初等科国史 > 第十二~第十五

第十二 のびゆく日本(にっぽん)

一 明治(めいじ)の維新(いしん)

 

 孝明天皇がおかくれになり、第百二十二代明治(めいじ)天皇が御位をおつぎになりました。

 天皇は、嘉永(かえい)五年の秋深く、菊花(きっか)の香(かお)りも清らかなよき日に、めでたく御降誕(ごこうたん)になりました。まだ御幼少(ごようしょう)の時、孝明天皇に従って、御所の日の御(ご)門で、藩兵(はんぺい)の演習をごらんになったことがあります。百雷の一時に落ちるような大砲の響きに、人々はただ身をふるわせていましたが、天皇は、御(おん)顔の色うるわしく、御(ご)熱心にごらんになったということであります。御位をおつぎになったのは、御年十六歳の時でありました。

 走馬燈(そうまとう)のような、めまぐるしい世の移り変りも、慶応(けいおう)三年に入って、しだいにおちついて来ました。衰えはてた幕府(ばくふ)には、もう国事をさばく力がありません。そこで、三条実美(さんじょうさねとみ)・岩倉具視(いわくらともみ)らの公家(くげ)は、薩摩(さつま)藩士西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)、長州藩士木戸孝允(きどたかよし)らとともに、幕府を倒そうとはかりました。土佐(とさ)の前藩主山内豊信(やまうちとよしげ)は、このなりゆきを心配し、家臣後藤象二郎(ごとうしょうじろう)を将軍慶喜(よしのぶ)のもとへつかわして、大政(たいせい)の奉還(ほうかん)をすすめました。

 慶喜は、斉昭(なりあき)の志をついで、もともと尊皇(そんのう)の心に厚く、またよく時勢を見抜いていましたので、こころよく、豊信のすすめに従いました。そこで、一族・家臣・諸藩主の意見をまとめ、参内(さんだい)して大政の奉還を奏請(そうせい) *37するとともに、積りに積った幕府の失政(しっせい)を、深くおわび申しあげました。天皇は、その真心をおほめになり、ただちに申し出をおきき入れになりました。時に紀元二千五百二十七年、慶応三年で、江戸(えど)に幕府が開かれてから、およそ二百六十年の年月が過ぎ去りました。前後七百年近く続いた武家政治も、ここにまったく終りをつげたのであります。

 天皇は、その年の十二月、神武天皇の御創業(ごそうぎょう)の昔にたちかえり、御(おん)みずから、いっさいの政治をお統(す)べになる旨を、仰せ出されました。まず、摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)・征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)などの官職をおやめになり、新(あら)たに総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職をお定めになって、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)に総裁を、皇族の方々、維新の功臣に、議定あるいは参与をお命じになり、政治をおたすけさせになりました。これを王政復古(おうせいふっこ)と申しあげています。やがて各国の使節をお召しになり、王政復古の旨をつげ、開国和親(わしん)の方針(ほうしん)をお示(しめ)しになりました。

 天皇は、諸政を一新し国力を充実(じゅうじつ)して、皇威を世界にかがやかす思し召しから、まず、政治の根本方針をお立てになりました。明治元年三月、文武百官を率いて紫宸殿(ししんでん)に出御(しゅつぎょ) *38、天地の神々を祭って、この御(ご)方針をお誓いになり、更に、これを国民にお示しになりました。すなわち、

 

一、広く会議(かいぎ)を興(おこ)し、万(ばん)機(き) *39公論(こうろん) *40に決すべし。

一、上下(しょうか)心を一にして、盛(さかん)に経綸(けいりん) *41を行(おこな)うべし。

一、官武一途庶民(しょみん)に至る迄(まで)、各其(おのおのその)志を遂(と)げ、人心(じんしん)をして倦(う)まざらしめん事を要す。

一、旧来の陋習(ろうしゅう) *42を破り、天地の公道に基(もとづ)くべし。

一、智識(ちしき)を世界に求め、大(おおい)に皇基*43を振起(しんき)すべし。

 

 の五箇条がそれで、世に、これを五箇条の御誓文(ごせいもん)と申しあげています。文武百官は、しみじみ任務の重大なことを感じ、決死の覚悟で職務にはげむことを、お誓い申しあげました。ここに、新政の基(もとい)はいよいよ定まり、国民は、聖恩に感泣(かんきゅう)して、新しい日本のかどでを、心から喜び合いました。

 やがて天皇は、即位(そくい)の礼を紫宸殿でお挙(あ)げになりました。御(おん)儀式もまた、古(いにしえ)にたちかえって、荘厳(そうごん)であり盛大でありましたが、承明門(しょうめいもん)内の中央には、直径三尺六寸余の大地球儀が、御代の栄(さか)えをことほぐように、飾(かざ)られていました。この地球儀は、天皇のお生まれになった嘉永五年に、徳川斉昭(とくがわなりあき)が奉ったものであります。ついで、慶応四年を明治元年とお改めになり、一世一元(いっせいいちげん)の制をお立てになりました。

 天皇はまた、人心を新たにする御(み)心から、遷都(せんと)のことをお思い立ちになり、江戸を東京と改めて、まず行幸(ぎょうこう)になりました。鹵簿(ろぼ) *44はしずしずと、東海道をお進みになり、かしこくも、鳳輦(ほうれん) *45を各地におとどめになって、民草(たみくさ)の生業にいそしむ有様(ありさま)をごらんになりました。沿道(えんどう)の民は、この御(ご)盛儀と御(み)恵みを拝して、ただ感涙(かんるい)にむせぶばかりでありました。やがて京都へ還幸(かんこう)になり、皇后をお立てになって、翌二年、ふたたび東京へお向かいになりました。まず、伊勢(いせ)の神宮に御(ご)親拝ののち、日を重ねて、東京へお着きになり、ながくここに、おとどまりになりました。しかも後年(こうねん)、即位の礼と大嘗祭(だいじょうさい)とは、特に京都で行うことにお定めになり、千余年の古都のゆかりを、後世にお伝えになったのであります。

 こうして日本は、昔ながらの正しい姿にたちかえって、島国から海国への一大発展(はってん)を示しました。しかし、何ぶんにも大きな変化(へんか)ですから、この間、国内には、なお色々のもつれ合いが続きました。

 さきに、慶喜が大政を奉還したのち、朝廷では、諸政一新の思し召しから、慶喜に官職や幕府の領地を返上するよう、お命じになりました。ところで、幕府の旧臣や会津(あいづ)・桑名(くわな)などの諸藩は、慶喜が新政府(せいふ)の列に加らないのを見て、もっぱら薩・長二藩の取り計らいであろうと思いこみ、明治元年の正月から一年半ばかり、次々にさわぎを起しました。すなわち、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦から、さわぎは、やがて江戸に移り、更に奥羽(おうう)から函館(はこだて)へと飛火(とびひ)しました。朝廷では、小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王を征討大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じて、鳥羽・伏見の戦をおしずめになり、有栖川宮熾仁親王を東征大総督(とうせいだいそうとく)に任じ、西郷隆盛らを参謀として、江戸及び東北のさわぎを、御平定(ごへいてい)になりました。

 東征軍が江戸に向かった時、慶喜は、ひたすら恭順(きょうじゅん)の意をあらわしました。この間、孝明天皇の御(おん)妹、静寛院宮(せいかんいんのみや)の御(お)とりなしがあり、やがて、慶喜の家臣勝安芳(かつやすよし)・山岡鉄太郎(やまおかてつたろう)の努力と隆盛の真心とによって、慶喜は罪(つみ)をゆるされ、江戸の市民は、兵火の災害から、まぬかれることができました。奥羽では、会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)が、若松城(わかまつじょう)にたてこもり、諸藩と相応じて兵を挙げましたが、やがて順逆の道をさとると、すぐに帰順(きじゅん)を申し出ました。会津の白虎隊(びゃっこたい)と名づける少年の一団が、はなばなしく戦って、次々に討死し、わずかに残った十九人が、飯盛山(いいもりやま)にのぼり、はるかに城を望みながら、たがいに刺(さ)しちがえて、けなげな最期(さいご)をとげたのは、この時のことです。函館では、もと幕府の海軍を指揮(しき)していた榎本武揚(えのもとたけあき)が、五稜郭(ごりょうかく)にたてこもりましたが、これも、ほどなく降(くだ)りました。

 のちに朝廷では、容保が、孝明天皇の御(ご)信任のもとに、京都を守護して忠勤をはげんだ功を思し召され、その罪をおゆるしになった上、正三位(み)をお授けになりました。武揚もまた、ゆるされて重く用(もち)いられ、その職務にはげみました。

 新政がしかれてのちに、なおこうしたさわぎが起ったのも、一つには、大名(だいみょう)が昔のままに領内を治めていたからです。そこで木戸孝允は、大久保利通とともに、大名の領地を朝廷に奉還させ、新政が国のすみずみまで行き渡るように努力しました。すでに大名も、多くは、それを望んでいましたから、明治二年、まず薩摩・長門(ながと)・土佐・肥前(ひぜん)の四藩主が相談して、領地の奉還をお願い申しあげ、ほかの諸藩も、続々これにならいました。朝廷では、これをお許しになりましたが、なおしばらくは、旧領を治めるようお命じになり、やがて明治四年に、藩を廃(はい)して県を置き、新たに知事(ちじ)を御(ご)任命になりました。この時にも、これまでのように家がらだけを重んじる習わしをやめて、広く人材をお用いになりました。ついで明治五年には、国中に教育が行き渡るようにと、新たに学制をおしきになり、また国民すべてが兵役(へいえき)に服することのできるようにと、徴兵令(ちょうへいれい)をお定めになりました。こうして、政治はまったく改り、国民の心もすっかり新しくなって、維新のまつりごとが、大いに整ったのであります。

 明治天皇は、王政復古の思し召しから、神々をあつくおうやまいになり、国民にも、これをおさとしになりました。明治二年には、東京九段坂(くだんざか)の上に招魂社(しょうこんしゃ)を建てて、国事にたおれた維新の将士を、おまつらせになりました。また、維新の志士(しし)が手本にした、吉野(よしの)の忠臣にも、それぞれ社を建てて、あつくおまつらせになりました。こうして明治の日本は、御恵みのもとに、昔ながらの美風(びふう)を伝えながらも、新しく、正しく強く、しかも明るく、のびて行きました。

二 憲法(けんぽう)と勅語(ちょくご)

 

 明治天皇御製(ぎょせい)

  よきをとりあしきをすてて外国(とつくに)に

      おとらぬ国となすよしもがな

 

 わが国は、欧米(おうべい)の諸国が、たがいに争(あらそ)ったり、国内で内わもめを起している間に、もののみごとに、維新の大業をなしとげたのであります。これらの国々は、すっかり驚き、ことに、諸大名が喜び勇んで領地を奉還したことを、ふしぎに思いました。それは、日本の国がらが、よくわからなかったからでしょう。ちょうどこのころ、ドイツやイタリアも、新しく生まれかわり、イギリス・フランス・ロシアなどと、張り合うことになりました。海国日本は、こうした国々に負けないように、国の力を養わなければならないと思いました。

 それには、もっと内治や外交(がいこう)を整えることが大切であるとともに、朝鮮や支那と仲よくし、更に、欧米諸国のようすを調べる必要がありました。そこで政府は、廃藩置県(はいはんちけん)がすむと、まず清(しん)と交りを結び、ついで、岩倉具視・木戸孝允らを欧米へやって、国々のようすを視察させ、条約の改正(かいせい)をはからせました。もちろん、昔から関係の深い朝鮮へも、早く使いをやって、王政復古のことをつげ、改めて、交りを結ぼうとしました。

 ところが朝鮮は、そのころ鎖国(さこく)の方針をとっていましたので、これに応じないばかりか、わが国が欧米諸国と交りを開いたことをあなどるといった有様です。そこで、西郷隆盛らは、なおよく朝鮮と談判し、それでもきかなければ、これを討とうと主張(しゅちょう)しました。そこへ具視らが帰って、内治を整えることが急務であると説(と)き、政府の方針も、内治を先にすることにきまりました。明治六年のことであります。

 隆盛は、官を退(しりぞ)いて鹿児島(かごしま)へ帰り、青年のために学校を建てて、ひたすら教育にはげみました。ところで、その青年たちが、政府のやり方に不平をいだき、明治十年、隆盛をおし立てて、兵を挙げました。朝廷では、有栖川宮熾仁親王を征討総督とし、諸軍を率いてこのさわぎをおしずめさせになりました。世に、これを西南(せいなん)の役(えき)といいます。こうした思いがけないことが起ったので、内治を整えることも、なかなか容易なことではありませんでした。

 明治天皇は、さきに御誓文によって、国民に政治をたすけさせる御方針をお示しになりました。このありがたい思し召しをいただいて、政府は、その仕組みをどうするかにつき苦心(くしん)しました。内治では、これが、いちばん大きな問題でありました。

 そこで政府は、明治八年、地方官会議を東京に開き、十二年には、府・県会を設(もう)け、始めて民間から議員を選(えら)び出させ、国民の政治にあずかる糸口を開きました。やがて十四年、かしこくも天皇は、明治二十三年を期し、国会をお開きになる旨を、仰せ出されました。国民は、御恵みに感激して、それぞれ務(つと)めにいそしみました。

 天皇は、皇祖皇宗の御(ご)遺訓に基づき、国をお統べになる根本のおきてを定めようと、かねてお考えになり、政府に憲法制定(せいてい)の準備をお命じになりました。明治十五年、伊藤博文(いとうひろぶみ)は、仰せを受けて憲法の取調べに当り、やがて、皇室典範(こうしつてんぱん)と帝国憲法との起草(きそう)に取りかかって、明治二十一年に、草案を作りあげました。天皇は、枢密院(すうみついん)に、草案の審議(しんぎ)をお命じになり、終始(しゅうし)会議に臨御(りんぎょ) *46あらせられ、したしく審議をお統べになりました。かくて翌二十二年に、御みずから、皇室典範及び大日本帝国憲法をお定めになり、めでたい紀元節の日に、憲法を御発布(ごはっぷ)になりました。

 この日、天皇は、まず皇祖皇宗に、したしく典憲制定の御(おん)旨をおつげになったのち、皇后とともに、宮中正殿(せいでん)にお出ましになり、皇族・大臣、外国の使節を始め、文武百官・府県会議長をお召しになって、おごそかに式をお挙げになりました。盛儀が終ると、青山練兵場の観兵式に臨御あらせられました。民草は、御(おん)道筋を埋めて、大御代の御(み)栄えをことほぎ、身にあまる光栄に打ちふるえて、ただ感涙にむせぶばかりでした。奉祝(ほうしゅく) *47の声は、山を越え野を渡って、津(つ)々浦(うら)々に満ち満ちたのであります。

 このめでたい日、おそれ多くも天皇は、西郷隆盛の罪をゆるして正三位をお授けになったほか、佐久間象山(さくまぞうざん)・吉田松陰(よしだしょういん)らの志士にもそれぞれ位をたまわりました。

 翌二十三年、憲法の定めに基づいて、帝国議会が東京に召集(しょうしゅう)され、開院式には、したしく臨幸あらせられました。こうして、御恵みのもと、国民の活動はいよいよ盛んになり、国力は、年とともにのびて行きました。

 天皇はまた、明治二十三年に、教育に関する勅語をおくだしになって、国民のふみ行うべき道をお示しになりました。維新以来、海外との交通が、にわかに開けましたので、国民の中には、むやみに欧米の学問や習わしを取り入れて、わが国の美風をおろそかにするものが出ました。もちろん、日本の美風を守ろうとする人々も、次々に現れましたが、いっぱんの国民には、正しい道のよくわからない者も、少くなかったのです。おそれ多くも天皇は、この形勢(けいせい)を深く御(ご)心配になり、勅語をおくだしになって、皇祖皇宗の御遺訓を明らかにせられ、尊い国がらをわきまえ皇運を扶翼*48し奉らなければならないことをおさとしになりました。ちょうど、紀元二千五百五十年のことです。ここに、いつの世までもかわらない、わが国教育の根本が、はっきりと定まりました。この御(み)教えをいただいて、国民は、心をひきしめ、身をつつしんで、学問や仕事に、はげんだのであります。

三 富国強兵(ふこくきょうへい)

 

  明治天皇御製

   ほどほどにこころをつくす国民(くにたみ)の

       ちからぞやがてわが力なる

 

 安政(あんせい)年間に、幕府が諸外国と結んだ条約には、わが国の面目(めんもく)や利益(りえき)をそこなう箇条が、少くありませんでした。わが国は、外国の居留民が罪をおかしても、これをさばくことができず、また、輸入品に対して、自由に税をかけたり、税率(りつ)をきめたりすることさえ、できない定めになっていました。それというのも、海防の不十分であった当時、幕府が、外国の要求(ようきゅう)をそのままに承知してしまったからです。

 明治の新政府は、つくづく国防の急務をさとり、大村益次郎(おおむらますじろう)・山県有朋(やまがたありとも)・西郷従道(さいごうつぐみち)らが、軍備の充実に、力を注ぎました。まず明治四年、始めて近衛(このえ)の御親兵(ごしんぺい)と地方を守る鎮台(ちんだい)とを設け、廃藩の際(さい)、諸藩の艦船を全部朝廷に献納(けんのう)させ、翌五年には、兵部省(ひょうぶしょう)を分って、陸軍省と海軍省とを設けました。やがて六年に、徴兵令が発布されて国民皆兵(こくみんかいへい)となり、ここに皇軍は、陸・海ともに、発達の糸口を開いたのであります。

 たまたま、明治十年に起った西南の役は、新しく組織(そしき)された皇軍の腕をためす機会となり、その後、軍事費(ひ)もしだいに増して、軍備も年とともに整って行きました。天皇は、この役に、かしこくも大阪陸軍病院に行幸あらせられ、したしく傷病兵をおいたわりになりました。皇后・皇太后(こうたいごう)は、みてずから、ほうたいをお作りになって、負(ふ)傷兵にたまわりました。将士はいうまでもなく、いっぱんの国民も、これを承って、皇室の深い御恵みに、感泣しないものはありませんでした。また佐野常民(さのつねたみ)らが、博愛社(はくあいしゃ)を作って、日本赤十字社(せきじゅうじしゃ)の基を開いたのも、この時のことであります。

 天皇は、更に、西南の役の戦死者(しゃ)を、東京の招魂社におまつらせになり、明治十二年、これに、靖国(やすくに)神社の社号(しゃごう)をたまわりました。やがて十五年、陸海軍人に勅諭(ちょくゆ)をおくだしになって、つぶさに、皇軍の歴史と建軍(けんぐん)の精神とをお説きになるとともに、帝国軍人の本分を、ねんごろにおさとしになりました。大御心のかたじけなさに感激して、陸海の将兵は、いよいよ奉公の道にいそしんだのであります。

 やがて明治二十一年、陸軍の兵力は、近衛師団及び六箇師団となり、海軍は、二十七年に、軍艦三十一隻・水雷艇二十四隻、約六万噸(とん)の兵力となりました。かくて、明治二十七八年の日清戦役(にっしんせんえき)には、陸・海ともに、よく皇軍の面目を発揮し、戦後、陸軍は、二十九年に六箇師団を増設し、海軍も、三十五年に至って、六六艦隊を作りあげました。更に明治三十七八年の日露戦役(にちろせんえき)に、皇軍は、ふたたび無敵の威力を示しました。しかも陸軍は、戦後四箇師団を加え、明治の末には、陸・海空軍の糸口を開きました。海軍もまた、大艦巨砲(きょほう)の方針をとって、その威力を増し、大正の初め、艦艇の総噸数は、早くも五十万噸を越え、戦前に比べて、約二倍の勢力となりました。維新の当時、これというほどの軍備もなかった日本は、明治の御代に、たちまち、世界にほこる強国になったのです。それは、御稜威(みいつ)のもと、軍・官・民が一体となり、欧米の列強に負けないようにと、ひたすら富国強兵に努力した、たまものであります。

 軍備を整えるには、まず産業を興(おこ)して、国力を充実する必要があると知った政府は、極力、諸産業の発達につとめました。農業・牧畜(ぼくちく)・鉱業(こうぎょう)を盛んにして、米・馬・金属など、国防に必要な物資の増産をはげまし、交通特に海運を興して、造船術の進歩をはかりました。しかも政府は、兵器の製作や艦船の建造(けんぞう)、そのほか鉱山の開発など、軍備に関係の深い産業をみずから営(いとな)んで、民間に手本を示しました。こうして、わが産業は、めきめきと発達し、憲法発布のころには、国力も、いちじるしく充実して来ました。

 この間、政府は、幕府の不始末(ふしまつ)をつぐなおうとして、条約の改正に乗り出していました。明治四年、岩倉具視らが欧米へ渡って、その交渉(こうしょう)を始めて以来、政府は、たびたび関係国と談判して、条約の改正をはかりました。ところが諸国は、東亜の各地に根城を構(かま)えて、勢力を張ることばかりを考え、わが国力を見くびって、なかなかこれに応じません。政府も国民も、こらえにこらえて、ひたすら国力の充実につとめました。

 やがて憲法は発布され、制度や法律は整い、軍備は充実しました。さしもの列国も、わが国力を認めなければならなくなって来ました。そこで明治二十七年、時の外務大臣陸奥宗光(むつむねみつ)は、まずイギリスと談判して、ついに、条約の改正に同意させました。それは、日清戦役の起るすぐ前のことでした。イギリスは、そのころ東亜で、ロシアと張り合っていましたので、わが国のいい分を通す方が得策(とくさく)だと考えたのでしょう。しかも、この戦役で、わが国の実力が、はっきりと示されましたから、ほかの国々も、続々改正に同意しました。

 この改正で、まず裁判(さいばん)の不公平が取り除かれ、更に明治四十四年には、貿易(ぼうえき)上の不利な点も、すっかりなくなりました。こうして、わが国は、長い間の望みをついに達したのです。これも、明治の日本が、涙ぐましい努力によって、結んだみのりの一つであったのであります。

第十三 東亜(とうあ)のまもり

一 日清戦役(にっしんせんえき)

 

 世界の海に乗り出した日本の行手には、条約の改正(かいせい)ばかりではなく、色々の困難(こんなん)がひかえていました。ロシアとの国境(こっきょう)問題も、その一つでした。さきに幕府(ばくふ)は、千島を分有、樺太(からふと)を共有と定めましたが、こうしたあいまいな、きめ方では、いつまた、もつれが起るかわかりません。それに、ロシアは、孝明天皇の万延(まんえん)元年、英仏連合軍(えいふつれんごうぐん)が北京(ぺきん)を落したすきをねらって、沿海州(えんかいしゅう)を手に入れ、ウラジオストク港を築いて、東亜侵略(しんりゃく)の根城にしました。しかも、この港の名は、「東洋を支配する」という、ロシアの野心を、そのままあらわしたものであります。そこで、わが国は、明治七年、ロシアと談判を始め、翌八年、千島を全部日本の領地とし、樺太をロシアの領地として、国境をはっきりと定めたのであります。

 わが国は、東亜をむしばむ欧米(おうべい)の列強に対し、あくまで東亜をまもろうとしました。ところが、朝鮮も清も、こうした形勢(けいせい)に目ざめず、ことに清は、自分を世界でいちばんえらい国と考え、そのうぬぼれがぬけません。事ごとに、わが国のやり方にいいがかりをつけて、東亜の保全を、いっそう困難ならしめました。のちに、日清戦役が起るのも、まったくそのためであります。しかも、こうした東亜の仲間どうしのすきまにつけこんで、欧米諸国の勢力が、ますますくい入って来るという、まことに残念な、なりゆきでありました。

 ロシアの南下を防ぐことは、朝鮮はもちろん、日・清の両国にとっても、きわめて大切な問題であります。それには、まず第一に、朝鮮がしっかりしていてくれる必要があるのです。わが国は、明治九年、朝鮮と交りを結んで、その健全な成長を望み、朝鮮も、一時はわが国を手本として、政治(せいじ)を改めにかかりました。ところで、朝鮮には、以前から内わもめが絶えず、それに清が、これを属国扱いにして、政治に干渉(かんしょう)するので、政治の改革(かいかく)が、とかく思うように行きません。かえって、いっそう乱れるようになりました。明治十七年には、京城にいた清兵が、朝鮮の兵といっしよになって、わが公使館をおそい、火を放って、官民を殺傷(さっしょう)するさわぎが起りました。わが政府は、朝鮮にきびしく談判して、謝罪(しゃざい)させるとともに、こうしたことから東洋の平和が乱れることを心配し、伊藤博文(いとうひろぶみ)を清へやって、天津(てんしん)条約を結ばせました。両国ともに朝鮮から兵をかえし、必要があれば、たがいに通知してから、出兵することにきめました。

 ところで、この条約には、朝鮮が清の属国でないということが、はっきりと示(しめ)してありませんでした。清は、それをよいことにして、その後も、ますます朝鮮に勢を張ろうとします。そのため、朝鮮の政治は乱れる一方で、中には、ロシアと結ぼうとするものさえ現れる有様(ありさま)でした。明治二十七年、朝鮮の心ある人々は、こうした有様にたえかねて、ついにたちあがりました。すると清は、属国の難を救うという口実で、朝鮮に出兵し、この旨をわが国に通知して来ました。わが国も、公使館や居留民を保護するために、ひとまず兵を送りましたが、この際(さい)、日・清両国が力を合わせて、朝鮮の政治を指導(しどう)することを、わざわざ清に申し入れました。

 ところが清は、わがすすめに応じないばかりか、かえって陸海の大兵を朝鮮へ送り、同年七月、豊島(ほうとう)沖で、わが艦隊を砲撃しました。わが艦隊は、ただちに応戦して、これを撃破(げきは)し、ついで陸軍も、清兵と成歓(せいかん)に戦って、大勝しました。八月一日、明治天皇は、宣戦の大詔をおくだしになり、やがて大本営を広島に進めて、したしく諸軍をお統(す)べになりました。

 皇軍の士気は、いやが上にも振るい、陸軍は平壌(へいじょう)をおとしいれ、海軍は黄海(こうかい)に敵の北洋艦隊を撃破し、しかもわが方は、全艦無事という大戦果(せんか)をあげました。連(れん)戦連勝のうちに、翌二十八年を迎えると、陸軍大将大山巌(おおやまいわお)は、海軍中将伊東祐亨(いとうゆうこう)と力を合わせて、敵海軍の根城、威海衛(いかいえい)を攻め落しました。

 この時、敵将丁汝昌(ていじょしょう)は、責任(せきにん)を感じて自殺しました。祐亨は、敵ながらもあっぱれな、その志をあわれみ、特に船を与えて、ねんごろに柩(ひつぎ)を送らせたといいます。

 やがて、わが軍は、破竹(はちく)の勢で遼東(りょうとう)半島を占領し、まさに清の都、北京へせまろうとしました。清は驚きあわて、李鴻章(りこうしょう)を使いとして、和を請(こ)いました。よって内閣総理大臣伊藤博文・外務大臣陸奥宗光(むつむねみつ)は、これと下関(しものせき)で談判し、清に、こののち、朝鮮の政治にいっさい干渉しないこと、遼東半島及び台湾・澎湖島(ほうことう)をわが国にゆずることなどを約束させて、和を結びました。時に二十八年四月で、これを下関条約といいます。

 思えば、この戦役は、当時わが国の国運をかけた大戦役でありました。かしこくも天皇は、広島へお出ましになって、平和の回復するまで、久しく大本営のせまい御(おん)室で、日夜(にちや)万機をお統べになり、将兵の労苦(ろうく)をおしのびになって、寒さのきびしい冬の日にも、ストーブさえお用(もち)いになりませんでした。御稜威(みいつ)のもと、陸海の将兵は、家を忘れ身を捨てて、大君のために戦い、官民また心を一つにして、職務にはげみました。こうして、わが国は、世界を驚かす大勝利(だいしょうり)を博したのであります。しかも、ロシアの南下は防がれ、清もやっと目がさめて、東洋平和の基(もとい)も、始めて固められる日が来たのであります。

 ところで、ここに、思いがけないことが起りました。ロシアが、ドイツ・フランスの二国をさそって「日本が遼東半島を領有することは、東洋平和に害がある」と主張(しゅちょう)し、これを清に返すよう、わが国に申し入れて来たのです。そのころヨーロッパでは、ロシア・フランスの二国と、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国とが、それぞれ同盟(どうめい)を作って、張り合っていました。ですから、フランスはともかくとして、ドイツまでがロシアのさそいに応じたのは、ロシアの目を、もっぱら東方へ向けさせたいからでありました。

 わが国は、戦後のことではあり、内外の形勢を深く考えて、三国のすすめに応じることにしました。おそれ多くも天皇は、特に詔(みことのり)をおくだしになって、東洋平和のために遼東半島を還附(かんぷ)する旨をお宣(の)べになり、あわせて、国民の覚悟をおさとしになりました。国民は、涙にむせび歯をくいしばり、今後、どんな困難にもたえしのんで、一日も早く、大御心を安んじ奉ろうと、堅く心に誓いました。

 そこで、わが国は、産業を興(おこ)し軍備を整え、国民の心をひきしめて、ひたすら国力の充実(じゅうじつ)につとめるとともに、新(あら)たに領土となった台湾の経営にも、大いに力を注ぎました。島民で、なお命に従わないものがありましたので、北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)は、近衛師団の将兵を率いて、これをお討ちになり、その御功績(ごこうせき)によって、ほどなく全島がしずまり、ことごとく皇化に浴(よく)するようになりました。また、わが国は、清の干渉のなくなった朝鮮に対し、真心こめて政治の指導に当りました。やがて明治三十年、朝鮮は、国号を韓(かん)と改め、国王は新たに皇帝の位について、わが国とともに、東洋平和のためにつくすことになったのであります。

二 日露戦役(にちろせんえき)

 

 日清戦役ののち、ヨーロッパ諸国は、非道(ひどう)にも、清の弱味につけこんで、いよいよ支那を荒し始めました。まずロシアは、遼東半島を返させたことを恩にきせて清にせまり、明治三十一年、旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)一たいの土地を租借(そしゃく)して、鉄道や鉱山(こうざん)に関する権利(けんり)を占(し)めました。ドイツ・イギリス・フランスの諸国も、これにならって、膠州(こうしゅう)湾・威海衛・広州(こうしゅう)湾などを、それぞれ租借しました。また、アメリカ合衆国(がっしゅうこく)は、ハワイ諸島をあわせ、スペインと戦ってフィリピン群島を手に入れ、東亜に根をおろしました。清のごうまんなふるまいがもとで、日清戦役が起り、その結果(けっか)、欧米の諸国をますます東亜にはびこらせたのは、まことに残念なことでありました。わが国は、こうした形勢を見て、明治三十一年、福建省(ふっけんしょう)を他国に与えないことを清に約束させ、また、昔からなじみの深いシャムと、改めて条約を結び、わが国土をまもり、東洋の平和をたもつことにつとめました。

 さすがの清も、わが国にやぶれて、幾分目がさめたのか、一部の人々は、明治の新政にならって、国力の回復をはかろうとしました。しかし、多くの人々は、世界の形勢を知らず、自分の力をもわきまえず、いたずらに感情に走って、ただちに外国の勢力を駆逐しようとしました。明治三十二年、義和団(ぎわだん)という暴徒(ぼうと)が起ると、清の政府は、ひそかに兵を出してこれを助け、北京にある各国の公使館を囲ませました。翌三十三年に入って、さわぎは、ますます大きくなり、わが公使館の人々も殺傷される有様です。よってわが国は、兵をやって、関係国の軍隊とともに、さわぎを取りしずめました。清は、暴徒を罰(ばっ)し、列国に償金(しょうきん)を出し、罪(つみ)をわびて、やっと事がおさまりました。これを、北清事変(ほくしんじへん)といいます。この事変において、わが軍は、特にめざましい活躍(かつやく)を見せました。将兵が勇敢で規律の正しいことは、列国の軍隊を、はるかにしのいでいました。ところで、欧米諸国特にロシアは、清のこうした軽はずみに乗じて、更に侵略の手をのばして行ったのであります。

 北清事変が起ると、ロシアは、しきりに満洲に出兵して、各地を占領し、変後、ますます兵力を増強するばかりか、やがて、韓をうかがうようになりました。ところで、イギリスは、かねて、ロシアが南下するとインドが危いことを、心配しています。そこでわが国は、清・韓両国の領土をまもり、東洋の平和をたもつために、明治三十五年、イギリスと同盟を結び、また、しばしばロシアと談判して、兵をひきあげさせようとしました。しかしロシアは、少しも誠意を示さず、翌三十六年に入って、更に兵力を増し、ついに北韓の地を、おかし始めました。そこでわが国は、三国干渉以来の非道をこらしめるため、明治三十七年二月、決然として国交(こっこう)をたちました。早くも、わが艦隊は、旅順・仁川(じんせん)の港外に、敵艦を撃沈(げきちん)して敵の出鼻をくじき、二月十日、宣戦の大詔がくだされました。

 黒木(くろき)大将の率いる第一軍は朝鮮から、奥(おく)大将の第二軍、野津(のづ)大将の第四軍は、遼東半島の二方面から、三道それぞれ、満洲の野に転戦しながら、敵の根城遼陽(りょうよう)へ向かって進みました。やがて、総司令官には大山元帥が、総参謀長には児玉(こだま)大将が任じられ、九月、三軍の総攻撃は、敵将クロパトキンの死守する遼陽を、わずか十日で攻め落しました。しかも、援兵を加えて陣容を立て直した、敵軍二十余万の反撃を、激戦数日、またまた沙河(しゃか)で撃ち破りました。

 この間、海軍は、まず旅順港の閉塞(へいそく)をはかり、広瀬(ひろせ)中佐を始め、壮烈無比な決死隊の活躍によって、その目的(もくてき)を達しました。乃木(のぎ)大将の率いる第三軍が、旅順の攻撃を始めると、敵艦隊は、封鎖(ふうさ)を破って港外へのがれましたが、たちまち黄海で撃滅され、ウラジオストク艦隊も、これが救援(きゅうえん)の途中、蔚山(うるさん)沖で撃滅されました。こうして、八月のなかば、制海権(せいかいけん)は、早くもわが手に帰(き)したのであります。

 旅順の要塞(ようさい)は、さすがに、ロシアが防備に手をつくし、難攻不落(ふらく)を世界にほこっただけあって、その攻略は、なかなか容易でありませんでした。しかも、わが忠勇な陸海の将兵は、悪戦苦闘(くとう)、いくたびか決死の突撃をくりかえして、ついに要害二〇三高地をうばい、他の砲台も、次々に占領しました。ここに敵将ステッセルは、力尽きて、翌三十八年一月一日、降伏(こうふく)を申し出ました。かしこくも明治天皇は、敵ながらもあっぱれな、ステッセルの奮闘をおほめになり、旅順開城の際には、特に寛大(かんだい)な扱いをお許しになりました。

 旅順がおちいると、第三軍は、ただちに北上して、満洲軍の主力に加り、大山総司令官の指揮(しき)のもとに、全軍およそ四十万、クロパトキンの率いる五十余万の敵軍にせまって、いよいよ最後の決戦を試みることになりました。奉天の大会戦は、かくて開始(かいし)され、わが将兵の意気は天をつくばかりで、激戦まさに二十日、大いに敵を破り、三月十日、ついに奉天を占領しました。

 このころ、敵海軍の主力バルチック艦隊は、制海権の回復を夢みて、はるばる東洋へ廻航(かいこう)中でありました。やがて五月二十七日、敵艦隊は、大たんにも対馬(つしま)海峡を通りぬけようとしました。わが連合艦隊司令長官海軍大将東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は、四十余隻の艦隊を率いて、これを迎え撃ち、ここに、皇国の興廃(こうはい)をかけた大海戦が、折から風烈(はげ)しく波の高い日本海上に、くりひろげられました。この日を待ちかまえたわが将兵は、司令長官の激励にこたえて勇戦力闘(りきとう)、決戦二昼夜にわたって、敵艦十九隻を撃沈し、五隻を捕らえ、敵司令長官を俘虜(ふりょ)にしました。わが損傷は、きわめて軽微(けいび)で、世界の海戦史に例のない全勝を博しました。しかもこの際、わが将兵は、溺(おぼ)れる敵兵を救い、俘虜を慰めるなど、よく皇軍の面目(めんもく)を発揮したのであります。

 ついで別軍は、更に樺太を占領しましたが、日露戦役は、奉天の会戦と日本海海戦によって、すでに大勢(たいせい)が決していました。米国大統領(べいこくだいとうりょう)ルーズベルトは、この形勢を見て、わが国とロシアとの間に立ち、講和をすすめることになりました。わが国は、これに応じ、外務大臣小村寿太郎(こむらじゅたろう)らをアメリカのポーツマスへやって、ロシアの全権委員(ぜんけんいいん)と談判させ、審議(しんぎ)を重ねた末、三十八年九月、ポーツマス条約を結びました。すなわち、わが国は、ロシアに、韓を保護することに干渉しないことや、清の領土に手をつけないことを約束させ、また、関東州の租借権、長春(ちょうしゅん)(新京)旅順間の鉄道と附近の炭坑(たんこう)、及び樺太の南半と沿海州の漁業権とをゆずらせることに定めました。戦が終ると、陸海の諸軍は、次々に凱旋(がいせん)しました。天皇は、伊勢(いせ)に行幸(ぎょうこう)あらせられ、したしく、神宮に平和の回復をおつげになりました。

 日露戦役は、世界の一大強国を相手とする大戦役で、日清戦役に比べて、はるかに大きく、また困難な戦でありましたが、わが国は、御稜威のもと、挙国一体、連戦連勝して、ロシアの野心をくじき、大いに国威をかがやかしました。かくて、三国干渉以来十年間の労苦も、ついにむくいられたのであります。それというのも、御(み)恵みによって、教育が広く国民にゆきわたり、尽忠(じんちゅう)奉公の精神が深く養われていたからです。しかも、この戦勝によって、わが国は、世界における地位を、諸外国にはっきりと認めさせるとともに、東亜のまもりに重きを加え、これまで欧米諸国に圧迫(あっぱく)されて来た東亜諸民族の自覚をうながし、これを元気づけたのであります。

第十四 世界(せかい)のうごき

 

 

一 明治(めいじ)から大正(たいしょう)

 

 わが国は、日露戦役(にちろせんえき)後、欧米(おうべい)諸国と大使(たいし)を交換(こうかん)して国交を厚くし、イギリス・フランス・ロシア・アメリカ合衆国(がっしゅうこく)とは、更に条約を結んで、東亜の安定(あんてい)をはかりました。ところが、東亜の形勢(けいせい)には、注目(ちゅうもく)すべき変化(へんか)が起りました。それは、ロシアに代って、アメリカ合衆国が乗り出して来たことです。

 米国の東亜に対する欲望(よくぼう)は、さきに、ハワイやフィリピンを手に入れてから、急に高まって来ました。日露の講和に仲だちしたことを恩にきせて、満洲に勢力をのばそうとさえしました。しぜん、わが国との関係は、しだいに曇りを生じて来ました。すると、英国もまた、米国に気がねして、わが国をうとんじ始めました。かの日英同盟(どうめい)も、日露戦役の際(さい)、一時固くなりましたが、明治の末には、すっかりゆるみました。米国が日英同盟をいやがり、それに英国も、このころ露国と仲よくなったので、そろそろ、同盟の必要を認めなくなったからです。

 この間、わが国は、樺太(からふと)の開発、関東州の経営につとめるとともに、東亜の安定をめざして、韓(かん)の保護にも、ずいぶん力を用(もち)いました。まず、韓に対する他国の干渉(かんしょう)を、いっさい取り除き、ついで、内政(ないせい)の改革(かいかく)を指導(しどう)しました。こうして韓は、ますますわが国に対する信頼(しんらい)を深め、韓民の中には、東洋の平和をたもつため、日・韓両国が一体になる必要があると考えるものが、しだいに多くなりました。韓国皇帝も、かねてこれをお望みになっていましたので、明治四十三年、天皇にいっさいの統治権(とうちけん)をおゆずりになることになりました。

 明治天皇は、この申し出をおきき入れになって、特に韓国併合(へいごう)の詔(みことのり)をおくだしになり、韓国皇帝もまた、韓民に対し、日本の政治に従って、いよいよ幸福(こうふく)な生活を送るよう、おさとしになりました。また、韓という名も朝鮮と改り、新(あら)たに置かれた総督(そうとく)が、いっさいの政務をつかさどることになりました。古来わが国と最も関係の深かった半島の人々は、ここにひとしく皇国の臣民となり、東洋平和の基(もとい)は、いよいよ固くなったのであります。

 

 維新(いしん)以来、わが国運は日に月に盛んとなり、国威は隆(りゅう)々として世界にかがやく折から、思いがけなくも、天皇は、明治四十五年七月、御(おん)病におかかりになりました。国民の驚きはいかばかりか、上下こぞって、ひたすら御平癒(ごへいゆ)をお祈り申しあげました。御(ご)病状を案じ奉って、二重橋のほとりに集るものは、日に幾千とも知れないほどで、夜を通して祈り続ける人々も、少くありませんでした。ところが、御病は日ごとに重らせられ、ついに七月三十日、御年六十一歳で、おかくれになりました。国民の悲しみは、たとえようもなく、世界の国々もまた、御高徳(ごこうとく)をたたえ奉り、つつしんで崩御(ほうぎょ)をおいたみ申しあげました。

 かしこくも明治天皇は、内外多事の際、御(ご)年少の御(おん)身で御位をおつぎになり、万機をお統(す)べ*49になること、まさに四十六年に及びました。その間、維新の大業をおとげになり、新政を整えて国力を充実(じゅうじつ)あらせられ、皇威を世界にのべて、興亜の礎(いしずえ)をお築きになりました。まことに、明治の御代における国運の進展(しんてん)は、東西(とうざい)古今の歴史に、その例を見ないところであります。

 天皇は、皇祖皇宗の御(ご)遺訓に基(もと)づき、つねに御(おん)みずから手本をお示(しめ)しになって、ふみ迷う国民をおみちびきになりました。また、明け暮れ、万民のことに大御心をかけさせられ、数々の御(み)恵みをたまわりましたが、その御心を、

 

  照るにつけくもるにつけて思ふかな

      わが民草(たみくさ)のうへはいかにと

 

 とおよみになっていらっしゃいます。われわれ国民は、ただありがたさに、涙がこぼれるばかりであります。

 天皇がおかくれになると、ただちに第百二十三代大正(たいしょう)天皇が、御位をおつぎになり、年号を大正とお改めになりました。この年の九月、大葬(たいそう)の御(おん)儀があり、伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)におさめまいらせました。霊柩(れいきゅう)がまさに宮城をお出ましになる時刻に、乃木(のぎ)大将と夫人(ふじん)は、その邸(やしき)で自刃(じじん)して、明治天皇の御(み)あとをしたい申しあげました。

 明治天皇神去りまして、悲しみの涙さえまだ乾かないのに、昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)もまた、御病のため、大正三年四月に、おかくれになりました。重ね重ねの悲しみのうちに、やがて大葬の御儀があり、伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)におさめまいらせました。皇太后は、いつくしみの御心に深くいらせられ、戦時には、傷病兵をおいたわりになり、つねには、学校・病院・工場などに行啓(ぎょうけい) *50あらせられて、教育や産業をおはげましになり、慈善(じぜん)・施療(せりょう)の業(わざ)をおすすめになりました。

 東京代々木(よよぎ)の明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后をおまつり申しあげるお社であります。国民は、ながく御二方(おんふたかた)の御高徳を仰いで、神宮に御陵(ごりょう)にお参りするものが、つねに絶えません。昭和二年、第百二十四代今上(きんじょう)天皇は、明治天皇のお生まれになった十一月三日を、明治節とお定めになりました。国をあげて、この日をお祝い申しあげ、とこしえに、大御業(おおみわざ)をおしのび申しあげるのであります。

 明治天皇・昭憲皇太后の諒闇(りょうあん) *51が終って、大正天皇は、大正四年の十一月、始めて皇室典範(こうしつてんぱん)の定めにのっとり、即位(そくい)の礼を、京都の皇宮(こうぐう)でお挙(あ)げになりました。ここに大正の御代は、御恵みのもと、洋々として開けて行きます。しかもこのころ、ヨーロッパ諸国は戦争の真最中で、わが国もまた、東亜の保全のため、正義の戦を進めていたのであります。

 

二 太平洋(たいへいよう)の波風(なみかぜ)

 

 ヨーロッパに戦争が起ったのは、大正三年七月のことであります。ヨーロッパでは、かねて、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの三国とフランス・ロシアの二国とが、それぞれ同盟を結んで対立(たいりつ)していました。ところが、それまで、どちらのみかたもしないでいたイギリスが、日露戦役のころから、フランスに近づき、やがて明治四十年には、すっかりフランス・ロシア側の仲間入りをしました。それは、イギリスが、めきめきと強くなったドイツの勢を、恐れたからです。一方ドイツ側では、イタリアとオーストリア=ハンガリーとの仲がわるくなって、イタリアは、同盟から離れそうになっていました。

 日露戦役でわが国の勝ったことは、こうしたヨーロッパの形勢に、少からぬ影響(えいきょう)を与えています。イギリスがロシアに近づくようになったのは、その一つです。また、ロシアがやぶれたので、オーストリア=ハンガリーは、バルカン半島へ手をのばし始めました。ところで、バルカンの一国、セルビアの一青年が、オーストリア=ハンガリーの皇嗣(こうし) *52を暗殺(あんさつ)したため、両国の間に戦端が開かれ、この波紋がひろがって、ついに、ドイツを中心とする同盟国と、ロシア・イギリス・フランス等の連合(れんごう)国との、大戦争になりました。

 わが国は、当時なお諒闇のことでもあり、もっぱら中立を守って、東洋の平和をたもとうとしました。ところがドイツは、膠州(こうしゅう)湾の兵力を増し、しかもその艦艇が、しきりに東亜の海に出没します。よってわが国は、東洋平和のため、また日英同盟のことをも考えて、大正三年八月二十三日、ドイツと国交をたち、この日、かしこくも、宣戦の大詔がくだりました。海軍は、ただちに膠州湾を封鎖(ふうさ)し、陸軍は、背後(はいご)から青島(せいとう)を攻撃して、同年十一月、これをおとしいれました。わが国で、飛行機を戦闘に用いたのは、この時が最初でした。この間、わが艦隊の一部は、南洋へ進み、敵艦を太平洋から追い払って、ドイツ領のマーシャル・マリアナ・カロリンなどの諸群島を占領しました。ドイツの艦艇は、なおインド洋や地中海に現れ、盛んに各国の商船を撃沈(げきちん)し、わが商船にも損害を与えました。そこで、わが艦隊は、遠くこの方面へも出動し、さまざまの困難(こんなん)をしのいで、通商の保護に当りました。

 この間、ヨーロッパの形勢は、トルコ・ブルガリアが同盟国に加り、イタリアが連合国に加りましたが、戦況は、同盟国に有利(ゆうり)でした。大正六年に、やっとアメリカ合衆国が、連合国に加りました。アメリカは、それまで中立を守り、通商で、ばくだいな利益(りえき)を占(し)めていたのです。これと前後して、ロシアに内乱(ないらん)が起り、やがてソビエト政府ができると、翌七年、ドイツと単独(たんどく)講和を結びました。ところで同盟国も、このころから急に弱って足なみが乱れ、まずブルガリア・トルコが降伏(こうふく)し、やがてオーストリア=ハンガリー・ドイツにも、相ついで内乱が起り、ついに屈して、講和を求めました。

 翌大正八年、平和会議(へいわかいぎ)が、フランスのパリで開かれ、ベルサイユ条約が成立しました。これによって、わが国は、膠州湾と山東(さんとう)省とにもっていたドイツのいっさいの権益(けんえき)を得、赤道(せきどう)以北の旧ドイツ領南洋群島の統治を委任(いにん)されました。また、この条約にそえて、各国は国際連盟(こくさいれんめい)を作り、以後たがいに力を合わせて、世界の平和をはかることになりました。

 こうして、世界の平和は、ひとまず回復されましたが、大戦の結果(けっか)として現れたものは、アメリカ合衆国やイギリスのわがままなふるまいでした。米国は、自分のいい出した国際連盟にさえ加らず、英国は、連盟を自分の都合のよいように利用することにつとめました。そればかりか、日本の興隆をねたんで、事ごとにわが国の発展をおさえようとしました。それは、米・英が東亜に野心をもっているからで、米国は、大戦中、わが海軍が南洋へ進出することをさえ、いやがったほどです。大正三年に、パナマ運河が開通してから、米国の東亜に対する欲望は、いよいよ大きくなっていました。しぜん世界の目は、戦後、ヨーロッパから太平洋へ移りました。大正から昭和へかけて、国際問題の中心になった海軍軍備縮小(しゅくしょう)会議は、まさに、米・英が太平洋を支配しようとする下心の現れでありました。

 大正十年、米国の発起(ほっき)で、日・英・米・仏(ふつ)・伊(い)等の諸国が、ワシントンに会議を開き、軍備の制限(せいげん)、太平洋・東亜に関する諸問題を協議しました。その結果、軍備の制限では、日・英・米の主力艦の比率(ひりつ)を三・五・五(仏・伊は一・七五)と定め、また、太平洋の島々の武備を制限することにきめました。太平洋・東亜の問題については、別に条約を結び、この方面にある各国の島々に、問題が起った時は、共同で処理(しょり)し、かつ、支那の領土を尊重(そんちょう)することなどを、約束しました。しぜん日英同盟は、不必要というので、廃棄(はいき)されました。しかも会議は、米・英の無理が通って、わが国に不利な点が少くなかったのですが、わが国は、もっぱら列国の信義に期待(きたい)して、寛大(かんだい)に事に処しました。すると、米・英の非道(ひどう)は、更に露骨(ろこつ)となり、わが移民(いみん)に圧迫(あっぱく)を加え、大正十三年、米国は、わざわざ法律まで作って、移民をこばむようになりました。

 この間、米・英は、支那に対して、領土を尊重するように見せかけながら、ひそかに利益をあさりました。支那では、明治の末に清(しん)がほろび、中華民国(ちゅうかみんこく)がこれに代っていました。しかも支那は、北清事変(ほくしんじへん)以来のわが好意を忘れ、しだいに、米・英にたよって、わが国を軽んじるようになりました。かくて日・支の関係は、前途なかなか多難で、東洋の平和も、ふたたび危く見えて来ました。

 わが国も、たびたびの戦勝から、内には、ゆだんの心も起っていました。世界のうごきの表面だけしか見ない人が多く、だいじな東亜、ことに支那に対する研究が、不十分でした。国民の気持も、いつとなくゆるんで、生活が、はなやかになっていました。折しも大正十二年、関東地方に大震災が起り、その災難で、人々の心がぐらつきました。おそれ多くも、国民精神作興の詔書をおくだしになり、深く国民をお戒(いまし)めになったのは、この時のことであります。

 さきに、大正十年三月、皇太子裕仁親王(ひろひとしんのう)は、八重(やえ)の潮路(しおじ)をはるばると、ヨーロッパへお渡りになり、国々をめぐって皇威を御発揚(ごはつよう)の上、同年九月、めでたく還啓(かんけい) *53あらせられました。時に、天皇御病のため、皇太子は、同年十一月、皇室典範の定めにより、摂政(せっしょう)の任に、おつきになりました。

 大正十五年十二月、天皇の御病は、いよいよ重く、国民こぞって御平癒をお祈り申しあげたそのかいなく、ついに同月二十五日、御年四十八歳で、おかくれになりました。かしこくも大正天皇は、特に国際上多事の際、明治天皇の御(ご)遺業をおつぎになり、内に、民草をおいつくしみになって、国力の充実につとめさせられ、外に、国威をおのべになって、世界平和のために、御心をお用いになりました。その御高徳・御鴻業(ごこうぎょう) *54は、国民はもとより、世界のひとしく仰ぎ奉るところであります。

第十五 昭和(しょうわ)の大御代(おおみよ)

一 満洲事変(まんしゅうじへん)

 

 今上天皇は、大正天皇の第一皇子(おうじ)にましまし、明治三十四年四月二十九日に、御降誕(ごこうたん)あらせられました。御年十六歳の時、皇太子にお立ちになり、やがて内外多事の折に、摂政(せっしょう)の御(ご)重任をおはたしになりました。

 大正天皇がおかくれになると、ただちに践祚(せんそ) *55あらせられ、年号を昭和と改め、ついで文武百官を召して、朝見(ちょうけん)の儀を行(おこな)わせられました。やがて昭和二年二月、大正天皇の大葬(たいそう)の御(おん)儀があり、多摩陵(たまのみささぎ)におさめたてまつりました。

 諒闇(りょうあん)があけて昭和十年十一月、即位(そくい)の礼を、京都の皇宮(こうぐう)でお挙(あ)げになりました。まず、賢所(かしこどころ) *56大前(おおまえ)の御儀があって、皇祖天照大神に、即位の由(よし)をおつげになり、ついで、紫宸殿(ししんでん)の高御座(たかみくら)にお登りになって、広く天下に、これをお宣(の)べになりました。この時、国民は、一せいに万歳をとなえて、宝祚(あまつひつぎ)の御栄(みさか)えをお祝い申しあげました。天皇は、ついで大嘗祭(だいじょうさい)を行わせられ、天照大神を始め天地の神々に、したしく神饌(しんせん) *57を供えて、夜もすがらおまつりになり、かぎりなく尊い御(ご)盛儀は、かくてめでたく終りました。

 昭和の御代が隆(りゅう)々と開けてゆく時、海外の諸国は、世界平和を望むわが国の誠意を無視して、勝手なふるまいを続けていました。イギリスは、ひそかにシンガポールの武備を固め、アメリカ合衆国(がっしゅうこく)は、たくみに支那をあやつり、ソビエト連邦(れんぽう)は、軍備の拡張(かくちょう)に日も足らぬ有様(ありさま)です。中華民国(ちゅうかみんこく)もまた、このころ、国内がひとまずしずまるとともに、いよいよ、排日(はいにち)の気勢を高めて来ました。しかも米(べい)・英は、更にわが国をおさえようとして、またまた、軍備縮小(しゅくしょう)の相談をもちかけ、昭和五年、英国の発起(ほっき)したロンドン会議(かいぎ)では、わが公正な意見をかえりみず、補助艦(ほじょかん)の比率(ひりつ)七割を、わが国におしつけました。

 支那は、じっとこらえているわが国の態度を、臆病(おくびょう)と見て取ったのか、ますます排日の気勢をあおり、はては、わが居留民に危害(きがい)を加え、満洲におけるわが権益(けんえき)をさえおびやかす挙に出ました。すなわち、昭和六年九月、支那軍は、不法にも、南満洲鉄道を爆破(ばくは)しました。東洋の平和を望み、隣国(りんごく)のよしみを思えばこそ、たえしのんで来たわが国も、事ここに至って、決然としてたちあがりました。支那は、国際連盟(こくさいれんめい)にすがり、列強をみかたに引き入れようとします。わが国は、正々堂々、膺懲(ようちょう)の軍を進めて、たちまち、支那軍を満洲から駆逐しました。これを満洲事変といいます。

 長い間、悪政のもとに苦しんでいた満洲の住民(じゅうみん)は、これを機会に独立(どくりつ)の運動を起し、昭和七年三月、新(あら)たに国を建てて満洲国とし、溥儀執政(ふぎしっせい)をいただくことになりました。わが国は、東洋平和のため、その建国(けんこく)を喜び、同年九月、列国に先だって独立を承認(しょうにん)し、日満議定書(にちまんぎじょうしょ)を交換(こうかん)して、両国の共同防衛を約束しました。

 ところが、国際連盟は、わが公正な処置(しょち)を認めず、満洲国の発達をさまたげようとしました。よってわが国は、昭和八年三月、きっぱりと、連盟を脱退(だったい)しました。この時、かしこくも天皇陛下は、詔(みことのり)をおくだしになって、日本の進むべき道をおさとしになり、国民の奮起をおはげましになりました。国民は、つつしんで詔を拝し、東洋永遠の平和のためには、いかなる困難(こんなん)にもたえしのぶことを誓いました。しかも国民は、満洲事変を通して、世界のうごきをはっきりと知り、ここに、自主独往の覚悟を固くしたのであります。

 昭和八年十二月二十三日、皇太子継宮明仁親王(つぐのみやあきひとしんのう)が、お生まれになりました。国民は、久しく皇太子の御誕生(ごたんじょう)をお待ち申しあげていましたので、その喜びはたとえようもなく、奉祝(ほうしゅく)の声は、全国に満ちあふれました。満洲国でも、家ごとに日の丸の旗をかかげて、心から御誕生をお祝い申しあげました。

 満洲国は、独立後わずか一二年の間に、見違えるほど、りっぱな国になり、国民の生活も、日々に安らかとなりました。昭和九年三月には、溥儀執政が、国民に推(お)されて、皇帝の位におつきになり、国は満洲帝国となりました。秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王は、天皇の御名代(ごみょうだい)として、満洲国へお渡りになり、したしく、お祝いのことばをお述べになりました。翌昭和十年、皇帝は、御答礼(ごとうれい)のため、わが国をお訪(たず)ねになり、日満の親善(しんぜん)は、年とともに深まって行きました。

 国際連盟が、わが正当な行為(こうい)を認めない今となっては、ワシントン会議以来の軍備制限(せいげん)条約は、国防上、とうていしのびがたいものとなりました。よってわが国は、昭和九年十二月、条約の廃棄(はいき)を、アメリカ合衆国に通告しました。かくて一年ののち、ふたたびロンドンで会議が開かれた際(さい)、わが国は、国防上最も公正な意見を、堂々と述べました。しかも、米・英両国がこれをこばむに及んで、わが国は、決然として会議を脱退しました。ここに、帝国海軍の日ごろの猛訓練は、更にいっそうの激しさを加えて行きました。

二 大東亜戦争(だいとうあせんそう)

 

 わが国は、さきに内鮮一体の実を挙げて、東洋平和の基(もとい)を築き、今また、日満不可分の堅陣(けんじん)を構(かま)えて、東亜のまもりを固めました。しかも、東洋永遠の平和を確立(かくりつ)するには、日・満・支三国の緊密(きんみつ)な提携(ていけい)が、ぜひとも必要であります。わが国は、支那にこの旨をつげて、しきりに協力をすすめました。ところが支那の政府(せいふ)は、わが誠意を解(かい)せず、欧(おう)米の援助(えんじょ)を頼みに排日を続け、盛んに軍備を整えて、日・満両国にせまろうとしました。

 果して、昭和十二年七月七日、支那兵が、北京(ぺきん)近くの盧溝橋(ろこうきょう)で、演習中のわが軍に発砲して戦をいどみ、更に、わが居留民に危害を加えるものさえ現れました。

 わが国は、支那の不法を正し、さわぎをくい止めようとつとめましたが、支那の非道(ひどう)は、つのるばかりでした。ここに、暴支(ぼうし)膺懲*58の軍が派遣(はけん)せられ、戦は、やがて北支から中支・南支へとひろがりました。

 この間、忠烈勇武な皇軍の将士は、各地に転戦して、次々に敵の根城を落し、早くも十二月十三日、首都南京(しゅとなんきん)を攻略して、城頭高く日章旗をひるがえし、翌十三年十月には、広東(かんとん)・武昌(ぶしょう)・漢口(かんこう)等の要地を占領しました。しかも、海軍が沿岸の封鎖(ふうさ)に当り、陸海の荒鷲(あらわし)が、大陸の空を制圧(せいあつ)しましたので、重慶(じゅうけい)へ落ちのびた敵の政府は、息もたえだえの有様になりました。

 かしこくも天皇陛下は、宮城内に大本営を置いて、日夜(にちや)軍務をお統(す)べになり、事変一周年の当日には、勅語(ちょくご)をたまわって、将士の奮闘と銃後の勉励とをおほめになり、日・支の協力による東亜の安定(あんてい)を、一日も早く実現(じつげん)するようにと、おはげましになりました。聖旨(せいし)を奉(ほう)体(たい) *59して、わが政府は、この年の明治節に、戦の目的(もくてき)が、支那の目をさまして、東亜に新しい秩序(ちつじょ)を作ることにある旨を声明しました。

 わが誠意に感激した支那の人々は、いくつか新しい政府を作り、これが基となって、昭和十五年三月、汪精衛(おうせいえい)の率いる新国民政府が、南京で成立しました。やがて十一月、わが国は、これと条約を結び、ここに日・満・支三国が、力を合わせて、東亜新秩序の建設に、はげむことになりました。しかし、重慶の政府は、なお米・英の援助によって、からくも命をつなぎ、あくまで、わが国に手むかい続けました。

 このころ、すでにヨーロッパでも、戦争が起っていました。欧洲大戦後およそ二十年間、ひたすら国力の回復につとめて来たドイツが、昭和十四年に、うらみ重なる英・仏(ふつ)その他の諸国と、戦争を開始(かいし)しました。しかもドイツは、たちまち、ポーランド・オランダ・ベルギーを撃ち破り、ついでフランスを降伏(こうふく)させ、その勢は、なかなか盛んであります。それに今度は、イタリアが、ドイツのみかたとして立つことになりました。

 わが国は、かねがね独・伊(い)両国と、志を同じゅうしていましたので、昭和十五年九月、改めて同盟(どうめい)を結び、三国ともどもに力を合わせて、一日も早く戦乱(せんらん)をしずめ、世界の平和を確立しようと約束しました。わが国は、東亜をりっぱな東亜に立て直すことを使命とし、独・伊は、欧洲を正しい欧洲に造(つく)りかえることを使命とする、──三国は、この大業をなしとげるため、たがいに助け合うことになったのです。

 ところで、米・英の両国は、重慶政府を助けて、支那事変を長引かせるばかりか、太平洋の武備を増強し、わが通商をさまたげて、あくまで、わが国を苦しめようとしました。しかも、わが国は、なるべく事をおだやかに解決しようと、昭和十六年の春から半年以上も、誠意をつくして、米国と交渉(こうしょう)を続けましたが、米国は、かえってわが国をあなどり、独・ソの開戦を有利(ゆうり)と見たのか、仲間の国々と連絡(れんらく)して、しきりに戦備を整えました。こうして、長い年月、東亜のためにつくして来たわが国の努力は、水の泡(あわ)となるばかりか、日本自身の国土さえ、危くなって来ました。

 昭和十六年十二月八日、しのびにしのんで来たわが国は、決然としてたちあがりました。忠誠無比の皇軍は、陸海ともどもに、ハワイ・マレー・フィリピンをめざして、一せいに進攻を開始しました。勇ましい海の荒鷲が、御(み)国の命を翼にかけて、やにわに真珠(しんじゅ)湾をおそいました。水(み)づく屍(かばね)と覚悟をきめた特別攻撃隊も、敵艦めがけてせまりました。空と海からする、わが猛烈な攻撃は、米国太平洋艦隊の主力を、もののみごとに撃滅しました。この日、米・英に対する宣戦の大詔がくだり、一億(おく)の心は、打って一丸となりました。二重橋のほとり、玉砂利(たまじゃり)にぬかづく民草(たみくさ)の目は、決然たるかがやきを見せました。

 ほとんど同時に、英国の東洋艦隊は、マレー沖のもくずと消え、続いて、かれが、百年の間、東亜侵略(しんりゃく)の出城(でじろ)とした香港(ほんこん)も、草むす屍とふるいたつわが皇軍の精鋭によって、たちまち攻略されました。昭和十七年を迎えて、皇軍は、まずマニラを抜き、また破竹(はちく)の進撃は、マレー半島の密林をしのいで、早くも二月十五日、英国の本陣、難攻不落(ふらく)をほこるシンガポールを攻略しました。その後、月を重ねて、蘭印(らんいん)を屈伏させ、ビルマを平定し、コレヒドール島の攻略がなり、戦果(せんか)はますます拡大されました。相つぐ大小の海戦に、撃ち沈められた敵の艦船は、おびただしい数にのぼっています。しかも、細戈千足(くわしほこちたる)の国のますらおは、西に遠くマダガスカルの英艦をおそい、北ははるかに米領アリューシャン列島を突いて、世界の国々をあっといわせました。

 この間、三国同盟は、一だんと固められて、独・伊も米国に宣戦し、日本とタイ国との同盟が成立して、大東亜建設は、更に一歩を進めました。今や大東亜の陸を海を、日の丸の旗が埋めつくし、日本をしたう東亜の民は、日に月によみがえって行きます。すべてはこれ御稜威(みいつ)と仰ぎ奉るほかありません。

 

三 大御代(おおみよ)の御栄(みさか)

 

 わが国は、尊い戦を進めながら、かがやかしい紀元二千六百年を迎えたのでありました。三国同盟が成立したのも、新しい支那と条約を結んだのも、この年、すなわち昭和十五年のことです。

 かしこくも天皇陛下は、このめでたい年の紀元節に、詔をおくだしになって、国民すべてが、神武天皇の御創業(ごそうぎょう)をおしのび申しあげ、いかなる難局をも切り開くようにと、おさとしになりました。ついで六月には、神宮を始め、橿原(かしはら)神宮・伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)・多摩陵などに、御(ご)参拝あらせられ、紀元二千六百年をお迎えあそばされたことを、したしく御(ご)報告になりました。

 同月、満洲国皇帝は、ふたたび御(ご)来朝、天皇陛下に、紀元二千六百年のお祝いを、したしくお述べになり、皇大神宮・橿原神宮・伏見桃山陵などに、御参拝になりました。皇帝は、かねがね、わが皇室の御(おん)徳をおしたいになり、日本と同じように満洲国を治めたいとのお考えでありましたので、御帰国(ごきこく)後、建国神廟(けんこくしんびょう)を帝宮(ていきゅう)内に建て、天照大神をおまつりになって、日夜、大神の御(み)心を奉体し、政治におはげみになることになりました。

 この年の九月、北白川宮永久王(きたしらかわのみやながひさおう)が、尊い御(おん)身をもって、蒙疆(もうきょう)の地で御(ご)戦死をおとげになりました。国民の驚きは、ひと通りでなく、御(おん)祖父能久(よしひさ)親王の御(おん)事をもしのび奉って、感激の涙にむせびました。

 やがて、菊花(きっか)かおる十一月、宮城前の式場に、天皇・皇后両陛下の臨御(りんぎょ)を仰ぎ、おごそかに、紀元二千六百年奉祝の式典が催されました。この日、大空はさわやかに澄み渡って、一片(いっぺん)の雲影もなく、美しい式殿の両側には、銀色の鉾(ほこ)が、秋日を受けてきらきらとかがやき、朱色(しゅいろ)の旛(はた)が、そよ風にゆらいでいました。式場をうずめた参列者は、大君の尊い御(み)姿を仰ぎ、ありがたい勅語をたまわって感きわまり、声をかぎりに、万歳を奉唱しました。津(つ)々浦(うら)々の民草もまた、これに和し、奉祝の喜びのうちに、遠く国史をふりかえって、難局打開(だかい)の覚悟を新たにしました。

 遠すめろぎのかしこくも、はじめたまいしおお大和(やまと)、──まことにわが大日本帝国は、皇祖天照大神が、天壌無窮(てんじょうむきゅう) *60の神勅をくだして、国の基をお固めになり、神武天皇が、皇祖の大御心をひろめて、即位の礼をお挙げになった、尊い国であります。以来、万世一系の天皇は、いつの御代にも、深い御(み)恵みを民草の上にお注ぎになり、国力は時とともに充実(じゅうじつ)し、御稜威は遠く海外にかがやき渡りました。

 御恵みのもと、世々の国民は、天皇を現御神(あきつみかみ)とあがめ、国の御(み)親とおしたい申しあげて、忠誠をはげんで来ました。その間、皇恩になれ奉って、わがままをふるまい、太平に心をゆるめて、内わもめをくり返し、時に無恥無道(むちむどう)の者が出たことは、何とも申しわけのないことでありました。しかし、そうした場合でも、親子・一族・国民が、たがいに戒(いまし)め合い、不覚をさとし、無道をせめて、国のわざわいを防ぎました。清麻呂が道鏡の非望をくじき、重盛が父のわがままをいさめ、光圀・宣長らが大和心を説(と)いて尊皇(そんのう)の精神を吹きこんだなど、その例です。しかも、元寇の時のように、いったん外国と事の起った場合には、国民こぞってふるいたち、戦線・銃後ともどもに、力を合わせて国難を打開しました。また、大化の改新、建武の中興、明治の維新のように、内外多事の際には、勤皇の人々が続々現れて、大御業(おおみわざ)をおたすけ申しあげました。従って、わが国では、一見世の中が乱れたような場合でも、決して国の基を動かすようなことはありません。こうしたことは、わが国だけに見られることで、すべては御稜威のかがやきであり、尊い国がらの現れであります。

 昔、支那の勢が盛んで、あたりの国々を従えていた時でも、日本だけは、堂々と国威を示(しめ)して、一歩もゆずりませんでした。四百年ばかり前から、まずポルトガル・スペインが、ついでオランダ・イギリス・ロシアが、最後にアメリカ合衆国が、盛んに東亜をむしばみました。わが国は、いち早くその野心を見抜いて、国の守りを固くし、東亜の国々をはげまして、欧米勢力の駆逐につとめて来ました。そうして、今やその大業を完成するために、あらゆる困難をしのいで、大東亜戦争を行っているのです。皇国の興隆、東亜の安定は、この一戦とともに開けてゆくのであります。

 昭和十四年五月二十二日、かしこくも天皇陛下は、全国青少年学徒の代表を、宮城前で御親閲(ごしんえつ)になり、特に勅語をたまわって、日本の将来をになう、りっぱな人物になるようにと、おさとしになりました。つづいて、昭和十六年には、御国のお役に立つ、りっぱな国民を育てるために、小学校は、国民学校に改りました。私たちは、現にこの国民学校で、楽しく勉強しているのであります。

 私たちは、楠木正成が、桜井の里で、正行をさとしたことばを、よくおぼえています。

「獅子(しし)は子を産み、三日にして、数千丈の谷に投ず。その子、まことに獅子の気性あれば、はね返りて死せずといえり。汝すでに十歳に余りぬ。一言耳にとどまらば、わが教えにたがうことなかれ。今度の合戦、天下の安否と思えば、今生にて汝が顔を見んこと、これを限りと思うなり。………敵寄せ来らば、命にかけて忠を全うすべし。これぞ汝が第一の孝行なる」

 私たちは、一生けんめいに勉強して、正行のような、りっぱな臣民となり、天皇陛下の御(おん)ために、おつくし申しあげなければなりません。

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最終更新:2021年10月30日 22:35