未だ星々の輝く名残を残した明け方。
 寒空の下、か細い鼻歌の音色が風に乗って揺蕩っている。
 季節はじきに秋を越えて冬へ移り変わろうという頃合いだ。
 そんな時季の早朝に朝潮の流れ込む海辺へ立ち物思いに耽りなどすれば、当然手足は十分もしない内に悴み始める。
 だが、その人物は既に一時間以上は波打ち際に立ち、どことも知れぬ水平線の向こうを見据えて詠っていた。
 消える月を何を思って眺めていたのか。
 或いは、もっと前に消えてしまった何かへ思いを馳せていたのか。
 それを知る者はきっと、誰もいない。
 多分、彼女自身さえもそうなのだ。


「天に抗する気力なければ、天は必ず我々を滅ぼすだろう」


 それは、この電脳の空であっても同じことだ。
 人も化物も、有機であれ無機であれ、この世の概念へ当て嵌められて生誕したものには一生運命という敵が付き纏う。
 またの名を天命、天運。
 一度天に見限られた者がどれだけ足掻こうとも、最終的な破滅は避けられない。
 生とは因果との戦だとある日悟った。
 隙あらば地獄へ落としてやろうと涎を垂らす悪意の天を、如何にして打ち破るか。
 天に滅ぼされたものを、これまで数えきれないほど見てきた。
 ある時は敵であり、ある時は友であり、またある時は自分であり。
 その度に嘆き、怒った。
 運命という見えざる敵に殺意すら抱き、一方通行の独り相撲に興じてきた。

「諸君、必ず天に勝て……」

 先人の残した言葉の受け売りという前置き付きでかつて聞かされたその言葉は、いつでも緩んだ心を締め直してくれる。
 心ある生き物の常として、現状への慢心を捨てることは出来ない。
 何もそれは人間だけではなく、獣や昆虫の世界においてもそうだ。そして恐れることを忘れた存在は、直に末路へ至る。
 大義を成したくば、驕る心を捨てなければならない。
 捨てても湧いてくるならば、その度削ぎ落とさねばならない。
 さもなくば、自分もまた、彼女の二の舞を辿る羽目になるだろう。
 長い長い旅路の果てに、しかし何かを成すことはついぞないまま、泣き笑いを浮かべて眠りについた彼女の。
 もはや思い出したくもないかの日の記憶。
 それを戒めの楔として、これより先のあらゆる物事へ臨まねばなるまい。

 ――あと一騎の犠牲で、大いなる数式は完成される。
 歯車を回し、真理へ至る大時計を起動させるのに必要な英霊の魂は、これでようやく満たされることになる。
 長い旅路だった。
 何度も諦め挫けそうになりながら苦界を歩き続け、一つの答えへ辿り着いてからも幾度となく絶望に打ちひしがれてきた。
 だが、もうそんな弱さはどこにもない。
 修羅道へ足を踏み入れたるこの身に、恐れるものなど何もないのだから。


 数式の完成により歯車は回り始めるだろう。冒涜の大戦が祝福の鐘とともにその幕を開けるのだ。


 遍く全ての嘆きと祈りを糧に、あの時見失った帰り道を深雪の底から見つけ出そう。。
 戦の日、それが全てではないと知らなかったかの日の過ちを覆す為に、苦界の冬へと踏み出そう。
 彼が生み出し彼女が抱いたこの願いはもう誰にも奪わせない。
 聖杯の奇跡という呼び水を用いて、真の済度で全ての無念を救うために。





 今宵――第二次聖杯戦争を開戦する。





――






「敗れた者。救えなかった者。
 手を伸ばし、されど何も掴むことが出来なかった者。
 在りようは違えども、彼らは共に変わり果てている。
 老いさらばえた野良犬のような貪欲さで、残されたたった一本の銀糸を手繰り寄せて。
 彼も彼女も、諦めない。諦めれば、すべてが終わってしまう。
 ああ――その気持ちは、痛いほどわかる」








――



 壁から突き出した複眼の顔を、三叉槍の穂先がぐじゅりと突き刺した。
 水晶体を突き破って内側まで届いた感触がある。激痛に呻く顔を、傷口を通して直接凍結させていく。
 顔は暫く死にかけの虫のように蠢いていたが、十秒弱もすればピクリとも動かなくなり、怨嗟の声を残して消え去った。

 かと思えば、少女の足元が突然大きな口に変わる。
 人間のものを形はそのままに巨大化させたような歯を唾液で光らせ、落ちてくる少女を噛み砕かんとする。
 万力のように襲い来る上下の歯を武器で押さえ付けつつ脱出し、そのまま前歯をへし折った。
 歯茎に槍を突き刺し、そこから内側を凍らせていくと、暴れるように舌を動かし唾液を散らす。
 駄目押しに突きを数度くれてやり、やっと大口は動かなくなり、此方もまた消滅する。
 だが、気を抜いてはならない。
 槍を握る力を強めて目を鋭く細め後続に備える彼女であったが、しかしその気合いは空振りに終わった。

 路地の向こう側から、こちらへ歩を進めて来る大柄な神父服の姿がある。
 その右手は男の首を掴み、引きずっており、掴まれた首はあり得ない方向に捻くれて当の男は白目を剥いていた。
 見れば、路地を埋め尽くす勢いで溢れ返っていた化物の姿がどこにも見えない。
 ――こいつが術者か。
 軽々と擲たれ、地面で何度かバウンドして止まった惨死体を冷めた目で見、『プリンセス・デリュージ』は呟く。

「お怪我はありませんか、デリュージ」
「……大丈夫です」
「それは良かった。事を急いだつもりだったのですが、些か本体を見つけ出すのに手間取ってしまったものでして」

 火力に任せて敵を制圧し、進んで数を減らしていけるのならば苦労はしない。
 しかしデリュージのサーヴァントは生憎と、何騎もの英霊を同時に相手取れるような攻撃性は有していなかった。
 守りの一点特化。彼の鎧を破ることは誰にも出来ないが、彼が持つ最大の矛は、無敵の鎧と両立出来ない。
 あくまでそれを抜くのはここぞという場面。確実に使うことで勝利できる場面でなければならない。
 だからデリュージ達は、当分は聖杯戦争を静観する腹積もりでいた。
 静観、と言うと語弊がある。正しくは影に潜んでの暗躍、と呼ぶべきだろう。
 時が来るまでは争いを扇動しつつ、狩れる相手のみを狩る。
 そうして聖杯へ近付いていく算段だったが、それを早速ご破算にするような出来事がデリュージを襲ったのだった。

 時刻は早朝。学校へ登校するため、すっかり見慣れてしまった通学路を歩いている時だ。
 目の前で、人間が壁から突き出た巨大な頭に食い千切られて死んだ。
 予兆も、気配も、何もない。食われた側も何が起きているのか分からないといった顔を浮かべたまま事切れていた。
 それを見たプリンセス・デリュージ――青木奈美の行動は早かった。
 嬉しそうに瞳を歪めて残骸を貪り食う顔から逃げるようにして路地へ走り込んだ。
 ――プリンセスモード・オン。それをコマンドワードに、奈美は人造魔法少女、デリュージへと変身を遂げる。
 貪欲に唾液を滴らせながら、獲物を逃さぬと追ってきていた化物と交戦に入り、そうして今に至る訳だったが……

「どうして気付けたんですか」
「そこはそれ、サーヴァントとしての努めのようなものと思っていただければ。
 貴女はマスターとしては上等な戦力ですが、それでもサーヴァント相手では分が悪いでしょう。
 霊体化してこっそりと護衛させていただいていた……という訳です」
「……なんだってまた、断りもなく?」
「やれやれ、どうやら私は随分と信用がないらしい」

 わざとらしく傷付いたような表情をするアーチャーとは対称的に、デリュージの表情は冷ややかだった。
 この男は確かに自分のサーヴァントだ。だが、信用できる味方では決してない。
 今回のことも、デリュージの身を案じての護衛というよりかは、その動向を監視する意図が主なのだろう。
 実質的に助けられた分際で悪罵を叩き付けるのは気が引けるが、とにかく、このアーチャーは相当な曲者なのだ。
「話は変わりますが、わざわざ死体を運んできたのには一つ理由がありまして」
「理由……?」

 怪訝な顔で問い返すデリュージを尻目に、果てた死体の傍らに屈み込むと、その両手を彼女へ示してみせた。
 そこに、聖杯戦争のマスターにあって然るべき真紅の刻印はどこにもない。
 一画たりともだ。聖杯戦争の中で失ったとも考えられるが、アーチャーの様子を見るにそうではないらしい。

「私は本職の魔術師ではありませんので、正確な見立てかどうかには今一つ自信がないのですがね。
 どうにもデリュージ、貴女を襲ったこの人物は聖杯戦争の関係者ではないらしい」
「……どういうことですか。一介のNPCが、明確な害意を持って私を襲ったと?」
「勿論、そんなことはあり得ない。 
 プレイヤーへ攻撃をして来るNPCなど、それは最早舞台装置の枠を過ぎて余りある」

 しかし、そこにNPC以外の手が加わっていたとしたら?
 笑みを浮かべて言うアーチャーの言わんとすることが理解できないほど、デリュージは阿呆ではなかった。

「何者かがNPCに介入して、その本質を歪めた――ということですか」
「その通り。理解が早いのは貴女の美徳ですよ、デリュージ」

 アーチャーは片足をゆっくりと振り上げると、死体の頭、それから心臓を丁寧に踏み潰して破壊した。
 無いとは思うが、死体を通じて何かしらの情報回収や細工が行われることを危惧しての行動だ。
 本当は跡形もなく消し去ってしまうくらいが丁度いいのだが、生憎とアーチャーの力でそれをしようと思えば手間が掛かる。

「恐らくはキャスタークラスでしょうが、討伐令をも恐れぬ大胆な行動に出るマスターが随分多いようだ。
 しかし、人形にこれだけの力を付与できるとなれば、誰かは知らないが相当な術師に違いありません」
「ルーラーの処分が下る可能性は?」
「そればかりは裁定次第としか。
 大本のサーヴァントは直接的にNPCへ危害を加えているのではなく、あくまで力を与え、欲望を刺激し、暴走へ駆り立てているだけですから……ペナルティなり討伐令なりが発布されればこちらとしても楽ですが、最悪ノータッチということも考えられますね。
 巷を騒がせる例の殺人鬼ほどならばいざ知らず、現状はルーラーの良心を信じるしかないでしょう。
 取り敢えず、今後の行動には今まで以上に注意を払っていくのが安全牌かと」
「……」

 変身を解除すると、頷きだけを返して再び学校への道程を歩き出した。

「折角ですし、噂の《白い男》殿が華麗に蹴散らしてくれでもすると楽なのですがねぇ……」


 ――白い男。
 突如として現れては、犯罪者や得体の知れない怪物などといった闇の住人を討伐する異装の戦士。
 神父の口にしたそんな単語を、デリュージは心中で反吐が出そうになる思いで聞いていた。
 そんな都合のいい存在が許されるのは、絵本と漫画の中だけだ。


 思い出したくもないかの日の記憶。そこに、白い男の姿はない。
 闇を破り怪物を討ち、悪を裁いて颯爽と消える異装。そんな奴が駆けつけてくれたなら、何かが変わったのだろうか。
 ……きっと何も変わらない。あの日をどうにか出来るのは、それこそ奇跡――聖杯の力以外にはないのだから。


 先の見えない茨道を進み続ける若き復讐者を……聖餐杯と呼ばれた男は、ただ微笑みと共に見つめていた。
 数多のものを狂わせてきた、邪なる微笑みと共に。






「ふたりは闇。
 地に墜ちて、二度と輝くことのないはずだったもの。
 いや、彼らは輝いてはならないものだったのかもしれない。
 そう、生まれながらに定められたもの。
 それを知ってしまったからこそ、死にゆく蝶の羽ばたきは嵐を生む。
 生けるものも死せるものも、何もかも。何もかもを巻き込んで進む、巨大な災害を創り出す」








――


 御目方教。
 『春日野椿』が巫女として君臨する教団敷地内は、今となっては怨霊が絶えず跋扈する地獄と化していた。
 椿の居た世界の教団は腹心の凶行で混沌化した。
 自身を慰み者としておきながら、それを教義のもとに正当化する狂った環境。思い出しただけでも胃液が込み上げてくる。
 あの集団は間違いなく狂乱していた。一人の悪意が瞬く間に全体を変える、その典型であった。
 それは今も同じだ。
 ただ違うのは、悪意の格だろう。
 自分の利益だけしか考えられない野心家とは訳の違う、本物の悪意を宿した者の手によって、ぐちゃぐちゃに塗り混ぜられた画用紙は一面の黒一色へと整えられてしまった。
 外側からやって来た一つの悪意に晒されて、教団に巣食っていた狂気はそのベクトルを変えたのだ。
 以前よりも遥かに洗練された、恐怖と怨念に満ちた『凶気』へと。

 牢と外界を隔てる網格子の内側で、どこからか響いている叫び声を聞き椿はうっとりと口角を釣り上げた。

「満足してもらえたかな、椿」

 そんな彼女の様子を見るなり、そう言って微笑みかけたのは、教団に二度目の悪意をもたらした張本人だった。
 性別を一目見ただけでは判別しかねる中性的な顔立ちも相俟って、その笑顔はどこか芸術品めいたものをすら感じさせる。
 人形のようだ、と椿はこの少年を初めて見た時に思った。
 とてもではないが、椿のそれにすら勝る膨大な復讐の炎を胸に宿す、混沌の元凶たる存在とは思えない。

「ええ。……なんだか胸がすく気分よ。
 私を好き勝手に弄んだ連中が今となっては、誰も彼もが力に溺れるか、力を持て余して自滅するか。
 あなたには感謝してるわ、キャスター。あなたのおかげで、世界は随分と愉快になった」
「僕は何もしちゃいないさ。僕はただ、皆に力をあげただけだよ」

 キャスターのサーヴァント『円宙継』は、瞬く間に新興宗教をとある禁術使いの集団へと変えてしまった。
 禁魔法律。本来霊魂をあるべき場所へ導くための力である魔法律を邪な形で行使する、文字通りの禁忌。
 キャスターは教団に君臨するなり、宝具として連れている邪悪なる存在と共に信徒達を染め上げた。
 出口を塞ぎ、怨霊を解き放ち、力を得るものと得られないものを綺麗に二分化させ、またその末路も示してみせた。
 力を享受しなければ死ぬ。そんな状況を作り出してやれば、衆愚の取る選択など一つしかない。
 我先にと彼らは力を受け入れた。
 禁忌の力を手に入れた信徒達は最初こそ怯えた様子だったが、すぐに彼らは本性を表し始める。
 それは奇しくも、事を起こす前に彼が椿へ言った通りの展開だった。

「最初にも言ったけどね。禁魔法律の力を使うだけなら、別に難しいことではないんだよ」

 禁魔法律家とは、悪魔と契約した人間に似ている。それどころか、原理的にはほぼ同じだ。
 魂を闇に売ることで地獄の使者と契約を結び、その力を借りる禁断の技。
 本来魔法律を行使するには『煉』というエネルギーを必要とする。だから、誰でも魔法律を使えるということはない。
 その点禁魔法律は煉を必要としないのだ。だから誰でも使うことが出来る。極論、赤子だって禁魔法律家になれる。
 加えてキャスターの宝具として現界している屍面相の力に頼るのならば、更にハードルは下がる。

「大事なのは、そこからさ。すぐに破滅するか長生きするか、禁魔法律家には二つに一つしかない」
「あいつらは、前者……ってわけね」
「さあ、どうだろうね。もしかしたら『箱舟』に名を連ねるくらいに力へ適合する人もいるかもしれない。
 ただ、大半は君の言う通りになるだろう。彼らの半分……多く見積もれば七割くらいは、消耗品として消えるはずさ」
「じゃあ……私はどう?」

 椿は自嘲するような苦笑と共に、自分の『日記』……『千里眼日記』をつんと小突いた。
 千里眼日記は信者の行動を示す日記だ。
 禁魔法律家に変化させた彼らには、町中での索敵と聖杯戦争参加者の排除を命じてある。
 ルーラーのペナルティが怖かったが、そこはキャスターのことだ。きっと上手くやるだろうと、椿は彼を信用していた。
 敵マスターやサーヴァントと思しき相手の情報も、日記にはいくつか記されている。
 やはり広域に予知を張り巡らせられる自分の日記は、聖杯戦争を勝ち抜く上でも有用だ。
 だがそれに加えて、今この日記は、未来日記とは似て非なる特性を内包させられていた。

 春日野椿もまた、キャスターの力で禁魔法律家に変えられた一人だ。
 禁魔法律家には、二通りのタイプが存在する。
 一つは魂のみならず肉体までもを売り渡し、巨大な力を得るもの。
 そしてもう一つが、何らかの力を中継して地獄の力を得るもの、である。

 椿の場合の中継点こそが、この『千里眼日記』だった。
 今の椿は、もう未来を読めるだけの巫女ではない。
 地獄の力を扱い、敵と戦うことの出来る……立派な禁魔法律家の一人となった。

「少なくとも、この戦争が終わるまでは生きられるさ。そして君は聖杯を手に入れ、君の世界を滅ぼすんだ」

 椿は、長生きしたいなどとは思っていない。
 彼女の願いは生ではなく、死だ。
 世界の全てを巻き込んだ破滅。もとい、世界そのものの破滅。
 それを叶えるためには聖杯が必要だ。椿は何としてもそれを手に入れる必要がある。その為なら、なんだって出来る。
 彼女は力を受け入れた。悪魔ならぬ地獄へ魂を売り、そうして強さを買い取った。

「ところで、椿。『日記』の予知を聞いてもいいかな?」
「あ……ごめんなさい。時間を取らせてしまって」

 椿は慌てて日記を確認する。キャスターの力をしても、未来を読むことまでは不可能だ。
 椿にとって、キャスターは恩人であり、決して敵わない存在でもある。
 禁魔法律をどれだけ極めたとしても、彼を追い越すことは出来ないだろう。
 そんなキャスターにしてあげられる、唯一自分だけが出来ること。
 口には出さないが、それは彼女にとって大きな喜びだった。
 自分をあの地獄から救い出してくれた彼の役に立てることが、この上なく嬉しい。

 聖杯を手にするまでの間、せめて彼の役へ立とう。
 彼に出来ないことをして、彼を精一杯助ける、未来を見通す目になろう。
 そんな殊勝な願いを抱きながら、椿は日記に記された予知のいくつかを読み上げた。

 ――青い少女を襲撃する。直後、金髪の神父によって攻撃される。……後の報告はない。
 ――二人組で行動していた片方が弓矢によって狙撃される。もう片方も続報がないことから、生存は危ういと思われる。
 ――プラチナブロンドの双子兄妹と交戦。殺されはしなかったが、殺すことも出来なかった。
 ――白い異装の男が現れ、三人の禁魔法律家を次々と撃破。連れていた怨霊もことごとく殲滅される。

 どれも芳しいものではない。
 だが、キャスターは「いいね、なかなかの首尾だ」と笑ってくれた。

「そりゃあ、サーヴァントをにわか仕立ての戦力で倒せれば苦労はないさ。重要なのは、遭遇した時の情報だ」

 外見、武器、特徴。
 信者の報告に記された内容を加味すれば、未だ未知なる競争相手達へ一方的なアドバンテージを持つことが出来る訳だ。

「凄いね、椿。君の『日記』は」
「そ、そう。だったら、良いのだけど……」
「うん、君は凄いよ。僕も君のようなマスターを引けて運がよかった」

 ――キャスターは、ずっと孤独だった少女に優しく語りかけた。
 今や彼女の心は、完全にキャスターの手中にある。
 世界を滅ぼしてまで消し去りたかった生き地獄は、他ならぬ彼が雲散霧消させてくれた。
 憧れがそれ以上に変わる時も、そう遠くはないのかもしれない。

「一緒に勝とうじゃないか、椿。僕らは必ず、奇跡へ辿り着いてやろう」

 されど、忘れるなかれ。
 この少年は――未だ果たされない復讐心を、その心に絶えず燃え上がらせている。
 彼の世界の中心はただ一人。それは椿でもなければ、彼が連れる屍面相でもない。

 今もどこかで憎らしい笑みを浮かべているだろう『天才』を引き摺り下ろすこと。彼にあるのは、ただそれだけなのだ。





「彼らは航海者。
 駆ける場所が海か、時かの違いはあれど、船を漕ぐものであることに違いはない。
 その願いはあまりにも真摯で、尊い最後の希望。
 しかし、きっと彼はここに来るべきではなかったのだろうと思う。
 彼は奇跡を手に入れるのではなく、奇跡へ辿り着くべきだった。
 もう、帰り道はどこにもないけれど。……一度見失った帰り道は、もう、深い深い雪の底」







――

 『岡部倫太郎』は、いつものラボラトリーへ通うことを此処数週間ほど自粛していた。
 未来ガジェット研究所の創設者である自分が欠勤するというのは如何なものかと思ったが、しかし場合が場合だ。
 現実的に考えて、願いを叶える力を欲するような連中が丸きり全員、真っ向勝負に固執してくれるとはとても思えない。
 もしも自分がマスターであると他の主従にバレた日には、ラボを直接襲撃される可能性がある。

 ――所詮、この世界は偽物だ。此処に住まう仲間達も、聖杯戦争のために再現されただけの木偶人形でしかない。
 それでも、と岡部は記憶の中にある最初の世界線の惨劇を思い返して顔を顰める。
 ラボに押し入ってきたラウンダー。仲間だと思っていた筈の、女。撃ち殺される、彼女。
 たとえ偽物の友人たちであろうとも、あんな光景はもう二度と見たくない。
 ただでさえ自分は、この世界の椎名まゆりを救えずに、死なせてしまったのだ。
 これ以上、彼らを巻き込みたくはない。そう判断した上での判断だった。

 部屋の扉が開き、明るいグリーンの制服を着たウェイトレスがトレーの上に大量のフライドポテトやソーセージなど、沢山の食べ物を載せて持ってきてくれる。
 それに礼を言うと、店員がやや怪訝そうな顔をしているのから目を逸らしながら、部屋を出て行くのを見送り溜息をつく。

 怪訝な表情をされるのも頷ける話だ。
 この部屋には彼一人で滞在していることになっているのだが、トレー上にある食べ物の量は明らかに一人前の量ではない。
 カロリーに気を遣っている人間が見れば、目を回したくなるような油物の量だ。
 岡部も小食な方ではなかったが、かと言ってこんな量を一人で食べきれるかどうかといえば否である。
 部屋に備え付けられたテーブルへそれをどかりと置くと、途端に先程まではなかったはずの姦しい声があがった。

「ありがとうございます、マスター。しかし、このカラオケボックスなる場所はいいところですわね」
「まったく……英霊には食事は必要ないんじゃなかったのか?」
「最初に僕らへ食べろ、って言ったのは君だよ、マスター」

 もぐもぐとポテトを頬張りながら指摘するのは、顔に傷のある銀髪の少女だ。
 その隣では、豊満な胸と金髪がよく目立つ女が串付きのソーセージを貪っている。
 こいつらは……と顔を思い切り顰めながら、岡部はそっとマヨネーズのかかったきゅうりバーを口に運んだ。

 岡部は聖杯戦争へ臨むにあたって、一つの決まった拠点を持つべきではないと判断した。
 自分の口座からありったけの金を下ろして、ネットカフェを中心にいくつかの店舗を転々として過ごしている。
 聖杯戦争終了までに手持ちが尽きるようなことはないだろうが、なるべく倹約はしていくべきだ。
 彼もそう考えていたのだが、しかし今、彼らは繁華街のとあるカラオケボックスの一室にいる。
 これは彼のサーヴァント……『アン・ボニー』と『メアリー・リード』が興味を示したためだった。
 結局押しに負けて足を運び、せめてもの抵抗に格安らしい二時間コースを取って入室した次第である。

「ぐ、それは……」

 今は午前九時を回った頃だ。これまで世話になっていたカフェを退去したばかりなので、朝食も摂っていない。
 だから何か軽食でも食べておこうと思い立ちメニューを手にしたのだが、これがいけなかった。
 岡部倫太郎は、基本的に律儀な人間である。
 自分だけが物を食べ、誰かがそれをじっと見ているとなると流石に落ち着かない。
 ましてや相手は女二人だ。外見で贔屓するつもりはないが、どちらもベクトルこそ違えど相当な美人ときた。
 彼女達を放ったらかしにして自分だけ物を食べるというのは、いかがなものか。
 数秒ほど逡巡した末、岡部は自分の居心地のために出費することにした。

「むぐ、んぐ……このバーベキューソースってやつに付けるといっそう美味しくなるね、これ」
「マスターに感謝ですね、メアリー?」
「……ああ、もういい! 好きに食え! 言っておくが残すなよ!!」
「「りょーかい(です)」」

 英霊に食事は必要ない。だが、食べられないことはない。
 それがよく分かる絵面が目の前で繰り広げられていた。
 あれほど山のようにあったポテトが、見る見るうちに減っていく。
 よもやおかわりがほしいなどとは言うまいな――戦々恐々と眉をひくつかせる岡部。
 彼のそんな心など露知らず、口を開いたのはメアリーだった。

「ねえマスター」
「おい貴様、まさかおかわりなどとっ」
「そうじゃなくて」

 ふきふきと口元の油を拭き取ってから、メアリーは話し始めた。
 その顔には、先程までにはなかった真剣さが宿っていた。
「マスターは、これからどうするつもりなの?」
「……なに?」
「僕達はサーヴァントだ。マスターの命令があれば、いつでも戦えるよ。
 でも、マスターが聖杯戦争をどのように戦いたいのか――それが、僕にはまったく見えないんだ」

 岡部はそれに、すぐに言葉を返すことが出来なかった。

「今の暮らしは僕らとしても楽しいけどさ。聖杯戦争を勝ち抜くっていう点じゃ、進歩はゼロって言ってもいいと思う」
「……そうだな。確かにそうだ」
「最初は、聖杯戦争がある程度進むまでじっと隠れて、ある程度敵が減ってから動き出すつもりかとも思ったんだけど……そうじゃないよね、マスターのは。マスターは、本当は戦いたくないんだろう?」

 唇を静かに噛み締める。彼女の言葉が、じわりじわりと身に沁みてくるのを感じた。
 あの時。彼女達を召喚した時に、自分は聖杯を必ず手に入れると決めたはずだった。
 だが、今の自分はどうだ。
 ――闘いに向き合おうとしている素振りを見せておきながら、その実、闘いを避けていたのではないのか。

「いい加減腹をくくりなよ、マスター。負けられないんだろう?」
「……フッ」

 気付けば、小さな笑いが漏れていた。

「フッ、フッ、フッ、フッ……フゥーッ、ハッハッハッ!
 あろうことかこの鳳凰院凶真が、下僕ごときに諭される日が来ようとはな!!」
「あらメアリー、また変なスイッチが入ってしまいましたわ」
「やっぱり1カリビアン・フリーバードくらいは行っといた方がいいかな、アン」

 可哀想なものを見る目になっている二人を尻目に、岡部――『鳳凰院凶真』は大仰に両手を開く。
 まゆりを救うためならばどんな目に遭ってもいい、ずっとそう思いながら時間を繰り返してきた。
 しかし、結局のところそれは運命との闘いだった。
 今回は違う。今回は運命ではなく、明確に、蹴落とすべき相手が定められているのだ。

「今度こそ誓おう! 聖杯へ至る我が道(ロード)を阻む『機関』の陰謀は、一つ残らず俺が打ち砕く!!」

 迷ってはいられない。日和ってもいられない。
 聖杯を手に入れ、椎名まゆりを救う――誰も欠けない世界線を実現する。
 その願いのために、自分は鬼になろう。誰にも聖杯は渡さない、その思いは確たるものとして胸にあるのだから。
 後はそれに従うだけだ。
 一人ならばきっと勝てない。
 だが、自分には――このサーヴァントがいる。かつて海の賊(ライダー)として海原を馳せた、伝説の航海者達が。

「どうやら、心配は杞憂だったようですわね」
「うんうん、あのままヘタれられたらどうしようかと思ってたけど、ひとまずは安心かな」
「しかしつくづく、私達を喚ぶ方は際物揃いなことで。宿命なのでしょうかねえ」
「……そういえば、一つ気になっていたんだが……お前達、聖杯戦争は初めてではないのか?」

 前々から、時たまこの二人は「前の召喚主」がどうこうと話していることがあった。
 聖杯戦争の経験があるというなら、その点でもアドバイスを仰ぐことが出来るかと思ったのだが、彼女達は首を振る。

「聖杯戦争には間違いないのでしょうが、あれは参考にはなりませんわ」
「同感。ただ、その時僕らを喚んだのはマスター以上にアレな人だったんだ。正直、あんまり思い出したくないくらい」
「まるで俺が可哀想な人のような物言いには目を瞑るとして……ふむ、余程サーヴァント使いの荒い輩だったのか」
「いいや、むしろ丁重でしたね」
「うん。ただ、丁重過ぎたというか」
「ねえ」
「うん……」

 なんとも言えない顔をする二人の様子を見ていると、なんだか無性に何があったのか気になってくる。
 丁重すぎる扱いとなると、HENTAI的なものしか浮かばなくなってくるのだが、合っているのか。
 気になるし、此処はぜひ話してほしいところだ――そう思っていると。

「あのね、マスター」
「な、なんだ? 前のマスターはどんな奴だったんだ……?」


「このパーティーパックってやつ、もう一個頼んでほしいな」


 岡部が言葉を失ったのは、言うまでもない。





「彼女達は救いたかった者。
 戦に救いはなく、その手は何にも届かなかった。
 それでも彼女は、彼は、やはり手を伸ばすことを諦められない。
 聖杯の輝きを優しい願いに煌めかせようと願う、とても眩い救いの道。
 けれど、彼女はじきに知ることになるだろう。
 何かを救うということが、どれだけ難しく、ままならないものかということを――きっと」








――

 この世界に、艦娘という存在はいない。


 深海棲艦が海を占領しているなどという事実も、艦船の転生という現象も、調べる限りどこにもなかった。
 艦娘ではない自分。それを想像するのは決して容易なことではなく、正直を言えば今も慣れられない。
 それほどまでに、彼女にとって海の戦いは生活の一部であり、生きる意味であり、存在の証明だったのだ。
 いつも一緒の姉達もおらず、自分をいかなる時も導いてくれた提督の姿もない。
 そんな世界で生きることへの不安は並々ならぬものであったが、幸いにも、日常は彼女が想像するよりも優しかった。

 『電』は、背中に赤いランドセルを背負いながら帰途についていた。
 よく話す友人の小学生離れした大きな背中を見送り一人になった途端、電の中に現実の認識が帰ってくる。

 聖杯戦争。あらゆる願いを叶える聖遺物、聖杯を求めるマスター達による殺し合い。
 戦争と銘打ってはいるが、それは電がかつて経験した時代のものとは完全に別物だ。
 使う兵器は銃や砲、ましては船などでは断じてなく、個我を持つ、世界に名を残す英霊・英傑である。
 規模も当然、かの大戦に比べれば極小だ。しかしそれでも、その激しさは推して知るべし。
 英霊が持つ宝具の中には戦略兵器級の破壊力を持ったものまであるというのだから、侮ればどうなるかは想像に難くない。

 この町も、聖杯戦争のためだけに用意された偽りの景色だ。
 此処を訪れて早数週間。巻き込まれた闘争は、最初の一回きり。

 幼くして親に捨てられ、以後の時間をずっと孤児院で過ごした童女……それが電に与えられた役割(ロール)だ。

 境遇が境遇なだけはあり、同情の視線が注がれることは確かにある。
 だが、それは特に苦とはならなかった。むしろ彼女が苦く感じていたのは、また別な点だ。
 小学校へ通う電の日常は、およそ争いや人死にとは無縁の優しさに満たされていた。

 艦娘として世界のために戦い続ける日々の中、常に抱いていた一つの願望。
 戦いのない、誰も傷付くことのない平和な世界。静かな海を皆で眺めてのんびりお弁当の一つでも食べられるような、そんな世界をこそ、幼き駆逐艦の少女はずっと願っていた。
 それが、此処にはある。この世界の住人にとっては、戦争などという単語は遥か過去のものに過ぎなかった。

 ニュース番組を点ければ、国家情勢がどうのこうのとコメンテーターが唾を飛ばしている。
 本当のところがどうなのかは電には分からないが、この国の人々に限っては、平和な暮らしが出来ていると思う。


 苦い敗戦の歴史は変わらない。
 それでもあの時代……電達が駆け抜けた戦の日々は、きっと今の平和な暮らしをどこかで支えているのだと。
 そう思うと、涙が零れそうになった。
 たとえ偽物の世界だとしても、戦地の記憶を鮮明に引き継いだ艦娘にとっては――それは立派な救いだった。


 さりとて、目を逸らしてはならない。自分達はこれから、こんな平和な街を戦場に変えてしまうのだ。
 電はそれが敵であれ、誰かを殺すということに強い抵抗感を抱いている。
 しかしながら、それは決して無抵抗で殺されてやるということと同義ではない。
 襲われれば抵抗もする。生きて帰り、大好きな人達ともう一度会うために戦う覚悟がある。
 だけれどそれは、結局はこの平和に満ちた街を地獄に変えてしまうということを意味していた。

『マスター』

 自分を呼ぶ声が、頭の中だけに響いた。
 念話。サーヴァントとマスターとの間を繋ぐ、発声を要さない会話手段。
 聖杯戦争のマスターとしては当たり前の備えだが、電もまた、自分のサーヴァントを霊体化させて侍らせている。
 もっとも正確には電が提案したのではなく、彼『アレクサンドル・ラスコーリニコフ』の助言に拠るものだったのだが。

『そちらの道は警察が塞いでいる。
 大方、例の殺人事件の件だろう。特別な目的がないならば、別な道を使うべきだな』
「あっ……そうでしたね。ありがとう、なのです」
『……朝も同じ会話をしたな。何か考え事でもしていたと見える』


 うっ、と呻きたい気分になった。
 ランサーは他でもない自分の使役するサーヴァントだが、心の揺れ動きまで筒抜けとなると流石に気恥ずかしい。
 それに、こんなことを相談してしまえば……もとい彼に悟らせてしまえば、要らぬ心配をかけてしまうと思ったのもある。
 そんな電の心境もお見通しなのか、ランサーはそれを語る真似はしなかった。

『聖杯戦争は直に始まる。お前も、私も。戦いの渦中に立たされる日が遠からず来るだろう』

 それは、電も感じていることだった。
 うまく説明は出来ないが、マスターとしての性質の一つなのか。
 感覚で分かるのだ。聖杯戦争の始まりが近付いていると、日に日にその実感が出てくる。
 恐らく、この日常を謳歌していられる時間はそう長くない。
 早ければ、明日にでも。或いは、今日の内にでも……開戦の狼煙があがる可能性がある。

『俺はお前のサーヴァントだ。お前の采配に従い、決してお前を裏切ることはない。
 ――今の内に迷えるだけ迷っておけ。いずれ必ず、決断せねばならん時が来る。
 聖杯を勝ち取るにしろ、諦めるにしろだ。今の宙ぶらりんな状態では、いつか必ず綻びが出るぞ』
「決断……ですか」
『そうだ。そしてそれを助けることは出来ない。お前だけだ、マスター。お前だけが、それを決めることが出来る』

 その時までは、俺が矢面に立とう。
 そう呟いて、彼からの念話は途切れた。
 やはり要らない心配をさせてしまったなと思い、心の中でもう一度礼を言ってから、止めていた足を再び前へ動かす。
 この世界を壊すことへの躊躇いは、じきに振り切らねばならない事項だろう。
 けれど、電は覚えている。召喚の日、ランサーが自分にかけてくれた言葉を。


 ――お前はまだ進むことができる。お前のまま、どこまでも真っ直ぐに。


「電は、電のままで……」

 反芻するように呟いて、電はぎゅっと自分の袖を握り締めた。






「彼女達は対極。
 守るものと、守られるもの。
 この上なく分かりやすく、故に行く末の見えた関係がそこにある。
 勇者の背中は人の勇気を誘引する……それが寿命を縮めるような形であろうとも、必ず変化を引き起こす。
 与えられた勇気を、どういう形で燃やすのか。勇む心と一緒に、自分の魂すらも灰に変えてしまうのか。
 きっとそれこそが、彼女にとっての分水嶺だ」








――



 『一条蛍』は、ほんの数ヶ月前までは、都会で暮らしていた。


 その頃は、スーパーへ買い物に行くことすら一苦労な生活など考えられなかったように思う。
 なのに、今ではかつて当たり前に思っていた都会の暮らしへ新鮮さを感じている自分がいる。
 新鮮さと言えば聞こえはいいが、帰ってきた元の暮らしは、決していいことばかりではなかった。

 暮らしの便利さで言えば、それは勿論段違いだ。
 服を買いたければデパートがある。食材だって、野菜ばかりじゃなく小洒落たものが苦もなく手に入る。

 しかし、友達と過ごす時間は格段に減った。
 小学校の生徒数は五百人近い。
 人数が増えれば増えるほど、個々の繋がりはどうしても薄まってしまう。
 それはごく普通のことだ。
 校内に知らない人間がいない、という方が一般的な常識からすれば不自然であろう。

 だが、蛍にとってはそれが常識になりつつあった。
 生徒数が一桁で、皆が賑やかでのんびりとした暮らしを送っている――そんなあの学校と今の学校は何もかも違っていた。

 仲のいい友人はいる。
 慣れない環境なこともあって数は多くないが、それなりに充実した生活を送れていると、少なくとも自分ではそう思う。
 小学校から帰宅し、自分の部屋へ入り鍵を閉める。
 それからベッドの上に体育座りの格好になると、膝の間にゆっくり顔を埋めた。


 一人きりで過ごす放課後がこんなにも空しいものだということは、この街に来て初めて分かったことだった。
 村で暮らしていた時には、適当にその辺りを歩いていれば誰かしら見知った顔に出会い、遊びに発展することがよくあった。


 不便なことも沢山あった田舎暮らしが、いつの間にか自分の常識に変わっていた。
 ここで過ごす毎日は、それを痛感させられることばかりだ。
 あの日々は夢か何かだったのではないか。
 そんなことを考えてしまうほどに――便利な暮らしは、寂しかった。



「違うよ、蛍ちゃん」


 脳裏をよぎった馬鹿な考えを否定してくれたのは、蛍を守ると誓ったサーヴァントだった。
 蛍は聖杯戦争についての詳しい知識を持つわけではなかったが、彼女は異端のサーヴァントを自称している。

 そのクラス名は『ブレイバー』。
 勇者だ。
 本来聖杯戦争に、そんなクラスは存在しないのだという。
 曰くこの聖杯戦争が本来のものとは異なる異質なものだかららしいが、それもイマイチピンと来る説明ではなかった。

「蛍ちゃんには、帰る場所がある。そうだよね」
「……ブレイバーさん」
「それは夢なんかじゃないよ。絶対、あなたはそこに帰らなきゃいけない」

 ――ううん、帰してみせる。


 そう言って微笑むブレイバーの顔を見て、蛍は思わず「ブレイバーさん」と声を漏らした。
 ブレイバーは世に言う勇者のイメージとは異なり、基本的には大人しく、小動物のような性分をしている。
 そんなだから蛍の中での彼女は、自分を守る英雄というよりかは、どこか姉のような相手という印象だった。

 だが、こんな風に自分を元気付けてくれる時の彼女は――とても頼もしい。本当に、とても。
 その笑顔と言葉を聞くと、本当に元気が出る。
 いや、勇気というべきなのかもしれない。

 聖杯戦争は認められるべきではない。
 ブレイバーのサーヴァントは、少女へ微笑みかけながら、改めてその考えを固くした。
 願いを叶えるために他の誰かを殺し、戦うなど、絶対に間違っている。
 勇者として、許容できるものでは断じてなかった。

 蛍を聖杯戦争から生きて帰すことが第一として、この聖杯戦争そのものも、どうにか解決させたいところだ。
 それは彼女が一サーヴァントでしかない以上、言うまでもなく難儀な目標だったが。
 それでもきっと、彼女は聖杯戦争の破壊を諦めることはないだろう。


 ――『犬吠埼樹』は、勇者であるのだから。






「ふたりは光。
 眩しい、眩しい陽だまりの輝き。
 失われてほしくない、万人にそう思わせる二輪の花。
 だからこそ。
 彼女達が失われないために抗う輝きは、きっと何よりも美しい。
 いつか変わると分かっている輝きだからこそ、皆はそれに魅入られる」









――

「む、ぐぐぐぐ、ぐぐぐぐぐ……」
「よっしゃーこれで三勝目! げへへ、約束通り今日のおやつはウチに献上してもらいましょうかな?」

 ややこじんまりとした子供部屋。
 画面を前にして下卑た笑顔を浮かべる妹と、対照的に形容し難い表情をしてわなわな震えている、妹より背の小さな姉。
 愉快な姉妹の姿がそこにはあった。
 都会は利便性や買い物の自由を満たしてくれるが、子供にはあまり優しくない環境でもある。
 公園などの遊び場は年々その姿を減らしていき、自然などよほど足を伸ばさなければお目にすらかかれない。
 その点、近くに海辺があるだけでもここはまだマシなのかもしれなかったが、しかし海などそうそう行く機会もない。
 ましてや、今は末秋だ。
 海水浴などしようものなら、まず百パーセント風邪を引いてえらい目に遭う。
 そんな事情もあってか、姉妹間での遊びはもっぱらテレビゲームだった。

「……やっぱり五勝」
「はい?」
「やっぱりあんたが五勝したらに条件変更! 大体、あんたこのゲームやり込んでるんでしょどうせっ!!」
「マリオカートに決めたの姉ちゃんじゃん!? てか姉ちゃん、うちにあるゲーム大体下手くそじゃない?! 才能!?」
「うるさーい!!」

 ぎゃーすぎゃーす、とそんな擬音が聞こえてきそうな感情表現をしているのは姉の方だ。
 姉妹間での対戦は珍しくないが、今日はチップが懸かっており、しかもめったにお目にかかれないちょっとお高めのケーキがそのチップになっているとくれば話は別である。
 当然勝負は白熱する。……お互いの腕前が拮抗していれば、の話だが。

「はあ、はあ……てかこまちゃん、姉のくせに大人げなすぎでしょ。たかだかケーキに」
「う……」
「姉ちゃんの大人っぽいとこ見たかったなあ……大人っぽいとこ」
「うぐぐ……」
「ひょっとして、そんなだから身長も伸びないんじゃない?」
「そ、それは関係ないでしょっ!?」

 妹の容赦ない反撃に心を抉られながら、『越谷小鞠』――通称こまちゃんは抗議の声をあげた。
 ゲームでも口でも完全に手玉に取られている姿は、その見た目も相俟ってとても姉とは思えない。
 それは妹夏海も、他ならぬ小鞠自身も、彼女達姉妹と関わりのある者ならば誰もが知っていることであった。
 日頃は大人ぶったり見た目に気を遣ったりしている小鞠だが、やはりその内面はまだまだ幼い。
 一方でお調子者の夏海は、そんな姉の扱い方を完全に心得ていた。
 押してダメなら引いてみろ。その精神でかかると、一度強情さを発揮した後の小鞠は簡単に折れてくれる。

「もう、分かったわよ。私の負けなんだし、ケーキはあんたにあげる」
「おおっ、流石姉ちゃん。持つべきものはこまちゃんですなあ」
「こまちゃん言うな! ……んじゃ、私宿題してくるから。あんたも、あんまりやり過ぎるとまたお母さんに叱られるよ」

 はーい、という気のない返事を背に、小鞠は部屋を出、自分の私室へ。
 扉を閉めてから、先程の賑やかなやり取りを思い出して急に顔を赤らめると、恐る恐るといった様子で呟いた。

「……リリィさん、見てました……?」
「見ていなかった、と言うと嘘になってしまいますね」

 困ったような顔をして、小鞠のサーヴァント、『アルトリア・ペンドラゴン』が実体化した。
 後に騎士王と呼ばれる宿命を抱えた彼女だが、今の彼女はまだ輝かしい希望に満たされていた頃の少女騎士だ。
 越谷小鞠は魔術師ではない。おまけにまだ中学生だ。彼女を学校の友達だと偽るのにも限度があるし、聖杯戦争中ずっと家に泊めておくなんてことを親が許してくれる筈もない。
 小鞠としては霊体化させたままにするのは心苦しかったのだが、こればかりは致し方のないことだった。
 しかしせめてもの計らいとして、自分以外に誰もいないところでは、こうして実体化させてあげることにしている。
 とはいえ、ずっと部屋に閉じ込めておくのでは可哀想過ぎるし、聖杯戦争のこともある。
 だから霊体か実体かの違いはあれども、基本的にセイバー・リリィは小鞠の側に侍っているのだったが……
 結果として、見事に彼女が『こまちゃん』と呼ばれる所以を見られる案件が多発する羽目になった。
「そう恥ずかしがらなくても。それに私も、マスターの可愛らしい姿を見るのは嫌いじゃありませんから」
「もう、からかわないでくださいっ」
「ふふ、ごめんなさい」

 小鞠の日常は、聖杯戦争中とは到底思えないほどに牧歌的で、平和だった。
 血も闘いも、聖杯戦争という単語の影すら見えない日々。
 最初こそ慣れない境遇に戸惑っていたが、やはりNPCとはいえ家族の存在は大きかったようで、すぐに生まれた翳りは消え、先程のように賑やかな百面相を見せるようになってくれた。
 願わくば、ずっとこんな風に過ごしていてほしいと心から思う。 
 それほどまでに、小鞠は、血腥い世界とは無縁の少女だった。縁を持たせたいとも思わない、日向の娘だった。

「それで……あの、リリィさん」
「どうしました?」
「聖杯戦争が終わった後の、この世界って……この世界で暮らす人達って、どうなるんですか?」

 そんな小鞠が、どこか不安そうな顔をしていた。
 久しく見ていなかった表情に少しだけ焦るが、質問の内容を鑑みれば、彼女が何を考えているのかは簡単に想像できる。
 優しい娘だ、と思った。けれど、無理もない話だ。たとえ作り物、仮想の人格であったとしても、家族は家族。
 少なくともこの『越谷家』に住む人間は全員、小鞠を本当の家族だと思って暮らしている。
 暮らしている内に、小鞠もそうなってしまったのだろう。なら、聖杯戦争後の安否を気にするのも当然だ。

 小鞠の顔を、見る。
 その目は、真剣だった。
 ……誤魔化したり、はぐらかしたり。そうすることがいかなる時も本当の優しさだとは限らない。
 だからリリィは意を決して口を開いた。聖杯戦争が終わった時、この電脳世界がどうなるのかを。

「恐らく、データは消去されてしまうでしょう。あなたの周りの人々だけでなく、世界そのものが」
「……やっぱり、そうなんですね」
「はい。――ですが、マスター。
 この世界に先はありません。ここで永遠に暮らそうと思っても、遅かれ早かれ、終わりが来ます」

 聖杯戦争は終わる。誰が勝つにしろ、或いは誰も勝たなくとも、必ず終わりが来る。
 その時電子の世界は砂糖菓子のように崩れ去り、何もかもが欠落して、零と一の海に溶けていくのが定めだ。
 どれだけ穏やかで温かい日常があろうとも、誰もそれを考慮してはくれない。
 家族の絆も、そこにある情も、聖杯戦争というシステムが用意した――言ってしまえば、ただの役割に過ぎないのだ。

「マスターにも、この世界の彼女達にも、帰る場所があります。
 彼女達は電子の海に、そして貴女は……本物の家族や、この世界では会えない友人の待つふるさとに。
 皆があるべき場所に帰った時、初めて聖杯戦争は終わるのです」

 言い終えてから、リリィは小鞠の表情を恐る恐る窺った。
 彼女のためを思って言ったこととはいえ、相当残酷な真実を突きつけた自覚があったからだ。
 ――しかしながら。そんな心配に反して、小鞠の顔はどこか晴れやかですらあった。

「最初は慣れないことばかりだったし、……正直、今でも心から慣れたかっていうと怪しいんですけど。
 それでも夏海やお母さんがいて、学校でもみんなよくしてくれて――ここの暮らしも悪くないな、って思ってます。
 でも、やっぱり……帰りたいです。れんげや蛍がいた、あの村に」
「それが、貴女の答えなのですね。マスター」
「うん、だから…… よろしくお願いします、リリィさん。改めてになりますけど」

 憧れてやまなかった都会の暮らしは、とても便利で刺激的なものだった。
 歩いて数分もしないところにコンビニエンスストアがあり、スーパーマーケットがあり。
 バスは一時間に何本も通っているし、道もきちんと舗装されていて、暗くなっても街灯があるからちっとも怖くない。
 けれど、やはりずっと住むならあの村がいい。
 ここでの暮らしも楽しいし、周りの人達のことも好きだけど、それでも、やっぱり自分は帰りたい。
 そんな『当たり前』を、小鞠はサーヴァントの言葉を通じて、改めて認識することが出来たのだった。

「……あ」

 不意に、小鞠が何かに気付いたような様子を見せる。

「? どうしました、マスター?」
「ううん、ちょっと……」

 玄関の方で、母親と誰かが揉める声がしている。
 こういうことが増えたのはつい最近のことだ。
 何度断っても毎日のようにやって来るものだから、そろそろ居留守を決め込もうか迷っている――と。
 そんなことを、夕食の席で母が漏らしていた記憶がある。

「御目方教……? とかっていう、宗教の勧誘らしくて。
 毎回断られてるのに、なんだって毎日毎日めげずにやってくるんだか」






「彼女は輝ける者。彼は闇に潜む者。
 その在り方は決して交わることがない、その筈だった。
 彼女がどれだけ眩く輝いても、彼が輝きを放つことはあり得ない。
 いずれ終わる物語、その体現者。
 与えられる筈のない延長線を勝ち取ったものたち。
 ……彼女たちは英雄などではない、決して。だから――」








――


 時刻は午後四時三十分。季節が季節なため、既に日は落ちかけ、街は仄暗い黄昏に包まれている。
 逢魔ヶ時のなんとも形容し難い退廃的な雰囲気の中で、『ペチカ』――建原智香はその現場に遭遇した。

「え、あ」

 血溜まりだ。
 鼻をつく異臭と、赤い水をパンパンになるまで詰めた水風船を地面へ叩き付けたような錆色の海が広がっている。
 その真ん中に倒れている人型は辛うじて原型を保っていたが、出来の悪いマリオネットのようなシルエットになっていた。
 手足が切り裂かれて千切れかけ、首も同じだ。八割ほどは切断されているためか首が裂け、断面が視認できるような惨憺たる有様を呈している。思わず込み上げた吐き気を、瀬戸際で堪えられたのは奇跡だと思った。
 魔法少女にも変身していない状態と精神で目にするには、あまりにも刺激が強すぎる。
 大の男が見ても吐くような惨劇が今、目の前で広がっていた。

「これは――件の連続殺人犯、か」

 冷静に呟いたのは、精微な顔面を持った優男だ。人相も雰囲気も、およそ剣呑さと呼べるものをまるで窺わせない。
 この彼が暗殺者(アサシン)などという名前で呼ばれているのを見たならば、間違いなく人は苦笑することだろう。
 それほどまでに、彼は世間一般に知られる殺し屋のイメージとはかけ離れた穏やかさを孕んでいた。
 ともすればその道のプロフェッショナルですらも、彼の実力の程を外面だけで推し量るのは困難に違いない。


 しかしながら、侮るなかれ。
 それさえもが、この殺し屋の技。
 人の心を安堵させ、敵愾心を削ぐという処世術にも似た技術を、常に周囲に対して発動させ続けている、それだけなのだ。


 『死神』と呼ばれ、伝説と化したその男は――そっと死体へ屈むと、あくまで身体には触れることなく検死を始める。
 傷の断面、血の乾き具合を始めとし、計二十箇所以上。
 萬に通ずる殺し屋として備えている医療技術と死体知識を活かし、それだけの行程をほんの十数秒の内に済ませていく。
 やがて彼は作業を終えたのか死体から離れると、智香へ歩み寄り。

「恐らく、殺されてからはそう時間が経っていないようだ。長く見積もっても二十分、早ければ十分前後。
 これ以上死臭が広まれば人が駆けつけてくる可能性が高い……というわけで」
「ひゃあ!?」

 アサシンは、憚ることもなく智香の身体を抱き上げた。
 それに彼女が動揺なり、何かしらの反応なりを示す前に、猛烈な浮遊感が襲って来て素っ頓狂な声が漏れる。
 気付けば地上が遥か下に見えていた。
 智香を抱き上げるなりアサシンは跳躍し、周囲に人の目がないことを確認してから近隣民家のベランダへ飛び移ったのだ。


 バルクールと呼ばれる技術を下地にしているのだったが、そんなことを智香が知っている筈もなく、また知っていたとしても、アサシンが見せるそれは明らかに人間の動きを逸脱した速さと跳躍距離であった。
 野生動物の中にとて、これほど縦横無尽に空中を駆け回れるのは鳥以外に居るまい。

「心配はいりませんよ。何年か前にはなりますが、もっと高い所を同じような状況で駆け回ったこともあります」

 そういう話じゃなくて。 
 智香は思わず叫びそうになったが、しかし舌を噛みそうだと思い、すんでで思い留まった。
 いくら日が沈む間際とはいえども、住宅地の真ん中でこんな大胆な真似をしていれば、殺人事件の第一発見者になることなどよりも余程目立ちそうなものだが、しかしそこは智香も彼の腕を信頼している。
 聖杯戦争に臨んでから数週間。これまでに、死神のアサシンは四の陣営を脱落へと追い込んできた。
 そのいずれも、戦いは三十秒を超えた試しがないと彼は言う。
 智香が実際にその戦いを見たのはただの一度だけだったが――それでも、彼の腕を理解するには十分だった。
 腕前も、経験も、あらゆるものを、彼は極致まで極めきっている。
 だからきっと、抱えた自分を落とすことも、誰かに姿を見られることもないのだろうとぼんやりとだが理解はできた。


 とはいえ、それでも怖いことには変わりないのだったが。
 今度はこうされる前に、無理矢理にでもペチカに変身しておこうと智香は強く心に誓った。


 ――サーヴァントの気配はない。もうこの近辺には居ないのか、それとも――


 死神のアサシンは、柔和な微笑を浮かべたまま、心の中では知略を冴え渡らせていた。
 先の死体、その傷口の断面は、明らかに人間の力で切り裂いたものではなかった。
 普通に生きていれば刃物を対人用途で振るう機会はまずないだろうが、押し当てて切断でもしない限りは、その断面は醜く歪むものだ。だがその点、あの死体に残された傷口は綺麗だった。
 あんな所業を、まず普通の人間が行えるとは思えない。
 サーヴァントか、もしくは相当な訓練を積んだ人間。
 どちらにせよ、NPCでないだろうことは確かだ。前々からの推測が先ほど、確信へと変わった。
 ルーラーのペナルティなど知ったことかとばかりに暴れ回る殺人鬼。厄介と見るべきか――


 ――いや。暫くは泳がせておくべきだろう……接触し、利用できるかを図るのも悪くはない――


 優しさを知り、新たなる道を踏み出せども、彼はまだ『死神』だ。
 月の破壊者と恐れられるマッハ二十の超生物として召喚されていたならば、きっと彼は聖杯戦争を止めようとしただろう。
 だが、死神はそうしない。彼は殺し屋の側面へ、超生物の闇へと比重を置いて呼び出された存在であるからだ。
 その気配を完全に消失させながら黄昏を駆けるその目には、かつてと同じ昏い光が薄っすらと灯っていた。






「救われる者、救われぬ者。
 この世には明確に二通りの人間がいる。
 ならばきっと、幼い彼女は前者の生涯を送る宿命にあった。
 引き当てたのは優しき弓手。彼女を想い、その境遇へ憤る余りに鬼と化した狩人。
 聖杯の輝きを求めて、その俊足で戦場を駆け巡る……
 ご執心の幼子は、聖杯の輝きすら目に入らない、闇の底にあるというのに」








――


 淀んだ街だ。
 吐き気のするような悪意が、コールタールのようにどす黒く、ゆっくりと偽りの世界に浸透し始めている。
 太陽が未だ高い内に、二人の死霊使いと思しき輩を射殺した。
 少なくとも自分には見覚えのない、魔術ともまた異なった系統の術を駆使する手合いだった。
 問題は、どうもあれはマスターでも、サーヴァントでもなかったらしいということだ。
 何者かの宝具なりスキルなりによって生み出された存在であったのか――それとも、無辜の民を手駒として利用したのか。
 定かではないが、どうにもきな臭い。注意をしておくに越したことはないだろう。


 弓兵のサーヴァント『アタランテ』は、暮れゆく日へ忌まわしそうな視線を向けながら独りごちた。
 もうじきに日は沈み、夜が来る。聖杯戦争が最も苛烈化する、微塵の油断も許されない時間が今日も訪れる。
 修羅道を征く決意を固めた狩人がこれまでに挙げてきた戦果(スコア)は、実のところそう多くはない。

 倒した相手と言っても、それも彼女の宝具と相性の良い、耐久力に悖る暗殺者だ。
 それ以外の相手には現状、敗北こそしていないものの、明確な勝利と呼べる手応えを挙げられた訳でもなかった。
 聖杯戦争がまだ序盤も序盤であることなど百も承知だ。しかし、それでも焦燥がある。例えるならばそれは、ストイックに己の限界を追い駆ける求道者の如き心境。

 ――不甲斐ない。

 決して不可の謂れを浴びることはないであろう善戦の記録すらも、アーチャーはその一言で切り捨てる。
 アーチャーのマスターは、魔術師になるべく育てられた存在だが、まだあまりにも幼い。
 魔術の薫陶など微塵も受けてはおらず、ただ開発だけを行われ、心を擦り切れさせただけの哀れな娘。
 それが、アーチャーの守るべき存在であり、主と呼ぶべき存在の有様であった。
 光の消えた瞳。絶望に浸かるあまり、一切の希望と呼べるものを信じなくなってしまったその心。どれもこれもがあまりに痛ましく、子の幸せを願う彼女の心をきりきりと締め付けた。

 アーチャーは、そんな彼女へ追い討ちをかけた聖杯を嫌悪する。いや、それは最早憎悪にさえ等しかった。
 淫虫による陵辱の日々から抜け出た娘に対し、強姦される子女のロールを与えるなど、明らかな嗜虐の意図があるとしか思えない。だとすれば、腐りきっている。断じて許し難い悪徳だ。
 それでも、聡明なアーチャーは理解していた。あの少女を光の下へ引き戻すには、奇跡の力を借りる他にない。
 自分がどんな言葉を掛けたところで焼け石に水だ。時に優しさとは、罵倒にも勝る残酷さを発揮する。
 彼女の人生はこれから長い。ならばいずれは不遇の時が終わり、幸福を甘受する時が来ないとも限らないだろう。
 だが、子供の頃に背負った心の傷は、一生消えない人間の綻びになる。

 鬼子母神には、それを許すことが出来ない。
 幼い娘、罪なき子供に突きつけられた理不尽を、仕方なしと受け流すことが耐えられない。
 利己的な魔術師の手前勝手に、何故あんな子供が巻き込まれなければならないのだ。
 事情を把握すればするほど、狩人の怒りは膨れ上がり、修羅の決意は確かなものに固まっていった。

「……ただいま、桜」

 アーチャーが門扉を開いたのは、見るからに煤けた廃屋の一軒家だった。
 玄関を抜け、居間に入ると薄明かりが灯っており、幽けく照らし出された室内が露わとなる。
 その隅っこで、彼女が救うべき主――『間桐桜』は、相も変わらぬ光なき瞳で座り込んでいた。
 彼女の近くには、平らげられた食品が幾つか小奇麗に纏められている。

 アーチャーはそれを見て、少しだけホッとした。

 あれは索敵の傍らで、彼女が桜のために調達してきたものだ。
 最初の頃はまともに食べてすらくれなかったが、今ではちゃんと完食できるくらいに食欲があるらしい。
 この程度で立ち直ったなどと世迷い言を言うつもりはないが、それでも、少しは良い方に向かってくれたのは確かな筈だ。

「……おかえりなさい、アーチャーさん」
「ああ」

 返ってきた返事に頷くと、アーチャーは桜に気取られぬように努めつつ、心の中では拘泥たる思いに駆られた。
 此処はゴーストタウン。町外れに立ち並ぶ廃団地の一角だ。
 公共機関が信用出来ず、また桜に真っ当な役柄が与えられていない以上、こういう場所を利用するしかなかった。
 桜が他のマスターやサーヴァントに発見、ないしは捕捉されることだけは、絶対に避けねばならないのだから。

 出来ることならば、もっといい場所で、子供らしい暮らしをさせてやりたい。
 学校に通わせることが出来ずとも、せめて、彼女の心が少しでも安らぐような日常を与えてやりたい。
 しかし、それは叶わぬ願いだった。少なくとも、アーチャーには叶えられない高望みだった。

「……すまない、桜。辛い思いをさせているな」
「いいえ。わたし、辛くはありません。いたいことも、くるしいことも、ここには何もありませんから」
「……ッ」

 痛いことや苦しいことは、確かに此処にはないだろう。
 だが、逆に言えばそれ以外のものも、此処には何もない。
 そんな現状に不平すら零さずにいる桜の姿は、あまりにも痛ましいものだった。

「次は、いつ帰ってくるんですか?」
「日が変わる前には戻る。……必ずだ」

 そうですか。
 呟いて、桜は会話を打ち切った。
 聖杯戦争の正念場は夜だ。人目が消える夜時間だからこそ、心置きなく英霊は神秘を披露できる。
 にも関わらずアーチャーは、深夜帯の時間を全て、桜の側で費やしていた。
 思うように戦果を挙げられていない理由の一つが、それだ。


 自分が彼女にしてやれることは多くない。
 幸福な暮らしなどとは程遠い、その日暮らしをさせることが精一杯だ。
 だから、せめて彼女が眠りにつく時くらいは、側で見守っていてやりたい。
 何もかもを奪われた少女の安息が、誰にも妨げられる事のないように。
 昏い視線に見送られながら、狩人は今宵も戦場へと駆り出していく。
 すべての終わりと始まりの気配を、確かに予感しながら。






「救われる者がいる限り、そこには必ず救う者の影がある。
 華々しき英雄譚のもとに救いは成り、救われた者は涙を流して拾った幸を抱き締める。
 しかし、目を背けてはならない。
 英雄の輝きを持ち合わせず、ただ泥と血に塗れ、咽びながら正義を模索する者がいることを。
 彼らの戦いに光るものはない。あるとすれば、それは爆炎の瞬きのみ。
 懐かしくも忌まわしき、嘆きの詩」








――

 『衛宮切嗣』は、複数用意した拠点の一つであるハイアットホテルの一室で休息を取っていた。
 休息とは言っても、まったくあらゆる作業を投げ出して回復に没頭しているという訳ではないのだが。
 切嗣は座椅子へ体重を預け、これまでに入手した情報と張り巡らせた策の手数、現況について考えを巡らせている。
 事前準備の罷り通らない異形の聖杯戦争ではあったが、しかし丸きり裏側での手回しが出来ないということはない。
 傭兵業で培ったノウハウを活かして、銃器及び爆薬の調達を行い、それを完了するまでには一週間もあれば事足りた。

 彼は魔術師だが、魔術に誇りを持ち、秘技の競い合いを誉れと思うような思考回路は持たない異端の魔術師だ。
 付いた異名は魔術師殺し――彼の戦場は表舞台ではなくあくまで裏方、夜陰に乗ずることこそがその本領である。

 まず、深い捜査の網を巡らせずとも分かる危険分子が一つ。
 毎日のようにワイドショーを騒がせている、正体不明の連続殺人犯。
 今日も朝っぱらから彼、あるいは彼女による犠牲があったことをニュースキャスターが口角泡を飛ばしながら喚いていた。
 ふと、窓の外へ視線を向ける。見ると、サイレン音をけたたましく掻き鳴らして慌ただしくパトカーが往くのが見えた。
 また新たな死体が発見されたのかもしれない。
 この事件が聖杯戦争とまったく無関係だとは、少なくとも切嗣には到底思えなかった。
 というのも、世間では眉唾物扱いされて取り質されていないが、この事件には犯人の目撃情報が存在する。
 眉唾扱いされる理由は、耳にすれば必然に分かろう。その目撃証言には、現実味という要素が致命的に欠けているのだ。

 その証言によれば、連続殺人の下手人は幼い双子の少年少女だという。
 双子は身の丈に合わない武器を軽々振り回して、二回りも体格の大きな大男を瞬く間にボロ雑巾に変えた。
 挙句訳の分からない理屈を交わし合いながら、楽しそうに笑っていたと来た。
 もし此処が聖杯戦争の舞台でさえなければ、切嗣とて錯乱した生存者の戯言と切って捨てたに違いない。
 だがあいにくと、此処はもう平穏な街ではない。
 聖杯を欲して迷い込んだ者達の手によって、とっくに平和の二文字は欠落を喫している。

 切嗣はそれを踏まえ、連続殺人犯の正体を件の『双子』と断定した。
 処遇については未だ考えあぐねていたが、なるべく早い内に捕捉は済ませておきたいと、そう思う。
 どうせ捨て置いたところで、討伐令を受け自滅するのは見えている。
 それなら、暴れるだけ暴れてもらった方が切嗣としても都合がいい。
 彼の召喚した英霊は、強力すぎるがために枷を施して運用せねばならない、という難儀な性質を有している。
 ゆえ、スケープゴートに出来る相手の存在は基本的に自分達の追い風となってくれる。

 ルーラーのペナルティという圧力を前にすれば、賢明なマスターは大概が凶行を思い留まる。
 そうでなくとも、場所や時間、手口は選ぼうとする筈だ。
 それをしないということは、気が触れているか、その程度のことも考えられない幼さの持ち主なのか。
 武器を扱った殺人に長けるというからには前者だろう。心配せずとも、望むだけの働きは見せてくれそうなものだった。

 むしろ、問題は――

 昨今、急激に活動を活発化させているという、『御目方教』なる新興宗教団体の方だろう。
 切嗣はホテルの自動販売機で購入した煙草へと慣れた仕草で火を点け、紫煙を燻らせる。
 御目方教の教義や成り立ちについては一通り調べたが、そこには別段不自然な事柄はなかった。
 胡散臭い、カルト宗教のお手本のような文脈ではあったものの、逆に言えばお手本通りで、特筆すべきものではない。
 この程度の団体ならば、全国には幾らでもある。
 NPCが運営しているだけの、単なる端役の集いとしか切嗣には思えなかった。
 ――そう、最初は。印象が一変したのは、カメラを括りつけた使い魔を放ち、教団私有地を偵察しようとしたその瞬間からだ。

(敷地内に侵入した途端、使い魔からの連絡が断絶し、以降全く音沙汰がない)

 念の為に二匹目を飛ばしてはみたが、結果は同じだった。
 一度ならば偶然で片付けられないこともない。ただ、二度連続となれば流石に道理が通らない。
 恐らく、私有地と外部との間に何かしらの結界が貼られている。そう、切嗣は踏んだ。

「……アーチャー」

 切嗣が、自らの手駒であるサーヴァントを呼ぶ。
 部屋の片隅にずっと佇んでいたその英霊『霧亥』は、呼応に応えるようにその眉を動かす。

「君の宝具でならば、結界を破壊できるか?」
「試せば分かることだ」

 そうか。
 それ以上の追求をすることはなく、切嗣は会話を切った。
 彼は明確な答えを出しはしなかったが、あの大火力をもってすれば、突破できない壁はそうない。
 相手が余程の大魔術師でもない限りは、結界ごと教団内部を狙撃するくらいの芸当は可能な筈。
 迂闊に解放させた日には、ルーラーに目を付けられるのは必至な宝具ではあるが、結界相手ならばその心配も多少は減る。
 時を選ぶ必要はあるだろうが、いつかは決行する時が来る。
 最悪、教団本部を更地にすることにさえなるかもしれないが――切嗣は煙草を灰皿でトントンと揺らし、灰殻を落とす。

(何はともあれ、事を急げば破滅するのは変わらない。僕はいつも通り、確実に勝ちに行かせてもらう)

 それは実に彼らしい、魔術師殺しらしい思考だった。
 近代兵器を始めとし、利用できるものは何でも利用して勝ちに行く、冷たいが確実に精微な思考中枢。
 聖杯戦争に臨むマスターは数あれど、彼ほど堅実で、それゆえに悪辣な戦術の担い手は――

「……いや」

 切嗣には、覚えがあった。
 殺人鬼の双子でも、未だ見ぬ御目方教のマスターでもない、一縷の手がかりすらも掴めない相手。
 いや、そもそも、本当に存在するのかどうかすら定かではない――何者か。


 彼が聖杯戦争へ臨むにあたって、あらかじめ市内の随所に仕掛けておいた『細工』。
 中にはテロまがいの騒ぎを引き起こすようなものもあったが、それらが日の目を見ることは結局、なかった。
 そのほとんど全てが何者かの手で解除、破壊、物によっては回収され、潰されていたからだ。
 ルーラーの仕業にしてはこそこそとし過ぎているし、素人仕事にしては徹底され過ぎている。
 切嗣の遥か上を行く技術と精度で破壊された仕掛けの数々は、彼に大きな危機感を抱かせるには十分であった。
 サーヴァントなのか、マスターなのか。真実がどちらだったにしても、脅威だ。下手をすれば、最大級の。
 魔術師殺しの手の内を苦もなく見抜いた何者かのやり口は静かで、丁寧で、空寒いほど自然なものだ。
 その技を形容する言葉が、自ずと切嗣の脳裏へよぎる。
 気付けば、小さく呟いていた。


「――死神」

 そう。まるで死神のようだ――と。





「彼女は、守られるだけの存在であった。しかし、今は違う。
 明るい日常を取り戻すために、聖杯を目指して戦う覚悟を決めた。
 皮肉にも、一人きりになったことで。
 少女は強くなった。そして今も、これからも、強くなり続けるだろう。
 ……強さを得た彼女が進む先に広がる道がどんなものかを、私は知っている。
 茨だ。歩くたびに足が傷付いて血が滲む、冷たく過酷な茨道(リフレイン)――」








――

 季節が季節で、時間が時間だ。
 日の沈みかけた校庭に寄り付くものはまず居らず、部活動ももっぱら中や、市民体育館での活動に切り替わっている。
 それ以上に、現在はそもそも学校が生徒を残したがらない。
 帰りはなるべく集団でまとまって帰るようにと毎日のように言われているし、活動を中止している部も多い。

 言わずもがな、原因は件の連続殺人事件だ。
 毎日のように増えていく犠牲者。
 中には小さな子供も含まれており、老若男女の区別がないことはとっくに証明されている。
 被害者に共通点のようなものはまるでなく、まさしく無差別殺人と呼ぶべき事件なのが最大の特徴か。

 お世辞にも治安がいいとは言い難い昨今。 
 そんな状況にも怖じることなく、校庭で身体を動かす少女の姿があった。
 ポニーテールに結んだ茶髪が、軽やかに動く度に尻尾か何かを連想させる愛らしい動きをする。
 その額には汗が浮いていて、見た目がいいことも相俟ってか、見る者へ爽やかなものを感じさせる光景だった。

「うむ、段々と良い動きになってきましたな、マスター!」

 ……そこに、奇抜な仮面を被った筋肉質の男さえいなければ。
 その男こそが、『棗鈴』の召喚したサーヴァントであった。
 遥か昔スパルタ国の王として君臨し、十万のペルシャ軍を僅か三百人という無勢で食い止めたと伝えられる英雄。
 クラスをランサー、その真名を『レオニダス一世』。
 様々な世界線の英雄英傑が入り乱れる此度の聖杯戦争においては珍しい、人類史に真っ当に名の知れ渡った英霊である。

「お、お前っ……これ、本当に意味あるんだろうなっ」
「勿論ですとも! 身体を鍛えるのは万事の基本! 頑健さなくして事は成りませんぞ!」

 今ではすっかり日課となっている、放課後を使ってのトレーニング。
 これは、他ならぬランサーが鈴へ提案したことだった。
 聖杯戦争を制するには体の強さが大前提と彼が熱弁を奮い、鈴がその熱意に負けたというのが事の経緯だ。
 魔術師どころか、聖杯戦争の何たるかを知るマスターならばまず間違いなく一笑に伏していたことだろう。

 しかし鈴は、聖杯戦争についての理解が乏しい。
 それ以前に、こういった戦いにおいて何がセオリーかすら、漠然としか分からない始末。
 リトルバスターズの遊びの中で培った経験がある以上、いざとなれば相応の働きは出来るだろうが、生憎とこれまで鈴とランサーはその『いざという時』に一度も立たされていない。
 鈴など、たまに聖杯戦争が本当に行われているのかどうかを疑問に思うことさえある程だ。
 そんな彼女だから、ランサーの熱弁を聞いて、本当にそういうものなのだろうと誤解してしまっても無理はない。
 どこか野良猫のように俊敏さで体を動かしながら、鈴はこの世界での生活を述懐していた。

 リトルバスターズのない、みんなのいない世界。 
 それは当初の想像すら上回る、退屈で仕方のないものだった。
 ただ朝起きて学校へ行き、このトレーニングをこなして帰り、翌日の準備をして眠る、それだけの日々。
 もしもランサーがいなければ、もっと重苦しい心持ちになっていたかもしれない。
 そんな日々を味わう内に、聖杯を求める気持ちはよりいっそう強くなっていった。
 皆が居て、笑顔がある、あの青春を取り戻すためならば、何だってしてやろうと思った。

「さて、今日はこのくらいにしておきますか。マスターよ」

 ぱんと手を叩き、ランサーが言う。
 鈴は動くのをやめて、息を整えながら額の汗を拭った。
 ランサーのトレーニング・メニューはかなり疲れるが、しかし日ごとに動きがよくなるのを実感できるものでもあった。
 だからこそ続いている、という側面もあるのかもしれない。

 もうじき、偽りの世界にも冬が来る。
 日中こそまだ暖かい日もあるが、時間が遅くなるにつれて寒さは厳しくなっていく。
 今でこそ運動したてで体が火照っているものの、家に着く頃には手など悴んでいるだろう。
 風邪を引かないようにしなくては、と鈴は自分を戒める。
 聖杯戦争という一大行事が控えているというのに、不摂生で体を壊していては話にもならない。
 自分は必ず勝って、聖杯を手に入れるのだ。
 そして、願いを叶える。
 ばらばらになってしまった皆を繋ぎ合わせて、リトルバスターズの青春(イマ)を取り戻す。

「……行こう、ランサー」

 樹の下に置いた手提げ鞄を持ち、そう言って歩き出す。
 しかし、ランサーはそれを制した。
 片手を小さく挙げて、「少し待て」というジェスチャーを示したのだ。
 その視線は別な方向へ向いている。暫しそこを凝視してから、彼は大きく息を吸い込み――

「――何者かは知らんが、堂々と姿を現すがいいッ!」


 そんなことを叫んだ。
 鈴は思わず大声にびくりとなるが、すぐにその意味を理解し、神妙な顔立ちで構えを取る。
 ランサーは姿を現せと言った。
 ということは今、自分達を観察している誰かがいるのだ。
 鈴は固唾を呑んで事態の成り行きを見守るも、しかし何か変化らしいものが起こる気配はない。


 ……何分かの時間が経ったが、何も起こらない。
 やがてランサーがあげっぱなしの手を下ろし、ふうと小さく呼気を吐き出す。

「どうやら去ったようです。しかし遠距離狙撃などされては敵いません。速やかにこの場を離れましょう、マスター」
「……敵なのか?」
「気配からして、偶々通りすがった……という手合いではないでしょうな」

 そっか、と頷いて、鈴は小走りで走り出す。
 この辺りの地理は元の世界と全く違うが、何週間も暮らしていれば少しは分かってくる。
 なるだけ人の多い道を選んで通りつつ、それでも周囲への警戒を怠らず、棗鈴は家路を急いだ。
 ……自分を見ていた人物が誰であるのかなど、露知らずに。






「彼は、託した者。
 親友と妹に未来を託し、自分が消えることをかつて選んだもの。
 しかし彼とて願いがある。かつて夢の中でしか果たせなかった青春を、今度こそ貫きたいという切なる願いが。
 彼は抗う。一度諦めかけた生という望みを果たすために、どこまでも、どこまでも。
 けれど運命は数奇だ。嘲笑うように、或いは試練を課すように、いつだとて人をたやすく狂わせる。
 ……いつも、いかなる時も。憎らしいほどに。








――

「……やれやれ。肝が冷えたぜ」

 『棗恭介』は、無造作に積み上げられた廃材の影へと隠れながら苦笑と共に呟いた。
 よもや気付かれるとは思わなかったが、そこは流石にサーヴァントといったところか。
 相手が追いかけて来るようならこちらも応戦するしかなかったため、見逃してくれたことには感謝しかない。

「しかし、こりゃ因果ってやつだな」

 制服が砂埃で汚れるのも構わず、鉄筋の山に背筋を凭れかけ、いつも通りの飄々とした様子で口にする。
 恭介は目的のためならば、心を鬼にして物事へあたることの出来る人間だ。
 皆に見せている明るく頼れる兄貴分という印象とは似ても似つかない冷徹さをすら、彼は時に発揮してみせる。
 彼が自身のサーヴァントへ語ったことは嘘ではない。
 彼は聖杯を勝ち取るためにどんなことでもするだろう。
 権謀術数を平然と巡らし、不意討ちを良しとし、その策をあの幼いアーチャーへと実行させるだろう。
 明日を生きるのに必要とあらば、泥水を啜り虫螻を食うことにだって躊躇いはない。

 その彼が、動揺を覚えた。
 自分の行動方針へ、迷いを覚えた。
 本当に今のままでいいのかと、自問すらした。

「よりによって、お前が、か」


 彼女の存在を知ったのは、ほんの偶然だった。
 通う高校は違う。
 通学路も重なっていないし、どう戸籍を漁っても血縁関係さえ存在しない。
 この世界での棗恭介と棗鈴は、苗字が同じであること以外に一切の共通点を持たない、『他人』だ。

 学校の帰り道、小腹を満たすために喫茶店へと入った。
 財布に優しい値段の軽食を頼んでぼうっとしていた所、ちょうど恭介の隣のテーブルに、数人の女子高生達が座った。
 店内で音量も顧みず会話するのは如何なものかと思ったが、わざわざ注意するような柄でもない。
 顔を顰める周囲の客をよそに、恭介は暇潰しがてら彼女達の会話へ耳を傾けていた。
 ――『ナツメさん』と、誰かが口にした。
 恭介の眉はその時ぴくりと動いたが、漢字まで同じならばともかく、音が同じだけなら然程珍しくはない名前だ。

 彼女達はそれから、『ナツメさん』への陰口を叩き始めた。
 やれ猫と遊んでいる奇人だの、話しにくいだの、自分勝手な奴だのと言いたい放題。
 最後のはともかくとして、前二つの特徴は恭介の妹、棗鈴と完全に合致していた。
 結局、『ナツメさん』の下の名前が会話の中で口にされることはなかったが……恭介は彼女達の話題が別なものへと移り変わるや否や席を立ち、料理が運ばれてくるのを待たずに店を飛び出した。
 幸いにして彼女達の着ていたジャージにはでかでかと学校名がプリントされていたため、学校がどこかは簡単に解った。
 冷静になって考えれば、この物騒な時世と暗くなってくる時間帯に、まだ学校へ残っている可能性は限りなく低い。
 そんな当たり前の考えすら忘れて、恭介は件の高校へと急いだ。
 アーチャーが落ち着くよう言っていた気がしたが、よく覚えていない。


 気付いた時には、校庭で躍るように体を動かす妹の姿を眺めていた。
 彼女の側で、奇妙な仮面を被った筋肉質の巨漢が腕を組んでそれを見守っていた。
 サーヴァントよ、というアーチャーの声を聞くまでもなく、その男が鈴の召喚した英霊であるのだと分かった。

 遠目ではあったが、彼女の目は生き生きとしていたように思う。
 リトルバスターズの一員としてミッションを遂行している時と似ているが、しかし少しだけ違う輝きがあった。

「逃げてよかったの、恭介? 同盟なりなんなり取り付けるって手もあったと思うんだけど」
「……最初は俺もそうしようと思ったよ。あいつのことだし、大体抱える願い事にも察しがつく。
 兄妹だからな、分かるんだ。多分――俺と似たことを願うだろう。協力する気になれば、出来たろうな」
「じゃあ、どうして?」

 その輝きを目にした時……恭介は、妹へ接触しないことを選んだ。

「さてなあ。強いて言うなら、兄としての務め……かな」
「……ふーん」

 アーチャーのサーヴァント、『天津風』はどこか清々しい顔で言う恭介に、釈然としないような声を出す。
 サーヴァントがサーヴァントならば、恭介の采配を叱責すらしたかもしれない。
 だが、彼女はそうしない。
 恭介の奥にある事情を察して、あくまで彼の采配を尊重してくれる。
 我ながらいいサーヴァントに恵まれたもんだ。言葉にはしなかったが、恭介はこの時改めてそう思った。

「心配しなくても、いずれ会うこともあるだろうさ。俺かあいつが、誰かに殺されない限りは」

 その時どうなるかは、あいつ次第だ。
 恭介は満足そうに笑って立ち上がった。
 街の空気が、変わりつつある。
 きっと開戦の時が来るまでは、そう時間はない。
 これからだ、何もかも。


 ――せいぜい頑張れよ、鈴。

 最後のエールを送り、恭介もまた、その場を後とするのだった。






「彼女達は、愛で繋がれている。
 無限に有限な愛。
 その矛盾は、しかし彼女達にとっては矛盾などではない。
 狂ってなお大事なものを見失わず、守り続ける愛の守護者。
 主従関係などという言葉では形容のしきれないものが、そこにはある。
 願うのは、愛する従者の復活。救いを遂げた白色は、新たなる救いに殉ずるのだ」








――

 買い物カゴをレジへ通している時、ふと『美国織莉子』は懐かしい記憶を思い出した。
 決してそう遠い過去のことではない筈だが、まるで何年も前の出来事のように感じられる。
 『彼女』との出会い。
 世界を救うために共に戦い、一度は死に別れ、そしてこの世界で再会を果たした愛しい友人。
 出会いのきっかけは、ごくごく些細なことだった。
 あの日も確か、こういうショッピングモールの中だった筈だ。

 店を出、食材の詰まった買い物袋を両手に家路へとつく。
 ……この世界でも、美国織莉子を取り巻く環境は何も変わっていなかった。
 汚職疑惑を苦にして首を括った父。
 まるで手のひらを返すように一変した周りの対応。
 注がれる冷たい目線に、まだNPCだった頃の織莉子は非常に苦しんだ。元の世界と同じように。
 随分と底意地の悪いロール設定をするものだと思うが、これは罰なのかもしれない、とも思えた。


 自分は悲願の達成のために、様々なものを犠牲にした。
 たとえその行動によってどれだけの命を救ったとしても、罪は罪だ。
 世界の救済という大義があれ、自分のやったことは決して許されるものではない。
 それは織莉子も自覚していることだった。
 彼女は、自分が犯した罪の重みから逃げるつもりはない。
 使命に殉じて死んだから全てが白紙、などという都合のいい理屈を捏ねれば、それはただの屑だ。

 ――でも、ごめんなさいね。
 織莉子は声には出さず、詫びた。


 聖杯戦争を生き延びたなら、幾らでも償おう。
 少女の身には余る重い十字架を背負ってこれからの生涯を生きていく、そのつもりでいる。
 しかし、それはあくまで現実へ帰った後の話だ。
 電脳の海へ浸かっている間はまだ、贖罪へと時間を使うつもりはない。
 身勝手な理屈だとは自覚している。
 だが、そもそも聖杯戦争とはそういうものだ。
 皆が自分のエゴのために力を使い、敵を蹴落とし、願いを叶えるために四苦八苦する。


 なら、私もそれに則ろう。
 郷に入っては郷に従えの諺ではないが、私も一つのエゴのために戦い、聖杯を手に入れ願いを叶えよう。
 もう言い訳をする必要はない。
 己のために。
 愛すべき友を、再び現世へと復活させるために。
 ふたりで、あの世界へ帰るために。

 見慣れた家の前へ立ち、鍵で施錠を解き、中へ入る。
 ただいまの呟きはない。
 それに、帰宅したことを伝えたい相手もいない。
 そういう存在は、ずっと自分の側にいてくれたからだ。
 野菜や肉を選んでいる間も、肌寒い帰り道を歩いている間も、家の扉を潜った時も。

 ……『彼女』はずっと、織莉子の隣にいた。
 いてくれていた。


「ご飯にしましょうか、キリカ」

 霊体化を解除して姿を現した織莉子のサーヴァントは、少女の姿をしていた。
 艶やかな黒髪に可愛らしい顔立ち。
 とてもではないが、あれほど勇猛果敢に敵と戦うバーサーカーと同一人物とは思えないほどだった。
 織莉子の呼びかけに、『呉キリカ』は微笑むことで応じた。
 そこに言葉はない。バーサーカーとして現界する代償に、彼女は理性の大半を奪われている。
 前のように彼女の可愛らしい反応を見ることも、今は出来ない。
 しかし、本来は笑顔で喜びを表現したりすることさえ不可能でなければおかしいのだ。
 にも関わらず、キリカはちゃんと微笑み、からかえば怒り、頭を撫でれば喜んでくれる。
 そういう機能を……美国織莉子という親友への愛情を、呉キリカというサーヴァントははっきりと残してくれていた。

「愛は無限に有限、なのよね」
「■■■■」

 いつか彼女から聞いた言葉を呟くと、キリカは何かを口にした。
 とはいえ、それを口にした、と言っていいかは微妙なところだったが。
 言葉としての意味を成さない、呻き声にも近いような声音。
 彼女なりに何かを言おうとして、しかし叶わなかったのだろうことが推察された。
 それがいじらしくも可愛らしく、織莉子は彼女の頭を撫でる。
 そうして織莉子は、最初に抱いた決意をいっそう強く固め直す。


 自分は必ず、聖杯戦争に勝利する。
 そうしてこの親友を復活させ、共に新たな人生を歩んでいく。
 これはそのための聖戦。
 誰かに勝者の椅子を譲る気はさらさらないし、もっと言えば誰かに負ける気もまったくしない。
 何故なら自分には、最強の魔法少女がついてくれているのだから。
 何も恐れることはない。
 もう何も、怖いものなんて、ない。
 ただ勇敢に、願いを求めて踊り狂おう。






「彼は多くを望まない。
 ただ静かな世界の中で、筆の赴くままに創作へ没頭したいと願うだけ。
 願いを持たず、静寂を保つためだけに力を使おうとしている。
 耳障りな音を忌む彼のもとへ、音を奏でるものを憎悪する少女が呼び出されたのは、まさしく因果。
 聖杯戦争という舞台には、まったくそぐわない存在でありながら。
 彼らもまた、生き残った。だから、ここにいる」








――

 茜色の夕焼けが夜に喰われ始め、街は暗闇に呑まれつつあった。


 空には星々が点々と浮かび、青みがかった黒色の色地と相俟って幻想的なコントラストを表現している。
 『元山惣帥』は雑音のない、静寂に満ちた黄昏の中で暫く筆を走らせていたが――程なくして、それを止めた。

 どくんどくんと、自分の心臓が奇妙な鼓動を鳴らしている。
 動悸とも、緊張とも似つかない、なんとも落ち着かない音色だった。
 理想郷を脅かす不穏の波長に苛立ちを覚えるが、しかし自分の中で起こっていることまでは、どうにも出来ない。


 これはなんだ。
 どうしたというんだ。
 一体何が、こんなに忙しなく僕の芸術を邪魔立てしている。
 胸元の布地をぐしゃりと握り締め、掻き毟る勢いで力を込めた。
 ぐぐぐ、と。それに合わせて、皮膚に痛みが走る。
 赤い跡が、きっと何分かの間は残るだろう。

 その時。

 ――ど、くん。と。

 一際大きな鼓動が響いた時、元山の中にあった疑問は自然と氷解していった。

「……ああ」

 自分でも驚くほどすんなりと、込み上げていた苛立ちが雲散霧消していくのを感じる。
 それはきっと、この世界に招かれた者として本能的に有している感覚の一つだったのだろう。
 元山が思う自分が此処にいる理由はただ一つだが、実際のところで言えばそれは誤りだ。
 彼もまた、聖杯を争奪する儀式を執り行うために選ばれ、招かれたマスターの一人。


 そうして彼は生き残った。
 生き残って、此処まで来た。
 聖杯戦争が次のフェーズへ以降する瞬間が、やって来ようとしているのだ。

「そういうことか……」

 だとしても、僕には関係のないことだ。
 元山は胸の疼きが薄まっていくのを感じながら、そう呟いた。
 この期に及んでも、彼に聖杯戦争へと馳せ参じ願望器を奪い合う気は皆無だった。
 そうまでして叶えたい願いもない。望むことはただ一つ、静かで満ち足りた理想郷の中で、絵筆を走らせること。


 聖杯など、欲しいやつが持っていけばいい。
 誰が優勝して、誰が蹴落とされようと、元山にはどうでもいいことでしかない。

「また、不快な音が増えそうだ」

 聞くものの気分まで消沈してくるような、憂鬱げな声色であった。
 事実、元山の気分は優れなかった。
 ただでさえ静寂を乱し、理想の郷を脅かしてくれた参加者たちが、今後はきっとより激しく争うことになる。
 その不快感を想像するだけで、苛々して、頭がじんじんと痛んでくる。

 聖杯に興味はない。
 別に持って行かれても構わない。
 ただ、この街を粗雑な音で満たすことは許さない。
 すべての不快な音が消えた静寂こそが、この素敵な世界によく似合っている。

「君もそう思うだろ、バーサーカー」

 色のない表情で佇む、『アカネ』へ語りかける。
 反応はない。
 しかし、元山にとってはそれでよかった。


 自分と彼女ならば、雑音のすべてを排除できる。
 この世界が消滅するまで芸術に没頭するという、それだけのささやかな望みを叶えることができる。
 それ以上に望むものなど、望むことなど、何もない。
 自分はただこの絵を静寂の中で描き上げられれば、他には何もいらないのだ。


 空をもう一度見上げた。
 やはり綺麗な空だったが、茜色は既に失せてしまっていた。
 静けさに満ちた夜空はあまりにも美しく、思わず見惚れてしまうほどだった。






「彼は何も見ていない。
 そういう意味では、彼が一番のイレギュラーなのかもしれないと私は思う。
 聖杯戦争の剣呑さも、その名が持つ重みも。
 何も理解せず、安穏とした時を過ごしている。
 今は、まだ。
 でも、必ず知る時が来る。彼の命運を分けるのは、きっとその時」







――


 聖杯戦争が本戦へ突入するために必要な最後の犠牲は、黄昏が終わり夜が来るのを待たずしてひっそりと息絶えた。


 マスターと呼ばれていたうら若い青年が、背後から胸のど真ん中を刺し貫かれて地に崩れ落ちた。
 どくどくと絶えず溢れてくる、赤黒い液体。
 それを目にした剣士のサーヴァントが吠えたが、それはすぐに断末魔の悲鳴へと変わった。
 同じ顔をしたスペード・スートのアサシンが数体がかりで飛びかかり、顔面を二度、胴体を三度貫いたのだ。

 堪らず崩折れる剣士へと、死神の足音が近付いてくる。
 抵抗を試みるが、所詮は霊核を破壊されたサーヴァント一騎。
 出来る抵抗には限度があり、四肢を傷付けられればすぐに沈黙させられてしまう程度のものでしかなかった。

 執行は一瞬だった。
 鎌を持ったアサシンが、その刃を剣士の首筋へと沈み込ませた。
 刃が骨を切り裂き、肉を越えて外側へと出、ごろりと首が転がる。
 数式が完成するために必要な犠牲は、音もなく、数字の座へと捧げられた。


 『シャッフリン』は道具だ。
 完璧な魔法少女を補佐する存在として作り上げられた存在だ。
 しかし今回彼女達の主となった人物は、完璧という言葉とも、超高級の響きとも無縁の男であった。
 生活習慣はクズに等しく、いい年をしていながら定職についてすらいない有様。

 そして何より、彼には由々しき問題がある。
 これから幕を開ける大きな戦を生き残るにあたって、とてつもなく大きな問題が。


 ――アサシンのマスター『松野おそ松』は、この期に及んでまだ聖杯戦争がどういうものであるかを正しく認識していない。

 もしも彼が呼び出した英霊が真っ当だったならば、きっとこうはならなかったろう。
 どれだけ楽観的な思考の持ち主だとしても、普通は聖杯戦争の何たるかをサーヴァントとの対話を通じて理解するものだ。
 主従同士の接する時間の少なさ。
 それこそが、シャッフリンとおそ松の間に存在する最大の問題だった。
 基本的に、おそ松は聖杯戦争の進行をシャッフリンへ一任している。
 彼女はその命令に従って、彼の与り知らぬところで敵を狩り、スコアを挙げて帰ってくる。
 彼と彼女達の繋がりは、ごくそれだけのやり取りに集約されていたと言ってもいい。


 これまでは、それで上手くいっていた。
 だがこれからはどうか。
 きっと、今まで通りとはいかないだろう。

 シャッフリン=ジョーカーはシャッフリン達の補充が完了するのを確認しながら心中で独白した。

 総数五十以上にも及ぶシャッフリンと、それを統率するジョーカーの彼女。
 その総体をもって『アサシン』のクラスに当て嵌められた彼女達は、願いというものを持っていない。
 彼女達はただ、マスターに聖杯を献上するために戦うだけだ。
 主のおそ松がそれを止め、聖杯戦争を破壊すると言い出せば、彼女達もそれに殉ずる。


 が、今、おそ松は優勝することを望んでいる。
 聖杯を降臨させ、それがもたらす莫大な利益で旨い汁を吸うことを夢見てほくそ笑んでいる。
 ……その影で何が行われているのかなど知らぬままに、呑気にシャッフリン達の優勝を待っているのだ。


 シャッフリン=ジョーカーは転がった死体には見向きもせず、マスターへの報告へ向かうべく歩き出した。
 今回はそこに加えて、聖杯戦争の『本番』がいよいよ開幕することも伝えねばならない。
 それを聞いた彼がどうするかは、分からないが。


 絵札の少女が夜の街を闊歩する。
 やがて彼女の姿は霊体になって、誰にも見えない虚空へ消えた。






「彼女は未だ殻の中だ。
 それを知ることないまま、或いは知りながら、ただ無機であることに徹している。
 その心も、体も、今は塔の中。
 彼女を守る者だけが、その存在を知っている。
 役割のなき少女はただ、そこにあるだけ。
 今は、まだ。これからは――」








――


「お帰りなさいませ、サーヴァント・ランサー様」

 もう、このやり取りを何度交わしただろうか。
 扉を潜って図書の城へと凱旋した槍兵『ヘクトール』はひらひらと手を振り、自身のマスターを制する。
 埃と本ばかりが数え切れないほど積もったこの幽霊屋敷に、その少女はひっそりと居住していた。
 自称・自動人形。人知れずルーチンワークを繰り返し続ける彼女の名前を『ルアハ』という。

 聖杯戦争の舞台として用意された偽りの世界に、ルアハを示す役割(ロール)は存在しない。
 彼女を知る者はこの街にはいないし、そもそもこのゴーストタウンへ踏み入ってくる者がまず殆ど皆無だ。
 誰にも知られることなく、持ち主のいない情報倉庫の留守を預かり続けている、彼女。
 ランサーもまた、彼女がどういった存在で、何を望んでいるのかをまったく知らないままでいる。
 問いを投げたことは幾度かあった。
 されど、ただの一度として満足な返答の帰ってきた試しはない。

「飽きないねえ、おたくも」

 質問の意味が分かりかねます。
 返される定型句に、ランサーは肩を竦めて奥へと歩き出す。
 後に続くようにして、ルアハの軽い足音がついて来るのが分かった。
 ちらりと振り返ると、その右手には、やはりある。
 爛々と煌めく、三画の令呪――英雄ヘクトールのマスターたる証が。


「始まるぜ、聖杯戦争が」

 独り言のように彼が口にした言葉にも、やはりルアハは反応を示さない。
 しかしランサーはいつものように口笛を吹いて肩を竦めるのではなく、語り続ける。
 このヘクトールという男は軽薄で胡乱な態度を常に取っているが、さりとて決して盆暗ではない。
 神の推測すら裏切ってアカイアの軍勢を追い込み、かのアキレウスをさえ苦戦させたトロイアの大英雄。
 彼の欠落がトロイアの崩壊に繋がったとすら謳われる、まさしく伝説の二文字に相応しい英傑である。


 にも関わらず、彼は真剣味と呼べるものを表に出さない。
 終始気楽なノリで物事に接するその物腰は、いらぬ誤解を多分に生み出すことだろう。

「何でもいいけど、身の振り方だけはそろそろ考えときな。悪いことは言わないからよぅ」

 そして、この槍兵をそう侮った時点で――その敵は彼の思う壺に嵌っているのだ。
 彼はいつだって本気である。
 ただ、その環状を表に出さないだけ。
 トロイアの英雄はいつだって、常にその慧眼で戦況を見定め、緻密な計略の上で事を起こす。


 それは今この時もそうだ。
 ルアハというマスターを勝利に導くため、ランサーはあらゆる努力を惜しまない。
 彼女が閉じ籠もったままだというのなら、そのままでも勝てるように戦を導くのが彼の役目。


「……私は」

 自動人形は、言葉を詰まらせる。
 その姿は、あまりにも。

 どうしようもないほどに、ひとりの人間のものだった。






「彼は夢を見る。
 どれだけ現実に阻まれようと、足を止めることなく我武者羅に走り続ける。
 その姿を嗤うか、それとも尊いものとするか。
 それは意見の別れるところだろう。けれど。
 道なき道は今、閃雷の輝きに照らし出された。
 あとはただ走るだけだ。どこまでもどこまでも、失楽のグラズヘイムへと、ひたむきに」








――


 黄金の杯へ手を伸ばした日から、どれだけの日が経過したろうか。
 長かったようにも、短かったようにも感じる。
 だが、只の一日として退屈な日がなかったことだけは確かだ。
 常に死線を意識せねば生きていけないほど、聖杯戦争は熾烈だった。
 まだ本番前の『ふるい落とし』の段階であるにも関わらず、幾度も死を隣へ感じさせられた程に。

「……来ちゃいましたね、遂に」

 『黒鉄一輝』の隣に今立っているのが、その死を振り払い続けた剣士だ。
 ポニーテールにまとめた金髪がよく似合っている、快活そうな顔立ちにどこか幼さを残した女剣士。
 その美貌もさることながら、何よりも目を引くのはやはり服へ留めた腕章であろう。


 鉤十字(ハーケンクロイツ)の描かれたそれは、かの第二次世界大戦にて悪名を轟かせた第三帝国の印。
 ナチスドイツ――現代となっては崩壊して久しい帝国の一員であることを示す装いに、彼女は身を包んでいた。

 『ベアトリス・ヴァルトルート・フォン・キルヒアイゼン』。
 聖槍十三騎士団黒円卓第五位にして『戦乙女』の魔名を与えられた、黄金の戦徒が一人。
 近代の英霊であるからと彼女を侮れば、たとえ神代の時代を生きた者であろうと不覚は免れまい。
 時代と神秘は浅くとも、その身を覆う装甲はあらゆる神々を凌駕して余りある水銀の王が編んだものだ。
 先進国の軍事予算総額にすら匹敵する懸賞金を総額で掛けられているという組織の一員、その肩書は伊達ではない。

 ……彼女としては、そう形容されるのは不本意に尽きるかもしれないが。

「ええ。もう、後戻りは出来ません」
「する気もない癖によく言いますね、マスター」

 セイバーは苦笑する。
 彼女の言う通りだ。
 仮に今からでも電脳世界を退場させ、元の世界へ帰してやると言われたとして、それに一輝は決して応じないだろう。


 何故なら既に、彼の剣は人の命を奪った。


「僕はたくさんの願いを踏み越えて、此処まで来ました」


 願いを踏み越えるとは、人の生を足蹴にすることと同義だ。
 聖杯戦争に敗れた者は、やがて消滅する。
 黒鉄一輝は今、聖杯戦争に挑み、敗れていった死者の山岳に立っているのだ。

 そしてこれからも、死は積み重なっていく。
 聖杯戦争が続く限り、永遠に死という現象が発生する。

「もう戻り道はどこにもない。そして振り返ることは、これまで踏み越えてきた命への冒涜だ」

 そうなれば、どうすべきか。
 答えは一つしかない。
 選択肢も、きっとただ一つだ。

「勝利する――ですか?」

 一輝は首肯する。
 勝利する、それこそが黒鉄一輝という男の求めるもの。
 もとい、求めるものへ辿り着く上での前提条件だ。
 聖杯戦争を勝ち抜いた者にしか、黄金の奇跡は微笑まない。
 そしてそれを勝ち取れなければ――自分が戦ってきた意味は何も残らない。そう、何も。
 何一つとして、残るものはないのだ。

「諦めを打倒し、僕は勝利を……聖杯を掴みます。必ず」

 決意も新たに拳を握り、ただ空を眺めた。
 手を伸ばす勇気は得た。
 一縷の光もない暗闇は、傍らの彼女が破壊してくれる。
 後はただ、手の届く範囲まで歩くだけだ。
 立ちはだかる何もかもを打ち倒して、己が望みを己の力で完遂する。


 主の決意は壮絶なもので、だからこそセイバーは胸を痛めずにはいられなかった。
 彼にはとても、言い出すことなど出来ない。
 単なる戯言と振り払えない、どこまでも嫌味な呪いがこの身には残留している。

 その夢と祈りは、グラズヘイムを肥え太らせる。
 ベアトリス・キルヒアイゼンは、その地獄へと他人を導く死神だと、誰かが言った。
 稲光の照らす道は今、確かに一輝の行く末を照らしている。


 だが――その先がどこに通じているかを知る者は、どこにも居はしなかった。





「彼女はひとつの運命。
 救われない、或いは救ってはならない。
 世界の分水嶺であり、にも関わらず、自分以外の犠牲を望まない少女。
 彼女が呼んだ男にも、その運命はきっと覆せないだろう。
 ただ一人覆し得る可能性を秘めたものは――いま、彼女と同じ舞台へ上り、杯の奇跡を求めている。
 ……きっと、出会わない方が幸せだと私は思うよ。彼と、彼女は」








――

「電気くらい点けろよ、マスター」

 『仁藤攻介』が呆れたように言って、室内灯のスイッチをパチンと点けた。
 この世界で彼のマスターとなった少女は、備え付けのベッドの上でぼんやりとしていた。
 眠そうには見えないが、心ここにあらず、といった様子。
 あまりいい兆候でないのは確かだと、キャスターは難しい顔をする。


 彼女の名前は『牧瀬紅莉栖』。近年学会では評判となっている、若き天才少女その人だ。

「……ごめんなさい。何だか億劫で」

 紅莉栖に与えられたロールは、元の世界の彼女とさして変わらない。
 論文を発表するために日本のK市を訪れ、現在はビジネスホテルの一室に滞在している。
 滞在期間は一応一週間ということになっているが、大方時期が近くなれば何かしらのアクシデントが起こる筈だ。
 飛行機が不調を起こすなり、発表会の予定がずれ込むなり、理由はいくらでも思いつく。

 0と1の数字で管理された電脳世界。
 聖杯戦争を執り行うために動作するプログラムが、みすみすマスターを聖杯戦争の舞台から逃がすとは考え難い。
 つくづく、この世界はよく出来ている。
 此処での暮らしの中で、紅莉栖は腹立たしいほどそれを痛感させられた。

「怠けるのもいいけど、気はしっかり保つんだぞ」
「大丈夫よ、そういうのじゃないから……」
「それと、一つ俺から伝えておくことがある」
「……それも大丈夫。大体分かるわ。当ててみせましょうか」


 聖杯戦争が始まる。
 紅莉栖は、キャスターが言わんとしていた内容を的確に当ててみせた。


「驚いたな。お前も感じてたのか、マスター」
「私は魔術なんてものは全然知らないし、今でも半信半疑だけど――」

 右手の令呪へと、その視線が落ちた。
 牧瀬紅莉栖は魔術師ではない。
 彼女の家を先祖まで遡ったとしても、魔術の痕跡は微塵も出ては来ないだろう。


 にも関わらず紅莉栖をマスターたらしめているのが、この令呪であった。
 聖杯に選ばれると同時に与えられた、サーヴァントとマスターを繋ぐ三画のパス。
 サーヴァントを御す上でこれを失うのは最悪とも言われている。
 本来令呪は、サーヴァントの裏切りを制するためのものでもあるからだ。

 ……その点で言えば、紅莉栖のキャスターは心配には及ばなかったが。


「伝わってくるの。何かが始まるような……いや、近付いてくるような感覚が」

 それを感じ取った時、紅莉栖は直感した。
 聖杯戦争が、これから遂に始まるのだと。
 奇跡を手にするに値しない者のふるい落としを終え、より熾烈な戦いに移行するのだと悟った。
 今でこそ彼女たちは仮初の平穏を謳歌できていたが、これからはそうはいかないだろう。
 必ずや、戦いの火は紅莉栖とキャスターにも襲い掛かる。
 そしてその業火から逃げ延びられる保証は、この電脳の海のどこにもない。

「なぁに。そう心配すんなって、マスター」
「ひゃ……?!」

 ぽんと、キャスターが紅莉栖の頭に手を置いた。
 それを左右に動かすと見る間に彼女の頬が赤らみ、手をぱんと振り払う。

「……セクハラよ、キャスター」
「こいつは手厳しい。でも、そっちの顔の方がマスターらしいぜ」

 確かに、聖杯戦争は苛烈な戦いだ。
 魔術師でない紅莉栖は、ハンディキャップを抱えているようなものでもある。
 きっと一筋縄ではいかないし、予想しない所で命をあっさり落としてしまうことだって十二分にあり得る筈だ。
 しかしそれでも、牧瀬紅莉栖は一人ではない。
 彼女には、決して自分を裏切ることのない『魔法使い(キャスター)』が付いているのだから。


「俺がお前を死なせないさ、マスター。必ずお前を、お前の居場所まで帰してやる」





「彼女は生を求める。
 願いを持たないが、しかし死の運命には気に食わないと反発する。
 復讐者の声で道を見つけ、戦へ身を投じる魔法少女。
 その生き様は美しくも泥臭く、荒々しい。
 ただ。あの槍は駄目。あの槍は、残しておいてはならない。
 ……セラフィータを貫くものは、決してあってはならない」


  1. ――018:Revolution






――


 ゲームセンターの一角で、赤い髪の少女が軽やかに踊っていた。


 全国的な知名度もあり、それこそどこのゲームセンターにでもあるような筐体だが、それゆえに奥が深い。
 うまく踊るには曲毎に存在するタイミングを見極め、その上で身体をついて行かせる必要があるのだ。
 その点で言えば、彼女……『佐倉杏子』のプレイは見事なものだった。
 比較的激しめの曲調にもしっかりと付いて行き、荒々しいが確実に、踏むべきパネルを蹴っていく。

 やがて楽曲が終わるとスコアが表示された。
 ハイスコアの更新はならなかったものの、そもそも現在のハイスコアを叩き出したのは他でもない杏子自身である。
 誰か超えてくれるような奴が出てこないもんかね、と。
 八重歯を見せて微笑みながら、杏子は筐体のダンスゾーンを降りる。

「相変わらず、上手いものだな」
「何度も言ったろ? 慣れてんだよ」

 彼女の娯楽が終わるのを待っていたのは、精悍な顔立ちの男だった。
 それは少年相応のものでありながら、安らぎとは無縁の死地を幾度となく踏んできた凄みを帯びている。
 顔だけではなく体の至る所に、戦いを経て自然と身に付いていった逞しさが顔を覗かせていた。


 彼は『メロウリンク・アリティー』。
 佐倉杏子のサーヴァントで、クラスはランサー。
 世間一般に知られる槍とは少々装いの異なったそれを携えて電脳世界を訪れた、復讐者。
 それでいて、己がマスターへと戦う理由を見出させた男。

「しかし面倒なことになってるねぇ、この街。
 殺人鬼が毎夜暴れてるとか何とかで、至る所に補導員だの警察だのが彷徨いてる。
 迂闊に夜道も歩けやしないよ、これじゃ。色んな意味でさ」

 からからと笑う杏子であったが、それは彼女にとって由々しき問題だ。
 この世界の住人としての佐倉杏子もまた、オリジナルの佐倉杏子と殆ど同じ経緯を辿ってきたらしい。
 魔法少女にこそなりはしなかったものの、紆余曲折の末に全てを失った。
 適当な廃墟に住み着いてその日暮らしの生活を送る、およそ年頃の女子とは思えない毎日。
 先程のゲームの話ではないが、暮らすだけならば慣れているからどうとでもなる。

 問題は、それを咎める存在が活発化していることだった。
 迂闊に野宿しているところを見咎められれば面倒だし、かと言って逃げ出そうものなら件の殺人鬼と疑われかねない。
 勿論、当の殺人鬼本人と鉢合わせる危険もあるわけだ。
 なんとも面倒で、住みづらい街になってしまったものだと思う。
 正直な話、これからどうするかは結構な問題であった。

「その殺人鬼は、恐らく聖杯戦争の関係者だろうな」
「だろうね、あたしもそう思ってた。手当たり次第にNPCぶっ殺して、ペナルティが怖くないのかね」


 でも、関係ない。
 棒付きキャンディの包装を剥がして口に咥え、にっと口角を吊り上げる。

「ま、会ったら戦うだけさ。負けたら死ぬけど、勝ったら生き延びる。それ以上も以下もないよ」

 風聞に伝え聞く限りでも、殺人鬼の異常性はひしひしと伝わってくる。
 殺す人数も、凶行を隠そうとすらしない姿勢も、未だその身柄が特定できないという現状も、全てが異常だ。
 実際に遭遇したとして、話の通じる相手ではまず間違いなく無いだろう。
 それどころか、開口一番に首を飛ばしにかかってくる可能性さえある。

 やられる前にやる。
 それが出来なければ殺される。
 そういう相手だと、杏子は認識していた。

「戦争は、すぐそこまで来ている。殺人鬼だけに留まらず、多くの思惑が渦を巻き始めるぞ、今にな」
「頼りにしてるよ、ランサー。あんたとあたしで、聖杯戦争を生き抜いてやるんだ」


 杏子は、この状況を怖いとは思わない。
 高揚感を覚えることこそないが、恐れらしいものをどうしても抱けないのだ。
 一度は死した身だから、なのだろうか。
 それは定かではないが、やっぱり死んでやる気にはなれない。


 精一杯生き抜いてやろう。
 こいつとなら、それが出来そうな気がする。
 杏子はやがて、今日のねぐらをどうするかと思案しながらあてもなく夜道を歩き始めた。






「彼らは引きずり下ろす者。
 この電脳海域の中核にあるものを見据え、それを忌み刃を突き付ける反逆者。
 その願いは逆襲劇(ヴェンデッタ)。英雄を、星を殺すという難業の極致だ。
 死想恋歌のしらべを響かせて、彼らの靴音は誉れの輝きを喰らい殺す。
 だから、彼らの存在はこの電脳恒星を滅ぼす毒になるだろう。しかし、そうはさせない。させてなるものか。
 逆襲の劇を願うというならば、それすら圧する……獣の神威を持ちて迎え撃つ。それまでのこと、それだけのこと」








――

 電脳の世界は、綻びを見せずに運営されている。
 吹く風の爽やかさも、冬へ向かう季節の冷たさも、全てが現実と一寸ほどの違いもなく精巧だ。
 住まう人々をいきなり殴ったとしたなら真っ赤になって怒り出し、場合によっては警察が飛んでこよう。
 0と1の支配する領域とはいえども、決してやりたい放題が出来る世界ではない。
 あくまでも此処は現実世界の延長線――もう一つの現実とでも呼ぶべき、再現された世界なのだ。


 この世界にあるものの全ては、聖杯戦争を滞りなく運営するための舞台装置に過ぎない。
 どれだけ精微な表情をしていたって、彼らは所詮単なるデータだ。
 聖杯戦争が終われば役割を失い、数字の海に溶けて消えてしまう。
 ただそれだけで、たったそれだけの存在でしかない。
 何もかもが軽い、重みというもののない世界。
 それこそが、現在『秋月凌駕』の生きている世界の本質であった。

「感じるか、アサシン」

 凌駕は虚空へ語りかける。
 今、彼らは外へと出ていた。
 索敵なんて物騒な目的ではなく、日常の中にありふれた、個人的な買い物の用事だ。
 如何に仮想の世界とはいえ、そこの住人として生きるからには社会的な営みに準ずる必要がある。
 彼にとってのそれは学業だった。
 愛用のシャープペンシルが壊れてしまったため、その他文房具類の補充も兼ねて買い物へ出て、今はその帰り。


「……ああ。背中に氷柱ぶっ込まれたみてえな感覚があるぜ」
「近いわね。朝が来るまでには――ってところかしら」

 都市部だというのに、人通りは極めて疎らだった。 
 それは時間の問題もあるだろうが、一番大きな理由は巷を騒がす連続殺人の影響であろう。
 犯人の詳細は未だに明かされていないものの、凶行の矛先に老若男女や社会的身分の区別がないことははっきりしている。
 もし自分が人の親ならば、まず間違いなく、外出を勧めたりなどはしない筈だ。
 にも関わらず、凌駕はこうして外へ出てきていた。
 その理由は言うまでもなく、彼もまた、この世界で唯一確たる意志を持つ存在――聖杯戦争の参加者であるからだ。


 ――件の殺人犯は、NPCの行動とするには些か度が過ぎている。
 本来警察の包囲網はもっと厳重で然るべきだし、何なら交通封鎖くらいはされてもおかしくない筈だ。
 そうなっていないということはやはり、事件の首謀者は確実に聖杯の加護を受けているということになる。
 ならば尚更のこと、対抗できるのは同じマスター、ないしはサーヴァントに限られよう。

「ようやくそれらしい面子が揃ったってことかよ」

 ……反吐が出る。
 そんな心境を隠そうともしない表情で、アサシンのサーヴァント『ゼファー・コールレイン』は吐き捨てた。
 聖杯戦争の舞台へと招来されてから時間にしてこれまで数週間の間、だらだらと戦いが続いてきて。
 今宵ようやく、事が動き出そうとしている。
 わざわざそんなまどろっこしい手を取ったのは、やはり聖杯の奇跡を賜るに相応しい面子を選別するためなのだろう。
 アサシンはその趣向に、嫌悪感を禁じ得ない。
 それは彼だけでなく、凌駕も、そしてアサシンの連れる月乙女『ヴェンデッタ』もまた同様だった。

「腹に据えかねるのは俺も同じだ。
 けど――それ以上に、今は気を引き締めなきゃいけない」
「あれだけの時間を掛けて行われた戦争を生き抜いた連中だものね。
 戦いが激化するのは当然……もしかすると、一人で聖杯戦争を終わらせられるような手合いもいるのかも」

 凌駕とヴェンデッタは、口々にそう語る。
 これからの戦いが呈する混沌の様相を。
 想像するだけでも背筋の粟立つ、戦慄の英雄譚がもたらす暴力を。
 それを尻目に、ひとりアサシンは弱気な顔をし、嘆息した。

「よせよ、縁起でもねえ……」


 ゼファー・コールレインという男は決して強者ではない。
 英雄として光の道を歩む者でもなければ、大層な理想を持ち合わせている訳でもない。

 彼は、弱者だ。
 光を忌み、敗北して逃走した男だ。

 いや、だからこそ。
 彼と彼女の『八つ当たり』は――英雄の輝きを地に墜とす。
 光を踏み躙る闇として、聖杯戦争の破壊を願うのだ。





「彼女は白雪。彼は心。
 大英雄と出会う前の少女と、それを救った友誼の機人。
 絆なき少女は未だ荒み、機人はそれでも友となることを願う。
 新たな友。守るべき、もの。
 誇り高き機械生命体の生き様は、きっと穢れることはないだろう。 
 だから今は踊ればいい。その心こそ、聖杯の輝きを引き立てる光彩となるのだから」







――


 K市某所に存在する、結界に覆われた森を認知している者は果たしてどれほど居ただろうか。


 それは定かではないが、決してその数は多くない筈だ。
 ……森に踏み入った者は、森の持ち主に否応なく捕捉される。
 居場所は筒抜けとなり、そうなれば、森の奥に聳える城塞へ君臨する雪の妖精が見逃す訳もない。


 アインツベルン城。
 この電脳世界においても魔術の名門として知られる『始まりの御三家』の一角が築いた、見るに立派な大城塞。

「……長過ぎる。待ちくたびれたわ」

 そこを根城とするマスターの姿は幼かった。
 白雪のそれを思わせる白磁の素肌と、見る者を否応なく惹きつける可憐な貌。
 しかし、もしも彼女をたかが子供と侮るようなことがあれば、その者の未来は決定される。
 魔術を行使するということに関して、『イリヤスフィール・フォン・アインツベルン』の右に出る者はそういない。

 アインツベルンのホムンクルス。
 その意味を正しく理解できる者が、この電脳世界に何人存在するかはさておいて。
 理解した者ならば、皆眦を顰めるなり焦りを見せるなりの反応をすることだろう。

「せっかちだな、イリヤは」
「うるさい」


 ――かつて。
 第四次聖杯戦争と呼ばれた戦に先立って作り出された、アインツベルンの『最高傑作』。
 いずれ聖杯の器となることが宿命付けられ、様々な呪的処理のもとで産み落とされた少女。
 その代償に、彼女には成長の停滞と寿命の短縮がついて回るが――


「マシン。明日、早速街へ出るわ」

 最高傑作の呼び名は伊達ではない。
 魔術師としてのイリヤスフィールは、掛け値無しに絶大な存在だ。
 そして。
 その彼女へと付き従う、本来存在しない筈のクラスを持った『彼』もまた、ある規格外の力を有す怪物である。
 彼は常に相手を上回り続ける。
 どんな神話の英霊にすら匹敵し得る力を秘めていながら、神秘の限りなく薄い機体を持つイレギュラーの体現者。


 『機械(マシン)』……彼はかつて人類を支配するために行動し、それに敗れ、友を得て成長した誇り高き機械生命体。

 その真名を、『ハートロイミュード』。
 今はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの友となることを望む、鼓動の戦士。


「分かった。聖杯戦争が始まれば、後はただ戦うのみだ。
 俺は君のサーヴァントとして、寄せ来る敵を打ち砕く。君を『願い』のもとまで、必ず送り届けよう」
「……」
「君に友達と認めてもらうためにも、頑張るさ」
「……ふん」


 そっぽを向いて、イリヤスフィールは思う。
 このサーヴァントは、分からない。
 友達にしてくれなどと言い出すサーヴァントなんて、聞いたこともなかった。
 でも、何度見ても、彼の視線はまっすぐだ。
 その言葉も、然り。


 だからイリヤスフィールは、やはり彼を信じてもいいか、と思ってしまう。
 もっとも、真の意味で信頼出来るようになるまでは、まだ時間がかかりそうだったが。






「彼らは護り、護られる関係性にある。
 幼き烈風と腐敗の毒は、しかし真に混じり合うことは決してない。
 死にゆく定めを持つ風の実験体。
 聖者の計略に墜ち、やがて狂い果てる偽槍の騎士。
 ……共通するのはきっと、限りなく未来が昏いということだ。
 そして悪辣なる運命は、此度もふたりの向かい風となる」








――

 『プリンセス・テンペスト』――こと、『東恩納鳴』は小学生だ。

 学年は二年生。
 年は二桁に満たず、しかし同年代の子供達をある意味では遥か後方へ置き去っている。
 恋に勝つための手段を模索する内に、鳴は魔法少女という存在に辿り着いた。

 魔法少女になって、鳴はピュアエレメンツという何にも代えがたい仲間を得ることが出来た。
 ディスラプターと戦う日々は過酷ながらも楽しくて、心から魔法少女になってよかったと今でも思っている。

 けれど同時にこうも思うのだ。
 きっと自分は、魔法少女になったから、この聖杯戦争に呼ばれたのだと。
 平々凡々たる日々を過ごすだけの小学生だったなら、この場所に自分はいなかっただろう、と。

 明日の時間割を見ながら、赤いランドセルの中へと勉強道具を詰めていく。
 国語、算数、体育、図工の四時間授業だ。
 学年が上がるにつれて消えていく午前放課の日は、子供にとって何よりも貴重で嬉しいものだった。
 しかし明日、自分はいつも通りに学校生活を謳歌できるだろうか。

 鳴は、出来ないかもしれないと思った。
 根拠こそないが、漠然とした不安があるのだ。
 訳の分からない、けれどなぜだか落ち着かず、泣きそうになるような不安が。

「――鳴ちゃん」

 声がした。
 鳴の家族の声ではない。
 若い男性の、よく通る声だ。
 そこには、聴覚だけで自然と美男を連想させる響きがあった。

 ぱっとその方向を向くとそこには、連想した通りの端正な容貌の青年の姿がある。
 左腕には鉤十字――鳴も生きていれば、何年か後の歴史の授業で習うだろう、ドイツ第三帝国の証を示す腕章。


「……ランサー」
「不安に思うことはない。君が感じているそれは、君が思うほど破滅的なものではないんだ」

 鳴の本命はあくまで現実世界にいる。
 だが恋愛感情云々を抜きにしても、このランサー……『櫻井戒』は魅力的な人物だった。
 がっしりとした体格もさることながら、その落ち着いた物腰は、戦争の只中に放り込まれた鳴へ安堵感を与えてくれる。
 勿論見かけ倒しなんかじゃなく、彼は本当に強い。
 「プリンセス・テンペスト」が太刀打ち出来なかった敵を瞬く間に撃破した手際は、今も鳴の脳裏に焼き付いている。

 このランサーを召喚することが出来て、本当に良かった。
 そう思った回数は、この数週間の中できっと両手の指の数を超えている。

「聖杯戦争が始まろうとしている。君の感じるそれは、その兆候に過ぎない。
 これまでのような、落伍者を炙り出して振り落とす余興じゃない。正真正銘、本物の聖杯戦争が始まるんだ」
「本物の……聖杯戦争」
「残ったサーヴァントが何騎かは分からないが、いずれも一筋縄ではいかない相手と踏んでおいた方がいいだろう。
 なるべくなら君を舞台には立たせたくないけれど、それでも、どうしようもない時というのはあるかもしれない。
 だから鳴ちゃんも、出来るだけ辺りへは気を配っておくんだ。何かあれば、令呪を使って僕を呼んでもいい」

 とはいえ、魔法少女「プリンセス・テンペスト」の実力は決して低くない。
 サーヴァント相手ならばともかく、マスターからの襲撃程度なら自力で対処することも出来るだろう。
 しかしランサーとしては、鳴に――テンペストに戦ってほしくはなかった。

 彼女はまだ幼い子供だ。
 魔法少女という力を持っていても、そのことは変わらない。


 櫻井戒には、妹がいる。
 そして彼は、彼女にとある宿業が受け継がれることを忌み、行動していた。
 櫻井螢。この世界にはいない筈の彼女の姿と、自身の主たる東恩納鳴の姿がどうしても重なってしまう。

 死なせたくないと、そう思う。
 戒が生来持ち合わせる善性だけでなく、ひとりの兄としても、そう思わずにはいられない。
 ……そうしてランサーは、妹と他人を重ねるという自分の浅ましさを嫌悪する。
 自分は、屑だ。――何度目かも定かではない、その事実を痛感して。


「――君は僕が守る。
 君の召喚に応じたサーヴァントとして、必ず」

 されどそれを表面に出すことなく、彼女を安心させるように笑ってみせた。
 ……彼女は死なせない。必ず、元の世界へ帰してみせる。
 どんな手段を使ってでも聖杯を手にすると決めた。
 だとしても、彼女を守るというこの約束だけは違えるものか。
 騎士は静かに決意を強める。月が、雲の隙間からその光輪を顕した。






「彼は高みを目指す。
 その志は、この世界において極めて正しい正道だ。
 自らの欲望に従って、聖杯の恩寵を求める。
 どんな非道に手を染めてでも、勝利する。
 彼が迷ったり、その道を変えることはきっとないだろう。
 勝つにしろ、負けるにしろ。彼の足は、幕が下りる瞬間まで止まらない。








――


 『エルンスト・フォン・アドラー』の準備は万全だった。
 だからこそ、彼は聖杯戦争の始まりを告げる予兆の出現を快く受け入れることが出来た。


 永久機関を企業へ提供することで得た莫大な資産を駆使し、地位と物資をほぼ完全な形で備えている。
 サーヴァント・アサシンの傷を補強する上で必要な資材も、有り余るほどかき集めてある。
 従って、いつ聖杯戦争が本格的にその幕を開けようと、アドラーは最高のスタートダッシュをすることが出来る。
 謂わば、ホイッスルが鳴り響く瞬間には既にスタートラインの数メートル先へ立っているようなものだ。
 順当に行けば負ける道理はない。
 聖杯まで一直線で勝ち抜くことも出来るだろう。

 しかし、そうは問屋が卸さなかった。
 その理由は、彼のサーヴァント……『U-511』にある。

(アサシン……奴の性能は、少しどころではなく貧弱の一言に尽きる)

 改装によって戦闘能力を底上げ出来るとはいえ、それでもその伸びしろはたかが知れている。
 少なくとも三騎士クラスと張り合える程ではないし、バーサーカーのような攻撃力も持ち合わせない。
 潜水という長所こそあるものの、それも使い所の限られる行動だ。
 過信して前線へ送り込むような真似をすれば、彼女がどうなるかは容易に察しがつく。


 忠実なのは利点だが、それも性能が伴っていなければ何の意味もない。
 この点については何かしら、対策を講じる必要がある筈だとアドラーは踏んでいた。
 性能面での劣点を補うためにどうすればいいかは、さして頭を回さずとも分かることだ。


「アサシン、貴様には分かるか」

「えっと……仲間を、集める……?」

「ふん――その通りだ。だが、仲間という表現は正しくないな」

 アドラーは不遜に言う。
 そうだ、必要としているのは傷口を舐め合う仲間などではない。
 第一生き残りの椅子が一つしか存在しない聖杯戦争で、同胞だ何だと宣うのが間違いなのだ。
 矛盾している。アドラーは、そういう矛盾を抱える連中を救えない阿呆だと心から侮蔑していた。

「仲間ではなく、駒だ。
 貴様の力を最大限に引き出せる場面は言わずもがな奇襲に限られる」
「………」
「良く言えば前線担当。悪く言えば弾避けの囮。
 それを確保する必要がある……無論、なるだけ強力な力を持ったサーヴァントが望ましい」

 此処でも、アドラーが築いた地位が活きる。
 潤沢な資金とコネクションを駆使すれば、情報面、物量面で大きなアドバンテージを得ることが出来る。
 その利益を提供してやると触れ込んだなら、賢明なマスターは喜々として話に乗ってくるだろう。
 少なくとも、アドラーがそんな提案を持ちかけられたならば間違いなく首を縦に振る。

 もっとも知略冴え渡る彼のことだ。
 ただ利用されるだけではなく、逆に利用し返すくらいのことはしてのけるだろうが。

「噂の殺人鬼など、そういう点では素晴らしいほどお誂え向きだが……まあ、話の通じる相手ではあるまいよ。
 当面は索敵をしつつ、相手を模索していくことになるか――良いだろう。
 だが、たとえどんな事態が起ころうとも結末は変わらんぞ」


 くつくつと嗤い、アドラーは眼下の街を窓から見下ろした。
 ネオンライトに照らし出された偽物の都市が綺羅びやかに輝いている。


「勝つのは、この俺以外にはあり得ん」

 そう語るエルンスト・フォン・アドラーの顔は、曇りなき自信に満ちていた。





「彼は陰鬱、彼女は怠惰。
 ……きっと、彼も彼女も、こういう場所へ呼ばれるべきではなかったに違いない。
 彼らは本来、賑やかながらも代わり映えのしない日々を生きていくべきものたちだ。
 けれど、二人は生き残ってしまった。生きて、歯車の回る時へと辿り着いてしまった。
 それが凶となるか、吉となるか。それは分からないけれど……
 ……私は、可哀想だと思うよ。とても、とても」








――

 ぼんやりと、月を眺めていた。

 月は満月。
 月見には、きっと一番丁度いい月齢だろう。
 とは言っても、別に小腹が空いているわけでもない。
 酒を飲みたいわけでもないし、何をしたいということもない――ただ、ぼうっとしているだけだ。

 他の兄弟は皆寝ている時間だ。
 一人でこんなことをしているのがバレた日には、「らしくないことをしている」と笑われるだろう展開が優に想像できる。
 けれど仕方がないのだ。『松野一松』は、どうしても今晩、いつものように眠ることが出来ずにいた。
 薄ぼんやりとした予感と、確信がある。
 恐らく次に目を覚ました時には、このぬるま湯のような日常は終わりを告げているだろうという確信が、ある。
 もっと正確に言えば、これまでとはまた違う世界に踏み入るのだと――そんな予感が、ある。

「……カラ松の奴じゃあるまいし」

 一松は自分の表現力の貧困さを、わざわざ兄の一人の名前まで使って自嘲した。
 この動悸にも似た落ち着かない感覚が何を意味しているかには心当たりがある。
 摩訶不思議な超能力も魔術も使えない自分が、何故か巻き込まれたとある争い。もとい儀式。


「……シップ、いる?」
「いるよー」

 霊体化を解除し、いつも通りの気だるげな様子を漂わせて船の英霊『望月』が一松の傍らへと姿を現した。
 昼間だろうが夜だろうが関係なく眠たそうにしている彼女が、こんな時間まで起きているのは珍しいことだ。
 大方、シップも自分と同じものを感じ取ったんだろうと一松は思った。
 そのことを敢えて口にしない辺りが、実にものぐさな彼女らしい。
 言葉にせずとも伝わるだろうと、そんな根拠のない謎の自信を抱いている辺り、ニートの自分には似合いのサーヴァントだ。

「シップに聞いて分かるとは思ってないんだけどさ」
「んー?」
「聖杯戦争ってやつ。……多分もうすぐ始まるんでしょ、これ」
「多分ね。この感じからすると、下手すりゃ今夜中には開戦かも」

 厳密に言えば、既に英霊同士の戦いは繰り広げられていたらしいが、一松はまだ他の英霊に出くわしたことはなかった。
 大方大量のマスターを集めるだけ集めておいて、聖杯に相応しいかどうかを篩いにかける意図でもあったのだろう。
 予選、と称するのが一番的確かもしれない。聖杯が満足するだけの面子が、満を持して揃ったということなのか。
 そんな枠に自分などが当て嵌まっていることに、一松は疑問を抱かずにはいられない。
 もしも自分が聖杯だったなら、こんなゴミみたいな奴は絶対に選ばない……

「てかそもそも、ンな面倒臭え儀式なんてしないか……」
「? 何の話?」
「こっちの話」

 そ。
 シップはぐーっと伸びをすると、絨毯へ寝転んで天井のシミを数え始めた。
 確かに彼女の性格は月を眺めるなどという柄ではない。それを言うなら自分もだが。
 ……聖杯戦争の始まりが、すぐそこにまで迫っているというのに。不思議なほど、危機感のようなものはなかった。
 当然みすみす殺されるつもりはないが、かと言って聖杯が欲しいわけでもない。
 ノーリスクで手に入るというなら喜んで貰うところだが、そこまでの過程があまりにも険しすぎるし、剣呑すぎる。
 適当に切り上げて此処を抜け出し、元の世界へ帰りたいところだ。
 それが出来るかどうかは置いといて、とにかく穏便に済んでくれればそれでいいと、一松は思っている。

「……僕は大丈夫だけどさ」
「あたしは怖くないの、って?」
「…………」
「あはは、優しいねー。でもあたし、こう見えても駆逐艦だよ?
 それこそ死ぬような思いなんて何度もしてるし、結局は沈んだから此処にいるんだし。
 そりゃ殺されるのは嫌だけどさ。それでぴーぴー泣いて震えたりとか、そういうのはないね」
「そう」

 ひらひらと手を振って笑い飛ばすシップから視線を外し、再び月に目を向ける一松。

 ――駆逐艦『望月』。
 主に輸送任務へと従事し、最期は米軍海兵隊の襲撃の前に散ったと、史実の彼女はそう伝えられていた。
 軍艦が少女へ転生するという理屈は、一松には創作の世界の話としか思えない。
 自分よりも一回り二回り幼く見えるこの少女が、砲や魚雷を携えて海原を駆け回っていたなんて。


「……戦争か」

 とてもじゃないが信じられない話だった。
 けれど、彼女がもう一度『沈む』ところは、あまり見たくない。
 そう考えると、聖杯戦争へのやる気なんてものは相変わらずなかったが、無謀な真似はしないようにしようと思えた。
 なるべくなら、シップは戦わせるべきではないのだろうとも思う。


 どうなることやら。一松はふうと小さく息を吐き、今度こそ床に就くため、窓辺を立った。






「彼女は、愚かだ。
 ただ目の前のものだけを見つめて疾走し、その果てに待つものを見ていない。
 彼女がどこに辿り着くかを、私は知っている。だからこそその旅路は、見るに堪えない。
 ……問わせてほしい。あなたは、どうして此処まで来てしまった。
 友達のひとりも救えない馬鹿娘を嘲笑うため? だとしたら、私は――
 おまえの存在を許せない。たとえそれが、違う選択肢の顛末だとしても」








――

 ただ、海を見ていた。
 どこまでも広がる静かな海を、砂浜に座って見ていた。


 砲の音色も機銃の音も、この世界にはない。
 深海棲艦も存在しなければ、艦娘も存在しない世界。
 ……真の『静かな海』がある世界。

 たとえそれが偽りのものだとしても、『吹雪』にとっては大きな衝撃だった。

「風邪を引くわよ、吹雪」
「……あ、ライダーさん。私、ぼうっとしてました?」

 はっとなって、実体化した自分のサーヴァントへと振り返る。
 吹雪を守る騎兵の英霊は、金髪の麗しい、出るところの出たボディを持った美女の姿をしていた。
 人間に換算すればせいぜい十代後半程度だろうが、しかし流石に歴戦の艦娘と言うべきか。
 その佇まいからは気品と風格が惜しみなく滲み出ており、同じ艦娘である吹雪ですらも見惚れそうなものがある。

 神宮にて自分が死の一歩手前まで追いやられたキャスターを、瞬く間に粉砕した実力。
 まだ未熟さの抜けない自分を支え、先導してくれる頼もしさ。

 ……こんなことを言っては不謹慎だが、聖杯はいいめぐり合わせをくれたものだと思わずにはいられなかった。

「そうし始めてから、だいたい五分ってところかしら。
 物思いに耽るのは悪いことじゃないけど、長くなるならアパートへ戻ってからにしなさいね」
「えへへ、気をつけます……」

 自分が無防備な姿を晒していたことに軽く赤面しつつ、照れ笑いでそう返す吹雪。

 この世界には艦娘が存在しない――正しくは、存在する必要がない。
 そのため、彼女に与えられたのはただの女学生という役割(ロール)だった。
 親元を離れてK市のとある高校へ今年度に入学を果たした、成績優良の一生徒。
 親戚のつてを頼って安家賃のアパートに住まい、一人暮らしをしている。
 一人で起き、一人でご飯を食べ、一人で学校へ行く。
 そんな暮らしは確かに新鮮だったが、しかし一日二日もすれば寂しさの方が優ってくる。
 鎮守府で出会った仲間や先輩の姿のない日々は退屈で、早く帰りたいとこれまで幾度願ったか知れなかった。

「ライダーさん」
「なあに?」
「……始まるん、ですよね」
「ええ。ここから先は、今までのようにはいかないわよ」

 ライダー……『Bismarck』は、水平線の遠き彼方を見据えて言った。

 その顔は吹雪を妹のように見、接する普段の彼女にはない真剣さの宿ったものだ。
 聖杯戦争とはそれだけ過酷な戦いなのだと、これまでの日々を通じて吹雪も理解している。
 あれほど恐ろしい火力の飛び交う深海棲艦との戦いなど、問題にもならないほどの激しさが、聖杯戦争にはあるのだ。
 兵器という形容すら軽く見えてくるほどの道理を超えた力『宝具』を有する、サーヴァントという存在。
 そしてそれを使役するマスター。
 その中には当然、吹雪のような素人では及びもつかない策を弄してくる強者も存在する。

 魔術師の戦いとは、本来そういうものだ。
 彼女のように聖杯を拒み、帰ることだけを願う輩などは――まさしく、異端とされて然るべき存在なのである。

「正直を言うと、やっぱり――怖いです」
「無理もないわ。けど、あなたは……」
「分かってます。でも、ライダーさんに守られてるだけじゃ駄目だと思うんです、私」

 吹雪はライダーの目を見て、そんなことを口にした。

「私も……やれるだけのことはやります。いえ、やらせてください」

 サーヴァントと戦うことは、確かに出来ないだろう。 
 しかし自分だって艦娘だ。
 魔術師の秘技にだって負けないような、砲の火力を持っている。
 それを用いれば、マスター相手にくらいは戦える。
 これまでのように、ライダーだけを矢面に立たせるのではなく……自分も前へ出て、彼女を支えることが出来る。

「……分かったわ。それが貴女の覚悟なのね、吹雪。
 ――立派じゃない。日本の艦娘も馬鹿にしたものじゃないって、しかと刻んでおくわ」

 ふっと笑い、ライダーはもう一度海の向こうを見据えた。
 それを追うようにして吹雪も、水平線の彼方に思いを馳せる。
 ……聖杯の奇跡があれば、元の世界で待っているだろう友人の親友を、呼び戻すことも出来るかもしれない。
 けれど、そんなことをしてもきっと彼女達は喜ばない。吹雪はそっとかぶりを振った。
 今やるべきことは、聖杯を認めず、この戦争から抜け出る手段を探すことだ。
 そして他のマスター達の中にも帰りたいと願う者があれば、一緒に帰り道へ辿り着くことだ。
 聖杯の恩寵は眩しく、どこまでも魅力的だが――きっと、それを追い求めるのは間違いだと思う。

 根拠はない。
 でも、吹雪はどうしても、そう思わずにはいられない。
 聖杯戦争の善悪、聖杯に頼り願いを叶えることの賛否を度外視しても、聖杯の輝きを好意的に見つめられないのだ。
 あれはきっと、ひとが触れてはならないものだ。
 そんな気がする。だから自分は、その直感へと従って、聖杯を否定しよう。

 明日を見据える若き駆逐艦の双眸は、希望に満ちていた。




「呪詛。憎悪。
 夥しい数の怨念を犇めかせて、彼女は誰にも気付かれることなくそこへあり続けている。
 返せ返せと壊れた蓄音機のように呟きながら、無限の害獣を増やし続けている。
 彼女はただ世界への、人間への害となるだけの存在。
 そこにあるだけで、不滅の泥が偽りの星に蔓延する。これをどうにかしない限り、最悪の終わりは避けられない。
 ――趣味が悪いですね、あの人も。よりによってこれを、私に見せるんですから」








――

「カエセ」


 憎悪に満ちた声がした。
 それは誰にも届かないほどか細い、消え入るような声。
 しかし、もしも耳にした者があったならば、あまりの色濃い情念に背筋を粟立てたに違いない。

 地の底ならぬ、海の底から響くような怨嗟に満ちた声だった。
 そこに、かつて咆哮した時の海を震わせる音量はない。
 だが、彼女の存在は確実に、今この時も人類を蝕みつつあった。


「カエセ」


 暗闇の中、水面に浮かぶひとりの少女。
 彼女を「ひとり」と称すのが正しいのかは、意見の別れるところだろう。
 肌は死蝋化したような蒼白に染め上げられ、頭には海洋生物の特徴を混合させた異形を被っている。
 これを人だというものがあるならば、それはきっと人ではなく、悪魔か何かに違いない。

 ただ人の敵であれと、そういう指向性のみを持っていたはずの彼女が今際の際に見つけた、正体不明の衝動。

 記憶の中に残るは、忌まわしい駆逐艦の勇姿だった。

 何度も何度も、ビデオテープを巻き戻すように不覚の一瞬が脳裏を駆け巡り続けていた。

 この存在に限って、対話などという行動は決して意味を成さない。

 平和的な解決を持ちかけた次の瞬間には、生物を融解させる猛毒の泥を浴びせかけられていることだろう。
 その感情が揺れ動く度に、黒く淀んだ海流がぐるぐると渦を巻き、ヘドロのような歪みを海原へもたらしていく。


「カエセ……」


 違う。
 彼女が生み出すのは汚濁のみではない。


 ――それらは今、彼女が浮かぶ水面の遥か下の海底で時を待っていた。

 きっと彼女達もまた、感じ取っているのだ。
 聖杯戦争の到来を。
 世界の変革が直ぐ側までやって来ているのを感じ取っているからこそ、今は海底で静かに震えているのだ。
 デミ・サーヴァントである彼女の肉を素体に生み出され、増殖し続ける無限の兵力。
 艦娘という存在が居る限り永遠に尽きることのない、人類をすら滅ぼし得る存在――深海棲艦。

 だが彼女と、彼女から生み出された無尽の軍勢は間違いなく深海棲艦でありながら、その実別種の存在であった。
 その船体には、これまでの深海棲艦にはなかったとある要素が原子レベルで融合されている。
 それすなわち、毒素。人間はおろか、生物ならば吸っただけで重篤な障害となるだろう特濃の有害物質(ヘドロ)。
 そういう点で見ても、彼女達は元の世界で暴れ回っていた頃に比べ明らかに強化を受けていた。

 いや――狂化、というべきかもしれない。
 深海の民が持つ感情は憎悪。ただ、憎悪。
 誰の意志にも左右されることなく、ただ憎悪のみを糧に彼女達は世界の害となる。


 公害。
 信じがたいことだが、それが彼女が契約した英霊の正体であった。
 鉱物生命体が汚染環境と融合、異常進化の末に怪獣化した騎兵のサーヴァント。
 死の淵にあった空母はそれと融合し、社会発展に付き纏い続ける公害という脅威を体現する存在になった。


 彼女以上のサーヴァントなど、いくらでもいる。
 だが、早急に打倒しなければならないという意味合いでは、彼女が間違いなく随一だろう。
 このライダーを放置しておけば、いずれ電脳の世界そのものが壊滅する惨事にすらなりかねない。


 怪獣の王すらも敗走へ追い込んだ汚染怪獣『ヘドラ』――その名に覚えのある者ならば、語るまでもなく理解できる筈だ。

 『空母ヲ級』は、静かに己の総軍を増やし続けている。

 来る開戦の時に備え、海を汚泥で支配し、憎悪の音色を響かせて。


「カエセ」


 彼女もまた、その時が来るのを待っていた。






「彼は影に潜む者。
 歴史の影を担い続けながら、神の名を冠した異形。
 やがて毒に喰われる定めであった彼は、道を違えて偽の街へと辿り着く。
 その願望は強く、揺るぎない。
 彼が止まることは決してなく、それは彼の傀儡たるものもまた同じ。
 言葉では、止められない。闘争をもって、止めるしかない」








――

「近いな」

 高層ビルの屋上。
 フェンスの縁に立ち、ネオンライトに染まる街を見下ろす影があった。
 鳥のような出で立ちに身を包んだその容姿はひどく目立つ筈なのに、彼の存在は完全に夜闇へと溶け込んでいる。
 それもその筈だ。
 彼はそもそも、そういうものであるから。
 隠れ、忍び、潜み、紛れることに特化した隠形の者達。
 現代では既に滅んで久しい、『しのび』という存在に他ならない。

「鼓動がある。形容し難いが、何かが近付いて来る感覚もある」

 『真庭鳳凰』の口調は冷静そのものだったが、ひとり呟く口元は笑みの形に薄っすらと歪んでいた。
 しのびの里、真庭忍軍の頭領に恥じぬ沈着さを常に保つ鳳凰にしては珍しい、物事を待ちかねるような笑みだ。
 自分でも気が昂ぶっているという自覚があった。
 しかし、分かっていても止められるものではない。
 長きに渡り追い求めた大義が成る時が、すぐそこにまでやって来ているのだ。


「譲らぬぞ、聖杯は。あれは我のものだ」

 鳳凰には成さねばならぬ使命がある。
 ゆるやかに没落へと向かう真庭の里の復興という使命がある。
 彼はそのために伝説の刀鍛冶が残したという、十二本の完成形変体刀を追い求めていたが。
 最早、その必要はなくなった。
 虚刀流と奇策士を相手取る必要も、いたずらに部下を散らす必要も消えた。
 聖杯を手に入れ、それに真庭の永遠の繁栄を願う。
 ただそれだけでいい。
 そして鳳凰は、神の名を持つしのびは、ようやく聖杯へと手が届く領域にまで辿り着いた。


 真庭鳳凰の力は隔絶している。
 磨き上げた忍術は、腕の立つ魔術師だろうが太刀打ちの出来るものではない。
 それどころか、サーヴァントにさえ勝りはせねど、応戦くらいならば可能な域だと彼には自負があった。
 しかしそれはあくまでも極論の話だ。
 物理攻撃が通じず、宝具という隠し玉まで持つサーヴァントに人の身で挑むなど、如何に鳳凰といえども無謀が過ぎる。

「そのためにも、おぬしには身を粉にして働いてもらうぞ。バーサーカー。闇の化身よ。
 ……なに、心配せずともおぬしが望む闘争など、いくらでも転がっている。好きなだけ貪り食うがいい」


 腹が膨れるまでな。
 嗤う鳳凰の傍らに、バーサーカー……『ファルス・ヒューナル』の姿はない。
 あれは、狂犬などという単語すらも生易しく思えるような、制御不能の怪物だ。
 戦いを求めて後先も考えずに突っ走る、まさにバーサーカーのクラスを象徴するような性質を持ったサーヴァント。

 今もどこかで、猛き闘争を求めて彷徨っているのだろう。
 いざとなれば令呪を使って行動を縛るところだが、今のところは好きに暴れさせておけばいいと鳳凰は高を括っていた。
 そんな余裕すら抱けるほどに、あのバーサーカーは……【巨躯】の化身たるダーカーの一体は、強い。

「では、始めよう。いと猛き闘争をな」

 鳥の双眸が、怜悧な色を孕んだ。
 彼の嘴は肉を刳り、その爪は骨をも割る。
 血染めの羽根を羽ばたかせ、『神』はあらゆる願いを蹂躙する。

 光り輝く聖杯を、自分の巣へと持ち帰るために。






「彼女達は異分子だ。
 聖杯戦争の定石や掟など、眼中にない。
 永遠なれ、永遠なれ。
 聖杯に願う事柄すら曖昧なのにも関わらず、その幼い暴力はすべてを踏み躙る。
 狩り殺されるか、狩り尽くすか。どちらを辿るにせよ、彼女達はあらゆる思惑の中心となるだろう。
 私としては――嫌いじゃ、ない。永遠を追うことは、決して間違いなんかじゃないんだから」







――

 『K市』で繰り広げられる連続殺人事件。
 老若男女、職業、血縁を問わず繰り広げられる殺戮は、それまで平穏を甘受していた人々を恐怖の底へと突き落とした。
 最初の事件は、市内某所、とある公園だった。
 ホームレス、ペットの散歩、屯するために集まった若者。
 総計二十人以上の罪なき市民が犠牲となり、そのあまりの凄惨さから、殺人事件ではなくテロと見做すべきだという意見が方々から挙がった程だ。まさに前代未聞の大殺戮。警察はてんてこ舞いの様相を呈し、報道規制すら敷かれた。
 野次馬の来訪や必要以上の混乱を避けるための措置だったが、それを嘲笑うように事件は毎夜続き、今に至る。
 犠牲者の数こそ最初に比べ落ち着いてはいるものの、それでも毎日数人ペースでの死人が出ている有様だ。
 捜査の目を掻い潜って行われる大量殺人。
 今日び日本はおろか、世界規模で見ても珍しいだろう死の連鎖が、極東の島国を襲った。

 しかし少し頭の回る者ならば、此処でこの世界は所詮偽物なのだと改めて実感したかもしれない。
 二十一世紀の先進国家で、一つの地域のみを舞台として繰り広げられる殺人事件。
 毎夜のように人が死に、総合すれば殺された人数は五十人以上にもなる始末。
 そんな惨事が起こっているのに手を拱いているほど、日本の治安維持機関は無能ではない。
 様々な手段を行使して民を守り、犯人を炙り出し、必ずや事件を終わらせようとすることだろう。

 にも関わらず、そうはなっていない。
 警察は犯人を捕まえられず、犯行は未だ繰り返されている。

 不自然だ。
 現実感の欠落した、創作の世界か何かのような犯人の不可侵性。
 その真相を導き出せるのは、この世界が電脳の擬似空間だと知る、聖杯戦争の参加者のみだ。

 NPCには喜怒哀楽がある。
 とあるキャスターが行ったように、力を与えて利用することも出来る。
 だが、彼らが自発的に行動を起こすのには限界がある。
 誰かが手を加えない限り、彼らだけの力では聖杯戦争へ干渉できない。

 それこそが、連続殺人の主犯たる双子……『ヘンゼルとグレーテル』が未だ未知の存在とされている理由であった。

「つまらないわね、兄様」

 今宵の犠牲となった哀れな公僕の死体を横目に、唇を尖らせたのはグレーテルの方だった。
 それに同意するように、ヘンゼルが頷く。
 ――この通り、彼女達の感性は完全に破綻している。
 理性的で、ともすれば気品の類をも感じさせる口調をしていながら、その内面はもう戻らない域まで壊れきっている。
 忠実に再現された電脳世界のNPC達が活動限界に行き当たるまでの凶行を繰り返し、あろうことか彼らが自分と片割れを追い立てないことを不服に思う……誰が見ても、その在りようはまともとは程遠く写ることだろう。

「そうだね。でも、サーヴァントやマスター達は僕達に会いに来てくれるよ」
「そうね、そうね。その時はうんと楽しく遊びましょう。きっと素晴らしい時間になるわ」

 プラチナブロンドの髪を夜風にそよそよと揺らし、笑顔で語らう姿は天使か妖精を思わせる可愛らしさだ。
 顔立ちは出来のいいアンティークドールのように整っていて、白い肌にはシミ一つなく、幼い精微さを保っている。
 やがて成長し大人になっても、きっと美男と美女になるだろうことが窺える造形美だった。
 だからこそ、彼と彼女がそれぞれ持つ赤く染まった得物たちはいっとう際立った異質さを主張してやまない。

 ヘンゼルは戦斧。
 グレーテルはM1918、通称BARと呼ばれる自動小銃。
 どちらも幼い子供の手には余る代物だったが、彼らはそれを意にも介さない。
 ひとえに育ち方が違うのだ。
 生まれた時から安穏とした平和の中で守られ生きてきた日本人には想像もできない世界を、双子は知っている。
 心を対価に力を得た子供たち。
 世界に嫌われた、双子の成れの果て。

「あ」
「あ」

 声が重なった。
 ふたりの視線は、ある一点に注がれている。
 そこには、もう一人の子供がいた。
 顔立ちの精微さは双子にだって劣らないが、しかしいくつかの傷が見て取れるのが特徴的だ。

 それ以上に、目を引くのはその衣装だろう。
 露出の極めて多い服装は言うまでもなく扇情的で、幼い少女が身につけるべきものとは到底思えない。
 殺人者の証たる血染めの刃を握りしめて、彼女は自分のもとへと走ってくる双子のマスターを見つめていた。

「おかえりなさい、ジャック」
「どうだった? 今日は何人食べてきたの?」

 ジャック。
 その名を冠する殺人鬼といえば、一般人でも想像がつくだろう。
 19世紀の倫敦に発生し、最後まで解決を許さなかった殺人事件の首謀者――通称『切り裂きジャック』。
 『ジャック・ザ・リッパー』――それが、双子のもとへと降りたサーヴァントの名だった。

「五人だよ」
「あら、今日は抑えめなのね。どうして?」
「聖杯戦争がはじまるから。感じないの、あなたたちは」

 双子は顔を見合わせる。
 そういえば、妙な感覚がある。 
 この時初めて、二人はそれを認識した。
 しかし双子はそれを憂いない。
 緊張などするはずもなく、大きな喜びで迎え入れる。

「じゃあ、楽しいことになりそうだね」

 ヘンゼルは笑った。
 グレーテルもつられるようにして笑った。
 その様子を、アサシンは不思議そうに見つめていた。

「たくさん遊ぼうよ、ジャック。此処には僕らと遊んでくれる人たちが、まだまだたくさんいるんだから」

 ――余談だが。

 彼女は、ジャック・ザ・リッパーというサーヴァントをアサシンのクラスで召喚した場合の例だ。
 孤児の怨念が凝り固まってひとつの形を成した存在。
 そんな存在を呼び出しておいて、まず良好な関係など築ける筈もない。
 それこそ、奇跡のような相性の良さでもない限りは不可能だ。

 しかし、彼女と双子の間に決裂の兆しは見えない。
 その訳は、ヘンゼルとグレーテルという双子でなければあり得ない、ある種の奇跡的な相性が存在した故のことだ。
 時代に見捨てられた者、光を知らない子供達。双子とアサシンの間にある違いは、生きているかどうかの差しかない。
 そして双子は、ジャック・ザ・リッパーという存在に一切の敵意を向けることがない。
 彼女達の中にあるのは好意だけだ。
 可愛い友達にもっと楽しい思いをさせてあげたい、その一心には毛ほどの揺らぎもありはしない。

「……そうだね、ヘンゼル」

 この存在は敵意に対しては強いが、好意には脆いのだ。
 時代が時代ならば、"わたしたち"の一員となっていただろう双子を拒める理由は、どこにもなかった。

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最終更新:2017年04月18日 23:52