十八史略卷之六資ゆるどてん(おそいじつおほいすに足れり、必ずしも許すに土田を以てせざれ、恐らくは、異日大ちうごくうれひけいたう)に中國の患をなさむと。敬塘、聽かず。表、至る。契丹主、大に喜きたうへいしんやうきつたんび、騎五萬を將ゐて來り、唐兵と音陽に戰つて大に之を敗る。契丹しゆけいたうしんがう)えいほこたく主敬塘を立てて帝となし、國を晉と號す。幽薊、濵、莫涿、だんじゆんしんじゆぶうんおうくわんさくうつさ檀、順新嫣儒.武、雲、應寰朔蔚十六州を割いて、あたきつたんろしう之に與ふ。契丹、晉主を以て南下し、又、唐兵を破つて、潞州に至かしやうかうじやうとる。契丹、北に還る。晉主、引いて南す。唐の將校、皆、狀を飛ばたうしゆ(して以て迎ふ。唐主、殂す。晉主、入つて、洛に都す。旣にして、べん汴に還る。ぢよちかうごしゆふじやうくわうちよ吳の徐知誥、帝と稱し、吳主薄を奉じて、讓皇となす。初め、徐をんちかうしようしうはんふじやうしふしや溫、知誥に命じて、昇州を治めしむ。繁富を致し、城市府舎、甚だうつくわうれうごせい盛なり。溫、自ら徒つて、之に居る。知誥、廣陵に入つて、吳政をたすをんちうしよれい輔く溫、卒す。知誥、中書令を以て、昇に鎭して、其子を留めてたすきんれうじやうだいげんすゐせいわう政を輔けしむ。金陵城を廣くす。吳、知誥に大元帥を加へ齊王にしゆれいゆづりぢよしう封じ、殊禮を加ふ。是に至つて、吳の禪を受く。知誥は、もと徐州しのちたうがうつ李氏の子なり。自ら唐の後といひ、國を唐と號し、尋いで、姓李をざべんなんたう南唐復し、名を弄と改む。之を南唐となす。きつたんたいれうがう大遼(西紀契丹、國を改めて大遼と號す。九三七)びんわうざそのしゆちやうしじりふ閩の王議、其主昶を弑して自立す。ごえつわうせんげんくわんしゆつこうさ吳越王錢元瓘卒す。子弘佐嗣ぐ。五代-晉六四九
十八史略卷之六六五〇南漢王劉襲、又名を襲と更む。尋いで、殂す。子玢、立つ。晉主在位、七歲ならずして殂す。改元するもの一、曰く天福。齊王立つ、之を出帝となす。【出帝】名は重貴、高祖の兄の子なり。高祖、終に臨んで、幼子重璿に命じ、宰相馬道を拜せしめ、其輔立を欲す。景延廣の議に以へらく、國家多難、宜しく長君を立つべしと。遂に重貴を立つ。延廣事を用ゆ。南唐主李昇、殂す。子環、立つ。聞王の弟王延政、建州に據つて、殷帝と稱す。南漢主劉玢の弟弘熙、玢を弑して自立し、名を最と改む。聞の朱文進、其主王曦を弑して自立す。殷主延政、兵を遣して、之を討つ。閩人、文進を殺して、首を殷に傳ふ。殷國號を更めて聞といふ。唐人、攻めて建州を拔く。延政、出でて降る。闘亡ぶ。唐、福州を攻む。克たず。後、吳越、兵を遣して、之を取らしむ。初め、晉の高祖、契丹に事へて、甚だ謹む。少主、位に卽くに至つて、景延廣、議を主どり、哀を告ぐるに復た臣と稱せず。契丹、大に怒る。延廣、又、其囘圖使を囚へ旣にして、歸らしめ、大言して曰く、歸つて、而の主に語れ。先帝は北朝に立てらる、故に臣れと稱して表を奉る。今上は、乃ち中國の立つる所、隣となつて、孫と稱すれば足らむ。翁怒らば來り戰へ孫に十萬、磨劍を橫へて相五代-晉六五一
十八史略卷之六六五二待つありと。桑維翰、屢ば遜辭以て契丹に謝せむを請ふ。毎に延廣に沮まる。是に於て、契丹、入寇して、河を渡る。晉主、自ら將とし、及び李守貞等を遣し、道を分つて、之を擊つ。契丹、敗走す。契丹、再び相州に至つて、引いて還る。晉主、又自ら將として、之を追ふ。契丹、兵を旋して南下す。晉人、之を擊つ。契丹、又敗走す。晉主、旣に再び勝ち、契丹は畏るるに足らずと意ふ。契丹主、大擧して入寇す。晉將杜伏威、降る。契丹、兵を遣して汁に入り、晉主を執へて、以て其國に歸る。在位五年、改元するもの一、曰く開運晉は、高祖より、是に至るまで再世、一十二年にして亡ぶ契丹主、大梁に入る。胡騎四出して剽掠す之を打草穀といふ丁壯は鋒刄に斃れ、老弱は溝壑に委し、東西兩幾より、鄭滑曹濮に及ぶまで、數百里の間、財帛殆んど盡く。契丹主、判三司劉昫に謂つて曰く、契丹の兵、優賜あるべしと。遂に都城士民の錢帛を括し、使者數十名を遣して、諸州に括し、皆迫るに嚴誅を以てす。人:生を聊んぜず。括し至るや、初めより、頒給なく、皆輦して歸らむと欲す。中外怨憤、皆之を逐はむを思ひ、所在盜起る。契丹主曰く、我、中國治め難きこと、かくの如くなるを知らずと。汴に居ること三月にして還る。晉の劉知遠、先つこと一月、位に晉陽に卽く。漢五代-音-漢六五三
十八史略卷之六六五四りうしちゑんしやだしんそけいたう【漢高祖皇帝】姓は劉氏、初名は知遠、沙陀の人なり。晉祖敬塘に、しんそかとうろわうつかへいかん之兵間に事へて、功、最も多し。晉祖、河東に在るや、唐の潞王、うつうんめいこうを移して、鄲を鎭せしむ。知遠曰く、明公、久しく兵に將として、けいしやうしばせいきやう士卒の心を得たり。今、形勝の地に據つて、士馬精强なり。若し兵あけきつたていげふないかんしせいしよ一部八を稱げ、檄を傳ふれば、帝業成るべし。奈何ぞ、一紙の制書を以てにあんて投自制ぜら書こうとうたうしやう虎口に自ら虎口に投ぜむやと。遂に命を拒む。唐,將を遣して之を攻む。んやかほろぼじえい克たず。晉祖、兵を擧げ、唐を滅して洛陽に入る。知遠、時に侍衞はぐんとしきしかんへいえいじくわん馬軍都指揮使たり。漢兵を分つて營に入れ、契丹の兵を寺に館す。そじやうちうしゆくぜん晉祖、城中肅然たり。後、晉祖、知遠を以て河東に鎭せしむ。殂るゆ茶たすしんじんこれかくす。遺命して、知遠を以て、入つて政を輔けしむ。晉人之を匿す。てにふこう知遠、之に由つて、朝廷を怨む。契丹、しきりに入寇す。晉、知遠かうえいととうたいを以て行營都統となすと雖も、知遠、行かず。契丹、晉を滅して大れうたいげん梁に入る。知遠、帝を晉陽に稱す。契丹去る。乃ち太原を發して、べんかんがうかうあらた洛に入り、遂に汴に入り、國を漢と號し、後、名を暠と更む。きつたんしゆやりつとくくわうさつこりんさしほみ契丹主耶律德光、歸つて、殺胡林に至り死す。腹を剖き、鹽を實のていはここつよく帝把兀欲たして、載せて去る。人、之を帝把といふ。子兀欲、立つ。宗之契とを丹な遼主そわうばはんきくわうすの世楚王馬希範、卒す。子希廣、立つ。ごえつわうせんこうさこうさうこうしゆく吳越王錢弘佐、卒す。弘倧、立つ。其下、之を廢して、弘俶を立つかんしゆそけんいうこしうわうたいんてい漢主殂す。在位一年、元を乾祐と改む。子周王立つ、之を隱帝と五代-漢六五五
十八史略卷之六六五六なす。【隱帝】名は承祐、年十八にして、位に卽く。之より先、漢祖、弟崇を以て、太原に尹とし、留守河東節度使となす。崇、郭威と隙あり。是に至つて、威、樞密使侍中となつて勇士を選募し、亡命を招納し、甲政を執る。崇、自全の計をなし、朝廷の詔令、兵を繕し、府庫を實たし、財賦を上供するを罷め、多くは稟承せず〓南の高從誨、卒す。子寶融、軍府に知たり。河中の李守貞、反す。郭威、諸軍を督し、討つて、之に克つ。守貞、自殺す。漢、郭威を以て、鄴都の留守となす。楚王馬希廣の兄希萼、希廣を殺して自立す。漢王、卽位より以來、同平章事楊邪、機政を總べ、樞密使郭威征伐を主り、侍衞指揮使史弘肇、宿衞を典り、三司使王章、財賦えを掌る。邪頗る公忠、弘肇、京師を察し、道、遺ちたるを拾はず。章は、遣利を招拾して、供饋乏しからず、國家相安し。弘肇、嘗て謂ふ、天下須らく長槍大劍を用ゆべし。安んぞ毛錐子を用ゐむ立ニや。章曰く、若し毛錐なくむば、財賦何に由つて取辨せむと。章、にじ文人を輕んず。嘗て曰く、この輩、算を握るも、縱橫を知らず、何둘ぞ用に益あらむと。漢主の左右嬖倖、寝く事を用ゐ、親戚政を干五代-漢六五七
十八史略卷之六甕す、邪等、毎に之を裁抑す。漢主、益す壯、大臣に制せらるるを厭ふ。楊邪、嘗て事を前に議す。曰く、陛下、惟だ聲を禁ぜよ。臣等左右因つて之を譜の在るありと。漢主、積んで平らかなる能はず、す。乾祐二年。邪弘肇、章を殺し、密詔を遣して、郭威を鄴に殺ささむと欲す。將佐、威に勸め、入朝して自ら訴へしむ。威、大軍をふ引いて至る。漢主、兵を遣して、之を拒ぐ。或は降り、或は戰はずし白して、て還り、漢主、亂兵の爲に弑せらる。威太后に武寧節度賛を迎へしむ。未だ至らず。契丹の入寇を聞き、威を遣し、兵に將として、之を擊たしむ。威、澶州に至る。將士、大に課ぎ、黄旗を裂むいて、以て威の體に被らしめ、共に之を扶抱して、萬歲を呼び、地に震ふ。威を擁して南行し、遂に漢に代る。漢二世四年にして亡ぶ。周【周太祖皇帝】姓は郭氏、名は威、太原の人なり。唐の莊宗、宮人六ら〓柴氏あり。其家に歸つて、姻を擇ぶ。一日、門に窺ひ、疾走して過ぐる者あるを見る。柴氏、大に驚いて、何人ぞと問ふ。告ぐるもの曰く、從馬軍使郭雀兒なりと。柴氏、之に嫁せむと欲す。父母、肯んぜずして曰く、汝は帝の左右の人、當に節度使に嫁すべし。奈何ぞ、此人に嫁せむやと。柴氏、堅く他人に嫁せず、竟に威に歸す。五代-周六五九
十八史略卷之六六六〇漢祖、河東に鎭するや、威、孔目官となる。契丹、汴に在り、威:漢祖に勸めて兵を擧げしめ、遂に帝業を爲す。漢の隱帝の時、威.專ら征伐を主る。隱帝、之を殺さむと欲す。克たず。威、兵を擁し立て、汴に入り、旣にして、出でて契丹を禦ぐ。軍士、擁して、汴にか、)た還る時に已に賛を徐州に迎ふ乃ち漢の太后の令を以て賛を廢して湘陰公となし、威を監國となし、尋いで位に卽き、自ら周の號叔の後なりと謂ひ、國を周と號す。贇は崇の子なり。崇、初め、隱帝が害に遇ふを聞き、兵を起して、南に向はむと欲す。贇を迎立するを聞くに及び、すなはち曰く、吾が兒、帝とならば、吾、復た何をか有求めむやと。賛、廢せられて死す。崇、乃ち帝を晉陽に稱す。つえだ所は並、汾、忻、代嵐、憲隆、蔚、沁、遼麟石、十二州の地なり。其臣に謂つて曰く、顧るに、我は是れ何の天子、汝等は是れ何の節度使かと。之を北漢となす。子承鈞を遣して、周を伐つ。きつたん克たず。使を遣して、師を契丹に乞ふ。契丹、北漢主を策名し、名を旻と更む。契丹の述軋兀欲を弑して自立す。述律、討つて述軋を殺して之に代る。楚は、希廣、希萼より以來、相攻奪して、寧歲なし。其下、又、希萼を廢して、希崇を立つ。南唐、邊鎬を遣して楚を擊たしむ。希崇、降る。南唐、馬氏の族を金陵に遷す。楚亡ぶ。五代-周〓.
十八史略卷之六六六二故の楚將劉言、朗州より潭を攻む。邊鎬走る。言、湖南を取り、命を周に請ふ。周、言を以て朗を鎭せしめ、王達に潭を鎭せしむ。げん·達、襲うて、言を朗に殺し、周行逢を以て朗を守らしむ。達、潭にか、還る。後、又、行逢を以て潭を鎭せしめ、達、自ら朗に居る。周主、在位三年にして殂す。改元するもの一、曰く廣順晉王、立つ、之を世宗皇帝となす。【世宗皇帝】名は榮、本姓は柴氏、周祖の妻の兄柴守禮の子なり。周祖、子なし、故に之を養ふ。周初、節鎭を領す。旣にして、開封に尹たり。晉王に封ぜらる。周主、終に臨んで、晉王に命じて、政を聽かしめ、尋いで、位に卽く。北漢主、周主の殂するを聞き、大に喜び、兵を契丹に請ふ。契丹、將楊衰を遣して、萬騎に將たらしめ、北漢主、自ら三萬人に將として來る。周主、自ら將として、之;を禦がむと欲す。群臣、皆、諫む。主曰く、崇、大喪を幸なりとし、朕の年少を輕んず、是れ必ず自ら來らむ。朕、往かざるべからず。吾が兵力の强を以て崇を破る、山の卵を壓するが如きのみと。馮道、力めて爭ふ。惟だ王溥勸めて行かしむ。北漢主、高平に軍す。周の前鋒、之を擊つ。北漢の兵、郤く。キ、其遁去を慮り、諸軍を趣して、亟に進む。後軍、未だ至らず、衆心、危懼す。而して、主の志氣、益す銳、合戰未だ幾ならず、周の右軍の將樊愛能、何徵、先づ遁れ、右軍潰ゆ。步軍千餘、甲を解いて降る。主、軍勢の五代-周六六三
十八史略卷之六六六四趙匡胤危きを見、自ら親兵を引いて矢石を犯して督戰す。督衞の將趙匡胤曰く、主、危きこと此の如し。吾が屬、何ぞ死を致さざるを得むと又、禁兵の將張永德に謂つて曰く、賊氣驕れり、破るべきなり。公、兵を引いて高きに乘じ、西に出でて、左翼となれ。我、右國家の安危翼となつて、以て之を擊たむ。國家の安危、この一擧に在りと。永此一擧に在德、之に從ひ、各二千人に將として、進み戰ふ。匡胤、身、士卒に先んじ、馳せて其鋒を犯す。士卒死戰、一、百に當らざるなく、北〇%漢の兵、大に敗る。楊衰、敢て救はず。北漢主、晝夜北走、わづかに晉陽に入るを得たり。周主、焚愛能、何徽、及び所部軍使以上七十餘人を收め、之を責めて曰く、汝輩、戰ふ能はざるに非ず、正にらは、とる〓朕を以て奇貨となして、劉崇に賣與せむと欲するのみと、悉く之を〓斬る。之より、驕將惰卒、初めて、懼るる所を知り、姑息の政を行;はず。張永德、盛に趙匡胤の智勇を稱し、權に殿前都虞候たり。周¥.主、侍臣に謂つて曰く、兵は精を務めて、多きを務めず、農夫百、評世用渡民ずを未めては宗養だず多精のを此血何能士夫を務 周言未だ戰士一を養ふ能はず。奈何ぞ、民の膏血を浚うて、この無用のき金政養無をぞは一百務め兵農きを3,物を養はむやと、乃ち命じて、大に諸軍を簡せしめ、又諸道に詔戰して、天下の壯士を募り、咸な闕に詣らしめ、匡胤に命じて、其尤物て膏奈ふりと志んのうのなる者を選ばしめて、殿前諸班となし、其騎步諸軍は、各、將帥に命じて、之を選ばしむ。之に由つて、士卒精强、向ふ所、克捷す。な鑑にはすすべ者周、北漢を攻む。汾、遼憲、嵐石、沁忻の州、皆、周に入五代-周六六五
十八史略卷之六大阪る。周主、晉陽を攻む。克たず。軍を引いて還る。北漢主劉旻、殂す。子鈞、立つ。か、周、蜀を伐ち、秦、階、成、鳳の州を取る。周、南唐を伐つ。唐、兵を遣し、壽州に拒いで敗る。周主、自ら將として、大に唐兵を正陽に敗る。唐將皇甫暉、姚鳳、〓流關を保つ。主、趙匡胤に命じ、道を倍して、之を襲はしめ、暉、鳳を擒にし、滁州に克つ。周師、楊泰光、舒、斬の州を取る。唐兵、周師を拒いで、復た泰州を取り、楊州を攻む。周主、匡胤に命じて六合に屯せしむ。唐兵、來り攻むるや、奮擊して、大に之を破る。將士、力を致さざる者あれば、匡胤、陽つて、督戰をなし、劍を以て、其皮笠を斫り、明日、遍ねく其笠を閱し、劍跡ある者數十人、部兵敢て死を盡?皆、之を斬る。之に由つて、さざるなし。周主、大か、と梁に還り、兵を留めて、壽州を圍む。唐兵、江北諸州を復す。周の守將、皆棄てて去る。兵を併せて、壽州を攻む。周主、復た自ら將として、壽に如く。唐人、城を以て降る。周主、大梁に還る。旣にして、復た自ら將として、濠泗を攻む。皆、降る。進んで楚州を攻황。兵を遣して、楊泰を取る。周主、楚州に克ち、還つて、楊州にと〓〓至る。唐主、使を遣して、盡く江北の地を獻ず。周主、乃ち還る。唐主、名を景と更め、帝號を去り、周の正朔を奉ず。朗州の王達、潘叔嗣の爲に殺さる。將吏、潭州の周行逢を迎へて五代-周奏若者
十八史略卷之六六六八かうはうたんらうあはたも朗に入らしむ。行逢、潭、朗を併せて、之を有つ。なんかんしゆりうせいこちやう南漢主劉晟、殂す。子銀、立つ。しうしゆしやうきつたんえいまいけい周主、自ら將として、契丹を伐ち、瀛莫、易の州を取る。京をはなくわんなんこと〓〓たひいうしうおもむ離るること四十一一日にして、關南悉く平らぐ。議して、幽州に趨ゆうしうえきしんくわん不豫に會して止む。よくわいぐわけうくわんかむとす。瓦橋關を以て雄州となし、益津關をはし)じゆかわうくわん霸州となし、成を置いて還る。往還六十日。てうきやうかんでんぜんとしわいなん趙匡胤、之より先、殿前都指揮使となり、從つて、淮南を攻む。したがきつたんてんぜんとてんけん又、從つて契丹を征す。是に至つて、殿前都點檢となるしうしゆかいげんけんとく周主、在位六年にして殂す。改元するもの一、曰く顯德。周主、はんたうくわいしゆかうへいかう藩に在つて韜晦す。位に卽くに及びて、首として、高平の寇あり。そのえいぶがうれいげんめひとあんで人、初めて其英武に服す。號令嚴明、人敢て犯すなし。城を攻め、てきしせきさ;ほかたちうごおう敵に對するや、矢石左右に落つれども、略ぼ容を動かさず、機に應きくけついへうせいじかんあばさじ、策を決する、人の意表に出づ。又、政事に勤め、姦を發き、伏評りる宗の鮮奶稀周な見世てきそうさつかんかじゆしやを摘し、聰察、神の如し。閒暇には、儒者を召して史を讀ましめ、たいぎしやうかくせいしちくちんぐわんよろこび業す惜ちらに早ず帝世か故哉大義を商権す。性絲竹珍玩の物を好まず、常に言ふ。朕、必ず喜完よしやういかりけいぶんぶさんようかくそののうに因つて人を賞し、怒に因つて人を刑せずと。文武參用、各其能をそのめいおそそのけいなつてき盡くす。人、其明を畏れて、其惠に懷く。故に能く敵を破り、地をひろところまとうかゑんきんあいぼれうわうたきよう廣め、向ふ所前なし。登遐の日、遠近哀慕す。子梁王立つ、之を恭てい帝となす。そうくん【恭帝】名は宗訓、七歲にして位に卽く。五代-周義
十八史略卷之六六七〇てうきやうかんとくせつどしていげんちんきつたん趙匡胤を以て歸德節度使となし。明年春、定言に鎭せしむ。契丹にふかうきよういんしやうふせちんけうえき入寇す。匡胤をして兵に將として、之を禦がしむ。陳橋驛に至るぐんしようか、さくりつしうしゆざいゐそうゆつしうや、軍士擁し還つて策立す。周主在位半年、遂に宋に禪る。周は、太祖より、是に至るまで、三世、二姓、十年にして亡ぶ。宋てうしなきやういんそのせんたくじんあひつた西紀九六〇【宋太祖皇帝】姓は趙氏、名は匡胤、其先は涿人なり。相傳へて、ちゝこういんらくやうきんえいしやうかうきやういんかんけいてうくわうかん匡胤を漢の京兆廣漢の後となす。父弘殷、洛陽の禁衞將校となる。せきくわうしつえいちういかうかふはたいちう人、之を甲馬營中に生む。赤光室に滿つ、營中異香あること一月、かうがいじしんぶんえつしたがまな香孩兒の營といふ。少にして、辛文悅に從つて學ぶ。文悅、嘗て駕むかゆめきやういんしうせいそうぐんせいつかさどを邀ふるを夢む、乃ち匡胤なり。周の世宗の時、軍政を掌る。凡そそのおんゐさしばしせいばつしたがたいこうせいそう六年。士卒、其恩威に服す。數ば征伐に從つて大功を立つ。世宗、にちぶんしよけふちうぼくしよてんけんな一日文書篋中に於て、一木書を得たり。曰く點檢、天子と作ると、ちやうえいとくてんけんうつかきやういん時に、張永德、點檢たり。世宗、乃ち之を遷して、易ふるに、匡胤せいそうそきやうそうそくるめ、しゆくえいりやうを以てす。世宗殂す。恭宗卽位の明年、命じて、宿衞を領せしめ、きつたんふせしゆわかくにあやふちうぐわいはじすゐたいぎ契丹を禦ぐ。時に、主少く、國危く、中外始めて推戴の議あり。大ぐんかうべうくんじつかまじつこくくわうあひうごか軍、旣に出づ。軍校苗訓、日下に復た一日あつて、黑光相盪すをゆびさてんめいちんけうえきじぐんししゆうぎ見て、指して曰く、之れ天命なりと。夕に陳橋驛に次す。軍士聚議てんけんほくせいくわんし、先づ點檢を立てて天子となし、然る後に、北征せむといひ、環カンあしたてんけんすゐぐわれいめいあして、旦を待つ。點檢、醉臥して知らざるなり。黎明、軍士甲を宋-太祖皇帝-六七一
十八史略卷之六六七二た撮し、兵を執り、直に寢門を叩いて曰く、諸將主なし、願はくは、大尉を策して、天子となさむと。點檢、驚起し、衣を披けば、相與に扶け出で、被らすに黃袍を以てし、羅拜して、萬歲を呼び、擁して、馬に上ぼせて南行す。之を拒めども可かず。乃ち轡を攬つて、諸將に誓ひ、仁和門より入る、秋毫も犯す所なし。恭帝、遂に位を禪る。領する所の節鎭、宋州の歸德軍なるを以て、故に國號を宋といふ。卽位の初、陰に群情を察せむと欲し、頗る微行をなす。或ひかろ〓〓と輕しく出づる勿れと諫む。上曰く、帝王の興る、自ら天命あり。周の世宗、諸將の方面大耳の者を見れば、皆、之を殺す。我終日しは·側に侍するも、害する能はざるなりと。微行、愈よ數す。曰く天命ある者は、自ら之を爲すに任かす、汝を禁ぜざるなりと。中外警服す。昭義節度使李筠は、故の周の宿將なり。澤に反す。上、石守信に命じて、之を討たしめ、尋いで親征す。筠、自ら焚死す。澤潞、平らぐ。淮南の節度使李重進は、周祖の甥なり。亦た反す。上、石守信に命じて、之を討たしめ、尋いで親征す。重進、自ら焚死す。淮南、平らぐ。〓南の高寶融、卒す。弟寶勗、之に代る。南唐泉州の留從效、藩と稱す。宋-太祖皇帝-六七三
十八史略卷之六六七四建隆二年南唐主李景、都を南昌に遷し、其子從嘉を以て、建康を守らしむ。從嘉立つ、名を煜と更む。趙普上、旣に筠、重進を誅し、樞密直學士趙普を召して問うて曰く、吾、天下の兵を息め、國家長久の計を爲さむとす、其道如何、普にてい、曰く、唐季以來、帝王數ば易はるは、節鎭太だ重く、君弱く、臣强きに坐するのみ。今、稍く其權を奪ふに若くはなし。其錢穀を制し其精兵を收むれば、天下自ら安からむと。又言ふ、殿前帥石守信等皆、統御の才に非ず、宜しく、他職を授くべしと。上悟る。守信等を召し、宴酣なる時、左右を屏けて謂つて、曰く、我、爾曹の力に非ずむば、是に至らず。然れども、終夕未だ嘗て枕を安くせざるなり。この位に居る者は、誰か之を爲すを欲せざらむ。守信等、頓首して曰く、陛下何すれぞ此言を出す。天命旣に定まる、誰か敢て異心あらむや。上曰く、汝曹異心なしと雖も、麾下の人の富貴を欲〓に切る點てれの砲ば身をするを如何。一旦、黃袍を以て、汝の身に加ふれば、爲すを欲せずと雖も、それ得べけむや。皆頓首して泣いて曰く、臣等、愚、是に爲すけも欲やんずつ きずしずとんそせ及ばず、惟だ陛下哀矜して、生くべきの途を指示せよ。上曰く、人生白駒の隙を過ぐるが如し。富貴を好むと爲す所のものは、多く金錢を積んで、厚く自ら娛樂し、子孫をして貧乏なからしめむと欲するに過ぎざるのみ。汝曹、何ぞ兵權を釋いて去り、出でて、大藩じ七よを守り、便好の田宅を擇んで、子孫の計を爲さざる。多く歌童舞女宋-太祖皇帝-六七五
十八史略卷之六大丈を置き、日に酒を飮んで、相安んずる、亦た善からずや。皆、拜謝して曰く、陛下臣等を念ふこと、是に至る。謂ゆる死を生かし骨に肉づくるなりと。明日、皆、疾と稱して、罷めむを請ふ。趙普は、薊人なり。上に滁州に遇ひ、用ゐて節度掌書記となす。上、卽位の後、專ら與に謀議し、之に倚信す。女眞、馬を貢す。囘體于鬪、來貢す。留從效、建隆三年。泉州の卒す。衙將陳洪進、張漢思を推して、軍務を領せしむ。定難節度使、周の西平王李彜興、馬を貢す。ヘ武平、武安の鎭帥周行逢卒す。子保權、軍府を領す。衡州の太守)張文表、亂を作し、兵を起して、潭州に據る。保權、表して救を宋に請ふ。〓南の高寶勗、卒す。兄の子繼冲、之に代る。高麗、來貢す。けんとくぐわんねん乾德元年慕容延到等に命じ、周保權に會して、張文表を討たしむ。師江陵より出づ。高繼冲、出でて降り、〓南平らぐ。延到、二湖南に至る。文表、さきに已に敗死す。保權、宋師の〓南に下るを、〓聞いて、懼れて拒守す。師進んで、之を討ち、保權を獲、湖南、平らぐ。宋-太祖皇帝六七七
十八史略卷之六発二年。宰相、范質、王溥、魏仁浦、乞うて罷む。質等は、周朝の舊相なり。唐より以來、宰相は、惟だ大政事を面奏するのみ。餘の號令刑賞除拜は、但だ熟狀を入る。質等、前朝の大臣を以て、稍こと〓〓や形跡を存し、事每に割子を具へて進呈し、退いて得る所の聖旨を批し、同列、皆、字を書して、以て之を志す。奏御の多きこと、是cに始まる。質等、旣に罷む。趙普を以て、同平章事とす。けんとぐ王全斌に命じて、蜀を伐たしむ。乾德三年、蜀相 李昊、蜀主孟す、昶に勸めて、出でて降らしむ。前蜀王氏の亡ぶるや、降表、亦た昊よ草する李家世々降表をの草する所、蜀人、夜、其門に書して曰く、世、降表を修する李家と。初め、上、宰相に命じて、前代未だ有らざる年號を擇ばしめ、以て今の元に改む。是に及びて、蜀鑑を得たり。乃ち乾德四年鑄の字あり。之を怪んで、學士竇儀を召して問ふ。曰く、むかし、僞蜀王衍に此號ありと。上歎じて曰く、宰相は、須らく、讀書の人を用ゆべしと。五年、五星奎に聚まる。之より先、周の顯德中、竇儼、楊徽之、盧多遜、同じく諫官となる。儼推歩を善くす。嘗て曰く、丁卯の歲、五星、奎に聚まり、之より、天下太平ならむ。二拾遺、之を見む、儼は預らざるなりと。是に至つて、果して然り。(Amagdala)夏州の李彝輿、;卒す。千五百八軍務を領す。宋-太祖皇帝-大元
十八史略卷之六六八〇し開寶元年北漢王劉鈞、殂す。養子繼恩、立つ。郭無爲、之を弑して、其同母弟繼元を立つ、皆、異姓の子なり。良擅に刑雷德驤大理寺に判たり。官屬、堂吏と宰相に附會し、f名を增減す。德驤、憤惋し、直に講武殿に詣つて、之を奏す、併せて言ふ、趙普、强ひて人の第宅を市ひ、財賄を聚歛すと。上、怒つ鼎鐺尙ほ耳て叱して曰く、鼎鐺、尙ほ耳あり。汝、趙普は、吾が社稷の臣たるを聞かざるかと。柱斧を引いて、其二齒を擊折し、命じて、曳き出さしめて、之を黜く。二年。曹彬等に命じて、北漢を伐たしめ、尋いで、親征し、太原を攻む。城久しく下らず。兵を百草池に頓す。暑雨に中つて、軍中疾疫す。詔して、師を班へす。び。上、位に卽いてより、或は微行して、功臣の家に幸し、測るべからず。趙普、退朝する毎に敢て衣冠を脫せず。一夕、大に雪ふる。た普、意へらく、上、復た出でずと。之を久しうして、門を叩く聲を聞く、異甚し。亟に出づれば、上、雪中に立つ。普、惶恐して、迎へ拜す。普の堂に卽き、重〓を設けて地坐し、炭を熾にし、肉を燒く。普の妻、酒を行ふ。上、嫂を以て、之を呼ぶ。普、從容として、問うて曰く、夜、久しく寒甚し。陛下何を以て出づる。上日晋く睡れども著く能はず、一榻の外、皆、他人の家なり。故に、來つて卿を見る。普曰く、陛下、天下を少とするか。南征北伐、是宋-太祖皇帝-交
十八史略卷之六六八二ねせいさんむかじやういはたいげんれ其時なり。願はくは、成算の向ふ所を聞かむ。上曰く、吾、太原もくぜんを取らむと欲す、普、默然、やや久しうして曰く、臣の知る所に非たいげんせいほくヘんあたきよへんくわん評太趙ざるなり。太原は西北二邊に當る。一擧して下らしむれば、邊患說に備え之湯 5一二大地 200よくられて富西所にら獨れて當西あたしばらとじもつしよこくさくへい以て諸國を削平するを俟たし大大むりば下る北我獨り、之に當らむ。何ぞ姑く留めて、云之邊ら一だんぐわんこくしはのがざる。かの彈丸黑子の地、將た何の逃るる所ぞ。上笑つて曰く、吾まさしかしばらけいこゝろしけいこが意、正に爾り、姑く卿を試みるのみと。是に於て、師を〓湖に用に陸べ上つせいせんほくかんてふしやほくかんしゆきんゐ、繼いで、西川を取る。嘗て、北漢の謀者に因つて、北漢主鈞にしうしよゝあだうべくつ語つて曰く、君が家、周氏と、世仇なり、宜なり、屈せざるや。われなんぢかんくるしきん今、我爾と間あるなし。何の爲にかこの一方の人を困むと。鈞、てうしやふくめいとうとちへいかうじふいちあた謀者を遣して、復命して曰く河東の土地兵甲、中國の什の一に當는まもけだかんしけつしいおそるに足らず。區區として、此を守るは、蓋し漢氏の血食せざるを懼かなしきんよをはるればなりと。上、其言を哀んで、鈞の世を終るまで、大軍を以てほくばつけいげん北伐せず。繼元の立つに及びて、始めて兵を用ゆ。としきつたんそのしゆじゆつりつぼくそうがうそのをちこつよくこめいこの歲、契丹、其主述律を弑す。穆宗と號す。其伯父兀欲の子明きげいりふけんあらた記を迎立す、名を賢と更む。はんびめいなんかんくわうしうかりうちやう三年。潘美に命じて、南漢を伐つ。四年、廣州に克つ。劉銀、降なんかんる。南漢、亡ぶ。かうしていれんないふせいかいせつど六年。交趾の丁璉、上表して內附を求む。詔して、以て靜海節度しあんなんと使安南都護となす。てうふしやうかじやうせつどしちんきくわだん評趙普は所趙普、相を罷めて、河陽三城節度使を領す。普、沈毅果斷、天下宋-太祖皇帝-六八三
十八史略卷之六六日謂宋の社稷を以て、己の任となす、嘗て、某人を除して某官となさむと欲す。の臣なり上、用ゐず。明日、又、之を奏す。上、怒つて、其奏を裂く。普、か、さ、徐に拾うて以て歸り、補綴して以て進む。上、悟つて、乃ち之を可とす。又、功を立てて、當に官を遷すべき者あり。上、素より、其き人を嫌うて與へず。普、力め請うて、下さむを謂ふ。曰く、朕、固;く與へざれば奈何。普曰く、刑賞は天下の刑賞、安んぞ、私の喜怒を以て、之を專らにするを得むと。上、聽かずして起つ。普、之に隨ふ。上、宮に入る。普、宮門に立つて去らず。上、之を可とす。普、常に大甕を闇後に設け、表疏の意可とせざる者は、其中に投じ雷德驤の子、て、之を焚く。其多く謗を得る者は、此を以てなり。又、之を許く。上、始めて、普を疑ふ。之より先、參知政事を置いさて、以て普に副すと雖も、制を宣せず、押班せず、知印せず、政事堂に升らず。是に至つて、始めて、二參政に詔して、政事堂に昇つて、同じく政を議し、更に知印押班、普と齊しからしむ。未だ幾ならずして、普、遂に罷む。薛居正、呂餘慶等其後、繼いで、相となる。七年。曹彬に命じて、江南を伐たしむ。上、屢ば使を遣し、江南國主李煜5に諭して、入朝せしむ。至らず。乃ち、彬及び播美等を以て、之を討たしめ、戒むるに、切に生民を暴略するなく、務めて、威信を廣くし、自ら歸順せしめて、須らく急に擊つべからざるを以宋-太祖皇帝-六八五
十八史略卷之六交六かうけんひんさづふくしやうしてし、匣劍を取つて、彬に授けて曰く、副將より下、命を用ゐざるいかいうぜんびんしよく者は之を斬れと。美以下、皆、色を失ふ。王全斌、蜀を平らげて、じやうつねうらひんせいじんこうせんにん多く人を殺せしより、上毎に之を恨む。彬性仁厚、故に專任すこうなんはんじやくすゐしんしあだいじやうしよ之より先、江南の焚若水、進士に擧げられて、第せず。上書して事さいせきこうじやうなはくわうけうを言ふ。報ぜず。乃ち魚を釆石江上に釣り、繩を以て、江の廣狹をはかけつさくちんいなんたい度り、闕に詣つて、策を陳ず。上、其言を用ゐ。〓南に令して、大かんつくれうしわたせきすんたが艦を造つて、浮梁となし、以て師を濟す。是に至つて、尺寸を差へずさうひんきんれうかこぢよげんにふてう八年、曹彬、金陵を圍むこと急なり。李煜、徐鉉を遣して、入朝ゆるげん5かせしめ、兵を緩うせむことを求む。鉉、言ふ。爆小を以て大に事つかそのせつすうひやくかさなんぢふる、子の父に事ふるが如しと。其說、數百を累ぬ。上曰く、爾りやうかかテ父子といふ、兩家となして可ならむやと。鉉、對ふる能はず。尋いまそうこうなんつみきますまはげで、復た至り、奏して言ふ、江南、罪なしと。辭氣益す属し。上、けんあんたげんもちこうなんま怒つて、劍を按じて曰く、多言を須ゐず、江南亦た何の罪あらむ。ぐわたふかたはらあたにんかんすゐげんくわう臥榻に佗容人のれの側ん肝豈惟だ天下は一家、臥榻の側、豈に佗人の鼾睡を容れむやと。鉉、惶きようしりぞきんれうかこみいきほひや睡をいよいきうしゆく恐して退く。金陵、圍を受けて、春より冬に徂き勢愈よ窮蹙ひんんだいくす。彬、終に之を降さむと欲し、しきりに、人をして、煜に告げしぼうじつよろところなめて曰く、某日、城必ず破れむ、宜しく早く之が所を爲すべしと、ひんやまひしようしよしやうひんやまひ一日、彬、疾と稱す。諸將、來り問ふ。彬曰く、彬の疾は、藥の能しんせいみだりく癒やす所に非ず。諸公、若し共に信誓をなして、城を破るに、妄宋-太祖皇帝-六八七
十八史略卷之六炎に一人を殺さざれば、彬の病、癒えむと。諸將、皆、許諾し、香を焚いて約誓す。翌日、城陷る。煜出でて降る。南唐亡ぶ。捷書至る。上、泣いて曰く、宇縣の分割、民、其禍を受く。城を攻むるかの際、必ず橫に鋒鏑に罹る者あらむ。哀むべきなりと。彬還る。舟中、惟だ圖籍衣衾のみ、閤門より、其榜子を通じて曰く、敕を江南に受け、事を幹して囘ると。其伐らざること、かくの如し。評九年、吳越王錢俶、來朝す。辭して歸るや、上、賜ふに黃袱を以胤人度人此を君所示た趙する匡封緘甚だのてす。固し。曰く、途中にして、宜しく密に觀るべしと。と之を啓くに及べば、皆、群臣俶を留めむを乞ふの章疏なり。俶、感懼す。上、西京に如き、宣祖の安陵に謁す。夏四月、郊す。都民の垂白なる者相謂つて曰く、我輩、少より離亂を經たり、圖らざりき、今日復た太平天子の儀衞を觀むとはと。泣下るものあり。と上、留まつて洛陽に都せむと欲す。群臣咸な諫む。上曰く、吾長安に都せむとす。晉王、叩頭して曰く、德に在つて險に在らず。上曰く、吾が將に西遷せむとするものは、山河の勝に據つて、冗兵を去らむと欲す。晉王の言、まことに善し。今、しばらく之に從はむ。百年を出でずして、天下の民力殫きむと。乃ち大梁に還る。上崩ず、在位十七年。改元するもの三、曰く建隆、乾德、開寶。宋-太祖皇帝-六八九
十八史略卷之六六九〇評壽五十。上、仁孝、豁達にして大度あり。陳橋の變、衆心に迫ら豁趙い賢朝度達匡りし仁て孝ふ英をあに胤大る京師に入るに泊びて、市、肆を易へず。嘗て、一日朝を罷め、し主じ廿通とて四の便殿に坐して樂まざるもの、之を久しくす。左右、其故を問ふ。上曰く、爾天子と爲る。容易なりと謂へるか。適ま快に乘じて、事を指揮して誤る。故に樂まざるのみと。嘗て、近臣を紫雲樓下に宴し、因つて、民事に論及し、宰相に謂つて曰く、愚下の民、菽麥を分たずと雖も、藩侯爲に撫養せず、務めて、苛虐を行ふは、朕、斷じて之を容さずと。開寶の初、京城及び大内を修め、營繕し畢る。上、寢殿に坐し、諸門を洞開せしむ。皆、端直軒豁壅蔽あるなし。因つて左右に謂つて曰く、是れ、我が心の如し、少しく邪曲あれば、人、皆、之を見むと。蜀を平らぐるの後、嘗て、其兵百餘を擇んで、川班殿直となしき郊禮して賞を行ふに、御馬直扈從を以て、特に給を增す。川班登聞鼓を擊ち、例を援いて陳べ乞ふ、上、怒つて曰く、朕の與ふる所は、卽ち恩澤たり、豈に例あらむやと其妄訴する者四十餘人を斬こと〓〓り、餘は悉く諸軍に配隷し、遂に其直を廢す。內臣、後唐に事ふるに逮ぶ者あり。上、問ふ、莊宗英武、天下を定め、國を享くること久しからざるは、何ぞやと。其人、其故を言ふ上、髀を撫して、嘆じて曰く、二十年、河を夾んで戰爭し、天宋-太祖皇帝-発
十八史略卷之六充下を取り得るも、軍法を用ゐて約束する能はず、まことに、兒戯たり朕、今士卒を撫養して、爵賞を客まず、苟くも、吾が法を犯せば、惟だ劔あるのみと。五代以來、藩鎭强盛、上、漸を以て之を削り、諸節鎭を罷めて、專ら儒臣を用ゐ、郡國を分理し、以て節鎭の橫を革む。又、諸州の通判を置き、以て刺史の權を分たしむ。之より諸侯勢輕くして禍難作らず、專ら民力を愛養するを務む。貢獻を罷め郤け、羨餘をす、進むるを禁ず。常に澣濯の衣を衣、寢殿は、靑布、葦簾を緣す。晩節、讀書を好む。嘗て、歎じて曰く、堯舜の世、四凶、投竄に止まる、何ぞ近代法網の密なるやと。諸國を削平するに必ず之を招き、至らずして後に、兵を用ゐ、其旣に降るに及びて、皆戮を加へず、禮して、之を存し、其世を終らしむ。嘗て、武成王の廟に幸し、從祀を觀るに白起あり、指して曰く、起、巳降を殺す、不武なりと。命じて之を去らしむ。評明治三十七年太祖周周の恭帝、鄭王に封ぜられ、後、房州に遷る。上、辛文悅の長者に當服装なるを以て、き前當 日房州の守たらしむ。恭帝上に先つこと二年、始めてすり例な其か、卒す。上哀を發して、朝を輟むること十日、還つて葬ること、禮の如くす。上、初め、京に入る時、周の韓通、節に死す。追贈、優厚なり。宋-太祖皇帝-六九三
十八史略卷之六六九四王彥昇命を棄てて、殺を專らにす。終身、節鉞を授けず。受禪の際倉卒、未だ恭帝の禪制あらず。學士陶穀、之を懷中より出す。上、之を薄しとす。穀久しく翰林に在つて頗る怨望す。上曰く、哥ゑ學士の草制は、樣に依つて葫蘆を畫くのみ、何の勞か之あは學樣十七を依草畫つ制くTalらむと。卒に之を政府に登さず。よっき內外の官、時望ある者姓名を籍記し、以て不次の選用を待つ。職に稱ふ者は、多く久任して遷らず。銓選法を定め、擧主連坐の法を嚴にし、贓吏の法を嚴にし、極刑に眞く者あり。五代藩鎭、苛征重歛の弊に懲りて、商征を寛うし、麴鹽酒の禁を寛うし、倉吏多く民租を入るる者は、或は棄市す。五代、多く武人を以て牧守となし、日ニ意に率つて刑を用ゆ。上、之に懲り、ことさらに入る者は、必ず罪たに抵る。大辟詳覆法を定め、折杖法を定め、新刑統を頒ち、差役法を定め、版籍、戶帖、戶鈔を作る。長吏、民田を度つて實ならざるV者あれば、或は之を杖流す。諸州、旱蝗あれば、饑を賑はし、租を§かう、獨き、惟だ及ばざるを恐る。德行孝悌を擧げ、制科を親策す。擧人進士の榜を放つ。覆試法を嚴にし、殿に御して進士を親試し、書判拔萃を試み、數ば國子監に幸し、天下に詔して遺書を求む。始めて和峴定むる所の雅樂を用ゆ。始めて、劉溫叟上つる所の開寶通禮二百卷を行ふ。宰執に命じて、日々時政を記し、史館に送つて、日曆を撰せしむ。制度典章、彬彬として條理あり。太弟晉王立つ、之を宋-太祖皇帝-六九五
十八史略卷之六六九六太宗皇帝となす。西紀九七六【太宗皇帝】初名は匡又、太祖の長弟なり。太祖の京城に入るや、1九九七匡又、首として諸將に號令し、士卒を戰めむことを請ひ、仍つて、自ら馬前に於て標掠を戒む。太祖、禪を受くるや、乃ち光義と改名し、開平に尹とし、同平章事たり。晉王に封ぜらる。建隆二年昭評博多明治君太あ后憲杜太后、崩ずるに臨み、太祖に謂つて曰く、汝、天下を得る所以〓るは長久ののものを知れりや。太祖曰く、皆、祖考と太后との餘慶なり。太后リ大途理り由とあす笑つて曰く、然らず、正に柴氏幼兒をして天下に主たらしめしに由るのみ。汝萬歲の後、當に位を管王に傳へ晉王は秦王に傳へ秦王は以て德昭に傳ふべし。國に長君あるは、社稷の福なり。太祖曰とく謹んで〓を受くと。太后、趙普を呼んで曰く、趙書記、共に吾が言を記せよ、違ふべからずと。因つて普に命じて、榻前に於て、?臣普記す誓書を爲らしむ。普、紙尾に署して曰く、臣普記すと。之を金匱に藏す。太祖、友愛篤く至る。晉王、嘗て疾に寝ねて灼支す。太祖亦た自ら灸し、以て其痛を分つ。嘗て曰く、晉王は龍行虎步、且つ生まるる時、異あり、佗日必ず太平の天子とならむ。福德は吾が能く及ぶ所に非ざるなりと。太祖、蜀に幸す。布衣張齊賢あり、十策を獻ず、召し問うて食を賜ふ。且つ陷ひ、且つ對ふ。太祖、其某策を善しとす。齊賢、固く餘策皆善なるを稱す。太祖、怒つて斥け、便ち出づ。旣に還つて、音王に語つて曰く、吾、西都に幸して、宋-太宗皇帝-六九七
十八史略卷之六六九八の張齊賢を得たり。吾、之を用ゆるを欲せず。佗日、留めて、汝に與へて、宰相と作さむと。蓋し、傳位の定まれる久し。太祖、不豫13けいおんなり。后、王繼恩をして、皇子德芳を召さしむ。繼恩、徑に晉王を召す。王、宮中に至り、左右を散遺し、言ふ所、皆、聞くを得ず。¥但、遙に見る、燭影の下、王、席を離るるの狀あるを。既にして、上、柱斧を引いて地を戮し、こう)大聲して曰く、好く之を爲せと。遂に崩ず。后、晉王を見て愕然として曰く、吾が母子の命、皆官家に託す。王曰く、共に富貴を保し、憂なきなりと。王、位に卽き、名を昊と更む。秦王廷美、開封に尹たり。改めて齊王に封ぜられ、德昭、武功郡王に封ぜらる。使を遣し、州縣を分行して、官吏を廉察し、其優劣を第せしめ、罷軟にして任に勝へず、惰慢にして事を親らせざるものは、官を免にす。贓吏の配せられし者は、赦に遇ふも敍せず。大理評事陳舜封。事を奏するや、口捷に、擧止、倡優に類す。問ふ誰が氏の子ぞと。對ふるに、父、伶官たるを以てす。上曰く、汝は眞に雜類なり、豈に〓望に任ずるを得むやと。改めて、殿直を授く。陳洪進、來朝して、漳泉二州を獻ず。吳越王錢俶、來朝して、遂に其地を獻ず。潘美に命じて、北漢を伐たしめ、尋いで、親征して太原を圍む。宋-太宗皇帝-六九九
十八史略卷之六七〇〇りうけいげん劉繼元、出でて降る。北漢、亡ぶ。詔して契丹を征す。易州、涿州、來り降る。上、幽州を攻む。旬を踰えて下らず、遂に師を班す。郡王德昭、從つて幽州を征す。軍中、夜、驚いて、上の在る所を知らず。德昭を立てむことを謀る者あり。上聞いて悅ばず。歸るに及びて、北征利あらざるを以て、北漢を平らぐるの賞を行はず。德昭、之を言ふ。上、大に怒つて曰く汝が自ら之を爲すを待つて、賞するも未だ晩からざるなりと。え德昭、退いて自刎す。後二年、岐王德芳、卒す。太祖の二子、相繼いで死せしより、齊王廷美、自ら安んぜず。佗日土、傳國の意を以て、趙普に訪ふ。普曰く、太祖、既に誤る。陛下、豈に再び誤るべけむやと。是に於て、普、復た入つて相たり。廷美、遂に罪を得て、涪陵縣公に降す。普、復た知開封府李符をして、其怨望を〓げしむ。南房州に還し、尋いで、之を殺す。普、李符が言を漏らさむことを恐れ、弭、德超、曹彬を譜するの故に因つて、符、德超を薦めしを以て、符を春州に貶して卒す。种放、終南山に隱れ、草を結んで廬となし。講習を以て務となす。後進、多く之に從つて學ぶ。上聞いて、之を召す。辭するに、母の老いたるを以てす。上、其節を高しとして、厚く錢帛を賜うて之を旌はす。呂蒙正、參政となる。朝士あり、之を指して曰く、この子も亦た宋-太宗皇帝-七〇一
七〇二十八史略卷之六どうれつなじさんせいまうせいいつは蒙蒙正、佯つて聞かず。同列、其姓名を詰らむと欲す。加上有名參政かと。評姓し正を一名しうしんわすとじ終身忘れず、知る正、之を止めて曰く、若し一たび名姓を知らば、り如知終かる身しななきに如かざるなりと。ざるきくわざんちんたんがうきいせんぜたま華山の陳摶を召し、號を希夷先生と賜ふ。つひやところおくまんでんしやくかいほうじた費す所億萬田錫、奏して曰く、開寶寺の塔、成る。前後八年、あぶらぬちきんへきけいくわうしゆうお膏を塗り、血衆以爲へらく、金碧焚煌たりと。臣、以爲へらく、ぬいかを覺ると。上、怒らず。こけいゐんおとうとけいせいやりくわうえい之より先、西夏の李光叡、らいてう卒す。子繼筠、けん嗣ぐ。そのおとうとけいせん又卒す。そむ弟繼ほう其弟繼遷、叛き去捧、嗣ぐ。繼捧、來朝して、四州の地を獻ず。しばしへんふこうり、數ば邊に入寇す。きつたんしょいそうりうちよた緒十なち律契丹主明記、四宗卽耶はり遼隆はゝせうしの聖殂す。景宗と號す。子隆〓立つ、年十二。母蕭氏、そのこくせいもつは在位九年其國政を專らにす。(無料)九り遼一自さうひんらめいきつたんう上、曹彬等に命じ、道を分つて、ひんかう八二三一)至のくわんたいはいみことのりかつ契丹を伐たしむ。きつたん彬の兵、岐溝名君な關に大敗す。詔れんねんにふこうのちぢよしんきつたんして、そのてうこう師を班さしむ。みち契丹、之より連年入寇す。後、ゆる女眞、ぢよしん契丹、其朝貢の路を隔つるを以て、きつたん之を擊たむを請ふ。許さず。女眞、遂に契丹に臣たり。りけいほうせいめいてうはうちうせつど李繼捧に姓名を趙保忠と賜ひ、たまさづ上、しめいかぎんすゐいうせい節度使を授け、命じて、夏、くわんけいせんはか銀けいせん綏、くだてうはうきつ宥、靜、五州を管し、まへん繼遷を圖らしむ。かうり繼遷、降る。姓名を趙保吉と賜ふ。けいりうはうちうい保吉、はうきつ復た邊に寇す。きうと李繼隆に命じて、之を討たしむ。保忠言ふ。旣に保吉と仇を解く、乞ふ、兵を罷めむと。上、宋-太宗皇帝-七〇三
十八史略卷之六七〇四怒つて、繼隆に命じて、先づ兵を移して、之を討せしむ。繼隆、夏州に入り、保忠を闕下に檻送す。保吉、尋いで、亦た降を請ふ。然も、復た叛く。繼隆に命じて、之を討せしむ。こと〓〓蜀、旣に平らぎしより後、府庫の物、悉く載せて内府に歸る。土た、狹く、民稠く、有司賦外の科なきにあらず。王小波、起つて盜をなす。小波、死す。李順、之に繼ぎ、成都を攻め陷れ、蜀王と僭號す。上、王繼恩に命じて、討つて、之を擒にせしむ。蜀、平らぐ。交趾の丁連卒す。大校黎桓、其宗族を囚へて、其國を專らにす。上、初め命じて、之を討たしむ。功なし。旣にして、桓、奉貢す。竟に桓を以て、交趾郡王となす。時に、霖潦、寇準班を越度に過ぐ。上曰く、朕、刑獄に於ける、心を盡す。えて言ふ安んぞ積陰の譴を得たると。寇準、班を越えて、對へて言ふ。某州の局吏、官錢を侵すこと若干、法に於て小過となす。陛下、之を殺す。王淮は、參政王汚の弟なり。錢數百萬を盜む、法に於て大怒となす。陛下、汚の故を以て、{務めて、相容れて蔽ふ。かくの如くして、刑獄に心を盡すといふ。之を如何にして、積陰の譴なからむやと。上、卽日、淮を誅し、汚を罷む。俄にして、霖、止む。上、崩ず。在位二十二年。改元するもの五、曰く太平興國、曰く雍熙、端拱、淳化、至道。15壽五十九。薛居正、沈淪、趙普、宋琪、李昉、呂蒙正、張齊賢、呂端等、相繼いで、相となる。普は、凡そ宋-太宗皇帝-七〇五
十八史略卷之六七〇六趙普の言行再び入つて再び罷めらる。尋いで薨ず。普、初め、吏道を以て聞こさゆ學術寡し。太祖、嘗て勸むるに經書を以てす。普、遂に手に評論鮮奶茶奶茶奶茶語に卷を釋かず。朝に大議ある毎に、卽ち戶を闔ぢて自ら一筐を開き、し參大·一書を取つて、之を閱す。卒するに及びて、家人、其筐を視れば、論語なり。嘗て、上に謂つて曰く、臣に論語一部あり、半部を以て太祖を佐けて天下を定め、半部を以て陛下を佐けて太平を致すと。呂蒙正蒙正、晩に出づ。嘗て、普と並び相たり。普、甚だ之を推す。蒙正、嘗て、冊子を夾袋中に置いて、四方人材の姓名を疏し、以て選張齊賢用を待つ。初め太祖、嘗て、張齊賢を以て、上に屬す。齊賢、進士に擧げらるるに至つて、上、之を上第に置かむと欲す。然も、有司、其名を第して、下に在り。と乃ち、詔して、一種、特に通判を與へ卒に大に用ゐらるるに至る。呂端糊塗す呂端、相となる。人、謂ふ、呂相、事を作して糊塗すと。上之を知つて曰く、端、小事は糊塗すれども、大事は糊塗せずと、上位に卽いて以來、小人を以て相となす者は、盧多遜一人のみ。太子立つ、之を眞宗皇帝となす。【眞宗皇帝】初名は元侃、襄王に封ぜらる。擧人楊礪といふ者あり、嘗で、夢に一大殿に至る。殿上に坐する者あり、あ之に語つて曰我は汝の主に非ず、く來和天尊は汝の主なりと。指示して、之に謁せしむ。礪後に進士第一なり。入つて、襄王府の記室たり。旣謁すれば、に、夢中見る所の如し。太宗、嘗て、相者をして、襄王宋-太宗皇帝-眞宗皇帝-七〇七
十八史略卷之六七〇八下六大きに詣らしむ。門に及んで、返つて曰く、王門は斷役も、皆將相たbo王、知るべしと。立つて、太子となる。是に至つて位に卽く、1;名を恆と更む。咸平二年、契丹、入寇す。上、親征す。大名府に至つて還る。三年。益州の卒王均反し、大蜀と僭號す。雷有終を以て州に知とし、討つて、之を擒にす。益州、平らぐ。亟に之范廷召、契丹を討ち、援を高陽關の都部署康保育に求む。力戰して之に死に赴く。廷召、ひそかに遁る。保裔、爲に圍まれ、す。靈州を李繼遷、先朝賜ふ所の姓名を奪はれ、邊に寇して已まず、攻め陷る。西凉六合の會長潘羅支、乞うて王師に會して、之を討つ。繼遷、西凉府を攻め陷る。潘羅支、要して、之を擊つ。繼遷、流矢に中り、靈州の境に於て死す。其子德明、降を請ふ。復た姓趙を賜ひ、後、封じて、西平王となす。楊嗣、楊延朗、智勇にして、善く戰ふ。團練使を加へらる。虜之を憚り、目して、楊六郞といふ。景德元年契丹主、其母蕭氏と大擧して入寇す。中外震駭す。參政陳堯叟は蜀人、蜀に幸せむことを請ふ。王欽若は江南の人、江南に幸せむことを請ふ。上、以て宰相寇準に問ふ。準、問ふ、誰か此策を畫する。上曰く、卿暫らく、其可否を斷ぜよ。問ふ勿れ。宋-眞宗皇帝-七〇九
十八史略卷之六七一〇準曰く、臣、策を獻ずるの臣を得て、斬つて以て鼓に釁り、然る後に北伐せむと欲するのみと。遂に親征の議を定む。上、蹕を韋城に澶州に至り、三面駐む。尋いで、衞南に至る。契丹、兵を擁して、弩に中つてを園合す。李繼隆等、出でて、之を禦ぐ。契丹の撻覽、す死し、大に挫けて退却し、敢て動かず。て寇準、力めて上に勸めて、猶豫の間瓊衞士河を渡らしむ。殿前帥高瓊、亦た力めて賛す。を麾いて、輦を進めて曰く、陛下、若し河を過ぎざれば、百姓考君が輩、此妣を喪ふが如しと。梁適、之を呵す。瓊怒つて曰く、遂評言痛烈骨を高瓊の一時、尙ほ人の失禮を責む、何ぞ一詩を賦して虜を退けざるやと。刺す黃旗幟に上を擁して、以て渡り、旣に澶州に至り、北城に登つて、を張る。諸軍、皆、萬歲と呼ぶ。聲數十里に聞こゆ。契丹、氣、評奪はる。ににを提の充ら利宋條必實れに帝と逸姑衰ずた的和力惑好しのをるてら件須が國誘和之より先、王繼忠といふ者虜に陷り、嘗て、和好の利を言亡遂る前好のせの故に大擧すと雖も、3.0.亦た使を遣し、繼忠の書を以て來らしむ。曹利用に命じて、上、之を報ず。利是に至つて、用、契丹の使者韓べも事至以悟せいそうと杞と共に來り、息世宗取る所の關南の故地を請ふ。上曰く、地.必ずふる大得べからず。寧ろ、金帛を與へて、いす以て和せむと。準の意、亦た與ふるを欲せず、且つ畫策して、以て進めて曰く、此の如くなれば、百年の無事を保つべし。然らざれば、數十歲の後、戎、復た心を生ぜむと。準蓋し之を擊つて、隻輪をして返らざらしめむと欲す。上曰く、數十歲の後、當に能く之を禦ぐ者あるべし。吾、生靈重ね宋-眞宗皇帝-七二一
十八史略卷之六七一二りようくるししのそのわゆるて困むに忍びず、しばらく、其和を聽せと。遂に再び利用をして往さいろきんはくすうやかしむ。利用、歲賂金帛の數を請ふ。上曰く、必ず已むを得ざれちよくじゆんば、百萬と雖も、亦た可なりと。準召して、之に語つて曰く、敕このすう旨ありと雖も、三十萬に過ぐるを得ず、じゆん若し此數を過ぐれば、つひけんまんぎん來つまんじゆんなか銀十萬て準を見る勿れ、準汝を斬らむと。利用、卒に絹二十萬、こもごせいやくなんてうけいほくてうを以て、和議を定め、南朝を兄となし、北朝を弟となし、交も誓約し、各、兵を解いて歸る。じゆんけいしはつてうしめいしよしうち準初め、でんらう京師を發するや、ち朝士に命じて、いまし出でて諸州に知たらひやくしやうみなしめ、皆、殿廊に於て、敕を受けしむ。之を戒めて曰く、百姓は皆ニみなざいみだじやうべきうしな兵、府庫は皆財なり。汝に浪りに戰ふを責めず、但だ一城一壁を失まぐんねこきんじやくしんせい當に軍法を以て事に從ふべしと。にくは、欽若が親征の議を沮むを恐そのちきんじやくてんゆうぐんれ、其智あり、きつたん且つ福あるを以て、きんじやく欽若を出して、つか天雄軍に知たら契丹、さくさいしむ。しうきやうじゆ城下に至る。欽若、せんえん門を閉ぢ、かへ手を束ねて策なく、じゆん齋を修し、きはあつ經を誦するのみ。上、澶淵より還り、うらてう準を待つこと、しりぞじやう極めて厚し。欽若、じゆん歸つて深く準を恨む。嘗て朝より退くや、上、準をもくさうきんじやくすへいかじゆんけいそのしやしよく目送す。欽若、進んで曰く、陛下、準を敬す、其社稷に功あるが爲じやうかちかひしゆんじうせうこくはかしうぜん城下の盟は、春秋の小國も、恥づる所なりと。上、愁然たり。きんじやくつねせんえんえきじゆん欽若、ちう且相となる寇準罷め王毎に曰く、や澶淵の役、うすつ準、陛下を以て孤注となすと。わうたんどうへいしやうじ上、準を待つこと。寢や薄し。尋いで、相を罷む。王旦を以て、同平章事たんわうこたいそかつこあんとす。旦は、王祐の子なり。太祖、嘗て、祐を遣して、事を按ぜし宋-眞宗皇帝-七一三
七一四十八史略卷之六か、:太祖の意に徇む。謂ふ、祐還らば、王溥の官職を與へむと。祐、はず、竟に大に用ゐられず。祐曰く、祐、做らずとも、兒子二郞、〓必ず三公となる必ず做らむと。三槐を庭に植ゑて曰く、吾が後世、者あらむと。是に至つて、旦、果して、相となる。深沈にして德望くあり、能く大事を斷ず。上、心深く之に屬す。趙德明、嘗て民の饑ゑたるを以て、表を上つて粮を乞ふ。群臣、皆、之を責めむことを請ふ。旦曰く、臣、德明に詔して云はしめんと欲す。塞上の儲粮は與ふべからず、己に京師に於て百萬を積む、自ら衆をして來り取らさいは、上、しむべしと。德明、再拜して詔を受けて曰く、朝廷人ありと。既に欽若の言を入れて、屢ば欽若に問ふ、何を以て恥を刷はむと。欽若、上の兵を用ゆるを厭ふを知り、謬つて曰く、幽薊を取れば可なりと。上、其次を思はしむ。乃ち請ふ、封禪し、以て四海を鎭伏夷狄に誇示せむと。し、又言ふ、封禪は當に天瑞を得べし、前代、人力を以て之を爲すあり、河圖、洛書、果して此あらむや。聖人神道を以て〓を設くるのみと。是に於て、太中祥符より以來、屢ば天書あつて降る。東、泰山に封じ、西、后土を汾陰に祀る。又、趙氏の祖九天司命天尊あつて降る。天下に天慶觀を立て、聖祖殿を置聖祖の名玄朗を諱み、き、玉〓昭應宮を作る。旦、其事を止むる能はず。上、在位二十六年。元年、呂端罷めてより後、張齊賢、李流、呂宋-眞宗皇帝-七一五
十八史略卷之六七六蒙正、向敏中、畢士安、寇準王旦、相繼いで、相となる。惟だ旦は位に居ること十一年。李沆の相たりし時に當つて、旦、始めて參李沈と王旦論語中政たり。沆論語を讀むを喜ぶ。嘗て曰く、宰相となつて、の「用を節して人を愛し、民を使ふに時を以てす」といふ兩句の如き、なほ行ふ能はず。聖人の言、終身之を誦するも可なりと。流評人主日に四方の水旱盜賊を取つて、之を奏す、旦謂ふ、細事、上聽をふすむ情賊し李べ名べを社て流水旱下盜を會の煩すに足らずと。流曰く、人主少年、當に人間の疾苦を知らしむし言し知ととら意を聲色犬馬に留めざれば、べし。然らざれば血氣方に剛なるや、是れ參政他見るに及ばず、土木甲兵禱祀の事作らむ。吾老いたり、封禪祠祀士木、日の憂なりと。太中祥符に至つて、並び興る。旦乃李文靖は眞に聖人なりと。ち歎じて曰く、大禮ある每に、旦、輒ち首相を以て天書を奉じて行く、常に悒悒として樂まず、13去らむと欲すれば、上、之を遇する厚し、位に薨ずるに及びて、遺令すらく、髪を削り、緇を披き、以て歛せよと。議者謂ふ、具、君を得たりしも、正を以て自ら終る能はずと。或は之を馮道に比すといふ。張詠嘗て言ふ、吾が榜中、人を得る、最も多し。謹重にして德望あ李文靖に如くはなく、るは、深沈才德、天下を鎭服するは、王公に如くはなく、面折廷爭して素より風釆あるは、寇公に如くはなく。方面の寄に當つては、詠敢て辭せずと。旦の世に當つて、王欽若旣に相たり。欽若、罷む、寇準、再び入つて相たり。參政丁謂、準宋-眞宗皇帝-七一七
七一八十八史略卷之六くわいしよく謂に事へて、甚だ謹む、嘗て、會食するや、羹準の鬚を汚す。起つて之を拂ふ準笑つて曰く、參政は國の大臣なり、乃ち官長李迪、相丁謂、罷む。の爲に鬚を拂ふかと。謂.甚だ愧恨す。準評ん謂拂爲人者に官な豈鬚長ら丁をの上一ふめ時に、となる。準、遠く貶せらる。迪罷む。謂.獨り相たり。中宮に白謂.旣に病あり、昏眩す。準が罷貶せらるるが如き、皆、在位改元するして之を行ひ、上、知らず。尋いで崩ず。年五十五、太子立もの五、曰く咸平、景德、曰く太中祥符、曰く天禧、顯興。つ、之を仁宗皇帝となす。之を子とす。【仁宗皇帝】名は禎、母は李氏。章獻明肅劉皇后、晝夜啼いて止眞宗、皇子を得ること、旣に晩し。初め生まるるや、ご、まず、道人あり、言ふ、能く兒啼を止めむと。召し入る。乃ち曰叫ぶ莫かれ、<叫ぶ莫かれ、何ぞ當初の笑ふ莫きに似かむと。啼卽ち止む。くこと、蓋し謂ふ、眞宗、嘗て上帝に顬つて嗣を祈る。群仙に問ふ、誰か當に往くべき者ぞと。皆、應ぜず。獨り、赤脚大仙一笑す。遂に、命じて、降つて、眞宗の子とならしむ。宮中に在つて、赤脚を好む、其驗なり。昇王より、太子となり、年十三にして、位に卽く。劉太后、簾を垂れて、同じく政を聽く。丁謂、事さんせいわうそうを用ゐ、寇準を讒して、雷州司戶となす。參政王曾、密に奏す。謂.禍心を包藏し、眞宗の山陵、擅に皇堂を絕地に移すと。遂に謂を罷め、貶して、崖州司戶に至る。謂.初め、學士に命じて、準宋-仁宗皇帝-七一九
十八史略卷之六七二〇謂が讒の責詞を草し、春秋無將漢法不道を用ゐしめて證事となす。以る寇ての準べも己た己らのをす謂評を貶はで謂せら詞貶丁責詞せらるるに及び、學士乃ち其語を用ゆ、人、是を快とす。準を逐ふの出所と自にるれる責返もに 詞當に眼中で謂せ時に方つて、京師語つて曰く、天下の寧を得むと欲せば、もにの丁を拔くべく、天下の好を得むと欲せば、寇老を召すに如くはなきのといへふるかしと。然れども、準竟に北に還るに及ばずして卒す。王會、相となり、王欽若、再び相たり。欽若、卒す。張知白、相たり。知白、卒す。張士遜、相たり士遜、罷む。呂夷簡、相たり。惟だ王曾、天聖の初より、相位に居り、是に至るまで七年にして罷む。曾、初め進士に擧げられ、靑州の發解、禮部の延試、皆、第一なり。人曰く狀元三場、喫著し盡きずと。曾曰く、曾、平生の志、溫飽に在らずと。眞宗の末、色を正しうして朝に立つ。朝廷、賴つて以て評重きを爲す。相と作るの日、進退する所の士、知る者あるなし。或採用王べを亦てもり得す曾る人のをひと、其故を問ふ。曾曰く、恩、己に歸せむと欲せば、ずざるれ用れ事法べき怨は誰をしららあすを然て當らしめむと。か知弊偏之交趾の黎桓景德中に卒す。子龍廷、其兄龍鉞を殺して自立し、る來貢す。名を全忠と賜ふ。太中祥符の間、全忠卒す、子幼なり。弟立つを爭ふ。大校李公蘊、遂に之を殺して自立す。是に至つて公蘊、卒す。子德政、立つ。來つて、喪を告ぐ、封じて交趾郡王となす。契丹主隆〓殂す。聖宗と號す。子宗眞立つ。宋-仁宗皇帝-七二一
七二二十八史略卷之六せいかてうとくめい:げんかう西夏の趙德明、卒す。王士大學立つ。はゝりしもくもくおつもりうたいこう上の母李氏、默默とし劉太后、上を以て己の子となす。而して、一)おそをかついせんてうひんぎよ人、亦た后を畏て、先朝嬪御の中に處り、未だ嘗て自ら異とせず。しんびすさいしやうりよやまひあらたあえ宰相呂れて、敢て言はず。病革まる、れい乃ち位を宸妃に進めて薨ず。そなほうむたよろ他かんたいこうそう曰く、い以て葬るべし。夷簡、太后に奏す、宜しく、禮を備へて、しんひしゆつきたじついかんかつと一年を踰え日夷簡、嘗て說き來らずと道ふ勿れと。宸妃卒して、しようせいみづかたいこうほうせい之よりて、太后崩ず。制を稱する十一年。上、始めて政を親らす。いかんてきしやうりよいかんちやうしそんたらかしやう李迪、相たり。而先、呂夷簡、張士遜、並に相たり。夷簡、罷む。かんまはつめいししゆ復た相たそん夷簡、して、士遜、首相たり、發明する所なくして罷む。まけんいかんてきやわうそう夷簡のり迪罷む。王會、復た相たり。然も、權夷簡に在り。はじくわくくわうごう初めて罷むるや郭后の言を以てす。こう皇復た入るに及びて后せうびじんてうあらそげきくわくこうはいだいかん尙美人と寵を爭ふの隙あり遂に郭后を廢す。夷簡、力あり。臺諫こうだうほはんちうえんちうえんてうかへたいせい孔道輔、范中淹、爭ふ。得ずして出づ。仲淹、朝に還つて、待制とかいほうふちいよいきふしばしじせいなり、いかんぞのしよく開封府に知たり。うつた事を言ふこと、ぜうしうち愈よ急、數ば時政を議す。くわんかくよせいゐんしゆ夷簡其職を越ゆるを訴ふ。罷めて饒州に知たり。館閣余靖、尹洙、んんおうやうしうかんぐわんかうじやくとつ之を爭ふ。坐して貶せらる。いさ皆、歐陽修諫官高若訥の諫めざるにんげんしうちじやくとつそのしよを責む、そう謂ふ、人間羞恥の事あるを知らずと。若訥、其書を奏す、さいじやう四賢一不肖の詩を作る。けんせうけんちうえんしゆ之詩四賢一不肖亦た貶せらる。せいしう蔡襄、ふせうさわうそう四賢は、たい仲淹、洙かん靖、修を指し、い本日は、若訥を指すなり。王曾、對に因つて、夷簡ろいしりぞそうならびが賂を納れて恩を示すを斥く。やわうずゐちん夷簡、曾並に罷めらる。王隨、陳朱-仁宗皇帝-七二三
十八史略卷之六七二四ちやうしそんしやうとくけんめいげうさかは章得堯佐、之に代る。建明する所なきを以て、罷めらる。張士遜、しやう象てうげんかう之に代る。ぎんすゐいうれいえんくわいしやうかんりやうこしやしゆく趙元昊、夏、銀綏、宥、雲、鹽、會勝甘、凉瓜、沙肅こうしうがらんざんかためたいかくわうしうきよいう大夏皇州の地を據有し、せんがうせいへん興州に居り、さうぜん賀蘭山を阻して、はんようせいかけいえい固となし、げんかうえんで、元昊が將に延帝と僭號す。西邊、騷然たり。范雍、西夏を經營す。しうおそと1、州を攻めむとするを聞き、懼るること甚しく、門を閉ぢて救はず。ちうくわんくわうとくわそうりうへい兵を以て其家劉平、かこ戰ふ。そのぞく中官をさ黃德和、平、賊に降ると誣奏す。ひついくわんけいたす富弼を圍み、其族を收めむを議す。やぶのゝし富弼言ふ、平、とくわ環慶より來り援く、しのがかんしんすく人を誣ひて免れむ姦臣救はず、こひねが故に敗れ、賊を罵つて死す、えうざんはんよう德和、ときぐんおこたことを冀ふと。坐して腰斬せらる。范雍、罷む。時に軍興つて多養老場なら政事府豈に事、じ張士遜、ちやうしそん補ふ所なし。おぎな諫官韓琦、かんくわんかんき上疏して曰く、じやうそ政事府は、せいじ豈やうびやうばうんやしそんちかんに養病坊ならむやと。りよいましやうかんきはんちうえん是に於て、へんすゐ士遜致仕す。呂夷簡、復た相た韓琦、かえんしうり范仲淹を用ゐて、邊帥となす。うかじんあひいましえんしう仲淹、嘗て、兼ねて延州せうはんらうしに知たり。けうちうおのづか夏人、相戒めて曰く、かうへい延州を以て意となす勿れ、たいはんらうしあざむ小范老子、胸中 自ら數萬の甲兵あり、大范老子の欺くべきに比せざるなへんじんこれぐんちうかんせいぞくこれしんりと。邊人之が爲に語して曰く、たんさむぐんちうはん軍中一韓あり、西賊之を聞いて心膽寒し。きやうはかう軍中一范あり、たくま西賊之を聞いて膽を驚破すと。昊の大に逞けだちうえんきよたしうするを得ざるは、上蓋し、埼.仲淹の力を宣ぶること、居多なるに藉る。きつだんてうていせいかたうじようへんしせきしんさ契丹、朝廷、西夏の撓あるに乘じて泛使を遣して、石晉割く所、宗-仁宗皇帝-七二五
十八史略卷之六七二六周の世宗取る所の關南の地を求めしむ。知制詰富弼、接伴す。時に夷簡、事に任ず。人、敢て抗するなし。弼、數ば之を侵す。夷簡、事に因つて、弼を罪せむと欲し、弼を以て、報使とす、弼至る。徃返論難、力めて、其地を割くを拒む。使、還る。再び遣る。而し5て國書、ことさらに異同をなし、夷簡、以て弼を陷れむと欲す。弼疑うて啓き觀る。乃ち復た囘奏し、夷簡を面責し、書を易へて徃き、歲賂銀絹各十萬を增し、和議を定めて還る。呂夷簡、罷めむことを求む。上遂に天下の弊事を更めむと欲し、諫官の員を增し、王素、歐陽修、余靖、蔡襄に命じて、諫院の職に供せしめ、韓琦、范仲淹を以て、樞密副使となし、夏竦を召して、ミ樞密使となす。諫官、論じて竦を罷め、杜衍を以て、之に代ふ。國子直講石介、喜んで曰く、是れ盛德の事なりと。乃ち慶曆盛德の詩ニを作る曰へるあり、衆賢の進むは、茆の斯に拔くが如く、大姦のニ去るは、距の斯に脫するが如しと。大姦は、竦を指すなり。仲淹、琦.適ま陝西より來る。道中、詩を得たり。仲淹、股を拊つて琦に上謂つて曰く、此怪鬼輩の爲に事を壞ると。竦、因つて、其黨と論をう(造し、衍等を目して黨人となす。歐陽修、乃ち朋黨論を作つて、之歐陽修朋黨論を上るを上る。略に曰く、小人は朋なし、惟だ君子は之あり。小人利を同じうする時、しばらく朋を爲すものは僞なり。其利を見るに及びては、先を爭ひ、或は利盡きて情疎、反つて、相賊害す。君子、身を宋-仁宗皇帝-七二七
十八史略卷之六三八をさあひえき23修むれば、道を同じうして相益し、國に事ふれば、心を同じうしてたまさしうし共に濟ふ、終如一の如し。是れ君子の朋なり。君たる者は、但だ當ぎしんはうに小人の僞朋を退けて、君子の眞朋を進むべし、乃ち天下治まらむとちうえんさんせいうつひつすうふくぬき仲淹、參政に遷り、富弼、樞副となる、上既に仲淹等を擢んで、しんけんてんしやうかくひらせうたいさ進見する毎に、太平を以て之を責め、天章閣を開いて召對し、坐をたまひつさつきふみなくわうきやうしりぞれつさう賜ひ、筆札を給す。仲淹等、皆惶恐す。退いて、十事を列奏す。ちゆつちよくあきらげうかうおさ一に曰く、黜陟を明かにせよ。二に曰く、僥倖を抑へよ。三に曰こうきよくわんちやうえらこうようく貢擧を精しくせよ。四に曰く、官長を擇べ五に曰く、公用ひとのうさうあつぶびをさを均しくせよ。六に曰く、農桑を厚うせよ。七に曰く、武備を修めえうえきおんしんおよぼよ。八に曰く、徭役を減ぜよ。九に曰く、恩信を覃せよ。十に曰くめいれいおもじやうまきしんかうたぶび命令を重くせよと。上方に信向して、悉く其說を用ゆ。惟だ武備、いささいしやうもつかしやうとく府兵を復せむと欲するの一說は、宰相以て不可となす。時に、章得しやうあんしゆどうへいしやうじいくばくちうえんせんせいかとう象晏殊、並に同平章事たり。未だ幾ならず、仲淹、陝西、河東をせんぶひつかせんぶしようらばうちうえんらてう宣撫し、富弼、河北を宣撫す。竦等、謗を造す。故に、仲淹等、朝やすおうやうしうあんしゆとえんに安んぜず、歐陽修、亦た出でて河北に使す。晏殊、罷む。杜衍、つとげうかうさいないかうごとおほむしんかく同平章事たり。衍、務めて僥倖を裁す。內降ある每に、率ね寢格しせうしよっすなはかんて行はず、詔書を積むこと十數、輒ち上の前に納る。上、嘗て、諫ぐわんえんないかうふうくわんきうちう官に語つて曰く、外人、術が内降を封還するを知るか。朕、宮中につねふうくわん在つて毎に〓ぐべからざるを以て止むもの、封還する所よりも多き宋-仁宗皇帝-七二九
十八史略卷之六七三〇なりと。會ま、衍の婿蘇舜欽、進奏院に監とし、故紙を鬻ぐの公錢か、を用ゐ、神を祀り、客を會す。御史中丞王拱辰、素より衍等の爲ミす所を便とせず、因つて其事を攻む。獄に置いて罪を得る者數人。(一網打去し拱辰、喜んで曰く、吾、一網打去し盡せりと。行、相たること七十盡す日にして罷む。賈昌朝、平章事兼樞密使たり。韓琦、樞副を罷めて揚州の事に知たり章得象、罷む。陳執中、平章事たり。昌朝、罷む。夏竦、代つて、樞密使となる。貝州の卒王則反す。文彥博、河北を宣撫す。討つて之を平らぐ。趙元昊、慶曆の初、嘗て、范仲淹に因つて和を請ひ、反覆數歲、竟に款を納れて、復た臣と稱す。策命して、夏國王となし、曩霄と名づけ、歲に銀絹茶絲二十五萬五千を賜ふ、遂に復た邊に寇せず。卒す。子諒祚、立つ。陳執中、建明する所なきを以て罷む。夏竦、罷む。宋庠、之に代る。尋いで、同平章事たり。未だ幾ならずして罷む。張貴妃兄堯佐、一日、四使に除せらる。監察御史裏行唐介、之を論ず。聽かず。遂に効奏す、文彥博、さきに蜀に守たり。燈籠錦を以て貴妃に獻じて、執政を得たり、故に堯佐に黨すと。上、怒つて介を遠貶す。彥博、亦た罷むるを求む。龐籍、平章事たり。ニ廣源州の儂智高、廣州に寇し、連歲、諸州を陷る。邕より廣西に宋-仁宗皇帝-当
十八史略卷之六七三二至るまで、皆、其害を被る。樞副狄靑に命じて、討つて、之を平らぐ還つて、樞密使となる。龐籍、罷む。陳執中、梁適、平章事たり。適罷む。劉流、之に代る。執中、罷む。文彥博、富弼、並に同平章事たり。士大夫、人を得るを相慶す。上曰く、人情、斯くの如し。豈に夢トに賢らずやと。上、嘗てくわん〓〓王素に問ふ、孰れか相と爲すべきと。素曰く、惟だ宦官宮妾、姓名を知らざる者、其選に充つべし。上、慨然として曰く、斯くの如くなれば、富弼のみと。契丹主宗眞、殂す。興宗と號す。子洪基、立つ。交趾の李德政、卒す。子日遵、立つ。劉流、罷む。文彥博、罷む。韓琦、平章事たり。富弼、罷む。王安石王安石、知制誥たり。安石、官を遷る每に、遜避して已まず。知制誥に至つて、復た官を辭せず。ら安石、嘗て花を賞し魚を釣るの宴{に侍し、誤つて釣餌を食ふ。既に悟るも、之を食ひ旣す。上、其不情にして非を遂ぐるを以て、之を惡む。安石、重名あり。キ、爭つて之に向ふ。惟だ、蘇洵、見ず、辨姦論を著し、亦た以爲へらく、人情に近からず、必ず大姦慝ならむと。き、割司馬光進三司馬光、諫院に知たり。三箚を進む。一に君德を論ず、三あり、曰く仁、曰く明、曰く武。二に臣を御するを論ず、曰く官に任ず、宋-仁宗皇帝-七三三
十八史略卷之六書曰く賞を信にす、曰く罰を必す。三に軍を揀ぶを論ず。又、五規を進む、曰く業を保す、曰く時を惜む、曰く謀を遠くす、曰く微をこ謹む、曰く、實を務むと。い策して、科人を制す。蘇軾、蘇轍を得たり。曾公亮、平章事たり。上在位四十二年、改元するもの九、天聖、明道は垂簾の政なり。お·のれ景祐以來は、政己より出づ。寶元、康定の間は西鄙多事。慶曆更めて化し、君子朝に滿つ。皇祐、至和、嘉祐に至つて、天下承平〓無事恭儉の德、人を愛し、物を恤むの心、卽位より升退に至るまで、終始一日の如し。遺制下る時、深山窮谷と雖も、奔走せざるな大く悲號して止む能はず。壽五十四。皇子立つ、之を英宗皇帝となす。【英宗皇帝】初名は宗實、濮の安懿王允讓の子、太宗の會孫なり。仁宗、立てて皇子となし、名を曙と賜ふ。仁宗崩ず、固く避くること數囘にして後に、位に卽く。憂疑を以て、疾を致す。慈聖光獻曹太后、權に政を聽く。上の擧措、或は常度を改め、宦者を遇する、尤も恩少し。左右、多く悅ばず、乃ち共に讒開をなす。兩宮遂に隙な宰相韓琦、を成す。參政歐陽修等の調護するに賴つて、上、旣に康ふ復して政を親らす。太后、簾を撤す。琦、一日、空頭の救を出す。修、旣に僉す、趙槩、未だ僉せず。修曰く、惟だ之に書せよ。韓公宋-英宗皇帝-臺
十八史略卷之六美必ず說あらむと。琦、政事堂に坐し、內侍任守忠を召して、庭下に立たしめて曰く、汝の罪、死に當すと。責めて、〓州に安置す。蓋し、兩宮を交鬭するの人なり。又、太濮王を崇奉する典禮を議す。執政、皇考と稱せむと欲す。后の詔を以て、上をして親と稱せしむ。司馬光、范鎭、呂誨范以て不鎭は輸林を純仁、呂大防、呂公著、交も論じて、可となす。議、竟に罷め、誨純仁、大防は言職を解き、公著は侍講を罷む。決せず。契丹、大遼と改號す。上、崩ず。在位四年。改元するもの一、曰く治平。年三十八。皇太子立つ、之を神宗皇帝となす。【神宗皇帝】名は項、母は宣仁聖烈皇后高氏、曹太后の甥なり。幼ごにして、英宗と同じく后の所に鞠はる。後に英宗の配となつて、項を生む。潁王より太子となり、尋いで、位に卽く濮議あつてより以來、言者、歐陽修を攻めて已まず、遂に罷む。韓琦亦た罷む。王安石、翰林學士となり入對す。首に術を擇ぶを以て言となし、言、必ず堯舜を稱す。富弼、同平章事たり。王安石、參政たり。安石、旣に政を執る。士太夫、素より、其名を重んず。以爲へらく、太平立どころに致す宋-英宗皇帝-神宗皇帝-七三七
十八史略卷之六七三八べしと。呂誨時に御史中丞たり、將に對せむとす。學士侍讀司馬光亦た將に經筵に詣らむとし、相遇うて並び行く。光密 に問新參ふ、今日言ふ所は何事ぞ。曰く、袖中の彈文は乃ち新參なり。光、愕然として曰く、衆人を得るを喜ぶ、奈何ぞ之を論ずるや、誨曰く君實亦た此言をなすか、安石、偏見を執り、人の己に佞するを喜ぶ、天下必ず其弊を受けむと。光、退いて、之を思へども、其說を得ず。縉紳の間其疏を傳ふる者あり、往往其太だ過ぎたるを疑大姦似忠大ふ。誨言ふ、大姦は忠に似たり、大詐は信に似たり、安石、外詐似信朴野を示し、中、巧詐を藏し、驕蹇、上を慢り、陰賊、物を害す、チと其十事を疏す。上、再び手詔を降して、誨を諭す。誨、之を論じて己まず。遂に誨を罷む。安石、建議して、始めて、三司の條例5正式です。司を置き、議して新法を行ふ。言ふ周、泉府の官を置いて、天下ですねぇいの財を變通す。後世、惟桑弘羊、劉晏、粗ぼ此意に合す。今、當中心力に呂惠卿りよけい〓〓に泉府の法を修め、以て利權を收むべしと。安石多く呂惠卿と謀る人、安石を號して孔子となし、惠卿を顏子となす。之より先、評示支は政をる否氣りの來る國權ざ當地南知說もをの治平中、邵雍客と天津橋上に散歩し、杜鵑の聲を聞いて、愁然樂な實年すば人らはば人らか、まず。客其故を問ふりも今す那四紛得亦の所史千亂れ雍曰く、洛陽、もと杜鵑なし。今、始めてす至る天下、將に治まらむとすれば地氣北よりして南し、將に亂れむとすれば、南よりして北す。今、南方地氣至る。禽鳥飛類は南蔣人介な石氣の先を得たるものなり。二年ならずして、上、南士を用ゐて相と宋-神宗皇帝-臺
十八史略卷之六七四〇なし、多く南人を引いて、專ら更變を務め、天下、之より多事なら靑苗法むと。是に至つて、雍の言、果して驗ありといふ安石、靑苗法を評香蕉雞腿行はむと欲す。以爲へらく、周官の國服爲息の法なりと。蘇轍曰く刀の集合は、純米比のする金を以て民に貸せば、吏、"緣つて姦をなし、錢、民の手に入れば、良民と雖も、妄に用ゆるを免れず。其錢を納るるに及びては、富民と雖も、違限を免れず。鞭筆必ず用ゆれば、州縣、煩に勝へざらむはと參政唐介、新法を爭論す。勝たず。疽背に發して卒す。時人生老病死苦生老病死苦の喩あり。安石を謂うて生となし、曾公亮を老となし、か、介は死し、富弼は議論合はず、病と稱す、參政趙抃、安石を如何ともするなく、惟だ苦苦と稱するのみ。安石、抃を折いて曰く、君が輩、書を讀まざるに坐するのみ。抃曰く、皐夔稷契、何の書をか讀むべきと。安石、亦た對ふる能はず。使を遣して、農田水利を察せしむ。義倉を罷む。に·均輸の法均輸の法を行ふ。·せんがい臺諫劉琦、錢顫、新法を議するを以て貶せらる。諫院范純仁、檢詳文字蘇轍、新法を議するを以て罷めらる。靑苗の法を行ふ、常平官を置く富弼罷む。陳升之、同平章事たり。升之、初め、安石に附く。旣に相として、頗る異同をなす。宋-神宗皇帝-七四一
十八史略卷之六1211,よはいしよろあらかじきふちうけんくわばい預買の法預買の法を行ふ。諸路をして豫め錢を給して紬絹を和買せしむ。てうべんやひかうな趙抃罷む。抃日に爲す所の事、夜は必ず香を焚いて天に〓ぐ。きよじんしんしまいえふそかふふくわい擧人を親試す。始めて策を用ゆ。葉祖治、新法に附會するを以てぬき擢んでて第一となす。いうぜいげんそんかくぎよしりかうていかう右正言孫覺、御史裏行程顥、新法を議するを以て罷む。ちうじようりよこうちよりかうちやうせん中丞呂公著、裏行張哉、新法を議するを以て罷む。だいりんていしとうけうかうちせいかうそうびんきうそしようてい定の詞頭を繳李定、裏行となる。知制誥宋敏求、蘇頌、李大臨、するを以て罷む。しやけいをんぎよしちざつ謝景溫、御史知雜となる。ちよくしくわんそでばんげんたてまつていしきたい直史館蘇轍、嘗て、萬言の書を上り、及び廷試策に對するに擬し、さからけいをん新法を議して、安石に作ふを以て、景溫に効せられて去る。とうわんりよさひやくしやうせいべうめんえき鄧縮、上書して言ふ、陛下、伊呂の佐を得たり、百姓、靑苗免役とうかぶしよおよしようらうしよけんぜい等の法を歌舞すと。又、安石に書及び頒を與ふ。中書檢正を置き.わんきやうじんせふばわんいは評縮を以て之を爲さしむ。な豈し之す笑笑ら第とを好屁罵す爲官にはるすは從佗〓人、皆、笑罵す。縮曰く笑罵は佗の笑罵ベ我かのまかかうくわんに從す。好官は、我、之を爲すべしとそうこうりようみ者の曾公亮、罷む。やせいくわさいりうたうちやうくわいこうぶんちうつとしんはふそし制科の人を策す。劉陶、張繪、孔文仲、力めて新法を詆る。皆、報じて罷む。はんちんしばしそしよくこうぶんちうす范鎭、數ば新法を議し、及び、嘗て蘇軾、孔文仲を薦めしを以て宋-神宗皇帝-雪
十八史略卷之六七四四罷めらる。乞うて致仕す。陳升之、罷む。韓絳、王安石、同平章事たり。保甲の法保甲の法を立つ。曾布、中書檢正となる。科擧の法を更め、詩賦明經の諸科を罷め、經義論を以て進士を策試す。司馬光、さきに學士より、樞副に除せらる。力辭して拜せず。數た、三不足の說ば、新法の害を言ふ。上、安石に喩して曰く、三不足の說を聞くや否や。曰く、聞かず。上曰く外人云ふ、朝廷以爲へらく、天變畏るるに足らず。人言恤ふるに足らず、祖宗の法守るに足らずと。昨さ、6)學士院、館職の策問を進む、專ら、この三事を指すと。策問は、光(の爲る所なり。光、屢ば外を請ひ、永興を得たり、許州に移る。上臣の不才、言すらく、最も群臣の下に出づ、先見は呂誨に如かず、公直は范純仁、程顥に如かず、敢言は蘇軾、孔文仲に如かず、勇決せいけいりうしゆぎよしは范鎭に如かずと。屢ば、西京留守御史臺に判たらむことを請ふ。ひ是に至つて、請を得。後、四たび任ぜられて、嵩山崇福宮に提擧たり。歐陽修、さきに靑州に知たり。擅に靑苗錢を給散するを止むるを以て、徒つて、蔡州に知たり。是に至つて、乞うて致仕す。か、富弼、さきに毫州に知たり。靑苗の法を格するに坐して、徒つて宋-神宗皇帝-小麺屋
十八史略卷之六七四六ぢよしうち汝州に知たり。ちうじやうやうくわいかうりうし中丞楊繪、裏行劉摯、新法を議するを以て罷めらる。さえきほえき募役の法差役を罷む。募役の法を行ふ。だいがくしや15-大學三舍の大學三舍の法を立つ。法しえき市易の法市易の法を行ふ。はうば保馬の法保馬の法を行ふ。はふでんきんぜいわか方田均稅の方田均稅の法を頒つ。法かろわうせうけいりやくあんぶとうしせう熙河路を置き、王韶を以て經略安撫等の使となす。之より先、韶へいじゆうさいたてまつせいかたひきはかくわう平戎の策を上る。謂ふ、西夏を平らげむと欲せば、當に河湟を復すらんぜんかんらうせいぐんとばんかく古渭ゐべし。今、の西、熙河蘭部、皆、漢の隴西等の郡なり。吐蕃唃へいいうじんいう厮囉の一族、この間に國す。宜しく、之を併有して、以て夏人の右たあんせきぼうかえき臂を絕つべしと。安石、以て奇謀となし、始めて熙河の役を開く。せうてうびんでうたうせいとういんこう上韶河洮、岷疊、宕等の州に克ち、又、靑唐咽喉の地に據る。へんこうますまとほざかえきへい邊堠益す斥り、役兵の死亡甚だ多し。ちうしよけんせいしやうじゆんこほくさつはうなんぼくこうばんしんしう中書檢正章惇、湖北に察訪す。始めて、議して、南北江蠻辰州けいせいなんぼくこうきんしうしきんやうかせつしやうを經制す。南北江は、乃ち古しへの錦州の地、施點牂牁に接す。章じゆんそちじゆんいばいざんばんえうせうゆ惇に命じて、措置せしむ。惇言ふ、梅山の蠻搖を招諭し、令して、こ·はぶなみなくわんげいそのじつさつりつしこうおほ戶を省くを作せば、皆歡迎せむと。其實は殺截し、浮屍江を蔽ふ。ししよしうらいけいぎきよくあんせきていきよりよけいけいおよあん詩、書周禮、三經義局を置く。安石、提擧たり、呂惠卿及び安せきこはうらけんたう石の子雪等、檢討たり。宋-神宗皇帝-市営
十八史略卷之六夷かとうほくせんせいりうみんきねいねん流熙寧七年、天、久しく雨ふらず。河の東北、きみんもつと陝西の流民、かんあんじやうもんてい皆、れて京城に入る。づ而して、じやうしよ京城の外、饑民尤も多し。なんせいほくばつ監安上門鄭しやうせうゑが勝捷の15.南征北伐、皆俠、畫いて圖となし、上書して曰く、陛下、てんかいうくさいしあひほづきたたてまついきほひ天下憂苦、妻子相保勢を以て、せんい圖を作して來り上る。くわう〓きふじやう一人として、なけんこんとん獻ずる者せず、遷移困頓、遑遑給せざるの狀を以て、圖を爲して、なんだあんじやうもんひなし。安上門、日を逐うて見る所、百一に及ばず、亦た涕を流すかんちよくげんいは直言をべし。況んや、千萬里の外をやと。時に、旱を以ての故に、とがじやううたがあんげんしや安求む。言者、皆、新法を咎む。上疑うて、之を罷めむと欲す。かんかうきちこうねいふはいせきよろこ安石、韓経を薦め石、悅ばず。去るを求む。しやう知江寧府に拜せらる。りよけいけいさんせいかうがうおのれ絳を號して、己に代つて、相となし、呂惠卿を參政となす。時に、はふしやもんけいけいはふぜんしんけいけいけんぎめんえきしゆつせんて傳法沙門となし、ひと惠卿を護法善神となす。ほしよ惠卿、しゆじつ建議す、免役出手實の法錢すでいきほひ均しからざるは、ま簿書の不善に出づと。手實の法を行ふ。惠卿あらかじそのみち旣に勢を得、ししよ安石の復た入るを恐れて、遂に逆め其途を閉ぢ、安石なかおよの私書を出すに、上をして知らしむる勿れ、の語あり。凡そ、以てあんせきがいそのちもちしばしかう安石を害すべき者、さからかんじよう其智を用ゐざる所なし。はくましやう又、數ば絳と忤ふ絳、あんせき間に乘じて、やふたゝ上に白し、復た安石を相とす。じきんれう安石、罷めて一年ならず、か再び入る。命を聞いて辭せず、かうけいけいあひつ金陵より、七日にして、闕下に至る。後數月、絳惠卿と相繼いで罷む。こは戶馬の法を行ふ。はんしやうしうかんきこうきてんしちうこう判相州韓琦、だんちへいあひだ薨ず。琦、天資忠厚、能く大事を斷ず。治平の閒宋-神宗皇帝-七四九
七五〇十八史略卷之六せいじしふけんてんことうちやうとせいちやうしゆしやう文學は西廳に首相となり、政事は集賢に問ひ、ろうるけつ典故は東廳に問ひ、しやうしうにんせいべう問ひ、大事は自ら之を決す。出てで相州に判たり。初め、靑苗の不評給じる之 法法り靑をち行朝と靑韓所爲す臣散命す議す苗琦してやを而をよしたがさんきふはんしんたいまさてうてい藩臣の體、當便を言ふ。朝廷、從はず。卽ち命じて散給して曰く、之卽强も非きやうぐんをはぎよせい强行に是の如くなるべしと。〓郡に在ること、八年にして終る。御製のりやうてうこめいていさくげんくんのひ碑に曰く、兩朝顧命定策元勳之碑と。ざ人をての示藩のり得常體されうししばしかんしんかとう遼使、屢るなし韓纖に命じ、河東に如いて、とうヘン地を割かしむ。じゆうるゐぞうしう之より先、ほしやば至つて言ふ、うつおうさく河東は邊に沿うて成壘を增修し、しうかいしんにふきてつ舗舎を起して、かかいしの國の蔚應朔の州界に侵入す、乞ふ毀撤を行ひ、別に界至を立てむてうていかうらいまねかたせいざん;けだれうじん西山に楡柳を植と蓋し、遼人、朝廷の高麗を招き、熙河を建て、かほくじやうちきづとさくゐんはじきふたうしんやうはうかう弓刀の新樣をゑる、保甲を創め、河北の城地を築き、都作院を創め、かいほくえん降し、ち界北の三十七將を置くを見て、かいあらそ燕を復するの意あるを疑ひ、おううたが故に地界を爭ふを以て名となし、あんせきだん朝廷の應ずる所以を觀る。安石、しばら之を斷じて曰く、將に之を取らむと欲すれば必ず姑く之を與ふと。あたとうざいちうしな東西地を失ふこと七百里。あんせきふたゝしやうしばししや及をての安はうし郵安石再び相たること二年こす濟會法つ者じ十家は王業前り合經社新立ぶ通二大石屢ば病を謝す。子雪死す、去るを求む四と法朝し制つとますまいと尤も力む。こうねいふること、上、益す、はん其爲す所を厭ひ、出して江寧府に判之所しにまあんせきたらしめ、遂に復た用ゐられず。せんわうるな安石の事を用ゐしより、立ちるまな終わただんもつばくわんしやうせいふきやう口に先王政亦を談じて、こゝろざしそのよくな專ら管商ゆえんの政を行ひ、お上の富强の志あるを知つて、其欲を濟す所以を思ふ。きさせうじんくんし謂へらく、まも法を立つるには、當に小人を用そのこのりゐて後に、君子を以て之を守らしむべしと。さと業其是理なきを悟らざる宋-神宗皇帝-書
十八史略卷之六七五二てんかさうぜんくにいまかつへんびことしやういたづら天下騒然として、國未だ嘗て富まず。邊鄙事を生じ、徒に多馬ず雅行且最多としてをばてして權氏·と精見なり。れ德司せり專く德數人然い妙れしと精13はいつよせいひちいすゑちうがくするしうく喪敗して、國未だ嘗て强からず。西鄙は、治平の末、仲諤、綏州かじんおこはうふく以さのれ耐あ斷して權其を取りしより、夏人、卽ち兵を興して、報復せむと欲すかわうりやうそしゆつこいじやうたにふかうあんせきわうせうきか夏王諒祚卒す。子秉常立つ。大に入寇す。安石、王韶、熙河を取所壓公之忍弊獨さくいたづらうらみせいはんかまきしやうらしばしかうくわんるの策を用ゆと雖も、徒に怨を西蕃に構へて、鬼章等屢ば寇患これせいかせいをなすを致し、初めより、此を以て、西夏を制する能はず。用ゆるるに溫ちんきまたきんりた望りうい所の沈起、劉舞、又景を南方に生ず。なかうしりじつじゆんけんとくいあひつけいしう交趾の李日遵、卒す。子乾德、立つ。起舞、相繼いで、桂州に知どていあつはうかうかいひんしうしすゐたり。土丁を集めて、保甲となし、海濱に於て、舟師を集めて、水せんしうけんかうじんぼうえききんしたいきよにふかう戰を〓へ、州縣、交人と貿易するを禁止す。交人、大擧して入寇し、いうしうかニさんれんおとしいせいげんちうごくせいべうじよえき邑州を圍み、欽廉を陷る。聲言すらく、中國、靑苗助役の法を作くるしあひすくあんせきてうせつつて、以て民を困む、兵を出して、相救はむと。安石、怒り、趙高へいくわあんせき等を遣して、之を討たしむ。官軍死する者。十に六。兵禍、安石のいたごじうわうけいあんせきしやう去るに訖るまで、未だ已まず。吳充、王珪、安石に繼いで相となる。드しばしひべんあんせき充、さきに政府に在り、數ば政事の非便を言ふ。既にして、安石にさいかくとうじゆんほら代る。蔡確、鄧潤甫等、共に之を攻むるも、去らしむる能はず。げんほうぐわんねんちしうそしよくくわうしうあんちちうじようりてい蘇東坡黃州元豐元年知湖州蘇軾を黄州に安置す。之より先、、中丞李定言に安置せらしよくねいくんぷゑんばうじよだんしよく軾じるふ熙寧より以來、君父を怨謗すと。舒亶も亦た言ふ、軾時じせんほんはつたすか事を議す。陛下、錢本を發して以て貧民を業くれば、曰く羸ち得じどうごいんよねんきやうはんじやうちうめいはふもつぐんりたり兒童語音の好き、一年强半は城中に在りと。明法以て群吏を宋-神宗皇帝-七五三
十八史略卷之六七五四どくしよまんくわんりつよきみげうしゆんいた課試すれば、曰く、讀書萬卷律を讀まず、君を堯舜に致す、終じゆつすゐりおことうかいめいしゆに術なしと。水利を興せば、曰く、東海もし明主の意を知らば、さうでんんんえんきんつゝしあ斥鹵をして桑田に變ぜしむべしと。鹽禁を謹めば、曰く、豈に是れせうあちわすかいじらいつきしよくそのた詔を聞いて味を忘るるを解せむや、通來三月食に鹽なしと其他きばうしゆしよく物に觸れ、事に卽いて、譏謗を以て、主となさざるなしと。乃ち軾おぎよしミつなていちやうさうすゐちわうさいを追うて、御史の獄に繋ぎ、定と張操とに命じて推治せしむ。王珪ふしんいくわいしあきうせんきよく言ふ、軾不臣の意ありと軾の檜の詩を擧ぐ。根は九泉に到つて曲しよせけんたちつりうひりうてんぎよ處なし、世間惟だ蟄龍の知るありと。陛下、飛龍天に御す。然るにしよくかれちかちつりうふしん軾彼は之を地下の蟄龍に求む、不臣に非ずして何ぞ。上曰く、彼くわいえいちんあづかつみ自ら檜を詠ず、何ぞ朕の事に預らむと。上、もと軾を罪するに意なごじう-わうあんれいごくなし。吳充、王安禮、皆、上に勸めて、之を容るさしむ。獄成つて、このめいおとうとてつしよくざへんしあんざ是命あり。弟轍、亦た軾を救ふに坐して貶せらる。軾の詩案に坐ちゆつはつちやうはうへいしばくわういかじつして、黜罰せらるる者、張方平司馬光以下、二十二人。上實にあはれぢよしううつまさいかくちやうさうら軾を憐む。尋いで、汝州に移し、復た用ゐむとす。蔡確、張璪等のはじ爲に沮まる。ごじうや吳充、罷む。月を踰えて卒す。げんほうぐわんねんくわんめいたじへいしやうじあらた元豐元年大に官名を正し、元豊五年、官制成る。平章事を改めいうぼくやわうけいさいかくさんちせいじもんかて、左右僕射となし、王珪、蔡確を以て之となし、參知政事を門下ちうしよじらうしやうじゆんちやうさうせうしよさいうじよう中書侍郞となし、ほそう章惇、張璪を之となし、尙書左右丞を置き、蒲宗3)わうあんれいとうりやうちうしよむね孟王安禮を之となす。三省を以て、百議を統領し、中書、旨を取宋-神宗皇帝-七五五
十八史略卷之六〓もんかふくそうせうしよしかうしやうさい三旨宰相り、門下、覆奏し、尙書、施行す。珪相となる。人、之を三旨宰しやうたせいし相といふ。凡そ、事、惟だ聖旨を取るといひ、聖旨を得れば聖旨をりやうしりぞしよそう領すといひ、退いて之を書すれば聖旨を奏すといふのみ。上、之をいとかくいれいぶ厭ふ。確珪に謂つて曰く、上、久しく靈武を取らむと欲す、公、せめにんしやうゐたもけよろこ能く責に任ずれば、相位保つべきなりと。珪、喜んで、其言の如くないじけんかテうれいしうせし、內侍李憲に命じ、道を分つて、夏國を伐ち、靈州を攻むれどもかしそつしとうすいけんさいきよ克たず。士卒死し、及び凍餒する者、十に五六。憲再擧の議を上ぢよきまたしようらくしんじやうきづかじんたいきよる。徐禧、又承樂の新城を築くを議す。夏人、大擧して城を攻む。きらはんかんぐわんおよしよぐんそう城陷る。禧等、蕃漢官及び諸軍、死する者萬三千。上、奏を聞いどうこくて働哭す。富强遺表をふひつる)たてまつちうかんとぜつてんゆひしん富弼すこうり上る遺表を上る。言ふ、忠諫杜絕、諧諛日に進み、興利の臣、うらみをさまたいせいじおほいうれ國の爲に怨を歛むのぞせいねん又言ふ西事大に憂ふべし、望むらくは聖念をこひつこうほGriftいてきれうしいた留めよと。ごと弼早く公輔の望あり、名、夷狄に聞こゆ。遼使至る毎そのしゆつしよあんびちうぎいよいあつ必ず其出處安否を問ふ。かきよきしばらくに、てうてい忠義の性老いて彌よ篤くこう家居一紀、斯須も朝廷を忘れず。是に至つて薨ずさいしやうたいじやうじんさいたんほそうまういは宰相同じく對す。上、人材なきの歎あり。蒲宗孟曰く、人材、なかばしばくわうじやせつやぶみ半は司馬光の邪說に壞らると。そうまう上、語らず宗孟を視ること、之ばくわう評に久しうして曰く、とてし通司い千文鑑馬ふ載献の光べ不と著資蒲宗孟は乃ち司馬光を取らざるかと。宗孟、尋し滅し盖治しちつうかんなはじのいで罷む。司馬光の資治通鑑成る。そくゐかつぎよせい上、卽位の初、旣に嘗て御製じよげんほうねんしよたてまつくわんせいの序あり元豐七年に至つて、書始めて上る。初め、官制將に未-神宗皇帝-七五七
十八史略卷之六美ナ行はれむとす。上、新舊人を取つて、兩つながら、之を用ゐむと欲す。曰く、御史大夫は司馬光に非ざれば不可なり蔡確曰く、國是흔二方に定まる。願はくは、少しく之を遲てと。旣にして上疾あり。又曰く、來春、儲を建つれば、當に司馬光、呂公著を以て師保となすべしと。公著は、夷簡の子なり。上、在位十八年。改元するもの二、曰く、熙寧、元豐。精を勵まし。治を求め、日昃、食に暇あらず。平生、〓遊を御せず、宮室を治めず、惟れ勤、惟れ儉、將に以て大に爲すあらむとするなり。奈何せん、熙寧以來安石に誤られ、元豐以後、事を用ゆる者、終始、皆、安石の黨、竟に天下の患となる。北狄の倔强を憤つて、慨然として、幽燕を恢復するの志あり、先づ靈夏を取り、西羌を滅し、乃ち北伐を圖らむと欲す。安南律を失ふに及びて、喟然として、赤子罪なくして死するを歎じ、永樂の敗益す用兵の難を知り、初めて、征伐を念ふを息め、卒に一事意の如くなるなし。崩ず。年三十八。皇太子立つ、之を哲宗皇帝となす。宋-神宗皇帝-七五九
評譯十八史略卷之七宋えんあんぐんわうしんそうたいぜん【哲宗皇帝】名は煦、初め、延安郡王たり神宗大漸、立つて太子さいかくしやじんけいじよかうこうくわいむかとなる。之より先、蔡確舍人邢恕を遣して、高公繪を邀へ太后はくちうえうきかけんわうに白せしめむと欲す。言ふ、延安は沖幼、岐嘉、皆賢王なりと。こうくわいおそわざわひすみやか公繪、懼れて曰く、公、吾が家に禍せむと欲するが亟に去れと。じよくわしんはうぞうかいいたいこうわうけいへうりえんあん恕禍心を包藏し、反つて謂ふ、太后、王珪と表裏し、延安を捨てー)おのれおよしやうじゆんさいかくよて、子顎を立てむと欲し、己及び章惇、蔡確に賴つて變なきを得宋-哲宗皇帝-夫
十八史略卷之七基たりと。且つ其說を士大夫の間に播く。神宗、崩じて、太子位に卽太皇太后新く始めて十歲。太皇太后、同じく政を聽く。熙寧中、太后、旣法を廢止すに嘗て流涕して、神宗の爲に言ふ、安石の變法便ならずと。既に、簾を垂れて、天下厭苦すること日久しきを知り、首として、東京の戶馬を罷め、京の東西路の保馬を罷め、京の東西の物貨場を罷め、bo諸州鎭寨市易の抵當を罷め、汁河堤岸司の地課、放市易、常平免役の息錢を罷め、在京免行錢を罷め、提擧、保甲、錢粮、巡〓等の官を罷め、方田等を罷む。皆、中より出で、大臣は與らず。王珪卒す。蔡確、韓鎭、左右僕射となり、章惇、樞密院に知た50司馬光、門下侍郞たり。光、洛に居ること十五年、兒童走卒も皆司馬君實を知る。神宗升遐、闕に赴いて入つて臨むや、衞士望見し、手を以て額に加へて曰く、司馬相公なりと。爭つて、馬首を擁して呼んで曰く、公、洛に歸る勿れ。留まつて天子に相として、百姓を活かせと。所在數千人、之を聚觀す。光、懼れて洛に歸る。旣にして、召されて執政となる。か、程子卒す河南の程顎、この歳を以つて卒す。顯字は伯淳弟 頭、字は周惇頤字茂叔正叔兄弟、皆濂溪の周惇頤に從つて學を受く。惇頤、字は茂叔、博學力行、道を聞くこと早く、事に遇うて剛果、古人の風あり。政(みがを爲すこと嚴恕、務めて理を盡し、名節を以て自ら礪く。雅より高趣あり、聰前の草を除かず、曰く、自家の意思と一般なりと。黃庭宋-哲宗皇帝-七六三
十八史略卷之七大君けんそのじんびんけうちうしやらくくわうふうせいげつたいきよく光風霽月堅、稱す、其人品、甚だ高く、胸中洒落、光風霽月の如しと。太極つうしよかつちう圖、通書あり、世に行はる。顎頤初め之に從ふ。首として、仲じがんしたのしたづ尼、顏子、樂む所は、何事なるかを尋ねしむ。學成る。各、斯文をおのれにんかうめいいじやういやし以て己の任となす。題、嘗て言ふ、一命以上、苟くも心を物を愛すなねいちうしんはふあるに存すれば、人に於て、必ず濟す所あらむと、熙寧中、新法合はすゐたくさざるを以て、國を去る。神宗、嘗て人才を推擇せしむ。薦むる所、へうしゆくちやうさいおとうといしゆぶんげんはく數十人、表叔張載と弟頤とを以て首となす。其死するや、文彥博しうろんそのはかへめいだうせんせいおとうとい衆論を採り、其墓に表して明道先生といひ、而して、弟頤、之がじよ(しうこうぼつせいじんまうしし序を爲つて曰く、周公沒して、聖人の道、行はれず。孟子死して、つたひやくせいぜんちがくつた聖人の學傳はらず。道行はれざれば、百世善治なく、學傳はらさいしんじゆざれば、千載眞儒なし。善治なくとも、士、尙ほ、かの善治の道を明ひとしゆくのちしんじゆかにして之を人に淑し、以て之を後に傳ふるを得。眞儒なければ、てんかばうばうえんじんよくほしひまゝてんりめつ天下貿貿焉として之く所なく、人欲肆にして天理滅せむ先生、のちうでんから、ゐけいいたんべんじやせつ千四百年の後に生まれ、不傳の學を遺經に得、異端を辨じ、邪說をまけだまうし息め、聖人の道をして、復た世に明かならしむ。蓋し、孟子の後よみちり一人のみと。頤、嘗て、人に語る。吾の道を知らむと欲せば、こじよみかちやうさいあざなしこう張載字子厚の序を觀て可なりと。張載、字は子厚。初め、學ばざる所なし。のちていこと〓〓すかうとうめいせいめい後、二程の言を聞いて、乃ち盡く其學を棄てて講ず。東銘、西銘、せいまうりくつわうきよせんせいきよう正蒙、理窟等の書あり、世に行はる。人、之を橫渠先生といふ。共邵雍號康節じやうせうようげうふかなんていようもてあそ先生城の邵雍、字は堯夫、河南に居り、二程と友たり。雍の學心を玩宋-哲宗皇帝-七六五
十八史略卷之七奏ぶこと高明にして、天地の變化、陰陽の消長を觀、以て萬物の變に達し、物數に精しく、推して中らざるなし。顎嘗て、考試院に在り其數を以て之を推し、出でて雍に謂つて曰く、堯夫の數は、只で雍、其聰明を歎ず。雍、數學を以て二程にだ是れ加一倍の法なりと。傳へむと欲す。二程、受けず。邢恕、受けむと欲す。雍、許さずして曰く、徒に姦雄を長ずと。雍に皇極經世書十二卷、擊壞集歌あり。世に傳ふ。人、之を康節先生といふ富弼、司馬光等、皆深く之を敬重す。宋は、歐陽修、古文を以て天下に唱へしより文章大に變ずと雖も、然も、儒者義理の學は、周程出づるに至つて、然る後に明かなり。雍、惇頤、載皆、神宗の世に歿す。是に至つて、顎、又歿し、惟だ頤のみあり。學者之を宗とし、伊川先生といふ。元祐元年、蔡確、罷む、確章惇、邢恕と相交結す。恕、往來、語言を傳送し、自ら定策の功ありといふ。言官王覿惇確及び韓縝張璪の朋邪を極言し、劉摯、朱光庭蘇轍、數十疏を累ねて、論効す。確先づ黜けらる。司馬光を以て、左僕射となす。時に、王安石、旣に病む。其弟邸吏の狀を以て之に示す。安石曰く、司馬十二、相となると。悵然之を久しうす。議者、或は謂ふ、三年、父の道を改むるなし。新法、しばらく稍や、其甚しき者を損じて足らむと。光、慨然、之を爭つて曰く、先帝の法、善きものは、百世と雖も變ずべからず、安石、·惠卿等の建つる所の如き、天下の宋-哲宗皇帝-七六七
十八史略卷之七奏1害を爲し、先帝の本意に非ざるものは、當に焚を救ひ、溺を拯ふが如くなるべく、猶ほ及ばざるを恐る、況んや、太皇太后、母を以て子を改む、子、父を改むに非ざるをやと。衆議乃ち定まる。或ひと、光に謂つて曰く、章惇、呂惠卿の輩、他日、父子の議を以て、上に聞するあらば、朋黨の禍作らむと。光、起立拱手し、属聲して曰く.天、若し宋に祚すれば、必ず此事なからむと。安石、朝廷、其法を變ずるを聞く毎に、夷然として以て意となさず。助役を罷め、는差役を復するを聞くに及びて、愕然失聲して曰く、亦た罷めて此に至れるかと。良や久しうして曰く、この法、終に罷むべからず。安石、先帝と之を議する二年にして、乃ち行ふ、曲盡せざるなしと。章惇、韓鎭、罷む。王安石卒す王安石、卒す。安石、金陵に在つて、常に福建子と獨語す。惠卿を恨んでなり。惠卿、安石に叛く。唯だ章惇のみは、終始叛かず。安石、又常に曰く、新法の行はるるや、始終以て行ふべしとなす者始終以て不可となす者は曾子宣なり。は司馬君實なりと。呂公著、右僕射たり。文彥博、軍國重事たり程頤、崇政殿說書たり。蘇軾、翰林學士たり。呂惠卿鄧縮等を竄貶す。司馬光薨ず司馬光、相となつて八閱月にして薨ず太皇太后、之を哭して働す。上亦た感涕して己まず。太師溫國公を贈り、文正と證す。光、位に在るや、遼人、夏人の使來る時、必ず光の起居を問ふ。而宋-哲宗皇帝-奏
十八史略卷之七118して、遼人、其邊吏に敕して曰く、中國、司馬を相とす、切に事を生じて邊隙を開く勿れと。卒するに及びて、京師の民、市を罷め、其像を畫し、印して之を鬻ぎ、畫工富を致す者あり、葬るに及びて四方來會する者、之を哭して、其親戚を哭するが如し。光、嘗て、評支司る文公く玲其望に那馬ゝ正を眞職人家見四溫に玉となる千公は晁無各に語つて曰く、吾、人に過ぎたるなし、惟だ平生爲す所、未の年德稀りだ嘗て人に對して言ふべからざるものあらざるのみと。劉安世、光爲り溫の國如に一言以て終身之を行ふべきものを問ふ。光曰く、それ誠かと。安諸勝れにと贈ら世、其從つて入る所を問ふ。曰く、妄語せざるより入ると。諡足、勇に夫はる蘇軾程頤、同じく經筵に在り、軾諧謔を喜ぶ、而して、頤は邪智正たず嘲侮す。禮法を以て自ら持す。軾毎に之を光の薨ずるや、百官、頤かしている方に慶禮あり、事畢つて、往いて弔はむと欲す。可かずして曰を安徽義今たして能王通古克、く子、この日に於て哭すれば歌はず。或は曰く、歌へば哭せずとを安いはず。軾曰く、是れ枉死市の叔孫通、この禮を制するなりと。溫公な得るざなし宜頤、怒る。二人、遂に隙を成す。門人朱光庭賈易、言官たり、力めて軾を攻む。傅堯兪、王巖叟、呂陶等、相繼いで論列す。堯兪、巖叟は光庭を右け、陶は軾を右く。この時、元豐の大臣、散地に退さき、皆、怨を衡んで、骨に入り、陰に間隙を伺ふ。諸賢悟らず方に自ら黨を分つて相攻む。洛黨、川黨、朔黨あり。洛黨は、頤を以て領袖となし、光庭、易、羽翼たり。川黨は、軾を以て領袖となし、陶等羽翼たり。朔黨は、劉摯、王巖叟、劉安世を以て領袖と宋-哲宗皇帝-七
十八史略卷之七基おほいくばく5やまめなして、羽翼尤も衆し。未だ幾ならずして、頤罷めて復た召されしよくず。之を久しうして、軾亦た罷め、後、再び入り、三たび入り、ひさ皆、久しからずして出づ。りよこうちよしくうどうへいしやうぐんこくじりよたいばうはんじゆんじんさいうぼくや呂公著、司空同平章軍國事となり、呂大防、范純仁、左右僕射たじゆんじんちうえんっり純仁は、仲淹の子なり。公著、尋いで薨ず。ちかんやうぐんごしよこうさいかくあんしうてきかちうしや知漢陽軍吳處厚、言ふ。蔡確、安州に謫せらるるの日、夏中、車がいていのぼだいかんきせんかくしん蓋亭に登るの詩を作つて、臺諫を議訓すと。確を論じて已まず。新しうあんちりよたいばうりうしはんじゆんじんわうそんらおよろ州に安置す。呂大防、劉摯、范純仁、王存等以爲へらく、宜してれいすしちみちけいきよく嶺を過ぎて、死地に置かしむべからずと。純仁曰く、この路〓棘いかんわがさうまさまぬかおそ八十年、奈何ぞ之を開かむ。吾曹、政に免れざるを恐るるのみと。あらそだいかんかうしやうかくたう之を爭へども、得ず。臺諫、交章して、純仁の確に黨するを攻む。りうしうRTげんほう純仁、遂に罷む。劉摯、右僕射となる。大防、摯、元豐の黨人を引きうゑんてうていてつらつといて、以て舊怨を平らげむと欲す。之を調停といふ。蘇轍等、力め其不可を陳す。そのちんしやそしよううぼくやじゆんじんて、摯、罷む。蘇頌、右僕射たり。頌罷む。純仁、又、之に代る。ざんいうねんぐわつせんじんせいれつたいくわうたいごうほうのぞたい元祐八年九月宣仁聖烈太皇太后崩ず。崩ずるに臨み、上に對したいばうじゆんじんらいらうしんぼつごかならくわんかてうぎて、大防、純仁等に謂つて曰く、老身歿後、必ず官家を調戯する者よろきこうらしりぞあらむ。宜しく、之を聽くなかるべし。公等、亦た宜しく早く退くくわんかさいうべし。官家をして、別に一番の人を用ゐしめよと。左右を呼んで問しやはんたまこうらおの〓〓さふ、嘗て、社飯を賜ひ、出すや否やと。因つて曰く、公等各去つて宋-哲宗皇帝-書
十八史略卷之七七七四ししやはんきつめうねんしやはんらうしんしりやうこうまつりごと一匙の社飯を喫し、明年社飯の時、老身を思量せよと。后、政をてんかしようぢよちうげうしゆんぐわいかひしくん聽くこと九年、天下稱して女中の堯舜となし、外家に比せず。嗣君ようさうとし13を擁佐するの故を以て、二子一女、皆、疎んぜらる至公を以て、ぎよけんじやことんてうあつせいこうせいけい天下を御し、當世の賢者、畢く朝に集まる。君子の盛、後世、慶れきげんいうへいしやうしんそういときうそく曆、元祐を以て並稱す。神宗、兵を厭ふの後を承けて民と休息す。せいばんきしやうへんしやうきんけんゆるちうぞのぶぞく西蕃の鬼章、邊將の爲に擒獻せらる。釋して誅せず、以て其部屬をかミそのしゆへいじやうしゆつけんじゆんたせいみだしゆえうしばし招く。夏國、其主乗常卒し、乾順立つてより、政亂れ、主幼、屢へんかうはんしんきやうしんこれそのくんみんつみば邊に寇して、藩臣の禮を失ふ、皆、强臣之を爲し、其君民罪あるしだたうばつしのしよろに非ざるを以て、師を興して討伐するに忍びず、諸路に詔し、兵をげんそな嚴にして、自ら備ふるのみ。みづかにらうやうゐしゆりよたいぼうそむ上、始めて政を親らす。侍郞揚畏、首として、呂大防に叛き、自あとげんいうほうにふたいしやうじゆんら謂ふ。迹は元祐と雖も、心は熙豊に在りと。入對して、章惇を召章惇復活せうせいたいばうじゆんうぼくやさむことを乞ふ。明年、紹聖と改元す。大防、罷む惇右僕射たじゆんじんちんくわんあじゆんり。純仁、罷む。惇の來るや、道にして陳瓘に遇ふ惇素より、ことせいむ其名を聞く、獨り、共に載らむことを請ひ、訪ふに世務を以てす。くわんいはたとへへんちやう瓘曰く、請ふ、乘る所の舟を以て喩となさむ。偏重なれば、其れ行そのへんじゆんもくぜんるべけむや。或は左し或は右す。其偏は一なりと、惇默然たり。ひさしばくわうかんじやまさんくわん良や久しうして曰く、司馬光の姦邪、當に先づ辨すべき所なり。瓘いはしやうこうあやましうせいたひらうつ曰く、相公、誤れり。是れ猶ほ舟勢を平かにせむと欲して、左を移はたまさのぞみうしなし以て右に置くなり。果して然ちば將に天下の望を失はむとすと。宋-哲宗皇帝-七七五
十八史略卷之七美じゆんぜんことくきほうさげんいうち惇旣に至る。漸を以て、盡く熙豐の法を復し、元祐の人の罪を治きよじつしばくわうりよこうちよわうがんさうてうせんかんゐそんこはんする、虛日なし。司馬光、呂公著、王巖叟、趙瞻、韓維、孫固、范びやくろくそうゆしはかうらみなつひへんう)うば百祿、胡宗愈、司馬康等、旣に死する者は、皆追貶して贈を奪ひ、りよたいばうりうしそてつれうたうはんじゆんじんりうほうせいかんゐわうてきかんせん呂大防、劉摯、蘇轍、梁燾、范純仁、劉奉世、韓維、王覿、韓川、そんしやうりよたうはんじゆんれいてうくんしやくはちく:りんはんじゆんすゐこうぶちうわうきん孫升、呂陶、范純禮、趙君錫、馬默、顧臨、范純粹、孔武仲、王欽しんりよきてつりよきじゆんえうめんごあんしわうひんちやうらいてうほしくわうてい臣、呂希哲、呂希純、姚動、吳安詩、王份、張耒晁補之、黄庭けんかえきていいしんくわんしゆくわうていそんかくてうせつしじゆんそ堅、賈易、程頤、秦觀、朱光庭、孫覺、趙高、李之純、李固、蘇しよくはんそうりうあんせいていけふらへんざんぶんげんはくひさ軾范祖禹、劉安世、鄭俠等、皆しきりに貶竄せらる。文彥博、久ちしたいしたいほせつえつくわうごうまうししく致仕す、降して、太子太保となし、節鉞を罷む。皇后孟氏は、せんへいちうぐうはいしやう太皇太后の選聘する所なり。中宮に居ること五年にして廢す。章じゆんさいべんつひはたいこうかうしにいひしゆし惇蔡卞、太皇太后を追廢せむことを請ふ。太后向氏、太妃朱氏のいきさとじゆんべんかたしかう泣いて諫むるに賴つて、上、悟る。惇〓、堅く施行を請ふ。上、けいらちんえいそうべうていそのそう怒つて曰く、卿等、朕が英宗の廟庭に入るを欲せざるかと。其奏をなげう地に抵つ。けんひりうしうぜいげんすうかうさくれいつひていめい賢妃劉氏を立てて后となす。右正言鄒浩、册禮を追停し、別に名ぞくえらかうのぞろくていしんしう族を選ばむことを乞ふ。詔して、浩は名を除き、勒停して新州に覊くわんみちそのともでんくわくすわかれのぞなみだくわく管す。浩、道に、其友田畫を過ぎ、·別に臨んで涕を出す。晝色をたゞいんもくかんしつ正しうして曰く、君をして、隱默して京師に宦たらしむるも、寒疾ああぜひとれいかいほかに遇うて、汗せざれば、五日に死せむ。豈に獨り嶺海の外のみ、能みづかはじまきく人を死せしめむや。願はくは、自ら沮む勿れ。士の當に爲すべき宋-哲宗皇帝-毛
十八史略卷之七夫所のもの、未だ此に止まらざるなりと。元符三年、上崩ず。在位十五年、改元するもの三。壽二十五。皇弟立つ。之を徽宗皇帝となす。【徽宗皇帝】名は佶、神宗の第十一子なり。初め端王に封ぜらる。哲宗、崩ず。欽聖憲肅皇太后向氏、宰執を召して、嗣を立てむことを議す。后、端王を立てむと欲す。章惇曰く、端王は浪子のみと。曾布、身長し。望み見れば、端王、旣に簾下に在り。叱して曰く章惇、太后の處分を聽けと。王、簾を出づ。惇、惶恐して措を失す。王、位に卽く、太后に請うて、權に同じく軍國の事を處分せしむ。范純仁等、二十餘人、並に收敍せらる。襲夫陳瓘、鄒浩、臺諫となる。韓忠彥、右僕射となる。琦の子なり。文彥博、司馬光等、三十三人の官を追復す。太后、簾を垂れて。半年にして、政を還す。章惇罷む。尋いで、竄せらる。韓忠彥、曾布、左右僕射たり。邢恕を貶す。蔡京、蔡下を貶す。下は、安石の婿なり。之より先、臺諫陳瓘任伯雨等、下を攻めて、其執政を罷む。京翰林承旨となる。瓘其日を視て瞬せざるを見て謂ふ、この人、必ず大に貴からむ、然れ宋-徵宗皇帝-七八九
十八史略卷之七さんそのくせいしんあへたいやうかうども、其區區たる精神を以て、敢て太陽に抗す他日志を得ば、必うれひくわんい人を射ば先ず天下の患をなさむと。瓘、人に語つて曰く、人を射ば先づ馬を射づ馬を射よぞくとりこわうとりこれんそせよ、賊を擒にせば先づ王を擒にせよと。連疏して之を攻むること、はなはつとけいぎよしちんじしやうらべん甚だ力む。京罷む。尋いで、又、御史陳次升等の言を以て、下とへん共に貶す。じやういもつほきほうせうじゆつそうふすこ上の意、專ら熙豐の政を紹述せむと欲す。而して、曾布は、微しほうげんいうりやうそんけんちうせいこくほく.熙豐、元祐を兩存するの意あり。故に建中靖國の初、嘗て、略しやうじゆんさいべんへんむねむかせいぼ章惇、蔡下の爲せし所を變ず。旣にして、布、上の旨を迎ふ。正じん·はくうこうこうばうちんくわんらてういせうじんおの〓たう人任伯雨、江公望、陳瓘等、朝に容れられず、小人各黨ありと雖かうてつしゆつにふいかうも、更迭出入、意向は同じく安石を祖とするのみ。れうしゆこうきそだうそうがうえんきてんそ殂す。道宗と號す。一〇年在遼主弘基、打女〇五西任遼紀四の至自十道一六宗孫延禧、立つ。天祚と號す。ぢよしんあだたちよしんほんみやうしゆりしんしゆくしんゐしゆぼつかい四一女眞の阿骨打立つ。女眞は、本名朱里眞、肅愼の遺種にして渤海べつぞくどしんかんいはいうろう立眞つの阿骨げんぎの別族なり。いは或は曰く、こつきつたう本姓は拏、にこくすゐまつかつ辰韓の後、三國に謂ゆる把婁元魏に謂ゆる勿吉、唐に謂ゆる黑水靺鞨なるもの、其地なりと。七ぶらくあひすたいちうしやうふた十二の部落あり。もと相統べず、太中祥符より以後、絕えて中國とせいぢよしんそのるゐなしげそのしうがんはん通ぜず。生女眞といふ者あり、其類猶ほ繁し。其曾を巖版といふ。まいやうかたいしゆうやうくわつ孫あり、楊哥太師といふ。遂に諸部に雄たり。或は曰く、楊割の先しらぎくわんがんしちよしんめあは新羅の人、完顏氏。女眞、之に妻はすに女を以てし、子二人を生らいつたやうくわつあくだむ。長を胡來といひ、三人に傳へて、楊割に至る。阿骨打は、其子ちんきたいしなりと。人と爲り、沈毅にして、大志あり。宋-徴宗皇帝-大
十八史略卷之七七八二建中靖國、一年にして、崇寧と改む。韓忠彥、罷む。再び司馬光等の官を追奪し、元祐の黨人を籍す。蔡京相とな曾布、罷む。蔡京、相となり。蔡下、政を執る。再び元祐の人をり太師とな貶竄し、姦黨の碑を立つ。京、崇寧に僕射となつてより、大觀、政:和重和を歷て、太師となる。嘗て、暫く罷められしも、輒ち復た入り、罷めらるるの日と雖も、實に國命を執る。其間、趙挺之、張商英相となり、嘗て、京と異なり。然れども位に在ること、各數月に過ぎず、或は一年にして罷む。何執中、鄭居中、劉正夫、余深の如きは、相位に在ること、或は久しく、或は淺く、居中、亦た京とけ異にして常に相排し、正夫亦た小異なりと雖も、然れども、京の權う寵に於て、損ずるなきなり。京の子攸の婦、宮禁に出入し、攸、遂に大に用ゐられ、父子權勢自ら相軋るに至る。上、攸を寵して、京の子弟親戚を尊び、滿朝、皆、其父子の黨なり。京、邪說を倡ふ、す以爲へらく、豐享豫大の運に當ると、專ら奢侈を以て、上に勸め、土木の功を窮極し、京城を廣め、大内を修め、盛に內苑を廣め、九鼎を鑄、鼎成るや、九州の水土を以て鼎中に納る。北方の寶鼎を奉安するに及びて、忽ち、水外に漏る。大最樂を作る。玉〓神霄宮き帝〓主道君皇を作り、道士林靈素を崇信し、上を策して〓主道君皇帝となし、延福宮を作り、保和殿を作り、萬歲山を作り、朱働を以て、花石綱を領せしむ。奇花異木怪石珍禽奇獸、遠く致さざるなく、民間の一花宋-徹宗皇帝-七八三
十八史略卷之七七八四めうすなはくわすうびんつひやせき一木の妙、輒ち上供せしめ、一花、數千緡を費し、一日、數萬緡をさんりんかうしんびろくぐんなこんがくかいめい費すものもあり。二十年間、山林高深、麋鹿群を成す。良嶽と改名そんきよやてんしゆしせいれんまいさいとうじとうす。又、村居野店酒肆靑帑を其聞に作り、毎歲冬至の後、卽ち燈をはなほしひまゝいんはくまげんせう放ち、縱に飮博せしめ、之を先づ元宵を賞すといふ。せいぼうしばしあらうふるけつくわいいたがひおほむ時に、星芒屢ば見はれ、地震ひ、河決し、怪異迭に出で、率ね以けいらふそうかんろくだしやううんあらひかくそらおほ·て常となす。京等誣奏す。甘露降り、祥雲現はれ、飛鶴空を蔽ひ、しくわしさうこんがくしよしうれんりさうくわふ評蔡京三臘竹に紫花を生じ、芝草良嶽に產し、及び諸州連理の木、明治三六五一起證據書籍、てが條せ稱し月月きよしやくやくぼたんらうげつらいさやゐ渠芍藥牡丹ありと。臘月の雷、三月の雪を指して、皆、瑞と稱し指趙る表瑞へうがて表賀するに至る。味噌?汁ないじどうくわんれうしせいしせいもつぱおうほうつと內侍童貫、梁師成、事を用ゆ。師成、專ら應奉を務め、以て上の한いえんくんしやくるさうち山トどうくわんヘん風吹め屋のと二し心を蠱し、勢焔熏灼し、威福を中に竊む。童貫、專ら邊を開くを務と般さいけいふあひへうりいふべしめ、事を外に生ず。皆蔡京父子と相表裏す。ぢよしんあだちようくわぐわんねんぼじゆっ女良の打帝と上野原因子女眞の阿骨打、重和元年戊戌を以て、帝と稱す。初め、遼の天同家誌けいしやうせんらんきんしよくとしごとめいようかいとうせいぢよしんもとす祚刑賞僭濫、禽色に荒み、歲毎に、名鷹海東靑を女眞に索む。女そのりんとうほくせんとうこのとりえけんその眞、其隣東北の五國と戰鬪し、乃ち能く此禽を獲て、以て獻じ、其ぜうたあそむこんどうこうとうねいこうしうおとしいれう擾に勝へず。阿骨打、遂に叛き、混同江東の寧江州を陷る。遼將ちうけいじやうけいちやうしゆんせいれうろを遣し、之を討つ。敗る。中京、上京、長春西遼、四路の兵をならびらいりうかろふかたいはい起して、並に進む。獨り漆流河の一路、深く入つて大敗し、三路、しりぞぢよしんこと〓〓れうとうかいとりこじゆくちよしんてつききすまおほ皆、退く。女眞、悉く遼の東海を虜にす。熟女眞の鐵騎益す衆し。てんそしんせいまかちじようぼつかいれうやう天祚、親征して、復た大に敗る。女眞、勝に乘じて、渤海、遼陽、宋-徽宗皇帝-七八五
十八史略卷之七七八六五十四州を〓せ、又遼西に度つて、五州を降す。阿骨打、遂に號を建てて旻と改名し、國を大金と號す。明年、遼の上京を破る。高麗、來つて、醫を求む。上、二醫を遣して、行かしむ。還つて奏す、實は醫を求むるに非ず、乃ち、彼中國將に女眞と契丹を圖らむとするを知り、謂ふ、苟くも、契丹を存すれば、猶ほ中國の爲に邊を捍ぐに足らむ、女眞は狼虎、交るべからず、宜しく、早く之が備をなすべしと。上、之を聞いて樂まず。上、嘗て都市酒肆妓館に微行す。正字曹輔、上言し、彬州に編管せらる。ぶ童貫、崇寧の間より、王韶の子と兵を領して、湟州を復し、責に邊事を措置するに任ず。旣にして、部州、廓州を復す。貫、遂に節を建てて宣撫となり、旣に志を西邊に得るや、遂に謂ふ、北邊も亦た圖るべしと。政和の初、乃ち自ら請うて、使を奉じて、遼國を覘ふ燕人馬植といふ者あり、燕を滅すの策を陳ず。貫挾んで以えて歸り、姓名を趙良嗣と改む。燕を復するの議、遂に起る。政和の末、漢人海に浮んで來るあり、具に女眞、遼を攻むる事を言ふ。重和の春、乃ち蔡京、童貫の議を用ゐて、馬政を遣し、海道より阿骨打の居る所、阿芝川、淶流河に至らしめ、與に、共に、遼を攻めむことを議す。阿骨打、遂に使を遣して來らしむ。宣和の初、京に至る京、貫に詔して、夾攻燕を取るの意を以てし、軍校呼慶を差し宋-徴宗皇帝-七八七
十八史略卷之七奏かいだうとしわうほしやうて、其使を送らしめ、海道より國に歸る。この歲、王黼相となり、つとれうさんけい力めて遼を攻むるの策を賛す。まきんし及び呼慶、復た金使と共に來る。時りやうしつかはゆやくきんに、阿骨打上京に在り。遂に良嗣を遣して往かしめ、約すらく金くれうちうけほんてうえんけいさいへいれう國は遼の中京を取り、本朝は燕京を取らむ。歲幣は遼に與ふるの數りやうしいはえんけいたいあはの如くせむと。良嗣曰く、燕京一帶は、西京を併せて是れなりと。きんしゆさつりやうしちよしん金主、へいちしようりん亦た之を許し、ほあむし札を以て良嗣に付し、なんへいはくかうけふこう期するに、女眞の兵は平地松林より古北に趣き、南兵は白溝より夾攻するを以てす。良嗣はせいましくわうこくしよちひしくげん歸る。馬政、復た子擴と共に、國書を持し、往いて、彼此の兵、關すていいくばくきんしを過ぐるを得ざるを訂す。ま未だ幾ならずして、金使、復た來る。きたこくしよそのつかひ又國書を以て、わいなん就いて、其使に付して國に歸らしむ。時に、淮南まさせうあんっ山東の宋江あひったうおこそうこう招安に就く京西、河北、江南、相繼いで、盜起る。山東の宋江、方に招安に就ぼくかうはうらふせつぐんおとしいちうとためふるどうくわんく睦寇方臘、しきりに、浙軍を陷れ、中都爲に震ふ童貫、始めはうらふたひほくじて、方臘を平らげて、北事作る。きんじんれうわたおもむせおとしい金人、師を悉くして、遼を渡り、中京に趨いて之を攻め陷る。中もとけいこくしようていくわんそうおの〓〓京は、故の奚國なり。遂に兵を引いて、松亭關に至り、宋と各くわんとじ關を過ぎざるの約あるを以て止まり、兵を引いて、其西よりして過れうしゆすでさきんぜんぼうまさ遼主、さきに已に引いて避く。或は言ふ、金の前鋒、將に至られうしゆしんきやうすみやかうんちうはしけふざんいむとすと。遼主、震驚して、亟に雲中に奔り、夾山に入る。時に、えんわうじゆんえんせうかんさいいう燕王淳、燕を守る。蕭韓、淳を立てて主となす。宋の童貫、蔡攸、ひきはくかうはんそんせうかんむか師を帥ゐて、東路は白溝に至り、西路は范村に至る。蕭韓、迎へ戰宋-徽宗皇帝-九九
十八史略卷之七七九〇甚だ力む。つて、宋師、敗れて退く。耶律淳、死す。宋師、再擧す。遼の涿州の將 郭藥師、常勝軍を領して、來り降る。宋兵五十萬、進んで、盧溝河に駐まる蕭韓、之を拒ぐ。藥師、間道より燕を襲ふ。幹、還り救うて死闘し、藥師、屢ば敗れ、わづかに身をくわん以て、免れて、遁れ還り盧溝の師、遂に潰ゆ。貫攸、功なくして、罪を獲むことを懼る。時に金主、奉聖州に在り、乃ち客を遣ほはして金主に之を圖るを禱む。金主、三道に分つて兵を進め、遂に居庸關に入る。燕金に降る。金使、來つて言ふ、燕京は、金兵を以て攻下す。其地は宋に與へ、租稅は、當に以て金に輸すべしと。宋使趙良嗣、往いて之を議し、歲幣を許すこと、契丹の如くし、奮數の外、更に百萬を以て租稅に代へて、併せて雲中の地を求む。金リい人わづかに燕京、涿、易、檀、順景、薊の六州を以て、來り歸す。貫攸、燕に入る。燕の金帛子女職官民戶は、金人席卷して東す。得る所は、空城のみ。貫、攸歸り、王安中を以て燕山府に知たらしめ、詹度、郭藥師、同知たり。ちよ!星あり、月の如く、徐徐として南行して落つ。光人物を照し、月と異なるなし。神保觀を修す。其神、都人、素より之を畏る。傾城の男女、土を負うて以て獻じ、名づけて、獻土といふ。又、鬼使を飾作し、土を納るるを催す者あり。上、亦た微服して、之を觀る。後數日、旨あ宋-徽宗皇帝-·究
十八史略卷之七七九二きんつて禁ず。り、しかとうせんせいちふるでんもんえうどうらんしう京師、河東、ぼつにふ陝西、地震ふ。さんかばくべう宮中の殿門搖動して、且つ聲あり。蘭州の草木、きんこくじやうくわくきうしつ沒入し、山下の麥苗、きつたんきうれい乃ち山上に在り。けつさいざん金國、城郭宮室なし、しやうがくとうけいげききく契丹の舊禮を用ゐ、結綵山に如いて倡樂しゆうがくをなし、擊鞠の戯、ぢよすうにん鬭雞、かぐみ中國と同じ。でんぼ但だ衆樂の後に於て、舞女數人を飾り、るゐ兩手に鏡を持たしめ、みなばつしや電母に類す。其國茫然、皆、麦まさたいをくすうけんえい舍して以て居る。是に至つて、ことんななら方に大屋數千間を營して、盡く中國の爲す所に做ふ。災異疊見すりやうけいかせつみちさいいでふけんとじやうせいくわ兩京河浙の路、はらまたほうらくろう災異疊見す。しゆほしゆし都城に靑菓を賣る男子あり、孕んで子を生む。そのつまとし又豐樂樓の酒保朱氏あり、たちましぜん其妻年五十、忽ち髭髯を生ず、えんどぢよにうし長さ六七寸、宛として一男子なり。詔して、度して女道士となす。かほくさんとうたうおこれんさいきやうくわうゆひさいきふ河北、山東、盜起る連歲凶荒、民、楡皮を食ふ、野菜給せず、あひくらきみんならびちやうせんしゆう相食ふに至る。饑民並に起つて、盜をなす。張仙といふ者あり、衆まんちやうてきかうたくざんしゆうまんじよまんものあ十萬、張迪の衆五萬、高托山の衆三十萬、自餘二三萬の者、勝げてはか計るべからず。きんしゆたいそたいせいぶげんくわうていおとうと阿骨打殂す金主、帝と稱す。六月にして殂す。太祖大聖武元皇帝と號す。弟ごきつばいせいかいめいえんざんちえきしうきんはくわん吳乞買、立つ。晟と改名す。燕山の地、易州の西北は乃ち金坡關、しやうへいきよようくわんじゆんしうこほくくわんけいしうしよう昌平の西は乃ち居庸關、順州の北は乃ち古北關、景州の北は乃ち松ていくわんゆくわんきんじんらいろ亭關、平州の東は乃ち險關、險關の東は乃ち金人の來路なり。凡そすうくわんばんかんかぎえんきやうたもこの數關は、天、蕃漢を限る。之を得れば、燕境保つべし。然れど宋-徽宗皇帝-六三
十八史略卷之七古いいも、關內の地、平、樂營の三州は、後唐、契丹阿保機に陷れられしより、營、灤を以て平に隷して、平州路となす。燕を得て、平州くわんないを得ざれば、關內の地、蕃漢雜處して、燕保ち難しとなす。遼の張穀、平州を守る。金、旣に人を遣して穀を招く。穀曰く、契丹、凡そ八路、今特だ平州存するのみ、敢て異志あらむやと。旣にして平州を以て南附す。朱、遽に之を納る。趙良嗣、力めて爭ふ、以爲必ず金兵を招かむと。へらく、金人、謀して知る。卽ち平州を襲う之を破る。て、宋の詔札を得たり。之より曲を歸し、檄を累ね、穀を取らむとす。己むを得ずして、王安中に命じて、之を縊つて、其首を國送す。未だ幾ならずして、金の太子斡離不、旣に平州路よこり:將に燕に入らむとす。宋、方に且つ人を遣し、密に天祚を誘うて來り降らしめ、童貫を以て兩河燕山路を宣撫せしめ、將に天祚を迎へむとす。金人、方に退く。天祚、陰夾山に入らむとするも得べからず。是に至つて、衆を領して南に出づ、遂に金人に敗られて、は評(雜誌時に擒に就く。契丹は、阿保機より天祚に至るまで、九世にして亡ぶ。に二立口腔炎時に宣和七年乙巳の歲なり。この冬、金の斡離不、粘罕、道を分つて南す。斡離不、燕山を陷る。郭藥師之に降る。金兵、長驅して進む。郭藥師、爲に前驅す。童貫、太原より逃れ歸る。粘罕、太原を圍む。太原の帥張孝純、1歎じて曰く、平時、童太師、多少の威重を作す、乃ち畏怯すること宋-徹宗皇帝-七九五
十八史略卷之七奏さえんなんめんぼく此の如し。身、大臣となつて、難に死する能はず、何の面目あつてかうじゆんくわん天下の士を見むと。さくねそんよくきた孝純み冀景を以て關を守らしむ。きんじんちやうかうじゆんいは知朔寧府孫翊來り救ふ。兵、二千に滿たず、金人と城下に戰ふ。張孝純曰く、賊あ、くわんさつちうつく旣に近きに在り、敢て門を開かず。觀察、忠を盡して國に報ずよくいはうらむまべし。翊曰く、但だ恨らくは兵少きのみと。乃ち復た引いて戰ふ。はじてきよく金人大に阻む。あ、くだ再び兵を益す。わうほカ、敵する能はず。翊、死す。一騎の肯て降るなし。時に、王黼、先つこと一年、旣に罷めらる。而しはくじちうりはうげんならびしやうきんへいきた李邦彥、じ白時中、ちうて、並に相たり。皆、鄙夫なり。金兵來る。時中たしゆつほん。きくたないぜん惟だ出奔の策を建つるのみ。上、內禪す。在位二十六年。改元するけんちうせいこくすうねいたいくわんせいくわちようくわせんくわもの六、曰く建中靖國、曰く崇寧、大觀、政和、重和宣和太子きんそうくわうてい立つ、之を欽宗皇帝となす。くわんとうきうしつとくさいけいどうくわんはいみ【欽宗皇帝】名は桓、東宮に在つて失德なし。蔡京、童貫の輩、咸はじかどうえうな之を憚り、動搖せむと欲するも、不可なり。是に至つて、位に卽がくせいちんとうらけつじやうしよさいけいどうくわんわうほれうしく大學生陳東等、闕に伏して上書し、蔡京、童貫、王黼、梁師せいげんしゆめんぜん成、李彥、朱動の六賊を誅して、以て天下に謝せむを乞ふ。彥は、こんくわつひやくしやうはたううらみかほくけいろ民田を根括するを以て、百姓を破蕩し、怨を河北、京の東、西三路むすめんわせきかうしよざいさうどううらみに結ぶものなり。動は、花石綱を以て、所在騒動して、怨を東南にせ、かうぐわんねんしゆほめんげんざん結ぶものなり。靖康元年、首として、鶴動彥を竄し、尋いで、皆、之を殺す。ぎよたふのぼざみことのりわうべうニ狐あり、御榻に升つて坐す。詔して、狐王廟を毀たしむ。宋-欽宗皇帝-老君
十八史略卷之七奏上皇應天府に奔る。李綱李綱を以て行營使となし、城守の策を定めしむ。元祐の黨籍を除き、范仲淹、司馬光等に官を追贈す。老麵線自由、罷む。張邦昌、相となる春正月、健康、京師に抵る。之より先、朝廷、李鄴を遣して、げ和を求む。斡離不、鄴を携へて、以て京城を攻む。克たず。乃ち王汭を遣し、鄴と偕に來らしむ。邦彥等、皆和を主とす。惟だ綱は、戰はむと欲す。上、邦彥の計を是とし、鄭望之を遣して、出でて使せしむ。未だ至らずして、王〓に遇ひ、與に倶に入つて見ゆ。又李稅を遣して、出でて使せしむ。稅、又金使と偕に來る。金人、犒師の金五百萬兩、銀五千萬兩、牛馬萬頭、表段百萬匹、中山、河間、原太三鎭の地二十餘郡を割くを求め、且つ宰相親王を質となさむと欲す。張邦昌をして、康王に副として、其營に如かしむ。金國の太子、康王と同じく射る。連發三矢、皆、筈に中る。金人謂ふ、是れ將家の子、親王に非ずと。歸らしめて、更めて、肅王を請うて質となす。种師道等、諸路の勤王の兵至る。師道、奏す、京城は、:周囘八十里、城の高さ數十丈、粟、數年を支ふ。宜しく、城內と寨を割して拒守し、困を俟つて之れ擊つべしと。綱亦た奏す、金、)5孤軍を以て、深く入る、虎の檻に投ずるが如く、共に、一旦の力を角すべからず、縱ち歸らしめて、之を擊たば、必勝の計ならむと。宋-欽宗皇帝-七九九
十八史略卷之七八〇〇評る和國之上、之を然りとす。而して、李邦彥、吳敏等、專ら和を主とす。議誤しる巳を定|魔ま汝るがの議時論論一ならず。虜をして、汝が議論定まるの時を待てば、我、旣に河むのに待議河てら渡我あをばを渡るの譏あらしむるを致す。未だ幾ならずして、統制官姚平仲、宵に金營を攻む。克たず。上、大に恐懼し、行營を廢し、李綱を罷闕に伏しめ、以て金人に謝す。大學生陳東、及び都人數萬、て、復えた綱を用ゐむことを乞ふ。旨を得て、右丞に復し、守禦使に充つ。衆乃ち散ず。金使、復た來る。乃ち三鎭を割くの詔書を以て、使を遣して、持して往かしむ。時に在京の金を括して、わづかに二十餘萬兩、銀四百餘萬兩を得たり。藏蓄、旣に空し。金人、京城を圍むこと、凡そ三十三日、地を割くの詔を得、金幣數足るを俟たずカ。して退く。种師道、河に臨んで、之を要擊せむことを請ふ。綱、亦た以爲へらく、彼の兵六萬にして、我が勤王の師は二十餘萬、其半ば渡るを縱るして、之を擊たば、必ず勝たむと。邦彥等、從はず。惟だ三鎭に詔して、尙ほ堅守して割かざらしむ。京師、圍を受くる時、梁師成、旣に誅せらる。是に至つて、蔡京死す蔡京竄所にを儋州に竄す。x潭に至つて死す。年八十。蔡攸萬安軍に竄せらる。尋いで、詔あり、所在に卽いて之を斬る。童貫、亦た遠竄せられ、追うて、南雄に斬らる。李邦彥、罷む。張邦昌、吳敏、並に相たり。邦昌、罷む。徐處七、相たり。處仁、敏、罷む。唐恪、相たり。恪、罷む。何桌、相宋-欽宗皇帝-八〇一
十八史略卷之七八〇二たり。上皇、京師に歸る。數月にして、金兵復た至る。斡離不、東路より眞定を陷れ、長驅して先づ京師に抵る。粘罕、西路より、隆德、太原府、汾澤州、平定軍、平陽府、河南府、河陽府、鄭州、懷州を陷れ、京師に抵る。張叔夜等、兵を統べて、闕に赴く。唐恪、耿南仲、專ら和議を主とす。曰く、今、百姓困匱、數十萬を城下に養へば、何を以て、之に給せむと。乃ち各道の兵を止めて動くを得るなからしむ。京師は、十一月、圍を受けしより、凡そ四十日卒郭京といふ者あり、言ふ、能く六甲の法を用ゐて、粘罕、斡離不をこと〓〓生擒せむと。盡く守禦の人をして、城を下らしめ、獨り、城樓の上に坐し、親兵數百を以て、自ら衞る。俄頃にして、金人鼓譟して進む。京、衆を給いて曰く、須らく自ら城を下つて法を作すべしと。い因つて、餘兵を引いて、南に遁る。虜兵、城に登る者、わづかに四人衆皆、披靡して大に潰ゆ。上、城の陷るを聞き、慟哭して曰く、朕、种師道の言を用ゐず、以て是に至ると。時に、師道、前一月に卒す。護駕の人、猶ほ萬餘あり、馬、亦た數千。張叔夜、連戰四日、其貴將一人を斬り、駕を護し、圍を突いて出でむと欲す。評不動熱敷設國議優遂に柔上、和議に惑うて定らず。士卒號哭して散ず。虜使劉晏、上に請うには、て城を出でしむ。都民、爭ひ入り、變して之を食ふ。何桌、都民を率ゐて、巷戰せむと欲す。聞く者、爭ひ奮ふ。金人、之に因つ宋-欽宗皇帝-八〇三
十八史略卷之七八〇四て、兵を歛めて下らず。惟だ地を割き金幣を責め和議するを以て辭ら、となし、以て戰守の計を誤らしむ。侍郞耿南仲、力めて、和を議するを主とす。上、以て然りとなし、遂に其計に墮つ。二元帥、上皇と相見むことを請ふ。上曰く、上皇、驚憂して、既に病む。朕當に自ら往くべしと。遂に靑城に如いて、之を見、二宿して返る。明年春、復た上に請うて、郊に出でしめ、續いて、逼つて、上皇を出さしむ。張叔夜、諫めて曰く、今上一たび出でて歸らず、陛下、再び往くべからず。臣、當に精兵を率勵し、駕を護して、以て出づ芝んべし。たとひ、虜騎追ひ至るも、臣決して、死戰せむ。或は僥倖すべし。若し、天、祚せざれば、封疆に死せむ。猶ほ、生きながら夷狄に陷らざらむかと。上皇、藥を飮まむと欲す。范瓊に奪はる。上皇に逼つて、宮を出でしむ。皇后太子、親王、帝姫、皇族前後三千餘人、悉く軍前に赴く。城中の子女金帛寶玩車服器用圖書百物、括索して、公私上下、共に空し。然る後に、金主の詔書を宣して(童食るのは北二異姓を選立し、遂に前太宰張 邦昌を册して、楚帝となし、宋の二に歸帝を以て、北歸す。金人、汴に在ること、凡そ七閱月にして去る。初め、至る時、張叔夜、嘗て力戰す。餘は、皆、和を主とし、以て1)吳〓、莫儔、王時雍、徐秉哲、范瓊等に至るまで、往來して、上皇i以下を逼逐して、郊に出でしめ、議して、異姓を擧ぐ。上の靑城に在るに方つて、逼つて御服を易へしむ。時に、惟だ李若水、抱持し宋-欽宗皇帝-八〇五
十八史略卷之七八〇六評て大呼奮罵す。金人、して麻刀を以て、其頤を裂き、景人を人亡國其舌を斬つて、然眼むる後に、之を梟す。相謂つて曰く、大遼破れし時、義に死する者十數。今、南朝、惟だ李侍郞一人のみと。然れども、一時憤死する者甚だ衆し。金人、知らざるなり。吳革、衆に結んで、二帝を劫還せむと欲す。范瓊に誘殺せらる。何桌、孫傳、張叔夜、秦檜、司馬朴、皆爭論して、趙氏を存立せむを乞ふ。金人、之を驅つて、上に生活〆地in從つて、北行せしむ。叔夜、粟を食はず、惟だ湯を飮み、界河を過竹篙灣產業ぎて死す。桌、燕に至り、亦た食はずして死す。京城危急の時に當とつて、四方勤王の師、至る者、皆詔して、止まつて進まざらしめ和議を妨げむことを恐る。金人の退くに訖るまで、未だ嘗て兵を交へず。上、在位二年ならずして國破る。改元して、靖康といふ。弟康王、南京に立つ、之を高宗皇帝となす。南宋【高宗皇帝】名は構、徽宗の第九子なり。母は韋氏。徽宗、吳越の武肅錢王、室に入るを夢み、旣にして構を生む。康王に封ぜらる靖康の初、嘗て出でて、斡離不の軍に使す。この冬、斡離不、再び10 :來るや、詔を奉じて、再び出でて使す。耿南仲、偕に行きて、相州に至る。民、道を遮つて、往くことなきを請ひ、守臣宗澤、之を止む。相州の守、蠟書を以て言ふ、金人騎を遣して、康王の所在を宋-欽宗皇帝-南宋-高宗皇帝-八〇七
十八史略卷之七八〇八か物色すと。乃ち相州に囘り、南仲と共に榜を揭げて、兵を召して勤さ王す。詔あり、康王を以て大元帥となし、汪伯彥、宗澤を副となし兵を領して、入つて衞らしむ。王伯彥の議に從ひ北門を出でて、河を渡つて、大名に至る京師陷るを聞く。澤兵を進めて、京城に向はむを請ふ。伯彥、王に請ふ、兵を東平に移して、身を安地に措かむと。南仲、亦た以て然りとなす。遂に東に去る。知河間府黃さ、潜善、亦た兵を領して至り、進んで濟州に屯して探報す、二帝北行し、張邦昌、金に立てられ、國を楚と號すと。この日風霾、日に薄暈あり、百官慘怛、邦昌亦た憂色あり、惟だ王時雍、范瓊等、欣然得るあるが如し。邦昌、位に在ること三十三日。御史馬紳書でを邦昌に貽り、請ふ、速に行いて、正を改め、服を易へて歸省せよと遂に元祐孟太后を迎へて政を聽かしむ。太后、康王を迎立す。詔して、中外に〓ぐ、曰ふあり、漢家の厄十世、光武の中興に宜しく獻公の子九人、惟だ重耳尙ほ在りと。使を遣し、表を奉じ、及び孟后の詔を以て來る。邦昌、繼いで至り、地に伏し、慟哭して死を請ふ。使臣、河北より竄げ來り、道君の手札を進む。曰く、便ち眞に卽いて、來つて、父母を救ふべしと。王、働哭して拜受し、遂に應天府に趨いて、位に卽き、元を建炎と改む。和を主とし國を誤るを以て、耿南仲を罷竄し、李綱を召して相となし、宗澤を以て開ほ封に知として留守となす。綱至る、邊防軍政、略ぼ〓あり。而し南宋-高宗皇帝-八〇九
千八史略卷之七八一〇伯彥て、潜善、復た和を主とし、亟に祈請使を遣す。綱相たること、數十日にして罷め、潜善、伯彥、相となり、首として、上書の人、陳東、歐陽徹を殺し、策を決して、東南に幸し、復た兩河を經制するの意なし。この冬、車駕、遂に揚州に至る。金人、三道に岐れて、南に來る。二年春、金人、汴に至り、宗澤に敗らる。澤き群盜を招撫し、四方の義士を募り、百餘萬を合し、糧半歲を支ふ。表疏、數十を連ね、上に請うて、汁に還らしむ。潜善、其成功を忌〇四、〇一〇、に評南の復んで、中より之を沮む。憂憤、疽背に發して沒す。終に臨んで、3.4(4)き折なすり惜一語の家事に及ぶなく、惟だ河を過ぎむと連呼するもの三たび、都人之が爲に號働し、聞く者、皆、相弔うて、涕を出す。三年春。金人將に揚州に至らむとす。上、報を得て亟に出づ。二相方に堂に會食す。吏呼んで曰く、駕行くと。乃ち戎服して南走張浚す。揚州を囘望すれば、烟焔、既に天に漲る。呂頤浩、張浚、上に〓瓜州に追及し、小舟を得て、以て渡り、鎭江に至り、遂に杭州に如く潜善、伯彥を罷め、朱勝非を以て相となす。御營の將、苗傅、劉正彥、亂を作し、上に請うて、位を皇子專に禪らしむ、未だ三歲ならず。孟太后、政を聽く、呂頤浩、張浚、師を帥ゐて、勤王す。張俊韓世忠、前軍たり、張俊、之を冀く。劉光世、遊擊して殿となる勝非、二免に說いて、亟に反正せしめ、孟居を尊んで、隆祐皇太后となす。勝非、罷む。呂頤浩、相となる。二兒、走る。世忠、之を南宋-高宗皇帝-全
十八史略卷之七八一二え追ひ、皆誅に伏す。上、建康に如く。俊を以て、川陝宣撫處置使となす。隆祐太后南昌に如く。元朮が粘牢に請うて、將に江浙を犯さむとするが故なり。杜充、右僕射となり、建康を守る。上、杭州に如く杭を昇せて臨安府となす。臨安より浙東に如く。金人、兩道にき、分れ、一軍は、〓黄より江を渡る。劉光世江州に在り、以爲らく斬黄の小盜なりと、王德を遣して、之を興國軍に拒がしめ、始めて、金人たるを知る。金入、大冶より洪撫、建昌臨江、吉州に趨き、隆祐太后を追ひて及ばず。遂に袁潭、〓南、澧州を陷れ、乃ち石首より北に渡つて去る。一軍は、滌和より江東の馬家渡に向ひ、江をつうばんやうはうがいしたが濟つて、建康を陷る杜充及び守臣、皆、兀朮に降る。通判楊邦又從ははず、血を刺して裾に書して曰く、寧ろ趙氏の鬼となるも、他邦の臣とならずと。衆擁して、兀朮に見えしめ、誘諭累日輒ち叱罵し、卒に大に罵つて殺さる。兀朮、長驅して、杭州を陷る。上、去つて、旣に七日。兀朮、進んで、越州を陷る。四年春、明州を陷る。時に、上、旣に台州章安鎭に次す。金人、船を以て、昌國縣を犯し、追うて、上の舟を襲はむと欲す。提領海舟張公祐、大船を率いて、之を擊散す。乃ち退く。兵を囘して、秀、平江、常州を陷れ、鎭江に至る。韓世忠、之を邀へ海舟を以て與に戰ふこと數十合、俘獲多し。卒を金山龍王廟に伏せて、幾んど、兀朮を獲むとす。黄うや〓天蕩に相持す。兀朮、道を假らむことを求め、甚だ恭し。許さず。南宋-高宗皇帝-八一三
十八史略卷之七八一四建康より北歸せむと欲す。去るを得ず。或ひと〓へて、冶城西南隅の蘆場の地に於て、大渠を鑿たしめ、一夕にして成る。次早、舟を出して、建康に趨く。世忠、大に驚いて、之を尾擊す。一、、風なきに値うて、海舟動く能はず。兀朮、乃ち其舟を率ゐて、江を出でて北に去る。疾きこと、飛ぶが如く、火箭を以て海舟を射る、世忠、岳飛軍亂れて奔り還る。兀朮、乃ち北に遁るるを得たり。統制岳飛、邀へ擊つて、之を六合に敗る。初め、張浚、西行す。上、浚に命じ、三年にして後に、師を用ゐしむ。是に至つて、撻辣、兀朮、皆、淮東に在り。浚聞く、〓朮(3)躊躇するも、必ず再び東南を犯さむとすと。議して、師を出し、攻取して以て其勢を分たむとす。士大夫及び諸將、皆以て不可となす。浚、策を決し、檄を粘罕に移して、罪を問ひ、吳〓を遣して、長安に入らしむ。金人、遂に兀朮を調し、京西より星馳して、陝西に赴き、婁室と合す。浚、六路の兵を合して、富平に至る。婁室、兵を擁して、驟に至る。鐵騎、直に環慶路趙哲の軍を擊つ。佗路、援けず。哲、所部を離る。諸軍退く。金遂に勝に乘じて前む。浚、趙哲を斬る。諸路の兵、皆散じ去る。陝西大に震ふ。浚軍を興州に駐め、劉子羽を遣して、諸將の在る所を訪はしめ、各、所部を引p.いて、來會せしむ。人心粗ば安し。吳玠、走つて、大散關東の和尙た原を保つ。南宋-高宗皇帝-八一五
十八史略卷之七八一六上、海道より、囘つて越州に駐まる。呂頤浩、罷む。范宗尹、相秦檜二心となる。秦檜、南に歸つて、行在に赴く。檜、北に在り、撻辣に依つて任用せられ、撻辣の南侵するや、檜其軍に參謀たり。嘗て、爲に檄を草し、山東の州郡を下す。全家を挈へ小舟を浮べて、漣水軍に抵る。自ら逃れ歸るといふも、朝士多く之を疑ふ。檜言ふ、天下の無事を欲せば、須らく是れ、南は自ら南、北は自ら北たるべしと。上に乞うて、書を撻辣に致し、以て好を求めしむ。其言は、皆、撻辣の意なり。劉豫帝と稱この歲、劉豫、帝と稱す。豫は景州の人、建炎戊申に於て、濟南すの守を以て金に降り、之が用をなし、東平府に知たるを得、兼ねてほ上河南に節制たり。粘罕、金主に白し、邦昌の故事に循つて、豫を立てて、國を大齊と號し、後に都を汴に遷す。粘罕、旣に關中の地を得、悉く割いて以て豫に與ふ。紹興元年、張俊に命じて、江淮の盜李成を討たしむ。成、江淮上の六七州に據り、兵數萬を連ね、東南を席卷するの勢あり。尋いで江筠、臨江を陷る。後、其軍を擊つて、三郡を復す。成、遁れて齊に降る。こと〓〓ざ張浚、盡く陝西の地を失ひ、惟だ階、成、岷鳳洮の五郡、及び鳳翔府の和尙原、隴州の方山原を餘すのみ。浚退いて圓州を保す。統制曲端、威名あり。浚、さきに譜を用ゐて其兵柄を罷め、南宋-高宗皇帝-八一七
十八史略卷之七八一八ばんしうあんちたん上だへん萬州に安置す。西人、端に倚つて、重きをなす。貶せらるるに及びぐんじやうよろこきようしうミて、軍情悅ばず。是に至つて、又、恭州の獄に送つて之を殺す。みならやうこんせいじんますましゆんひ士大夫軍民、皆帳恨す。西人益す是を以て、浚を非とす。しよくごかいおとうとりんくわせうげん金人、兩道に分れて、蜀に向ふ。吳玠、弟璘と大に之を和尙原やぶえらせんくわつくわんりやうだうに敗り、又將を選んで、之を箭筈關に敗る。兩道、皆、入る能はず。はんそうゐんしんくわいしやうげんさい范宗尹、罷めらる。秦檜、昌言して曰く、我に二策あり、以て天しようどうつひいうしやうりよいかう下を聳動すべしと。遂に右相となり、呂頤浩、左相となる。こつじゆつしよだうおよちよしんふれうはうけいけんゐ兀朮、諸道及び女眞の兵を會して、浮梁を寶雞縣に造り、渭を渡かいりんつて、和尙原を攻む。玠璘三日、三十餘戰、大に之を破る。〓りうしまぬかとうえんざん朮、流矢に中り、わづかに身を以て免れ、始めて、河東より燕山に歸る。せうこうねんえつしうりんあんかへげんしやしんくわい紹興三年。上、越州より臨安に還る。言者、秦檜、專ら和議を主くわいふくゑんとそか、くわいしゆしようひとして、恢復の遠圖を沮止するを効す。檜罷む。朱勝非、右相となる。さんりかつほうしやうせいげん紹興三年。春金の撒離曷、鳳翔、長安より東に去ると聲言し、しやうおかんいんたゞちきんしやうおもむごかいきふ實は商於より漢陰に出で、直に金商に趣く。吳玠、急に兵を率ゐてげうふうれいやくかんたうめぐそのうしろかいにはか之を饒風嶺に扼す。金人、閒道より、遠つて其後に出づ。玠、遽にせんにんくわんかつこうげんおとしいちりうしうしりぞ仙人關に還る。金人、遂に進んで興元を陷る知府劉子羽、退いせんけんたんどくさんさんりかつしよくつかへごて、三泉縣、潭毒山を保つ。撒離曷、食盡く、乃ち引いて還る。吳南宋-高宗皇帝-八一九
十八史略卷之七八二〇璘粮なきを以て、塞を拔き、和尙原を棄つ。金人、之を得たり。か玠、其必ず深く入るを度り、乃ち兵を嚴にして、以て待つ兀朮果して、撒離曷と共に、來つて仙人關を犯す。玠璘、共に戰ふこのがでと七日、金人支ふる能はず、宵に遁る。玖、伏を設けて、其歸路を扼し、又之を敗る。この擧、金人、意を決して、蜀に入らむとす。卒に志を得ず。この歲、浚又、洮岷關外を失ひ、惟だ階成秦鳳を存するのみ。浚、召し還され、尋いで、劉子羽と共に、皆貶竄こと〓〓せらる。浚の是行、もと關陝より、中原を取らむと欲し、乃ち盡く關陜を喪うて歸り、賴に玠璘を得て蜀を保するのみ。13えい.齊李成を遣し、攻めて、鄧襄、隨郢唐州、信陽軍等を陷える。岳飛、隨郢を復す。成、襄陽を棄てて遁る。呂頤浩、朱勝非、相繼いで罷められ、趙鼎、右相となる。齊金兵を以て、道を分つて南侵す。上、詔して親征し、出でて平江に如く張浚を以て、樞密院に知たらしむ。之より先、浚、北方既に西顧の憂なく、必ず力を併せて東南を窺はむことを極言す。上、其言を思うて、遂に之を召す。浚、至り、請うて、岳飛を遣して、江を渡つて淮西に入らしめ、以て北兵の淮東に在る者を牽制せむとす之に從ふ。上、浚に命じて、師を江上に視しむ。將士、浚の來るを見て、勇氣皆倍す。時に、韓世忠、揚州に停まり、さきに已に大に金兵を大儀鎭に敗り、其將撻也を擒にし、解元、成閔、共南宋-高宗皇帝-〓〓
十八史略卷之七八二二しようしうたゝかせふきうよそんきじゆしゆんわうとくに承州に戰ひ、十三捷す。仇悆孫暉は之を壽春に敗り、王德は之をぢよしうがくひぎうくわうらろしうだつらつこつ滁州に敗り、岳飛は牛皐等を遣して、之を廬州に攻めしむ。撻辣元じゆつせいちうやくか朮世忠に扼せられて、江の渡るべからざるを知つて、引いて還る。せいりうりんりうげいしちようのが齊の劉麟、劉猊、輜重を棄てて遁れ去る。せうこうねんへいこうりんあんかへてうていちやうしゆんしやう紹興五年。上、平江より臨安に還る。趙鼎、張浚、左右の相たぐんはととくり。浚、兼ねて、諸所の軍馬を都督す。尋いで、復た浚に命じて、しゆんちんこうかんせいちう師を江上に視しむ。浚、鎭江に至り、韓世忠を召し、兵を擧げて、そしうたむろけんかうたいへいしう移つて楚州に屯せしむ。浚、建康に至り、張俊の軍を撫し、太平州りうくわうせいようやくふんがくひに至つて、劉光世の軍を撫す。踊躍して奮を思はざるなし。岳飛をかほくけいせいせうたうし以て、河北京西招討使となす。けんえんかうじゆつちうふれうひとしやうしやうていしう之より先、建炎庚戌中、武陵の人鍾相といふ者あり、鼎州に起せんそがうていれいたんしんがくきやうたうくり、僭して、楚と號す。鼎、澧潭、辰岳の境、皆、盜區なり。しやうやぶきんそのとやうえうどうてい上相敗れて擒に就く。其徒に揚工といふ者あり、洞庭に據り、遂にげきかうおそ劇寇をなす。官軍、陸より之を襲へば湖に入り、水より之を攻むれきしのぼがいひらいしゆんば岸に登る。曰く、能く我を害するあらば除だ是れ飛來のみと。浚じやうりうまえうふくしんがいまさ謂ふ、上流先づ去らざれば、ム、腹心の害をなし、將に以て國を立しゆんこなんがくひつるなからむとすと。請うて、自ら行く。浚、湖南に至り、岳飛のくわいきふそのすゐさいえうきうしゆくおもむ兵、至るに會し、急に其水寨を攻む、云窮蹙、水に赴いて死す。遂てんりやうわいしよしやうばうしうに平らぐ。浚、湖南より轉じて、兩淮に由り諸將を會し、防秋を議まみし、乃ち入つて見ゆ。南宋-高宗皇帝-八二三
十八史略卷之七八二四西紀一一三五金主晟、殂す。文烈と證す。初め、旻、晟と約す、兄終はれば弟立ち、然る後に、旻の子に復歸せむと。故に、最己の子宗盤を捨てて、旻の長孫易囉馬を立てて諳版字極烈となす。儲副の位なり曷囉馬、名は亶、是に至つて、遂に位に卽く。宗盤、旻の別子及び粘罕と、皆立つを爭うて得ず。粘罕、時に已に兵柄を失し、悟室と並に相たり。粘罕、食を絕ち、縱飮して死す。蒙國、金に叛く、蒙蒙國金に叛は、女眞の北に在り、唐に在つては、蒙兀部たり、亦た蒙骨斯と號す紹興六年、張浚、復た出でて、師を視る。上、臨安より平江に如せいじんく齊人、道を分つて入寇す。初め、劉豫、粘罕に因つて、立つを得、粘罕を奉ずるを知るのみ、他帥を蔑視す。是に及びて、兵を金に請ふ宗盤、之を沮み、豫が自ら行くを聽るし、然も、兀朮を遣し、兵を黎陽に提げて、以て釁を觀せしむ。劉光世、時に廬州に駐まる以爲へらく、守り難しと張俊、泗州に駐まり、亦た兵を益すを請ふ。衆情淘懼す。張浚、書を以て、俊及び光世を戒め進擊あつて退保なからしむ。趙鼎等、上に請うて、親書して、浚に付し、師を退けて南に還り、江を保たむと欲す。浚力爭す、以爲へらく、必勝を保すべし、一たび退けば大事去らむと。光世、旣に廬州を捨てて退く。浚卽ち星馳して、釆石に至り、人を遣して、其衆を喩さしめ、若し一人の江を渡るあらば、卽ち斬つて以て徇へむ南宋-高宗皇帝-八二五
十八史略卷之七会えといひ、仍つて光世を督し、復た廬州に還らしむ。光世、已むを得ず、乃ち兵を駐め、王德、酈瓊を遣し、三たび齊兵を霍丘、正陽及び前羊市に敗る。時に劉猊、淮東に至り、韓世忠の兵に阻まれてあす、敢て進まず、乃ち淮西より渡る。浚張俊の統制官楊沂中を遣して、濠州に至らしめ、俊と兵を合す。沂中、猊の前鋒を敗る。猊兵を引いて、劉麟に合肥に會して後に進まむと欲す。沂中共に藕塘ずに遇うて合戰す。猊大に敗る。麟猊の敗を聞き、風を望んで潰え去る。光世、勝に乘じて、追ひ襲うて、亦た捷つ。北方、大に恐評北悲敵虜宋し地とのむにな天終り子るて俘る。上曰く、敵に克つの功、皆、右相より出づと。趙鼎遂に罷む。し上皇、五年四月を以て殂し、七年に至つて、凶問、始めて至る。壽五十四。二帝、建炎の初より、燕山より中京に如く。古しへの奚國霤郡なり。燕山の北千里に在り。次年、又中京より韓州に移る。中京の東北千五百里に在り。後二年、又韓州より五國城に移る。金國都する所の東北千里に在り。上皇終る。:評爭ふ亡國の宿將功を岳飛、湖北京西宣撫使となる。時に淮東宣撫使韓世忠、江東宣撫兆也使張俊、皆、久しく、旣に功を立つ。而して、飛は列將を以て拔起soす。世忠、俊、不平なり。飛己を屈して、之に下る。二人皆、答けんげぎへず。飛が楊云を破るに及び、俊、益す之を忌む。是に於て、嫌隙日に深し。上、自ら平江に如き、建康に如く。飛因つて、駕に扈して、以て行き、入つて見え、疏して恢復を論ず。秦檜、時に樞密南宋-高宗皇帝-八二七
十八史略卷之七会副使たり、和議を主とし、飛の成功を忌んで、之を沮む。飛內艱てりうくわうせいを以て去る。上、力めて、之を起す。劉光世、言者、其師を退け、幾んど事を誤るを論ずるを以て、兵柄を罷む。張浚、王德を以て其를軍を統べしむ。德酈瓊と等夷にして相下らず、大に課いで、督府督府都를に詣つて、德を訴ふ。浚乃ち德を召して還らしめ、統制となし、而して、呂社を以て督府參謀となし、其軍を領せしむ。社簡倨にして、將士の情に通ぜず。瓊等の反側を聞き、密に之を罷めむを乞ふ。瓊叛き、社を執へ所部數萬を以て齊に降る。張浚、ま遂に言を以て罷む。浚の德と社とを用ゆる、岳飛、嘗て、其不可を言ふ、滲聽かず、故に破る。趙鼎、復た相たり。金人、劉豫の國を立つる能はざるを以て、之を廢す。齊、立つこと、八歲にして亡ぶ。紹興八年。上、建康より臨安に還る。秦檜復た相たり趙鼎罷む。詔して講和を議す。建炎より以來、歲として、使を遣して直に尊號を去り。其正朔を奉じ、藩臣に比するを願はざるなし。金人從はず。使者往くも、多く拘囚せらる。後、數ば南侵すれども、利あらず。江南の圖るべからざるを知り、然る後に、檜を遣して、閒を上爲さしむ。豫が廢せらるるに至つて、和議乃ち決す。金使張通古來評胡上銓(坦庵)疏措る編修官胡銓、上疏す。以爲へらく、陛下、一度膝を屈すれば、辭痛し懦む夫を記載と〓〓祖宗廟社の靈、盡く夷狄に汚され、祖宗の赤子は盡く左袵となり、南宋-高宗皇帝-八二九
十八史略卷之七八三〇てうていさいしつばいしんいじさいらうあいづく朝廷の宰執、皆、陪臣とならむ。異時豺狼厭くなき、安んぞ、我にくはぶれいりうよごと加ふるに無禮を以てする、劉豫の如くならざるを知らむ。夫れ三むちけんしふつぜん尺の童子は、無知なるも、犬豕を指して拜せしむれば、怫然としてだうてうてうあひひきけんしどうちはぢ怒らむ。堂々たる天朝、相率ゐて、犬豕を拜せば、嘗て童稚の羞なほうしわうりんほくしいうちこうなんせつゆからむや。奉使王倫、北使を誘致し、江南を招諭するを以て、名としんせふしつせいそんきんしんくわいふくわいなし、我を臣妾にせむと欲す。執政孫近、秦檜に附會す。臣、義とくわいらいたゞりんくわいきんかうべきして檜等と共に天を戴かず。乞ふ、倫檜近、三人の頭を斬り、かうがいかんせもんざいしおこ之を藁街に竿し、然る後に其使を覊し、無禮を責めて問罪の師を興おのづかばいさむ。三軍の士、戰はずして、氣、自ら倍せむ。然らざわば、臣、とうかいふいづくせうてうていをくわつ東海を蹈んで死するあらむのみ。寧んぞ、能く小朝廷に處つて活をしよたてまつへんざん求めむやと。書上る。しきりに貶竄せらる。せんせいかなんそうか、紹興九年。金人、先づ陝西、河南の地を以て、宋に歸す。朝廷、くわんれうしんえつちかかうべんけいりうしゆちよ官を遣し、陵寢に謁し、地界を交し、汁京留守を除す。せいかんじやうりせいほせいほるゐせいばんぞくとじゆんけんし靑澗城の李世輔、來り歸す。世輔の先は累世蕃族都巡檢使たり。せいつかつねあひなそう父子、嘗て、齊に仕ふと雖も、毎に相泣いて、宋に歸するを得ざるうらせいせいほどうしうらかんさんを恨む。齊、世輔を用ゐて、同州に知たらしむ。嘗て、閒を得て撒りかつせいきんてうきんへいはな離局を生擒して朝に歸せむと欲す。金兵、來り追ふ。之を縱つて、せいかはしみなりく西夏に奔らしむ。其父母及び二子一孫、皆戮せらる。是に至つて、かかせんせいそう兵を夏に乞ひ、以て復る。旣に出でて、陝西、旣に宋に還りしを知かひゐらうらいはけんちうり.乃ち夏兵を部して來る。上、慰勞して賜資を加へ、名を顯忠と南宋-高宗皇帝-八三一
十八史略卷之七八三二賜ふ。金國、謀反の者あり。事、宗盤等に連る。皆、坐して誅せらる。左副元帥撻辣は、實に楊割の長子なり、金主亶の大父行なり。粘罕の死せしより、宗戚大臣、皆懼る。撻辣、悟室と共に、尋いで亦た謀叛を以て、先後して誅せらる。金、宋と和するは、實に撻辣之を主とす。撻辣、既に死す。是に於て、右副元帥兀朮、左相たり。乃ち密に其主に奏するに。宋、未だ歲貢正朔誓表册命を議せず、然も、撻辣、擅に地を割くを許すを以てす。遂に盟を渝ふ。評秦檜の反紹興十年金兵四道に分れて、南侵す。劉錡、大に兀朮を順昌を開始ナッ人し理府に破る。檜急に上に啓して、錡を召し還さしむ。岳飛、大に之城に敗り、幾んど元朮を擒にせむとす。飛.朱仙鎭に至る。せる ふつふきを〓はをてを排切ず排商て切檜急に上に啓して、飛を召し還さしむ。韓世忠、金人を淮陽の珈む口に敗る。兀朮、汴に還り、兩河の軍と蕃部とを檢し、以て再擧を謀る。十一年。兀朮、廬州を陷れ、和州を侵す。劉錡、楊沂中、之を彙皐に敗る。檜又上に啓して、亟に師を班さしむ。沂中、瓜州渡より行在に返る。張俊、宣化より建康に歸る。劉錡、釆石より太平州に歸る。宣撫司を罷め、其兵を以て、御前に隷す。師を出す時に遇へば、臨時、旨を取る韓世忠、張俊を以て樞密使となし、岳飛、副使たり。飛世忠、尋いで罷む。兀朮、書を以て、檜に抵して曰南宋-高宗皇帝-八三三
十八史略卷之七合評第二爾朝夕和を以て請ふ、)のと行名南日詩滿試叙しも鑑言のは<然るに、岳飛方に河北の圖をなす、必ず發財)なデ飛を殺せば、乃ち可ならむと。張俊、又飛の罪を構成し、逮して獄難今頗すし、そ の きに赴かしむ。檜、奏して、飛及び張憲岳雲を誅して、和議遂に諧こと〓〓章太后及び黴宗の梓宮を宋に歸す。其所作ひ、金人惟だ盡く許す所の陝西河南の地を悔ゆるのみならず、なほ唐郵等の州を割いて金に入れしめ、淮の中流を盡して界となし、西、商秦の半を割き、和尙、眼雨歇)方山の原を棄てしむ。仰時に、宣撫使吳玠、卒して四年、胡世將、之·に代り、力めて和尙原等の地を以て棄つべからずとなす。兀朮、必了莫路土)少等雲和月ず之を欲す。遂に大散關を以て界となす。閑)年頭均空悲時に、金國、屢ば內叛あり、宗感大臣、切、靖康恥相繼いで誅夷せらる。且認定下さい臣つ、北に蒙兀あり。自ら大蒙と號し、帝と稱し、元と改む。連歲兵ヘ鹹皮發賣活長車蘭山何時を用ゆるも、卒に討つ能はずして之と和し。南侵又逞しうするを得)志飢缺壯餐胡虜肉す。而して、宋の猛將精兵、方に日に盛なり。恢復實に難からず。笑談渴拾待飲舊從匈)秦檜に沮まる。有志の士、扼腕して歎息す。奴血兀朮死せむとするや、收闕山頭河朝天曰く、南朝の軍勢、强きこと甚し、宜しく、益す和好を加へて、十數年を俟つべく、南軍衰老、然る後に、之を圖れと。張浚、趙鼎、皆、遠竄せられ、鼎、海外に卒す。當時、異議の人、貶竄殆んど盡き、復た敢て兵を言ふ者なし。金主亮立つ紹興十九年、金主亶、其下に弑せられ、共に丞相岐王亮を立つ、西紀一、一二九曼の孫なり。南宋-高宗皇帝-八三五
十八史略卷之七八三六紹興二十年。金主亮、上京一隅に僻在するを以て燕京に城づき、燕京析津府を徒つて之に居り、改めて大興府となし、中都と號し、中京會寧府を以て北京となし、汴京開封府を以て南京となし、而して、舊の遼陽府を東京となし、大同府を西京となすこと故の如く、蕃漢の地を分つて十四路となし、總管府を置く。評秦二十五年。秦檜、卒す。檜政を秉ること十八年、終に臨んでに如好泰 大阪:のににを至讀へりみ這邊猶ほ大獄を起し、己に異なる者を殺さむと欲す。張浚、李光、胡寅堪汚穢ず等五十三人。幸に檜病んで、旣に書する能はずして、免るるを得たり沈該、万俟高、湯思退、陳康伯、朱倬、相繼いで相となるM凶問至る。三十一年。欽宗の去年冬を以て、五國城に殂す、年六十。評金主亮の金主亮、汴京を修す。蓋し、南侵を經營すること幾年。嘗て、使静岡べあ絕壯詞山湖移有同里しりす大想第上兵別 )車津田五箇所の來るに因つて、密に畫工を藏し、臨安の山水城市宮室を圖繪して雄一立百提峰馬萬封)以て歸らしめ、詩を其上に題し、馬を立つ吳山の第一峯の句あり。ふ〓橫豪「吳西この秋、徒つて汴に居り、遂に盟を渝へて兵を擧ぐ。其母、諫む。いのを渾とる空之を殺して、以て衆を威す。兵百萬と號す。淮西の諸郡を陷る。江淮浙西制置使劉錡、王權を遣して、敵を迎ふ。權逗留す。旣にしか、て退き、還つて采石に奔る。報至る。中外大に震ひ、海に沈んで敵を避くるの議あり。陳康伯、可かず。葉義問に命じて師を視しむ。中書舍人虞允文、參謀軍事たり。金人、揚州を陷れて瓜州に趨く。南宋-高宗皇帝-八三七
十八史略卷之七〓劉錡、將を遣して、之を早角林に敗る。詔あり、錡をして、軍を還さしめ、專ら江上を防ぐ。金主、采石より渡らむと欲す。朝廷李顯忠を以て、權に代らしむ。然も、未だ至らず。金人の舟來る。虞允文、亟に水軍を督し、海鰍船を以て、迎へ擊つて死闘す。金人渡る能はず。時に、亮內變あるを聞き、又、舟師、海道より來る者は、旣に、李寶に焚かれ、然も、〓鄂の諸軍方に上流よりして下るを聞き、忿ること甚し。乃ち揚州に囘り、諸將を召して約す、三日必ず濟らむ、期を過ぐれば、盡く殺さむと。諸將遂に亮を弑す。亮の引いて南するに方つて、渤海の一軍、叛き去る。旣にして、葛王褒を遼陽に擁立し、亮の死を聞いて、遂に譙京に入り、亶を追諡して閔宗となし、亮を廢して海陵王となし、諡して煬といふ。褻は晟の孫なり。後に雍と改名す。之より先、數年、張浚、嘗て言ふ、金必ず盟を渝へむと。時相湯思退等、大に愕いて、以て狂となす。是に至つて、浚、起つて建康に判たり。上、臨安より建康に如く浚、迎へて謁す。衞士、其復た用ゐらるるを見て、手を以て額とに加ふ。三十二年。上、臨安に還る。金使來る。使を遣して、之に報ぜしな、め、復た和議を尋ぬ。夏、六月上、內禪し、退いて德壽宮に居る、在位三十六年。改元するもの二、曰く、建炎、紹興。皇太子立つ、之を孝宗皇帝となす。南宋-高宗皇帝-八三九
十八史略卷之七、송【孝宗皇帝】初名は伯琮、宗室追封は秀王諡は安僖、子偁の子、太祖七世の孫なり。母張氏、夢に、崔府君、一羊を擁して、來つて曰く之を以て識となせと。高宗の康王たるや、出でて使して、磁州に至る。磁人夢む、崔府君出でて迎ふと。張氏、この歲、丁未を以伯琮を秀州に生む。4て、嘉禾の瑞あり。小字は羊。高宗、太子專を喪ひ、命じて、太祖の後を選ばしむ。伯琮を得て、宮中に鞠ひ、名を瑗と賜ふ。偶ま、崔府君と同じ。音安郡王に封ぜらる。秦檜、其15英明を疾むも、害する能はざるなり。竟に立つて、皇子となり、名を瑋と賜ひ、楚王に封ぜらる。紹興の末、名を春と賜ふ。立てて、皇太子となし、尋いで、詔して位に卽かしむ。上皇を尊奉して、光堯壽聖皇帝といひ、皇后吳氏を壽聖太上皇后となす。史浩を以て右相となし、張浚、樞密使たり、師を淮に督し、遂にある北伐す。浩、其議に與らず、力め丐うて罷む。李顯忠、濠州より出でて、靈壁に趨いて、金兵を敗る。邵宏淵、泗州より出でて、虹縣n.を圍み、金將を降し、進んで宿州に克つ。金の副元帥紇石烈志寧、兵を率ゐて至る。顯忠、共に戰ひ、連日決せず。諜、報ず、金人大に河南の兵を興して、將に至り會せむとすと。宏淵、顯忠と相能くせず、然も、顯忠、又士を犒はず、士憤怨し、遂に潰えて歸る。金人、亦た解いて去る。上、恢復に銳意なるも、此役、利あらず、乃ち復た和を議す。陳康伯、罷む。湯思退、張浚、左右の相とな南宋-孝宗皇帝-〓
十八史略卷之七八四二としみいくばくる。浚、尙ほ都督を以て、師を視る。數月にして罷め、未だ幾なら張浚卒すしゆつしゆんゆるはくしゆかはしうしんわぎずして卒す。浚、國に許すの心、白首まで渝らず、終身、和議を主るめい中原を復し國ちうげんこくちさ評製作所にとせず、遺命して、其二子に付するに、耻を雪ぐ能はの風校舎のせんじんはかさう然れども局ずんぱ、先人の墓に祔葬するを得ずといふを以てす。量狭少たうしたいひそかりよあとげんしや湯思退、密に虜を召し和を議するの跡あり。言者、論じて罷む。ざんかうはくミ之を竄す、道に死す。康伯、復た相たり。和議成る。之より先、國上たいそうくんし書、大宋は大の字を去り、皇帝は皇の字を去り、書は君臣の禮を用さいはいとうきんしいたりつきよざゐ、再拜等の語あり。金使至れば、起立して金主の起居を問ひ、坐くだほうしおのづかはいしんくわんしふくを降つて書を受く。奉使の者は、自ら陪臣に同じく、館使の屬、そのらいしじやうそうくわうてい皆、其來使を拜す。是に至つて、始めて上を稱して宋皇帝となし、たしゆくてつさいこうさいへいかず止だ叔姪の國となし、歲貢を易へて歳幣となし、歳幣は十萬の數をげんちかいせうこうよれいわうつひ減じ、地界は紹興の時の如くす。然も、餘禮は、往々竟に盡く改むしうしんこれいきどほしばしかなんれうしんかたる能はず。上、終身之を憤る。この後、屢ば河南陵寢の地を還し、じゆしよきんじんつひけだふくしう受書の禮を改めむを請ふ。金人、卒に從はず。蓋し、上、復讐に志たすちんかうはくしゆつありと雖も、然も能く其志を輔くる者なし。陳康伯卒せしより後、きようくわつえふぐうきしやうふつちんしゆんけいぐいんぶんれうこくかそうくわいえふ共适葉〓、魏杞、蔣芾陳俊卿、虞允文、梁克家、曾懷、葉かうしかうてうゆうわうわいしうひつだいりうせいあひつしやう衡史浩、趙雄、王淮、周必大、留正、相繼いで相となる。惟だ、しゆんけいいんぶんならびけいえい俊卿、允文、並に相たるの時、北方を經營するの議あり。然も、俊持重して卒にぢちようそのきよたん卿允文と合はず。允文の爲す所、人、亦た其虛誕をつひかうひつ議し、竟に效あらず。浩の如きは、尤も兵を用ゆるを主とせず。必南宋-孝宗皇帝-八四三
十八史略卷之七八四四朱子大は、廟堂に從容として、善類、引進する所多し。朱熹、淳熙十五て、年を以て召さる必大、相たるの時なり。初め、程頤、徽宗の世に卒し、其徒楊時、欽宗、光堯の時に在つて、皆擢んでらる。趙鼎、頤を識るに及ばずと雖も、然も、其學を主張す。之を惡む者、楊時を以て還魂となし、鼎を尊魂となし、胡安國を强魂となす。其後、又、尹焞あり、召されて經筵に入る。焞は、蓋し頤が晩年の高弟な道學り。士大夫、理氏の學を名づけて道學といひ、時好の貴ぶ所、或は此名を冐して以て進み、時好同じからざれば、亦た多く此名を以て世に擠せらる。延平の李侗、學を楊時の門人羅從彥に受く。而しすて、熹又學を伺に受く。胡銓、嘗て、熹を光堯に薦む。熹、至らc.ず。顯道以來、屢ば召せども起たず、特旨、秩を奉祠に改め、召して館に入るれども就かず。後に、南康の守となる。浙東荒る。熹を提擧に除し、往いて之を救はしむ。闕を過ぐるや、嘗て一たび入つて事を奏す。是に至つて、召對して兵部郞に除す。侍郎林稟と合は朱熹封事をず卽ち奉祠して去るさ進む數月、復た召す。熹辭し、唯だ封事を進めて、天下の大本と今日の急務とを言ふ。大本は陛下の心に在り、急務は、太子を輔翼し、大臣を選任し、綱維を振擧し、風俗を變化民力を愛養し、し、軍政を修明す。六者是れなりと。熹の同志に廣bin漢の張栻といふ者あり、魏忠獻公浚の子なり。其學、之を胡宏に得張栻曰く-爲にする所たり。宏は安國の子なり。械の言に曰く、爲にする所あつて爲すも南宋-孝宗皇帝-八四五
十八史略卷之七〓のは利なり、爲にする所なくして爲すものは義なりと。學者、誦し믄た第は一あしすなすものだり、て名言となし、杖を稱して南軒先生といふ。呂祖謙といふ者あり、る所は義なりとて爲すもの公著の五世、希哲の四世の孫なり。亦た程氏の學を祖とす。學者呂東葉稱して東萊先生となす。皆、之に先つこと數年にして卒す。惟だ熹は、學問老いて彌よ篤く、學者、之を師宗し、稱して晦菴先生といふ、四方、其人を仰ぐこと泰山北斗の如し。南使、北に至れば、陸象山金人必ず朱先生安くに在るかを問ふ。同時に臨川の陸九淵、世に象山先生と號する者あり。熹と太極圖說を爭論し、且つ謂ふ、學に悟入ありと。熹が訓解に從事するを議つて、意見頗る異を立つといふ上、久しく子に與ふるの意あり。會ま、光堯皇帝、壽八十二に;して崩ず。乃ち詔して內禪す。上、德壽に奉ずる二十六年、孝養備に至る。旣に升遐して、哀慕尤も切、日に几筵に奉ずるを得ざるを以て、退いて、喪制を終らむと欲し、移つて重華宮に居る。在位二十八年。金の世宗雍、此歲を以て殂す。其嗣允恭、先つて卒す。雍在位二十孫環立つ雍賢明仁恕、號して、北方の小堯舜となす。故に金の九年西一紀自-六至大定三十年、宋の隆興、乾道、淳熙と相終始し、九南北、皆、休息を得、彼此乘ずべきの釁なく、上の志を齎して、大に爲すある能はざるもの、此を以てなり。太子立つ、之を光宗皇帝となす。【光宗皇帝】名は惇、年四十四、東宮より禪を受く。太上皇帝を尊南宋-孝宗皇帝-光宗皇帝-八四七
十八史略卷之七八四八んで、至尊壽皇聖帝となす。周必大、罷む。留正、葛邲、左右の相となる。改元して紹熙といふ。皇后李氏は、大將李道の女なり。悍にして妬、亟ば太子嘉王を立てて儲嗣となさむと欲し、內宴に因つさて、壽皇に請ふ。許さず。后不遜、壽皇怒語あり、后、之を街み、き)乃ち誣罔を造り、壽皇廢立の意ありといふ。上、驚恐して疑疾を得るを致す。後宮、暴死の者あるを聞くに及びて、上、震懼す。疾愈よ甚しく、復た重華宮を過ぎず、兩載に近くして、始めて、一たび至る。壽皇、彌よ懌ばず、上、亦た疾を視ること能はず、壽皇、重華に居て、五歲を踰え、壽六十八にして崩ず。上、喪を執る能はず、一日忽ち地に仆る。中外危懼す。太皇太后、嘉王を立つ、之を寧宗皇帝となす。【寧宗皇帝】名は擴、初め嘉王に封ぜらる。孝宗崩じ、光宗疾病趙汝愚なり知樞密院事趙汝愚、密に翼戴の議を建て、憲聖慈烈吳太皇太后、宗社を以て憂となすを知り、將に事を白せむとして、其人を難んず。知閣門事韓侂胄といふ者あり、鋳の會孫にして、太皇の女弟の子なり。因つて、入つて白す。太皇簾を垂れて、嘉王を引き、入つて位に卽かしめ、代つて高宗の喪を執らしむ。中外危疑する者、乃ち定まる。光宗、壽康宮に居り、後六年にして崩ず、壽五十四。上の嘉王たるや、黃裳、翊善たり、講說開導す。光宗、嘗て宣諭してす曰く、嘉王、學に進むは、皆、卿の力なり。裳曰く、若し德に進み南宋-寧宗皇帝-ニ元
十八史略卷之七八五〇業を修め古先哲王に追蹤せむと欲せば、須らく、天下第一の人を尋ねて、乃ち可なるべしと。誰となすを問ふや、朱熹を以て對ふ。彭龜年、繼いで、宮僚となり、講に因つて、毎に熹の說に及ぶ。上心を傾くること、旣に久し。烹光宗の時に在つて、漳州に守た:り、後、潭州に守たり、湖南安撫となる上の登極に至つて、首として、召されて、待制兼侍講に除せらる。素、未だ至らず、旣に近習事を用ゐ御筆指揮して、皆漸あるを聞き、深く之を憂ふ留正部活鱼功あるを負んで、不罷む、汝愚、相となる。韓侂冑、自ら定策の次の賞を希ふ。汝愚、肯て驟に除せず、遂に怨む。汝愚、政を爲す、方に務めて、善類を引進し、僥倖を裁抑す、小人滋す悅ばず、相與に共に之を排す。朱熹、旣に至る。上疏して、侘冑に忤ふ、朝に在ること、四十六日にして罷む。言者、以爲へらく、熹、宮祠の命ありと遠近相弔ひ、天下の大老、之を去らば、誰か去るを欲せざらせいじんこと〓〓む、若し正人盡く去らば、何を以て國を爲めむと。汝愚、袖よりF內批を還して、且つ諫め、且つ拜すれども、聽かず。侘胄、併せにて、汝愚を逐はむと欲す。然も其名を難かる、或ひと、之に〓へて曰く、彼は宗姓、誣ふるに、社稷を危うするを以てせば、一網にして盡きむと。侘胄、之を然りとす。汝愚、相位に在ること、數月불にして罷め、しきりに貶竄せられ、藥を服して死す。侘冑、李沐、こ;何澹、劉德秀、胡紘、沈繼相等を用ゐて、鷹犬となし、善類を摶擊南宋-寧宗皇帝-八五一
十八史略卷之七八五二のこはうきねんりうくわうそしやうえいえふてきぢよぎちんいうかいごして遺すなく、彭龜年劉光祖、章穎、葉適、徐誼、沈有開、吳れふくわういうくわたとうじつふりやうろうやくていしよくりしやうやうかんりよそ獵黃由、黃度、鄧驅、陳傅良、樓鑰、鄭湜、李祥楊簡、呂祖けんそうないうちうこうこあんせいそんげんとくゑんせうちんぶわうきはんちうほ儉曾三聘、游仲鴻、項安世、孫元德、袁變、陳武、汪達、范仲黼、くわうかうせんたいじんらへんちくあたうじんせきき黃瀬、詹體仁等貶逐、勝げて紀すべからず。黨人の姓名を籍記ぎがくしゆきしゆし、目して僞學といひ、朱熹を以て首となし、籍に在る者數十人。さいげんていきるゐざだうしうへんくわんだいがくせいやうくわうちうら蔡元定、熹の累に坐して、道州に編管せられ、大學生楊宏中等六にんじやうしよたうじんりうせい人亦た上書して黨人を救ふに坐して編管せらる。留正、嘗て黨いんようちゆつざんゆたんれいけいしやしんほあひ人を引用するを以て、亦た黝竄せらる。俞端禮京鐘、謝深甫、相しやう繼いで、相となるしゆきけいげんかうしんおくたうきんげん慶元庚申を以て卒す。わい朱熹卒す朱熹、時に僞學の黨禁、嚴なりと雖も、會さうりよそたいぎがくこ葬する者、亦た數千人。呂祖泰、上書して、僞學を雪ぐを論じ、乞たくちうおよそのたうそしたんしノろんちんじきやうとひちきしうひつうて侘胄及び其黨蘇師旦、周筠を誅し、陳自强の徒を罷逐し、周必大を召用せうようまさはハせむを乞ひ、然らざれば、事、將に測られざらむとすといちうぐわいおほいおどろめんきんしうまふ書出づ。中外大に駭く。杖一百、面を刺さずして欽州に配せざたくかうき55らる。必大、亦た坐して、謫降せらる。熹沒して、年を踰えて、たうきんさみづかせうしよ黨禁稍や解く。諸人、或は官を復し、自ら便にす。然れども、消へんくわよふうごくくづ變化の餘、風俗、既に大に壞る。しやしんほちんじきやうたくちうたいしへいげんぐんわう謝深甫、罷む。陳自强、相となる。侂冑、太師平原郡王を以て、ぐんこくへいしやうけんかたむせいふくぎよじようよ軍國の事を平章し、權人主を傾け、威上下を制し、服御、乘輿土木、どきんえんおごしやおんしゆせいしやうに擬し、禁苑より修り、諛者、稱して、恩主聖相となすに至南宋-寧宗皇帝-八五三
十八史略卷之七八五四る。或は、詩九章を作り、每章、一の錫字を用ゆ。侘冑、亦た辭せず。罪惡を稔積し、事を生じ、邊を開くに至つて極まる。之より先蒙古部帝と蒙古部あり、北方に興る。金の世宗の時に在つて、既に强盛帝と稱す稱す。環の立つに至つて、蒙古の兵、來つて、便ち長驅す。金、始めて多事。侂胄、金、この釁あるを聞き、謂ふ、中原圖るべしと。と吳曦といふ者あり、前の蜀帥吳挺の子、璘の孫なり。吳氏、世、西せいしよく陲に職とし、威西蜀に行はる。其子孫を京に留む、蓋し、累朝遠慮曦、異志あること久し。蜀に歸らむと欲するも、得べからず。侘胄、歸らしむる數年、蓋し、西蜀をして兵を出さしめむと欲す。開禧二年、丙寅。金を伐つの詔を以て、四方諸路に〓げて、師を進む。曦、首として、關外四州を以て金に獻じ、封を求めて、蜀主となる。尋いで、卽ち、帝と稱す。李好義、楊巨源が安丙と密に謀るに賴つて、曦、僭號すること、月を踰えて誅せらる。を元の太祖成この歲、元の太祖、斡難河の源に卽位す。太祖、姓は奇渥溫氏、吉思OK〓紀位十番諱は鐵木眞、蒙古部の人なり。其先世、蒙古の部長たり。太祖の父リ一二。なに至つて也速該といひ、始めて、諸部落を併呑し、愈よ强大、後、追謚して烈祖神元皇帝といふ。初め、神元、塔塔兒部を征し、其部長鐵木眞を得たり。宣懿后月倫、適ま太祖を生む、手に凝血を握る、赤石の如し。神元、之を異とす。因つて、獲る所の鐵木眞を以て、之に名づく、武功を志るすなり。元年、大に諸王群臣を會し、南宋-寧宗皇帝-八五五
十八史略卷之七八五六九游の白旗を建てて位に卽く。群臣、共に尊號を上つて、成吉思汗といふ、時に金の章宗泰和六年なり。丁卯、開禧三年時に、北伐諸軍の向ふ所、潰散して、退かざるしよくかんけいじやうりやうわいしよぐんはなし。金人、大に兵を發し、しきりに蜀漢〓襄兩淮諸郡を陷る。東南、大に震ふ。亟に使を遣して、金に通謝せしむ。而して、侂胄、兵を弄するの意、猶は未だ已まず。中外之を患ひ、遂に兇を誅するの議あり。皇后楊氏、書史を知り、古今に通ず。當時、侍郞史彌遠、密策を建つ。而して、旨、中より出づる者、皆、后、實に之を爲す、一日、侘胄、入朝す。彌遠、殿帥夏震をして、兵を以て、之を塗に邀へしめ、擁して、玉津園に出で、之を推殺す。之より先、元の太祖西夏を征し、力吉里塞を拔いて還り、この秋に至つて、再び之を征す。と皮氏、嘉定元年。陳自强、竄死し、蘇師旦、斬に處し、周筠、決ほ配せらる。侘胄の首を凾して金に謝し、和議、復た成る。錢象祖、相となり史彌遠、累遷して、象祖と並び相たり。象祖、罷む。彌遠、獨り相たり。金の章宗環在位二十年にして殂す。子なし。世宗の別子允濟を立つ環に於て叔たり。己巳、嘉定二年。春、元の太祖、河西に入り、屢ば西夏の兵を破る。夏主李安全、女を納れて和を請ふ。南宋-寧宗皇帝-八五七
十八史略卷之七粂庚午、嘉定三年。金、元を討つを謀り、烏沙堡を築く。太祖、將を遣し、襲うて其衆を殺し、遂に地を略して東す。初め、太祖、歲へこ幣を金に貢す。金主、衞王允濟をして貢を靜州に受けしむ。太祖、允濟を見て禮を爲さず、允濟怒り、歸つて兵を請うて、之を攻めむと欲す。金主環の殂するに會し、允濟、位を嗣ぐ。詔あり、國に至り、傳言して拜すべしといふ。太祖、金使に問うて曰く、新君は誰とかなす。曰く、衞王なりと。太祖、遽に南に唾して曰く、我、謂ふ、中原の皇帝は、是れ天上の人と做すと。此等も亦た之を爲すか。何を以て拜するを爲さむと。卽ち馬に策つて去る。金使、還つて言ふ。允濟、益す怒り、太祖の再び入貢するを俟つて、之を害せむと欲す。太祖、之を知り、遂に金と絕つ。辛未、嘉定四年春、元の太祖南侵し、金兵を敗り、群牧監を襲ひ、其馬を驅つて還る。之より、連歲、金の州郡を攻取す。癸酉、嘉定六年。金主衞王允濟、在位五年、歲として兵を受けざきるはなく、幾んど、支ふる能はず、且つ將士の心を失ひ、大將に弑せらる。追廢して、東海郡侯となし、豐王洵を立つ、環の兄なり、之を宣宗となす。太祖、兵を三道に分つて、並び進んで燕南、山東、河北の五十餘郡を取る。甲戌、嘉定七年。元の太祖、蹕を燕北に駐む。金主、岐國公主及び童男女五百、馬三千と金帛とを、以獻して、和を乞ふ。許さるる南宋-寧宗皇帝-八五九
十八史略卷之七八六〇と雖も、燕に自立する能はざるを度り、五月、汴に遷り、丞相完た顏福興を留めて、太子守忠を輔けて、燕に居らしむ。太祖、兵を遣して、之を圍む。守忠、汴に走る。後、一年にして、燕京陷る。元兵、河東より河を渡つて南し、汁を距ること二十里にして去る。金人、之より、地勢益す蹙まり、山東、之に叛き、東は河を阻て、西は潼關を阻つるのみ。宋の川蜀淮漢を窺ひ、以て自ら廣めむと欲し、遂に盟を敗つて來侵す。宋、黄榜を以て、忠義の人を募り、進け、芝んで、京東路を討つ忠義李全、歲の戊寅を以て、衆を率ゐて來歸ぶす。全は、もと漣水縣の弓手、開禧乙丑の間に在つて、旣に、嘗て、募に應じて、其縣を焚く。木華黎丁丑、嘉定十年。元、木華黎を以て太師となし、國王に封じ、諸軍を率ゐて南征し、大名府、定、益、都溜、策等の州に克つ。戊寅、嘉定十一年。元の木華黎西京より河東に入り、太原、平た世界中陽及び忻、代、澤、溶等の州に克つ、この歲、西夏を伐つて、其王城を圍む。夏王李遵項、西京に走る。高麗王暾、元に降り、歲貢方物を請ふ。己卯、嘉定十二年。西域、元の使者を殺す。太祖、親征す。庚辰、嘉定十三年。元の木華黎、地を徇へて、眞定に至り、又河北諸郡を徇ふ。壬午、嘉定十五年。元の太子拖雷、西域の諸城に克ち、遂に太祖南宋-寧宗皇帝-八六一
十八史略卷之七八六二と會す。秋金主、復た使を遣して和を請ふ。太祖、時に囘鴨國に在り。之に謂つて曰く、我、さきに汝の主に令して、我に河朔の地を授け、汝の主をして、河南王となし、彼此兵を罷めむとす。汝のこと〓〓主、從はず。今、木華黎旣に盡く之を取る。乃ち始めて來り請ふやと。遂に許さず。癸未、嘉定十六年。春三月、元の太師魯國王木華黎卒す。五月、元、始めて、達魯花赤を置いて、郡縣を監治せしむ。金の章宗殉、在位十二年にして殂す。子守〓、立つ、之を哀宗yとなす。と甲申、嘉定十七年。元の太祖、東印度に至り、鐵門關に駐まる一獸あり、鹿形馬尾、綠色にして一角、能く人言を作す。侍衞の者耶律楚材に謂つて曰く、汝の主、宜しく早く還るべしと。太祖、以て耶律楚材に問ふ。曰く、この獸は、角端と名づけ、能く四方の語を言ふ生を好んで、殺を惡む。是れ、天、符を降し、以て陛下に〓ぐ。願はくは、天心を承けて、この數國の人命を宥せよと。太祖、卽日師を班す。歲の丁丑より以後、宋、金と戰ひ、迭に勝敗ありと雖も、然も三邊、歲として、其擾を被らざるなし。上、在位三十年、改元する者四謙恭仁儉、終始一の如し。然れども、慶元、嘉泰、開禧、凡そ十三年は侂冑の政、嘉定十七年は彌遠の政なり。壽五十七にして南宋-寧宗皇帝-八六三
十八史略卷之七八六四崩ず。彌遠、定策して嗣を立つ、之を理宗皇帝となす。【理宗皇帝】初名は與莒、宗室追封は榮王、證は文恭、希瓐の子、,太宗十世の孫なり。寧宗、子多けれども育せず、宗室の子を鞠ふ、名は詢、立てて太子となす。薨ず。初め、皇從弟沂の靖惠王柄、子なし。嘗て、宗室の子を以て、名を貴和と賜うて、之が後となす。太子詢を失ふに及び、遂に貴和を立てて皇子となし、名を竝と賜ひ濟國公に封ず。竑慧にして輕、嘗て史彌遠の權を專にするを5く美食の日異日容すべからずと謂ふ。彌遠、聞いて、之を惡む。故に陰に之が計をなす與莒、幼にして弄を好まず、群兒聚嬉、輒ち獨り高きに登り、坐して動かず。長上、見る者、指して以て群兒に語つて曰く、汝曹、この人に效はざるか、恰も一大王に相似たりと。群兒、毎に其下に羅拜す、遂に趙大王の號あり。彌遠、物色して之を得たり。嘗て、取つて、擧に應じ得たり。特旨、官に補す。竑上旣に寧宗の子となる、遂に與莒を以て沂王の後となし、名を貴誠とる)賜ひ、郡州防禦使に除せらる。寧宗大漸、乃ち中宮に白し、貴誠を以て皇子となし、昀と改名し、遺詔を宣べて、位に卽かしめ、竑を濟陽郡王に進め、出でて寧國府に判たらしむ。恭聖仁烈楊后、同じく政を聽く。事定まつて、然る後に、簾を撤す。乙酉、寶應元年時に、外議籍籍、亂を作し竑を立てむと謀る者李全、あり。事克たずして、皆死す。楚州に在り、制置許國と相失南宋-理宗皇帝-八六五
十八史略卷之七〓す。國を殺し、亦た問罪を以て辭となし、兵を擧げて南向し、揚州を圍み、幾んど陷る。丙戌、寶慶二年。元の太祖、西夏を伐つて、甘肅等の州を取り、遂に沙陀を踰えて、黄河九渡に至る。丁亥、寶慶三年。元、夏を滅し、夏主李睨を以て歸る。祖殂七月、元の太祖、六盤山に殂す。一す元二時の二に太殂するに臨んで、左右に謂つて七西紀曰く、金の精兵、潼關に在り、南は連山に據り、北は太河を限る。以て遽に破り難し。道を宋に假るに若くはなし。宋金は世讐、必ず能く我に許さむ。乃ち、兵を唐郵に下し、直に汴京を擣け汴、急なれば、必ず兵を潼關に徵さむ。然れども、數萬の衆を以て、千里赴き援くれば、人馬疲弊、至ると雖も戰ふ能はず、之を破ること必せりと。言訖つて殂す。在位二十二年。壽六十六。起輦谷に葬る。至元二年冬、追謚して、聖武皇帝といひ、廟を太祖と號す。太祖深沈にして大略あり、兵を用ゆること神の如し。故に能く國を滅すること四十。其動績甚だ衆し。史の紀載、備はらず、惜い哉。太祖旣に崩ず。皇子窩濶台、霍博の地に留まる。國事屬する所なし。皇子拖雷、國を監し、以て皇太子の至るを俟つて、之を立つ。越えて二年、皇太子、始めて立つ、之を太宗となす。己丑、紹定二年。元の太宗、名は窩濶台、太祖の第三子。母を光獻皇后弘吉刺氏といふ。是歲夏、喪に奔り、忽魯班雪不只の地に至南宋-理宗皇帝-八六七
十八史略卷之七癸る。皇弟拖雷、來り見え、大に諸王百官を會し、太祖の遺詔を以て位に卽かしむ。始めて、朝儀を立て、皇族尊屬、皆、班に就いて、以て拜す。元、始めて倉廩を置き、驛を立て、命を傳ふ。庚寅、紹定三年。元、兵を遣して、京兆を取る。七月、太宗、自ら將として金を伐つ。皇弟拖雷、姪蒙哥、師を率ゐて從ふ。辛卯、紹定四年。春、趙范、趙葵、大に李全を揚州城下に敗る。時に、上元燈を張るに屬し、全、平山堂に置酒高會す。城中謀して知り、夜、兵を遣して、其不意に出でて、之を劫す。全走つて濠た、に陷り、亂槍に斃さる。其餘は、奔走して逃げ去る。二月、元の太宗、鳳翔に克ち、洛陽、河中の諸城を攻めて、之を下す。五月、元、使を遣し、來つて、道を假る。宋、之を殺す。八月、元、始めて、中書省を立て、從官の名を改め、耶律楚材を以て、中書令となし、粘合重山、左丞相となり、鎭海、右丞相となる十二月、元の太宗、河中を取る。太弟拖雷、騎六萬を發し、兵を分つて、西、和州より興元に入り、金房より襄陽に道して唐郵に至り、金人と陽翟に鏖戰す。潼藍の戍、亦た潰え、西兵、畢く至り、汁を合圍す。壬辰、紹定五年。元の太宗、白坡より河を渡つて、鄭州に次し、南宋-理宗皇帝-八六九
十八史略卷之七八七〇釣州を攻めて、之に克ち、遂に商、號嵩汝等を取る。十四年、速不臺をして、金の汁京を圍ましむ。金主、其弟訛可をして、入とつて質たらしむ。太宗還り、速不臺を留めて、河南を守らしむ。八月、金兵、汁を救ふ。諸軍、共に戰つて、之を破る。九月、太弟拖雷、師に卒す。金主守緒、圍を突いて出で、歸德府に走る。元、再び王鐵を使とし、來つて、夾攻して金を伐つを議せしむ。京湖制置使史嵩之、以聞す。朝臣、皆、以爲へらく、復讎の擧、遂はなは、ぐべしと。趙范、喜ばずして曰く、宣和海上の盟、其初、甚だ堅し、以て禍を取るに及ぶ。鑑みざるべからずと。帝、從はず、嵩之に詔し、使に報じて、之を許す。嵩之、乃ち鄒伸之を遣して、報謝せしめ、且つ汁京を夾攻するを議す。元人、成功を俟つて、河南のか、地を以て宋に歸すを許す。룬癸己、紹定六年。金主、歸德に奔る。粮絕ゆ。乃ち蔡州に趨る。其將崔立、汴京を以て、元に降る。四月、元の速不臺、進んで靑城に至る。崔立、金の太后王氏、皇后徒單氏、〓王從恪等を以て、軍に至る。速不臺、北に送り還さしむ。元孔子五十世の孫元楷を以て、衍聖公に襲封し、孔子廟及び渾天儀を整修す。宋の丞相史彌遠、卒す。鄭〓之、相となり、史嵩之、京湖の制帥となつて、襄陽に在り。南北、蔡州を夾攻するの約あり。嵩之、南宋-理宗皇帝-仝
十八史略卷之七八七二孟洪を遣し、兵四萬人を以て、先づ至つて、其東南を圍ましむ、元び兵、其西北を圍む。甲午、端平元年正月、金主守〓、位を宗室の子承麟に傳ふ。宋の孟洪、蔡州に入る。元師、之に從ふ。守〓、自經して死す。其首を函して、宋に送り、承麟を得て、之を殺す。金は、完顏旻、帝と稱してより、是に至るまで、九世、一百一十七年にして亡ぶ。四西て十金亡七九りーぶ年世に一にし百時夏四月、金の俘を太廟に獻ず。會ま淮帥趙范、趙葵、金人の亡びな紀二三しに乘じて、恢復の計をなす。朝臣多く、以て未だ可ならずとなす。獨り、鄭〓之、力めて、其說を主とす。帝、乃ち范に命じ、移つて、黃州を司らしめ、日を熟して、兵を進む。范の參議官丘岳12曰く、方に興るの敵、新に盟つて退く。氣盛に鋒銳なり。、寧んぞ肯て得る所を捐てて、以て人に與へむや。我が師、若し往けば、彼必ず突至せむ。惟だ進退據を失ふのみならず、釁を開き、兵を致すは必ず此より始まらむ。且つ千里長驅、以て空城を爭ふ之を得れば、當に饋餉を勤むべく、後、必ず之を悔いむと、范聽かず。史嵩之、亦た言ふ〓襄方に爾く饑饉す、未だ師を興すべからずと。が故の〓湖制師趙方の子、杜杲、亦た出師の害を陳ず。范葵は、兵に習ひ、攻取に銳意に、山東の忠義を募るに、皆、響應す。伸之、未ん、だ囘らず、然も、宋師出づ。伸之等、幾んど燕に覊留せられ、詭辭して鐵と倶に來るを得たり。撒曰く、何すれぞ盟を敗るやと。之よ南宋-理宗皇帝-八七三
十八史略卷之七八七四り、淮漢の間、寧日なし。數日ならずして、汴人、城を以て、宋に附き、宋師、汴に入り、卽ち洛に趨く。元兵、洛を成る者、幾もなくして、しばらく避け去る。宋師、洛に入り、數日ならずして粮元の生兵の大に至らむとするを聞いて、絕ゆ。潰えて歸り、嵩之があ、和を主として、肯て粮を運せず、事を誤るを致すを咎む。乙未、端平二年。春、元和林に城づき、萬安宮を作る。諸王拔都太子貴由、姪蒙哥を遣して、西域を征し、太子闊端は蜀漢を侵太子曲出及び胡士虎は宋を侵し、し唐吉は高麗を征す。之を行ふ。p丙申、端平三年。元、交鈔を印造して、耶律楚材、請うて、燕京に於て編修所を立て、平陽に於て經籍所を立て、經史を編集し、儒生梁陟を召して、長官に充て、王萬慶、趙著を以て之にさ副とす。秋闊端、宋の關外の數州を取り、十月、成都に入り、秦鞏等四十餘州を取る。時に、和議旣に復た諧はず、蜀、遂に破陷し、〓襄淮甸、歲として攻哨を受けざるはなし。元、耶律楚材の言を以て、始めて、天下の賦稅を定め、上田は、毎畝に稅三升、中田は二升半、下田は二升、水田は一畝に五升、商稅は三十分の一五戶に絲一斤を出さしめ、以て諸王功臣湯沐の賜に供す。鹽は銀一兩每に四十斤、永く定額となす。朝臣、皆、甚だす輕しといふ。耶律楚材曰く、將來必ず利を以て進む者あらむ、乃南宋-理宗皇帝-八七五
十八史略卷之七〓ち、旣に重しとなすと。丁酉、嘉熙元年、經筵に詔して、朱熹の通鑑綱目を進講せしむ。八月、元、諸路の儒士を試む。選に中る者、本貫議事の官に除して、四千三十人を得たり。元兵、地を略して、黃州に至る。宋の孟洪之を敗る。嘉熙二年。戊戌、之より先、杜杲、元人の安豐の兵を却け、復た察罕八十萬の兵を盧州に敗る。後、儀眞の圍を解く。功を以て、權に刑部尙書たらしめ、復た敷文閣學士に進む。わ、呂文德呂文德、兩淮出戰の軍馬を總統し、淮西招撫使に進む。文德は安豐の人、魁梧勇悍、微時、薪を城中に鬻ぐ趙師葵、道傍に遺腰の長さ尺有咫なるを見て驚訝し、訪求して、之を得たり。之を麾下に留む後、邊功を以て、顯官に至る。元の塔思の軍北峽關に至る宋將汪統制、降る。之より先、曲しゆつて宋の孟洪出張柔等を率ゐ、郢州を攻めて之を拔く。是に至つ復た襄陽を取る。元の領中書行省楊惟中、太極書院を燕京に建て、趙復を延いて師となす。時に、〓溪周子の學、未だ河朔に至らず、惟中、師を蜀湖京漢に用ゐて、名士數十人を得、始めて、其道の粹なるを知り、乃ち伊洛の諸書を收集し、載せて、燕京に送る。師の還るに及びて、註六子は程遂に大極書院及び周子の祠を建て、二程張楊游朱の六子を以て配食南宋-理宗皇帝-八七七
十八史略卷之七八七八かさく子兄弟、せしむ。之に由つて、河朔、始めて道學を知る。載)楊時、最かうしたいしいうせいゐき游酢なり朱熹庚子、嘉熙四年。春元の太子貴由、西域の未だ下らざる諸部にちよくつぐな克つ。元、州郡に敕し、盜を失うて獲ざれば、官物を以て之を償はこくしよきよしよほんろしむ。國初、盜多し。令を下し、凡そ盜の去處を失すれば、本路のみんこばうめい民戶をして、代つて償はしむ。民、之を苦んで、多く亡命す。是にちようくわいこつかとし至つて、徵を罷む。又、官民、囘鶻の金銀を貸り、之を償ふ者、歲かはい羊羔利といふわう〓〓ち羊羔利の弊に加倍し、之を往々、家を破り、妻子を以て質となりつそざいこと〓すに至るも、終に償ふ能はず。耶律楚材、請うて、悉く官物を以てかへていよかたいとしひさ代へて還さしむ。凡そ七萬六千錠。仍つて令す、凡そ、假貸、歲久しほんあひひとしやちよしきも、惟だ子本相伴うして止むと。著して令となす。しんちうじゆんいうぐわうねんしうじゆんいぢよなんはくちやうさいびはく辛丑、淳祐元年。宋、詔して、周敦頤を汝南伯に、張載を郿伯ていかうかなんはくていいやうはくしゆきこくこうつひほうに、程顎を河南伯に、程頤を伊陽伯に、朱熹を徽國公に追封し、並べうていじうしわうあんせきじうししりぞえっに孔子の廟庭に從祀し、王安石の從祀を黜く。帝、孔子に謁し、遂のぞに大學に臨む。れふくわてつここらんき元の太宗殂十一月、元の太宗出でて獵し、銚鐵鐸胡蘭に殂す。年五十六。起すれんこくはうむつひしえいぶんくわうていべう輦谷に葬る。後、追謚して、英文皇帝といひ、廟を太宗と號す。太くわんこうりやうじんじよはかはかきよくわじ宗、寬弘の量、仁恕の心より、時を量り、物を度り、擧に過事なくわかいんふしよみんげふかうりよりやうもたらちいく華夏殷富、諸民業を樂み、行旅糧を齎さず、時に治平と稱す。くわうごうばしんしてうのぞせい元は、太宗殂してより後、皇后馬眞氏、朝に臨んで制を稱すること凡そ五年、君を立てず。南宋-理宗皇帝-発
十八史略卷之七八八〇甲辰淳祐四年。之より先、鄭〓之、相を罷め、喬行簡、李宗勉等、繼いで、政をなす、決斷する所なし。上、史嵩之の言を思ひ、督府より入らしめて、相となす。和を議せむと欲すと雖も、輒ち衆論に沮まる。嵩之、父彌遠の憂に丁る。訃を聞いて、數日にして、乃ち行く。詔して、起復して相となす。言者、目して權姦となし、力めて、之を攻む、遂に復た相たらず。范鍾、游侶、鄭〓之、射方叔吳潛、董槐、程元鳳、丁大全等、相繼いで、相となり、每歲、每歲防秋を以て常事と防秋を以て常事となす。す元の中書令耶律楚材、卒す。后嘗て儲嗣の事を以て、楚材に問ニふ、對へて曰く、是れ外臣の敢て知る所に非ず、自ら太宗遺詔の在るあり、守つて之を行はば、社稷の幸なりと。后、嘗て、御寶の空紙を以て、幸臣奧都刺合蠻に付し、自ら書塡して、之を行はしむ。楚材、天下は先帝の天下、評奏して曰く、朝廷自ら憲章あり。今、はる英文耶加備忠之を紊さむと欲す。臣敢て詔を奉ぜずと。事、遂に止む。復た旨あ眞一る貞國にり凡そ奧都刺合蠻の奏〓する所にして、令史之が爲に書せざる者の·せんていこと〓〓貫すは、其手を斷てと。楚材曰く、軍國の事、先帝悉く老臣に委す。皇后)にし祚をぜ元ふ稷る狄安きべの數仁んて令史、何ぞ與らむ。事、若し理に合はば、自ら當に奉行すべし。し臣等傑とい社若し行ふべからざれば、死、且つ避けず。況んや手を斷つをやと。后、其先朝の動舊なるを以て、曲げて、敬憚を加ふ楚材、天資英ま·邁負かに人表に出づ。案牘、前に滿つと雖も、酬答、其宜しきを南宋-理宗皇帝-스
十八史略卷之七仝失はず。色を正しうして、朝に立ち、勢の爲に屈せず。身を以て天下に徇ぜむと欲し、毎に國家の利病、生民の休戚を陳べて、辭色ミ懇切なり。太宗、嘗て曰く、汝、又、百姓の爲に哭せむと欲するかぎと。楚材、毎に言ふ、一利を興すは一害を除くに若かず、一事を生んは一若害を得を興除すずるは一事を減ずるに若かずと。平居、妄りに言笑せず、士人に接ずる一一生若をずするに及んで、溫恭の容、外に溢る。其德に感ぜざるなし。減ずるにかず元の便宜總帥汪世顯、卒す。世顯、兵を善くして、能く將たり。儒を重んじ、民を愛し、勤儉にして自ら持す、古名將の風あり。丙午、淳祐六年元の定宗、速蔑禿都に卽位す。定宗名は貴由、太宗の長子なり。母を六皇后といふ、乃ち馬眞氏。初め、太宗旨あり、皇孫失烈門を以て嗣となす。殂するに及んで后、朝に臨み、制を稱するもの五年、乃ち議して定宗を立つ。戊申、淳祐八年。元の定宗、戶位三年にして殂す。壽四十三。起輦谷に葬る。簡平皇帝と追諡す。元は、馬眞氏、朝に臨んでより以來、法制一ならず、內外心を離女主事を誤る。定宗、旣に殂し、皇后海迷失、子失烈門を抱き、簾を垂れて政後二年、を聽く。諸王大臣服せず。共に議して、太弟蒙哥を立つ。之を憲宗となす、卽位す。辛亥、淳祐十一年。元の憲宗、名は蒙哥、太祖の第四子拖雷の長子なり。之より先、諸大臣、届出の子失烈門を奉ぜむと欲す。久し南宋-理宗皇帝-八三
十八史略卷之七八八四こつらうかふたいおもうして、決せず。是に至つて、兀良哈歹、以へらく、太祖の諸孫、たけんそうけんしんくわつてうこつあらん惟だ憲宗のみ、謙愼、宜しく立つべしと。遂に大に濶帖兀阿蘭の地しつれつもんに會して、位に卽かしむ。失烈門、服せず。憲宗、因つて、諸王のいどうきびしゆばうしやちうい異同ある者を察して、並に之を覊靡し、主謀者を取つて、之を誅夷す。之に因つて、始めて定まる。よかいこうげんやぶ余玠、大に元人を興に敗る。たいていくびらいめいまうこかんちみんこそうち忽必烈元の憲宗、太弟忽必烈に命じて蒙古漢地民戶の事を總治せしめ、きんれんせんえうすうもん姚樞府を金蓮川に開く。之より先、姚樞、蘇門に陰居し、道を以て自らえんすういたそうめいふせいしゆつ任ず。太弟、之を召す。樞至る。太弟の聰明にして、オ、不世出、おのれむな己を虛しうして言を受け、將に大に爲すあらむとするを見て、乃ちそのへいじつまな(しよすう(たてまつはじめ其平日に學ぶ所を盡し、書數千言を爲つて、之を上る。首に二帝、がくなもとちじよちこくへいてんかたいけいる三王、學を爲すの本、治を爲すの序と治國平天下の大經を以て、彙るくしうしんりよくがくそんけんしんゐてんあいみんかうして八目となす。曰く修身、力學尊賢、親親畏天、愛民、好ぜんゑんねいじせいへいでうほんまつけんがいさいだい善,遠侫。次に、時政の弊に及び、條三十となし、本末兼該、細大の、たいていはなはうご遺さず。太弟太だ其才を奇とし、動けば必ず詢はる。してんたくてうへきかなんけいりやくし史天澤元、史天澤、趙壁を以て河南經略使となす。じんしていそうしつれつもんえふじやうことあら壬子、淳祐十二年。元の定宗の后及び失烈門の母、厭禮、事覺はほつだつせきれしを以て、死を賜ひ、失烈門及び其黨を沒脫赤の地に謫す。どうせいくわん六月、元の憲宗、中州の漢地を以て同姓を封ず。太弟、汴京、關ちうえらえうすういはかうつつね中に於て、自ら其一を擇ぶ。姚樞曰く、南京は、河徒つて常なく、南宋-理宗皇帝-八八五
十八史略卷之七公式つちうすみづあさしやろこれ土薄く、水淺く、潟鹵之に生ず。關中に若かず。其田、上の上、古てんふりくかいつひしへより、天府陸海と名づくと。太弟、遂に關中を請ふ。之に由つくわんちうかなんて、太弟、關中、河南の地を有す。きちうはういうぐわんねんしせんせいちしよかいよくわいしせんせん余玠卒す癸丑、寶祐元年四川の制置使余玠、卒す。余晦を以て、四川宣ゆし諭使となす。くびらいだいりこく元の忽必烈、大理國を平らぐ。かふいんよくわい世大正しこんふそう甲寅、寶祐二年。時に、余晦、四川に宣撫たり。私恨を以て誣奏りろあんぶわうゐちうだいりちんたいはうむねす、利路安撫王惟忠、ひそかに北境に通ずと。大理の陳大方、旨をたんせいゐちうまさしきいろへん承けて、之を鍛成す。惟忠、將に市に斬られむとするや、色變ぜず、たいはういうつたちぎやく大方に謂つて曰く、吾、死せば、天に訴へむと。旣に斬るや、血逆りうのぼいまいくばくたいはうにふてうくわうこつるちう流して上る。未だ幾ならずして、大方入朝し、恍惚として、惟忠とかんはうだいがしよくをさ還り、遂に卒す。之より先、朝廷、彭大雅を用ゐて蜀を理めしむ。ゐめいかさぢうけいじやうきづよかいしよくぐんへいくわう甚だ威名あり。重ねて重慶城を築く。余玠、蜀郡 平曠の地を遷しけんえうがふしうてうぎよざんるゐて、險要を分治す。合州に釣魚山を治むるの類の如し。蜀に在るこよよくわいとんべうと二十年。民、藉つて以て安し。余晦に至て、貪繆功なく、敗れてくわしうしゆりうゆうひしせんせいちこえいいんし要地を失ふ。和州の守劉雄飛を以て、四川制置となす。胡穎、淫祠ごとこぼだくわうとうけいりやく胡打鬼を見る每に、卽ち之を毀つ。人之を胡打鬼といふ。廣東に經略たくわうぶつじきよださいしり廣に佛寺あり、佛像中、巨蛇あり、時に出でて、人の祭祀を享すうびんえいぶつく。價、之に托し、疏を題して數千を得たり。頴至つて、佛をこぼだそのくわい毀ち、蛇を擊つ。其怪、遂に息む。南宋-理宗皇帝-公
十八史略卷之七父丙辰、寶祐四年。高麗王細差甫、雲南の曾長摩合羅嵯、及び素州諸國、元に朝す。元の憲宗、城市を建てて都會の所となさむと欲す。太弟、忽必烈劉乗忠言ふ、劉秉忠、天文地理の術に精しと。乃ち命じて、宅を相せしむ。秉忠、桓州の東、欒水の北の龍岡を以て、吉となす。乃ち秉忠かに命じて、之を營せしめ、名づけて、開平府といふ三年にして、功を畢る。心を元評丁巳、寶祐五年。元、囘體水精盆、珍珠傘を獻ず、銀三萬餘錠を却文帝に直すべし。憲宗曰く、方今、百姓疲弊、急なる所のものは錢の馬を相へ里似すの心ゐ。朕獨り此あるも、何ぞ用ゐむと。之を却く。仁十月、元の兀良哈歹、安南を伐つて、其城を屠る。君の志古今同軌といふ戊午、寶祐六年二月。安南王、國を長子光〓に傳へ、使を遣し、方物を以て元に獻ず。元、囘囘哈里發を討つて、之を平らぐ。九月、憲宗、親ら大軍を帥ゐて蜀に入り、苦竹隘を攻む。宋の守將楊立、張實、之に死す。ミこの時、元人、勢流に順つて東下せむと欲す。一軍は大理國斡服の南より來り、色桂の境を經、以て潭州に至り、一軍は江を渡つてか、鄂州を圍む。賈似道丁大全を罷め、吳潜を以て左相となし、軍中に卽いて、賈似道を拜して右相となす。趙葵は樞密策應使たり、杜庶は兩淮制置たり、南宋-理宗皇帝-八八九
十八史略卷之七八九〇夏貴は舟師を總領す。呂文德等、風に乘じて、戰つて勝つ。潜、向〓十士壁を以て、潭を守らしむ。適ま南來の二哥元帥、宋の候騎に遇うか〓て死す。潭の圍、先づ解く。高達等、鄂を守り、似道、漢陽に駐まつて、鄂の援となる。か、己未、開慶元年元の憲宗、合州を圍み、使を遣して、守將王堅を招諭せしむ。堅、使者を殺し、固守して、之を拒ぐ。元の憲宗殂す七月、元の憲宗、釣魚山に殂す、在位九年、壽五十二。後に追諡して、桓肅皇帝といふ。憲宗、剛明雄毅、沈斷寡言、宴飮を樂まず修靡を好まず、后妃と雖も、亦た制置に過ぎす。太宗の末年、群臣、權を擅にし、政多門より出づ。憲宗に至つて、凡そ詔旨必ず親ら起草し、更易すること數囘、然る後に、之を行ふ。群臣を御すること甚だ嚴、嘗て諭して曰く、汝輩、若し朕の奬諭を得れば、卽ち志氣驕逸して、災禍未だ隨つて至らざるものあらず。汝輩それ之を戒めよと。時に、太弟、進んで鄂州を攻む。宋の守將張堅守つて下らず、遂に之に死す。似道、漢陽より鄂に至り、師を督す。而して、太弟忽必烈、城を攻むること、益す急、城中、死傷する者、萬三千人に至る。似道、大に懼れ、密に宋京を遣して、元營に詣らしめ、臣と稱し、幣を納るるを請ふ。太弟、許さず。會ま、合州の守王堅、人を遣して、鄂に走らしめ、憲宗の訃を以て似道に聞す。似道、再び宋京を遣して南宋-理宗皇帝-八九一
十八史略卷之七八九二元營に往かしむ。太弟、亦た阿里不哥が尊號を襲がむと欲するを聞く郝經曰く、若し、彼果して遺詔と稱し、便ち位號を正し、詔を中原に下し、赦を江上に行はば、歸らむと欲するも得むや。願はか、くは大王、社稷を以て念となし、師を班して、和を議し、輜重を置き、輕騎を率ゐて歸り、直に天都に造り、二軍を遣し、大行の靈界を逆へ皇帝の璽を收め、使を遣して、旭烈、阿里不哥諸王を召し、和林に會葬し、官を諸路に差し、安輯して、王の長子眞金に命じて、燕都を鎭守し、示すに形勢を以てせば、大寶歸するあつて、社稷安からむと。太弟、之を然りとし、乃ち似道に之を許し、且つ歲幣の數を約し、遂に寨を拔いて去り、張傑、闇旺を留め、偏師を以て、湖南兀良哈歹の兵を候せしむ。元世祖卽位庚申、景定元年元の世祖、名は忽必烈、憲宗の同母弟なり。憲(西紀一二六〇)宗、旣に殂す。阿藍荅兒、渾都海等、世祖の弟阿里不を立てむを謀る。憲宗の后、之を聞き、使を遣し、馳せて鄂に至り、請うて速に還らしむ。三月、開平に至る。諸王大臣、同じく、勸進す。三讓して、乃ち位に卽く。元の元良哈歹、張傑に鄂州に會し、師を帥ゐて北に還る。宋の賈似道、夏貴に命じ、其後軍を新生磯に敗り、遂に其和を議し、臣と)稱し、幣を納るるの事を匿し、表を上つて言ふ、鄂の圍、始めて解け、江面肅〓、宗社危くして復た安し、實に萬世無疆の休なりと。南宋-理宗皇帝-八九三
十八史略卷之七八九四おもじだうさいざうはうびしやうらいはな帝、以へらく、似道、再造の功ありと。詔を下して褒美し、賞資甚あつだ厚し。あふかからこるむじやうきよくせんがう元の阿里不哥、和林の城曲に僭號す。ちうとうけんげん五月十九日、元、中統と建元す。ちうとうやうせうす中統交鈔を進む。元の世祖、自ら將として、阿里不哥を討つ。れんきけんせいぐんざうあらんたるおよこんとかい廉希憲元の廉希憲、大に西軍を姑臧に敗り、阿藍荅兒、及び渾都海を斬る。げんぼんそうはがふすはこくし元、梵僧八合思八を以て國師となす。ちかひたづか郝經元郝經を遣し、來つて盟を尋ねしめ、且つ前日和を請ふの議をちようかじだうてうかへそのかくれうえいちうふくくわへんせん徵す。賈似道、旣に朝に還り、其客廖營中をして福華編を撰して、がくこうしようしやう鄂功を稱唱せしむ。朝廷、其和を求めしことを知らざるなり。れんきげんよしみかう元の世祖、旣に立つ。廉希憲、使を遣し、以て兵を息め、好を講ほくきおんゐならびあらじ、軍に命じて北歸せしめ、恩威並に著はさしめむことを請ふ。世わうぶんとうかくけい祖、之を善しとす。然も、未だ其人を得ず。王文統、素より郝經のさいとくいけい才德を忌み、乃ち經を遣して行かしむ。或ひと、經に謂つて曰く、盍やまひけいいはかまこうわいゐれいんぞ疾を以て辭せざる。經曰く、南北難を構へてより、江淮の遺黎よふりやくさうげんやへいつらなくわむす弱き者は俘略せられ、壯なる者は原野に死し、兵連り禍結ぶこと、せいじやうしどうじんよしみつうつとび聖上一視同是れ亦た多し。聖上、一視同仁、兩國の好を通ぜむことを努む。微仁えんいやしやす軀を以て不測の淵をたい蹈むと雖も、苟くも、能く兵を强め、亂を靖ん南宋-理宗皇帝-八九五
十八史略卷之七八九六す、たじ、百萬の生靈を鋒鋼の下に活かさば、吾が學、用ありとなすと。陰に李壇に諷し、う遂に行く。王文統、宋を侵し、以て之を沮撓せしめ、手を假つて以て經を害せむと欲す。經、淮を踰ゆ。賈似道、姦謀の呈露するを懼れ、遂に李壇を以て辭となし、經を眞州の忠勇軍營に拘留し、驛吏防守、獄〓よりも嚴。介佐、或は堪ふる能はず。經之に語つて曰く、命を將つて此に至る、死生進退、其彼に在ること〓〓評いきを使なに聽かす。盡く其れ我に在り、豈に能くはしのし君里烈節を守つて屈せざるは、士て千にに不忠不義、以て中州の士大夫に耻かしめられむや。但だ、公等不幸め命ふる恥かもベ須らく死を忍び、以て待つべし。之を天命人事に揆るに、宋祚殆んど遠からずと。衆其言に感じて、皆自ら振勵す。帝、北使あるを聞き、宰執に謂つて曰く、北朝、使來らば、事體さいかる〓〓當に議すべしと。似道、奏す、和は彼の謀に出づ、豈に一切輕しく徇ふべけむや。若し、隣國に交るの道を以て來らば、當に入つて見えしむべしと。賈似道、闘臣を忌害す。兵退いて、費用を打算するの法を行ひ、此を以て之を汚さむと欲す。向士壁、趙葵、史巖之、杜庶等、皆、侵盜掩匿に坐し、官を罷めて償を徵す。而して、士壁、償ふ所、尤も多く、竟に安置されて死す。復た其妻妾を拘へ謝枋得て、之を徵す、尙ほ足る能はず。信州の謝枋得、趙葵の檄を以て、錢粟を給し、民兵を募つて守禦す。枋得曰く、以て趙宣撫を累すべからざるなりと。自ら萬緡を償ふ、餘は辨ずる能はず。乃ち似道に南宋-理宗皇帝-八九七
十八史略卷之七灸上書して云ふあり、千金を以て募つて木を徒し、信を市人に取らむとし、二卵を以て干城を棄つ。豈に隣國に聞かしむべけむやと。遂に餘を徵するを免ずるを得たり。呂文德、〓湖に制置として鄂州に知たり。辛酉、景定二年瀘州の守劉整、叛いて元に降る。之より先、遷(蹕の儀を止むる者は吳潛、守城の力を盡す者は向士壁、斷橋の功を奏する者は曹世雄、劉整。旣にして、似道、功を妬み、士壁、世雄を讚し、皆貶死す。整旣に禍を懼る。而して、蜀帥鄭興復、宿憾を以て、吏を遣して、瀘に至らしめ、軍前の錢粮を打算せしむ。適ま、北軍境を壓す、遂に叛き去る。元、軍中俘とする所の儒士に命じて、贖うて民となすを聽るす。七月、元、始めて、翰林國史院を立つ。諸路提擧學校官を立つ。元の諸將、西軍を敗る。阿里不哥、北に遁る。元、皇子眞金を封じて燕王となし、中書省事を領せしむ。さ壬戌景定三年呂文德、瀘州を復す。と、元の江淮大都督李壇、京東漣海を以て來歸す。詔して、壇を封じて、齊郡王となし、其父全の官爵を復す。元の宰臣王文統、壇と謀を通ずるに坐して誅に伏す。元の史天澤、李壇を濟南に圍む。壇、復た元に降る。元人、之を南宋-理宗皇帝-八九九
十八史略卷之七九〇〇誅す。元、董文炳を以て山東路經略使となす。元、十路宣慰司を立て、諸路轉運司を立つ。癸亥、景定四年二月。え元、王德素を以て使となし、劉公諒を副となし、書を致し、來つて、其都經を稽留するの故を詰る。三月、元、始めて太廟を建つ。五月、始めて、樞密院を立て、太子燕王眞金を以て中書令に守たらしめ、かいへいふ兼ねて、樞密院事を判す。開平府を以て上都となす。元、姚樞を以て中書左丞となす。樞曰<陛下、基業に於ては守成となし、治道に於ては創始となす。正に宜しく親族に睦まじくし、以て本を固くし、儲副を建て、以て祚を重くし、大臣を定めて、以て國に當らしめ、經筵を開いて、以て心を格し、邊備を修めて、以て虞を防ぎ、粮餉を蓄へて、以て歉をす待ち、學校を立てて、以て才を育し、農桑を勸めて以て生を厚くすべしと。世祖、之を納る。文德黑灰團呂文德、瀘州を復す。文德、黑灰〓と號す。劉整、元に獻言してと號す曰く、南人、惟だ黑灰團を恃む。然れども、利を以て誘ふべしと。乃ち、使を遣し、玉帶を文德に獻じ、権場を襄城外に置かむことを求む。文德、之を許す。使曰く、南人信なし、願はくは、土城を築いて、以て貨物を護せむと。文德、許さず。使者、復た至る。文一)德、朝に請うて、之を許し、権場を樊城外に開き、土城を麓門山南宋-理宗皇帝-九〇一
十八史略卷之七九〇二外に築き、互市を通じ、內に堡を築く。文德の弟呂文煥、欺かるるを知つて、再び制置に申す、吏に匿さる。元人、又、白鶴城に於て第二堡を築く。文煥、再び申す。文德、大に驚いて曰く、朝廷を誤る者は我なりと。卽ち請うて、自ら赴き援く、會ま病んで卒す。甲子、景定五年。七月、彗星、長さ十數丈、芒角天を燭す、四更より東より見はれ、高くして方に歛まる。月餘乃ち見えず、楊棟、上因つて指して蚩尤旗といひ、之に因つて、論に遇うて、國を去る。八月、元、燕京を以て、中都大興府となす。劉秉忠、都を燕に定めむことを請ふ。世祖、之に從ふ。元、至元と改元す。時に阿里不哥の兵、屢ば敗る。是に至つて、諸王玉龍、答失罕、速帶、音里吉合、及び其謀臣不魯花、脫忽思等と來歸す。詔す。諸王は、皆太祖の裔なりと。並に釋して問はず、其謀臣不魯花のみ誅に伏す。元、諸路行中書省を立つ。西紀一二六冬十月。上、崩ず。在位四十一年。改元するもの八、寶慶、紹定四は、彌遠十年の政、端平の初元には、善類朝に滿ち、眞德秀、魏了翁あつて、執政侍從人たり、以て慶曆、元祐に比す。嘉禧より以後淳祐に至るまでは、嵩之、數年の政あり。嵩之、旣に去り、淳祐より寶祐に至るまでは、正人、邪を指して邪となし、邪人、正を指して邪となし、互に消長をなす。而して狼狽すること、開慶丁大全の南宋-理皇宗帝-九〇三
十八史略卷之七九〇四政に如くはなし。景定と改元あるや、大全と吳潜と人品同じからずおの〓〓ざんと雖も、各竄を以て死し、似道、獨り相たり。遂に國政を執る。末年、寝や君臣相猜むの跡あり、未だ更變するに及ばずして崩ず、から、壽六十一上、臨御以來、終始、周程張氏及び朱張呂氏義理の學を1崇奬す、故に廟を理宗と號す。太子立つ、之を度宗皇帝となす。【度宗皇帝】初名は孟啓、福王與丙の子、理宗の猶子なり。理宗、rs子多けれども育せず、孟啓を宮中に鞠ひ、孜と改名し、又祺と改名し、立てて皇子となし、忠王に封ぜらる。旣にして、儲に建て、〓と改名す。歲の甲子、位に卽く。時は則ち、蒙古部、國を大元と號し、至元と紀元するの初なり。賈似道、政を專にして平章軍國重ざ事魏國公に進み、相を立てて、以て自ら副とす。臨安府の士人、葉李、蕭規等、上書して、似道が權を專にし民を害し國を誤るを譏る。似道怒り、他事を以て、罪して遠州に竄す。まちに馬延鸞、留夢炎に詔して、侍讀を兼ねしめ、表面に陳宗禮、范東叟、侍講を兼ね、何基、徐幾、宗政殿說書を兼ぬ。元、王盤を以て翰林學士承旨となす。伯顏乙丑、咸淳元年元、安童を以て右丞相となし、伯顏を左丞相となし、劉秉忠を以て太保となして、中書省事に參せしむ。丙寅、咸淳二年呂文煥、襄陽を守る。元人、互市を開いてより以來、城を築き、堡を置き、江心に萬人臺、撒星橋を起し、以て南南宋-度宗皇帝-九〇五
十八史略卷之七九〇六と兵の援を遏め、時に師を出して、襄樊城外を哨掠し、兵威漸く振ふ。似道、第を西湖の葛嶺に建てて、自ら娯む。五日に一たび湖船に乘じて入朝す。堂に赴いて事を治めず、吏、文書を抱いて、第に就いて呈署し、他相は紙尾に書するのみ、內外諸司の彈効薦辟擧削、關白關白するに非ざれば、敢て行はず、一時正人端士、斥罷殆んど盡く吏、爭つて、賂を納れ、以て美職を求め、帥聞監司郡守たるを評賈塞似道言圖る者、貢獻、勝げて計るべからず。趙滑輩、爭つて、寶玉を獻ず。路をぎ君貪風大に肆に、兵、外に喪へども、匿して以聞せず、民、下に怨主を早熟かきヒレし國を早かむむも、誅責無稽、敢て言ふ者なし。元、制國用使司を立て、阿合馬を以て使となし、世子南木合を封じて北平王となす。日本國王に書を賜ふ日本國王に書を賜ふ。始めて、官吏の俸及び職田を給す。元、太子忽哥赤を封じて雲南王となす。丁卯、咸淳三年。元、史天澤を以て左丞相となし、忽都答兒、耶5律鑄、降つて平章政事となり、伯顏は右丞に降り、廉希憲は左丞に降る。戊辰、咸淳四年。襄陽、圍を受く。文煥、急を告ぐ。高達、范文총虎をして、赴き援けしむ。道通ぜず。二將、亦た命を用ゐず。南宋-度宗皇帝-九〇七
十八史略卷之七九〇八さ三學の士人、上書して、諸道の兵を調し、力を併せて、襄を救はむを乞ふ。報ぜず。弓量を以て田畝を推排す。葉夢鼎、位を辭す。允さず。徑に去る。江萬里、馬廷鸞、相となる。しんせいまうこ元、御史臺及び諸道提刑按察司を立て、新製蒙古字を行ひ、僧八合思馬を更號して帝師となし、堡を鹿門山に築き、諸路蒙古字學を立つ。庚午、咸淳六年。江萬里、援兵を請うて襄を救ふ。議合せず。罷めて去る。上、一日、似道に問うて曰く、襄陽圍を受くる三年、奈何。對へて曰く、北兵、既に退く、陸下、何人の言を得たる。上曰く、適ま女嬪之を言ふありと。詰問し、誣ゆるに他事を以てして死を賜ふ。之より、敢て變事を以て言ふ者なし。、似道、權人主を傾け、諛者、動もすれば周公、成王を輔くるしんわうぐわいせきくわんぐわんきんじふを以て之に擬し、親王外戚宦官近習皆箝制せられて、敢て恣にせず、當世の望士も、亦た引用し、朝に登して儀羽となす。然も服心在らず、在外の監守郡司も、亦た廉介を參用し、其人に非ずして進むを得たる者は、各、蹊徑あり、最も吝賞誅貨を以て、將帥の心を失ふ。劉整、北に降り、策を獻じて、東南を取る。謂ふ、緩く南宋-度宗皇帝-九〇九
十八史略卷之七九一〇取れば、經營して蜀よりして下らむ、急なれば襄淮より直に進めと。時に、諸將、北に降り、國の虛實を知る者、相繼ぐ。似道、方ほに太平を粉飾するを以て事となし、略ぼ意を加へず。元の平章評政事廉希憲、罷む。世祖、嘗て帝師の戒を受けしむ。希皆び衡元史劉廉き言初天乗希も行の澤忠憲の傳名は及許憲、對へて曰く、臣、旣に孔子の戒を受く。世祖曰く、汝の孔子も臣其亦た戒ありや。對へて曰く、臣とならば當に忠なるべく、子となれ多ふば當に孝なるべし、是れなりと。方士あり、大丹を鍊らむを請ひ、中書に敕して、其需むる所を給す。希憲奏して曰く、前世人主、多く方士に誰惑せらる。堯舜壽を得るは靈を大丹に假らざるなりと。許衡世祖、之を善しとす。許衡を以て中書左丞となす。時に、阿合馬、權を專らにし、上を無し、國を蠧し、民を害し、嘗て其子を以て兵し 評順番多い柄を典らしめむと欲す。衡曰く、國家の事權は、兵民財の三者の權は兵民財み父、尙書省に位し、民を典り、財を典り、而して、又兵を典る、甚だ重し。世祖曰く、卿阿合馬の反を慮るか。衡、對へて曰く、是れ反道なり。古しへより、奸邪未だ此に由らざる者あらずと世祖、衡の語を以て、阿合馬に語る。阿合馬、之に由つて、衡を怨む。辛未、咸淳七年。元の劉秉忠、許衡、定むる所の朝儀を進む。司農司を立て、張文謙を以て司農卿となす。水軍七萬を〓へ、戰艦五十三を造り、環城を築き、以て襄陽に逼南宋-度宗皇帝-九一一
十八史略卷之七九一二る。許衡を以て集賢大學士國子祭酒となす。評十月、國を建てて、大元と號す。詔に曰く、誕に景命に膺り、四す深辭る大ベ遠雄の元と詔書藻文す;必ず美名あり。百王に紹いで、統を紀し朗渾々詞海を奄うて、以て尊に宅る、誦す、肇めて隆古に從ふ、獨り我が家のみに非ず。且つ、唐の言たる歩虞の言たるや樂なり、や蕩なり、堯、之を以て著稱す。舜之に因つて號となして馴致す。西、興つて湯造す、互に夏大と殷中とを以た。て名とす。世降つて以還、事殊に古しへに非ず。時に乘じて國を有つと雖も、義を以て制を稱せず。秦となし、漢となすもの蓋し初起の地名に從ひ、隋といひ、唐といふもの、又、始封の爵邑に卽く是れ皆百姓見聞の狃習に徇ひ、一時經制の權宜に要せらる。か〓するに至公を以てすれば少貶なきを得むや。我が太祖聖武皇帝、乾符を握つて、朔土より起り、神武を以て、帝圖に膺り、四に大聲を振ひ、大に土宇を恢にし、興圖の廣き、歷古無き所、頃ろ耆宿、廷に詣り、奏章伸請して謂ふ、旣に大業を成す、宜しく早く鴻名を定むべしと。古制に在つて、以て當れり。然れども、朕の心に於て何か有らむ。國號を建てて大元といふべし。蓋し、易經乾元の義にあ·た取る。是に大に治まり庶品に流形す。孰れか資始の功を名づけむ。上子一人寧を萬邦の爲に底さん。尤も仁を體するの要切なり。事、革に從ひ、道。天人に協ふ。於戯、義に稱うて名づく、素より、之南宋-度宗皇帝-九一三
十八史略卷之七九一四が溢美を爲すに非ず、孚に休し、惟れ永し。尙ほ艱に投ずるに負かあず、敷天と共に大號を隆にするを嘉す。咨、爾有衆、予の至懷を體せよと。太保劉秉忠の議に從ふなり。評壬申、咸淳八年。葉夢鼎、再び相たり。似道と意合はざるを以て年を一にく腸圍く善無呂る六去る。國家大學教育大學とにに年善而煥きな元而い古耐の戰し孤襄陽、陷る。之より先、理宗の初年、襄陽は制臣撫御を失するをし以て、王旻、亂を作して陷るを致す。謝方叔、相となり、李曾伯に將を遣して、北方も亦た苦爭せず。降もべ獨喩し、之を取らしむ。劉整の策おんまいで行はるるに及び、重兵、襄陽を圍む。呂文煥、城を守ること六年、な惜扞禦備さに至る。然も、似道、肯て調援せず、粮食未だ乏しからを事てる平もずと雖も、衣裝薪蒭、措辨する所なく、盧舍を轍して薪となし、關粉似のに亦想り援れしす太も情ばにざ救是に飾道急楮を緝めて衣となすに至る。援兵至らず、遂に城を以て降つて、元かしす掬すの致と擁情さして52人の用となる。にざ救な値一到しば賈似道、章を累ね、出でて督せむとし、陰に朝廷を諷して、之を老闆奶茶留めしめ、卒に行かず。重にらず元、尙書省を併せ、皇子忙哥剌を封じて安西王となす。文天祥直學士院文天祥、致仕す。初め、賈似道、疾と稱して致仕を乞ふおや、以て君を要すとなす。似道、張立志に諷し、効して之を罷む。な天祥、遂に錢若水の例を引いて、致仕を乞ふ。時に年三十七。癸酉、咸淳九年。平地に白毛を產す、銀線菜の如し。臨安、尤も南宋-度宗皇帝-九一五
十八史略卷之七九一六多し。元、樊城を侵す。守將張漢英及び都統制范天順、牛富、之に死す。評○○番地り元元の國子祭酒許衡罷むるを乞ふ。之を許す。衡家に居て勤儉、自治に强、公愛兼盡、嚴ならざるも整、閨門の内朝廷の若く然り。夫婦相待つこと、賓の如し。凡そ、喪葬一に古制に遵ひ、佛老を用ゐず、懷孟の閒之に化す。旁舎に僧德公といふ者あり、年百餘歲。嘗て其徒に謂つて曰く、老僧、苦行百年、亦た佛となる能はず、徒に不孝の人となり、祖宗を地下に見るを羞づ。但だ、願はくは、小僧輩、還俗以て汝が祖宗の嗣を壽せよと。之より復た弟子を度せず、蓋し之に化するなり。え甲戌、咸淳十年。賈似道、母の憂に丁る、隨つて起つて復す。陳宜中陳宜中、僉書樞密院たり。七月、上、崩ず。在位十年。咸淳と改元す。壽三十五。似道、皇子暴を立つ、年四歲、之を孝恭懿聖皇帝となす。「孝恭懿聖皇帝】名は黒、皇后全氏の出なり。太皇太后謝氏、朝に臨んで詔を稱す。德祐と改元す。兄建國公是を封じて吉王となす、弟永國公〓を信王となす。元の太保劉元の太保劉秉忠、卒す。秉忠、天下を以て己の任となし、知つて秉忠卒すさおの!言はざるなく、言つて聽かれざるなく、其人才を薦むる、各、器に稱ふ。開平に城き、燕都に城かしむるや、皆、秉忠、其地を相す。南宋-度宗皇帝-孝恭懿聖皇帝ー九一七
十八史略卷之七九一八是に至つて疾なくして、端坐して卒す。世祖、聞いて驚悼して、群臣に謂つて曰く、秉忠、朕に事ふる三十餘年、小心愼密、其陰陽術數の精は、唯だ朕のみ之を知ると。元、中書平章史天澤、中書左丞相伯顏に命じ、諸軍を帥ゐて南侵す。陛辭するや、世祖、之に諭して曰く、古しへの善く江南を取る者は、唯だ曹彬一人のみ。汝能くん、史天澤卒す不殺なれば、是れ吾が曹彬たりと。天澤、疾あつて還り、尋いで卒す。之より先、世祖、醫を遣して、馳せて視せしむ。天澤、附奏して曰く、臣、大限終あらむ、死は惜むに足らず。唯だ願はくは、天兵江を渡るとき、殺掠を以て戒となせと。言訖つて卒す。天澤、忠亮にして大節あり、將相に出入すること五十年に近く、四朝に柱石)として百辟に師表たり、社稷の臣といふべし。其富貴權勢を視るや、跡を歛めて退避し、將に之に漁されむとするものの若し。故に能く始を善くし、終を令くし、開國の元臣となる。元の伯顏丞相、大に兵を襄樊に會す。九月、降人劉整を以て騎兵を領して淮泗より出でしめ、呂文煥、舟師を領して襄陽より出でしめ、先を爭うて向導し、水陸並に進み、沙市の新城を攻む。都統邊居誼、所部三千人を帥ゐて、力戰して之に死す。策應使夏貴、力戰す。元兵、其不意に出づ。兵敗る。西南岸に沿ひ、火を縱つて、廬州に歸る。宣撫使朱機孫、重兵を提げ、戰はずして、江陵に歸る。鄂州、降る。南宋-孝恭懿聖皇帝-九一九
十八史略卷之七きつ天目山、崩る。天下に詔して、勤王せしむ。乙亥、德祐元年元の伯顏、阿里海牙を留め、兵四萬を以て、鄂を守らしめ、而して、阿朮と、大軍を率ゐて江を渡り、流に順つてず東に下る。時に沿江の諸將、呂氏の部曲多く、風を望んで降附す。江州降る、運使錢眞孫、自ら縊る。と似道、軍馬を都督し、遷延して出でず。兵、旣に建康に下ると聞き、始めて、諸軍を率ゐて、行在を發し、迂道して行き、數日、始にめて蕪湖に達し、將に安慶府に趨り、下流の師を牽制せむとす。未だ至らざること三日、安慶の帥范文虎は、呂氏の婿、旣に降り、將士復た固志なし。似道、官資を竭轉するを許す。諸軍詬つて曰く、た官資を要して甚を做さむ。巳未庚申の官資、何に在ると。似道答ふる能はず。鑼を鳴らす一聲、兵を珠金砂に退く。十三萬の衆、一時に潰散す、似道、奔つて、揚州に入る。江西提刑文天祥、兵を募つて勤王す。天祥は、吉州廬陵の人、丙辰進士の第に魁たり。殿帥韓震、劫して都を遷さむを謀る。陳宜中、計を以て之を誅す。趙〓發夫妻池州破る。通守趙〓發、將に死せむとす。其妻と訣る。妻曰く、忠死す卿能く忠臣たり、妾、顧みて忠臣の妻となる能はざらむやと。昂南宋-孝恭懿聖皇帝-九二一
十八史略卷之七九二二發、喜んで、衣冠を具し、共に倶に縊る。明日、伯顏、城に入つて之を憐み、衣棺を具へて葬る。·ア建康、破る。趙淮、之に死す。京師、戒嚴す。朝臣、踵を接して、宵に遁る。王爚、陳宜中等、似道が不忠不孝の罪を効す。宜中、もと賈の恩を受く。是に至つて亟に賣を効して以て自ら解く。評要用途無大阪府左衛門似道、貶に赴く。鄭虎臣、父の仇を以て、監押して漳州に至り、亡ぼし身亦第三十五年厠上に卽いて、其胸を拉して之を殺す。···あああああベ張世傑、兵を以て入衞す。元兵、境に在り。陳宜中等、惟だ賣の黨を攻擊するのみ、略ぼ備禦の策なし。司馬夢求、江陵の沙市鎭を監す。力戰して死す。諸帥を徵して、入衞せしむ。夏貴、省萬壽、黄萬石等、至らず。ぐわつかうしんさく六月庚申朔、日蝕晦冥、雞塒に棲み、咫尺人物を辨ぜず、巳さより午に至り、明、始めて復す。留夢炎、相たり。評文天祥器文天祥、民兵峒丁、二萬餘人に將として入衞す。夢炎と意相樂ま局狹少ず、尙書を以て、江浙制置に降し、吳門を守る。州郡、しきりに降る。元兵、臨安を距ること百里、獨松關、急張世傑を告ぐ。時に張世傑の軍五萬、諸路勤王の兵四十餘萬。天祥、世傑もと議す、兩軍堅く聞廣を守り、全城の王師血戰し、萬一捷を得ば、南宋-孝恭懿聖皇帝-九二三
十八史略卷之七九二四猶ほ爲すべきなりと。世傑、大に喜び、議して師を出す。宜中、王師を以て、務めて持重し、詔を降して、之を沮み、使を遣して、和を乞ふ。天祥等に詔して、兵を罷む。ご潭州、陷る。時に、一軍は湖南より潭州を圍む。守臣李帯、戰守屢ば捷つ。八九月を經て、城將に陷らむとし、闔門、之に死す。丙子、德祐二年。正月、秀王與睪、皇兄益王星、皇弟廣王〓等を奉じて海に航す。世傑、朝を去る。元兵、高亭山に駐まる。都城を去ること三十里。宜中、夜、遁る。文天祥、右丞相たり、辭して拜せず。賈餘慶、吳堅、相たり。天祥、出でて軍前に使す。辭氣慷慨、議論して屈せず。伯顏、之とを留む。賈餘慶三宮元兵、臨安に入る。賈餘慶等、三宮を奉じて以て降る。手詔してを奉じて元に降る諸路に諭して、內附せしむ。伯顏、宰執を遣し、先づ大都に赴かしむ。天祥、亦た舟に登つて北行し、鎭江に至り、間を得て逸し去る。三宮、北に遷る宮室、尉馬、宮人、內侍、太學生等數千人、皆南宋-孝恭懿聖皇帝-九二五
十八史略卷之七九二六遣中に在り。眞州を過ぐ。守苗再成、駕を奪はむとす。幾んど遂げむとして克たず。五月、宋帝、上都に至り、瀛國公に降封す。帝、在位二年、改元즐するもの一曰く德祐。益王、廣王、海道より溫州に至る。蘇劉義、陸秀夫、來り會し、陳宜中、張世傑、海舟を以て福州に至る。謝太后の手詔を宣し、二王を以て天下都副元帥となし諸路の忠義を召す。五月朔、陳宜中、陸秀夫、張世傑等、共に益王是を立てて帝となし、福州に卽位す。之を端宗皇帝となす。【端宗皇帝】名は是、孝恭懿聖皇帝の兄なり。位に卽いて、景炎と改元し、はるかに、帝に尊號を上つて孝恭驚聖皇帝となし、太皇太后を壽和聖福至仁太皇太后となし、皇太后を仁安皇太后となし、度宗の淑妃楊氏を皇太后となし、同じく政を聽く。廣王〓を封じて衞王となす。陳宜中、左丞相たり。張世傑、少保たり。5文天祥、至る。右丞相に除せらる。宜中、世傑と異意なるを以てあ、肯て拜せず。九月、天祥、督を南劍州に開き、兵を募つて數千を得、遂に郡武さ軍を復す。冬十月、天祥、師を帥ゐて、汀州に次す。興化軍の通判張日中等來り會す。時に、贛寇猖獗江聞廣の路を血にす。日中南宋-端宗皇帝-九二七
十八史略卷之七九二八おの?等、天祥が開督勤王するを聞き、遂に各兵を起して來り應ず。天ニ祥趙時賞、張日中、趙孟深を遣し、一軍を將ゐて〓に趨かしめ、以て寧都を取り、吳浚を遣し、一軍を將ゐて、雪都を取る。劉洙、じ.蕭明哲、陳子敬、皆、江西より兵を起して來り會す。鄒源、元人と寧都に戰つて敗績す。武崗〓授羅開禮、兵を起してえ文永豐縣を復す。亦た死す。天祥、爲に服を製して哭す。十一月、元の阿刺罕、董文炳、建寧府に入り、遂に福州を侵す。宜中、世傑、帝及び衞王、楊太后等を奉じて、海に航し、潮州より廣州に至り、富陽に趁き、謝女峽に遷る。丁丑、景炎二年阿刺罕、汀州に入る。文天祥、漳州に奔る。入衞を謀れども、道阻して通ぜず、江廣の間に往來し、戰つて勝負あり。吳浚、元に降り、因つて、漳に趁き、天祥に說いて降らしめむとす。天祥、責むるに大義を以てして、之を誅す。三月、文天祥、梅州を復す。四月、天祥、興國縣を復す。五月、張世傑、潮州を復す。天祥、梅州より江西に出で、遂に會昌縣を復す。趙時賞、張日中の兵と、皆、之に會す。元廉希憲卒す元の中書政事廉希憲、卒す。希憲、江陵に在り、遠近化に向ふ。南宋-端宗皇帝-九二九
十八史略卷之七九三〇疾あつて召し還るるに及びて、民、皆、涕を垂れて擁し送り、祠を建て、像を繪いて、以て之を祠る。世祖、歎じて曰く、復た大事え評伯顏の廉を決する廉希憲の如き者あるなし。伯顏、亦た曰く、廉公は宰相中當れの眞に希憲の眞宰相、男子中の眞男子と。世、以て名言となす。六月、天祥、元人を雪都に敗り、遂に興國縣に次す。秋七月、張ニ;日中、趙時賞等をして、師を帥ゐて、吉贛諸縣を復せしめ、遂に贛州を圍む。張世傑、師を囘し、潮州より泉州を圍む。克たず。帝の舟、潮州の淺灣に遷る。ニ)天祥元の李恆元の李恆、兵を遣し、贛を援けしめ、然も、自ら將として、を興國に襲ふ。天祥、恆の猝に至るを意はず、乃ち兵を引いて走り:鄒〓に永豐に卽く。鳳の兵、先づ潰ゆ。恆、天祥を窮追す。天祥、方石嶺に至る。恆、之に及ぶ。鞏信、拒ぎ戰ふ。箭.體に被つて死す。天祥、空院に至る。恆又之に及ぶ。張日中、奮つて力戰す。元兵、少しく卻く。恆鐵騎を麾いて、橫に之を擊たしむ。日上こと〓〓中身に十餘創を被り、猶ほ十餘騎を手刄して死す。兵、悉く潰ゆ。天祥の妻歐陽氏、男佛生、環生、及び二女、皆執へらる。趙時賞、肩興の後に坐す。元人、誰となすを問ふ。時賞曰く、我が姓は文と衆以て天祥となし、之を禽にす。天祥、之に由つて、身を挺するを得。其長子道生及び杜滸、鄒源と、騎に乘じて逸し去り、遂南宋-端宗皇帝-当三
十八史略卷之七九三二に循州に奔る。散兵、頗る集まる。乃ち寸南嶺に屯す。幕僚客將、植時賞奮罵皆、執へらる。時賞、隆興に至り、奮罵して屈せず。刑に臨み、劉して殺さる洙、頗る自ら辯ず。時賞、叱して曰く、死せむのみ、何ぞ必ずしも然らむと。是に於て、將佐幕屬、執へられて、皆死す。而して、天祥の妻子家屬、燕に送らる。二子、道に死す。廣州、陷る。十一月元の劉深、舟師を以て淺灣を襲ふ。張世傑、戰つて利あらず。帝舟を奉じて、秀山に走る。陳宜中、占城に之いて兵を求む、遂に復た還らず。十二月、帝、再び〓隩に還る。颶風作る。帝病あり。元の劉深、復た舟師を以て、來つて〓陳を襲ひ命如珪を執ふ。帝舟、謝女峡に遷る。戊寅、景炎三年。張世傑、師を遣して、雷山を討つ。克たず。三月、文天祥、兵を會して、麗江浦に次す。李恆、元の張弘範元、張弘範を以て、都元帥となし、之に副たり。師を率ゐて、聞廣に入る。帝舟、〓州に遷る。夏四月、帝、硼州に崩ず。陸秀夫、衞王を立てて帝となす。之を帝〓となす。【帝醫】端宗皇帝の弟なり。名は〓、位に卽いて祥興と改元す。皇太后楊氏同じく政を聽く。之より先、群臣多く散じ去らむと欲す。陸秀夫曰く、度宗皇帝の一子、尙ほ在り、將に焉にか之を置かむ。南宋-端宗皇帝-帝〓-九三三
十八史略卷之七九三四古人、せ、一旅一成を以て中興する者あり。今、百官有司、皆具はり、士卒數萬、天、若し未だ宋を絕やすを欲せざれば、是れ豈に國を爲すべからざらむやと。乃ち衆と共に帝を立つ、年八歲。適ま黄龍あり、海中に見ず。遂に祥興と改め、硼州を升せて翔龍縣となし、陸秀夫を以て左丞相となし、樞密使を兼ねしむ。時に、海濱に播越して、庶事疎略、時節朝會每に、獨り、秀夫、儼然として笏を正して立ち、治朝の如くす。或は行中に在つて、凄然として泣下り、朝衣いこと〓〓を以て淚を拭ふ、衣盡く濕ふ左右、悲働せざる者なし。首相に拜するに及び、張世傑と共に政を秉り、外は軍旅を籌り、內は工役を調す、すべて其手より出で、忽遽流離の中と雖も、尙ほ日に大學章句を書し、以て勸講す。六月、帝舟、新會の厓山に遷る。大星あり、南に流れて海中に墜つ。小星千餘、之に隨ふ。聲、雷の如く、數刻にして止む。な天祥、帝の卽位を聞き、上表して自ら江西に敗るるの罪を効し、入朝を乞ふ。許さずして、少保を加へ信國公に封ず。會ま、軍中大疫、士卒多く死す。天祥の子道生、復た亡し、家屬共に盡く。元、許衡を以て集賢大學士となし、太史院事を兼領せしむ。文天祥、潮陽に屯す。鄒溷、劉子俊、皆、師を集めて之に會し、遂に盜陳懿、劉興を潮に討つ。興は死し、懿は遁れ、張弘範の兵を南宋-帝昺-九三五
十八史略卷之七九三六き道いて、潮陽を濟す。天祥、カ、支へず、其麾下を帥ゐて、海豐に走る。張弘正、之を追ふ。天祥、方に五坡嶺に飯す。弘正の兵、突文天祥執へ至す。衆戰ふに及ばず、皆、頓首して草莽に伏す。天祥、執へら自動からる。腦子を呑んで死せず。鄒溷、劉子俊、自ら詭つて天祥となし、天祥を免ずべきを冀ふ。天祥を執へて至るに及びて、各眞僞を爭ふ、遂に子俊を烹る。而して、天祥を執へて、弘範に見えしらむ。左右之に命じて拜せしむ。天祥、屈せず。弘範、其縛を釋き、客禮を以て、之を見る。天祥、固く死を請ふ。弘範、許さず。或ひと弘範に謂つて曰く、敵人の相、測るべからざるなり、宜しく、之族を近づくべからず。弘範曰く、彼は忠義なり、他なきを保すと。こと〓〓か、屬の俘にせられし者を求めて、悉く之に還し、舟中に處いて、以て自ら從はしむ。端宗を厓山に葬る。元の阿里海牙、海南より還つて上都に師す。巳卯、祥興二年。正月、元の張弘範の兵、厓山に至る。張世傑、力戰して、之を禦ぐ。弘範、之を如何ともするなし。時に、世傑に甥韓あり、元師中に在り。弘範三たび、韓をして、宋師に至つて、世傑を招かしむ。世傑、從はずして曰く、吾、降れば、生きて且つ富貴なるを知る、但だ義は移すべからざるのみと。因つて、古忠臣{を歷數して以て之に答ふ。弘範、乃ち文天祥に命じ、書を爲つて、南宋-帝員-九三七
十八史略卷之七九三八評世傑を招かしむ。天祥曰く、吾、父母を扞ぐこと能はず、乃ち人にゝる信無のは謂にと眞臣末文ゝべ心は零値いに純隨天すは文忠一祥破周千年日月彼の所る公類名実〓へて、父母に叛かしめて可ならむやと。固く之に命ず。天祥、遂に過ぐる所の零丁洋の詩を書して、之に與ふ。其末に云ふあり、人ゝをて洋以丁生古しへより誰か死なからむ、丹心を留取して汗靑を照らすと。弘星戈營くるの詩山落一辛し事範笑つて、之を置く。弘範、復た人を遣して、崖山の士民に語ら河四經苦落起しめて曰く、汝の陳丞相、旣に去り、文丞相、旣に執へらる。汝、水瓶絮何をか爲さむと欲すと。士民、亦た叛く者なし。弘範、又舟師を以恐風零選打印 はて、海口に據る。宋師、樵汲の道絕ゆ。兵士、乾糧を茹ふこと、十嘆恐零丁人世餘日にして、大に渴す。乃ち下つて、海水を掬して、之を飮む。水自重車心無昭死旬の折取鹹く、飮めば乃ち嘔泄す。兵士、大に困む。世傑、蘇劉義、方興等汗靑を帥ゐて、旦夕大に戰ふ。元の李恆、廣州より師を以て會し攻む。弘範、恆に命じて、崖山の北面を守らしむ。二月戊寅朔、世傑の將陳寶、叛いて、元に降る。巳卯、都統制張達、夜、元師を襲ひ、敗れ還る。元人、進んで、世傑の舟に薄る。甲申、弘範、其軍を四分し、自ら一軍に將たり、相去ること里許。諸將に令して曰く、宋の舟、西、厓山に艤す、潮至れば必ず東に遁れむ、急に之を攻めて、去るを得せしむる勿れ。吾が樂作るを聞かば、乃ち戰へ令を違ふ者は斬らむと。先づ北面の一軍を麾き、早潮に乘じて戰ふ。世傑、之を敗る。李恆等、潮に順つて師を退く。午潮上る。元師、樂作る。宋師、以爲へらく、且く懈ると。備を設南宋-帝昺-九五九
十八史略卷之七九四〇けず。弘範、舟師を以て、其前を犯す。南師、之に繼ぐ。宋師、南北より敵を受け、兵士皆疲れて、復た戰ふ能はず俄に一舟の檣旗仆るるあり、諸舟の檣旗、皆仆る世傑、事の去るを知り、乃ち精Na兵を抽いて中軍に入る。諸軍、大に潰ゆ。元師、宋の中軍に薄る會ま日暮れて風雨、昏霧四塞、咫尺辨せず。世傑乃ち蘇劉義と維を評陸秀夫、帝舟に走る。帝舟大入低勝ちにて夫をし帝りざ見國溺同帝斷ち、十六舟を以て港を奪つて去る。じにして、且つ環結す、出走するを得ざるを度り、乃ち先づ其妻子をKELICAL FACTION COLLECTION店1)る忠に無ともあび狀後宮もに驅つて海に入らしめ、卽ち帝を負うて同じく溺る。帝、崩ず。る操忠人どの然れ諸臣、從死する者甚だ衆し、越えて七日、屍海上に浮ぶもの十餘のて側情純の至雜萬人。因つて、帝の屍及び詔書の寶を得たり。既にして、世傑、復さしつ丁氏八正をた厓山に還つて、兵を收め、楊太后に遇ひ、奉じて、以て趙氏の後しむを求めて、復た之を立てむと欲す。楊太后、始めて、帝の崩ぜしをニ聞き、膺を撫して、大働して曰く、我、死を艱關に忍んで此に至るものは、正に趙氏の一塊肉の爲のみ、今、望なしと。遂に海に赴いて死す。世傑、之を海濱に葬る。世傑、將に安南に趨かむとし、平章山下に至つて、颶風、大いに作る。舟人、岸に艤せむと欲す。世傑曰く、以て爲すなきなりと。香を焚き、天を仰いで呼んで曰く、評していますたべ自傑しのしりき滅香を焚我、趙氏の爲にすること、亦た已に至れり。一君亡びて、復た一君をすを立つ。今、又亡ぶ。我未だ死せざるものは、庶幾はくは、敵兵退る忠ふべ臣ベ鑑以かば、別に趙氏を立てて以て、祀を存せむとするのみ。今かくの若南宋-帝昺-〓
十八史略卷之七九四二豈に天意なるかc若し、天、我が復た趙の祀を存するを欲せざ宋亡ぶ西し、紀-二七溺九)れば、大風吾が舟を覆せと。舟、遂に覆り、世傑、る。宋、亡ぶ。元の張弘範等、置酒大會し、文天祥に謂つて曰評至且天地 30元厓山、旣に破る。〓り遇を範のるき文の而とす說く國亡ぶ、丞相の忠孝盡せり。能く心を改め、宋に事ふる者を以二五天祥汝然として涙とを渡しすて、今に事ふれば、宰相たるを失はざるなりと。世しれは祥りざさを出して曰く、國亡ぶるも救ふ能はず、人臣たる者、死するも餘罪)所臣以也鑑百る忠あり、況んや、敢て其死を逃れて其心を貳にせむやと。弘範、之をた義とす。燕京に送らしむ。道吉州を經、痛恨して食はず、八日尙デほ生く。十月、天祥、燕に至る。屈せず、獄に繫がれ、勵操愈よ堅宋の故臣、亦た嶺海より安南に走る者あり。安南は、其國王李乾子天祚、德紹興に卒してより子陽煥、立つ。陽煥、卒す。立つ。天祚、淳熙に卒す。子龍翰、立つ。龍輸、嘉定に卒す、子昊〓、立と;つ世、宋の正朔を奉ず。龍輸の時に當つて、聞人陳京といふ者あり、其國に入つて、政を得、國婿となる。京の子承、再世其國柄を);執る。昊〓の時に及びて、承、其國を奪ひ、子威晃に傳ふ。理宗、其貢を受けて、之を封ず。威晃、子日照に傳ふ。宋亡びて、乃ち名を日恒と改め、貢を元に奉ず。初め、邵雍、客と語つて、國祚に及ぶや、晉の出帝紀を取つて、之を示す。靖康に驗あり、德祐に至つ南宋-帝〓-九四三
十八史略卷之七九四四四廣の說一汴二杭三て益す驗あり。陳摶も、亦た、嘗て、一1、二杭、三聞、岡四廣の說あり。宋、果して聞廣に至つて盡く。太祖建隆より欽宗靖康に至るまで、一百六十七年。高宗建炎より祥興に至るまで、又一百五十三年。けんりうぐわんねんかうしん帝〓祥興乙卯に至るまで、凡右、宋の太祖建隆元年庚申より、そ三百二十年にして亡ぶ。評譯十八史略大尾結言カーライルのヒローウォーシップやフレンチレヴォリューシンを見ると、時代が英雄を作り而して英雄が時代を作るといふ樣な事が書かれて居る。支那人の書いたものにも一國一人を以て興り一人を以て亡ぶといふ樣な事がある其考へ方は東西古今其軌を一にすといふべく、英雄は皆な時代の產物であると同時に又英雄が時代を作り出す。元龜·天正の亂脈時代であつたればこそ、水呑百姓の小伜猿面冠者から一躍太閤殿下に出世した豐臣秀
吉が出て來たのであつて、其秀吉-成り上り者の秀吉が出たればこそ、絢爛たる桃山時代が出現したのであらう。奔放自在、天馬空を行く底の太閤の遣りツ放しの後ト始末をするの必要によりて、堅實無比の家康が現はれ、家康の出現によりて德川三百年の鎖國時代が生れ出たのであつて、幕政三百年の鎖國がなかつたならば、ペルリの來訪もなく、維新當時の群雄も出ては來なかつたかも知れぬ。ソレは皆ソウなる順序があつてソウなりつゝあるのであつて、這間の前後連絡、因緣成行を靜觀すれば、西洋人の經た所も東洋人の經た所も道理に於て變はる所はない。弱肉强食の結果が自由平等を喚び起し、自由平等の結果が共產無政府の傾向まで進めば、統制獨裁の風潮を復活して來る。而してソコにイツでも色々の英雄や先覺者や指導者の活躍が見られる。是れは古今東西の歷史の〓ゆる不動の哲理であつて、古人は此事を簡單に歷史は繰り返へすともいふて居る。然り歷史は繰り返へすに違ひないけれどもソノ繰り返へすのは道理であつて、いはゞ道理に二つはない-眞理は常に新しいといふ意味で、其實、實際としての事實は皆別々である故に同じく聖人といふても、時代を異にし、場合を異にするに從て各々聖人振りが異つて居り、同じく馬三
鹿とか阿呆とかいふても、各々ソノ馬鹿ブリ阿呆ブリが異つて居る堯も舜も禹も湯も文王も武王も周公も皆一樣に聖人といふけれども、堯の時には鼓腹擊壤の歌であり、舜の時には南風の詩であるのに、禹の時は一饋十起以て天下の民を勞し、湯に至りては素車白馬身を以て犧牲となして桑林の野に禱らねばならなくなつて居る。凡そ是等の變遷を抽象的に云へば、成程ソウかと點頭く程度のものに過ぎず、ソレを詳細に探究すれば正史から外史ソレからソレと所謂汗牛充棟、仲々際限がない。其兩者の中間を行く略史として、上下四千年の經過を〓觀し得るものとしては蓋し此十八史略以上のものはない。略史であり、史略であり、十八種の史書の抄略拔き書きであるといふので、漢學先生ガタは餘り十八史略を推賞せず、或は却て之を輕蔑するの風さへあるが、ソレは專門家のいふ事であつて、一般大衆としてはコレ程便利な重寳な讀物はない。日本で漢學の入門者に初歩第一の讀本として、十八史略を讀ませる事にしたのは何人か知らぬけれども、今よりして之れを評すれば非常な卓見家といふべきである。支那人は殊に此書を輕視する樣であるが、ソレは要するに淺薄であるといふ所からであらうが、四千有餘年五
以て結言として置くんで見て見られよ、中に於て政治に興味を持つ人達に讀ませようといふのである之を支那の人達に勸めようといふのではないが得らるゝかと考へて見るがよい昭和十二年三月廿七日夜年十一ノ點をヨク合點して成程と思はるゝならば、の史實をコレ丈けのものに縮寫するとして果してコレ以上のもの昭和十六年五月昭和十二年十一月三日再版昭和十二年四月昭和十二年四月月發行日讀了として繰り返して見たくなるから、所八六二必ず僕が遣つた樣に印發編日改訂版日發行日印刷東京市京橋區銀座西五丁目三番地刷行者者兼島田俊雄法律事務所W譯併し僕はソンな議論をして、導十八史略電話銀座(57)〇〇三五番渡東京市小石川區東古川町十番地島東京市京橋區銀座西五丁目三番地定 價譯年十モウ一度始めから讀邊田參一俊評日本人お互大衆の月者六郞雄識行印社會式株刷印外中日始め之をソ
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最終更新:2022年09月05日 22:10