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江戸の土圭師
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江戸の土圭師
山本周五郎
山本周五郎
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)錺職人《かざりしょくにん》
(例)錺職人《かざりしょくにん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)人|気質《かたぎ》
(例)人|気質《かたぎ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定]
(例)[#5字下げ]
(例)[#5字下げ]
[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
「わかった、一両は用立てよう。けれどもおまえ仕事はどうなんだ」
「……仕事は、やっています」
「図引きは出来たのか」
三次郎は答えなかった。徳兵衛はきせる[#「きせる」に傍点]をぱたりと置きながら、
「おれは錺職人《かざりしょくにん》だ、土圭《とけい》つくりなんというむずかしい仕事はわからない、だから余計なことを云《い》うつもりはないけれども、灘七《なだしち》さんや和貞《わてい》さんはもう組立てにかかったという評判だぜ、おまえそれで間に合うつもりなのかい」
「……それはわかりません」
ぶすっとした調子だった。
「わかりませんけれども、あたしの仕事は、ただ期限に間に合えばいいというようなものじゃないんです」
「だが島津《しまづ》さまへ納めるのはこの九月が期限だと云ったはずじゃあないか」
「納める期限があっても、気にいった品が出来なければしかたがありません。あたしには間に合わせのために雑なものを作るような、けちなまねはできませんから……」
「そうかい」
徳兵衛はむっとしたが、しかし色にはみせず、立って金を取りに行って来た。三次郎の前へ半紙を置き、小粒を四つならべて、
「さあ一両、持っていきな」
「すみません、ありがとうございます」
「なあ三次郎」徳兵衛はきせる[#「きせる」に傍点]へ煙草《たばこ》をつめながら、つとめてなにげない調子で云った。
「おまえの仕事を大事にする気持はいいが、職人というものは期限を守るのもたいせつだぜ。世間でよく名人|気質《かたぎ》などということを云うけれども、どんな名人|上手《じょうず》だって世間の飯を食ってるからには、世間の約束をおろそかに思っちゃあならない。いいか、これは意見でも小言でもない、ただおれの気持を云ってみたまでのことだが、おまえそうは思えないか」
「……へえ」
三次郎は自分の膝をみつめたまま云った。
「なにしろあたしは、ごまかし[#「ごまかし」に傍点]のきかないたちでございますから」
「ごまかし[#「ごまかし」に傍点]……?」てめえはと云いかけて、徳兵衛はぐっとその言葉をのみ、そっぽを向いた。
「まあいいや、しっかりやりな」
「……ありがとうございます」
親方の顔は見ずに、三次郎は会釈《えしゃく》をして立った。そとは梅雨あがりのからりと晴れた日だった。木々の葉に、街の屋根に、白くかわいた道の上に、ぎらぎらと照りつけ八る日が眼《め》に痛かった。
「……親方はいいひとだ、けれどもやっぱりおいらの気持はわからねえ」
三次郎は不満を吐きだすように呟《つぶや》いた。
「灘七や和貞のような、ありきたりの仕事をするんなら苦労はしやあしねえ、こっちは骨身をけずってるんだ。親方だけはこの気持を知ってくれてると思ったのに、……やっぱりただの世間人《せけんにん》だ」
ときどき風が埃《ほこり》を巻いて行った、午《ひる》さがりの日かげのないときで、少しあるくと背筋へ汗がながれ、大鋸町《おおがちょう》の親方の家から白銀町《しろがねちょう》の堺屋《さかいや》の店までゆくあいだに、三次郎はなんども辻《つじ》に立ちどまっては、汗をふき、ふところをひろげて風をいれた。
界屋は両替商で地金屋《じがねや》をかねていた。むろん金と銀は許されない、赤銅《すあか》、銅、鉄、真鍮《しんちゅう》などである。三次郎は鉄と真鍮の板金《いたがね》を買った、四五年まえからのなじみで、この店だけは勘定をためたことがなかった。それで番頭から小僧までいつもあいそ[#「あいそ」に傍点]がよかったが、今日の三次郎にはそんなことさえ気にいらなかった。
「いかがです、こんどはだいぶお骨折りのようすですが、いよいよあなたも組立てにおかかりですか」
若い手代の佐吉というのがそう云った。
「一昨日《おととい》でしたか、灘屋さんがみえましたっけ、文字|板《いた》の象眼鍍金《ぞうがんめっき》を置いてらっしゃいましたが、もうよほどお進みのようでございましたよ」
「おいらあそんなちょく[#「ちょく」に傍点]わけにゃあいかねえのさ」
三次郎は地金板を包みながら突っぱねるように云った。
「世間にゃあ三日で作れ、おいきたってえ仕事もありゃあ、三年の日切《ひぎり》を五年に延ばしたって足りねえ仕事があるんだ。白痴《こけ》が飛脚《ひきゃく》をしやあしめえし、間にあえば正月だという手合たあ付き合えねえ」
「いいことをおっしゃいますね、なるほどそれでなくちゃあいけません、やっぱり名人と云われる人はお考えが違いますからね」
そう云って追従《ついしょう》笑いをする声が、三次郎をちりけ[#「ちりけ」に傍点]もとからぞっとさせた、本当に水を浴びたような気持だった。彼は逃げるように店をとびだした。
――ええくそ、のんでやれ。
「……仕事は、やっています」
「図引きは出来たのか」
三次郎は答えなかった。徳兵衛はきせる[#「きせる」に傍点]をぱたりと置きながら、
「おれは錺職人《かざりしょくにん》だ、土圭《とけい》つくりなんというむずかしい仕事はわからない、だから余計なことを云《い》うつもりはないけれども、灘七《なだしち》さんや和貞《わてい》さんはもう組立てにかかったという評判だぜ、おまえそれで間に合うつもりなのかい」
「……それはわかりません」
ぶすっとした調子だった。
「わかりませんけれども、あたしの仕事は、ただ期限に間に合えばいいというようなものじゃないんです」
「だが島津《しまづ》さまへ納めるのはこの九月が期限だと云ったはずじゃあないか」
「納める期限があっても、気にいった品が出来なければしかたがありません。あたしには間に合わせのために雑なものを作るような、けちなまねはできませんから……」
「そうかい」
徳兵衛はむっとしたが、しかし色にはみせず、立って金を取りに行って来た。三次郎の前へ半紙を置き、小粒を四つならべて、
「さあ一両、持っていきな」
「すみません、ありがとうございます」
「なあ三次郎」徳兵衛はきせる[#「きせる」に傍点]へ煙草《たばこ》をつめながら、つとめてなにげない調子で云った。
「おまえの仕事を大事にする気持はいいが、職人というものは期限を守るのもたいせつだぜ。世間でよく名人|気質《かたぎ》などということを云うけれども、どんな名人|上手《じょうず》だって世間の飯を食ってるからには、世間の約束をおろそかに思っちゃあならない。いいか、これは意見でも小言でもない、ただおれの気持を云ってみたまでのことだが、おまえそうは思えないか」
「……へえ」
三次郎は自分の膝をみつめたまま云った。
「なにしろあたしは、ごまかし[#「ごまかし」に傍点]のきかないたちでございますから」
「ごまかし[#「ごまかし」に傍点]……?」てめえはと云いかけて、徳兵衛はぐっとその言葉をのみ、そっぽを向いた。
「まあいいや、しっかりやりな」
「……ありがとうございます」
親方の顔は見ずに、三次郎は会釈《えしゃく》をして立った。そとは梅雨あがりのからりと晴れた日だった。木々の葉に、街の屋根に、白くかわいた道の上に、ぎらぎらと照りつけ八る日が眼《め》に痛かった。
「……親方はいいひとだ、けれどもやっぱりおいらの気持はわからねえ」
三次郎は不満を吐きだすように呟《つぶや》いた。
「灘七や和貞のような、ありきたりの仕事をするんなら苦労はしやあしねえ、こっちは骨身をけずってるんだ。親方だけはこの気持を知ってくれてると思ったのに、……やっぱりただの世間人《せけんにん》だ」
ときどき風が埃《ほこり》を巻いて行った、午《ひる》さがりの日かげのないときで、少しあるくと背筋へ汗がながれ、大鋸町《おおがちょう》の親方の家から白銀町《しろがねちょう》の堺屋《さかいや》の店までゆくあいだに、三次郎はなんども辻《つじ》に立ちどまっては、汗をふき、ふところをひろげて風をいれた。
界屋は両替商で地金屋《じがねや》をかねていた。むろん金と銀は許されない、赤銅《すあか》、銅、鉄、真鍮《しんちゅう》などである。三次郎は鉄と真鍮の板金《いたがね》を買った、四五年まえからのなじみで、この店だけは勘定をためたことがなかった。それで番頭から小僧までいつもあいそ[#「あいそ」に傍点]がよかったが、今日の三次郎にはそんなことさえ気にいらなかった。
「いかがです、こんどはだいぶお骨折りのようすですが、いよいよあなたも組立てにおかかりですか」
若い手代の佐吉というのがそう云った。
「一昨日《おととい》でしたか、灘屋さんがみえましたっけ、文字|板《いた》の象眼鍍金《ぞうがんめっき》を置いてらっしゃいましたが、もうよほどお進みのようでございましたよ」
「おいらあそんなちょく[#「ちょく」に傍点]わけにゃあいかねえのさ」
三次郎は地金板を包みながら突っぱねるように云った。
「世間にゃあ三日で作れ、おいきたってえ仕事もありゃあ、三年の日切《ひぎり》を五年に延ばしたって足りねえ仕事があるんだ。白痴《こけ》が飛脚《ひきゃく》をしやあしめえし、間にあえば正月だという手合たあ付き合えねえ」
「いいことをおっしゃいますね、なるほどそれでなくちゃあいけません、やっぱり名人と云われる人はお考えが違いますからね」
そう云って追従《ついしょう》笑いをする声が、三次郎をちりけ[#「ちりけ」に傍点]もとからぞっとさせた、本当に水を浴びたような気持だった。彼は逃げるように店をとびだした。
――ええくそ、のんでやれ。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
暑気ばらいの焼酎《しょうちゅう》を、水に割ってのんだのがはじめで、しまいにはどこをどうまわったかわからぬまでのみあるき、薬研堀《やげんぼり》の家へ帰ったのは夜の十二時ちかくだった。
女房のお兼《かね》はまだ起きていた。仕事場をのけてはひと間っきりの六畳で、行燈《あんどん》をひき寄せてなにか縫っていたが、帰って来た良人《おっと》のほうには眼も向けなかった。
「おい、仕事場へ灯《あかり》をいれてくれ」
三次郎はそう云い捨てて杉戸《すぎど》をあけた。仕事場といっても畳数で八畳、一方が掃き出しのぬれ縁、一方が小窓、あとは板壁の殺風景なものだった。鑢台《やすりだい》を中心にして用箪笥《ようだんす》や幾つもの木箱があり、中にはさまざまの歯車や、軸や、枠《わく》などがはいっている。そこらはいちめんに金の削り屑《くず》で、足の踏み場もないありさまだった。
「おい、灯を持って来ねえのか」
三次郎はどなりながら、地金板の包みを投げだして鑢台の前に坐《すわ》った。返辞はなかったけれど、やがて兼がやって来て燭台《しょくだい》に灯をいれた。そしてそのまま黙って出ていった。
頭の蕊《しん》はさえているが、からだは泥《どろ》のように酔っている。彼は用箪笥の抽出《ひきだし》から下図をとりだして燭《あかり》の下にひろげた。全部で四五十枚はあろう、複雑な線と歯車のつながる設計図で、見るだけでも眼がちらくらするような精密なものだった。
「ええい、なっちゃあいねえや!」
ふいにそうわめくと、彼は下図の束をほうり投げ、仰向けにどしんと身を倒した。
三次郎は越前堀《えちぜんぼり》で生まれた。父はしがない叩《たた》き大工だったが、彼が七歳のとき死んだ。それで大鋸町の高橋屋徳兵衛のもとへ、母のお力《りき》といっしょに引き取られた。徳兵衛は錺職だったが、職人も三十人ほど使い、なかま内《うち》ではかしら[#「かしら」に傍点]株としてたてられていた。三次郎の亡父とは従兄弟《いとこ》にあたる縁で、母子《おやこ》の面倒をみることになったのである。
母親はそこで下働きのようなことをしていたが、もともと体の弱いひとで、いつも額の蒼白いのが目だっていた。親子で世話になっているというひけ目もあって、無理を押し続けたのが悪かったのであろう、三年とたたぬうちに、労咳《ろうがい》というものを病んで良人のあとを追った。徳兵衛はそのとき三次郎を呼んで、
――泣くんじゃあない、今日からおれがおまえの親父《おやじ》だ、おまえのことはおれがふた親になり代わって面倒をみてやる。いいか、高橋屋の子になったつもりでしっかりやれ、おまえが一人前の職人になるまでは、お父さんもお母《っか》さんもうかばれないんだから、そいつを忘れずにしっかりやるんだぞ。
自分でも泪《なみだ》をふきふきそう云った。
徳兵衛は親以上の親だった。自分にも男の子が二人あって、これはずいぶん厳しくしつけていたが、三次郎には人が違うように甘かった。どんなわがままを云っても三次郎ならきいてくれた。……彼が十八歳のとき、習い覚えた錺職をやめて、時計師になりたいと云いだしたときも、仕事の筋がずばぬけていただけずいぶん反対したいらしかったが、
――おまえがどうでも成りたいと云うんならやってみな、ただし中途でいやになったからって云うくらいならやめたほうがいいぜ。
そう云って許してくれた。
漏刻《ろうこく》とか水時計《みずどけい》とかいう原始的なものは別として、歯車組織の機械時計というものが、はじめて日本へ渡来したのは天文十九年(一五五〇年)のことである。葡萄牙《ポルトガル》の布教師ザビエルが持って来たもので、周防《すおう》の大内義隆《おおうちよしたか》に献納した。そののち、天正十九年(一五九一年)、羅馬《ローマ》使節の一行が、やはり機械時計を持って幕り、慶長十一年(一六〇六年)にはやはり布教師が家康に献納している。文字盤の字は羅馬数字で、動力はゼンマイだった。……これらの渡来品を土台にして、日本人が自分の手で時計を作りだしたのは、尾張《おわり》の津田助左衛門《つだすけざえもん》が最初だと伝えられる。その後おいおいと時計師というものがあらわれたが、なにしろ十分な材料もない時代に、ほとんど鑢一|梃《ちょう》でこつこつ仕上げるのだから、その労力だけでも想像以上の困難な仕事だった。一個の時計を作りあげるのに、数年を要するものも少なくなかったのである。
京橋岩町河岸の小林八郎兵衛という時計師の店へ弟子入りをした三次郎は、錺職でずばぬけていただけ板金《いたがね》の扱いは手のものだし、好きと才能が合ったものかめきめきと腕をあげた。そして二十四歳の年にひとり立ちになり、八郎兵衛の世話でお兼を女房にもらったうえ、この薬研堀の裏へ家を持ったのである。
その当時はまだ時計は大名道具だった。町家《ちょうや》でも使わなくはないが、製作に日数と手間が掛かるので、しぜん価《あたい》が高値になる。それでもざっ通《とお》りな品《しな》なら、作りさえすれば必ず売れるので、ふつう時計師といわれる者はかなりめぐまれた商売にはなったのである。……しかし三次郎はざつ[#「ざつ」に傍点]な仕事はしなかった。人には作れない物、人の考えない新奇な工夫、いつもそれを第一にしていた。そうすれば材料も手間もよけいかかるし、製品が高価になるのは当然で、出来てもなかなかおいそれと買い手はつかない。したがっていつもひどい貧乏に追われていた。
女房のお兼《かね》はまだ起きていた。仕事場をのけてはひと間っきりの六畳で、行燈《あんどん》をひき寄せてなにか縫っていたが、帰って来た良人《おっと》のほうには眼も向けなかった。
「おい、仕事場へ灯《あかり》をいれてくれ」
三次郎はそう云い捨てて杉戸《すぎど》をあけた。仕事場といっても畳数で八畳、一方が掃き出しのぬれ縁、一方が小窓、あとは板壁の殺風景なものだった。鑢台《やすりだい》を中心にして用箪笥《ようだんす》や幾つもの木箱があり、中にはさまざまの歯車や、軸や、枠《わく》などがはいっている。そこらはいちめんに金の削り屑《くず》で、足の踏み場もないありさまだった。
「おい、灯を持って来ねえのか」
三次郎はどなりながら、地金板の包みを投げだして鑢台の前に坐《すわ》った。返辞はなかったけれど、やがて兼がやって来て燭台《しょくだい》に灯をいれた。そしてそのまま黙って出ていった。
頭の蕊《しん》はさえているが、からだは泥《どろ》のように酔っている。彼は用箪笥の抽出《ひきだし》から下図をとりだして燭《あかり》の下にひろげた。全部で四五十枚はあろう、複雑な線と歯車のつながる設計図で、見るだけでも眼がちらくらするような精密なものだった。
「ええい、なっちゃあいねえや!」
ふいにそうわめくと、彼は下図の束をほうり投げ、仰向けにどしんと身を倒した。
三次郎は越前堀《えちぜんぼり》で生まれた。父はしがない叩《たた》き大工だったが、彼が七歳のとき死んだ。それで大鋸町の高橋屋徳兵衛のもとへ、母のお力《りき》といっしょに引き取られた。徳兵衛は錺職だったが、職人も三十人ほど使い、なかま内《うち》ではかしら[#「かしら」に傍点]株としてたてられていた。三次郎の亡父とは従兄弟《いとこ》にあたる縁で、母子《おやこ》の面倒をみることになったのである。
母親はそこで下働きのようなことをしていたが、もともと体の弱いひとで、いつも額の蒼白いのが目だっていた。親子で世話になっているというひけ目もあって、無理を押し続けたのが悪かったのであろう、三年とたたぬうちに、労咳《ろうがい》というものを病んで良人のあとを追った。徳兵衛はそのとき三次郎を呼んで、
――泣くんじゃあない、今日からおれがおまえの親父《おやじ》だ、おまえのことはおれがふた親になり代わって面倒をみてやる。いいか、高橋屋の子になったつもりでしっかりやれ、おまえが一人前の職人になるまでは、お父さんもお母《っか》さんもうかばれないんだから、そいつを忘れずにしっかりやるんだぞ。
自分でも泪《なみだ》をふきふきそう云った。
徳兵衛は親以上の親だった。自分にも男の子が二人あって、これはずいぶん厳しくしつけていたが、三次郎には人が違うように甘かった。どんなわがままを云っても三次郎ならきいてくれた。……彼が十八歳のとき、習い覚えた錺職をやめて、時計師になりたいと云いだしたときも、仕事の筋がずばぬけていただけずいぶん反対したいらしかったが、
――おまえがどうでも成りたいと云うんならやってみな、ただし中途でいやになったからって云うくらいならやめたほうがいいぜ。
そう云って許してくれた。
漏刻《ろうこく》とか水時計《みずどけい》とかいう原始的なものは別として、歯車組織の機械時計というものが、はじめて日本へ渡来したのは天文十九年(一五五〇年)のことである。葡萄牙《ポルトガル》の布教師ザビエルが持って来たもので、周防《すおう》の大内義隆《おおうちよしたか》に献納した。そののち、天正十九年(一五九一年)、羅馬《ローマ》使節の一行が、やはり機械時計を持って幕り、慶長十一年(一六〇六年)にはやはり布教師が家康に献納している。文字盤の字は羅馬数字で、動力はゼンマイだった。……これらの渡来品を土台にして、日本人が自分の手で時計を作りだしたのは、尾張《おわり》の津田助左衛門《つだすけざえもん》が最初だと伝えられる。その後おいおいと時計師というものがあらわれたが、なにしろ十分な材料もない時代に、ほとんど鑢一|梃《ちょう》でこつこつ仕上げるのだから、その労力だけでも想像以上の困難な仕事だった。一個の時計を作りあげるのに、数年を要するものも少なくなかったのである。
京橋岩町河岸の小林八郎兵衛という時計師の店へ弟子入りをした三次郎は、錺職でずばぬけていただけ板金《いたがね》の扱いは手のものだし、好きと才能が合ったものかめきめきと腕をあげた。そして二十四歳の年にひとり立ちになり、八郎兵衛の世話でお兼を女房にもらったうえ、この薬研堀の裏へ家を持ったのである。
その当時はまだ時計は大名道具だった。町家《ちょうや》でも使わなくはないが、製作に日数と手間が掛かるので、しぜん価《あたい》が高値になる。それでもざっ通《とお》りな品《しな》なら、作りさえすれば必ず売れるので、ふつう時計師といわれる者はかなりめぐまれた商売にはなったのである。……しかし三次郎はざつ[#「ざつ」に傍点]な仕事はしなかった。人には作れない物、人の考えない新奇な工夫、いつもそれを第一にしていた。そうすれば材料も手間もよけいかかるし、製品が高価になるのは当然で、出来てもなかなかおいそれと買い手はつかない。したがっていつもひどい貧乏に追われていた。
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
借金に次ぐ借金、ぬける当てのない貧苦のなかで、しかし三次郎はよく頑張《がんば》った。
――飢え死をしたっておれにはざつな仕事はできねえ。食うだけなら乞食《こじき》だって食う、間に合せの仕事をするくらいならいっそ乞食をするほうが本筋だ。
彼はそう云っていた。石にかじりついてもという気持で四年やって来たところへ、その春のはじめに、薩摩藩《さつまはん》島津家から競作の注文がでた。灘屋七之助、和田貞次郎、そして三次郎の三名に、九月を切って一個ずつ時計を作らせる、その出来ばえのよい者を御抱《おかか》え時計師にするという条件だった。
……灘七も和貞もその道の先輩で、すでにかなりの名作を持っていたが、三次郎にはとっておきの工夫があった。この工夫さえ完成すれば誰《だれ》にも負けない自信があったので、よろこんでひき受けた。
彼の工夫というのは、現在のオルゴオルのように、時が来ると歌曲を鳴らす仕掛けだった。それまでにもわずかな音階を鳴らすものは舶来品にあったが、和時計として、しかもある曲目を奏するものはなかった。彼は琴曲《きんきょく》の「六段」の序を鳴らすものを作ろうと考えたのである。それはかねてからの懸案だったし、本腰をいれて掛かれば工夫はつくものと思っていた。ところがいざとり掛かってみるとむずかしかった。すぐ眼の前に解けかかっているようでいて緒口《いとぐち》がほぐれない、時はずんずんたつし、貧苦も容赦はなかった。
――おれはざつ[#「ざつ」に傍点]な仕事はしねえんだ。
そういう自負が支えてくれるほかには、彼にはもう頼るものがないところまで追いつめられていたのである。
ひどい喉《のど》のかわきで三次郎は眼がさめた。
明るい朝の光が雨戸のすき間から美しくさしこんでいる、あのまま眠ってしまったものであろう、ごろ寝の上に、それでも蚊屋《かや》がつってあった。枕《まくら》もとをみたが水がきていなかったので、ひょいと起きあがると、格子《こうし》のあく音がして誰か来た。
――朝っぱらからまたか。
ながい習慣で人がくると借金取りだなと思う、舌打ちをしてまた仰向けになるところへ、お兼がはいって来た。
「おまえさん財布をくださいな」
「財布はそこにあるが、中はからだぜ」
「だって、……きのう大鋸町《おおがちょう》さんへ行ったんでしょう」
「大鋸町へ借りに行ったのは地金《じがね》を買う金だ」
「それにしちゃあ御機嫌《ごきげん》でしたね」
お兼は声をふるわして云った。
「なんだと!」
「ゆうべはたいそう御機嫌だったと云うんです、御機嫌ついでに借金の云いわけもしてくださいな、あたしにはもう云いわけの種も尽きましたからね、おたのみ申しますよ」
三次郎は突きとばされたように立った、お兼は打たれでもすると思ったか、ひょいと身をひねったが、三次郎はずかずかと出て行った。上《あが》り框《かまち》に半纏着《はんてんぎ》で尻端折《しりはしょ》りをした男が立っていた。
「おめえなに屋だ」
ずかずかと出ていきなりそうどなったから、相手はちょっとめんくらったらしい。
「上総屋《かずさや》でございます、米屋でございますよ」
「米屋だろうが薪屋《まきや》だろうが、勘定ならいま銭はねえ、また出直して来てくれ」
「けれどもずいぶんお長くなりますから」
「おいらの仕事は長くなるんだ、おめえんとこのように届けさえすれば勘定のとれる商売じゃあねえ、半年も一年も精根をけずってやっと一つ出来るか出来ねえという仕事をしているんだ。きのうやきょうの出入りならべつだが、そのくらいなことはわかっていそうなもんじゃねえか」
「ようござんす、それじゃあまた伺うとしましょう」
米屋はしずかに見あげながら云った。
「それから、都合のつくまでは米もお届け申しますよ、だがねえ親方、おまえさんが時計師ならあたしは米屋だ、時計作りは精根をけずるが米屋はちょろっかに出来るというわけのものじゃあない、職となればなに職だって骨が折れる、みんな精根をうちこんでやってるんだ。……どこにだって都合があるんだから、いま払えないものをもらおうとは云いません。世間は持ちつ持たれつなんだ、おまえさんのように自分ひとりが偉そうに、そうぽんぽん云うことはありませんぜ」
だが米は今までどおり届けますと云って、米屋はさっさと帰って行った。
三次郎はなんにも云わずに台所へとびこみ、水瓶《みずがめ》からじかに、柄杓《ひしゃく》でがぶがぶと水をあおった。そして仕事場へ戻《もど》ろうとすると、小さな風呂敷包《ふろしきづつみ》をこしらえていたお兼が、妙に改まったようすで呼び止めた。
「……なんだ」
「あたしはお暇をいただきます」
「なに?」
「できるだけは辛抱してきましたが、あたしにはとても勤まりません。実家《さと》へ帰らしていただきます」
三次郎は身のまわりのなにもかもが、一時にがらがらと総崩れになるような気持を、感じ、お兼の眼をにらみつけたまま棒立ちになっていた。……露路口《ろじぐち》の柿《かき》の木でやかましく蝉《せみ》が鳴きだした。
――飢え死をしたっておれにはざつな仕事はできねえ。食うだけなら乞食《こじき》だって食う、間に合せの仕事をするくらいならいっそ乞食をするほうが本筋だ。
彼はそう云っていた。石にかじりついてもという気持で四年やって来たところへ、その春のはじめに、薩摩藩《さつまはん》島津家から競作の注文がでた。灘屋七之助、和田貞次郎、そして三次郎の三名に、九月を切って一個ずつ時計を作らせる、その出来ばえのよい者を御抱《おかか》え時計師にするという条件だった。
……灘七も和貞もその道の先輩で、すでにかなりの名作を持っていたが、三次郎にはとっておきの工夫があった。この工夫さえ完成すれば誰《だれ》にも負けない自信があったので、よろこんでひき受けた。
彼の工夫というのは、現在のオルゴオルのように、時が来ると歌曲を鳴らす仕掛けだった。それまでにもわずかな音階を鳴らすものは舶来品にあったが、和時計として、しかもある曲目を奏するものはなかった。彼は琴曲《きんきょく》の「六段」の序を鳴らすものを作ろうと考えたのである。それはかねてからの懸案だったし、本腰をいれて掛かれば工夫はつくものと思っていた。ところがいざとり掛かってみるとむずかしかった。すぐ眼の前に解けかかっているようでいて緒口《いとぐち》がほぐれない、時はずんずんたつし、貧苦も容赦はなかった。
――おれはざつ[#「ざつ」に傍点]な仕事はしねえんだ。
そういう自負が支えてくれるほかには、彼にはもう頼るものがないところまで追いつめられていたのである。
ひどい喉《のど》のかわきで三次郎は眼がさめた。
明るい朝の光が雨戸のすき間から美しくさしこんでいる、あのまま眠ってしまったものであろう、ごろ寝の上に、それでも蚊屋《かや》がつってあった。枕《まくら》もとをみたが水がきていなかったので、ひょいと起きあがると、格子《こうし》のあく音がして誰か来た。
――朝っぱらからまたか。
ながい習慣で人がくると借金取りだなと思う、舌打ちをしてまた仰向けになるところへ、お兼がはいって来た。
「おまえさん財布をくださいな」
「財布はそこにあるが、中はからだぜ」
「だって、……きのう大鋸町《おおがちょう》さんへ行ったんでしょう」
「大鋸町へ借りに行ったのは地金《じがね》を買う金だ」
「それにしちゃあ御機嫌《ごきげん》でしたね」
お兼は声をふるわして云った。
「なんだと!」
「ゆうべはたいそう御機嫌だったと云うんです、御機嫌ついでに借金の云いわけもしてくださいな、あたしにはもう云いわけの種も尽きましたからね、おたのみ申しますよ」
三次郎は突きとばされたように立った、お兼は打たれでもすると思ったか、ひょいと身をひねったが、三次郎はずかずかと出て行った。上《あが》り框《かまち》に半纏着《はんてんぎ》で尻端折《しりはしょ》りをした男が立っていた。
「おめえなに屋だ」
ずかずかと出ていきなりそうどなったから、相手はちょっとめんくらったらしい。
「上総屋《かずさや》でございます、米屋でございますよ」
「米屋だろうが薪屋《まきや》だろうが、勘定ならいま銭はねえ、また出直して来てくれ」
「けれどもずいぶんお長くなりますから」
「おいらの仕事は長くなるんだ、おめえんとこのように届けさえすれば勘定のとれる商売じゃあねえ、半年も一年も精根をけずってやっと一つ出来るか出来ねえという仕事をしているんだ。きのうやきょうの出入りならべつだが、そのくらいなことはわかっていそうなもんじゃねえか」
「ようござんす、それじゃあまた伺うとしましょう」
米屋はしずかに見あげながら云った。
「それから、都合のつくまでは米もお届け申しますよ、だがねえ親方、おまえさんが時計師ならあたしは米屋だ、時計作りは精根をけずるが米屋はちょろっかに出来るというわけのものじゃあない、職となればなに職だって骨が折れる、みんな精根をうちこんでやってるんだ。……どこにだって都合があるんだから、いま払えないものをもらおうとは云いません。世間は持ちつ持たれつなんだ、おまえさんのように自分ひとりが偉そうに、そうぽんぽん云うことはありませんぜ」
だが米は今までどおり届けますと云って、米屋はさっさと帰って行った。
三次郎はなんにも云わずに台所へとびこみ、水瓶《みずがめ》からじかに、柄杓《ひしゃく》でがぶがぶと水をあおった。そして仕事場へ戻《もど》ろうとすると、小さな風呂敷包《ふろしきづつみ》をこしらえていたお兼が、妙に改まったようすで呼び止めた。
「……なんだ」
「あたしはお暇をいただきます」
「なに?」
「できるだけは辛抱してきましたが、あたしにはとても勤まりません。実家《さと》へ帰らしていただきます」
三次郎は身のまわりのなにもかもが、一時にがらがらと総崩れになるような気持を、感じ、お兼の眼をにらみつけたまま棒立ちになっていた。……露路口《ろじぐち》の柿《かき》の木でやかましく蝉《せみ》が鳴きだした。
[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]
いちどは畜生と思った、なにくそと思った、けれどもそんな反射的なあたまで緻密《ちみつ》な機械の工夫がつくものではない。
――もう灘七も和貞も組立てにかかっている。
――職人は期限を守るのもたいせつだ。
そんな言葉が耳の奥でがんがん響く、島津家の期限の「九月」という字が、重石《おもし》のように肩へのしかかってくる。
「ええ、どうともなれ」
三次郎は家をとびだした。身のまわりで絶えず、なにかがらがらとくずれゆく気持だった。彼は四年のあいだに「名作」とも云うべき時計を三つ作っている、それは後世にのこして恥ずかしからぬ作だと信じているが、世間はその真価を認めてくれなかった。三作とも結局は、追われる生活のために安い値段で手放さなければならなかった。三次郎はいま、そのときのくやし泣きを思いだした。
「どうせ俗物ぞろいの世間だ、おれの本当のねうちは誰にもわかりゃしねえんだ、へ、あくせくするこたあねえや」
そうすることが世間への面当《つらあて》でもあるかのように、彼はなにもかもほうりだして酒へはしった。
三次郎の気質を知っている長屋の人々は、お兼が自分から出て行ったと聞いてひどく同情を寄せた。近所の女房たちはよく食べ物をこしらえて来てくれたり、手まめに洗い物をしてくれたりした、しかしそれは当座のことだった、五日とたち十日と過ぎるうちには、いつも泥のように酔って帰る彼の姿をみると、みんなそっぽを向くようになった。……四年間の貧苦で、めぼしい物はなにもなかったが、彼はそのないなか如から叩き出すように、あらいざらい売って飲み、恥も外聞もなく小銭を借りまわって飲んだ。人々はある夜、彼が居酒店からほうりだされる姿を見た、またある雨の夜に、露路口の柿の木の根元で酔いつぶれているのを見た、……そして、二十日あまりたったある日、三次郎はその長屋から姿を消した。
「いい気性の男だったがな、運が悪くなると人間しようがねえものだ」
「年は若いがあれでも時計師なかまじゃ名人と呼ばれていたそうだ」
そんな噂《うわさ》がひとしきり長屋をにぎわしていた。そしてある日、大鋸町の高橋屋徳兵衛がやって来た、徳兵衛はなにも知らなかった、それでいろいろ三次郎のゆくえをききまわったが、あれ以来だれも見かけた者がなく、むろん居どころを知った者もなかった。彼は家主に会い、半日ばかりなにか懇々と話していたが、やがてしょんぼりと帰って行った、まるで一人息子をなくした老父のような姿だった。
秋といっても八月はまだ残暑がひどかった。その年の夏のとっかかりから、浅草奥山にかかっていた「南京手妻戯団《なんきんてづまぎだん》」の興行は大当りで、八月にはいっても連日押せ押せの入りをとっていた。
朝からさえなかった空が、午《ひる》をすぎると雨|催《もよ》いに曇ってひんやりと肌《はだ》にしみる風がはたはたと幡旗《はんき》をはためかせていた、それでも掛け小屋の中は九分の入りで、銅鑼《どら》や胡弓《こきゅう》などの疳高《かんだか》い楽音《がくおん》のあいまあいまに、どっとはやし立てる見物の声が景気よくわきたっていた。……舞台では五人組の皿廻《さらまわ》しが終わったあとでいましも道化の口上役が、片言の日本語で次の芸題《げだい》を述べていた。見物たちにはなじみのものとみえ、口上のなかばからさかんな声援だったが、やがて舞台へ男女ふたりの芸人が出て来ると、いっぺんに騒ぎがしずまり、小屋じゅうが水を打ったようにしん[#「しん」に傍点]としてしまった。
見物席へかるく一|揖《ゆう》した男女は左右へわかれた。舞台の上手《かみて》に畳一畳ほどの厚い板が立ててある、女はその板へ背中を当て、両腕をひろげて立った。ちょうど磔《はりつけ》になったような形である。男は下手に立った、そばの小机の上には、両刃の小さな鋭い短剣が三十本ばかり置いてある、まずその一本を取った男は、きっと眼をあげて女をにらんだ。……
「しっかり頼むぞ!」
見物席から叫んだ者があった。
「叱《し》っ黙れ、田舎者」
すぐに制止のわめきが起こって、期待と昂奮《こうふん》に満ちた沈黙が人々をおさえつけた。
女は男の眼をみつめた、男も短剣を右手にして女の眼をみつめた、五秒、十秒、……やがて男がすっと右手をあげるとみた。刹那《せつな》、短剣が空をきって飛び、女の頭上すれすれに後ろの板へ突き立った。あっ[#「あっ」に傍点]と云うまもない、つづいて男の手から糸をひくように、きらりきらりと短剣が飛び、それが手をひろげて立った女のからだの周囲へ、まるで輪劃《りんかく》を描くように、つぎつぎとみごとに突き立っていった。
わあっわっと、どよみあがる見物の喝采《かっさい》をあびながら、ふたりの南京芸人が愛想よく舞台をひっこんだとき、みすぼらしいなりをした若者がひとり、見物の群衆をかきわけて小屋のそとへ出て行った。まるで瘧《おこり》にかかったように全身がふるえていた、そとはぽつぽつと降りだしていた。
――もう灘七も和貞も組立てにかかっている。
――職人は期限を守るのもたいせつだ。
そんな言葉が耳の奥でがんがん響く、島津家の期限の「九月」という字が、重石《おもし》のように肩へのしかかってくる。
「ええ、どうともなれ」
三次郎は家をとびだした。身のまわりで絶えず、なにかがらがらとくずれゆく気持だった。彼は四年のあいだに「名作」とも云うべき時計を三つ作っている、それは後世にのこして恥ずかしからぬ作だと信じているが、世間はその真価を認めてくれなかった。三作とも結局は、追われる生活のために安い値段で手放さなければならなかった。三次郎はいま、そのときのくやし泣きを思いだした。
「どうせ俗物ぞろいの世間だ、おれの本当のねうちは誰にもわかりゃしねえんだ、へ、あくせくするこたあねえや」
そうすることが世間への面当《つらあて》でもあるかのように、彼はなにもかもほうりだして酒へはしった。
三次郎の気質を知っている長屋の人々は、お兼が自分から出て行ったと聞いてひどく同情を寄せた。近所の女房たちはよく食べ物をこしらえて来てくれたり、手まめに洗い物をしてくれたりした、しかしそれは当座のことだった、五日とたち十日と過ぎるうちには、いつも泥のように酔って帰る彼の姿をみると、みんなそっぽを向くようになった。……四年間の貧苦で、めぼしい物はなにもなかったが、彼はそのないなか如から叩き出すように、あらいざらい売って飲み、恥も外聞もなく小銭を借りまわって飲んだ。人々はある夜、彼が居酒店からほうりだされる姿を見た、またある雨の夜に、露路口の柿の木の根元で酔いつぶれているのを見た、……そして、二十日あまりたったある日、三次郎はその長屋から姿を消した。
「いい気性の男だったがな、運が悪くなると人間しようがねえものだ」
「年は若いがあれでも時計師なかまじゃ名人と呼ばれていたそうだ」
そんな噂《うわさ》がひとしきり長屋をにぎわしていた。そしてある日、大鋸町の高橋屋徳兵衛がやって来た、徳兵衛はなにも知らなかった、それでいろいろ三次郎のゆくえをききまわったが、あれ以来だれも見かけた者がなく、むろん居どころを知った者もなかった。彼は家主に会い、半日ばかりなにか懇々と話していたが、やがてしょんぼりと帰って行った、まるで一人息子をなくした老父のような姿だった。
秋といっても八月はまだ残暑がひどかった。その年の夏のとっかかりから、浅草奥山にかかっていた「南京手妻戯団《なんきんてづまぎだん》」の興行は大当りで、八月にはいっても連日押せ押せの入りをとっていた。
朝からさえなかった空が、午《ひる》をすぎると雨|催《もよ》いに曇ってひんやりと肌《はだ》にしみる風がはたはたと幡旗《はんき》をはためかせていた、それでも掛け小屋の中は九分の入りで、銅鑼《どら》や胡弓《こきゅう》などの疳高《かんだか》い楽音《がくおん》のあいまあいまに、どっとはやし立てる見物の声が景気よくわきたっていた。……舞台では五人組の皿廻《さらまわ》しが終わったあとでいましも道化の口上役が、片言の日本語で次の芸題《げだい》を述べていた。見物たちにはなじみのものとみえ、口上のなかばからさかんな声援だったが、やがて舞台へ男女ふたりの芸人が出て来ると、いっぺんに騒ぎがしずまり、小屋じゅうが水を打ったようにしん[#「しん」に傍点]としてしまった。
見物席へかるく一|揖《ゆう》した男女は左右へわかれた。舞台の上手《かみて》に畳一畳ほどの厚い板が立ててある、女はその板へ背中を当て、両腕をひろげて立った。ちょうど磔《はりつけ》になったような形である。男は下手に立った、そばの小机の上には、両刃の小さな鋭い短剣が三十本ばかり置いてある、まずその一本を取った男は、きっと眼をあげて女をにらんだ。……
「しっかり頼むぞ!」
見物席から叫んだ者があった。
「叱《し》っ黙れ、田舎者」
すぐに制止のわめきが起こって、期待と昂奮《こうふん》に満ちた沈黙が人々をおさえつけた。
女は男の眼をみつめた、男も短剣を右手にして女の眼をみつめた、五秒、十秒、……やがて男がすっと右手をあげるとみた。刹那《せつな》、短剣が空をきって飛び、女の頭上すれすれに後ろの板へ突き立った。あっ[#「あっ」に傍点]と云うまもない、つづいて男の手から糸をひくように、きらりきらりと短剣が飛び、それが手をひろげて立った女のからだの周囲へ、まるで輪劃《りんかく》を描くように、つぎつぎとみごとに突き立っていった。
わあっわっと、どよみあがる見物の喝采《かっさい》をあびながら、ふたりの南京芸人が愛想よく舞台をひっこんだとき、みすぼらしいなりをした若者がひとり、見物の群衆をかきわけて小屋のそとへ出て行った。まるで瘧《おこり》にかかったように全身がふるえていた、そとはぽつぽつと降りだしていた。
[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]
徳兵衛はだまっていた、腕組みをしたままだまって三次郎をみていた。軒《のき》をうつ雨の音がしみじみと初秋の季節を感じさせる、げっそりとやせ、鬢髪《びんぱつ》のおどろに乱れた三次郎の横顔を、行燈《あんどん》の光が幽鬼の面のようにうつしだしていた。
「ただ勘弁してくれじゃあわからない」
徳兵衛はやがて低いこえで云った。
「悪かったの、勘弁しろのと、人間困ると口ではどんなことでも云うもんだ、おらあそんな泣き言は聞きたくはないぜ」
「そうおっしゃるのはごもっともです、あたしもいまさら親方の前へ、勘弁してくださいと出られた義理でないことは知っています。だから本当は、……勘弁していただこうなどとは思っちゃあいません」
「じゃあなんのために来たんだ」
「お詫《わ》びが云いたかったんです、二十年ちかい育ての御恩がどんなにありがたいものだったか、今日はじめてわかったんです。いい気に甘えて、のさばっていた自分のばかさが今日はじめてわかったんです」
三次郎はくくと喉を鳴らしながら、畳へ額をすりつけた。
「親方、堪忍しておくんなさい」
骨のみえるような肩から背へ波をうち、くいしばった歯の間から、むせびあげる声が悲痛にもれた。そうしてむせびあげつつ、
「今日あたしは、奥山で南京人の見世物をぼんやり見ていました」。
と途切れ途切れに云った。彼は女の体の周囲に剣《つるぎ》を投げて突き立てる、あのみごとな芸をひと通り話して、
「あたしはそのとき」
と面《おもて》をあげて云った。
「板を背に立っている女と、剣を投げる男の眼をみてびっくりしました、真剣な眼つきでした、手もとに一|分《ぶ》の狂いがあっても女は無事ではすみません。一所懸命なんです、心魂《しんこん》を凝らしたひたむきな眼つきでした。……親方、あたしはその眼を見てはっ[#「はっ」に傍点]としました。自分が仕事をするとき、ああいう眼をしただろうか、あれほど真剣な、一分のすきもない眼をしていたろうか」
三次郎はわなわなとふるえる手で、自分のやせた胸を叩《たた》きながら云った。
「その南京人の芸人は、一人十|文《もん》の見料で見せる見世物のたくさんの番組のなかの一つです。銭にすれば鐚《びた》にもつかぬしがない芸です。そんな芸でもあれほど真剣な眼つきをしてやっているんだ、それなのにあたしはどうだ、いっぺんでもあんなひたむきな眼つきで仕事に向かったことがあるか。……親方、あたしはそう思ったとき眼がさめました。高の知れたやせ腕に己惚《うぬぼ》れて、期限のある仕事はできねえの、世間にゃあ眼がねえのと、ひとりよがりの世迷《よまよ》い言《ごと》をならべていましたが、いま考えるとばかの骨頂、めくらの絵説きでございます、面目なくって身の置き場もございません」
彼は泣きながら、いきなりそこへ両手をついてうめくように云った。
「親方、堪忍しておくんなさい」
庇《ひさし》をうつ雨の音がはらはらと聞こえた。徳兵衛はだまっていたが、さすがに胸はいっぱいで、その眼には涙が光っていた。……食いつめて転げこんだとまでは思わなかったけれど、途方にくれたあげく、いつもの甘えた気持でやって来たなとは考えた。だから手厳しくあしらったのだが、それがまるで見当ちがいだとわかった。それだけではない、掛け小屋の旅芸人の眼つきさえ見のがさなかった三次郎の、ひとすじな職人|気質《かたぎ》には、聞いているほうで涙のでる気持だった。
――その南京人の芸を見ていた見物の数は少なくなかったろう、けれどもその芸人の眼つきに気づいた者がいくたりいたか、おそらくおれにしたって気づかずにすませたろう。それを、三次郎は見のがさなかった。
「そうか、おまえそこに気がついてくれたか」
やがて徳兵衛はしずかに去った。
「そこに気がつけば、もうおれからはなにも云うことはない、仕事はやるだろうな」
「へえやります。生まれ変わった気でやります」「じゃあ薬研堀へ帰んな」
「…………」
「心配することはない、おまえの出たあと始末はしてある、家もそのまま明けてある、帰って行きさえすれば仕事に掛かれるんだ」
「……親方」
「礼は時計が仕上がってから聞こう」
徳兵衛はそう云って立った。
「おい誰かいねえか、三次郎に足駄《あしだ》と傘《かさ》を貸してやれ、それから提灯《ちょうちん》もいるぜ」
「ただ勘弁してくれじゃあわからない」
徳兵衛はやがて低いこえで云った。
「悪かったの、勘弁しろのと、人間困ると口ではどんなことでも云うもんだ、おらあそんな泣き言は聞きたくはないぜ」
「そうおっしゃるのはごもっともです、あたしもいまさら親方の前へ、勘弁してくださいと出られた義理でないことは知っています。だから本当は、……勘弁していただこうなどとは思っちゃあいません」
「じゃあなんのために来たんだ」
「お詫《わ》びが云いたかったんです、二十年ちかい育ての御恩がどんなにありがたいものだったか、今日はじめてわかったんです。いい気に甘えて、のさばっていた自分のばかさが今日はじめてわかったんです」
三次郎はくくと喉を鳴らしながら、畳へ額をすりつけた。
「親方、堪忍しておくんなさい」
骨のみえるような肩から背へ波をうち、くいしばった歯の間から、むせびあげる声が悲痛にもれた。そうしてむせびあげつつ、
「今日あたしは、奥山で南京人の見世物をぼんやり見ていました」。
と途切れ途切れに云った。彼は女の体の周囲に剣《つるぎ》を投げて突き立てる、あのみごとな芸をひと通り話して、
「あたしはそのとき」
と面《おもて》をあげて云った。
「板を背に立っている女と、剣を投げる男の眼をみてびっくりしました、真剣な眼つきでした、手もとに一|分《ぶ》の狂いがあっても女は無事ではすみません。一所懸命なんです、心魂《しんこん》を凝らしたひたむきな眼つきでした。……親方、あたしはその眼を見てはっ[#「はっ」に傍点]としました。自分が仕事をするとき、ああいう眼をしただろうか、あれほど真剣な、一分のすきもない眼をしていたろうか」
三次郎はわなわなとふるえる手で、自分のやせた胸を叩《たた》きながら云った。
「その南京人の芸人は、一人十|文《もん》の見料で見せる見世物のたくさんの番組のなかの一つです。銭にすれば鐚《びた》にもつかぬしがない芸です。そんな芸でもあれほど真剣な眼つきをしてやっているんだ、それなのにあたしはどうだ、いっぺんでもあんなひたむきな眼つきで仕事に向かったことがあるか。……親方、あたしはそう思ったとき眼がさめました。高の知れたやせ腕に己惚《うぬぼ》れて、期限のある仕事はできねえの、世間にゃあ眼がねえのと、ひとりよがりの世迷《よまよ》い言《ごと》をならべていましたが、いま考えるとばかの骨頂、めくらの絵説きでございます、面目なくって身の置き場もございません」
彼は泣きながら、いきなりそこへ両手をついてうめくように云った。
「親方、堪忍しておくんなさい」
庇《ひさし》をうつ雨の音がはらはらと聞こえた。徳兵衛はだまっていたが、さすがに胸はいっぱいで、その眼には涙が光っていた。……食いつめて転げこんだとまでは思わなかったけれど、途方にくれたあげく、いつもの甘えた気持でやって来たなとは考えた。だから手厳しくあしらったのだが、それがまるで見当ちがいだとわかった。それだけではない、掛け小屋の旅芸人の眼つきさえ見のがさなかった三次郎の、ひとすじな職人|気質《かたぎ》には、聞いているほうで涙のでる気持だった。
――その南京人の芸を見ていた見物の数は少なくなかったろう、けれどもその芸人の眼つきに気づいた者がいくたりいたか、おそらくおれにしたって気づかずにすませたろう。それを、三次郎は見のがさなかった。
「そうか、おまえそこに気がついてくれたか」
やがて徳兵衛はしずかに去った。
「そこに気がつけば、もうおれからはなにも云うことはない、仕事はやるだろうな」
「へえやります。生まれ変わった気でやります」「じゃあ薬研堀へ帰んな」
「…………」
「心配することはない、おまえの出たあと始末はしてある、家もそのまま明けてある、帰って行きさえすれば仕事に掛かれるんだ」
「……親方」
「礼は時計が仕上がってから聞こう」
徳兵衛はそう云って立った。
「おい誰かいねえか、三次郎に足駄《あしだ》と傘《かさ》を貸してやれ、それから提灯《ちょうちん》もいるぜ」
[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]
秋十月はじめのある夜、薬研堀の三次郎の家では、燈《あかり》が煌々《こうこう》とついて、人々の笑いさざめく声が、露路いっぱいに響いていた。……三次郎の作った時計が、灘七と和貞の二作を抜いた出来で、彼は首尾よく薩摩藩の御抱え時計師になった。今宵はその祝いで、家主の長兵衛が音頭とりになり、長屋じゅうがみんな酒《さけ》肴《さかな》を持ち寄って、宵のうちから破れるような騒ぎだった。徳兵衛はわざと姿をみせず、その代わりに酒と肴を余るほど届けてよこした。
「さあ陽気にやろうぜ、なにしろ長屋内から薩摩さまの御抱え時計師を出したんだ」
「なによう云やあがる、てめえなんざさ不断ろくすっぽつきあいもしねえで、こんな時ばかり背負《しょ》って立つようなことをぬかすな」「よさねえか竹《たけ》」
長兵衛が叱《しか》りつけた。「そう云うてめえだって、不人情じゃあ負けねえほうだぞ、けれどもそんなことはどっちだっていい、こうやってみんなが持ち寄りで祝う気持に嘘《うそ》はねえんだ、それだけでいいんだから陽気にやんな。おい源兵衛さん、今夜はまだ大漁節は出ないのかえ」
「へっへっへ、実はそれを待ってたんで」
「いやな笑いかたをするな」
「そうお言葉のかかるのを待ってたんで、早速ひとつ御祝儀《ごしゅうぎ》として拙《せつ》の喉《のど》を、おっほん、まず本場の大漁節……」
魚屋の源兵衛という男が、前へいざり出て唄《うた》いだそうとした時、門口《かどぐち》におとずれる声がして、誰かはいって来た。
「ちょいと待った、お客のようだぜ」
そう云って立って行ったひとりが、すぐ妙な顔をして戻って来た。
「三次郎さん、お兼さんが来ましたぜ」
「なにお兼が来た」
そう云ったのは家主の長兵衛だった。そしてみんながあっという間もなく、彼は自分でずかずかと出ていった。明るい燈火をまぶしそうに、お兼がしょんぼりとひとりで立っていた。
「お兼さん、おまえどの面《つら》さげてここへ来なすった。ここはおまえなんぞの来るところじゃあねえはずだ、とっとと帰ってくんな」
「うちの人に会わせてください」
「ならねえ、おまえさんは三次郎がお大名の御抱え時計師になったと聞いて、元の鞘《さや》におさまるつもりで来たんだろう、貧苦はいやだが出世した男には添いてえ、そんな根性が今日《こんにち》とおると思ったら大間違えだ、たとえ三次郎がうんと云っても家主のおれが不承知だ、さっさとここを出て行ってくんな」
「そうだそうだ、貧乏が辛《つら》くて逃げだすような女房は人間じゃあねえ、水でもぶっ掛けて追いかえしてしまえ」
みんなも声をそろえて罵《ののし》りたてた。そのとき三次郎が家主の前へ割ってはいった。
「待っておくんなさい、大家さんまあ待っておくんなさい」
「おまえさんは黙っていな、おまえさんが出ては」
「いいえ待ってください、あなたの気持はありがたいと思います。けれどもそれは少し違います」
「違うって、おれが間違ってると云うのか」
「そう云っては言葉が過ぎます。けれども大家さん、長屋のみなさんもちょっとお待ちください」
三次郎は手をあげて制しながら云った。
「お兼はなるほど立派な女じゃあございません。あなたがたの眼には不人情なやつと見えるかもしれません。けれどもあたしには四年間つれ添った女房です。あたしのために苦労という苦労をしつくした可愛《かわい》い女房なんです」
「…………」
「夫婦の仲は世間にはわかりません、お兼は出来ない辛抱をしてくれました。出来ない辛抱です、お兼でなくっても逃げださずにはいられなかったでしょう、悪いのはあたしです、お兼に罪はありません、あたしはいつも心で詫びていたんです、どうかお兼をゆるしてやっておくんなさい」
みんなひっそりと音《ね》をひそめた、その死んだような沈黙を割って、お兼が家主の前へわっと泣き伏した、そして涙にむせびながら云った。
「大家さん堪忍してくださいまし、あたしは今の今まで、大家さんのおっしゃるとおりの気持でした、うちの人がお大名の御抱えになったと聞いて、出世したさに帰って来たんです。でも……いまのうちの人の言葉で眼が明きました、おれのためには可愛い女房だという、あのひと言で眼がさめました。大家さん、あたしは元どおりの縁にしてくださいとは申しません、ただ半年《はんとし》でも三月《みつき》でもいい、うちの人の女房になれるかどうかを試させてくださいまし、それだけがお願いです、長屋のみなさん、どうかお口添えをなすってくださいまし、お願いでございます」
もらい泣きの声が、すみにいる長屋の女房たちのあいだに起こった。長兵衛も拳《こぶし》で眼を押しぬぐいながら、
「わかった、もうなんにも云わねえ、いいから上がってこっちへおいで」
「では堪忍してくださいますか」
「詫びは亭主《ていしゅ》に云いな、三次郎はもったいねえ亭主だぜ」
「ありがとうございます」
お兼がふたたび泣き伏したとき、仕事場のほうでふいに金属性の美しい音楽が鳴りはじめた、少し舌っ足らずの調子だが、あきらかに琴曲の「六段」の序であった。
「あっ歌時計が鳴りだしたぜ」
「行ってみろ、島津さまへあがっちまえば、二度とは拝めねえ大名道具だ」しめっていた家の中が急に明るくなり、みんな先を争って仕事場へかけこんで行った。
「お兼、聞いてくれ」
三次郎はお兼の手をとった。
「あれおれの作った歌時計だ、仕上げる間がなかったので、お買上げと定《きま》ったものを持って来てあるんだ、……あれが仕上がるとおれは島津さまのお抱えだ、よろこんでくれるか」
「おまえさん、堪忍してくださいまし」
お兼は良人《おっと》の膝《ひざ》へ頬《ほお》をすり寄せた、歌時計は美しい韻律で鳴りつづけていた。
[#地から2字上げ](「譚海」昭和十七年七月号)
「さあ陽気にやろうぜ、なにしろ長屋内から薩摩さまの御抱え時計師を出したんだ」
「なによう云やあがる、てめえなんざさ不断ろくすっぽつきあいもしねえで、こんな時ばかり背負《しょ》って立つようなことをぬかすな」「よさねえか竹《たけ》」
長兵衛が叱《しか》りつけた。「そう云うてめえだって、不人情じゃあ負けねえほうだぞ、けれどもそんなことはどっちだっていい、こうやってみんなが持ち寄りで祝う気持に嘘《うそ》はねえんだ、それだけでいいんだから陽気にやんな。おい源兵衛さん、今夜はまだ大漁節は出ないのかえ」
「へっへっへ、実はそれを待ってたんで」
「いやな笑いかたをするな」
「そうお言葉のかかるのを待ってたんで、早速ひとつ御祝儀《ごしゅうぎ》として拙《せつ》の喉《のど》を、おっほん、まず本場の大漁節……」
魚屋の源兵衛という男が、前へいざり出て唄《うた》いだそうとした時、門口《かどぐち》におとずれる声がして、誰かはいって来た。
「ちょいと待った、お客のようだぜ」
そう云って立って行ったひとりが、すぐ妙な顔をして戻って来た。
「三次郎さん、お兼さんが来ましたぜ」
「なにお兼が来た」
そう云ったのは家主の長兵衛だった。そしてみんながあっという間もなく、彼は自分でずかずかと出ていった。明るい燈火をまぶしそうに、お兼がしょんぼりとひとりで立っていた。
「お兼さん、おまえどの面《つら》さげてここへ来なすった。ここはおまえなんぞの来るところじゃあねえはずだ、とっとと帰ってくんな」
「うちの人に会わせてください」
「ならねえ、おまえさんは三次郎がお大名の御抱え時計師になったと聞いて、元の鞘《さや》におさまるつもりで来たんだろう、貧苦はいやだが出世した男には添いてえ、そんな根性が今日《こんにち》とおると思ったら大間違えだ、たとえ三次郎がうんと云っても家主のおれが不承知だ、さっさとここを出て行ってくんな」
「そうだそうだ、貧乏が辛《つら》くて逃げだすような女房は人間じゃあねえ、水でもぶっ掛けて追いかえしてしまえ」
みんなも声をそろえて罵《ののし》りたてた。そのとき三次郎が家主の前へ割ってはいった。
「待っておくんなさい、大家さんまあ待っておくんなさい」
「おまえさんは黙っていな、おまえさんが出ては」
「いいえ待ってください、あなたの気持はありがたいと思います。けれどもそれは少し違います」
「違うって、おれが間違ってると云うのか」
「そう云っては言葉が過ぎます。けれども大家さん、長屋のみなさんもちょっとお待ちください」
三次郎は手をあげて制しながら云った。
「お兼はなるほど立派な女じゃあございません。あなたがたの眼には不人情なやつと見えるかもしれません。けれどもあたしには四年間つれ添った女房です。あたしのために苦労という苦労をしつくした可愛《かわい》い女房なんです」
「…………」
「夫婦の仲は世間にはわかりません、お兼は出来ない辛抱をしてくれました。出来ない辛抱です、お兼でなくっても逃げださずにはいられなかったでしょう、悪いのはあたしです、お兼に罪はありません、あたしはいつも心で詫びていたんです、どうかお兼をゆるしてやっておくんなさい」
みんなひっそりと音《ね》をひそめた、その死んだような沈黙を割って、お兼が家主の前へわっと泣き伏した、そして涙にむせびながら云った。
「大家さん堪忍してくださいまし、あたしは今の今まで、大家さんのおっしゃるとおりの気持でした、うちの人がお大名の御抱えになったと聞いて、出世したさに帰って来たんです。でも……いまのうちの人の言葉で眼が明きました、おれのためには可愛い女房だという、あのひと言で眼がさめました。大家さん、あたしは元どおりの縁にしてくださいとは申しません、ただ半年《はんとし》でも三月《みつき》でもいい、うちの人の女房になれるかどうかを試させてくださいまし、それだけがお願いです、長屋のみなさん、どうかお口添えをなすってくださいまし、お願いでございます」
もらい泣きの声が、すみにいる長屋の女房たちのあいだに起こった。長兵衛も拳《こぶし》で眼を押しぬぐいながら、
「わかった、もうなんにも云わねえ、いいから上がってこっちへおいで」
「では堪忍してくださいますか」
「詫びは亭主《ていしゅ》に云いな、三次郎はもったいねえ亭主だぜ」
「ありがとうございます」
お兼がふたたび泣き伏したとき、仕事場のほうでふいに金属性の美しい音楽が鳴りはじめた、少し舌っ足らずの調子だが、あきらかに琴曲の「六段」の序であった。
「あっ歌時計が鳴りだしたぜ」
「行ってみろ、島津さまへあがっちまえば、二度とは拝めねえ大名道具だ」しめっていた家の中が急に明るくなり、みんな先を争って仕事場へかけこんで行った。
「お兼、聞いてくれ」
三次郎はお兼の手をとった。
「あれおれの作った歌時計だ、仕上げる間がなかったので、お買上げと定《きま》ったものを持って来てあるんだ、……あれが仕上がるとおれは島津さまのお抱えだ、よろこんでくれるか」
「おまえさん、堪忍してくださいまし」
お兼は良人《おっと》の膝《ひざ》へ頬《ほお》をすり寄せた、歌時計は美しい韻律で鳴りつづけていた。
[#地から2字上げ](「譚海」昭和十七年七月号)
底本:「酔いどれ次郎八」新潮文庫、新潮社
1990(平成2)年7月25日発行
2010(平成22)年4月10日二十九刷改版
底本の親本:「譚海」
1942(昭和17)年7月号
初出:「譚海」
1942(昭和17)年7月号
※表題は底本では、「江戸の土圭師《とけいし》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
1990(平成2)年7月25日発行
2010(平成22)年4月10日二十九刷改版
底本の親本:「譚海」
1942(昭和17)年7月号
初出:「譚海」
1942(昭和17)年7月号
※表題は底本では、「江戸の土圭師《とけいし》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ