来歴
生い立ち~鉄道官僚
1938年4月、鉄道官僚として
日本国有鉄道に採用。総裁室、
長野鉄道管理局、
経営局、
名古屋鉄道管理局での勤務を経て、経営局企画部長に就任。1945年、国鉄管理職が南方の行政官へ転任していったため、上層部が空席になったため若手ながらの抜擢人事。戦後もしばらく国鉄にいたが、1947年8月に発生した「
運輸省事業者免許不正許認可事件」の影響で、空席が増えた
鉄道総局安全運航課長に抜擢登用。1949年7月より鉄道課長に就任。鉄道総局長の
大島忠雄(東大法学部同窓会長)から「管理局長にいるような人で候補を絞った時に、東大法学卒が君しかおらんかったんや」として鉄道課長指名の理由を語られた。この時、東大法出身者で鉄道管理局長の経験者は、8名ほどいた。その中で本省の課長経験者は、
迫田昇(
松山鉄道管理局長/
交通局運輸課長)のみであった。迫田は、東大法の9年先輩にあたる運輸省キャリア組で、出世に貪欲な人物として知られていた。戦中の行政官派遣を経て、地方勤務の最中であった。1951年には、大島次官が
公職追放の憂き目にあい、
福森信夫(主席鉄道審議官、元
大阪鉄道管理局長)が交代して就任。しかし、度重なる問題解決に際して心労を患い、本省へ出勤する機会も少なかった。この現状に、
牧原三郎(
運輸省人事課長)から苦言を呈され、鉄道総局長の臨時代理職にあたる、国鉄管理監に、
伊藤が就任する。1955年3月、
福森信夫総局長が満期退官するにしたがって、自身も鉄道官僚としての限界を感じ退官。
政界入り
1955年、39歳という若さで、
運輸省を退官。地元山口に帰郷する折、入省同期のノンキャリ組である
森友幸(
大阪鉄道管理局運輸部乗務課長)の誘いを受けて、
共和党大阪遊説大会に参加。若くして副幹事長として党をまとめる、
加藤信彦の姿に感銘を受けて、
衆議院議員を志すことを決めた。大会後、代議士が詰めるホテルに直撃し、その場で加藤副幹事長に面会を求めた。加藤副幹事長は、
運輸省の番頭格として省を仕切っていた若手の伊藤を以前から知っており面会に答えた。回顧録では、加藤はその場で
旧山口2区の公認を腹に決めたという。
鉄道族の盟友・国対族の名物議員
人物
- 東京大学剣道部のOBの1人で知られ、政界でもこの人脈を広く活用することになる。全日本剣道連盟総裁を務める山本太一(衆議院議員)は、東大剣道部の同級生。山本とともに、「日本の武士道文化を継承する国会議員連盟(武士道議連)」を設立した。
親族・家族
周防伊藤家
- 兄-伊藤万次郎(1912年7月~2007年11月)
小田家
- 岳父-小田数憲(1883年11月~1932年1月)
選挙歴
経歴
学歴
| 1915年 |
6月 |
山口県下関市 出身 |
| 1928年 |
4月 |
旧制下関高校 入学 |
| 1934年 |
3月 |
旧制下関高校 卒業 |
|
4月 |
東京大学文化一類 入学 |
| 1938年 |
3月 |
東京大学法学部法経学科 卒業 |
職歴
| 1938年 |
4月 |
日本国有鉄道 採用(高等文官行政科) |
|
7月 |
総裁室秘書課 |
| 1939年 |
7月 |
長野鉄道管理局経理部契約課 主務 |
| 1941年 |
1月 |
経営局経営部企画課 主務 |
| 1942年 |
1月 |
経営局経営部企画課長補佐 |
| 1943年 |
1月 |
名古屋鉄道管理局運輸部運行管理課長補佐 |
|
7月 |
名古屋鉄道管理局運輸部安全運輸課長 |
| 1944年 |
7月 |
名古屋鉄道管理局営業部次長 |
| 1945年 |
7月 |
経営局経営部長 |
| 1947年 |
1月 |
長野鉄道管理局長 |
| 1948年 |
1月 |
(転籍)運輸省 |
|
|
鉄道総局安全運航課長 |
| 1949年 |
7月 |
鉄道総局鉄道課長 |
| 1952年 |
1月 |
鉄道総局国鉄管理監 |
| 1955年 |
1月 |
退官 |
|
5月 |
国鉄ホテル取締役(役員室)・広島支社 |
政治歴
最終更新:2026年08月22日 22:08