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酔いどれ次郎八
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酔いどれ次郎八
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)千久馬《ちくま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)剣|兼光《かねみつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
「千久馬《ちくま》、いよいよ本望を達する時が来た」
「――うん」
「長い辛棒だったな」
次郎八は盃を渡して、
「これで故郷へ帰ることが出来れば僥倖と云うべきだ、この足軽支度もまる三年、今宵限りでおさらばと思うと些か名残惜しい気がする」
「拙者は、一日も帰く帰りたい」
千久馬は盃を持つ手の震えを隠すように、元気な声で云った。
「必ず帰れるよ、ここまで上首尾に運んで来たのではないか、討ち取って大浜へ走れば船も待っている、海へ出さえすればこっちのものだ」
「そんなに帰りたいか」
「貴公は帰りたくないのか」
次郎八は黙って千久馬の盃へ酒を注いだ。
――帰りたいさ。
三年も見ない故郷の山河だ。
杉原喜兵衛が横目《よこめ》の清水重右衛門を斬り、御預りの名剣|兼光《かねみつ》を奪って播磨国龍野灘を出奔したのは天和二年の春のことだ。
――藩主脇坂安政は激怒してその踪跡を探らせるうち、喜兵衛が薩摩へ遁れて島津家に仕えた事を知ったので、矢作《やはぎ》次郎八と岡田千久馬の両名に、
――喜兵衛を斬り、兼光を奪回して来い。
と厳命した。
由来薩摩は境戒が厳しく、幕府の隠密でさえ入国する事の困難をもって有名である、そこへ乗込んで新参とは云え家臣に列している者を斬り、兼光の剣を奪回して帰るという事がどんなに困難であるか言を俟つまい。――しかし二人は艱苦よく忍んで薩摩に入り、船手奉行手附《ふなでぶぎょうてつき》の足軽となって三年、今宵ようやく喜兵衛必殺の機会を掴んだのである。
大任を果して帰ることの悦びは、千久馬よりも次郎八が一倍である、今日まで秘してはいたが、彼には許嫁がいたのだ。同藩馬廻り組頭、茅野総造《かやのそうぞう》の娘でゆき[#「ゆき」に傍点]江と云う、その時十八歳で、愛くるしく温和しい顔だちの娘だった。
――生きて帰ると思わないで下さい。
別れる時にそう云ったら、
――いいえ、きっとお帰りなさいますわ、どうぞゆき江がお待ちしている事をお忘れ遊ばさずに。
そう云ってじっと見上げた、つぶらな眸子《ひとみ》の中に燃えるような愛着の光があったのを、今でも歴々と覚えている。
けれどいま次郎八の胸は不吉な予感でいっぱいだった。今日まではあらゆる事が手順よく運んで来た、そのあいだの艱難苦労も、目的に比して過重だとは云えない、むしろここまで来て考えれば余りに幸運に恵まれ過ぎているように思える、――船手組にいたお蔭で、脱出する船を契約する事も出来た、いま、その海産船は大浜に待っている、二人が乗り込みさえすれば直ぐ錨をあげるだろう、あとは播州までひと航《はし》りだ。……この備え過ぎた条件が次郎八に不安を感じさせるのだ、土壇場に大きな陥穽が待っているのではあるまいかと。
「何を、何をそんなに考えているのだ」
千久馬が不安そうに覗き込んで、
「それとも、我々が故郷へ帰るのは難かしいとでも云うのか」
「そんな事はないさ」
次郎八は微笑して云った、
「帰れるとも、必ず帰れる、次郎八が附いている以上決して死なせはせぬ。だが千久馬、これまで手順が旨く運んだからと云って油断するな、気を緩めると失敗する、どこまでも必死必殺の覚悟で行こうぞ」
「大丈夫だ、その覚悟なら出来ている」
「それでいい、あとは己が引受けた」
次郎八は盃を受取って足下に砕き、
「――時刻だぞ」
と立上った。
林南寺の鐘が午後十二時《ここのつ》を打ち始めた。次郎八は草鞋の紐を検べ、襷をかけながら、千久馬の様子を見やった。――同い年ではあるが少年の頃から弟のように思っていた相手だった、向う気は強いが実は気の弱い性質で、毎《いつ》も次郎八が盾のように庇ってやっていた。
――貴様だけはきっと帰してやるぞ、
次郎八はそう呟いた。
――たとえどんな事があっても、貴様だけは必ず故郷の土を踏ませてやるぞ。
「落着くんだ、千久馬、初太刀は己がとるから、よいか、落着いてやるんだぞ」
「心得た」
「よし、では行こう」
次郎八は杉原の屋敷の裏塀へ進み寄った。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「――喜兵衛、起きろ!」
次郎八が叫ぶより早く、
「上意だ」
と千久馬が枕を蹴上げた。
喜兵衛は龍野藩でも聞えた腕利きである、初太刀は必ず自分にとらせろと、次郎八は繰返し云って置いたのだが、いざとなると分別を失ったらしく、喜兵衛が夜具の中で身を転ずるはな[#「はな」に傍点]へ、
「――えイッ」
と斬り下した。気合が充分でなかった、剣は喜兵衛の横鬢を殺《そ》ぎながら辷る、
「曲者ッ」
神速に身を転じながら、枕刀を執って跳ね起きる喜兵衛、相手が次郎八と千久馬だと見るや、
「あッ貴様らか!」
「矢作次郎八、岡田千久馬だ、上意に依って参ったぞ、覚悟はよいか」
「う、うぬ――」
喜兵衛は一瞬、半面を血に染め、肩で息をつきながら居合腰に二人を睨めつけていたが、突如! 薄い掛け夜具を足で蹴上げて千久馬の面上へ、同時に次郎八へたっ[#「たっ」に傍点]と鋭く抜打ちをかけた、
「えイーッ」
次郎八体をひらく。
「小癪な!」
右に転じながら、流れる喜兵衛の肩を一刀、背へかけて充分に斬り放した。
「誰ぞ、参れッ」
喜兵衛は障子へ倒れかかりながら、
「狼藉者だッ」
「――喜兵衛、見苦しいぞ」
「狼藉者だ、誰ぞ参れ、誰ぞ――」
絶叫しながら逃げようとする、踏み込んだ次郎八は、腰を落しざま脾腹を、殆ど胴斬に斬って取った。――悲鳴と共にだだっ[#「だだっ」に傍点]、顛倒するところへ、千久馬がのし掛って更に頸根《くびね》を深々と斬り放した。
「よし、それでよし、見事だ」
次郎八は静かに云いながら、床間の刀架にある大剣を取り、有明行灯《ありあけあんどん》の光に抜き放って見た、長船兼光《おさふねかねみつ》、古刀の中でも貴品の一で、刀相《すがた》をひと眼見れば分る。
「是だ、千久馬、有ったぞ」
「――人が来る」
奥の方からあわただしい足音が近づいて来る、家人が起出したらしい、次郎八は兼光を鞘に納めて腰に差すと、
「退こう、慌てるなよ」
千久馬を促して廊下へ出た。
庭へ下りた二人は、追って来た人々の手燭の光を避けながら裏手へ廻り、侵入した木戸口から屋敷を脱け出ると、闇の中を海手へ向って走りだした。
しかし大番組町まで来ると、どう手配をしたものか既に少からぬ人数が、提灯を振かざしながら道を塞いでいる。――こういう場合、非常警備の素早さは薩摩藩独得のものだ、鳴子式に要所々々へ急報が通ずると、あらゆる街道口が即座に閉されて了う。
「いかん、――小馬場を抜けよう」
「斬って脱けたら?」
「未だその必要はない、急げ」
次郎八は千久馬を引摺らんばかりに歩を転じ、松井《まつい》大隅《おおすみ》の屋敷角を小馬場の方へ曲る――とたんに向うから走って来た二十人あまりの一団とばったり出会った。
「しまった!」
二人が足を停めるより疾く、
「其奴等だ」
「逃がすな、斬って取れッ」
喚きながら、抜きつれて取囲んだ。
――予感が当った。
次郎八は閃めくように思った。この素早い手配りではとても二人一緒に斬り抜ける事は出来ない、唯ひとつの方法は追手の力を分裂させることだ、そうすれば或は千久馬だけは助ける事が出来るかも知れぬ。
「千久馬、――」
次郎八はじりじりと退りながら、
「松原の中へ跳び込め、西へ抜けると川縁へ出る、真直に下れば海だ、――ここは己が喰い止めるから行け」
「いやだ、生死とも二人一緒だ」
「未練者、二人とも死んで殿への復命をどうする、行け、両方へ別れれば追手の力を殺ぐ事も出来るのだ、早くッ」
「――そうか」
千久馬は咄嗟に意を決して、
「では、船で待っているぞ」
「千久馬、――」
次郎八は素早く、
「茅野のゆき[#「ゆき」に傍点]江に伝えてくれ、堅固を祈っていたと、……さらばだ」
云うより疾く、じり押しに詰寄って来る追手の中へ、次郎八は阿修羅の如く斬り込んで行った。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
「拙者は辛くも船へたどり着いて、夜明け近くまで待っていた、――だが、次郎八は遂に姿を見せなかった」
千久馬は微かに太息をついた。
「さぞ……見事な死態《しにざま》であったろう」
「殿への復命をどうする、そう云って拙者を無理に立退かせたが、本心は助けたかったのだ。今にしてよく分る、――毎《いつ》もそうだった、少年の頃から次郎八は拙者をよく庇護してくれた、拙者の悲しみや悦びを、一番よく察してくれたのは彼だ」
「そうだ、次郎八はそういう男だった」
あの夜からもう二年経っている。
龍野城中の遠侍で、江戸勤番から国許詰になって帰ったばかりの森井欣之助に、岡田千久馬がいま喜兵衛討ちの仔細を語り終ったところである、――欣之助もまた、次郎八とは幼い頃からの親友であった。
「それで、矢作の家はどうなった」
「殿には殊の外不便に思し召され、いずれ然るべき者に家名を継がせるという御意だが、まだ何とも御沙汰は無く、その儘になっている」
「たしか……次郎八には許嫁があった筈だが、そうではなかったのか」
千久馬の顔にふっと紅《あか》みがさした。
「それに就てまた話もある、下城してから拙者の家へ寄ってくれぬか」
「久方振りで邪魔をしようか」
「一緒に帰ろう」
城を下ったのは日暮れ近くであった。
辻町の下にある千久馬の屋敷へ伴立って戻ると、玄関へみずみずしい若妻が出迎えた。――千久馬が妻帯したのを知らぬ欣之助にはいささか意外だった。
客間へ通ると千久馬は、
「今度娶った妻、ゆき江と申す。――常々話した森井氏だ、御挨拶を申せ」
「不束者でございます、どうぞ宜しく」
「手前こそ、――」
初々しく羞いながら会釈する女の姿を、欣之助は訝しげな眼でそれとなく見やっていたが、やがて彼女が去って行くと、
「ゆき江どの、と云うと若しや」
「如何にも」
千久馬は眼を伏せて、
「茅野総造の娘、次郎八生前の許嫁だ」
「それは……奇縁な、――」
欣之助は明かに挨拶の言葉に困る様子だった。――千久馬はそれを期していたらしく、罪を待つ者のように両手を膝に正して云った。
「拙者が次郎八の許嫁を家の妻に娶ったこと、さぞ不嗜みな仕方と思うであろう、――いや、隠すには及ばぬ、家中一般の批判も同様だ、そしてそれは当然の事だと思う」
「まあ待て」
欣之助は静かに制して云った。
「家中の批判がどう有るか知らぬが、拙者は亡き次郎八の友として一応事情を聞いて置きたいと思う」
「無論、拙者の方から願うところだ」
千久馬は、云い過ぎや語り足らぬ事を惧れるように、一語々々区切りながら語った。
「次郎八が拙者を愛し庇ってくれたと同じように、拙者がどれ程次郎八を頼みにし、どんなに敬慕していたか貴公は知っている」
「――云うまでもない事だ」
「薩摩城外の小馬場で別れる時、彼は茅野のゆき江に伝言を頼んだ、拙者はその時はじめて次郎八にそういう女のあった事を知った、本当にその時はじめて知ったのだ」
龍野へ帰った千久馬は、藩主安政に仔細の復命をすると、家へも寄らずその足で茅野家を訪ね、次郎八の伝言を伝えた。――兄とも慕っていた次郎八の相手がどんな娘か、期待に胸を躍らせていた千久馬は、ゆき江の姿を見た最初の瞬間に、恐しい力で惹き着けられて了った。
しかしその気持は単純なものではなかった。
次郎八を喪った哀み。
その哀みが娘の方へ彼の心をぐんぐんと惹き着けたのである、――次郎八を喪った哀み、それは千久馬にとって堪え難いものであると共に、ゆき江にとっても恐ろしい悲運だった、二人の感動は次郎八の死を中心に、初めの一瞬から緊密な繋りをもったのである。
――本当に駄目なのでしょうか。
その時ゆき江は取乱した様子で云った、
――もう生きてはお帰りにならないのでしょうか、少しも望みはないのでしょうか。
赤く泣き腫らした眼で、じっと、縋るように見上げるゆき江の顔を、千久馬はそのまま抱き寄せて、共に泣きたい衝動に駆られた。
これが若し少しでも違った条件であったら、恐らく二人のあいだには何事も起らなかったに違いない、しかしこの場合にはのっぴき[#「のっぴき」に傍点]ならぬ感動が二人を結んで了ったのだ。世間の誰にも察する事の出来ぬ、二人だけが知る一つの悲哀、それが二人を烈しい力で引き寄せたのだ。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
「この気持が分って貰えるか」
千久馬は言葉を切って云った、――欣之助は太息をつきながら頷いた、
「分る、よく分る」
「拙者はそれからしばしば茅野を訪ねるようになった、家人も快く迎えてくれたし、ゆき江は毎も待ち兼ねている風だった、無論それは別意あっての事ではない、三年のあいだ相離れ、今は再び見ることの出来ぬ次郎八の話を聞きたいためだ、話なかばで……彼女《あれ》は何度も泣いた、拙者も泣いた、――こうして日の経つうちに、拙者の心はいつか違った方へ動き始めたのだ、初めから他人のようには思えなかった気持が、はっ[#「はっ」に傍点]と気付いた時にはもう、動きのとれぬ深みへ落込んでいたのだ」
「さぞ苦しかったであろう」
「苦しかった、諦めようとした、だがもう諦めるには遅かった、――その時分にはゆき江の気持も同様に変って来ていたのだ」
尋常の恋にさえ抗し難い年頃である、これは更に底深く、しかも初めから遁れ難い運命をもっていた。
千久馬は意を決して、
――ゆき江どのを家の妻に。
と人を介して申し込んだ。一言の下に拒絶されると思ったのに、意外にも茅野総造からは承知の返辞が来た。
――但し、娘の希望として一年待って頂きたい、そうすれば矢作次郎八の一周忌も済むゆえ、そのうえで祝言を仕ろう。
千久馬は一年待った。
しかし次郎八の一周忌が済むと、ゆき江は更に半年の延期を申し出て来た、それも快く承知した。――ゆき江の延期する気持がよく分ったからである、いざ婚約が成立ってみると、若しや次郎八が帰って来はせぬかという疑いが起ったのだ、
――本当に斬死にをなすったのでしょうか。
何度も彼女はそう云った。
――若しや、万に一つも。
それは同時に千久馬の疑惧であったのだ。
「こうしたゆくたて[#「ゆくたて」に傍点]を経て、とうとう二人は婚姻の式を挙げたのだ」
「――では此頃の事だな」
「今日で二十余日しか経たない」
「そうだったか」
欣之助は顔を挙げて、
「よく話してくれた、家中の者がどんな評判をしようと、拙者には貴公らの気持がよく分る、それよりも地下にいる次郎八の方が、もっともっと理解しているに相違ない」
「そう思ってくれるか」
「彼はそういう男だ、次郎八は冥府で二人を祝福しているぞ」
欣之助の力強い言葉に、千久馬の面上は甦ったような光を帯びて来た。
やがて酒肴の支度が運ばれ、化粧を直したゆき江が執り持ちに坐ると、話題は欣之助の方へ廻って、勤番中の江戸の見聞に話がはずんだ。――何も彼も打明けて心が軽くなったか、千久馬は盃の数も日頃より多く、側からそれを見ているゆき江の表情にもなごやかな愛情が溢れていた。
――これでよい。
欣之助は独りそう呟いた。
――二人もこれで落着く事だろう。
そして次郎八とは刎頸の友として許される自分が、二人の婚姻を快く認めたからは、やがて世評も好転するに相違ないと思った。
運命ほど皮肉なものはない。
こうして欣之助という理解者が出て、ようやく二人が力強く立直ろうとした時、また欣之助にしてもそれを何より望んでいた時、思いもよらぬ障害が彼等の面前に現われた。
その夜から四五日経った或る日、――欣之助が登城して御用部屋へ入ると、そこにいた四五名の者が待ち兼ねていたように、
「森井氏、帰ったぞ帰ったぞ」
と云う。
「帰ったとは、誰が」
「矢作だ、矢作次郎八が帰って来たぞ」
欣之助はあっ[#「あっ」に傍点]と立竦んだ。――しかし相手はその顔色を読もうともせず、
「薩摩で二年、乞食同様の暮しをしながら脱走の折を待ったのだそうな、人相を変えるために頬へ火傷も拵え、幾度も命の瀬戸際を潜ってようやく帰国したと云う」
「しかも兼光を放さず持ってさ」
「いま御前へ召されているが、もうやがて退る頃だろう、――それで我々もこうして下城せずに待っているのだ」
悦んでよいか悲しんでよいか、とっさには分らぬほど茫然としていた欣之助の耳へ、人々の侮蔑を含んだ言葉が鋭く聞えて来た、
「云わぬ事ではない、高が二年待てばよいものを、女も女だが千久馬も取返しのつかぬ事になったではないか」
「友の生死もたしかめず、色情に眼の昏んだが過《あやまち》の素だ、これからどうするか見物だぞ」
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
欣之助は長廊下に立っていた。
御前へ召されたまま御酒下されになったらしく、既に十一時《よつはん》を廻ったのに次郎八は退出して来ない、――千久馬と会わせる前に、是非とも自分から二人の気持を説明しておきたい、そう思って欣之助は待っているのだ。
御用部屋での評判は、次郎八の帰りを賞揚すると共に、早くも千久馬夫妻への非難を再燃させている。
――だが次郎八は分る。
欣之助はそう確信していた。
――仔細を話せば、彼とても必ず二人の幸福を願うに相違ない。
そのためにも欣之助は、先ず自分から彼等がそうなった始終を語らねばならぬと思ったのだ。――待つこと一刻半余り、やがて十二時《ここのつ》に近いと思われる頃、御書院へ続く長廊下の彼方から、にわかに人の罵り騒ぐ声が聞えて来た。
「矢作氏、お鎮まりなさい」
「駄目だ、押えつけろ」
「――放せ、放せッ」
「矢作氏、乱心めされたか」
叫び声と、乱れた足音が此方へ、――近習の侍四人掛りで、矢作次郎八を抱き竦めながらやって来た。欣之助は驚いて、
「――どうしたのだ」
と声をかけた。
「御前で爛酔のあまり慮外に及び、御不興を蒙ってこの有様です」
「放せ、此奴ら放さぬかッ」
「手を捻じ上げろ」
「そこの納戸部屋へ、――」
乱れ狂う次郎八を、手取り足取り、納戸部屋へ担ぎ込んで投げ出した。
「うぬ、よくも投げ出したな」
次郎八は濡れ雑巾をつくねたように坐り直しながら、
「此奴ら、矢作次郎八をよくも手籠めにしたな、顔は一々見覚えた、道で会ったらぶった斬ってくれるぞ」
「――次郎八」
欣之助が堪らず近寄って、
「そんなに泥酔してどうする、鎮まれ」
「ばかな、次郎八は二升や三升の酒で酔うような腰抜けではない。誰だ、そんな事を云う奴は誰だ」
酔眼を振り向けた次郎八の、右の高頬に恐ろしい火傷の痕、赤黒く爛れた無慙な傷痕、――なんという変りようだ、かつての端正な相貌は何処へやら、両眼は暴々しく血走っているし、引歪めた唇には獣のような兇猛さが現われている、人の相貌がこんなにも変る事があるであろうか、……欣之助は一瞬、思わず顔を外向けて了った。
「どうして外方を向く、この火傷が恐ろしいのか、やい青法師こっちを見ろ」
次郎八は首を振って喚きたてた。
「この火傷はな、龍野藩五万三千石の名聞を、島津七十余万石の権勢から救った大切な御痕だぞ、若しこの次郎八がいなかったら、薩摩の懐へ逃げ込んだ杉原喜兵衛、龍野如き小藩の微力では指を差す事も出来なかったに違いない、つまり次郎八なればこそ、貴様らも天下に顔向けがなるというものだぞ」
「止せ次郎八、言葉が過ぎるぞ」
欣之助が抑えるのをきかず、
「言葉が過ぎる? 笑わせるな、何奴も此奴も手柄の値打が分らぬから教えてやるのだ、これが大藩なら安くて三百石、まあ五百石の加増は当然だ。それを何だ、――如何に山奥の貧乏家中だからと云って、ただ褒め置くぞの一言で済ますとは、第一この火傷が」
「黙れ、黙れ次郎八」
欣之助は余りの事につと寄りざま、次郎八の口を掌で押えた。
「城中だぞ、人も聞いているぞ」
「な、何をするッ」
次郎八は振りもぎって、
「人に聞かせるために云うのだ、放せ」
「――次郎八」
欣之助は左手を伸ばし、衿髪を取ってぐいと引寄せると、耳許へ口を寄せて叫んだ、
「貴公どれほど酔っているか知らぬが、これだけ案じている拙者の気持が分らぬ筈はあるまい、気を鎮めてよく聞け、城中だぞ、それ以上一言でも吐いたらその儘には済まんぞ」
「うるさい!」
次郎八は力任せに振放して、
「つべこべと意見がましい奴、一体……貴様は何者だ」
「拙者の顔も分らぬのか、情ないぞ次郎八、よく見ろ、欣之助だ、森井欣之助だ」
「森井、欣……?」
訝るように、酔眼を瞠いてじっと見詰めたが、さすがにそれと分ったのであろう。
「ああ、貴公か」
太息のように呟くと、そのままぐたぐたとそこへ突伏して了った。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
「何という変りようだ」
「あれが五年まえの次郎八か」
家中の人々は唖然とした。
「二年も遅れて帰りながら、己ひとりで喜兵衛を斬ったように云い居る、拙者が千久馬なら聞くだけでも唯は置かぬぞ」
「いや、彼には昔から傲慢なところがあったよ」
「そればかりではない、高の知れた手柄を盾に、自分の口から恩賞の不服を申すなど、武士の風上にも置けぬ奴だ」
「そう云えばあの火傷の痕が、却って彼に似合って見えるぞ」
評判は悪くなる一方だった。
そういう噂を知るや知らずや、次郎八はあれ以来出仕もせず、来る日も来る日も爛酔して、悪口罵詈を飛ばし、父の代から仕えている家僕が諫言でもすれば、殴る蹴るの乱暴狼藉であった。
欣之助は疑惧に悩んでいた。
――如何になんとしても変りようがある、総角《あげまき》の頃から心の底まで知り合った次郎八、どんなに変ればとてあれほど無道になる筈がない、――しかし。
幾度も否定する心の奥から、
――ゆき江。
という名が浮上って来る。
――矢張りそうだろうか、ゆき江。命を拾って帰参すれば、許嫁の女は既に親友に取られていた、弟のように思っていた友が、自分の許嫁を娶っている。
恋は人を変えると云う、しかも次郎八の場合は余りに残酷な破恋だ、自分の命を賭してまで危い土壇場から落してやった友達、それが自分の生死もたしかめずその許嫁を奪った、――そのうえに彼は、ふた眼と見られぬ醜い顔になって了ったのだ。
――そうだ、変るのが当然だ、これを平気で許す者があったら鬼神に違いない、次郎八とても人間だ、我々はみんな弱点をもっているのだ、救ってやらねばならぬ。
次郎八を苦悩から救うことは、千久馬とゆき江が結び着いた仔細を語る他にない、そうなるまでの二人の苦しみを話せば、それでも分らぬ次郎八ではないと思う。――そう考えたので、欣之助は何度も矢作の家を訪ねた。しかし次郎八は家僕を通して面会を断り、どうしても会おうとしなかった。
こうして半月ほど経った或る日、意外にも次郎八の方から訪ねて来た、
「よく来て来れた、さあ、――」
「少し頼みたい事がある」
上へ招じようとするのを断って、次郎八は玄関に立ったまま口重く云った。
「実は千久馬に会いたい」
「…………」
「貴公に一緒に行って貰いたいのだが」
「無論、悦んで参ろう」
欣之助は快く頷いて、
「しかし千久馬に会うなら、そのまえに拙者から話して置きたい事がある」
「いや、その必要はない」
次郎八はぶすっと遮った。
「どうして必要がないのだ」
「聞かなくとも分っている」
「そうか、――では、どういう気持で千久馬に会うのか、それだけ云って貰おう」
「……別に」
次郎八はちょっと口籠ったが、
「別に他意あっての事ではない、薩摩で別れたきり会わぬから久濶が云いたいのだ」
「それだけか?」
「――――」
「本当にそれだけの気持か」
次郎八は眩しそうに眼を伏せた、そして暫く足許を見詰めていたが、やがて呟くような声で云った。
「ゆき江にひと眼、ひと眼だけ……」
「次郎八!」
欣之助は胸を刺された。――高頬の傷痕を隠すように、あらぬ方へ外向けた横顔のなんという淋しさ、
「案内をしよう、だが」
と欣之助は訓すように、
「千久馬とゆき江どのがああ成ったに就ては、一言で尽せぬゆくたて[#「ゆくたて」に傍点]があるのだ。貴公の気持も分る、しかし二人の苦しい立場も察してやって欲しい」
「そうかも知れぬ」
次郎八の表情は再び硬ばった。
「しかし今それを貴公から聞いたところで致し方はない、よかったら参ろう」
「支度を直して来る」
ゆき江を前にして篤と話したら、却って諒解が早いかも知れぬ、そう思った欣之助は支度もそこそこに、次郎八を伴って岡田の屋敷を訪ねた。
千久馬もゆき江も家にいた。
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
「久しぶりだ」
「ようこそ、御健固で、――」
何方もぎこちなさの脱れぬ挨拶だった、――欣之助は側から執り成すように、
「堅苦しい挨拶は抜きだ、少年の頃から心を許し合った三人、こうして久方振りで会ったのだからもっと打ち解ける事にしよう」
「では先ず、馳走はないが一盞やろう」
千久馬は直ぐに酒肴を命じた。
欣之助は座を明るくしようとして努力したが、次郎八は顔の筋ひとつ動かさず、自分の膝を見下したまま惘然と坐っていた。――やがてゆき江が婢女と共に膳部を運んで来る、……心なしか化粧も薄く、頬は心の動揺をそのまま表白するかのように蒼味を帯びていた。しかし、男を知って間の無い女の、噎るような肌の香や、胸のふくらみ、豊かな腰のくびれに、隠しきれぬ嬌めかしさが描かれていた。
膳を配り終えたゆき江は、
「ようこそ、御無事で……」
と手をついたが、ふと見上げた眼に、次郎八の恐ろしく変った相貌をみつけると、
「ま、――」
危く声をあげようとして眼を外らした。欣之助は慌ててそれを打消すように、
「さあ、他人行儀はもうよい、御内室には憚りながらお執り持ちを頼みます、次郎八も寛いだらどうだ、――千久馬、主人から先ず」
「では毒味を」
盃が廻り始めた。そして少しずつ話がほぐれ始めるのを待って、
「あれから、ずっと薩摩に、――?」
と千久馬が眩しそうに訊いた、
「左様、屹度《きっと》谷《たに》へ隠れて山児《やまがつ》の群に入ったり、漁夫の仲間に紛れ込んだり、遂にはこの通り火傷を拵えて乞食部落にまで身を陥したよ」
「それは、なんとも苦労であったろう」
「要もない事にな!」
次郎八は自嘲の声音で云った。
「だが漁夫も山児も、乞食たちも良い奴等だった、己のような男でもよく面倒をみてくれたよ、――兼光を持ち帰る要さえなければ、乞食で一生を終ってもよいと思った」
「そんな馬鹿な事を」
「いかんか、乞食はいかんか?」
刺すような鋭い口調に、はっ[#「はっ」に傍点]として千久馬が眼を伏せる。次郎八はそれを見ると、いきなり盃洗を取って中の水をざっと庭へ捨て、
「御妻女、酌を頼む」
と差出した。
「次郎八、――」
「森井は黙って居れ」
ぴたっと押えて、ゆき江が恐る恐る注ぐ酒をひと息に呷りつけた。
「不味《まず》い、不味い酒だ、招かれざる客は美味《うま》い酒にも有りつけぬか、ふふふふふふ――おい千久馬、何故己を見ぬ」
「次郎八、貴公欣之助の面目を潰すぞ」
「黙れ黙れ、己と千久馬とは兄弟同様の間柄であった、殊に今では己の許嫁を妻として居る、申さば肉親も及ばぬ仲だ、なあ千久馬、そうであろう」
「それに就ては聞いて貰いたい事が」
「うるさい、言訳は沢山だ、――御妻女、ゆき江どの、もう一杯頼む」
差つける盃洗、ゆき江が震えながら注ぐ酒を息もつかずに飲み干した次郎八、血走った眼でゆき江の姿をじっと見詰めながら、
「美しいなあ、娘時分とは違って、この嬌めかしい美しさはどうだ、これでは千久馬が迷うのも尤もだぞ、――しかし、よく手に入れたな千久馬、貴様は武芸こそなまくらだが、女を蕩す法は得手と見える」
千久馬はきっと唇を噛んだ。
「喜兵衛を討った時の態、覚えているか、すっかり逆上して手許も定らず、横鬢を殺《そ》いだり蒲団を被せられたり、今考えても笑止千万な態だった。己がいたからよかったようなものの、独りなら返り討ちになっていたところだぞ、――いや実に、あんな腰抜けとは知らなかった」
「次郎八、腰抜けとは口が過ぎるぞ」
千久馬が色を変えて云った。――次郎八は待っていたと云わんばかりに、
「腰抜けが不服か、冗談じゃない、小馬場で既に斬死にという場合、己の情で危く命を拾い、ほうほうの態で逃げ帰った、あの惨めな姿を考えてみろ、腰抜けのうえに臆病未練、おまけに密通までしているではないか」
「――云ったな!」
千久馬は片膝立てて、
「密通という件は措く、だが腰抜け、臆病未練とは聞捨てならんぞ」
「聞捨てがならなければどうする」
「庭へ出ろ」
ぱっと大剣を掴む、
「千久馬、待て」
欣之助が驚いて支えようとするより疾く、次郎八も剣を取って、
「面白い、相手をしよう、来い」
と起った。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
「待て、二人とも待て、それでは拙者の立場が無くなる、待て千久馬、次郎八は酔っているのだ」
「止めるな、もう聞かぬ!」
千久馬は欣之助の手を振放して、
「今の一言酔狂と云えるか、このまま聞きのがしては武士道が立たぬ、――来い次郎八」
「心得た」
「待て、待て」
必至に押し止めようとしたが、二人は互いに大剣の鞘を払って庭へ跳び下りた。
「千久馬、――斬るぞ」
にたりと冷笑する次郎八、ようやく酔いが発したらしく、よろめく足を踏みしめながら、青眼につける、――千久馬は構える余悠もなく、いきなり真向から、
「えイッ」
と斬りつけた。
次郎八は無言のまま体を開くと、立直る千久馬の面上へ切尖をつけて、ぐっぐっと詰め寄った、圧倒する気合だった、――千久馬はたじたじと二三歩退ったが、捨身の勇、喉を劈くような絶叫と共に、
「だーうッ」
体ごと叩きつけるような突き、
「それだけか!」
憂《かっ》! 烈しくひっ払って、千久馬の体が伸びるところを、腰を落しながら一刀、
「あっ」
欣之助は思わず庭へ跳び下りた。
しかし、一髪の差で体を躱した千久馬、この太刀を避けもせず、猛然と火の出るような体当り、酔歩をとられて、次郎八がだっ[#「だっ」に傍点]と横ざまに顛倒する、措かせず踏み込もうとする千久馬の前へ、
「それ迄、千久馬それ迄だ」
と欣之助が割って入った。
「起て、起て次郎八、勝負はまだつかぬぞ」
「いや勝負は定った」
欣之助は無理に押しへだてながら、
「森井欣之助が慥に見届けた、これ以上はお上へ憚りがある、刀を引け、千久馬」
「あなた、どうぞ……」
縁先に立竦んでいたゆき江の、救いを乞うような声を聞いて、千久馬はようやく心を押えた、――そして、まだ地面に腰を落したままぐたりと首を垂れている次郎八の方へ、
「命冥加な奴だ、――帰れ!」
と喚いた。
次郎八はやや暫く動かなかったが、やがて落ちていた剣を引き寄せ、酔いの発したしどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]の手つきで拭いをかけながら、
「帰れ……か、帰れ帰れの三《み》ひょこひょこ、とんだ失策で笑止千万、酔っていなければ仕止めたものを、ふふふふふ」
「次郎八」
「帰るよ、負けて帰るの水潜りだ」
ふふふふふと、自ら嘲り笑いながら、蹣跚《はんさん》としてそのまま闇の中へ立去って行った。――じっと、見送っていた三人、千久馬が吐き出すように、
「見下げ果てた奴だ」
と云えば、ゆき江もまた、
「あんなお方とは夢にも存じませんでした、本当になんという無道な……」
と軽蔑の眉を顰めながら云った。
それから半刻の後、――次郎八は誰もいない自分の家で旅支度をしていた。
家僕たちには昨日すでに暇をやった、家財も見苦しからず片附けてある、塵も止めぬ畳に、孤灯が侘しく光を投げている。――支度を終った次郎八は、襖を明け放った部屋々々を名残り惜しげに暫く見やっていたが、やがて灯を吹き消して裏手の方へ出て行った。
次郎八が裏木戸から外へ出た時である、表から廻って来た提灯が一つ、
「――次郎八ではないか」
と呼びながら近寄って来た。
「あっ」
とっさに逃げようとしたが、相手は素早く行手を塞いで提灯をさしつける、欣之助だった。
「その姿はどうした」
「――欣之助」
とあげる横顔、
「あ、その頬、――」
欣之助は愕然と眼を瞠った。――次郎八の高頬から、あの恐ろしい火傷の痕が消えているのだ。まるで拭ったように、しかもそればかりではない、つい半刻まえまでは兇猛であったその表情が、今は昔のまま端正な相に変っているではないか、
「次郎八、貴公あの傷は……」
「面目ない、塗薬だ」
「聞こう、訳を聞こう」
詰め寄る欣之助を、次郎八は静かに微笑しながら見やって、
「欣之助、――己は、己は千久馬を愛していた、今でもその気持に変りはない」
「それなら何故!」
「己は帰って来て家中の評判を聞いた。可哀そうに、二人が結び着いた事情はよく分る、己は二人の仕合せをこそ祈れ、些かも憎む気持など有りはしない、――だが世間の噂は無情だ、二人は不義者のように云われている、欣之助、これを救う道は一つしかない、それは次郎八が悪人になる事だ、次郎八が無頼であればあるほど、千久馬夫妻を見る世間の眼は違って来る筈だ。……そして、どうやらそれが成功したらしい、これで二人は安穏になれる」
「――知らなかった」
欣之助は溢れ出る涙を懸命に堪えて、
「それ程までに考えた事を、どうして一言打ち明けてくれなかったのだ、他に思案もあったであろうに」
「他には無いのだ欣之助」
次郎八は静かに云った。
「世間の批判を正すのも一つ、もっと大事なのは、千久馬夫妻の気持だ、分らないか貴公、……己が今まで通りの男で、しかも同家中にいたとしたら、二人は終生悔恨に苦しめられるんだぞ」
「――次郎八」
欣之助はひしと友の手を握った。
「そうなんだ、だから己は酔いどれ次郎八になった、千久馬もゆき江も、今宵からは全く自由になれるんだ、惧れていた次郎八の幻から逃れて、二人だけの生活が始まるんだ」
「これ程の武士を、――」
欣之助は咽びながら云った、
「みすみす悪名に朽ちさせるのか」
「それが二人の為なんだ、正直に云えば――ゆき江の仕合せの……」
初めて、初めて次郎八の眼に涙が光った、初秋の夜風が、高く高く吹き過ぎて行く、――虫の音が噎ぶように闇を震わせていた。
底本:「感動小説集」実業之日本社
1975(昭和50)年6月10日 初版発行
1978(昭和53)年5月10日 九版発行
底本の親本:「富士」
1938(昭和13)年8月号
初出:「富士」
1938(昭和13)年8月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)千久馬《ちくま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)剣|兼光《かねみつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
「千久馬《ちくま》、いよいよ本望を達する時が来た」
「――うん」
「長い辛棒だったな」
次郎八は盃を渡して、
「これで故郷へ帰ることが出来れば僥倖と云うべきだ、この足軽支度もまる三年、今宵限りでおさらばと思うと些か名残惜しい気がする」
「拙者は、一日も帰く帰りたい」
千久馬は盃を持つ手の震えを隠すように、元気な声で云った。
「必ず帰れるよ、ここまで上首尾に運んで来たのではないか、討ち取って大浜へ走れば船も待っている、海へ出さえすればこっちのものだ」
「そんなに帰りたいか」
「貴公は帰りたくないのか」
次郎八は黙って千久馬の盃へ酒を注いだ。
――帰りたいさ。
三年も見ない故郷の山河だ。
杉原喜兵衛が横目《よこめ》の清水重右衛門を斬り、御預りの名剣|兼光《かねみつ》を奪って播磨国龍野灘を出奔したのは天和二年の春のことだ。
――藩主脇坂安政は激怒してその踪跡を探らせるうち、喜兵衛が薩摩へ遁れて島津家に仕えた事を知ったので、矢作《やはぎ》次郎八と岡田千久馬の両名に、
――喜兵衛を斬り、兼光を奪回して来い。
と厳命した。
由来薩摩は境戒が厳しく、幕府の隠密でさえ入国する事の困難をもって有名である、そこへ乗込んで新参とは云え家臣に列している者を斬り、兼光の剣を奪回して帰るという事がどんなに困難であるか言を俟つまい。――しかし二人は艱苦よく忍んで薩摩に入り、船手奉行手附《ふなでぶぎょうてつき》の足軽となって三年、今宵ようやく喜兵衛必殺の機会を掴んだのである。
大任を果して帰ることの悦びは、千久馬よりも次郎八が一倍である、今日まで秘してはいたが、彼には許嫁がいたのだ。同藩馬廻り組頭、茅野総造《かやのそうぞう》の娘でゆき[#「ゆき」に傍点]江と云う、その時十八歳で、愛くるしく温和しい顔だちの娘だった。
――生きて帰ると思わないで下さい。
別れる時にそう云ったら、
――いいえ、きっとお帰りなさいますわ、どうぞゆき江がお待ちしている事をお忘れ遊ばさずに。
そう云ってじっと見上げた、つぶらな眸子《ひとみ》の中に燃えるような愛着の光があったのを、今でも歴々と覚えている。
けれどいま次郎八の胸は不吉な予感でいっぱいだった。今日まではあらゆる事が手順よく運んで来た、そのあいだの艱難苦労も、目的に比して過重だとは云えない、むしろここまで来て考えれば余りに幸運に恵まれ過ぎているように思える、――船手組にいたお蔭で、脱出する船を契約する事も出来た、いま、その海産船は大浜に待っている、二人が乗り込みさえすれば直ぐ錨をあげるだろう、あとは播州までひと航《はし》りだ。……この備え過ぎた条件が次郎八に不安を感じさせるのだ、土壇場に大きな陥穽が待っているのではあるまいかと。
「何を、何をそんなに考えているのだ」
千久馬が不安そうに覗き込んで、
「それとも、我々が故郷へ帰るのは難かしいとでも云うのか」
「そんな事はないさ」
次郎八は微笑して云った、
「帰れるとも、必ず帰れる、次郎八が附いている以上決して死なせはせぬ。だが千久馬、これまで手順が旨く運んだからと云って油断するな、気を緩めると失敗する、どこまでも必死必殺の覚悟で行こうぞ」
「大丈夫だ、その覚悟なら出来ている」
「それでいい、あとは己が引受けた」
次郎八は盃を受取って足下に砕き、
「――時刻だぞ」
と立上った。
林南寺の鐘が午後十二時《ここのつ》を打ち始めた。次郎八は草鞋の紐を検べ、襷をかけながら、千久馬の様子を見やった。――同い年ではあるが少年の頃から弟のように思っていた相手だった、向う気は強いが実は気の弱い性質で、毎《いつ》も次郎八が盾のように庇ってやっていた。
――貴様だけはきっと帰してやるぞ、
次郎八はそう呟いた。
――たとえどんな事があっても、貴様だけは必ず故郷の土を踏ませてやるぞ。
「落着くんだ、千久馬、初太刀は己がとるから、よいか、落着いてやるんだぞ」
「心得た」
「よし、では行こう」
次郎八は杉原の屋敷の裏塀へ進み寄った。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「――喜兵衛、起きろ!」
次郎八が叫ぶより早く、
「上意だ」
と千久馬が枕を蹴上げた。
喜兵衛は龍野藩でも聞えた腕利きである、初太刀は必ず自分にとらせろと、次郎八は繰返し云って置いたのだが、いざとなると分別を失ったらしく、喜兵衛が夜具の中で身を転ずるはな[#「はな」に傍点]へ、
「――えイッ」
と斬り下した。気合が充分でなかった、剣は喜兵衛の横鬢を殺《そ》ぎながら辷る、
「曲者ッ」
神速に身を転じながら、枕刀を執って跳ね起きる喜兵衛、相手が次郎八と千久馬だと見るや、
「あッ貴様らか!」
「矢作次郎八、岡田千久馬だ、上意に依って参ったぞ、覚悟はよいか」
「う、うぬ――」
喜兵衛は一瞬、半面を血に染め、肩で息をつきながら居合腰に二人を睨めつけていたが、突如! 薄い掛け夜具を足で蹴上げて千久馬の面上へ、同時に次郎八へたっ[#「たっ」に傍点]と鋭く抜打ちをかけた、
「えイーッ」
次郎八体をひらく。
「小癪な!」
右に転じながら、流れる喜兵衛の肩を一刀、背へかけて充分に斬り放した。
「誰ぞ、参れッ」
喜兵衛は障子へ倒れかかりながら、
「狼藉者だッ」
「――喜兵衛、見苦しいぞ」
「狼藉者だ、誰ぞ参れ、誰ぞ――」
絶叫しながら逃げようとする、踏み込んだ次郎八は、腰を落しざま脾腹を、殆ど胴斬に斬って取った。――悲鳴と共にだだっ[#「だだっ」に傍点]、顛倒するところへ、千久馬がのし掛って更に頸根《くびね》を深々と斬り放した。
「よし、それでよし、見事だ」
次郎八は静かに云いながら、床間の刀架にある大剣を取り、有明行灯《ありあけあんどん》の光に抜き放って見た、長船兼光《おさふねかねみつ》、古刀の中でも貴品の一で、刀相《すがた》をひと眼見れば分る。
「是だ、千久馬、有ったぞ」
「――人が来る」
奥の方からあわただしい足音が近づいて来る、家人が起出したらしい、次郎八は兼光を鞘に納めて腰に差すと、
「退こう、慌てるなよ」
千久馬を促して廊下へ出た。
庭へ下りた二人は、追って来た人々の手燭の光を避けながら裏手へ廻り、侵入した木戸口から屋敷を脱け出ると、闇の中を海手へ向って走りだした。
しかし大番組町まで来ると、どう手配をしたものか既に少からぬ人数が、提灯を振かざしながら道を塞いでいる。――こういう場合、非常警備の素早さは薩摩藩独得のものだ、鳴子式に要所々々へ急報が通ずると、あらゆる街道口が即座に閉されて了う。
「いかん、――小馬場を抜けよう」
「斬って脱けたら?」
「未だその必要はない、急げ」
次郎八は千久馬を引摺らんばかりに歩を転じ、松井《まつい》大隅《おおすみ》の屋敷角を小馬場の方へ曲る――とたんに向うから走って来た二十人あまりの一団とばったり出会った。
「しまった!」
二人が足を停めるより疾く、
「其奴等だ」
「逃がすな、斬って取れッ」
喚きながら、抜きつれて取囲んだ。
――予感が当った。
次郎八は閃めくように思った。この素早い手配りではとても二人一緒に斬り抜ける事は出来ない、唯ひとつの方法は追手の力を分裂させることだ、そうすれば或は千久馬だけは助ける事が出来るかも知れぬ。
「千久馬、――」
次郎八はじりじりと退りながら、
「松原の中へ跳び込め、西へ抜けると川縁へ出る、真直に下れば海だ、――ここは己が喰い止めるから行け」
「いやだ、生死とも二人一緒だ」
「未練者、二人とも死んで殿への復命をどうする、行け、両方へ別れれば追手の力を殺ぐ事も出来るのだ、早くッ」
「――そうか」
千久馬は咄嗟に意を決して、
「では、船で待っているぞ」
「千久馬、――」
次郎八は素早く、
「茅野のゆき[#「ゆき」に傍点]江に伝えてくれ、堅固を祈っていたと、……さらばだ」
云うより疾く、じり押しに詰寄って来る追手の中へ、次郎八は阿修羅の如く斬り込んで行った。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
「拙者は辛くも船へたどり着いて、夜明け近くまで待っていた、――だが、次郎八は遂に姿を見せなかった」
千久馬は微かに太息をついた。
「さぞ……見事な死態《しにざま》であったろう」
「殿への復命をどうする、そう云って拙者を無理に立退かせたが、本心は助けたかったのだ。今にしてよく分る、――毎《いつ》もそうだった、少年の頃から次郎八は拙者をよく庇護してくれた、拙者の悲しみや悦びを、一番よく察してくれたのは彼だ」
「そうだ、次郎八はそういう男だった」
あの夜からもう二年経っている。
龍野城中の遠侍で、江戸勤番から国許詰になって帰ったばかりの森井欣之助に、岡田千久馬がいま喜兵衛討ちの仔細を語り終ったところである、――欣之助もまた、次郎八とは幼い頃からの親友であった。
「それで、矢作の家はどうなった」
「殿には殊の外不便に思し召され、いずれ然るべき者に家名を継がせるという御意だが、まだ何とも御沙汰は無く、その儘になっている」
「たしか……次郎八には許嫁があった筈だが、そうではなかったのか」
千久馬の顔にふっと紅《あか》みがさした。
「それに就てまた話もある、下城してから拙者の家へ寄ってくれぬか」
「久方振りで邪魔をしようか」
「一緒に帰ろう」
城を下ったのは日暮れ近くであった。
辻町の下にある千久馬の屋敷へ伴立って戻ると、玄関へみずみずしい若妻が出迎えた。――千久馬が妻帯したのを知らぬ欣之助にはいささか意外だった。
客間へ通ると千久馬は、
「今度娶った妻、ゆき江と申す。――常々話した森井氏だ、御挨拶を申せ」
「不束者でございます、どうぞ宜しく」
「手前こそ、――」
初々しく羞いながら会釈する女の姿を、欣之助は訝しげな眼でそれとなく見やっていたが、やがて彼女が去って行くと、
「ゆき江どの、と云うと若しや」
「如何にも」
千久馬は眼を伏せて、
「茅野総造の娘、次郎八生前の許嫁だ」
「それは……奇縁な、――」
欣之助は明かに挨拶の言葉に困る様子だった。――千久馬はそれを期していたらしく、罪を待つ者のように両手を膝に正して云った。
「拙者が次郎八の許嫁を家の妻に娶ったこと、さぞ不嗜みな仕方と思うであろう、――いや、隠すには及ばぬ、家中一般の批判も同様だ、そしてそれは当然の事だと思う」
「まあ待て」
欣之助は静かに制して云った。
「家中の批判がどう有るか知らぬが、拙者は亡き次郎八の友として一応事情を聞いて置きたいと思う」
「無論、拙者の方から願うところだ」
千久馬は、云い過ぎや語り足らぬ事を惧れるように、一語々々区切りながら語った。
「次郎八が拙者を愛し庇ってくれたと同じように、拙者がどれ程次郎八を頼みにし、どんなに敬慕していたか貴公は知っている」
「――云うまでもない事だ」
「薩摩城外の小馬場で別れる時、彼は茅野のゆき江に伝言を頼んだ、拙者はその時はじめて次郎八にそういう女のあった事を知った、本当にその時はじめて知ったのだ」
龍野へ帰った千久馬は、藩主安政に仔細の復命をすると、家へも寄らずその足で茅野家を訪ね、次郎八の伝言を伝えた。――兄とも慕っていた次郎八の相手がどんな娘か、期待に胸を躍らせていた千久馬は、ゆき江の姿を見た最初の瞬間に、恐しい力で惹き着けられて了った。
しかしその気持は単純なものではなかった。
次郎八を喪った哀み。
その哀みが娘の方へ彼の心をぐんぐんと惹き着けたのである、――次郎八を喪った哀み、それは千久馬にとって堪え難いものであると共に、ゆき江にとっても恐ろしい悲運だった、二人の感動は次郎八の死を中心に、初めの一瞬から緊密な繋りをもったのである。
――本当に駄目なのでしょうか。
その時ゆき江は取乱した様子で云った、
――もう生きてはお帰りにならないのでしょうか、少しも望みはないのでしょうか。
赤く泣き腫らした眼で、じっと、縋るように見上げるゆき江の顔を、千久馬はそのまま抱き寄せて、共に泣きたい衝動に駆られた。
これが若し少しでも違った条件であったら、恐らく二人のあいだには何事も起らなかったに違いない、しかしこの場合にはのっぴき[#「のっぴき」に傍点]ならぬ感動が二人を結んで了ったのだ。世間の誰にも察する事の出来ぬ、二人だけが知る一つの悲哀、それが二人を烈しい力で引き寄せたのだ。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
「この気持が分って貰えるか」
千久馬は言葉を切って云った、――欣之助は太息をつきながら頷いた、
「分る、よく分る」
「拙者はそれからしばしば茅野を訪ねるようになった、家人も快く迎えてくれたし、ゆき江は毎も待ち兼ねている風だった、無論それは別意あっての事ではない、三年のあいだ相離れ、今は再び見ることの出来ぬ次郎八の話を聞きたいためだ、話なかばで……彼女《あれ》は何度も泣いた、拙者も泣いた、――こうして日の経つうちに、拙者の心はいつか違った方へ動き始めたのだ、初めから他人のようには思えなかった気持が、はっ[#「はっ」に傍点]と気付いた時にはもう、動きのとれぬ深みへ落込んでいたのだ」
「さぞ苦しかったであろう」
「苦しかった、諦めようとした、だがもう諦めるには遅かった、――その時分にはゆき江の気持も同様に変って来ていたのだ」
尋常の恋にさえ抗し難い年頃である、これは更に底深く、しかも初めから遁れ難い運命をもっていた。
千久馬は意を決して、
――ゆき江どのを家の妻に。
と人を介して申し込んだ。一言の下に拒絶されると思ったのに、意外にも茅野総造からは承知の返辞が来た。
――但し、娘の希望として一年待って頂きたい、そうすれば矢作次郎八の一周忌も済むゆえ、そのうえで祝言を仕ろう。
千久馬は一年待った。
しかし次郎八の一周忌が済むと、ゆき江は更に半年の延期を申し出て来た、それも快く承知した。――ゆき江の延期する気持がよく分ったからである、いざ婚約が成立ってみると、若しや次郎八が帰って来はせぬかという疑いが起ったのだ、
――本当に斬死にをなすったのでしょうか。
何度も彼女はそう云った。
――若しや、万に一つも。
それは同時に千久馬の疑惧であったのだ。
「こうしたゆくたて[#「ゆくたて」に傍点]を経て、とうとう二人は婚姻の式を挙げたのだ」
「――では此頃の事だな」
「今日で二十余日しか経たない」
「そうだったか」
欣之助は顔を挙げて、
「よく話してくれた、家中の者がどんな評判をしようと、拙者には貴公らの気持がよく分る、それよりも地下にいる次郎八の方が、もっともっと理解しているに相違ない」
「そう思ってくれるか」
「彼はそういう男だ、次郎八は冥府で二人を祝福しているぞ」
欣之助の力強い言葉に、千久馬の面上は甦ったような光を帯びて来た。
やがて酒肴の支度が運ばれ、化粧を直したゆき江が執り持ちに坐ると、話題は欣之助の方へ廻って、勤番中の江戸の見聞に話がはずんだ。――何も彼も打明けて心が軽くなったか、千久馬は盃の数も日頃より多く、側からそれを見ているゆき江の表情にもなごやかな愛情が溢れていた。
――これでよい。
欣之助は独りそう呟いた。
――二人もこれで落着く事だろう。
そして次郎八とは刎頸の友として許される自分が、二人の婚姻を快く認めたからは、やがて世評も好転するに相違ないと思った。
運命ほど皮肉なものはない。
こうして欣之助という理解者が出て、ようやく二人が力強く立直ろうとした時、また欣之助にしてもそれを何より望んでいた時、思いもよらぬ障害が彼等の面前に現われた。
その夜から四五日経った或る日、――欣之助が登城して御用部屋へ入ると、そこにいた四五名の者が待ち兼ねていたように、
「森井氏、帰ったぞ帰ったぞ」
と云う。
「帰ったとは、誰が」
「矢作だ、矢作次郎八が帰って来たぞ」
欣之助はあっ[#「あっ」に傍点]と立竦んだ。――しかし相手はその顔色を読もうともせず、
「薩摩で二年、乞食同様の暮しをしながら脱走の折を待ったのだそうな、人相を変えるために頬へ火傷も拵え、幾度も命の瀬戸際を潜ってようやく帰国したと云う」
「しかも兼光を放さず持ってさ」
「いま御前へ召されているが、もうやがて退る頃だろう、――それで我々もこうして下城せずに待っているのだ」
悦んでよいか悲しんでよいか、とっさには分らぬほど茫然としていた欣之助の耳へ、人々の侮蔑を含んだ言葉が鋭く聞えて来た、
「云わぬ事ではない、高が二年待てばよいものを、女も女だが千久馬も取返しのつかぬ事になったではないか」
「友の生死もたしかめず、色情に眼の昏んだが過《あやまち》の素だ、これからどうするか見物だぞ」
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
欣之助は長廊下に立っていた。
御前へ召されたまま御酒下されになったらしく、既に十一時《よつはん》を廻ったのに次郎八は退出して来ない、――千久馬と会わせる前に、是非とも自分から二人の気持を説明しておきたい、そう思って欣之助は待っているのだ。
御用部屋での評判は、次郎八の帰りを賞揚すると共に、早くも千久馬夫妻への非難を再燃させている。
――だが次郎八は分る。
欣之助はそう確信していた。
――仔細を話せば、彼とても必ず二人の幸福を願うに相違ない。
そのためにも欣之助は、先ず自分から彼等がそうなった始終を語らねばならぬと思ったのだ。――待つこと一刻半余り、やがて十二時《ここのつ》に近いと思われる頃、御書院へ続く長廊下の彼方から、にわかに人の罵り騒ぐ声が聞えて来た。
「矢作氏、お鎮まりなさい」
「駄目だ、押えつけろ」
「――放せ、放せッ」
「矢作氏、乱心めされたか」
叫び声と、乱れた足音が此方へ、――近習の侍四人掛りで、矢作次郎八を抱き竦めながらやって来た。欣之助は驚いて、
「――どうしたのだ」
と声をかけた。
「御前で爛酔のあまり慮外に及び、御不興を蒙ってこの有様です」
「放せ、此奴ら放さぬかッ」
「手を捻じ上げろ」
「そこの納戸部屋へ、――」
乱れ狂う次郎八を、手取り足取り、納戸部屋へ担ぎ込んで投げ出した。
「うぬ、よくも投げ出したな」
次郎八は濡れ雑巾をつくねたように坐り直しながら、
「此奴ら、矢作次郎八をよくも手籠めにしたな、顔は一々見覚えた、道で会ったらぶった斬ってくれるぞ」
「――次郎八」
欣之助が堪らず近寄って、
「そんなに泥酔してどうする、鎮まれ」
「ばかな、次郎八は二升や三升の酒で酔うような腰抜けではない。誰だ、そんな事を云う奴は誰だ」
酔眼を振り向けた次郎八の、右の高頬に恐ろしい火傷の痕、赤黒く爛れた無慙な傷痕、――なんという変りようだ、かつての端正な相貌は何処へやら、両眼は暴々しく血走っているし、引歪めた唇には獣のような兇猛さが現われている、人の相貌がこんなにも変る事があるであろうか、……欣之助は一瞬、思わず顔を外向けて了った。
「どうして外方を向く、この火傷が恐ろしいのか、やい青法師こっちを見ろ」
次郎八は首を振って喚きたてた。
「この火傷はな、龍野藩五万三千石の名聞を、島津七十余万石の権勢から救った大切な御痕だぞ、若しこの次郎八がいなかったら、薩摩の懐へ逃げ込んだ杉原喜兵衛、龍野如き小藩の微力では指を差す事も出来なかったに違いない、つまり次郎八なればこそ、貴様らも天下に顔向けがなるというものだぞ」
「止せ次郎八、言葉が過ぎるぞ」
欣之助が抑えるのをきかず、
「言葉が過ぎる? 笑わせるな、何奴も此奴も手柄の値打が分らぬから教えてやるのだ、これが大藩なら安くて三百石、まあ五百石の加増は当然だ。それを何だ、――如何に山奥の貧乏家中だからと云って、ただ褒め置くぞの一言で済ますとは、第一この火傷が」
「黙れ、黙れ次郎八」
欣之助は余りの事につと寄りざま、次郎八の口を掌で押えた。
「城中だぞ、人も聞いているぞ」
「な、何をするッ」
次郎八は振りもぎって、
「人に聞かせるために云うのだ、放せ」
「――次郎八」
欣之助は左手を伸ばし、衿髪を取ってぐいと引寄せると、耳許へ口を寄せて叫んだ、
「貴公どれほど酔っているか知らぬが、これだけ案じている拙者の気持が分らぬ筈はあるまい、気を鎮めてよく聞け、城中だぞ、それ以上一言でも吐いたらその儘には済まんぞ」
「うるさい!」
次郎八は力任せに振放して、
「つべこべと意見がましい奴、一体……貴様は何者だ」
「拙者の顔も分らぬのか、情ないぞ次郎八、よく見ろ、欣之助だ、森井欣之助だ」
「森井、欣……?」
訝るように、酔眼を瞠いてじっと見詰めたが、さすがにそれと分ったのであろう。
「ああ、貴公か」
太息のように呟くと、そのままぐたぐたとそこへ突伏して了った。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
「何という変りようだ」
「あれが五年まえの次郎八か」
家中の人々は唖然とした。
「二年も遅れて帰りながら、己ひとりで喜兵衛を斬ったように云い居る、拙者が千久馬なら聞くだけでも唯は置かぬぞ」
「いや、彼には昔から傲慢なところがあったよ」
「そればかりではない、高の知れた手柄を盾に、自分の口から恩賞の不服を申すなど、武士の風上にも置けぬ奴だ」
「そう云えばあの火傷の痕が、却って彼に似合って見えるぞ」
評判は悪くなる一方だった。
そういう噂を知るや知らずや、次郎八はあれ以来出仕もせず、来る日も来る日も爛酔して、悪口罵詈を飛ばし、父の代から仕えている家僕が諫言でもすれば、殴る蹴るの乱暴狼藉であった。
欣之助は疑惧に悩んでいた。
――如何になんとしても変りようがある、総角《あげまき》の頃から心の底まで知り合った次郎八、どんなに変ればとてあれほど無道になる筈がない、――しかし。
幾度も否定する心の奥から、
――ゆき江。
という名が浮上って来る。
――矢張りそうだろうか、ゆき江。命を拾って帰参すれば、許嫁の女は既に親友に取られていた、弟のように思っていた友が、自分の許嫁を娶っている。
恋は人を変えると云う、しかも次郎八の場合は余りに残酷な破恋だ、自分の命を賭してまで危い土壇場から落してやった友達、それが自分の生死もたしかめずその許嫁を奪った、――そのうえに彼は、ふた眼と見られぬ醜い顔になって了ったのだ。
――そうだ、変るのが当然だ、これを平気で許す者があったら鬼神に違いない、次郎八とても人間だ、我々はみんな弱点をもっているのだ、救ってやらねばならぬ。
次郎八を苦悩から救うことは、千久馬とゆき江が結び着いた仔細を語る他にない、そうなるまでの二人の苦しみを話せば、それでも分らぬ次郎八ではないと思う。――そう考えたので、欣之助は何度も矢作の家を訪ねた。しかし次郎八は家僕を通して面会を断り、どうしても会おうとしなかった。
こうして半月ほど経った或る日、意外にも次郎八の方から訪ねて来た、
「よく来て来れた、さあ、――」
「少し頼みたい事がある」
上へ招じようとするのを断って、次郎八は玄関に立ったまま口重く云った。
「実は千久馬に会いたい」
「…………」
「貴公に一緒に行って貰いたいのだが」
「無論、悦んで参ろう」
欣之助は快く頷いて、
「しかし千久馬に会うなら、そのまえに拙者から話して置きたい事がある」
「いや、その必要はない」
次郎八はぶすっと遮った。
「どうして必要がないのだ」
「聞かなくとも分っている」
「そうか、――では、どういう気持で千久馬に会うのか、それだけ云って貰おう」
「……別に」
次郎八はちょっと口籠ったが、
「別に他意あっての事ではない、薩摩で別れたきり会わぬから久濶が云いたいのだ」
「それだけか?」
「――――」
「本当にそれだけの気持か」
次郎八は眩しそうに眼を伏せた、そして暫く足許を見詰めていたが、やがて呟くような声で云った。
「ゆき江にひと眼、ひと眼だけ……」
「次郎八!」
欣之助は胸を刺された。――高頬の傷痕を隠すように、あらぬ方へ外向けた横顔のなんという淋しさ、
「案内をしよう、だが」
と欣之助は訓すように、
「千久馬とゆき江どのがああ成ったに就ては、一言で尽せぬゆくたて[#「ゆくたて」に傍点]があるのだ。貴公の気持も分る、しかし二人の苦しい立場も察してやって欲しい」
「そうかも知れぬ」
次郎八の表情は再び硬ばった。
「しかし今それを貴公から聞いたところで致し方はない、よかったら参ろう」
「支度を直して来る」
ゆき江を前にして篤と話したら、却って諒解が早いかも知れぬ、そう思った欣之助は支度もそこそこに、次郎八を伴って岡田の屋敷を訪ねた。
千久馬もゆき江も家にいた。
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
「久しぶりだ」
「ようこそ、御健固で、――」
何方もぎこちなさの脱れぬ挨拶だった、――欣之助は側から執り成すように、
「堅苦しい挨拶は抜きだ、少年の頃から心を許し合った三人、こうして久方振りで会ったのだからもっと打ち解ける事にしよう」
「では先ず、馳走はないが一盞やろう」
千久馬は直ぐに酒肴を命じた。
欣之助は座を明るくしようとして努力したが、次郎八は顔の筋ひとつ動かさず、自分の膝を見下したまま惘然と坐っていた。――やがてゆき江が婢女と共に膳部を運んで来る、……心なしか化粧も薄く、頬は心の動揺をそのまま表白するかのように蒼味を帯びていた。しかし、男を知って間の無い女の、噎るような肌の香や、胸のふくらみ、豊かな腰のくびれに、隠しきれぬ嬌めかしさが描かれていた。
膳を配り終えたゆき江は、
「ようこそ、御無事で……」
と手をついたが、ふと見上げた眼に、次郎八の恐ろしく変った相貌をみつけると、
「ま、――」
危く声をあげようとして眼を外らした。欣之助は慌ててそれを打消すように、
「さあ、他人行儀はもうよい、御内室には憚りながらお執り持ちを頼みます、次郎八も寛いだらどうだ、――千久馬、主人から先ず」
「では毒味を」
盃が廻り始めた。そして少しずつ話がほぐれ始めるのを待って、
「あれから、ずっと薩摩に、――?」
と千久馬が眩しそうに訊いた、
「左様、屹度《きっと》谷《たに》へ隠れて山児《やまがつ》の群に入ったり、漁夫の仲間に紛れ込んだり、遂にはこの通り火傷を拵えて乞食部落にまで身を陥したよ」
「それは、なんとも苦労であったろう」
「要もない事にな!」
次郎八は自嘲の声音で云った。
「だが漁夫も山児も、乞食たちも良い奴等だった、己のような男でもよく面倒をみてくれたよ、――兼光を持ち帰る要さえなければ、乞食で一生を終ってもよいと思った」
「そんな馬鹿な事を」
「いかんか、乞食はいかんか?」
刺すような鋭い口調に、はっ[#「はっ」に傍点]として千久馬が眼を伏せる。次郎八はそれを見ると、いきなり盃洗を取って中の水をざっと庭へ捨て、
「御妻女、酌を頼む」
と差出した。
「次郎八、――」
「森井は黙って居れ」
ぴたっと押えて、ゆき江が恐る恐る注ぐ酒をひと息に呷りつけた。
「不味《まず》い、不味い酒だ、招かれざる客は美味《うま》い酒にも有りつけぬか、ふふふふふふ――おい千久馬、何故己を見ぬ」
「次郎八、貴公欣之助の面目を潰すぞ」
「黙れ黙れ、己と千久馬とは兄弟同様の間柄であった、殊に今では己の許嫁を妻として居る、申さば肉親も及ばぬ仲だ、なあ千久馬、そうであろう」
「それに就ては聞いて貰いたい事が」
「うるさい、言訳は沢山だ、――御妻女、ゆき江どの、もう一杯頼む」
差つける盃洗、ゆき江が震えながら注ぐ酒を息もつかずに飲み干した次郎八、血走った眼でゆき江の姿をじっと見詰めながら、
「美しいなあ、娘時分とは違って、この嬌めかしい美しさはどうだ、これでは千久馬が迷うのも尤もだぞ、――しかし、よく手に入れたな千久馬、貴様は武芸こそなまくらだが、女を蕩す法は得手と見える」
千久馬はきっと唇を噛んだ。
「喜兵衛を討った時の態、覚えているか、すっかり逆上して手許も定らず、横鬢を殺《そ》いだり蒲団を被せられたり、今考えても笑止千万な態だった。己がいたからよかったようなものの、独りなら返り討ちになっていたところだぞ、――いや実に、あんな腰抜けとは知らなかった」
「次郎八、腰抜けとは口が過ぎるぞ」
千久馬が色を変えて云った。――次郎八は待っていたと云わんばかりに、
「腰抜けが不服か、冗談じゃない、小馬場で既に斬死にという場合、己の情で危く命を拾い、ほうほうの態で逃げ帰った、あの惨めな姿を考えてみろ、腰抜けのうえに臆病未練、おまけに密通までしているではないか」
「――云ったな!」
千久馬は片膝立てて、
「密通という件は措く、だが腰抜け、臆病未練とは聞捨てならんぞ」
「聞捨てがならなければどうする」
「庭へ出ろ」
ぱっと大剣を掴む、
「千久馬、待て」
欣之助が驚いて支えようとするより疾く、次郎八も剣を取って、
「面白い、相手をしよう、来い」
と起った。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
「待て、二人とも待て、それでは拙者の立場が無くなる、待て千久馬、次郎八は酔っているのだ」
「止めるな、もう聞かぬ!」
千久馬は欣之助の手を振放して、
「今の一言酔狂と云えるか、このまま聞きのがしては武士道が立たぬ、――来い次郎八」
「心得た」
「待て、待て」
必至に押し止めようとしたが、二人は互いに大剣の鞘を払って庭へ跳び下りた。
「千久馬、――斬るぞ」
にたりと冷笑する次郎八、ようやく酔いが発したらしく、よろめく足を踏みしめながら、青眼につける、――千久馬は構える余悠もなく、いきなり真向から、
「えイッ」
と斬りつけた。
次郎八は無言のまま体を開くと、立直る千久馬の面上へ切尖をつけて、ぐっぐっと詰め寄った、圧倒する気合だった、――千久馬はたじたじと二三歩退ったが、捨身の勇、喉を劈くような絶叫と共に、
「だーうッ」
体ごと叩きつけるような突き、
「それだけか!」
憂《かっ》! 烈しくひっ払って、千久馬の体が伸びるところを、腰を落しながら一刀、
「あっ」
欣之助は思わず庭へ跳び下りた。
しかし、一髪の差で体を躱した千久馬、この太刀を避けもせず、猛然と火の出るような体当り、酔歩をとられて、次郎八がだっ[#「だっ」に傍点]と横ざまに顛倒する、措かせず踏み込もうとする千久馬の前へ、
「それ迄、千久馬それ迄だ」
と欣之助が割って入った。
「起て、起て次郎八、勝負はまだつかぬぞ」
「いや勝負は定った」
欣之助は無理に押しへだてながら、
「森井欣之助が慥に見届けた、これ以上はお上へ憚りがある、刀を引け、千久馬」
「あなた、どうぞ……」
縁先に立竦んでいたゆき江の、救いを乞うような声を聞いて、千久馬はようやく心を押えた、――そして、まだ地面に腰を落したままぐたりと首を垂れている次郎八の方へ、
「命冥加な奴だ、――帰れ!」
と喚いた。
次郎八はやや暫く動かなかったが、やがて落ちていた剣を引き寄せ、酔いの発したしどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]の手つきで拭いをかけながら、
「帰れ……か、帰れ帰れの三《み》ひょこひょこ、とんだ失策で笑止千万、酔っていなければ仕止めたものを、ふふふふふ」
「次郎八」
「帰るよ、負けて帰るの水潜りだ」
ふふふふふと、自ら嘲り笑いながら、蹣跚《はんさん》としてそのまま闇の中へ立去って行った。――じっと、見送っていた三人、千久馬が吐き出すように、
「見下げ果てた奴だ」
と云えば、ゆき江もまた、
「あんなお方とは夢にも存じませんでした、本当になんという無道な……」
と軽蔑の眉を顰めながら云った。
それから半刻の後、――次郎八は誰もいない自分の家で旅支度をしていた。
家僕たちには昨日すでに暇をやった、家財も見苦しからず片附けてある、塵も止めぬ畳に、孤灯が侘しく光を投げている。――支度を終った次郎八は、襖を明け放った部屋々々を名残り惜しげに暫く見やっていたが、やがて灯を吹き消して裏手の方へ出て行った。
次郎八が裏木戸から外へ出た時である、表から廻って来た提灯が一つ、
「――次郎八ではないか」
と呼びながら近寄って来た。
「あっ」
とっさに逃げようとしたが、相手は素早く行手を塞いで提灯をさしつける、欣之助だった。
「その姿はどうした」
「――欣之助」
とあげる横顔、
「あ、その頬、――」
欣之助は愕然と眼を瞠った。――次郎八の高頬から、あの恐ろしい火傷の痕が消えているのだ。まるで拭ったように、しかもそればかりではない、つい半刻まえまでは兇猛であったその表情が、今は昔のまま端正な相に変っているではないか、
「次郎八、貴公あの傷は……」
「面目ない、塗薬だ」
「聞こう、訳を聞こう」
詰め寄る欣之助を、次郎八は静かに微笑しながら見やって、
「欣之助、――己は、己は千久馬を愛していた、今でもその気持に変りはない」
「それなら何故!」
「己は帰って来て家中の評判を聞いた。可哀そうに、二人が結び着いた事情はよく分る、己は二人の仕合せをこそ祈れ、些かも憎む気持など有りはしない、――だが世間の噂は無情だ、二人は不義者のように云われている、欣之助、これを救う道は一つしかない、それは次郎八が悪人になる事だ、次郎八が無頼であればあるほど、千久馬夫妻を見る世間の眼は違って来る筈だ。……そして、どうやらそれが成功したらしい、これで二人は安穏になれる」
「――知らなかった」
欣之助は溢れ出る涙を懸命に堪えて、
「それ程までに考えた事を、どうして一言打ち明けてくれなかったのだ、他に思案もあったであろうに」
「他には無いのだ欣之助」
次郎八は静かに云った。
「世間の批判を正すのも一つ、もっと大事なのは、千久馬夫妻の気持だ、分らないか貴公、……己が今まで通りの男で、しかも同家中にいたとしたら、二人は終生悔恨に苦しめられるんだぞ」
「――次郎八」
欣之助はひしと友の手を握った。
「そうなんだ、だから己は酔いどれ次郎八になった、千久馬もゆき江も、今宵からは全く自由になれるんだ、惧れていた次郎八の幻から逃れて、二人だけの生活が始まるんだ」
「これ程の武士を、――」
欣之助は咽びながら云った、
「みすみす悪名に朽ちさせるのか」
「それが二人の為なんだ、正直に云えば――ゆき江の仕合せの……」
初めて、初めて次郎八の眼に涙が光った、初秋の夜風が、高く高く吹き過ぎて行く、――虫の音が噎ぶように闇を震わせていた。
底本:「感動小説集」実業之日本社
1975(昭和50)年6月10日 初版発行
1978(昭和53)年5月10日 九版発行
底本の親本:「富士」
1938(昭和13)年8月号
初出:「富士」
1938(昭和13)年8月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ