相手の攻撃を避けることもできる。
「自分の足で走ったことがないんだって」
ティーは、すぐには何も言えなかった。
青い花の中を、先に走っていくマカロン。
中央乗り換えホールの手すりを飛び越えた姿。
遅れそうになれば、笑いながら駆けてくる姿。
それが。
現実では一度もできなかった。
マカロンは、静かに続ける。
「少し前に、急に症状が悪くなったみたい」
脚だけではなく。
呼吸へ関わる筋肉にも影響が出始めた。
自力で身体を起こすことも難しくなり。
神経の圧迫を減らすための、大きな手術が行われた。
手術そのものは成功した。
しかし。
長い入院生活。
繰り返される治療。
動かなくなっていく身体。
手術前のマカロンは、精神的にも深く疲れていた。
「私ね」
マカロンは、少しだけ笑おうとした。
けれど、うまく形にはならなかった。
「現実へ戻りたくないって、言ったらしい」
意識がはっきりしていた最後の頃。
戻っても、また動けない身体が待っている。
痛い治療が続く。
できるようになることより、できなくなることばかりが増えていく。
それなら、目を覚ましたくない。
家族や医師へ。
何度もそう言っていたという。
「覚えてないけどね」
マカロンの指が、グラスの縁へ触れる。
「私がそんなことを言ったのかも。病院でどんな顔をしてたのかも。何にも覚えてない」
ティーは、テーブルの上にあるマカロンの手へ、自分の手を重ねた。
「怖かったんだと思う」
「うん」
「その時のマカロンは、戻ったあとに何があるのかわからなかったから」
「今も、わからないけど」
「今は、一人ではない」
マカロンが顔を上げる。
ティーは手を離さなかった。
指示者から知らされた話は、ティーと似ている部分もあった。
手術後の身体へすぐに意識を戻せば。
強い痛みや呼吸の苦しさ。
身体を動かせない恐怖によって、精神状態がさらに悪化する危険があった。
そのため。
身体が安定するまで、意識をバーチャル世界へ移した。
仮想の身体で自由に動くこと。
夜の仕事を与え、判断や運動の感覚を使い続けること。
日々へ区切りを作ること。
それらは。
治療後の身体へ戻るための準備でもあった。
「治安維持の仕事だったのは」
マカロンは言う。
「私が、身体を動かすことを忘れないためなんだって」
現実の脚が動かなくても。
どのように立ち。
どのように歩き。
走る時に身体のどこを使うのか。
脳の中にある身体の感覚を失わせないため。
マカロンには、活動量の多い役割が与えられていた。
「でも最初は、あんまり良くなかったみたい」
任務は行う。
指示された対象を追う。
必要な処理を終える。
けれど。
仕事以外の時間には、ほとんど何もしなかった。
誰とも会わず。
行きたい場所も作らず。
次の任務が来るまで、自分の部屋で待っていた。
「私も、最初はそうだった」
ティーが言う。
「うん」
マカロンは、小さく頷いた。
「私たち、同じだったんだね」
違うのは。
ティーが先に街へ出て。
ミッドレッドを見つけたこと。
そして。
ステルス任務の中で、二人が出会ったことだった。
脚へ動けという命令を送る神経が、うまく働かない。
幼い頃は支えがあれば立つこともできた。
けれど、成長するほど症状は少しずつ進み。
病院と自宅を行き来する生活が長く続いていた。
「私、現実では」
マカロンは、自分の両脚を見る。
この世界では。
自由に立てる。
走れる。
高いところから飛び降り。
銃を持ちながら、相手の攻撃を避けることもできる。
「自分の足で走ったことがないんだって」
ティーは、すぐには何も言えなかった。
青い花の中を、先に走っていくマカロン。
中央乗り換えホールの手すりを飛び越えた姿。
遅れそうになれば、笑いながら駆けてくる姿。
それが。
現実では一度もできなかった。
マカロンは、静かに続ける。
「少し前に、急に症状が悪くなったみたい」
脚だけではなく。
呼吸へ関わる筋肉にも影響が出始めた。
自力で身体を起こすことも難しくなり。
神経の圧迫を減らすための、大きな手術が行われた。
手術そのものは成功した。
しかし。
長い入院生活。
繰り返される治療。
動かなくなっていく身体。
手術前のマカロンは、精神的にも深く疲れていた。
「私ね」
マカロンは、少しだけ笑おうとした。
けれど、うまく形にはならなかった。
「現実へ戻りたくないって、言ったらしい」
意識がはっきりしていた最後の頃。
戻っても、また動けない身体が待っている。
痛い治療が続く。
できるようになることより、できなくなることばかりが増えていく。
それなら、目を覚ましたくない。
家族や医師へ。
何度もそう言っていたという。
「覚えてないけどね」
マカロンの指が、グラスの縁へ触れる。
「私がそんなことを言ったのかも。病院でどんな顔をしてたのかも。何にも覚えてない」
ティーは、テーブルの上にあるマカロンの手へ、自分の手を重ねた。
「怖かったんだと思う」
「うん」
「その時のマカロンは、戻ったあとに何があるのかわからなかったから」
「今も、わからないけど」
「今は、一人ではない」
マカロンが顔を上げる。
ティーは手を離さなかった。
指示者から知らされた話は、ティーと似ている部分もあった。
手術後の身体へすぐに意識を戻せば。
強い痛みや呼吸の苦しさ。
身体を動かせない恐怖によって、精神状態がさらに悪化する危険があった。
そのため。
身体が安定するまで、意識をバーチャル世界へ移した。
仮想の身体で自由に動くこと。
夜の仕事を与え、判断や運動の感覚を使い続けること。
日々へ区切りを作ること。
それらは。
治療後の身体へ戻るための準備でもあった。
「治安維持の仕事だったのは」
マカロンは言う。
「私が、身体を動かすことを忘れないためなんだって」
現実の脚が動かなくても。
どのように立ち。
どのように歩き。
走る時に身体のどこを使うのか。
脳の中にある身体の感覚を失わせないため。
マカロンには、活動量の多い役割が与えられていた。
「でも最初は、あんまり良くなかったみたい」
任務は行う。
指示された対象を追う。
必要な処理を終える。
けれど。
仕事以外の時間には、ほとんど何もしなかった。
誰とも会わず。
行きたい場所も作らず。
次の任務が来るまで、自分の部屋で待っていた。
「私も、最初はそうだった」
ティーが言う。
「うん」
マカロンは、小さく頷いた。
「私たち、同じだったんだね」
違うのは。
ティーが先に街へ出て。
ミッドレッドを見つけたこと。
そして。
ステルス任務の中で、二人が出会ったことだった。
ティーのおかげ
マカロンの指示者は。
ここ最近の回復が、予想していたよりも著しいと伝えた。
手術した場所の回復だけではない。
呼吸の安定。
睡眠と覚醒の周期。
神経の反応。
現実の身体へ動きを伝えようとする脳の活動。
どれも。
少しずつ良い方向へ変わっている。
特に変化が大きくなったのは。
マカロンが、ティーと出会った頃からだった。
昼間に外へ出るようになった。
花のフィールドを見つけた。
ミッドレッドへ通い始めた。
次の予定を作った。
誰かと一緒にいたいと思うようになった。
そして。
現実へ戻ったあとについて、話すようになった。
「先生に言われたの」
マカロンの声へ。
少しずつ、いつもの明るさが戻ってくる。
「ティーさんとの関係が、あなたの回復に大きな影響を与えていますって」
目元には、涙に似た光が浮かんでいた。
けれど。
今度のマカロンは、笑っていた。
「ティーのおかげだって」
ティーは、すぐに否定しなかった。
マカロンが喜んでいるものを。
自分には関係ないと言って遠ざけたくなかった。
「私が何かしたというより」
ティーは、ゆっくり言葉を選んだ。
「一緒にしたんだと思う」
「一緒に?」
「ミッドレッドへ来たのも。花を見に行ったのも。服を選んだのも」
マカロンが、自分の新しいカーディガンを見る。
「うん」
「マカロンが行きたいって言ったから、私も行けた」
ティーは青いチャームへ触れた。
「私も、マカロンのおかげで変わった」
現実へ戻れると知らされた時。
ティーは嬉しいだけではなかった。
ここを失うのが怖かった。
けれど。
マカロンが現実で会おうと言ってくれた。
青い花のページへ、
<二人で>
と書き加えてくれた。
それで。
帰ることが、すべてを失うことではなくなった。
「だから」
ティーはマカロンを見る。
「私だけのおかげではない」
マカロンの涙が、一つだけ頬を流れた。
笑顔は、そのままだった。
「それでも、ありがとう」
「うん」
ティーは、その言葉を受け取った。
「私も、ありがとう」
マカロンは席を立ち。
ティーの隣へ回る。
一度、両腕を広げたところで止まった。
「抱きついていい?」
「うん」
マカロンの腕が、ティーの身体を包んだ。
新しく買った服同士が触れる。
青と桃色のチャームが、近くで小さく揺れた。
ティーも、マカロンの背中へ腕を回す。
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
ここ最近の回復が、予想していたよりも著しいと伝えた。
手術した場所の回復だけではない。
呼吸の安定。
睡眠と覚醒の周期。
神経の反応。
現実の身体へ動きを伝えようとする脳の活動。
どれも。
少しずつ良い方向へ変わっている。
特に変化が大きくなったのは。
マカロンが、ティーと出会った頃からだった。
昼間に外へ出るようになった。
花のフィールドを見つけた。
ミッドレッドへ通い始めた。
次の予定を作った。
誰かと一緒にいたいと思うようになった。
そして。
現実へ戻ったあとについて、話すようになった。
「先生に言われたの」
マカロンの声へ。
少しずつ、いつもの明るさが戻ってくる。
「ティーさんとの関係が、あなたの回復に大きな影響を与えていますって」
目元には、涙に似た光が浮かんでいた。
けれど。
今度のマカロンは、笑っていた。
「ティーのおかげだって」
ティーは、すぐに否定しなかった。
マカロンが喜んでいるものを。
自分には関係ないと言って遠ざけたくなかった。
「私が何かしたというより」
ティーは、ゆっくり言葉を選んだ。
「一緒にしたんだと思う」
「一緒に?」
「ミッドレッドへ来たのも。花を見に行ったのも。服を選んだのも」
マカロンが、自分の新しいカーディガンを見る。
「うん」
「マカロンが行きたいって言ったから、私も行けた」
ティーは青いチャームへ触れた。
「私も、マカロンのおかげで変わった」
現実へ戻れると知らされた時。
ティーは嬉しいだけではなかった。
ここを失うのが怖かった。
けれど。
マカロンが現実で会おうと言ってくれた。
青い花のページへ、
<二人で>
と書き加えてくれた。
それで。
帰ることが、すべてを失うことではなくなった。
「だから」
ティーはマカロンを見る。
「私だけのおかげではない」
マカロンの涙が、一つだけ頬を流れた。
笑顔は、そのままだった。
「それでも、ありがとう」
「うん」
ティーは、その言葉を受け取った。
「私も、ありがとう」
マカロンは席を立ち。
ティーの隣へ回る。
一度、両腕を広げたところで止まった。
「抱きついていい?」
「うん」
マカロンの腕が、ティーの身体を包んだ。
新しく買った服同士が触れる。
青と桃色のチャームが、近くで小さく揺れた。
ティーも、マカロンの背中へ腕を回す。
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
今の私は、本当の私?
席へ戻ったあと。
マカロンは、少し落ち着いた様子で飲み物を一口飲んだ。
けれど。
まだ話していないことが残っていた。
「ティー」
「何?」
「現実の私は、どんな人なんだろう」
ティーは答えず、続きを待った。
「歩けなくて。病院にずっといて。戻りたくないって言ってた」
マカロンは、自分の手を見る。
「ここでは走って。仕事で銃まで持って。花を見るとすぐに出かけたくなって。ずっと話してる」
口元へ、少し困ったような笑みが浮かぶ。
「違いすぎるよね」
「身体は違う」
「じゃあ」
マカロンは、小さな声で尋ねた。
「今の私は、本当の私なのかな」
その問いに。
ティーはすぐに答えることができなかった。
自分にも。
本当の名前が別にある。
現実の顔も。
髪の色も。
年齢も知らない。
Tという名前は、治療のために与えられたものだった。
白い服も。
猫耳のアバターも。
クライアントユニットも。
最初から自分で選んだものではない。
それでも。
ティーは、ティーとして何日も過ごした。
「私のTも」
静かに口を開く。
「誰かに与えられた名前だった」
マカロンが、ティーを見る。
「うん」
「この髪も。耳も。現実の私と同じかはわからない」
ティーは自分の猫耳へ触れた。
今は。
少しだけ前を向いている。
「でも、紫色の飲み物を好きになったのは、私」
灰色のノートへ書くことを決めたのも。
ミッドレッドの扉を開いたのも。
マカロンへ、また会おうと言ったのも。
自分で選んだ。
「マカロンが走ったのも」
ティーは続ける。
「花を見つけたのも。私の隣へ座ったのも。怖い時に、怖いって言ったのも」
どれも。
与えられた任務ではない。
「全部、マカロンが選んだこと」
マカロンは、しばらく動かなかった。
ティーは言葉を重ねずに待った。
やがて。
マカロンが、自分の桃色のチャームを持ち上げた。
「これを選んだのも?」
「うん」
「現実の私が、桃色を嫌いだったら?」
「その時は、好きな色が増えたってことだと思う」
マカロンは、桃色の光を見つめた。
少しして。
柔らかく笑った。
「じゃあ、今の私も私なんだね」
「うん」
「現実の身体で走れなくても?」
「マカロンがマカロンではなくなるわけではない」
現実へ戻れば。
すぐに走ることはできないかもしれない。
長いリハビリが必要になる。
自分の脚だけで歩けるようになるかも。
まだ決まっていない。
けれど。
ここで過ごしたマカロンが消えるわけではない。
「私も」
ティーは青いチャームへ触れた。
「本当の名前を思い出しても、Tだった時間は消えないと思う」
その時。
仕切りの外から、メーアの声がした。
「飲み物、足りてる?」
話へ入るためではなく。
必要な時に呼べることを伝えるような声だった。
マカロンが答える。
「大丈夫です」
少し迷い。
続けた。
「メーアさん。シエルさんも、少しだけ来てくれますか?」
二人が、奥の席へ入ってくる。
メーアはティーの横。
シエルはマカロンの近くへ立った。
マカロンは、すべてを話したわけではなかった。
理定者の仕事。
黄色い瞳。
銃撃戦。
それらは伏せたまま。
現実で長い治療を受けていること。
もうすぐ戻れるかもしれないこと。
そして。
現実の自分と、ここにいる自分が違いすぎることが怖いと話した。
メーアは、最後まで黙って聞いていた。
「現実へ戻れるんだね」
「うん」
「よかった」
喜びを強く押しつけることなく。
それでも、はっきりと嬉しそうに言った。
シエルは、マカロンの桃色のチャームを見る。
「ここで選んだものは、戻ってもなくならないよ」
「アカウントが残れば、だけど」
「残るといいね」
短い言葉だった。
けれど。
戻ってきてよい場所が、変わらずここにあることは十分に伝わった。
メーアも、二人のいつもの席へ目を向けた。
「身体が違っても、名前が違っても。ここへ来たら、二人の席は同じだから」
マカロンは頷いた。
「また来たいです」
「待ってるよ」
ティーも。
静かに言った。
「私も戻ってくる」
その時。
二人の端末へ、同時に小さな通知が届いた。
マカロンは、少し落ち着いた様子で飲み物を一口飲んだ。
けれど。
まだ話していないことが残っていた。
「ティー」
「何?」
「現実の私は、どんな人なんだろう」
ティーは答えず、続きを待った。
「歩けなくて。病院にずっといて。戻りたくないって言ってた」
マカロンは、自分の手を見る。
「ここでは走って。仕事で銃まで持って。花を見るとすぐに出かけたくなって。ずっと話してる」
口元へ、少し困ったような笑みが浮かぶ。
「違いすぎるよね」
「身体は違う」
「じゃあ」
マカロンは、小さな声で尋ねた。
「今の私は、本当の私なのかな」
その問いに。
ティーはすぐに答えることができなかった。
自分にも。
本当の名前が別にある。
現実の顔も。
髪の色も。
年齢も知らない。
Tという名前は、治療のために与えられたものだった。
白い服も。
猫耳のアバターも。
クライアントユニットも。
最初から自分で選んだものではない。
それでも。
ティーは、ティーとして何日も過ごした。
「私のTも」
静かに口を開く。
「誰かに与えられた名前だった」
マカロンが、ティーを見る。
「うん」
「この髪も。耳も。現実の私と同じかはわからない」
ティーは自分の猫耳へ触れた。
今は。
少しだけ前を向いている。
「でも、紫色の飲み物を好きになったのは、私」
灰色のノートへ書くことを決めたのも。
ミッドレッドの扉を開いたのも。
マカロンへ、また会おうと言ったのも。
自分で選んだ。
「マカロンが走ったのも」
ティーは続ける。
「花を見つけたのも。私の隣へ座ったのも。怖い時に、怖いって言ったのも」
どれも。
与えられた任務ではない。
「全部、マカロンが選んだこと」
マカロンは、しばらく動かなかった。
ティーは言葉を重ねずに待った。
やがて。
マカロンが、自分の桃色のチャームを持ち上げた。
「これを選んだのも?」
「うん」
「現実の私が、桃色を嫌いだったら?」
「その時は、好きな色が増えたってことだと思う」
マカロンは、桃色の光を見つめた。
少しして。
柔らかく笑った。
「じゃあ、今の私も私なんだね」
「うん」
「現実の身体で走れなくても?」
「マカロンがマカロンではなくなるわけではない」
現実へ戻れば。
すぐに走ることはできないかもしれない。
長いリハビリが必要になる。
自分の脚だけで歩けるようになるかも。
まだ決まっていない。
けれど。
ここで過ごしたマカロンが消えるわけではない。
「私も」
ティーは青いチャームへ触れた。
「本当の名前を思い出しても、Tだった時間は消えないと思う」
その時。
仕切りの外から、メーアの声がした。
「飲み物、足りてる?」
話へ入るためではなく。
必要な時に呼べることを伝えるような声だった。
マカロンが答える。
「大丈夫です」
少し迷い。
続けた。
「メーアさん。シエルさんも、少しだけ来てくれますか?」
二人が、奥の席へ入ってくる。
メーアはティーの横。
シエルはマカロンの近くへ立った。
マカロンは、すべてを話したわけではなかった。
理定者の仕事。
黄色い瞳。
銃撃戦。
それらは伏せたまま。
現実で長い治療を受けていること。
もうすぐ戻れるかもしれないこと。
そして。
現実の自分と、ここにいる自分が違いすぎることが怖いと話した。
メーアは、最後まで黙って聞いていた。
「現実へ戻れるんだね」
「うん」
「よかった」
喜びを強く押しつけることなく。
それでも、はっきりと嬉しそうに言った。
シエルは、マカロンの桃色のチャームを見る。
「ここで選んだものは、戻ってもなくならないよ」
「アカウントが残れば、だけど」
「残るといいね」
短い言葉だった。
けれど。
戻ってきてよい場所が、変わらずここにあることは十分に伝わった。
メーアも、二人のいつもの席へ目を向けた。
「身体が違っても、名前が違っても。ここへ来たら、二人の席は同じだから」
マカロンは頷いた。
「また来たいです」
「待ってるよ」
ティーも。
静かに言った。
「私も戻ってくる」
その時。
二人の端末へ、同時に小さな通知が届いた。
軽い一仕事
<NIGHT SHIFT>
<LOCAL DISTURBANCE>
<AREA:ブロックNo.1・川辺連絡路>
<CIVILIAN USERS:7>
<THREAT LEVEL:LOW>
マカロンが画面を見る。
「仕事」
「軽いみたい」
今夜の対象は。
川辺フィールドへ続く連絡路に設置された、不正な座標ループだった。
同じ場所を歩き続けても。
数十秒ごとに入口へ戻される。
現在、七名の利用者が内部へ取り残されている。
仕掛けた利用者は、遠隔から装置を操作していた。
武装反応はない。
任務装備の一覧にも。
ハンドガンやナイフは表示されなかった。
<EQUIPMENT:CLIENT UNIT ONLY>
「今日は、撃たなくていい」
マカロンが小さく息を吐く。
ティーも頷いた。
「戻ってくる?」
メーアが尋ねる。
「うん。あまり長くはかからないと思う」
「いってらっしゃい」
シエルも二人を見る。
「気をつけて」
ティーとマカロンは、いつもの席から立ち上がった。
「行ってきます」
「行ってきます!」
ミッドレッドの赤い扉を開く。
今夜の二人は。
新しく買った服のままだった。
路地へ出たところで。
ティーはクライアントユニットを展開する。
マカロンも専用端末を開いた。
視覚権限の稼働。
青と赤みを帯びた瞳が。
同時に黄色へ変わった。
<LOCAL DISTURBANCE>
<AREA:ブロックNo.1・川辺連絡路>
<CIVILIAN USERS:7>
<THREAT LEVEL:LOW>
マカロンが画面を見る。
「仕事」
「軽いみたい」
今夜の対象は。
川辺フィールドへ続く連絡路に設置された、不正な座標ループだった。
同じ場所を歩き続けても。
数十秒ごとに入口へ戻される。
現在、七名の利用者が内部へ取り残されている。
仕掛けた利用者は、遠隔から装置を操作していた。
武装反応はない。
任務装備の一覧にも。
ハンドガンやナイフは表示されなかった。
<EQUIPMENT:CLIENT UNIT ONLY>
「今日は、撃たなくていい」
マカロンが小さく息を吐く。
ティーも頷いた。
「戻ってくる?」
メーアが尋ねる。
「うん。あまり長くはかからないと思う」
「いってらっしゃい」
シエルも二人を見る。
「気をつけて」
ティーとマカロンは、いつもの席から立ち上がった。
「行ってきます」
「行ってきます!」
ミッドレッドの赤い扉を開く。
今夜の二人は。
新しく買った服のままだった。
路地へ出たところで。
ティーはクライアントユニットを展開する。
マカロンも専用端末を開いた。
視覚権限の稼働。
青と赤みを帯びた瞳が。
同時に黄色へ変わった。
川辺連絡路へ到着すると。
透明な通路の中を、七人の利用者が同じように歩き続けていた。
本人たちには前へ進んでいるように見える。
しかし。
一定の場所を越えるたび、入口付近へ座標を戻されている。
「止まってください!」
マカロンが、外側から声をかける。
内部の利用者が振り返る。
「誰かいるのか?」
「ここから出られない!」
「今、解除します!」
ティーは通路全体へ障壁を展開した。
新しく入ってくる利用者を防ぐためのものだ。
青い壁が、入口と出口を静かに覆う。
マカロンが端末で、不正な処理の経路を追う。
「ループの基準点、見つけた」
「どこ?」
「通路の中央。あの案内板に隠してる」
黄色い視界の中。
通常の観光案内に見える表示の裏側へ、赤い座標線が何重にも巻きついていた。
ティーはクライアントユニットへ両手を置く。
「利用者を動かすより、ループの方をずらす」
「私が七人の位置を固定するね」
「お願い」
マカロンが、一人ずつの現在座標を端末へ登録する。
七人。
移動禁止ではない。
座標の基準が書き換わっても、同じ場所へ留まれるようにするための固定だった。
「できた!」
「動かす」
ティーが入力する。
<LOOP ORIGIN>
<CURRENT:PASSAGE CENTER>
不正なループの中心を。
誰もいない川の上空へ移す。
確定。
赤い座標線が。
通路から一斉に剥がれた。
数秒遅れて。
七人の利用者が、本来いるべき位置へ戻る。
「出られた……!」
「メニューも動く!」
「助かった!」
マカロンが利用者たちを出口へ案内する。
その間。
ティーはループの送信元を追った。
遠隔操作をしていた利用者が、異常へ気づいたらしい。
不正モジュールを切断し、逃げようとしている。
「マカロン」
「うん」
「接続を止める」
送信元。
ブロックNo.1の小さな個人空間。
武装なし。
過去にも、同じような迷惑行為による警告を二度受けている。
ティーは最終処理を確認した。
<24-HOUR TIMEOUT>
<ILLEGAL MODULE CONFISCATION>
マカロンが、ティーの隣へ戻る。
「それでいいと思う」
二人で確認し。
入力する。
不正モジュールの通信が停止した。
川の上空へ移したループも。
青い粒子となって消えていく。
<MISSION COMPLETE>
銃声はない。
誰も傷ついていない。
取り残されていた七人も。
自分の意思で歩いて帰っていく。
一人の小さな利用者が、二人へ手を振った。
「ありがとう、黄色い目のお姉ちゃんたち!」
マカロンが手を振り返す。
ティーも、小さく手を上げた。
視覚権限が解除される。
二人の瞳が。
元の色へ戻っていく。
「終わったね」
マカロンが言う。
「うん」
「こういう仕事なら、少し好きかも」
「私も」
クライアントユニットを収納しようとした時。
二人の端末が、同時に白く輝いた。
透明な通路の中を、七人の利用者が同じように歩き続けていた。
本人たちには前へ進んでいるように見える。
しかし。
一定の場所を越えるたび、入口付近へ座標を戻されている。
「止まってください!」
マカロンが、外側から声をかける。
内部の利用者が振り返る。
「誰かいるのか?」
「ここから出られない!」
「今、解除します!」
ティーは通路全体へ障壁を展開した。
新しく入ってくる利用者を防ぐためのものだ。
青い壁が、入口と出口を静かに覆う。
マカロンが端末で、不正な処理の経路を追う。
「ループの基準点、見つけた」
「どこ?」
「通路の中央。あの案内板に隠してる」
黄色い視界の中。
通常の観光案内に見える表示の裏側へ、赤い座標線が何重にも巻きついていた。
ティーはクライアントユニットへ両手を置く。
「利用者を動かすより、ループの方をずらす」
「私が七人の位置を固定するね」
「お願い」
マカロンが、一人ずつの現在座標を端末へ登録する。
七人。
移動禁止ではない。
座標の基準が書き換わっても、同じ場所へ留まれるようにするための固定だった。
「できた!」
「動かす」
ティーが入力する。
<LOOP ORIGIN>
<CURRENT:PASSAGE CENTER>
不正なループの中心を。
誰もいない川の上空へ移す。
確定。
赤い座標線が。
通路から一斉に剥がれた。
数秒遅れて。
七人の利用者が、本来いるべき位置へ戻る。
「出られた……!」
「メニューも動く!」
「助かった!」
マカロンが利用者たちを出口へ案内する。
その間。
ティーはループの送信元を追った。
遠隔操作をしていた利用者が、異常へ気づいたらしい。
不正モジュールを切断し、逃げようとしている。
「マカロン」
「うん」
「接続を止める」
送信元。
ブロックNo.1の小さな個人空間。
武装なし。
過去にも、同じような迷惑行為による警告を二度受けている。
ティーは最終処理を確認した。
<24-HOUR TIMEOUT>
<ILLEGAL MODULE CONFISCATION>
マカロンが、ティーの隣へ戻る。
「それでいいと思う」
二人で確認し。
入力する。
不正モジュールの通信が停止した。
川の上空へ移したループも。
青い粒子となって消えていく。
<MISSION COMPLETE>
銃声はない。
誰も傷ついていない。
取り残されていた七人も。
自分の意思で歩いて帰っていく。
一人の小さな利用者が、二人へ手を振った。
「ありがとう、黄色い目のお姉ちゃんたち!」
マカロンが手を振り返す。
ティーも、小さく手を上げた。
視覚権限が解除される。
二人の瞳が。
元の色へ戻っていく。
「終わったね」
マカロンが言う。
「うん」
「こういう仕事なら、少し好きかも」
「私も」
クライアントユニットを収納しようとした時。
二人の端末が、同時に白く輝いた。
帰還許可
<THERAPEUTIC ROLE>
<STATUS:COMPLETE>
<RETURN TO REALITY>
<AUTHORIZED>
ティーは、表示された文字を何度も読んだ。
マカロンも。
動きを止めている。
「これ……」
「帰還許可」
今まで。
何度試しても使えなかった言葉。
現実へ戻る。
それが今は。
禁止でも。
未確定でもない。
<AUTHORIZED>
許可済み。
ティーのクライアントユニットへ、医療通話が開いた。
低い男の声。
今では、先生の声だと知っている。
『最終検査の結果が出ました』
「先生」
『現実側の身体と精神状態、双方の基準を満たしています。帰還処理を開始できる状態です』
ティーの猫耳が。
ゆっくりと立った。
「戻れるんですね」
『はい』
隣では。
マカロンの専用端末にも、別の医療通話が届いていた。
彼女は黙って聞いている。
やがて。
両手で口元を覆った。
赤みを帯びた瞳が、涙で揺れる。
通話を終えると。
ティーを見た。
「私も」
声が震える。
「私も、戻っていいって」
ティーは、すぐにマカロンへ近づいた。
「よかった」
「うん」
マカロンは泣きながら笑った。
「戻れる」
二人とも。
現実側で、すべての治療が終わったわけではない。
ティーには。
覚醒後も身体の確認と、しばらくの入院が必要になる。
マカロンには。
長いリハビリが待っている。
すぐに歩けるようになるとは限らない。
それでも。
意識を現実へ戻しても。
身体と精神の安定を大きく損なわない。
その許可が出た。
「アカウントは?」
ティーは、先生へ尋ねた。
「Tは、帰ったら消えるんですか」
『消えません』
クライアントユニットの上空へ、保存される情報が表示される。
<ACCOUNT:PERMANENT>
<DISPLAY NAME:T>
<AVATAR DATA:PRESERVED>
<CONTACTS:PRESERVED>
<WARDROBE:PRESERVED>
<PERSONAL RECORDS:PRESERVED>
ミッドレッドの連絡先。
青い花の写真。
灰色のノート。
新しく買った服。
青いチャーム。
すべて。
そのまま残る。
『理定者としての特別権限とクライアントユニットは、治療期間の終了に伴い停止されます』
「普通の利用者になる?」
『はい。現実側の身体が安定し、通常接続を許可された後は、現在のアカウントをそのまま使用できます』
「ずっと?」
『あなたが使用を望む限り』
ティーは、自分の名前表示を見た。
<T>
治療のために与えられた一文字。
それでも。
今では。
自分で名乗ることのできる名前だった。
「Tのままでいてもいいんですね」
『もちろんです』
隣で。
マカロンも同じ説明を受けている。
彼女の名前も。
服も。
写真も。
連絡先も残る。
理定者としての仕事が終わっても。
コルメリーマカロンとして過ごした時間は消えない。
二人は顔を見合わせた。
帰ることは。
ここを失うことではなかった。
<STATUS:COMPLETE>
<RETURN TO REALITY>
<AUTHORIZED>
ティーは、表示された文字を何度も読んだ。
マカロンも。
動きを止めている。
「これ……」
「帰還許可」
今まで。
何度試しても使えなかった言葉。
現実へ戻る。
それが今は。
禁止でも。
未確定でもない。
<AUTHORIZED>
許可済み。
ティーのクライアントユニットへ、医療通話が開いた。
低い男の声。
今では、先生の声だと知っている。
『最終検査の結果が出ました』
「先生」
『現実側の身体と精神状態、双方の基準を満たしています。帰還処理を開始できる状態です』
ティーの猫耳が。
ゆっくりと立った。
「戻れるんですね」
『はい』
隣では。
マカロンの専用端末にも、別の医療通話が届いていた。
彼女は黙って聞いている。
やがて。
両手で口元を覆った。
赤みを帯びた瞳が、涙で揺れる。
通話を終えると。
ティーを見た。
「私も」
声が震える。
「私も、戻っていいって」
ティーは、すぐにマカロンへ近づいた。
「よかった」
「うん」
マカロンは泣きながら笑った。
「戻れる」
二人とも。
現実側で、すべての治療が終わったわけではない。
ティーには。
覚醒後も身体の確認と、しばらくの入院が必要になる。
マカロンには。
長いリハビリが待っている。
すぐに歩けるようになるとは限らない。
それでも。
意識を現実へ戻しても。
身体と精神の安定を大きく損なわない。
その許可が出た。
「アカウントは?」
ティーは、先生へ尋ねた。
「Tは、帰ったら消えるんですか」
『消えません』
クライアントユニットの上空へ、保存される情報が表示される。
<ACCOUNT:PERMANENT>
<DISPLAY NAME:T>
<AVATAR DATA:PRESERVED>
<CONTACTS:PRESERVED>
<WARDROBE:PRESERVED>
<PERSONAL RECORDS:PRESERVED>
ミッドレッドの連絡先。
青い花の写真。
灰色のノート。
新しく買った服。
青いチャーム。
すべて。
そのまま残る。
『理定者としての特別権限とクライアントユニットは、治療期間の終了に伴い停止されます』
「普通の利用者になる?」
『はい。現実側の身体が安定し、通常接続を許可された後は、現在のアカウントをそのまま使用できます』
「ずっと?」
『あなたが使用を望む限り』
ティーは、自分の名前表示を見た。
<T>
治療のために与えられた一文字。
それでも。
今では。
自分で名乗ることのできる名前だった。
「Tのままでいてもいいんですね」
『もちろんです』
隣で。
マカロンも同じ説明を受けている。
彼女の名前も。
服も。
写真も。
連絡先も残る。
理定者としての仕事が終わっても。
コルメリーマカロンとして過ごした時間は消えない。
二人は顔を見合わせた。
帰ることは。
ここを失うことではなかった。
おかえりを言ってもらえる場所
二人は、もう一度ミッドレッドへ戻った。
仕事に出てから。
それほど時間は経っていない。
赤い扉を開く。
「ただいま」
「ただいま!」
メーアとシエルが、いつもの場所から二人を見る。
「おかえり」
「今日は早かったね」
ティーとマカロンは。
カウンターの前へ並んだ。
何から話すか。
事前に決めてはいなかった。
マカロンが、先に口を開く。
「私たち」
一度息を吸う。
「現実へ戻れることになりました」
メーアの目が、わずかに大きくなる。
シエルも、手にしていたグラスを静かに置いた。
「二人とも?」
「うん」
ティーが答える。
「身体が戻っても大丈夫になったって」
しばらく。
メーアは何も言わなかった。
それから。
ゆっくり笑った。
「おめでとう」
声が、少しだけ震えている。
「本当によかった」
シエルも頷く。
「帰れるんだね」
「うん」
マカロンの目へ。
また涙が浮かんだ。
「でも、また来られます」
「アカウントは残る」
ティーも続ける。
「普通に接続できるようになったら、ここへ戻ってくる」
メーアは、二人のいつもの席を見る。
「なら、席はそのままだね」
「誰かが座っていたら?」
ティーが尋ねる。
「その時は、いつものように空くまで待ってもらうよ」
メーアの答えに。
ティーは少し笑った。
シエルは二人のグラスを用意する。
淡い紫色。
甘い桃色。
「戻ってきたら、また作る」
「今も飲んでいい?」
マカロンが尋ねる。
「もちろん」
二人は、いつもの席へ座った。
理定者の仕事は終わる。
現実へ帰る。
けれど。
この席へ座る最後の夜ではない。
そう思えるだけで。
飲み物の味は、いつもと変わらなかった。
仕事に出てから。
それほど時間は経っていない。
赤い扉を開く。
「ただいま」
「ただいま!」
メーアとシエルが、いつもの場所から二人を見る。
「おかえり」
「今日は早かったね」
ティーとマカロンは。
カウンターの前へ並んだ。
何から話すか。
事前に決めてはいなかった。
マカロンが、先に口を開く。
「私たち」
一度息を吸う。
「現実へ戻れることになりました」
メーアの目が、わずかに大きくなる。
シエルも、手にしていたグラスを静かに置いた。
「二人とも?」
「うん」
ティーが答える。
「身体が戻っても大丈夫になったって」
しばらく。
メーアは何も言わなかった。
それから。
ゆっくり笑った。
「おめでとう」
声が、少しだけ震えている。
「本当によかった」
シエルも頷く。
「帰れるんだね」
「うん」
マカロンの目へ。
また涙が浮かんだ。
「でも、また来られます」
「アカウントは残る」
ティーも続ける。
「普通に接続できるようになったら、ここへ戻ってくる」
メーアは、二人のいつもの席を見る。
「なら、席はそのままだね」
「誰かが座っていたら?」
ティーが尋ねる。
「その時は、いつものように空くまで待ってもらうよ」
メーアの答えに。
ティーは少し笑った。
シエルは二人のグラスを用意する。
淡い紫色。
甘い桃色。
「戻ってきたら、また作る」
「今も飲んでいい?」
マカロンが尋ねる。
「もちろん」
二人は、いつもの席へ座った。
理定者の仕事は終わる。
現実へ帰る。
けれど。
この席へ座る最後の夜ではない。
そう思えるだけで。
飲み物の味は、いつもと変わらなかった。
現実でも会おう
ミッドレッドを出た頃。
空の端が、少しずつ明るくなり始めていた。
ティーとマカロンは。
住宅区へ向かう道を、ゆっくり歩いた。
急ぐ理由はない。
帰還処理は。
それぞれの医療状態へ合わせ、別の時間に行われる。
ティーが先。
マカロンは、その後。
マカロンには。
現実へ戻ってからも、しばらく長いリハビリが続く。
ティーも。
すぐに退院できるわけではない。
「現実で会えるの、いつになるかな」
マカロンが言う。
「私が退院してから」
「私のリハビリが、まだ終わってなかったら?」
「会いに行く」
マカロンは、ティーを見る。
「病院に?」
「マカロンが、来てもいいって言うなら」
マカロンの表情が。
ゆっくり明るくなった。
「来てほしい」
「うん」
「でも、ティーも無理しないでね」
「マカロンも」
二人は、並んで歩き続ける。
現実のティーには。
猫耳がないかもしれない。
銀髪でも。
青い目でもないかもしれない。
現実のマカロンにも。
小さな獣耳はない。
ここで見ている姿とは。
まったく違うかもしれない。
「どうやって見つける?」
ティーが尋ねる。
「声でわかるよ」
マカロンは、すぐに答えた。
「それと」
自分の桃色のチャームを持ち上げる。
「現実でも、色違いのものを買おう」
ティーも青いチャームへ触れる。
「一緒に店へ行って?」
「うん。今度は、現実のお店で」
「服も?」
「見たい!」
その声は。
いつものマカロンだった。
現実の身体で。
すぐに自由に歩けるとは限らない。
それでも。
一緒に買い物へ行く未来を、もう話すことができる。
「約束」
ティーが言う。
マカロンは、小指を差し出した。
ティーも自分の指を重ねる。
「ティーが退院したら、現実で会う」
「うん」
「それから、だんのこまちでも会う」
「うん」
「青い花のフィールドへ、お弁当を持っていく」
「それも」
三つの約束。
どれも。
誰かに与えられた任務ではない。
二人が、自分で決めたものだった。
住宅区の分かれ道へ着く。
マカロンの部屋は右。
ティーの部屋は左。
「次に会う時は」
マカロンが言う。
「現実かもしれないね」
「先に、アカウントで連絡する」
「うん」
「何も言わずに、いなくならない」
以前。
マカロンが一番怖がっていたこと。
今度は。
二人とも、その心配をしなくてよかった。
「またね、ティー」
「またね、マカロン」
二人は。
それぞれの部屋へ向かった。
空の端が、少しずつ明るくなり始めていた。
ティーとマカロンは。
住宅区へ向かう道を、ゆっくり歩いた。
急ぐ理由はない。
帰還処理は。
それぞれの医療状態へ合わせ、別の時間に行われる。
ティーが先。
マカロンは、その後。
マカロンには。
現実へ戻ってからも、しばらく長いリハビリが続く。
ティーも。
すぐに退院できるわけではない。
「現実で会えるの、いつになるかな」
マカロンが言う。
「私が退院してから」
「私のリハビリが、まだ終わってなかったら?」
「会いに行く」
マカロンは、ティーを見る。
「病院に?」
「マカロンが、来てもいいって言うなら」
マカロンの表情が。
ゆっくり明るくなった。
「来てほしい」
「うん」
「でも、ティーも無理しないでね」
「マカロンも」
二人は、並んで歩き続ける。
現実のティーには。
猫耳がないかもしれない。
銀髪でも。
青い目でもないかもしれない。
現実のマカロンにも。
小さな獣耳はない。
ここで見ている姿とは。
まったく違うかもしれない。
「どうやって見つける?」
ティーが尋ねる。
「声でわかるよ」
マカロンは、すぐに答えた。
「それと」
自分の桃色のチャームを持ち上げる。
「現実でも、色違いのものを買おう」
ティーも青いチャームへ触れる。
「一緒に店へ行って?」
「うん。今度は、現実のお店で」
「服も?」
「見たい!」
その声は。
いつものマカロンだった。
現実の身体で。
すぐに自由に歩けるとは限らない。
それでも。
一緒に買い物へ行く未来を、もう話すことができる。
「約束」
ティーが言う。
マカロンは、小指を差し出した。
ティーも自分の指を重ねる。
「ティーが退院したら、現実で会う」
「うん」
「それから、だんのこまちでも会う」
「うん」
「青い花のフィールドへ、お弁当を持っていく」
「それも」
三つの約束。
どれも。
誰かに与えられた任務ではない。
二人が、自分で決めたものだった。
住宅区の分かれ道へ着く。
マカロンの部屋は右。
ティーの部屋は左。
「次に会う時は」
マカロンが言う。
「現実かもしれないね」
「先に、アカウントで連絡する」
「うん」
「何も言わずに、いなくならない」
以前。
マカロンが一番怖がっていたこと。
今度は。
二人とも、その心配をしなくてよかった。
「またね、ティー」
「またね、マカロン」
二人は。
それぞれの部屋へ向かった。
Tだった時間
部屋へ戻ると。
帰還準備の表示が、静かに浮かんでいた。
<RETURN SEQUENCE>
<STATUS:STANDBY>
<MEDICAL LINK:READY>
現実へ戻るための準備は整っている。
ティーはすぐに開始せず。
机の前へ座った。
灰色のノートを開く。
最初のページ。
<T>
<ティー>
目覚めた直後。
自分を示すものが何もなく。
与えられた一文字を書いた。
ページを進める。
紫色の飲み物。
猫。
ミッドレッド。
マカロン。
青い花。
BlackMETRO。
みたらしっぽ。
チョコチップ。
自分で選んだ青灰色。
現実の身体。
すべてが。
同じノートの中に残っている。
新しいページを開く。
青いペンを持った。
<理定者の仕事は終わる>
<現実へ戻る>
少し考える。
その下へ。
<Tは、与えられた名前だった>
書いた。
けれど。
それだけでは足りなかった。
<でも、Tとして選んだものは、私のもの>
<本当の名前を思い出しても、Tだった時間は消えない>
最後に。
<マカロンと、現実で会う>
ペンを置く。
ジャケットの青いチャームを外し。
ノートの上へそっと置いた。
現実へ持っていける物ではない。
それでも。
アカウントの中へ残る。
ティーが戻れば。
同じ場所で、また触れることができる。
窓の外。
だんのこまちの朝が始まろうとしていた。
バーチャル世界の空。
作られた朝日。
それでも。
この空を見て感じたものまで、作り物ではなかった。
クライアントユニットを展開する。
青く透き通った基部。
白い立体キー。
何度も任務を受け。
バリアを張り。
空間を動かし。
誰かを現実へ帰してきた端末。
今度は。
ティー自身を現実へ戻すために、目の前へ浮かんでいる。
<RETURN SEQUENCE>
<BEGIN?>
白く光るキーへ、指を置く。
まだ押さない。
一度だけ。
部屋の中を見渡した。
誰かから与えられた部屋。
けれど今は。
青いカップ。
灰色のノート。
写真。
新しい服。
ティーが選んだものが残っている。
「行ってきます」
いつものように。
部屋へ向けて言った。
帰るのに。
行ってきます。
少し不思議だった。
けれど。
また戻ってくるつもりなら、それでよかった。
ティーは目を閉じる。
次に目を開けた時。
そこにある空が、どんな色なのか。
まだ知らない。
白いキーを。
静かに押した。
帰還準備の表示が、静かに浮かんでいた。
<RETURN SEQUENCE>
<STATUS:STANDBY>
<MEDICAL LINK:READY>
現実へ戻るための準備は整っている。
ティーはすぐに開始せず。
机の前へ座った。
灰色のノートを開く。
最初のページ。
<T>
<ティー>
目覚めた直後。
自分を示すものが何もなく。
与えられた一文字を書いた。
ページを進める。
紫色の飲み物。
猫。
ミッドレッド。
マカロン。
青い花。
BlackMETRO。
みたらしっぽ。
チョコチップ。
自分で選んだ青灰色。
現実の身体。
すべてが。
同じノートの中に残っている。
新しいページを開く。
青いペンを持った。
<理定者の仕事は終わる>
<現実へ戻る>
少し考える。
その下へ。
<Tは、与えられた名前だった>
書いた。
けれど。
それだけでは足りなかった。
<でも、Tとして選んだものは、私のもの>
<本当の名前を思い出しても、Tだった時間は消えない>
最後に。
<マカロンと、現実で会う>
ペンを置く。
ジャケットの青いチャームを外し。
ノートの上へそっと置いた。
現実へ持っていける物ではない。
それでも。
アカウントの中へ残る。
ティーが戻れば。
同じ場所で、また触れることができる。
窓の外。
だんのこまちの朝が始まろうとしていた。
バーチャル世界の空。
作られた朝日。
それでも。
この空を見て感じたものまで、作り物ではなかった。
クライアントユニットを展開する。
青く透き通った基部。
白い立体キー。
何度も任務を受け。
バリアを張り。
空間を動かし。
誰かを現実へ帰してきた端末。
今度は。
ティー自身を現実へ戻すために、目の前へ浮かんでいる。
<RETURN SEQUENCE>
<BEGIN?>
白く光るキーへ、指を置く。
まだ押さない。
一度だけ。
部屋の中を見渡した。
誰かから与えられた部屋。
けれど今は。
青いカップ。
灰色のノート。
写真。
新しい服。
ティーが選んだものが残っている。
「行ってきます」
いつものように。
部屋へ向けて言った。
帰るのに。
行ってきます。
少し不思議だった。
けれど。
また戻ってくるつもりなら、それでよかった。
ティーは目を閉じる。
次に目を開けた時。
そこにある空が、どんな色なのか。
まだ知らない。
白いキーを。
静かに押した。