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伊藤藤次郎

伊藤藤次郎(いとうとうじろう)〈1915年6月ー1998年11月〉は、日本国有鉄道官僚、衆議院議員、衆院運輸委員長行財政改革担当相

来歴

生い立ち

1915年、山口県下関市出身。出身の周防伊藤家は、山口県の政財界で大きな影響を及ぼす名門で、出自はその分家に当たる。戦後の農地解放運動で、周防伊藤家が分裂し没落する中、藤次郎の出身家はその力を維持した。父の伊藤段四郎は、伊藤本家にゆかりのある山口県議会議員で、下関市長などを務めた。6歳上の長兄である伊藤信人は、九州大学での近代日本政治思想史研究に力を入れた政治史学者。3歳上の兄は、伊藤万次郎で、千葉県「千葉伊藤家」に養子に出された。11歳の離れた弟の伊藤兼輝は、サラリーマンから政治家秘書に転じ、最終的には山口市長を務めた。

学生時代

旧制下関高校(現・山口県立下関高等学校)を経て、東京大学に進学。学生時代は、東大運動会剣道部に所属(剣道部の1年後輩に小田光陵、2年後輩に村上一秀がいた)。第46回全国学生優勝剣道大会(1936年)にて個人優勝を果たした。1938年3月、東京大学法学部法経学科を卒業。

日本国有鉄道官僚

1938年4月、鉄道官僚として日本国有鉄道に採用。総裁室、長野鉄道管理局経営局名古屋鉄道管理局での勤務を経て、経営局企画部長に就任。1945年、国鉄管理職が南方の行政官へ転任していったため、上層部が空席になったため若手ながらの抜擢人事。戦後もしばらく国鉄にいたが、1947年8月に発生した「運輸省事業者免許不正許認可事件」の影響で、空席が増えた鉄道総局安全運航課長に抜擢登用。
鉄道総局長をめぐる人事
1949年7月より鉄道課長に就任。鉄道総局長の大島忠雄(東大法学部同窓会長)から「管理局長にいるような人で候補を絞った時に、東大法学卒が君しかおらんかったんや」として鉄道課長指名の理由を語られた。この時、東大法出身者で鉄道管理局長の経験者は、8名ほどいた。その中で本省の課長経験者は、迫田昇松山鉄道管理局長/交通局運輸課長)のみであった。迫田は、東大法の9年先輩にあたる運輸省キャリア組で、出世に貪欲な人物として知られていた。戦中の行政官派遣を経て、地方勤務の最中であった。1951年には、大島次官が公職追放の憂き目にあい、福森信夫(主席鉄道審議官、元大阪鉄道管理局長)が交代して就任。しかし、度重なる問題解決に際して心労を患い、本省へ出勤する機会も少なかった。この現状に、牧原三郎運輸省人事課長)から苦言を呈され、鉄道総局長の臨時代理職にあたる、国鉄管理監に、伊藤が就任する。1955年3月、福森信夫総局長が満期退官するにしたがって、自身も鉄道官僚としての限界を感じ退官。

出会い・保守党

1955年、39歳という若さで、運輸省を退官。地元山口に帰郷する折、入省同期のノンキャリ組である森友幸大阪鉄道管理局運輸部乗務課長)の誘いを受けて、共和党大阪遊説大会に参加。若くして副幹事長として党をまとめる、加藤信彦の姿に感銘を受けて、衆議院議員を志すことを決めた。大会後、代議士が詰めるホテルに直撃し、その場で加藤副幹事長に面会を求めた。加藤副幹事長は、運輸省の番頭格として省を仕切っていた若手の伊藤を以前から知っており面会に答えた。回顧録では、加藤はその場で旧山口2区の公認を腹に決めたという。

1955年5月、長野鉄道管理局での先輩だった、現場たたき上げの松尾博彦広島鉄道管理局営業部長)からの誘いを受けて、国鉄ホテル取締役・広島支社担当(兼)役員室担当に就任する。

政界進出へ

1956年10月、保守党山口県支部大会において、次期衆院選の旧山口2区の公認として正式発表。公認発表後、国鉄ホテルを退職。父が、1期目の下関市長で下関料亭連合から根強い支持を得た関係から、経済界からの後援会地盤を得ることになる。父の後援会や父の盟友であった地元県議も選挙応援に駆り出された。父の伊藤段四郎は、この選挙以降、保守党との間に一線を敷いた。1957年6月9日投開票の第18回衆議院総選挙においてトップ当選を果たし、国政に進出する。

鉄道族の盟友・国対族の名物議員

当選後、幹事長に抜擢人事を受けた加藤信彦に初当選の報告をするために上京。訪問の折、保守党生え抜きで運輸族の番頭役だった田中七(元仙台鉄道管理局長)を紹介され、以降付き従うことになる。党国対委員に起用されると、民間鉄道会社への支援金増額を盛り込んだ「民営鉄道経営健全化法案」に反対して、委員長着席を妨害。1年生議員でありながら国会の暴れ馬となる。派閥としては、加藤信彦に付き従う官僚派で、1963年の治水会発足に尽力。1968年、衆議院運輸建設委員会初代委員長に就任。1973年、八政会佐藤雅彦党総裁から指名されて、保守党最後の国対委員長に就任。共和党社会党に顔が利き、

自由党議員

1975年4月より、自由党に合流。党国対委員長に起用される見通しとされていたが、常任委員長職を求めて固辞。同年10月、衆院懲罰委員長に就任。同派閥の浅上浩二が、1977年党首公選への出馬に向けて水面下で商工省OBと会食しているという話を聞き、自身も運輸省OBに挨拶回りを行う。最終的に、派閥単位での応援ができないとなり、日成会片山愛康への個人的な私心から、応援に回る。その縁があって、自由党内の要職を経て、片山内閣総務大臣として初入閣。改造内閣でも、(法務電気通信1億総活躍民力活性)として留任。浅上内閣での入閣を最後に議員辞職。議員辞職後、民間人として、内閣官房民力活性化推進本部委員に登用された。

親族・家族

  • 妻-小田かずえ(1917年9月~2000年3月)
東京都葛飾区に生まれる。東京女子塾出身。
  • 長男-伊藤進(1943年8月~2031年9月)
東京都新宿区に生まれる。早稲田大学王立釜山政治大学を経て、ヨコハマゴムへ入社。父・伊藤藤次郎の私設秘書を経て、自由党衆議院議員文部大臣特命担当大臣、党三役などを歴任。
東京都新宿区に生まれる。東京大学卒業後、アイチ自動車へ入社。財務本部長、専務取締役などを経て、Aishiアメリカ法人CEO。日米自動車商工会会長。

周防伊藤家

山口県下関市に生まれる。九州大学医学部を卒業後、内科開業医。山口県医師会役員、山口県議会議員、下関市長を歴任した。
山口県下関市に生まれる。九州大学法学部を卒業後、東京大学王立釜山政治大学台湾国立政治大学、九州大学で近代日本政治思想史を研究した。
山口県下関市に生まれる。千葉伊藤家へ養子入り。慶応義塾大学経済学部を卒業後、千葉商工銀行勤務を経て、政界入り。民主党共和党を経て自由党へ入党。大蔵政務次官総務大臣内閣官房長官外務大臣、共和党政調会長などを歴任する。
山口県下関市に生まれる。伊藤本家へ入る。早稲田大学法学部を卒業後、山口興産へ入社。取締役などを経て、1966年から神谷猛(衆議院議員)秘書へ転身。1974年から山口市長(5期)。

小田家

山梨県甲州市に生まれる。生家は、甲州六家湯村家に近い。父母共に藩医の家系である。東京大学を経て、生田海運へ入社。1910年に貿易会社を興す。

選挙歴

選挙 開票日 年齢 選挙区 政党 定数 順位
第18回衆議院総選挙 1957.6 41 旧山口2区 保守党 2 1/5
第19回衆議院総選挙 1959.7 44 旧山口2区 保守党 2 1/5
第20回衆議院総選挙 1963.7 48 旧山口2区 保守党 2 1/4
第21回衆議院総選挙 1966.4 50 旧山口2区 保守党 2 1/4
第22回衆議院総選挙 1970.4 54 旧山口2区 保守党 2 1/5
第23回衆議院総選挙 1973.9 58 旧山口2区 保守党 2 1/6
第24回衆議院総選挙 1978.7 63 旧山口2区 保守党 2 1/4
第25回衆議院総選挙 1980.5 65 旧山口2区 保守党 2 1/4
第26回衆議院総選挙 1983.6 68 旧山口2区 保守党 2 1/6

経歴


  • 1938年4月_日本国有鉄道へ入社(高等文官行政科)
  • 1938年7月_総裁室秘書課
  • 1939年7月_長野鉄道管理局経理部契約課主任
  • 1941年7月_経営局企画部数値企画課主任
  • 1942年1月_同企画部数値企画課長補佐
  • 1943年1月_名古屋鉄道管理局運輸部運行管理課長補佐
  • 1943年7月_同運輸部安全運輸課長
  • 1944年7月_同営業部次長
  • 1945年7月_経営局企画部長
  • 1947年1月_長野鉄道管理局長
  • 1948年1月_鉄道総局安全運航課長
  • 1949年7月_同鉄道課長
  • 1952年1月_同国鉄管理監
  • 1955年1月_退官
  • 1955年5月_国鉄ホテル取締役(広島支社・役員室)


最終更新:2026年05月25日 08:15