多田信勝(ただのぶかつ、1890年10月~1984年2月)は、日本の政治家、官僚。
衆議院議員、
大蔵省官僚。
来歴
1890年10月生まれ、
秋田藩出身。生家は、代々農家。
旧制横浜高校、
東京大学法学部を経て、
毎朝新聞社へ入社。官僚志望の動機が多かった環境の中、劣等生であった多田は、高等文官試験の採用順位が低かったためにその道をあきらめて民間への入社をきめる。
1年間の記者経験の後、
大蔵省へ
高等文官行政科の採用を受けて入省する。初期から無難な人事評価を受けていたが、浪人した1年間が影響して非出世コースの
主税局に配属。
横浜税関での勤務を経て、1923年から横浜税関長を務めることになる。当時、国内最大規模であった
横浜港は、対米輸出入の中心的な役割を担った。横浜税関長はこれまで地方の長老か中央キャリア組の初期キャリアとしての役割が強く、当然後者を意識した人事となった。これより数年後、横浜税関長の人事的役割は、
東京税関長に譲られることになる。
その後、
銀行局に移って、国際金融政策に強い差配力を及ぼす戦前の国際通貨マフィアの一角として名前が挙がることになる。
1925年、
公逆事件の影響を受けて省内の大物が失脚すると、自身も
大臣官房審議官に出世。繰り上げ人事や昇進人事が多数行われ、左遷されたキャリア組やノンキャリ組が中央官界の要職に復権する機会となった。その後、
銀行局、
大臣官房を経て、
財務官に就任する。財務官時代、大蔵省の元老政治脱却を掲げて、民間資本の活性化を訴えていた。
横浜大学高等科、横浜大学法学部を卒業。横浜大の同級に、官僚志望が多かったため自身も官僚の道を選択する。高文浪人時代 中央の官僚を目指して高等文官試験を受験するも、結果として不合格となる。地方文官試験では、横浜地区に次席で合格したため地方官吏の道が開かれたが、周囲と比較され続けることを恐れて地方文官試験の合格を蹴る。そのまま大学を卒業してしまったため、大学を出た後は横浜毎日新聞に入社。横浜警察本部にて報道班の記者を担当。しかし、記者としての限界を早くも感じたため、中央官界への夢を改めて強くする。大蔵官僚時代 23歳(97)再び高等文官試験を受験し、キャリア組として大蔵省への道を開いた。同い年とは1年遅れでの官僚の道を歩む。25歳(99)関東関税局横浜税関業務班長、横浜税関の責任者となる。26歳(00)横浜税関次長。29歳(03)横浜税関長、32歳(06)20代後半を地方で過ごす出世コースを過ごして中央に無事復帰。関税局監視課長補佐。35歳(09)金融庁国際金融部流通課長、国際関連の金融政策に見識を示したため、一時期関税分野から離れることとなる。37歳(11)金融監督庁国際金融部参事官。関税局での出世 38歳(12)金融監督庁から戻り、関税局監視課長。40歳(14)関東関税局長、東京港の開発に際して大蔵省として税関整備を行う必要があったため現地担当者として東京にとんだ、監視課長から地方局長になることは従来の降格人事であったがこの人事以後、関税局監視課の格式が下がることになる。44歳(18)瀬戸内関税局長、瀬戸内関税局は1918年に瀬戸内における広域な港湾税関を一括統治するために設置され、空港設備ができた現在でも国内最大の関税管理局として存続されている。すなわち、初代局長となった。公逆事件を経て 45歳(19)公逆事件が発生すると、地方勤務が長いため事件に関与していなかったという理由で、空席となった大臣官房次長に就任。47歳(21)金融監督庁銀行部長、官房次長の次なる役職として固定されているのが銀行の監視職である、従来ならば銀行と大蔵省との距離を詰めるために作られた人事ルートである。48歳(22)大蔵省に戻り関税局長、銀行部長の次に出身母体の局長になるというのが基本的な出世ルートになる。54歳(28) 財務官に就任、局長を長らく務め、おそらく引退と思われていたところで異例の人事となった。意見などが通るはずもなかった。55歳(29)民主化運動が展開されると、同調勢力として、自らが担当していた予算編成業務を停止させた。これにより、主計局が最終的な決算を出すことができず大蔵省の職務が完全に停止する事態を引き起こした。民主化の後 55歳(29)立隆一が国家代議院議長に就任すると、行政府の組織を崩さないことを明言したため大蔵省新制度組織委員長として民主化のための大蔵行政を促進、大蔵省と金融庁による金融市場の民主化を推し進めた。各省庁の新制度組織委員は、後の日本政財界における中心的人物となっていく。56歳(30)立内閣の発足後に指名を受けて、大蔵次官。
58歳(32)大蔵省を退官し、官僚出身者として総理府副長官に就任。代議士時代初期 59歳(33)
立龍一と
民主党の推薦を受けて兵庫2区から立候補、当選する。兵庫県は妻の出身地で、財界とのつながりが深いという関係性もあった。当選後、大蔵大臣(立龍一内閣)として入閣。財務金融の民主化と対外経済の自由化を促進する立場となった。61歳(35)立内閣の諮問機関として日本経済人研究会の設立を主導。外務相/大蔵相/産業相/経済相/運輸相の4閣僚が特別顧問、日本の在野経済人や政財界の要人、学者などの70名程度が在籍する一大派閥となった。1936年、竹田信哲/幹事長を中心とする親米派と
鶴田正弘/選挙部長を中心とする中国協調派に分裂。両派から設立協力を依願されたため、竹田幹事長とともに親米派代議士を集めた同志会を発足させ、62歳(36)代議士会長(No2)に就任した。総理府長官時代 1936年総選挙でも兵庫2区から当選。総理府長官(立龍一内閣)として横滑り。内閣提出立法を用いて官界支配を推進。「政党法」「内閣法」の成立を担当。65歳(39)代議士を辞職(選挙区を一男に禅譲)、ともに民主党同志会会長に就任する。代議士の職を離れたが、慰留されたことで総理府長官(立龍一内閣)を留任。
内閣総理大臣時代 翌年、66歳(40)立龍一退任のため、民主党から推薦される形で国家代議院による首班指名を受け、内閣総理大臣に就任。首相就任については、以前からの決定事項であるとして決められた。就任とともに民主党の党籍、同志会を一時的に離脱。首相として親米政策、立内閣では拡充できなかった国内法の整備を推進。特に「国会法」の成立によって政治体制の確立を見た。首相退任後 1942年の総選挙後、首班指名をもって内閣総理大臣の職を退く。68歳(42)首相退任後、民主党同志会会長に復権。73歳(47)後任を明言することなく同志会会長を退く。結果として赤城勇作が会長に就くまで6年間会長が置かれなかった。政界引退後は、20年の呼ぶ闘病生活を送ったが、旅行先のシンガポールにて1967年に93歳でその生涯を閉じた。
略年歴
学歴
| 1890年 |
10月 |
秋田藩 出身 |
| 1903年 |
4月 |
旧制横浜高校 入学 |
| 1909年 |
3月 |
旧制横浜高校 卒業 |
|
4月 |
東京大学文科一類 入学 |
| 1913年 |
3月 |
東京大学法学部法経学科 卒業 |
職歴
| 1913年 |
4月 |
毎朝新聞社 入社 |
|
|
横浜報道局警察担当 |
| 1914年 |
4月 |
大蔵省 入省(高等文官行政科) |
|
7月 |
主税局業務課 |
| 1916年 |
3月 |
主税局業務課 主務 |
|
10月 |
横浜税関業務部第三課長 |
| 1918年 |
4月 |
横浜税関業務部長 |
| 1920年 |
7月 |
主税局税関業務課長補佐 |
| 1922年 |
1月 |
横浜税関次長 |
| 1925年 |
11月 |
銀行局国際財政部流通企画室長 |
| 1927年 |
10月 |
銀行局国際財政部金融施策企画官 |
| 1929年 |
4月 |
国際財政局金融課長 |
| 1932年 |
10月 |
在アメリカ合衆国日本国大使館経済部長・上級書記官 |
| 1934年 |
10月 |
大臣官房次長 |
| 1935年 |
4月 |
国際財政局長 |
| 1937年 |
1月 |
銀行局長 |
| 1938年 |
10月 |
財務官 |
| 1940年 |
3月 |
駐ブラジル大使 |
| 1942年 |
8月 |
(出向)企画院 |
|
|
総裁室長 |
| 1944年 |
4月 |
(帰任)大蔵省 |
|
|
大蔵事務次官 |
| 1945年 |
5月 |
退官 |
政治歴
最終更新:2026年08月23日 21:37