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十八史略 漢の太祖劉邦
2009-09-15 17:05:15 | Weblog
西漢
漢太祖高皇帝堯之後、姓劉氏、名邦、字季。沛豐邑中陽里人也。母媼息大澤之陂、夢與神遇。時大雷雨晦冥。父太公往、見交龍其上。已而産劉季。隆準而龍顔、美鬚髯。左股有七十二黒子。寛仁愛人、意豁如也。有大度、不事家人生産。

漢の太祖高皇帝は、堯の後にして、姓は劉氏、名は邦、字(あざな)は季(き)沛豊邑中陽里の人なり。母の媼、大沢之陂(つつみ)に息(いこ)うて、夢に神と遇(あ)う。時に大いに雷雨して晦冥(かいめい)なり。父の太公往(ゆ)いて交龍其の上に見る。已にして劉季を産む。隆準(りゅうせつ)にして龍顔、美鬚髯(しゅぜん)。左股に七十二の黒子有り。寛仁にして人を愛し、意豁如(かつじょ)たり。大度(たいど)ありて、家人の生産を事とせず。

 晦冥 晦も冥も暗い。 交龍 史記では蛟龍、みずち。 隆準 準は鼻すじ
鼻筋が高いこと。 鬚髯 鬚はあごひげ、髯は頬のひげ。 豁如 心が開けたさま。 大度 度量が広いこと。 家人 庶民、官につかずに家に居る人。




晦冥
2009-09-17 13:43:14 | Weblog
前回晦も冥も暗いと言ったが、広辞苑をひいて少し詳しく見てみよう。
晦 かい
  ①月のおわり、みそか、つごもり「-日」⇔朔 「―朔」みそかとついたち
  ②くらいこと「-冥」
  ③くらますこと「-渋」「韜-」
冥 めい(呉音はミョウ)
  ①くらいこと、くらがり、やみ「--」「-暗」
  ②道理にくらいこと「頑-」「愚―」
  ③奥深いこと「-想」
  ④神仏の働きについていう「-加」(ミョウガ)「―感」(ミョウカン)
  ⑤死後の世界「-府」「-福」 とある。

ところで旧暦で明日は7月30日つまり三み十そ日か、月隠(つごも)り、あさっては八月一日、八朔(はっさく) ついたち(月立ち) で、岸和田のだんじり




十八史略 大丈夫當如此矣
2009-09-17 13:49:17 | Weblog
願わくは箕帚の妾と為さん

及壯、爲泗上亭長。嘗繇役咸陽、從觀秦皇帝曰、嗟乎、大丈夫當如此矣。
單父人呂公好相人。見劉季状貌曰、吾相人多矣。無如季相。願季自愛。吾有息女願爲願季自愛。吾有息女願爲箕帚妾。卒與劉季。即呂后也。

壮なるに及び、泗上(しじょう)の亭長と為る。嘗て咸陽に繇役(ようえき)し秦の皇帝を、従観(しょうかん)して曰く、ああ大丈夫当(まさ)に此の如くあるべし、と。
單父(ぜんぽ)の人呂公、好んで人を相す。劉季の状貌(じょうぼう)を見て曰く、吾人を相すること多し。季の相に如(し)くは無し。願わくは季、自愛せよ。吾に息女有り、願わくは箕帚(きそう)の妾(しょう)と為さん、と。卒(つい)に劉季に与う。即ち呂后なり。

壮年になって泗上の宿場の長になった。かつて咸陽に夫役に出て、秦の始皇帝の様子を見物して、「ああ男子として生まれたからには、あの始皇帝のようでなくてはならん」とつぶやいた。
単父の人で呂公という者、人相を見ることを好んだが、劉季の貌を見て、「私はこれまで多くの人の相を見てきたが、あなたの人相に及ぶものはない。からだを大事にしなさいよ、ところでわしには娘がいる、どうか召使につかってくだされ」と言って、劉季に娶わせた。これがすなわち呂后である。

泗上 江蘇省の地名。 繇役 徭役に同じ 徴用。 従観 自由に見物する。
単父 山東省にある地名。 箕帚 ちりとりと箒 妾は妻を謙遜して言う






十八史略 劉氏の冠
2009-09-19 08:50:01 | Weblog
劉氏の冠
秦始皇嘗曰、東南有天子氣。於是東遊以厭當之。劉季隱於芒・碭山澤。呂氏與人倶求、常得之。劉季怪問之。呂氏曰、季所居上有雲氣。故從往、常得季。劉季喜。沛中子弟聞之、多欲附者。爲亭長時、以竹皮爲冠、及貴常冠。所謂劉氏冠也。

秦の始皇嘗て曰く、東南に天子の気有り、と。是に於いて東遊して以て厭当(おうとう)す。劉季、芒・碭(ぼう・とう)山澤の間に隠る。呂氏、人と倶に求めて、常に之を得たり。劉季、怪しみて之を問う。呂氏の曰く、季が居る所の上に雲気有り。故に従い往きて、常に季を得たり、と。劉季喜ぶ。沛中の子弟之を聞いて、附かんと欲する者多し。亭長たりし時、竹皮を以て冠と為ししが、貴きに及んでも常に冠せり。所謂(いわゆる)劉氏の冠なり。

秦の始皇帝がある時、東南に天子の興る気を感じる、と言った。東方に行ってこの禍根を絶とうと捜したが、劉季は、芒・碭の山や沼地に潜んで難を逃れた。
劉季の妻、呂氏は人と一緒に探して、いつも探し当てた。季が不思議に思って尋ねると、「あなたの居る上の辺りには常に雲気が漂っております、そこを捜せば良いのです」と答えた。劉季はこれを聞いて喜んだ。市中の若者たちも伝え聞いて、配下になろうとする者が多かった。泗上の亭長をしていた時、竹の皮で作った粗末な冠をかむっていたが、貴い身分になってからも、常に冠していた。世に言う劉氏の冠である。

厭当 押さえつけて防ぐこと






十八史略 劉季兵を沛に起こす。
2009-09-22 16:57:35 | Weblog
劉季爲縣送徒驪山。徒多道亡。自度、比至盡亡之。到豐西止飮。夜乃解縦所送徒曰、公等皆去。吾亦從此逝矣。途中壯士、願從者十餘人。季被酒、夜徑澤中。有大蛇當徑。季抜劍斬之。後人來、至蛇所。有老嫗。哭曰、吾子白帝子也。今者赤帝子斬之。因忽不見。後人告劉季心獨喜自負。諸從者日畏之。陳勝起、劉季亦起兵於沛、以應諸侯。旗幟皆赤。

劉季県の為に徒(と)を驪山(りざん)に送る。徒多く道より亡(に)ぐ。自ら度(はか)るに、至る比(ころ)には尽く之を亡(うしな)わんと。豊西に到り止まり飲む。夜乃ち送る所の徒を解き縦(はな)って曰く、公等皆去れ。吾も亦此(これ)より逝(ゆ)かん、と。徒中の壮士、従わんと願う者十余人あり。季、酒を被(こうむ)って、夜澤中を徑(わた)る。大蛇有って徑に当る。季剣を抜いて之を斬る。後るる人来たり、蛇の所に至る。老嫗有り、哭して曰く、吾が子は白帝の子なり。今者(いま)赤帝の子、之を斬る、と。因(よ)って忽ち見えず。後るる人、劉季に告ぐ。劉季、心に独り喜んで自負す。諸々の従う者、日に益々之を畏(おそ)る。陳勝の起こるや、劉季も亦兵を沛に起こして、以て諸侯に応ず。旗幟(きし)皆赤し。





十八史略 劉季兵を沛に起こす
2009-09-24 14:40:26 | Weblog
彼岸過ぎての麦の肥
土用過ぎての稲の肥
三十過ぎての男に意見
以上はやっても無駄なことの喩えだ。これは墓参りに行った際お寺で渡された円覚という小冊子の足立大進師の記事にあった。冊子はつづけて、子供時代の教育に及ぶ。時機を失しては何もならないということです。
では前回の通釈です、白文、訓読文と併せてご覧ください。
 劉季は、県の為に囚人を驪山へ護送した。ところが囚人は多く途中から逃げ出した。驪山に着くころには居なくなってしまうだろうと推察した劉季は豊の西に着いたとき、とどまって酒を飲んでいた。夜になって囚人を解き放って、「お前達どこへでも行け、おれもここからゆく」と言った。その時若い囚人の中で、手下になりたいと十人ほどが申し出た。劉季は酒を飲んで、夜沼地を通ると大蛇が横たわっていた。季は剣を抜いてこれを斬った。後れて来た者がそこに来ると老婆が泣きわめいて、「私の子は白帝の子だがたった今赤帝の子に斬り殺されてしまった」と言ったかと思うと老婆の姿は忽ちみえなくなってしまった。後れて来た者が劉季にこのことを告げると心中喜び、いよいよ自信をつけた。大勢の手下達は益々敬い畏れた。陳勝が挙兵すると、劉季もまた兵を沛に起こし、諸侯に応じた。そのとき用いた旗指物はすべて赤であった。

驪山 始皇帝の陵墓の造営場所で多くの囚人を徴用した。
白帝 暗に秦の皇帝を示す。 赤帝 劉季になぞらえる
わが国の月田蒙斎の詩、「暁に発す」に 忽ち驚く大蛇の路に当たって横たわるを
剣を抜いて斬らんと欲すれば老松の影 というのがある。




十八史略 法三章のみ
2009-09-26 09:20:40 | Weblog
白文
楚懐王遣沛公。破秦入關、降秦王子嬰。秦既定、還軍覇上。悉召諸縣父老・豪傑、謂曰、父老苦秦苛法久矣。吾與諸侯約、先入關中者王之。吾當王關中。與父老約、法三章耳。殺人者死。傷人及盗抵罪。餘悉除去秦苛法。秦民大喜。

訓読文
楚の懐王、沛公を遣わす。秦を破って関に入り、秦王子嬰を降す。既に秦を定め、還って覇上に軍す。悉く諸県の父老・豪傑を召し、いって曰く、父老、秦の苛法に苦しむこと久し。吾、諸侯と約す、先ず関中に入る者は之に王たらんと。吾当(まさ)に関中に王たるべし。父老と約す、法は三章のみ。人を殺す者は死せん。人を傷つけ盗するものは罪に抵(いた)さん。余は悉く秦の苛法を除き去らん、と。秦の民大いに喜ぶ。

通釈
楚の懐王は、沛公(劉季)を秦に遣わした。沛公は秦を破って関中に入り、子嬰を降伏させた。既に秦を平定して、退いて覇上に陣し、そこで諸県の長老・豪傑を集めて、考えを言うには「長老の諸君、久しく秦の苛法に苦しんだが、自分が秦を攻めるにあたって、諸侯と約束した。先に関中に入った者がその地の王になるべきであると。だから自分がこの関中の王となるのは当然である。ついては諸君と約束する、法は三章のみ。人を殺した者は死刑に処す、人を傷つけた者、また、盗みをした者は、それぞれ罪にあてて罰する、そのほかはすべて除き去る」と。秦の民はおおいに喜んだ。

謂って曰く 方針を発表する
覇上 陜西省にある、覇水のほとり




十八史略
2009-09-29 17:02:48 | Weblog
項羽率諸侯兵、欲西入關。或説沛公守關門。羽至。門閉。大怒、攻破之、進至戲、期旦撃沛公。羽兵四十萬、號百萬。在鴻門。沛公兵十萬、在覇上。范説羽曰、沛公居山東、貪財好色。今入關、財物無所取、婦女無所幸。此其志不在小。吾令入望其氣、皆爲龍成五采。此天子氣也。急撃勿失。

項羽、諸侯の兵を率い、西のかた関に入らんと欲す。或る人沛公に説いて関門を守らしむ。羽至る。門閉づ。大いに怒り、攻めて之を破り、進んで戲に至り、旦(あした)に沛公を撃たんと期す。羽の兵は四十万、百万と号す。鴻門に在り。沛公の兵は十万、覇上に在り。范、羽に説いて曰く、沛公、山東に居りしとき、財を貪り色を好めり。今関に入り、財物取る所無く、婦女幸する所無し。此れ其の志、小に在らず。吾人をしてその気を望ましむるに、皆龍と為り五采を成す。此れ天子の気なり。急に撃って失うこと勿かれ、と。

項羽は諸侯の兵を率いて、西のかた函谷関に入ろうとした。するとある人が沛公に説いて関門を閉じて守らせた。項羽が到着すると、関門が堅く閉ざされていたので項羽は激怒して関を攻め破り、進軍して戲水のほとりに至り明朝にも沛公を撃とうとした。項羽の兵は実数で四十万、百万の大軍と称して鴻門に陣を布いた。一方沛公の兵は十万、覇上に布陣した。項羽に范が説いて言うには、「沛公、山東に居た時は財宝をむさぼり、女色を好んだ。ところが関中に入ったとたん財物は取らないし、女性は近づけない。少なからず天下を狙う意志があると観じられる。私が部下に雲気を窺わせると、皆龍の形と五色に色どられていたとの報告でありました。これは天子の気に違いありません。迂闊に攻めて取り逃がしてはなりません」と。

十八史略 張良と項伯
2009-10-01 17:42:25 | Weblog
羽季父項伯、素善張良。夜馳至沛公軍、告良呼與倶去。良曰、臣從沛公、有急亡不義。入具告、因要伯入見。沛公奉巵酒爲壽、約爲婚姻。曰、吾入關、秋毫不敢有所近。籍吏民、封府庫、而待將軍。所以守關者、備他盗也。願伯具言臣之不敢倍。伯許諾曰、且日不可不蚤自來謝。伯去具以告羽、且曰、人有大功、撃之不義。不如因善遇之。

羽の季父項伯、素より張良と善し。夜馳せて沛公の軍に至り、良に告げ呼んで与に倶に去らんとす。良曰く、臣、沛公に従い、急有って亡(に)ぐるは不義なり、と。入って具(つぶさ)に告げ、因(よ)って伯を要して入り見(まみ)えしむ。沛公巵酒(ししゅ)を奉じて寿を為し、約して婚姻を為す。曰く、吾、関に入って、秋毫も敢えて近づくる所有らず。吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。関を守る所以の者は、他の盗に備うるなり。願わくは伯、具に臣の徳に倍(そむ)かざるを言え、と。伯、許諾して曰く、旦日蚤(はや)く自ら来たって謝せざる可からず、と。伯去って具に以て羽に告げ、且つ曰く、人大功有り、之を撃つは不義なり。因って善く之を遇するに如かず、と。

通釈は次回にしてください。

十八史略 張良と項伯 通釈
2009-10-06 10:26:51 | Weblog
項羽の叔父項伯は、かねてから張良と親しかった。その夜馬を駆って沛公の軍に至り、張良に急を告げて共に逃げるよう勧めた。張良は「私は沛公に臣として従う身、危急が迫ったからと逃げ去るのは道義に反します」と承知せず、帷幕に入り沛公に仔細を告げた。やがて張良は項伯を沛公に会見させた。
沛公は大杯を捧げて項伯の長命を寿ぎ、子の婚姻を約束した。その上で、「自分は関中に入ってからは、毛ほども私欲を近づけたことはございません。役人や民の数を記帳し、庫を封印して項羽将軍をお待ちしておりました。函谷関を閉じていた訳は、よその盗賊に備えていたからです。あなたにどうかお願いします、私が将軍の徳にそむく気持ちの毛頭ないことをお伝えください」と言った。項伯は承知して「明朝早くご自身が謝罪に出向かわなければなりません」と言って覇上を去った。戻った項伯は詳しく項羽に事情を報告し、そして言うには「このように大功ある人を撃つことは道義に反します、篤く対応して心服させるに越したことはありません」と。

秋毫 秋に抜け代わる獣の毛は細いので、ごく僅かなこと。

十八史略 鴻門の会
2009-10-08 08:20:15 | Weblog
鴻門の会
沛公旦從百餘騎、見羽鴻門。謝曰、臣與將軍、戮力而攻秦。將軍戰河北、臣戰河南。不自意、先入關破秦、得復見將軍於此。今者有小人之言、令將軍與臣有隙。羽曰、此沛公左司馬曹無傷之言。羽留沛公與飮。范數目羽、擧所佩玉玦者三。羽不應。出使項莊入、前爲壽、請以劒舞、因撃沛公。項伯亦抜劒起舞、常以身翼蔽沛公。莊不得撃。張良出告樊噲以事急。

沛公旦(あした)に百余騎を従えて、羽を鴻門に見る。謝して曰く、臣、将軍と力を戮(あわせ)て秦を攻む。将軍は河北に戦い、臣は河南に戦う。自ら意(おも)わざりき、先ず関に入って秦を破り、復将軍に此に見(まみ)ゆるを得んとは。今者(いま)小人の言有り、将軍をして臣と隙有らしむ、と。羽曰く、此れ沛公の左司馬曹無傷の言なり、と。羽、沛公を留めて与に飲む。范数々(しばしば)羽に目もく)し、佩(お) ぶるところの玉玦(ぎょっけつ)を挙ぐるもの三たび。羽、応ぜず。出でて、項荘をして入り、前(すす)んで寿を為し、剣を以って舞わんと請い、因って沛公を撃たしむ。項伯も亦剣を抜いて起って舞い、常に身を以て沛公を翼蔽す。荘、撃つことを得ず。張良出でて樊噲(はんかい)に告ぐるに事の急なるを以てす。

十八史略 鴻門の会
2009-10-10 16:26:21 | Weblog
通釈文
沛公は翌朝、百余騎の部下を従えて鴻門に行って項羽と会見した。先ず謝罪して言うには「私は将軍と力を合わせて秦を攻め、将軍は河北で戦われ、私は河南で戦いました。まさか自分が先に関中に入って秦を滅ぼし、再び将軍とこの地でお会いできるとは思っても見ませんでした。ただつまらぬ者が将軍と私を仲違いさせようとしたようです」と。項羽は「そなたの部下の左司馬、曹無傷から聞いたことだ」と言った。
項羽は沛公を留めて酒盛りをした。席上范はしばしば項羽に目くばせして、腰に佩びていた玉玦(ぎょっけつ)を三度も挙げて決行を促したが、項羽は応じなかった。范は席を外し、項荘を席に入らせて沛公の前に進んで健康を祝し、剣舞を披露したいと申し出て、沛公を撃たせようとした。それを見て項伯もまた剣を抜いて起ち、常に沛公を庇い舞ったので項荘は撃つことができなかった。張良は外に出て、樊噲(はんかい)に事の差し迫っていることを知らせた。

玉玦 玉製の腰につける装飾品、玦は決に通じる。 項荘 項羽の従弟
翼蔽 親鳥が翼でひなをかばうように守る事。

十八史略 樊噲
2009-10-13 09:10:45 | Weblog
樊噲目を瞋(いから)して項羽を視る
噲擁盾直入、瞋目視羽。頭髪上指、目眦盡裂。羽曰、壯士、賜之巵酒則與斗巵酒。賜之彘肩。則生彘肩。噲立飮、抜劒切肉啗之。羽曰、能復飮乎。噲曰、臣死且不避。巵酒安足辭。沛公先破秦入咸陽。勞苦而功高如此、未有封爵之賞。而將軍聽細人之説、欲誅有功之人。此亡秦之續耳。切爲將軍不取也。羽曰、坐。噲切爲將軍不取也。羽曰、坐。噲從良坐。

噲、盾を擁して直ちに入り、目を瞋(いから)して羽を視る。頭髪上指(じょうし)し、目眦(まなじり)尽く裂く。羽曰く、壮士なり、之に巵酒(ししゅ)を賜え、と。則ち斗巵酒を与う。之に彘肩(ていけん)を賜えと。則ち生彘肩なり。噲立って飲み、剣を抜き、肉を切って之を啗(くら)う。羽曰く、能(よ)く復た飲むか、と。噲曰く、臣、死すら且つ避けず。巵酒安(いずく)んぞ辞するに足らんや。沛公先づ秦を破って咸陽に入る。労苦して功高きこと此の如くなるに、未だ封爵の賞有らず。而も将軍、細人の説を聴き、有功の人を誅せんと欲す。此れ亡秦の続(ぞく)のみ。切(ひそ)かに将軍の為に取らざるなり、と。羽曰く坐せよ、と。噲、良に従って坐す。

十八史略  樊かい
2009-10-15 08:39:15 | Weblog
先ずお詫びを
前回の白文を読み返していたらとんでもないミスを発見しましたので訂正をいたします。
最初の行の終わりから四字目、則の前に句点 。を付けて下さい。次に最終行の、羽曰、坐のあと噲切爲將軍不取也。羽曰、坐。までが重複していました。
では通釈を・・

樊噲は盾を抱えたまま宴席に入り、目をつりあげて項羽を睨みつけた。頭髪は天を衝き、まなじりは裂けていた。項羽は壮士なり、大杯を与えよ、と言って一斗の酒を勧めた。項羽はまた豚の肩肉を与えよと言った。それで生の豚肉が出された。樊噲は立ったまま酒を飲み干し、剣を抜き肉をきって食った。項羽がまだ飲めるかと聞くと、樊噲は「私めは死ぬことさえもなんとも思っておりません、一杯の酒ぐらいなんで厭いましょう。恐れながら申し上げます、我が主人は真っ先に秦を破って咸陽に入りました、苦労をして大功をたてられたのに、まだ領地も爵位もありません。それどころか、小人の言葉を取り上げて、手柄のある人を殺そうとしておられます。これでは秦の二の舞でございます。ひそかに将軍のため思うのでございます」と申し上げた。項羽は「まあ坐れ」といった。樊噲は張良の次の席に坐った。

目眦 まなじり  斗巵酒 一斗(約一升)入る酒つぼ 彘肩(ていけん)彘は子豚

十八史略 唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず
2009-10-20 08:37:18 | Weblog
唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず

須臾沛公起如厠、因招噲出、行趨霸上。留良謝羽曰、沛公不勝桮勺、不能辭。
使臣良奉白璧一雙、再拝獻將軍足下、玉斗一雙、再拝奉亞父足下。羽曰沛公安在。良曰、聞將軍有意督過之、脱身獨去、已至軍矣。亞父抜劍、撞玉斗而破之曰、唉、豎子不足謀。奪將軍天下者、必沛公也。沛公至軍、立誅曹無傷。

須臾(しゅゆ)にして沛公起って厠(かわや)に如(ゆ)き、因(よ)って噲を招いて出で、間行して霸上に趨(はし)る。良を留めて羽に謝せしめて曰く、沛公桮勺(はいしゃく)に勝(た)えずして、辞すること能わず。臣良をして白璧一雙を奉じ、再拝して将軍の足下に献じ、玉斗一雙、再拝して亜父の足下に奉ぜしむ、と。羽曰く、沛公安(いづ)くに在る、と。良曰く、将軍、之を督過するに意有りと聞き、身を脱して独り去り、已に軍に至らん、と。亜父剣を抜き、玉斗を撞(つ)いて之を破って曰く、唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず。将軍の天下を奪わん者は必ず沛公ならん、と。
沛公、軍に至り、立ちどころに曹無傷を誅す。
10/20
間もなく沛公は席を起って便所に行き、樊噲を呼んで陣を抜け出し、密かに霸上に走った。張良を残して項羽にこう詫びを言わせた。「沛公は将軍のお相手も出来ず、暇乞いも出来ぬほど酔いまして、私めに、白璧一対を捧げて将軍の足下に献上し、玉斗一対は亜父閣下に献上せよと申しつけました」と。項羽が「沛公は今どこに居るのか」と糺すと、張良は答えて「沛公は将軍があくまで過失を糾明されるお気持ちがあると聞き、畏れて身を逃れて独り去りました。今頃は霸上の軍にたどりついているでしょう」と言った。亜父范は剣を抜き玉斗を突き砕いて「ああ 青二才め、ともに天下の大事業を為すには足らぬわ。天下を項羽将軍から奪い取るのはきっとあの沛公であろう」と、悔しがった。
一方、沛公は霸上に帰るとすぐさま曹無傷を誅殺した。

須臾 しばらくして  行 ひそかに行くこと  桮勺(はいしゃく) 杯と勺、さかずきのやりとり  亜父 父に亜(つぐ)者、范を尊敬して言う  督過 過失をとがめること  豎子 未熟者、項羽をさして言った。

十八史略 沐猴にして冠す
2009-10-22 09:10:48 | Weblog
沐猴にして冠す
居數日、羽引兵西、屠咸陽、殺降王子嬰、焼秦宮室。火三月不絶。掘始皇冢、収寳貨・婦女而東。秦民大失望。韓生説羽。關中阻山帶河、四塞之地肥饒。可都以覇。羽見秦殘破、且思東歸。曰、富貴不歸故郷、如衣繍夜行耳。韓生曰、人言、楚人沐猴而冠。果然。羽聞之烹韓生。

居(お)ること数日、羽、兵を引いて西し咸陽を屠(ほふ)り、降王子嬰(しえい)を殺し、秦の宮室を焼く。火三月(さんげつ)絶えず。始皇の冢(ちょう)を掘り。宝貨・婦女を収めて東す。秦の民大いに望みを失う。韓生(かんせい)、羽に説く。関中は山を阻(へだ)て河を帯び、四塞(しそく)の地にして肥饒(ひじょう)なり。都(みやこ)して以て覇たる可(べ)しと。羽、秦の残破(ざんぱ)せるを見、且つ東帰(とうき)を思う。曰く、富貴にして故郷に帰らざるは、繍(しゅう)を衣(き)て夜行くが如きのみ、と。韓生曰く、人言う、楚人(そひと)は沐猴(もくこう)にして冠すと。果して然(しか)り、と。羽、之を聞いて韓生を烹(に)る。

十八史略 沐猴にして冠す
2009-10-24 09:01:59 | Weblog
居ること数日で、項羽は兵を率いて西に進み、咸陽に攻め入って殺戮を行い、先に降伏した子嬰を殺して、秦の宮殿に火を放った。その火は三ヶ月も続いた。次に始皇帝の墓をあばいて、宝物、財貨を奪い、婦女を略奪して東に引きあげたので、秦の民は大いに失望した。韓生という者が、項羽に説いて言うには「関中は山によって隔てられ、河がその中を流れ、四方が塞って守り易く、農地はよく肥えています。ここを都として覇王になられるのが一番です」と。項羽は秦の宮殿の跡のありさまを見て、その気になれずそのうえ故郷に帰りたくなり、こう言った「富貴になって故郷に帰らないのは錦を着て夜出歩くようなものだ」と。韓生はある人に「楚人は猿が冠をつけているようなものだ、と世間では言っているが、全くその通りだ」と話した。項羽はこれを伝え聞いて韓生を煮殺した。

十八史略 項羽西楚の覇王となる
2009-10-27 09:20:04 | Weblog
巴・蜀も亦關中の地なり
羽使人致命懐王。王曰、如約。羽怒曰、懐王吾家所立耳。非有功伐。何得專主約。乃陽尊爲義帝、徙江南、都郴、分天下王諸將、羽自立爲西楚覇王。乃曰、巴蜀亦關中地。立沛公爲漢王、王巴・蜀・關中、而三分關中、王秦降將三人、以距塞漢路。漢王怒欲攻羽。蕭何諌曰、願大王、王漢中、養其民、以致賢人、収用巴・蜀、還定三秦。天下可圖也。王乃就國、以何爲丞相。

羽(う)、人をして命(めい)を懐王に致さしむ。王曰く、約の如くせよ、と。羽怒(いか)って曰く、懐王は吾が家の立つる所のみ。功伐(こうばつ)有るに非ず。何ぞ専(もっぱ)ら約を主とするを得ん、と。乃(すなわ)ち陽(あらわ)に尊(たっと)んで義帝と為し、江南に徒(うつ)して郴(ちん)に都(みやこ)せしめ、天下を分(わか)って諸将を王とし、羽は自立して西楚(せいそ)の覇王と為る。乃(すなわ)ち曰く、巴(は)蜀(しょく)も亦(また)関中の地なり、と。沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・関中に王たらしめ、而(しか)して関中を三分(さんぶん)して、秦の降将(こうしょう)三人を王とし、以て漢の路を距塞(きょそく)す。漢王怒って羽を攻めんと欲す。蕭何(しょうか)諌(いさ)めて曰く、願わくは大王、関中に王として、其の民を養い、以て賢人を致し、巴・蜀を収用し、還(かえ)って三秦を定めよ。天下図る可(べ)きなり、と。王乃(すなわ)ち国に就(つ)き、何(か)を以て丞相(じょうしょう)と為(な)せり

巴蜀も亦関中の地なり
2009-10-29 08:39:32 | Weblog
項羽は使いを懐王のもとに遣わして関中平定を復命させた。すると懐王は「最初の約束通りせよ」つまり沛公を関中の王とせよ、と言った。項羽は怒って「懐王はわが家でもり立ててやったのだ、べつに功績があった訳でないのに、どうして先の約束を通そうとするのか」と言った。そして、ことさら尊敬をした振りをして、義帝として江南の郴(ちん)に移して都とし、天下を分けて諸将を王に封じ、自ら立って西楚の覇王と名乗った。そこで巴・蜀も関中に違いない、と言って、沛公を漢王とし、巴・蜀・漢中の王とした。その上本来の関中は三分して秦の降将三人を王として、漢の路を妨げた。沛公(漢王)は怒って、項羽を攻めようとしたが、蕭何が諌めて言うには「どうか大王には、漢中に王として、民を養い、賢人を招いて、巴・蜀を完全に掌握して、その上で関中に戻って三秦を平定すれば、天下を奪うこともできます。漢王(沛公)は巴・蜀に赴き、蕭何を宰相に登用した。

十八史略 韓信と漂母
2009-10-31 09:03:45 | Weblog
韓信と漂母
漢元年、五星聚東井。
初淮陰韓信、家貧釣城下。有漂母。見信饑飯信。信曰、吾必厚報母。母怒曰大丈夫不能自食、吾哀王孫而進食。豈望報乎。
漢の元年、五星東井(とうせい)に聚(あつま)る。
初め淮陰(わいいん)の韓信、家貧しうして城下に釣す。漂母(ひょうぼ)あり。信の饑えたるを見て信に飯せしむ。信曰く、吾必ず厚く母(ぼ)に報いん、と。母怒って曰く、大丈夫自ら食うこと能わず。吾王孫を哀れんで食を進む。豈報を望まんや、と。

漢の元年に五惑星が東井の星座にあつまり漢の興る兆しがあらわれた。
それより以前、淮陰(わいいん)の韓信は家が貧しく城下で釣りをして、生活をしていた。たまたま布をさらしていた老婆がいたが、韓信のひもじそうな様子を見て、飯を与えた。韓信が「私が出世したらきっと恩返しをさせてもらいますよ」と言った。すると老婆はむっとして「大の男が、ろくに飯も食わずにいるから、見かねて食事をあげただけだよ、お礼などどうしてあてにするものかね」と言った。

五星 木星(歳星) 火星(熒惑) 土星(鎮星) 金星(太白) 水星(辰星)の五惑星。
東井 井は二十八宿の星座の一、方位は南に当たるのになぜ東がついているか不明。 漂母 川で布を晒している女性
韓信 蕭何、張良とともに漢の三傑。
王孫 本来は王侯の子孫、あえて尊称をつけたのは皮肉か。



十八史略 韓信胯をくぐる
2009-11-03 20:52:39 | Weblog
韓信の胯くぐり
淮陰屠中少年、有侮信者。因衆辱之曰、若雖長大好帶劔、中情怯耳。脳死刺我。不能出我胯下。信熟視之、俛出胯下蒲伏。一市人皆笑信怯。

淮陰の屠中の少年に、信を侮る者有り。衆に因(よ)って之を辱かしめて曰く、若(なんじ)、長大にして好んで剣を帯ぶと雖(いえど)も、中情は怯なるのみ。能く死せば我を刺せ。能(あた)わずんば我が胯下(こか)を出でよ、と。信、之を熟視し、俛(ふ)して胯下より出でて蒲伏(ほふく)す。一市の人、皆、信が怯(きょう)を笑う。
その後淮陰の場の若者で、韓信を見くびる者があった。仲間が多いのを嵩にかかって、恥をかかそうとこう言った。「お前さん、図体ばかりでかくて、剣なぞぶらさげているが本当は臆病者だろう、なんならこの俺を刺してみろよ、どうだ出来るか、出来なきゃおれの股の下をくぐれ」と。韓信はじっと若者を視ていたが、うつぶして股の下から腹ばい出た。町中の人は、韓信を嘲り笑った。
蒲伏 匍匐に同じ

十八史略 國士無雙Ⅰ
2009-11-05 09:23:33 | Weblog
蕭何、韓信を追う
項梁渡淮、信從之。又數以策干項羽。不用。亡歸漢、爲治粟都尉。數與蕭何話。何奇之。王至南鄭。將士皆謳歌思歸、多道亡。信度、何已數言、王不用。即亡去。何自追之。人曰、丞相何亡。王怒、如失左右手。

項梁淮(わい)を渡るとき、信、之に従う。又しばしば策を以て項羽に干(もと)む。用いられず。亡(に)げて漢に帰(き)し、治粟都尉(ちぞくとい)と為る。数々(しばしば) 蕭何と語る。何、之を奇とす。王、南鄭(なんてい)に至る。将士、皆謳歌して帰らんことを思い、多く道より亡(に)ぐ。信度(はか)るに、何(か)、已(すで)に数々(しばしば)言いしも、王用いざるなりと。即ち亡げ去る。何、自ら之を追う。人曰く、丞相何亡ぐ、と。王怒る、左右の手を失うが如し。

項梁が秦との戦で淮(わい)水を渡る時、韓信は従軍した。又たびたび項羽に献策したが用いられなかった。そこで逃げ出して漢王につき、糧食をつかさどる治粟都尉(ちぞくとい)という官に就いた。しばしば蕭何と語った。蕭何は韓信の非凡を知った。漢王は関中の都南鄭に赴任したが部下の将士たちは故郷をたたえる歌をうたい、帰りたいと多く逃げ去った。韓信は蕭何がたびたび自分を推挙しているのに漢王はとりたててくれないと、たちまち逃げ出した。蕭何は何とか引き止めようと自ら後を追った。ある人が丞相の蕭何までも逃げました、と王に告げた。漢王は怒った、と同時に両腕をもがれたかのように落胆した。

十八史略 国士無双2
2009-11-07 08:42:19 | Weblog
國士無雙2
何來謁。王罵曰、若亡何也。何曰、追韓信。王曰、諸將亡以十數。公無所追。追信詐也。何曰、諸將易得耳。信國士無雙。王必欲長王漢中、無所事信。必欲爭天下、非信無可與計事者。王曰、吾亦欲東耳。安能鬱鬱久居此乎。何曰、計必東、能用信。信即留。不然信終亡耳。

何(か)来たり謁す。王罵(ののし)って曰く、若(なんじ)、亡(に)げしは何ぞや、と。何曰く、韓信を追う、と。王曰く、諸将の亡ぐるもの十を数う。公追う所無し。信を追うとは詐(いつわ)りならん、と。何曰く、諸将は得易きのみ。信は国士無双なり。王必ず長く漢中に王たらんと欲せば、信を事とする所無し。必ず天下を爭わんと欲せば、信に非ずんば与に事を計る可き者無し、と。王曰く、吾も亦東せんと欲するのみ。安(いづ)くんぞ能(よ)く鬱鬱として久しく此(ここ)に居らん乎(や)と。何曰く、必ず東せんと計らば、能く信を用いよ。信即ち留まらん。然(しか)らずんば信終(つい)に亡げんのみ、と。

蕭何が帰って王に謁見すると、王が罵って言うに「お前までにげるとは何事か」と。蕭何は答えて「韓信を追ったのです」と言った。王は「将のにげたものは、何十人と居るのに、今まで一人も追いかけたことがない、なのに韓信だけを追うとは合点がゆかぬ、嘘であろう」と。蕭何は「他の将はいくらでも補充出来ますが、韓信は二人と得られぬ国士です、漢王がいつまでも漢中の王でいたいと思われるならば、韓信を引き留めることに苦心することはありませんが、是非にも天下を争おうとお考えなら、韓信でなければともに大事を計る者は居りません」王は「わしも東に向って、天下を争う心算でいる。だれがこんな所で鬱うつとしておられようか」何は「是非とも東に出ようとのお考えならば、心して韓信を重用することです。そうすれば信はここに留まりましょう、でなければ結局信は逃げてしまいますよ」と言った。

以十數 十の単位で数えることが出来る。つまり ン十人の意。
無所事信 事はコトトスと読み、努め励むこと。全てにレ点がつく。
非信無可與計事者 非②信①無⑧可⑥與③計⑤事④者⑦の順に読む

十八史略 韓信大将軍となる
2009-11-10 08:46:48 | Weblog
全国吟剣詩舞道大会が8日無事終了しました。今年は天気に恵まれ助かりました。
終了後広島の中村さんほかお客様をお迎えして懇親の席を設けました。とても楽しいひと時でしたが、少々しゃべり過ぎました、寡黙堂の看板を返上しなければと考えています。では十八史略のつづきです。

王曰、吾爲公以爲將。何曰、不留也。王曰、以爲大將。何曰、幸甚。王素慢無禮。拝大將如呼小児。此信所以去。乃設壇場、具禮。諸將皆喜、人人自以爲得大將。至拝乃韓信也。一軍皆驚。

王曰く、吾公の為に以て将と為さん、と。何曰く、留まらざるなり、と。以て大将と為さん、と。何曰く、幸甚なり。王素(もと)より慢(まん)にして礼無し。大将を拝すること小児を呼ぶが如し。此れ信の去る所以(ゆえん)なり、と。乃ち壇場を設け、礼を具(そな)う。諸将皆喜び、人々自から以為(おも)えらく、大将を得んと。拝するに至って乃ち韓信なり。一軍皆驚く。

漢王が言うに「貴公の顔を立てて韓信を将に取り立てよう」と。蕭何は「それでは留まらないでしょう」と答えた。王は「それでは大将にしよう」何は「それは幸いに存じます。ところで大王には平素から人を見下して、礼に欠けるところがございます。大将を任命されるにも子供を呼びつけるようですが、それこそ韓信が逃げ出す理由です」と。そこで王は大将軍任命の式場を設け、威儀を整えた。将軍達は皆喜び、各々自分こそ大将では、と内心思っていた。
いよいよ任命の段になって指名されたのは韓信だったので将軍達をはじめ一同大いに驚いた。

十八史略 韓信三王を滅ぼす
2009-11-12 13:31:04 | Weblog
中野の杉山公園は只今改修中です。残念なのはフェンスにつるを張っていた、テイカカズラと真っ赤な実をつけるヒヨドリジョウゴが抜かれてしまった事です。

王遂用信計、部署諸將、留蕭何、収巴・蜀租、給軍粮食。信引兵從故道出、襲雍王章邯。邯敗死。塞王司馬欣・翟王菫翳皆降。

王遂に信の計を用いて、諸将を部署し、蕭何を留めて巴・蜀の租(そ)を収め、軍の粮食(りょうしょく)を給せしむ。信、兵を引いて故道より出で、雍王章邯(ようおうしょうかん)を襲う。邯敗死す。塞王司馬欣(さいおうしばきん)・翟王菫翳(てきおうとうえい)皆降る

漢王は遂に韓信の計を用い、諸将をそれぞれ配置した。蕭何は関中に留めて、巴・蜀の租税を取り立て、軍の糧食の手当とした。韓信は兵を率いて故道県から打って出て雍王章邯を敗死させた。塞王司馬欣と翟王菫翳はともに降伏した。

雍王章邯・塞王司馬欣・翟王菫翳は秦の降将で漢の地を扼するため項羽が王にした三人(巴・蜀も亦関中なり参照)

十八史略 嗟乎、使平得宰天下
2009-11-17 09:09:50 | Weblog
漢二年、項籍弑義帝於江中。
初陽武人陳平、家貧、好讀書。里中の社、平爲宰、分肉甚均。父老曰、善、陳孺子之爲宰。平曰、嗟乎、使平得宰天下、亦如此肉矣。初事魏王咎、不用。去事項羽、得罪亡。因魏無知求見漢王。拝爲都尉參乘典護軍。

漢の二年、項籍、義帝を江中に弑す。
初め陽武の人陳平、家貧にして、書を読むことを好む。里中の社に、平、宰(さい)と為り、肉を分つこと甚だ均し。父老の曰く、善し、陳孺子の宰たること、と。平曰く、嗟乎(ああ)、平をして天下に宰たるを得しめば、亦此の肉の如くならん、と。
初め魏王咎(きゅう)に事(つか)えて、用いられず。去って項羽に事え、罪を得て亡(に)ぐ。魏無知に因(よ)って漢王に見(まみ)えんことを求む。拝して都尉参乗典護軍と為す。

漢の二年、項籍が義帝を揚子江で殺す。
さかのぼって、陽武の人で陳平というものが居た。家は貧しかったが書を読むのが好きだった。村の社の祭日に陳平が差配して、祭りの後の肉の分配に大変公平だったので、村の老人たちは「まことに善かった。陳君のきりもりは」と言うと、陳平が言うには「ああ、もし私に天下の切り盛りをさせてくれたなら、この肉のように公平に裁いてみせるのに」と。
初め陳平は魏王の咎につかえたが、用いられなかった。去って項羽につかえたが罪を犯して逃げ出した。魏無知の紹介によって漢王に謁見を求めた。漢王は都尉参乗典護軍に任じた。

十八史略 陳平
2009-11-19 09:02:55 | 十八史略
陳平
周勃言於王曰、平雖美如冠玉、其中未必有也。臣聞、平居家盗其嫂、事魏不容、亡歸楚、又不容、亡歸漢。今大王令護軍、受諸將金。願王察之。王讓魏無知。無知曰、臣所言者能也。大王所問者行也。今有尾生・孝己之行、而無成敗之數、大王何暇用之乎。王拝平護軍中尉、盡護諸將。諸將乃不敢復言。

周勃、王に言いて曰く、平は美なること冠玉の如しと雖も、其の中、未だ必ずしも有らざるなり。臣聞く、平、家に居っては其の嫂(あによめ)を盗み、魏に事(つか)えては容れられず、亡(に)げて楚に帰し、又容れられず、亡げて漢に帰すと。今、大王、軍を護(ご)せしめしに、諸将の金を受けたり。願わくは王之を察せよ、と。王、魏無知を讓(せ)む。無知の曰く、臣の言う所の者は能なり。大王の問う所の者は行いなり。今尾生(びせい)・孝己(こうき)の行い有りとも、成敗の数に益無くんば、大王何の暇(いとま)あってか之を用いんや、と。
王、平を護軍中尉に拝し、尽く諸将を護せしむ。諸将乃ち敢えて復言わず。

十八史略 陳平2
2009-11-21 09:48:19 | 十八史略
昨夜早く目覚めたのでNHKラジオをつけたら深夜便の歌が流れた。
いい歌だなーとしみじみ聞き入った、大川栄策の声で題名は「昭和ロマン第二章」と言っていました。 では前回の通釈です。

周勃が王に向って言うには「陳平は風采の立派なことは玉(ぎょく)で飾った冠のようですが、その中身は必ずしも伴っているとは言えません。私の聞くところでは陳平がまだ官につかず家にいるとき、あによめと関係をもち、魏に仕えて用いられず、逃げて楚に身を寄せたが容れられずして、また逃げてわが漢にたどり着いた、ということです。今、大王はこのような人物に軍を監督せられましたから、あやつは諸将から賄賂を受けています。どうかよくよくお考えください」と。そこで王は魏無知を責めた。無知が申すのに「私がお引き合わせしたのは、彼の能力を見ていただきたいのです。大王の問うところは品行のことです。今日、尾生や孝己のような立派な行いがあったとして、天下の帰趨になんらの益もなければ、大王にはどうしてそんな意見を用いられるいとまがおありでしょうか」と。
王は陳平を護軍中尉に任じて、すべて諸将を監督させた。そこでもう陳平のことを言う者が居なくなった。

護 もともと統率する、監督するの意がある。
譲む 譲はゆずる、の意の他に責める意味がある。
尾生 女と橋の下で逢う約束を守って、増水した川でおぼれたばか正直な男。
孝己 一夜に五度も親の安否を気づかったといわれる、殷の高宗の子。
拝 官を授ける、また授かるのどちらにも使う。ここでは前者。

十八詩略 徳に順うものは昌え、逆らうものは亡ぶ
2009-11-24 13:34:36 | 十八史略
大川栄策の昭和ロマン第二章は「昭和浪漫第二章」でした。

漢王至洛陽。新城三老菫公遮説曰、順徳者昌、逆者亡。兵出無名。事故不成。明其爲賊、敵乃可服。項羽無道、放弑其主。天下之賊也。夫仁不以勇、義不以力。大王宜率三軍之衆、爲之素服、以告諸侯而伐之。於是漢王爲義帝發喪、告諸侯曰、天下共立義帝。今項羽放弑之。寡人悉發關中兵、収三河之士、南浮江漢而下、願從諸侯王、撃楚之弑義帝者。

漢王、洛陽に至る。新城の三老菫公(とうこう)、遮(さえぎ)り説いて曰く、徳に順(したが)うものは昌(さか)え、徳に逆らう者は亡ぶ。兵、出づるに名無し。事、故に成らず。其の賊たるを明かにせば、敵乃ち服す可し。項羽無道にして、其の主を放弑(ほうし)す。天下の賊なり。夫(そ)れ仁は勇を以ってせず、義は力を以ってせず。大王宜しく三軍の衆を率い、之が為に素服し、以って諸侯に告げて之を伐つべし、と。是に於いて漢王、義帝の為に喪を発し、諸侯に告げて曰く、天下共に義帝を立つ。今、項羽之を放弑す。寡人悉く関中の兵を発し、三河(さんか)の士を収め、南のかた江漢に浮かんで下り、願わくは諸侯王に従い、楚の義帝を弑(しい)する者を撃たん、と。

十八史略
2009-11-26 08:32:31 | 十八史略
順徳者昌、逆者亡 通釈です
漢王はすでに、洛陽に至った。新城というところの三老の役をしていた菫(とう)なにがしという者が、道を遮り、漢王に説いて言うには「道徳に従って行動する者が栄え、道徳に逆らう者は亡びるものです。兵を出すのに名目が無ければ、事は成就しません。もし相手が逆賊であることを明らかにすれば、敵は屈服するものです。項羽は道徳にそむいて、主君である義帝を追放したうえ殺してしまいました。まさに天下の逆賊です。
そもそも仁を行うには勇は不用です、義を行うには力を必要としません。大王には宜しく三軍の兵を率いて、義帝のために喪服を着て、諸侯に項羽の非道を告げて、これを討伐されるべきです」と。
そこで漢王は義帝のために喪を発して諸侯に告げてこう言った「さきに諸侯相ともに義帝を立てて天子に戴いた。ところが項羽は義帝を追放して、殺してしまった。よって私は関中の兵を出し、河南、河東、河内の兵を集め、南方の江水、漢水を舟で下る、どうか諸侯、私に従って欲しい。義帝を殺した楚の賊を撃ち懲らしたいのだ」と。

三老 官名、その地の長老で教化をつかさどった。
三軍 周代の兵制で天子は六軍、諸侯の大国が三軍を出した。三万七千五百人の兵。
素服 白地の服、喪の時に用いた。

十八史略
2009-11-28 08:42:52 | 十八史略
漢王率五諸侯兵五十六萬、伐楚入彭城、収其寶貨・美人、置酒高會。項羽方撃齊。聞之、自以精兵三萬還撃漢、大破漢軍於睢水上。死者二十萬人。水爲之不流。圍漢王三匝。會大風從西北起、折木發屋、揚沙石、晝晦。王乃得與數十騎遁。審食其從太公・呂氏行、遇楚軍、爲楚所獲。常置軍中爲質。漢王至滎陽。諸敗軍皆會蕭何亦發關中老弱悉詣滎陽。漢軍復大振。

漢王、五諸侯の兵五十六萬を率い、楚を伐って彭城(ぼうじょう)に入り、其の宝貨・美人を収めて、置酒高会(ちしゅこうかい)す。項羽方(まさ)に齊を撃つ。之を聞き、自ら精兵三万を以(ひき)いて還って漢を撃ち、大いに漢軍を睢水(すいすい)の上(ほとり)に破る。死する者二十万人。水之が為に流れず。漢王を囲むこと三匝(そう)。会ゝ(たまたま)大風、西北より起こり、木を折り屋を発(あば)き、沙石を揚げ、昼晦(くら)し。王乃ち数十騎と遁(のが)るるを得たり。審食其(しんいき) 太公・呂氏に従って間行し、楚軍に遭い、楚の得る所と為る。常に軍中に置いて質(ち)と為す。漢王、滎陽(けいよう)に至る。諸敗軍皆会す。蕭何も亦関中の老弱を発し、悉(ことごと)く滎陽に詣(いた)らしむ。漢軍復た大いに振るう。


十八史略 死者二十万人水之が為に流れず
2009-12-01 08:57:02 | Weblog
漢王は、五諸侯の兵五十六萬を率いて楚をうって彭城に攻め入り、宝貨、美人を奪って酒宴を開いた。項羽はちょうど斉を攻めていた時で、急を聞きすぐさま自身で三万の選りすぐった兵を率いて戻り、漢軍を睢水のほとりに大敗させた。死者二十万人、その死体で睢水の流れも止まるほどであった。項羽は彭城の漢王を三重に取り囲んだ。おりしも大風が西北より吹き起こり、木を折り屋根を剥いで砂石を飛ばして昼にもかかわらず、あたりは暗くなった。天の助けとばかり漢王は数十騎の部下と逃げおおせた。審食其という者が漢王の父と夫人の呂氏の共をして、間道を抜けて逃げようとしたが、楚軍に遭って捕らえられてしまった。項羽は二人を常に陣中に置き人質とした。漢王が滎陽まで来たとき、ちりぢりになっていた部下達も集まった。そのうえ蕭何もまた関中の老人から年少者までも徴用して滎陽にかけつけた。漢軍は再び勢力を盛り返した。

五諸侯 常山王張耳・河南王申陽・韓王鄭昌・魏王豹・殷王邛(きょう)の五侯
置酒高会 置酒は酒宴さかもり、高会は盛大に会合する。
三匝 匝は取り巻く、三めぐり

十八史略 是れ口尚乳臭なり
2009-12-03 16:58:10 | 十八史略
蕭何守關中、立宗廟・社稷・縣邑、事便宜施行、計關中戸口、轉漕調兵、未嘗乏絶。
魏王豹叛。漢王遣韓信撃之。豹以柏直爲大將。王曰、是口尚乳臭。安能當韓信。信伏兵、從夏陽以木罌渡軍、襲安邑虜豹。信既定魏、請兵三萬人、願以北擧燕・趙、東撃齊、南絶楚糧道、西與大王會滎陽。王遣張耳與倶。

蕭何、関中を守り、宗廟・社稷・県邑を立て、事、便宜に施行して、関中の戸口を計り、転漕、兵を調し、未だ嘗て亡絶せず。
魏王豹叛す。漢王、韓信を遣わして之を撃たしむ。豹、柏直を以って大将と為す。王曰く、是れ口尚乳臭なり。安くんぞ能く韓信に当たらん、と。信、兵を伏せ、夏陽より木罌(ぼくおう)を以て軍を渡し、安邑を襲って豹を虜にす。信、既に魏を定め、兵三万人を請い、願わくは、以って北のかた、燕・趙を挙げ、東のかた、齊を撃ち、南のかた楚の糧道を絶ち、西のかた大王と滎陽に会せんという。王、張耳を遣わして與に倶にせしむ。

十八史略 是口尚乳臭
2009-12-08 15:54:53 | 十八史略
蕭何は、関中を守り、漢の宗廟を立て、社稷を祀り、県邑を整備して何事も適宜に施し、関中の戸数、人口を調べ、陸と舟から兵糧を運び、兵を調達して、未だかつて不足する事が無かった。
魏王豹がそむいた。王は韓信を派遣して撃たせた。魏王豹も柏直を大将に任命した。漢王が言うには「やつは、まだ乳臭い子供だ、なんで韓信に対抗出来ようか」と。韓信は兵を伏せ、夏陽より甕(かめ)を木に縛りつけて仮橋にし、安邑を急襲して豹を虜にした。韓信は間もなく魏を平定した。そして漢王に三万の兵を請うて「北は燕と趙とを攻め取り、東は齊を撃ち、南のかた楚の糧道を絶ち、西のかた大王と滎陽(けいよう)にお会いしたい」と申し出た。漢王は張耳を遣わして韓信とともに行かせた。

宗廟 先祖のみたまや  社稷 土地の神(社)と五穀の神(稷) 
転漕 転は車で運ぶこと、漕はふねで漕いで運ぶこと
木罌 罌は甕、多くの甕を木に括りつけて橋の代用にした。

十八史略 陳餘、奇計を用いず
2009-12-10 11:32:56 | 十八史略
三年、信・耳、以兵撃趙、聚兵井陘口。趙王歇及成安君陳餘禦之。李左車、謂餘曰、井陘之道、車不得方軌、騎不得成列。其勢糧食必在後。願得奇兵、從道絶其輜重。足下深溝高壘、勿與戰。彼前不得鬭、退不得還、野無所掠。不十日兩將之頭、可致麾下。
餘儒者、自稱義兵、不用奇計。信知之、大喜、乃敢下。

三年、信・耳、兵を以(ひき)いて趙を撃ち、兵を井陘口に聚(あつ)めんとす。趙王歇(あつ)及び成安君陳餘、之を禦(ふせ)ぐ。李左車餘に謂って曰く、井陘の道、車、軌(き)を方(なら)ぶるを得ず、騎、列を成すを得ず。其の勢い糧食必ず後ろに在らん。願わくは奇兵を得て、間道より其の輜重を絶たん。足下、溝を深くし塁を高くし、与(とも)に戦うこと勿れ。彼前(すす)んでは闘うを得ず、退いては還るを得ず、野には掠(かす)むる所無し。十日ならずして両将の頭(こうべ)、麾下に致すべし、と。
餘は儒者にして、自ら義兵と称し、奇計を用いず。信、間(かん)して之を知り、大いに喜び、乃ち敢えて下る。

十八史略 陳餘奇計を用いず
2009-12-12 10:21:47 | 十八史略
漢の三年に、韓信と張耳は兵をひきいて張を撃つことになり、兵を井陘口に集めようとした。趙では王の歇(あつ)と、臣の成安君陳餘が防禦についた。李左車という者が、陳餘に「井陘口への道は狭く、車は二台並んで通ることができません。騎馬も列になって進むことができません。そのため兵糧は軍の最後尾になるでしょう。そこでお願いですが、奇襲の兵をお借りして間道から、輜重の車列を分断しましょう。あなたさまは濠を深く、城壁を高くして、敵と戦ってはなりません。漢軍はついに進んで戦うこともできず、退却することも出来ず、野には冬とて掠奪する物もありません。十日と経たないうちに韓信と張耳の首をお旗本に届けることが出来ましょう」と。
ところが陳餘はもともと儒者で自から正義の兵といい、不意を撃つ計を用いなかった。韓信は間者を放ってこれを知り、大いに喜んで、井陘口から趙へと下った。

十八史略 背水の陣(二)
2009-12-15 12:04:59 | Weblog
背水の陣(一)
未至井陘口止、夜半傳發輕騎二千人、人持赤幟、從道望趙軍。戒曰、趙見我走、必空壁遂我。若疾入趙壁、抜趙幟、立漢軍赤幟。乃使萬人先背水陣。平旦建大將旗鼓、鼓行出井陘口。趙開壁撃之。戰良久。信・耳佯棄鼓旗、走水上軍。趙果空壁遂之。水上軍皆殊死戰。

未だ井陘口に至らずして止まり、夜半に軽騎二千人を伝発(でんぱつ)し、人ごとに赤幟(し)を持ち、間道より趙の軍を望ましむ。戒(いまし)めて曰く、趙、我が走るを見ば、必ず壁(へき)を空しうして我を遂(お)わん。若(なんじ)、疾(と)く趙の壁に入り、趙の幟を抜いて、漢の赤幟を立てよ、と。乃(すなわ)ち万人をして先ず水を背にして陣せしむ。平旦、大将の旗鼓を建て、鼓行(ここう)して井陘口を出づ。趙壁を開いて之を撃つ。戦うこと良ゝ(やや)久し。信・耳佯(いつわ)って鼓旗を棄てて、水上の軍に走る。趙、果して壁を空(むな)しうして之を遂う。水上の軍、皆殊死して戦う。

韓信はまだ井陘口に着く前に軍を止めて、夜中に軽装の騎兵二千人をつぎつぎに出発させ、めいめいに漢の赤い旗印をもたせて、間道より趙の軍を見張らせた。そのとき特に「趙はわが軍が退却するのを見たら、きっと城壁を空にして追撃するに違いない、その時がきたらお前たちは素早く趙の城内に入り、趙の旗を抜いて、漢の赤旗を並べ立てよ」と策を授けた。そしてまず、一万人の兵を出して川を背にして陣を張った。その余の兵は夜明けを期に大将の旗を押し立て、太鼓の音とともに井陘口を出発した。趙は城門を開いて迎え撃った。ややしばし戦った後、韓信と張耳は偽って鼓や旗を捨てて川の辺の自陣に向かって敗走した。趙は案に違わず城壁を空にして追撃に移る。川べりの軍は川を背にして皆決死の覚悟で戦った。

平旦 夜明け  殊死 決死  鼓行 攻め太鼓を鳴らして進軍すること
佯 見せかける、ふりをする

十八史略 背水の陣(二)
2009-12-17 12:50:51 | 十八史略
陥之死地而後生
趙軍已失信等歸壁、見赤幟大驚、遂亂遁走。漢軍挟撃大破之、斬陳餘、禽趙歇。諸將賀。因問曰、兵法右倍山陵、前左水澤。今背水而勝何也。信曰、兵法不曰陥之死地而後生、置之亡地而後存乎。諸將皆服。信募得李左車、解縛師事之。用其策、遣辯士奉書於燕。燕從風而靡。

趙の軍已(すで)に信等を失って壁に帰り、赤幟(せきし)を見て大いに驚き、遂に乱れて遁(のが)れ走る。漢軍挟撃して大いに之を破り、陳餘を斬り、趙歇(あつ)を禽(とりこ)にす。諸将賀す。因(よ)って問うて曰く、兵法に山陵を右にし倍(そむ)き、水沢を前にし左にすと。今、水を背にして勝ちしは何ぞや、と。信曰く、兵法に之を死地に陥れて而して後に生き、之を亡地に置いて而して後に存すと曰わずや、と。諸将皆服す。信、李左車を募り得て、縛を解いて之に師事す。其の策を用い、弁士を遣わして書を燕に奉ぜしむ。燕、風に従って靡く。

趙の軍はすでに韓信等を取り逃がして、城壁に帰ろうとすると、敵の赤旗が立っているのを見て大いに驚き、遂に混乱して逃げ走った。漢軍はこれを挟み撃ちにして大いに破り、陳餘を斬り、趙歇を生け捕りにした。諸将は韓信に祝いをのべて、そして問うた、「兵法に、山や丘は右か背にし、川は前か左にして陣を敷く、とありますが、この度川を後ろにして勝ったのは何故ですか」と。韓信は答えた「兵法に、これを必ず死地に陥れるとかえって生きるものであり、これを必ず亡びる地に置けばかえって存するものだとあるではないか」と。将たちは皆感服した。
韓信は李左車を懸賞をかけて探し出し、縄を解いてこれに師として事(つか)えた。そして李の策に拠って、弁舌の巧みな者に書を持たせ燕王に奉じた。燕は韓の威風に従って服した。

倍 背に同じ、背にする

十八史略 黥布
2009-12-19 08:47:28 | 十八史略
随何、説九江王黥布、畔楚歸漢。既至。漢王方踞床洗足。召布入見。布悔怒、欲自殺。及出就舎、帳御・食飮・從官、皆如漢王居。又大喜過望。

随何(ずいか)、九江王黥布(げいふ)に説き、楚に畔(そむ)いて漢に帰(き)せしむ。既に至る。漢王方(まさ)に床(しょう)に踞(きょ)して足を洗う。布を召し入って見(まみ)えしむ。布、悔(く)い怒って自殺せんと欲す。出でて舎に就くに及び、帳御・食飮・従官、皆漢王の居の如し。又大いに望みに過ぎたるを喜べり。

随何が九江王黥布に説いて、楚に叛いて漢につかせようとした。黥布が来たとき漢王は床几に腰掛けて足を洗っていた。だがそのまま黥布を引き入れて会見させたので、布は王の無礼な態度に来たことを後悔し怒って自殺しようと思った。ところが思いとどまって宿舎に入ってみると、部屋のとばり、調度、食事の献立から部屋付きの役人までみな漢王の住まいと同様だったので、思った以上の厚遇に大いに喜んだ。

黥布 本名英布、項羽に従って転戦し九江王となった。罪を得て黥(いれずみ)の刑を負ったので。
畔 あぜ、くろ、のほかにそむくの意味がある。=叛、反

十八史略 豎儒幾ど乃公の事を敗らんとす
2009-12-22 16:12:58 | 十八史略
酈食其説漢王、立六國後。王曰、趣刻印。張良來謁。王方食。具告良。良曰、請借前箸、爲大王籌之。遂發八難。其七曰、天下游士、離親戚、棄墳墓、從大王游者、徒欲望尺寸之地。今復立六國後、游士各歸事其主。大王誰與取天下乎。且楚惟無彊。六國復撓而從之、大王焉得而臣之乎。誠用客謀、大事去矣。漢王輟食吐哺、罵曰、豎儒幾敗乃公事。令趣銷印。

酈食其(れいいき)漢王に説く、六国(りっこく)の後を立てんと。王曰く、趣(すみや)かに印を刻せよ、と。張良来たり謁す。王方(まさ)に食す。具(つぶさ)に良に告ぐ。良曰く、請う、前箸(ぜんちょ)を借りて、大王の為に之を籌せん、と。遂に八難を発す。其の七に曰く、天下の游士、親戚を離れ、墳墓を棄てて、大王に従い游ぶ者は、徒(いたずら)に尺寸(せきすん)の地を望まんと欲す。今復六国の後を立てば、游士各ゝ帰って其の主に事(つか)えん。大王誰と与に天下を取らんや。且つ楚より惟(こ)れ彊(つよ)きは無し。六国復撓(たわ)んで之に従わば、大王焉(いず)くんぞ得て之を臣とせんや。誠に客の謀(はかりごと)を用いなば、大事去らん、と。漢王、食を輟(や)めて哺を吐き、罵って曰く、豎儒(じゅじゅ)、幾(ほとん)ど乃公(だいこう)の事を敗らんとす、と。趣かに印を銷(しょう)せしむ

十八史略 ほとんど乃公の事を敗らんとす
2009-12-24 17:17:48 | 十八史略
通釈文 
酈食其は漢王に六国の跡目を立てて諸侯にするよう説くと、漢王は「ではすぐに印章を作らせよ。」と言った。張良が来て王に謁した。王は食事中であったが、委細を張良に話した。張良は「お手近の箸をお借りして大王の為にはかりごとを献じましょう」と言って八つの懸案を提示した。その七番目には「今、天下の遊説の士が親戚と別れ、先祖のまつりを置いて大王に従っているのは、ただただ、僅かな土地を望んでいるからでございます。今また六国の跡目を立てれば、遊説者たちは帰ってその諸侯に仕えるでしょう。そうなったら大王は誰と組んで天下を取るおつもりですか。その上、今楚より強い国はありません。六国がまた屈服して楚に従ったら、大王はどうやって臣従させることが出来ましょう。この客人のはかりごとを用いたならば大王の大事も潰(つい)えることになりましょう」漢王は食事を止め、口中の食物を吐き出して、「くされ儒者めがあやうくわしの大事業を潰すところであったわい」と罵って六国の印を鋳潰させた。

六国 楚・韓・魏・燕・趙・齊。 趣 おもむき のほかに、すみやかにの意味がある。籌 はかりごと  輟食てつしょく 食事を途中で止める 
乃公 乃はなんじ、公は君、汝の君主とは、臣下にむかって自分のことを尊大に言う。乃公出でずんば(このおれさまが出ないで、他の誰にできようか)

十八史略 骸骨を請う
2009-12-26 08:48:27 | 十八史略
骸骨を請う
楚圍漢王於滎陽。漢王謂陳平曰、天下紛々。何時定乎。平曰、項王骨鯁之臣、亜父輩數人耳。行以疑其心、破楚必矣。王與平黄金四萬斤、不問其出入。平多縦反。羽大疑亜父。請骸骨歸。疽發背死。

楚、漢王を滎陽(けいよう)に囲む。漢王、陳平に謂って曰く、天下紛々たり、何れの時か定まらん、と。平曰く、項王骨鯁(こっこう)の臣、亜父の輩数人耳(のみ)。間を行うて以て其の心を疑わしめば、楚を破ること必(ひっ)せり、と。王、平に黄金四萬斤を与え、其の出入を問わず。平、多く反間を縦(はな)つ。羽、大いに亜父を疑う。骸骨を請うて帰る。疽背に発して死す。

楚が漢王を滎陽に囲んだ。漢王は陳平に「天下乱れて紛々、いつになったら平定するのだろうか」と言った。陳平は答えた「項羽の剛毅直言の臣は亜父范増たち数人に過ぎません。間者を放って彼等の間で疑心を起こさせたら、楚を破ること必定でございます」と。漢王は陳平に黄金四万斤を与えて、その出入りを問わなかった。平は多くの間者を放ったので、項羽は大いに范増を疑った。范増は暇を請い国に帰ったが腫れ物が背中にできて死んだ。

骨鯁の臣 直言の臣、鯁は骨が喉につかえることから君主の機嫌をそこねることを敢えて進言する臣。
骸骨を請う 主君に辞職を願う 仕官して捧げたわが身の残骸を乞い受ける

十八史略 紀信、楚をあざむく
2009-12-29 11:04:09 | 十八史略
紀信、楚をあざむく
楚圍漢王急。紀信曰、事急矣。請誑楚。乃乗漢王車、出東門。曰、食盡漢王出降。楚人皆之城東観。漢王乃得出西門去。項羽焼殺紀信。

楚、漢王を囲むこと益々急なり。紀信曰く、事急なり、請う楚を誑(あざむ)かんと。乃ち漢王の車に乗り、東門より出づ。曰く、食尽き漢王出で降る、と。楚人、皆城東に之(ゆ)いて観る。漢王乃ち西門より出でて去ることを得たり。項羽、紀信を焼殺す。

楚は一層厳しく漢王を取り囲んだ。紀信が漢王に「事は差し迫っております、ここはひとつ楚軍をだましてやりましょう」と申し出て、漢王の車に乗って滎陽城の東門から出て、「食糧が尽きたから降伏する」と呼ばわった。楚軍は東門につめかけて見物した。その隙に漢王はまんまと西門から脱出した。怒った項羽は紀信を焼き殺した。


十八史略 王、韓信の兵を奪う
2010-01-05 08:36:14 | 十八史略
新年おめでとうございます。
今年も多難な一年となることが予想されますが、2200年ほど前の中国では変わらぬ戦乱の世はつづきます。

漢王軍成皐。羽圍之。王逃去、北渡河、晨入趙壁、奪韓信軍、令信収趙兵撃齊。
酈食其説王、収滎陽、據敖倉粟、塞成皐之險。王從之。


漢王成皐(せいこう)に軍す。羽之を囲む。王逃れ去り、北のかた河を渡り、晨(あした)に趙の壁に入り、韓信の軍を奪い、信をして趙兵を収めて齊を撃たしむ。
酈食其(れいいき)王に説き、滎陽(けいよう)を収め、敖倉(ごうそう)の粟(ぞく)に據(よ)って成皐の険を塞(ふさ)がんとす。王之に従う。

漢王は成皐に布陣した。項羽がこれを囲んだので漢王は逃げて北の黄河を渡り、早朝趙の城内に入り、そこに陣を布いていた韓信の兵を手中にし、韓信には趙の兵を集めて斉を攻撃させた。
酈食其が王に説いて、滎陽城を手に入れて、敖倉山の食糧に頼って、成皐の要所を固めようと言った。王はこの説に従った。

韓信の兵を奪い 漢王といえども兵符が無ければ兵を自由にできなかったので、早朝、韓信の眠っているうちに兵符を奪った。

十八史略 一豎儒の功に如(し)かざるか
2010-01-07 17:43:23 | 十八史略
酈食其爲漢王、説齊王下之。蒯徹説韓信曰、將軍撃齊。而漢獨發使下之。寧有詔止將軍止乎。酈生伏軾、掉三寸舌、下七十余城。將軍爲將數歳、反不如一豎儒之功乎。
四年.信襲破齊。齊王烹食其而走。

酈食其(れきいき)漢王の為に、斉王に説いて之を下す。
蒯徹(かいてつ)、韓信に説いて曰く、将軍斉を撃つ。而(しか)るに漢独り間使を発して之を下せり。寧ろ詔(みことのり)有って将軍を止めしか。酈生(れきせい)軾に伏して三寸の舌を掉(ふる)い、七十余城を下せり。将軍、将たること数歳、反(かえ)って一豎儒(じゅじゅ)の功に如(し)かざるか、と。
四年、信襲うて斉を破る。斉王、食其(いき)を烹(に)て走る。

酈食其は漢王の為に、斉王に説いて降伏させた。
蒯徹という者が韓信に説いて言った。「将軍が斉を攻撃しようとしておられるのに、漢王は密使を送って降伏させてしまいました。それより何より漢王から将軍に、止まるようにと詔勅がありましたか?あの酈食其は車の横木に寄りかかったままで舌先三寸、斉の七十余城を降しました。将軍は将として数年、一介の青二才儒者に及ばないのでしょうか」と。
四年、韓信は斉を急襲して撃ち破った。斉王は酈食其を煮殺して逃げた

十八史略 我に一杯の羹を分かて
2010-01-09 11:04:30 | 十八史略
漢與楚皆軍廣武。羽爲高俎、置太公其上、告漢王曰、不急下、吾烹太公。王曰、吾與若倶北面事懐王、約爲兄弟。吾翁即若翁。必欲烹而翁、幸分我一杯羹。
羽願與王挑戰。王曰、吾寧鬭智。不鬭力。因數羽十罪。羽大怒、伏弩射王傷胸。

漢と楚皆広武に軍す。羽、高俎(こうそ)を為(つく)り、其の上に太公を置き、漢王に告げて曰く、急に下らずんば、吾太公を烹(に)ん、と。王曰く、吾と若(なんじ)と倶(とも)に北面して懐王に事(つか)え、約して兄弟(けいてい)と為る。吾が翁は即ち若(なんじ)が翁なり。必ず而が翁を烹(に)んと欲せば、幸いに我に一杯の羹(あつもの)を分かて、と。
羽、王と挑戦せんと願う。王曰く、吾寧ろ智を闘わさん。力を闘わさず、と。因(よ)って羽の十罪を数う。羽、大いに怒り、弩を伏せ王を射て胸を傷つく。

漢と楚の軍はみな広武に布陣していた。項羽は高い俎板をつくり、かねて捕えていた漢王の父の太公をその上に据え、漢王に言った「急いで降参しなければ、釜茹でにするぞ」と。漢王は「私とお前とはともに北面して懐王に仕え、約束して兄弟になった。私の父はすなわちお前の父だ、是非にもお前の父を煮るというなら、一杯の肉汁を分けて貰いたいものだ」とやりかえした。
つぎに項羽は、漢王と一騎打ちをしかけたが、王は「私は、智恵比べなら応ずるが、力比べはごめん被る」と答えた。そのうえで項羽の十か条の罪状を数え上げた。項羽は怒って、いしゆみを密かに射かけ漢王の胸を傷つけた。

幸い我に一杯の・・ 幸 ねがうの意

十八史略 韓信龍且を破る
2010-01-12 09:20:01 | 十八史略
韓信、濰水を決壊す
楚使龍且救齊。龍且曰、韓信易與耳。寄食於漂母、無資身之策、受辱於股下、無兼人之勇。進與信夾濰水而陣。信夜使人嚢沙壅水上流、旦渡撃且、佯敗還走。且追之。信使決水。且軍大半不得渡。急撃殺且

楚、龍且(りょうしょ)をして斉を救わしむ。龍且曰く、韓信与(くみ)し易きのみ。漂母に寄食して、身を資(たす)くるの策無く、辱めを股下に受けて、人に兼ぬるの勇無し、と。進んで濰水(いすい)を夾(はさ)んで陣す。信、夜人をして沙を嚢(ふくろ)にして水の上流を壅(ふさ)がしめ、旦(あした)に渡って且を撃ち、佯(いつわ)り敗れて還り走る。且、之を追う。信、水を決せしむ。且の軍大半渡るを得ず。急に撃って且を殺す。

楚の項羽は龍且を将として斉を救わせた。龍且は言った「韓信は恐れるに足りません。洗濯ばあさんに食わせて貰って身を立てる術もなく、人の股をくぐる恥を受けても平気で、人にすぐれた勇気も持ち合わせていない」と。進んで濰水を挟んで韓信と対陣した。韓信は夜ひそかに人をやって砂を袋に入れて上流を堰きとめさせ、翌早朝、川を渡って龍且を撃ち、負けた振りをして逃げた。龍且はそれとは知らず追撃する。韓信が堰を切ったので、龍且の軍勢は大半が渡ることが出来ない。そこを急襲して龍且を討ち取った。

人に兼ぬるの勇 人に勝る勇気

十八史略 韓信仮に齊王たらんとす
2010-01-14 09:32:06 | 十八史略
信使人言之漢王,請爲請假王以鎮齊。漢王大怒罵之。張良・陳平躡足附耳語。王悟、復罵曰、大丈夫、定諸侯、即爲眞王耳。何以假爲。遣印立信爲齊王。

信、人をして之を漢王に言わしめ、仮王と為り以て斉を鎮せんと請う。漢王大いに怒って之を罵る。張良・陳平、足を躡(ふ)み、耳に附けて語る。王悟り、復た罵って曰く、大丈夫、諸侯を定めば即ち真王たらんのみ。何ぞ仮を以て為さん、と。印を遣わし、信を立てて斉王と為す。

韓信は使者を遣わして、戦勝を伝え、なお自分が仮に斉王となって斉の地を安堵したい旨請うた。漢王は大いに怒って罵った。張良と陳平とが韓信を敵にすることを恐れ、王の足を踏んで、耳に口を寄せて許してやりなさいと囁いたので、漢王はハッと気がつき、また罵って言った。「大丈夫たる者が、諸侯を平定したら真の王になるだけのことではないか、仮になどと言うことはない」と。早速印章を遣わして斉王に立てた。

十八史略 韓信節を枉げず
2010-01-16 13:06:04 | Weblog
項羽聞龍且死聽大懼、使武渉説信、欲與連和三分天下。信曰、漢王授我上將軍印、解衣衣我、推食食我。言聽計用。我倍之不祥。雖死不易。蒯徹亦説信。信不聽。
漢立黥布、爲淮南王。

項羽、龍且死すと聞いて大いに懼(おそ)れ、武渉をして信に説かしめ、與に連和(れんわ)して天下を三分せんと欲す。信曰く、漢王、我に上将軍の印を授け、衣を解いて我に衣(き)せ、食を推(お)して我に食(は)ましむ。言聴かれ、計(はかりごと)用いらる。我之に倍(そむ)くは不祥(ふしょう)なり。死すと雖も易(か)えじ、と。蒯徹(かいてつ)も亦信に説く。信聴かず。
漢、黥布を立てて淮南王(わいなんおう)と為す。

項羽は、龍且が死んだと聞いて大いに恐れ、武渉をさしむけて韓信を説き、共に連帯和睦して、項羽と、漢王劉邦、韓信で三分しようと持ちかけた。韓信は言った「漢王は私に上将軍の印綬を授けてくだされ、自身の着物を私に着せ、自分の食物を推してよこして私に食べさせてくれた、私の言は聴き入れられ、私の計略は何でも用いられます。これに叛くのは天に叛くも同じ、死んでも考えは変えません」と。蒯徹も同じく説得を試みたが、韓信は聴かなかった。
漢王はこの年、黥布を立てて淮南王にした。


十八史略 虎を養うて患を遺す
2010-01-19 21:29:46 | 十八史略
養虎自遺患也
項王少助食盡。韓信又進兵撃之。羽乃與漢約、中分天下、鴻溝以西爲漢、以東爲楚。歸太公・呂后、解而東歸。漢王亦欲西歸。張良・陳平曰、漢有天下大半。楚兵饑疲。今釋不撃、此養虎自遺患也。王從之。

項王、助け少なく、食尽く。韓信、又兵を進めて之を撃つ。羽、乃ち漢と約す、天下を中分し、鴻溝(こうこう)以西を漢と為し、以東を楚と為さんと。太公・呂后を帰し、解いて東に帰る。漢王も亦西に帰らんと欲す。張良・陳平曰く、漢天下の大半を有(たも)つ。楚の兵飢疲す。今釈(ゆる)して撃たずんば、此れ虎を養うて自ら患(うれ)いを遺(のこ)すなり、と。王、之に従う。

項王は援兵少なく食糧も尽きてきた。さらに韓信もまた兵を進めてこれを攻めた。項羽はしかたなく漢と約束して鴻溝で二分し、西方を漢の領土とし東を楚の領土とした。そして人質にしていた太公と呂后を帰して、戦闘態勢を解いて東に帰った。漢王もまた西に帰還しようとしたところ、張良と陳平が止めて言った。「漢は天下の大半を領有しており、楚の兵は飢え疲れはてています。ここでこのままゆるして撃たなければ、虎を育てて患いを遺すというものです」と。漢王はこの進言に従った。

十八史略 四面楚歌
2010-01-21 15:39:41 | Weblog
四面皆楚歌
五年、王追羽至固陵。韓信・彭越期不至。張良勸王、以楚地・梁地許兩人。王從之。皆引兵來。黥布亦會。羽至垓下。兵少食盡。信等乘之。羽敗入壁。圍之數重。羽夜聞漢軍四面皆楚歌、大驚曰、漢皆已得楚乎。何楚人多也。

五年、王、羽を追うて固陵(こりょう)に至る。韓信・彭越(ほうえつ)期して至らず。張良、王に勧めて、楚の地・梁の地を両人に許さしむ。王之に従う。皆兵を引いて来る。黥布も亦会(かい)す。羽垓下(がいか)に至る。兵少なく食尽く。信等之に乗ず。羽敗れて壁に入る。之を囲むこと数重。羽、夜、漢の軍四面皆楚歌するを聞き、大いに驚いて曰く、漢皆すでに楚を得たるか。何ぞ楚人(そひと)の多きや。

漢の五年(紀元前202年)漢王は項羽を追撃して固陵(河南省)まで来た。ところが韓信と彭越は約束を違えて参陣しない。張良は漢王に、楚の地・梁の地を二人に分け与えるよう勧めたところ、兵を率いて来た。黥布もまた参集した。項羽は垓下(安徽省)まで退いた。兵は少なく食糧も底を尽いた。韓信たちはそれに乗じて攻め立てた。項羽は敗れて城壁内にたてこもり、漢軍はこれを幾重にも包囲した。夜、四方から楚の歌が流れてくるのを聞き、驚いて言った「漢はもう楚の国をすっかり手にいれてしまったのか、なんと楚の兵の多く混じっていることよ」と。

十八史略 虞や虞や若を奈何せん
2010-01-23 11:28:53 | 十八史略
虞や虞や若を奈何せん
起飮帳中、命虞美人起舞。悲歌慷慨泣數行下。其歌曰、力抜山兮氣蓋世。時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何。虞兮虞兮奈若何。騅者羽平日所乘駿馬也。左右皆泣、莫敢仰視。

起って帳中に飲し、虞美人に命じて起って舞わしむ。悲歌慷慨、泣(なみだ)数行下る。その歌に曰く、
力山を抜き、気は世を蓋う。
時、利あらず 騅(すい)逝かず
騅逝かざるを奈何(いかん)せん 
虞や虞や若(なんじ)を奈何せん
騅とは羽が平日乗るところの駿馬なり。左右皆泣き、敢えて仰ぎ視るもの莫(な)し。

やがて立ち上がって陣中のとばりの中で酒を酌み交わし、虞美人に舞わせた。歌は悲壮に、嘆きは増して、さすがの項羽も涙が幾筋も頬をつたわった。その歌は、
力は山をも引き抜き、気概は天下をも蓋う
天の時は味方せず、愛馬の騅も前に進まぬ
騅の進まぬをいかんせん ああそれよりも
虞よ虞よなんじをいかんせん
左右の臣は皆泣き、項羽の顔を仰ぎ視る者は誰一人居なかった。

兮 調子を整えるために置く助字 音はケイ
奈何 如何におなじ
虞美人 項羽の愛妾、ひなげしにその名をとどめる

十八史略 此れ天我を亡ぼすなり
2010-01-26 17:51:07 | 十八史略
今年に入ってどうも体調が芳しくない。予定を早めて女子医大の南先生に診てもらうことにした。

羽乃夜從八百餘騎、潰圍南出、渡淮、迷失道、陥大澤中。漢追及之。至東城。乃有二十八騎。羽謂其騎曰、吾起兵八歳、七十餘戰、未嘗敗也。今卒困此。此天亡我。非戰之罪。今日固決死。願爲諸君決戰、必潰圍斬將、令諸君知之。皆如其言。於是欲東渡烏江。

羽乃(すなわ)ち世八百余騎を従え、囲みを潰(ついや)して南に出で、淮(わい)を渡り、迷うて道を失い、大沢(だいたく)の中に陥る。漢追うて之に及ぶ。東城に至る。乃ち二十八騎有り。羽、その騎に謂って曰く、吾、兵を起こしてより八歳、七十余戦、未だ嘗て破れざるなり。今卒(つい)に此に困しむ。此れ天我を亡ぼすなり。戦いの罪に非ず。今日固(もと)より死を決す。願わくは諸君の為に決戦し、必ず囲みを潰(ついや)し将を斬り、諸君をして之を知らしめんと。皆其の言の如くす。是に於いて東のかた烏江を渡らんと欲す。

項羽は夜になるや八百余騎を従えて、敵の包囲を突き破って南に逃れたが、淮水を渡ったところで道に迷い、湿地帯に踏み込んでしまった。漢軍に追いつかれ、また逃げ延びて東城(安徽省の地名)にたどりついたときは、二十八騎になっていた。羽は彼等に向って「わしは兵を挙げて八年、七十余たび戦ったが敗れたことがなかった。今ここで追い詰められてしまったのは、天がわしを亡ぼすのであって、戦の上手下手ではない。もちろん今日生き残れるはずもないが、諸君の目の前で決戦して囲みを破って、敵将を斬りその証をたてたいと思う」と。そしてすべてその通りやってのけた。こうして項羽は東にのがれ烏江を渡ろうとした

十八史略 我何の面目あって復た見ん
2010-01-28 15:29:41 | 十八史略
亭長艤船待。曰、江東雖小、亦足以王。願急渡。羽曰、藉與江東子弟八千人、渡江而西。今無一人還。縱江東父兄、憐而王我、我何面目復見。獨不愧於心乎。乃刎而死。

亭長船を艤(ぎ)して待つ。曰く、江東、小なりと雖も、亦以て王たるに足る。願わくは急に渡れと。羽曰く、籍、江東の子弟八千人と、江を渡って西す。今一人の還るもの無し。縦(たとい)江東の父兄、憐れんで我を王とすとも、我、何の面目あって復見ん。独り心に愧(は)ぢざらんや、と。乃ち刎(くびは)ねて死す。

烏江の亭長が船出の用意を整えて待っていた。そして「江東は小なりとはいえ、それでも王として治めるには充分です。どうか急いで渡ってください」と言った。項羽はハッと気付き「わしはかつて江東の子弟八千と共に、この長江を渡って西に向ったが、今一人として連れ還るものもない。たとい父兄がわしに同情して王にしてくれてもなんの面目あって顔を合わすことができよう。わしとて心に羞じずにおられようか」と自ら首をかき切って死んだ。


十八史略 漢の高祖
2010-02-02 09:20:31 | 十八史略
楚地悉定。獨魯不下。王欲屠之。至城下、猶聞絃踊之聲。爲其守禮義之國、爲主死節、持羽頭示之。乃降。王還、馳入齊王信壁、奪其軍、立信爲楚王、彭越爲梁王。漢王即皇帝位。

楚の地悉(ことごと)く定まる。独り魯のみ下らず。王之を屠(ほふ)らんと欲し、城下に至れば猶絃踊(げんしょう)の声を聞く。其の礼義を守るの国にして、主の為に節に死するが為に、羽の頭を持して之に示す。乃(すなわ)ち降る。王還り、馳せて齊王信の壁に入り、其の軍を奪い、信を立てて楚王と為し、彭越(ほうえつ)を梁王と為す。漢王、皇帝の位に即(つ)く

かくして楚の地はすべて平定したが、ただ魯だけが降らない。漢王は根絶やしにしようと城下にせまると、城内からは楽器にあわせて詩を歌う声が聞こえてくる。漢王は、魯が礼節を守る国で、旧主項羽へ忠節をたてて死ぬ覚悟と見たので、項羽の首を持ってきて魯の人々に示した。それでようやく降伏した。漢王は軍を返し急遽斉王韓信の城壁に入ってその軍隊を自分のものにした。やがて韓信を楚王にし、彭越を梁王にした。そして漢王は皇帝の位に就いた(前202)高租である

主の為に節に死する 項羽はかつて魯公に封ぜられた

十八史略 吾の天下を得たる所以は何ぞ
2010-02-04 16:54:20 | 十八史略
置酒洛陽南宮。上曰、徹侯諸將、皆言、吾所以得天下者何、項氏所以失天下者何。高起・王陵對曰、陛下使人攻城掠地、因而與之、與天下同其利。項羽不然。有効者害之、賢者疑之、戰勝而不予人功、得地而不與人利。

洛陽の南宮に置酒(ちしゅ)す。上(しょう)曰く、徹侯(てっこう)諸将、皆言え、吾の天下を得たる所以(ゆえん)は何ぞ、項氏の天下を失いし所以は何ぞ、と。高起・王陵対(こた)えて曰く、陛下は人をして城を攻め地を掠めしむれば、因って之に与え、天下と其の利を同じうす。項羽は然らず。功有る者は之を害し、賢者は之を疑い、戦い勝って人に功を予えず、地を得て人に利を与えず、と。

洛陽の南宮で宴会を催した時、高祖が言った、「列侯・諸将たちよ、皆言ってみよ。予が天下を得たわけは何か、項羽が天下を失った理由は何であるか」と。すると高起と王陵が対(こた)えて言った、「陛下は部下に城を攻め、土地を取らせられますと、功によって部下に与えて、天下の人と利益を共にされました。項羽はそうではありません。功ある者は痛めつけ、賢者は疑ってかかりました。戦争に勝っても、部下に功賞を与えず、土地を得ても人に与えませんでした。それで天下を失ったのです」と。

徹侯 秦代の爵位、後に通侯、列侯といった

十八史略 三人は人傑なり、吾能く之を用う
2010-02-06 10:19:41 | Weblog
上曰、公知其一、未知其二。夫運籌帷幄之中、決勝千里之外、吾不如子房、填國家、撫百姓、給餽餉、不絶粮道、吾不如蕭何。連百萬之衆、戰必勝、攻必取、吾不如韓信。此三人者、皆人傑也。吾能用之。此吾所以取天下。項羽有一苒范、而不能用。此其所以爲我禽也。羣臣悦服。


上曰く、公其の一を知って、未だ其の二を知らず。夫(そ)れ籌(はかりごと)を帷幄(いあく)の中(うち)に運(めぐ)らし、勝つことを千里の外(ほか)に決するは、吾、子房に如(し)かず。国家を填(しづ)め、百姓(ひゃくせい)を撫(ぶ)し、餽餉(きしょう)を給し、粮道を絶たざるは、吾、蕭何に如かず。百万の衆を連ね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾、韓信に如かず。此の三人は、皆人傑なり。吾、能(よ)く之を用う。此れ吾が天下を取りし所以なり。項羽は一(いつ)の范有れども、用うること能(あた)わず。此れ其の我が禽(とりこ)と為れる所以なり、と。群臣悦服す。

十八史略
2010-02-09 16:47:13 | 十八史略
高祖は言った。「貴公らはその一面を知って、他の面を知らない。そもそも帷幕の中で作戦をめぐらし、千里も離れて勝利を導くは子房(張良)に及ばない。国家を安定させ人民をいつくしみ食糧を確保し補給を絶やさぬ能力は蕭何にかなわない。百万の大軍を指揮し、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る腕前は、韓信に及ばぬ。この三人は傑出した者たちだ。わしはこの三人をよく使いこなした。これがわしが天下を取ったわけだ。ところが項羽には一人范がいたが、使いこなすことができなかった。これがあやつがわしにしてやられたゆえんだ」と。群臣みな感じいった。

籌 はかる 数をかぞえる竹の棒から、はかりごと、計略
餽餉 食糧  人傑 能力の衆人にすぐれた人。

十八史略 田横自頸す
2010-02-13 11:04:01 | 十八史略
故齊田横、與其徒五百餘人入海島。上召之曰、横來。大者王。小者侯。不來、且擧兵誅。横與二客乘傳、至洛陽尸郷自剄。以王禮葬之。二客自剄客從之。五百人在島中者、聞之自殺。

故(もと)の斉の田横(でんこう)其の徒五百人と海島に入る。上(しょう)之を召して曰く、横来たれ。大なる者は王とせん。小なる者は侯とせん。来たらずんば、且(まさ)に兵を挙げて誅(ちゅう)せんとす、と。横、二客(じかく)と伝に乗り、洛陽の尸郷(しきょう)に至って自剄(じけい)す。王の礼を以て之を葬る。二客自剄して之に従う。五百人島中に在る者、之を聞いて自殺す。

もと斉の田横は、その徒党五百人余りと海上の島に逃れて立てこもった。高祖はこれを召すべく、「田横よ来い。重くは王に、軽くとも侯に取り立てよう。もし来なければ、兵を派遣して誅するぞ」と使者に伝えさせた。田横は二人の客と共に、宿継ぎをしながら洛陽に向かい、すぐ手前の尸郷まで来たところで、みずから首をはねた。高祖は王の礼をもって田横を葬った。二人の客もみずから首をきって後を追った。島に残っていた五百人もこれを聞いてすべて自決して殉じた。

十八史略 季布髠鉗(こんけん)して奴と為り朱家に売る
2010-02-16 17:58:57 | 十八史略
初季布爲項羽將、數窘帝。羽滅、帝購求布。敢匿者罪三族。布乃髠鉗爲奴、自賣於魯朱家。朱家心知其布也、之洛陽見滕公曰、季布何罪。臣各爲其主耳。以布之賢、漢求之急、不北走胡、南走越耳。此棄壯士資敵國也。 滕公言於上。乃赦布、召拝郎中。

初め季布、項羽の将と為り、数々(しばしば)帝を窘(くる)しむ。羽滅んで、帝、布を購求す。敢えて匿(かく)す者は三族を罪せんと。布乃ち髠鉗(こんけん)して奴(ど)と為り、自ら魯の朱家に売る。朱家、心に其の布なるを知るや、洛陽に之(ゆ)き滕公(とうこう)に見(まみ)えて曰く、季布、何の罪かある。臣は各々其の主の為にするのみ。布の賢を以て、漢之を求むること急なるときは、北のかた胡に走らずんば、南のかた越に走らんのみ。此れ壮士を棄てて敵国を資(たす)くるなり、と。滕公、上(しょう)に言う。乃ち布を赦し、召して郎中に拝す。

以前季布は項羽の将軍として度々高祖を苦しめた。そこで項羽が滅びると、賞金を懸けて捜し求め、もしかくまう者があったら、本人はもとより父母、妻の一族までも罰するぞと布告した。季布は髪を剃り首枷(かせ)をはめて自ら奴隷に身を落として魯の朱家に売った。朱は季布の正体を感づくと、洛陽に赴き、滕公(夏公嬰)に会見してこう言った。「季布に何の罪がありましょう、臣下はそれぞれの主君のために力を尽くすのがつとめ、ここで季布ほどの賢人を厳しく探索したなら、北の匈奴か南の越に逃げるだけでしょう。これこそ壮士を見捨てて敵国を利することになりましょう」と。滕公はそれを高祖に申し上げた。高祖は早速季布を赦し、召して郎中に任じた。

窘(くる)しむ 閉じ込める、苦しめる。  購求 懸賞金をかけて捜し求める。
髠鉗(こんけん) 頭髪を剃り、鉄枷を首に施すこと。
郎中 宮中の宿直の役。

十八史略 丁公、臣と為って不忠なり
2010-02-18 18:04:57 | 十八史略
丁公爲項羽將、嘗逐窘帝彭城西、短兵接。帝急顧曰、兩賢豈相厄哉。丁公乃還。至是謁見。帝以徇軍中曰、丁公、爲臣不忠。使項王失天下。遂斬之。曰、使後爲人臣、無效丁公也。

丁公、項羽の将と為り、嘗て逐(お)いて帝を彭城(ほうじょう)の西に窘(くる)しめ、短兵接す。帝急に顧みて曰く、両賢豈相厄せんや、と。丁公乃ち還りぬ。是に至って謁見す。帝以て軍中に徇(とな)えて曰く、丁公、臣と為って不忠なり。項王をして天下を失わしむ、と。遂に之を斬る。曰く、後(のち)の人臣たるものをして、丁公に效(なら)うこと無からしむるなり、と。

丁公というものが項羽の部将になって、かつて高祖を彭城の西に追いつめ、刀で切りつけるところまで迫った。高祖はいきなり振り返って「賢人同士が互いに苦しめ合うこともあるまい」と言った。丁公は高祖を見逃して引き返した。高祖の世になって、丁公が拝謁したところ、高祖は捕えて引き廻し、「丁公は臣下として不忠者である。項王に天下を失わせたのはこやつだ」と、彼を斬り殺した。そして「後の臣下たる者に丁公を見ならわせないようにしたのだ」と言った。

丁公 季布の異父同母の弟。 短兵 剣などの短い武器、短兵急はにわかに
厄 阨に同じ、苦しみ困ること。

十八史略 西安遷都
2010-02-23 17:40:14 | 十八史略
齊人婁敬説上曰、洛陽天下中。有易以興、無易以亡。秦地被山帯河、四塞以爲固。陛下案秦之故、此搤天下之亢、而拊其背也。上問張良。良曰、洛陽四面受敵。非用武之國。關中左殽函、右隴蜀、阻三面而守。敬説是也。上即日西都關中。

斉人婁敬(ろうけい)、上(しょう)に説いて曰く、洛陽は天下の中なり、徳有れば以て興り易く、徳無ければ以て亡び易し。秦の地は山を被(こうむ)り河を帯び、四塞(しそく)以て固(かため)を為す。陛下秦の故(こ)を案ぜば、此れ天下の亢(こう)を搤(やく)して、其の背を拊(う)つなり、と。上、張良に問う。良曰く、洛陽は四面に敵を受く。武を用うるの国に非ず。関中は殽函(こうかん)を左にし、隴蜀(ろうしょく)を右にし、三面を阻(へだ)てて守る。敬の説、是(ぜ)なり、と。上、即日西して関中に都す。

斉人の婁敬という者が高祖に説いて言った、「洛陽は天下の中心にあります。天子に徳があれば、興りやすく、徳がなければ亡びやすい地です。関中の秦の地は後ろに山をかむり、前に河をめぐらして四方がふさがって、自然のかためを為しています。もし陛下が秦の故地関中を拠(よ)り所とするならば、これは天下の喉もとを押さえつけてその背中を打つようなものです」と。高祖は張良に諮(はか)った。張良は「洛陽は四方から攻撃され易く戦に向いた地ではありません。関中は殽山と函谷関が左に控え、隴州、蜀州の山々が右に聳えて三面が自然に固く守られております。婁敬の説は的を射ております」と。高祖はその日のうちに西に遷(うつ)って関中を都とする事を決めた。

案 安堵におなじ、その所に落ち着いている
亢(こう)を搤(やく)して 亢は首、のど 搤 押さえつける、扼に同じ

十八史略 赤松子に従って遊ばん
2010-02-25 18:13:35 | 十八史略
留侯張良、謝病辟穀曰、家世相韓。韓滅爲韓報讎。今以三寸舌爲帝者師、封萬戸侯。此布衣之極。願棄人間事、從赤松子遊耳。

留侯張良、病と謝し、穀(こく)を辟(さ)けて曰く、家世よ韓に相たり。韓滅んで韓の為に讎(あだ)を報ず。今三寸の舌を以て、帝者の師と為り、万戸侯に封ぜられる。此れ布衣の極なり。願わくは人間(じんかん)の事を棄てて赤松子(せきしょうし)に従って遊ばんのみ。

留侯張良は病気を理由に官を辞し、穀類を遠ざけ言った。「我が家は代々韓の大臣であったが、韓が滅んでからは高祖に仕えて秦を滅ぼして報復した。いま三寸の舌をもって帝王の軍師となり、一万戸の地に封ぜられている。これは平民に落ちた身には出世の極みというべきであろう。この上は俗事を棄てて、かの赤松子に倣い神仙の間に遊びたいものだ」と。

赤松子 上古の仙人の名

十八史略 張良、橋上に老人と会う 
2010-02-27 11:29:45 | 十八史略
孺子教うべし
良少時、於下邳圯上、遇老人。堕履圯下、謂良曰、孺子下取履。良欲毆之。憫其老、乃下取履。老人以足受之曰、孺子可教。後五日、與我期於此。良如期往。老人已先在。怒曰、與長者期後何也。復約五日。

良少(わか)き時、下邳(かひ)の圯上(いじょう)に於いて、老人に遇う。履(くつ)を圯下(いか)に堕(おと)し、良に謂って曰く、「孺子(じゅし)下って履を取れ」と。良、之を殴(う)たんと欲す。その老いたるを憫(あわれ)み、乃ち下って履を取る。老人、足を以て之を受けて曰く、「孺子教うべし。後五日、我と此に期せん」と。良、期の如く往く。老人已(すで)に先ず在り。怒って曰く、「長者と期して後(おく)るるは何ぞや」と。復(また)五日を約す。

張良がまだ若い頃、下邳という所の橋の上で一人の老人に出会った。老人はわざと履を橋の下に落として「おい若造、下に降りて履を取って来い」と言った。張良は怒って老人を殴ろうと思ったが、年寄りであると不憫に思い、降りて履を拾って来てやった。老人はそれを足で受けて「若造よ、お前は見所がある、ひとつ教えてやろうかい五日後に又ここで会おう」と言った。張良が約束どおり行ってみると老人はすでに来ていて「年上の者と待ち合わせておいて、後れて来るとは何事だ」と怒って、更に五日後に会おうと約束した。


十八史略 張良太公望の兵書を授かる
2010-03-02 18:03:14 | 十八史略
及往、老人又先在。怒復約五日。良半夜往。老人至。乃喜、授以一編書。曰、讀此可爲帝者師。異日見濟北穀城山下黄石、即我也。旦視之、乃太公兵法。良異之、晝夜習讀。既佐上定天下。封功臣、使良自擇齊三萬戸。良曰、臣始與陛下遇於留。此天以臣授陛下。封留足矣。後經穀城、果得黄石焉。奉祠之。

往くに及んで、老人又先ず在り。怒って復五日を約す。良半夜に往く。老人至る。乃ち喜び、授くるに一編の書を以ってす。曰く、此れを読まば帝者の師と為るべし。異日、濟北(さいほく)の穀城(こくじょう)山下の黄石を見ば、即ち我なり、と。旦(あした)に之を視れば、乃ち太公の兵法なり。良、之を異とし、昼夜習読す。既にして上(しょう)を佐(たす)けて天下を定む。功臣を封ずるとき、良をして自ら斉の三万戸を択ばしむ。良曰く、臣始め陛下と留に遇(あ)う。此れ天、臣を以って陛下に授くるなり。留に封ぜらるれば足れり、と。後、穀城を経しに、果して黄石を得たり。之を奉祠す。

五日後に行ってみると老人が先に来ていて叱り付け、さらに五日後に行くことを約束した。張良は今度は遅れまいと夜中から待った。やがて老人が来て、会うと喜んで一編の書を授けてこう告げた「これを読めば帝王の軍師となれよう。後日、済北の穀城山下で黄色の石を見かけたらそれがわしじゃ」と。朝になってその書を見ると太公望の兵法書であった。張良はこれを奇遇と喜び、昼夜の別なく読み習ったのであった。
やがて張良は高祖をたすけて天下を平定し、功臣を封ずるとき、高祖は斉のうちで三万戸の領地を選び取らせようとしたところ張良はこう言って辞退した「私は陛下に留でお目にかかりました。それは天が私を陛下に授けたものと思っております。ですから留の地をいただければ充分でございます。」
その後穀城山を通ったとき、果して黄石をみつけたので、祠に祀ったのであった。

十八史略  狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らる
2010-03-04 18:08:33 | 十八史略
六年、人有上書告楚王韓信反。諸將曰、發兵坑孺子耳。上問陳平。平危之曰、古有巡守會諸侯。陛下第出僞遊雲夢、會諸侯於陳、因禽之、一力士之事耳。上從之、告諸侯、會陳、吾將遊雲夢。至陳。信上謁。命武士縛信、載後車。信曰、果若人言。狡兎死走狗烹、飛鳥盡良弓蔵。敵國破謀臣亡。天下已定。臣固當烹。遂械繋以歸。赦爲淮陰侯。

六年、人、上書して楚王韓信反すと告ぐるもの有り。諸将曰く、兵を発して孺子(じゅし)を坑(こう)にせんのみ、と。上(しょう)陳平に問う。平、之を危ぶんで曰く、いにしえ、巡守(じゅんしゅ)して諸侯を会すること有り。陛下、第(ただ)出で偽って雲夢に遊び、諸侯を陳に会し、因(よ)って之を禽(とりこ)にせば、一力士の事のみ、と。上、之に従い、諸侯に告ぐ。陳に会せよ、吾将(まさ)に遊ばんとす、と。陳に至る。信、上謁す。武士に命じて信を縛せしめ、後車に載す。信曰く、果たして人の言の若(ごと)し。狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)られ、飛鳥尽きて良弓蔵(しま)われ、敵国破れて謀臣亡ぶと。天下已(すで)に定まる。臣固(もと)より当(まさ)に烹(に)らるべし、と。遂に械繋(かいけい)して以って帰る。赦(ゆる)して淮陰侯(わいいんこう)と為す。
通釈文は次回に

十八史略 狡兎死して走狗烹らる 
2010-03-06 09:09:57 | Weblog
六年、人、上書して楚王韓信反すと告ぐるもの有り。諸将曰く、兵を発して孺子(じゅし)を坑(こう)にせんのみ、と。上(しょう)陳平に問う。平、之を危ぶんで曰く、いにしえ、巡守(じゅんしゅ)して諸侯を会すること有り。陛下、第(ただ)出で偽って雲夢に遊び、諸侯を陳に会し、因(よ)って之を禽(とりこ)にせば、一力士の事のみ、と。上、之に従い、諸侯に告ぐ。陳に会せよ、吾将(まさ)に遊ばんとす、と。陳に至る。信、上謁す。武士に命じて信を縛せしめ、後車に載す。信曰く、果たして人の言の若(ごと)し。狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)られ、飛鳥尽きて良弓蔵(しま)われ、敵国破れて謀臣亡ぶと。天下已に定まる。臣固(もと)より当(まさ)に烹(に)らるべし、と。遂に械繋(かいけい)して以って帰る。赦(ゆる)して淮陰侯(わいいんこう)と為す。

通釈文
漢の六年、高祖に書を奉(たてまつ)って楚王韓信が謀反を企てていると告げた者が居た。諸将は口々に、兵を出して若僧を穴埋めにするだけのことですと言った。高祖は陳平の意見を聞いた。陳平は皆の意見を危ぶんで言った「古には天子が巡視して諸侯を会合させることがありました。陛下はただの遊山の風に雲夢におでかけなさい。その折諸侯を陳に招集するのです。その機会に韓信を生捕にすればよいのです。そうすれば力士一人で事が足りましょう」と。高祖はうなずき、諸侯に「陳に会合せよ、予は雲夢に遊ぼうと思う」と通告した。高祖が陳に着くと、韓信が拝謁に来た。高祖は武士に命じて韓信を縛り副車に押しこめた。韓信は「なるほど誰かが言っていた通りだ、兎が捕り尽くされると、猟犬は用ずみになって烹られ、飛ぶ鳥が尽きれば、弓はお蔵入りになる。また敵国が亡びると、謀臣は殺されてしまうと。全くその通りだ。天下が定まった今、自分が烹殺される訳だ」
とうとう枷(かせ)をつけ縛られて洛陽につれてこられたが、後に赦されて淮陰侯に封じられた。

十八史略  善く将に将たり 
2010-03-09 13:56:03 | 十八史略
多々益々辦(べん)ず
上嘗從容問信諸將能將兵多少。上曰、如我能將幾何。信曰、陛下不過十萬。上曰、於君如何。曰、臣多多益辦。上笑曰、多多益辦、何以爲我禽。曰、陛下不能將兵、而善將將。此信所以爲陛下禽。且陛下所謂天授、力也。

上(しょう)嘗て従容(しょうよう)として信に諸将の能(よ)く兵に将たるの多少を問う。上曰く、我の如きは能く幾何(いくばく)に将たらんか、と。信曰く、陛下は十万に将たるに過ぎず、と。上曰く、君に於いては如何(いかん)、と。曰く、臣は多々益々辦(べん)ず、と。上笑って曰く、多々益々辦ぜば、何を以って我が禽(とりこ)に為れる、と。曰く、陛下は兵に将たること能(あた)わざれども、而(しか)も善く将に将たり。此れ信が陛下の禽と為りし所以(ゆえん)なり。且つ陛下は所謂(いわゆる)天授にして、人力に非ざるなり、と。

高祖はあるとき、くつろいだ様子で韓信に将軍達がそれぞれどの位の兵を統率する能力があるだろうかと聞いたことがあった。そして最後に高祖は「わしはどれほどの兵を使いこなせるだろうか」と問うた。すると韓信は「陛下は十万位いでしょう」と答えた。高祖は「ではお前はどうだ」と尋ねると、「私は多ければ多いほど指揮がさえます」と事もなげに言った。高祖は笑って「多ければ多いほどうまくやれると言うそなたがなぜわしの虜になったのだ?」韓信は「陛下は兵に将たるには向きませんが、将に将たる才がおありになります。これが私が虜になった所以です。その上、陛下は天から授かった人に君たる運勢をお持ちです。人の力では及びもつきません。」と。

辦 つとめる。処理する。さばく。
よく似た字がありますので参考のため列挙しました。
辨(弁)わかつ 弁別。わきまえる 分別。つぐなう 弁償。用にあてる弁当。               
辧(弁)辨の本字。
辯(弁)言うこと、言い開きすること 弁護士の弁
瓣(弁)はなびら、花弁。瓜の種の周りのやわらかな部分
辮 編む 辮髪(べんぱつ)中国清朝の男子の髪型。(蒼穹の昴でおなじみ)

十八史略 狗の功と人の功
2010-03-11 18:14:31 | 十八史略
剖符封功臣。酇侯蕭何、食邑獨多。功臣皆曰、臣等被堅執鋭、多者百餘戰、少者數十合。蕭何未嘗有汗馬之勞、徒持文墨議論、顧反居臣等上何也。上曰、諸君知獵乎。逐殺獸者狗也。發縱指示者人也。諸君徒能得走獸耳。功狗也。至如蕭何、功人也。羣臣皆莫敢言。

符を剖(さ)き功臣を封ず。酇侯(さんこう)蕭何、食邑(しょくゆう)独り多し。功臣皆曰く、臣等、堅を被(き)鋭を執(と)り、多き者は百余戦、少なき者も数十合。
蕭何は、未だ嘗て汗馬の労あらず、徒(た)だ文墨(ぶんぼく)を持して議論し、顧反して臣等の上に居るは何ぞや、と。上曰く、諸君、猟を知れるか。獣を逐殺する者は狗なり。発従(はっしょう)して指示する者は人なり。諸君は徒(ただ)能く走獣を得たるのみ。功は狗なり。蕭何の如きに至っては、功は人なり、と。群臣、皆敢えて言う者莫(な)し。

高祖は割符を分け授けて功績のあった家臣に領地を与えた。その中で酇侯の蕭何だけ特に多かったから、他の功臣は皆「我々は身に堅いよろいをつけ、矛や刀を執って、多い者は百余回、少ない者でも数十合の戦をしています。ところが蕭何は一度も馬に鞭をあてた事も無く、ただ筆と墨を持って議論していただけではありませんか。それが却って自分たちより上というのはどういうことでしょうか。」と言った。すると高祖は「諸君は猟を知っているか。獣を追いかけて殺すのは犬であり、犬の綱を解いて指図するのは人間の役である。諸君はただ獣を捕えただけであるから、いわば犬の功である。蕭何は諸君を指図したのだから、その功は人の功である」と言った。これには群臣誰一人一言もなかった。

剖符 符を割くこと その一片を与えて証とする
酇侯 湖北省の地名蕭何が封じられた。
汗馬の労 馬が汗をかくほどの骨折り、実戦の苦労。
顧反(こはん) かえって。 
発縦 犬を繋いだ綱を解き放つこと

十八史略 雍齒すら且つ侯たり
2010-03-16 14:29:30 | 十八史略
上已封大功臣。餘爭功不決。上從複道上望見、諸將往坐沙中、相與語。上問張良。良曰、陛下以此屬取天下。今所封皆故人親愛、所誅皆平生仇怨。此屬畏不能盡封、又恐見疑平生過失及誅。故相聚謀反耳。

上(しょう)、すでに大功臣を封(ほう)ず。余(よ)は功を争うて決せず。上、複道の上より望み見るに、諸将、往々沙中に坐して、相与(とも)に語る。上、張良に問う。良曰く、陛下、此の属を以って天下を取る。今、封ずる所は、皆故人親愛にして、誅する所は、皆平生の仇怨(きゅうえん)なり。此の属、尽くは封ぜらるる能わざるをおそれ、又平生の過失を疑われて誅に及ばんことを恐る。故に相聚(あつ)まって反を謀(はか)るのみ、と。

高祖はすでに大きな功労を立てた者にだけは領地を与たえ終ったが、残りの者は功績の大小を言いつのって決まらなかった。高祖が二重廊下の上から見下ろすと、諸将があちこちと砂の上に座って何やら話し合っている。張良に尋ねると「陛下はあの者たちの力によって天下を取られましたが、今のところ領地を与えられた者は、皆古くからの知り合いか、目をかけられた者たちです。また、誅殺された者は、皆陛下が常日頃憎んでいた者ばかりです。ですからあの連中は皆が皆領地をもらえないのではないかと心配し、一方わずかの落ち度でも、疑われて殺されるかと恐れているのです。それでああして集まって、いっそ謀反を起こそうかと相談しているのです」と答えた。つづく

十八史略 つづき
2010-03-18 17:40:51 | 十八史略
承前
上曰、奈何。良曰、陛下平生所憎、羣臣所共知、誰最甚者。上曰、雍齒。良曰、急先封齒。於是封齒爲什方侯。而急趣丞相・御史、定功行封。羣臣皆喜曰、雍齒且侯、吾屬無患矣。詔定元功十八人位次、賜丞相何、劔履上殿、入朝不趨。
尊太公爲太上皇。

上曰く、奈何(いかん)せん、と。良曰く、陛下平生憎む所にして、群臣の共に知るところは、誰か最も甚だしき者ぞ、と。上曰く、雍齒(ようし)なり、と。良曰く、急に先ず齒を封ぜよ、と。是に於いて齒を封じて什方侯と為す。而(しか)して急に丞相・御史を趣(うなが)して、功を定め封を行う。群臣皆喜んで曰く、雍齒すら且つ侯たり、吾が属、患い無けん、と。
詔(みことのり)して元功十八人の位次(いじ)を定め、丞相何に賜い、剣履(けんり)して殿(でん)に上り、入朝して趨(はし)らざらしむ。
太公を尊んで太上皇と為す。

高祖は「どうすればよかろう」と尋ねると、張良は「陛下が平生憎んでおられて、なおかつ群臣がそれを知っている、その最たる者は誰でしょうか」高祖は「雍齒だろう」張良は「では真っ先に雍齒に領地をお与えください」そこで雍齒を什方(じゅうほう)侯に取り立てた。そうしておいて丞相や御史を督促して、諸将の功績を定めて領地を決めることにした。群臣は皆喜んで言った。「あの疎まれていた雍齒すら侯に取り立てられたのだから、我々は何の心配も無いだろう」と。
詔(みことのり)によって大功ある者十八人の席次を定め、丞相の蕭何には剣をつけ履(くつ)をはいて殿上にのぼることを許し、朝廷に入っても小走りしなくとも良いという恩典を賜った。
高祖は父の太公を尊んで太上皇(たいじょうこう)という尊号を奉った。

元功 元は頭、最上、第一の意味がある。

十八史略 叔孫通
2010-03-20 10:35:35 | 十八史略
與に成を守るべし
帝懲秦苛法、爲簡易。羣臣飮酒争功、酔或妄呼、抜劍撃柱。叔孫通説上曰、儒者難與進取、可與守成。願懲魯諸生、共起朝儀。上從之。魯有兩生。不肯行曰、禮樂積、而後可興也。通與所徴及上左右、與弟子百餘人、爲緜蕝野外習之。

帝、秦の苛法に懲りて簡易を為す。群臣酒を飲んで功を争い、酔うて或いは妄呼(もうこ)し、剣を抜いて柱を撃つ。叔孫通(しゅくそんとう)、上(しょう)に説いて曰く、儒者は与(とも)に進んで取り難く、ともに成を守るべし。願はくは魯の諸生を徴(ちょう)して、共に朝儀を起こさん、と。上之に従う。魯に両生有り。行くを肯(がえ)んぜずして曰く、礼楽は徳を積んで、後に興すべきなり、と。通(とう)、徴(め)す所のもの及び上の左右と、弟子(ていし)百余人と、緜蕝(めんぜつ)を野外に為(つく)って之を習わす。ー通釈は次回にー

十八史略 
2010-03-23 08:20:26 | 十八史略
高祖は秦の苛酷な法律に懲り、簡素な法に変えた。ところが臣下たちは酒を飲んでは功を自慢し、酔ってわめきちらし、剣を抜いて宮殿の柱に斬りつける者まであらわれた。そこで叔孫通(しゅくそんとう)という者が高祖に説いた「そもそも儒者は、進んで天下を攻め取るには無用ですが、取った天下を治めるには役立ちます。どうか魯の国の儒者を召してともに朝廷の儀式を調えたいとぞんじます」高祖はこれを許した。魯では二人の儒者が同行を拒んでこう言った「礼楽というものは、天子に徳が備わって、はじめて興すものです」と。しかし叔孫通は招聘に応じて来た者、及び帝の側近の者と自分の弟子と百人余りで野外で糸で縄張りをし、茅で席次の標識を立てて百官の席順を決め、朝見の練習をさせた。

緜蕝(めんぜつ)  緜は木綿糸、蕝は茅

十八史略 叔孫通太常となる
2010-03-25 17:48:27 | 十八史略

七年、長樂宮成。諸侯羣臣皆朝賀。謁者治禮、引諸侯王以下、至吏六百石、以次奉賀。莫不振恐肅敬。禮畢置法酒。御吏執法、擧不如儀者、輒引去。竟朝罷腫、無敢諠譁失禮者。上曰、吾乃今日知爲皇帝之貴也。拝通爲太常。

七年、長楽宮成る。諸侯群臣、皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王以下、吏六百石(せき)に至るまでを引き、次(じ)を以って奉賀せしむ。振恐(しんきょう)肅敬(しゅっけい)せざるもの莫(な)し。礼畢(おわ)って法酒(ほうしゅ)を置く。御吏、法を執(と)り、儀の如くならざる者を挙げて、輒(すなわ)ち引き去る。朝を竟(お)え酒を罷(や)むるまで、敢えて喧嘩して礼を失う者無し。上(しょう)曰く、吾乃(すなわ)ち、今日、皇帝たるの貴(たっと)きを知る、と。通(とう)を拝して太常(たいじょう)と為す。

十八史略 叔孫通 太常となる
2010-03-27 13:49:23 | 十八史略
前回のつづき 読み下し文から
七年、長楽宮成る。諸侯群臣、皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王以下、吏六百石(せき)に至るまでを引き、次(じ)を以って奉賀せしむ。振恐(しんきょう)肅敬(しゅっけい)せざるもの莫(な)し。礼畢(おわ)って法酒(ほうしゅ)を置く。御吏、法を執(と)り、儀の如くならざる者を挙げて、輒(すなわ)ち引き去る。朝を竟(お)え酒を罷(や)むるまで、敢えて諠譁して礼を失う者無し。上(しょう)曰く、吾乃(すなわ)ち、今日、皇帝たるの貴(たっと)きを知る、と。通(とう)を拝して太常(たいじょう)と為す。

七年に長楽宮が完成した。諸侯群臣は皆朝廷に出て祝った。儀礼を司る式部官が取り仕切り、諸侯王以下六百石の吏官までを導いて席次に従って、お祝いの言葉を言上させたが、皆恐れ入り謹み敬わぬ者はなかった。拝賀の礼が終って儀礼の酒を賜ったが、御史が法をつかさどり儀礼に従わぬ者を挙げて外に引き立てたので朝賀がすみ酒宴が終るまで、声高に騒いで礼を失する者はなかった。高祖は「今日になって初めて、皇帝であることの貴さが実感できた」と喜んだ。そして叔孫通を太常に取り立てた。

法酒 儀礼の酒
諠譁 騒がしいこと、喧嘩
太常 神祇官、

十八史略 陳平匈奴と和睦す
2010-03-30 18:25:02 | 十八史略
匈奴寇邊。帝自將撃之。聞冒頓單于居代谷、悉兵三十萬、北遂之、至平城。冒頓精兵四十萬騎、圍帝於白登七日。用陳平秘計、使厚遺閼氏。冒頓乃解圍去。平從帝征伐、凡六出奇計輒封邑。
九年、遺劉敬使匈奴和親、取家人子名公主、妻單于。

匈奴、辺に寇(こう)す。帝自ら将として之を撃つ。冒頓単于(ぼくとつぜんう)代谷(だいこく)に居ると聞き、兵三十万を悉(つく)し、北して之を遂い、平城に至る。冒頓の精兵四十万騎、帝を白登(はくとう)に囲むこと七日。陳平の秘計を用い,間(ひそか)に厚く閼氏(えんし)に遺(おく)らしむ。冒頓乃ち囲みを解いて去る。平、帝に従うて征伐し、凡(すべ)て六たび奇計を出す。輒(すなわ)ち封邑を益(ま)す。
九年、劉敬を遺(つか)わして匈奴に使いせしめて和親し、家人の子を取って公主と名づけ単于に妻(めあ)わす。

匈奴が国境を侵し攻め込んで来たので,高祖みずから将となって討伐に向った。冒頓単于が代谷にいると聞き、三十万の兵を残らず率いて北上し、追って平城に着いた。ところが冒頓の精兵四十万騎が高祖を白登に囲むこと七日に及んだ。この時、陳平の奇抜な計により、ひそかに手厚く単于の妻に贈り物をしたので、冒頓は包囲を解いて去った。陳平は帝に従って征伐に出たが、六度も奇計を出して帝を救ったので、領地を加増された。
九年に、劉敬を使者として匈奴に遣わし、和親させ、良家の子女を帝の子として、単于の妻にさせた。

梁王彭越太僕、告其將扈輒勸越反。上使人掩越囚之。反形已具。赦處蜀。呂后曰、此自遺患。遂誅之夷三族

梁王彭越(ほうえつ)の太僕(たいぼく)、其の将の扈輒(こちょう)、越に勧めて反せしむと告ぐ。上(しょう)人をして越を掩(おそ)って之を囚(とら)えしむ。反形已(すで)に具(そな)わる。赦して蜀に処(お)らしむ。呂后曰く、此れ自ら患いを遺すものなり、と。遂に之を誅して三族を夷(たいら)ぐ。

梁王彭越の近侍の長が「彭越の部将の扈輒が彭越に勧めて謀反させました」と報告してきた。高祖は兵を出して急襲して彭越を捕えさせた。謀反の形跡は歴然としていたが、蜀に流すことで許そうとした。しかし呂后が「禍の種を残すものではありませんか」と言って反対した。遂に彭越を殺し、三族までも皆殺しにした。

十八史略 安くんぞ詩書を事とせん
2010-04-08 15:38:05 | 十八史略
前々回の鹿を失うを解説していなかったので遅れ馳せながら、
帝位、政権、地位を鹿にたとえる。 逐鹿(ちくろく)、中原に鹿を逐うなどと言う。

遣陸賈立南海尉佗、爲南粤王。佗稱臣奉漢約。賈歸報。拝太中大夫。賈時前説詩書。帝罵之曰、乃公馬上得天下。安事詩書。

陸賈(りくか)を遣わして南海の尉佗(いた)を立てて、南粤王(なんえつおう)と為す。佗、臣と称して漢の約を奉ず。賈、帰って報ず。太中大夫(たいちゅうたいふ)に拝せらる。賈、時々前(すす)んで詩書を説く。帝、之を罵(ののし)って曰く、乃公(だいこう)、馬上に天下を得たり、安(いず)くんぞ詩書を事とせん、と。

高祖は儒官の陸賈を派遣して南海郡の尉である趙佗を立てて南粤王とした。趙佗は臣と称して漢との約束を守ることを誓ったので、陸賈が帰ってこれを復命したところ、功によって賈を太中大夫の官に任じた。陸賈は時々高祖の前にまかり出て『詩経』や『書経』を講じたが、高祖はこれを罵って「わしは馬上で天下を取った。何で詩経や書経が必要なものか」と言った。

南粤王 粤は越に同じ。 尉佗 尉は官名、佗は名、姓は趙。
乃公 汝の君主の意、自身を尊大にいう。

十八史略 陸賈新語
2010-04-10 12:16:57 | 十八史略
承前
賈曰、陛下以馬上得之、寧可以馬上治之乎。文武竝用、長久之術也。使秦并天下、行仁義、法先聖、陛下安得有之。帝曰、試爲我著書。秦所以失、吾所以得、及古成敗。賈著書十二篇。毎奏稱善。號曰新語。

賈曰く、陛下、馬上を以って之を得たるも、寧(いず)くんぞ馬上を以って之を治む可けんや。文武並び用うるは、長久の術なり。秦をして天下を併せ、仁義を行い、先聖に法(のっと)らしめば、陛下、安くんぞ之を有するを得ん、と。帝曰く、試みに我が為に書を著わせ。秦の失いし所以(ゆえん)と、吾の得たる所以と、及び古(いにしえ)の成敗(せいはい)とを、と。賈、書十二篇を著す。奏する毎に善しと称す。号して新語と曰う。
つづき
陸賈は答えて「なるほど陛下は馬上で天下を取られましたが、馬上で天下が治められましょうか。文武あわせて用いるのが、国家を長久に保つすべであります。もし秦が天下を統一して、仁義の政治を行い、古の聖王を模範としていたならば、陛下がどうして天下を取られることができたでしょうか」と言った。高祖は、「ならば試みにわしの為に書を著せ。秦が天下を失った理由とわしが天下を取った理由と、それに古代の君主が成功し、また失敗したわけを」と命じた。陸賈はそこで十二篇の書を著したが、一篇を奏上する毎にいかにも、もっともだと、感じいった。その書を「新語」という。

新語 論語や春秋から儒教の大旨を説いた書。(陸賈新語)

十八史略 大風起こって雲飛揚す
2010-04-13 18:21:26 | 十八史略
淮南王黥布、見帝殺韓信、醢彭越以同功一體之人、自疑禍及、遂反。帝自將撃之。
十二年、帝破布還、過魯、以太牢祠孔子。過沛置酒、召宗室・故人飮。酒酣上自歌曰、
 大風起雲飛揚。
 威加海内兮歸故郷。
 安得猛士兮守四方。
令沛中子弟習歌之、以沛爲湯沐邑。

淮南王黥布(げいふ)、帝の韓信を殺し、彭越(ほうえつ)を醢(かい)にせしを見て同功一体の人なるを以って、自ら禍の及ばんことを疑い、遂に反す。帝自ら将として之を撃つ。
十二年、帝、布を破って還り、魯に過(よぎ)り、太牢(たいろう)を以って孔子を祠(まつ)る。沛(はい)に過って置酒し、宗室・故人を召して飲す。酒酣(たけなわ)にして上(しょう)自ら歌って曰く、
 大風起って雲飛揚(ひよう)す。
 威、海内に加わって故郷に帰る。
 安(いず)くにか猛士を得て四方を守らしめん、と。
沛中の子弟をして之を習い歌わしめ、沛を以って湯沐(とうもく)の邑(ゆう)と為す。
淮南王黥布は帝が韓信を殺し、彭越を塩漬け肉にしたのを見て、功績も、立場も同じなので、自分にも同じ禍が及ぶであろうと自分で怯えてしまって、謀反を起こした。高祖は自ら兵を率いて討伐した。
十二年、高祖は黥布を滅ぼして帰り、魯に立ち寄って太牢(牛羊豚)を供えて孔子を祀った。さらに故郷の沛に立ち寄って酒宴を開き、一族、旧知を召して共に飲んだ。宴たけなわのころ、高祖は自ら立って歌った。
かくて沛の子弟にこの歌を習い歌わせ、沛を帝室の御料地とした。

過(よぎ)り 途中寄り道をして訪れること わが国にも伊藤東涯の詩に「藤樹書院によぎる」がある。
太牢 たいそう立派なご馳走。

十八史略 高祖、太子盈を廃せんと欲す
2010-04-20 16:33:42 | 十八史略
初戚姫有寵。生趙王如意。呂后見疏。太子仁弱。上以如意類己、欲廃太子而立之。羣臣争之、皆不能得。呂后使人彊要張良畫計。良曰、此難以口舌争也。顧上所不能致者四人。東園公・綺里季・夏黄公・甪里先生。以上嫚侮士故、逃匿山中、義不爲漢臣。上高此四人。今令太子爲書卑詞、安車固請、宜来。至以爲客、時從入朝、令上見之、則一助也。

初め戚姫(せきき) 寵(ちょう)有り。趙王如意(じょい)を生む。呂后疏(うと)んぜらる。太子仁弱(じんじゃく)なり。上(しょう)、如意の己に類するを以って、太子を廃して之を立てんと欲す。群臣之を争えども、皆得ること能(あた)わず。呂后、人をして張良を彊要(きょうよう)して画計せしむ。良曰く、此れ口舌(こうぜつ)を以って争いがたきなり。顧(おも)うに上(しょう)の致すこと能わざる所の者四人あり。東園公・綺里季(きりき)・夏黄(かこう)公・甪里(ろくり)先生と曰う。上、士を嫚侮(まんぶ)する故を以って、逃れて山中に匿(かく)れ、義として漢の臣と為らず。上、此の四人を高しとす。今、太子をして書を為(つく)り詞(ことば)を卑(ひく)うし、安車(あんしゃ)もて固く請わしめば、宜しく来るべし。至らば以って客と為し、時々に従えて入朝し、上をして之を見しめば、則ち一助なり、と。

初め戚姫が帝に寵愛されて、趙王如意(じょい)を生んだので、呂后は疎んぜられた。そのうえ呂后の生んだ太子(盈)は慈悲深くはあったが身体が弱かった。帝は如意の気性が自分に似ていたので、盈を廃して如意を立てようとした。群臣は諌めたけれども、どれも聞き入れられなかった。そこで呂后は使者を張良に遣わして強いて太子の安泰を画策させた。張良はこれに答えて、「これは口先で諌めてもどうなるものでもありません。それがしが思うに、帝が招聘(しょうへい)しようとしてもどうにもならない人物が四人居ります、東園公・綺里季・夏黄公・甪里先生といいますが、彼等は帝が士をあなどり軽んずるのを見て山中に隠れ、義を貫いて臣になりません。帝はこの四人を見識の高い者だと思っておられます。今太子が手紙を書き、言葉を丁寧にして、乗り心地の良い車で是非にと請えば、彼等はきっと太子のもとにやって来るでしょう。参りましたならば、彼等を賓客として遇し、折にふれて伴って帝のお目にかけるようになされますならば、一つの助けになりましょう」と言った。

彊要 強要と同じ。  嫚侮 嫚も侮もあなどる、ばかにすること。
甪里先生 角里とも書く。

十八史略 羽翼已に成れり。動かし難し
2010-04-24 08:35:45 | 十八史略
呂后使人奉太子書招之。四人至。帝撃布還、愈欲易太子。後置酒。太子侍。良所招四人者從。年皆八十餘、鬚眉皓白、衣冠甚偉。上怪問之。四人前對、各言姓名。上大驚曰、吾求公數歳、公避逃我。今何自從吾兒游乎。
四人曰、陛下輕士善罵。臣等義不辱。今聞太子仁孝・恭敬愛士、天下莫不延頸願爲太子死者。故臣等來耳。上曰、煩公。幸卒調護。四人出。上召戚夫人、指示之曰、我欲易之、彼四人者、輔之。羽翼已成。難動矣。

呂后人をして太子の書を奉じて之を招かしむ。四人至る。帝、布を撃って還り、愈々太子を易(か)えんと欲す。後、置酒(ちしゅ)す。太子侍す。良の招く所の四人の者従う。年皆八十余、鬚眉皓白(しゅびこうはく)、衣冠甚だ偉なり。上(しょう)、怪しんで之を問う。四人前(すす)んで対(こた)え、各々姓名を言う。上、大いに驚いて曰く、吾、公を求むること数歳なれども、公、我を避逃(ひとう)せり。今何に自(よ)って吾が児に従って游(あそ)ぶかと。
四人曰く、陛下士を軽んじて善く罵(ののし)る。臣等、義として辱(はず)かしめられず。今、太子、仁孝・恭敬にして士を愛し、天下頸(くび)を延べて太子の為に死するを願わざる者莫(な)しと聞く。故に臣等来れるのみ、と。上曰く、公を煩わさん。幸に卒(つい)に調護せよ、と。四人出づ。上、戚夫人を召し、之を指示(しし)して曰く、我之を易えんと欲すれども、彼(か)の四人の者之を輔(たす)く。羽翼已に成れり。動かし難し、と。

呂后は使者をつかわして太子の書状を奉じて四人を招かせた。四人は都にやって来た。高祖は黥布を伐って帰り、いよいよ太子を易えようと思った。
その後宮中で酒宴が開かれた。太子も侍(はべ)っていたが、張良の献策で招かれた四人も付き従っていた。年齢は皆八十以上、ひげも眉も真っ白で衣冠をつけた姿がたいへん立派であった。帝は不思議に思い、名を尋ねると四人とも前に出て姓名を名乗った。帝は大いに驚き「余は貴公たちを何年も求めたが、その度に避け、逃げた。それが今どうして吾が子に従って客となっておられるのか」と問うた。四人は口をそろえて「陛下は士を軽んじてよく罵倒なさいます。臣らは義を重んじておりますゆえ辱めを受けてまで仕える気はございません。ところが太子は慈悲深く、孝心がお有りで、うやうやしく敬(つつし)んでよく士を愛されますので、天下の人びとで太子のために首をさし延ばして死ぬことを厭わない者はないと聞きおよんでいます。私どもが来たのはそのためでございます」と答えた。帝は「貴公たちの力を借りよう、どうかわが子を助けもり立てて下されよ」と頼んだ。帝は戚夫人を呼び、四人を指し示して「わしは太子を替えようと思ったがあの四人の者が太子を補佐している、ひな鳥に羽や翼が備わったも同然、もう動かすことは出来なくなった」と言った。

十八史略 乃(なんじ)の知る所に非ざるなり
2010-04-27 11:52:44 | 十八史略
蕭何以長安地陿、上林中多空地棄、請令民得入田。上大怒、下何廷尉、械繋之、數日而赦之。
上撃布中流矢、疾甚。呂后問、陛下百歳後、蕭相國死。誰可代之。曰、曹參。其次。曰、王陵。然少戇。陳平可以助之。平智有餘。然難獨任。周勃重厚少文、可令爲太尉。安劉氏者必勃也。復問其次。上曰、此後亦非乃所知也。

蕭何、長安の地陿(せま)くして、上林の中(うち)に空地の棄てられたるもの多きを以って、民をして入って田(でん)することを得しめんと請う。上大いに怒り何を廷尉に下(くだ)して、之を械繋(かいけい)せしが、数日にして之を赦(ゆる)せり。
上、布を撃つや流矢に中(あた)って疾(やまい)甚(はなは)だし。呂后問う、陛下百歳の後、蕭相國死せば、誰か之に代るべき、と。曰く、曹參なり、と。其の次は。曰く、王陵なり、然れども少しく戇(とう)なり。陳平以って之を助くべし。平の智は余りあり。然れども独り任じ難し。周勃は重厚にして文少なく、太尉(たいい)たらしむべし。劉氏を安んぜん者は必ず勃ならん、と。復其の次を問う。上曰く、此の後は亦乃(なんじ)の知る所に非ざるなり。

蕭何が、長安の地は狭いのに、帝の御料場の中には空地のままうち棄てられたままになっている所があるので、民が林に入って耕作できるように願い出た。帝は大変怒って、蕭何を獄吏の手に下して、手かせをして牢に繋いだが数日経って赦した。
帝は黥布を征伐した時、流れ矢にあたったが、其の傷がもとで病が重くなった。そこで呂后が問うた「陛下に万一の事態が起こったとき、相国の蕭何がもし死んだら誰を代りに任用したらよろしうございましょう」帝は「曹参がよい」と答えた。更に「その次は」と問うと「王陵である、が少し愚直であるから陳平に補佐させるようにせよ。陳平は知略は充分にあるが一人では任せがたい。周勃は重厚な人物であるが、飾り気がないから太尉とするがよい。将来劉氏を安泰に保つ者は周勃であろう」と言った。呂后がまたその次を問うと、帝は「それから先のことはそなたの知ったことではなかろう」と言った。

上林 天子の庭園、狩猟などを行った。 田 耕すこと  廷尉 刑罰をつかさどる官名
械繋 械は手かせ足かせ  戇 愚直、がんこ  文少なく 文は模様、飾り
太尉 軍事長官、丞相に次ぐ位


十八史略 人豚
2010-04-29 12:36:49 | 十八史略
上崩。葬長陵。爲漢王者四年、爲帝者八年、凡十二年。太子盈立。是爲孝惠皇帝。
孝惠皇帝名盈。母呂太后。即位之元年、呂后鴆殺趙王如意、斷戚夫人手足、去眼耳、飮瘖藥、使居廁中。命曰人彘、召帝觀之。帝驚大哭、因病,歳餘不能起。

上(しょう)崩ず。長陵に葬る。漢王たること四年、帝たること八年、凡(すべ)て十二年なり。太子盈立つ。是を孝惠皇帝と為す。
孝惠皇帝名は盈(えい)、母は呂太后なり。位に即くの元年、呂后、趙王如意(じょい)を鴆殺(ちんさつ)し、戚夫人の手足(しゅそく)を断ち、眼を去り、耳を(ふす)べ、瘖薬(いんやく)を飲ましめ、厠中(しちゅう)に居(お)らしむ。命じて人彘(じんてい)と曰い、帝を召して之を観(み)しむ。帝驚いて大いに哭し、因(よ)って病み、歳余起(た)つこと能(あた)わず。

高祖が崩御し(前195年)、長陵に葬られた。漢王であること四年、天子であること八年、あわせて十二年間であった。二代皇帝に太子の盈が就いた。これを孝恵皇帝(恵帝)といった。
孝恵皇帝、名は盈という、母は呂太后である。即位の年、呂后は趙王如意を鴆毒(ちんどく)で殺し、戚夫人の手足を斬り、眼球をえぐり取り、耳を燻(いぶ)してふさぎ、瘖薬を飲ませて声を奪ったうえで厠(かわや)に閉じ込めた。これを「ひとぶた」と呼ばせて、恵帝にこれを見せた。恵帝は驚いて声をあげて哭(な)き叫んだ。とうとうこれがもとで病気になり、一年余りも起き上がれなかった。

鴆毒 マムシを食った鴆という鳥の羽を浸した酒という
瘖薬 ひとを唖にする薬
人彘 彘は猪子

十八史略   蕭何卒し曹参代って相国となる。 
2010-05-01 09:27:21 | 十八史略
二年、蕭何卒。齊相曹參、令舎人趣爲裝。吾且入相。使者果召參。代何爲相國、一遵何約束。百姓歌之曰、
 蕭何爲相、 較若畫一。
 曹參代之、 守而勿失、
 載其淨、 民以寧壹。
五年、曹參卒。
六年、王陵、爲右丞相、陳平爲左丞相。張良卒。周勃爲太尉。

二年、蕭何卒す。齊の相曹參、舎人をして趣(すみや)かに装を為さしむ。吾且(まさ)に入って相たらんとす、と。使者果たして参を召す。何に代って相国と為り、一(いつ)に何の約束に遵(したが)う。百姓(ひゃくせい)之を歌って曰く、

 蕭何、相(しょう)と為り、 較(こう)として一を画(かく)するが若(ごと)し
 曹参之に代り、 守って失うこと勿(な)く
 載(こと)其れ清浄にして、 民以って寧壱(ねいいつ)なり

五年、曹参卒す。
六年、王陵、右丞相と為り、陳平、左丞相と為る。張良卒す。周勃、太尉と為る。

恵帝の二年に蕭何が死んだ。この時斉の大臣の曹参は、召使いに急いで旅装を命じた。そして自分はこれから朝廷に入って宰相になるのだといったが、果たしてその通り、使者が来て曹参を召した。入朝した曹参は蕭何に代って宰相になり、蕭何のとりきめに従った。人々はこれを讃えて歌って言うには、
 蕭何さまの、まつりごと、その法すっきり一の文字
 曹参さまがひきついで、なに変わることなきありがたさ
 すべてが清廉潔白で、おかげでわしらは安泰じゃ

五年にその曹参が死んだ。
六年に王陵が右丞相となり、陳平が左丞相となった。
同年張良が死に、周勃が太尉となった。

十八史略 劉氏に非ずして王たらば、天下共に之を撃て
2010-05-07 11:22:11 | 十八史略
太后、朝に臨み制を称す
帝在位七年崩。無子。呂太后、取他人子、以爲太子。至是即位。太后臨朝稱制。
元年、太后議立諸呂爲王。王陵曰、高帝刑白馬、盟曰、非劉氏而王、天下共撃之。平・勃以爲可。陵罷相。遂王呂氏。
四年、太后廢少帝幽殺之、立恆山王義爲帝。改名弘。亦名佗人子、爲惠帝子者也。

帝、位に在ること七年にして崩ず。子無し。呂太后、他人の子を取って、以って太子と為す。是(ここ)に至って位に即(つ)く。太后、朝に臨み制を称す。
元年、太后、諸呂を立てて王と為さんと議す。王陵曰く、高帝、白馬を刑(けい)し、盟(ちか)って曰く、劉氏に非ずして王たらば、天下共に之を撃て、と。平・勃以って可と為す。陵、相を罷(や)む。遂に呂氏を王とす。
四年、太后、少帝を廃して之を幽殺し、恒山王、義を立てて帝と為す。名を弘(こう)と改む。亦佗人の子を名づけて、恵帝の子と為しし者なり。

恵帝は在位七年で崩御した。帝に子は無かった。呂太后は他人の子を奪って太子としていたが、恵帝が亡くなったので、この太子が位についた(少帝恭という)そして呂太后は朝廷にあって自身の命令を制と称して天子のみことのりと同列にしてしまった。
少帝の元年、太后が一族の呂氏の面々を王に就かせようと朝議に諮った。右丞相王陵が敢然と「高祖皇帝は白馬をいけにえに捧げて、わが劉氏でない者が王となったなら、天下こぞってこれを撃つべしと、盟いを立てられました」と反対した。しかし陳平と周勃が賛成したので王陵は宰相を辞め、結局呂氏が王になった。
四年、呂后は少帝を廃して幽閉したうえで殺し、恒山王の義を立て名を弘と改めて帝とした(少帝弘)。これも他人の子を恵帝の子としておいたものである。

白馬を刑し 刑は殺すこと、いけにえにしてその血をすすって誓いをたてる。
少帝を廃し 呂后は太子恭の実母を殺して奪った。それを知った少帝が呂后を恨むようになったからという。

十八史略  朕は献を受けざるなり 
2010-05-13 10:41:25 | 十八史略
孝文皇帝名恆、母薄氏。夢龍據胸、遂生帝。帝立、尊爲皇太后。
元年、陳平爲左丞相、周勃爲右丞相。
時有獻千里馬者。帝曰、鸞旗在前、屬車在後、吉行日五十里、師行日三十里。朕乗千里馬、獨先安之。於是還其馬、與道里費、而下詔曰、朕不受獻也。其令四方毋來獻。

孝文皇帝名は恒(こう)、母は薄氏(はくし)なり。龍胸に拠(よ)ると夢みて、遂に帝を生む。帝立ち、尊んで皇太后と為す。
元年、陳平左丞相と為り、周勃右丞相と為る。
時に千里の馬を献ずる者有り。帝曰く、鸞旗(らんき)前に在り、属車後ろに在って、吉行(きっこう)には日に五十里、師行には日に三十里なり。朕、千里の馬に乗るとも、独り先だって安(いづ)くにか之(ゆ)かん、と。是(ここ)に於いて其の馬を還(かえ)し、道里の費を与え、而(しか)して詔(みことのり)を下して曰く、朕は献を受けざるなり。其れ四方をして来献すること毋(な)からしめよ、と。

孝文皇帝名は恒といい、母は薄氏である。龍が胸に棲む夢をみて身ごもり、文帝を生んだ。帝は位につくと、母をうやまって皇太后と称した。
元年に、陳平は左丞相となり、周勃が右丞相となった。
ときに、一日に千里をも走るという名馬を献上する者がいた。しかし文帝は「天子の旗を前に、供奉(ぐぶ)の車を従えて、巡狩(じゅんしゅ)には一日五十里、征伐のときには一日三十里進む決まりであるのに、千里の馬に乗ったところでわし一人が一体どこに行こうというのか」と言った。そこでその馬と道中の費用を渡して返した。そうしてみことのりを下した。「朕は一切献上を受けぬ、国中に来献することの無いようはからえ」と。

鸞旗 天子の旗、鸞は瑞鳥で鳳凰に似る。
吉行 狩など、平和の時に出かける。師行の師はいくさ

十八史略 惶愧して汗出で背を沾す
2010-05-18 09:46:26 | 十八史略
周勃職を免ぜらる
帝明修國家事。朝而問右丞相勃曰、天下一歳決獄幾何。勃謝不知。又問、一歳錢穀出入幾何。勃又謝不知。惶愧汗出沾背。上問左丞相平。平曰、有主者。即問決獄責廷尉。問錢穀責治粟内史。上曰、君所主者何事。平謝曰、陛下使待罪宰相。宰相者、上佐天子、理陰陽、順四時、下遂萬物の宜、外鎭撫四夷、内親附百姓、使卿大夫各得其職焉。帝稱善。勃大慚、謝病免。

帝益々国家の事を明修す。朝(ちょう)にて右丞相勃に問うて曰く、天下一歳の決獄(けつごく)幾何(いくばく)ぞ、と。勃知らずと謝す。又問う、一歳の銭穀の出入幾何ぞ、と。勃又知らずと謝す。惶愧(こうき)して汗出で背を沾(うるお)す。上(しょう)、左丞相平に問う。平曰く、主者(しゅしゃ)有り。即(も)し決獄を問うには廷尉を責められよ。銭穀を問うには治粟内史(ちぞくないし)を責められよ、と。上曰く、君の主(つかさど)る所の者は何事ぞ、と。平、謝して曰く、陛下、罪を宰相に待たしむ。宰相は、上(かみ)、天子を佐(たす)け、陰陽を理し、四時(しじ)を順にし、下(しも)万物の宜(よろ)しきを遂げ、外、四夷(しい)を鎮撫し、内、百姓(ひゃくせい)を親附(しんぷ)し、卿大夫をして各々其の職を得しむるものなり、と。帝、善しと称す。勃大いに慚(は)じ、病と謝して免ぜらる。

文帝は益々国のまつりごとに通暁しようと務めた。ある時、朝廷で右丞相の周勃に下問した。「一年に裁判の数はいかほどか」と。周勃は「存じません」と恐縮して答えた。帝は又、「一年に金銭・穀物の出入りはいかほどか」と問うた。周勃は又「存じません」と答えたが、恐れ恥じ入って冷や汗で背中がぐっしょりになった。帝は左丞相の陳平に同じことを問うた。陳平が答えて「それぞれ管掌というものがあります。裁判についてのご下問は廷尉に糺して下さい。また金銭、穀物のことは治粟内史にお尋ねください」と言った。帝は「それではそちは何を司っておるのか」と訊くと、陳平は「私は宰相として至りませず、陛下から罰せられるのを待っている身でありますが、そもそも宰相の職務は上は天子を補佐し、陰陽を整え、春夏秋冬を順調ならしめ、下は万物のよろしきを得て、外は四方の蛮夷を鎮め、内は人民を親しみなつかせ、卿大夫にはそれぞれふさわしい職務を得させること、でございます」と申し上げた。帝は「もっともである」といわれた。周勃は大いに恥じいって、病と申し出て、職を免ぜられた。

決獄 嫌疑のある事件を決裁すること。  惶愧 惶はおそれる、愧ははじる。
廷尉 裁判を掌る長官。 治粟内史 銭穀を掌る長官。
陛下、罪を宰相に待たしむ 宰相の重責ありながら何の功績もなく、ただ陛下から罪の来るのを待っているの意、宰相の謙辞。
陰陽を理し、四時を順にし 正しく政治を行えば天変地異が無く、四時が順調に推移するという思想があったから。

十八史略 廷尉は天下の平なり
2010-05-20 08:16:47 | 十八史略
河南守呉公、治平爲天下第一。召爲廷尉。呉公薦洛陽人賈誼。年二十餘。一歳中、超遷爲大中大夫。
陳平卒。
二年、賜天下今年田租之半。
三年、張釋之爲廷尉。上行中渭橋。有一人、橋下走。乘輿馬驚。捕屬廷尉。釋之奏、犯蹕當罰金。上怒。釋之曰、法如是。更重之、是法不信於民。廷尉天下之平也。一傾、天下用法、皆爲之輕重。民安所措手足乎。上良久曰、廷尉當、是也。

河南の守(しゅ)呉公、治平天下第一たり。召して廷尉と為す。呉公、洛陽の人賈誼(かぎ)を薦(すす)む。年二十余。一歳のうち、超遷(ちょうせん)して大中大夫と為る。
陳平、卒す。
二年、天下に今年の田租(でんそ)の半ばを賜う。
三年、張釋之(ちょうせきし)廷尉と為る。上(しょう)中渭橋(ちゅういきょう)を行く。一人(いちにん)有り、橋下より走る。乗輿(じょうよ)の馬驚く。捕えて廷尉に属す。釈之奏す、蹕(ひつ)を犯すは罰金に当(とう)す、と。上怒る。釈之曰く、法是(かく)の如し。更に之を重くせば、是れ法、民に信ならず。廷尉は天下の平なり。一たび傾かば、天下法を用うるもの、皆之が為に軽重(けいじゅう)せん。民安(いづ)くにか手足(しゅそく)を措(お)く所あらんや、と。上、良々(やや)久しうして曰く、廷尉の当、是なり、と。

河南の大守呉公は、政治の公平なこと天下第一であったので召して廷尉とした。呉公は洛陽の人賈誼を推薦した。賈誼はその時二十歳あまりであったが、一年のうちに、一足飛びに出世して大中大夫となった。
この年、陳平が死んだ。
文帝の二年、天下中に今年の年貢の半分が免除された。
三年、張釋之が廷尉になった。ある日、文帝が中渭橋を通りかかると、橋の下から走り出した者がいて、帝の馬が驚いて棹立ちになった。すぐさま捕えて廷尉に引き渡した。釈之が「行幸を騒がせたのは罰金に相当いたします」と奏上した。帝は処分の軽さに立腹したが、釈之はひるまず「法ではそのように決まっております。もしこれより重く致しますと、法が民に信用されなくなります。廷尉の職は天下の公平を司ることにあります。一たび傾きますと天下の法に携わる者が、これにならって、勝手に軽重を決めるでしょう。そうなれば民はどうして手足を伸ばせましょうか」と申し上げた。帝はしばらく思案の後、口を開いた「廷尉の処置はもっともである」と。

超遷 飛び越えて昇進すること。 大中大夫 論議を掌る官。 蹕 天子の行列のさきばらい、行きは警といい、帰りを蹕という。

十八史略 一尺の布も尚縫うべし 
2010-05-25 16:27:10 | 十八史略
六年、淮南王長謀反、廢徙死。民有歌之者。曰、一尺布尚可縫。一斗粟尚可舂。兄弟二人不相容。帝聞而病之、後封其四子爲侯。
匈奴冒頓死。
先是、上議以賈誼位公卿。大臣多短之。上以爲長沙王大傅。徙梁王大傅。上疏曰、方今時埶、可爲痛哭者一。可爲流涕者二。可爲長大息者六。
十年、帝舅薄昭、殺漢使者。帝不忍誅、使公卿羣臣往哭之。昭自殺。

六年、淮南(わいなん)の王(れいおう)長、謀反(ぼうはん)し、廃徒(はいし)せられて死す。民之を歌う者あり、曰く、
一尺(せき)の布も尚縫うべし。
一斗の粟(ぞく)もなお舂(うすづ)くべし。
兄弟(けいてい)二人(ににん)相容れず。と
帝聞いて之を病(うれ)え、後其の四子(しし)を封(ほう)じて侯と為せり。
匈奴の冒頓(ぼくとつ)死す。
是より先、上(しょう)、賈誼(かぎ)を以って公卿(こうきょう)に位せしめんと議す。大臣多く之を短(そし)る。上以って長沙王の大傅(たいふ)と為す。梁王の大傅に徒(うつ)る。上疏(じょうそ)して曰く、方今(ほうこん)の時埶(じせい)、為(ため)に痛哭すべき者一。為に流涕すべき者二。為に長大息すべき者六あり、と。
十年、帝の舅(きゅう)薄昭、漢の使者を殺す。帝、誅するに忍びず、公卿羣臣をして往(ゆ)いて之を哭せしむ。昭自殺す。

六年に文帝の弟で淮南の王(れいおう)長が謀反を企てたが発覚して、王位を廃され、他所に移される途中で死んだ。痛ましく思った民の歌が広まった。
わずかな布も縫って仲良く着られる。僅かな粟も搗いて一緒に食べられる。なのにどうして兄弟二人許し合えぬ。
文帝はこの歌を聞いてひどく気に病み、王の四人の遺児を侯に封じた。
この年、匈奴の冒頓が死んだ。
これより以前、帝は賈誼を公卿に取り立てようと朝議にかけたが、大臣の多くは短所をあげて非難した。そのため帝は賈誼を長沙王の大傅にしたが、間もなく梁王の大傅に移した。ある時、賈誼は上疏して「現今の時勢を見ますに、悲しみ嘆くべきものが一つ、涙を流すべきものが二つ、ため息をつくものが六つあります。」と申しあげた。
十年に、文帝の叔父の薄昭が朝廷の使者を殺した。帝は薄昭を誅殺するに忍びず公卿、群臣を薄昭の邸で使者の死を悲しみ泣かせた。薄昭は罪が軽くないことを悟って自殺した。

大傅 王を補佐、養育する役。 上疏 天子に奉る意見書
一尺の布・・・頼山陽の静御前の詩にみえる

十八史略 以って父の刑を贖(あがな)わしめよ
2010-05-29 15:48:09 | 十八史略

十二年、賜民今年田租半。
十三年、太倉令淳于意、有罪當刑。少女緹縈上書曰、死者不可復生。刑者不可復屬、願没入爲官婢、以贖父刑。上憐其意、詔除肉刑。
是歳、除田租税
十六年、方士新垣平爲上大夫。
後元年、平以詐伏誅。

十二年、民に今年の田租(でんそ)の半ばを賜う。
十三年、太倉の令淳于意(じゅんうい)、罪有って刑に当る。少女緹縈(ていえい)上書して曰く、死者は復(また)生く可からず。刑者は復属す可からず、願わくは没入して官婢と為し、以って父の刑を贖(あがな)わしめよ、と。上(しょう)其の意を憐れみ、詔(みことのり)して肉刑を除く。
十六年、方士新垣平(しんえんぺい)上大夫と為る。
後の元年、平、詐(さ)を以って誅に伏す。

十二年、民に今年の田租の半分を免除した。
十三年、太倉令の淳于意が肉体の一部を切る肉刑に相当する罪を犯した。娘の緹縈が上書して言うには「死んだ者は生き返りません、肉体を切られた者は再び元に戻せません。どうか私の身体をお取り上げになって召使にすることで、父の刑をあがなうことをお許し下さい」と。帝は少女の心根を憐れみ、詔を下して以後肉刑を廃止した。
十六年、方士の新垣平なる者が一計を案じて上大夫となった。
のちの元年、新垣平のいつわりが露見して殺された。

太倉の令 朝廷の米倉を管理する長官。 肉刑 刺青、鼻そぎ、足切、宮刑など。 方士 仙術を行う者。 後の元年 新垣平の計略によって瑞兆が顕われたことを喜んだ文帝が十七年を後の元年とした。

十八史略 覇上・棘門の軍は児戯のみ
2010-06-01 10:10:51 | 十八史略
将軍の令を聞いて天子の詔を聞かず
六年、匈奴寇上郡・雲中。詔將軍周亞夫屯細柳、劉禮次覇上、徐次棘門、以備胡。上自勞軍、至覇上及棘門軍、直馳入。大將以下騎送迎。已而之細柳。不得入。先驅曰、天子且至軍門。都尉曰、軍中聞將軍令、不聞天子詔。上乃使使持節、詔將軍亞夫。乃傳言開門。門士請車騎曰、將軍約、軍中不得驅馳。上乃按轡、徐行至營、成禮去。羣臣皆驚。上曰、嗟乎、此眞將軍矣。向者覇上・棘門軍兒戲耳。

六年、匈奴、上郡・雲中に寇(あだ)す。詔(みことのり)して将軍周亜夫は細柳に屯(とん)し、劉禮(りゅうれい)は覇上(はじょう)に次し、徐(じょれい)は棘門(きょくもん)に次し、以って胡(こ)に備えしむ。上(しょう)自ら軍を労し、覇上及び棘門の軍に至り、直ちに馳せて入(い)る。大将以下、騎して送迎す。已(すで)にして細柳に之(ゆ)く。入るを得ず。先駆曰く、天子且(まさ)に軍門に至らんとす、と。都尉曰く、軍中には将軍の令を聞いて、天子の詔を聞かず、と。上、乃(すなわ)ち使いをして節を持して、将軍亜夫に詔(みことのり)せしむ。乃ち言を伝えて門を開かしむ。門士、車騎に請うて曰く、将軍約す、軍中は駆馳(くち)するを得ず、と。上、乃ち轡(ひ)を按(あん)じ、徐行して営に至り、礼を成して去る。群臣皆驚く。上曰く、嗟乎(ああ)此れ真の将軍なり。向者(さき)の覇上・棘門の軍は児戯のみ、と。

文帝の後の六年に匈奴が上郡や雲中を侵した。文帝は詔を下して、将軍の周亜夫は細柳に駐屯し、劉禮は覇上に、徐は棘門に宿営して匈奴に備えさせた。文帝は自ら軍隊を労(ねぎら)うため覇上と棘門に赴いた。馬車を走らせて門内に駆け入ると、大将以下、騎馬で送迎した。その後細柳に行くと門を入ることが出来ない。先駆の者が「天子さまがお着きになる開門せよ」と言うと、門を守る将校が言うには「軍中では将軍の命令を聞くのみで天子さまの詔とて聞くわけにはまいりませぬ」と。帝は天子の使いの旗印を持たせて、周亜夫に詔を伝えさせた。そして将軍の命によって門を開かせたが、衛士が帝の警護の騎士に「軍中は車馬を走らせないと将軍に約束しております」と言った。帝の車は手綱を引きしめて徐行して将軍の軍営に至り、ねぎらいの挨拶をすませて引きあげた。群臣は皆あきれたが、帝はすっかり感服して、「これこそ真の将軍である。先の覇上や棘門の軍など、子どもの遊びみたいなものだ」と言った。

寇 倭寇、元寇の寇、領土を侵すこと。上郡 陜西省の地名。 雲中 山西省の地名。周亞夫 周勃の子。 細柳・覇上・棘門 陜西省の地名長安近郊。 屯・次 ともに留まって守備をすること。 且に 将に同じ、再読文字「まさに・・・す」と読む。 轡(ひ)を按(あん)じ くつわを引いて馬をおさえること。 向者 二字でさきと読む向は以前のこと、者は「・・・は」覇上と棘門を指す

十八史略 風流篤厚
2010-06-03 18:01:50 | 十八史略
文帝崩ず
七年帝崩。在位二十三年。宮室苑囿、車騎服御、無所。嘗欲作露臺、召匠計之。直百金。上曰、中人十家之産也。何以臺爲。身衣弋綈、所幸愼夫人、衣不曳地。示朴爲天下先。呉王不朝、賜以几杖、張武受賂金錢、更加賞賜、以愧其心。専以化民。當時公卿大夫、風流篤厚、恥言人過、上下成俗。是以海内安寧、家給人足、後世莫能及。葬覇陵。太子即位。是爲孝景皇帝。

七年、帝崩ず。位に在ること二十三年。宮室苑囿(えんゆう)、車騎服御(ふくぎょ)、増益する所無し。嘗て露台を作らんと欲し、匠を召して之を計らしむ。値百金なり。上(しょう)曰く、中人十家の産なり。何ぞ台を以って為さん、と。身に弋綈(よくてい)を衣(き)、幸(こう)するところの慎夫人も衣、地に曳(ひ)かず。朴を示して天下の先(せん)と為る。呉王、朝せざれば、賜うに几杖(きじょう)を以ってし、張武、賂(まいない)の金銭を受くれば、更に賞賜(しょうし)を加えて、以って其の心に愧(は)ぢしむ。専ら徳を以って民を化す。当時の公卿大夫(こうけいたいふ)、風流篤厚(とくこう)にして、人の過ちを言うを恥ぢ、上下(しょうか)徳を成す。是(ここ)を以って、海内安寧(かいだいあんねい)にして、家々給し、人々足り、後世能(よ)く及ぶ莫(な)し。覇陵に葬る。太子位に即(つ)く。是を孝景皇帝と為す。

後の七年に文帝が崩じた。在位二十三年、宮殿、庭園、車馬、衣服など新たに増やしたものが無かった。ある時露台を造ろうと思い立って大工を呼んで見積らせたところ百金かかるとのこと、文帝は「中流の家の財産十軒分ではないか、どうして露台など造られようか」と言って止めた。身には黒いつむぎを着、寵愛していた慎夫人にも裾を引きずるような華美な衣装は着せず、率先して天下に質素を示した。呉王の濞(び)が病いを理由に朝廷に参内しないと、脇息と杖を下賜した。また張武が賄賂を受けたと知ると、褒賞の金を与えて自ら羞じ入るように仕向けた。このように徳を以って民衆を教化したので、当時の公卿大夫たちは、上品で温厚であり、人の過失をあげつらうことを恥とし、それが上にも下にも行き渡った。こうして国じゅうが安らかで、どの家も不自由なく、どの人も満ち足りて、後の世の及ぶところではなかった。覇陵に葬られた。
太子が位についた。これを孝景皇帝(景帝)という。

弋綈 弋はくろい、綈は太い糸で織った絹、質素な衣服の形容。 幸する 寵愛する。 風流篤厚 先人の遺風によって後の人が奥ゆかしく誠実になること

十八史略 孝景皇帝
2010-06-05 09:30:46 | 十八史略
孝景皇帝名啓。即位元年、丞相申屠嘉奏、功莫大於高皇帝、宜爲帝者太祖之廟。莫盛於孝文皇帝、宜爲帝者太宗之廟。制曰、可。
帝爲太子時、鼂錯爲家令、得幸。太子家、號爲智嚢。帝即位。錯爲内史、數請
言事。輒聽寵傾九卿。法令多所更定。
初孝文時、呉王濞太子入見、得侍皇太子飮。博爭道不恭。皇太子引博局提殺之。濞稱疾不朝。錯數言呉過可削。文帝不忍。

孝景皇帝、名は啓。即位の元年、丞相申屠嘉(しんとか)奏すらく、功は高皇帝より大なるは莫(な)し、宜しく帝者太祖の廟と為すべし。徳は孝文皇帝より盛んなるは莫し、宜しく帝者太祖の廟と為すべし、と。制して曰く、可なり、と。
帝、太子たりし時、鼂錯(ちょうそ)家令と為り、幸を得たり。太子の家、号して智嚢と為す。帝、位に即く。錯内史(だいし)と為り、数々(しばしば)間(かん)を請うて事を言う。輒(すなわ)ち聴かれ、寵(ちょう)九卿を傾く。法令更定(こうてい)する所多し。
初め孝文の時、呉王濞(び)の太子入見(にゅうけん)す。皇太子に侍して飲むを得たり。博して道を争い不恭(ふきょう)なり。皇太子博局(はくきょく)を引いて之を提殺(ていさつ)す。濞、疾(やまい)と称して朝せず。錯数しば呉の過ちて削るべきを言う。文帝忍びず

十八史略 孝景皇帝
2010-06-08 08:33:24 | 十八史略
孝景皇帝、名は啓という。即位の元年に丞相の申屠嘉が「漢室を振り返ってみるに、功績は高皇帝より大きいことはありません。ですから漢の太祖の廟として祀るべきです。徳は孝文皇帝より盛大なことはありません。ですから漢の太宗の廟として祀るべきです」と上奏した。景帝はこれを裁可した。
景帝がまだ皇太子であった時、鼂錯は家令として気に入られ、皇太子の宮殿では「ちえ袋」と呼ばれていた。即位すると鼂錯は内史となり、しばしば時間を割いて頂きたいと申し出て、意見を言上したがその度ごとに採用された。寵愛は九人の大臣を圧倒するほどで、法令も錯によって、改定されたものが多くあった。
以前、文帝の時代に呉王濞の太子が入朝して謁見し、皇太子であった景帝の酒の相手を許された。そのとき、すごろくの賭けをしていて駒の道のことで争いになり、譲ろうとしない呉の太子に対して、皇太子はすごろく盤を投げつけて殺してしまった。呉王はそれ以来病気と称して入朝しなくなった。鼂錯はしばしば呉の過ちを言い立てて領地の削減を進言したが、文帝は踏み切るに忍びなかった。

内史 京師を治める官。 九卿 中枢の九つの官の長。 博 すごろくバクチ。 提殺 提はなげうつ

十八史略 呉楚七国の乱
2010-06-10 08:26:59 | 十八史略
及帝即位、錯曰、呉王誘天下亡人、謀作亂。今削之亦反、不削亦反。削之反亟禍小。不削反遅禍大。上令公卿・列侯・宗室雜議。莫敢難。鼂錯又言、楚・趙・有罪。削一郡。膠西有姦。削六縣。及削呉會稽・豫章書至、呉王遂反。膠西・膠東・し川・濟南・楚・趙、皆先有呉約。至是同反。齊王先諾後悔。

帝の位に即くに及び、錯曰く、呉王、天下の亡人を誘(いざな)うて乱を作(な)さんことを謀る。今之を削るも亦反し、削らざるも亦反せん。之を削れば反すること亟(すみや)かにして禍(わざわい)小なり。削らずんば反すること遅くして禍大ならん、と。上、公卿(こうけい)・列侯・宗室をして雑議せしむ。敢えて難ずるもの莫(な)し。鼂錯(ちょうそ)又言う、楚・趙、罪有りと。一郡を削る。膠西(こうせい)姦(かん)有りと六県を削る。呉の会稽・予章を削るの書至るに及んで、呉王遂に反す。膠西・膠東・菑川( しせん)・濟南・楚・趙、皆先に呉の約有り。是(ここ)に至って同じく反す。齊王、さきに諾してのちに悔ゆ。

景帝が位につかれると、鼂錯が「呉王、天下のお尋ね者を誘い入れて謀反を起こそうとしております今その領地を削っても謀反するし、削らなくとも謀反します。削れば早く謀反しますが禍は小さくてすみます。しかし、削らなければ謀反は遅くなりますが、禍は大きくなりましょう」と申し上げた。そこで帝は、大臣、諸侯、皇族を集めて論議をさせたが、敢えて反対する者は無かった。さらに、鼂錯は言う、「楚も趙にも罪があります。と奏上したので、それぞれ一郡を削った。鼂錯は又、膠西王にも不正な行いがありますと奏上したので六県を取り上げた。呉から会稽・予章の二郡を削るとの命令書が呉に到着すると、呉王は遂に謀反を決意した。膠西・膠東・菑川(しせん)・濟南・楚・趙の国々も以前から盟約があったので、同じく謀反した。(呉楚七国の乱という)。ただし斉王だけは盟に加わっていたが、のちに悔いて謀反に加担しなかった。

十八史略  周亜夫、血を吐きて死す。
2010-06-12 14:18:58 | 十八史略
初文帝且崩、戒太子曰、即有緩急、周亞夫眞可任將。及七國反、拝亞夫太尉、將三十六將軍、往撃呉・楚。鼂錯素與袁盎不善。盎言、獨有斬錯復諸侯故地、兵可無血刃而罷。錯於是要斬東市。父母・妻子・同産、無少長皆棄市。周亞夫大破呉・楚。諸反皆平。亞夫後爲相、封條侯。以諌忤上意、罷。上曰、此鞅鞅、非少主臣、卒爲人誣告、下獄。歐血死。

初め文帝、且(まさ)に崩ぜんとし、太子を戒めて曰く、即(も)し緩急有らば、周亜夫、真に将に任ず可し、と。七国反するに及び、亜夫を太尉に拝し、三十六将軍に将として、往(ゆ)いて呉・楚を撃たしむ。
鼂錯(ちょうそ)、素(もと)より袁盎(えんおう)と善からず。盎言う、独り錯を斬って諸侯の故地を復する有らば、兵、刃に血ぬること無くして罷(や)むべし、と。錯、是(ここ)に於いて東市に要斬せらる。父母・妻子・同産、少長と無く皆棄市せらる。周亜夫、大いに呉・楚を破る。諸反、皆平らぐ。亜夫後に相と為り、條侯に封(ほう)ぜらる。諫(かん)を以って上(しょう)の意に忤(さか)らい罷(や)む。上曰く、此の鞅鞅(おうおう)たるもの、少主の臣に非ず、と。卒(つい)に誣告(ぶこく)せられて、獄に下る。血を歐(は)いて死す。

緩急 危急の場合  太尉 軍事の長官、丞相に次ぐ位。 要斬 腰斬に同じ、腰斬りの刑罰。 同産 兄弟。 棄市 斬首のうえ屍骸をさらす刑罰。
鞅鞅 楽しまない様子。 少主 幼少の主君、皇太子のこと

以前、文帝は崩御する間際、太子(景帝)を呼んで「もし国家存亡の危機に陥ったときは、周亜夫こそ頼むに足る将であるから心しておくように」と言い遺した。それで七国の乱に際して周亜夫を三十六将を束ねる総大将に任命して、呉楚征伐に向わせた。
ところで、鼂錯と袁盎はもともと仲が良くなかった。袁盎は「鼂錯を斬って、取り上げ削った郡県を返してやれば、何も戦争する必要などありましょうか」と奏上した。そこで鼂錯を長安の東市で腰斬りの刑で殺し、父母・妻子・兄弟幼老の別なく斬首して東市にさらされた。
一方、周亜夫は呉・楚を存分に破ったので、他の五国も平定された。凱旋した周亜夫は宰相となり條侯に封ぜらたが、諫言して帝の意向に逆らったため、罷免させられた。景帝は亜夫の不満げな様子をみて、「将来我が皇太子の家臣としておくのは良くないようだ」ともらした。やがてある者に讒言せられて獄に入れられ、憤慨して血を吐いて死んだ

十八史略
2010-06-15 08:32:52 | 十八史略
自漢興、掃除繁苛、與民休息。孝文加以恭儉。至帝遵業、五六十載之、移風易俗、黎民醇厚、國家無事。人給家足、都鄙廩庾皆満。而府庫餘貲財、京師之錢累鉅萬、貫朽而不可校。太倉之粟、陳陳相因、充溢露積於外、紅腐不可勝食。

漢興ってより、繁苛を掃除(そうじょ)し、民と休息す。孝文加うるに恭倹を以ってす。帝業に遵(したが)うに至って、五六十載の間、風を移し、俗を易(か)え、
黎民(れいみん)醇厚(じゅんこう)にして、国家無事なり。人々給し家々足り、都鄙(とひ)の廩庾(りんゆ)皆満つ。而して府庫に貲財(しざい)を余し、京師(けいし)の銭、鉅萬(きょまん)を累(かさ)ね、貫朽ちて校す可からず。太倉の粟(ぞく)、陳陳相因(よ)り、充溢して外に露積(ろし)し、紅腐して食(くら)うに勝(た)う可からず。
漢が興ってから、わずらわしい法令をすべて除き去り、人民と共に休息するようにした。その上、孝文帝は身を慎み、倹約を守った。景帝がその業を継ぐに至る五六十年の間に天下の風俗は改まり、人民は情厚く、国家は泰平無事であった。人々は不自由せず、家々は満ち足りて、みやこも地方も米倉は満杯で、役所の庫には財貨が有り余った。みやこに集まる銭は何億にものぼり、銭さしの縄が腐って数えることさえ出来ぬほどであった。穀倉には古い米の上に古い米が積まれ、倉からはみ出して外にむき出しで積んであり、変色し腐って、食べることも出来ぬようになった。つづく

黎民 黎は黒、一般人は冠をつけず、黒髪をむき出しているのでいう。
廩庾 米倉、屋根のあるのが廩、囲いだけのが庾。 貫 銭にさし通して束ねる縄。 校す 数え調べること。 貲財 貲は資に同じ。 太倉 国の米倉

十八史略 物盛んにして衰うる
2010-06-17 08:42:38 | 十八史略
爲吏者長子孫、居官者以爲姓號。故有倉氏・庫氏。人人自愛、而重犯法。然罔疏民富、或至驕溢。兼并之徒、武斷郷曲。宗室有土、公卿以下、奢侈無度。物盛而衰、固其變也。帝崩。在位一十七年、有中元・後元。太子立。是爲世宗孝武皇帝。

吏となる者は子孫を長じ、官に居る者は以って姓号となす。故に倉氏・庫氏あり。人々自愛して、法を犯すを重(はばか)る。然れども罔(もう) 疏(そ)に、民富み、或いは驕溢(きょういつ)に至る。兼并(けんぺい)の徒、郷曲(きょうきょく)に武断(ぶだん)し、宗室有土、公卿以下、奢侈度無し。物盛んにして衰うる、固(もと)よりその変なり。
帝崩ず。在位一十七年、中元・後元有り。太子立つ。是を世宗孝武皇帝となす。

官吏と名がつく者はその禄によって子や孫まで養育し、官職にあるものはその官職を姓として名乗る者まであらわれた。倉氏、庫氏のごときである。人々はそれぞれ自分の身を大切にして、法を犯さぬよう心がけた。けれども法がゆるみ、民にゆとりができると、中には驕りに耽る者、貧しい者から田畑を買い占めた富豪が、村里を勝手に処分した者もあらわれた。皇族、諸侯、大臣以下、はてしなく奢侈に耽ったのである。
すべて繁栄を極めれば必ず衰えるということは、自然の変化である。
景帝が崩じた。在位十七年、その間に中元と後元と二度元年と称したものがあった。皇太子が即位した、世宗孝武皇帝(武帝)という。

重 おそれる、はばかるの意がある。 罔 網、法の網。 疏 まばら。 驕溢 驕りたかぶって分に過ぎること。 兼并 兼併、併せて一つにすること、人の土地や財産をうばって自分のものに併せる。 郷曲 むらざと、曲はかたよった所の意。武断 武力によって処置すること。

十八史略  始めて改元して建元という
2010-06-19 08:05:52 | 十八史略
孝武皇帝、名徹。即位之元年、始改元曰建元。年有號始此。
擧賢良・方正・直言・極諫之士、親策問之。廣川董仲舒對曰、事在強勉而已矣。強勉學問、則聞見博、而智明。強勉行道、則日起、而大有功。

孝武皇帝、名は徹。即位の元年、始めて改元して建元という。年に号あるは此(ここ)に始まる。
賢良・方正・直言・極諫(きょくかん)の士を挙げ、親(みづか)ら之を策問す。広川の董仲舒(とうちゅうじょ)の対(たい)に曰く、事は強勉に在るのみ。強勉して学問すれば、則(すなは)ち聞見博(ひろ)くして、智益々明らかなり。強勉して道を行えば、則ち徳日に起こって、大いに功有り、と。

孝武皇帝、名は徹という。即位の元年、始めて年号を改めて建元と称した。年号はここに始まった。
武帝は賢良・方正・直言・極諫の四科を設け、すぐれた人物を挙げ、帝自ら試問をおこなった。広川(河北省)の董仲舒の答案にこうあった。「何事も、努め励むことが第一であります。努め励んで学問すれば、見聞が広くなり、智慧が益々明らかになります。また勉強して人の人たる道を行えば、徳が日に日に盛んになって、たいそう世に功績をあげます」と。

十八史略 董仲舒の対
2010-06-22 17:56:07 | 十八史略
又曰、人君者、正心以正朝廷、正朝廷以正百官、正百官以正萬民、正萬民以正四方。正四方、遠近莫不一於正、而無邪奸其。是以陰陽調、風雨時、羣生和、萬民殖、諸福之物、可致之、莫不畢至、而王道終矣。

又曰く、人君(じんくん)は、心を正しうして以って朝廷を正しうし、朝廷を正しうして以って百官を正しうし、百官を正しうして以って万民を正しうし、万民を正しうして以って四方を正しうす。四方正しければ、遠近、正(せい)に一(いつ)ならざる莫(な)く、而(しか)して邪気の其の間に奸する無し。是(ここ)を以って、陰陽調い、風雨時あり、群生和し、万民殖し、諸福の物、致す可きの祥、畢(ことごと)く至らざる莫(な)く、而(しか)して王道終る。

また言う「人に君たる者は、まずみずから心を正しくして、それによって朝廷の重臣の心を正しくし、朝廷の重臣の心を正しくしてそれによって、天下の百官の心を正しくし、百官の心を正しくして、それによって万民の心を正くし、それによって四方の夷狄(いてき)を正しくすることができるのであります。夷狄まで正しくなりますと、遠近を問わず正道に一致しないものはなく、それゆえ邪気が侵入する余地が無くなります。そこで陰陽がよく調和し、風雨もその時々に生じ、すべての生物は相和らぎ、万民も増え栄えて、多くの福を招き寄せる瑞祥がことごとく集まってまいります。かくて王道が完全に実現するのであります。 つづく

極諫 主君に対して意見する人。 策問 策は竹の札、官吏登用試験に試問すること。 董仲舒 前漢の儒官。 対 答えること。 邪気 天候不順や天変地異。 奸する 侵し入ること。

十八史略 董仲舒の対 2
2010-06-24 17:29:44 | 十八史略
今日、半夏生をみつけました。暦の半夏生は7月2日で夏至から11日目となっていますが、花の半夏生は葉っぱの1枚だけやっと白化粧していました。ところで暦の半夏生は半夏が生ずる季節で、半夏生はドクダミ科、半夏はサトイモ科でカラスビシャクとも言い漢方薬になるそうです。
十八史略董仲舒の続きです。
陛下行高而恩厚、知明而意美、愛民而好士。然而教化不立、萬民不正。譬琴瑟不調甚者、必解而更張之、乃可鼔也。爲政而不行甚者、必変而更化之、乃可理也。漢得天下以來、常欲治、而至今不可善治者、當更化而不更化也。

陛下、行い高くして恩厚く、智明らかにして意(い)美に、民を愛して士を好む。然而(しかる)に、教化立たず、萬民正しからず。譬(たと)えば、琴瑟の調わざること甚だしきものは、必ず解(と)いて之を更張(こうちょう)すれば、乃(すなわ)ち鼔(こ)すべきなり。政(まつりごと)を為して行われざること甚だしきものは、必ず変じて之を更化(こうか)すれば、乃ち理(おさ)む可きなり。漢、天下を得て以来、常に治を欲して、而(しか)も今に至るまで善(よ)く治む可からざるものは、当(まさ)に更化すべくして而も更化せざればなり、と。

陛下は徳行高く、恩沢厚く、英知明らかに、心意うるわしくあられる上、民を愛し、士を好まれます。でありながら教化が行われず、万民が正しいとはいえません。たとえばひどく琴の調子が合わなければ、必ず絃をほどいて張り替えます。そこではじめて、弾くことができます。政が甚だしく行われなければ、一度変えてしまい、改めて教化し直しますと、はじめてよく治めることができます。
漢が天下を得て以来、常に国家が善く治まるようにつとめて、しかも今に至るまで治めることができないのは、当然改めるべきところを、改めなかったからにほかなりません」と申し上げた。

然而 然り而してと訓じて順接に使う場合が多いが、この場合は逆接なのでこのように訓じた。 鼔 鼓はつづみ、鼔(こ)は動詞で音を奏でること。
更張 張り替えること。 更化 改め変えること。

十八史略 董仲舒の対 3
2010-06-26 11:52:01 | 十八史略
太學
又曰、養士莫大乎太學。太學者、賢士之所關也、教化之本原也。願興太學置明師、以養天下之士。又曰、郡守・縣令、民之師帥、所使承流而宣化也。宜使列侯・郡守、各擇其吏民之賢者、歳貢各三人。

又曰く、士を養うは太學(たいがく)より大は莫(な)し。太學は賢士の関(よ)る所なり、教化の本原なり。願わくは太學を興し明師を置いて、以って天下の士を養わん、と。
又曰く、郡守・縣令は、民の師帥(しすい)にして、流れを承け化を宣(の)べしむる所なり。宜(よろ)しく列侯・郡守をして各々其の吏民の賢なる者を択び、歳々各々三人を貢(こう)せしむべし、と。

董仲舒は又策問に対(こた)えて、「天下の士を養成するには太学より大切なものはありません。太学こそ賢士が由(よ)って輩出するところで、教化の本源であります。故にどうか太学を興し、すぐれた師を置いて天下の有能な士を養成なさるべきであります。」
又更に、「郡守、県令は民の師となり、長となるべきもので、上(しょう)の意を承(う)けて下に教化を宣布すべき重要な地位にあります。そこで諸侯、郡守たちに、それぞれの治下の役人、人民の中から優れた者を択び出して毎年三人ずつを都に送り込ませるよう定めるべきであります」と。

太学 官吏養成のための学校。 関 あずかる、よる、関与。 師帥 模範、手本。 貢 推薦すること

十八史略  董仲舒の対 4
2010-06-29 13:47:59 | 十八史略

又曰、春秋大一統者、天地之常經、古今之通誼也。今師異道、人異論。臣愚以爲、諸不在六藝之科、孔子之術者、皆絶其道、然後統紀可一、法度可明、而民知所從矣。上善其對、以爲江都相。

又曰く、春秋、一統を大にするは、天地の常経、古今の通誼(つうぎ)なり。今、師ごとに道を異にし、人ごとに論を異にす。臣愚、以為(おも)えらく、諸々の六芸(りくげい)の科、孔子の術に在らざる者は、皆其の道を絶ち、然る後に統紀一(いつ)にす可(べ)く、法度(ほうど)明らかにす可く、而して民、従う所を知らん、と。上(しょう)、其の対を善しとし、以って江都の相と為す。

また言うには、「春秋の書は、王が天下を統一することを示していますが、これは天地自然の変わりない道であり、古今を通じて変わらぬ道義であります。ところが今は、先生ごとにそれぞれ道を異にし、人ごとにそれぞれ論を異にしています。そこで愚かながら私が考えますに、六芸の科目、つまり孔子の学術でないものは、皆その道を根絶して、そこではじめて国家の規範もひとつになり、天下の法も明らかになって、そして人民も従うべき方向を知るであろうと、存じます」と。武帝はこの答えをよしとして、董仲舒を江都王の宰相にした。

春秋 孔子が魯の国の記録を書き残した。解説書に左氏、穀梁、公羊(くよう)の三伝がある。董仲舒は公羊伝に精通した。 常経 常の径(みち) 六芸 六経(りくけい)に同じ。易経・書経・詩経・春秋・礼経・楽経の六つ。江都 江蘇省にある地名。統紀 綱紀におなじ、国を治める根本原則。

十八史略  力行如何(いかん)を顧みるのみ
2010-07-01 14:04:46 | 十八史略
上使使者奉安車蒲輪・束帛加璧、迎魯申公。既至。問治亂之事。公年八十餘。對曰、爲治不在多言。顧力行何如耳。
三年、閩越撃東甌。遣使發兵救之、徒其衆江淮。
帝始爲微行、起上林苑。
五年、置五經博士。
六年、閩越撃南越。遣王恢等撃之。
元光元年、初令郡國擧孝・廉各一人。

上(しょう)使者をして安車蒲輪(あんしゃほりん)・束帛加璧(そくはくかへき)を奉じて、魯の申公を迎えしむ。既に至る。治乱の事を問う。公、年八十余。対(こた)えて曰く、治を為すは、多言に在(あ)らず。力行如何(いかん)を顧みるのみ、と。
三年、閩越(びんえつ) 東甌(とうおう)を撃つ。使いを遣(つか)わし兵を発して之を救い、其の衆を江淮(こうわい)の間に徒(うつ)す。
帝始めて微行を為し、上林苑を起こす。
五年、五経博士を置く。
六年、閩越(びんえつ)、南越を撃つ。王恢(かい)等をして之を撃たしむ。
元光元年、初めて郡国をして孝・廉各々一人を挙げしむ。

武帝は使者を遣わして、振動の少ない老人用の車を用意させ、束ねた絹の上に璧を載せた礼物を携えて魯の儒者の申公(しんこう)を迎えさせた。都に着いた申公に武帝は治安と騒乱について意見を聞いた。この時申公は八十歳あまりであったが、答えて言うには「国を治めるには、百の議論より、努力実行しているかを、つねに念頭に置いて忘れないことであります」と。
三年に閩越が東甌を攻めた。武帝は求めに応じて使いをやり、兵を出して東甌を救った。その際難民を江水・淮水の間に住まわせた。
武帝は始めてお忍びで上林苑におもむき、苑内の改修事業を起こさせた。
五年に五経博士(ごきょうはかせ)の官を置いた。
六年に閩越が南越を攻めた。帝は王恢等を派遣して閩越を攻めさせた。
年号が代って元光元年、初めて各郡、各国から孝行の徳のあるもの、清廉の士それぞれ一名を推挙させて都に召した。

安車蒲輪 老人女子用に安座して乗れるよう作った車、蒲輪は振動を押さえるために蒲で車輪を包んだもの。 顧 常に念頭において忘れぬこと。 閩越 福建省にあった国名。 東甌 浙江省の国名。 上林苑 御苑の名。五経博士 易・書・詩・礼・春秋の経書に精通している学者。 郡国 郡は天子の直轄支配地、国は諸侯、王の私領で中央が相を派遣して治め、諸侯王は収入をうけるだけで政治には関与しなかった。

十八史略 武帝神仙を求む。
2010-07-06 13:35:20 | 十八史略
二年、方士李少君見上、善爲巧發奇中。言、祠竈則致物。而丹砂可化爲黄金、蓬莱仙者可見、見之以封禪則不死。上信之、始親祠竈、遣方士入海、求蓬莱安期生之屬。海上燕・齊迂怪之士、多更來信事矣。

二年、方士李少君上(しょう)に見(まみ)え、善く巧発奇中を為す。言う、竈(かまど)を祠(まつ)れば則ち物を致さん。而して丹砂は化して黄金と為す可(べ)く、蓬莱の仙者見る可く、之を見て以って封禅(ほうぜん)すれば則ち死せず、と。上之を信じ、始めて親(みずか)ら竈を祠り、方士を遣(つか)わし海に入り、蓬莱の安期生の属(やから)を求めしむ。海上の燕・齊の迂怪(うかい)の士、多く更々(こもごも)来って神事を言う。

元光二年に、方士の李少君という者が武帝に目通りして、巧みに話しを持ちかけ、それを帝が信じ込んだ。方士の言うには竃の神を祠れば欲しいものが何でも得られます、丹砂は黄金に変えることができますし、その黄金で造った盃で酒を飲みますと、蓬莱の仙人を見ることができます。その仙人を見て泰山の頂きで天を祀り、泰山の麓で地を祓い山川を祀ると死ぬことがございません」と。武帝はそれを信じて、自ら竈を祀り、方士を遣わして東の海にこぎ出させて蓬莱山に棲むという安期生(あんきせい)の仲間を求めさせた。東海のほとりの燕や齊の国の怪しげな者が次々に来て神仙の話を帝に吹き込んだ。

丹砂 辰砂(しんしゃ)におなじ、水銀や赤い絵の具の原料。 蓬莱 安期生などの仙人が住むという東海の島。 封禅 天子の祭祀で天と山川を祀る。 迂怪之士 大風呂敷、でたらめを言う者

十八史略 司馬相如
2010-07-08 13:50:35 | 十八史略
上用大行王恢議、遣恢等、將兵匿馬邑旁谷中、陰使聶壹誘匈奴、入塞而撃之。單于覺而去。自是絶和親、攻當路塞。
唐蒙上書、請通南夷。拝蒙中郎將、將千人入夜郎。夜郎侯聽約。以爲犍爲郡。
又拝司馬相如爲中郎將、通西夷、卭・筰・冉・駹置郡縣、西至沫若水、南至牂牁爲徼。

上、大行王恢(おうかい)が議を用い、恢等を遣わし、兵を将(ひき)いて馬邑(ばゆう)の旁(かたわら)の谷中(こくちゅう)に匿(かく)れ、陰(ひそ)かに聶壹(じょういつ)をして匈奴を誘(いざな)い、塞(さい)に入れて之を撃(う)たしむ。単于(ぜんう)覚(さと)って去る。是より和親を絶ち、当路の塞を攻む。
唐蒙上書して南夷に通ぜんことを請う。蒙を中郎將に拝し、千人を将(ひき)い夜郎(やろう)に入らしむ。夜郎侯、約を聴く。以って犍爲郡(けんいぐん)と為す。
又司馬相如(しばしょうじょ)を拝して中郎将と為し、西夷に通ぜしめ、卭(こう)・筰(さく)・冉(ぜん)・駹(ぼう)に郡県を置き、西は沫若水(まつじゃくすい)に至り、南は牂牁(しょうか)に至り、徼(きょう)を為(つく)る。

武帝は大行の王恢の進言を取り上げ、王恢等を派遣し、兵を率いて馬邑郡附近の山中に潜ませ、ひそかに聶壹という者に匈奴を塞に誘い込ませて、これを撃とうとした。ところが匈奴はそれと気づいて塞外に逃れ去った。以後、匈奴は漢との和睦を絶ち、要路にあたる漢の塞を攻撃した。
唐蒙が書を奉って南の蛮族を帰服させたいと願い出た。武帝は唐蒙を中郎將に任命して、兵士千人を率いて夜郎国に攻め入らせた。夜郎王は、漢に服従する盟約を受け入れた。そこで夜郎国を犍爲郡とした。
また、司馬相如を中郎将に任命して、西の蛮族を帰服させ、卭・筰・冉・駹に郡県にして、西は沫水・若水まで、南は牂牁郡に至るまでを版図に収め、砦を築いて国境とした。

大行 接待官。 中郎將 宮殿警備をつかさどった官の長。 夜郎 南西部の異民族、→夜郎自大(やろうじだい)。 司馬相如 詩賦文学の大成者。 卭・筰 西方蛮族の国名。 冉・駹 四川省にあった族の名。 徼 国境(特に西南部)のとりで。

十八史略 曲学阿世
2010-07-10 15:53:05 | 十八史略

曲学、以って世に阿(おもね)る無かれ
徴吏民有明當世之務、習先聖之術者、縣次續食、令與計偕。菑川公孫弘、對策曰、人主和於上、百姓和合於下。故心和則氣和。氣和則形和。形和則聲和。聲和則天地之和應矣。策奏。擢爲第一、待詔金馬門。齊人轅固、年九十餘、亦以賢良徴。弘仄目事之。固曰、公孫子務正學以言。無曲學以阿世。
六年、初算商車。

吏民の当世の務(つとめ)を明かにして、先聖の術に習うこと有る者を徴(め)して、県次(けんじ)に続食(ぞくしょく)し、計と偕(とも)にせしむ。菑川(しせん)の公孫弘(こうそんこう)、対策して曰く、人主(じんしゅ)、上(かみ)に和徳(わとく)あれば、百姓(ひゃくせい)、下(しも)に和合す。故に、心和すれば則ち気和す。気和すれば則ち形和す。形和すれば則ち声和す。声和すれば則ち天地の和応ず、と。策、奏す。擢(ぬき)んでて第一と為し、金馬門に待詔(たいしょう)せしむ。齊人(せいひと)轅固(えんこ)も、年九十余にして、亦賢良を以って徴(め)さる。弘、目を仄(そばだ)てて之に事(つか)う。固曰く、公孫子、正学を務めて以って言え。曲学、以って世に阿(おもね)る無かれ、と。
六年、初めて商車を算す。

武帝は、役人市民を問わず、当世の実務に精通し、孔孟の学を習得した者を県ごとに食事をとらせ、郡の会計簿を都に提出する者に同道させて召しよせた。時に菑川の公孫弘が武帝の策問に答えて「人君が上にあって和らぎ徳あらば、下にいる民衆は和らぎなつきます。心が和らぐと、気も和らぎ、気が和らぐと容貌も和らぎます、容貌が和らぎますと声も和らぎ、声が和らぎますと天地万物が和らぎ天変地異がなくなるのであります」と奏した。武帝は抜きん出て第一等とし、金馬門の下の官舎に留めおき、任官の詔を待たせることになった。この時斉の人で轅固という者も九十歳余りであったが、賢良方正であると推挙されて召されていた。公孫弘は正視できずに事えていたが、ある時、轅固が教え諭した。「公孫子よ、正しい学問のみに務めて、それを説くがよい、真理を曲げた学問を説いて世間にへつらい媚びてはなりませんぞ」と。
元光六年(前129年)初めて商人の舟や荷車の数を調べて課税した。

菑川 山東省の地名。 公孫弘 春秋の学者、武帝に信任される。 対策 天子の策問に対(こた)えること。 待詔 詔を待つこと。 仄目 目をそらし畏れはばかる。 正学 孔孟の学問

十八史略 何ぞ相見るの晩(おそ)きや
2010-07-13 08:27:32 | 十八史略

匈奴寇上谷。遣將軍衞等、撃卻之。
元朔元年、主父偃上書、諌伐匈奴。嚴安亦上書。及徐樂亦上書云、陛下何威而不成、何征而不服。書奏。上召見曰、公等皆安在、何相見之晩也。皆拝郎中。是秋匈奴入寇。二年、又入寇。遣衞等撃之、遂取河南地、置朔方郡。

匈奴上谷を寇(こう)す。将軍衛青等を遣わし、撃って之を卻(しりぞ)く。
元朔(げんさく)元年(前128) 主父偃(しゅほえん)、上書(じょうしょ)して匈奴を伐つことを諌(いさ)む。嚴安も亦上書す。及び徐楽(じょがく)も亦上書して云く、陛下何れを威(おど)してか成らざらん、何れを征してか服せざらん、と。書、奏す。上(しょう)、召して見て曰く、公等皆安(いづ)くに在りしか、何ぞ相見るの晩(おそ)きや、と。皆郎中に拝す。是(こ)の秋、匈奴入寇(にゅうこう)す。二年、又入寇す。衛青等を遣わして之を撃ち、遂に河南の地を取り、朔方郡(さくほうぐん)を置く。

匈奴が上谷に侵攻してきた。将軍衛青等を派遣して、これを撃退させた。
元朔元年、主父偃が書をたてまつって、匈奴を討伐することを諌めた。厳安も上書して諌めた。そして徐楽も亦上書して「陛下のご威光をもってしたならば、誰を威しても聞かぬ者はおりませんし、何処を伐っても服さぬ者がありましょうか。だからこそ兵を軽々しく動かしてはならないのであります」と諌めた。これらの書が奏せられると、武帝は三人に目どおりを賜って「そなた達は今まで何処にいたのか、もっと早く会いたかったものだ」といって三人とも郎中の官に任命した。
この年の秋、匈奴が侵攻して来た。元朔二年にもまた侵攻して来た。武帝は衛青等を派遣してこれを撃退して河南の地を奪い、この地を朔方郡とした。

上谷 河北省にある地名。 朔方郡 陜西省の地名。

十八史略 張騫を西域に遣わす
2010-07-15 11:51:44 | 十八史略
五年、公孫弘、爲丞相、封平津侯。上方興功業。弘於是開東閣、以延賢人。
匈奴寇朔方。遣衞率六將軍撃之。還。以爲大將軍。匈奴入代。
六年、春遣衞等六將軍撃匈奴。夏再遣。
元狩元年、遣博望侯張騫、使西域、通滇國。

五年、公孫弘丞相となり、平津侯に封(ほう)ぜらる。上、方(まさ)に功業を興す。弘、是(ここ)に於いて東閣(とうこう)を開き、以って賢人を延(ひ)く。
匈奴、朔方に寇(こう)す。衛青を遣わし六将軍を率いて之を撃たしむ。
還る。青を以って大将軍と為す。匈奴、代に入る。
六年春、衛青等六将軍を遣わして匈奴を撃たしむ。夏再び遣わす。
元狩(げんしゅ)元年、博望侯張騫(ちょうけん)を遣わし、西域に使いせしめ滇國(てんこく)に通ず。

元朔五年に、公孫弘が丞相となり、また平津侯に封ぜられた。帝はちょうど大事業を興そうとしていた。そこで公孫弘は東に小門をつくり、天下の賢者を招いた。
匈奴が朔方郡を侵した。武帝は衛青を遣わして六人の将軍を率いてこれを撃破させた。
衛青が凱旋すると、帝はその功をよしとして大将軍に任命した。
匈奴が代郡に攻め入った。
六年の春に、衛青ら六人の将軍を派遣して、匈奴を征伐させた。その夏にも派遣した。
元狩元年(前122年) 博望侯の張騫を派遣して、西域に使者として赴かせ滇國を帰服させた。

代 山西郡にあった地名。 張騫 建元年間に大月氏に使いしたが匈奴に捕えられる11年後脱走し前126年に還った。 滇國 雲南地方一帯の蛮族

十八史略 霍去病、西域を平ぐ
2010-07-17 12:16:10 | 十八史略

二年、以霍去病爲驃騎將軍、撃敗匈奴。過焉支・祁連山而還。
匈奴渾邪王降。置五屬國、以處其衆。
三年、匈奴入右北平・定襄。
四年、遣衞・霍去病撃匈奴。去病、封狼居胥山而還。

二年、霍去病(かくきょへい)を以って驃騎 (ひょうき) 将軍と為し、撃って匈奴を敗る。焉支(えんし)・祁連(きれん)山を過(よぎ)って還る。
匈奴の渾邪王(こんやおう)降る。五属国を置き、以って其の衆を処(お)く。
三年、匈奴、右北平・定襄に入る。
四年、衛青、霍去病を遣わし、匈奴を撃たしむ。去病、狼居胥山に封(ほう)じて還る。

元狩(げんしゅ)二年に霍去病を驃騎将軍として匈奴を撃ち敗り、焉支山・祁連山までも長駆攻略して還った。
匈奴の渾邪王が降伏した。よって五つの属国を置き、そこに匈奴の民衆を住まわせた。
三年に、匈奴が右北平・定襄に攻め入った。
元狩四年、衛青と霍去病を派遣して匈奴を攻撃させた。去病は大勝して狼居胥山にて天をまつる檀を築く封(ほう)の儀式を行って還った。

十八史略 衛青と霍去病
2010-07-20 18:17:08 | 十八史略
元鼎二年、方士文成將軍李少翁、以詐誅。
西域始通。置酒泉・武威郡。
五年、遣將軍路博等撃南越。
方士五利將軍欒大、以詐誅。
六年、討西羌平之。
南越平。置九郡。

元鼎(げんてい)二年、方士文成將軍李少翁、詐(さ)を以って誅せらる。
西域始めて通ず。酒泉・武威郡を置く。
五年、将軍路博等を遣わして、南越を撃たしむ。
方士五利將軍欒大(らんだい) 詐(さ)を以って誅せらる。
六年、西羌(せいきょう)を討って之を平らぐ。
南越平らぐ。九郡を置く

元鼎二年(前115年) 方士で、文成將軍の李少翁が武帝を欺いたかどで、誅殺された。
西域が始めて漢の威光がゆきわたったので、酒泉郡と武威郡を置いた。
五年、将軍路博徳らを派遣して南越を攻めさせた。方士で五利将軍の欒大が武帝を欺いたかどで誅殺された。
六年、西羌国を討伐してこれを平定した。
南越も平定したので、九郡を置いた。

文成將軍・五利将軍 ともに武官でない者に授けられる官名。 酒泉郡と武威郡 ともに甘粛省の郡名。 西羌 甘粛省にあった国名。 南越 広東、広西地方にあった国名。

衛青 姉が武帝の寵愛を受けたおかげで、どん底の生活から抜け出し、騎射に才能があったおかげで、匈奴征伐に連戦し、連勝する。部下を大事にすることで人望も篤かった。大将軍、大司馬になった。前106年没
霍去病 衛青の甥、18歳で匈奴征伐に参軍、前121年に驃騎将軍に前119年に衛青と並んで大司馬になった。衛青とは対照的に苦労知らずで傲慢なところがあったが、武帝ほか宮廷にも、兵にも人気があった。名前とはうらはらに病を得て前117年、24歳の若さで亡くなった。
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十八史略 泰山に封じ、粛然山に禅す。
2010-07-22 10:16:14 | 十八史略
元封元年、帝出長城、登單于臺、遣使告單于曰、南越王頭、已懸於漢北闕下。今單于能戰、天子自將待邊。
帝如緱氏、登中嶽、遂東巡海上、求神仙、封泰山、禪粛然、復東北至碣石而還。
滇王降。置益州郡。
三年、撃楼蘭虜其王、撃車師破之。
朝鮮降。置樂浪・臨屯・玄莬・眞蕃郡。
匈奴寇邊。遣兵屯朔方。
五年、南巡江漢、至泰山増封。
六年、撃昆明。

元封元年、帝、長城を出で、単于台に登り、使いを遣わし単于に告げて曰く、南越王の頭(こうべ)はすでに漢の北闕(ほっけつ)の下(もと)に懸かれり。今、単于能(よ)く戦わば、天子自ら将として辺に待たん、と。
帝、緱氏(こうし)に如(ゆ)き、中嶽に登り、遂に東のかた海上を巡り、神仙を求め、泰山に封じ、粛然(しゅくぜん)に禅し、復東北して碣石(けっせき)に至って還る。
滇王(てんおう)降る。益州郡を置く。
三年、楼蘭を撃って其の王を虜にし、車師を撃って之を破る。
朝鮮降る。楽浪・臨屯(りんとん)・玄莬(げんと)・眞蕃郡(しんばんぐん)を置く。
匈奴、辺に寇す。兵を遣わして朔方に屯せしむ。
五年、南のかた江漢を巡(めぐ)り、泰山に至って封(ほう)を増す。
六年、昆明を撃つ。

元封元年に、武帝は長城を越えて冒頓単于の築いた台に登り、使者を遣わして、単于に告げて、「南越王の頭(こうべ)は漢宮の北門に懸かっている。それでも汝が漢と戦うというのなら、わしが自ら大将軍となって国境で待っていてやるが、どうだ」と威した。
武帝は緱氏県に行き、嵩山(すうざん)に登り、更に東の海上を巡り神仙を捜し求めた。それから泰山に登り、天を祀る封の儀式を、麓の粛然山で地を祀る禅の儀式を執り行って、さらに東北に行き、碣石山に至って帰還した。
滇王が降伏したので、益州郡を置いた。
元封三年に楼蘭国に攻め入り、王を虜にした。さらに車師国を撃ち破った。
朝鮮が降伏したので、楽浪・臨屯・玄莬・眞蕃の四郡を置いた。
匈奴は辺境を侵犯したので、兵を派遣して朔方郡に駐屯させた。
五年に、南の揚子江、漢水の地方を巡幸し、泰山に登って、土檀を増築して祀った。
六年に、昆明を攻めた。

北闕 漢の未央宮では北門を正門とした。 緱氏 河南省の県。 中岳 五岳の一、嵩高山、太室山とも。 粛然 泰山の麓にある山の名。 封と禅 封は土を盛って天をまつり、禅は地を清めて山川をまつること。 碣石山 河北省にある山名。 楼蘭・車師 ともに新疆地区にあった国名。 昆明 雲南地方の族名。

十八史略 太初暦を制定す
2010-07-27 14:12:53 | 十八史略

太初元年、帝如泰山。十一月甲子、朔旦冬至、作太初暦、以正月爲歳首。
遣李廣利伐大宛。不克。
遣趙破奴撃匈奴。敗没。
三年、匈奴大入、破塞外城障。
大發兵、從李廣利伐宛。宛降。得善馬數十匹。
四年、匈奴單于、使使來獻。

太初(たいしょ)元年、帝泰山に如(ゆ)く。十一月甲子、朔旦(さくたん)冬至、太初暦を作り、正月を以って歳首と為す。
李廣利(りこうり)を遣わして大宛(だいえん)を伐たしむ。克(か)たず。
趙破奴(ちょうはど)を遣わして匈奴を伐たしむ。敗没す。
三年、匈奴大いに入って、塞外の城障(じょうしょう)を破る。
大いに兵を発し、李廣利に従って宛を伐たしむ。宛降る。善馬数十匹を得たり。
四年、匈奴の単于、使いをして来献せしむ。

太初元年(前104年)、武帝は泰山に行き、封の儀式を行った。この年の十一月甲子の日は一日(ついたち)で冬至でもあったので、暦法を改めて太初暦を制定して、この日を正月元日とし、歳のはじめとした。
李広利を派遣して大宛国を撃たせたが、勝つことができなかった。
趙破奴を派遣して匈奴を撃たせたが、敗れて趙破奴は捕虜になった。
三年に、匈奴が大挙して侵入し砦の外の城壁を破った。
大部隊を動員して李広利の指揮で宛の討伐に向わせた。宛は降伏し、駿馬数十匹を得て帰った。
太初四年に匈奴の単于が使者を送って、貢物を献上した。

甲子 干支のそれぞれ第一番目、きのえね。ちなみにこの年は丁丑直近では1997年で35回還暦を迎えたことになる。 朔旦 一日の朝。 大宛国 西域の代表国、イラン系の国で汗血馬の産地。 敗没 戦に敗れて捕虜になること。

十八史略 蘇武
2010-07-29 10:35:32 | 十八史略
天漢元年、遣中郎將蘇武使匈奴。單于欲降之、幽武置大窖中、絶不飮食。武齧雪與旃毛、并咽之。數日不死。匈奴以爲神、徙武北海上、無人處。使牧羝曰、羝乳乃得歸。
二年、遣李廣利撃匈奴。別將李陵敗降虜。
上以法制御下、好尊用酷吏。東方盗賊滋起。遣使者、衣繍衣、持斧督捕、得斬二千石以下。
四年、李廣利撃匈奴。不利。
太始三年、帝東巡瑯琊、浮海而還。
四年、東巡祀明堂、修封禪。

天漢元年、中郎將蘇武(そぶ)を遣わし匈奴に使いせしむ。単于(ぜんう)之を降(くだ)さんと欲し、武を幽(ゆう)して大窖(たいこう)中に置き、絶えて飲食せしめず。武、雪と旃毛(せんもう)とを齧(か)み、併せて之を咽(の)む。数日死せず。匈奴以って神(しん)と為し、武を北海の上(ほとり)、無人の処に徙(うつ)す。羝(てい)を牧せしめて曰く、羝、乳(にゅう)せば乃(すなわ)ち帰るを得ん、と。
二年、李廣利を遣わして匈奴を撃たしむ。別将李陵敗れて虜(りょ)に降る。
上(しょう)、法制を以って下(しも)を御し、好んで酷吏を尊用す。東方に盗賊滋々(しばしば)起こる。使者を遣わして、繍衣(しゅうい)を衣(き)、斧(ふ)を持して督捕(とくほ)せしめ、二千石以下を斬ることを得しむ。
四年、李広利匈奴を撃つ。利あらず。
太始三年、帝、東のかた瑯琊を巡り、海に浮んで還る。
四年、東巡して明堂を祀り、封禅を修(しゅう)す。

天漢元年、中郎将の蘇武を匈奴に使いとして遣わした。単于は蘇武を虜にして匈奴に仕えさせようとしたが拒絶したので、あなぐらに幽閉し、飲食を絶った。蘇武は織物の毛と雪とをあわせて呑み下して、数日生き延びた。匈奴たちは、その生命力を神がかりであるとして、蘇武を北海の無人の岸辺に移し、牡羊を飼わせて、もし子を産んだら還してやろう。と言った。
天漢二年に李広利を遣わして匈奴を撃たせた。そのとき別軍の将の李陵は敗れて降伏した。
武帝は、法や制度で人民を統治し、冷徹な役人を好んで重く用いた。しかし東方では盗賊が多く出没した。そこで武帝は、使者を送り、その使者に立派な刺繍の衣を着せ、斧を持たせて、賊を取り締まり、捕えさせた。地方長官以下で、悪事を働く者を独断で処刑できるようにした。
四年に、李広利が匈奴を攻めたが、失敗に終った。
太始三年になると武帝は東方の瑯琊郡を巡り、海路船で帰った。
四年に、東方を巡視して、泰山の明堂で諸侯を引見して、天を祀り、地を祓って封禅の儀式を行った。

中郎將 帝を護衛する武官の長。 蘇武 匈奴に捕えられ19年節を守って降らず、昭帝の時代に還った。 北海 バイカル湖。 衣繍衣持斧 天子の代理であることを示すため錦の刺繍の服を着せ、天子が出征の将軍に持たせる斧を授けた。 二千石以下 郡の太守の年俸に等しい。

十八史略 巫蠱(ふこ)の事作(おこ)る
2010-08-17 13:40:24 | 十八史略

目まぐるしく元号が交替したので、ここで一度整理をしてみます。武帝が始めて年号を制定した建元から昭帝即位までの年号を西暦に対比して掲げてみます。
建元元年 前140年  2150年前
元光   前134年  2144年前
元朔   前128年  2138年前
元狩   前122年  2132年前
元鼎   前116年  2126年前
元封   前110年  2120年前
太初   前104年  2114年前
天漢   前100年  2114年前
太始   前96年   2106年前
征和   前92年 2102年前
後元   前88年 2098年前

征和二年、巫蠱事作。帝如甘泉、以江充爲使者、治巫蠱獄。掘太子宮云、得木人尤多。太子據懼、使客佯爲使者、収捕充斬之、白母衞皇后、發中厩車、載射士、出武庫兵、發長樂宮衞卒。

征和二年、巫蠱(ふこ)の事作(おこ)る。帝、甘泉に如(ゆ)き、江充を以って使者と為し、巫蠱の獄を治めしむ。太子の宮を掘って云う、木人を得ること尤(もっと)も多し、と。太子據(きょ) 懼(おそ)れ、客をして佯(いつわ)って使者と為し、充を収捕して之を斬らしめ、母衛皇后に白(もう)し、中厩の車を発し、射士を載せ、武庫の兵を出し、長樂宮の衞卒を発す。

征和二年に巫蠱の事件が起こった。帝は甘泉宮に保養に行っていたので、江充を使者に遣わして事件の処断を任せた。かねてより太子と不仲の江充は太子の宮殿を掘り返したら、多くの呪詛の木人が出て来ましたと、嘘の報告をした。
太子の據は江充のわなに陥ったことを知り、恐れて食客の一人を武帝の使者と偽って、江充を捕えて切り殺した。そして母の衛皇后にいきさつを告げて宮中の厩から、兵車を引き出し、射手を乗り込ませ、武器庫から武器を持ち出して長楽宮の護衛兵を出動させた。

十八史略 巫蠱の事
2010-08-19 09:52:19 | 十八史略
上從甘泉宮來、詔發三輔兵。丞相劉屈氂將之。太子亦矯制發兵、逢丞相軍。兵合戰五日、死者數萬。皇后自殺、太子亡至湖、自經死。後有高廟寢郎、田千秋。上書言、有白頭翁、教臣云、子弄父兵、罪當笞。上悟曰、此高廟神靈、告我也。知太子無罪。作歸來望思之臺於湖。天下聞而悲之。

上(しょう)、甘泉宮より来たり、みことのりして三輔の兵を発す。丞相劉屈氂(りゅうくつり)之に将たり。太子も亦制を矯(いつわ)り兵を発し、丞相の軍に逢う。兵、合戦すること五日、死する者数万なり。皇后自殺し、太子亡(に)げて湖(こ)に至り、自頸して死す。
後、高廟の寢郎、田千秋というもの有り。上書して言う、白頭翁有り、臣に教えて云わく、子、父の兵を弄するは、罪笞(ち)に当(とう)す、と。上、悟って曰く、此れ高廟の神霊、我に告ぐるなり。太子の罪無きを知る、と。帰来望思の台を湖に作る。天下、聞いて之を悲しむ。

武帝は急ぎ甘泉宮より戻り、詔勅を発して三輔の兵を出動させた。丞相の劉屈氂が率いた。太子もまた帝の詔勅といつわって兵を繰り出し丞相の軍と対峙した。合戦は五日に及び、死者数万人にも及んだ。太子は敗れ、母の衛皇后は自殺、太子は逃げて湖県に行き、そこで首をくくって死んだ。
後に、高祖の御霊屋(みたまや)の司で田千秋という者が、武帝に書をたてまつって言うには「白頭の翁が現れまして臣に向って、子たる者が、父の兵を勝手に動かすのは笞打ちの刑に相当するのみである。と告げました」と。
武帝はそこで「高祖の霊が我に太子には罪がないことを示されたに違いない」と気づき、湖県に帰来望思台を作った。人々はこれを聞いて大いに悲しんだ。

巫蠱 巫は巫女、蠱は人を惑わし害すること。 三輔の兵 都長安の周囲三郡の兵。 湖 河南省湖県

十八史略 武帝霍光に後を託す。
2010-08-21 09:29:39 | 十八史略

三年、匈奴寇五原・酒泉。遣李廣利撃之。廣利降匈奴。
四年、罷方士候神人者。
以田千秋爲相、封富民侯、罷議輪臺屯田、下詔深陳既往之悔。
後元二年、上幸五柞宮。病篤。以霍光爲大司馬大將軍、受遺詔輔太子。上在位五十四年、改元者十有一、曰、建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元。

三年、匈奴五原・酒泉に寇(こう)す。李廣利を遣わして之を撃たしむ。廣利匈奴に降る。
四年、方士の神人を候(こう)する者を罷(や)む。
田千秋を以って相と為し、富民侯に封じ、輪台の屯田を議することを罷(や)め、詔(みことのり)を下して深く既往(きおう)の悔いを陳(ちん)ず。
後元二年、上(しょう)、五柞宮(ごさくきゅう)に幸(こう)す。病篤し。霍光(かくこう)を以って大司馬大将軍と為し、遺詔(いしょう)を受けて太子を輔(たす)けしむ。上、在位五十四年、改元する者(こと)十有一、曰く、建元・元光・元朔(げんさく)・元狩(げんしゅ)・元鼎(げんてい)・元封(げんぽう)・太初・天漢・太始・征和・後元。

征和三年に匈奴が五原・酒泉に侵入した。武帝は李廣利を遣わして撃たせたが、李廣利は匈奴に降伏してしまった。
四年、神霊を降ろすという方士を朝廷から追放した。
田千秋を丞相に任命し、富民侯に封じた。また西域の輪台国に屯田兵を置くとする議案を取り下げ、詔勅を下して、これまであまりに兵を出したことを悔いている旨を告げ示した。
後元二年に武帝は五柞宮に行幸したが、そこで病が悪化した。霍光を大司馬大将軍に任じ、太子を補佐するようと詔を遺して世を去った。位にあること五十四年、元号を変えること十一回、すなわち建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元である。

輪台国 新疆にあった国。 五柞宮 西安にあった宮殿。 霍光 霍去病の異母弟

十八史略 武帝の事跡(一) 
2010-08-24 16:29:37 | 十八史略
上雄材大略。承文・景豊富之後、窮極武事。嘗謂、高帝遺平城之憂。思如齊襄公復九世之讎。數征匈奴、盡漢兵勢。匈奴遠遁、幕南無王庭。斥地立郡縣、置受降城、通西域、通西南夷、東撃朝鮮、南伐粤、軍旅歳起。内事土木、築上苑、屬南山。建柏梁臺、作承露銅盤。高二十丈、大七圍、上有仙人掌。

上(しょう)、雄材大略あり。文・景、豊富の恵を承け、武事を窮極す。嘗て謂(い)えらく、高帝、平城の憂いを遺(のこ)せり。齊の襄公が九世の讎(あだ)を復するが如くならんことを思う、と。数々(しばしば)匈奴を征し、漢の兵勢を盡す。匈奴遠く遁(のが)れ、幕南(ばくなん)に王庭(おうてい)無し。地を斥(ひら)き、郡縣を立て、受降城を置き、西域に通じ、西南夷に通じ、東のかた朝鮮を撃ち、南のかた粤(えつ)を伐ち、軍旅歳々起こる。内には土木を事とし、上苑を築き、南山に属す。柏梁台を建て、承露銅盤を作る。高さ二十丈、大いさ七囲、上に仙人掌あり。

武帝は持って生まれた優れた能力と機略があった。そのうえ、文帝・景帝の遺した豊富な財力があったので、憑かれたように兵事に明け暮れた。ある時、「わが高祖は平城で匈奴に囲まれ、九死に一生を得た。その恥辱と憂憤は子孫に受け継がれている。その昔、斉の襄公は九代前の仇を報いた。わしもそれに倣わなければならない」と言った。こうして度々匈奴を討ち、兵力の限りを尽くして匈奴を遠く退け、沙漠の南には匈奴王の領地は無くなった。武帝はその地を開墾して郡縣を置き、投降者を受け入れる砦を設けた。かくして武帝は威光を西域から西南域に拡げ、東は朝鮮を、南は越国を伐って毎年のように戦争があった。国内では土木事業をおこした。宮中に庭園を造成して南山にまで連ねさせ、柏梁台を築き、銅盤を置いた。その銅盤は高さ二十丈、太さは七かかえもあり、露を受ける仙人が盃をささげている像(仙人掌)があった。

平城の憂い 高祖が四十万の匈奴軍に包囲されたとき、陳平の機略により、七日後に囲みを解かれた。 幕南 幕は沙漠、ゴビ砂漠のこと。 粤は越。 
承露銅盤 長命を授けるとされる天の露を承ける銅盤。

十八史略 武帝の事跡二
2010-08-26 14:59:40 | 十八史略
漢、幾んど秦たるを免れず

以方士公孫卿言神仙好樓居、作蜚廉・桂・通天莖臺、作首山宮、作建章宮千門萬戸、東鳳閣、西虎圏、北太液池。中有漸臺・蓬莱・方丈・瀛洲・壷梁。南玉堂璧門、立神明臺、作明光宮。皆極侈靡。數巡幸崇祠祀、修封禪。國用不給。賣武功爵級、造鹿皮幣・白金。桑弘羊・孔僅之徒、作均輸・平準法、興利以佐費、置鹽官、算舟車、造緍錢。天下蕭然。末年盗起。微輪臺一詔、漢幾不免爲秦。

方士公孫卿(こうそんけい)が、神仙は楼居を好む、と言うを以って、蜚廉(ひれん)・桂・通天茎台(つうてんけいだい)を作り、首山宮を作り、建章宮を作り、千門万戸、東は鳳閣、西は虎圏、北は太液池。中(うち)に漸台(ぜんだい)・蓬莱・方丈・瀛洲(えいしゅう)・壷梁(こりょう)有り。南は玉堂璧門、神明台を立て、明光宮を作る。皆侈靡(しび)を極む。数しば巡幸して、祠祀(しし)を崇(たっと)び、封禅を修す。国用給せず。武功の爵級(しゃくきゅう)を売り、鹿皮の幣・白金を造る。桑弘羊(そうこうよう)・孔僅(こうきん)の徒、均輸・平準法を作り、利を興して以って費を佐(たす)け、塩官を置き、舟車を算し、緍銭(びんせん)を造る。天下蕭然(しょうぜん)たり。末年、盗起こる。輪台の一詔微(な)かりせば、漢、幾(ほと)んど秦たるを免れず。

方士の公孫卿が、神仙は好んで高い楼台に住むと聞かされると、武帝は蜚廉閣・桂閣・通天茎台などの高楼を建てた。また首山宮、建章宮を作り、多くの門や屋敷を建てた。東には鳳閣、西には虎の檻、北に太液の池、その池の中には漸台という高楼を建て、蓬莱・方丈・瀛洲・壷梁などの島を造った。南には宝玉をちりばめた堂や門が作られ、神明台、明光宮を作った。すべてが奢りを極めたものであった。また帝はしばしば地方を巡幸し、盛んに神々をまつり封禅の儀式を行った。そのため財政は逼迫して、軍功によって賜るべき爵位を金で売り与えたり、鹿皮で代用した紙幣や錫を混ぜた銀貨を鋳造してその場を凌いだ。桑弘羊や孔僅の徒が均輸法や平準法を制定して、利益を挙げて国費の足しにした。また塩の売買を掌る官を置き、舟や車に税をかけ、銭一さしにも税を課した。天下はすっかり沈滞し、武帝の晩年には盗賊が横行するようになった。もしこの時輪台の詔勅が出されていなければ、漢はほとんど秦と同じ末路をたどることを免れなかったであろう。

均輸法 各地の産物を政府に納めさせ、利益を乗せた上で統一価格で売り渡した。 平準法 政府が安い時に買いつけ、価格の平準を保ちつつ利益を得て売り渡す法。 輪台の一詔 屯田兵を輪台国に置くことを取り止め、武帝が反省した詔勅。

十八史略 武帝の事跡 
2010-08-28 13:55:24 | 十八史略
丞相連(しき)りに誅を以って死す。

所用丞相、初惟田蚡稍專。上嘗謂蚡曰、卿除吏、盡未。吾亦欲除吏。後皆充位而已。公孫弘後、國家多事、丞相連以誅死。公孫賀拝相、至涕泣不肯拝。亦卒以罪死。酷吏張湯・趙禹・杜周・義緃・王温舒之徒、皆嘗峻用刑法。然湯等有罪、亦不貸也。其卜式・兒寛之屬、亦以長者見用。

用いる所の丞相は、初め惟田蚡(でんぷん)のみ稍(やや)専らなり。上(しょう)嘗て蚡に謂って曰く、卿(けい)、吏を除(じょ)する、尽くるや未だしや。吾も亦吏を除せんと欲す、と。後皆、位に充つるのみ。公孫弘の後、国家多事にして、丞相連(しき)りに誅を以って死す。公孫賀、相に拝せられしも、涕泣(ていきゅう)して肯(あえ)て拝せざるに至る。亦、卒(つい)に罪を以って死す。酷吏、張湯(ちょうとう)・趙禹(ちょうう)・杜周(としゅう)・義緃(ぎしょう)・王温舒(おうおんじょ)の徒、皆嘗て刑法を峻用(しゅんよう)す。然れども湯等罪有れば亦貸さざるなり。其の間に卜式(ぼくしょく)・兒寛(げいかん)の属、亦長者(ちょうしゃ)を以って用いらる。

武帝が用いた丞相の中で、初め田蚡だけが、やや政権を専らにした。ある時、武帝は田蚡に向って、皮肉を言ったことがあった。「丞相どの官吏の任命は終ってしまったかな。わしも少しは任命してみたいのだが」と。しかしその後の丞相は皆ただその位に座っているだけの存在で、実権を持たなかった。公孫弘が丞相になってからは国家に事件が多発して、丞相が次々と罪を負って殺されたから、公孫賀などは丞相に任命されたときに泣いて辞退をしたけれども結局罪を得て殺された。張湯・趙禹・杜周・義緃・王温舒などの面々はいずれも法を峻烈に執行して帝に信任されていたけれども、些細なことで容赦なく処罰された。こうした中で、卜式や兒寛らは有徳の士として武帝に重用された。

十八史略 武帝の事跡四
2010-08-31 17:35:03 | 十八史略

汲黯獨以嚴見憚。數切諌、不得留内。爲東海守。好清浄、臥閣内不出。而郡中大治。入爲九卿。上方招文。嘗曰、吾欲云云。黯曰、陛下内多欲、而外施仁義。奈何欲效唐虞之治乎。上怒罷朝曰、甚矣、黯之戇也。他日又曰、古有社稷臣。黯近之矣。

汲黯(きゅうあん)、独り厳を以って憚(はばか)らる。数しば切諌(せっかん)して、内に留まるを得ず。東海の守と為る。清浄を好み、閣内(こうない)に臥して出でず。而して郡中大いに治まる。入って九卿(きゅうけい)と為る。上、方(まさ)に文学を招く。嘗て曰く、吾云々せんと欲すと。黯曰く、陛下、内、多欲にして、外、仁義を施す。奈何(いかん)ぞ唐虞(とうぐ)の治に效(なら)わんと欲するか、と。上、怒って朝(ちょう)を罷(や)めて曰く、甚だしいかな、黯の戇(とう)なるや、と。他日又曰く、いにしえ、社稷(しゃしょく)の臣あり。黯、之に近し、と。

群臣の中で汲黯だけは謹厳な人として武帝からけむたがられていた。度々厳しく諌めるので、朝廷に留まることができず、飛ばされて東海郡の太守になった。俗塵にまみれるのを嫌って、閉じこもったままだったが、郡中はよく治まった。再び朝廷に呼び戻されて九大臣の列に加わった。その頃武帝は学問に秀でた者を招き寄せていた。あるとき「わしはしかじかのことをしようと思う」と言うと汲黯が遮って、「陛下は内心欲が深くいらっしゃるのに、うわべだけ仁義を謳っておられる、それで堯や舜の治世に倣おうとなされるのでしょうか」と臆面もなく言ってのけた。武帝はあまりの無礼さにその日の朝議を取り止めて、「汲黯め馬鹿正直にも程がある」と怒ったが、後日「昔から国家を守り抜く忠臣がいたものだが、汲黯はこれに近い奴であるな」ともらした。

切諌 強くいさめること。 九卿 中枢の九の官庁の長。 文学 漢代、地方官の推薦により学問のすぐれた人を官吏に採用した制度の一。 唐虞 陶唐氏と有虞氏、堯と舜の号。 戇(とう) 愚直 章にぼくづくりとエ下に貝その下に心。 社稷の臣 国家の興廃安否にかかわる家臣。

十八史略 武帝の事跡 汲黯
2010-09-02 13:32:29 | 十八史略
黯の如きは冠せざれば見ざるなり

淮南王安謀反。曰、漢廷大臣、獨汲黯好直諌、守節死義。如丞相弘等、説之如發蒙耳。黯嘗拝淮陽守。曰、臣病、不能任郡事。願爲郎中、出入禁闥、補過拾遺。上曰、君薄淮陽邪。吾今召君矣。顧淮陽吏民不相得。徒得君之重、臥而治之。至淮陽、十歳竟卒。黯甚爲上所重。大將軍衞雖貴、上或踞廁見之。如黯不冠、不見也。

淮南王(わいなんおう)安、反を謀(はか)る。曰く、「漢廷の大臣、独り汲黯(きゅうあん)、直諌を好み、節を守って義に死す。丞相弘等の如きは、之を説くこと蒙を発(ひら)くがごとき耳(のみ)」と。黯、嘗て淮陽(わいよう)の守に拝せらる。曰く、臣病んで郡事に任ずる能(あた)わず。願わくは郎中と為り、禁闥(きんたつ)に出入し、過を補い遺(い)を拾わん、と。上曰く、君、淮陽を薄(うす)んずるか。吾今、君を召さん。顧(おも)うに淮陽の吏民、相得ず。徒(ただ)君の重きを得て、臥して之を治めんと。淮陽に至り、十歳にして竟(つい)に卒(しゅっ)す。黯、甚(はなは)だ上の重んずる所と為る。大将軍衞、貴しと雖も、上、或いは廁(しょく)に踞(きょ)して之を見る。黯の如きは、冠せざれば見ざるなり。

淮南王の安が謀反を企ててこう言った。「漢の朝廷の重臣の中で、汲黯だけが憚ることなく天子を諌め、節義を守るために命を投げ出す人物だ。丞相の公孫弘などの連中は、いかようにも言いくるめられる。まるで何かの蓋をつまんで取るようなものだ」と。
汲黯は嘗て、河南の淮陽の太守に任命されたとき、「私めは病気がちで、お役目を果たすことが出来そうもありません。できることなら郎中にしていただいて、宮中に出入りし、陛下の過失をおぎない、お見落としを拾っていきたいと思います」と申し上げた。武帝は「そなたは淮陽を軽んじていないか。どうにもいやだと言うなら、すぐにも呼び戻してやるから暫く行ってくれ。役人と人民との間がうまくいっていない、そなたの徳の重みで寝たままで良いから治めてくれ」と言った。汲黯は結局淮陽に赴任し、十年後、ついにその地で歿した。
汲黯は、武帝にたいそう信任された。大将軍の衛青さえ、武帝は時として寝台に腰掛けたまま引見することがあったが、汲黯に対してだけは、冠をつけなければ決して会わなかった。

淮南王安 高祖の孫、謀反したが自殺した。 蒙を発く おおいを取り去る。
禁闥 禁は禁裏、闥は小門。 拾遺 もれているものを拾い補うこと、あるいは君主の過失をいさめる官名。 踞廁 廁は普通シ、かわやを指すが、ここではショクで寝台の側。

十八史略 東方朔
2010-09-07 16:44:32 | 十八史略
上、招選天下材智士、俊異者、寵用之。莊助・朱買臣・吾丘壽王・司馬相如・東方朔・枚皋・終軍等、在左右。相如特以詩賦得幸。朔・皋不根持論、好詼諧。上以俳優畜之。朔嘗語上前侏儒、以爲上欲殺之。侏儒泣請命。上問朔。朔曰、侏儒飽欲死、臣朔饑欲死。伏日賜肉晏。朔先斫肉持歸。上召問、令自責。朔曰、受賜不待詔、何無禮也。抜劔斫肉、何壯也。斫之不多、何廉也。歸遺細君、又何仁也。然朔亦時直諌、有所補。

上、天下材智の士、俊異の者を招選(しょうせん)して、之を寵用す。莊助・朱買臣・吾丘壽王・司馬相如(しばしょうじょ)・東方朔(とうほうさく)・枚皋(ばいこう)・終軍等左右に在り。相如は特に詩賦(しふ)を以って幸を得たり。朔・皋は持論を根(こん)とせず、詼諧(かいかい)を好む。上、俳優を以って之を畜(やしな)う。朔、嘗て上の前の侏儒に語り、以って上之を殺さんと欲すと為す。侏儒泣いて命を請う。上、朔に問う。朔曰く、侏儒は飽(あ)いて死せんと欲し、臣朔は饑えて死せんと欲す、と。伏日に肉を賜うこと晏(おそ)し。朔、先ず肉を斫(き)って持ち帰る。上、召して問い、自ら責めしむ。朔曰く、賜(たまもの)を受けて詔を待たず、何ぞ礼無きや。剣を抜いて肉を斫る、何ぞ壮なるや。之を斫って多からず、何ぞ廉(れん)なるや。帰って細君に遺(おく)る、又何ぞ仁なるや、と。然れども朔も亦時に直諌(ちょっかん)して、補益(ほえき)するする所有り。

武帝は天下の逸材智者、異能の士を選び招き、寵愛して用いた。荘助・朱買臣・
吾丘壽王・司馬相如・東方朔・枚皋・終軍らが側近に仕えた。司馬相如は詩賦によって目をかけられていた。東方朔・枚皋はこれといった見識はなく、諧謔、滑稽の才によって、役者、芸人として禄を得ていた。あるとき東方朔は武帝の前に仕えている小人に「帝はお前の命を所望しているようだ」と耳うちした。小人は驚いて泣いて助命を請うた。武帝は訳が解らず、東方朔に尋ねた。朔はすかさず、「こびとは賜りものがあまりに多いので食べ過ぎて死にそうだと訴えているのです。ところで私めは飢えて死にそうなのでございます」と答えた。
盛夏三伏の日には諸役人に肉を下賜するならわしがあったが、このときは遅くなった。朔は真っ先に肉を切って持ち帰ってしまった。武帝は東方朔を呼び、、どう責めを負うつもりかと、詰問した。朔はすまして「賜りものを頂くのにお言葉も待たぬとは何と無礼な。剣を抜いて肉を切る、なんという勇ましさじゃ。肉を切っても多く取らぬとは何と無欲なことか。しかも持って帰って細君に渡すとはなんと仁者じゃ」と言った。
しかし朔もまた時に帝に直言して、過ちを補いたすけたことがあった。

侏儒 こびと

十八史略 武帝の事績(七)
2010-09-09 15:47:31 | 十八史略
神仙
自李少君以來、求神仙不已。文成誅而五利至。五利以文成爲言。上曰、文成食馬肝死耳。及五利又誅、公孫卿等、尤見聽信。末年、帝乃悟曰、天下豈有仙人、盡妖妄耳。節食服藥、差可少病而已。

李少君より以来、神仙を求めて已(や)まず。文成誅せられて五利至る。五利文成を以って言を為す。上曰く、文成は馬肝(ばかん)を食(くら)いて死せしのみ、と。五利又誅せらるるに及び、公孫卿等、尤も聴信(ちょうしん)せらる。末年、帝乃ち悟って曰く、天下豈仙人有らんや、尽く妖妄(ようもう)のみ。食を節し薬を服せば、差(やや)病を少うすべきのみ、と。

方士の李少君の説を信じてからこのかた、武帝は神仙を求めてやまなかった。文成将軍李少君は帝を詐(いつわ)ったとして殺された。五利将軍欒大(らんだい)が後をうけて朝廷に入ったが文成将軍の前例に恐れをなして、神仙の術を言わなかった。そこで武帝は文成将軍は馬の肝にあたって死んだのだと言いくるめて、促がした。やがて五利将軍も誅殺されてしまった。その後公孫卿等の言説が信用された。晩年になって、武帝はやっと醒めて「この世に仙人などいない、みなまやかしに過ぎぬ、食物を控えめに、薬を用いれば少しは病が少なくなるばかりだ」と言った。

十八史略 武帝の事績 三代の風あり
2010-09-12 07:51:03 | 十八史略
武帝崩ず

漢興、雖自惠帝已除挾書之禁、文帝已廣游學の路、然儒學終末盡盛。至帝世、董仲舒・公孫弘、皆以春秋進兒寛亦以經術飾吏事。後又有孔安國等出。表章六經、實自帝始。數獲瑞。白麟・朱雁・芝房、寶鼎、皆爲樂章、薦之郊廟。文章亦帝世始盛。人以爲有三代之風焉。
帝壽七十而崩。葬茂陵。太子立。是爲孝昭皇帝。

漢興り、恵帝より已(すで)に挟書之禁を除き、文帝已に游学の路を広むと雖も、然れども儒学終に未だ尽くは盛んならず。帝の世に至り、董仲舒・公孫弘、皆春秋を以って進み、兒寛(げいかん)も亦経術を以って吏事を飾る。後又、孔安国等の出づる有り。六経(りくけい)を表章するは、実に帝より始まる。数々祥瑞を獲(え)たり。白麟・朱雁・芝房、寶鼎、皆楽章を為(つく)って、之を郊廟に薦(すす)む。文章も亦帝の世に至って始めて盛んなり。人以って三代の風有りと為す。帝、寿七十にして崩ず。茂陵(もりょう)に葬る。太子立つ。是を孝昭皇帝と為す。

武帝の事績(八)
漢が興ってから恵帝の時になって蔵書の禁が解かれ、文帝の時に自由に遊学する道が開けたが儒学はいまだ十分に盛んになるにはいたらなかった。武帝の世になってから董仲舒・公孫弘は「春秋」に精通しているというので官位を与えられ、兒寛も経書の学術を以って職務を輝かせた。後にはまた孔安国が出て、易経・書経・詩経・春秋・礼記・楽経を天下に明らかにしたのは実に武帝の時に始まったのである。また度々瑞祥があらわれた。白い麒麟、赤い雁、霊芝、宝鼎、これ等は皆音楽をつくって、天や祖先の祭りに奏した。文章も武帝の時に盛んになった。そこで人々は武帝の世を、夏・殷・周の遺風があると讃えた。帝は齢七十で崩じ茂陵に葬られた。あとを継いで太子が即位した。孝昭皇帝(昭帝)という。

挟書之禁 秦の焚書を引き継いだもので書をわきばさむこと禁ずるの意、禁書の制。 孔安国 孔子の子孫で、おたまじゃくしの様な蝌蚪(かと)文字を研究し解読した。 表章 世に出して広く知らせること。

十八史略 昭帝立つ
2010-09-14 09:11:37 | 十八史略

孝昭皇帝名弗陵。母鉤弋夫人、趙氏。娠十四月而生。武帝、命其門曰堯母門。年七歳、體壯大多知。武帝欲立之。察羣臣、惟霍光忠厚、可任大事。使黄門畫周公負成王朝諸侯、以賜光。譴責鉤弋夫人賜死。曰、古、國家所以亂、由主少母壯、驕淫自恣也。明年武帝崩。遂即位。燕王旦、以長不得立謀反。赦弗治。黨與伏誅。

孝昭皇帝名は弗陵(ふつりょう)。母は鉤弋(こうよく)夫人、趙氏なり。娠(はら)んで十四月(げつ)にして生まる。武帝其の門に命じて堯母門(ぎょうぼもん)と曰う。年七歳、体壮大にして多知なり。武帝之を立てんと欲す。群臣を察するに、惟(た)だ霍光(かくこう)のみ忠厚にして、大事を任ず可し。黄門をして周公、成王を負(お)って諸侯を朝(ちょう)せしむるを画き、以って光に賜わしむ。鉤弋夫人を譴責(けんせき)して死を賜う。曰く、いにしえ、国家の乱るる所以は、主少(わか)く母壮(そう)にして驕淫自恣(きょういんじし)なるに由(よ)る、と。明年武帝崩ず。遂に位に即く。燕王旦、長にして立つを得ざるを以って反を謀(はか)る。赦して治(ち)せず。党与誅に伏す。

孝昭皇帝、名は弗陵という。母は鉤弋夫人、趙氏である。懐妊して十四ヶ月で生まれたので、武帝はやはり十四ヶ月で生まれた堯帝にあやかって、その宮殿の門を堯母門と名づけた。弗陵は年七歳で身体は大きく、知能も優れていたので、武帝は弗陵を後継ぎに立てようとした。群臣をじっと観察してみると霍光のみ忠実で情に厚いとみて、太子の補佐の大任を果たさせようとした。侍従に、幼い成王が周公旦に背負われて諸侯の拝謁をうけている絵を描かせて、それを霍光に下賜して意を伝えた。その後、鉤弋夫人の過失をせめて、死を命じた。側近には「昔から国の乱れは君主が幼少、その母が若く、驕りと不品行でわがままなことで起こるものだ」ともらした。
その翌年武帝は崩じ、弗陵が位についた。燕王の旦が年長にも拘わらず帝位につくことができなかったので謀反を企てた。しかし昭帝は、旦を赦して罪に問わず、与(くみ)した者たちを誅殺した。

十八史略  雁書
2010-09-16 15:06:32 | 十八史略
前回漏れたので、遅れ馳せながら付け加えます。赦弗治 赦して治せず 弗は不に同じ、治は取り調べる意。

蘇武帰還す
始元六年、蘇武還自匈奴。武初徒北海上、堀野鼠、去草實而食之、臥起持漢節。李陵謂武曰、人生如朝露。何自苦如此。陵與衞律降匈奴、皆富貴。律亦屢勸武降。終不肯。漢使者至匈奴。匈奴詭言、武已死。漢使知之、言、天子射上林中、得鴈。足有帛書。言、武在大澤中。匈奴不能隠。乃遣武還。武留匈奴十九年。始以強壯出。及還、須髪盡白。拝爲典屬國。

始元六年、蘇武匈奴より還る。武、初め北海の上(ほとり)に徒(うつ)り、野鼠を掘り、草実を去(おさ)めて、之を食らい、臥起(がき)に漢の節を持す。李陵、武に謂って曰く、人生朝露の如し。何ぞ自ら苦しむこと此の如き、と。陵と衛律(えいりつ)とは匈奴に降(くだ)って、皆富貴なり。律も亦屡しば武に降(こう)を勧む。終に肯(がえ)んぜず。漢の使者、匈奴に至る。匈奴詭(いつわ)り言う、武、已に死す、と。漢の使之を知り、言う、天子、上林の中に射て、雁を得たり。足に帛書有り。言く、武は大澤の中(うち)に在り、と。匈奴隠すこと能わず。乃(すなわ)ち武を遣(や)って還す。武、匈奴に留まること十九年。始め強壮を以って出ず。還るに及んで須髪尽く白し。拝して典属国と為す。

始元六年に蘇武が匈奴より還って来た。蘇武はバイカル湖のほとりに流されたが、野鼠を捕り、草の実を貯めてこれを食い、寝起きするに漢の符節を身から離さなかった。さきに匈奴に降った李陵が蘇武に向って「人の一生は朝の露のようにはかないもの、どうして自らこんなに苦しんでいるのだ」と言った。李陵と衛律とは匈奴に降服して、富貴に暮らしていた。衛律もたびたび蘇武に降服を勧めたが最後まで承知しなかった。
その後、漢の使者が匈奴に来て蘇武の返還をせまった折、匈奴は偽って蘇武はもう死んだと告げた。漢の使者は偽りを見抜き、「近頃、天子が上林で狩をしていたとき、雁を射止められたところ足に手紙がつけてあり、武は大きな沢のほとりにいる。と書いてあったぞ、どう説明するのだ」と迫った。匈奴は隠しきれず、蘇武を還した。匈奴の地に留まること十九年、漢を出るときは頑強で壮んであったが、帰ったときは鬚も髪も真っ白になっていた。漢は蘇武を典属国の長官に任命した。

草実を去(おさ)め 去はしまうの意。 節 使者の印しとして天子が授けた旗。
帛書 帛は絹、これに書かれた手紙。須髪 須は鬚、あごひげ。 
典属国 降服した異民族のことを司る官。

十八史略 霍光排斥の陰謀
2010-09-18 12:00:54 | 十八史略
左将軍上官桀子安、爲霍光婿。生女。立爲皇后。桀與安自以、后之祖・父、乃不若光以外祖專制朝事。桀與光爭權。時鄂國蓋長公主、爲所愛丁外人求封侯。不許。怨光。燕王旦自以帝兄常怨望。御史大夫桑弘羊爲子弟求官。不得。亦怨望。於是皆與旦通謀、詐令人爲旦上書言、光出都肄郎・羽林、道上稱蹕擅調莫府校尉、專權自恣。疑有非常。候光出沐日奏之。桀欲從中下其事、弘羊當與大臣共執退光。

左将軍上官桀(けつ)の子安(あん)は、霍光の婿たり。女を生む。立って皇后と為る。桀と安と自ら以(おも)えらく、后の祖・父なるに、乃ち光の外祖を以って朝事を専制するに若かず、と。桀、光と権を争う。時に鄂国(がくこく)蓋(こう)長公主(ちょうこうしゅ)は、愛するところの丁外人の為に封侯を求む。許されず。光を怨む。燕王旦は自ら帝の兄を以って常に怨望(えんぼう)す。御史大夫桑弘羊は子弟の為に官を求む。得ず。亦怨望す。
是に於いて皆旦と謀(はかりごと)を通じ詐(いつわ)って、人をして旦の為に書を上(たてまつ)らしめて言う、光、出でて郎・羽林を都肄(とい)せしとき、道上に蹕(ひつ)を称し、擅(ほしいまま)に莫府(ばくふ)の校尉(こうい)を調益(ちょうえき)し、権を専(もっぱら)にして自らほしいままにす。疑うらくは非常有らん、と。光の出沐(しゅつもく)の日を候(うかが)うて之を奏す。桀、中(うち)より其の事を下し、弘羊をして大臣と共に、執(と)って光を退くるに当らしめんと欲す。

左将軍上官桀の子の安は、霍光の婿となり、娘が生まれた。やがて娘は昭帝の皇后となった。桀と安が思うに、皇后の祖父でありまた父である我等が、皇后の外祖父で、朝事を専らにしている霍光に及ばぬ、と不満に思っていた。それで桀は次第に霍光と権力を争うようになった。この頃、昭帝の一番上の姉で、鄂国の蓋侯夫人は寵愛する丁外人を諸侯に取り立ててくれるよう頼んだが、許されず霍光を怨んでいた。燕王旦は自分が昭帝の兄であるのに天子になれなかったので、かねてから怨んでいた。また御史大夫の桑弘羊も自分の子供のために官職を与えられるよう頼んだが、得られず、これまた怨んでいた。
ここに至ってみな燕王旦と通じて、ある者をして旦の名で上書して「霍光は都を出て、郎軍や羽林軍を調練するとき、街道で天子と同じ格の先払いをさせ、勝手に幕府の将校を増やし選び権勢をもっぱらにし、ほしいままに振舞っております。あるいは重大な事態に至るやもしれません」と言わせた。この上奏文は霍光が参朝しない日をうかがって差し出された。上官桀は宮中にいてこの件を直ちに審議に付し、桑弘羊には大臣と共に強く主張して霍光を失脚させる役目を担わせる計画だった。

都肄 都は試みる、肄は習うで演習。 郎・羽林 郎は侍従武官、羽林は近衛兵。 蹕 天子の行列の先払い。 出沐日 休日、沐浴するために役所を出て休日としたから。

十八史略 昭帝霍光の窮地を救う
2010-09-23 10:43:21 | 十八史略
書奏。帝不肯下。明旦、光聞之、止畫室中不入。上問、大將軍安在。桀曰、以燕王告其罪、不敢入。詔召大將軍。光入。免冠頓首謝。上曰、將軍之廣明都郎、屬耳。調校尉以來、未能十日。燕王何以得知之。且將軍爲非、不須校尉。是時元鳳元年、帝年十四。尚書左右皆驚。而上書果亡。捕之甚急。

書奏す。帝肯(あえ)て下さず。明旦、光之を聞き、画室中に止まって入らず。上(しょう)問う、大将軍安(いづ)くにか在る、と。桀曰く、燕王、其の罪を告ぐるを以って、敢えて入らず、と。詔(みことのり)して大将軍を召す。光入る。冠を免(ぬ)ぎ頓首して謝す。上曰く、将軍、廣明に之(ゆ)いて郎を都(と)せしは属(このごろ)のみ。校尉を調して以来、未だ十日なる能(あた)わず。燕王何を以って之を知るを得ん。且つ将軍非を為さんとせば、校尉を須(ま)たざらん、と。是の時元鳳元年(前80年)にして帝年十四なり。尚書左右皆驚く。而して書を上(たてまつる)者果たして亡(に)ぐ。之を捕うること甚だ急なり。

訴状が奏上されたが、昭帝は自分の手元に留めおいた。翌朝霍光がこの事を聞くと画室に籠って入廷しなかった。帝が「大将軍はどこにいるか」と問うと、桀が答えて「燕王が光の罪を奏上したので入るのを憚っているのでしょう」と。昭帝はみことのりを下して大将軍を召した。霍光は参内すると冠をぬぎ、額を地につけて詫びた。昭帝は告げた「将軍が広明亭に行って郎軍を調練したのは、まだ最近のことだ。将校を選任してからは十日も経っていない。燕王がどうして知り得よう、それにもし将軍が何か事を起こそうと思ったとしても、将校などあてにするはずがなかろう」と。この時は元鳳元年、昭帝はまだ十四歳であった。尚書や左右の側近は皆帝の聡明さに驚いた。そして上書した者は姿をくらました。帝は逮捕せよと厳しく命じた。

十八史略 
2010-09-25 10:37:27 | 十八史略
桀等懼白上、小事不足遂。上不聽。後、桀黨有譖光者。上輒怒曰、大將軍忠臣、先帝所屬以輔朕身。敢有毀者坐之。自是無敢復言。桀等謀令長公主置酒請光、伏兵挌殺之、因廢帝而立旦。安又謀誘旦、至誅之、廢帝而立桀。會有知其謀者、以聞。捕桀・安・弘羊等、并宗族盡誅之。蓋主與旦皆自殺。

桀等懼れて上(しょう)に白(もう)す、小事遂ぐるに足らず、と。上聴かず。後、桀の党に光を譖(しん)する者有り。上、輒(すなわ)ち怒って曰く、大将軍は忠臣、先帝の属(しょく)して以って朕が身を輔(たす)けしむる所なり。敢えて毀(そし)る者有らば之を坐せしめん、と。是より敢えて復言うもの無し。桀等、長公主をして酒を置いて光を請わしめ、兵を伏せて之を挌殺(かくさつ)し、因(よ)って帝を廃して旦を立てんと謀(はか)る。安、又、旦を誘(いざな)い、至らば之を誅し、帝を廃して桀を立てんと謀る。会々(たまたま)其の謀を知る者有り、以って聞(ぶん)す。桀・安・弘羊等を捕え、宗族を併せて尽く之を誅す。蓋主(こうしゅ)と旦と皆自殺す。

上官桀等は企みの露見を恐れて、昭帝に「些細なことです、厳しく追及することでもないでしょう」と申し上げたが、帝は承知しなかった。その後桀の仲間から霍光を讒言する者があった。昭帝は怒って、「大将軍は忠臣ゆえ、先帝が朕を補佐するよう遺言しておかれたものだ、それでもそしるならば罪に問うであろう」と言った。以後霍光をそしる者はなくなった。桀等は次に長公主に、酒宴を開いて霍光を招待させ、兵を伏せておいて打ち殺し、それに乗じて昭帝を廃し、旦を立てようと謀った。上官安はさらに旦をも招きよせてこれを殺し、父の桀を立てようと謀った。たまたまそのたくらみを知った者がいて、昭帝の耳に入れたので、帝は上官桀・安父子と桑弘羊らを捕え、その一族をも尽く誅殺した。蓋公主と燕王旦はともに自害した。

坐 罰する、連座の坐

十八史略 昭帝崩ず
2010-09-28 12:54:11 | 十八史略
四年、傅介子使西域、誘樓蘭王刺殺之、馳傳詣闕。以其爲匈奴反也。
元平元年、帝年二十一而崩。在位十四年。改元者三、曰始元・元鳳・元平。霍光爲政、與民休息、天下無事。昌邑王賀、哀王髆之子、武帝孫也。光迎賀入即位。尊皇后爲皇太后。賀淫戲無度。光奏廢之、迎立武帝曾孫。是爲中宗孝宣皇帝。

四年、傅介子(ふかいし)、西域に使いし、楼蘭王を誘(いざな)うて之を刺殺し、伝を馳せて闕(けつ)に詣(いた)る。其の匈奴の為に反間するを以ってなり。
元平元年、帝、二十一にして崩ず。在位十四年。改元すること三、始元・元鳳・元平と曰(い)う。霍光、政を為し、民と休息し、天下無事なり。昌邑王(しょうゆうおう)賀は哀王髆(はく)の子にして、武帝の孫なり。光、賀を迎え、入れて位に即(つ)かしむ。皇后を尊んで皇太后と為す。賀、淫戲(いんぎ)度無し。光、奏して之を廃し、武帝の曾孫を迎立(げいりつ)す。是を中宗孝宣皇帝と為す。

元鳳四年(前77年)に、傅介子という者が、西域に使者となって行き、楼蘭王を誘い出して刺殺し、駅馬を乗り継いで朝廷に駆けつけた。楼蘭王が匈奴と通じて離間をはかったからである。
元平元年(前74年)、昭帝が二十一歳で崩御した。帝位に在ること十四年改元すること三度、すなわち、始元・元鳳・元平である。その間、霍光が政務をとり、人々とやすらぎを共にしたので、天下は平らかであった。
昌邑王の賀は哀王髆の子で武帝の孫であった。霍光はその賀を朝廷に迎え入れて、即位させた。そして昭帝の皇后を皇太后として尊んだ。ところが賀は女色に耽ってとめどが無かったので、霍光は皇太后に奏上して、賀を廃し、武帝の曾孫を迎えて立てた。これが中宗孝宣皇帝(宣帝)である。

伝 駅伝。 闕 宮城の門。 反間 敵国同士の仲をさく計略をめぐらすこと

十八史略 獄中に天子の気あり
2010-09-30 15:38:39 | 十八史略
無辜なるも尚不可なり況や皇曾孫をや
孝宣皇帝初名病已。後改名詢。武帝之曾孫也。初戻太子據、納史良娣、生史皇孫進。進生病已。數月遭巫蠱事、皆繋獄。望氣者言。長安獄中、有天子氣。武帝遣使、令盡殺獄中人。丙吉時治獄。拒不納。曰、侘人無辜尚不可。況皇曾孫乎。使者還報。武帝曰、天也。

孝宣皇帝、初め名は病已(へいい)。後名を詢(じゅん)と改む。武帝の曾孫(そうそん)なり。初め戻太子拠(きょ)、史良娣(りょうてい)を納れ、史皇孫進を生む。進、病已を生む。数月にして巫蠱(ふこ)の事に遭い、皆獄に繋がる。気を望む者言う、「長安の獄中に、天子の気有り」と。武帝、使を遣わして、尽く獄中の人を殺さしむ。丙吉、時に獄を治む。拒んで納れず。曰く、「侘人(たにん)の無辜(むこ)なるも尚不可なり。況(いわん)や皇曾孫をや」と。使者還り報ず。武帝曰く、「天なり」と。

孝宣皇帝、もとの名は病已、後に詢と改めた。武帝のひ孫である。かつて武帝の太子であった戻太子拠が史氏のむすめを良娣として納れて、皇孫史進を生ませた。その子が病已である。病已の生後数ヶ月に巫蠱の事件に出遭い、連坐して係累すべて牢獄に繋がれた。
雲気を眺めて吉凶を占う者が、「長安の獄中に天子の雲気が見えます」と言った。武帝は使者を遣わして、獄中の者をことごとく殺させようとした。この時丙吉という者が牢獄を取り締まっていたが、使者を拒んで聞き入れず、「たとい誰であろうと、無実の人を殺すことはできません。まして帝の曾孫などもってのほかです」と言った。使者が還ってこの事を告げると武帝は「天命というべきか」と言っただけであった。

良娣 女官の官名、太子妃に次ぐ側室。 戻太子 宣帝が即位後に贈った諡(おくりな)
侘人 他人に同じ。 無辜 辜は罪。 

十八史略
2010-10-07 08:06:29 | 十八史略
地節三年、路温舒上書言、秦有十失。其一尚存。治獄之吏是也。俗語曰、畫地爲獄、議不入、刻木爲吏、期不對。此悲痛辭。願省法制、寛刑罪、則太平可興。上爲置廷尉平。獄刑號爲平矣。
膠東相王成、勞來不怠、治有異績。賜爵關内侯。
魏相爲丞相、丙吉爲御史大夫。

地節三年、路温舒(ろおんじょ) 上書して言う、秦に十失有り。其の一尚存す。治獄(ちごく)の吏是なり。俗語に曰く、地を画(かく)して獄と為すも、入らざらんことを議し、木を刻して吏と為すも、対せざらんことを期す、と。此れ悲痛の辞なり。願わくは法制を省き、刑罪(けいざい)を寛(ゆる)うせば、則ち太平興す可し、と。上、為に廷尉平を置く。獄刑(ごくけい)、号して平と為す。
膠東(こうとう)の相、王成、労来(ろうらい)して怠らず、治に異績(いせき)あり。爵、関内侯を賜う。
魏相丞相と為り、丙吉、御史大夫と為る。

地節三年(前67年)に路温舒という者が宣帝に書を上(たてまつ)っていうには「秦に十の過失がありました。その一つは今もなお残っております。それは罪をさばく役人の苛酷さであります。俗に地面に線を引いてここは獄舎だと言えばその中には入るまいと思うし、木を削って獄吏だといえば、その前に立つことを厭うといいます。これは民の悲痛な声であります。どうか法を簡略にし、刑罰をゆるやかにしてください。そうすればおのずと太平の風が興りましょう」と。宣帝はこの上書を取り上げて廷尉平という官を設けた。その結果裁判が公平になったと称せられるようになった。
膠東王の宰相で王成という者は、民を労わり、なつかせて大きな治績をあげたので、関内侯の爵位を授けられた。
魏相が丞相となり、丙吉が御史大夫となった。

治獄之吏 裁判官。 議不入 議は思いめぐらす。期不對 期は心に決めること、対は裁判官の前に出て調べを受けること。 廷尉平 裁判の不公平をただす役。

十八史略 霍氏滅ぶ。
2010-11-18 16:15:50 | 十八史略

四年、霍氏謀反、伏誅。夷其族。告者皆封列侯。初霍氏奢縦。茂陵徐福上疏言、宜以時抑制、無使至亡。書三上。不聽。至是人爲徐生上書曰、客有過主人。見其竈直突、傍有積薪、謂主人、更爲曲突、速徒其薪。主人不應。俄失火。郷里共救之、幸而得息。殺牛置酒、謝其郷人。人謂主人曰、郷使聽客之言、不費牛酒、終無火患。今論功而賞、曲突徒薪無恩澤、焦頭燗額爲上客邪。上乃賜福帛、以爲郎。

四年、霍氏謀反し、誅に伏(ふく)す。その族を夷(たい)らぐ。告ぐる者、皆列侯に封ぜらる。初め霍氏、奢縦(しゃしょう)なり。茂陵の徐福、上疏(じょうそ)して言う、「宜しく時を以って抑制し、亡に至らしむること無かるべし」と。書三たび上(たてまつ)る。聴かず。是に至って人、徐生の為に上書して曰く、「客、主人を過(よぎ)るもの有り。その竈(かまど)の直突にして、傍らに積薪(せきしん)有るを見、主人に謂う、更めて曲突(きょくとつ)を為(つく)り、速やかにその薪を徒(うつ)せと。主人応ぜず。俄(にわ)かに火を失す。郷里共に之を救い、幸いにして息(や)むを得たり。牛を殺し、酒を置いて、その郷人に謝す。人、主人に謂って曰く、郷(さき)に客の言を聴(き)かしめば、牛酒を費やさず、終(つい)に火の患無かりしならん。今、功を論じて賞するに、曲突薪を徒せというものに恩沢無くして、頭を焦がし額を燗(ただ)らすものを上客となすかと」と。上乃ち福に帛(はく)を賜い、以って郎と為す。

地節四年に、霍氏一族が謀反をはかり、誅せられて皆殺しにされた。謀反を告発した者を皆列侯に封じた。以前より霍氏一門はおごりたかぶっていたので、茂陵の徐福というものが「今のうちに霍氏を抑えつけて、滅亡にまで至らないようにするべきでしょう」と書をたてまつった。上書は三度に及んだが、聴き入れられなかった。こうして霍氏の謀反が誅せられるに及んで、ある人が徐福の為にこう上書した「ある家を訪れたものが、竈の煙突がまっすぐで、傍に薪が積んであるのを見て主人に、新たに曲がった煙突に造り直し、薪を他所に移さないと火事になりますよ。と忠告したところ、主人は応じませんでした。やがてその竈から失火しましたが、村人たちの協力を得て消し止めることができた。主人は喜んで牛を殺し、酒を用意して村人たちに振るまい、感謝しました。ある人が主人に向って“先に客人の忠告を聴き入れていれば、牛や酒の用意も、火事の災いも無かったでしょう。ところが今、謝礼をする段になって、煙突を曲げなさい、薪を移しなさいと言ったものには何の音沙汰もなく、頭を焦がし、額を爛れさせた者だけをありがたがるとはどうしたことでしょう”と申したそうでございます」と。宣帝はその意を悟って徐福に絹を下賜し、さらに郎官に取り立てた。

曲突 火の粉がすくないからか。 過る おとずれるの意。 郷に 以前の意。

十八史略 霍氏の禍い驂乗にきざす
2010-11-24 08:47:45 | 十八史略
帝初立謁高廟、霍光驂乗。上嚴憚之。若有芒刺在背。後、張安世代光參乗。上從容肆體、甚安近焉。故俗傳、霍氏之禍、萌於驂乗。

帝、初めて立って高廟に謁するや、霍光驂乗(さんじょう)す。上(しょう)之を厳憚(げんたん)す。芒刺(ぼうし)の背に在るが若(ごと)し。後、張安世光に代って参乗す。上、従容肆体(しょうようしたい)甚だ安近す。故に俗伝う、霍氏の禍い驂乗に萌(きざ)す、と。

宣帝が即位した初め、高祖の廟に参拝のとき、霍光が陪乗したが、帝は心休まらず、まるで背中に棘がささったようであった。後に張安世光に代って陪乗するようになると、くつろいでなごやかに、近づき易くなった。それで世間では「霍氏一門の禍は、陪乗のときにきざしていたのだ」とうわさしあった。

十八史略 乱民を治むるは、乱縄を治むるが如し(1)
2010-11-25 08:30:44 | 十八史略
北海太守朱邑、以治行第一、入爲大司農、渤海太守龔遂入爲水衡都尉。先是渤海歳饑、盗起。選遂爲太守召見問、何以治盗。遂對曰、海濱遐遠、不沾聖化。其民飢寒、而吏不恤。使陛下赤子、盗弄兵於潢池中耳。今欲使臣勝之邪。將安之也。上曰、選用賢良、固欲安之。遂曰、治亂民、如治亂縄。不可急也。願無拘臣以文法、得便宜從事。上許焉。

北海の太守朱邑、治行第一を以って、入(い)って大司農(だいしのう)と為り、渤海の太守龔遂(きょうすい)、入って水衡都尉(すいこうとい)と為る。是より先、渤海(ぼっかい)歳饑(う)え、盗起こる。遂を選んで太守と為す。召見(しょうけん)して問う、何を以って盗を治むると。遂対(こた)えて曰く、海浜、遐遠(かえん)にして、聖化に沾(うるお)わず。其の民飢寒(きかん)して、吏(り) 恤(あわれ)まず。陛下の赤子(せきし)をして、兵を潢池(こうち)の中に盗弄(とうろう)せしむるのみ。今臣をして之に勝たしめんと欲するか、将(はた)之を安(やす)んぜんかと。上曰く、賢良を選用するは、固(もと)より之を安んぜんと欲するなり、と。遂曰く、乱民を治むるは、乱縄を治むるが如し。急にすべからざるなり。願はくは臣を拘するに文法を以ってすること無く、便宜事に従うを得しめよ、と。上、焉(これ)を許す。

北海郡(山東省)の太守の朱邑は、治績徳行とも第一であるとして、朝廷に入って大司農となり、渤海(河北省)の太守龔遂は、朝廷に入って水衡都尉になった。これというのは、渤海郡は年々飢饉に見舞われ盗賊が増えたので宣帝は龔遂を選んで太守に任命した。そこで遂を召して聞いた「どうやって盗賊を取り締まるつもりか」と。すると遂は「渤海は海辺の僻地で陛下の徳に浴しておりません。民が飢えても役人が救おうともせず、いわば陛下の赤子が溜池の中で刃物を振り回すようにしむけているようなものです。陛下は私に武力で鎮圧するのをお望みでしょうか、それとも安撫するのをお望みでしょうか」と問うた。宣帝は「わざわざ優れた人材を登用するのは安撫することを望めばこそだ」と答えた。遂は「乱れた民を治めるのはもつれた縄を解くようなもので、性急であってはなりません。どうか私を煩わしい法規でしばることなく、一存で取り計らえるようにしていただきたい」と申し上げた。宣帝はこれを許した。

水衡都尉 河川の水路灌漑、宮中の御苑を管理する官。 遐遠 遐も遠もとおいこと。兵 武器。  潢池 水溜り、渤海湾にたとえる。


十八史略 闕(けつ)を守って号泣する者数万人
2010-11-30 17:06:11 | 十八史略
趙廣漢腰斬さる
元康元年、殺京兆尹趙廣漢。初廣漢爲潁川太守。潁川俗、豪傑相朋黨。廣漢爲缿項筩、受吏民投書、使相告訐。姦黨散落、盗賊不得發。由是入爲京兆尹。尤善爲鉤距、以得其情、閭里銖兩之姦皆知、發姦擿伏如神。京兆政清。長老傳、自漢興、治京兆者、莫能及。至是人上書言、廣漢以私怨論殺人。下廷尉。吏民守闕號泣者數萬人、竟坐要斬。廣漢廉明、威制豪強、小民得職。百姓追思歌之。

元康元年、京兆の尹(いん)趙廣漢を殺す。初め廣漢、潁川(えいせん)の太守と為る。潁川の俗、豪傑相朋黨す。廣漢、缿項筩(こうこうとう)を為(つく)り、吏民の投書を受け、相告訐(こくけつ)せしむ。姦盗散落し、盗賊発するを得ず。是に由(よ)って入って京兆の尹と為る。尤も善く鉤距(こうきょ)を為して、以って其の情を得、閭里(りょり)銖両(しゅりょう)の姦も皆知り、姦を発し、伏を擿(てき)すること神(しん)の如し。京兆政(まつりごと)清し、長老伝う、漢興ってより、京兆を治むる者、能く及ぶ莫(な)しと。
是(ここ)に至って、人上書して言う、廣漢、私怨を以って人を論殺(ろんさつ)す、と。廷尉に下す。吏民、闕(けつ)を守って号泣する者数万人、竟(つい)に坐して要斬(ようざん)せらる。廣漢、廉明にして、豪強を威制(いせい)し、小民職を得たり。百姓(ひゃくせい) 追思(ついし)して之を歌う。

京兆の尹 京兆は首都のこと、兆は衆と同じ人が多い所、長安、尹は長官。 潁川 河南省の郡名。 缿項筩 缿筩で目安箱、項は誤って入った文字か。 告訐 訐はあばく、そしる。 鉤距 かぎで引っ掛けて引き出す、内情を探り出す。 銖両 わずかな目方、軽微なもののたとえ。 発も擿もあばくこと。姦は悪事伏は隠し事。 論殺 罪を調べ論じて死刑にすること。 闕を守って 宮門を囲んで。 要斬 腰斬りの刑。  
以下次回に

元康元年(前65年)に都の長官、趙広漢が殺された。初め趙広漢は潁川の太守となったが、潁川郡の風俗は土着の勢力が徒党を組んで跳梁していた。広漢は投書箱を設けて、役人や人民からの投書を受け、悪事を互いにあばかせた。悪党どもは散り散りになって、悪事を働くことができず、鳴りを潜めてしまった。それで召しだされて京兆の長官になったのである。
広漢は隠された内情を探り出すのがたくみで、よく内情を探って、村里の些細な隠し事も知悉して、悪事をあばくこと神業のようであった。都の政治もすっかり清潔になり、長老たちは口々に「漢の代になって京兆を治めた長官の中で、広漢に及ぶ者はいない」とたたえた。ところがこの年、「広漢は私怨のために罪の無いものを論断して死刑にしている」と上書したものがあり、宣帝は廷尉に引き渡して、調べさせた。小役人から市民まで無実を訴えて泣き叫ぶものが数万にも及んだが、遂に腰斬の刑に処せられた。趙広漢は清廉公明で豪族や権力者をも制圧したので、何びとも安心して仕事にはげむことができた。ひとびとは広漢の徳を追慕して歌に託してその死を悼んだ。

十八史略 干(もと)むるに私を以ってすべからず
2011-01-11 08:31:51 | 十八史略
以尹翁歸、爲右扶風。翁歸初爲東海太守、過辭廷尉于定國。定國欲託邑子。語終日、竟不敢見曰、此賢將。汝不任事也。又不可干以私。以治郡高第、遂入。治常爲三輔最。

尹翁帰(いんおうき)を以って、右扶風(ゆうふふう)と為す。翁帰初め東海の太守と為り、過(よぎ)って廷尉于定国に辞す。定国、邑子(ゆうし)を託せんと欲す。語ること終日、竟(つい)に敢えて見(まみ)えしめずして曰く、此れ賢将なり。汝、事に任(た)えざるなり。又、干(もと)むるに私を以ってすべからず、と。治郡の高第を以って、遂に入る。治(ち)、常に三輔の最たり。

尹翁帰という者を右扶風の長官に任命した。翁帰は初め東海郡の長官となった時、廷尉の于定国のもとにいとま乞いに立ち寄った。定国は後輩の就職について翁帰に依頼しようと思い終日対談したが、ついにその後輩を引き合わせることができなかった。そして「あの方は大将軍である、とてもそなたでは任務に堪えられぬだろう。またあのような高潔な人物に私情をもって職を求めるべきではなかろう」と後輩に諭した。翁帰はやがて郡の治績第一として召されて右扶風の長官になったのである。ここでも治績は三輔の中で第一であった。

右扶風 都の周辺を警護するため置かれた行政区画の名、またその長官。
邑子 同郷の子弟。 高第 優等。 三輔 長安を中心とした三行政区画、長安以北の京兆、長陵以北の左馮翊、渭城以西を右扶風として都の治安を守った。

十八史略 此の兵、何の名あるものなるかを知らざるなり
2011-01-13 17:50:58 | 十八史略
二年、上欲因匈奴衰弱、出兵撃其右地、使不復擾西域。魏相諌曰、救亂誅暴、謂之義兵。兵義者王。敵加於己不得已而起者、謂之應兵。兵應者勝。爭恨小故、不忍憤怒者、謂之忿兵。兵忿者敗。利人土地・貨寶者、謂之貪兵。兵貪者破。恃國家之大、矜人民之衆、欲見威於敵者、謂之驕兵。兵驕者滅。匈奴未有犯於邊境。今欲興兵入其地。臣愚不知此兵何名者也。
今年計、子弟殺父兄、妻殺夫者、二百二十二人。此非小變。左右不憂、乃欲發兵報纎芥之忿於遠夷。殆孔子所謂、吾恐季孫之憂、不在顓臾、而在蕭牆之内。上從相言。

二年、上、匈奴の衰弱に因って、兵を出だして其の右地(ゆうち)を撃ち、復(また)西域を擾(みだ)さざらしめんと欲す。魏相、諌めて曰く、乱を救い暴を誅する、之を義兵と謂う。兵、義なる者は王たり。敵、己に加え、已むを得ずして起こる者、之を応兵と謂う。兵応なる者は勝つ。小故(しょうこ)を争恨(そうこん)し、憤怒に忍びざる者、之を忿兵(ふんぺい)と謂う。兵、忿なる者は敗る。人の土地・貨宝を利する者、之を貪兵(たんぺい)と謂う。兵、貪なる者は破る。国家の大を恃み、人民の衆を矜(ほこ)り、威を敵に見(しめ)さんと欲する者、之を驕兵(きょうへい)と謂う。兵、驕なる者は滅ぶ。匈奴未だ辺境を犯すこと有らず。今、兵を興して其の地に入らんと欲す。臣愚、此の兵、何の名あるものなるかを知らざるなり。
今年計るに、子弟の父兄を殺し、妻の夫を殺す者、二百二十二人あり。此れ小変に非ず。左右憂えず、乃ち兵を発して繊芥(せんかい)の忿(いか)りを遠夷(えんい)に報ぜんと欲す。殆んど孔子のいわゆる、吾季孫の憂えは顓臾(せんゆ)に在らずして、蕭牆(しょうしょう)の内に在るを恐るるものなり、と。上、相の言に従う。

十八史略 憂いは蕭牆(しょうしょう)の内に在り
2011-01-15 13:38:26 | 十八史略
憂いは蕭牆(しょうしょう)の内に在り
元康二年(前64年)、宣帝は匈奴の衰退に乗じ、兵を出して西の地を攻め、再び西域を蹂躙されないようにしようと考えた。丞相の魏相が諌めて「国の乱を救い暴虐を誅するために兵を出す、これを義兵といいます。義のために兵を起こすものは王者になることができます。敵が自国に戦をしかけたのでやむを得ず兵を起こすものを、応兵といいます。応じて兵を起こすものは勝つことができます。些細なことを争い恨み、憤怒を忍ぶことができずに兵を起こすものを忿兵といいます。忿怒にかられて戦う兵は敗れます。人の土地、財宝を奪わんとして兵をおこすものを貪兵といいます。むさぼる兵は負けます。自国の強大なるを恃み、人民の衆(おお)いことを誇り、威を示そうとして兵を起こすものを驕兵といいます。驕る兵は滅びます。さて今、匈奴ががまだ国境を侵していないのに、兵を出して匈奴の地に侵攻しようとなされております。臣は愚かで、このような兵を何と名づくか知りません。
ところで今年の数字を見ますと、人の子弟で父兄を殺めたもの、人の妻でその夫を殺した者が二百二十二人に達しております。これは決してただ事ではございません。ところが陛下の側近のかたがたはそれを一向に気にかけず、兵を出して遠い夷狄に対してほんの小さい怒りをはらそうとしています。これこそ孔子の言われた『季孫氏の憂いとするところは、遠国の顓臾にあるのではなく、かえって家の内にあるのではないかと私は心配する』に当たるものであります」と。そこで宣帝は魏相の言をとりいれて、匈奴征伐を思いとどまれた。

右地 南面して右手にあるから西方。 己(おのれ)と已(や)むと巳(み)の区別がわかり易い言い方があります。「巳(み)は上に、すでに、やむ、のみ、中ほどに、おのれ、つちのと、下に付くなり」あるいは「巳は通す、おのれは出でず、すで半ば」 繊芥 極めて小さいこと。 顓臾 孔子の時代魯に親属する小国。 季孫氏の・・・は論語季氏篇にある。  蕭牆 君臣会見の所に立てる屏風、また垣、囲い、転じて家のなか、国内。

論語 季氏篇
2011-01-15 13:40:51 | 十八史略
論語 季氏篇
―前略―丘は聞けり、国を有(たも)ち家を有つ者は寡(すくな)きを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患え、貧しきを患えずして安らかざるを患うと。蓋し均しきときはまずしきこと無く、和すれば寡きこと無く、安んずれば傾くこと無し。夫れ是くの如し。故に遠人服せざるときは則ち文徳を修めて以ってこれを来たし、既にこれを来たすときは則ちこれを安んず。今、由と求とは夫子を相(たす)けて、遠人服せざれども来たすこと能わず、邦(くに)分崩離折(ぶんぽうりせき)すれどもまもること能わず。而して干戈を邦内に動かさんことを謀る。吾恐る、季孫の憂いは顓臾(せんゆ)に在らずして蕭牆(しょうしょう)の内に在るを恐るるものなり

私はこう聞いている。「国を保ち家をまもる者は人民の少ないことを心配せずに平等でないことを心配し、貧しいことを心配しないで、安らかでないことを心配する」と。均しいときは貧しいということが無く、平和であれば、人が少ないと気にかけることも無い。安らかであれば国も家も傾くことが無いのである。であるから遠くの属国が服従しないときは、徳を以って来朝するように仕向け、来たときには安らかに接するべきである。いま、由(字は子路、姓は仲、名が由)と求(字は子由、姓が冉、名が求)は夫子(季孫氏)を補佐する身でありながら顓臾が服さないときも来朝させることができず、魯国が分裂の危機にあっても守ることができない、その上兵を出そうとさえしている。私が恐れているのは季孫氏の危機は遠い属国にあるのではなく、本当は身近な垣根の内側にあるのだ。

十八史略 疏廣・疏受、骸骨を乞う
2011-01-18 08:23:43 | 十八史略
子孫の為に産業を立てず。
三年、太子太傅疏廣、與兄子太子少傅疏受、上疏乞骸骨。許之、加賜黄金。公卿・故人、設祖道、供張東門外。送者車數百兩。道路觀者皆曰、賢哉、二大夫。既歸、日賣金共具、請族人・故旧・賓客、相與娯樂、不爲子孫立産業。曰、賢而多財、則損其志、愚而多財、則其過。且夫富者衆之怨也。吾不欲其過而生怨。

三年、太子の太傅(たいふ)疏廣(そこう)、兄の子、太子の少傅疏受(そじゅ)と、上疏(じょうそ)して骸骨を乞う。之を許し、黄金を加賜す。公卿・故人、祖道を設け、東門の外に供張(きょうちょう)す。送る者、車数百両。道路観る者皆曰く、賢なるかな、二大夫と。既に帰って、日に金を売り共具(きょうぐ)して族人・故旧・賓客を請い、相与に娯楽し、子孫の為に産業を立てず。曰く、賢にして財多ければ、則ち其の志を損し、愚にして財多ければすなわち其の過ちを益す。且つ夫れ富は衆の怨みなり。吾其の過ちを益し、怨みを生ずることを欲せず、と。

元康三年に太子の太傅疏廣と兄の子で少傅の疏受とが、書をたてまつって辞職を願い出た。宣帝はこれを許したうえで、黄金を賜わった。公卿やなじみの人たちが、道祖神を祭って道中の安全を祈願し、東門の外で送別の宴を張ったところ、見送る者の車数百両にのぼった。これを道路で見物した人々は口ぐちに「えらいお方じゃお二人は」と褒めたたえた。
二人は故郷に帰ると毎日賜った黄金を銭に替えて酒肴をととのえて親戚、友人、賓客を招いてともに楽しみ、子孫の為に財産を残そうとしなかった。そしてこう言った。「子孫がもし賢にして財産があると、その志をくじき、愚かであれば過ちを深くしてしまう。そのうえ富というものはとかく人の恨み、嫉みを招くもとになるものだ。私は子孫が過ちを増し、人の恨みを買うことを望んではいないのだよ」と。

太傅 太子の守役、少傅はその下役。 骸骨を乞う 辞職を願う、仕官して帝に捧げたわが身の残骸を乞いうける意。 供張 供は酒食をととのえること、張は宴を張ること。 産業 生活するための仕事、生業。なお西郷隆盛の詩に「児孫の為に美田を買わず」がある。

十八史略 老臣に踰(こ)ゆるもの無し
2011-01-20 08:27:30 | 十八史略
神爵元年、先零與諸羌畔。上使問後將軍趙充國。誰可將者。充國年七十餘、對曰、無踰老臣。復問、將軍度羌虜何如、當用幾人。充國曰、兵難遙度、願至金城、圖上方略。乃詣金城、上屯田奏、願罷騎兵、留歩兵萬餘、分屯要害處。條不出兵留田便宜十二事。奏毎上、輒下公卿議。初是其計者什三、中什伍、最後什八。魏相任其計可必用。上從之。
二年、司隷校尉蓋寛饒、奏封事。上爲怨謗、下吏。寛饒自剄。

神爵元年、先零(せんれい)、諸羌(しょきょう)と畔(そむ)く。上(しょう)後将軍趙充国に問わしむ。誰か将たる可き者ぞ、と。充国年七十余、対(こた)えて曰く、老臣に踰(こ)ゆるもの無し、と。復た問う、将軍、羌虜を度(はか)ること何如ん、当(まさ)に幾人を用うべき、と。充国曰く、兵は遥かには度りがたし、願わくは金城に至って、図して方略を上(たてまつ)らん、と。すなわち金城に詣(いた)り、屯田の奏を上り、願わくは、騎兵を罷(や)め、歩兵万余を留め、分(わか)って要害の処に屯(とん)せん、と。兵を出ださずして留田(りゅうでん)する便宜十二事を條(じょう)す。奏上る毎に輒(すなわ)ち公卿に下して議せしむ。初めは其の計を是とする者十に三、中ごろは十に五、最後には十に八。魏相、其の計の必ず用う可きを任ず。上、之に従う。
二年、司隷校尉(しれいこうい)蓋寛饒(こうかんじょう)、封事を奏す。上以って怨謗(えんぼう)すと為して吏に下す。寛饒、自剄す。

神爵元年(前61年)に、先零をはじめ羌の諸族が叛いた。宣帝が、誰を大将にするべきか後将軍の趙充国に尋ねさせた。時に充国は七十余歳であったが、「この老人にまさる者はございません」と答えた。さらに「将軍が羌虜を討伐する方策はどうか、どれほどの兵を投入するべきか」と問うと、「戦のことは実地を見ずに策をとやかく言うべきではありません。どうか金城郡まで行き、そこで地勢を図にした上でお答え致しとうございます」と言った。そこで充国は金城郡に至ると「騎兵をやめて歩兵一万余りを防備の要地に分けて駐屯させ平時には農耕に従事させるようにさせてください」。そして兵を出さずに留まって耕す利点十二を箇条書きした。上奏される度に、公卿に見せて審議させた。初めはその計を是とする者十人中三人、中ごろには十人中五人、最後には十人中八人に達した。丞相の魏相もその計が必ず用いられるべきであると賛同した。宣帝はその意見に従った。
神爵二年に司隷校尉の蓋寛饒が、密封した意見書をたてまつった。宣帝は自分を怨みそしっているとして役人に下げわたした。寛饒は自ら首をはねて死んだ。

先零 羌の諸族のなかで、最も精強な族。 後将軍 将軍を前後左右の名を冠して分けて呼んだ。 金城 甘粛省にある郡名。 任 保障する。 司隷校尉 警視総監に近い役職

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最終更新:2023年02月20日 21:40