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十八史略 魏相
2011-01-22 13:54:08 | 十八史略
三年、丞相魏相薨。故事、上書者皆爲二封、署其一曰副、領尚書者、先發副封、所言不善、屏去不奏。自霍光薨後、相即白去副封、以防壅蔽。及爲相、好觀漢故事及便宜章奏、數條漢興以來便宜行事、及賢臣賈誼・鼂錯・董仲舒等所言、請施行之。敕掾吏案事郡國。及休告從家還至府、輒白四方異聞。或有逆賊風雨災異、郡不上、相輒奏言之。與御史大夫丙吉、同心輔政。上皆重之。

三年、丞相魏相薨(こう)ず。故事(こじ)に、上書は皆二封を為(つく)り、其の一に署して副と曰(い)い、尚書を領する者、先ず副封を発(ひら)き、言う所善からざれば、屏去(へいきょ)して奏せず。霍光薨(こう)じてより後、相、即ち白(もう)して副封を去り、以って壅蔽(ようへい)を防ぐ。相と為るに及んで、好んで漢の故事及び便宜の章奏(しょうそう)を観、数しば、漢興ってより以来の便宜の行事、及び賢臣賈誼(かぎ)・鼂錯(ちょうそ)・董仲舒(とうちゅうじょ)等の言う所を条し、請うて之を施行す。掾吏(えんり)に敕(ちょく)して、事を郡国に案ぜしむ。及び休告して家より還って府に至れば、輒(すなわ)ち四方の異聞を白(もう)さしむ。或いは逆賊風雨の災異にして、郡の上せざる有れば、相、輒ち之を奏言す。御史大夫丙吉と、心を同じうして政を輔(たす)く。上、皆之を重んず。

神爵三年(前59年)に丞相の魏相がみまかった。漢ではしきたりとして上書する者は、皆同文二通をつくり、一通に副と表書きした。取次ぎの役人が副の封書を見て、その内容が善くないと判断すれば握りつぶして奏上しないことになっていた。丞相の霍光が薨じたのち、魏相は早速宣帝に上奏して、副封の制を止めて障碍を取り払い、すべての上奏文が帝に伝わるようにあらためた。その魏相が丞相になると、漢室のしきたりや、便宜を図って出された上奏文をつぶさに調べ、漢が興って以来簡素化したことがらや賈誼・鼂錯・董仲舒等の建言を箇条書きにして裁可のうえ施行した。また役所の属官に命じて、郡国を巡察して不行き届きがないか調査させた。そして休暇明けで役所に戻った者には帰省中に見聞した、変事を報告させた。また地方で賊や災害で郡から上申しない事があると、魏相はいつもそれを奏上した。御史大夫の丙吉と心を合わせて政治を補佐したので帝はこの二人を重任した。

薨 貴人の死、天子を崩、大夫を卒、ほかを死といった。 屏去 退け抜き去る。 白 もうす。 壅蔽 ふさぎおおう。掾吏 下級官吏、属官。 勅 天子の命令。休告 休暇の申し出ること。

十八史略 宰相は細事をみずからせず
2011-01-25 14:58:33 | 十八史略
至是吉代爲丞相。吉尚寛大好禮讓。嘗出、逢羣鬭死傷、不問。逢牛喘。使問遂牛行幾里矣。或譏吉失問。吉曰、民鬭京兆所當禁、宰相不親細事、非所當問也。方春未可熱、恐牛暑故喘、此時氣失節。三公調陰陽、職當憂。人以爲知大體。

是(ここ)に至って、吉、代って丞相と為る。吉、寛大を尚(たっと)び、礼譲を好む。嘗て出でて、群闘死傷するに逢う、問わず。牛の喘(あえ)ぐに逢う。牛を遂(お)うて行くこと幾里ぞ、と問わしむ。或るひと、吉の問を失うを譏(そし)る。吉曰く、民の闘うは、京兆(けいちょう)の当(まさ)に禁ずべき所、宰相は細事を親(みずか)らせず、当に問うべき所に非ざるなり。春に方(あた)って未だ熱す可からず、恐らくは牛、暑きが故に喘ぐならん、此れ時気の節を失するなり。三公は陰陽を調う、職として当に憂うべし、と。人以って大体を知ると為す。

こうして魏相が亡くなると、丙吉(へいきつ)が代って丞相となった。丙吉は寛容で、礼儀が正しく人に遜(へりくだ)ることを好んだ。ある時、外出して数人が喧嘩をして死傷者まで出ている所に行きあわせたが、何も問わずに過ぎた。次に牛があえぎながら来るのに出あった。従者に「一体何里引かせて来たのか」と聞かせた。ある人が、丙吉の問いが的はずれではないかと非難したが、丙吉は「民が争うのは、京兆の長官が取り扱うべきことがらで、宰相が細かいことを自ら口出すことはない。今は春でまだ暑くなる時季ではないのに、牛はあえいでいる、これは時候が順当ではないのだ。三公というものは、陰陽を調えて民の利益を図るもので、当然宰相の職務として憂うべきことなのだ」と説明した。人々はこれを聞いて、丙吉は大きな筋道を心得ていると評した。

三公  前漢時代最高位にある、丞相、大司馬、御史大夫の三つの官職。

十八史略 韓延壽
2011-01-29 09:52:15 | 十八史略
五鳳元年、殺左馮翊韓延壽。延壽爲吏、好古教化。由潁川太守、入爲馮翊。民有昆弟相訟。延壽閉閤思過。訟者各悔、不復爭。郡中翕然相敕。恩信周徧、莫復有詞訟。民吏推其至誠、不忍欺紿。至是坐事棄市。百姓莫不流涕。

五鳳元年、左馮翊(さひょうよく) 韓延壽を殺す。延壽、吏となり、いにしえの教化を好む。潁川(えいせん)の太守より、入って馮翊となる。民に昆弟(こんてい)相訟うるもの有り。延壽、閤(こう)を閉じて過ちを思う。訴うる者、各々悔い、復た争わず。郡中翕然(きゅうぜん)として相敕(ちょくれい)す。恩信周徧(おんしんしゅうへん)にして、復た詞訟(ししょう)有ること莫(な)し。民吏、其の至誠を推(お)し、欺紿(きたい)するに忍びず。是(ここ)に至って、事に坐して棄市(きし)せらる。百姓(ひゃくせい) 流涕(りゅうてい)せざるは莫し。

五鳳元年(前57年)に左馮翊(さひょうよく) 韓延壽が殺された。延壽は官吏となってから、古の聖人が民を教化したやり方を踏襲したいと考えていた。潁川郡の太守から朝廷に入って左馮翊の長官になった。その民で兄弟が互いに訴え出た者があった。延壽は部屋に閉じこもり、自分に落度があったのではないかと思い悩んだ。訴えでた兄弟は互いに後悔して、二度と争わなくなった。郡中の民は相いましめ、励ましあった。延壽の恩情と信望はあまねく行きわたって、訴えを起こすこともなくなった。民も役人も延壽の至誠にうたれ、他人を騙すことをしなくなった。ところがこのたび、ある事件に連坐して死罪になり、市中にさらされた。これを見た市民は皆涙を流した。

昆弟 兄弟。 閤 小窓。 翕然 集まるさま。 敕 いましめ励ます。
欺紿 欺くこと。

十八史略 凡そ治道は、其の太甚(はなはだ)しき者を去るのみ
2011-02-05 15:58:51 | 十八史略

三年、丙吉薨。黄覇爲丞相。覇嘗爲潁川太守。吏民稱明不可欺。力教化後誅罰。許丞、老病聾。督郵白欲逐之。覇曰、許丞廉吏、雖老尚能拝起。重聽何傷。數易、送故迎新之費、及姦吏因縁、絶簿書盗財物、公私費耗甚多。所易新吏、又未必賢、或不如其故。徒相爲亂。凡治道去其太甚者耳。覇以外寛内明、得吏民心、治爲天下第一。至是代吉。覇材長於治民。及爲相、功名損治郡時。

三年、丙吉薨ず。黄覇丞相と為る。覇嘗て潁川の太守と為る。吏民、神明にして欺くべからずと称す。教化をつとめて誅罰を後にす。許丞(きょじょう)老いて聾を病む。督郵白(もう)して之を逐わんと欲す。覇曰く、許丞は廉吏なり、老いたりと雖も尚能く拝起す。重聴(ちょうちょう)すること何ぞ傷(いた)まん。数しばを易(か)えば、故を送り新を迎うるの費、及び姦吏因縁(いんえん)し、簿書を絶ち、財物を盗み、公私の費耗(ひこう)甚だ多し。易うる所の新吏、又未だ必ずしも賢ならず、或いは其の故に如かざらん。徒(いたずら)に相益(ま)して乱を為さんのみ。凡そ治道(ちどう)は、其の太甚(はなはだ)しき者を去るのみ、と。覇、外寛に内あきらかなるを以って、吏民の心を得、治、天下第一と為す。是(ここ)に至って吉に代る。覇の材、民を治むるに長ず。相と為るに及んで、功名、郡を治むるの時よりも損す。

 郡の長官を補佐する役。 督郵 行政を監督する役目の官。 姦吏 不正をはたらく役人。

五鳳三年に、丞相の丙吉がなくなった。黄覇が代って丞相になった。黄覇もかって潁川の太守であったが、役人も民も覇が極めて聡明で、欺くことができないと評判しあった。民を教化することに力をそそぎ、誅罰を二の次にした。補佐官の許丞が老いて耳が遠くなったとして督郵が罷免したいと申し出た。黄覇は「許丞は廉潔な役人である。老いたりとはいえ、拝礼はとどこおりなく行えるし、同じ事を聞き直すからとて何の差し障りがあろう。たびたび補佐官を代えていたら、歓送の費用もかかる。悪い役人がドサクサ紛れに重要な帳簿を匿したり、官の財産を盗んだりするなど、公私の冗費がはなはだ多い。また交替させた役人が必ずしも有能とは限らず、前任者に及ばないこともあろう、ただたがいに混乱を益すだけだ。およそ民をおさめる道は、特にその甚だしいものを除きさればそれで良いのだ」と。黄覇は外は寛大、内は聡明であったので、官民こぞって信服し、その治績は天下第一と称せられた。
丙吉が亡くなって代って丞相になった黄覇だが実地に人民を治めることには長じていたが、丞相になってからからは、功績も、名声も郡を治めていたときよりも劣った。

十八史略 人生行樂耳
2011-02-12 09:35:21 | 十八史略
四年、太司農耿壽昌白、令邊郡皆築倉、穀賤増價而糴、以利農、穀貴減價而糶、以利民。名曰常平倉。
殺前光祿勲楊。廉潔無私。人上書告爲妖惡言。免爲庶人。家居、治産自娯。其友孫會宗戒之。報曰、過大行虧。當爲農夫以没世。田家作苦、歳時伏臘、烹羊炮羔、斗酒自勞。酒後耳熱、仰天拊缶、而呼嗚嗚。其詩曰、田彼南山、蕪穢不治。種一頃豆、落而爲萁。人生行樂耳、須富貴何時。淫荒無度、不知其不可也。人上書告、驕奢不悔。下廷尉案、得所與會宗書。帝見而惡之、以大逆無道要斬。

四年、太司農(たいしのう)耿壽昌(こうじゅしょう)白(もう)して、辺郡をしてみな倉を築かしめ、穀賤(いや)しければ価を増して糴(てき)し、以って民を利し、穀貴(たっと)ければあたいを減じて糶(ちょう)し、以って民を利す。名づけて常平倉と曰(い)う。
さきの光祿勲(こうろくくん)楊(よううん)を殺す。、廉潔にして私無し。人上書して、妖悪(ようあく)の言を為す、と告ぐ。免ぜられて庶人(しょじん)と為る。、家居(かきょ)し、産を治めて自(みずか)ら娯(たの)しむ。其の友、孫会宗これを戒む。、報じて曰く、過ち大にして行い虧(か)く。当(まさ)に農夫と為って以って世を没すべし、と。田家作苦(でんかさくく)し、歳時伏臘(ふくろう)、羊を烹(に)、羔(こひつじ)を炮(あぶ)り、斗酒自ら労(ねぎら)う。酒後耳熱し、天を仰ぎ缶(ふ)を拊(う)って、嗚嗚(おお)と呼ぶ。其の詩に曰く、彼(か)の南山に田つくるに、蕪穢(ぶあい)にして治まらず。一頃(いっけい)の豆を種(う)うれば、落ちて萁(き)と為る。人生行楽せんのみ、富貴を須(ま)つ何れの時ぞ、と。淫荒(いんこう)度無くして、其の不可なるを知らず。人、上書して告ぐ、、驕奢(きょうしゃ)にして悔いず、と。廷尉に下して案ぜしめ、会宗に与えし所の書を得たり。帝、見て之を悪(にく)み、大逆無道を以って要斬す。

五鳳四年(前54年)、太司農の耿寿昌が言上して、辺境の郡に倉庫を造らせ、穀物の相場が安い時には、値を高くして買い入れて農民を助け、相場が高いときには値を下げて売り出して、人びとを助ける事にした。これを常平倉と名づけた。
前の光祿勲の楊が殺された。楊は廉潔で公正無私であった。ところが、ある者が「楊は世を乱す怪しげな言葉を撒き散らしております」と上書したので罷免せられて庶民となった。それ以後、楊は家に居て財産をふやして、気ままに楽しんでいた。友人の孫会宗がそれを諌めると、楊は書をしたためて「私は過ちが多く、行いもよろしくありませんでした、農夫となって身を終えるのがふさわしいというものです。いったいに農家の作業は厳しく、夏の酷暑と真冬の酷寒の一日づつ、羊を煮、子羊を炙って酒を傾けてみずから労うのです。酒が進んで耳が熱くなったころ、天をあおぎ、缶(ほとぎ)を打って嗚嗚と大声で歌います。その詩とは
『彼の南山で耕せど、草がはびこり手に負えぬ。百畝の豆を植えてみたが、豆がらばかりが枯れ落ちる。ならばいっそ楽しまむ富貴を待つは無駄なこと。』
やがて際限もなく酔いしれてゆき、自分でそれが悪いこととも気づかないのです」と。ある者が「楊は驕りをほしいままにして悔いることがありません」と訴え出た。そこで帝は廷尉に下して取り調べさせたところ、孫会宗にあてた書簡を手にいれた。宣帝はこれを見て楊を悪み、大逆無道の者として腰斬りの刑に処した。

太司農 九卿の一、銭穀を司どる。 糴・糶 かいよね・うりよね
光祿勲 九卿の一、宮中に宿衛する。 虧 欠に同じ。 伏臘 伏は真夏の酷暑の日、臘は十二月の異称とも、酷寒の日。 缶 ほとぎ、酒や水を入れる土器、かめ。 南山 終南山、朝廷の比喩。 蕪穢 土地が荒れていること、朝廷の群臣の比喩。

十八史略 
2011-02-15 13:02:17 | 十八史略
甘露元年、公卿奏、京兆尹張敞、之黨友。不宜處位。上惜敞材、寝其奏。敞使掾絮舜有所案驗。舜私歸曰、五日京兆耳、安能復案事。敞聞舜語、即収繋獄、竟致其死。後爲舜家所告。敞上書、從闕下亡命歳餘、京師枹鼓數警。上思敞能、復召用之。

甘露元年、公卿(こうけい)奏す、京兆の尹(いん)張敞(ちょうしょう)はの党友なり。宜しく位に処(お)るべからず、と。上、敞の材を惜しみ、其の奏を寝(や)む。敞、掾(えん)の絮舜(じょしゅん)をして案験する所有らしむ。舜、私に帰って曰く、五日(ごじつ)の京兆のみ、安(いづ)くんぞ能(よ)く復(また)事を案ぜん、と。敞、舜の語を聞き、即ち収めて獄に繋ぎ、竟(つい)に其れを死に致す。後、舜の家の告ぐる所と為る。敞、上書して、闕下(けっか)より亡命すること歳余、京師、枹鼓(ふこ)数しば警(いまし)む。上、敞の能を思い、復た召して之を用う。

甘露元年(前53年)に三公九卿が「京兆の長官、張敞は楊の一党であります。その職にとどまることは宜しくありません」と上奏した。宣帝は、張敞の才能を惜しんで、その上奏を取り上げなかった。その後、属官の絮舜という者に命じてある事件を取り調べさせた。絮舜は勝手に家に帰ってしまった。「どうせあと五日の長官さまだ、調査などしておられようか」と人に言った。その言葉が張敞の耳に入ったから、すぐさま捕えられ獄に繋がれついに死刑に処された。その後絮舜の家人が訴えでると、敞は辞職の文書を上(たてまつ)ったうえで朝廷から一年余り姿をくらました。
その間、都では非常を警告する太鼓のばち音がしばしば聞かれるようになった。帝は改めて張敞の有能さを思い知って、呼び戻して任用した。

寝 止める、握りつぶす。 掾 属官。 闕下 闕は宮城の門、朝廷のこと。 枹鼓 枹は太鼓のばち。

十八史略 股肱の美を思い、麒麟閣に図画す
2011-02-19 12:14:26 | 十八史略
匈奴亂、五單于爭立。呼韓邪單于上書、願欵塞稱藩臣。甘露三年、来朝。詔以客禮待之、位諸侯王上。
上、戎狄賓服、思股肱之美、乃圖畫其人於麒麟閣。惟霍光不名、曰大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏。其次張安世・韓増・趙充國・魏相・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之・蘇武、凡十一人。皆有功。知名當世。

匈奴乱れ、五単于立つを争う。呼韓邪(こかんや)単于、書を上(たてまつ)り、願わくは塞(さい)を欵(たた)いて藩臣(はんしん)と称せん、と。甘露三年、来朝。詔(みことのり)して客礼を以って之を待ち、諸侯王の上に位いせしむ。
上(しょう) 戎狄(じゅうてき)賓服(ひんぷく)するを以って、股肱の美を思い、乃ち其の人を麒麟閣に図画(ずが)す。惟だ霍光のみは名いわずして、大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏と曰う。其の次に張安世・韓増・趙充國・魏相(ぎしょう)・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之(しょうぼうし)・蘇武、凡(あわ)せて十一人。皆功徳(こうとく)有り。名を当世に知らる。

匈奴が乱れ、五人の君主が争い立った。その中の呼韓邪単于が書をたてまつって、漢のとりでの門をたたいて、臣下になりたい、と願い出た。そして甘露三年(前51年)に来朝した。宣帝はみことのりを下して賓客の礼でもてなし、諸侯,諸王より上席に位いさせた。
帝は戎狄が来朝し臣従するようになったのは、側近の補佐がすぐれているからと考えて、その功を後世にのこすために麒麟閣に肖像と名を描かせた。ただ霍光だけは名を書かず、大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏と記した。次いで張安世・韓増・趙充國・魏相・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之・蘇武に至るまであわせて十一人、皆功績徳望が高く、名を知られた者たちであった。

藩臣 藩はかきね、まがき。天子を守る垣根になるの意。 麒麟閣 未央宮の中にある


十八史略 
2011-02-22 17:36:00 | 十八史略
十八史略 宣帝崩ず。
帝在位、改元者七、曰本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露・黄龍。凡二十五年。崩。葬杜陵。帝興於閭閻、知民事之艱難、精爲治。樞機周密。品式備具。拜刺史・守・相、輒親見問。常曰、民所以安其田里、而無歎息愁恨之聲者、政平訴理也。與我共此者。其惟良二千石乎。以爲太守吏民之本。數變易、則民不安。故二千石有治理效、輒以璽書勉、秩賜金。公卿缺、則選諸所表、以次用之。漢世良吏、於是爲盛。信賞必罰、綜核名實。政事・文學・法理之士、咸精其能、吏稱其職、民安其業。遭値匈奴衰亂、推亡固存、信威北夷。單于慕義、稽首稱藩。功光祖宗、業埀後裔。可謂中興高宗・周宣矣。太子即位。是爲孝元皇帝。

帝、位に在り、改元する者(こと)七。本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露・黄龍と曰(い)う。凡(すべ)て二十五年。崩ず。杜陵(とりょう)に葬る。帝、閭閻(りょえん)より興り、民事の艱難を知り、精を励まし治を為す。枢機周密(すうきしゅうみつ)にして、品式(ひんしき)備具(びぐ)す。刺史・守・相を拝するとき、輒(すなわ)ち親しく見て問う。常(かつ)て曰く、民の其の田里に安んじて、歎息愁恨の声無き所以の者は、政(まつりごと)平らかに、訟(うったえ)理(おさ)まればなり。我と此を共にする者は、其れ惟(ただ)良二千石(せき)か、と。以為(おも)えらく、太守は吏民の本なり。数しば変易(へんえき)すれば、則ち民安んぜず、と。故に二千石、治理の効有れば、輒ち璽書(じしょ)を以て勉励し、秩を増し金を賜う。公卿(こうけい)欠くれば、則ち諸々の表する所を選び、次(じ)を以て之を用う。漢の世の良吏、是に於いて盛んなりと為す。信賞必罰、名実を綜核す。政事・文学・法理の士、咸(みな)其の能を精(くわ)しくし、吏は其の職に称(かな)い、民は其の業に安んず。匈奴の衰乱に遭値(そうち)し、亡を推(お)し存を固くし、威を北夷(ほくい)に信(の)ぶ。単于、義を慕い、稽首(けいしゅ)して藩(はん)と称す。功は祖宗(そそう)に光り、業は後裔に垂(た)る。中興、徳を高宗・周宣に(ひと)しうすと謂う可し。太子、位に即く。是を孝元皇帝と為す。

閭閻 共に村の門、民間の意。 枢機 重要なところ、枢は戸の心棒、機は弩弓の弾き。 周密 行き届くこと。品式 品章程式 規則と方式。 刺史 地方監察官。 守 郡の行政官。 常 嘗てと同じ。 良二千石 二千石は守・相の俸禄、善良な地方長官の意。(我が国で知事を良二千石ということがある)
璽書 璽は玉璽、天子の印章が捺してある文書。  綜核 綜はくくる、核はあきらかにすること。 遭値 共に出会う意。 信 伸びる、伸ばす。 稽首 首が地に着くほど体を屈して拝すること。 祖宗 創業の祖と中興の祖。 高宗・周宣 殷の高宗と周の宣王

十八史略 徳を高宗・周宣に(ひと)しうすと謂う可し
2011-02-24 10:52:57 | 十八史略
前回のつづき
宣帝の在位中、年号を改めること七回、本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露・黄龍がそれで二十五年間であった。崩御して長安の南、杜陵に葬った。宣帝は市井から見出されて立ち、人々の苦しみをよく知っていたので、力を尽くして政治を行った。重要な点は周到に、制度方式も整備した。刺史・守・相を任命するときはその都度、親しく会って政道について下問された。嘗て「人民がその村里に安心して生活し、ため息をついたり、愁いや恨み言をいわないのは、政治が公平で訴訟も正しく行われているからに相違ない。私と供にその任務を果たせるのは、そなたのような善良な地方官なのだよ」と言った。また太守はその郡の役人や人民の中心であるから、頻繁に交代させては人々が安心して生活ができないと考えて、治績をあげた地方官にはその都度詔書を送って励まし、あるいは知行を増したり、黄金を贈ったりした。そして朝廷の高官で欠員が生じた場合は、さきに表彰した者から選び順次挙げ用いた。かくて漢代の良吏は宣帝の治世に最も多く輩出したといわれる。宣帝は功ある者は必ず賞し、罪ある者は必ず罰し、評判と実像を総合して見極めるようにした。政治、学問、法律に携わる者はその長所を発揮し、役人はその地位にかなって、民が安心してその家業にいそしむことができた。
たまたま匈奴が衰え乱れ立った時期に出会い、すでに亡びようとしている国は倒し、存続すべき国は保護して、漢の威光を匈奴一帯に示し広めた。単于は宣帝の義を慕って頭を地に垂れて、みずから漢室を守る臣下と称するようになった。宣帝の功績は祖先にまでも光り輝き、大業は子々孫々までも伝えられるもので、漢の中興に於いてその徳は殷の高宗、周の宣王に並ぶべきものといえよう。
太子が位に即いた。これが孝元皇帝である。

十八史略 
2011-03-01 11:10:21 | 十八史略
孝元皇帝名奭。初爲太子、柔仁好儒。見宣帝所用、多文法吏、以刑名縄下。嘗燕、從容言、陛下持刑太深。宜用儒生。宣帝作色曰、漢家自有制度。本以覇王道雜之。奈何純任教、用周政乎。且俗儒不達時宜、好是古非今、使人眩於名實不知所守。何足委任。乃歎曰、亂我家者太子也。宣帝少、依太子母家許氏。許后以霍氏毒死。故弗忍廢太子。至是即位。
初元元年、立皇后王氏。

孝元皇帝名は奭(せき)。初め太子たりとき、柔仁(じゅうじん)にして儒を好む。宣帝の用うる所を見るに、文法の吏多く、刑名を以って下(しも)を縄(ただ)す。嘗て燕(えん)するとき、従容として言う、陛下刑を持すること太(はなは)だ深し。宜しく儒生を用うべし、と。宣帝色を作(な)して曰く、漢家自から制度あり。本より覇王の道を以って之に雑(まじ)う。奈何(いかん)ぞ純(もっぱ)ら徳教に任じて、周の政を用いんや。且つ俗儒は時宜に達せずして、好んで古を是とし今を非とし、人をして名実に眩(げん)して守る所を知らざらしむ。何ぞ委任するに足らんや、と。乃(すなわ)ち歎じて曰く、我が家を乱る者は太子なり、と。
宣帝少(わか)きとき、太子の母家の許氏に依る。許后、霍氏の毒を以って死す。故に太子を廃するに忍びざりしなり。是(ここ)に至って位に即く。
初元元年、皇后王氏立つ。

孝元皇帝(元帝)は名を奭という。太子であった時から、温和柔順で仁愛に富み、儒学を好んだ。宣帝の用いる者を見ると、司法に関与する役人が多く、刑名の法に基づいて臣下を糺してきた。ある時、酒宴の席上で、おもむろに申し上げた。「陛下は大変仕置きを厳しくなさっておいでですが、聖人の道を説く儒生を登用されてはいかがでしょうか」と。宣帝は顔色を変えて「漢家には漢家の制度がある、それは覇道と王道を交えもちいている。道徳の教化に頼る周代の政治に倣うことがあろうか。それに儒者どもは時勢の変化について行けず、昔を良しとし、今を悪いと決めつける、建前と実状とについて人を惑わし何に従い何を守るべきかを知らせない。そんな者に政治を委ねることなど出来ようか」さらに歎息して「わが漢家を衰え乱す者はおそらく太子であろう」と言った。
宣帝は若い頃、太子の母(宣帝の后)の実家の許氏に身を寄せていた。ところが許后は霍氏によって毒殺されたので不憫に思い廃位に踏み切れなかった。かくて宣帝が崩御すると太子が位に即いた。
初元元年(前48年)、王氏を立てて皇后とした。

文法 法律。 刑名 刑は形に通じ、行い。名は言で言行。 言行の一致を要求し、それにより賞罰することを政治の根幹とする法家の学説。 燕 宴に同じ。 覇王 力で統治するのが覇道、徳で統治するのが王道。

十八史略 蕭望之・周堪・劉更生を獄に下し、庶人と為す。
2011-03-03 09:34:11 | 十八史略

二年、下蕭望之・周堪及宗正劉更生獄皆免爲庶人。時吏高以外屬領尚書事。望之・堪副之。二人帝師傅。數言治亂、陳正事、選更生給事中、與侍中金敞、竝拾遺左右。四人同心謀議。史高充位而已。由是與望之有隙。

二年、蕭望之(しょうぼうし)・周堪(しゅうかん)及び宗正(そうせい)の劉更生(りゅうこうせい)を獄に下し、皆免じて庶人と為す。時に史高(しこう)、外属を以って尚書の事を領す。望之・堪、之に副たり。二人は帝の師傅(しふ)なり。数しば治乱を言い、正事を陳(ちん)し、更生を給事中(きゅうじちゅう)に選び、侍中(じちゅう)の金敞(きんしょう)と、並びに左右に拾遺(しゅうい)せしむ。四人心を同じうして謀議す。史高は位に充つるのみ。是に由(よ)って望之と隙(げき)有り。

初元二年(前47年)に蕭望之と周堪および宗正の劉更生を獄吏におくり、罷免したうえで身分を庶人に落とした。当時、史高が外戚として尚書の事務を執っていた。蕭望之と周堪は共に副官となっていた。二人は元帝の師であり、守り役でもあったので、しばしば国家の治乱について言上し、正しいことを陳(の)べ、劉更生を給事中の官に推薦し、侍中の金敞と共に、帝の左右にあって過ちを正させた。この四人が心を一つにして何事をも相談したから、史高は名前だけ連ねているだけであった。このため史高と望之とは仲が悪かった。

宗正 皇族の諸事を掌る官。 尚書事 内閣の事務を掌る。給事中 上奏の取次ぎ及び顧問役。 拾遺 遺失したものを拾う。天子の見落としたものを拾う、つまり天子を諫言すること。

十八史略 宦官石顯台頭す
2011-03-05 11:32:46 | 十八史略

中書令弘恭、僕射石顯、自宣帝時、久典樞機。及帝即位多疾。以顯中人無外黨、遂委以政事、事無大小、因顯白欠。貴幸傾朝、百僚皆敬事顯。顯巧慧習事、能深得人主微指。内深賊持詭辯、以中傷人、與高表裏。望之等患外戚許・史放從、又疾恭・顯擅權、建白。以爲、中書政本、國家樞機。宜以通明公正處之。武帝遊宴後庭、故用宦者。非古制也。宜罷中書宦官、應古之不近刑人之義。上不能從。

中書令の弘恭、僕射(ぼくや)の石顯(せきけん)は宣帝の時より、久しく枢機を典(つかさど)る。帝、位に即くに及び多疾なり。顕の中人にして外党無きを以って遂に委するに政事を以ってし、事大小と無く、顕に因(よ)って白決(はっけつ)す。貴幸、朝(ちょう)を傾け、百僚皆顕に敬事す。顕、巧慧(こうけい)にして事に習い、能く人主の微指を探得(たんとく)す。内深賊(しんぞく)にして詭弁を持し、以って人を中傷し、高と表裏す。望之等、外戚許・史の放縦(ほうしょう)なるを患い、又恭・顕の権を擅(ほしいまま)にするを疾(にく)んで、建白す。以為(おも)えらく、中書は政の本(もと)、国家の枢機なり。宜しく通明公正を以って之に処(お)くべし。武帝は後庭に遊宴す、故に宦者(かんじゃ)を用う。古制に非ざるなり。宜しく中書の宦官を罷(や)め、古の刑人を近づけざりしの義に応ずべし、と。上、従う能わず。

中書令の弘恭と僕射の石顕は宣帝の時から久しく政治の枢要にあった。宣帝は即位以来病気がちであった。ところが石顕は宦官で一族係累がいないというので気を許して、次第に政治を任せ、事の大小を問わず全て石顕の奏上によって決するようになった。帝の恩寵は石顕の一身に集まり、百官みな顕を敬い仕えた。顕は知恵才覚に富み抜け目がなく、よく帝の微かな意中を察することができた。しかし内心は陰険で詭弁を弄して人を貶(おとし)めた。石顕と史高は宮中と朝廷と表裏一体となって気脈を通じていた。蕭望之らは、外戚の許延寿や史高の放縦をうれい、弘恭と石顕が権力を専(もっぱ)らにするのを悪(にく)んで、帝に建白書をたてまつって「思いますに、中書は政治の根本で、国家の枢機を扱っています時勢に明らかで公正な人物がその官に就くべきです。武帝はよく後宮で遊宴をされておられましたので、宦官を用いられましたが、これは古の制ではありません。どうか中書にいる宦官を罷免して古の帝が宮刑を受けた者を近づけられなかった道理に適うようになさってください」と。しかし元帝はこの措置をとることができなかった。

中書令 宮中の書記を総括する。 僕射 尚書僕射、宰相の一。 中人 宮中の宦官、この時代から権力に関わってきた。 外党 宮中外の徒党。 白決 白は申し上げる、奏上して裁決すること。

十八史略 蕭望之鴆(ちん)を飲んで自殺す。
2011-03-08 12:00:51 | 十八史略

恭・顯奏。望之・堪・更生、朋黨相稱譽、數譖詐大臣、毀離親戚、欲以專檀權勢、爲不忠。誣上不道。請謁者召致廷尉。時上初即位、不省召致廷尉爲送獄、可其奏。後上召堪・更生。曰、繋獄。上大驚曰、非但廷尉問邪。令出視事。恭・顯使高説上、竟罷免。後上復徴堪・更生爲中郎、且欲以望之爲相。恭・顯・許・史皆側目。知望之素高節不詘辱詘、建白。望之不悔過服罪。深懐怨望、自以託師傅、終不坐。非頗屈望之於獄、塞其怏怏心、則聖朝無以施恩厚。上曰、太傅素剛。安肯就吏。顯等曰、人命至重。望之所坐、語言薄過。必無所憂。令謁者召望之、因急發執金吾軍騎、馳圍其第。望之飲鴆自殺。

恭・顯奏す。望之・堪(かん)・更生、朋党相称誉(しょうよ)し、数しば大臣を譖詐(しんさ)し、親戚を毀離(きり)し、以って専ら権勢を檀(ほしいまま)にして、
不忠を為さんと欲す。上(しょう)を誣(し)うるは不道なり。請う謁者をして召して廷尉に致さしめん、と。時に上、初めて位に即き、召して廷尉に致すとは獄に送ることたるを省(せい)せずして、其の奏を可とす。後に上、堪・更生を召す。曰く、獄に繋ぐと。上、大いに驚いて曰く、但だ廷尉の問うのみに非ざるか、と。出でて事を視しむ。恭・顯、高をして上に説かしめ、畢(つい)に罷免す。後に上復た堪・更生を徴(め)して中郎と為し、且つ望之を以って相と為さんと欲す。恭・顯・許・史皆目を側(そばだ)つ。望之の素(もと)より高節にして詘辱(くつじょく)せられざるを知って、建白す。望之、過を悔いて罪に服せず。深く怨望(えんぼう)を懐いて、自ら以って師傅(しふ)に託し、終に坐せられずとなす。頗る望之を獄に屈して、其の怏怏(おうおう)の心を塞ぐに非ずんば、則ち聖朝以って恩厚を施す無からん、と。上の曰く、太傅もとより剛なり。安(いず)くんぞ肯(あえ)て吏に就(つ)かんや、と。顕等曰く、人命は至重なり、望之の坐する所は、語言の薄過(はくか)なり、必ず憂うる所無からん、と。謁者をして望之を召さしめ、因(よ)って急に執金吾(しっきんご)の軍騎を発し、馳せてその第(てい)を囲む。望之、鴆(ちん)を飲んで自殺す。

十八史略 蕭望之鴆(ちん)を飲んで自殺す(通釈)
2011-03-10 09:00:23 | 十八史略
弘恭・石顕の二人が帝に「蕭望之・周堪・劉更生は徒党を組んで互いに誉めあい、度たび大臣を讒訴(ざんそ)し、皇族を仲違いさせて自分たちで思うままにして不忠をはたらこうとしています。陛下をあざむくことは道にはずれたことであります、謁者に命じて廷尉に引き渡させたく存じます」と奏上した。時に元帝は即位したばかりで、召し出して廷尉に引き渡すとは獄に送ることとは気づかず、その奏上を裁可した。後に帝が周堪と更生とを召し出そうとしたところ、牢につながれているとの返事に大いに驚いて「廷尉が取り調べるだけではないのか」と言った。すぐに牢から出して政務を執らせた。しかし弘恭と石顕の二人は史高を通じて帝を説得して、とうとう三人を罷免してしまった。その後元帝は再び周堪と劉更生を召して中郎とし、さらに蕭望之を宰相にしようとした。弘恭・石顕・許延寿・史高の四人は横目で見合って危ぶんだ。そして望之が生来気骨が高く、屈辱に耐えられない質であることを知ってこう建議した「望之は過ちを悔い罪に服そうとはせず深く怨みを抱いており、自分は帝の師傅であったことを頼みに結局罰せられないと思っているようです。少しく獄に留め置き不平不満を懲らさねば、聖朝の恩沢をあまねく施すとは申せません」元帝は「太傅蕭望之はもとより剛直な性質である。どうして獄吏の手にかかることを承服しようぞ」と。石顕等は「人の命はきわめて重く、望之の罪は言葉の上の僅かな過失です、ご心配には及びません」と、そこで取り次ぎ役を遣って望之を召させ、一方執金吾の兵を出し、蕭望之の邸をとり囲んだ。望之ははたして鴆毒を飲んで自殺した。

譖詐 かげ口を言ってそしる。 毀離 仲違いさせる。 誣うる あざむく。
謁者 客の取次ぎをする者。 出でて事を視しむ 獄舎から出して政務を執らせた。 中郎 宿衛の事を掌る官。 詘辱 屈辱に同じ。 師傅 もり役。
怏怏 不平の気持ち。 執金吾 宮門警護 金は武器、吾は禦(ふさ)ぐ。鴆 毒鳥、羽を浸した酒を飲むと死ぬという。

十八史略 我が道を得て身を亡ぼさん者は、京生ならん
2011-03-12 17:25:48 | 十八史略
先ず東北地方太平洋沖地震に罹災された方と不幸にして亡くなられた方に哀悼の意をささげます。

弘恭死。石顯爲中書令。
五年、匈奴郅支單于漢使者、西走康居。
永光元年、匈奴呼韓邪單于北歸庭。
建昭二年、殺魏郡太守京房。房學易於焦延壽。延壽嘗曰、得我道以亡身者、京生也。爲郎屢言災異有驗。嘗宴見言事、意指石顯。顯奏出之、尋徴下獄、棄市。

弘恭死す。石顕中書令と為る。
五年、匈奴の郅支(しっし)単于、漢の使者を殺して、西のかた康居に走る。
永光元年、匈奴の呼韓邪(こかんや)単于、北のかた庭(てい)に帰る。
建昭二年、魏郡の太守京房(けいぼう)を殺す。房、易を焦延壽(しょうえんじゅ)に学ぶ。延壽嘗て曰く、我が道を得て以って身を亡ぼさん者は、京生ならん、と。郎と為り、しばしば災異を言いて験有り。嘗て宴見(えんけん)して事を言い、意、石顕を指す。顕奏して之を出だし、尋(つ)いで徴(め)して獄に下し、棄市す。

弘恭が死んで、代わって石顕が中書令になった。
初元五年(前44年) 匈奴の郅支単于が漢の使者を殺して、西方の康居に逃げた。
永光元年、匈奴の呼韓邪単于が北方の自分の領土に帰った。
建昭二年、魏郡の太守京房を処刑した。京房は、焦延壽から易を学んだが、ある時延壽が「わたしの易学を体得して、そのために身を亡ぼす者がいたとすれば、それは京房であろう」ともらした。京房は郎中になり、数しば天災地異を言い当てた。ある時、元帝の暇な折りに謁見して、或ることを予言したが、暗に石顕をほのめかす意味が込められていた。石顕は奏上して朝廷から追い出し、間もなく呼び出して投獄したのち、処刑して市中にさらした。

康居 西域の国の名。 郎 郎中、天子近侍の官、宴見 宴はくつろぐ。棄市 殺して屍を市中にさらすこと。

十八史略 牢か石か五鹿の客か
2011-03-15 10:07:39 | 十八史略

顯威權日盛。與中書僕射牢梁、少府五鹿充宗、結爲黨友。諸附倚者得寵位。民歌之曰、牢邪石邪、五鹿客邪、印何纍纍、綬若若邪。
三年、西域副校尉陳湯、矯制發兵、與都護甘延壽、襲撃郅支單于於康居斬之。四年春、傳首至京。縣藁街十日。

顕の威権日に盛んなり。中書僕射の牢梁(ろうりょう)、少府の五鹿充宗(ごろくじゅうそう)と結んで党友となる。諸々の附倚(ふい)する者寵位を得たり。民之を歌いて曰く、
牢か石か五鹿の客か、印何ぞ累累(るいるい)たる、綬(じゅ)若若(じゃくじゃく)たるか、
三年、西域の副校尉陳湯(ちんとう)、制と矯(いつわ)り兵を発して、都護の甘延壽と郅支(しっし)単于を康居に襲撃して之を斬る。四年春、首を伝えて京(けい)に至る。藁街(こうがい)に縣くること十日なり。

石顕の威光権勢は日増しに盛んになり、中書僕射の牢梁と少府の五鹿充宗らと徒党を組んだ。そしてこれらにおもねり従う者が位を得た。人々はこの事を歌にして「牢か石か五鹿の客か、印は累るい、綬は長ながと」と歌った。
建昭三年、西域の副校尉の陳湯が勅命と偽って兵を動かし、都護の甘延寿とともに康居にいた郅支単于を襲撃して之を斬り殺した。翌年の春、その首を都に送り匈奴の居留区に十日間さらした。

少府 宮中の衣服・宝物・食事をつかさどる。 印 官印  綬 印のひも

十八史略 王昭君、呼韓邪單于に降嫁す
2011-03-17 10:11:01 | 十八史略

竟寧元年、呼韓邪單于來朝、願婿漢。以後宮王嬙字昭君賜之。
帝崩。在位十六年。改元者四。初元・永光・建昭・竟寧。帝雖喜儒術、得韋玄成・匡衡爲相、無相業、帝徒優游不斷、漢業衰焉。太子即位。是爲孝成皇帝。

竟寧(きょうねい)元年、呼韓邪(こかんや)単于来朝し、願わくは漢に婿(むこ)たらん、と。後宮の王嬙(おうしょう)字は昭君を以って之に賜う。
帝崩ず。在位十六年。改元する者(こと)四。初元・永光・建昭・竟寧。帝儒術(じゅじゅつ)を喜び、韋玄成・匡衡を得て相と為すと雖も、相業なく、帝徒(いたずら)に優游不断(ゆうゆうふだん)にして、漢業衰う。太子位に即く。是を孝成皇帝となす。

竟寧元年(前33年) 呼韓邪単于が来朝して、漢室の女婿(むすめむこ)になりたいと願いでた。そこで後宮の王嬙、字は昭君を皇女として賜った。
この年元帝が亡くなった。在位十六年。改元すること四。初元・永光・建昭・竟寧である。元帝は儒者の道を好み、韋玄成・匡衡を丞相にしたが、この二人は丞相としての功績はなく、帝もきわめて優柔不断であった。そのため漢の帝業は衰退した。太子が即位した。これを孝成皇帝(成帝)という。

王昭君については有名な伝説があるが、ここでは触れない。李白の五言絶句と
我が朝の凌雲集より七言絶句を紹介する。

王昭君            李白
昭君玉鞍(ぎょくあん)を払い 馬に上って紅頬(こうきょう)啼く
今日(こんにち)漢宮の人   明朝胡地(こち)の妾(しょう)

王昭君            滋野貞主(しげののさだぬし)
朔雪(さくせつ)翩翩として沙漠暗く 辺霜惨烈として隴頭(ろうとう)寒し
行く行く常に望む長安の日     曙色(しょしょく)東方看るに忍びず

朔雪 北方から吹き付ける雪。 隴頭 長安の西方隴山のほとり

十八史略 黄霧(こうむ)四(よも)に塞がる。
2011-03-19 11:57:45 | 十八史略
孝成皇帝名驁。母王氏、生帝於甲觀。少好經書。其後幸酒樂燕樂。元帝時爲太子幾廢。頼史丹伏青蒲、涕泣諌止。至是即位、尊王氏爲皇太后、以元舅王鳳、爲大司馬大將軍、領尚書事。
建始元年、石顯以罪免歸、道死。
封舅王崇爲安成侯、賜譚・商・立・根・逢時爵關内侯。黄霧四塞。

孝成皇帝名は驁(ごう)。母は王氏、帝を甲観に生む。少(わか)き時経書(けいしょ)を好む。その後、酒楽(しゅがく)を幸(こう)して燕楽(えんらく)す。元帝の時太子と為り、幾(ほとん)ど廃せられんとす。史丹、青蒲(せいほ)に伏し、涕泣(ていきゅう)して諌むるに頼(よ)って止む。是(ここ)に至って位に即き、王氏を尊んで皇太后と為し、元舅(げんきゅう)の王鳳を以って、大司馬大将軍と為し、尚書の事を領せしむ。
建始元年、石顕罪を以って免ぜられて帰り、道に死す。
舅の王崇を封じて安成侯と為し、譚・商・立・根・逢時に爵関内侯を賜う。黄霧(こうむ)四(よも)に塞がる。

孝成皇帝名は驁といい、母は王氏で、成帝を太子の宮殿の甲観で生んだ。若い時は経書を好んだが、その後酒と音楽に気が向き、酒宴に耽るようになった。元帝の時太子に立ったが、ほとんど廃位されようとした。史丹という者が元帝の寝室にまで入り、玉座のそばにひれ伏して泣いて諌めたので廃せられずに済んだ。元帝がなくなって即位するや、母の王氏を皇太后とし、母の長兄の王鳳を大司馬大将軍に任じ尚書の政務をまかせた。
建始元年に石顕が罪によって罷免されて郷里に帰ったが、途中で死んだ。
皇太后の弟の王崇を安成侯とし、同族の王譚・王商・王立・王根・王逢時の五人に関内侯の爵位を授けた。この日、不吉な黄色の霧が四方にたちこめた。

経書 四書五経の類。 燕楽 宴楽。 青蒲 青い蒲で織った敷物。 元舅 母方の伯父で一番年長者

十八史略 趙飛燕皇后に立つ
2011-03-22 12:02:55 | 十八史略
19日と同じものを入れてしまったので再送しました。
河平二年、悉封諸舅爲列侯。
陽朔三年、王鳳卒。王音爲大司馬、王譚領城門兵。
鴻嘉四年、王譚卒、王商領城門兵。
永始元年、封太后弟之子莽、爲新都侯。
立皇后趙氏。名飛燕。女弟合爲婕。
二年、王音卒、王商爲大司馬。

河平二年、悉(ことごと)く諸舅(しょきゅう)を封じて列侯と為す。
陽朔(ようさく)三年、王鳳卒す。王音(おういん)大司馬と為り、王譚(おうたん)城門の兵を領す。
鴻嘉(こうか)四年、王譚卒し、王商城門の兵を領す。
永始元年、太后の弟の子の莽(もう)を封じて、新都侯と為す。
皇后趙氏を立つ。名は飛燕。女弟の合徳を婕(しょうよ)と為す。
二年、王音卒し、王商大司馬と為る。

河平二年(前27年)皇太后の兄弟をすべて列侯に封じた。陽朔三年(前22年)王鳳が死んだ。王音が大司馬となり、王譚が宮城の衛兵を統括した。
鴻嘉四年(前17年)、王譚が死に、王商が代わって衛兵を統括した。
永始元年(前16年)、太后の弟の子王莽を新都侯に封じた。
趙飛燕を皇后に立てた。妹の合徳も婕として宮中にいれた。
二年、王音が死に、王商が大司馬となった。

女弟 妹のこと。 婕 高位の女官。

十八史略 願わくはその景を察せよ
2011-03-24 09:06:58 | 十八史略
故南昌尉梅福、上書曰、方今君命犯、而主威奪。外戚之權、日以盛。陛下不察其形、願察其景。建始以來、日食・地震、三倍春秋、水災無與比數。陰盛陽微、金鐡爲飛。此何景也。書上。不報。
四年、王商卒、王根爲大司馬。

故(もと)の南昌の尉、梅福、上書して曰く、方今(ほうこん)君命犯されて、主威奪わる。外戚の権、日に以って益々盛んなり。陛下其の形を察せずんば、願わくは其の景(かげ)を察せよ。建始以来、日食・地震、春秋に三倍し、水災与(とも)に比数(ひすう)する無し。陰盛んにして陽微に、金鉄ために飛ぶ。此れ何の景(かげ)ぞやと。書上(たてまつ)る。報ぜず。
四年、王商卒し、王根大司馬と為る。

もとの南昌の尉の梅福が帝に書をたてまつってこう言った「昨今帝の命令は犯されて、君主の威厳が損なわれております。そして外戚の権勢は日増しに盛んになってきております。陛下にはその実態を察しておられないならば、どうかそれに起因する天変地異を察知してください。建始以来起こった日蝕や地震は春秋の世に三倍しており、水害などは比べようもありません。陰の気が盛んで陽の気が衰え、鉄が飛び散ったこともありました。これは一体何の現れでありましょう」と。書は上呈されたが、何の沙汰もなかった。
永始四年、王商が死んで王根が大司馬となった。

金鉄ために飛ぶ 鉄を鋳込んだとき空高く飛び散ったことがあった。

十八史略 張禹王氏の怨む所となるを恐る
2011-03-26 10:32:46 | 十八史略
安昌侯張禹、以帝師傅、毎有大政、必與定議。時吏民多上書言、災異王氏専政所致。上至禹第、辟左右、親以示禹。禹自見年老子孫弱、恐爲王氏所怨、謂上曰、春秋日食・地震、或爲諸侯相殺、夷狄侵中國。災變之意、深遠難見。故聖人罕言命、不語怪神。性與天道、自子貢之屬不得聞。何況淺見鄙儒之所信。新學小生、亂道誤人。宜無信用。上雅信愛禹。由是不疑王氏。

安昌侯張禹(ちょうう)、帝の師傅(しふ)を以って大政(たいせい)ある毎に、必ず定議に与(あづか)る。時に吏民多く上書して言う、災異は王氏専政の致すところなりと。上(しょう)禹の第(てい)に至って左右を退け、親(みずか)ら以って禹に示す。禹自ら年老い子孫弱きを見て、王氏の怨むる所と為るを恐れ、上に謂って曰く、春秋の日食・地震は、或いは諸侯あい殺し、夷狄中国を侵すが為ならん。災変の意、深遠にして見難し。故に聖人罕(まれ)に命を言い、怪神を語らず。性と天道とは、子貢の属よりして聞くを得ず。何ぞ況(いわん)や浅見鄙儒(せんけんひじゅ)の言う所ならんや。新学の小生、道を乱り人を誤る。宜しく信用するなかるべし、と。上、雅(もと)より禹を信愛す。是に由って王氏を疑わず。

安昌侯の張禹は帝の教導役ということで大事のある毎に評議に加わっていた。その頃、吏民からこういった天災地変は王氏一族の専横に起因するという訴えが多く出されていた。成帝は張禹の屋敷に行き、左右の者を遠ざけて、みずから上書を張禹に見せた。張禹は自分がすでに年老いて、子や孫もまだ非力であることを考えて、王氏に恨まれることを恐れて、帝に言った「春秋の日蝕や地震は諸侯が殺し合ったり、夷狄が中国を侵したためでありましょう。天災地変の理(ことわり)は深遠で測り難いものであります。故に聖人孔子も天命については滅多に口にせず、怪異や鬼神も語られなかったのです。人の本性と宇宙の道理については、子貢のような高弟でも聞くことができませんでした。まして浅学の儒者風情が言うことではございません。学問をはじめたばかりの青二才どもは道を乱し、人を誤らせます。信用なさらぬことです」と。帝はもとより禹を信愛していたので、王氏を疑わなかった。

第 邸に同じ。 罕言命 論語子罕篇(しかんへん)に「子罕(まれ)に利と命と仁とを言う」とある。 親 天子みずから。 雅 つねに、もとからの意

十八史略 朱雲、折檻す
2011-03-29 10:38:00 | 十八史略
龍逢・比干に従って、地下に遊ぶを得ば足れり
故槐里令朱雲、上書求見。願賜尚方斬馬劔、斷佞臣一人頭、以其餘。上問、誰也。對曰、安昌侯張禹。上大怒曰、小臣居下、廷辱師傅。罪死不赦。御史將雲下。雲攀殿檻。檻折。雲呼曰、臣得下從龍逢・比干、遊於地下足矣。未知聖朝如何耳。左將軍辛慶忌、叩頭流血爭之。上意乃解。及當治檻、上曰、勿易。因而輯之、以旌直臣。

故(もと)の槐里(かいり)の令、朱雲、上書して見(まみ)えんことを求む。願わくは尚方(しょうほう)の斬馬剱を賜り佞臣(ねいしん)一人の頭を断って、その余(よ)を励まさんと。上問う、誰ぞやと。対(こた)えて曰く、安昌侯張禹なりと。上、大いに怒って曰く、小臣下(しも)に居り、師傅(しふ)を廷辱(ていじょく)す。罪、死をも赦さず、と。御史、雲を将(ひき)いて下る。雲、殿檻(でんかん)を攀(よ)づ。檻折る。雲呼んで曰く、臣、しも龍逢・比干に従って、地下に遊ぶを得ば足れり。未だ聖朝の如何知らざるのみ、と。左将軍辛慶忌(しんけいき)、叩頭(こうとう)して血を流して之を争う。上の意乃(すなわ)ち解く。当(まさ)に檻を治むべきに及んで、上曰く、易(か)うること勿れ。因って之を輯(あつ)めて、以って直臣を旌(あらわ)せ、と。

もと槐里の県令であった朱雲が上書して拝謁を願い出でて言うには「願わくは、尚方(しょうほう)の斬馬剣を拝領して佞臣一人の首を刎ね、ほかの人達を励ましたと存じます」と。帝は「それは誰か」と問うと、「安昌侯張禹でございます」と答えた。帝は非常に怒って「小臣者が下賤の身でありながら朝廷でわが師傅を辱めたその罪は死んでも赦されぬ」御史が朱雲を引き立ててさがろうとしたが、朱雲は御殿の檻(てすり)にすがりついて、引きはがそうとすると檻が折れた。朱雲は大声で「臣は地下で龍逢・比干に従って遊ぶことができれば満足でございます、ただ朝廷の行く末が知れないのが気がかりでございます」と叫んだ。左将軍の辛慶忌(しんけいき)が頭を床に打ち付け、額に血を流しながら朱雲の助命を嘆願したので成帝も怒りを解いた。その後檻を修理する時になると、「とり易(か)えてはならぬ、木片を集めて元通りにして直諌の臣を表彰せよ」と命じた。

槐里 地名、峡西省にある。 尚方 御物を管理する役所。 檻 欄干。折檻の典拠になった。龍逢 関龍逢、夏の桀王の臣、王を諌めて殺された。比干は殷の紂王の叔父で胸を裂かれて殺された。

十八史略 王莽大司馬となり、成帝崩ず
2011-03-31 14:06:36 | 十八史略
綏和元年、王根病免、王莽爲大司馬。
二年、帝崩。在位二十六年、改元者七、曰建始・河平・陽朔・鴻嘉・永始・元延・綏和。帝有威儀。臨朝若神。然荒于酒色、政在外家。張禹・薛宣・翟方進、爲相、漢業愈衰焉。太子即位。是爲孝哀皇帝。

綏和(すいわ)元年、王根病んで免ぜられ、王莽大司馬と為る。
二年、帝崩ず。在位二十六年、改元すること七、 建始・河平・陽朔・鴻嘉・永始・元延・綏和と曰(い)う。帝、威儀有り。朝に臨んで神の若(ごと)し。然れども酒色に荒(すさ)み、政は外家(がいか)に在り。張禹・薛宣(せっせん)・翟方進(てきほうしん)相と為り、漢業愈々衰う。太子位に即く。是を孝哀皇帝(こうあいこうてい)と為す。

綏和元年(前8年)に王根が病気のため職を免ぜられ、王莽が大司馬になった。
綏和二年に成帝が崩御した。在位すること二十六年、改元すること七度、建始・河平・陽朔・鴻嘉・永始・元延・綏和である。成帝は威厳があり、朝廷に出られたときには神々しいほどであった。しかし酒色に溺れ、政治の実権は外戚の手に握られた。張禹・薛宣・翟方進が宰相になったが、漢室は益々衰えるばかりであった。太子が即位した。これが孝哀皇帝(哀帝)である

十八史略 哀帝
2011-04-02 08:26:41 | 十八史略

孝哀皇帝名欣。定陶恭王康之子、元帝之孫也。祖母傅氏、母丁氏。成帝無子。故立爲太子。至是即位。丁・傅用事罷大司馬莽就第。
建平元年、用夏賀良言。漢歴中衰。當更受天命、宜急改元易號。乃改元太初、更號陳聖劉太平皇帝。尋罷改元更號事、誅夏賀良等。
帝幸董賢。元壽元年、以賢爲大司馬。二年、帝崩。賢自殺。
帝在位七年、改元者二、曰建平・元壽。太皇太后、以王莽爲大司馬、領尚書事、迎中山王即位。是爲孝平皇帝。

孝哀皇帝名は欣。定陶恭王(ていとうきょうおう)康の子、元帝の孫なり。祖母は傅(ふ)氏、母は丁氏。成帝子無し。故に立てて太子と為す。是(ここ)に至って位に即く。丁・傅、事を用い、大司馬莽を罷(や)めて第(てい)に就(つ)かしむ。
建平元年、夏賀良(かがりょう)の言を用う。漢歴中ごろ衰う。当(まさ)に天命を更(あらた)め受くべく、宜しく急に元を改め号を易(か)うべし、と。乃(すな)ち太初と改元し、更に陳聖劉太平皇帝と号す。尋(つ)いで改元更号の事を罷(や)めて、夏賀良等を誅す。
帝、董賢を幸(こう)す。元壽元年、賢を以って大司馬と為す。二年、帝崩ず。賢自殺す。
帝、位に在ること七年、改元する者(こと)二、建平・元壽と曰う。太皇太后、王莽を以って大司馬と為し、尚書の事を領せしめ、中山王を迎えて位に即かしむ。是を孝平皇帝と為す。

孝哀皇帝名は欣といい、 定陶の恭王、康の子で、元帝の孫にあたる。祖母は傅氏、母は丁氏である。成帝に子がなかったので、立てて太子とした。帝が亡くなるに及んで位に即いた。丁氏・傅氏が政権を握り、王莽を罷免して自邸に帰らせた。
建平元年に夏賀良という者が、「漢の運気が衰えかけております。今改めて天命を受けるべく、年号を改め、帝号を変えられるのがよろしいと存じます」と言上した。そこで年号を太初と改元して、更に帝号を陳聖劉太平皇帝とあらためた。ところが一向に効果が無いとして改元、改号のことをとり止め、夏賀良等を誅殺した。
哀帝は董賢というものを寵愛し、元壽元年に、董賢を大司馬とした。二年に、哀帝が」崩御し、董賢は自殺した。
帝は位にあること七年、年号を改めること二度、即ち建平、元壽である。帝の没後、太皇太后(王氏)は、王莽を大司馬にして尚書のことを統括させた。また中山王を迎えて帝位に即かせた。これを孝平皇帝(平帝)という。

十八史略  平帝 
2011-04-05 12:59:35 | 十八史略

孝平皇帝名箕子。後更名衎。中山孝王興之子、元帝孫也。哀帝崩、立爲嗣。太皇太后臨朝。大司馬莽秉政。百官總己以聽。元始元年、莽爲安漢公。
四年、聘莽女爲皇后、加安漢公號宰衡、位諸侯王上。
五年、太師孔光卒。成哀以來、光等爲三公、養成漢禍、諂佞成風。上書頌莽者、至四十八萬人。加莽九錫。

孝平皇帝名は箕子(きし)。後に名を衎(かん)と改む。中山(ちゅうざん)の孝王興(こう)の子、元帝の孫なり。哀帝崩じ、立って嗣となる。太皇太后、朝(ちょう)に臨む。大司馬莽、政を秉(と)る。百官己を総(す)べて以って聴く。
元始元年、 莽を安漢公と為す。
四年、莽の女(むすめ)を聘(へい)して皇后と為し、安漢公に号宰衡を加えて、諸侯王の上に位せしむ。
五年、太師孔光卒す。成哀以来、光等、三公と為り、漢の禍を養成し、諂佞(てんねい)、風(ふう)を成す。書を上(たてまつ)って莽を頌(しょう)する者、四十八万人に至る。莽に九錫を加う。

孝平皇帝は名を箕子と言い、のちに衎と改めた。中山の孝王の子で元帝の孫にたる。哀帝が崩御したため帝位を嗣いだ。帝は幼かったので太皇太后が朝廷に臨み、王莽が政務を執った。百官はみな自分の職務について王莽に指図を仰ぐようになった。
元始元年(後1年) 王莽に安漢公の尊号を与えた。
四年、王莽の娘を皇后にし、安漢公に宰衡という号を加えて、諸王、諸侯よりも上の位にした。
五年、太師孔光が死んだ。成帝、哀帝以来、孔光等が三公となって漢のわざわいを醸成し、媚びへつらう風習が蔓延した。それで上書して王莽を讃える者が四十八万人におよび、王莽に九錫(きゅうしゃく)を賜った。

宰衡 その昔、周公は冢宰(ちょうさい)となって成王を補佐し、殷の伊尹(いいん)は湯王を補佐して阿衡と呼ばれた。この二人を合わせ持ったとして与えられた称号。 九錫 天子から賜る九種の品や特典。輿馬、衣服、楽器、虎賁(勇者三百人)、弓矢、鈇鉞(ふえつ=殺生の権)、秬鬯(きょちょう=祭酒)、朱戸(朱塗りの門)、納陛(宮殿内の階段、取り次ぎ無しで直接天子に謁見できる権利)。

十八史略 王莽、平帝を毒殺し孺子嬰を立てる
2011-04-07 11:05:53 | 十八史略

臘日、莽上椒酒於帝、置毒。帝崩。在位六年、改元者一、曰元始。太皇太后詔徵宣帝玄孫嬰、爲皇太子。號曰孺子嬰。莽居攝踐祚、贊曰假皇帝、民臣謂之攝皇帝。
孺子嬰爲嗣之初、是爲王莽居攝元年。劉崇起兵討莽、不克死。
二年、東郡太守翟義、故丞相方進子也。起兵討莽、不克死。

臘日(ろうじつ)、莽、椒酒(しょうしゅ)を帝に上り、毒を置く。帝崩ず。在位六年、改元する者(こと)一、元始と曰(い)う。太皇太后、詔(みことのり)して宣帝の玄孫嬰(えい)を徴(ちょう)して皇太子と為す。号して孺子嬰(じゅし、えい)と曰う。莽、摂(せつ)に居て祚(そ)を践(ふ)み、賛するに仮皇帝と曰い、民臣は之を摂皇帝(せつこうてい)と謂う。
孺子嬰、嗣たるの初め、是を王莽の居摂(きょせつ)元年と為す。劉崇(りゅうしゅう)、兵を起こして莽を討ち克(か)たずして死せり。
二年、東郡の太守翟義(てきぎ)は、故(もと)の丞相方進の子なり。兵を起こして莽を討ち克たずして死せり。

十二月臘祭の日、王莽は椒酒を献上したが、その中に毒を仕込んでいた。それを飲んで平帝が亡くなった。在位六年、改元は一度、元始といった。太皇太后が詔を下し、宣帝の玄孫で二歳の嬰を召し出して皇太子とした。これを孺子嬰という。王莽は摂政でありながら践祚した。また祭祝の辞文には自身を仮皇帝といい、官民は摂政にして帝位に就いたことで摂皇帝といった。
孺子嬰が世嗣となった年を王莽の居摂元年(西暦6年)という。この年、劉崇が兵を起こして王莽を討とうとしたが勝たずに死んだ。
二年に東郡の太守で、もとの丞相の子の翟義が兵を起こして、王莽に敗れて死んだ。
臘日 冬至後第三戌の日に行う猟の獲物を先祖に供える祭り。椒酒 山椒の実に薬種を加え浸した酒。

十八史略 王莽帝位を簒奪し、国号を新と改める
2011-04-09 08:59:59 | 十八史略
初始元年、莽即眞天子位、國號新。更號漢太皇太后、曰新室文母太皇太后。
王莽者王曼之子也。孝元皇后兄弟八人。獨曼早死不侯。莽幼孤。羣兄弟皆將軍、五侯子、乗時侈靡、以輿馬聲色、佚游相高。莽折節爲恭儉、勤身博學、被服如儒生。外交英俊、内事諸父、曲有禮意。封新都侯。爵位尊、節操愈謙。虛譽隆洽、傾其諸父。遂得漢政。哀帝崩、迎立平帝。五年而弑帝、攝位三年、畢簒位、國號新。

初始元年、莽、真天子の位に即き、国を新と号す。漢の太皇太后を更(あらた)め号して、新室文母太皇太后と曰う。王莽は王曼(おうまん)の子なり。孝元皇后
の兄弟(けいてい)八人あり。独り曼、早く死して侯たらず。莽、幼にして孤なり。群兄弟は皆将軍、五侯の子、時に乗じて侈靡(しび)、輿馬(よば)声色を以って、佚游(いつゆう)して相高ぶる。莽、節を折って恭倹をなし、身を勤めて博く学び、被服、儒生の如し。外は英俊に交わり、内は諸父に事(つか)え、曲(つぶさ)に礼意有り。新都侯に封ぜらる。爵位益々尊く、節操愈々謙なり。虚譽隆洽(きょよりゅうこう)なること、その諸父を傾く。遂に漢の政(まつりごと)を得たり。哀帝崩じて、平帝を迎立(げいりつ)す。五年にして帝を弑(しい)し、位に摂すること三年、竟(つい)に位を簒(うば)い、国を新と号す。

初始元年(後8年)に王莽が天子の位に即き、国を新と改めた。また漢の太皇太后も改めて新室文母太皇太后といった。
王莽は王曼の子で、孝元帝の皇后王氏つまり太皇太后には八人の兄弟があったが、王曼だけが早く死んで、諸侯になれなかった。王莽は幼くして孤児となった。多くの従兄弟たちは将軍や五侯の子として時運に乗じて贅沢にふけり、車馬もきらびやかに歌舞や妓楼に遊びほうけていた。王莽だけは身を低く慎み深く振る舞い、勤めて学問をひろく修め、衣服は書生のように質素であった。外にあっては英俊と交わり、内では伯父たちにつかえて礼節をつくした。やがて
新都侯に封ぜられた。さらに爵位が上がるにつれて謙虚にふるまった。虚名はあまねく天下に知れ渡り、その人気は伯父たちを凌ぐようになり、ついに漢の政治の実権を握った。哀帝が崩御して平帝を迎えて擁立し、五年後には毒殺し、摂政となること三年、ついに天子の位を簒奪して、国号を新とした。


十八史略 揚雄、閣上より身を投ず。
2011-04-12 14:37:43 | 十八史略

始建國元年、廢孺子嬰爲定安公。
二年、漢太皇太后崩。
天鳳四年、荊州盜起。新市人王匡爲之帥、馬武・王常・成丹往從之、藏於緑林山中。
五年、莽大夫揚雄死。雄字子雲、成帝之世、以奏賦爲郎、給仕黄門、三世不徙官。及莽簒、以耆老久次、轉爲大夫。嘗作太玄・法言、卒章稱莽功、比伊周。後又作劇秦美新之文、以頌莽。劉棻嘗從雄學奇字。棻坐事誅。辭連及雄。時雄校書天禄閣上。使者來欲収之。雄從閣上自投下。莽詔勿問。至是死。

始建国元年、孺子嬰を廃し定安公と為す。
二年、漢の太皇太后崩ず。
天鳳四年、荊州に盜起こる。新市の人王匡、之が帥(すい)と為り、馬武・王常・成丹、往(ゆ)いて之に従い、緑林山中に蔵(かく)る。
五年、莽の大夫揚雄死す。雄、字は子雲、成帝の世、賦を奏するを以って郎と為り、黄門に給仕して、三世、官を徒(うつ)さず。莽の簒(さん)するに及んで、耆老久次(きろうきゅうじ)を以って、転じて大夫と為る。嘗て太玄・法言を作り、卒章に莽の功徳(こうとく)を称して、伊周に比す。後また劇秦美新の文を作り、以って莽を頌(しょう)す。劉棻(りゅうふん)嘗て雄に従って奇字を学ぶ。棻、事に坐して誅せらる。辞、雄に連及す。時に雄、書を天禄閣上に校(こう)す。使者来たって之を収めんと欲す。雄、閣上より自ら投下す。莽、詔(みことのり)して問うこと勿(な)からしむ。是(ここ)に至って死す。

始建国元年(後9年)、孺子嬰を世嗣から廃して定安公とした。
二年、漢の太皇太后が崩じた。
天鳳四年(17年)、荊州に盜賊が起こった。新市の人王匡が首領となり、馬武・王常・成丹、たちがこれに従い、緑林の山中に立てこもった。
五年、王莽の大夫の揚雄が死んだ。雄は字を子雲といい、成帝の世に、賦を奏上して郎中に取り立てられ、殿中の給仕中となった。成帝・哀帝・平帝の三代、官職が変わらなかったが、王莽が帝位を奪うと、老年になるまで久しくその官にあったということで、大夫となった。嘗て易と論語に擬して太玄と法言の二書を著し、その終章で王莽の功徳を称して古の伊尹・周公になぞらえた。後にまた「秦をそしり、新をたたえる」という文章を作り、王莽を賞賛した。劉棻(りゅうふん)という者が、かつて揚雄について周代文字大篆(だいてん)を学んだことがある。その劉棻が罪に問われて誅殺されたが、共述に揚雄の名が挙っていた。揚雄が天禄閣で書物の校正をしていた時に取り調べの使者が身柄を拘束するために来たところ、雄は閣から身を躍らせて死にかけた。王莽は揚雄を問責しないよう詔を下した。それで生き延びてこの年に死んだのである。

緑林 後に盗賊のことを緑林というようになった。 賦 文体の一種、韻文。 黄門 宮城の門、広く宮中の役所の意。 給仕中 下級官吏、奏上の事務などを行う。 耆老久次 老年まで職にあること。太玄・法言 太玄経 易になぞらえた占いの書、宇宙万物の根本を論じた。法言 揚子法言 論語になぞらえて、天道と人道との関係を説く。 卒章 章の終わり。 劇秦美新 秦をそしり新を称える

十八史略 衆兵、莽を誅し首を伝えて更始にいたる。
2011-04-14 10:01:51 | 十八史略

瑯琊樊崇・東海刁子都等兵起。  地皇三年、崇兵自號赤眉。  緑林兵、分爲下江・新市兵。 荊州平林兵起。
漢宗室劉縯、及弟秀、起兵舂陵。新市・平林兵皆附之。明年、諸將共立劉玄爲皇帝。玄舂陵戴侯買之後、與縯秀同高祖。時在平林軍中、號更始將軍。諸將貪其懦弱立之。南面立朝羣臣、以手刮席、羞愧流汗、不能言。大赦改元更始、都于宛。更始元年、劉秀大破莽兵於昆陽。
成紀隗囂兵起。  公孫述起兵成都。  更始遣將破武關。析人曄、起兵迎入長安。衆兵誅莽傳首詣更始。

瑯琊(ろうや)の樊崇(はんすう)・東海の刁子都(ちょうしと)等の兵起こる。
地皇三年、崇の兵自ら赤眉(せきび)と号す。
緑林の兵、分かれて下江・新市の兵と為る。
荊州平林兵起こる。
漢の宗室劉縯(りゅうえん)、及弟秀、兵を舂陵(しょうりょう)に起こす。新市・平林の兵皆之に附く。明年、諸将共に劉玄を立てて皇帝と為す。玄は舂陵の戴侯買(たいこう ばい)の後にして、縯・秀と高祖を同じうす。時に平林の軍中に在り、更始将軍と号す。諸将、其の懦弱を貪って之を立つ。南面に立って群臣を朝(ちょう)せしむるに、手を以って 席を刮(かっ)し、羞愧(しゅうき)して汗を流し、言うこと能(あた)わず。大赦して、更始と改元し、宛(えん)に都(みやこ)す。
更始元年、劉秀大いに莽の兵を昆陽に破る。  成紀の隗囂(かいごう)の兵起こる。  公孫述(こうそんじゅつ)、兵を成都に起こす。
更始、将を遣わして武関を破る。析(せき)の人曄(とうよう)、兵を起こして、長安に迎え入る。衆兵、莽を誅し、首を伝えて更始に詣(いた)る。

この年、瑯琊の樊崇・東海の刁子都等の兵起こった。
地皇三年(22年)、樊崇の兵は自ら眉を赤く染めて赤眉(せきび)と名乗った。
緑林の兵が、分かれて下江と新市の兵となった。
荊州平林の兵が起こった。
漢室の血筋を引く劉縯と弟の劉秀が舂陵に兵を起こした。新市・平林の兵がつき従った。明年、諸将が劉玄を担いで皇帝に立てた。劉玄は舂陵に封ぜられた戴侯買の子孫で劉縯・劉秀とは四代前の先祖が同じである。当時、平林の軍中にあって更始将軍と呼ばれていた。諸将は劉玄が懦弱であることにつけ込んで皇帝にまつりあげたのである。南面して玉座に立ち群臣の拝謁を受けたが手で敷物をさするばかりで羞恥と不安に冷や汗を流すばかりで一言も発することが出来なかった。かくして即位の大赦が行われ、年号を更始と改め、都を宛に定めた。
更始元年(23年) 劉秀が昆陽にて王莽の軍を大破した。
成紀の人隗囂が挙兵した。 
公孫述が成都に兵を起こした。
更始皇帝が将を派遣して武関を突破し、析(せき)の人曄が挙兵して呼応し、更始軍を長安に迎え入れた。多くの兵が王莽に襲いかかり、その首を更始帝のもとに送り伝えた

舂陵 湖北省にある。うすづくという字。 高祖 遠い祖先。 刮 こする。 詣 いたる行き着く。

十八史略 謳吟して漢を思うこと久し
2011-04-16 10:31:02 | 十八史略

莽未簒時、更定官名及十二州界、罷置改易、天下多事。更造錯刀・契刀・大錢等貨。既簒位、以劉字卯金刀也、禁剛卯金刀之利、不得行。罷錯刀・契刀・五銖錢等。更名天下田曰王田、不得買賣。男口不盈八、而田過一井、分餘田予九族郷里。故無田者受田。立五均・司市・錢府官、令民各以所業爲貢。更作寶貨。有金銀・龜貝・錢布・五物・六名・二十八品。百姓潰亂、寶貨不行。乃行小錢・大錢。數更變不信。盜鑄及私挾五銖錢者抵罪。於是農商失業、食貨倶廢、民至涕泣市道。後又改貨布・貨泉。毎一易錢、民又大陥犯鑄錢法、檻車鎖頸、傳詣長安者、以十萬數。死什六七。改易制度、政令煩多。四方囂然、謳吟思漢久矣。

莽、未だ簒(さん)せざる時、官名及び十二州の界(さかい)を更定(こうてい)し、罷置改易(ひちかいえき)し、天下多事なり。錯刀(さくとう)・契刀(けいとう)・大銭等の貨を更造(こうぞう)す。既に位を簒(うば)うや、劉の字は卯金刀なるを以って、剛卯(ごうぼう)金刀の利を禁じて、行うを得ざらしむ。錯刀・契刀・五銖銭等を罷(や)む。天下の田(でん)を更名(こうめい)して王田と曰い、買売するを得ざらしむ。男口(だんこう)八に盈(み)たずして、田、一井(いっせい)に過ぐるものは、余田を分って九族郷里に予(あた)えしむ。故に田無きものも田を受く。五均・司市(しし)・銭府の官を立て、民をして各々業とする所を以って貢(こう)を為さしむ。宝貨を更作(こうさく)す。金銀・亀貝(きばい)・銭布・五物・六名(りくめい)・二十八品有り。百姓(ひゃくせい)潰乱(かいらん)し、宝貨行われず。乃(すなわ)ち小銭・大銭を行う。数しば更変して信ならず。盗鋳するもの、及び私(ひそか)に五銖銭(ごしゅせん)を挟む者は罪に抵(いた)る。是に於いて農商、業を失い、食貨俱(とも)に廃(すた)れ、民、市道に涕泣するに至る。後又貨布・貨泉(かせん)を改む。一たび銭を易(か)うる毎に、民また大いに鋳銭法を陥犯(かんはん)し、檻車鎖頸(さけい)、伝(でん)して長安に詣(いた)る者、十万を以って数う。死するもの什に六七なり。制度を改易し、政令煩多なり。四方囂然(ごうぜん)、謳吟して漢を思うこと久し。

十八史略 謳吟して漢を思うこと久し。
2011-04-19 12:16:49 | 十八史略

王莽がまだ帝位を奪わなかった時、官の名称や十二州の境界を、廃止したり新設したり、天下は多事であった。また錯刀・契刀・大銭等の貨幣を新たに鋳造した。やがて位を奪うと、漢室の姓である劉の字は卯と金と刀とで成り立っているとして、印章の剛卯と、貨幣の金刀の使用を禁じて、使うことが出来ないようにした。さらに錯刀・契刀・五銖銭なども廃止した。天下の田地を改称して「王田」と呼び、売買を禁止し、男子の数が八人に満たない家で、田地が一井(九百畝)を過ぎる者はその余分の田地を分けて、親族や郷党に与えさせた。でそれで今まで田地の無かった者が田地を持つことができた。五均・司市・銭府といった役所をつくり、民がそれぞれ生業とするもので年貢を納めさせるようにした。貨幣をすべて改めた。金銀、亀、貝、銭、布の五物、六名、二十八品に分類された。あまりの煩雑さで人々が混乱し、貨幣が通用しなくなって小銭、大銭を流通させた。あまり数しば変更したので信用がなくなった。偽造する者や、廃止した五銖銭を密かに所持する者は罪に問うことにした。このようになって農民も商人も仕事を失い、食物、貨幣ともに流通が止まって、人々は道端に泣き叫ぶばかりとなった。後にまた貨布、貨泉を改めた。一たび貨幣を改める度に、民は私鋳を禁ずる法に触れる者が続出し、護送車に乗る者、首を鎖で繋がれて長安に送られる者が十万以上におよび、その十人に六、七人が命を落とした。制度を度々変え、政令も煩瑣をきわめたので天下は騒然となり、人々は歌に託して漢の世を懐かしく思い続けた。

剛卯 毎年一月の卯の日に印章を佩びて厄除けをする習わしがあった。
五均 市場の物価を調整する役所で長安ほか五箇所に設けた  司市 
四季ごとに標準価格を定める。 銭府 低利で金銭を貸し付ける官。 五物 貨幣の材料となる金銀銅亀貝。六名 黄金、銀貨、亀甲、貝貨、銭貨、布貨。二十八品 金貨は一、銀貨は二種、亀貨は四種、貝貨は五種、銭貨は六種、布貨は十種、計二十八品種。 貨布 鋤や鍬をかたどった青銅製の貨幣。貨泉 円形方形孔の銅銭で貨泉の二字を刻した。

十八史略 天、徳を予に生ず、漢兵其れ予を如何せん
2011-04-21 08:42:06 | 十八史略

歳旱蝗。人相食、遠近兵起。莽以五石銅鑄威斗、如北斗状。欲以厭勝衆兵、出入使人負之以行。至漢兵入宮、猶旋席、随斗柄而坐曰、天生於予。漢兵其如予何。斬首漸臺。軍人分其身、節解臠之。自簒至亡、改元者三、曰始建國・天鳳・地皇。凡十五年。莽傳首至宛。更始自宛遷都洛陽。父老見司隷校尉官屬、或垂涕曰、不圖、今日復見漢官威儀。
更始元年、遷都長安。
赤眉攻長安。明年、赤眉入。更始出奔。已而降赤眉、爲所殺。自立至亡、凡三年。前數月、大司馬秀已即位於河北。是爲世祖光武皇帝。

歳(とし) 旱蝗(かんこう)あり。人相食(は)み、遠近兵起こる。莽、五石銅を以って威斗(いと)を鋳(い)、北斗の状の如くす。以って衆兵を厭勝(えんしょう)せんと欲し、出入に人をして之を負って以って行かしむ。漢兵、宮に入るに至っても、猶席を旋(めぐ)らし、斗柄(とへい)に随って坐して曰く、天、徳を予(われ)に生ず。漢兵其れ予を如何せん、と。首を漸台(ぜんだい)に斬る。軍人其の身を分ち、節解(せっかい)して之を臠(れん)す。簒より亡に至るまで改元する者(こと)三、始建国・天鳳・地皇と曰(い)う。凡(すべ)て十五年なり。莽、首を伝せられて宛に至る。更始、宛より都を洛陽に遷(うつ)す。父老、司隷校尉の官属を見、或る者は涕を垂れて曰く、図らざりき、今日復漢官の威儀を見んとは、と。
更始元年、都を長安に遷(うつ)す。
赤眉、長安を攻む。明年、赤眉入る。更始、出奔す。已にして赤眉に降(くだ)り、殺す所と為る。立(りつ)より亡に至るまで、凡て三年なり。前数月、大司馬秀、已に河北に位に即く。是を世祖光武皇帝と為す。

年々、旱魃(かんばつ)や蝗(いなご)の害に見舞われ、人々は共食いをするまで追いつめられ、各所で暴動が起こった。王莽は五種の薬石と銅で北斗星をかたどった威斗というものを鋳た。その霊威によって各所の兵を威圧しようとして、外出の折にも人に背負わせて行った。
漢の兵が宮中に攻め入って来ても、王莽は玉座の向きを変えて斗の柄が敵に向くように坐して「天が徳を予にさずけているのだ。漢の兵が予をどうすることが出来るものか」と強がっていたが、とうとう漸台で首を斬られてしまった。兵たちは、王莽の身体を節々に切り離し切り刻んでしまった。簒奪から滅亡に至るまで、改元すること三回、始建国・天鳳・地皇がそれで、あわせて十五年間である。莽の首は駅伝えに宛まで送られた。更始帝は宛から洛陽に都を遷した。この時、父老たちは司隷校尉の率いる属官たちを見て、ある者は涙を流しつつ「今日、こうして再び漢廷の役人の威容を目の当たりにしようとは思いもよらなかった」と言った。更始元年に長安に遷都した。
赤眉が長安を攻め、翌年には攻め入った。更始帝は逃げ出したが間もなく赤眉に降伏し、殺された。帝位に即いてから滅亡に至るまで、あわせて三年である。
その数か月前、大司馬の劉秀はすでに河北で皇帝の位に即いていた。これを世祖光武皇帝という。

漸台 未央宮にある高台。 臠 切り身。


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最終更新:2023年02月20日 21:58