来歴
生い立ち
学生時代
鉄道総局長をめぐる人事
1949年7月より鉄道課長に就任。鉄道総局長の
大島忠雄(東大法学部同窓会長)から「管理局長にいるような人で候補を絞った時に、東大法学卒が君しかおらんかったんや」として鉄道課長指名の理由を語られた。この時、東大法出身者で鉄道管理局長の経験者は、8名ほどいた。その中で本省の課長経験者は、
迫田昇(
松山鉄道管理局長/
交通局運輸課長)のみであった。迫田は、東大法の9年先輩にあたる運輸省キャリア組で、出世に貪欲な人物として知られていた。戦中の行政官派遣を経て、地方勤務の最中であった。1951年には、大島次官が
公職追放の憂き目にあい、
福森信夫(主席鉄道審議官、元
大阪鉄道管理局長)が交代して就任。しかし、度重なる問題解決に際して心労を患い、本省へ出勤する機会も少なかった。この現状に、
牧原三郎(
運輸省人事課長)から苦言を呈され、鉄道総局長の臨時代理職にあたる、国鉄管理監に、
伊藤が就任する。1955年3月、
福森信夫総局長が満期退官するにしたがって、自身も鉄道官僚としての限界を感じ退官。
1955年、39歳という若さで、
運輸省を退官。地元山口に帰郷する折、入省同期のノンキャリ組である
森友幸(
大阪鉄道管理局運輸部乗務課長)の誘いを受けて、
共和党大阪遊説大会に参加。若くして副幹事長として党をまとめる、
加藤信彦の姿に感銘を受けて、
衆議院議員を志すことを決めた。大会後、代議士が詰めるホテルに直撃し、その場で加藤副幹事長に面会を求めた。加藤副幹事長は、
運輸省の番頭格として省を仕切っていた若手の伊藤を以前から知っており面会に答えた。回顧録では、加藤はその場で
旧山口2区の公認を腹に決めたという。
政界進出へ
鉄道族の盟友・国対族の名物議員
親族・家族
周防伊藤家
- 兄-伊藤万次郎(1912年7月~2007年11月)
小田家
- 岳父-小田数憲(1883年11月~1932年1月)
選挙歴
経歴
- 1938年4月_日本国有鉄道へ入社(高等文官行政科)
- 1938年7月_総裁室秘書課
- 1939年7月_長野鉄道管理局経理部契約課主任
- 1941年7月_経営局企画部数値企画課主任
- 1942年1月_同企画部数値企画課長補佐
- 1943年1月_名古屋鉄道管理局運輸部運行管理課長補佐
- 1943年7月_同運輸部安全運輸課長
- 1944年7月_同営業部次長
- 1945年7月_経営局企画部長
- 1947年1月_長野鉄道管理局長
- 1948年1月_鉄道総局安全運航課長
- 1949年7月_同鉄道課長
- 1952年1月_同国鉄管理監
- 1955年1月_退官
- 1955年5月_国鉄ホテル取締役(広島支社・役員室)
最終更新:2026年05月25日 08:15