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あとのない仮名
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あとのない仮名
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)源次《もとじ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)度|噛《か》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JISX0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「秋/魚」、U+29E64、275-下-4]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
源次《もとじ》は焼いた目刺を頭からかじり、二三度|噛《か》んでめし[#「めし」に傍点]を一と箸《はし》入れ、また二三度噛み、こんどは大根の葉の漬物を一と箸加え、それらをいっしょにゆっくりと噛み合わせた。――お兼《かね》はつけ[#「つけ」に傍点]板に両肱《りょうひじ》をのせ、頬杖《ほおづえ》をついたまま、源次の喰べるのを見まもっていた。
「あたし、ね」とお兼が云った、「男のひとがそういうふうに、目刺なんか頭からがりがり喰べるの、見ているだけで好きだわ」
源次は味噌汁を啜《すす》って、噛み合わせたものを呑みこんだ。そして次の目刺をまた頭からかじり、二三度噛んでめし[#「めし」に傍点]を一と箸入れ、二三度噛むと漬物を一と箸加え、それらを口の中で混ぜて、さもうまそうに噛み合わせた。魚の骨を噛み砕くいさましい歯の音とともに、彼のばねのようにひき緊った頬の肉が、くりくりと動いた。お兼はその健康な頬肉の動くのを、さも好もしそうに見まもった。
「でもへんね」とお兼がまた云った。「いつも思うんだけれど、そんなにいろいろな物をまぜこぜに入れて、一遍に喰べてうまいかしら、味がごちゃごちゃになっちゃって、どれがうまいのかまずいのか、わからなくなっちゃうじゃなくって」
「おやじに小言を云われたもんだ」と云って源次は味噌汁を啜った、「小さいじぶん番たびどなられたっけ、魚を喰べるときは魚、こうこ[#「こうこ」に傍点]を喰べるときはこうこ[#「こうこ」に傍点]、汁は汁と、ひと品ずつで喰べろ、これでもうちの先祖は侍だったんだぞ、ってな」
「あら」お兼は頬杖から身を起こした、「あんたのうちお待さんだったの」
「どうだかな、おらあ知らねえ」おふくろも信用しちゃあいなかったらしいが、おやじはいつもそう云ってたっけ――源《もと》、御先祖の名をけがすようなまねをするんじゃあねえぞ、ってな」
古ぼけた小さな店だ。鉤《かぎ》の手につけ[#「つけ」に傍点]台をまわし、空樽《あきだる》に薄い座蒲団をのせた腰掛が、それに沿って七つ置いてある。つまり客は七人が限度ということで、つけ[#「つけ」に傍点]板の中も狭く、女主人のお兼一人でも、そこへはいれば自由に身動きができないくらいであった。――うしろに皿小鉢や徳利などを入れる戸納《とだな》があり、その右手に三尺寸詰りの一枚障子があって、奥にお兼の寝間があるらしい。また、酒の燗《かん》をする銅壺《どうこ》や、肴《さかな》を煮焼きする焜炉《こんろ》その他、手廻りの物はつけ[#「つけ」に傍点]板の蔭に置いてある。低い天床板《てんじょういた》は煤《すす》けて、雨漏りの跡がいっぱいだし、左右の壁は剥《は》げたので、板を打ち付けて保《も》たせてある、ということが一と眼でわかった。――お兼のうしろの戸納の上には、白木の小さな神棚を中心に、まねき猫や飾り熊手などの縁起物が、埃《ほこり》にまみれてごたごたと並べられ、その壁には成田山や秋葉山、川崎の大師などの、災難|除《よ》け火除けの札がべたべた貼《は》りつけてある中に、「御利生《ごりしょう》様」と手書きにした大きなお札が三枚、とびとびに貼ってあった。
「よくはいるわね」お兼は幾度めかの茶碗にめし[#「めし」に傍点]をよそいながら云った、「これでもう五杯めよ」
「半分でいい、茶漬にするんだ」
「じゃあお茶を淹《い》れるわ」
「湯でいい、このこうこ[#「こうこ」に傍点]がうめえから、仕上げにざっとかっこみてえんだ」
「あたし漬物は自慢なのよ、漬物なら誰にも負けない自信があるわ、死んだおっかさんは面倒くさがって、いっも漬物屋から買ってばかりいたの、糠《ぬか》みそでも塩漬でも、出すときの匂いがいやだって、ほんとはそんなことをするのが面倒くさかったのね、おとっつぁんはいつも嘆いてたわ、世帯《しょたい》を持ってうちのおこうこ[#「こうこ」に傍点]が喰べられないなんて、世も末だなあって、――だからあたし十五六のころから、おかの[#「かの」に傍点]さんのおばさんに教わって、漬物のやり方を覚えたのよ、ほら知ってるでしょ、屋根屋の徳さんちのおかの[#「かの」に傍点]さん、あのおばさんの糠みそには秘伝があるんですってよ」
「ああ食った」と云って、源次は茶碗と箸を置いた、「これで大丈夫だ、酒にしよう」
「いまつけたわ」とお兼が云った、「あんたは変ってるのね、ごはんを喰べてっから飲むなんて人、あたし初めて見たわ」
「酒飲みじゃねえからだろう、おらあ酒はそう好きじゃあねえんだ」
お兼は源次の喰べたあとを片づけ、燗のぐあいをみて「もうちょっとね」と云い、身を起こして源次の顔をみつめた。
「ねえ」とお兼は囁《ささや》いた、「浮気をしない」そして恥ずかしそうに肩をすくめ、ちらっと舌を出した、「こんなことを云うと嫌われるかしら」
「おれあ女房と二人の子持ちだぜ」
「どうかしら」お兼は媚《こ》びた眼つきで、首をかしげながら頬笑んだ、「とし[#「とし」に傍点]からいえばその筈だろうけれど、あんたは世帯持ちのようにはみえないわ、口でここがこうだからとは云えないけれど、世帯持ちにはどこかしら世帯持ちの匂いがするものよ」
「おれの友達に福っていう」と云いかけて突然、彼は奇声をあげながら腰掛からとびあがった、「――ああ吃驚《びっくり》した、ちくしょうめ」彼は自分の足許《あしもと》を覗《のぞ》きこんだ、「いきなりとびだして、おれの足を踏んづけてゆきあがった、ああ吃驚した」
お兼は笑った、「臆病ねえ、鼠でしょ」
「らしいな、ちくしょう」源次は土間の左右を眺めまわしてから、大きな息をつきながら腰をおろした、「こっちの足からこっちの足を、さっさっと踏んづけてゆきあがった、なにもおれの足を踏んづけなくったって、土間にはたっぷり通る余地があるんだ、野郎、初めからおれをおどかすつもりだったんだな」
悪いのが一匹いるのよ、と云いながら、お兼は燗徳利と大きな盃《さかずき》をつけ[#「つけ」に傍点]板の上へ出し、摘み物の小皿と箸を並べた。
「いつかなんかあたしが寝ていたら、顔を踏んづけていったわ」
「顔って」源次は眼をそばめた、「おめえの、その顔をかい」
「この顔をよ、あたしとび起きちゃったわ」
源次は唸《うな》って云った、「そいつはぶっそうだな」
「それに懲りてさ、あたし冬でも寝るときには、ここから上だけ枕蚊屋へはいるの」お兼は胸から上へ手をすりあげてみせた、「――いまのもきっとそいつよ」
「なめてやがるんだな、人間を」源次は酒を啜って、ふと眼をあげた、「いまなんの話をしていたっけ」
「え、ああそう、世帯持ちの話だったわ、世帯持ちか独り身の人かは勘でわかるって」
「ところがそうじゃねえ、おれの友達に福っていう男がいるんだ、こいつはおれとおないどし[#「どし」に傍点]で、いまだに独り身なんだが、どこへいっても世帯持ちだと云われる、かみさんに子供が五人ぐらいはいるってさ、ひとめ見ればわかるって、どこへいっても云われるんだ」
「損な人柄なのね」とお兼が云った、「あたしもよく云われるわ、旦那持ちで隠し子があるんだろうって」
「そうじゃあねえのか」
「あんたまでがそんな」お兼は片手をあげて打つまねをし、源次をにらんだ、「――亭主や子供がいるのに、浮気をしましょうなんて云えると思って」
「暮れてきたぜ、提灯《ちょうちん》を出すんじゃねえのか」
休んじゃおうかしら、とお兼が云ったとき、店の障子をあけて客が二人はいって来た。済みませんいま灯を入れますと云って、お兼はまず吊《つ》ってある小ぶりな八間《はちけん》をおろし、五本の蝋燭《ろうそく》に火をつけ、それを吊りあげると、「梅八」と店の名を書いた軒提灯にも火を入れて、表の障子をあけ、軒先に掛けた。――二人の客は源次からはなれて腰を掛け、陽気に話しだしていた。一人は四十がらみ、一人は三十二三。二人とも職人ふうで、話しぶりは歯切れがよく、しかもおちついていて、がさつな感じは少しもなかった。源次はかれらをちょっと見ただけですぐに顔をそむけ、手酌で酒を啜りながら、聞くともなく二人の話を聞いていた。
お兼は酒の支度をし、摘み物の小皿や箸を揃《そろ》え、二人の前に掛けて、あいそを云いながら酌をした。
「よくあるやつさ、苦しいときの神だのみってな」と若いほうが話し続けていた、「――ふだん信心をしている者なら、神や仏も願いをきいてくれるだろうが、神棚も放《ほ》ったらかし、念仏をいちども口にしたこともないやつが、苦しまぎれに神仏だのみをしたって、神仏としても相談にのるような気分にはなれねえだろう」
「市公の話なら聞いた」と四十がらみの男が云った、「あんなに運の悪いことが重なれば、神や仏にもすがりたくなるのは人情だろうな」
「そんなてめえ勝手なこって、御利益《ごりやく》のあるわけはねえって、みんなせせら笑っていたし、おれもそのとおりだと思った、ところが、そうでもねえんだな」と若いほうの男が酒を飲んで云った、「井戸掘りの久さん、あのじいさんが云ってた、たとえ苦しまぎれにでも神仏を頼みにするのは、その人間にほんらい信心ごころがあるからだって、まるっきり信心ごころのない者なら、神仏にすがるということにさえ気がつかないだろうってな」
「なるほど、ものは考えようだな」
「火のないところに煙は立たないって、――こんなところに使うせりふ[#「せりふ」に傍点]とは思わなかったが、じいさんはまじめにそう云ってたっけ」
「おいおかみさん」ととし[#「とし」に傍点]嵩[#「かさ」に傍点]の男が、摘み物の小皿を箸で突つきながら云った、「また※[#「秋/魚」、U+29E64、275-下-4]《ごり》の佃煮《つくだに》かい、いくら突出しだからって、たまには眼さきの変った物にしても、損はねえだろうと思うがなあ」
「そんなこと云うもんじゃないわよ」とお兼は酌をしながらたしなめた、「ひとくちに佃煮って云うけれど、魚をとる漁師だって楽じゃないわ、冷たい風や雪や、みぞれにさらされながら、こごえた手足でふるえながら獲《と》るのよ」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「はいお一つ」お兼は若いほうの男に酌をしてから続けた、「そしてその魚を佃煮にするんだって、ちょろっかなことじゃ済まないわ、火のぐあいから味かげんや煮かげん、どうかしてよその店に負けないように仕上げようと、幾人も幾十人もの職人さんたちが、いっしょうけんめいにくふうを凝らしてるのよ、それだけじゃない、その佃煮を仕入れて売りに来るあきんどだって、とくい先をしくじらないために味の吟味もし、値段のかけひきもしたうえ、雨風をいとわず売って廻り、それで女房子を」
「わかったわかった」とその客は手をあげて遮《さえぎ》った、「わかったよ、その連中ぜんぶに礼を云うよ、――このちっぽけな※[#「秋/魚」、U+29E64、276-上-2]の一尾々々に、それほど大勢の人の苦労がかかってるとは気がつかなかった、おらあ涙がこぼれるぜ」
「帰るよ」と源次が云った、「勘定をしてくれ」
はいと答えてお兼が立って来た。そしてつけ[#「つけ」に傍点]板の蔭で銭勘定をしながら、さっきのこと本気よと囁いて、はいお釣りと、源次の手に幾らかの銭を渡した。
「またどうぞ」お兼は媚びた眼で源次をみつめながら云った、「またいらしってね、待ってますよ」
源次は頷《うなず》いて外へ出た。すっかり灯のついた横丁を、神田川の河岸《かし》へぬけてゆきながら、彼は握った手の中で銭を数え、渋い顔をして、それを腹掛のどんぶりの中へ入れた。
「浮気か、まあ当分おあずけだな」あるきながら彼は呟《つぶや》いた、「これっぱかりのはした銭で、浮気をしようもすさまじい、しかもまだ、たった五たびめじゃあねえか、しょってやがら」
源次はどきっとしたように、すばやくあたりへ眼をはしらせた。いま呟いたのは自分ではなく、誰かが自分を嘲笑《ちょうしょう》したかのように思えたからだ。彼は頭を振り、いやなことを云やあがる、と呟いた。神田川にはかなり船がはいっていて、荷揚げをしているのが二三あり、船から河岸のあたり、暗がりの中で提灯がせわしくゆらめき、人足たちの掛け声や、互いに呼びあう声がけいきよく聞えていた。
久右衛門町にかかると、その片側町は船頭や人足たち相手の、めし[#「めし」に傍点]屋や木賃旅籠《きちんはたご》が多くなる。源次はその中の「信濃屋《しなのや》」という旅籠宿へはいった。狭い土間に洗足《すすぎ》用の手桶《ておけ》と盥《たらい》が出してあり、帳場に女主人のおとよ[#「とよ」に傍点]がいた。まだ時刻が早いからだろう、客のいるようすはなかった。
「あらお帰りなさい」おとよ[#「とよ」に傍点]が源次を見て云った、「どうしたの、三日も姿を見せないで、どこへしけ込んでたのよ」
「いつもの部屋、あいてるか」
「知ってるくせに」おとよ[#「とよ」に傍点]は帳面を閉じて立ちあがった、「ああそうそ、お客が来て待ってますよ」
「客だって」ときき返しながら、源次は警戒するように逃げ腰になった、「どんなやつだ」
「あんたのお弟子で多平とか云ってたわ」
「またか」源次は舌打ちをした、「なんてしつっこい野郎だ」
「おなかがへってるらしいから、酒を出しておいたわ、知ってるんでしょ」とおとよ[#「とよ」に傍点]が云った、「まだ坊やみたような、うぶらしい可愛い子じゃあないの」
「ばかあ云え、もう二十三だぜ」と云って源次はまた舌打ちをした、「しかし、――あいつがここを突き止めたのは、さほどふしぎじゃあないが、あいつの捜してるのがこのおれだって、どうしておめえにわかったんだ」
「女の勘さ」おとよ[#「とよ」に傍点]は微笑した、「名まえも幾つか云ったけれど、こういう人柄だと聞いて、あんただということがすぐにわかったわ、あんた本当はなんていう名まえなの」
「そいつの並べた名めえの中で、おめえのいいのを取っておけよ」
おとよ[#「とよ」に傍点]は源次を部屋へ案内しながら、そんなら八百蔵にきめるがいいかと云った。あいつそんな名を云ったのか。いいえ、あの人の云った中にはなかったわ。じゃあおめえの亭主かいろおとこの名だな。ばかねえ、いま森田座へ出ている市川八百蔵のことよ、横顔がそっくりだわ。くさらせやがる、と源次が云った。
「おめえにゃあうんざりだ」源次は茶を啜りながら云った、「いくらおめえがねばったって、おれの気持は変りゃあしねえぜ」
「こんどはその話じゃあねえんだ」多平は股引《ももひき》をはいた足で窮屈そうにかしこまって坐り、両手でその堅そうな膝《ひざ》がしらを撫《な》でた、「いそいで知らせなくちゃあならねえことがあったんで、冷汗をかきながら捜し廻ってたんだ」
「そしてここで暢気《のんき》に、酒をくらってるってえわけか」
「とんでもねえ、これは違うんだ」多平は強く頭を振った、「おらあすぐにまた捜しに出るつもりだったが、ここのおかみさんが、それよりここで待ってるほうがいいだろうって、きっと帰って来るからって、そして、おれがなにも云わねえのに酒を」
「わかったよ」源次は茶を啜り、上眼《うわめ》づかいに多平の顔をみつめた、「仕事の話でなけりゃあいいんだ、それで、――知らせてえこと、っていうのはなんだ」
「親方を捜してる者がいるんだ」
「そこにこういるじゃねえか」
「おら冗談を云ってるんじゃねえんだ」多平はまじめな口ぶりで云った、「それにこれは冗談じゃあなく、親方を捉《つか》まえて野詰めにするとかなんとか、穏やかでねえことをたくらんでいるらしいんだ、ほんとなんだ」
源次はちょっと考えていた。それから、火のない火鉢に掛けてある鉄瓶《てつびん》を取り、ちょっと指で触《さわ》ってみてから、急須へ湯を注いだ。
「それはいってえなに者だ」急須から茶碗へ茶を注ぎながら、源次はさりげなくきいた、「おめえはどこでそんなことを聞いたんだ」
「根岸の親方のうちです、忠あにい[#「あにい」に傍点]とおれの知らねえ男が話してるのを聞きました、嘘じゃねえほんとのことです」
源次は茶を啜った、「ちょうどいいかげんだ、この茶はこのくらいの湯かげんでねえといけねえ、世間のやつらは無神経でなんにも知らねえから、こんな茶にも舌を焦がすような熱湯を注ぎゃあがる」
「まじめに聞いて下さい、親方は覘《ねら》われてるんですぜ」
「茶をうまく淹れるのも、ふざけた気持でできるもんじゃあねえさ」と源次は云った、「――まあ飲めよ、飲みながらもう少し詳しく話してみろ」
源次のおちついたようすにもかかわらず、覘われる理由を思いだそうとし、思い当ることが幾らでもあることに気ついて、動揺し怯《おび》えているのが、隠しようもなく眼にあらわれていた。多平はそんなことには気がつかず、源次のびくともしないのを見て、たのもしく心づよく思ったようであった。
「詳しくといわれても」多平は手酌で一つ飲んでから云った、「おらあ片づけものをしながら聞いただけで、親方の名めえを繰返すのと、ぜがひでもとっ捉めえて、叩きのめしてやるんだって、どなりたてているのが耳へへえったんです、おっそろしく怒っていきまいてました」
「どんな野郎だった、風態《ふうてい》であきんどか職人かわからなかったか」
「どうだったかな、よく見なかったけれど、とし恰好は親方と同じぐれえでしたよ」と云って多平はちょっと声を低くした、「――あっしが考えるのに、女のことじゃねえかと思うんですがね」
ばかあ云え、源次は眼をそむけた。
「おらあよくは知らねえが、日暮里《にっぽり》の大親方の身内の人はみんな云ってますよ、親方の手にかかると植木もいちころだし、どんな女だってひとたまりもねえって」
「口を飾るこたあねえ、女たらし、って云ってるんだろう」と源次は渋い顔をした、「――だがみんなは本当のことを知っちゃあいねえ、女をたらしちゃあたのしんでる、さぞいい気持だろうが、罰《ばち》当りなやつだ、ぐれえにしか思っちゃあいねえらしい、おめえは鈍で、とうてい植木職としていちにんめえになれる男じゃねえが、そのおめえにもわかるだろう、たとえば柿ノ木にしたって、生《な》り年は一年おきで、次の年は休ませなければ木は弱っちまう、生り年でも実の数をまびかねえで、生り放題に生らせておけば、やっぱり木は弱っちまうもんだ」
「親方の女道楽と柿と、なにか関係があるんですか」
「女道楽だってやがら、へっ」源次はもっと渋い顔をした、「道楽ってもなあたのしいもんだ、生り年の柿、柿にゃあ限らねえ、生り物はみんなそうだが、毎年々々、生りっ放しに生らしてみねえ、木としたって面白くもなくなるだろうし、疲れて弱って、しまいには枯れちまうかもしれねえ」
「柿が生るのは面白ずくですかねえ」
「たとえばの話だ、――おれにも一つ飲ませろ」源次は多平の盃を取り、多平が酌をすると、薬でも飲むように、眉をしかめて飲み干した、「みんなは女たらしだなんて云うがな、女衒《ぜげん》かなんかなら知らねえこと、まともな人間が女にかかずらってばかりいたらどうなる、生りっ放しの柿ノ木が疲れ弱って、やがては枯れちまう以上に、男は疲れて弱って身がもちゃあしねえ、――みんなにはわからねえだろうが、おれが女たらしだとしたところで、これはそう云ったり云われたりするだけで片づくことじゃねえんだ」
「うん」多平は源次の云う意味を理解しようとして、暫く頭をかしげていた、「ちょなんだか聞いていると、だんだんわからなくなるばっかりだが」
「そういうものよ」と源次は手酌で飲んでから云った、「いつだって本当の気持を話そうとすると、それがいちばんむずかしくって厄介だってことがわかる、とてつもなく厄介なことだってな」
「もしも親方を覘ってるやつに捉まったら、そんな云い訳はとおらねえと思いますがね」と多平が云った、「なにしろ親方のは相手の数が多いそうだから」
きいたふうなことを、と云って源次は手を叩いた。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
源次が手を叩くと、待っていたように、中年増《ちゅうどしま》の女中が酒と肴を持って来た。背の高い肉付きのいい躯《からだ》つきで、ちょっと頭が弱く、のっそりとして気のきかない性分だが、辛抱づよく、拗《す》ねたり怠けたりするようなことがないので、客たちみんなに好かれているという。名はおろく[#「ろく」に傍点]、とし[#「とし」に傍点]は二十六歳。彼女のおかげで信濃屋がもっているようなものだと、女主人のおとよ[#「とよ」に傍点]は云っていた。
「いま持って来ようとしてたとこよ」おろく[#「ろく」に傍点]は盆の上の徳利や小皿を、跼《かが》んだまま膳《ぜん》へ移しながら云った、「お客が来はじめたから、お酌は堪忍してね」
「今夜は飲むからって、そう云っといてくれ」源次は出てゆくおろく[#「ろく」に傍点]のうしろへ云った、「手を鳴らしたらあとを頼むぜ」
「親方は飲めるようになったんですか」
「人は他人のことは好きなように云うさ」と源次は唇を片方へ曲げて云った、「四つ足であるくけだものには、二本の足であるく人間が可笑《おか》しいかもしれない、箔屋《はくや》は土方を笑うだろうし、船頭は馬子《まご》を軽蔑《けいべつ》するだろう、――自分の知らない他人のことを、笑ったり軽蔑したり、悪く云ったりすることは楽だからな」
「そのことなら、あっしはもうそら[#「そら」に傍点]で覚えてますよ」と云って多平は手酌で飲んだ、「昔っから親方の口ぐせだったからな、まだこんなちびだったあっしまでつかまえて、繰返し繰返し、むきになってお説教したもんです」
「おめえおれをへこませようってのか」
「とんでもねえ、おらあ親方がむきになるの尤《もっと》もだと思った、なにしろ使いで根岸や日暮里へゆくと、きまって親方の悪口を聞かされましたからね、根岸や日暮里ばかりじゃあねえ、さっきも云ったとおり、身内の人たちで親方を悪く云わねえ者はねえんだから、おらあ子供ごころにも肚《はら》が立って、親方がいきまくのもむりはねえと思ったもんです、ほんとですぜ」
源次はいま初めて見るような眼つきで、多平の顔を見まもった。向うの広いこみ[#「こみ」に傍点]の部屋で、客たちが食事をはじめたらしく、食器の触れあう音や、無遠慮な高い話し声が聞えてきた。多平の肉の厚いまる顔は、陽にやけて黒く、にきびだらけで、ぎらぎらと膏《あぶら》が浮いていた。
「いきまく、だってやがる」源次は鼻を鳴らした、「おめえにはおれの云うことが、いきまくように聞えるのか」
「おらそれも尤もだって云ってるんだ」多平は眼を伏せ、声を低くした、「こんど親方を捜すのに、あっしは田原町のお宅へも寄ったんです、そうしたらおかみさんが」
「よせ、うちのことなんか聞きたくもねえ」
「おかみさんが薄情なことを云うんで」と多平は構わずに云った、「おらあ親方が気の毒になっちまった、世間の者はどうでも、子まで生した夫婦の仲なら、ちっとは親方の性分ぐれえわかってくれてもいいじゃねえかと思って、おらあ涙がこぼれそうになった」
源次はまた多平の顔を見まもり、まずそうに酒を舐《な》めて、おめえ女と寝たことがあるかときいた。多平はなにを云われたかげせないように、眼をそばめて源次を見返したが、すぐてれたようにそら笑いをした。
「おら、女は嫌えだ」彼はてれ隠しのように酒を呷《あお》った、「おらだけのことかもしれねえが、夫婦になると女はいばりだして、亭主を顎《あご》で使うように変っちまう、そんなのをいやっていうほど見せつけられたもんだ、叱りゃ拗ねるしぶちゃ噛みつくしって、端唄《はうた》の文句そっくりなんだ、――おら十二の年に親方の弟子にしてもらってまる八年、三年めえまでお世話になったから、おかみさんのことはてめえのおふくろよりよく知ってるが、初めのうちはこんなにきれえで気のやさしい人はねえと思った、それがいつのまにかだんだん変って、わけもなくふくれたり、つんけん人に当ったりするようになった」
親方がなにもかもいやになって、江戸で何人と数えられるほどの植木職を、惜しげもなく放《ほう》りだしちまった気持はよくわかる、自分には親方の気持がよくわかるんだ、と多平はりきんで云った。
「おれが植木職を放りだしたわけは、そんなこっちゃねえ、おめえも箔屋の眼で土方を笑うくちだ、いいか、女と寝たこともねえし女も嫌いだというおめえに、夫婦のことがわかるわけはねえ、こんなことは口にするだけばかばかしい、こんなわかりきったことを云うのは初めてだ、おめえが悪いんだぞ」
「おらあ親方のことが心配でしようがねえんだ」
源次は手を叩いた。そして急に上半身をぴくっとさせ、どこかに激しい痛みでも感じたように、顔をしかめながら短く唸《うな》った。
「どうかしたんですか」
「おれのいちばんぞっとするのは、おめえがいま云ったような言葉だ」と源次は自分のいやな回想をふり払うように、首を振りながら云った、「――あんたのためなら死んでもいい、女はどいつもこいつもそう云うさ、――おらあおめえの友達だ、おめえのことは忘れねえ、おめえのためならどんなことでもするぜ、って調子のいいときに云うのが男の癖だ、油っ紙に火がついたように、そのときは熱くなって燃えるし、その熱さはこっちにも感じられる、けれども燃える火は消えるもんだ、ええくだらねえ。またわかりきったことを云っちまった」
「親方は酔っちまったんだ」
障子があいておとよ[#「とよ」に傍点]がはいって来た。盆の上に燗徳利が二本、おとよ[#「とよ」に傍点]はそれを膳の上へ移し、あいている徳利を盆のほうへ取った。
「珍らしいわね」とおとよ[#「とよ」に傍点]は源次に云った、「あんたがお酒を飲むなんて初めてじゃないかしら、どうかなすったの」
「おれじゃあねえこの男だ」源次は多平を見て云った、「たあ[#「たあ」に傍点]助、これを飲んだら帰れ、根岸で心配してるだろう、おれは大丈夫だ、おれのことなんかに構わず、おめえは自分のことを考えなくっちゃあいけねえ、いってえたあ[#「たあ」に傍点]助は幾つになったんだ」
「二十三です」多平は呟くような声で答えた。
「おれはその年にはもう独り立ちになってたぜ」
「あっしは親方の側《そば》にいてえんだ、親方もあっしのことを、いちにんまえの植木職にはなれねえと云ったが、根岸ではそれ以上で、あっしはてんからのけ者なんです」
「職を変えるんだな、どうして植木職になりてえかは知らねえが、自分をよく考えてみるんだ、人間にはそれぞれ性に合った職がある、性に合わねえ事をいくらやったってものになりゃあしねえ、ちえっ」源次は舌打ちをした、「またこんなわかりきったことを云わせやがる、おれは説教されるほうで、人に説教するがら[#「がら」に傍点]じゃあねえんだ」
「そんなに云うもんじゃないわ」おとよ[#「とよ」に傍点]は多平に酌をしてやりながら云った、「せっかくあんたを捜し当てて来たんじゃないの、なんのことかあたしはよく知らないけれど、相談にのってあげてもいいじゃないの」
「客が混んできたようじゃないか」と源次が顎をしゃくった、「しょうばいは大事だ、ここにいることはねえんだぞ」
「おおこわい」おとよ[#「とよ」に傍点]は肩をすくめた、「そんなふうに云うときのあんたを見ると、ぞっとするほどこわくなるわ」
「気に入らなければ河岸を変えてもいいんだぜ」
「ゆくわよ、気の短いひとね、そこがあんたのあんたらしいところには違いないけれど」と云っておとよ[#「とよ」に傍点]は立ちあがり、嬌《なまめ》かしく微笑しながら、多平の肩へちょっと触った、「だいじょぶよ、このひと本当は気がやさしいんだから、ゆっくり飲んでらっしゃい」
酒がなくなったら手を鳴らして下さい、またあとで来ますと云って、おとよ[#「とよ」に傍点]は源次をながしめに見ながら出ていった。
「いいおかみさんですね」と多平が低い声で云った、「それにきりょうよしだし、こんな旅籠にいるのはもったいないようだ」
「おめえ女嫌いだったんじゃねえのか」
「それとこれとは違いますよ」多平はてれたように手酌で飲んでから、そっと云った、「――あの人、親方に首ったけですぜ」
「おめえは植木職にはなれねえよ」
「木の見分けはつかなくったって、人間のそぶりや眼つきはわかりますよ」
「飲めよ」源次は片手を振った、「早く飲んで帰るんだ、根岸でどやされるぞ」
「根岸へは帰りません、親方を捜すのに、黙って三日も帰らなかった、あっしはもう親方の側をはなれませんからね、殺されたってはなれやしねえんだから」
「乞食《こじき》ができるか」源次はにやっとした、「おれは自分のひとり口も賄えやしねえ、あっちでめし[#「めし」に傍点]をたかり、こっちで銭をねだり、宿までただで泊りあるく、人の情けでその日その日をまじくなっているんだ、二人連れでできるこっちゃねえぜ」
「あっしが稼《かせ》ぐよ」多平は酔いで赤くなった顔をひき緊めて云った、「おら躯も丈夫だし力だって人には負けやしねえ、たとえ荷揚げ人足をしたって、親方ひとりぐれえ不自由はさせやしねえよ、ほんとのことだ、おら本気で云ってるんだぜ」
「肚は読めてる、おめえの肚はみとおしだ」と云って源次は舐めるように酒を啜った、「泣きおとしでおれをまるめてから、植木仕事へひきずり込もうっていうこんたんだろう」
「おらあ飲む」と多平が云った、「いまおかみさんにいいって云われたんだ、今夜はつぶれるまで飲んでやる」
「酒代はめし[#「めし」に傍点]炊きでもして払うんだな、おらあ知らねえぞ」
「めし[#「めし」に傍点]炊きぐれえ屁《へ》でもねえさ、こっちは土方だってするつもりなんだから」
「可哀そうに、なんにも知っちゃあいねえんだな」と源次が云った、「土方や荷揚げ人足でどのくれえ稼げるか、きいてみて吃驚《びっくり》しねえほうがいいぞ」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
おれは三十七だ。七だったな慥《たし》か、それとも八になったかな。わからねえ、どっちでもいい、おれには三十七だなんて気持はこれっぽちもねえ。二十三で日暮里の大親方から独り立ちになって、おつね[#「つね」に傍点]と田原町で世帯を持った。おれの考えることやすることは、あのころとちっとも変っちゃあいねえ、変ったのはおれのまわりのものだ。世の中も人間も、町や世間も、人の気持までもどしどし変ってゆく。
「あいつはどうした」と源次が云った、「今夜は帰っていったか」
女は荒い息をしながら、「いまそんなこと、きかないでよ」と跡切《とぎ》れ跡切れに云った、「もっと身を入れてくれてもいいでしょ」
たあ[#「たあ」に傍点]助のやつはちっとも変らない、多平はおれのところへ弟子入りをしたときのまんまだ。あいつは鈍で、勘が悪くてのろまだ。ちっとも裏肚《うらはら》なく、おれを頼りにしきっている。けれどもほかにとりえはなにもない、二十三になったいまでも、弟子入りをしたときそのまま、鈍で勘が悪くてのろまだ。そいつが気持だけは十年の余も経ったいま、ちっとも変っていない、というのはどう考えたらいいんだろう。
「たあ[#「たあ」に傍点]助のやつは帰ったのか帰らねえのか」と源次がきいた、「今夜は追い帰せと云った筈だぞ」
「こんなときに」と女は舌のよくまわらない口ぶりで云った、「こんなときに、へんなこと云わないで、気が散っちまうじゃないの、もっとしんみになってよ」
「それみろ、あんまり乱暴にするからだ」
「ああじれったい」女は身もだえをした、「まるっきりうわのそらなんだもの、ちっとは本気になれないの」
「ろく[#「ろく」に傍点]べえに聞えるぜ」
「さあ」女には彼の云うことは聞えなかったらしい、「さあ」と繰返した。
多平のやつは田原町へいったという。おつね[#「つね」に傍点]も三十五になったんだろう、二つ違いの筈だからな。みつ[#「みつ」に傍点]公は十四、秀次《ひでじ》は十三か。女の荒い息がひそめたふるえる呻きになり、波をうつように高まって、くいしばる歯ぎしりの音が聞えた。娘も伜《せがれ》も、おれのことを親と思っているだろうか。おつね[#「つね」に傍点]はぐちを云うような女じゃあねえ、おれの悪口も、恨みがましいことも口にゃあしねえだろう。あのとき以来ぷっつりとなにも云わなくなった。だが子供たちにはわかったにちげえねえ、おれが親らしくねえ親だという以上に、両親の仲がどうなってしまったかは、この三年ですっかりわかったことだろうし、悪いのはおやじだと、いちずに思いこんだにちげえねえ。女の動作がしだいにゆるやかになり、だがときをおいて、微風のわたるような痙攣《けいれん》が、しだいに間隔をひろげながら、昂《たか》まったり鎮まったりした。かね徳の隠居も相模屋《さがみや》のでこ[#「でこ」に傍点]助も、藤吉《ふじよし》のじじいもみんなけちん坊の出来そくないだ。まともなのは岩紀の隠居と、法念寺の方丈《ほうじょう》さんぐれえのもんだろう。そうだ、岩紀の隠居には無沙汰をしている、ひとつ竜閑《りゅうかん》町へいってみよう、もう二年の余も顔出しをしちゃあいねえからな。
「あの人はここへ泊めたわ」女は源次の横へより添って躯をのばし、深い満足の溜息《ためいき》をつきながら云った、「だって、ゆくところがないし、あんたのことが心配で、側からはなれることはできない、っていうんですもの」
「もう三日めだろう、おれは勘定のことは知らねえぞ」
「わかってるくせに」女は巧みにあと始末をしてから、彼の肩へ手をまわした、「あの人、あんたのお弟子だったんですってね」
「三年まえまではな」
「あんたのこと褒めてたわ、江戸で五本の指に数えられるほどの、えらい親方だって」
「いまは乞食同様、ごらんのとおりの態《てい》たらくさ」
「あたしには身の上話をさせるくせに、自分のことはなにひとつうちあけてはくれない、そんな薄情なことってないわよ」
「女房と二人の子持ち、初めにちゃんと断わったぜ」
「そんなことじゃないの、あたしの知りたいのは、それほどの腕を持っているのに、どうして植木職をやめたのか、いまどんなことをしているか、これから先どうするつもりかっていうことよ」
「熱い腕だな」と源次が夜具の中で身動きをした、「この腕をどけてくれ、熱くってしようがねえ」
「あたしには話せないのね、そういう話をするひとはほかにあるんでしょ」
「おれは絡まれるのは大嫌いだ」
「多平さんに聞いたわ」女は寝衣《ねまき》の袖で顔を拭いた、「広いかこい[#「かこい」に傍点]を持った或る植木職の親方が、ぜひあんたに跡を譲りたいって、いまでもあんたのこと捜してるっていうじゃないの、どうしてそこへおちつく気にならないの」
「そろそろいやけがさしてきたんだな」
「いやけがさしたって、――あらいやだ、ばかねえ」女は源次にしがみついた、「あたしのことはよく知ってるでしょ、あんたのことはべつにして、あたしは男には懲り懲りしてるし、あんたが来てくれさえすればそれで本望、あんたのほうで飽きればしようがないけれど、あたしはもう一生、あんたのほかに男なんかまっぴらだわ、――それをいやけがさすだなんて、ばんたん承知のうえで意地わるを云うのね、にくらしい」
「痛え」源次は女の手を押し放した、「きざなまねをするな」
「ねえ、その親方の跡を譲り受けておちつきなさいよ、それだけの腕を遊ばせておくなんてもったいないじゃないの、おかみさんや子供さんたちも呼んで、おちついて仕事をする汐《しお》どきだわ、あたしのほうは気の向いたときに来てくれればいいの、このうちもあたしも、あんたのものだと思ってくれていいのよ」
「おめえにゃあわからねえ」源次は短い太息《といき》をついた、「誰にもおれの気持なんかわかりゃしねえ、おれの一生は終ったも同然なんだ、――えひもせす、おれはあとのねえ仮名みてえなもんだ、ねるぜ」
女はそっと身をすり寄せた。
「きれえな人だな」と多平があるきながら云った、「あんな旅籠屋にはもってえねえきりょうよしだ、若くって色っぽくって、おまけに親切でやさしくって、――親方の女運のいいのにゃあたまげるばかりだ」
「あれが若いだって」と源次は鼻を鳴らした、「もう二十八だぜ」
多平は聞きながして片手を出した、「小遣いにって、これを預かって来ましたよ」
「よけえなことを」源次は見もしなかった、「おれはいらねえ、おめえが取っとけ、いいから取っとけよ」
「そうはいかねえさ、あっしは知ってるんだ」多平は人の好《よ》い笑い顔で云った、「ゆうべ夜なかに、おかみさんは親方の部屋へ忍んでいったでしょう」
「ねぼけるな」と源次は眼をそらした、「夢でもみたんだろう」
「明けがたに親方の部屋から、そっと出て来るところも見ましたよ」
「ばかなことを云うな、おめえはねぼけたんだ。――それにまた、どっちにしろおれが小遣いを貰ういわれなんかありゃあしねえ、取っとけと云ったら取っておけ、その代りここでおめえとは別れるからな」
「別れるって、どうするんです」
「おれにゃあおれの用があるんだ」
「けれども、親方をつけ覘ってる者がいるってこと、忘れたんじゃねえでしょうね、あっしはついてゆきます、殴られたって親方を独りにするこたあできねえんだから」
「ここで別れるんだ」源次は立停って、多平を睨《にら》みつけた、「誰がなんのためにつけ覘ってるか知らねえが、それはおれのことで、おめえにはなんのかかわりもありゃあしねえ、ついて来ると承知しねえぞ」
するどい眼つきと、容赦のない口ぶりに圧倒されたのだろう、多平は黙って、哀願するように源次の顔を見まもった。
源次はよせつけない表情でその眼を睨み返し、それから向き直って。あたらし橋のほうへ曲った。
「夜なかに忍んでいった、明けがたに出て来るのを見た、ってやがる」いそぎ足になりながら、源次は睡を吐いて呟いた、「――いつでもこうだ、忍んではいり、そっと出てゆくのは見ただろうと、だが、部屋の中のことはわからねえ、女が好き勝手にしているだけで、おれは手も出さなかったなんてことは、誰も信用しようとはしねえんだ、それが人間ってえもんだろう、生れたときからいっしょに育っても、お互いに心の中まではわからねえ、おとなになるにつれて、万人が万人それぞれの性分が固まってしまうからな」
またくだらねえわかりきったことを考える。そんなことにいま初めて気がついたわけじゃあないだろう。誰にだってわかりきってることだ、悲しいけれどもそれが人間なんだ、と源次は思った。
「そうわかっていても、みんなは悲しかあねえんだろうか」彼は柳原の土堤《どて》に沿って上《かみ》のほうへゆきながら呟いた、「――お互いにちぐはぐな、まるっきり違ったことを考えながら、あいそよく笑ったり、世辞を並べながら駆引をしたりしている、それでも生きていかれるんだ、だがどうしてだろう、そんなようで生きていて平気なんだろうか」
おめえは十六、七の若ぞうのようなことを云う、と根岸のあにいに云われたことがあった。いまは十六七の若ぞうだって、そんな青っぽいことは云やあしねえぞって、――あにいはいい人だ、ずいぶん迷惑をかけたが、いつもよく面倒をみてくれた。じつにいい人だが、やっぱりわかっちゃあくれなかった。柳原河岸を左へ曲り、少しいって右へ曲り、また左へ曲った。武家の小屋敷のあいだに、酒屋や荒物、筆紙屋などがとびとびにあった。神田竜閑町へはいり、源次はまっすぐに「岩紀」という家へいった。それはかなり大きな構えで、黒板塀《くろいたべい》をまわし、こんな町なかには珍らしく、裏門が笠付きの柴折戸《しおりど》になっていた。――ここは別宅で、本宅は京橋にあり、刀脇差のしにせとして古くから知られている。
当主は岩月|卯兵衛《うへえ》といって、組合の頭取を十年も勤め、大名諸家へ多く出入りしていた。この別宅には隠居の紀平がいるが、とくい先の諸侯の用人とか重職などを、ときどき招待する必要があり、そういう場合にはこの別宅を使うため、建物や庭には費用を惜しまず、凝った山家《やまが》の侘《わ》びたふぜいをあらわしていた。
横の潜《くぐ》りからはいった源次が、家の裏へまわってゆくと、薪を割っている下男の庄助に出会った。庄助は五十がらみで、骨太の逞《たくま》しい躯をしてい、源次が植木を移すときには、よく彼の力を借りたものであった。
「植源《うえげん》さんじゃなめか」庄助は手斧《ちょうな》を持ったまま腰をのばした、「ながいこと姿を見なかったが、どうしなすった」
「お庭をね」源次はきまりわるそうに云った、「お庭の木を見てえと思って伺ったんだが、もしかしてお客でもあるんなら、出直してきますよ」
「今日はお客はなしだ、ちょうど御隠居さんもいらっしゃるし、親方が来たと云えばおよろこびなさるだろう、いつもおまえさんの噂《うわさ》をしていらっしゃるからな」
「あっしの来たことはないしょにして下さい、勝手に職をやめちまってから三年、ずっと無沙汰のしどおしなんで、御隠居には合わせる顔もねえ、ちょっと見せてもらうだけでいいんだから」
「合わせる顔がないとは古風だな」と庄助は微笑した、「そんならまあ、好きなようにするさ」
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
源次は芝生《しばふ》に腰をおろし、両膝を手で抱えて、杉ノ木を眺めていた。惚《ほ》れぼれとした眼つきで、――それは七年まえに、彼が隠居の紀平に頼まれ、相州鎌倉から自分でひいたものであった。隠居は育ってからの木のなりや、枝ぶりを注文し、彼は請け負った。そのため木を捜すのに十日もかかり、鎌倉の山の中で五本みつけたが、その中から一本を選ぶのに三日も迷った。――そんなことは、それまで殆んどないことであった。たとえ心をひかれる五本の木をみつけても、その中から一本を選ぶのに迷ったことはないし、選びかたを誤ったこともなかった。しかし、丈が四尺ばかりのその杉の苗木は、枯れた栗林の中でみずみずしく、成長するいのちをうたいあげているようにみえた。冬の日光にあたためられた栗林は、どの葉も白っぽい茶色に枯れちぢれていたから、若い杉の濃い緑がいっそうひきたち、まわりの枯れたけしきとみごとに調和して、五本のうちのどの一本も、そこから動かすことはできないように感じられた。
「あのころまでだな」と源次はそっと呟いた、「あのころはまだよかった、まだ仕事が面白かったし、張りもあった、知らなかったからな」
いまその杉は一丈ちかい若木になっている。下枝から秀《ほ》まで、植えたときの枝が一本も欠けず、いかにものびのびと育っていた。葉付きもたっぷりしているし、木のいのちの脈搏《みゃくはく》が聞えるようであった。
「珍らしいな」とうしろで呼びかける声がした、「源次《げんじ》じゃないか」
源次はちょっと躯を堅くしたが、振り向きもせず、挨拶もしなかった。どうです御隠居さん、と彼は杉ノ木のほうへ手を振った。
「御注文どおりに育ったでしょう」と源次は云った、「見て下さい、あっしの思っていた以上によく育った、うっとりするじゃありませんか」
自慢そうな言葉とは反対に、声の調子にあるそらぞらしさは隠しようがなかった。紀平は不審そうに源次の横顔を見たが、聞き咎《とが》めたようすはみせなかった。
「どんなにいやなことがあっても」と紀平は云った、「ここへ来てこの杉を見ていると、心の隅ずみまでさっぱりと、洗われたような気分になる、私はときどき、自分が杉ノ木の生れ変りじゃあないかと思うよ、ばかな話のようだが本当のことだ」
「杉にもひでえのがありますぜ」
「そこがむずかしいところさ」と云って紀平はあるきだした、「おまえに見せたいものがある、こっちへ来てごらん」
源次は気のすすまないようすで立ちあがり、紀平のあとからついていった。杉ノ木から左へゆくと、岩組みの庭に続いていた。大小さまざまな岩を組みあげて、その上に楓が二十本ほど枝をひろげている。岩には苔《こけ》が付いて、その隙間にはまたいろいろな種類の歯朶《しだ》が、それぞれの形と色をきそうようにその葉を垂れていた。ぜんたいは人工のものと思えず、ながい年月風雨を凌いできた自然の一部を、そのまま移したような、おもおもしくしんとした気分をひそめていた。
「あれを見てごらん」紀平は指さした、「おまえの植えた実生《みしょう》の杉や松や、やまはぜ[#「やまはぜ」に傍点]や樺《かば》などが、あのとおりちゃんと育っているよ」
源次はそっちを見ようとはしなかった。かたくなに口をつぐみ、麻裏草履の爪先で、地面になにか書いていた。紀平はそれを横眼で見てから、向うでちょっと休もう、おいでと云って、母屋《おもや》のほうへあるきだした。源次はどうしようかと迷うようすで、しかしぐずぐずと、思い切りの悪い足どりでついていった。紀平は広縁へあゆみ寄ると、肩や袖を手ではたきながら、高い声で人を呼んだ。まだあの癖が直らねえな、と源次は思った。こっちは仕事をするからごみだらけになるが、隠居の着物には塵《ちり》ひとつかかりゃしねえ、悪い癖だ、と源次は眉をしかめた。
「さあ、ここへお掛け」紀平は沓脱《くつぬ》ぎにあがり、広縁へ腰を掛けながら、源次に自分の脇を叩いてみせた、「久しぶりだ、一と口つきあっておくれ」
「あっしはだめなんです」源次は腰を掛けて頭を振った、「だらしがねえって、よく御隠居に笑われましたが、こればっかりは生れつきでしょうがねえ」
「そうだっけな、根岸の親方とまちがえたよ」
源次は振り向いた、「根岸が来たんですか」
「ときどきな」と云って、紀平は奥のほうへ声をかけた、「おちよ[#「ちよ」に傍点]――酒はいいからお茶をたのむよ」
奥で返辞が聞え、この隠居も変ったな、と源次は思った。長屋住いならともかく、岩紀の隠居ともある人が、襖越《ふすまご》しに用を命じるなどということはない。少なくともまえにはそんなことはなかった、と源次は思った。紀平はまた紀平で、源次が岩組みの庭から眼をそらし続けているのを認め、やっぱりあれが事の原因かなと思っていた。
「田原町のうちへ幾たびも使いをやったんだよ」と紀平は云った、「――おまえさんは二た月に一度ぐらいしきゃ帰らないそうじゃないか、おかみさんと二人の子供が、賃仕事をしてくらしてるっていうが、いったいどうしたということだ、おかみさんや子供たちを可哀そうだとは思わないのかね」
「可哀そうなのは、うちのかかあやがきだけじゃねえ、どこの横丁、どこのろじ[#「ろじ」に傍点]にもうんざりするほど可哀そうなくらしはありますぜ」と源次は答えた、「あっしのうちだけに限っても、かかあやがきどもより、もっと悲しい哀れなやつが」彼は突然そこで言葉を切り、頭のうしろへ手をやった、「――こりゃあどうも、口がすべりゃあがった」
「云いたいことがあったら、聞こうじゃないか」と紀平が穏やかに云った、「日暮里の植甚の身内で、おまえさんの右に立つ者はなかった、いやお世辞でもからかいでもない、というまでもない、おまえさん自身が知っていることだろう」
「あっしはもうこれで」と云って、源次が立とうとしたとき、五十恰好の老女が、小女《こおんな》とともに茶菓を持って出て来、まあ喉《のど》をしめしておいでと、紀平が源次になだめるような口ぶりで云った。老女――おちよ[#「ちよ」に傍点]というのであろう、上品な顔だちの老女は、二人のために茶を淹れ、菓子鉢をすすめたのち、ほかに用事がないかどうかをきいて、小女とともに去っていった。
「さあ、飲んでごらん、四五日まえに宇治から届いた新茶だ」と云って紀平はひょっと顔をあげた、「そうそう、それで思いだしたが、ここで茶ノ木が育づだろうか、じつは麻布《あざぶ》のさるお屋敷で、みごとな茶畑を拝見したんだがな」
「新茶をいただくなんて、生れて初めてのことでね」源次は茶を啜ってから云った、「おごそかなもんなんだろうが、あっしなんかにゃ渋茶のほうが口に合います」
「話をそらすじゃないか、茶ノ木をやってみてくれないかね」
「根岸が伺ったとすると御存じでしょうが」
「ああ知っているよ」と紀平は源次の言葉を遜《さえぎ》った、「だがなぜだい、ここで善五とやりあったのがもとかえ」
「あいつはくわせ者です」
「おまえは箱根まで跟《つ》けていったそうだな、私はその場にいなかったから聞かなかったが、どうして箱根くんだりまで跟けていったんだね」
源次は茶を啜り、持った茶碗の中をみつめながら、いま考えると子供っぽくてきざで、思いだすだけでも、冷汗の出るような気持だが、あのときはしんけんだったと、詫《わ》びごとでも云うような口ぶりで語った。相変らず岩組みの庭のほうへは、頑として眼を向けようとしない。陽にやけてあさぐろく、ひき緊った源次の顔の、両のこめかみに癇癪筋《かんしゃくすじ》がうきだすのを、紀平は眼ざとくみつけながら、黙って聞いていた。――五年まえ、そこは野庭造りだったのを、紀平が岩組み山水にすると云いだし、庭師の善五郎にその仕事を命じた。そのころ善五郎は五十六か七で、遠州古流とかいう造庭家として評判の高い男だった。源次はその評判を信じなかった。出入り先で善五の噂を聞き、彼の造った庭をいろいろ見たが、その人間の手にかかったという、筋の感じられるものはなかった。遠州古流がどんなものか知らないが、そういう名がある以上、そこには他の流儀とは違う型とか法があるだろう。少なくとも手がけた善五の呼吸が、生きているはずである。手職の仕事にはその人の癖とか特徴が出るものだ。仕立屋のようなこまかい仕事でさえ、その人間の縫いあげた衣類は、往来で見かけてもわかるという。善五の仕事にはそれがなかった。注文ぬしの気にはいるらしいし、地坪に合わせて纒《まと》める巧みさはめだつけれども、それらを支える動かない「筋」というものがないのである。――ここの野庭を岩組みにすると聞いたとき、源次は善五がどんなことをやるかと、ひそかにその動静を見張っていた。それで、善五が独りで箱根へでかけていったときも、そのあとを跟けていったのだ。善五郎は芦《あし》ノ湖《こ》で舟を雇い、左岸をめぐりながら図取りをした。源次も舟であとを追い、釣りをするようによそおって、善五が図取りをするのを仔細《しさい》に見た。
「そして造ったのがあの庭です」と源次は云った、「断わっておくが、これは悪口じゃあありませんぜ」
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
「聞いてみると、芦ノ湖の左岸へはよく、庭師たちが図取りにゆくそうです」と源次は続けた、「そこには慥かに、自然に出来たとは思えないような、みごとな景色がつらなっていました、どの一角を取っても惚れぼれするような庭になる、あっしは唸ったもんだ、ここにこういう手本のあることを、知っているだけでもてえしたもんだ、こいつは本当にいい庭を造るかもしれねえぞ、ってね」
けれども、善五の造ったのは、図取りをした岸の一角をそのまま移したようなものであった。図取り絵取りをするのはいい、だが庭師なら自分のくふうがある筈である。絵取った下図をそのまま移すというのでは、本職の庭師とはいえないだろう。ちょっときような者なら、しろうとにだってできる仕事だ。
「おまけに、善五はもう一つしくじった」と源次は云った、「ちょうど十月のことで、そのあたりは楓がきれいに紅葉していました、はぜ[#「はぜ」に傍点]やうるし[#「うるし」に傍点]やぬるで[#「ぬるで」に傍点]なども、紅と黄色をきそいあっているようだったし、その下には実生《みしょう》の杉や松や、もう葉の散った二番|生《ば》えの雑木などがあった、善五はそれを見おとしたんです、岩組みと楓だけはこくめいに写したが、そのほかの木は眼にはいらなかった」
それで岩組みの上に楓だけ植えさせたのだが、楓だけとすると芽ぶきから紅葉、そして散るのまでがいっしょである。そんな片輪な庭があるものではない、絵取った岩組みをそのまま写すなら、植える木にもそれだけの調和がなければならない。それで自分は苗木の杉や松、ぬるで[#「ぬるで」に傍点]やはぜ[#「はぜ」に傍点]、うるし[#「うるし」に傍点]その他の灌木《かんぼく》も植え込んだのであった。
「するとそれをみつけて、善五のじじいが怒りゃあがった」と源次は云った、「これはおれの方式に外《はず》れている、遠州古流はきびしい流儀で、方式に外れたことはゆるせない、なんてね、――くそじじい、あっしはよっぽど芦ノ湖の一件をばらしてやろうと思った、腹が煮えくり返るようだったが、相手が年寄りのことだし、植木職が庭師をやりこめても自慢にゃあならねえ、あっしゃあ歯をくいしばって退散しましたよ」
「だが私は善五に手をつけさせなかった、見てごらん」と紀平は顎《あご》をしゃくった、「おまえの植えた木は一本残らず、そのままあのとおり育っているよ」
へえと云ったが、源次はやはりそっちを見ようとはしなかった。
「それはそれでいいんです」と源次は俯向《うつむ》いて云った、「植木職が庭師に盾をつくのは筋違いだ、いやならそっぽを向いてりゃあいいんだから、そうでしょう御隠居、――あっしが職をやめたのはそんなこっちゃあねえへまるっきりべつな話なんだ」
「私はこのとし[#「とし」に傍点]になって悪い癖がついてね、朝酒を飲まないと躯《からだ》の調子がよくないんだ」と紀平が云った、「一と口やりながら聞きたいんだが、いいかい」
「ここは御隠居のお屋敷だ、どうぞと云うまでもねえだろうが、すっかりながいをしちゃって済みません、あっしはこのへんでおいとまにしますから」
まあお待ちと、紀平は止めにかかったが、源次は立ちあがって辞儀をし、逃げるように裏のほうへまわっていった。下男の庄助はもういなかったし、潜りを出るまで呼び止められることもなかった。
「あの隠居はへんに気がまわるからな」源次はいそぎ足に道を曲っていった、「心付でも包まれたら引込みがつかねえや」
彼は神田川の河岸へ戻り、柳原堤に沿って大川のほうへあるいていった。
あたたかくやわらかな躯の律動を、夢うつつのうちに感じながら、おとよ[#「とよ」に傍点]かなと、おぼろげに源次は思った。まさか、そんなことはないだろう、信濃屋は当分よりつくまいときめたんだから。しかしおれは酔ってるようだな、酒を飲む筈はないんだが、どこで飲んだんだろう。喉でけんめいに抑えたすすり泣きのような声が聞え、短い間隔をおいて痙攣《けいれん》が、繰返し彼を包んだ。これは夢だな、夢の中で昔の女をみているんだ。それにしても誰だろう、この肌の匂いには覚えがある。ほかにはない匂いだ、口もあまりきかず、いつも伏眼になっていて、そのくせこっちの気持をよくみぬいていたっけ。おれが今日のやつ[#「やつ」に傍点]にあれが喰べたいと思うと、ちゃんとそれが出たもんだ。
「ここはどこだ」と源次はよく舌のまわらない口ぶりできいた、「おめえ誰だっけ」
強くはないがはっきりした収縮と弛緩《しかん》とが交互に起こり、彼は緊めつけられて、なかば眼がさめた。あたりはまっ暗で、隙間をもれる仄明《ほのあか》りもなく、乾ききらない壁の湿っぽい匂いがした。相手の躯が柔軟に重くなり、彼を緊めつけていた力が、ゆっくりと、しだいになにかが解けるように、渡動を伝えながら静まっていった。
「麹《こうじ》町のお屋敷だな」と源次がだるそうに云った、「市橋さまの中間《ちゅうげん》部屋だろう、――とすると、おめえは誰だ」
相手は答えず、そっと彼に頬ずりをし、やすらぎの太息をつきながら躯をはなした。
麹町ではすぐに帰った。竜閑町の「岩紀」と同様すぐに帰った。市橋さまの屋敷では酒を出されたっけ、だが飲まなかったし、中間部屋でめしを食べただけだ。待てよ、芝の悲願寺では一日がかりで木の手入れをし、晩めし[#「めし」に傍点]を食って出た筈だ。そうじゃねえ、悲願寺じゃ寺男の小屋で寝たんだ。そうだ増造のじじいが酔っぱらって、いつまでもへたくそな唄をうたってた。すると、ここはやっぱり信濃屋だろうか。いや、そうじゃねえ、信濃屋ならこんなに壁が匂うわけはねえ。源次はまた、うとうと眠りにひきこまれるのを感じた。
「帰るわね」と囁く声がした、「風邪をひかないように、――おやすみなさい」
源次は欠伸《あくび》をして寝返った。
「起きろよ、源《げん》さん」と咳《せき》をしながら呼ぶ声がした、「もうおてんとさまが屋根の上だ、めし[#「めし」に傍点]が出来てるよ」
「だめだ、くたくただ」と云って源次は掛け夜具を顔の上まで引きあげた、「おらあ二日分も仕事をしたんだ、もう少し寝かしといてくれ」
「御隠居さまが待っていなさるんだ、おめえに話があるってな、さあさあ、起きて朝めし[#「めし」に傍点]を喰べちまっておくれ、まだ仕事が残ってるんじゃないのかい」
「今日はいちんちじゅう仕事をしたぜ」
「それは昨日だよ」と咳をしながら云うのが聞えた、「今日は橋立《はしだて》の手入れをするって、云っていた筈だがね」
橋立と聞いて、源次は眼をさまし、本能的に、女はどうしたかと左右を見た。乾ききらない壁の匂いが、六帖一と間の小屋の中に強く匂い、それが形容しようのない虚脱感と、たよりないような、うらがなしいような想いとで彼をくるんだ。あけてある戸口から、日光が眩《まぶ》しいほどさしこんでいて、かなり広い土間は暗く、小柄な老人がこっちへ背を向けたまま、しきりに水の音をさせていた。
――向島だな、と源次は思った。伊豆清《いずせい》の向島の寮だ、そうだとすると女は、女は、――名は思いだせねえな、なんだかへんな名だったが、どうしてあの女だとわからなかったんだろう。
あの年寄りは庭番の角《かく》さんだ。ここは角さんの小屋で、角さんは独りで寝起きをしている。ではゆうべはどうしたんだろう、ここで寝ていたのか、それともここはおれたち二人だけにして、自分はどこかよそで寝たのだろうか。そうだ、酒をしいたのは角さんだ。おれはなにか癪《しゃく》に障って、やけなようになっていて、それで飲んだんだ。しかしなにが癪に障ったんだろう。へっ、なにょう云やあがる、この世に癪でねえことがあるか、男も女も、世間じゅうが寄ってたかって、おれを小突いたり振り廻したり、眉間《みけん》を殴りつけたりして、いい笑いものにしやあがる。ざまあみやがれだ、と彼は思った。
「本当にもう起きなくっちゃだめだよ」と土間から角さんが云った、「御隠居さまが待ってるんだから、世話をやかせちゃ困るよ」
ああと云って、源次は起きあがった。
「まあいい、仕事はまたのことにしてもいいんだ、まあお飲み」と清左衛門が云った、「どうにも腑《ふ》におちないんでな、今日は正直なことを聞きたいんだ」
清左衛門は濡縁に座蒲団を敷いて坐り、手酌でゆっくりと酒を啜っていた。とし[#「とし」に傍点]は七十二か三であろう、痩《や》せた小柄な躯つきだが、焦茶色の膚はつやつやとしているし、みごとに白くなった髪の毛と、一寸もありそうな厚い長命眉とが、焦茶色の膚をひきたてているようにみえた。日本橋の通一丁目にある「伊豆清」の店は、諸国の銘茶を扱うので府内に名高く、この清左衛門が一代で仕上げたものだという。二十年まえに隠居をし、向島の寮へひきこもったが、いまでも五日に一度は店へゆくし、大事なとくい廻りも欠かさなかった。妻女には早く死なれたが、身持ちは堅く、女あそびはしないし浮いた噂もなく、自分でも「しょうばいと酒だけがたのしみだ」と云っていた。この寮には庭番の角造のほか、めし[#「めし」に傍点]炊きのばあさんと、女中二人を使っている。その二人はどちらも温和《おとな》しく、きりょうよしで、一人は来てから十年、他の一人も七年くらいになるだろう。角造の話によると、二人とも幾たびとなく縁談があったのに、寮を出るのがいやだと、断わり続けているそうであった。――源次は日暮里の植甚にいるじぶんから、ずっとここへ出入りをしていたし、独り立ちになってからも、植木のことは任されてきた。だから、出入りをするようになってもう二十年ちかく経つだろう。泊り込みで仕事をしたことも三度や五たびではないし、おまけによく口論をした。源次からみると隠居はけち[#「けち」に傍点]で、仕事にはうるさく注文をつけるが、払いとなると十文二十文のことまで詮索《せんさく》する。注文どおりの木を捜すのに、十日も二十日もかかることが珍らしくないが、旅費や宿賃をきげんよく出したことはなかった。
十年ほどまえ、庭の半分をつぶして、荒磯《ありそ》の景色にするのだと云いだし、源次は一年がかりで三十本ばかりの松を集めた。それはほぼ彼の予想どおりに育ったし、清左衛門も気にいって、いまでは「橋立《はしだて》」と名付けて自慢にしているが、そのときの支払い勘定などは、源次のもちだしになったほどであった。いっそこっちから出入りをやめよう、と考えたことは数えきれないくらいだが、清左衛門にはふしぎに人をひきつけるところがあり、腹を立てながらも、顔を見に来ずにはいられないのであった。
「どうした、飲まないのかい」
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
源次は自分の平膳《ひらぜん》を見て、眉をしかめた。大きな燗徳利に、盃と小さな鉢が一つ、中にはきゃら蕗《ぶき》と小さな煮干が三尾、小皿に菜のひたしがあるだけであった。
「あっしが飲めねえ口だっていうことは」
「知ってるよ」と隠居が遮った、「私だって高価な酒を、嫌いな者に飲ませたくはないさ、これほどむだなことはないからな、しかしおまえさんはしらふでは云いたいことも云わない、黙って、どんないやなことも自分の胸の中にしまったまま、人には話さず、独りで肝を煎《い》ったり癇癪を起こしたりしている、そのあげくが妻子を捨て職まで捨ててしまった」
「あっしは妻子を捨てたりなんかしやあしません」と云い、源次は手酌で一つ飲んだ、「誰がそんなことを云ったんです」
「田原町へなんとも使いをやったよ」
「かかあやがきはちゃんとやってる筈です」
「おかみさんはともかく、十三になる男の子までが、近所の使い走りをしていても、ちゃんとやってると云えるのかい」と清左衛門は云った、「もちろん世間にないことじゃあない、稼ぎのない亭主を持ったために、妻子が手内職や走り使い、子守をして飢えを凌いでいる家族もあるだろう、だがおまえさんは違う、おまえさんは日暮里の身内ばかりでなく、植木職として、御府内に何人と数えられるほどの腕を持っている人間だ」
「冷汗が出らあ、よしておくんなさい」
「冷汗といっしょに、本音も出したらどうだ」と隠居は酒を啜って云った、「それだけの腕を持ちながら、いったいどういうつもりで職をやめたんだ、どうしてだい源《げん》さん」
源次はまた手酌で一つ飲んだ。どうして世間じゃこう酒ばかり飲むんだろう、と思って彼は顔をしかめた。飲むときも臭えしおくび[#「おくび」に傍点]も臭えし、後架《こうか》へはいっても臭え。たまにうまく酔えたときに、楽な気持で女と寝られるぐれえがめっけもんだ。そのほかには三文の得もありゃあしねえや、と源次は思った。
「返辞ができなければ、こっちから云ってやろうか」と清左衛門が云った、「三日ばかりまえのことだが、私は橋場の藤吉《ふじよし》さんに会ったよ、おまえの古い出入りだそうだね」
源次は盃を持った手で、顔の前を横に撫《な》でるようなしぐさをし、「たかが五年そこそこです」と云った。
「だとすると、よっぽど気が合ったんだな」
「しょうばいとなるとね」
「そうかな」盃を口のところで止めて、隠居はちょっと歯を見せた、「手のことから松の枝おろしまで、詳しく藤吉さんに話したそうじゃないか、――そこそこ二十年もつきあっている私には、ひとことも話したためしのないようなことをね」
源次はやけになったように、盃で二杯、続けさまに飲んだ、「口の軽い旦那だ、こっちはそんなことすっかり忘れちゃってるのに、――手の話だなんて、きっと首でも吊《つ》りてえような気持だったんでしょうよ」
木や草を扱うには、生れつきの「手」というものがある。理由はわからないが、同じ条件で扱っても、その手を持っているのといないのとでは、木や草の育ちかたがまるで違う。植木職なかまでは知らない者のないことであり、同時に、それがどうしようもない天成のものであるため、口に出して話すようなことはなかった。
「それが聞きたいんだ」と云って清左衛門は、まっ白な長命眉をあげ、あげた眉をぐっと眼の上へおろした、「手のことはまあいい、私も初めて聞いた話ではないし、べつに秘し隠しをするようなことでもないだろうからな、けれども兼徳さんで松の枝を切ったというのは、本当のところどういうことなんだ」
「きっと首でも吊りてえような気持のときだったんでしょう」
「それともしょうばい気で、話を面白くしたのかもしれないとね」
「あげ足を取っちゃいけねえ」源次は酒を呷《あお》った、「こんなことを、御隠居に話すのはいやだ、叱りとばされるにきまってるからね、けれども、藤吉の旦那が饒舌《しゃべ》ったとすれば同じこった、慥《たし》かに、兼徳のでこ[#「でこ」に傍点]助はあっしの植えた松ノ木の、いちばん大事な枝をばっさり切っちまいました」
「相談もしずにかえ」
「ひとことも」源次は首を振って云った、「御隠居にゃあわかるだろうが、注文どおりの木を捜し、それを移して来て、うまく育てるのはちょろっかなこっちゃあねえ、雨風、雪霜の心配から、土替え根肥《ねごえ》、枝そろえと、それこそ乳呑み児を育てるように、大事にかけて面倒をみるもんだ、しかもほかの仕事と違って、百日や二百日で埒《らち》のあくこっちゃあねえ、木によっても違うが、少なくって三年、松なんぞは五年も十年も丹精して、どうやら形のつくもんだ、そうして、こんなら手を放してもいいというところまでこぎつけるころには、こっちの血がその木にかよって、女房子よりも可愛い、しんそこからの愛情がうまれるもんだ、ほかの仕事だってそうかもしれねえが、こっちの相手は生きている木だ、幹も枝も葉も生きていて、こっちがその気になればぐちを云ったり、笑ったり、叱りつけたりすることができる、木はにんげん同様、生きているし話もできるんだ、わかりますかい御隠居」
清左衛門は黙ったままで頷《うなず》いた。
「それを兼徳のでこ[#「でこ」に傍点]助は、なにかの邪魔になるからって、いちばん大事な中枝《なかえだ》を一本、なさけ容赦もなく、付け根からばっさり切り落しちまやあがった」源次はゆっくりとうなだれた、「――苦労して育てて、ようやく形ができたというところです、あっしは切り口の白っぽい木肌を見たら、わが子の腕を切り取られたように、胸のここんところが」
そこで源次は絶句し、徳利の酒を盃へしたんで飲んだ。それを見て清左衛門が手を叩くと、若いほうの女中が出て来、清左衛門は酒を命じた。その女中は二十五か六になるだろう、ふっくらとしたおもながな顔に、憂いのある眉。下だけ肉のやや厚い唇は、紅を塗ったようにしっとりと赤かった。
「およそのところはわかったよ」と清左衛門は緊張した気分をほぐすように云った、「おまえの気持はほぼ察しがつくがね、しろうとじゃあない、おまえさんはしょうばいにんだ、植える木に愛情をもつのは当然だろうが、一本や二本のことじゃあない、愛情としょうばいとの、けじめをつけるわけにゃあいかないのかね」
「そういうことのできる者もいるでしょう、あっしにはできねえ」源次はうなだれていた顔をゆっくりとあげた、「だらしのねえはなしだが、あっしにはそういうけじめをつけるなんてことはできないんです、本当にできねえんです」
「人それぞれだな」
「それだけじゃあねえ、屋敷の名は云えねえが、ほかにもさるすべり[#「さるすべり」に傍点]や、梅や、つげ[#「つげ」に傍点]などで、勝手に秀《ほ》を詰めたり、枝をおろしたりされたことが五たびや七たびじゃあありません、しかし、可笑《おか》しなはなしだ」源次は頭を左右に振った、「向うは金持の注文ぬし、こっちはたかが御用をうけたまわる植木職でさあ、金を払って植えさせれば木はもうあっちのもの、枝を切ろうがぶち折って薪にしようが向うの勝手で、こっちに文句を云う権利はこれっぽっちもありゃあしねえ、つまるところ、ただいまのお笑いぐさだ、そうでしょう御隠居さん」
清左衛門がなにか云おうとしたとき、さっきの女中がはいって来た。源次はそっぽを向き、清左衛門に眼くばせされて、女中は燗徳利を源次の平膳の上へ置いた。空《から》になった徳利を盆に取って、出てゆきながら女中は源次を見たが、彼は気づかないようであった。
「人それぞれだ」と清左衛門が云った、「ほかの人間にはお笑いぐさでも、或る人間には生き死ににかかわる問題かもしれない、おまえさんの気持はわかった、けれども、職をやめてこれから先どうするつもりだえ」
「乞食ですよ、このとおり」源次は酒を注いだ盃を眼のところまであげ、歯を見せて微笑した、「――自分の植えた木のあるとくい先を廻って、ちょっちょっと手入れをし、そこの旦那がたから茶や酒をふるまってもらって、おべっかを云ったり機嫌をとったりするんです、うまくいけば心付にありつけるし、まずくいってもめし[#「めし」に傍点]ぐらいにはありつけますからね」
「そんな都合のいいことが続くと思うか」
「とくい先にもよりますがね」源次はまた微笑した、「まずその心配はねえようです」
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
「たとえば」と源次は続けて云った、「失礼だが御隠居さんは勘定だかくてけち[#「けち」に傍点]だ」
「おまえがそう思っていることは知っていたよ」
「けれどもけち[#「けち」に傍点]にはけち[#「けち」に傍点]のみえがある。現にゆうべは泊めていただいたし、このとおり酒の馳走にもなってまさあ、もちろん、心付が貰えるなんとは思っちゃあいませんがね」
清左衛門は酒を啜り、ちょっと考えてから云った、「よかったらここへ住込みで、庭の面倒をみてくれないかな」
「庭のことなら角さんがいるでしょう」
「木のことは角造ではまに合わない」
「あっしも御同様でさ、これまで植えた木の世話はするがね、職をやめた以上、もう木のことには手を出さねえつもりです」
「人間は気の変るものだ、そう云い切ってしまわなくともいいだろう」清左衛門は穏やかに云った、「これは聞いた話だが、おまえさんに跡を譲りたいという親方がいるそうじゃないか」
「初耳ですね、なにかの間違げえだろうが、本当だとすれば頓狂《とんきょう》な野郎だ」と云って源次は盃を伏せた、「じゃあこれから橋立をみてきます」
そして彼はろくさま挨拶もせずに、庭番小屋のほうへ去った。清左衛門がなにか云ったようだが、源次は振り向きもしなかった。
これから先どうするつもりかって、へっ、こっちでききてえくれえだ。ねえ御隠居、おまえさんこれから先どうするつもりですかい、一代で伊豆清の身代をおこし、たいそうな金持になり、跡を伜《せがれ》に譲って隠居をしながら、いいとし[#「とし」に傍点]をしてまだ店へかよい、ゆだんなく帳尻に眼を光らせたり、暇があればとくい廻りを欠かさないという。それでどうしようというんだ、そんなことをしていてこの先、どんなものを手に入れようというのかい。これまでにないなにか、この世のものでないようななにかが、手にはいるとでもいうのかい。これから先どうするかって、へっ、人間あしたのことさえどうなるかわかりゃあしねえ、ことにおれなんぞはもう一生が終ったも同様なんだ、けち[#「けち」に傍点]じじい、おめえこそこの先どうしようというんだい。
手籠をさげて、若いほうの女中が来、おやつ[#「やつ」に傍点]ですと云った。源次は敷いてある茣蓙《ござ》のほうへゆき、腰に抜《はさ》んでいた道具を外して置き、手拭で汗を拭きながら、茣蓙の上へ腰をおろした。女中は手籠から茶道具と、皿に盛った饅頭《まんじゅう》をそこへ出し、茶を淹《い》れてすすめた。
「ありがとよ」源次は茶碗を受取りながら、無遠慮な眼で女中を見た、「おらあどうも人の名が覚えられなくって困るんだが、おまえさんの名はなんてったっけな」
「ふつうはすみ[#「すみ」に傍点]っていうんですけれど」女中は跼《かが》んだまま俯向いて、恥ずかしそうに答えた、「本当の名はゆうきち[#「ゆうきち」に傍点]なんです」
「ゆうきち[#「ゆうきち」に傍点]、男みてえな名だな」
「ええ、あたしの上に兄があって、生れて半年そこそこで死んだんですって」少し舌ったるい囁き声で、女中は云った、「お父っつぁんがばかなくらい可愛がっていて、死なれたあと百日ばかり、本当にばかのようになったそうです、そして、こんども男の子を産めって、おっ母さんをしょっちゅう責めては、いまから名は勇吉にきめたって云うんだそうです」
「死んだ兄の名が勇吉だったんです」と女中は続けた、「それで、生れてくる子がたとえ女でも名は勇吉ときめた、だから男を産むんだぞって、飽きずにおっ母さんを責め続けたんですって」
「そうして女のおまえさんが生れた」
「ええ」と頷いて女中はくすっと笑った、「おっ母さんはまさかと思ったそうですけれど、お父っつぁんは云ったとおり、人別《にんべつ》にも勇吉と届けちゃったんですって」
「家主や町役《ちょうやく》がよくそれでとおしたもんだな」
「いろいろ文句があったんですけれど、おれの子に親のおれが付けた名だって、お父っつぁんは頑張りとおした、って聞きました」
母がすみ[#「すみ」に傍点]という呼び名を付けて、近所の人たちにも頼み、父親のいないところでは、すみ[#「すみ」に傍点]と自分でも云い、人も呼んでくれた。けれども子供たちは耳ざといから、いつか本当のことを嗅ぎつけてしまい、勇吉、勇吉とからかうのであった。あたしの名はおすみ[#「すみ」に傍点]だって云い返すと、あくたれな子はそうじゃない勇吉だ、ほんとは男の子だろう、嘘だって云うんなら捲《まく》って見せろ、などとからかった。おすみ[#「すみ」に傍点]は泣きながら家へ帰ったが、子供は面白がって、なにかというと「捲って見せろ」とはやしたてるのであった。
「笑わないで下さい」と女中は囁くように云った、「あんまり云われるので、あたし自分のを見たんです、恥ずかしいけれど、幾たびも見たのよ、そして男の子のも見て、自分は片輪なんだと思いきめてしまったんです」
「子供のじぶんにはよくあることさ」
「ええ」女中はかすかに頬を赤らめながら頷いた、「あたしの友達にせっ[#「せっ」に傍点]ちゃんという子がいて、その子も男の子にへんなことを云われ、自分のと男の子のとの違うのを見てから、やっぱり自分は片輪なんだ、って思ったと話していました」
それで一生嫁にはゆくまいと決心し、ずっと縁談を断わりとおしてきた。この寮へ女中勤めにはいってからも、縁談はたびたびあったけれど、やっぱり一度も承知をしなかった。むろん片輪などでないことは、としごろになるころにわかってはいたけれど、いざ結婚という話になると、片輪だと信じた、小さいじぶんの恐れが胸によみがえってきて、とても話を聞く気にさえならなかった。そうして、あなたと知り合ったのだ、と女中は云った。
「うまいな」源次は菓子を喰べて云った、「これは並木町の銘菓堂の茶饅頭だな」
「ええ」と女中は眼を伏せて答えた、「あなたがお好きだというので、あなたがいらしったので買っておいたんです」
「うまい」と源次は云った、「おらあこの茶饅頭がだい好きだ」
おかしな名だと思ったが、ゆうきち[#「ゆうきち」に傍点]とは知らなかった。二度めのときだっけかな、あたし本名はゆうきち[#「ゆうきち」に傍点]っていうんです、って云ったんだな。こっちはただおかしな名だと思っただけだが、まさかね。
「なにをこっそり思いだし笑いなんぞしているの」と女が云った、「ここに独り者がいるんですからね、罪ですよ親方」
「嫁にいくのはいやだが、男は欲しいというやつさ、嘘あねえや」
「なんだかおやすくないような話ね」女は源次に酌をし、自分も手酌で飲んだ、「親方その人に惚れてたのね」
「ふしぎだ、今夜は酒が飲めるぜ」
「あたしも、うまいわ今夜のお酒」女は源次に酌をし、自分もまた手酌で飲んだ、「親方にはおめにかかったことがあるわね」
「ひとの酒だと思って、あんまり売上をあげるなよ」
「今夜はあたしの奢《おご》り、店もあけないのよ」
「おめえ独りでやってるのか」
「こんなおばあちゃんでは構いてがないでしょ、夫婦別れをしてっからまる二年、雄猫も近よりゃあしないわ」
「そうじゃあねえ、この店のことさ」
「うまく逃げるわね」女は媚《こ》びた眼てにらんだ、「この店ならあたし一人よ、夕方からはかよいの女の子が二人来ますけれどね、親方さえよかったら今日は休みにしますわ」
またか、また例のとおりか。女たらしってね、おれがなにをしたっていうんだ。夫婦別れをして二年だという。信濃屋のおとよ[#「とよ」に傍点]は、亭主に死なれて五年になると云った。亭主は酒と女と博奕《ばくち》で、金をせびるとき以外は寄りつかない。小さな旅籠宿でも、しょうばいをしていれば元手が必要だ。食物から衣料、器物や家具の修理など、毎日なにかで出銭がある。亭主はそんなことにお構いなしで、せびるだけせびり、断わりでもすればすぐに手をあげた。いつも躯になま傷か痣《あざ》の絶えたことがないのよ、と云ったっけ。五年まえに博奕場で頓死《とんし》をしたとき、うれしくって祝い酒を飲んだくらいだという。それで男にはしんそこ懲りたから、二度と亭主を持つ気もなし、男もまっぴら。もちろんあんただけはべつだけれど、いっしょになりたいとか、いつまでも続くようになどとは思わない。そしてあんたと切れたらもう一生、男の人なんか欲しくはない、と云った。
「ねえ親方」と女があまえた声で云った、「今夜はあたしにつきあって下さるでしょう」
「ここへ来たのも初めてだし、おめえに会うのもこれが初めてだぜ」
「あたしは子供のじぶんから知っているような気がするわ」女は新らしい燗徳利を取って、源次に酌をし、自分の盃にも注いだ、「店は夕方からなんだけれど、親方がはいつていらしったとき、断わるのも忘れちまったのよ、――待っていた人が来てくれた、っていうような気がしたらしいわ」
「三日も泊り込みの仕事でくたびれてるんだ」
「そんならあとで揉《も》んであげるわ、あたしおっ母さんに躾《しつ》けられて、肩腰を揉むの上手なのよ」
「いつかまたな」と源次は云った、「なにか食う物を貰おう」
「薄情なひとね」女はやさしく睨んだ。
ここは並木通りで、田原町へはひと跨《また》ぎだ。薄情者か、ちげえねえ。おかしなはなしだが、他人から見ればこのおれも、おとよ[#「とよ」に傍点]の頓死をした亭主とどっこいどっこい、ってえことになるんだろう。誰もなんにも知りゃあしねえし、知ろうともしやしねえ。人のことは丁半《ちょうはん》できめるように片づけてしまう、てめえのことは棚にあげてさ。うんざりだ、早く年寄りになって、誰にも構われずに、暢《のん》びりくらしてえだけだ。それにしても五十幾日か、敷居が高えな。
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
田原町の横丁の、表店《おもてだな》の家は格子造りで、父親が生きていたころは、そこが看板書きの仕事場になっていた。いまは格子戸の中がすぐに土間で、上《あが》り框《がまち》には障子がたててある。源次は格子をあけて、「帰ったぜ」と声をかけ、上へあがろうとすると、人の足音がこっちへ来、中から障子をあけて、一人の少年が源次の前に立ち塞《ふさ》がった。
「よう、秀か」と源次が云った、「おふくろはいるか」
秀次は十三歳の筈だが、源次の眼には十五六にもみえた。土間から見あげているためか、背丈も高く、躯ぜんたいが逞《たくま》しくなったように思えた。
「帰んなよ」と秀次は声変りしかけている声で、無表情に云った、「ここはおれたちのうちだ、おめえなんかの来るところじゃあねえぜ」
源次は口をあいた。自分の聞いたことがなんだか、まるで理解ができなかったのだ。
「なにを云うんだ、秀」と源次はあいまいに微笑しながら云った、「おめえねぼけてるのか、おれだぜ、ちゃんだぜ」
「うちにはちゃんなんぞいねえよ」と秀次は云い返した、「かあちゃんとねえちゃんと、おいらの三人だけのうちだ、帰ってくれよ」
「おいおい」源次は笑い顔で云った、「からかうのもいいかげんにしろよ、秀、おめえまさか、本気で云ってるんじゃあねえだろうな」
「自分でわからねえのかい」秀次は両手を太腿《ふともも》に沿っておろしていたが、その両の拳《こぶし》は見えるほどふるえていた、「――ここはおれたちのうちだ、ちゃんもいたけれど、ちゃんの名は人別から抜いちまった、家主のおじさんも町役の旦那も承知のうえなんだ、嘘だと思ったらきいてみればわかるよ」
「人別から抜いたって」源次はまた口をあき、それから静かに云った、「このうちの世帯主はおれだ、世帯主のおれを人別から抜くなんてことが、できると思うのか」
「ねえちゃん」と秀次は奥に向かって云った、「差配《さはい》さんと辻番《つじばん》へ知らせてくれ、うるせえことになりそうだからな」
返辞はなかったが、裏の勝手口の戸をあける音が聞え、源次はかっとのぼせあがった。
「おつね[#「つね」に傍点]」と源次は奥へ向かって喚いた、「出て来いおつね[#「つね」に傍点]、これはどういうことだ」
「大きな声をだすなよ、みっともねえ」と秀次はおとなびた口ぶりで云った、「どういうことか、わけはそっちで知ってる筈じゃねえか、差配さんにも辻番にも話してあるんだ、あの人たちが来ねえうちに帰るほうがいいぜ、さもねえと無宿人の咎《とが》でしょっ曳《ぴ》かれるからな」
源次は子供を殴りつけようかと思った。躯じゅうがむずむずし、両の拳がふるえた。しかし、眼の前に立ちはだかっている秀次には、母や姉や自分をひっくるめて、この家を守ろうとする決意のようなものが感じられて、源次は思わずたじろいだ。
「わかった、それならそれでいいんだ」と源次は顔をあげ、虚勢を張って云った、「また出直して来るよ」
「来なくってもいいよ」と秀次は云った、「誰も待っちゃあいねえからな」
毛を※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》り取られ、皮を剥《は》がれたようなもんだ、と源次は思った。自分はそういう扱いをされるようなことをしたんだ、という悔恨と、仮にも親子じゃあないか、親子夫婦じゃあないか、といういきどおりとが、心の中で絡みあい、立っている力が、足から地面へ吸い込まれてゆくように感じられた。
「そうか、そうか」源次はへそをかくように微笑して、片手をゆらっと振った、「いいよ、わかったよ、女房子から無宿人にされたなんて話は聞いたこともねえが、おれが悪かったんだろう、いや、おれが悪かったんだ、勘弁してくれ、みんな達者でな」
そして、源次は格子をあけて外へ出た。出たとたんに、六尺棒を持った番太と、二人の若い者を伴《つ》れた差配と顔を合わせた。かれらは源次の出て来るのを予期していなかったらしく、彼の顔を見るなりうしろへとび退《の》き、番太は六尺棒を斜に構えた。
「いや、いいんだいいんだ」源次は片手を振った、「もう済んだんだ、悪かったな、もう大丈夫だ、なにもごたごたはありゃあしねえんだから」
そう云っているとき、かれらを押しのけるようにして、半纒着《はんてんぎ》に股引姿の若い男が前へ出て来た。
「ようやっと会えましたね」
「なんだ、根岸の忠吉じゃねえか」
「この七日間、ずいぶん捜しましたぜ」とその若者は左右の番太や差配たちを見まわしながら云った、「五日めえに多平と会いましてね、昨日から神田川の側の旅龍宿で待ってたんです、これから来てもらえますか」
「来いといって、どこへ」
「根岸へですよ」と若者は云った、「親方が待ってるんです」
「多平はいまでも根岸か」
「来てもらえるんですか」
源次は差配を見、番太や男たちを見た。妻や子供たちに人別帳から抜かれ、無宿人にされた。無宿人、――そしていまは根岸へ呼びだされている。多平が云った、誰かが跟け覘っている、捜しまわっているってな、それはこのことだったのか。この差配や番太たちのことはどっちでもいい、ここを温和しく出てゆけばそれで済むことだ。しかし、根岸のあにいはどんな用があるんだろう、なぜおれのことを捜しまわっていたんだろう、と彼は思った。
「用が出来たんでね」源次は番太と差配たちに云った、「あっしはこれで失礼します、もうこの町内へ帰ることもねえでしょう、お世話さまになりました」
さあゆこう、忠公、と源次は云った。まるで屠所《としょ》に曳かれるなんとかのようだな、あるきだしながら、源次は思った。おれがなにをしたというんだ、云い※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れはしねえ、女房や子供、女たちには薄情だったかもしれないけれどもそれにだってわけはあるんだ。誰もわかっちゃあくれねえが、おれだって人間だ、犬畜生じゃあねえんだ。女たらし、薄情者、こんどは無宿人、そして罪人かなんぞのように、根岸へしょっ曳いていかれるのか。もういいや、どうにでもしてくれ、勝手にしやがれだ、と源次は思った。
根岸の清七は五十二歳。源次のあにき分であり、日暮里の植甚では一の身内であり、そして植甚の外仕事のいっさいを切り廻していた。大親分の甚五郎は幕府のお庭方御用を勤め、千駄谷《せんだがや》御林の管理を任されている。ほかに国持ち大名諸家からの用は「外仕事」と云い、それを賄っているのが根岸の清七であった。
「まあおちつけ」と清七が云った、「そこへ坐れよ、楽にしろ」
清七の妻で五十歳になるおこん[#「こん」に傍点]が茶と菓子を持って来、あなたの好きな並木町の饅頭よ、銘菓堂の茶饅頭、覚えてるでしょと云った。おこん[#「こん」に傍点]は子を産まないためか若く、せいぜい三十五六にしかみえない。肌も桃色でつやつやしく、ほどよい肉付きで、笑うと左の頬にくっきりと笑窪《えくぼ》が出た。
――あの女にも云ったのだろうか、源次は饅頭を摘みながら思った。向島の寮の女中だった、へんてこな名めえの女だったな、おんなじ饅頭だった、そうか、浅草並木の茶饅頭だったのか、おれが忘れてるのに覚えていてくれたんだな、しかし誰が頼んだ。おれはそんなことは、一度だって口にしたこともねえぞ。
源次は茶を啜りながら、饅頭を二つ喰べた。清七はきせる[#「きせる」に傍点]でタバコをふかしふかし、重い荷物でも背負っているように、肥えた自分の膝を見おろしてい、おこん[#「こん」に傍点]は自分の可愛い子でも見るように、眼を細め、唇をほころばせたまま、まじまじと源次の顔を見まもっていた。
「いつ喰べても」源次は唇を手で拭きながら、おこん[#「こん」に傍点]に云った、「銘菓堂の茶饅頭はうまいですね」
「源《もと》さんは昔っから好きだったわね」
「もういい」と清七が云った、「話があって呼んだんだ、おめえはあっちへいってろ」
「相変らずこうなのよ」
「うるせえ、あっちへいってろと云ったろう」
「わかりましたよ」と云っておこん[#「こん」に傍点]は立ちながら源次を見た、「あとで晩ごはんを持って来るけれど、源さんなにがいい」
だが清七に睨まれると、おこん[#「こん」に傍点]は首をすくめながら出ていった。源次は坐り直し、上眼《うわめ》づかいに清七を見た。
「おたい[#「たい」に傍点]が死んだ」清七が低い声で云い、きせるをはたいた、「知っているか」
源次は片方へ首をかしげ、次に反対のほうへ首をかしげた、「――おたい[#「たい」に傍点]、って誰ですか」
「おまえ、まじめなのか」
源次は眼をみはって、なにか云いかけたまま、口をつぐんだ。
「わかった、本当に忘れたらしいな」清七は頷いて、きせるをそっと莨盆《たばこぼん》の上に置いた、「それじゃ済まねえことなんだが、相手がおまえじゃあしようがねえ、おたい[#「たい」に傍点]とはな、池之端《いけのはた》の六助んとこの女中だ」
源次は考え考えきき返した、「ちぢれっ毛の太った、あの女ですか」
「そんな云いかたがあるか、仮にも人間ひとりが死んだんだぞ」
「済みません」源次はおじぎをしたが、なにか腑におちないように口ごもった、「けれども、その女が死んだのと」
「首をくくってだ」
「へえ、済みません」源次はまたおじぎをし、それから首をかしげた、「――あっしにはまだわからねえんだが、いったいその女が首を吊って死んだのとあっしと、なにか関係でもあるんでしょうか」
剛《こわ》いしらがの疎《まばら》に伸びた、清七の頬が見えるほどひきつり、大きな眼がぎらっと光った。
[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]
清七夫婦のあいだにはいまだに子がないし、日暮里にいたときから、大きな声を出したり怒ったりしたことはなかった。けれども清七が本気で怒るときには、頬がひきつるのと、眼の光とですぐにわかった。昔からわかっていたことだし、それは大親方のかみなり[#「かみなり」に傍点]よりも、身内の者たちをちぢみあがらぜたものであった。いまにもなにかされるかと、反射的に身構えたとき、障子をあけて福太がはいって来た。とし[#「とし」に傍点]は源次と同じ三十七、小太りで肩がいかつく、ぶしょう髭《ひげ》が濃く、唇が厚くて大きかった。
「とうとう捉《つか》まえたぞ」と福太は源次の前へ音を立てて坐りながらどなった、「三十日の余もてめえを追っかけていたんだ、よくも鼬《いたち》のようにうまく逃げまわっていやがったな」
「話は静かにしろ」と清七が云った、「気の早いのが福の悪い癖だぞ」
「あにいはまあ聞いてて下さい」福太は源次を睨んだまま強く頭を振った、「こいつには云いたいことが山ほどあるんだ、そのたいていは自分の恨みや憎みだから、今日までがまんして云わずにきたが、こんどはそうはいかねえ、こいつは日暮里の大親方はじめ、身内の者ぜんたいの顔に泥を塗ろうとしていやあがるんだ」
おれをつけ覘っている者があると、多平の云ったのは福だったのか、と源次は思った。それにしても、植甚の身内ぜんたいの顔に泥を塗る、という言葉には吃驚《びっくり》したようであった。
「ちょっと待ってくれ、福」と源次は坐り直した、「いま云ったことはどういうことだ、いや待て、そのまえに自分の恨みとか憎みとかってのは、どういうことか聞かせてもらおうか」
福太はとびだしそうな眼で、源次の顔をじっとみつめ、膝の上の拳をふるわせた。
「六助んとこのおたい[#「たい」に傍点]が死んだことは聞いたか」と福太は云った、「聞いたろうな」
源次は頷いた。
「可哀そうに、首を吊って死んだそうだ、――書置にはおめえが夫婦になると約束してくれたが、とし[#「とし」に傍点]も二十八になってしまい、約束もあてにはならなくなった、もう生きている張合いもないから、と書いてあったそうだ」
「それは違う」源次は首を振った、「おれはそんな約束なんかしたことはないし、こっちからちょっかいをしかけたことさえないんだ」
「じゃおすが[#「すが」に傍点]のときはどうだ」
源次はまばたきをし、のろのろと下唇を舐《な》めた、「おすが[#「すが」に傍点]って、誰のことだ」
「きさまはそういう人間だ」
もう少し穏やかに話せないのか、と清七がたしなめたが、福太は耳にもいらぬようすで、声は低めだが、その姿勢には殺気めいたものがあらわれてきた。
「きさまはそういう人間だ」と福太はけんめいに自分を抑制しようとしながら云った、「よく考えてみろ、まだ日暮里にいたじぶん、道灌《どうかん》山の下にあった掛け茶屋に、きれいなきょうだいの娘がいたろう」
源次は首をかしげながら、なにか口の中で呟いていたが、それを思いだしたのだろう、あっという表情で福太を見た。そのとき清七の妻のおこん[#「こん」に傍点]が、茶菓子を持ってはいって来たが、清七がきつい眼つきで頭を振るのを見ると、なにも云わずに温和しく出ていった。
「おすが[#「すが」に傍点]っていうのは妹のほうだった」と福太は云った、「おおよそ二十年まえ、てめえとおれは十八で、おすが[#「すが」に傍点]は十五、細っこい躯の、小柄な、ひ弱そうな可愛い娘だった、てめえはそのおすが[#「すが」に傍点]を、――まだほんの小娘だったおすが[#「すが」に傍点]を、たらしこんで捨てやがった、覚えてるだろう」
源次は眼をつむった。それも違う、そうじゃなかった。あの娘はひ弱でもなく、小娘でもなかった。とんでもない、あんなに躯が丈夫で、いろごとに飽きない女はほかにいなかった、と彼は思った。
「きさまに捨てられてからおすが[#「すが」に傍点]はぐれだして、自分から廓《くるわ》へ身売りをし、それから岡場所へおちて、御府内の岡場所を次から次へと渡りあるいた」と福太は続けて云った、「――そのあげくがけころ[#「けころ」に傍点]、夜鷹《よたか》にまでなりさがって、いまはゆくえ知れず、生きているのか死んじまったかもわからねえ、おれはあの娘が好きだった」
福太はそこで喉《のど》を詰まらせた。彼はもう外聞も恥もなく、抑えていた恨みと怒りを、手に取って叩きつけるように感じられた。
「おれは死ぬほどおすが[#「すが」に傍点]を好きだった」と福太は云った、「あと一年か二年したら、嫁にもらうつもりだった、本気でそう思っていたんだぞ、それをてめえはめちゃめちゃにしちまやあがった、相手がてめえだということはあとでわかったが、そのときわかっていたら、おらあきっとてめえを殺していただろう」
そうだったのか、それで福は独身のままでいたのか、と源次は思った。いや、まさか、どんなに一徹な人間だって、一人の女のために独身をとおすなんて、そんなことがある筈はないし、もしあるとすれば尋常な人間じゃあない。そんな男はどこかが狂っているんだ、と源次は思い直した。
「てめえが女たらしだってことを知らねえ者はねえ、これまでにどれほど女をたらし、どれほどの女を泣かせ一生をだめにしたか、自分も数えきれねえだろう、おまけにだ」と云って福太は自分の両の膝がしらを力いっぱい掴《つか》んだ、「――おまけにてめえは女房子まで捨てちまって、安飲み屋の女なんぞを、次から次と騙《だま》しあるいているそうだ、おすが[#「すが」に傍点]のことだけなら、いまでもてめえを殺してやりてえが、自分の女房や子供までみすてるような男には、殺す値打もありゃあしねえ」
きさまは女ばかりでなく、木や草までたらしこむやつだ、と福太は続けた。植木職としては慥《たし》かに腕っこきだし、それは大親方も身内の者もみんなが認めている。けれども、きさまの手がけた木が、すべて注文どおりに育ち、一本のしくじりもなかった、というのは不自然だ。人間のすることなら、どんな名人上手にだって誤りや仕損じはある。それが人間であることの証拠だ、そうじゃあねえか、と福太は云った。源次はなお黙っていた。
「これはおれがてめえに云いたかったことだ」と福太は坐り直した、「だが、これから云うことは恨みや泣きごとじゃあねえ、植基の身内ぜんたいの外聞にかかわることだ、いいか、腹を据えて聞けよ」
「まず初めに」と福太はすぐに続けた、「てめえはとくい先へいって自分の植えた木の手入れをし、妙なぐち[#「ぐち」に傍点]をこぼしては金をねだり廻っているという、てめえはねだったことなんぞねえと云うだろうが、そのたびにめし[#「めし」に傍点]を食い包み金を貰えば、つまりねだりにゆくっていうことに変りはねえ、なぜなら、てめえはもう植木職じゃあねえからだ」
源次は屹《きっ》と顔をあげたが、やっぱりなにも云わなかった。
「てめえのことはいろいろ聞いた」福太は嘲笑《ちょうしょう》するように云った、「――どこそこの庭へ植えた松の、いちばん大事な枝を切られたとか、どこそこではなになにの木の枝を、邪魔だからといって切られたってな、――竜閑町の岩紀さんでも、伊豆清の向島の御隠居のとこでも、そのほかかね[#「かね」に傍点]徳さんふじ[#「ふじ」に傍点]吉さんでも、同じような泣きごとを並べたっていう、それもただ気をひいて、僅かな包み金をねだるためにだ、そうじゃあねえのか」
「根岸のあにい」と源次は清七に云った、「おれにも少し話させてもらえますか」
清七はタバコに火をつけながら、福太を見た。福太は待っていたように膝をにじらせて、「云いたいことがあったら云ってみろ、聞くだけは聞いてやる」と云った。
「人間てなあおかしなもんだ」と源次は低い声でゆっくりと云いだした、「子供のときからいっしょに育っても、相手の心のなかや考えていることまではわからねえ、口に出して云ってみたって、信じる者もあるし信じねえ者もある、人間には酒の好きなやつもいるし、饅頭の好きなやつもいる、酒の好きなやつに饅頭の話をしたってわかりゃあしねえ」
「ごまかすな」と福太が云った、「酒だの饅頭だのと、よけいなことをぬかさずに、云いてえことをはっきり云ってみろ」
「おらあ女をたらしたことはねえ、誰も信じねえかもしれねえが、おらあ女をくどいたこともなし、ちょっかいをだしたこともねえ、そんなことは一度もしたことはなかった」と源次は云った、「――福には悪いが、おすが[#「すが」に傍点]という女もそうだ、おめえはひ弱な小娘だって云ったし、そう信じているんだろう、けれども本当はそうじゃなかったんだ、いや、まあ聞いてくれ、どんなふうにそうじゃなかったか、ってことは云やあしねえ、云っても信じちゃあもらえねえだろうからな、しかし違うんだ、違うんだ、そうじゃあなかったんだよ、福」
「およそ二十年まえのことだ、てめえの云うことが嘘か本当かってことを、いまここで慥かめるわけにはいかねえ、おらあ聞くだけは聞くと云ったんだ、いいから云いてえことをすっかり云ってみろ」
「信じようと信じめえと勝手だが、おらあ一度だって女に手を出したこたあなかった」と源次は云った、「――いつでも女のほうから寄ってくるんだ、うぬ惚れてると思うなら思うがいい、だが、こっちにはなんの気もねえのに、番たび女からせがまれてみろ、うんざりするどころか反吐をはきたくなるぜ」
「どうにでも云えるさ、証拠はねえからな」
「おすが[#「すが」に傍点]がひ弱な小娘だった、っていう証拠はあるのか」
「女房や子供たちをみすてたことはどうだ」と福太がやり返した、「人間のすることにいちいち証拠なんかはねえ、と云いてえんだろう、いかにも、証拠をどれだけ集めたって、人間のしたことの善悪はきめられるもんじゃあねえだろう、だがな、ときには動かねえ証拠ってものもあるんだぞ」
[#6字下げ]十一[#「十一」は中見出し]
「さっきも云ったように、てめえはとくい先へいっては、どこそこの屋敷へ植えた松ノ木の、いちばん大事な枝を断わりなしに切り落されたとか、とこそこてはなんの木の枝、どこそこではなんの木と、育てた木の大事な枝を断わりなしに切られた、と泣きことを並べた、そうだろう」と福太が云った、「――そう云ったことに間違えはねえだろうな」
「そうだからそうだと云ったんだ」
「嘘をつけ、本当のことはわかっているんだぞ、てめえは自分で木の枝を切った、松ノ木もほかの木も、みんな自分で切り落したんだ、ちゃんと見ていた者がいるんだぞ」
源次はなにか云おうとしたが、口から言葉は出なかった。彼は片手で額を横撫でにし、俯向いて自分の膝をさすった。
「さあ」と福太が云った、「なんとか云ってみろ、なにが嘘でなにが本当だ」
源次は考えていてから、根岸のあにい、冷やでいいから酒を一杯貰えまいか、と清七に云った。福太は、ごまかすなと云った。清七はそれを制して妻を呼び、酒を持って来るように命じた。おこん[#「こん」に傍点]は不審そうな顔をしたが、まもなく湯呑茶碗に酒を注いで持って来た。源次はそれを受取ると顔をしかめて半分ほど呷《あお》った。
「おらあ女房子の手で人別をぬかれ、無宿人にされちまった」と源次は云った、「――罪はおれにあるんだろう、三年も家族を放ったらかしにしていたんだから、だがな福、なぜおれが職をやめ、うちをとびだしたか、っていうことにゃあ、それなりのわけがあるんだ」
「またうまく云いくるめるつもりか」
「そう思うなら思うがいい、だが聞くだけは聞いてくれ」と云って源次はさもまずそうに酒を啜った、「――女房のおつね[#「つね」に傍点]は、おれが初めて惚れた女だ、かね[#「かね」に傍点]徳の隠居所でなかばたらきをしていたのは、福も知ってるだろう、口かずの少ない、羞《はにか》みやの温和しい娘だった、おれは生れて初めて、こんな娘もいたのかと思い、隠居に頼んでむりやり女房に貰った、田原町へうちを借りて、それから今日まで十五年か、子供も二人生れたし、貧乏世帯だが食うに困るようなことはなかった」
それが三年まえの九月、頼まれて朴《ほお》ノ木を捜しにいった。青梅《おうめ》から八王子、御嶽《みたけ》の奥まであるきまわった。そうしてようやくこれはと思うような木をみつけ、それをひいて江戸へ帰ったのが八日め。頼まれた屋敷の庭へ移して、すっかりあと始末をしてから家へ帰ったのが、十二日めであった。
「おらあくたびれていた、半月ちかく湯にもはいらず、ろくな物を喰べずに山あるきをしてきたあとだ、とにかく湯にはいって、うちのめし[#「めし」に傍点]をゆっくり喰べようと、それだけをたのしみに帰ったんだ、ところが」と云って源次は酒をきれいに飲み干した、「――ところが、おつね[#「つね」に傍点]のやつは、おれの顔を見るなり、めし[#「めし」に傍点]の支度はそこに出来てるよ、って云ったまんま勝手へいっちまやがった、――めし[#「めし」に傍点]の支度はそこに出来てるよって」
源次はそこで歯を見せた。笑ったのではない、自分では笑ったつもりだったかもしれないが、それはむしろ泣きべそのように見えた。
「おつね[#「つね」に傍点]は変っちまった、生れて初めて、心から惚れた女だったが、もうおれの惚れたおつね[#「つね」に傍点]じゃなくなっちまった」源次は頭をぐらっと揺らした、「――なぜだかわからねえ、諄《くど》いようだが、おらあ半月ちかくも仕事で山あるきをし、埃《ほこり》だらけで骨までくたびれて帰ったんだ、それをお帰りなさいでもなく、さぞ疲れたでもねえ、いきなりそっぽを向いて、めし[#「めし」に傍点]の支度はそこに出来てるよ、って」
「てめえのひごろのおこないが悪いから、どこか女のところへしけ込んでいたとでも思われたんだろう」
「夫婦とは一生のもんだ、おらあそう思ってた、ところがおれの場合はそうじゃなかった」と源次は云った、「夫婦なら亭主のおこないが悪かったら、そう云ってくれる筈だ、おつね[#「つね」に傍点]はなに一つ苦情らしいことも云わず、やきもちをやいたこともなかったのに、急に化けでもしたように人間が変っちまった、おれのおつね[#「つね」に傍点]じゃなく、見も知らねえ女になっちまったんだ」
「植木だっておんなしこった」と源次はすぐに続けた、「おれが木を選ぶんじゃねえ、木のほうでおれを呼ぶんだ、そしておれの移した木は、殆んどおれの思ったように育つ、九分九厘まで失敗はなかった、だからとくいにも重宝がられたし、大親方も看板を分けてくれたんだろう、だがな、福、――おれの手で植えおれの手で育てた木も、いつかはおれの手からはなれていっちまうんだ」
「そんなことはわかりきってらあ」
「福の云うとおり」と源次は構わずに続けて云った、「おれの泣きごとはみんな嘘だった、松ノ木もほかの木も、大事な枝を切り落したのはこのおれだ、植えた木は或るところまでは思うように育つ、秀《ほ》の立ちかたも枝の張りかたも、こっちの思惑どおりに育つけれども、或るところまでくると手に負えなくなっちまう、自分で引いて来て移し、大事にかけて育てた木が、みるみるうちに自分からはなれて、まるで縁のねえべつな木になっちまうんだ」
「だから枝を切ったっていうのか」
「そうだ、だから切ったんだ」
「木は育つもんだ」と福太が云った、「盆栽ででもねえ限り、植えた木は必ず育ってゆくもんだ、それを庭に合わせて手入れをするのが、植木職のしょうばいじゃあねえか」
「それでおらあ職をやめたのさ、自分の手塩にかけた木が、自分からはなれてゆくのを見ちゃあいられなかった、うちをとびだしたのもそのためだ、自分の女房子が自分の女房子でなくなっちまったら、もうおれのうちじゃあねえ、おれと女房子とはもう赤の他人なんだ」
「それなら人別をぬかれたのに文句を云うことはねえだろう」
「むろん文句なんか云やあしねえ、ただ、もしかしたらわかってもらえるかもしれねえと思って、話したまでのこった」
「てめえの云うことは、どこまでが本当でどこからが嘘かわからねえ」と福太は云った、「だがここで、はっきり断わっておくぞ」彼は言葉の意味を強めるためだろう、ちょっと息をぬいて、声をひそめた、「――これからはとくい先へ近寄るな。きさまはゆく先ざきで、植甚の名を笑いものにしている、職をやめたんだからもう植木に手を出すな、わかったか」
「そのくらいでいいだろう」と福太を制して清七は源次に云った、「――福の云ったことは、日暮里の身内ぜんたいの意見だ。おまえのためにも、この辺でほかのしょうばいに変るほうがいいんじゃないか。それなら相談にのってもいいぜ」
「ねえあんた、今夜浮気しない」
「おらあ文無しだぜ」
「お金ならあたしが少し持ってるわ」
「ここはどこだ」
「入谷《いりや》よ、知ってるくせに」
「知ってるくせにか」と云って源次は酒を啜り、頭を垂れた、「――人間なにを知りゃあいいんだろう、おれのおやじは看板書きで、おれも看板書きにするつもりだったんだろう、字を教えて源次という名を付けた、源平の源という字だ、源《もと》って読むんだが、そう呼んでくれたのはほんの二三人で、ほかの者はみんな源次《げんじ》って云った。――源次《げんじ》、源次《もとじ》、――そして女たらしだって、――おらあ一度だって女をたらしたことなんぞなかった」
「親方のような人なら、女は誰だってころりよ、もう一杯ちょうだい」と女が云った、「あたし今夜は酔っちゃうわ、いいでしょ」
「おらあ」と源次は口ごもった。
「文無しでしょ、もう五たびも聞いたわ、ここはあたしの店、ちっぽけだけれどあたしがこの店のあるじよ、今夜は表を閉めちゃうわ、ねえ、二人でゆっくりやりましょうよ」
「飽きるほど聞いた文句だ」源次はまずそうに酒を啜った、「――だらしがねえ、だらしがねえぞ源《もと》、てめえは世間からおっ放《ぽ》り出されたんだ、女房子にもみはなされた、これからどうやって生きてゆく、橋の袂《たもと》にでも坐るか」
「なにをぶつぶつ云ってんのさ、ねえ、お酌して」
「えひもせす」と源次は呟いた、「――おらあもう、あとのねえ仮名だ、えひもせすで仮名は終りだからな」
「ちょいと」女は彼の首に手を絡んだ、「ねえ、あっちへいかない、ねえ、ちょっとでいいから横になろうよ」
うるせえ、と源次は云おうとしたが、首を振り、腹掛のどんぶりの中から財布を出すと、それを女の手に渡し、立ちあがって店から外へ出ていった。どうすんのよ、あんた、とうしろから女の呼ぶ声が聞えた。
たそがれの入谷で、まえには田圃《たんぼ》といわれたが、いまでは武家の下屋敷などが出来、名高いさいかち並木などもなくなっていた。
源次はこれというあてもなく、昏《く》れてきた道をあるいてゆきながら、幾たびも片手で眼をぬぐった。
「福太のやつは、そんなことで女房を貰わなかったのか」と彼は呟いた、「――あの娘がどんな女だったかも知らず、見かけだけでそこまで惚れることができる、とはどういうことだろう、おれのこともあいつのことも、どっちも可笑《おか》しなもんだ、人間ってものは、生れたときに一生がきまるものらしいな、福のやつもこれからの一生を変えることはできねえだろう、えらそうなことを云ったって、どうなるもんか、ざまあみろ、――そうさ、そういうおれだっておんなしこった、人間なんてみんなそんなもんさ、ざまあみやがれ」
源次はまた眼をぬぐい、迷い犬があるくような、力のない足どりであるいていった。
やがて向うに遠く、濃いたそがれの中に、はなやかに灯の明るい一画が見えてきた。
「なか(新吉原)だな」と彼はまた呟いた、「ああいう世界もあるんだな」
底本:「山本周五郎全集第十六巻 さぶ・おごそかな渇き」新潮社
1981(昭和56)年12月25日 発行
底本の親本:「別冊文藝春秋」
1966(昭和41)年6月
初出:「別冊文藝春秋」
1966(昭和41)年6月
※以下2個の外字は底本では同じ文字です。※[#「秋/魚」、U+29E64、275-下-4]、※[#「秋/魚」、U+29E64、276-上-2]
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)源次《もとじ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)度|噛《か》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JISX0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「秋/魚」、U+29E64、275-下-4]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
源次《もとじ》は焼いた目刺を頭からかじり、二三度|噛《か》んでめし[#「めし」に傍点]を一と箸《はし》入れ、また二三度噛み、こんどは大根の葉の漬物を一と箸加え、それらをいっしょにゆっくりと噛み合わせた。――お兼《かね》はつけ[#「つけ」に傍点]板に両肱《りょうひじ》をのせ、頬杖《ほおづえ》をついたまま、源次の喰べるのを見まもっていた。
「あたし、ね」とお兼が云った、「男のひとがそういうふうに、目刺なんか頭からがりがり喰べるの、見ているだけで好きだわ」
源次は味噌汁を啜《すす》って、噛み合わせたものを呑みこんだ。そして次の目刺をまた頭からかじり、二三度噛んでめし[#「めし」に傍点]を一と箸入れ、二三度噛むと漬物を一と箸加え、それらを口の中で混ぜて、さもうまそうに噛み合わせた。魚の骨を噛み砕くいさましい歯の音とともに、彼のばねのようにひき緊った頬の肉が、くりくりと動いた。お兼はその健康な頬肉の動くのを、さも好もしそうに見まもった。
「でもへんね」とお兼がまた云った。「いつも思うんだけれど、そんなにいろいろな物をまぜこぜに入れて、一遍に喰べてうまいかしら、味がごちゃごちゃになっちゃって、どれがうまいのかまずいのか、わからなくなっちゃうじゃなくって」
「おやじに小言を云われたもんだ」と云って源次は味噌汁を啜った、「小さいじぶん番たびどなられたっけ、魚を喰べるときは魚、こうこ[#「こうこ」に傍点]を喰べるときはこうこ[#「こうこ」に傍点]、汁は汁と、ひと品ずつで喰べろ、これでもうちの先祖は侍だったんだぞ、ってな」
「あら」お兼は頬杖から身を起こした、「あんたのうちお待さんだったの」
「どうだかな、おらあ知らねえ」おふくろも信用しちゃあいなかったらしいが、おやじはいつもそう云ってたっけ――源《もと》、御先祖の名をけがすようなまねをするんじゃあねえぞ、ってな」
古ぼけた小さな店だ。鉤《かぎ》の手につけ[#「つけ」に傍点]台をまわし、空樽《あきだる》に薄い座蒲団をのせた腰掛が、それに沿って七つ置いてある。つまり客は七人が限度ということで、つけ[#「つけ」に傍点]板の中も狭く、女主人のお兼一人でも、そこへはいれば自由に身動きができないくらいであった。――うしろに皿小鉢や徳利などを入れる戸納《とだな》があり、その右手に三尺寸詰りの一枚障子があって、奥にお兼の寝間があるらしい。また、酒の燗《かん》をする銅壺《どうこ》や、肴《さかな》を煮焼きする焜炉《こんろ》その他、手廻りの物はつけ[#「つけ」に傍点]板の蔭に置いてある。低い天床板《てんじょういた》は煤《すす》けて、雨漏りの跡がいっぱいだし、左右の壁は剥《は》げたので、板を打ち付けて保《も》たせてある、ということが一と眼でわかった。――お兼のうしろの戸納の上には、白木の小さな神棚を中心に、まねき猫や飾り熊手などの縁起物が、埃《ほこり》にまみれてごたごたと並べられ、その壁には成田山や秋葉山、川崎の大師などの、災難|除《よ》け火除けの札がべたべた貼《は》りつけてある中に、「御利生《ごりしょう》様」と手書きにした大きなお札が三枚、とびとびに貼ってあった。
「よくはいるわね」お兼は幾度めかの茶碗にめし[#「めし」に傍点]をよそいながら云った、「これでもう五杯めよ」
「半分でいい、茶漬にするんだ」
「じゃあお茶を淹《い》れるわ」
「湯でいい、このこうこ[#「こうこ」に傍点]がうめえから、仕上げにざっとかっこみてえんだ」
「あたし漬物は自慢なのよ、漬物なら誰にも負けない自信があるわ、死んだおっかさんは面倒くさがって、いっも漬物屋から買ってばかりいたの、糠《ぬか》みそでも塩漬でも、出すときの匂いがいやだって、ほんとはそんなことをするのが面倒くさかったのね、おとっつぁんはいつも嘆いてたわ、世帯《しょたい》を持ってうちのおこうこ[#「こうこ」に傍点]が喰べられないなんて、世も末だなあって、――だからあたし十五六のころから、おかの[#「かの」に傍点]さんのおばさんに教わって、漬物のやり方を覚えたのよ、ほら知ってるでしょ、屋根屋の徳さんちのおかの[#「かの」に傍点]さん、あのおばさんの糠みそには秘伝があるんですってよ」
「ああ食った」と云って、源次は茶碗と箸を置いた、「これで大丈夫だ、酒にしよう」
「いまつけたわ」とお兼が云った、「あんたは変ってるのね、ごはんを喰べてっから飲むなんて人、あたし初めて見たわ」
「酒飲みじゃねえからだろう、おらあ酒はそう好きじゃあねえんだ」
お兼は源次の喰べたあとを片づけ、燗のぐあいをみて「もうちょっとね」と云い、身を起こして源次の顔をみつめた。
「ねえ」とお兼は囁《ささや》いた、「浮気をしない」そして恥ずかしそうに肩をすくめ、ちらっと舌を出した、「こんなことを云うと嫌われるかしら」
「おれあ女房と二人の子持ちだぜ」
「どうかしら」お兼は媚《こ》びた眼つきで、首をかしげながら頬笑んだ、「とし[#「とし」に傍点]からいえばその筈だろうけれど、あんたは世帯持ちのようにはみえないわ、口でここがこうだからとは云えないけれど、世帯持ちにはどこかしら世帯持ちの匂いがするものよ」
「おれの友達に福っていう」と云いかけて突然、彼は奇声をあげながら腰掛からとびあがった、「――ああ吃驚《びっくり》した、ちくしょうめ」彼は自分の足許《あしもと》を覗《のぞ》きこんだ、「いきなりとびだして、おれの足を踏んづけてゆきあがった、ああ吃驚した」
お兼は笑った、「臆病ねえ、鼠でしょ」
「らしいな、ちくしょう」源次は土間の左右を眺めまわしてから、大きな息をつきながら腰をおろした、「こっちの足からこっちの足を、さっさっと踏んづけてゆきあがった、なにもおれの足を踏んづけなくったって、土間にはたっぷり通る余地があるんだ、野郎、初めからおれをおどかすつもりだったんだな」
悪いのが一匹いるのよ、と云いながら、お兼は燗徳利と大きな盃《さかずき》をつけ[#「つけ」に傍点]板の上へ出し、摘み物の小皿と箸を並べた。
「いつかなんかあたしが寝ていたら、顔を踏んづけていったわ」
「顔って」源次は眼をそばめた、「おめえの、その顔をかい」
「この顔をよ、あたしとび起きちゃったわ」
源次は唸《うな》って云った、「そいつはぶっそうだな」
「それに懲りてさ、あたし冬でも寝るときには、ここから上だけ枕蚊屋へはいるの」お兼は胸から上へ手をすりあげてみせた、「――いまのもきっとそいつよ」
「なめてやがるんだな、人間を」源次は酒を啜って、ふと眼をあげた、「いまなんの話をしていたっけ」
「え、ああそう、世帯持ちの話だったわ、世帯持ちか独り身の人かは勘でわかるって」
「ところがそうじゃねえ、おれの友達に福っていう男がいるんだ、こいつはおれとおないどし[#「どし」に傍点]で、いまだに独り身なんだが、どこへいっても世帯持ちだと云われる、かみさんに子供が五人ぐらいはいるってさ、ひとめ見ればわかるって、どこへいっても云われるんだ」
「損な人柄なのね」とお兼が云った、「あたしもよく云われるわ、旦那持ちで隠し子があるんだろうって」
「そうじゃあねえのか」
「あんたまでがそんな」お兼は片手をあげて打つまねをし、源次をにらんだ、「――亭主や子供がいるのに、浮気をしましょうなんて云えると思って」
「暮れてきたぜ、提灯《ちょうちん》を出すんじゃねえのか」
休んじゃおうかしら、とお兼が云ったとき、店の障子をあけて客が二人はいって来た。済みませんいま灯を入れますと云って、お兼はまず吊《つ》ってある小ぶりな八間《はちけん》をおろし、五本の蝋燭《ろうそく》に火をつけ、それを吊りあげると、「梅八」と店の名を書いた軒提灯にも火を入れて、表の障子をあけ、軒先に掛けた。――二人の客は源次からはなれて腰を掛け、陽気に話しだしていた。一人は四十がらみ、一人は三十二三。二人とも職人ふうで、話しぶりは歯切れがよく、しかもおちついていて、がさつな感じは少しもなかった。源次はかれらをちょっと見ただけですぐに顔をそむけ、手酌で酒を啜りながら、聞くともなく二人の話を聞いていた。
お兼は酒の支度をし、摘み物の小皿や箸を揃《そろ》え、二人の前に掛けて、あいそを云いながら酌をした。
「よくあるやつさ、苦しいときの神だのみってな」と若いほうが話し続けていた、「――ふだん信心をしている者なら、神や仏も願いをきいてくれるだろうが、神棚も放《ほ》ったらかし、念仏をいちども口にしたこともないやつが、苦しまぎれに神仏だのみをしたって、神仏としても相談にのるような気分にはなれねえだろう」
「市公の話なら聞いた」と四十がらみの男が云った、「あんなに運の悪いことが重なれば、神や仏にもすがりたくなるのは人情だろうな」
「そんなてめえ勝手なこって、御利益《ごりやく》のあるわけはねえって、みんなせせら笑っていたし、おれもそのとおりだと思った、ところが、そうでもねえんだな」と若いほうの男が酒を飲んで云った、「井戸掘りの久さん、あのじいさんが云ってた、たとえ苦しまぎれにでも神仏を頼みにするのは、その人間にほんらい信心ごころがあるからだって、まるっきり信心ごころのない者なら、神仏にすがるということにさえ気がつかないだろうってな」
「なるほど、ものは考えようだな」
「火のないところに煙は立たないって、――こんなところに使うせりふ[#「せりふ」に傍点]とは思わなかったが、じいさんはまじめにそう云ってたっけ」
「おいおかみさん」ととし[#「とし」に傍点]嵩[#「かさ」に傍点]の男が、摘み物の小皿を箸で突つきながら云った、「また※[#「秋/魚」、U+29E64、275-下-4]《ごり》の佃煮《つくだに》かい、いくら突出しだからって、たまには眼さきの変った物にしても、損はねえだろうと思うがなあ」
「そんなこと云うもんじゃないわよ」とお兼は酌をしながらたしなめた、「ひとくちに佃煮って云うけれど、魚をとる漁師だって楽じゃないわ、冷たい風や雪や、みぞれにさらされながら、こごえた手足でふるえながら獲《と》るのよ」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「はいお一つ」お兼は若いほうの男に酌をしてから続けた、「そしてその魚を佃煮にするんだって、ちょろっかなことじゃ済まないわ、火のぐあいから味かげんや煮かげん、どうかしてよその店に負けないように仕上げようと、幾人も幾十人もの職人さんたちが、いっしょうけんめいにくふうを凝らしてるのよ、それだけじゃない、その佃煮を仕入れて売りに来るあきんどだって、とくい先をしくじらないために味の吟味もし、値段のかけひきもしたうえ、雨風をいとわず売って廻り、それで女房子を」
「わかったわかった」とその客は手をあげて遮《さえぎ》った、「わかったよ、その連中ぜんぶに礼を云うよ、――このちっぽけな※[#「秋/魚」、U+29E64、276-上-2]の一尾々々に、それほど大勢の人の苦労がかかってるとは気がつかなかった、おらあ涙がこぼれるぜ」
「帰るよ」と源次が云った、「勘定をしてくれ」
はいと答えてお兼が立って来た。そしてつけ[#「つけ」に傍点]板の蔭で銭勘定をしながら、さっきのこと本気よと囁いて、はいお釣りと、源次の手に幾らかの銭を渡した。
「またどうぞ」お兼は媚びた眼で源次をみつめながら云った、「またいらしってね、待ってますよ」
源次は頷《うなず》いて外へ出た。すっかり灯のついた横丁を、神田川の河岸《かし》へぬけてゆきながら、彼は握った手の中で銭を数え、渋い顔をして、それを腹掛のどんぶりの中へ入れた。
「浮気か、まあ当分おあずけだな」あるきながら彼は呟《つぶや》いた、「これっぱかりのはした銭で、浮気をしようもすさまじい、しかもまだ、たった五たびめじゃあねえか、しょってやがら」
源次はどきっとしたように、すばやくあたりへ眼をはしらせた。いま呟いたのは自分ではなく、誰かが自分を嘲笑《ちょうしょう》したかのように思えたからだ。彼は頭を振り、いやなことを云やあがる、と呟いた。神田川にはかなり船がはいっていて、荷揚げをしているのが二三あり、船から河岸のあたり、暗がりの中で提灯がせわしくゆらめき、人足たちの掛け声や、互いに呼びあう声がけいきよく聞えていた。
久右衛門町にかかると、その片側町は船頭や人足たち相手の、めし[#「めし」に傍点]屋や木賃旅籠《きちんはたご》が多くなる。源次はその中の「信濃屋《しなのや》」という旅籠宿へはいった。狭い土間に洗足《すすぎ》用の手桶《ておけ》と盥《たらい》が出してあり、帳場に女主人のおとよ[#「とよ」に傍点]がいた。まだ時刻が早いからだろう、客のいるようすはなかった。
「あらお帰りなさい」おとよ[#「とよ」に傍点]が源次を見て云った、「どうしたの、三日も姿を見せないで、どこへしけ込んでたのよ」
「いつもの部屋、あいてるか」
「知ってるくせに」おとよ[#「とよ」に傍点]は帳面を閉じて立ちあがった、「ああそうそ、お客が来て待ってますよ」
「客だって」ときき返しながら、源次は警戒するように逃げ腰になった、「どんなやつだ」
「あんたのお弟子で多平とか云ってたわ」
「またか」源次は舌打ちをした、「なんてしつっこい野郎だ」
「おなかがへってるらしいから、酒を出しておいたわ、知ってるんでしょ」とおとよ[#「とよ」に傍点]が云った、「まだ坊やみたような、うぶらしい可愛い子じゃあないの」
「ばかあ云え、もう二十三だぜ」と云って源次はまた舌打ちをした、「しかし、――あいつがここを突き止めたのは、さほどふしぎじゃあないが、あいつの捜してるのがこのおれだって、どうしておめえにわかったんだ」
「女の勘さ」おとよ[#「とよ」に傍点]は微笑した、「名まえも幾つか云ったけれど、こういう人柄だと聞いて、あんただということがすぐにわかったわ、あんた本当はなんていう名まえなの」
「そいつの並べた名めえの中で、おめえのいいのを取っておけよ」
おとよ[#「とよ」に傍点]は源次を部屋へ案内しながら、そんなら八百蔵にきめるがいいかと云った。あいつそんな名を云ったのか。いいえ、あの人の云った中にはなかったわ。じゃあおめえの亭主かいろおとこの名だな。ばかねえ、いま森田座へ出ている市川八百蔵のことよ、横顔がそっくりだわ。くさらせやがる、と源次が云った。
「おめえにゃあうんざりだ」源次は茶を啜りながら云った、「いくらおめえがねばったって、おれの気持は変りゃあしねえぜ」
「こんどはその話じゃあねえんだ」多平は股引《ももひき》をはいた足で窮屈そうにかしこまって坐り、両手でその堅そうな膝《ひざ》がしらを撫《な》でた、「いそいで知らせなくちゃあならねえことがあったんで、冷汗をかきながら捜し廻ってたんだ」
「そしてここで暢気《のんき》に、酒をくらってるってえわけか」
「とんでもねえ、これは違うんだ」多平は強く頭を振った、「おらあすぐにまた捜しに出るつもりだったが、ここのおかみさんが、それよりここで待ってるほうがいいだろうって、きっと帰って来るからって、そして、おれがなにも云わねえのに酒を」
「わかったよ」源次は茶を啜り、上眼《うわめ》づかいに多平の顔をみつめた、「仕事の話でなけりゃあいいんだ、それで、――知らせてえこと、っていうのはなんだ」
「親方を捜してる者がいるんだ」
「そこにこういるじゃねえか」
「おら冗談を云ってるんじゃねえんだ」多平はまじめな口ぶりで云った、「それにこれは冗談じゃあなく、親方を捉《つか》まえて野詰めにするとかなんとか、穏やかでねえことをたくらんでいるらしいんだ、ほんとなんだ」
源次はちょっと考えていた。それから、火のない火鉢に掛けてある鉄瓶《てつびん》を取り、ちょっと指で触《さわ》ってみてから、急須へ湯を注いだ。
「それはいってえなに者だ」急須から茶碗へ茶を注ぎながら、源次はさりげなくきいた、「おめえはどこでそんなことを聞いたんだ」
「根岸の親方のうちです、忠あにい[#「あにい」に傍点]とおれの知らねえ男が話してるのを聞きました、嘘じゃねえほんとのことです」
源次は茶を啜った、「ちょうどいいかげんだ、この茶はこのくらいの湯かげんでねえといけねえ、世間のやつらは無神経でなんにも知らねえから、こんな茶にも舌を焦がすような熱湯を注ぎゃあがる」
「まじめに聞いて下さい、親方は覘《ねら》われてるんですぜ」
「茶をうまく淹れるのも、ふざけた気持でできるもんじゃあねえさ」と源次は云った、「――まあ飲めよ、飲みながらもう少し詳しく話してみろ」
源次のおちついたようすにもかかわらず、覘われる理由を思いだそうとし、思い当ることが幾らでもあることに気ついて、動揺し怯《おび》えているのが、隠しようもなく眼にあらわれていた。多平はそんなことには気がつかず、源次のびくともしないのを見て、たのもしく心づよく思ったようであった。
「詳しくといわれても」多平は手酌で一つ飲んでから云った、「おらあ片づけものをしながら聞いただけで、親方の名めえを繰返すのと、ぜがひでもとっ捉めえて、叩きのめしてやるんだって、どなりたてているのが耳へへえったんです、おっそろしく怒っていきまいてました」
「どんな野郎だった、風態《ふうてい》であきんどか職人かわからなかったか」
「どうだったかな、よく見なかったけれど、とし恰好は親方と同じぐれえでしたよ」と云って多平はちょっと声を低くした、「――あっしが考えるのに、女のことじゃねえかと思うんですがね」
ばかあ云え、源次は眼をそむけた。
「おらあよくは知らねえが、日暮里《にっぽり》の大親方の身内の人はみんな云ってますよ、親方の手にかかると植木もいちころだし、どんな女だってひとたまりもねえって」
「口を飾るこたあねえ、女たらし、って云ってるんだろう」と源次は渋い顔をした、「――だがみんなは本当のことを知っちゃあいねえ、女をたらしちゃあたのしんでる、さぞいい気持だろうが、罰《ばち》当りなやつだ、ぐれえにしか思っちゃあいねえらしい、おめえは鈍で、とうてい植木職としていちにんめえになれる男じゃねえが、そのおめえにもわかるだろう、たとえば柿ノ木にしたって、生《な》り年は一年おきで、次の年は休ませなければ木は弱っちまう、生り年でも実の数をまびかねえで、生り放題に生らせておけば、やっぱり木は弱っちまうもんだ」
「親方の女道楽と柿と、なにか関係があるんですか」
「女道楽だってやがら、へっ」源次はもっと渋い顔をした、「道楽ってもなあたのしいもんだ、生り年の柿、柿にゃあ限らねえ、生り物はみんなそうだが、毎年々々、生りっ放しに生らしてみねえ、木としたって面白くもなくなるだろうし、疲れて弱って、しまいには枯れちまうかもしれねえ」
「柿が生るのは面白ずくですかねえ」
「たとえばの話だ、――おれにも一つ飲ませろ」源次は多平の盃を取り、多平が酌をすると、薬でも飲むように、眉をしかめて飲み干した、「みんなは女たらしだなんて云うがな、女衒《ぜげん》かなんかなら知らねえこと、まともな人間が女にかかずらってばかりいたらどうなる、生りっ放しの柿ノ木が疲れ弱って、やがては枯れちまう以上に、男は疲れて弱って身がもちゃあしねえ、――みんなにはわからねえだろうが、おれが女たらしだとしたところで、これはそう云ったり云われたりするだけで片づくことじゃねえんだ」
「うん」多平は源次の云う意味を理解しようとして、暫く頭をかしげていた、「ちょなんだか聞いていると、だんだんわからなくなるばっかりだが」
「そういうものよ」と源次は手酌で飲んでから云った、「いつだって本当の気持を話そうとすると、それがいちばんむずかしくって厄介だってことがわかる、とてつもなく厄介なことだってな」
「もしも親方を覘ってるやつに捉まったら、そんな云い訳はとおらねえと思いますがね」と多平が云った、「なにしろ親方のは相手の数が多いそうだから」
きいたふうなことを、と云って源次は手を叩いた。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
源次が手を叩くと、待っていたように、中年増《ちゅうどしま》の女中が酒と肴を持って来た。背の高い肉付きのいい躯《からだ》つきで、ちょっと頭が弱く、のっそりとして気のきかない性分だが、辛抱づよく、拗《す》ねたり怠けたりするようなことがないので、客たちみんなに好かれているという。名はおろく[#「ろく」に傍点]、とし[#「とし」に傍点]は二十六歳。彼女のおかげで信濃屋がもっているようなものだと、女主人のおとよ[#「とよ」に傍点]は云っていた。
「いま持って来ようとしてたとこよ」おろく[#「ろく」に傍点]は盆の上の徳利や小皿を、跼《かが》んだまま膳《ぜん》へ移しながら云った、「お客が来はじめたから、お酌は堪忍してね」
「今夜は飲むからって、そう云っといてくれ」源次は出てゆくおろく[#「ろく」に傍点]のうしろへ云った、「手を鳴らしたらあとを頼むぜ」
「親方は飲めるようになったんですか」
「人は他人のことは好きなように云うさ」と源次は唇を片方へ曲げて云った、「四つ足であるくけだものには、二本の足であるく人間が可笑《おか》しいかもしれない、箔屋《はくや》は土方を笑うだろうし、船頭は馬子《まご》を軽蔑《けいべつ》するだろう、――自分の知らない他人のことを、笑ったり軽蔑したり、悪く云ったりすることは楽だからな」
「そのことなら、あっしはもうそら[#「そら」に傍点]で覚えてますよ」と云って多平は手酌で飲んだ、「昔っから親方の口ぐせだったからな、まだこんなちびだったあっしまでつかまえて、繰返し繰返し、むきになってお説教したもんです」
「おめえおれをへこませようってのか」
「とんでもねえ、おらあ親方がむきになるの尤《もっと》もだと思った、なにしろ使いで根岸や日暮里へゆくと、きまって親方の悪口を聞かされましたからね、根岸や日暮里ばかりじゃあねえ、さっきも云ったとおり、身内の人たちで親方を悪く云わねえ者はねえんだから、おらあ子供ごころにも肚《はら》が立って、親方がいきまくのもむりはねえと思ったもんです、ほんとですぜ」
源次はいま初めて見るような眼つきで、多平の顔を見まもった。向うの広いこみ[#「こみ」に傍点]の部屋で、客たちが食事をはじめたらしく、食器の触れあう音や、無遠慮な高い話し声が聞えてきた。多平の肉の厚いまる顔は、陽にやけて黒く、にきびだらけで、ぎらぎらと膏《あぶら》が浮いていた。
「いきまく、だってやがる」源次は鼻を鳴らした、「おめえにはおれの云うことが、いきまくように聞えるのか」
「おらそれも尤もだって云ってるんだ」多平は眼を伏せ、声を低くした、「こんど親方を捜すのに、あっしは田原町のお宅へも寄ったんです、そうしたらおかみさんが」
「よせ、うちのことなんか聞きたくもねえ」
「おかみさんが薄情なことを云うんで」と多平は構わずに云った、「おらあ親方が気の毒になっちまった、世間の者はどうでも、子まで生した夫婦の仲なら、ちっとは親方の性分ぐれえわかってくれてもいいじゃねえかと思って、おらあ涙がこぼれそうになった」
源次はまた多平の顔を見まもり、まずそうに酒を舐《な》めて、おめえ女と寝たことがあるかときいた。多平はなにを云われたかげせないように、眼をそばめて源次を見返したが、すぐてれたようにそら笑いをした。
「おら、女は嫌えだ」彼はてれ隠しのように酒を呷《あお》った、「おらだけのことかもしれねえが、夫婦になると女はいばりだして、亭主を顎《あご》で使うように変っちまう、そんなのをいやっていうほど見せつけられたもんだ、叱りゃ拗ねるしぶちゃ噛みつくしって、端唄《はうた》の文句そっくりなんだ、――おら十二の年に親方の弟子にしてもらってまる八年、三年めえまでお世話になったから、おかみさんのことはてめえのおふくろよりよく知ってるが、初めのうちはこんなにきれえで気のやさしい人はねえと思った、それがいつのまにかだんだん変って、わけもなくふくれたり、つんけん人に当ったりするようになった」
親方がなにもかもいやになって、江戸で何人と数えられるほどの植木職を、惜しげもなく放《ほう》りだしちまった気持はよくわかる、自分には親方の気持がよくわかるんだ、と多平はりきんで云った。
「おれが植木職を放りだしたわけは、そんなこっちゃねえ、おめえも箔屋の眼で土方を笑うくちだ、いいか、女と寝たこともねえし女も嫌いだというおめえに、夫婦のことがわかるわけはねえ、こんなことは口にするだけばかばかしい、こんなわかりきったことを云うのは初めてだ、おめえが悪いんだぞ」
「おらあ親方のことが心配でしようがねえんだ」
源次は手を叩いた。そして急に上半身をぴくっとさせ、どこかに激しい痛みでも感じたように、顔をしかめながら短く唸《うな》った。
「どうかしたんですか」
「おれのいちばんぞっとするのは、おめえがいま云ったような言葉だ」と源次は自分のいやな回想をふり払うように、首を振りながら云った、「――あんたのためなら死んでもいい、女はどいつもこいつもそう云うさ、――おらあおめえの友達だ、おめえのことは忘れねえ、おめえのためならどんなことでもするぜ、って調子のいいときに云うのが男の癖だ、油っ紙に火がついたように、そのときは熱くなって燃えるし、その熱さはこっちにも感じられる、けれども燃える火は消えるもんだ、ええくだらねえ。またわかりきったことを云っちまった」
「親方は酔っちまったんだ」
障子があいておとよ[#「とよ」に傍点]がはいって来た。盆の上に燗徳利が二本、おとよ[#「とよ」に傍点]はそれを膳の上へ移し、あいている徳利を盆のほうへ取った。
「珍らしいわね」とおとよ[#「とよ」に傍点]は源次に云った、「あんたがお酒を飲むなんて初めてじゃないかしら、どうかなすったの」
「おれじゃあねえこの男だ」源次は多平を見て云った、「たあ[#「たあ」に傍点]助、これを飲んだら帰れ、根岸で心配してるだろう、おれは大丈夫だ、おれのことなんかに構わず、おめえは自分のことを考えなくっちゃあいけねえ、いってえたあ[#「たあ」に傍点]助は幾つになったんだ」
「二十三です」多平は呟くような声で答えた。
「おれはその年にはもう独り立ちになってたぜ」
「あっしは親方の側《そば》にいてえんだ、親方もあっしのことを、いちにんまえの植木職にはなれねえと云ったが、根岸ではそれ以上で、あっしはてんからのけ者なんです」
「職を変えるんだな、どうして植木職になりてえかは知らねえが、自分をよく考えてみるんだ、人間にはそれぞれ性に合った職がある、性に合わねえ事をいくらやったってものになりゃあしねえ、ちえっ」源次は舌打ちをした、「またこんなわかりきったことを云わせやがる、おれは説教されるほうで、人に説教するがら[#「がら」に傍点]じゃあねえんだ」
「そんなに云うもんじゃないわ」おとよ[#「とよ」に傍点]は多平に酌をしてやりながら云った、「せっかくあんたを捜し当てて来たんじゃないの、なんのことかあたしはよく知らないけれど、相談にのってあげてもいいじゃないの」
「客が混んできたようじゃないか」と源次が顎をしゃくった、「しょうばいは大事だ、ここにいることはねえんだぞ」
「おおこわい」おとよ[#「とよ」に傍点]は肩をすくめた、「そんなふうに云うときのあんたを見ると、ぞっとするほどこわくなるわ」
「気に入らなければ河岸を変えてもいいんだぜ」
「ゆくわよ、気の短いひとね、そこがあんたのあんたらしいところには違いないけれど」と云っておとよ[#「とよ」に傍点]は立ちあがり、嬌《なまめ》かしく微笑しながら、多平の肩へちょっと触った、「だいじょぶよ、このひと本当は気がやさしいんだから、ゆっくり飲んでらっしゃい」
酒がなくなったら手を鳴らして下さい、またあとで来ますと云って、おとよ[#「とよ」に傍点]は源次をながしめに見ながら出ていった。
「いいおかみさんですね」と多平が低い声で云った、「それにきりょうよしだし、こんな旅籠にいるのはもったいないようだ」
「おめえ女嫌いだったんじゃねえのか」
「それとこれとは違いますよ」多平はてれたように手酌で飲んでから、そっと云った、「――あの人、親方に首ったけですぜ」
「おめえは植木職にはなれねえよ」
「木の見分けはつかなくったって、人間のそぶりや眼つきはわかりますよ」
「飲めよ」源次は片手を振った、「早く飲んで帰るんだ、根岸でどやされるぞ」
「根岸へは帰りません、親方を捜すのに、黙って三日も帰らなかった、あっしはもう親方の側をはなれませんからね、殺されたってはなれやしねえんだから」
「乞食《こじき》ができるか」源次はにやっとした、「おれは自分のひとり口も賄えやしねえ、あっちでめし[#「めし」に傍点]をたかり、こっちで銭をねだり、宿までただで泊りあるく、人の情けでその日その日をまじくなっているんだ、二人連れでできるこっちゃねえぜ」
「あっしが稼《かせ》ぐよ」多平は酔いで赤くなった顔をひき緊めて云った、「おら躯も丈夫だし力だって人には負けやしねえ、たとえ荷揚げ人足をしたって、親方ひとりぐれえ不自由はさせやしねえよ、ほんとのことだ、おら本気で云ってるんだぜ」
「肚は読めてる、おめえの肚はみとおしだ」と云って源次は舐めるように酒を啜った、「泣きおとしでおれをまるめてから、植木仕事へひきずり込もうっていうこんたんだろう」
「おらあ飲む」と多平が云った、「いまおかみさんにいいって云われたんだ、今夜はつぶれるまで飲んでやる」
「酒代はめし[#「めし」に傍点]炊きでもして払うんだな、おらあ知らねえぞ」
「めし[#「めし」に傍点]炊きぐれえ屁《へ》でもねえさ、こっちは土方だってするつもりなんだから」
「可哀そうに、なんにも知っちゃあいねえんだな」と源次が云った、「土方や荷揚げ人足でどのくれえ稼げるか、きいてみて吃驚《びっくり》しねえほうがいいぞ」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
おれは三十七だ。七だったな慥《たし》か、それとも八になったかな。わからねえ、どっちでもいい、おれには三十七だなんて気持はこれっぽちもねえ。二十三で日暮里の大親方から独り立ちになって、おつね[#「つね」に傍点]と田原町で世帯を持った。おれの考えることやすることは、あのころとちっとも変っちゃあいねえ、変ったのはおれのまわりのものだ。世の中も人間も、町や世間も、人の気持までもどしどし変ってゆく。
「あいつはどうした」と源次が云った、「今夜は帰っていったか」
女は荒い息をしながら、「いまそんなこと、きかないでよ」と跡切《とぎ》れ跡切れに云った、「もっと身を入れてくれてもいいでしょ」
たあ[#「たあ」に傍点]助のやつはちっとも変らない、多平はおれのところへ弟子入りをしたときのまんまだ。あいつは鈍で、勘が悪くてのろまだ。ちっとも裏肚《うらはら》なく、おれを頼りにしきっている。けれどもほかにとりえはなにもない、二十三になったいまでも、弟子入りをしたときそのまま、鈍で勘が悪くてのろまだ。そいつが気持だけは十年の余も経ったいま、ちっとも変っていない、というのはどう考えたらいいんだろう。
「たあ[#「たあ」に傍点]助のやつは帰ったのか帰らねえのか」と源次がきいた、「今夜は追い帰せと云った筈だぞ」
「こんなときに」と女は舌のよくまわらない口ぶりで云った、「こんなときに、へんなこと云わないで、気が散っちまうじゃないの、もっとしんみになってよ」
「それみろ、あんまり乱暴にするからだ」
「ああじれったい」女は身もだえをした、「まるっきりうわのそらなんだもの、ちっとは本気になれないの」
「ろく[#「ろく」に傍点]べえに聞えるぜ」
「さあ」女には彼の云うことは聞えなかったらしい、「さあ」と繰返した。
多平のやつは田原町へいったという。おつね[#「つね」に傍点]も三十五になったんだろう、二つ違いの筈だからな。みつ[#「みつ」に傍点]公は十四、秀次《ひでじ》は十三か。女の荒い息がひそめたふるえる呻きになり、波をうつように高まって、くいしばる歯ぎしりの音が聞えた。娘も伜《せがれ》も、おれのことを親と思っているだろうか。おつね[#「つね」に傍点]はぐちを云うような女じゃあねえ、おれの悪口も、恨みがましいことも口にゃあしねえだろう。あのとき以来ぷっつりとなにも云わなくなった。だが子供たちにはわかったにちげえねえ、おれが親らしくねえ親だという以上に、両親の仲がどうなってしまったかは、この三年ですっかりわかったことだろうし、悪いのはおやじだと、いちずに思いこんだにちげえねえ。女の動作がしだいにゆるやかになり、だがときをおいて、微風のわたるような痙攣《けいれん》が、しだいに間隔をひろげながら、昂《たか》まったり鎮まったりした。かね徳の隠居も相模屋《さがみや》のでこ[#「でこ」に傍点]助も、藤吉《ふじよし》のじじいもみんなけちん坊の出来そくないだ。まともなのは岩紀の隠居と、法念寺の方丈《ほうじょう》さんぐれえのもんだろう。そうだ、岩紀の隠居には無沙汰をしている、ひとつ竜閑《りゅうかん》町へいってみよう、もう二年の余も顔出しをしちゃあいねえからな。
「あの人はここへ泊めたわ」女は源次の横へより添って躯をのばし、深い満足の溜息《ためいき》をつきながら云った、「だって、ゆくところがないし、あんたのことが心配で、側からはなれることはできない、っていうんですもの」
「もう三日めだろう、おれは勘定のことは知らねえぞ」
「わかってるくせに」女は巧みにあと始末をしてから、彼の肩へ手をまわした、「あの人、あんたのお弟子だったんですってね」
「三年まえまではな」
「あんたのこと褒めてたわ、江戸で五本の指に数えられるほどの、えらい親方だって」
「いまは乞食同様、ごらんのとおりの態《てい》たらくさ」
「あたしには身の上話をさせるくせに、自分のことはなにひとつうちあけてはくれない、そんな薄情なことってないわよ」
「女房と二人の子持ち、初めにちゃんと断わったぜ」
「そんなことじゃないの、あたしの知りたいのは、それほどの腕を持っているのに、どうして植木職をやめたのか、いまどんなことをしているか、これから先どうするつもりかっていうことよ」
「熱い腕だな」と源次が夜具の中で身動きをした、「この腕をどけてくれ、熱くってしようがねえ」
「あたしには話せないのね、そういう話をするひとはほかにあるんでしょ」
「おれは絡まれるのは大嫌いだ」
「多平さんに聞いたわ」女は寝衣《ねまき》の袖で顔を拭いた、「広いかこい[#「かこい」に傍点]を持った或る植木職の親方が、ぜひあんたに跡を譲りたいって、いまでもあんたのこと捜してるっていうじゃないの、どうしてそこへおちつく気にならないの」
「そろそろいやけがさしてきたんだな」
「いやけがさしたって、――あらいやだ、ばかねえ」女は源次にしがみついた、「あたしのことはよく知ってるでしょ、あんたのことはべつにして、あたしは男には懲り懲りしてるし、あんたが来てくれさえすればそれで本望、あんたのほうで飽きればしようがないけれど、あたしはもう一生、あんたのほかに男なんかまっぴらだわ、――それをいやけがさすだなんて、ばんたん承知のうえで意地わるを云うのね、にくらしい」
「痛え」源次は女の手を押し放した、「きざなまねをするな」
「ねえ、その親方の跡を譲り受けておちつきなさいよ、それだけの腕を遊ばせておくなんてもったいないじゃないの、おかみさんや子供さんたちも呼んで、おちついて仕事をする汐《しお》どきだわ、あたしのほうは気の向いたときに来てくれればいいの、このうちもあたしも、あんたのものだと思ってくれていいのよ」
「おめえにゃあわからねえ」源次は短い太息《といき》をついた、「誰にもおれの気持なんかわかりゃしねえ、おれの一生は終ったも同然なんだ、――えひもせす、おれはあとのねえ仮名みてえなもんだ、ねるぜ」
女はそっと身をすり寄せた。
「きれえな人だな」と多平があるきながら云った、「あんな旅籠屋にはもってえねえきりょうよしだ、若くって色っぽくって、おまけに親切でやさしくって、――親方の女運のいいのにゃあたまげるばかりだ」
「あれが若いだって」と源次は鼻を鳴らした、「もう二十八だぜ」
多平は聞きながして片手を出した、「小遣いにって、これを預かって来ましたよ」
「よけえなことを」源次は見もしなかった、「おれはいらねえ、おめえが取っとけ、いいから取っとけよ」
「そうはいかねえさ、あっしは知ってるんだ」多平は人の好《よ》い笑い顔で云った、「ゆうべ夜なかに、おかみさんは親方の部屋へ忍んでいったでしょう」
「ねぼけるな」と源次は眼をそらした、「夢でもみたんだろう」
「明けがたに親方の部屋から、そっと出て来るところも見ましたよ」
「ばかなことを云うな、おめえはねぼけたんだ。――それにまた、どっちにしろおれが小遣いを貰ういわれなんかありゃあしねえ、取っとけと云ったら取っておけ、その代りここでおめえとは別れるからな」
「別れるって、どうするんです」
「おれにゃあおれの用があるんだ」
「けれども、親方をつけ覘ってる者がいるってこと、忘れたんじゃねえでしょうね、あっしはついてゆきます、殴られたって親方を独りにするこたあできねえんだから」
「ここで別れるんだ」源次は立停って、多平を睨《にら》みつけた、「誰がなんのためにつけ覘ってるか知らねえが、それはおれのことで、おめえにはなんのかかわりもありゃあしねえ、ついて来ると承知しねえぞ」
するどい眼つきと、容赦のない口ぶりに圧倒されたのだろう、多平は黙って、哀願するように源次の顔を見まもった。
源次はよせつけない表情でその眼を睨み返し、それから向き直って。あたらし橋のほうへ曲った。
「夜なかに忍んでいった、明けがたに出て来るのを見た、ってやがる」いそぎ足になりながら、源次は睡を吐いて呟いた、「――いつでもこうだ、忍んではいり、そっと出てゆくのは見ただろうと、だが、部屋の中のことはわからねえ、女が好き勝手にしているだけで、おれは手も出さなかったなんてことは、誰も信用しようとはしねえんだ、それが人間ってえもんだろう、生れたときからいっしょに育っても、お互いに心の中まではわからねえ、おとなになるにつれて、万人が万人それぞれの性分が固まってしまうからな」
またくだらねえわかりきったことを考える。そんなことにいま初めて気がついたわけじゃあないだろう。誰にだってわかりきってることだ、悲しいけれどもそれが人間なんだ、と源次は思った。
「そうわかっていても、みんなは悲しかあねえんだろうか」彼は柳原の土堤《どて》に沿って上《かみ》のほうへゆきながら呟いた、「――お互いにちぐはぐな、まるっきり違ったことを考えながら、あいそよく笑ったり、世辞を並べながら駆引をしたりしている、それでも生きていかれるんだ、だがどうしてだろう、そんなようで生きていて平気なんだろうか」
おめえは十六、七の若ぞうのようなことを云う、と根岸のあにいに云われたことがあった。いまは十六七の若ぞうだって、そんな青っぽいことは云やあしねえぞって、――あにいはいい人だ、ずいぶん迷惑をかけたが、いつもよく面倒をみてくれた。じつにいい人だが、やっぱりわかっちゃあくれなかった。柳原河岸を左へ曲り、少しいって右へ曲り、また左へ曲った。武家の小屋敷のあいだに、酒屋や荒物、筆紙屋などがとびとびにあった。神田竜閑町へはいり、源次はまっすぐに「岩紀」という家へいった。それはかなり大きな構えで、黒板塀《くろいたべい》をまわし、こんな町なかには珍らしく、裏門が笠付きの柴折戸《しおりど》になっていた。――ここは別宅で、本宅は京橋にあり、刀脇差のしにせとして古くから知られている。
当主は岩月|卯兵衛《うへえ》といって、組合の頭取を十年も勤め、大名諸家へ多く出入りしていた。この別宅には隠居の紀平がいるが、とくい先の諸侯の用人とか重職などを、ときどき招待する必要があり、そういう場合にはこの別宅を使うため、建物や庭には費用を惜しまず、凝った山家《やまが》の侘《わ》びたふぜいをあらわしていた。
横の潜《くぐ》りからはいった源次が、家の裏へまわってゆくと、薪を割っている下男の庄助に出会った。庄助は五十がらみで、骨太の逞《たくま》しい躯をしてい、源次が植木を移すときには、よく彼の力を借りたものであった。
「植源《うえげん》さんじゃなめか」庄助は手斧《ちょうな》を持ったまま腰をのばした、「ながいこと姿を見なかったが、どうしなすった」
「お庭をね」源次はきまりわるそうに云った、「お庭の木を見てえと思って伺ったんだが、もしかしてお客でもあるんなら、出直してきますよ」
「今日はお客はなしだ、ちょうど御隠居さんもいらっしゃるし、親方が来たと云えばおよろこびなさるだろう、いつもおまえさんの噂《うわさ》をしていらっしゃるからな」
「あっしの来たことはないしょにして下さい、勝手に職をやめちまってから三年、ずっと無沙汰のしどおしなんで、御隠居には合わせる顔もねえ、ちょっと見せてもらうだけでいいんだから」
「合わせる顔がないとは古風だな」と庄助は微笑した、「そんならまあ、好きなようにするさ」
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
源次は芝生《しばふ》に腰をおろし、両膝を手で抱えて、杉ノ木を眺めていた。惚《ほ》れぼれとした眼つきで、――それは七年まえに、彼が隠居の紀平に頼まれ、相州鎌倉から自分でひいたものであった。隠居は育ってからの木のなりや、枝ぶりを注文し、彼は請け負った。そのため木を捜すのに十日もかかり、鎌倉の山の中で五本みつけたが、その中から一本を選ぶのに三日も迷った。――そんなことは、それまで殆んどないことであった。たとえ心をひかれる五本の木をみつけても、その中から一本を選ぶのに迷ったことはないし、選びかたを誤ったこともなかった。しかし、丈が四尺ばかりのその杉の苗木は、枯れた栗林の中でみずみずしく、成長するいのちをうたいあげているようにみえた。冬の日光にあたためられた栗林は、どの葉も白っぽい茶色に枯れちぢれていたから、若い杉の濃い緑がいっそうひきたち、まわりの枯れたけしきとみごとに調和して、五本のうちのどの一本も、そこから動かすことはできないように感じられた。
「あのころまでだな」と源次はそっと呟いた、「あのころはまだよかった、まだ仕事が面白かったし、張りもあった、知らなかったからな」
いまその杉は一丈ちかい若木になっている。下枝から秀《ほ》まで、植えたときの枝が一本も欠けず、いかにものびのびと育っていた。葉付きもたっぷりしているし、木のいのちの脈搏《みゃくはく》が聞えるようであった。
「珍らしいな」とうしろで呼びかける声がした、「源次《げんじ》じゃないか」
源次はちょっと躯を堅くしたが、振り向きもせず、挨拶もしなかった。どうです御隠居さん、と彼は杉ノ木のほうへ手を振った。
「御注文どおりに育ったでしょう」と源次は云った、「見て下さい、あっしの思っていた以上によく育った、うっとりするじゃありませんか」
自慢そうな言葉とは反対に、声の調子にあるそらぞらしさは隠しようがなかった。紀平は不審そうに源次の横顔を見たが、聞き咎《とが》めたようすはみせなかった。
「どんなにいやなことがあっても」と紀平は云った、「ここへ来てこの杉を見ていると、心の隅ずみまでさっぱりと、洗われたような気分になる、私はときどき、自分が杉ノ木の生れ変りじゃあないかと思うよ、ばかな話のようだが本当のことだ」
「杉にもひでえのがありますぜ」
「そこがむずかしいところさ」と云って紀平はあるきだした、「おまえに見せたいものがある、こっちへ来てごらん」
源次は気のすすまないようすで立ちあがり、紀平のあとからついていった。杉ノ木から左へゆくと、岩組みの庭に続いていた。大小さまざまな岩を組みあげて、その上に楓が二十本ほど枝をひろげている。岩には苔《こけ》が付いて、その隙間にはまたいろいろな種類の歯朶《しだ》が、それぞれの形と色をきそうようにその葉を垂れていた。ぜんたいは人工のものと思えず、ながい年月風雨を凌いできた自然の一部を、そのまま移したような、おもおもしくしんとした気分をひそめていた。
「あれを見てごらん」紀平は指さした、「おまえの植えた実生《みしょう》の杉や松や、やまはぜ[#「やまはぜ」に傍点]や樺《かば》などが、あのとおりちゃんと育っているよ」
源次はそっちを見ようとはしなかった。かたくなに口をつぐみ、麻裏草履の爪先で、地面になにか書いていた。紀平はそれを横眼で見てから、向うでちょっと休もう、おいでと云って、母屋《おもや》のほうへあるきだした。源次はどうしようかと迷うようすで、しかしぐずぐずと、思い切りの悪い足どりでついていった。紀平は広縁へあゆみ寄ると、肩や袖を手ではたきながら、高い声で人を呼んだ。まだあの癖が直らねえな、と源次は思った。こっちは仕事をするからごみだらけになるが、隠居の着物には塵《ちり》ひとつかかりゃしねえ、悪い癖だ、と源次は眉をしかめた。
「さあ、ここへお掛け」紀平は沓脱《くつぬ》ぎにあがり、広縁へ腰を掛けながら、源次に自分の脇を叩いてみせた、「久しぶりだ、一と口つきあっておくれ」
「あっしはだめなんです」源次は腰を掛けて頭を振った、「だらしがねえって、よく御隠居に笑われましたが、こればっかりは生れつきでしょうがねえ」
「そうだっけな、根岸の親方とまちがえたよ」
源次は振り向いた、「根岸が来たんですか」
「ときどきな」と云って、紀平は奥のほうへ声をかけた、「おちよ[#「ちよ」に傍点]――酒はいいからお茶をたのむよ」
奥で返辞が聞え、この隠居も変ったな、と源次は思った。長屋住いならともかく、岩紀の隠居ともある人が、襖越《ふすまご》しに用を命じるなどということはない。少なくともまえにはそんなことはなかった、と源次は思った。紀平はまた紀平で、源次が岩組みの庭から眼をそらし続けているのを認め、やっぱりあれが事の原因かなと思っていた。
「田原町のうちへ幾たびも使いをやったんだよ」と紀平は云った、「――おまえさんは二た月に一度ぐらいしきゃ帰らないそうじゃないか、おかみさんと二人の子供が、賃仕事をしてくらしてるっていうが、いったいどうしたということだ、おかみさんや子供たちを可哀そうだとは思わないのかね」
「可哀そうなのは、うちのかかあやがきだけじゃねえ、どこの横丁、どこのろじ[#「ろじ」に傍点]にもうんざりするほど可哀そうなくらしはありますぜ」と源次は答えた、「あっしのうちだけに限っても、かかあやがきどもより、もっと悲しい哀れなやつが」彼は突然そこで言葉を切り、頭のうしろへ手をやった、「――こりゃあどうも、口がすべりゃあがった」
「云いたいことがあったら、聞こうじゃないか」と紀平が穏やかに云った、「日暮里の植甚の身内で、おまえさんの右に立つ者はなかった、いやお世辞でもからかいでもない、というまでもない、おまえさん自身が知っていることだろう」
「あっしはもうこれで」と云って、源次が立とうとしたとき、五十恰好の老女が、小女《こおんな》とともに茶菓を持って出て来、まあ喉《のど》をしめしておいでと、紀平が源次になだめるような口ぶりで云った。老女――おちよ[#「ちよ」に傍点]というのであろう、上品な顔だちの老女は、二人のために茶を淹れ、菓子鉢をすすめたのち、ほかに用事がないかどうかをきいて、小女とともに去っていった。
「さあ、飲んでごらん、四五日まえに宇治から届いた新茶だ」と云って紀平はひょっと顔をあげた、「そうそう、それで思いだしたが、ここで茶ノ木が育づだろうか、じつは麻布《あざぶ》のさるお屋敷で、みごとな茶畑を拝見したんだがな」
「新茶をいただくなんて、生れて初めてのことでね」源次は茶を啜ってから云った、「おごそかなもんなんだろうが、あっしなんかにゃ渋茶のほうが口に合います」
「話をそらすじゃないか、茶ノ木をやってみてくれないかね」
「根岸が伺ったとすると御存じでしょうが」
「ああ知っているよ」と紀平は源次の言葉を遜《さえぎ》った、「だがなぜだい、ここで善五とやりあったのがもとかえ」
「あいつはくわせ者です」
「おまえは箱根まで跟《つ》けていったそうだな、私はその場にいなかったから聞かなかったが、どうして箱根くんだりまで跟けていったんだね」
源次は茶を啜り、持った茶碗の中をみつめながら、いま考えると子供っぽくてきざで、思いだすだけでも、冷汗の出るような気持だが、あのときはしんけんだったと、詫《わ》びごとでも云うような口ぶりで語った。相変らず岩組みの庭のほうへは、頑として眼を向けようとしない。陽にやけてあさぐろく、ひき緊った源次の顔の、両のこめかみに癇癪筋《かんしゃくすじ》がうきだすのを、紀平は眼ざとくみつけながら、黙って聞いていた。――五年まえ、そこは野庭造りだったのを、紀平が岩組み山水にすると云いだし、庭師の善五郎にその仕事を命じた。そのころ善五郎は五十六か七で、遠州古流とかいう造庭家として評判の高い男だった。源次はその評判を信じなかった。出入り先で善五の噂を聞き、彼の造った庭をいろいろ見たが、その人間の手にかかったという、筋の感じられるものはなかった。遠州古流がどんなものか知らないが、そういう名がある以上、そこには他の流儀とは違う型とか法があるだろう。少なくとも手がけた善五の呼吸が、生きているはずである。手職の仕事にはその人の癖とか特徴が出るものだ。仕立屋のようなこまかい仕事でさえ、その人間の縫いあげた衣類は、往来で見かけてもわかるという。善五の仕事にはそれがなかった。注文ぬしの気にはいるらしいし、地坪に合わせて纒《まと》める巧みさはめだつけれども、それらを支える動かない「筋」というものがないのである。――ここの野庭を岩組みにすると聞いたとき、源次は善五がどんなことをやるかと、ひそかにその動静を見張っていた。それで、善五が独りで箱根へでかけていったときも、そのあとを跟けていったのだ。善五郎は芦《あし》ノ湖《こ》で舟を雇い、左岸をめぐりながら図取りをした。源次も舟であとを追い、釣りをするようによそおって、善五が図取りをするのを仔細《しさい》に見た。
「そして造ったのがあの庭です」と源次は云った、「断わっておくが、これは悪口じゃあありませんぜ」
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
「聞いてみると、芦ノ湖の左岸へはよく、庭師たちが図取りにゆくそうです」と源次は続けた、「そこには慥かに、自然に出来たとは思えないような、みごとな景色がつらなっていました、どの一角を取っても惚れぼれするような庭になる、あっしは唸ったもんだ、ここにこういう手本のあることを、知っているだけでもてえしたもんだ、こいつは本当にいい庭を造るかもしれねえぞ、ってね」
けれども、善五の造ったのは、図取りをした岸の一角をそのまま移したようなものであった。図取り絵取りをするのはいい、だが庭師なら自分のくふうがある筈である。絵取った下図をそのまま移すというのでは、本職の庭師とはいえないだろう。ちょっときような者なら、しろうとにだってできる仕事だ。
「おまけに、善五はもう一つしくじった」と源次は云った、「ちょうど十月のことで、そのあたりは楓がきれいに紅葉していました、はぜ[#「はぜ」に傍点]やうるし[#「うるし」に傍点]やぬるで[#「ぬるで」に傍点]なども、紅と黄色をきそいあっているようだったし、その下には実生《みしょう》の杉や松や、もう葉の散った二番|生《ば》えの雑木などがあった、善五はそれを見おとしたんです、岩組みと楓だけはこくめいに写したが、そのほかの木は眼にはいらなかった」
それで岩組みの上に楓だけ植えさせたのだが、楓だけとすると芽ぶきから紅葉、そして散るのまでがいっしょである。そんな片輪な庭があるものではない、絵取った岩組みをそのまま写すなら、植える木にもそれだけの調和がなければならない。それで自分は苗木の杉や松、ぬるで[#「ぬるで」に傍点]やはぜ[#「はぜ」に傍点]、うるし[#「うるし」に傍点]その他の灌木《かんぼく》も植え込んだのであった。
「するとそれをみつけて、善五のじじいが怒りゃあがった」と源次は云った、「これはおれの方式に外《はず》れている、遠州古流はきびしい流儀で、方式に外れたことはゆるせない、なんてね、――くそじじい、あっしはよっぽど芦ノ湖の一件をばらしてやろうと思った、腹が煮えくり返るようだったが、相手が年寄りのことだし、植木職が庭師をやりこめても自慢にゃあならねえ、あっしゃあ歯をくいしばって退散しましたよ」
「だが私は善五に手をつけさせなかった、見てごらん」と紀平は顎《あご》をしゃくった、「おまえの植えた木は一本残らず、そのままあのとおり育っているよ」
へえと云ったが、源次はやはりそっちを見ようとはしなかった。
「それはそれでいいんです」と源次は俯向《うつむ》いて云った、「植木職が庭師に盾をつくのは筋違いだ、いやならそっぽを向いてりゃあいいんだから、そうでしょう御隠居、――あっしが職をやめたのはそんなこっちゃあねえへまるっきりべつな話なんだ」
「私はこのとし[#「とし」に傍点]になって悪い癖がついてね、朝酒を飲まないと躯《からだ》の調子がよくないんだ」と紀平が云った、「一と口やりながら聞きたいんだが、いいかい」
「ここは御隠居のお屋敷だ、どうぞと云うまでもねえだろうが、すっかりながいをしちゃって済みません、あっしはこのへんでおいとまにしますから」
まあお待ちと、紀平は止めにかかったが、源次は立ちあがって辞儀をし、逃げるように裏のほうへまわっていった。下男の庄助はもういなかったし、潜りを出るまで呼び止められることもなかった。
「あの隠居はへんに気がまわるからな」源次はいそぎ足に道を曲っていった、「心付でも包まれたら引込みがつかねえや」
彼は神田川の河岸へ戻り、柳原堤に沿って大川のほうへあるいていった。
あたたかくやわらかな躯の律動を、夢うつつのうちに感じながら、おとよ[#「とよ」に傍点]かなと、おぼろげに源次は思った。まさか、そんなことはないだろう、信濃屋は当分よりつくまいときめたんだから。しかしおれは酔ってるようだな、酒を飲む筈はないんだが、どこで飲んだんだろう。喉でけんめいに抑えたすすり泣きのような声が聞え、短い間隔をおいて痙攣《けいれん》が、繰返し彼を包んだ。これは夢だな、夢の中で昔の女をみているんだ。それにしても誰だろう、この肌の匂いには覚えがある。ほかにはない匂いだ、口もあまりきかず、いつも伏眼になっていて、そのくせこっちの気持をよくみぬいていたっけ。おれが今日のやつ[#「やつ」に傍点]にあれが喰べたいと思うと、ちゃんとそれが出たもんだ。
「ここはどこだ」と源次はよく舌のまわらない口ぶりできいた、「おめえ誰だっけ」
強くはないがはっきりした収縮と弛緩《しかん》とが交互に起こり、彼は緊めつけられて、なかば眼がさめた。あたりはまっ暗で、隙間をもれる仄明《ほのあか》りもなく、乾ききらない壁の湿っぽい匂いがした。相手の躯が柔軟に重くなり、彼を緊めつけていた力が、ゆっくりと、しだいになにかが解けるように、渡動を伝えながら静まっていった。
「麹《こうじ》町のお屋敷だな」と源次がだるそうに云った、「市橋さまの中間《ちゅうげん》部屋だろう、――とすると、おめえは誰だ」
相手は答えず、そっと彼に頬ずりをし、やすらぎの太息をつきながら躯をはなした。
麹町ではすぐに帰った。竜閑町の「岩紀」と同様すぐに帰った。市橋さまの屋敷では酒を出されたっけ、だが飲まなかったし、中間部屋でめしを食べただけだ。待てよ、芝の悲願寺では一日がかりで木の手入れをし、晩めし[#「めし」に傍点]を食って出た筈だ。そうじゃねえ、悲願寺じゃ寺男の小屋で寝たんだ。そうだ増造のじじいが酔っぱらって、いつまでもへたくそな唄をうたってた。すると、ここはやっぱり信濃屋だろうか。いや、そうじゃねえ、信濃屋ならこんなに壁が匂うわけはねえ。源次はまた、うとうと眠りにひきこまれるのを感じた。
「帰るわね」と囁く声がした、「風邪をひかないように、――おやすみなさい」
源次は欠伸《あくび》をして寝返った。
「起きろよ、源《げん》さん」と咳《せき》をしながら呼ぶ声がした、「もうおてんとさまが屋根の上だ、めし[#「めし」に傍点]が出来てるよ」
「だめだ、くたくただ」と云って源次は掛け夜具を顔の上まで引きあげた、「おらあ二日分も仕事をしたんだ、もう少し寝かしといてくれ」
「御隠居さまが待っていなさるんだ、おめえに話があるってな、さあさあ、起きて朝めし[#「めし」に傍点]を喰べちまっておくれ、まだ仕事が残ってるんじゃないのかい」
「今日はいちんちじゅう仕事をしたぜ」
「それは昨日だよ」と咳をしながら云うのが聞えた、「今日は橋立《はしだて》の手入れをするって、云っていた筈だがね」
橋立と聞いて、源次は眼をさまし、本能的に、女はどうしたかと左右を見た。乾ききらない壁の匂いが、六帖一と間の小屋の中に強く匂い、それが形容しようのない虚脱感と、たよりないような、うらがなしいような想いとで彼をくるんだ。あけてある戸口から、日光が眩《まぶ》しいほどさしこんでいて、かなり広い土間は暗く、小柄な老人がこっちへ背を向けたまま、しきりに水の音をさせていた。
――向島だな、と源次は思った。伊豆清《いずせい》の向島の寮だ、そうだとすると女は、女は、――名は思いだせねえな、なんだかへんな名だったが、どうしてあの女だとわからなかったんだろう。
あの年寄りは庭番の角《かく》さんだ。ここは角さんの小屋で、角さんは独りで寝起きをしている。ではゆうべはどうしたんだろう、ここで寝ていたのか、それともここはおれたち二人だけにして、自分はどこかよそで寝たのだろうか。そうだ、酒をしいたのは角さんだ。おれはなにか癪《しゃく》に障って、やけなようになっていて、それで飲んだんだ。しかしなにが癪に障ったんだろう。へっ、なにょう云やあがる、この世に癪でねえことがあるか、男も女も、世間じゅうが寄ってたかって、おれを小突いたり振り廻したり、眉間《みけん》を殴りつけたりして、いい笑いものにしやあがる。ざまあみやがれだ、と彼は思った。
「本当にもう起きなくっちゃだめだよ」と土間から角さんが云った、「御隠居さまが待ってるんだから、世話をやかせちゃ困るよ」
ああと云って、源次は起きあがった。
「まあいい、仕事はまたのことにしてもいいんだ、まあお飲み」と清左衛門が云った、「どうにも腑《ふ》におちないんでな、今日は正直なことを聞きたいんだ」
清左衛門は濡縁に座蒲団を敷いて坐り、手酌でゆっくりと酒を啜っていた。とし[#「とし」に傍点]は七十二か三であろう、痩《や》せた小柄な躯つきだが、焦茶色の膚はつやつやとしているし、みごとに白くなった髪の毛と、一寸もありそうな厚い長命眉とが、焦茶色の膚をひきたてているようにみえた。日本橋の通一丁目にある「伊豆清」の店は、諸国の銘茶を扱うので府内に名高く、この清左衛門が一代で仕上げたものだという。二十年まえに隠居をし、向島の寮へひきこもったが、いまでも五日に一度は店へゆくし、大事なとくい廻りも欠かさなかった。妻女には早く死なれたが、身持ちは堅く、女あそびはしないし浮いた噂もなく、自分でも「しょうばいと酒だけがたのしみだ」と云っていた。この寮には庭番の角造のほか、めし[#「めし」に傍点]炊きのばあさんと、女中二人を使っている。その二人はどちらも温和《おとな》しく、きりょうよしで、一人は来てから十年、他の一人も七年くらいになるだろう。角造の話によると、二人とも幾たびとなく縁談があったのに、寮を出るのがいやだと、断わり続けているそうであった。――源次は日暮里の植甚にいるじぶんから、ずっとここへ出入りをしていたし、独り立ちになってからも、植木のことは任されてきた。だから、出入りをするようになってもう二十年ちかく経つだろう。泊り込みで仕事をしたことも三度や五たびではないし、おまけによく口論をした。源次からみると隠居はけち[#「けち」に傍点]で、仕事にはうるさく注文をつけるが、払いとなると十文二十文のことまで詮索《せんさく》する。注文どおりの木を捜すのに、十日も二十日もかかることが珍らしくないが、旅費や宿賃をきげんよく出したことはなかった。
十年ほどまえ、庭の半分をつぶして、荒磯《ありそ》の景色にするのだと云いだし、源次は一年がかりで三十本ばかりの松を集めた。それはほぼ彼の予想どおりに育ったし、清左衛門も気にいって、いまでは「橋立《はしだて》」と名付けて自慢にしているが、そのときの支払い勘定などは、源次のもちだしになったほどであった。いっそこっちから出入りをやめよう、と考えたことは数えきれないくらいだが、清左衛門にはふしぎに人をひきつけるところがあり、腹を立てながらも、顔を見に来ずにはいられないのであった。
「どうした、飲まないのかい」
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
源次は自分の平膳《ひらぜん》を見て、眉をしかめた。大きな燗徳利に、盃と小さな鉢が一つ、中にはきゃら蕗《ぶき》と小さな煮干が三尾、小皿に菜のひたしがあるだけであった。
「あっしが飲めねえ口だっていうことは」
「知ってるよ」と隠居が遮った、「私だって高価な酒を、嫌いな者に飲ませたくはないさ、これほどむだなことはないからな、しかしおまえさんはしらふでは云いたいことも云わない、黙って、どんないやなことも自分の胸の中にしまったまま、人には話さず、独りで肝を煎《い》ったり癇癪を起こしたりしている、そのあげくが妻子を捨て職まで捨ててしまった」
「あっしは妻子を捨てたりなんかしやあしません」と云い、源次は手酌で一つ飲んだ、「誰がそんなことを云ったんです」
「田原町へなんとも使いをやったよ」
「かかあやがきはちゃんとやってる筈です」
「おかみさんはともかく、十三になる男の子までが、近所の使い走りをしていても、ちゃんとやってると云えるのかい」と清左衛門は云った、「もちろん世間にないことじゃあない、稼ぎのない亭主を持ったために、妻子が手内職や走り使い、子守をして飢えを凌いでいる家族もあるだろう、だがおまえさんは違う、おまえさんは日暮里の身内ばかりでなく、植木職として、御府内に何人と数えられるほどの腕を持っている人間だ」
「冷汗が出らあ、よしておくんなさい」
「冷汗といっしょに、本音も出したらどうだ」と隠居は酒を啜って云った、「それだけの腕を持ちながら、いったいどういうつもりで職をやめたんだ、どうしてだい源《げん》さん」
源次はまた手酌で一つ飲んだ。どうして世間じゃこう酒ばかり飲むんだろう、と思って彼は顔をしかめた。飲むときも臭えしおくび[#「おくび」に傍点]も臭えし、後架《こうか》へはいっても臭え。たまにうまく酔えたときに、楽な気持で女と寝られるぐれえがめっけもんだ。そのほかには三文の得もありゃあしねえや、と源次は思った。
「返辞ができなければ、こっちから云ってやろうか」と清左衛門が云った、「三日ばかりまえのことだが、私は橋場の藤吉《ふじよし》さんに会ったよ、おまえの古い出入りだそうだね」
源次は盃を持った手で、顔の前を横に撫《な》でるようなしぐさをし、「たかが五年そこそこです」と云った。
「だとすると、よっぽど気が合ったんだな」
「しょうばいとなるとね」
「そうかな」盃を口のところで止めて、隠居はちょっと歯を見せた、「手のことから松の枝おろしまで、詳しく藤吉さんに話したそうじゃないか、――そこそこ二十年もつきあっている私には、ひとことも話したためしのないようなことをね」
源次はやけになったように、盃で二杯、続けさまに飲んだ、「口の軽い旦那だ、こっちはそんなことすっかり忘れちゃってるのに、――手の話だなんて、きっと首でも吊《つ》りてえような気持だったんでしょうよ」
木や草を扱うには、生れつきの「手」というものがある。理由はわからないが、同じ条件で扱っても、その手を持っているのといないのとでは、木や草の育ちかたがまるで違う。植木職なかまでは知らない者のないことであり、同時に、それがどうしようもない天成のものであるため、口に出して話すようなことはなかった。
「それが聞きたいんだ」と云って清左衛門は、まっ白な長命眉をあげ、あげた眉をぐっと眼の上へおろした、「手のことはまあいい、私も初めて聞いた話ではないし、べつに秘し隠しをするようなことでもないだろうからな、けれども兼徳さんで松の枝を切ったというのは、本当のところどういうことなんだ」
「きっと首でも吊りてえような気持のときだったんでしょう」
「それともしょうばい気で、話を面白くしたのかもしれないとね」
「あげ足を取っちゃいけねえ」源次は酒を呷《あお》った、「こんなことを、御隠居に話すのはいやだ、叱りとばされるにきまってるからね、けれども、藤吉の旦那が饒舌《しゃべ》ったとすれば同じこった、慥《たし》かに、兼徳のでこ[#「でこ」に傍点]助はあっしの植えた松ノ木の、いちばん大事な枝をばっさり切っちまいました」
「相談もしずにかえ」
「ひとことも」源次は首を振って云った、「御隠居にゃあわかるだろうが、注文どおりの木を捜し、それを移して来て、うまく育てるのはちょろっかなこっちゃあねえ、雨風、雪霜の心配から、土替え根肥《ねごえ》、枝そろえと、それこそ乳呑み児を育てるように、大事にかけて面倒をみるもんだ、しかもほかの仕事と違って、百日や二百日で埒《らち》のあくこっちゃあねえ、木によっても違うが、少なくって三年、松なんぞは五年も十年も丹精して、どうやら形のつくもんだ、そうして、こんなら手を放してもいいというところまでこぎつけるころには、こっちの血がその木にかよって、女房子よりも可愛い、しんそこからの愛情がうまれるもんだ、ほかの仕事だってそうかもしれねえが、こっちの相手は生きている木だ、幹も枝も葉も生きていて、こっちがその気になればぐちを云ったり、笑ったり、叱りつけたりすることができる、木はにんげん同様、生きているし話もできるんだ、わかりますかい御隠居」
清左衛門は黙ったままで頷《うなず》いた。
「それを兼徳のでこ[#「でこ」に傍点]助は、なにかの邪魔になるからって、いちばん大事な中枝《なかえだ》を一本、なさけ容赦もなく、付け根からばっさり切り落しちまやあがった」源次はゆっくりとうなだれた、「――苦労して育てて、ようやく形ができたというところです、あっしは切り口の白っぽい木肌を見たら、わが子の腕を切り取られたように、胸のここんところが」
そこで源次は絶句し、徳利の酒を盃へしたんで飲んだ。それを見て清左衛門が手を叩くと、若いほうの女中が出て来、清左衛門は酒を命じた。その女中は二十五か六になるだろう、ふっくらとしたおもながな顔に、憂いのある眉。下だけ肉のやや厚い唇は、紅を塗ったようにしっとりと赤かった。
「およそのところはわかったよ」と清左衛門は緊張した気分をほぐすように云った、「おまえの気持はほぼ察しがつくがね、しろうとじゃあない、おまえさんはしょうばいにんだ、植える木に愛情をもつのは当然だろうが、一本や二本のことじゃあない、愛情としょうばいとの、けじめをつけるわけにゃあいかないのかね」
「そういうことのできる者もいるでしょう、あっしにはできねえ」源次はうなだれていた顔をゆっくりとあげた、「だらしのねえはなしだが、あっしにはそういうけじめをつけるなんてことはできないんです、本当にできねえんです」
「人それぞれだな」
「それだけじゃあねえ、屋敷の名は云えねえが、ほかにもさるすべり[#「さるすべり」に傍点]や、梅や、つげ[#「つげ」に傍点]などで、勝手に秀《ほ》を詰めたり、枝をおろしたりされたことが五たびや七たびじゃあありません、しかし、可笑《おか》しなはなしだ」源次は頭を左右に振った、「向うは金持の注文ぬし、こっちはたかが御用をうけたまわる植木職でさあ、金を払って植えさせれば木はもうあっちのもの、枝を切ろうがぶち折って薪にしようが向うの勝手で、こっちに文句を云う権利はこれっぽっちもありゃあしねえ、つまるところ、ただいまのお笑いぐさだ、そうでしょう御隠居さん」
清左衛門がなにか云おうとしたとき、さっきの女中がはいって来た。源次はそっぽを向き、清左衛門に眼くばせされて、女中は燗徳利を源次の平膳の上へ置いた。空《から》になった徳利を盆に取って、出てゆきながら女中は源次を見たが、彼は気づかないようであった。
「人それぞれだ」と清左衛門が云った、「ほかの人間にはお笑いぐさでも、或る人間には生き死ににかかわる問題かもしれない、おまえさんの気持はわかった、けれども、職をやめてこれから先どうするつもりだえ」
「乞食ですよ、このとおり」源次は酒を注いだ盃を眼のところまであげ、歯を見せて微笑した、「――自分の植えた木のあるとくい先を廻って、ちょっちょっと手入れをし、そこの旦那がたから茶や酒をふるまってもらって、おべっかを云ったり機嫌をとったりするんです、うまくいけば心付にありつけるし、まずくいってもめし[#「めし」に傍点]ぐらいにはありつけますからね」
「そんな都合のいいことが続くと思うか」
「とくい先にもよりますがね」源次はまた微笑した、「まずその心配はねえようです」
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
「たとえば」と源次は続けて云った、「失礼だが御隠居さんは勘定だかくてけち[#「けち」に傍点]だ」
「おまえがそう思っていることは知っていたよ」
「けれどもけち[#「けち」に傍点]にはけち[#「けち」に傍点]のみえがある。現にゆうべは泊めていただいたし、このとおり酒の馳走にもなってまさあ、もちろん、心付が貰えるなんとは思っちゃあいませんがね」
清左衛門は酒を啜り、ちょっと考えてから云った、「よかったらここへ住込みで、庭の面倒をみてくれないかな」
「庭のことなら角さんがいるでしょう」
「木のことは角造ではまに合わない」
「あっしも御同様でさ、これまで植えた木の世話はするがね、職をやめた以上、もう木のことには手を出さねえつもりです」
「人間は気の変るものだ、そう云い切ってしまわなくともいいだろう」清左衛門は穏やかに云った、「これは聞いた話だが、おまえさんに跡を譲りたいという親方がいるそうじゃないか」
「初耳ですね、なにかの間違げえだろうが、本当だとすれば頓狂《とんきょう》な野郎だ」と云って源次は盃を伏せた、「じゃあこれから橋立をみてきます」
そして彼はろくさま挨拶もせずに、庭番小屋のほうへ去った。清左衛門がなにか云ったようだが、源次は振り向きもしなかった。
これから先どうするつもりかって、へっ、こっちでききてえくれえだ。ねえ御隠居、おまえさんこれから先どうするつもりですかい、一代で伊豆清の身代をおこし、たいそうな金持になり、跡を伜《せがれ》に譲って隠居をしながら、いいとし[#「とし」に傍点]をしてまだ店へかよい、ゆだんなく帳尻に眼を光らせたり、暇があればとくい廻りを欠かさないという。それでどうしようというんだ、そんなことをしていてこの先、どんなものを手に入れようというのかい。これまでにないなにか、この世のものでないようななにかが、手にはいるとでもいうのかい。これから先どうするかって、へっ、人間あしたのことさえどうなるかわかりゃあしねえ、ことにおれなんぞはもう一生が終ったも同様なんだ、けち[#「けち」に傍点]じじい、おめえこそこの先どうしようというんだい。
手籠をさげて、若いほうの女中が来、おやつ[#「やつ」に傍点]ですと云った。源次は敷いてある茣蓙《ござ》のほうへゆき、腰に抜《はさ》んでいた道具を外して置き、手拭で汗を拭きながら、茣蓙の上へ腰をおろした。女中は手籠から茶道具と、皿に盛った饅頭《まんじゅう》をそこへ出し、茶を淹《い》れてすすめた。
「ありがとよ」源次は茶碗を受取りながら、無遠慮な眼で女中を見た、「おらあどうも人の名が覚えられなくって困るんだが、おまえさんの名はなんてったっけな」
「ふつうはすみ[#「すみ」に傍点]っていうんですけれど」女中は跼《かが》んだまま俯向いて、恥ずかしそうに答えた、「本当の名はゆうきち[#「ゆうきち」に傍点]なんです」
「ゆうきち[#「ゆうきち」に傍点]、男みてえな名だな」
「ええ、あたしの上に兄があって、生れて半年そこそこで死んだんですって」少し舌ったるい囁き声で、女中は云った、「お父っつぁんがばかなくらい可愛がっていて、死なれたあと百日ばかり、本当にばかのようになったそうです、そして、こんども男の子を産めって、おっ母さんをしょっちゅう責めては、いまから名は勇吉にきめたって云うんだそうです」
「死んだ兄の名が勇吉だったんです」と女中は続けた、「それで、生れてくる子がたとえ女でも名は勇吉ときめた、だから男を産むんだぞって、飽きずにおっ母さんを責め続けたんですって」
「そうして女のおまえさんが生れた」
「ええ」と頷いて女中はくすっと笑った、「おっ母さんはまさかと思ったそうですけれど、お父っつぁんは云ったとおり、人別《にんべつ》にも勇吉と届けちゃったんですって」
「家主や町役《ちょうやく》がよくそれでとおしたもんだな」
「いろいろ文句があったんですけれど、おれの子に親のおれが付けた名だって、お父っつぁんは頑張りとおした、って聞きました」
母がすみ[#「すみ」に傍点]という呼び名を付けて、近所の人たちにも頼み、父親のいないところでは、すみ[#「すみ」に傍点]と自分でも云い、人も呼んでくれた。けれども子供たちは耳ざといから、いつか本当のことを嗅ぎつけてしまい、勇吉、勇吉とからかうのであった。あたしの名はおすみ[#「すみ」に傍点]だって云い返すと、あくたれな子はそうじゃない勇吉だ、ほんとは男の子だろう、嘘だって云うんなら捲《まく》って見せろ、などとからかった。おすみ[#「すみ」に傍点]は泣きながら家へ帰ったが、子供は面白がって、なにかというと「捲って見せろ」とはやしたてるのであった。
「笑わないで下さい」と女中は囁くように云った、「あんまり云われるので、あたし自分のを見たんです、恥ずかしいけれど、幾たびも見たのよ、そして男の子のも見て、自分は片輪なんだと思いきめてしまったんです」
「子供のじぶんにはよくあることさ」
「ええ」女中はかすかに頬を赤らめながら頷いた、「あたしの友達にせっ[#「せっ」に傍点]ちゃんという子がいて、その子も男の子にへんなことを云われ、自分のと男の子のとの違うのを見てから、やっぱり自分は片輪なんだ、って思ったと話していました」
それで一生嫁にはゆくまいと決心し、ずっと縁談を断わりとおしてきた。この寮へ女中勤めにはいってからも、縁談はたびたびあったけれど、やっぱり一度も承知をしなかった。むろん片輪などでないことは、としごろになるころにわかってはいたけれど、いざ結婚という話になると、片輪だと信じた、小さいじぶんの恐れが胸によみがえってきて、とても話を聞く気にさえならなかった。そうして、あなたと知り合ったのだ、と女中は云った。
「うまいな」源次は菓子を喰べて云った、「これは並木町の銘菓堂の茶饅頭だな」
「ええ」と女中は眼を伏せて答えた、「あなたがお好きだというので、あなたがいらしったので買っておいたんです」
「うまい」と源次は云った、「おらあこの茶饅頭がだい好きだ」
おかしな名だと思ったが、ゆうきち[#「ゆうきち」に傍点]とは知らなかった。二度めのときだっけかな、あたし本名はゆうきち[#「ゆうきち」に傍点]っていうんです、って云ったんだな。こっちはただおかしな名だと思っただけだが、まさかね。
「なにをこっそり思いだし笑いなんぞしているの」と女が云った、「ここに独り者がいるんですからね、罪ですよ親方」
「嫁にいくのはいやだが、男は欲しいというやつさ、嘘あねえや」
「なんだかおやすくないような話ね」女は源次に酌をし、自分も手酌で飲んだ、「親方その人に惚れてたのね」
「ふしぎだ、今夜は酒が飲めるぜ」
「あたしも、うまいわ今夜のお酒」女は源次に酌をし、自分もまた手酌で飲んだ、「親方にはおめにかかったことがあるわね」
「ひとの酒だと思って、あんまり売上をあげるなよ」
「今夜はあたしの奢《おご》り、店もあけないのよ」
「おめえ独りでやってるのか」
「こんなおばあちゃんでは構いてがないでしょ、夫婦別れをしてっからまる二年、雄猫も近よりゃあしないわ」
「そうじゃあねえ、この店のことさ」
「うまく逃げるわね」女は媚《こ》びた眼てにらんだ、「この店ならあたし一人よ、夕方からはかよいの女の子が二人来ますけれどね、親方さえよかったら今日は休みにしますわ」
またか、また例のとおりか。女たらしってね、おれがなにをしたっていうんだ。夫婦別れをして二年だという。信濃屋のおとよ[#「とよ」に傍点]は、亭主に死なれて五年になると云った。亭主は酒と女と博奕《ばくち》で、金をせびるとき以外は寄りつかない。小さな旅籠宿でも、しょうばいをしていれば元手が必要だ。食物から衣料、器物や家具の修理など、毎日なにかで出銭がある。亭主はそんなことにお構いなしで、せびるだけせびり、断わりでもすればすぐに手をあげた。いつも躯になま傷か痣《あざ》の絶えたことがないのよ、と云ったっけ。五年まえに博奕場で頓死《とんし》をしたとき、うれしくって祝い酒を飲んだくらいだという。それで男にはしんそこ懲りたから、二度と亭主を持つ気もなし、男もまっぴら。もちろんあんただけはべつだけれど、いっしょになりたいとか、いつまでも続くようになどとは思わない。そしてあんたと切れたらもう一生、男の人なんか欲しくはない、と云った。
「ねえ親方」と女があまえた声で云った、「今夜はあたしにつきあって下さるでしょう」
「ここへ来たのも初めてだし、おめえに会うのもこれが初めてだぜ」
「あたしは子供のじぶんから知っているような気がするわ」女は新らしい燗徳利を取って、源次に酌をし、自分の盃にも注いだ、「店は夕方からなんだけれど、親方がはいつていらしったとき、断わるのも忘れちまったのよ、――待っていた人が来てくれた、っていうような気がしたらしいわ」
「三日も泊り込みの仕事でくたびれてるんだ」
「そんならあとで揉《も》んであげるわ、あたしおっ母さんに躾《しつ》けられて、肩腰を揉むの上手なのよ」
「いつかまたな」と源次は云った、「なにか食う物を貰おう」
「薄情なひとね」女はやさしく睨んだ。
ここは並木通りで、田原町へはひと跨《また》ぎだ。薄情者か、ちげえねえ。おかしなはなしだが、他人から見ればこのおれも、おとよ[#「とよ」に傍点]の頓死をした亭主とどっこいどっこい、ってえことになるんだろう。誰もなんにも知りゃあしねえし、知ろうともしやしねえ。人のことは丁半《ちょうはん》できめるように片づけてしまう、てめえのことは棚にあげてさ。うんざりだ、早く年寄りになって、誰にも構われずに、暢《のん》びりくらしてえだけだ。それにしても五十幾日か、敷居が高えな。
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
田原町の横丁の、表店《おもてだな》の家は格子造りで、父親が生きていたころは、そこが看板書きの仕事場になっていた。いまは格子戸の中がすぐに土間で、上《あが》り框《がまち》には障子がたててある。源次は格子をあけて、「帰ったぜ」と声をかけ、上へあがろうとすると、人の足音がこっちへ来、中から障子をあけて、一人の少年が源次の前に立ち塞《ふさ》がった。
「よう、秀か」と源次が云った、「おふくろはいるか」
秀次は十三歳の筈だが、源次の眼には十五六にもみえた。土間から見あげているためか、背丈も高く、躯ぜんたいが逞《たくま》しくなったように思えた。
「帰んなよ」と秀次は声変りしかけている声で、無表情に云った、「ここはおれたちのうちだ、おめえなんかの来るところじゃあねえぜ」
源次は口をあいた。自分の聞いたことがなんだか、まるで理解ができなかったのだ。
「なにを云うんだ、秀」と源次はあいまいに微笑しながら云った、「おめえねぼけてるのか、おれだぜ、ちゃんだぜ」
「うちにはちゃんなんぞいねえよ」と秀次は云い返した、「かあちゃんとねえちゃんと、おいらの三人だけのうちだ、帰ってくれよ」
「おいおい」源次は笑い顔で云った、「からかうのもいいかげんにしろよ、秀、おめえまさか、本気で云ってるんじゃあねえだろうな」
「自分でわからねえのかい」秀次は両手を太腿《ふともも》に沿っておろしていたが、その両の拳《こぶし》は見えるほどふるえていた、「――ここはおれたちのうちだ、ちゃんもいたけれど、ちゃんの名は人別から抜いちまった、家主のおじさんも町役の旦那も承知のうえなんだ、嘘だと思ったらきいてみればわかるよ」
「人別から抜いたって」源次はまた口をあき、それから静かに云った、「このうちの世帯主はおれだ、世帯主のおれを人別から抜くなんてことが、できると思うのか」
「ねえちゃん」と秀次は奥に向かって云った、「差配《さはい》さんと辻番《つじばん》へ知らせてくれ、うるせえことになりそうだからな」
返辞はなかったが、裏の勝手口の戸をあける音が聞え、源次はかっとのぼせあがった。
「おつね[#「つね」に傍点]」と源次は奥へ向かって喚いた、「出て来いおつね[#「つね」に傍点]、これはどういうことだ」
「大きな声をだすなよ、みっともねえ」と秀次はおとなびた口ぶりで云った、「どういうことか、わけはそっちで知ってる筈じゃねえか、差配さんにも辻番にも話してあるんだ、あの人たちが来ねえうちに帰るほうがいいぜ、さもねえと無宿人の咎《とが》でしょっ曳《ぴ》かれるからな」
源次は子供を殴りつけようかと思った。躯じゅうがむずむずし、両の拳がふるえた。しかし、眼の前に立ちはだかっている秀次には、母や姉や自分をひっくるめて、この家を守ろうとする決意のようなものが感じられて、源次は思わずたじろいだ。
「わかった、それならそれでいいんだ」と源次は顔をあげ、虚勢を張って云った、「また出直して来るよ」
「来なくってもいいよ」と秀次は云った、「誰も待っちゃあいねえからな」
毛を※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》り取られ、皮を剥《は》がれたようなもんだ、と源次は思った。自分はそういう扱いをされるようなことをしたんだ、という悔恨と、仮にも親子じゃあないか、親子夫婦じゃあないか、といういきどおりとが、心の中で絡みあい、立っている力が、足から地面へ吸い込まれてゆくように感じられた。
「そうか、そうか」源次はへそをかくように微笑して、片手をゆらっと振った、「いいよ、わかったよ、女房子から無宿人にされたなんて話は聞いたこともねえが、おれが悪かったんだろう、いや、おれが悪かったんだ、勘弁してくれ、みんな達者でな」
そして、源次は格子をあけて外へ出た。出たとたんに、六尺棒を持った番太と、二人の若い者を伴《つ》れた差配と顔を合わせた。かれらは源次の出て来るのを予期していなかったらしく、彼の顔を見るなりうしろへとび退《の》き、番太は六尺棒を斜に構えた。
「いや、いいんだいいんだ」源次は片手を振った、「もう済んだんだ、悪かったな、もう大丈夫だ、なにもごたごたはありゃあしねえんだから」
そう云っているとき、かれらを押しのけるようにして、半纒着《はんてんぎ》に股引姿の若い男が前へ出て来た。
「ようやっと会えましたね」
「なんだ、根岸の忠吉じゃねえか」
「この七日間、ずいぶん捜しましたぜ」とその若者は左右の番太や差配たちを見まわしながら云った、「五日めえに多平と会いましてね、昨日から神田川の側の旅龍宿で待ってたんです、これから来てもらえますか」
「来いといって、どこへ」
「根岸へですよ」と若者は云った、「親方が待ってるんです」
「多平はいまでも根岸か」
「来てもらえるんですか」
源次は差配を見、番太や男たちを見た。妻や子供たちに人別帳から抜かれ、無宿人にされた。無宿人、――そしていまは根岸へ呼びだされている。多平が云った、誰かが跟け覘っている、捜しまわっているってな、それはこのことだったのか。この差配や番太たちのことはどっちでもいい、ここを温和しく出てゆけばそれで済むことだ。しかし、根岸のあにいはどんな用があるんだろう、なぜおれのことを捜しまわっていたんだろう、と彼は思った。
「用が出来たんでね」源次は番太と差配たちに云った、「あっしはこれで失礼します、もうこの町内へ帰ることもねえでしょう、お世話さまになりました」
さあゆこう、忠公、と源次は云った。まるで屠所《としょ》に曳かれるなんとかのようだな、あるきだしながら、源次は思った。おれがなにをしたというんだ、云い※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れはしねえ、女房や子供、女たちには薄情だったかもしれないけれどもそれにだってわけはあるんだ。誰もわかっちゃあくれねえが、おれだって人間だ、犬畜生じゃあねえんだ。女たらし、薄情者、こんどは無宿人、そして罪人かなんぞのように、根岸へしょっ曳いていかれるのか。もういいや、どうにでもしてくれ、勝手にしやがれだ、と源次は思った。
根岸の清七は五十二歳。源次のあにき分であり、日暮里の植甚では一の身内であり、そして植甚の外仕事のいっさいを切り廻していた。大親分の甚五郎は幕府のお庭方御用を勤め、千駄谷《せんだがや》御林の管理を任されている。ほかに国持ち大名諸家からの用は「外仕事」と云い、それを賄っているのが根岸の清七であった。
「まあおちつけ」と清七が云った、「そこへ坐れよ、楽にしろ」
清七の妻で五十歳になるおこん[#「こん」に傍点]が茶と菓子を持って来、あなたの好きな並木町の饅頭よ、銘菓堂の茶饅頭、覚えてるでしょと云った。おこん[#「こん」に傍点]は子を産まないためか若く、せいぜい三十五六にしかみえない。肌も桃色でつやつやしく、ほどよい肉付きで、笑うと左の頬にくっきりと笑窪《えくぼ》が出た。
――あの女にも云ったのだろうか、源次は饅頭を摘みながら思った。向島の寮の女中だった、へんてこな名めえの女だったな、おんなじ饅頭だった、そうか、浅草並木の茶饅頭だったのか、おれが忘れてるのに覚えていてくれたんだな、しかし誰が頼んだ。おれはそんなことは、一度だって口にしたこともねえぞ。
源次は茶を啜りながら、饅頭を二つ喰べた。清七はきせる[#「きせる」に傍点]でタバコをふかしふかし、重い荷物でも背負っているように、肥えた自分の膝を見おろしてい、おこん[#「こん」に傍点]は自分の可愛い子でも見るように、眼を細め、唇をほころばせたまま、まじまじと源次の顔を見まもっていた。
「いつ喰べても」源次は唇を手で拭きながら、おこん[#「こん」に傍点]に云った、「銘菓堂の茶饅頭はうまいですね」
「源《もと》さんは昔っから好きだったわね」
「もういい」と清七が云った、「話があって呼んだんだ、おめえはあっちへいってろ」
「相変らずこうなのよ」
「うるせえ、あっちへいってろと云ったろう」
「わかりましたよ」と云っておこん[#「こん」に傍点]は立ちながら源次を見た、「あとで晩ごはんを持って来るけれど、源さんなにがいい」
だが清七に睨まれると、おこん[#「こん」に傍点]は首をすくめながら出ていった。源次は坐り直し、上眼《うわめ》づかいに清七を見た。
「おたい[#「たい」に傍点]が死んだ」清七が低い声で云い、きせるをはたいた、「知っているか」
源次は片方へ首をかしげ、次に反対のほうへ首をかしげた、「――おたい[#「たい」に傍点]、って誰ですか」
「おまえ、まじめなのか」
源次は眼をみはって、なにか云いかけたまま、口をつぐんだ。
「わかった、本当に忘れたらしいな」清七は頷いて、きせるをそっと莨盆《たばこぼん》の上に置いた、「それじゃ済まねえことなんだが、相手がおまえじゃあしようがねえ、おたい[#「たい」に傍点]とはな、池之端《いけのはた》の六助んとこの女中だ」
源次は考え考えきき返した、「ちぢれっ毛の太った、あの女ですか」
「そんな云いかたがあるか、仮にも人間ひとりが死んだんだぞ」
「済みません」源次はおじぎをしたが、なにか腑におちないように口ごもった、「けれども、その女が死んだのと」
「首をくくってだ」
「へえ、済みません」源次はまたおじぎをし、それから首をかしげた、「――あっしにはまだわからねえんだが、いったいその女が首を吊って死んだのとあっしと、なにか関係でもあるんでしょうか」
剛《こわ》いしらがの疎《まばら》に伸びた、清七の頬が見えるほどひきつり、大きな眼がぎらっと光った。
[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]
清七夫婦のあいだにはいまだに子がないし、日暮里にいたときから、大きな声を出したり怒ったりしたことはなかった。けれども清七が本気で怒るときには、頬がひきつるのと、眼の光とですぐにわかった。昔からわかっていたことだし、それは大親方のかみなり[#「かみなり」に傍点]よりも、身内の者たちをちぢみあがらぜたものであった。いまにもなにかされるかと、反射的に身構えたとき、障子をあけて福太がはいって来た。とし[#「とし」に傍点]は源次と同じ三十七、小太りで肩がいかつく、ぶしょう髭《ひげ》が濃く、唇が厚くて大きかった。
「とうとう捉《つか》まえたぞ」と福太は源次の前へ音を立てて坐りながらどなった、「三十日の余もてめえを追っかけていたんだ、よくも鼬《いたち》のようにうまく逃げまわっていやがったな」
「話は静かにしろ」と清七が云った、「気の早いのが福の悪い癖だぞ」
「あにいはまあ聞いてて下さい」福太は源次を睨んだまま強く頭を振った、「こいつには云いたいことが山ほどあるんだ、そのたいていは自分の恨みや憎みだから、今日までがまんして云わずにきたが、こんどはそうはいかねえ、こいつは日暮里の大親方はじめ、身内の者ぜんたいの顔に泥を塗ろうとしていやあがるんだ」
おれをつけ覘っている者があると、多平の云ったのは福だったのか、と源次は思った。それにしても、植甚の身内ぜんたいの顔に泥を塗る、という言葉には吃驚《びっくり》したようであった。
「ちょっと待ってくれ、福」と源次は坐り直した、「いま云ったことはどういうことだ、いや待て、そのまえに自分の恨みとか憎みとかってのは、どういうことか聞かせてもらおうか」
福太はとびだしそうな眼で、源次の顔をじっとみつめ、膝の上の拳をふるわせた。
「六助んとこのおたい[#「たい」に傍点]が死んだことは聞いたか」と福太は云った、「聞いたろうな」
源次は頷いた。
「可哀そうに、首を吊って死んだそうだ、――書置にはおめえが夫婦になると約束してくれたが、とし[#「とし」に傍点]も二十八になってしまい、約束もあてにはならなくなった、もう生きている張合いもないから、と書いてあったそうだ」
「それは違う」源次は首を振った、「おれはそんな約束なんかしたことはないし、こっちからちょっかいをしかけたことさえないんだ」
「じゃおすが[#「すが」に傍点]のときはどうだ」
源次はまばたきをし、のろのろと下唇を舐《な》めた、「おすが[#「すが」に傍点]って、誰のことだ」
「きさまはそういう人間だ」
もう少し穏やかに話せないのか、と清七がたしなめたが、福太は耳にもいらぬようすで、声は低めだが、その姿勢には殺気めいたものがあらわれてきた。
「きさまはそういう人間だ」と福太はけんめいに自分を抑制しようとしながら云った、「よく考えてみろ、まだ日暮里にいたじぶん、道灌《どうかん》山の下にあった掛け茶屋に、きれいなきょうだいの娘がいたろう」
源次は首をかしげながら、なにか口の中で呟いていたが、それを思いだしたのだろう、あっという表情で福太を見た。そのとき清七の妻のおこん[#「こん」に傍点]が、茶菓子を持ってはいって来たが、清七がきつい眼つきで頭を振るのを見ると、なにも云わずに温和しく出ていった。
「おすが[#「すが」に傍点]っていうのは妹のほうだった」と福太は云った、「おおよそ二十年まえ、てめえとおれは十八で、おすが[#「すが」に傍点]は十五、細っこい躯の、小柄な、ひ弱そうな可愛い娘だった、てめえはそのおすが[#「すが」に傍点]を、――まだほんの小娘だったおすが[#「すが」に傍点]を、たらしこんで捨てやがった、覚えてるだろう」
源次は眼をつむった。それも違う、そうじゃなかった。あの娘はひ弱でもなく、小娘でもなかった。とんでもない、あんなに躯が丈夫で、いろごとに飽きない女はほかにいなかった、と彼は思った。
「きさまに捨てられてからおすが[#「すが」に傍点]はぐれだして、自分から廓《くるわ》へ身売りをし、それから岡場所へおちて、御府内の岡場所を次から次へと渡りあるいた」と福太は続けて云った、「――そのあげくがけころ[#「けころ」に傍点]、夜鷹《よたか》にまでなりさがって、いまはゆくえ知れず、生きているのか死んじまったかもわからねえ、おれはあの娘が好きだった」
福太はそこで喉《のど》を詰まらせた。彼はもう外聞も恥もなく、抑えていた恨みと怒りを、手に取って叩きつけるように感じられた。
「おれは死ぬほどおすが[#「すが」に傍点]を好きだった」と福太は云った、「あと一年か二年したら、嫁にもらうつもりだった、本気でそう思っていたんだぞ、それをてめえはめちゃめちゃにしちまやあがった、相手がてめえだということはあとでわかったが、そのときわかっていたら、おらあきっとてめえを殺していただろう」
そうだったのか、それで福は独身のままでいたのか、と源次は思った。いや、まさか、どんなに一徹な人間だって、一人の女のために独身をとおすなんて、そんなことがある筈はないし、もしあるとすれば尋常な人間じゃあない。そんな男はどこかが狂っているんだ、と源次は思い直した。
「てめえが女たらしだってことを知らねえ者はねえ、これまでにどれほど女をたらし、どれほどの女を泣かせ一生をだめにしたか、自分も数えきれねえだろう、おまけにだ」と云って福太は自分の両の膝がしらを力いっぱい掴《つか》んだ、「――おまけにてめえは女房子まで捨てちまって、安飲み屋の女なんぞを、次から次と騙《だま》しあるいているそうだ、おすが[#「すが」に傍点]のことだけなら、いまでもてめえを殺してやりてえが、自分の女房や子供までみすてるような男には、殺す値打もありゃあしねえ」
きさまは女ばかりでなく、木や草までたらしこむやつだ、と福太は続けた。植木職としては慥《たし》かに腕っこきだし、それは大親方も身内の者もみんなが認めている。けれども、きさまの手がけた木が、すべて注文どおりに育ち、一本のしくじりもなかった、というのは不自然だ。人間のすることなら、どんな名人上手にだって誤りや仕損じはある。それが人間であることの証拠だ、そうじゃあねえか、と福太は云った。源次はなお黙っていた。
「これはおれがてめえに云いたかったことだ」と福太は坐り直した、「だが、これから云うことは恨みや泣きごとじゃあねえ、植基の身内ぜんたいの外聞にかかわることだ、いいか、腹を据えて聞けよ」
「まず初めに」と福太はすぐに続けた、「てめえはとくい先へいって自分の植えた木の手入れをし、妙なぐち[#「ぐち」に傍点]をこぼしては金をねだり廻っているという、てめえはねだったことなんぞねえと云うだろうが、そのたびにめし[#「めし」に傍点]を食い包み金を貰えば、つまりねだりにゆくっていうことに変りはねえ、なぜなら、てめえはもう植木職じゃあねえからだ」
源次は屹《きっ》と顔をあげたが、やっぱりなにも云わなかった。
「てめえのことはいろいろ聞いた」福太は嘲笑《ちょうしょう》するように云った、「――どこそこの庭へ植えた松の、いちばん大事な枝を切られたとか、どこそこではなになにの木の枝を、邪魔だからといって切られたってな、――竜閑町の岩紀さんでも、伊豆清の向島の御隠居のとこでも、そのほかかね[#「かね」に傍点]徳さんふじ[#「ふじ」に傍点]吉さんでも、同じような泣きごとを並べたっていう、それもただ気をひいて、僅かな包み金をねだるためにだ、そうじゃあねえのか」
「根岸のあにい」と源次は清七に云った、「おれにも少し話させてもらえますか」
清七はタバコに火をつけながら、福太を見た。福太は待っていたように膝をにじらせて、「云いたいことがあったら云ってみろ、聞くだけは聞いてやる」と云った。
「人間てなあおかしなもんだ」と源次は低い声でゆっくりと云いだした、「子供のときからいっしょに育っても、相手の心のなかや考えていることまではわからねえ、口に出して云ってみたって、信じる者もあるし信じねえ者もある、人間には酒の好きなやつもいるし、饅頭の好きなやつもいる、酒の好きなやつに饅頭の話をしたってわかりゃあしねえ」
「ごまかすな」と福太が云った、「酒だの饅頭だのと、よけいなことをぬかさずに、云いてえことをはっきり云ってみろ」
「おらあ女をたらしたことはねえ、誰も信じねえかもしれねえが、おらあ女をくどいたこともなし、ちょっかいをだしたこともねえ、そんなことは一度もしたことはなかった」と源次は云った、「――福には悪いが、おすが[#「すが」に傍点]という女もそうだ、おめえはひ弱な小娘だって云ったし、そう信じているんだろう、けれども本当はそうじゃなかったんだ、いや、まあ聞いてくれ、どんなふうにそうじゃなかったか、ってことは云やあしねえ、云っても信じちゃあもらえねえだろうからな、しかし違うんだ、違うんだ、そうじゃあなかったんだよ、福」
「およそ二十年まえのことだ、てめえの云うことが嘘か本当かってことを、いまここで慥かめるわけにはいかねえ、おらあ聞くだけは聞くと云ったんだ、いいから云いてえことをすっかり云ってみろ」
「信じようと信じめえと勝手だが、おらあ一度だって女に手を出したこたあなかった」と源次は云った、「――いつでも女のほうから寄ってくるんだ、うぬ惚れてると思うなら思うがいい、だが、こっちにはなんの気もねえのに、番たび女からせがまれてみろ、うんざりするどころか反吐をはきたくなるぜ」
「どうにでも云えるさ、証拠はねえからな」
「おすが[#「すが」に傍点]がひ弱な小娘だった、っていう証拠はあるのか」
「女房や子供たちをみすてたことはどうだ」と福太がやり返した、「人間のすることにいちいち証拠なんかはねえ、と云いてえんだろう、いかにも、証拠をどれだけ集めたって、人間のしたことの善悪はきめられるもんじゃあねえだろう、だがな、ときには動かねえ証拠ってものもあるんだぞ」
[#6字下げ]十一[#「十一」は中見出し]
「さっきも云ったように、てめえはとくい先へいっては、どこそこの屋敷へ植えた松ノ木の、いちばん大事な枝を断わりなしに切り落されたとか、とこそこてはなんの木の枝、どこそこではなんの木と、育てた木の大事な枝を断わりなしに切られた、と泣きことを並べた、そうだろう」と福太が云った、「――そう云ったことに間違えはねえだろうな」
「そうだからそうだと云ったんだ」
「嘘をつけ、本当のことはわかっているんだぞ、てめえは自分で木の枝を切った、松ノ木もほかの木も、みんな自分で切り落したんだ、ちゃんと見ていた者がいるんだぞ」
源次はなにか云おうとしたが、口から言葉は出なかった。彼は片手で額を横撫でにし、俯向いて自分の膝をさすった。
「さあ」と福太が云った、「なんとか云ってみろ、なにが嘘でなにが本当だ」
源次は考えていてから、根岸のあにい、冷やでいいから酒を一杯貰えまいか、と清七に云った。福太は、ごまかすなと云った。清七はそれを制して妻を呼び、酒を持って来るように命じた。おこん[#「こん」に傍点]は不審そうな顔をしたが、まもなく湯呑茶碗に酒を注いで持って来た。源次はそれを受取ると顔をしかめて半分ほど呷《あお》った。
「おらあ女房子の手で人別をぬかれ、無宿人にされちまった」と源次は云った、「――罪はおれにあるんだろう、三年も家族を放ったらかしにしていたんだから、だがな福、なぜおれが職をやめ、うちをとびだしたか、っていうことにゃあ、それなりのわけがあるんだ」
「またうまく云いくるめるつもりか」
「そう思うなら思うがいい、だが聞くだけは聞いてくれ」と云って源次はさもまずそうに酒を啜った、「――女房のおつね[#「つね」に傍点]は、おれが初めて惚れた女だ、かね[#「かね」に傍点]徳の隠居所でなかばたらきをしていたのは、福も知ってるだろう、口かずの少ない、羞《はにか》みやの温和しい娘だった、おれは生れて初めて、こんな娘もいたのかと思い、隠居に頼んでむりやり女房に貰った、田原町へうちを借りて、それから今日まで十五年か、子供も二人生れたし、貧乏世帯だが食うに困るようなことはなかった」
それが三年まえの九月、頼まれて朴《ほお》ノ木を捜しにいった。青梅《おうめ》から八王子、御嶽《みたけ》の奥まであるきまわった。そうしてようやくこれはと思うような木をみつけ、それをひいて江戸へ帰ったのが八日め。頼まれた屋敷の庭へ移して、すっかりあと始末をしてから家へ帰ったのが、十二日めであった。
「おらあくたびれていた、半月ちかく湯にもはいらず、ろくな物を喰べずに山あるきをしてきたあとだ、とにかく湯にはいって、うちのめし[#「めし」に傍点]をゆっくり喰べようと、それだけをたのしみに帰ったんだ、ところが」と云って源次は酒をきれいに飲み干した、「――ところが、おつね[#「つね」に傍点]のやつは、おれの顔を見るなり、めし[#「めし」に傍点]の支度はそこに出来てるよ、って云ったまんま勝手へいっちまやがった、――めし[#「めし」に傍点]の支度はそこに出来てるよって」
源次はそこで歯を見せた。笑ったのではない、自分では笑ったつもりだったかもしれないが、それはむしろ泣きべそのように見えた。
「おつね[#「つね」に傍点]は変っちまった、生れて初めて、心から惚れた女だったが、もうおれの惚れたおつね[#「つね」に傍点]じゃなくなっちまった」源次は頭をぐらっと揺らした、「――なぜだかわからねえ、諄《くど》いようだが、おらあ半月ちかくも仕事で山あるきをし、埃《ほこり》だらけで骨までくたびれて帰ったんだ、それをお帰りなさいでもなく、さぞ疲れたでもねえ、いきなりそっぽを向いて、めし[#「めし」に傍点]の支度はそこに出来てるよ、って」
「てめえのひごろのおこないが悪いから、どこか女のところへしけ込んでいたとでも思われたんだろう」
「夫婦とは一生のもんだ、おらあそう思ってた、ところがおれの場合はそうじゃなかった」と源次は云った、「夫婦なら亭主のおこないが悪かったら、そう云ってくれる筈だ、おつね[#「つね」に傍点]はなに一つ苦情らしいことも云わず、やきもちをやいたこともなかったのに、急に化けでもしたように人間が変っちまった、おれのおつね[#「つね」に傍点]じゃなく、見も知らねえ女になっちまったんだ」
「植木だっておんなしこった」と源次はすぐに続けた、「おれが木を選ぶんじゃねえ、木のほうでおれを呼ぶんだ、そしておれの移した木は、殆んどおれの思ったように育つ、九分九厘まで失敗はなかった、だからとくいにも重宝がられたし、大親方も看板を分けてくれたんだろう、だがな、福、――おれの手で植えおれの手で育てた木も、いつかはおれの手からはなれていっちまうんだ」
「そんなことはわかりきってらあ」
「福の云うとおり」と源次は構わずに続けて云った、「おれの泣きごとはみんな嘘だった、松ノ木もほかの木も、大事な枝を切り落したのはこのおれだ、植えた木は或るところまでは思うように育つ、秀《ほ》の立ちかたも枝の張りかたも、こっちの思惑どおりに育つけれども、或るところまでくると手に負えなくなっちまう、自分で引いて来て移し、大事にかけて育てた木が、みるみるうちに自分からはなれて、まるで縁のねえべつな木になっちまうんだ」
「だから枝を切ったっていうのか」
「そうだ、だから切ったんだ」
「木は育つもんだ」と福太が云った、「盆栽ででもねえ限り、植えた木は必ず育ってゆくもんだ、それを庭に合わせて手入れをするのが、植木職のしょうばいじゃあねえか」
「それでおらあ職をやめたのさ、自分の手塩にかけた木が、自分からはなれてゆくのを見ちゃあいられなかった、うちをとびだしたのもそのためだ、自分の女房子が自分の女房子でなくなっちまったら、もうおれのうちじゃあねえ、おれと女房子とはもう赤の他人なんだ」
「それなら人別をぬかれたのに文句を云うことはねえだろう」
「むろん文句なんか云やあしねえ、ただ、もしかしたらわかってもらえるかもしれねえと思って、話したまでのこった」
「てめえの云うことは、どこまでが本当でどこからが嘘かわからねえ」と福太は云った、「だがここで、はっきり断わっておくぞ」彼は言葉の意味を強めるためだろう、ちょっと息をぬいて、声をひそめた、「――これからはとくい先へ近寄るな。きさまはゆく先ざきで、植甚の名を笑いものにしている、職をやめたんだからもう植木に手を出すな、わかったか」
「そのくらいでいいだろう」と福太を制して清七は源次に云った、「――福の云ったことは、日暮里の身内ぜんたいの意見だ。おまえのためにも、この辺でほかのしょうばいに変るほうがいいんじゃないか。それなら相談にのってもいいぜ」
「ねえあんた、今夜浮気しない」
「おらあ文無しだぜ」
「お金ならあたしが少し持ってるわ」
「ここはどこだ」
「入谷《いりや》よ、知ってるくせに」
「知ってるくせにか」と云って源次は酒を啜り、頭を垂れた、「――人間なにを知りゃあいいんだろう、おれのおやじは看板書きで、おれも看板書きにするつもりだったんだろう、字を教えて源次という名を付けた、源平の源という字だ、源《もと》って読むんだが、そう呼んでくれたのはほんの二三人で、ほかの者はみんな源次《げんじ》って云った。――源次《げんじ》、源次《もとじ》、――そして女たらしだって、――おらあ一度だって女をたらしたことなんぞなかった」
「親方のような人なら、女は誰だってころりよ、もう一杯ちょうだい」と女が云った、「あたし今夜は酔っちゃうわ、いいでしょ」
「おらあ」と源次は口ごもった。
「文無しでしょ、もう五たびも聞いたわ、ここはあたしの店、ちっぽけだけれどあたしがこの店のあるじよ、今夜は表を閉めちゃうわ、ねえ、二人でゆっくりやりましょうよ」
「飽きるほど聞いた文句だ」源次はまずそうに酒を啜った、「――だらしがねえ、だらしがねえぞ源《もと》、てめえは世間からおっ放《ぽ》り出されたんだ、女房子にもみはなされた、これからどうやって生きてゆく、橋の袂《たもと》にでも坐るか」
「なにをぶつぶつ云ってんのさ、ねえ、お酌して」
「えひもせす」と源次は呟いた、「――おらあもう、あとのねえ仮名だ、えひもせすで仮名は終りだからな」
「ちょいと」女は彼の首に手を絡んだ、「ねえ、あっちへいかない、ねえ、ちょっとでいいから横になろうよ」
うるせえ、と源次は云おうとしたが、首を振り、腹掛のどんぶりの中から財布を出すと、それを女の手に渡し、立ちあがって店から外へ出ていった。どうすんのよ、あんた、とうしろから女の呼ぶ声が聞えた。
たそがれの入谷で、まえには田圃《たんぼ》といわれたが、いまでは武家の下屋敷などが出来、名高いさいかち並木などもなくなっていた。
源次はこれというあてもなく、昏《く》れてきた道をあるいてゆきながら、幾たびも片手で眼をぬぐった。
「福太のやつは、そんなことで女房を貰わなかったのか」と彼は呟いた、「――あの娘がどんな女だったかも知らず、見かけだけでそこまで惚れることができる、とはどういうことだろう、おれのこともあいつのことも、どっちも可笑《おか》しなもんだ、人間ってものは、生れたときに一生がきまるものらしいな、福のやつもこれからの一生を変えることはできねえだろう、えらそうなことを云ったって、どうなるもんか、ざまあみろ、――そうさ、そういうおれだっておんなしこった、人間なんてみんなそんなもんさ、ざまあみやがれ」
源次はまた眼をぬぐい、迷い犬があるくような、力のない足どりであるいていった。
やがて向うに遠く、濃いたそがれの中に、はなやかに灯の明るい一画が見えてきた。
「なか(新吉原)だな」と彼はまた呟いた、「ああいう世界もあるんだな」
底本:「山本周五郎全集第十六巻 さぶ・おごそかな渇き」新潮社
1981(昭和56)年12月25日 発行
底本の親本:「別冊文藝春秋」
1966(昭和41)年6月
初出:「別冊文藝春秋」
1966(昭和41)年6月
※以下2個の外字は底本では同じ文字です。※[#「秋/魚」、U+29E64、275-下-4]、※[#「秋/魚」、U+29E64、276-上-2]
入力:特定非営利活動法人はるかぜ