十八史略 光武皇帝
2011-04-23 11:11:17 | 十八史略
気佳なる哉、鬱々葱々然たり
世祖光武皇帝名秀、字文叔、長沙定王發之後也。景帝生發。發生舂陵節侯買。侯再三世。徙封以南陽白水郷爲舂陵、宗族往家焉。買少子外。外生囘。囘生南頓令欽。欽生秀於南頓。有嘉禾一莖九穂之瑞。故名。先是有望氣者。望舂陵曰、氣佳哉。鬱鬱葱葱然。王莽改貨曰貨泉。人以其字爲白水眞人。秀竟從白水起。隆準日角。受尚書通大義。嘗過蔡少公。少公學圖讖。言、劉秀當爲天子。或曰、國師公劉秀乎。秀戲曰、何由知非僕邪。
世祖光武皇帝名は秀、字(あざな)は文叔、長沙の定王發の後(のち)なり。景帝發を生む。發、舂陵(しょうりょう)の節侯(せつこう)買を生む。侯たること再三世なり。封を徙(うつ)し南陽の白水郷を以って舂陵と為し、宗族往(ゆ)いて家す。買の少子を外という。外、回を生む。回、南頓の令欽を生む。欽、秀を南頓に生む。嘉禾一莖(かかいっけい)九穂(すい)の瑞(ずい)有り。故に名づく。是より先、気を望む者有り。舂陵を望んで曰く、気佳なるかな。鬱鬱葱葱(そうそう)然たり。王莽、貨を改め貨泉という。人、その字を以って白水真人となす。秀竟(つい)に白水より起こる。隆準(りゅうせつ)にして日角(にっかく)あり。尚書を受けて、大義に通ず。嘗て蔡少公に過(よぎ)る。少公、図讖(としん)を学ぶ。言う、劉秀当(まさ)に天子と為るべし、と。或る人曰く、国師公劉秀か、と。秀戯れて曰く、何に由(よ)って僕に非ざるを知るか、と。
世祖光武皇帝、名は秀で字は文叔という。長沙の定王發の子孫である。景帝(在位前156年~前141年)が発を生み、発が舂陵の節侯の買を生んだ。買の後、その地に侯として二、三代続いたが、その後南陽の白水郷に移り、その地を同じく舂陵と名づけ、一族をあげて定住した。買の末子を外といい、外は回を生み、回は欽を生み、欽は河南省南頓県の県令になり、秀が生まれた。その時、稲の一茎から九房の穂が出るという瑞兆があった。それで禾(いね)が乃(のびる)の意をとって秀と名づけた。これより先よく気を占う者が舂陵を望んで「なんとすばらしい。鬱々葱々と雲気の立ち昇ることよ」と言った。また王莽が貨幣を変えて貨泉を造ったとき、ある人がその文字は白水真人と分解できると言ったことがあるが、はたして白水から劉秀というまことの道を体得した人が現れた訳である。鼻が高く額が尖って天子の相があった。師について尚書を学んだが、たちまち大意を悟った。嘗て蔡少公の邸に立ち寄った。少公は図讖の学を学んでいたので、「劉秀という者が将来天子になるであろう」と言った。すると居合わせた客が「国師公の劉秀(別人)だろうか」と言うと、劉秀は冗談めかして「私も劉秀だが、あなたはどうして私でないと思うのだろうか」と言った。
鬱々葱々 気がさかんに昇るさま。 隆準 鼻梁が高い。 日角 額の上部が隆起している相。 図讖 未来の吉凶を予言した書。 国師公劉秀 七略を著した劉歆(きん)のこと、国師となり秀と名乗った。後に王莽を殺そうと図って自殺した。
十八史略 劉縯・劉秀立つ
2011-04-26 11:19:44 | 十八史略
及新市・平林兵起、南陽騒動。宛人李通、迎秀起兵。秀兄縯、字伯升、慷慨有大節。常憤憤欲復社稷。平居不事家人生業。傾身破産、交結天下雄俊。至是分遣親客、發諸縣兵。縯自發舂陵子弟。皆恐懼亡匿。曰、伯升殺我。及見秀絳衣・大冠、驚曰、謹厚者亦復爲之。乃自安。部署賓客、招説諸帥。新市・平林・下江兵、皆來會。兵多無所統一。欲立劉氏從人望。下江將王常欲立縯。新市・平林將帥、憚其威明、遂立更始、以縯爲大司徒、秀爲將軍。
新市・平林の兵起るに及んで、南陽騒動す。宛人李通(えんひと、りとう)、秀を迎えて兵を起こす。秀の兄縯、字(あざな)は伯升、慷慨(こうがい)にして大節あり。常に憤憤として社稷(しゃしょく)を復せんと欲す。平居家人の生業を事とせず。身を傾け産を破り、天下の雄俊と交結す。是(ここ)に至って親客を分遣(ぶんけん)し、諸県の兵を発す。縯自ら舂陵の子弟を発す。皆恐懼(きょうく)して亡(に)げ匿(かく)る。曰く、伯升、我を殺す、と。秀が絳衣(こうい)・大冠するを見るに及んで、驚いて曰く、勤厚なる者も亦復(また)これを為すか、と。乃ち自ら安んず。賓客を部署し、諸帥を招説(しょうぜい)す。新市・平林・下江の兵、皆来たり会す。兵多くして統一する所無し。劉氏を立てて、人望に従わんと欲す。下江の将王常、縯を立てんと欲す。新市・平林の将帥、其の威明(いめい)を憚り、遂に更始を立て、縯を以って大司徒と為し、秀を将軍と為す。
新市・平林の兵起ると、南陽も騒然としだした。宛の人李通という者が、劉秀を迎えて兵を起こした。秀の兄縯は、字を伯升と言い、不義・不正を嘆く熱情と、志を変えない強い意志をもっていた。常に時勢を憤り、漢室の再興を期していた。平素から生計家業に目もくれず、身を賭し財産を散じて、天下の英傑俊才と交りを結んだ。ここに至って身内や客分の者たちを遣い、諸県の兵を募った。劉縯自ら舂陵の若者を徴発したが、皆恐れて逃げ隠れて、口ぐちに「伯升に従ったら、我われは敗れて殺されてしまうぞ」と言いあった。ところが劉秀が赤い軍衣に大冠をつけて現れたのを見て、「あの謹しみ深く温厚な人さえ立ったのか」と驚き、はじめて得心した。劉縯は客分の者をそれぞれの部署に配置し、諸将を招き説いた。新市・平林・下江の兵も、皆来て加わった。兵があまりに多く統制が困難となったので、諸将が相談して漢室に続く劉氏を推し立ててその人望に依ろうと思った。下江の将王常は、縯を立てようとしたが、新市と平林の将軍たちは、劉縯の威光と人望や英明をかえって邪魔に思い、御し易い更始将軍の劉玄を立てて、縯を大司徒とし、秀を将軍とした。
劉縯(りゅういん、あるいはりゅうえん) 社稷 土地の神と五穀の神、建国のとき祭壇を設けて祀ったことから、国家朝廷。 絳衣 絳は赤い絹、将軍が用いる軍服。 更始 劉氏一族の玄
十八史略 今大敵を見て勇む。甚だ怪しむ可し
2011-04-28 13:56:08 | 十八史略
秀徇昆陽・定陵・郾皆下之。莽遣王邑・王尋、大發兵平山東。以長人巨無覇爲壘尉、驅虎豹犀象之屬、以助兵勢。號百餘萬。旌旗千里不絶。諸將見兵盛、皆走入昆陽、欲散去。秀至郾・定陵、悉發諸營兵、自將歩騎千餘爲前鋒。尋・邑遣兵數千合戰。秀奔之、斬首數十級。諸將曰、劉將軍、平生見小敵怯。今見大敵勇。甚可怪也。
秀、昆陽・定陵・郾(えん)を徇(とな)えて、皆之を下す。莽、王邑・王尋を遣わし、大いに兵を発して山東を平らげしむ。長人巨無覇(きょむは)を以って塁尉(るいい)と為し、虎豹犀象の属を駆り、以って兵勢を助く。百余万と号す。旌旗(せいき)千里絶えず。諸将、兵の盛んなるを見て、皆走って昆陽に入り、散じ去らんと欲す。秀、郾・定陵に至り、悉(ことごと)く諸営の兵を発し、自ら歩騎千余に将として前鋒と為る。尋・邑兵数千を遣わして合戦せしむ。秀、之を奔(はし)らしめ、首を斬ること数十級なり。諸将曰く、劉将軍、平生小敵を見るも怯る。今大敵を見て勇む。甚だ怪しむ可し、と。
劉秀は昆陽・定陵・郾の三県に迫って之を降した。王莽は王邑・王尋に大軍を率いて山東を平定させた。大男の巨無覇という者をいくさ目付けにして、虎や豹の猛獣や犀、象の巨獣を駆り立てて軍勢に加えた、その数百万余と号し、軍旗は千里に連なった。王莽軍の優勢なるを見て、諸将は昆陽に逃げ込み、ちりぢりになろうとしていた。このとき劉秀は郾や定陵に急行して各陣営の兵を残らず動員させ、自ら歩兵と騎兵あわせて千余の将として先鋒になった。王邑と王尋は数千の兵を繰り出して応戦させた。劉秀はこれを敗走させて数十に上る首級をあげた。諸将は驚いて、「劉将軍はいつもは少数の敵にも尻込みするほどであるのに、いま大敵にあたって勇敢に戦われた。まことに不思議である」と。
徇(とな)え 命令して回る、告知する、国を攻め取る。 巨無覇 漢書には、巨毋覇として天鳳の終わりに韓博というものが上奏して、身の丈一丈、身のまわり十囲の巨人で胡虜を撃滅したいとして王莽に推挙しているが、巨(王莽のあざな)覇たること毋(な)しと読めることから博を処刑した、とある。
十八史略 関中震恐す
2011-04-30 10:47:51 | 十八史略
尋・邑兵卻。諸部共乗之。連勝遂前。無不一當百。秀與敢死者三千人、衝其中堅。尋・邑陣亂。漢兵乗鋭崩之、遂殺尋昆陽。城中守者、亦鼓譟出、中外合勢、呼聲動天地。莽兵大潰、走者相踐、伏尸百餘里。會大雷風。屋瓦皆飛、雨下如注。虎豹皆股戰、溺死滍川者萬數。關中聞之震恐。海内豪傑響應、皆殺莽牧守、自稱將軍、用漢年號。旬月徧天下。
尋・邑の兵卻(しりぞ)く。諸部供に之に乗ず。連(しきり)に勝って遂に前(すす)む。一、百に当らざる無し。秀、敢死(かんし)の者三千人と、其の中堅を衝く。尋・邑の陣乱る。漢兵、鋭に乗じて之を崩し、遂に尋を昆陽にころす。城中の守る者、亦鼓譟(こそう)して出で、中外、勢を合わせ、呼声、天地を動かす。莽の兵大いに潰(つい)え、走る者相践(ふ)み、伏尸(ふくし)百余里。会々(たまたま)大雷風有り。屋瓦(おくが)皆飛び、雨の下(ふ)ること注(そそぐ)が如し。虎豹皆股戦(こせん)し、滍川(ちせん)に溺死する者万数なり。関中之を聞いて震恐(しんきょう)す。海内(かいだい)の豪傑饗応し、皆莽の牧守(ぼくしゅ)を殺し、自ら将軍と称し、漢の年号を用う。旬月(じゅんげつ)にして天下に徧(あまね)し。
王尋・王邑の軍勢が退却した。漢の各部隊はこれに乗じて、連勝を重ねて進撃した。一騎が敵兵百人当たる奮戦を繰りひろげた。劉秀は決死の兵三千人と供に、敵軍の中核を衝いた。王邑と王尋の陣は乱れ、漢の兵は勢いに乗じて敵を切り崩し、遂に王尋を昆陽で殺した。城中で守備についていた者も太鼓を打ち声を挙げて撃って出た。内と外と勢いを合わせ、その喊声は天地を揺るがすばかりであった。王莽の軍は総崩れとなり、潰走する兵は践(ふ)みつ践まれつ、たおれた屍骸は百里余りも続いた。折りしも雷と暴風が起こり、屋根瓦は吹き飛び豪雨は滝のようであった。そのため敵の猛獣どもは、震えおののき、滍川に溺死する者万を数えた。関中一帯がこの敗報を聞き震えあがった。天下の豪傑はこれに呼応して立ち、王莽の任命した地方長官を次々に襲って殺し、自ら将軍と称して、漢の年号を用いるようになった。わずか一箇月で漢の威令が天下にあまねく行き渡った。
股戰 戦はおののく、足が震える。
十八史略 惟枕席に涕泣する処あるのみ
2011-05-03 16:50:48 | 十八史略
縯兄弟威名日盛。更始殺縯。秀不敢服喪、飮食言笑。惟枕席有涕泣處。更始慙、拜秀大將軍、封武信侯。未幾以秀行大司馬事、遣徇河北。所過除莽苛政。南陽禹、杖策追秀、及於鄴。秀曰、我得專封拜。生遠來、寧欲仕乎。禹曰、不願也。但願明公威加於四海、禹得效其尺寸、垂功名於竹帛耳。更始常才、帝王大業、非所任。明公莫如延攬英雄、務悦民心。立高祖之業、救萬民之命、天下不足定也。秀大悦、令禹常宿止於中、與定計議。
縯兄弟の威名日に盛んなり。更始縯を殺す。秀敢えて喪に服せず、飲食言笑す。惟枕席(ちんせき)に涕泣(ていきゅう)する処有るのみ。更始慙(は)じて、秀を大将軍に拝し、武信侯に封ず。未だ幾(いくばく)ならずして、秀を以って大司馬の事を行わしめ、河北を徇(とな)えしむ。過ぐる所莽の苛政を除く。南陽の禹、策を杖つき秀を追い、鄴(ぎょう)に及ぶ。秀曰く、我封拝を専(もっぱ)らにするを得たり。生(せい)遠く来るは、寧ろ仕えんと欲するか、と。禹曰く、願わざるなり。但(た)だ願わくは明公の威徳四海に加わり、禹其の尺寸を效(いた)すを得て、功名を竹帛(ちくはく)に垂(た)れんのみ。更始は常才、帝王は大業、任ずる所に非ず。明公、英雄を延攬(えんらん)し、務めて民心を悦ばしむるに如(し)くは莫(な)し。高祖の業を立てて、万民の命を救わば、天下は定むるに足らざるなり、と。秀、大いに悦び、禹をして常に中(うち)に宿止(しゅくし)せしめ、与(とも)に計議を定む。
劉縯・劉秀兄弟の声望は日増しに高まっていった。危機感を抱いた更始帝と側近たちに劉縯は殺されてしまった。劉秀はあえて喪に服さず、普段どおり飲食し、談笑していた。ただ夜床に就いた時に涙するばかりであった。これを聞いた更始帝は心中恥じて、劉秀を大将軍に任じ、武信侯に封じた。さらに程なくして大司馬の任務を行わせ、河北を説き巡らせた。劉秀は行く先々で王莽の悪政の弊害を除いていった。
南陽の禹は、馬の鞭を杖にして秀の後を追って鄴までやって来た。秀は「私は封侯の事や将を拝する専権を得ている、あなたが遠く尋ねて来たのは、私に仕えたいと思ってのことか」と聞いた。禹は「そうではありません、ただ私の願いは、あなた様の威光や徳が天下にあまねく布かれ、わたくしめがほんの僅かでもご助力でき、功名を後の世に残したいのでございます。更始帝は凡庸、帝王は大事業でありますから、とてもつとまりはしません。あなた様には宜しく天下の英雄を糾合し、つとめて民心をよろこばせることが肝要かと存じます。高祖皇帝のような大業を立て、万民の命を救うことだできれば、天下の平定はさして難くはございますまい」と申し上げた。劉秀はたいそう喜び、禹を引き止め、幕中に宿泊させてともに策を練った
十八史略 馮異、豆粥を上る。
2011-05-05 15:11:28 | 十八史略
邯鄲卜者王郎、詐稱成帝子子輿、入邯鄲稱帝。徇下幽冀、州郡響應。秀北徇薊。上谷大守耿況子弇、馳至盧奴上謁。秀曰、是我北道主人也。薊城反應王郎。秀趣出城、晨夜南馳、至蕪蔞亭。馮異上豆粥。至饒陽乏食。至下曲陽。聞王郎兵在後。至滹沱河。候吏還白、河水流澌、無船不可濟。秀使王覇視之。覇恐驚衆、還即詭曰、冰堅可渡。遂前至河。冰亦合。乃渡。未畢數騎而冰解。
邯鄲の卜者王郎、詐って成帝の子子輿と称し、邯鄲に入り帝と称す。幽冀(ゆうき)を徇下(じゅんか)し、州郡饗応す。秀北のかた薊(けい)を徇(とな)う。上谷の太守耿況(こうきょう)の子弇(かん)、馳せて盧奴(ろど)に至って上謁す。秀曰く、是れ我が北道の主人なり、と。薊城反して王郎に応ず。秀、趣(すみや)かに城を出で、晨夜(しんや)南に馳せ、蕪蔞亭(ぶろうてい)に至る。馮異(ふうい)、豆粥(とうじゅく)を上(たてまつ)る。饒陽(じょうよう)に至り食に乏し。下曲陽に至る。王郎の兵後に在りと聞く。滹沱河(こだか)に至る。候吏(こうり)還って白(もう)す、河水流澌(りゅうし)す。船無くば済(わた)る可からず、と。秀、王覇をして之を視しむ。覇、衆を驚かさんことを恐れ、還って即ち詭(いつわ)って曰く、冰(こおり)堅くして渡る可し、と。遂に前(すす)んで河に至る。冰も亦合う。乃(すなわ)ち渡る。未だ数騎を畢(おわ)らずして冰解く。
占い師の王郎という者が先の成帝の子の子輿と偽って、邯鄲に入って皇帝と称し幽州・冀州を説き降し、近隣の州や郡が呼応した。劉秀は北方の薊城(けいじょう)を説いてまわっていたが上谷郡の太守耿況の子耿弇が、馬を駆って盧奴県(ろどけん)にかけつけて目通りした。劉秀は「そなたこそ北方の良き案内者だ」と喜んだ。ところが一旦降った薊が寝返って王郎についたので、劉秀は支度もそこそこに薊城を抜け出した。昼夜を分かたず南に逃げ蕪蔞亭に至ってはじめて馮異が豆粥をさしあげた饒陽県に来たころには食糧が底をついた。下曲陽に来ると、王郎の軍がすぐ後ろに迫っていると伝わってきた。さらに滹沱河にさしかかると、斥候が引き返して、「氷が解けだしてきて船がなければ渡れません」と報告した。劉秀はさらに王覇を遣って確かめさせた。覇は全軍の兵が不安に陥ることを恐れて、引き返すと「氷は堅く張っていて渡ることができます」と偽って報告した。そこで進軍して川べりまで来てみると、運よく氷が張りつめていた。ほとんど渡り終わる頃、ついに氷が割れた。
候吏 もの見、斥候の兵。 流澌 氷が解けること。 白 もうす、独白、告白の白。 合 かたまる
十八史略 徳の厚薄に在り、大小に在らざるなり。
2011-05-07 11:26:33 | 十八史略
至南宮遇大風雨、入道傍空舎。馮異抱薪、禹爇火。秀對竈燎衣。異復進麥。至下博城西。惶惑不知所之。有白衣老人。指曰、努力、信都爲長安城守。去此処八十里。秀即馳赴之。時郡縣皆已降王郎。獨信都太守任光・和戎太守邳彤不肯。光出聞秀至、大喜。彤亦來會。發旁縣、得精兵、移檄討王郎。郡縣還復饗應。秀引兵抜廣阿。披輿地圖、指示禹曰、天下郡縣如是。今始得其一。子前言不足定何也。禹曰、方今海内殽亂、人思明君、猶赤子慕慈母。古之興者、在厚薄、不在大小也。
南宮に至り大風雨に遇い、道傍の空舎に入る。馮異(ふうい)薪を抱き、禹(とうう)火を爇(た)く。秀、竈(かまど)に対して衣を燎(あぶ)る。異、復麦飯(ばくはん)を進む。下博城の西に至る。惶惑(こうわく)して之(ゆ)く所を知らず。白衣の老人有り。指さして曰く、努力せよ、信都は長安の為に城守(じょうしゅ)す。此(ここ)を去ること八十里、と。秀即ち馳せて之に赴く。時に郡県皆已(すで)に王郎に降る。独り信都の太守任光・和戎の太守邳彤(ひゆう)肯(がえ)んぜず。光出でて秀来ると聞き、大いに喜ぶ。彤も亦来たり会す。旁県(ぼうけん)を発して、精兵を得、檄(げき)を移して王郎を討つ。郡県還復(またまた)饗応す。秀、兵を引いて広阿を抜く。輿地図を披(ひら)き、禹に指示して曰く、天下の郡県是の如し。今始めて其の一を得たり。子(し)前に定むるに足らずと言いしは何ぞや、と。禹曰く、方今(ほうこん)海内(かいだい)殽乱(こうらん)して人びと明君を思うこと、猶お赤子(せきし)の慈母を慕うがごとし。古(いにしえ)の興りし者は、徳の厚薄に在って、大小に在らざるなり、と。
こうしてやっと信都郡の南宮に来たが、暴風雨に遇い、道ばたの空き家に入って雨宿りした。馮異が薪をかかえ運び、禹が火を燃やし、秀がかまどに向って衣服を乾かすというありさまであった。馮異がまた麦飯を炊いてすすめた。下博城の西方まで落ちのびたが、一行は逃げ惑い、どちらに向えばよいのかわからなくなった。その時、白衣の老人が現れて、行く手を指さしながら言った。「しっかりせよ、信都郡は長安の更始帝に付いて城を守っている。ここから八十里だ」と。劉秀は直ちに馬を走らせて信都に向った。当時このあたりの郡県は皆すでに王郎に降っていたが、信都郡の太守任光と和戎の太守邳彤だけは降服を拒んでいた。そこに劉秀が来たと聞いて任光は大いに喜んで出迎え、邳彤もやって来て加わった。そこで近隣の諸県を徴発して精兵を集め、檄文を廻して、王郎を反撃した。今まで王郎に降っていた郡県は、皆翻って饗応し、劉秀に従った。劉秀は兵をひきいて広阿県を攻め落とした。ある日、地図を広げて禹に指し示して、「天下の郡県はこのように多い、今やっとその一つを手に入れることが出来たばかりだ。そなた、以前に、天下の平定はさして難くはない、自然に定まります。と言った。あれは気休めか」と愚痴を言った。禹は「ただ今天下は乱れに乱れております。人びとは英明な君主の出現を待ち望むこと赤子の慈母を慕うのと同じであります。かのいにしえの大業を興した人を見るに、徳の厚薄によって成し遂げたのであり、領地の大小によってでは、決してありません」と言った。
惶惑 恐れまどうこと。 信都は長安の為に・・長安(更始帝が長安に居たから) 更始帝の為に。 旁県 近隣の傍とおなじ。 輿地図 輿地は輿(こし)のように万物を乗せる大地の意、すなわち地図のこと。 海内 天下。 殽乱 殽もみだれる。
十八史略 赤心を推して、人の腹中に置く
2011-05-10 13:01:36 | 十八史略
耿弇以上谷・漁陽兵、行定郡縣。會秀於廣阿、進抜邯鄲、斬王郎。得吏民與郎交書數千章。秀會諸將燒之曰、令反側子自安。秀部分吏卒、皆言、願屬大樹將軍。謂馮異也。爲人謙退不伐。諸將毎論功、異常獨屏樹下。故有此號。更始遣使、立秀爲蕭王、令罷兵。耿弇説王、辭以河北未平、不就徴。王撃銅馬諸賊、悉破降之。諸將未信降者。降者亦不自安。王敕各歸營勒兵。自乘輕騎、案行諸部。降者相語曰、蕭王推赤心、置人腹中。安得不效死乎。悉以分配諸將、南徇河内。
耿弇(こうかん)、上谷・漁陽の兵を以って、行く行く郡県を定む。秀に広阿に会し、進んで邯鄲を抜いて、王郎を斬る。吏民の郎と交わるの書数千章を得たり。秀、諸将を会し、之を焼いて曰く、反側子をして自ら安んぜしめん、と。秀、吏卒を部分するに、皆言う、願わくは大樹将軍に属せん、と。馮異(ふうい)を謂(い)うなり。人となり謙退にして伐(ほこ)らず。諸将功を論ずる毎に、異、独り樹下に屏(しりぞ)く。故に此の号有り。
更始使いを遣(つか)わし、秀を立てて蕭王(しょうおう)と為し、兵を罷(や)めしむ。耿弇、王に説き、辞するに河北未だ平らがざるを以ってし、徴(め)しに就かざらしむ。王、銅馬の諸賊を撃ち、悉く破って之を降す。諸将未だ降者を信ぜず。降者も亦自ら安んぜず。王、敕(ちょく)して各々営に帰って兵を勒(ろく)せしむ。自ら軽騎に乗り、諸部を案行す。降将相語って曰く、蕭王、赤心を推して、人の腹中に置く。安(いづ)くんぞ死を效(いた)さざるを得んや、と。悉く以って諸将に分配し、南のかた河内(かだい)を徇(とな)う。
劉秀と別れていた耿弇は、上谷・漁陽の兵を率いて行くさきざきで多くの郡県を平定した。広阿で劉秀と会し、さらに進んで邯鄲を攻略して王郎を斬り殺した。官吏や民で王郎と誼(よしみ)を通じていたことを明かす、書簡数千通を手に入れた。劉秀は諸将を集め、その一つを焼き捨てて言った「王郎についていた者もこれで安心して眠ることができよう」と。その後劉秀が吏卒を編成すると、皆が「願わくは大樹将軍に属したい」という。大樹将軍とは馮異のことである。その人となりが謙虚で、功名を誇らず、諸将が軍功を論争しているとき、いつも一人大樹の下に退いていた。それでこう呼ばれるようになった。
更始帝は使者をおくり、劉秀を蕭王に立て、戦をやめて来朝するよう命じた。耿弇は、蕭王劉秀に説いて、河北が未だ平定されていないとして、召還に応じさせなかった。そして銅馬の諸賊を伐ち、ことごとく破って降服させた。だが将軍たちは、降伏した者達を信用できず、降者もまた自ら安心することができないでいた。蕭王劉秀は詔勅を下して、降将たちをもとの陣営に帰らせて、部下を統括させた。そして自身は兵装なしの身軽な出で立ちで、馬を駆って各部隊を巡察した。そこで投降した者たちは口々に「蕭王はご自身の誠実な心が、人の身にも移され宿っていると信じて疑わない。どうしてこのお方に命を投げ出さないでいられようか」と語り合った。蕭王はこれらの兵たちを諸将の下に配置し、南のかた河内地方を説き従えた。
伐る 誇る、手柄 屏く 退く、かくれる。 勒せしむ 統率させる。 案行 調べてまわる、巡察。 赤心を推して、人の腹中に置く 真心を以って人に接し少しもへだてをおかないこと、人を信じて疑わないこと。
十八史略 蕭王劉秀帝位に即く
2011-05-12 09:54:24 | 十八史略
赤眉西攻長安。王遣將軍禹等兵入關。禹薦寇恂。文武備具、有牧民御衆之才。使守河内。王自引兵徇燕・趙、撃尤來・大槍等諸賊、盡破之。王還至中山。諸將上尊號。不許。至南平棘、固請。又不許。耿純曰、士大夫捐親戚、棄土壌、從大王於矢石之間。固望攀龍鱗、附鳳翼、以成其所志耳。今留時逆衆。恐望絶計窮、則有去歸之思。大衆一散、難可復合。馮異亦言、宜從衆議。會儒生強華、自關中奉赤伏符來。曰、劉秀發兵捕不道。四夷雲集、龍鬭野。四七之際、火爲主。羣臣因復請。乃即皇帝位于鄗南、改元建武。
赤眉西のかた長安を攻む。王、将軍禹等の兵をして関に入らしむ。禹、寇恂(こうじゅん)を薦(すす)む。文武備具し、民を牧し、衆を御するの才有りと。河内(かだい)を守らしむ。王自ら兵を引いて燕・趙を徇え、尤來(ゆうらい)・大槍等の諸賊を撃ち盡く之を破る。王還って中山に至る。諸将、尊号を上(たてまつ)る。許さず。南平棘(なんぺいきょく)に至り、固く請う。又許さず。耿純(こうじゅん)曰く、士大夫、親戚を捐(す)て、土壌を棄てて、大王に矢石(しせき)の間に従う。固(もと)より龍鱗を攀(よ)じ、鳳翼に附き、以って其の志す所を成さんと望むのみ。今、時を留め衆に逆らう。恐らくは望み絶え計窮まらば、則ち去帰の思い有らん。大衆一たび散ぜば、復た合(がっ)す可きこと難からん、と。馮異も亦言う、宜しく衆議に従うべし、と。会々(たまたま)儒生強華、関中より赤伏符(せきふくふ)を奉じて来る。曰く、劉秀、兵を発して不道を捕(とら)う。四夷(しい)雲集し、龍、野(や)に闘う。四七の際、火を主と為す、と。群臣因(よ)って復請う。乃(すなわ)ち皇帝の位に鄗南(こうなん)に即(つ)き、建武と改元す。
赤眉が西方更始帝の長安を攻めた。蕭王劉秀は、将軍禹らの兵を、函谷関から長安の救援に向わせた。禹は出陣にあたって、文武兼ね備え民を教導し衆を統治する才があるとして、寇恂を推薦した。蕭王は寇恂に河内の留守を任せ、自ら兵を率いて燕や趙の平定に向かい、尤來・大槍らの諸賊を攻め、撃ち平らげた。蕭王が凱旋して中山郡に着いたとき諸将が皇帝の尊号を上ったが、ゆるさなかった。常山郡の南平棘に至ったとき将軍たちが再び強く願い出たが、これも却下した。
耿純が王に説いた。「しかるべき家柄の者たちが、親兄弟に別れ、土地を離れて矢玉をくぐり、大王に従っているのは、あたかも龍の鱗に取り付いたり、鳳凰の翼にすがったりするように、王によって、おのおの志を遂げようとしているのに外なりません。今この好期を逃し、将士の期待に背かれましたら、おそらく意気消沈し、先行き不安になって、故郷に帰る者も出てきましょう。この大勢の者たちが一旦散じてしまえば、再び集めることはもはや適いますまい」と。馮異も「どうか皆の意見にお従いください」と言った。ちょうどその折、儒生の強華という者が、関中から赤伏符なる予言書を携えやって来た。それには「劉秀が兵を起こして無道の輩を捕える。天下のつわものどもが雲の湧き出るごとく立ち上がり、龍が野に戦う如くであるが、四七の数にあたって、火の徳にあたる者が天下の主となる」とあった。群臣はこの予言書によって再び天子の位に即くことを願ったので、劉秀は鄗県の南で即位し、建武(西暦25年)と改元した。
民を牧し 牧は導くこと。 捐て 捨てると同義、義捐金は義のためになげうつ金の意。 矢石 弓矢と弩の弾。 龍鱗鳳翼 龍も鳳も天子の象徴。 赤伏符 符は予言書、赤は漢の象徴の火徳をあらわす。 四七二十八、劉秀が二十八歳で兵を起こしたから。鄗県 常山郡(今の河北省)にあった。 建武(けんぶ) 後醍醐天皇が光武帝に倣って建武(けんむ)を用いた(1334年)
十八史略 光武帝、洛陽に都す。
2011-05-14 20:40:35 | 十八史略
赤眉樊崇等、立宗室劉盆子爲帝。年十五。時在軍中主牧羊。被髪徒跣、敝衣赭汗、見衆拝、恐畏欲啼。
賊入長安。更始走。帝下詔、封爲淮陽王。
宛人卓茂、嘗爲密令。教化大行。道不拾遺。上即位、先訪求茂、以爲太傅、封褒侯。
車駕入洛陽。遂都之。
關中未定。禹引衆而西。號百萬。所至停車駐節、勞來百姓。垂髫戴白滿車下。名震關西。至□邑。久不進兵。赤眉大掠而出。禹乃入長安。赤眉復入。禹戰不利走。徴還京師。遣馮異入關。禹慚無功、要異共攻赤眉。大戰於囘溪、敗績。収散卒堅壁。已而大破赤眉於崤底。璽書勞異曰、始雖垂翅囘溪、終能奮翼澠池。可謂失之東隅、収之桑楡。
赤眉の樊崇(はんすう)等、宗室劉盆子を立てて帝と為す。年十五なり。時に軍中に在って、牧羊を主(つかさど)る。被髪徒跣(ひはつとせん)し、敝衣赭汗(へいいしゃかん)、衆の拝するを見れば、恐畏(きょうい)して啼かんと欲す。
賊、長安に入る。更始走る。帝、詔を下して、封じて淮陽(わいよう)王と為す。
宛人(えんひと)卓茂(たくも)、嘗て蜜の令と為る。教化大いに行わる。道遺ちたるを拾わず。上、位に即くや、先ず茂を訪求し、以って太傅(たいふ)と為して、褒侯に封ず。
車駕(しゃが)洛陽に入る。遂に之を都(みやこ)す。
関中未だ定まらず。禹、衆を引いて西す。百万と号す。至る所車を停め節を駐(とど)めて、百姓(ひゃくせい)を労来(ろうらい)す。垂髫戴白(すいちょうたいはく)車下に満つ。名、関西(かんせい)に震う。じゅん邑(木偏に旬)に至る。久しく兵を進めず。赤眉大いに掠(かす)めて出づ。禹乃(すなわ)ち長安に入る。赤眉も復た入る。禹、戦い利あらずして走る。徴(め)されて京師に還る。馮異を遣わして関に入らしむ。禹、功無きを慚(は)ぢ、異を要して共に赤眉を攻む。大いに回渓に戦い、敗績す。散卒(さんそつ)を収めて壁を堅うす。已にして大いに赤眉を崤底(こうてい)に破る。璽書(じしょ)して異を労して曰く、始め翅(つばさ)を回渓に垂ると雖も、終りに能く翼を澠池(べんち)に奮う。之を東隅に失い、之を桑楡(そうゆ)に収むと謂う可し、と。
赤眉の樊崇らも、漢室の血を引く劉盆子を皇帝に立てた。年は十五歳、当時軍中で羊の世話をしていた。ざんばら髪で裸足、破れた衣服をまとい、日焼け顔に汗を滴らせて、群臣が自分を拝するのを見ると、恐れてほとんど泣き出さんばかりであった。
赤眉の賊軍が長安に攻め入り、更始は逃げた。光武帝(劉秀)は詔を下して、更始を淮陽王に封じた。
宛の人卓茂は以前密県の令であったが、教化が行きとどいて、道に落ちている物を誰も拾おうとしないほどであった。光武帝は即位するや、まず卓茂を探し出し、太傅に迎え褒侯に封じた。
光武帝の車駕が洛陽に入りここを都と定めた。
一方、赤眉が長安にいるので関中はまだ平定していなかった。禹が大軍を率いて西にむかった。その数百万と称していた。行く先々で車を停め、旗印を立てて人々を労わった。垂れ髪の子供から白髪の老人まで、車の周りに群がり迎えた。禹の名は関西中にひびきわたった。じゅん邑県に至ったとき、進軍を止め、赤眉の動静をうかがった。やがて赤眉は掠奪をしながら、長安を出た隙に禹は長安に入城した。すると今度は赤眉がとって返した。禹は戦いに敗れて逃げた。光武帝は禹を洛陽に呼び戻し、代わりに馮異を遣わした。禹は敗戦を恥じ入り、馮異を待って共に力を合わせて赤眉を攻めた。回渓で激戦となり、再び大敗した。そこで散り散りになった兵卒を集めて、今度は堅く守った。やがて好機がめぐり、崤山の麓で大いに破った。光武帝は勅書をおくって馮異をねぎらい、「始め回渓で翅を垂れてしまったが、澠池で羽ばたくことができた、日の出る朝に失い、日の沈む夕べに取り返したというべきか」といった。
太傅 天子の指南役。 節を駐め 将軍の旗印を立て。 要 出迎える、まちぶせる。 東隅 日の出る処、朝。 桑楡 西方の日歿するところ、夕暮れ、六朝の王融の詩序にも見える。
十八史略 遼東の豕(いのこ)
2011-05-17 09:17:42 | 十八史略
赤眉餘衆、東向宜陽。上勒軍待之。樊崇以劉盆子・丞相徐宣等、肉袒降。上陳軍馬、令盆子君臣觀之。謂曰、得無悔降乎。宣叩頭曰、去虎口歸慈母。誠歡誠喜無限。上曰、卿所謂鐵中錚錚、庸中佼佼者也。各賜田宅。
雎陽人斬劉永降。劉永在更始時、立爲梁王。更始亡、永稱帝。至是敗。
漁陽太守彭寵奴、斬寵以降。初上討王郎、寵發突騎、轉糧不絶。自負其功、意望甚高、不能滿。幽州牧朱浮、與書曰、遼東有豕。生子。白頭。將獻之。道遇羣意豕。皆白。以子之功、論於朝廷、遼東豕也。
上徴寵。寵自疑遂反。至是敗。
赤眉の余衆、東の方宜陽(ぎよう)に向かう。上、軍を勒(ろく)して之を待つ。樊崇は劉盆子や丞相の徐宣等を以(ひき)いて、肉袒して降る。上、軍馬を陳(ちん)し、盆子の君臣をして之を観しむ。謂って曰く、「降を悔ゆること無きを得んや」と。宣、叩頭して曰く、「虎口を去って慈母に帰す。誠歓誠喜限り無し」と。上、曰く、「卿は所謂(いわゆる)鉄中の錚錚(そうそう)、庸中(ようちゅう)の佼佼(こうこう)たる者なり」と。各々田宅を賜う。
雎陽(すいよう)の人劉永を斬って降る。劉永は更始の時に在って、立って梁王となる。更始亡ぶや、永、帝と称す。是(ここ)に至って敗る。
漁陽の太守彭寵(ほうちょう)の奴(ど)、寵を斬って以って降る。初め上、王郎を討つや寵、突騎を発し、糧を転じて絶えざらしむ。自らその功を負(たの)み、意望(いぼう)甚だ高く、満つること能わず。幽州の牧朱浮、書を与えて曰く、「遼東に豕(いのこ)有り、子を生む。白頭なり。将(まさ)に之を献ぜんとす。道に群豕(ぐんし)に遇う。皆白し。子の功を以って、朝廷に論ぜば、遼東の豕也」と。上、寵を徴(め)す。寵、自ら疑いて遂に反す。是に至って敗る。
赤眉の残党が東に帰ろうと宜陽まで来た。光武帝は陣容を整えて、待ち構えていた。樊崇は劉盆子や丞相の徐宣(じょせん)等を引き連れ、片肌を脱いで降伏してきた。光武帝は軍馬を整列させて、劉盆子の君臣に見せつけて、こう言った。「降伏したことを後悔することは無いかな」徐宣が頭を地につけて「虎口から脱して慈母のふところに帰った心地にて、誠にこの上なき喜びでございます」と。光武帝は、「そなたは、いわば鉄の中でもまあ良い響きのする部類、凡人の中でも少しはましな方である」と言って、各々田宅を与えた。
雎陽の人が劉永を斬って降伏した。劉永は更始が帝であった頃、自ら立って梁王となり、更始が亡ぶと、皇帝と称していたが、ここに至って滅びたのである。
漁陽の太守彭寵の召使いが主人の彭寵を斬って降った。嘗て光武帝が王郎戦ったとき、彭寵が精鋭の騎兵を出し、食糧を運んで絶やさないようにした。その功績を自ら多とし、恩賞の望みが高すぎて、常に不満をくすぶらせていた。幽州の長官の朱浮という者が書を送り諌めて言った。「遼東に豕がいて、子を生んだら頭が白いので、これは珍しいと喜び早速献上して恩賞に預かろうと出かけたところ、途中で豚の群れに出会ったらどれもまっ白だったという。君の功績も、朝廷で論じたならば遼東の豕と同じだよ」と。その後、帝が彭寵を召し出したところ、寵は誅されるかと疑って、遂に謀反を起こしたが、ここで敗れたのであった。
肉袒 謝罪の意をあらわすため肌脱ぎして鞭うたれる覚悟を示した。
錚錚 よく鍛えた金属の響き。衆にすぐれたもの。 庸中の佼佼 庸は凡庸、佼佼は人格や才能のすぐれたさま。 突騎 敵軍に突き入る騎兵。
遼東の豕 世間ではありふれたことを知らずに自分一人で得意になること。ひとりよがり。
十八史略 志ある者は事竟(つい)に成る
2011-05-19 10:26:53 | 十八史略
劉永所立齊王張歩降。上初以歩爲東萊太守。已而受永命王齊。將軍耿弇、屢戰大破之、抜祝阿・齊南・臨菑勞軍。謂弇曰、將軍前在南陽建大策。嘗以爲落落難合。有志者事竟成也。歩敗、齊地悉平。
將軍呉漢等、撃斬劉永所立海西王董憲、及叛將寵萌等。江淮山東悉平。時惟隗囂・公孫述未平。上積苦兵間。謂諸將曰、且當置此兩子於度外耳。
劉永の立つ所の齊王張歩(ちょうほ)降る。上、初め歩を以って東萊(とうらい)の太守と為す。已にして永の命を受けて齊に王たり。将軍耿弇(こうかん)、屡しば戦って大いに之を破り、祝阿・斉南・臨菑を抜く。車駕、臨菑に至って軍を労す。弇に謂って曰く、将軍前(さき)に南陽に在って大策を建つ。嘗て以為(おも)えらく、落落として合い難しと。志ある者は事竟(つい)に成る、と。歩敗れ、斉の地悉(ことごと)く平(たいら)ぐ。
将軍呉漢等、撃って劉永が立つる所の海西王董憲(とうけん)及び叛将寵萌(ほうほう)等を斬る。江淮(こうわい)山東悉く平ぐ。時にただ隗囂(かいごう)・公孫述(こうそんじゅつ)未だ平らがず。上、苦を兵間に積む。諸将に謂って曰く、且(しばら)く当(まさ)に此の両子を度外に置くべきのみ、と。
劉永が立てた斉王の張歩という者が投降した。光武帝は初め張歩を東萊郡の太守にした。ところがその後、劉永に封ぜらて斉の王になったのである。漢の将軍の耿弇が度たび張歩と戦って大いにこれを破り、祝阿・斉南・臨菑を攻め取った。光武帝は臨菑に行って、漢軍を労い、弇に向かって「将軍は以前南陽にいて、斉攻略の策を建ててくれたがあまりに壮大で、現実に合わないと思っていたが、なんと志さえ堅ければ何事も、成し得るものであるな」と称賛した。張歩は敗れ、斉の地はことごとく平定した。
将軍呉漢たちが、おなじく劉永が立てた海西王の董憲と、光武帝に叛いた寵萌らを討伐して斬った。これによって江淮、山東の地もすべて平定した。このとき、ただ隗囂と公孫述だけがまだ服さないでいた。帝は数しば、戦場で苦杯を舐めさせられていたので将軍たちに「あの二人は、しばらく度外に置くことにしよう」と言った。
落落 志の広く大きいさま、おおまかなさま。 度外 考慮に入れない、度外視。
十八史略 願わくは寇君を借ること一年せん
2011-05-21 09:28:31 | 十八史略
馮異自長安入朝。上謂公卿曰、是我起兵時主簿也。爲吾披荊棘、定關中。詔勞異曰、倉卒蕪蔞亭豆粥、滹沱河麥飯。厚意久不報。
建武八年、上自將征隗囂。潁川盗起。上還、謂執金吾寇恂曰、潁川迫近京師。獨卿能平之耳。從九卿復出可也。恂勸上親征。賊悉降。恂竟不拝郡。百姓遮道曰、願借寇君一年。乃留恂鎭撫。大軍不戰而還。
馮異(ふうい)長安より入朝す。上、公卿(こうけい)に謂って曰く、是、我が兵を起こしし時の主簿なり。吾が為に荊棘(けいきょく)を披(ひら)き、関中を定む、と。詔(みことのり)して異を労して曰く、倉卒(そうそつ)蕪蔞亭(ぶろうてい)の豆粥(とうじゅく)、滹沱河(こだか)の麥飯(ばくはん)、厚意久しく報ぜず、と。
建武八年、上、自ら将として隗囂(かいごう)を征す。潁川(えいせん)、盗起こる。上還って執金吾寇恂(しっきんご、こうじゅん)に謂って曰く、潁川は京師(けいし)に迫近す。独り卿(けい)能く之を平らげんのみ。九卿より復(また)出でて可ならんか、と。恂、上に勧めて親征せしむ。賊悉(ことごと)く降る。恂竟(つい)に郡を拝せず。百姓(ひゃくせい)、道を遮って曰く、願わくは寇君を借ること一年せん、と。乃ち恂を留めて鎮撫(ちんぶ)せしむ。大軍戦わずして還る。
馮異が長安から朝廷に参内した。帝は大臣たちに「馮異は自分が始めて兵を挙げた時の秘書官で、私のためにいばらを切り開いて、関中を平定してくれたのだ」さらにねぎらいの詔を下したが「あわただしい逃避行の最中に蕪蔞亭で工面してくれた豆粥や滹沱河での麦飯、あの折の厚意に未だ礼を言っていなかった。」と謝した。
建武八年(32年)、光武帝は自ら軍を率いて隗囂の討伐に向った。だが潁川郡に賊が起こった。帝は洛陽に引き返して、執金吾の寇恂に「潁川は洛陽に隣接した重要な地である。そなたでなければ平定できない。九卿の執金吾からひとつ潁川郡の長官に出向してくれまいか」しかし寇恂は親征を勧めたので、帝自ら討伐することになった。すると賊はすべて降伏した。結局寇恂は長官を拝命せず帝に随って還ろうとしたところ、沿道の人びとが道を遮って、「どうか寇恂さまを一年だけ私どもにお貸し与えください」と嘆願した。そこで寇恂をこの地に留めて治めさせることにした。かくて討伐の大軍は戦わずして還った。
主簿 庶務を統括する官。 荊棘を披き 争乱を鎮めることに譬えた。倉卒 あわてるさま。 執金吾 皇室警護の官。
十八史略 井底の蛙
2011-05-24 09:23:59 | 十八史略
建武九年、隗囂死。囂自更始初年起兵、至建武初、據天水、自稱西州上將軍。後嘗遣馬援往成都、觀公孫述。援與述舊。謂當握手歡如平生。時述已稱帝四年矣。援既至。盛陳陛衞以延援。援謂其屬曰、天下雌雄未定。公孫不吐哺迎國士。反修飾邊幅、如偶人形。此何足久稽天下士乎。因辭歸。謂囂曰、子陽井底蛙耳。而妄自尊大。不如專意東方。
建武九年、隗囂(かいごう)死す。囂は更始初年より兵を起こし、建武の初めに至るまで、天水に拠(よ)り、自ら西州の上将軍と称す。後嘗て馬援を遣わし成都に往き、公孫述を観(み)しむ。援、述と旧あり。謂(おも)えらく当(まさ)に手を握って歓ぶこと平生の如くなるべしと。時に述已に帝と称すること四年なり。援既に至る。盛んに陛衛(へいえい)を陳(ちん)し以って援を延(ひ)く。援其の属に謂って曰く、天下雌雄未だ定まらず。公孫、哺(ほ)を吐いて国士を迎えず、反って辺幅を修飾すること、偶人(ぐうじん)の形の如し。此れ何ぞ久しく天下の士を稽(とど)むるに足らんやと。因(よ)って辞して帰る。囂に謂って曰く、子陽は井底(せいてい)の蛙(あ)のみ。而(しか)して妄(みだ)りに自ら尊大にす。意を東方に専(もっぱ)らにするに如(し)かず、と。
建武九年に隗囂が死んだ。隗囂は更始帝の初年から挙兵し、建武の初めに至るまで、天水(甘粛省)に割拠して自ら西州の上将軍と称していた。その後馬援を蜀の成都に遣わして、公孫述の人物を観察させた。馬援は公孫述とは旧知であったので、会ったら互いに手を握り歓んでくれると思っていた。ところがこの時公孫述は、帝と称してすでに四年経っていた。馬援が行っても、これ見よがしに衛兵を整列させて馬援を引き入れた。援は随行した属官にもらした。「天下未だ定まらず、多くの人材が欲しい今、食事を中断して、口中のものを吐き出してでも引見すべき時だというに、身の周りばかり飾り立て、ただの人形のようだ。これでは天下の国士を抱えることなど出来はしまい」と。
早々に辞去して帰り、隗囂に告げた「子陽(公孫述のあざな)は井の中の蛙にすぎません。やたらと尊大に振舞っているだけの木偶(でく)の坊です。専ら東の光武帝に向けるのがよろしいでしょう」と。
陛衛 陛はきざはし、宮殿の階段にいる儀衛兵。 延 引き入れる。 哺(ほ)を吐いて 周公旦が来客があると、食べかけた物を吐き、洗いかけた髪を握って出迎えた故事「吐哺握髪」による。 辺幅 うわべ、布の縁から。
十八史略 ただ君の臣を択ぶのみに非ず、臣も亦君を択ぶ
2011-05-26 10:22:19 | 十八史略
囂乃使援奉書雒陽。初到、良久即引入。上自殿廡下、岸幘迎、笑曰、卿遨遊二帝間。今見卿、使人大慚。援頓首曰、當今非但君擇臣、臣亦擇君。臣與公孫述同縣。少相善。臣前至蜀。述陛戟而後進臣。臣今遠來。陛下何知非刺客姦人、而簡易若是。帝笑曰、卿非刺客。顧説客耳。援曰、天下反覆、盜名字者不可勝數。今見陛下、恢廓大度、同符高祖。乃知、帝王自有眞也。
囂乃ち援をして書を雒陽(らくよう)に奉ぜしむ。初め至るや、良(やや)久しうして即ち引き入れる。上、殿廡(でんぶ)の下より、岸幘(がんさく)して迎え、笑って曰く、卿(けい)、二帝の間に遨遊(ごうゆう)す。今卿を見るに、人をして大いに慚(は)じしむ、と。援、頓首して曰く、当今は但(ただ)君の臣を択ぶのみに非ず、臣も亦君を択ぶ。臣と公孫述とは同県なり。少(わか)くして相善し。臣前(さき)に蜀に至る。述、陛戟(へいげき)して後に臣を進む。臣今遠く来る。陛下何ぞ刺客(せきかく)姦人に非ざるを知って、簡易なること是(かく)の如きか、と。帝、笑って曰く、卿は刺客に非ず。顧(おも)うに説客(ぜいかく)のみ、と。援曰く、天下反覆(はんぷく)、名字(めいじ)を盗む者数うるに勝(た)う可からず。今陛下を見るに恢廓大度(かいかくたいど)、符を高祖に同じうす。乃ち知る、帝王自ら真有ることを、と。
隗囂はそこでまた馬援に光武帝への親書を託した。到着すると大分待たされてから宮廷に呼び入れられた。光武帝は宮殿の回廊の下から、頭巾も着けないで迎えて入れて笑いかけた。「卿は二人の皇帝の間を気ままに行き来する身のわけだが、なるほど私も恥じ入るほどの器量を備えておられる」。馬援は頭を地につけて言った「当今は君主が臣下を択ぶだけでなく、臣下も君主を択ぶ時勢です。私と公孫述とは同県で、若い頃から親しい間柄でした。ところが先ごろ蜀にまいりますと、述は階下に戟を持った衛兵をつらねて私を迎え入れました。ところが今、陛下とは一面識もない遠来の訪問者でありますのに、どうして刺客でも姦人でもないと見抜かれて、このように気さくにお会い下さるのですか」と。帝はさらに笑って、「卿は刺客などではない、強いて言えば説客(ぜいかく)というところかな」と。援はさらに、「今、天下は変転極まりなく、皇帝の名を騙る者も数え切れぬほどおります。今、陛下を拝しますに、心広く度量が大きく、かの高祖皇帝と符節を合わせたようにお見受けいたしました。帝王となるお方は真の徳を備えておられることをつくずく知らされてございます」と。
雒陽 洛陽に同じ。 殿廡 回廊。 岸幘 岸は額を現わすこと、幘は頭巾、親しみ慣れた様子。 遨遊 遨も遊ぶの意、 反覆 くつがえす。
名字 帝王の称号。 恢廓大度 恢も廓も大きいこと。度量が大きいこと。
十八史略
2011-05-28 11:42:07 | 十八史略
高帝無可無不可
援歸。囂問東方事。援曰、上才明勇略、敵也。且開心見誠、無所隱伏、闊達多大節、略與高祖同。經學博覧政治文辯、前世無比。囂曰、卿謂何如高帝。援曰、不如也。高帝無可無不可。今上好吏事、動如法度。又不喜飮酒。囂不懌曰、如卿言反復勝乎。遣子入侍。
援帰る。囂、東方の事を問う。援曰く、上、才明勇略、人の敵に非ざるなり。且つ心を開き誠を見(あら)わし、隠伏する所無く、闊達にして大節多きこと、略(ほぼ)高祖と同じ、経学博覧、政治文弁、前世比無し。囂曰く、卿、高帝に何如と謂(おも)う、と。援曰く、如(し)かざるなり。高帝は可もなく不可も無し。今、上、吏事を好み、動くこと法度(ほうど)の如くす。又飲酒を喜(この)まず、と。囂懌(よろこ)ばずして曰く、卿の言の如くんば反(かえ)って復(また)勝れるか、と。子をして入(い)って侍(じ)せしむ。
馬援が帰ると、隗囂が洛陽での様子を尋ねた。援は答えて「光武帝は、才明らかに、勇にして機略に富む。敵う人はありますまい。その上、心をさらけ出して誠意をあらわにし、少しも隠すところがありません。度量が広く、信念を堅く守って道義をはずさないことは、かの高祖に似ており、経学にひろく通じ、政治に詳しく、文章、弁舌さわやかです。今までに比べられる人はおりません」と。囂は「高祖とはどちらか」と聞くと、「それは及びません。高帝は可も不可も無い、是非善悪の埒(らち)外におられます。光武帝は役人の実務にも目を向け、行動も礼に外れることなく、酒も好まれません」と答えた。隗囂は不機嫌になって言った「貴公の話だとむしろ光武帝が勝っているようにきこえるぞ」と。そして子の恂を人質に遣って光武帝に仕えさせた。
可も無く不可も無い 孔子が自らを評した言葉、 恂 隗囂には恂と純の子がいたが、どちらが兄か不明。
十八史略 隗囂、病餓恚憤して卒す
2011-05-31 10:07:25 | 十八史略
未幾反。復嘗問班彪以戰國從横之事。彪作王命論諷之。囂不聽。馬援詣行在。上復使游説。仍自賜囂書。囂竟臣於公孫述。述立囂爲朔寧王。上征囂。馬援在上前、聚米爲山谷、指畫形勢、開示軍所從徑道。上曰、虜在吾目中矣。遂進軍。囂奔西城、病餓恚憤而卒。子純降。隴右悉平。
未だ幾(いくばく)ならずして反す。復(また)嘗て班彪(はんぴょう)に問うに戦国縦横の事を以ってす。彪、王命論を作って之を諷(ふう)す。囂聴かず。馬援行在(あんざい)に詣(いた)る。上、復遊説せしむ。仍(よ)って自ら囂に書を賜う。囂竟に公孫述に臣たり。述、囂を立てて朔寧王と為す。上、囂を征す。馬援、上の前に在り、米を聚(あつ)めて山谷(さんこく)を為(つく)り、形勢を指画(しかく)し、軍の従(よ)る所の、径道を開示す。上曰く、虜(りょ)は吾が目中に在り、と。遂に軍を進む。囂、西城に奔(はし)り、病餓恚憤(びょうがいふん)して卒(しゅっ)す。子純降(くだ)る。隴右(ろうゆう)悉く平らぐ。
それから幾ばくもなく隗囂が叛いた。ある時、班彪という学者に戦国時代の合従連衡の策について尋ねたことがあった。班彪は「王命論」を著して、利の無いことを暗にほのめかしたが、囂は耳を貸さなかった。馬援は囂が叛くと、光武帝の宿舎に馳せ参じた。そこで帝は、囂への親書を書いて帰順を説いたが、それでも囂は聴かず、蜀の公孫述の臣となった。述は隗囂を立てて朔寧王にした。光武帝は隗囂征伐を決意した。そのとき馬援は帝の前に居て、米で山や谷をつくり、天水の地形を指で画いて説明し、軍隊が進むべき道を示した。帝は「慮はすべてわが眼中に入った」と喜び、軍を進めた。隗囂は西域に逃れ、病と餓えに苛まれたのちに憤死した。囂の子純も降服して、隴右(甘粛省の東)の地はすべて平定された。
班彪 漢書の著者班固の父。 虜 隗囂のこと。 西城 パミール以西の地域。 恚憤 いかり、いきどおる
十八史略 隴を得て復た蜀を望む
2011-06-02 09:07:36 | 十八史略
十二年、公孫述亡。述茂陵人、自更始時、據蜀稱帝、國號成。上既平隴右曰、人苦不自足。既得隴復望蜀。遣大司馬呉漢等將兵、會征南大將軍岑彭伐蜀。彭在荊門裝戰船。漢欲罷之。彭不可。上報彭曰、大司馬習用歩騎、不暁水戰。荊門之事、一惟征南公爲重而已。彭戰船竝進。所向無前。述使盜刺殺彭。呉漢繼進。至成都撃殺述蜀地悉平。
十二年、公孫述亡ぶ。述は茂陵(もりょう)の人、更始の時より、蜀に拠って帝と称し、国を成と号す。上、既に隴右を平らげて曰く、人自ら足れりとせざるを苦しむ。既に隴を得て復た蜀を望む、と。大司馬呉漢等を遣わし、兵に将として、征南大将軍岑彭(しんほう)に会して蜀を伐たしむ。彭、荊門に在って戦船を装(よそお)う。漢之を罷(や)めしめんと欲す。彭可(き)かず。上、彭に報じて曰く、大司馬歩騎を用うるに習って、水戦を暁(さと)らず。荊門の事は、一(いつ)に惟(ただ) 征南公を重しと為すのみ、と。彭の戦船並び進む。向う所前無し。述、盗をして彭を刺し殺さしむ。呉漢継いで進む。成都に至って撃って述を殺す。蜀の地悉く平らぐ。
建武十二年(36年)に公孫述が亡んだ。述は茂陵の人で、更始帝の時より、蜀を拠点としてみずから帝と称して、国を成と号していた。光武帝は既に隴右を平定すると、「人というものは、満ち足りることができず、自らこうして苦しむ。隴を手に入れた今、次は蜀も欲しくなった」と言って、大司馬の呉漢らを派遣し、兵を率いて征南大将軍岑彭と合流して、蜀を伐たせた。当時岑彭は荊門にあって軍船を準備中であった。呉漢はそれを止めさせようとしたが、岑彭は頑なに拒んだ。呉漢は帝に上書して裁定を仰いだ。帝は岑彭に、「大司馬は歩兵や騎兵の戦は得意だが、水戦には慣れておらぬ、荊門での作戦は征南公岑彭が主導するがよい」と書き送った。岑彭は軍船を連ねて戦い進んだが、向うところ敵なしであった。尋常では勝てないとみて公孫述は刺客を送って、彭を刺し殺してしまった。しかし呉漢が陸路から続々進軍し、蜀の成都に攻入り、公孫述を討ち殺した。こうして蜀の地もすべて平定された。
茂陵 陜西省興平県の地。 荊門 湖北省にある。 盗 刺客。
隴を得て・・・望みを遂げて、さらにその上を望むこと、望蜀。
十八史略 明、万里の外を見る
2011-06-04 09:33:20 | 十八史略
涼州牧竇融、率河西武威・張掖・酒泉・燉煌・金城五郡太守入朝。融自建武初據河西。後遣使奉書。上以爲牧。賜璽書曰、議者必有任囂教尉佗、制七郡之計。書至。河西皆驚、以爲天子、明見萬里之外。上征隗囂。融率五郡兵、與大軍會。蜀平。奉詔歸朝。拝冀州牧。
涼州の牧、竇融(とうゆう)、河西(かせい)の武威・張掖(ちょうえき)・酒泉・燉煌(とんこう)・金城五郡の太守を率いて入朝す。融、建武の初めより、河西に拠る。後、使を遣わして書を奉ぜしむ。上、以って牧と為す。璽書(じしょ)を賜いて曰く、議者、必ず任囂(にんごう)が尉佗(いた)を教えて、七郡を制するの計有らん、と。書至る。河西皆驚き、以為(おも)えらく、天子、明、万里の外を見る、と。上、隗囂を征す。融、五郡の兵を率いて、大軍と会す。蜀平らぐ。詔を奉じて朝(ちょう)に帰る。冀州の牧に拝せらる。
涼州の長官の竇融が河西の武威・張掖・酒泉・燉煌・金城の五郡の太守を率いて入朝してきた。竇融は建武の初めから河西を本拠にしていた。後に使いを派遣して光武帝に書簡を奉った。帝は融を涼州の長官に任命し、御璽をおした書を賜った。その文面に「かつて任囂が南越王の尉佗に、南海七郡を制圧するようにそそのかしたことがあったが、同様の計をそなたに勧める者があろう」とあった。かねてより隗囂から計略を持ちかけられていたので、帝の書が届くと河西の人々は驚き、天子は万里の外までお見通しだと思いおそれた。それで光武帝が隗囂を討伐すると、融は五郡の兵を率いて、漢軍に合流して戦った。
蜀が平定されると、詔に応じて朝廷に帰順し、冀州の長官に任命された。
牧 地方長官。 河西 黄河上流の西にあるから、甘粛省に属す。 冀州 河南、河北、山西地方。
十八史略 匈奴和を請う
2011-06-07 10:31:44 | 十八史略
十八年、代王盧芳死於匈奴。芳安定人。詐稱武帝曾孫劉文伯。自建武初據安定。匈奴迎之、立爲漢帝。數爲邊郡寇患。後來降。王于代。復反奔匈奴。以病死。
二十二年、匈奴求和親。上遣使許之。自呼韓邪單于死于成帝時、其後累世皆仕漢。平帝時、王莽頒條於匈奴、謂中國無二名、諷單于改名。莽簒漢、易漢所賜單于璽曰章。單于怨恨、數寇邊。建武以來、匈奴助盧芳寇
漢。後又數與烏桓・鮮卑、連兵入寇。至是初請和。
十八年、代王盧芳(ろほう) 匈奴に死す。芳は安定の人なり。詐(いつわ)って武帝の曾孫劉文伯と称す。建武の初めより安定に拠る。匈奴之を迎え、立てて漢帝と為す。数しば辺郡の寇患(こうかん)を為す。後来たり降る。代に王たり。復(また)反し、匈奴に奔(はし)る。病を以って死す。
二十二年、匈奴、和親を求む。上、使を遣わして之を許す。呼韓邪単于(こかんやぜんう)が成帝の時に死せしより、其の後累世皆漢に仕う。平帝の時、王莽、條を匈奴に頒(わか)ち、中国に二名無しと謂い、単于に諷して名を改めしむ。莽漢を簒(うば)い、漢の賜う所の単于の璽を易えて章と曰う。単于怨恨して、数しば辺に寇(あだ)す。建武以来、匈奴、盧芳を助けて漢に寇す。後又数しば烏桓(うがん)・鮮卑(せんぴ)と、兵を連ねて入寇(にゅうこう)す。是(ここ)に至り初めて和を請う。
建武十八年(42年) 代王の盧芳が匈奴の地で世を去った。盧芳は安定(陝西省延安県)の人である。武帝の曾孫の劉文伯と詐称して、安定を根じろにしていた。匈奴は盧芳を迎え、立てて漢の皇帝とした。そしてしばしば周辺の郡を侵略した。のちに光武帝に降った。代王に封ぜられたが、再び叛いて匈奴にはしり、その地で病死した。
二十二年に、匈奴が和親を求めて来たので、光武帝は使いを遣わしてこれを許した。匈奴は呼韓邪単于が成帝の世に没してから代々漢に臣従してきた。ところが平帝のとき、王莽が条例を匈奴に施行し、中国に二字の名はないといって、単于に一字名に改めさせた。後に王莽は漢の帝位を奪い、単于が漢帝から賜った、帝王の格である璽から、諸侯と同格の章に改めた。単于は怨んで、しばしば辺境を侵した。
建武になってから、匈奴は盧芳を助けて漢土を侵した。盧芳の死後もしばしば烏桓や鮮卑と連合して侵寇したが、この年になって初めて講和を求めてきた。
諷單于改名 諷はほのめかすこと、改名 嚢知牙斯(のうちがし)を知の一字に変えさせた。烏桓 遼西北方の東胡の後裔。 鮮卑 遼東の北方で同じく東胡の後裔。
十八史略 匈奴分裂す
2011-06-09 08:52:26 | 十八史略
西域請都護。不許。遂附匈奴。先是莎車王賢・鄯善王安、皆遣使奉獻。賢使再至。上賜賢都護印綬。邊郡守上言。不可假以大權。詔収還、更賜大將軍印。賢恨。猶詐稱大都護。諸國悉服屬賢。賢驕横、欲兼并西域。諸國懼。凡十八國、遣子入侍、願得漢都護。上厚賜遣還其侍子。至是復請。上復卻之。
二十四年、匈奴南邊八部、立日逐王比、爲南單于、欵漢塞内附。於是分爲南北匈奴。
二十五年、貊人・鮮卑・烏桓竝入朝。
二十六年、立南單于庭、置使匈奴中郎將、以領之、徙南單于、居西河美稷。
二十七年、北匈奴亦遣使求和親。明年又請。許之。
西域、都護を請う。許さず。遂に匈奴に附す。
是より先、莎車王(さしゃおう)賢・鄯善王(ぜんぜんおう)安、皆使いを遣わして奉献す。賢の使再び至る。上、賢に都護の印綬を賜う。辺郡の守上言(じょうげん)す。仮(か)すに大権を以ってす可からず、と。詔(みことのり)して収め還(かえ)し、更に大将軍の印を賜う。賢恨む。猶詐(いつわ)って大都護と称す。諸国悉く賢に服属す。賢驕横(きょうおう)にして、西域を兼并(けんぺい)せんと欲す。諸国懼(おそ)る。凡て十八国、子を遣(つか)わして入り侍(じ)せしめ、漢の都護を得ん、と願う。上、厚く賜うて其の侍子(じし)を還らしむ。是に至って復た請う。上、復た之を卻(しりぞ)く。
二十四年、匈奴の南辺八部、日逐王(にっちくおう)比を立てて、南単于と為し、漢塞(さい)を欵(たた)いて内附(ないふ)す。是に於いて分かれて南北匈奴と為る。
二十五年、貊人(はくじん)・鮮卑・烏桓(うがん)竝(なら)びに入朝す。
二十六年、南単于の庭(てい)を立て、使匈奴中郎将を置き、以って之を領せしめ、南単于を徙(うつ)して、西河の美稷(びしょく)に居(お)らしむ。
二十七年、北匈奴も亦使を遣わして和親を求む。明年又請う。之を許す。
西域の諸国が漢の都護職を置いてくれるように願い出たが、許されなかったので、遂に匈奴側についた。
以前、莎車王の賢と鄯善王の安がともに使者を派遣してみつぎものを献じてきた。特に賢の使いは二度におよんだので、光武帝は賢に都護の印綬を与えた。ところが国境の太守たちが「このような重大な権限を外人に与えるべきではありません」と帝に言上した。そこで帝は詔勅を下して印綬を取り戻し、かわりに大将軍の印を与えた。賢はこれを不服に思い、その後も大都護と詐り称したので、西域諸国はこれを信じて賢に服従した。だが賢は驕慢で横暴になり、西域を併呑しようとしたので、諸国は恐れて、十八国の王がその子を漢に人質におくって、漢の都護を派遣するよう願い出た。帝は厚くねぎらってその人質たちを還らせた。そこで困り果てた西域の諸王はふたたび請願したが、これも却下した。それで、匈奴についたのである。
建武二十四年(西暦48年)に、匈奴の南部八地方が日逐王の比を立てて、匈奴の南単于として、漢の辺塞の門をたたいて誼(よしみ)を通じてきた。そこで匈奴は南北に分裂した。
二十五年に貊人・鮮卑・烏桓がいずれも漢に入朝した。
二十六年、南単于に王庭を立てさせ、使匈奴中郎将の役を置いてこの地方を治めさせ、南単于を西河の美稷に移り住まわせた。
二十七年に、北匈奴もまた使者を派遣して和親をもとめた。翌年また願い出たので、これを許した。
仮す 貸すに同じ。 都護 周辺諸族の支配のために辺境に置かれた官庁。 印綬 綬は紐、紫綬褒章は紫の紐をつけた勲章。 貊人 中国北方の異民族。 庭 王庭、国王の宮廷。 使匈奴中郎将 単于の宮殿を警備することをつかさどった官
十八史略 天下を理むるに柔道をもってす。
2011-06-11 13:14:31 | 十八史略
中元二年、上崩。上起兵時、年二十八、即位年三十一。第五倫毎讀詔書嘆曰、此聖主也。一見決矣。手書賜方國。一札十行、細書成文。明愼政體、總攬權綱。量時度力、擧無過事。嘗幸南陽、置酒會宗室。諸母相與語曰、文叔平日與人不款曲、惟直柔耳。乃能如此。上聞之笑曰、吾理天下、亦欲以柔道行之。
中元二年、上崩ず。上、兵を起こしし時、年二十八、位に即くの年三十一なり。第五倫(ていごりん)、詔書を読む毎に嘆じて曰く、此れ聖主なり。一たび見(まみ)えば決せん、と。
手書(しゅしょ)して方国に賜う。一札十行、細書、文を成す。政体を明慎(めいしん)し、権綱(けんこう)を総攬(そうらん)す。時を量(はか)り、力を度(はか)り、挙(きょ)として過事(かじ)無し。嘗て南陽に幸(みゆき)し、置酒(ちしゅ)して宗室を会す。諸母相与(とも)に語って曰く、文叔、平日人と款曲(かんきょく)せず、惟(ただ)直柔なるのみ。乃(すなわ)ち能く此(かく)の如し、と。上之を聞いて笑って曰く、吾天下を理(おさむ)るに、亦柔道を以って之を行わんと欲す、と。
中元二年(57年)、光武帝は崩じた。帝が挙兵したのは二十八歳、位に即いたのが三十一歳であった。第五倫という者が、帝の詔書を読むごとに感嘆して「このお方は聖明の天子であられる。お目見えすることさえできれば、きっとお取立てくださるだろうに」といった。
帝は四方の国に手ずから書をしたためて賜った。竹簡一札に十行ほど細かく書いて、きちんとした文章になっていた。政治のしくみを明らかにしてあやまちを無くし、大権を一手におさめて、時の趨勢と力量を見極めたので、何事によらず過ちが無かった。ある時、故郷南陽に行幸して酒宴を開いて一族のものを集めたことがあった。席上おばたちが口々に
「文叔さんは、普段は人と打ちとける風でもなく、ただ素直でおとなしい人だったけど、今じゃ天子様だものねえ」と言った。帝はこれを聞いて笑って「私は天下を治めるにも、おとなしいやり方でいこうと思う」と言った。
明慎 慎は間違いをおかさないこと。 権綱 政権のおおもと。 総攬 政権を一手におさめること。 置酒 酒宴を開くこと。 諸母 伯母、叔母。 款曲 うちとけて交わる。 柔道 柔らかな態度を重んじる主義。
十八史略 柔能く剛に勝ち、弱能く強に勝つ。
2011-06-14 09:42:19 | 十八史略
上在兵間久厭武事。蜀平後、非警急未嘗言軍旅。北匈奴衰困。臧宮・馬武、上書請攻滅之。鳴劍抵掌、馳志於伊吾之北矣。上報書、告以黄石公包桑記。曰、柔能勝剛、弱能勝強。自是諸將莫敢言兵。閉玉門關、謝絶西域。保全功臣、不復任以兵事。皆以列侯就第。以吏事責三公、亦不以功臣任吏事。諸將皆以功名自終。
上、兵間に在ること久しくして武事を厭(いと)う。蜀平(たいら)いで後は警急(けいきゅう)に非ざれば未だ嘗て軍旅を言わず。北匈奴衰困す。臧宮(ぞうきゅう)・馬武、上書して攻めて之を滅ぼさんことを請う。剣を鳴らし掌を抵(う)ち、志を伊吾(いご)の北に馳す。上、書を報じて、告ぐるに黄石公の包桑記を以ってす。曰く、柔能く剛に勝ち、弱能く強に勝つ、と。是より諸将敢えて兵を言うもの莫(な)し。玉門関を閉じ、西域を謝絶す。功臣を保全し、復任ずるに兵事を以ってせず。皆列侯を以って第(てい)に就かしむ。吏事を以って三公を責め、亦功臣を以って吏事に任ぜず。諸将皆功名を以って自ら終う。
帝は久しく戦場に在ったので、戦いを嫌うようになった。蜀を平定してからは、危急の事変でない限り、戦争のことは言わなかった。北匈奴が衰えたとき、臧宮と馬武が上書して攻め滅ぼしたいと願い出た。剣を鳴らし手を打って、勢い込み、気持ちは早くも匈奴の伊吾城の北にまで飛んでいた。しかし光武帝の返書には、黄石公の包桑記(ほうそうき)を引用して、「柔よく剛に勝ち、弱よく強に勝つ」と諭した。これより後は諸侯で戦いの事を言う者は居なくなった。帝は玉門関を閉じて、西域との交わりを断った。創業の功臣を守り、軍事に従わせず、列侯に取り立てて邸宅に住まわせた。官吏の仕事は三公の職責とし、功臣には官吏の仕事には就かせなかったので、将軍たちは功臣の誉れを全うして一生を終えたのであった。
黄石公 漢の張良に兵書を与えた老人。包桑記 その兵法書。 第 邸。 三公 大尉・司徒・司空。
十八史略 群臣を撫(ぶ)すること毎(つね)に此の如し
2011-06-16 09:11:46 | 十八史略
祭遵先死。上念之不已。來歙・岑彭、死鋒鏑。卹之甚厚。呉漢・賈復終於帝世。漢在軍、或戰不利、意氣自若。上歎曰、呉公差強人意。隱若一敵國矣。毎出師、朝受詔夕就道。及卒、上臨問所欲言。漢曰、臣愚願陛下愼無赦而已。復自起兵時爲督。上曰、賈督有折衝千里之威。嘗戰被傷。上驚曰、吾嘗戒其輕敵。果然。失吾名將。聞其婦有孕。生子邪、我女嫁之。生女邪、我子娶之。其撫羣臣毎如此。
祭遵(さいじゅん)先に死す。上、之を念(おも)うて已(や)まず。來歙(らいきゅう)・岑彭(しんほう)、鋒鏑(ほうてき)に死す。之を卹(あわれ)むこと甚だ厚し。呉漢・賈復(かふく)、帝の世に終う。漢軍に在るや、或いは戦い利あらざるも、意気自若たり。上歎じて曰く、呉公、差(やや)人意を強うす。隠として一敵国の若(ごと)し、と。師を出だす毎に、朝(あした)に詔を受けて夕(ゆうべ)に道に就く。卒(しゅつ)するに及び、上臨んで言わんと欲する所を問う。漢曰く、臣愚願わくは陛下慎んで赦(ゆる)すこと無きのみ、と。復、兵を起こしし時より督たり。上曰く、賈督、衝(しょう)を千里に折(くじ)くの威有り、と。嘗て戦って傷を被る。上驚いて曰く、吾嘗て其の敵を軽んずるを戒む。果たして然り。吾が名将を失う。其の婦孕む有りと聞く。子(し)を生まんか、我が女(じょ)を之に嫁(か)せしめん、女を生まんか、我が子(し)に之を娶らん、と。其の群臣を撫(ぶ)すること毎(つね)に此の如し。
功臣の中で祭遵が先ず死んだ。光武帝は追悼してやまなかった。來歙・岑彭はいくさの中で命を落とした。帝はこの二人を手厚く弔った。呉漢・賈復は帝の治世の間に世を去った。呉漢は戦場にあって、時に味方が不利でも、平然としていた。帝は感嘆して言った「呉公はよく人の意気を引き立ててくれる。泰然として敵の一国ほどの重みがある」と。出陣するときはいつも朝に命令を受けると、夕べには出発するという風であった。死に臨んで帝が言い残すことは無いかと尋ねると、呉漢は「臣愚願わくは、どうか陛下にはむやみに人を赦さぬよう、ただそれだけでございます」と言い残した。
賈復は、帝が挙兵した時から、軍を統率監督する官であった。帝は「賈督軍は敵の矛先を挫いて千里の外まで追い払うほどの威をそなえている」とほめていた。彼が戦場で傷を負ったとき、帝は驚いて「敵を甘く見ないよう言っておいたのに、心配どおりのことが起こってしまった。名将一人を失うとは無念だ。聞けば彼の妻は身ごもっているそうだが、もし男子を生んだら、私の娘を嫁がせよう。女の児だったら、息子に娶(めと)らせよう」と。帝が群臣を慈しむことはいつもこのようであった。
鋒鏑 矛先と鏃。 卹(じゅつ)=恤、あわれむ。 隠 おもおもしい。 臣愚 自分をへりくだった言い方。 督 督軍、監督官 衝 突き破る、折衝は敵の攻撃をくじき防ぐこと。
十八史略 大丈夫まさに馬革を以って屍を裹(つつ)むべし
2011-06-18 08:28:14 | 十八史略
惟馬援死之日、恩意頗不終焉。援嘗曰、大丈夫當以馬革裹屍。安能死兒女手。交阯反。援以伏波將軍、討平之。武陵蠻反。援又請行。帝愍其老。援被甲上馬、據鞍顧眄、以示可用。上笑曰、矍鑠哉是翁。乃遣之。先是、上壻梁松、嘗候援拝牀下。援自以父友不答。松不平。
惟だ馬援死するの日、恩意頗る終(お)えず。援嘗て曰く、「大丈夫当(まさ)に馬革(ばかく)を以って屍を裹(つつ)むべし。安(いづく)んぞ能(よ)く児女の手に死せんや」と。交阯(こうち、こうし)反す。援、伏波将軍を以って、討って之を平らぐ。武陵の蠻(ばん)反す。援又行かんと請う。帝其の老いたるを愍(あわれ)む。援、甲(こう)を被(こうむ)り、馬に上り、鞍に拠(よ)って顧眄(こべん)し、以って用う可きを示す。上笑って曰く、矍鑠(かくしゃく)たるかな是(こ)の翁や、と。乃ち之を遣わす。是より先、上の婿梁松、嘗て援を候(こう)して牀下に拝す。援自ら父の友なるを以って答えず。松、平かならず。
ただ馬援が死んだ時だけは、恩遇の意が十分ではなかった。援は嘗て「大丈夫たる者、屍を馬革に包まれて凱旋することこそ本望、女子供に看取られて死ぬのは御免こうむりたい」と言っていた。
交阯が反(そむ)いた。援は伏波将軍としてこれを討伐して平定した。武陵の蛮族が反いた時、援は討伐に名乗りを上げたが帝は援の老齢を憐れんで許さなかった。すると馬援は甲冑を身にまとい、馬に乗り鞍に身をあずけて四方をねめつけて、まだまだお役に立ちますぞと訴えた。帝は笑いながら「いやはや元気なものだこのご老人は」と言って許した。
これより以前、帝の女婿の梁松が援を訪れて寝台の下で拝礼をしたが、梁松の父と援が友人同士であったことから、答礼をしなかった。それで梁松は援に含むところがあった。
頗る終えず やや十分ではなかった。 裹 つつむこと、裹屍(かし) 戦死者の死体を馬の革につつんで故郷に還ること。 交阯 ベトナム北部。 武陵 湖南省。 顧眄 ふりかえって見る、周りを見る。矍鑠 老いて元気なこと。 候 きげんを問う。
十八史略 虎を画いて狗に類する。
2011-06-21 13:37:12 | 十八史略
援在交阯。嘗遣書戒其兄子曰、吾欲汝曹聞人過、如聞父母名。耳可聞、口不可言。好議論人長短、是非政法、不願子孫有此行也。龍伯高敦厚周愼、謙約節儉。吾愛之重之。願汝曹效之。杜季良豪俠好義、憂人之憂、樂人之樂。父喪致客、數郡畢至。吾愛之重之。不願汝曹效之也。效伯高不得、猶爲謹敕之士。所謂刻鵠不成、尚類鶩也。效季良不得、陥爲天下輕薄子。所謂畫虎不成、反類狗也。
援、交阯に在り。嘗て書を遣わし其の兄の子を戒めて曰く、吾、汝が曹(そう)の人の過を聞くこと、父母の名を聞くが如くせんことを欲す。耳には聞く可きも、口には言う可からず。好んで人の長短を議論し、政法を是非するは、子孫に此の行い有るを願わざるなり。龍伯高は敦厚周慎(とんこうしゅうしん)にして、謙約節倹(けんやくせっけん)なり。吾、之を愛し、之を重んず。汝が曹の之に效(なら)わんことを願う。杜季良(ときりょう)は豪侠(ごうきょう)にして義を好み、人の憂いを憂え、人の楽しみを楽しむ。父の喪に客を致し、数郡畢(ことごと)く至る。吾、之を愛し之を重んず。汝が曹の之に效うを願わざるなり。伯高に效うて得ざるも、猶謹敕(きんちょく)の士と為らん。所謂鵠(こく)を刻んで成らざるも、尚鶩(ぼく)に類するなり。季良に效うて得ずんば、陥(おちい)って天下の軽薄子と為らん。所謂虎を画いて成らずんば、反って狗(いぬ)に類するなり、と。
馬援が交阯に出征していた時、書簡を送って兄の子を戒めて言うことには「そなたたちには、人の過失を聞くには、父母の本名を聞くときのようにして欲しい。聞くことはあっても決して口に出してはならない。好んで他人の長短をあげつらい政治の良し悪しを批判することは我が馬家の子孫にはやって欲しくない。龍伯高どのは人情が厚く、慎みふかく、控えめで質素な方である。私は彼を敬愛している。そなたたちは彼を見習って欲しい。また杜季良どのは、豪快で義を好み、人の憂いをわが憂いとし、人の楽しみをわが楽しみとする。彼の父の葬儀には招いたあちこちの郡から残らず参列した。私は彼を好きであり、重んじてもいる。だがそなた達が見習って欲しくない。伯高どのを見習って失敗しても、謹直な人物にはなる。いわゆる白鳥を彫りそこなっても家鴨には見える。という訳だ。ところが季良どのを見習って失敗したら、天下の笑いものになってしまう。いわゆる虎を画いて失敗すれば、犬に見られてしまう。という訳だ」と。
曹 なかま、ともがら。 敦厚 人情に厚いこと。 周慎 こまやかで慎みふかいこと。 謹敕 言行をつつしみ戒める。 鵠 白鳥。 鶩 あひる。 父母の名 両親や天子を特に死後は本名で呼ぶことは避けたまたその文字を使わせなかった。忌み名(諱)である。ついでに姓名字の関係を掲げた。姓、一族の家名。 名、個人の本名。 字 男子が成人後につける呼び名。 諡 死後にその人の徳を称えて贈る名、諱とも。
姓 名 字 号 諡(おくりな)
劉 秀 文叔 光武帝
項 籍 羽
白 居易 楽天 香山居士
韓 愈 退之 昌黎 文公
蘇 軾 子瞻 東坡 文忠公
十八史略 贓罪(ぞうざい)に於いて貸(ゆる)す所無し
2011-06-23 10:30:58 | 十八史略
季良者杜保。保仇人上書告保、以援書爲證。保坐免官。松坐與保游幾得罪。愈恨援。至是援軍至壺頭。不利、卒軍中。松構陷之。収新息侯印綬。援前在交阯。常餌薏苡、以輕身勝瘴氣。軍還載之一車。後有追譖之者。以爲明珠文犀。上怒。得朱勃上書訟其冤、乃稍解。上於贓罪無所貸。大司徒歐陽歙嘗犯贓、歙所授尚書弟子千餘人、守闕求哀。竟不免、死於獄。
季良は杜保(とほ)なり保の仇人(きゅうじん)上書して保を告ぐるに、援の書を以って證と為す。保、坐して官を免ぜらる。松、保と游(あそ)ぶに坐して、幾(ほと)んど罪を得んとす。愈々援を恨む。是(ここ)に至って、援の軍,壺頭に至る。利あらずして、軍中に卒す。松、之を構陷(こうかん)す。新息侯の印綬を収む。援、前(さき)に交阯に在り。常に薏苡(よくい)を餌(じ)し、以って身を軽うし、瘴気(しょうき)に勝つ。軍還るとき之を一車に載す。後之を追譖(ついしん)する者有り。以って明珠文犀と為す。上、益々怒る。朱勃、書を上(たてまつ)り、其の冤(えん)を訟(うった)うるを得て、すなわち稍(やや)解く。上、贓罪(ぞうざい)に於いて貸(ゆる)す所無し。大司徒歐陽歙(おうようきゅう)嘗て贓を犯す。歙が授くる所の尚書の弟子(ていし)千余人、哀(あい)を求む。竟(つい)に免(まぬか)れずして、獄に死す。
この杜季良とは杜保のことである。杜保に恨みを持つ者が書をたてまつって保を訴え、馬援の甥への手紙を証拠とした。保は罪に問われて官職を追われた。梁松は杜保と交遊があったので、危うく連坐するところであった。そのため松はいよいよ援を恨んだ。こうしたとき、馬援の軍が壺頭山に来たが、戦いに利あらずして援は軍中に死んだ。梁松はこれに乗じて無実の罪をきせたので、帝は新息侯の印綬を取り上げてしまったのである。また援は交阯にいたとき、いつも薏苡の実を煎じて薬として飲み、身体を軽快にして南方の風土病を防いでいた。馬援は交阯から、薏苡を車一杯積んで帰ったが、死後讒言するものがいて、持ち帰ったのは透明な珠や、美しい模様の犀角であったと訴え出た。帝はますます怒った。朱勃が上書して、冤罪であると訴えたので次第に和らいだ。
光武帝は賄賂で私腹を肥やす者に対しては容赦しなかった。大司徒の歐陽歙が収賄の罪を犯したときは、嘗て歐陽歙に尚書を学んだ者たち千人余りが宮門につめかけて嘆願したが、許されず刑死したのであった。
構陷 讒言して人を罪に陥れること。 薏苡 薬草、数珠玉。 瘴気 中国南方の熱病。 追譖 死後に罪をきせる。 贓罪 不正な手段で金品を得た罪、贈収賄。 闕 宮門。
十八史略 糟糠の妻は堂より下さず
2011-06-28 10:06:04 | 十八史略
所用羣臣、如宋弘等、皆重厚正直。上姉湖陽公主嘗寡居。意在弘。弘入見。主坐屏後。上曰、諺言、富易交、貴易妻。人情乎。弘曰、貧賤之交不可忘。糟糠之妻不下堂。上顧主曰、事不諧。
主有蒼頭。殺人匿主家。吏不能得。洛陽令董宣、候主出行、奴驂乘、叱下車、挌殺之。主入訴。上大怒、召宣欲捶殺之。宣曰、縱奴殺人、何以治天下。臣不須捶、請自殺。即以頭叩楹、流血被面。上令小黄門持之、使叩頭謝主。宣兩手據地、終不肯。上敕、強項令出。賜錢三十萬。
用いる所の群臣、宋弘等が如き、皆重厚正直(せいちょく)なり。
上の姉湖陽公主、嘗て寡居(かきょ)す。意、弘に在り。弘入って見(まみ)ゆ。主、屏後(へいご)に坐す。上曰く、諺に言う、富んでは交わりを易(か)え、貴(たっと)くしては妻を易うと。人情か、と。弘曰く、貧賤の交わりは忘る可からず。糟糠(そうこう)の妻は堂より下さず、と。上、主を顧みて曰く、事諧(ととの)わず、と。
主に蒼頭有り。人を殺して主の家に匿(かく)る。吏得る能(あた)わず。洛陽の令董宣(とうせん)、主の出行し、奴、驂乗するを候(うかが)い、叱(しっ)して車より下(くだ)し、之を挌殺(かくさつ)す。主入って訴う。上大いに怒り、宣を召して之を捶殺(すいさつ)せんと欲す。宣曰く、奴の人を殺すを縦(ゆる)さば、何を以って天下を治めん。臣捶を須(ま)たず、請う自殺せん、と。即ち頭を以って楹(えい)を叩き、流血面に被(こうむ)る。上、小黄門をして之を持せしめ、叩頭して主に謝せしむ。宣、両手地に拠り、終に肯(がえ)んぜず。上、敕(ちょく)す、強項令出でよ、と。銭三十万を賜う。
帝が重用した臣、宋弘をはじめ皆重厚で剛直な者ばかりであった。光武帝の姉の湖陽公主がひとり身になっていて、宋弘に好意をもった。ある日、弘が謁見すると、帝は公主を屏風の後ろにかくしてこう言った「諺に金持ちになったら、貧時の友をかえ、偉くなったら妻をかえると言うが、これは人情というものであろうか」すると宋弘は「貧賎のときの友は忘れてはなりませんし、糟(かす)や糠(ぬか)を食べ合った妻は追い出すわけにはまいりませぬ」と言い放った。帝は公主を振り返り、「うまくいかなかったようです」と言った。
その公主に下僕がいて人を殺して公主の庇護のもとにいたが、役人たちは手をこまねくばかりであった。洛陽の長官の董宣が、公主が外出し、下僕が同乗するその時に叱咤して車から降ろし、打ち殺した。公主は直ちに宮中に駆けつけて、帝に訴えた。帝は大いに怒って董宣を召し出し、鞭で打ち殺そうとした。宣は昂然として「下僕が人を殺すのをみ過ごしていて、いったい天下を治めることができるでしょうか。陛下の鞭を待つまでもありません。今ここで命を絶ってみせましょう」と言いもおわらず、傍らの柱におのが頭を打ち付けた。吹き出す血で顔面を朱に染めた宣を帝は小黄門に命じて押さえつけさせ、叩頭して公主に謝罪させようとしたが、宣は両手を突っ張って謝らなかった。帝は「この強情張りの長官め下がれ」と命じて銭三十万を下賜したのであった。
蒼頭 召使い。 驂乗 そえ乗り。 挌殺 殴り殺す。 捶 むち。楹 太い柱。 小黄門 侍従。 強項令 項(うなじ)の強張った(強情な)長官。
十八史略 周黨・嚴光処士
2011-07-02 08:44:16 | 十八史略
尤重高節。徴處士周黨。至不屈、伏而不謁。或奏詆之。上曰、自古明王聖主、必有不賓之士。賜帛罷之。處士嚴光、與上嘗同游學。物色得之齊國。披羊裘釣澤中。徴至。亦不屈。上與光同臥。以足加帝腹。明日太史奏、客星犯御座甚急。上曰、朕與故人嚴子陵共臥耳。拝諫議大夫、不肯受。去畊釣、隱富春山中終。
尤も高節を重んず。処士周党を徴(め)す。至るも屈せず、伏するも謁せず。或るひと奏して之を詆(そし)る。上曰く、古(いにしえ)自(よ)り明王聖主は、必ず不賓(ふひん)の士有り、と。帛(はく)を賜いて之を罷(や)む。
処士厳光、上と嘗て同じく游学す。物色して之を斉国に得たり。羊裘(ようきゅう)を披(き)て沢中に釣る。徴して至る。亦屈せず。上、光と同臥(どうが)す。足を以って帝の腹に加う。明日(めいじつ) 太史奏す、客星、御座を犯すこと甚だ急なり、と。上曰く、朕、故人厳子陵と共に臥するのみ、と。諫議大夫(かんぎたいふ)を拝するも、肯(あ)えて受けず。去って畊釣(こうちょう)し、富春山中に隠れて終る。
光武帝はとりわけ節操の高い士を重んじた。無官の士周党を登用しようと呼び出したところ、参内はしたものの、士官には応ぜず、平伏したものの、謁見の礼はしなかった。或るひとがそれを非難したが、「昔から明王聖主のもとには必ず従わない者が出てくるものだ」と言って絹を賜って、登用を取り止めた。
同じく厳光は嘗て光武帝と共に学んだ者であった。さまざまに手を尽くして各地を探していたが斉国で見つけ出した。羊の毛皮を着て釣りをしていたところを召したが、厳光も士官を承諾しなかった。その夜、帝が寝所を共にすると、厳光の足が帝の腹の上に乗った。翌朝、天文官が奏上した「昨夜、彗星が北極星をたびたび横切りました、ただ事ではございません」と。帝は「いや、わしが旧友の厳子陵と一緒に寝ただけだよ」といった。厳光に諫議大夫を拝命させようとしたが、同意せず、帰って耕作と釣りで世を送り、富春山中に隠れて死んだ。
処士 官途につかず民間にいる人。 不賓 従わないこと。 太史 天文、暦算と国の歴史をつかさどった。 客星 流星。 主座 天子の星座、北極星。 諫議大夫 天子の過失を諌める官。
十八史略 禹湯の明有れど、黄老養性の道を失う
2011-07-05 16:29:00 | 十八史略
漢世多清節士自此始。方天下未平、上已有志文治。首起太學、稽式古典、修明禮樂。晩歳起明堂・靈臺・辟雍。粲然文物可述。毎旦視朝、日昃乃罷。引公卿郎將、講論經理、夜分乃寐。皇太子乘諌曰、陛下有禹湯之明、而失黄老養性之道。上曰、我自樂此。不爲疲也。在位三十三年、身致太平。改元者二、曰建武・中元。壽六十二。太子立。是爲顯宗明皇帝。
漢の世清節の士多きこと、此れより始まる。天下未だ平かならざるに方(あた)って、上、すでに文治に志あり。首として太学を起こし、古典を稽式(けいしき)し、礼楽を修明す。晩歳に明堂・霊台・辟雍(へきよう)を起こす。粲然(さんぜん)たる文物述(の)ぶ可し。毎旦(まいたん)朝(ちょう)を視、日昃(かたむ)いて乃(すなわ)ち罷(や)む。公卿(こうけい)郎将を引いて、経理を講論し、夜分に乃ち寐(い)ぬ。皇太子、(かん)に乗じて諌めて曰く、陛下、禹湯の明(めい)有れども、黄老(こうろう)養性(ようせい)の道を失う、と。上曰く、我自ら此れを楽しむ。疲(つか)ると為さざるなり、と。在位三十三年、身太平を致す。改元する者(こと)二、建武・中元と曰う。寿六十二なり。太子立つ。是を顕宗明皇帝と為す。
漢の時代に節操を守って枉(ま)げない士が多いというのも、これらの人々に始まるのである。天下がまだ平定されないうちから、光武帝は学問によって世を治めようと考えていた。まず最初に太学を設けて、古の典礼や儀式を研究し、それを手本に礼や楽を整え明らかにした。晩年には帝が政治、祭祀を執り行う明堂・天文を観る霊台・学問どころの辟雍を建てた。それらの輝かしい文化の所産は、後世に述べ伝えるに値いするものであった。帝は毎日早くから朝廷に臨み、日が沈んでから止めた。また三公・九卿・五中郎将などを呼び、経書(けいしょ)の理を解き明かして述べ、夜半になってから寝んだ。皇太子が折をみて「陛下はいにしえの禹王や湯王のような聡明さはお持ちですが、黄帝、老子のように身を養い保つ道に欠けておられます」と諌めたが、「自分で楽しんでいるのだ、疲れることはないのだよ」と答えるばかりであった。
光武帝の在位は三十三年、自身で太平の世を招来した。改元すること二回、建武・中元がそれである。年は六十二歳であった。皇太子が即位した。これが顕宗明皇帝である。
太学 大学、官吏養成の学舎。 経書 四書五経の類。 稽式 稽は考える、式は手本。
十八史略 郭伋・杜詩・張堪・劉昆
2011-07-05 16:38:32 | 十八史略
お詫び「糟糠の妻は堂より下さず」の次にこの文を挿入してください。
當時州牧・郡守・縣令、皆良吏。郭伋守潁川。近帝城。上勞之曰、河潤九里京師蒙福。杜詩守南陽。郡人爲之語曰、前有召父、後有杜母。張堪守漁陽。人爲之語曰、桑無附枝、麥穂兩岐。張堪爲政。樂不可支。劉昆爲令江陵。有火。叩頭向之、反風滅火。後守弘農。虎北渡河。上問、行何政而至是。昆曰、偶然耳。上曰、長者之言也。命書之策。
当時の州牧・郡守・県令、皆良吏なり。郭伋(かくきゅう)潁川(えいせん)に守たり。帝城に近し。上、之を労して曰く、河九里を潤し、京師福を蒙(こうむ)る、と。杜詩、南陽に守たり。郡人之が為に語して曰く、前に召父(しょうふ)有り、後に杜母有り、と。張堪(ちょうかん)、漁陽に守たり。人之が為に語して曰く、桑(そう)に附枝(ふし)無く、麦穂(ばくすい)両岐(りょうき)あり。張堪政(まつりごと)を為す。楽しみ支(はか)る可からず、と。劉昆、江陵に令たり。火有り。頭を叩いて之に向かえば、風を反し火を滅す。後に弘農に守たり。虎、北して河を渡る。上問う、何の徳政を行うて是(ここ)に至れる、と。昆曰く、偶然のみ、と。上曰く、長者の言なり、と。命じて之を策に書せしむ。
当時の州の長官や郡の太守、県の令は皆すぐれた役人であった。
郭伋は潁川の太守になった。潁川は洛陽に近かったので、帝は「黄河が九里を潤すように、そなたがよく治めてくれているので、都の人々も恩恵を受けている」と労った。
杜詩は南陽郡の太守になった。人々は、「昔召太守という慈父が居られたというが、今は杜詩さまが慈母のようにしてくださる」と喜んだ。
張堪は漁陽郡の太守となった。人びとはその善政をたたえて「桑には宿り木が付かないし、麦の穂は両つに分かれて実をつけている、これも張堪さまが治めてくださるおかげ、計り知れない楽しみよ」と。
劉昆が江陵県の令になった。ある日、領内に火事が起きた。昆がおのが不徳を謝して火に向って、ぬかづくと風向きが変わって火が消えた。其の後、昆が弘農郡の太守となった。すると領内の虎が黄河を渡って北へ去った。帝がそれを聞いて訳を尋ねると、昆は「たまたまでございます」と答えるばかりであった。帝は「これこそ徳有る者の言である」と、朝廷の簡策に書き留めさせた。
召父 召信臣、前漢宣帝の時代に、南陽郡の太守となり徳政をおこなった。
十八史略 明帝
2011-07-09 12:41:19 | 十八史略
幼にして穎悟
孝明皇帝初名陽、母陰氏。光武微時、嘗曰、仕宦當作執金吾。娶妻當得陰麗華。後竟得之。生陽。幼穎悟。光武詔州郡、檢覈墾田戸口。諸郡各遣人奏事。見陳留吏牘、上有書。視之云、潁川・弘農可問。河南・南陽不可問。光武詰吏由。祇言、於街上得之。光武怒。陽年十二、在幄後。曰、吏受郡敕。欲以懇田相方耳。河南帝城、多近臣。南陽帝郷、多近親。田宅踰制。不可爲準。以詰吏。首服。光武大奇之。郭皇后廢、陰貴人立爲后。陽爲皇太子、改名莊。至是即位。
孝明皇帝、初めの名は陽、母は陰氏。光武微(び)なりし時、嘗て曰く、仕宦(しかん)せば当(まさ)に執金吾と作(な)るべし。妻を娶らば当に陰麗華を得べし、と。後、竟(つい)に之を得たり。陽を生む。幼にして穎悟(えいご)。光武、州郡に詔(みことのり)して、墾田戸口(こんでんここう)を検覈(けんかく)せしむ。諸郡、各々人を遣わして事を奏す。陳留の吏の牘(とく)を見るに、上に書有り。之を視るに云わく、潁川(えいせん)・弘農(こうのう)は問う可し、河南・南陽は問う可からず、と。光武、吏に由(よし)を詰(なじ)る。祇(ただ)言う、街上に於いて之を得たり、と。光武怒る。陽年十二、幄後(あくご)に在り。曰く、吏、郡敕(ぐんちょく)を受け、懇田を以って相い方(くら)べんと欲するのみ。河南は帝城、近臣多し。南陽は帝郷、近親多し。田宅、制に踰(こ)ゆ。準と為す可からず、と。以って吏を詰る。首服(しゅふく)す。光武大いに之を奇とす。郭皇后廃せられ、陰貴人立って后と為る。陽、皇太子と為り、名を荘と改む。是(ここ)に至って位に即く。
孝明皇帝、初めの名は陽で、母は陰氏である。
光武帝がまだ身分が低かった頃、人に言うには「仕官するなら執金吾、妻を娶るなら陰麗華」と。後年望みどおりに手にいれて、陽を生んだ。陽は幼い頃からすぐれて聡明であった。光武帝が州郡に詔を下して、開墾した田地や戸数、人口を調べさせたとき、諸郡は役人を派遣して、結果を奏上させた。陳留郡の役人の報告書を見ると、その上書きになにか書いたものがあった。よく視ると「潁川・弘農は調べられる、河南・南陽は調べられない」とあった。光武帝は役人にその理由を詰問しても「街なかで耳にしたことを書きとめただけです」と答えるばかりであった。陽はそのとき十二歳であったが、とばりの後ろにいて、「この役人は郡守の命令を受けてきただけで、他の郡の開墾地と較べて著しい不公平の無いようにしたいだけです。河南郡は帝城の地で近臣の領地も多く、南陽郡は帝の郷里で、近親者の領地が沢山あります。田宅が規制をこえて広大で、他郡と同じ基準にはならないという意味でしょう」と言った。帝はその役人を問い詰めると、「まったくそのとおりでございます」と白状し、その罪に服した。光武帝は陽の才能に感じ入った。やがて郭皇后が廃せられて陰貴人が皇后となり、陽は皇太子となって、名を荘とあらためた。そしてここに至って帝位に即いたのであった。
仕宦 仕官に同じ。 執金吾 執はとる金は武器吾は禦(ふせぐ)。 穎悟 穀物の穂先が鋭いことから、聡いこと。 検覈 覈も調べ明らかにする。 牘 木札。 郡敕 太守の命令。 首服 首は自首と同じ、白状して罪に服すること。
十八史略 雲台二十八将
2011-07-12 09:15:40 | 十八史略
永平二年臨辟雍、行養老禮。以李躬爲三老、桓榮爲五更。三老東面、五更南面。上親袒割牲、執醤而饋、執爵而酳。禮畢、引榮及弟子升堂。諸儒執經問難。冠帶搢紳之人、圜橋門、而觀聽者億萬計。
三年、圖畫中興功臣、二十八將於南宮雲臺、應二十八宿。禹爲首、次馬成・呉漢・王梁・賈復・陳俊・耿弇・杜茂・寇恂・傅俊・岑彭・堅鐔・馮異・王覇・朱祐・任光・祭遵・李忠・景丹・萬脩・蓋延・邳彤・銚期・劉植・耿純・臧宮・馬武・劉隆。惟馬援以皇后之父不與焉。
十一年、東平王蒼來朝。蒼自上即位初、爲驃騎將軍、五年而歸國。至是入朝。上問、處家何以爲樂。蒼曰、爲善最樂。
永平二年辟雍(へきよう)に臨み、養老の礼を行う。李躬(りきゅう)を以って三老と為し、桓榮を五更と為す。三老は東面し、五更は南面す。上(しょう)親(みずか)ら袒(たん)して牲(せい)を割き、醤を執って饋(き)し、爵を執って酳(いん)す。礼畢(おわ)って、榮及び弟子(ていし)を引いて堂に升(のぼ)らしむ。諸儒、経を執って問難す。冠帯搢紳(かんたいしんしん)の人、橋門を圜(めぐ)って、観聴する者、億萬を計(かぞ)う。
三年、中興の功臣、二十八将を南宮の雲台に図画(ずが)し、二十八宿に応ず。禹(とうう)を首(はじめ)と為し、次は馬成(ばせい)呉漢(ごかん)王梁(おうりょう)賈復(かふく)陳俊(ちんしゅん)耿弇(こうかん)杜茂(とも)寇恂(こうじゅん)傅俊(ふしゅん)岑彭(しんほう)堅鐔(けんじん)馮異(ふうい)王覇(おうは)朱祐(しゅゆう)任光(じんこう)祭遵(さいじゅん)李忠(りちゅう)景丹(けいたん)萬脩(ばんしゅう)蓋延(こうえん)邳彤(ひゆう)銚期(ちょうき)劉植(りゅうしょく)耿純(こうじゅん)臧宮(ぞうきゅう)馬武(ばぶ)劉隆(りゅうりゅう)なり。惟(ただ)馬援のみは、皇后の父なるを以って与(あずか)らず。
十一年、東平王蒼、来朝す。蒼、上の即位の初めより、驃騎将軍となり、五年にして国に帰る。是(ここ)に至って入朝す。上問う、家に処(お)って何を以ってか楽しみと為す、と。蒼曰く、善を為す、最も楽し、と。
永平二年(59年)、辟雍に臨幸して養老の礼を行った。李躬を三老とし、桓栄を五更とした。三老は東面し、五更は南面して座についた。明帝はみずから片肌を脱いで、生け贄を割き、醤(ひしお)をとって二人に勧め、盃をとって酒で口をすすがせた。饗応の礼がおわると、桓栄とその弟子たちを堂に登らせ、儒者たちが経書の難解な点を問いただした。衣冠を正した人々で、辟雍の橋門を取り囲んで養老の儀式を見聴きする者が数えきれないほどであった。
永平三年、光武帝の漢室中興を援けた功臣二十八将の肖像を南宮の雲台に画いて、天の二十八宿に対応させた。それは禹をはじめとして、次に馬成・呉漢・王梁・賈復・陳俊・耿弇・杜茂・寇恂・傅俊・岑彭・堅鐔・馮異・王覇・朱祐・任光・祭遵・李忠・景丹・萬脩・蓋延・邳彤・銚期・劉植・耿純・臧宮・馬武・劉隆の順である。ただ馬援だけは、皇后の父であるという理由で、この中に加えられなかった。
十一年、東平王の蒼が来朝した。蒼は明帝の即位した初めより、驃騎将軍となって、五年後に帰り、この年になって上京してきたのである。帝が「故郷では何を楽しみにしているのか」と尋ねると、蒼は「善いことをするのが一番の楽しみです」と答えた。
三老 三公中の最高齢者。 五更 九卿中の最高齢者。 袒 片脱ぎする。 饋 長老にすすめること。 爵 盃。 酳す 酒で口をすすぐこと。 搢紳 搢は笏を帯に挟むことから、紳士。 東平王蒼 明帝の弟。 ※三十二将 二十八将に李通(りつう)、竇融(とうゆう)、王常(おうじょう)、卓茂(たくも)を加えて雲台三十二将とする。
十八史略 虎穴に入らずんば虎子を得ず。
2011-07-14 09:58:51 | 十八史略
十七年、復置西域都護・戊己校尉。初耿秉請伐匈奴。謂、宜如武帝通西域、斷匈奴右臂。上從之、以秉與竇固爲都尉、屯涼州。固使假司馬班超使西域。超至鄯善。其王禮之甚備。匈奴使來。頓疎懈。超會吏士三十六人、曰、不入虎穴、不得虎子。奔虜榮斬其使及從士三十餘級。鄯善一國震怖。超告以威、使勿復與虜通。超復使于。其王亦斬虜使以降。於是諸國皆遣子入侍。西域復通。至是竇固等撃車師而還、以陳睦爲都護、及以耿恭爲戊校尉、關龕爲己校尉、分屯西域。
十七年、復(また)西域都護・戊己校尉(ぼきこうい)を置く。初め、耿秉(こうへい)、匈奴を伐たんと請う。謂(おも)えらく、宜しく武帝の西域に通じて、匈奴の右臂(ゆうひ)を断ちしが如くなるべし、と。上、之に従い、秉(へい)と竇固(とうこ)とを以って都尉と為し、涼州に屯(とん)せしむ。固、仮司馬(かしば)班超をして西域に使いせしむ。超、鄯善(ぜんぜん)に至る。其の王之を礼すること甚だ備わる。匈奴の使い来る。頓(とみ)に疎懈(そかい)なり。超、吏士三十六人を会(かい)して曰く、虎穴に入らずんば、虎子を得ず、と。虜営(りょえい)に奔(はし)って其の使い及び従士三十余級を斬る。鄯善の一国震怖(しんふ)す。超、告ぐるに威徳を以ってし、復(また)虜(りょ)と通ずる勿(な)からしむ。超、復于(うてん)に使いす。其の王も亦虜使を斬って以って降る。是(ここ)に於いて諸国皆子を遣わして入り侍(じ)せしむ。西域復通ず。是に至って竇固等、車師を撃って還り、珍睦(ちんぼく)を以って都護と為し、及び耿恭(こうきょう)を以って戊校尉(ぼこうい)と為し、関龕(かんがん)を己校尉(きこうい)と為し、分(わか)って西域に屯せしむ。
永平十七年(74年)、再び西域都護と戊己校尉を置くことになった。発端は耿秉が匈奴討伐を願い出て、「昔武帝がなされたように、西域諸国とよしみを通じて、匈奴の右ひじを断ち切ったようにするのが宜しいでしょう」と言った。帝はこれに従って耿秉と竇固を都尉に任命して涼州に駐屯させた。竇固は仮司馬班超を使いとして西域に派遣した。超はまず鄯善国に赴いた。鄯善の王は丁重にもてなした。そこに匈奴から使者が来ると、急に扱いが粗略になった。超は同行して来た部下三十六人を集めて言った。諺に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という、危険を冒してこそ得るものが大きい、今が好機ぞ、と匈奴の宿営を襲って、使者と随員三十余人の首を斬った。鄯善国は恐れおののいた。班超は漢の威徳を鄯善王に語り聞かせ、匈奴との交わりを断たせた。次いで于国に赴くと、国王はみずから匈奴の使者を斬って、漢に帰服した。こうして西域諸国はみな王子を朝廷に遣わして仕えさせたので、西域との交わりが復活した。
この年、竇固たちは車師を討って還り、陳睦を都護とし、耿恭を戊校尉とし、関龕を己校尉に任じて、西域に分屯させた。
西域都護 西域諸民族の支配のために置かれた官庁の長。 戊己校尉 戊己は五行(木、火、土、金、水)に兄(え)弟(と)を配して甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干とした、つちのえ、つちのと。木は方位東、色は青、季節は春。火は南、赤、夏。土は中央、黄色。金は西、白、秋。水は北、黒、冬をあらわした。つまり西域の中央に置いた鎮西武官。 仮司馬 司馬の副官。 鄯善、于、車師 ともに西域の国名。
十八史略 匈奴囲みを解いて去る。
2011-07-16 08:25:58 | 十八史略
十八年、北匈奴攻戊校尉耿恭。初上即位之明年、南單于比死。弟莫立。上遣使授璽綬。北匈奴寇邊。南單于撃卻之。漢與北匈奴交使。南單于怨欲畔、密使人與交通。漢置度遼將軍於五原、以防之。已而漢伐北匈奴、北匈奴亦寇邊。至是攻恭於金蒲城。恭以毒藥傅矢、語匈奴曰、漢家箭神、中者有異。虜視創皆沸。大驚。恭乘暴風雨撃之。殺傷甚衆。匈奴震怖曰、漢兵神、眞可畏也。乃解去。
十八年、北匈奴(ほくきょうど)、戊校尉(ぼこうい)耿恭(こうきょう)を攻む。初め上(しょう)即位の明年、南単于の比死す。弟莫(ばく)立つ。上、使いを遣わして璽綬(じじゅ)を授く。北匈奴、辺に寇(こう)す。南単于撃って之を卻(しりぞ)く。漢、北匈奴と交使す。南単于怨んで畔(そむ)かんと欲し、密かに人をして与(とも)に交通せしむ。漢、度遼将軍(どりょうしょうぐん)を五原に置いて、以って之を防ぐ。已にして漢、北匈奴を伐つ。北匈奴も亦、辺に寇す。是に至って恭を金蒲城に攻む。恭、毒薬を以って矢に傅(つ)けて、匈奴に語(つ)げて曰く、漢家の箭(や)は神なり、中(あた)る者は異あり、と。虜、創(きず)を視れば皆沸く。大いに驚く。恭、暴風雨に乗じて之を撃つ。殺傷甚だ衆(おお)し。匈奴、震怖(しんふ)して曰く、漢の兵は神なり、真に畏るべきなり、と。乃(すなわ)ち、解き去る。
永平十八年(75年)に北匈奴が戊校尉の耿恭を攻めた。遡って明帝が即位した翌永平二年に南単于の比が死んで弟の莫が立った。帝は使者を遣わして印綬を授けた。その三年後に北匈奴が漢の辺境を侵略すると、南単于は兵を出してこれを撃退した。ところが漢は翌々年北匈奴と外交をはじめたので、南単于はこれを怨んで漢に叛こうとして、密かに使者を北匈奴にやって、共に通じ合って漢と絶交しようとした。漢は五原郡に度遼将軍を置いて対抗した。永平十三年に
漢は北匈奴を伐った。北匈奴も再び辺境を侵略する。このようなことが繰り返されて、この年(十八年)に耿恭を金蒲城に攻めたのである。耿恭は毒薬を矢に塗って、匈奴に向かって言った。「漢の矢には神が憑いている。あたれば必ず異変がおこるぞ」と。匈奴が傷口を見ると、ふつふつと沸いているので大いに驚いた。恭はまた暴風雨に乗じて匈奴を攻め、手ひどい打撃をあたえた。匈奴は恐れおののいて、漢の兵には神が宿っている、恐ろしい限りだと、囲みを解いて去った。
交使 使者を遣わして交わりを結ぶこと。 畔 叛に同じ。 度遼将軍 度は渡るに同じ、遼水を渡河して匈奴を征伐する意。
十八史略 苟しくも其の人に非ざれば、民そのわざわいを受く。
2011-07-19 10:07:03 | 十八史略
上崩。在位十八年、改元者一、曰永平。壽四十八。上性惼察、好以耳目隱發爲明。公卿大臣數被詆毀、近臣尚書以下、至見提曳。嘗怒郎藥、以杖撞之。走入床下。上怒甚。疾言曰、郎出、郎出。曰、天子穆穆、諸侯皇皇。未聞人君自起撞郎。乃赦之。上遵奉建武制度、無更變。 后妃家不得封侯預政。館陶公主、爲子求郎。上曰、郎官上應列宿、出宰百里。苟非其人、民受其殃。不許。當時吏得其人、民樂其業。遠近畏服、戸口滋殖焉。太子立。是爲肅宗孝章皇帝。
上(しょう)崩ず。在位十八年、改元する者(こと)一、永平と曰う。寿四十八。上、性惼察(へんさつ)にして、好んで耳目を以って隠発(いんぱつ)して明と為す。公卿(こうけい)大臣数しば詆毀(ていき)せられ、近臣尚書以下、提曳(ていえい)せらるるに至る。嘗て、郎藥(やくすう)を怒り、杖を以って之を撞(つ)く、走って床下(しょうか)に入る。上怒ること甚だし。疾(と)く言って曰く、郎出でよ、郎出でよ、と。曰く、天子は穆穆(ぼくぼく)たり、諸侯は皇皇(こうこう)たり。未だ人君の自ら起って郎を撞くを聞かず、と。乃ち之を赦す。上、建武の制度を遵奉(じゅんぽう)して更変するところ無し。后妃(こうひ)の家は侯に封ぜられ政に預かるを得ず。館陶公主、子の為に郎を求む。上曰く、郎官は上(かみ)列宿に応じ、出でては百里に宰(さい)たり。苟(いやし)くも其の人に非ざれば、民その殃(わざわい)を受く、と。許さず。当時の吏、其の人を得て、民其の業を楽しむ。遠近畏服(いふく)し、戸口(ここう) 滋殖(じしょく)す。
太子立つ。是を肅宗孝章皇帝と為す。
明帝が崩じた。在位十八年、改元すること一度、永平という。年は四十八歳であった。帝は性格が偏狭で疑い深く、好んで密偵を使って臣下の隠し事を摘発して、それを自分が暗愚でないことと思っていた。公卿大臣でもしばしばそしり、はずかしめを受け、近臣尚書以下、引き廻されたりした。あるとき、郎官の薬(やくすう)が明帝の怒りにふれて杖で突かれた。薬は走って床下に逃げ込んだ。帝は激怒して、「郎、出てこい。郎、出てこい」と怒鳴った。は「天子はうるわしく、諸侯は慎み深くとありますが、人君たるお方が自ら起って郎を突くなど聞いたためしがありません」と言うと、帝も怒りを鎮めを赦した。明帝は光武帝の定めた制度をひたすら守り、少しも変えることがなかった。それで皇后の一門は諸侯にもなれず、政治に参与することもできなかった。明帝の姉の館陶公主が、子に郎官の職を求めたが、「郎官の職は、天上の星宿に象ったものであり、地方に出ては百里四方の長となるものである。ふさわしい人物でなければ、民が災いをうける」といって、許さなかった。ことほどさように当時の官吏はふさわしい人を得て民は家業に励み、外国や近隣諸国は畏れ服し、戸数、人口はますます増えたのであった。
皇太子が即位した。是が肅宗孝章皇帝である。
惼察 偏狭で詮索好き。 詆毀 誹謗する。 提曳 引き廻される。
天子は穆穆たり、諸侯は・・ 礼記曲礼篇にある
十八史略 章帝
2011-07-21 11:10:47 | 十八史略
孝章皇帝名烜、母賈氏、馬皇后養之。立爲太子。至是即位。
西域攻没都護。北匈奴圍己校尉、又圍耿恭。詔遺兵。罷都護及戊己校尉官。惟班超上疏請兵、欲遂平西域。上知功可成從之。
北匈奴五十八部來降。時北匈奴衰耗、黨衆離畔。南部攻其前、丁零寇其後、鮮卑撃其左、西域攻其右。不復自立。乃遠引而去。鮮卑撃斬北單于。故部衆有來降者。
孝章皇帝、名は烜(けん)、母は賈氏(かし)、馬皇后之を養う。立てて太子と為す。是(ここ)に至って位に即く。
西域、都護を攻没(こうぼつ)す。北匈奴(ほくきょうど)、己校尉(きこうい)を囲み、又耿恭を囲む。詔(みことのり)して兵を遣わす。都護及び戊己校尉(ぼきこうい)の官を罷(や)む。惟(ひと)り班超上疏(じょうそ)して兵を請い、遂に西域を平らげんと欲す。上、功の成る可きを知って之に従う。
北匈奴の五十八部来降す。時に北匈奴衰耗(すいこう)し、党衆離畔(りはん)す。南部其の前を攻め、丁零(ていれい)其の後に寇(あだ)し、鮮卑(せんぴ)其の左を撃ち、西域其の右を攻む。復自立せず。乃(すなわ)ち遠く引いて去る。鮮卑撃って北単于を斬る。故に部衆来降する者有り。
孝章皇帝、名は烜、母は賈氏である。馬皇后が養育した。皇太子に立てられていて、ここに至って即位した。
西域の車師が叛いて漢の都護を攻めて殺した。北匈奴は己校尉を包囲し、又戊校尉の耿恭をもとり囲んだ。帝は詔勅を下して軍隊を派遣し、これを救って都尉及び戊己校尉の官を廃止した。ただ班超だけは書をたてまつって、派兵を願い出でて西域を平定しようとした。帝は成功の見込みをつけると、要求を取り上げた。
北匈奴の五十八部が降参して来た。その頃北匈奴は衰退して、部族間で離反していた。この機に乗じて南匈奴が前から攻め、丁零国が後ろを脅かし、鮮卑が左から撃って、西域が右を攻めた。北匈奴はもはや自立できずに兵を引いて去った。そこを鮮卑が追撃して北匈奴の単于を斬り殺した。それで多くの部族たちが漢に来り降ったのである。
烜 後漢書には火へんに旦とある。 馬皇后 明帝の后、馬援の娘。 丁零 北トルコ系遊牧民の一。 鮮卑 モンゴル系遊牧民族。
十八史略 章帝の治
2011-07-23 10:04:07 | 十八史略
上崩。在位十三年、改元者三、曰建初・元和・章和。壽三十一。上繼明帝察察之後、知人厭苛切、事從寛厚、文之以禮樂。嘗議貢擧法。韋彪議曰、國以簡賢爲務。賢以孝行爲首。求忠臣、必於孝子之門。上然之。廬江毛義、以行義稱。張奉候之。府檄適至、以義守安陽令。義捧檄入、喜動顔色。奉心賤之。後義母死。徴辟皆不至。奉乃歎曰、往日之喜、爲親屈也。上下詔褒寵之。州郡得人。如廉范在蜀郡、弛禁以便民。民歌之曰、廉叔度來何暮。不禁火、民安作。昔無襦、今五袴。當時皆以平徭簡賦。忠恕長者爲政、終上之世、民頼其慶。太子立。是爲孝和皇帝。
上(しょう)崩ず。在位十三年、改元する者(こと)三、建初・元和・章和と曰う。寿三十一。上、明帝察々の後を継ぎ、人の苛切(かせつ)を厭(いと)うを知り、事寛厚に従い、之を文(かざ)るに礼楽を以ってす。嘗て貢挙(こうきょ)の法を議す。韋彪(いひょう)議して曰く、国は賢を簡(えら)ぶを以って務めと為す。賢は、孝行を以って首(はじめ)と為す。忠臣を求むるは、必ず孝子(こうし)の門に於いてす、と。上、之を然りとす。廬江の毛義、行いの義なるを以って称せらる。張奉(ちょうほう)之を候(こう)す。府檄(ふげき)適々(たまたま)至り、義を以って安陽の令に守(しゅ)たらしむ。義、檄を捧げて入り、喜び、顔色に動く。奉、心に之を賤(いや)しむ。後に義の母死す。徴辟(ちょうへき)に皆至らず。奉乃(すなわ)ち歎じて曰く、往日の喜は、親の為に屈するなり、と。上、詔を下して之を褒寵(ほうちょう)す。州郡人を得たり。廉范(れんばん)の蜀郡に在るが如き、禁を弛めて以って民に便す。民之を歌うて曰く、廉叔度来る何ぞ暮(おそ)きや。火を禁ぜず、民安作(あんさく)す。昔は襦(じゅ)無く、今は五袴、と。当時、皆以って徭(よう)を平(へい)にし、賦を簡にす。忠恕(ちゅうじょ)の長者政(まつりごと)を為し、上の世を終るまで、民其の慶に頼(よ)る。太子立つ、是を孝和皇帝と為す。
章帝が崩じた(88年)。在位十三年、改元すること三回。建初・元和・章和である。歳は三十一であった。章帝は明帝の些細な過失をあげつらった治世の後を承け、人々が苛酷な政治を嫌っていることを知り、何事も寛大温厚にして、礼楽で完成させようとした。あるとき官吏推挙の方法について議論があったとき、韋彪が「国は賢者を登用することが務めであります。賢者を選ぶには第一に親孝行でなくてはなりません。忠臣を得るためには、必ず孝子の中から選ぶべきであります」と申しあげた。章帝はこれをよしとした。
廬江の毛義は行いが義にかなっていると評判であった。張奉という者が毛義を訪れたところ、ちょうど役所から安陽の県令に任命するという通達が届いた。毛義はその通達をおしいただいて、喜色満面であった。張奉は内心これをさげすんだ。後に毛義の母が死ぬと、もうどのような召喚にも応じなかった。張奉はそこではっと気づいた。あの時の喜びようは母親の為にした心ならずのものだったのか、と。これを伝え聞いた章帝は褒賞の詔勅を下した。
州や郡の官吏にはすぐれた人が多かった。廉范が蜀郡の太守であったときなどは、禁令を弛めて人々の便宜をはかったので、こんな歌が歌われた。
廉叔度さま、もっと早くに来てほしかった。
あなたが灯のおゆるしあって、おかげでわしらは夜なべにはげむ。
肌着一枚ない日もあった、今じゃもんぺも五六枚。
当時はみな労役は公平で、租税も軽かった。誠実で思いやりのある長者が政を行ったので、章帝の世が終るまで民はその余慶にあずかった。皇太子が位に即いた。これが孝和皇帝である。
貢挙 地方から人材を推挙する。 候 たずねる。 府檄 役所からの通達。
徴辟 徴は朝廷から召されること、辟は州県から召されること。 褒寵 褒めてめぐむ。廉叔度 廉范のあざな、洛県の慶鴻と刎頸の交わりをむすぶ。「前に管鮑ありて後に慶廉がある」と謳われた。 徭 労役。 賦 年貢。 忠恕 忠実で同情心が厚いこと。
十八史略 和帝
2011-07-26 09:58:05 | 十八史略
孝和皇帝名肇、母梁氏。竇皇后子之。年十歳即位。竇后臨朝。竇憲以外戚侍中。用事。有罪。求出撃北匈奴以自贖。后從之。大破匈奴、登燕然山、刻石勒功而還。入爲大將軍。四年、父子兄弟、竝爲卿校、充滿朝廷。有逆謀。上知之、遂與宦者鄭衆定議、勒兵収憲印綬、迫令自殺。以衆爲大長秋、常與議政。宦官用權自此始。
先是漢兵撃北單于。走死。漢立其弟。後叛。追斬滅之。鮮卑徙據北匈奴地。自此漸盛。
孝和皇帝名は肇(ちょう)、母は梁氏。竇皇后(とうこうごう)之を子とす。年十歳にして位に即く。竇后朝(ちょう)に臨む。竇憲(とうけん)外戚を以って侍中たり。事を用う。罪有り。出でて北匈奴を撃って以って自ら購(あがな)わんことを求む。后之に従う。大いに匈奴を破り、燕然山に登り、石に刻み功を勒(ろく)して還る。入って大将軍と為る。四年、父子兄弟並びに卿校(けいこう)と為り、朝廷に充満す。逆謀(ぎゃくぼう)有り。上(しょう)之を知り、遂に宦者鄭衆(ていしゅう)と議を定め、兵を勒(ろく)して憲が印綬を収め、迫って自殺せしむ。衆を以って大長秋と為し、常に予(とも)に政を議す。宦官の権を用うる、此れより始まる。
是より先漢兵北単于を撃つ。走って死す。漢其の弟を立つ。後に叛(そむ)く。追うて斬って之を滅す。鮮卑徒(うつ)って北匈奴の地に拠(よ)り、此れより漸く盛んなり。
孝和皇帝は名を肇といい、母は梁氏、竇皇后が自分の子として育てた。年十歳で帝位に即いたので、竇太后が朝廷に出て政治を執った。太后の兄の竇憲は外戚ということで侍中となり、政権を専らにした。たまたま竇憲が罪を犯して太后から誅せられるところを、北匈奴の討伐を申し出ることによって罪をあがないたいと願い出たので、竇太后はこれを許した。この討伐は大勝利をおさめた。燕然山に登って、石に自らの功績を刻んで凱旋し、大将軍となった。
永平四年(92年)には竇憲の親兄弟がそろって九卿や校尉となり、朝廷に満ちあふれた。やがて竇憲は謀叛を企てるに至った。和帝はこれを察知して、宦官の鄭衆と相談して兵をととのえ、憲の印綬を取り上げてさらに迫って自殺させた。
帝は鄭衆を大長秋に任じて以後政治の相談をした。宦官が権勢を振るうのはこれより始まった。
これより以前、漢の兵が北単于を攻め、敗走させて死に至らしめた。漢は弟を単于に立てたが、後に叛いたので追って斬り殺した。鮮卑族が移って北匈奴の地を拠点にして次第に強大になっていった。
竇皇后 章帝の后。 事を用う 竇太后の寵臣を暗殺したこと。 勒 おもがい、くつわ、おさえる、統率する、彫る、刻む等の意味をもつ。前者は石に彫る 勒銘、後者は 統率する 勒兵。 大長秋 皇后宮の卿。
十八史略 水清ければ大魚無し、宜しく蕩佚簡易なるべし
2011-07-28 09:31:08 | 十八史略
徴班超還京師。卒。超起自書生、投筆有封侯萬里外之志。有相者。謂曰、生燕頷虎頭、飛而食肉、萬里侯相也。自假司馬入西域、章帝時、爲西域將兵長史。至上、以超爲西域都護騎都尉、平定諸國。在西域三十年、以功封定遠侯。至是以年老乞歸。願生入玉門關。上許之。任尚代爲都護、請教。超曰、君性嚴急。水清無大魚。宜蕩佚簡易。尚私謂人曰、我以、班君當有奇策。今所言平平耳。尚後果失邊和。如超言。
上在位十八年崩。改元者二、曰永元・元興。太子立。是爲孝殤皇帝。
孝殤皇帝名隆、生百餘日即位。改元延平。在位八閲月而崩。時皇太后氏臨朝、與騭定策立嗣。是爲孝安皇帝。
班超を徴(め)して京師に還らしむ。卒す。超、書生より起こり、筆を投じて万里の外に封侯たるの志有り。相者有り。謂いて曰く、生は燕頷虎頭(えんがんことう)、遠くまで飛んで肉を食(くら)う。万里侯の相なり、と。仮司馬より西域に入り、章帝の時、西域の将兵の長史と為る。上(しょう)に至って、超を以って西域の都護騎都尉と為し、諸国を平定せしむ。西域に在ること三十年、功を以って定遠侯に封ぜらる。是(ここ)に至って年老いたるを以って帰らんことを乞う。願わくは生きて玉門関に入らん、と。上、之を許す。任尚(じんしょう)代って都護と為り、教えを請う。超曰く、君が性厳急なり。水清ければ大魚無し。宜しく蕩佚(とうてつ)簡易なるべし、と。尚私(ひそか)に謂って曰く、我以(おも)えらく、班君当(まさ)に奇策有るべしと。今言う所は平平たるのみ、と。尚、後果たして辺和を失す。超の言の如し。
上、位に在ること十八年にして崩ず。改元する者(こと)二、永元・元興と曰う。太子立つ。是を孝殤皇帝と為す。
孝殤皇帝(こうしょうこうてい)名は隆、生まれて百余日にして位に即く。元を延平と改む。位に在ること八閲月(えつげつ)にして崩ず。時に皇太后氏朝に臨み、騭(とうしつ)と策を定めて嗣(し)を立つ。是を孝安皇帝と為す。
班超を召し出して、洛陽に帰らせたが、間もなく死んだ。班超ははじめ学問で身を立てようとしたが、紙筆をなげうち武人となって万里の辺境で武功を立て、封侯になろうと志を立てた。ある人相見に「あなたは燕のような顎と虎の頭を持っている。飛んで肉のくらう、万里侯の相です」と言われた。後に仮司馬となって西域に入り、章帝の時に西域の将兵のとなったが、和帝の時になって、班超を西域の都護騎都尉に任じ西域諸国を平定させた。辺境に在ること三十年、功によって定遠侯に封ぜられた。そこで高齢を理由に「できれば生きて玉門関に入りとうございます」と願い出て、帝は超の希望を受け入れた。任尚が代って都護となり、超に教えを請うた。超は「君は厳格で性急すぎる。水がきれいすぎると大魚は棲めない。だからのんびりと大まかにするがよろしい」と答えた。任尚はひそかに人に語って「私は班君には何か奇策があると思って聞いてみたが実にありきたりの話だったよ」ともらした。ところがその後任尚は辺境の平和を保つことができず、班超の言葉どおりになってしまった。
和帝は位に在ること十八年で崩じた。改元すること二回、永元・元興がそれである。皇太子が位に即いた。これが孝殤皇帝である。
孝殤皇帝の名は隆である。生まれて百余日で帝位に即き、年号を延平と変えた。在位わずか八か月で崩じた。時に皇太后の氏が朝廷に臨んで政治を執っていたが、兄の騭と図って後嗣を立てた。これが孝安皇帝である。
相者 人相見。 燕頷虎頭 燕のおとがいと虎の頭。 長史 州の監察官刺史の補佐官。 蕩佚 寛大でゆるやか。(とういつ)と読むとしまりがないさま。 八閲月 閲は経過する、八ヶ月。
十八史略 安帝
2011-07-30 08:27:30 | 十八史略
盤根錯節に遇わずんば、以って利器を別つ無し。
孝安皇帝、名祜、清河王慶之子、章帝孫也。未冠迎即位。后仍臨朝、騭爲大將軍。時邊軍多事。騭欲棄涼州并力北邊。郎中虞詡以爲不可曰、關西出將、關東出相。烈士武夫、多出涼州。衆皆從詡議。騭惡詡欲陥之。會朝歌賊攻殺、州郡不能禁。以詡爲朝歌長。故舊皆弔之。詡曰、不遇盤根錯節、無以別利器。及到官募壯士。攻劫者爲上、傷人偸盜者次之。収得百餘人、使入賊中、誘令劫掠、伏兵殺數百人。又潛遣貧人能縫者、傭作賊衣、以綵線縫其裾、有出市里者、輒禽之。賊駭散、縣境皆平。太后知詡有將帥之略、以爲武都太守。
孝安皇帝、名は祜(こ)、清河王慶の子にして、章帝の孫なり。未だ冠せずして迎えられて位に即く。后、仍(なお)朝に臨み、騭(とうしつ)、大将軍と為る。時に辺軍多事なり。騭、涼州を棄てて力を北辺に併せんと欲す。郎中虞詡(ぐく)以って不可と為して曰く、関西は将を出だし、関東は相を出だす。烈士武夫(ぶふ)は、多く涼州より出ず、と。衆皆詡の議に従う。騭、詡を悪(にく)んで、之を陥れんと欲す。会(たま)ゝ朝歌(ちょうか)の賊、(ちょうり)を攻め殺して、州郡禁ずる能(あた)わず。詡を以って朝歌の長と為す。故旧皆之を弔(ちょう)す。詡曰く、盤根錯節(ばんこんさくせつ)に遇わずんば、以って利器を別(わか)つ無し、と。官に到るに及んで、壮士を募る。攻劫(こうこう)する者を上と為し、人を傷つけ偸盜(とうとう)する者之に次ぐ。百余人を収め得て、賊中に入らしめ、誘(いざの)うて劫掠(こうりゃく)せしめ、兵を伏(ふく)して数百人を殺す。又潜(ひそか)に貧人の能(よ)く縫う者を遣わして、賊衣を傭作(ようさく)せしめ、綵線(さいせん)を以って其の裾を縫い、市里に出づる者有れば、輒(すなわ)ち之を禽(とりこ)にす。賊駭(おどろ)き散じて、県境皆平らぐ。太后、詡が将帥(しょうすい)の略有るを知り、以って武都の太守と為す。
孝安皇帝、名は祜である。清河王の慶の子で章帝の孫にあたる。未だ冠礼を済まさないうちに迎えられて帝位に即いた。太后が引き続き朝廷に出て政治を執りおこない、騭が大将軍になった。このころ辺境の情勢は多事にわたった。騭は、涼州の地を放棄して匈奴に委ね、力を北の辺境に集中させようとした。郎中の虞詡が反対して意見を述べた。「古来、函谷関より西の地は将軍を輩出し、東は大臣を出している。烈士武勇のもののふは多く涼州の出身であります」と。虞詡の意見に賛成する者が多かったので騭はこれを憎み、陥れようとした。たまたま朝歌の賊が県のを攻め、これを殺したが、州も郡も手が出せない状態であった。騭はそこで虞詡を朝歌県の長官に任命した。旧知の人たちは同情して慰めに来たが、詡は笑って、「盤根錯節があって刃物の切れ味はわかるものさ」と答えた。着任するとすぐさま屈強のならず者を集めた。まず強盗を第一に、人を傷つけ盗みを働く者をその次にした。百人余りがあつまると賊の中にもぐりこませて、そそのかして掠奪に向わせ、あらかじめ兵を伏せて、数百人を殺した。またこっそり貧民の裁縫のできる者を送り込んで、賊の衣服の繕いをさせ、色のついた糸で裾を縫って、賊が町中に出てくるのを捕えた。賊はわけがわからず散りぢりになり、すっかり静かになった。太后は虞詡が大将の器であることを見抜き、武都郡の太守に任命した。
涼州 甘粛省中部の州。 侍中 天子の側仕え。 朝歌 河南省の地名。 禄高六百石(せき)以上の者。 故旧 以前からの馴染み。 盤根錯節 絡まり合った根と入り組んだ節、転じて解決し難い事柄、試練。 攻劫 強盗。 偸盜 偸も盜もぬすむ。 劫掠 おどしとる。 傭作 やとわれて物をつくる。 綵線 色糸。 武都 甘粛省南部の郡。
十八史略 虞詡(ぐく)その一
2011-08-02 08:40:01 | 十八史略
叛姜數千遮詡。詡停不進。宣言請兵須到乃發。姜聞之分鈔傍縣。詡因其散、日夜進道、令軍士各作兩竈、日倍之。或曰、孫臏減竈、而君之。兵法日行不過三十里。而今日且二百里何也。詡曰、虜衆多吾兵少。徐行易爲所及。速進則彼不測。虜見吾竈日、謂郡兵來迎。衆多行速、必憚追我。孫臏見弱、吾今示強。勢不同也。
叛姜(きょう)数千、詡(く)を遮(さえぎ)る。詡停(とど)まって進まず。兵を請い到るを須(ま)って、乃(すなわ)ち発せんと宣言す。姜之を聞いて傍県(ぼうけん)を分鈔(ぶんしょう)す。詡、その散ずるに因(よ)って、日夜道を進み、軍士をして、各々両竈(りょうそう)を作らしめ、日に之を増倍す。或ひと曰く、孫臏(そんびん)は竈を減ず。而(しか)るに君は之を増す。兵法は日に行く三十里に過ぎずと。而るにいま日に且(まさ)に二百里ならんとするは何ぞや、と。詡曰く、虜(りょ)の衆は多く、吾が兵は少なし。徐(おもむろ)に行かば、及ぶ所と為り易(やす)し。速(すみやか)に進まば、則ち彼測(はか)らず。虜(りょ)吾が竈の日に増すを見ば、郡兵来たり迎うと謂(おも)わん。衆多くして行くこと速かならば必ず我を追うを憚らん。孫臏は、弱を見(しめ)し、吾は今強を示す。勢い同じからざるなり、と。
叛いた姜族数千人が虞詡の赴任の途中を遮った。詡はとどまって進まず、救援の兵を要請して到着するのを待って出発すると触れを出した。姜はそれを聞くと分散して近くの県に掠奪に出かけた。詡はそれを見すまして、夜を日についで急行した。また兵士に命じてそれぞれかまどを二つ作らせ、それを日に倍増していった。あるひとが「孫臏は毎日かまどを減らしていった。なのにあなたは増やしている。兵法では日に三十里を越えずとなっているのに、二百里にもなろうとしている。これは一体どういうことでしょう」と聞くと、詡は答えた「姜の数は多く吾が兵は寡ない、ゆっくり行けば追いつかれやすく、早く行けば敵に予測されにくい。敵はわれわれのかまどが毎日増えているのを見れば、援軍が来たと思い、数が多くなり行軍も速やかであれば、追うのを躊躇するものだ。孫臏は弱いとみせかけ、吾は強いとみせかけた。それは状況が違うからだよ」
分鈔 手分けして掠奪すること、鈔は掠める。 孫臏 斉の兵法家。2009年1月7日、10日参照。
十八史略 虞■(ぐく)その二
2011-08-04 08:36:22 | 十八史略
虞詡(ぐく)その二
既到。郡兵三千而姜萬餘。攻圍赤亭數十日。詡命強弩勿發、潛發小弩、姜謂力弱不能至、并兵急攻。於是使二十強弩共射。一人發無不中。姜大驚。詡因出城奮撃。明日悉陳其兵、令從東郭門出、北郭門入、貿易衣服囘轉數周。姜不知其數。相恐動。詡潛於淺水設伏、候其走路。姜果大奔。因掩撃大破之。賊由是敗散。
既に到る。郡兵三千にして姜は万余。赤亭を攻囲すること数十日。詡(く)命じて、強弩(きょうど)発する勿れ。潜(ひそ)かに小弩を発せよ、と。姜、力弱くして至る能(あた)わずと謂(おも)い、兵を并(あわ)せて急に攻む。是(ここ)に於いて二十の強弩をして共に射(い)しむ。一人発すれば中(あた)らざる無し。姜、大いに驚く。詡因(よ)って城を出て奮撃す。明日(めいじつ)悉(ことごと)く其の兵を陳(ちん)し、東郭門より出でて北郭門に入らしめ、衣服を貿易して回転すること数周、姜其の数を知らず。相恐動(きょうどう)す。詡、潜かに浅水に於いて伏(ふく)を設けて、其の走路を候(うかが)う。姜果たして大いに奔(はし)る。因って掩撃(えんげき)して大いに之を破る。賊、是に由(よ)って敗散す。
やがて任地の赤亭城に到着した。郡の兵は三千、対する姜は万余の族が城を囲んで攻めること数十日。詡は兵士に「強いいしゆみは射るな、小さい弓をほどほどに射よ」と命じた。姜は弩が弱くて届かないとみて、兵をそろえて一気に攻め寄せてきた。詡は強弩二十張りを一斉に射かけさせると、一人として当らぬ者は無く、姜の軍に動揺が起こった。詡はここぞとばかり門を開いて撃って出ると存分に戦った。その翌日、兵士を残らず整列させると東郭門から出て北郭門に入らせ、その都度服を取り替えさせて、城を廻らせること数周、姜は数えることが出来なくなって浮き足だってきた。詡は浅瀬に兵を伏せて姜の退路を窺うと果たしてどっと逃げ出した。そこに伏兵が襲いかかって存分にこれを破った。姜の賊は敗れてちりぢりになった。
弩(いしゆみ)ばね仕掛けで矢や石をとばす強力な弓。 陳し 陳列、ならべる。 貿易 貿も易も取り替えること。 掩撃 不意うち、掩は隠す、おおう。
十八史略 黄憲
2011-08-06 08:57:29 | 十八史略
太后崩。騭罷自殺。
汝南太守王龔、好才愛士。以袁閬爲功曹、引進黄憲・陳蕃等。憲父爲牛醫。憲年十四、潁川荀淑、遇於逆旅。竦然異之曰、子吾之師表也。見閬曰、子國有顔子。閬曰、見吾叔度邪。戴良才高。毎見憲歸、惘然若自失。其母曰、汝復從牛醫兒來邪。陳蕃等相謂曰、時月之、不見黄生、鄙吝之萌、復存乎心矣。太原郭泰、過閬不宿。從憲累日。曰、奉高之器、譬之濫。雖清而易挹。叔度汪汪、若千頃陂。澄之不清、撓之不濁、不可量也。憲初孝廉、又辟公府。人勸其仕。暫到京師、即還。年四十八而終。
太后崩ず。騭(とうしつ)罷(や)めさせられて自殺す。
汝南の太守王龔(おうきょう)、才を好み士を愛す。袁閬(えんろう)を以って、功曹(こうそう)と為し、黄憲(こうけん)・陳蕃(ちんばん)等を引進(いんしん)す。憲の父は牛医たり。憲年十四、潁川(えいせん)の荀淑(じゅんしゅく)、逆旅(げきりょ)に遇(あ)う。竦然(しょうぜん)として、之を異として曰く、子は吾の師表(しひょう)なり、と。閬を見て曰く、子が国に顔子あり、と。閬曰く、吾が叔度を見たるか、と。
戴良(たいりょう)才高し。憲を見て帰る毎に、惘然(ぼうぜん)として自失するが若(ごと)し。其の母曰く、汝復た牛医の児に従って来るか、と。陳蕃等相謂いて曰く、時月の間も、黄生を見ざれば、鄙吝(ひりん)の萌(きざし)、復た心に存す、と。
太原の郭泰(かくたい)、閬に過(よぎ)れども宿せず。憲に従って日を累(かさ)ぬ。曰く、奉高の器は、これを濫(きらん)に譬(たと)う。清むと雖も挹(く)み易し。叔度は汪汪として、千頃(せんけい)の陂(は)の若し。之を澄ませども清(すま)ず、之を撓(みだ)せども濁らず、量(はか)る可からざるなり、と。憲初め孝廉に挙げられ、又公府に辟(め)さる。人其の仕を勧む。暫く京師に到って、即ち還る。年四十八にして終わる。
太后が亡くなった。騭が罷免されて自殺した。
汝南郡の太守王龔は、才子を好み高潔のひとを愛した。袁閬を功曹に任じて、人物を求めた。そして黄憲・陳蕃が推挙されたのである。黄憲の父は牛の医者であった。憲が十四歳のとき潁川郡の荀淑がたまたま宿で出遇い、畏敬の念をおぼえ「あなたは私が手本と仰ぐべきお方です」といった。その後荀淑が袁閬に会って「あなたの国には顔回のような方がおられますね」と言うと、閬は「叔度に会われたのですね」と答えた。
その頃戴良もまた才子の名が高かった。黄憲と会って帰ると必ず気が抜けたようにぼんやりしていた。母親がすぐに気づいて「おまえはまた牛医の子と会ってきたね」と言った。陳蕃たちも「二、三か月も黄君に会わないと、いやしい気持ちが起こってしまう」と言い合っていた。
太原の郭泰も、袁閬を訪れたときは一泊もしなかったが、黄憲の所だと何日も居続けた。あるひとに「袁奉高は言ってみれば小さな泉だ、清らかだが汲みつくすことができる。それに比べて黄叔度は深く広い湖のようで、澄ませようとしても澄むものでなく、かきまわしてみても濁らない、はかりしれない深みを持っている」と言っていた。
黄憲は初め孝廉の科に挙げられて、郡からも召し出された。人が仕官を勧めたが、暫く洛陽に居たがすぐに郷里に帰り、四十八歳で死んだ。
功曹 郡の書記官。 引進 推薦する。 逆旅 逆は迎える、旅籠。 竦然 竦はすくむ、つつしみおそれる。 師表 手本。 顔子 孔子の弟子顔回。 叔度 黄憲のあざな。 惘然 呆然に同じ。 鄙吝 いやしくけちなこと。 奉高 袁閬のあざな。 濫 湧き水。 汪汪 水の深く広いさま、度量の広いさま。千頃の陂 頃は面積の単位百畝(ほ)、陂はつつみ。 孝廉科 孝行で廉潔なこと、人材登用の法、郡が推挙した。
十八史略 楊震曰く、天知る。地知る。子知る。我知る。
2011-08-09 10:53:26 | 十八史略
太尉楊震自殺。震關西人。時人稱之曰、關西孔子楊伯起。教授生徒。堂下得三鱣。都講以爲、有三公之象。取以進曰、先生自此升矣。後嘗爲郡守。屬邑令、有懐金遣之者。曰、暮夜無知者。震曰、天知。地知。子知。我知。何謂無知。令慚而退。及爲三公、時宦者及上乳母王聖用事。皆有請託。震不從。又數以近習爲言、共構之。策収印綬。遂死。葬之日、名士皆來會。有大鳥、高丈餘、至墓前俯仰、流涕而去。
太尉の楊震自殺す。震は関西の人なり。時人(じじん)之を称して曰く、関西の孔子は楊伯起、と。生徒に教授す。堂下に三鱣(さんせん)を得たり。都講以爲(おも)えらく、三公の象(しょう)有りと。取って以って進めて曰く、先生此れより升(のぼ)らん、と。後嘗て郡守と為る。属邑の令、金を懐にして之を遣(おく)る者有り。曰く、暮夜(ぼや)知る者無し、と。震曰く、天知る。地知る。子知る。我知る。何ぞ知る者無しと謂うや、と。令慚(は)じて退く。三公と為るに及んで、時に宦者及び上の乳母(にゅうぼ) 王聖、事を用う。皆請託有り。震従わず。又数しば近習を以って言を為し、共に之を構(かま)う。策して印綬を収む。遂に死す。葬るの日、名士皆来り会す。大鳥有り、高さ丈余、墓前に至って俯仰(ふぎょう)し、流涕して去る。
太尉の楊震が自殺した。楊震は関西の人である。当時の人は震のことを「関西の孔子楊伯起」と呼んでいた。学問を教授していたが、ある日講堂の下にこうのとりが三匹のかわへびをくわえてきた。都講は、これは楊震が三公になる瑞兆に違いないと思い、それを捕まえて楊震にすすめて言った「先生はこれから出世なさるでしょう」と。その後果たして郡の太守になった。ある夜、県令の一人が金を懐にやって来て、賄賂としてさし出して「深夜でだれも知る者はいません、どうぞお受け取りください」と言うと、楊震は「天知る。地知る。子知る。我知る。どうして知る者無しなどと謂えるのか」県令は恥じ入って去った。やがて楊震は太尉になった。そのころは宦官や安帝の乳母の王聖が権力をふるっていて、身内の引き立てを頼んできたが、震はことごとくはねつけた。そのうえしばしば側近の宦官たちを退けるように進言したので、宦官たちは結束して無実の罪に陥れた。安帝は免官の書を下して三公の印綬を取り上げた。そして震は死を選んだのであった。葬儀の日、名士はすべて会葬に訪れた。そのとき一丈余の大鳥が舞い降り天を仰ぎ、地に伏して涙を流して飛び去って行った。
太尉 三公の一、軍事の長官。 楊伯起 伯起はあざな。 三鱣 川蛇。こうのとりが三匹のかわへびをくわえて講堂に集まったという故事によって鱣堂(講堂)、鱣序(教室)の語ができた。 都講 塾頭。
十八史略 安帝崩ず
2011-08-11 09:30:21 | 十八史略
上少號聰明。既即位多失。在位十九年崩。改元者五、曰永初・元初・永寧・建光・延光。太子先爲近習所譖、坐廢爲濟陰王。閻皇后臨朝、與閻顯迎章帝孫北郷侯懿嗣位。宦者孫程等、誅顯遷閻后、迎立濟陰王。是爲孝順皇帝。
上(しょう)、少にして聡明と号す。既に位に即いて失徳多し。位に在ること、十九年にして崩ず。改元する者(こと)五、永初・元初・永寧・建光・延光と曰(い)う。太子先に近習の譖(しん)する所と為り、坐して廃せられて濟陰王と為る。閻(えん)皇后朝に臨み、閻顯(えんけん)と章帝の孫、北郷侯懿(い)を迎えて位を嗣(つ)がしむ。宦者孫程ら、顯を誅し、閻后を遷(うつ)し、濟陰王を迎え立つ。是を孝順皇帝と為す。
安帝は幼少のころは聡明だといわれていたが、位に即いてからは徳を失うことが多かった。在位十九年で崩じた(125年)。改元すること永初・元初・永寧・建光・延光の五回である。
皇太子が近臣の讒言に遇い、連坐して廃せられ、済陰王とされていた。閻皇后が朝廷にでて政治を執り、兄の閻顕と謀って章帝の孫で北郷侯の懿を迎えて即位させた(少帝という)。ところがこの年のうちに崩じた。宦官の孫程らが閻顕を誅殺し、閻皇后を離宮に追って、先の皇太子の済陰王を迎えて立てた。これが孝順皇帝である。
十八史略 孝順皇帝
2011-08-13 12:52:18 | 十八史略
尚書令左雄
孝順皇帝名保爲孫程等所立。宦官以功封侯者十九人。
尚書令左雄、奏令郡國與孝廉。限年四十以上、諸生通章句、文吏能牋奏、乃得應選。其有茂材異等、若顔淵・子奇、不拘年歯。雄公直精明、能審覈眞僞、決志行之。有擧少年至者。雄詰之曰、顔囘聞一知十。孝廉聞一知幾邪。頃之、中外坐謬擧謬黜免者十餘人。惟汝南陳蕃・潁川李膺・下邳陳球等、三十餘人、得拝郎中。
孝順皇帝名は保。孫程等の立つ所たり。宦官、功を以って侯に封ぜらるる者十九人。
尚書令左雄(さゆう)、奏して郡国に令して孝廉を挙げしむ。年(とし)四十以上を限り、諸生の章句に通じ、文吏の牋奏(せんそう)を能くするものは、乃(すなわ)ち選に応ずるを得(う)。其の茂材異等(もさいいとう)、顔淵・子奇の若(ごと)きもの有れば、年歯に拘わらず、と。雄、公直精明にして、能く真偽を審覈(しんかく)し、志を決して之を行う。少年を挙げて至る者あり。雄、之を詰(なじ)って曰く、顔回は一を聞いて十を知る。孝廉は一を聞いて幾ばくを知るか、と。頃之(しばらく)して、中外謬挙(びゅうきょ)に坐して、黜免(ちゅつめん)せらるる者十余人。惟だ汝南(じょなん)の陳蕃(ちんばん)・潁川(えいせん)の李膺(りよう)・下邳(かひ)の陳球ら、三十余人、郎中に拝せらるるを得たり。
孝順皇帝名は保という。宦官の孫程らが擁立した皇帝である。その功で列侯に封ぜられた者が十九人もあった。
尚書令の左雄が奏上して、郡国に指令して孝廉の者を推挙するよう布令した。「年齢は四十歳以上、学生で経書の解釈に通じ、文官で上奏文を書く能力にすぐれた者は選抜に応ずることができる、秀才で人に抜きんでて、顔淵や子奇のような人物であれば、年齢を問わない」というものであった。左雄は公正廉直で仕事に精通し、よく人物の真偽を見抜き、事に臨んで決断力があった。ある時、まだ年若い者が孝廉に推挙されてきた。左雄は「顔回は一を聞いて十を知ったというが、そなたは一を聞いていくつ知るか」と詰めよった。やがて不適正な推挙をしたかどで罷免となった官吏が十人余りにのぼった。ただ汝南の陳蕃、潁川の李膺、下邳の陳球等三十余人は、これによって郎中に任ぜられた。
牋奏 牋は箋、上奏文。 茂材異等 茂材は秀才、光武帝の秀を避けた。異等は等しくない、抜群。 子奇 春秋時代の斉の賢人で十八歳で県の宰となり、善政を布いた。父は尹吉甫。 審覈 審も覈も調べること。 謬挙 誤った推挙。 黜免 黜はしりぞける、罷免。
十八史略 張綱 豺狼道に当る、安んぞ狐狸を問わん
2011-08-16 14:25:33 | 十八史略
以皇后父梁商爲大將軍。商死。以其子冀爲大將軍、不疑爲河南尹。遺使者八人、分行州郡。張綱獨埋其車輪於洛陽都亭曰、豺狼當道。安問狐狸。劾奏冀・不疑無君之心十五事。上知綱言直、而不能用。冀欲中傷之。廣陵賊張嬰。寇亂揚徐十餘年。乃以綱爲廣陵太守。綱單車徑詣嬰壘門、請與相見譬暁之。嬰等萬餘人降。綱入壘宴、散遣任所之。南州晏然。在郡卒。嬰等爲之制服行喪。
皇后の父梁商を以って大将軍と為す。商死す。其の子冀(き) を以って大将軍と為し、不疑(ふぎ)を河南の尹(いん)と為す。使者八人を遣わして、州郡を分行せしむ。張綱、独り其の車輪を洛陽の都亭(とてい)に埋めて曰く、豺狼(さいろう)道に当る。安(いず)くんぞ狐狸(こり)を問わん、と。冀・不疑が君を無(な)みするの心十五事を劾奏(がいそう)す。上、綱の言の直なるを知れども、而(しか)も用いる能(あた)わず。冀、之を中傷せんと欲す。広陵の賊張嬰(ちょうえい)、揚徐の間に寇乱(こうらん)すること十余年。乃ち綱を以って広陵の太守と為す。綱、単車径(ただち)に嬰の塁門に詣(いた)り、請うて与(とも)に相見て之を譬暁(ひぎょう)す。嬰等万余人降る。綱、塁に入って宴し、散じ遣(や)って之(ゆ)く所に任す。南州晏然(あんぜん)たり。郡に在って卒(しゅっ)す。嬰等之が為に服を制して喪を行う。
皇后の父梁商が大将軍に任じられた。商が死ぬとその子の冀が大将軍に、冀の弟の不疑が河南の長官になった。ある時、使者八人を派遣して州郡を視察させた。その中で張綱だけが、洛陽の宿場で馬車の車輪を土中に埋めて、「山犬や狼が中央を跋扈(ばっこ)しているのに、なんで地方の狐や狸を調べて歩けようか」と言い、冀や不疑が帝をないがしろにしている点十五箇条を奏上した。順帝はその言い分の正しいことは承知しながら、どうすることもできないでいた。梁冀はこれを怨み張綱を貶めようと機会を窺っていた。
広陵の賊張嬰は十年にもわたって揚州・徐州の一帯を荒らし廻っていた。そこで張綱を広陵の太守に任命した。張綱は単身車で嬰の砦の門に赴き会見を申し出て、とくと諭したので張嬰以下一万人あまりが降った。張綱は砦に入って共に酒宴を催した後全員にそれぞれ行きたい所に行かせた。これによって南部の州郡は平穏になった、張綱は広陵に在任中に死んだが、嬰等はこれを悲しみ喪服をつくって喪にふくした。
尹 長官。 劾奏 官吏の罪を挙げて君主に奏上すること。 寇乱 寇はあだする。 譬暁 譬も暁もさとすこと。 晏然 やすらかなさま、落ち着いたさま。
十八史略 蘇章
2011-08-18 10:43:21 | 十八史略
人皆一天有り。我独り二天有り
時二千石、有能政者。冀州刺史蘇章、有故人爲清河太守。章行部。爲設酒甚歡。守喜曰、人皆有一天。我獨有二天。章曰、今日蘇孺文、與故人飮者私恩也。明日冀州刺史案事者公法也。遂擧正其姦贓之罪。
上在位二十年崩。改元者五、曰永建・陽嘉・永和・漢安・建康。太子立。是爲孝沖皇帝。
時に二千石の(ちょうり)、政を能(よ)くする者有り。冀州(きしゅう)の刺史(しし)の蘇章、故人の清河の太守と為るもの有り。章、部を行(めぐ)る。為に酒を設けて甚だ歓ぶ。守喜んで曰く、人皆一天有り。我独り二天有り、と。章曰く、今日蘇孺文(じゅぶん)、故人と飲むは私恩なり。明日冀州の刺史として事を案ずるは公法なり、と。遂にその姦贓(かんぞう)の罪を挙正す。
上(しょう)、位に在ること二十年にして崩ず。改元する者(こと)五、永建・陽嘉・永和・漢安・建康と曰う。太子立つ。是を孝沖皇帝と為す。
このころ二千石(せき)取りの地方長官には、能吏が多かった。冀州の刺史の蘇章の旧知で清河郡の太守になっているものがあった。蘇章がかつて担当地域の巡察で清河郡に行ったとき、太守が酒宴を設けて歓待した。太守は喜色を浮かべて「人には皆天が一つあるが、私にだけはもう一つ、あなたという天がある」と言うと、蘇章は色をなして「今日私蘇孺文が旧知のあなたとこうして飲んでいるのは個人的な付き合いです。明日刺史として検察にあたるのは公の仕事です」と言い、この太守の収賄の罪をあばいて正した。
順帝は位に在ること二十年で崩御した(144年)。改元すること五回、永建・陽嘉・永和・漢安・建康という。皇太子が即位した。これが孝沖皇帝である。
冀州 河北、河南、山西省の地域。 刺史 地方監察官。 清河郡 河北省南部。 部を行る 担当地域を廻る。 故人 旧友、蘇孺文 蘇章のあざな。 姦贓 姦はわたくしする、贓はかくす、賄賂を受ける。
十八史略 跋扈将軍
2011-08-20 09:03:49 | 十八史略
孝沖皇帝名炳、年二歳即位。三閲月而崩。改元者一、曰永嘉。梁太后迎立渤海孝王之子。是爲孝質皇帝。
孝質皇帝名纘、章帝曾孫也。年八歳即位。少而聰慧。嘗因朝會、目梁冀曰、此跋扈將軍也。冀深惡之、使左右於餠中進毒。遂崩。在位一年有半。改元者一、曰本初。冀迎立蠡吾侯。是爲孝桓皇帝。
孝桓皇帝名志、章帝曾孫也。年十五即位。梁冀以定策功益封。又封其子弟皆侯。李固・杜喬欲立清河王蒜。至是蒜貶爲侯自殺。固・喬下獄死。
孝沖皇帝名は炳(へい)、年二歳にして位に即く。三閲月にして崩ず。改元すること一、永嘉と曰う。梁太后、渤海の孝王の子を迎立す。是を孝質皇帝と為す。
孝質皇帝名纘(さん)、章帝の曾孫なり。年八歳にして位に即く。少(わか)くして聡慧(そうけい)なり。嘗て朝会に因(よ)って梁冀を目(もく)して曰く、此れ跋扈(ばっこ)将軍なり、と。冀深く之を悪(にく)み、左右をして餅中(へいちゅう)に於いて毒を進めしむ。遂に崩ず。位に在ること一年有半。改元する者(こと)一、本初と曰う。冀、蠡吾侯(れいごこう)を迎立す。是を孝桓皇帝と為す。
孝桓皇帝名は志、章帝の曾孫也。年十五にして位に即く。梁冀、定策の功を以って封を益す。又其の子弟を封じて皆侯とす。李固・杜喬(ときょう)、清河王蒜(さん)を立てんと欲す。是に至り蒜貶(へん)せられて侯と為り自殺す。固・喬獄に下り死す。
孝沖皇帝は名を炳といい、年二歳で即位し、わずか三ヶ月で亡くなった。改元すること一回、永嘉という。梁太后が渤海の孝王の子を迎えて位に立てたこれが孝質皇帝である。
孝質皇帝は名を纘といい、章帝の曾孫である。八歳で即位した。幼少にして聡明であった。嘗て朝廷で群臣が集まるなかで、梁冀に目をとめて「これは横柄で気ままな跋扈将軍だ」といった。冀は深く根にもって、側近の者に命じて毒餅を帝にすすめた。質帝はそれで崩じた(147年)。位に在ること一年半、年号を改めること一回で本初という。冀は蠡吾侯を迎えて位に立てた。これを孝桓皇帝という。
孝桓皇帝は名を志といい、章帝の曾孫である。十五歳で位に即かれた。梁冀は新帝を定めた功績によって加増され、その子弟も諸侯に取り立てられた。初め李固と杜喬は、清河王の蒜を立てようとしたが桓帝が即位したので蒜は貶(おと)されて一諸侯となってとうとう自殺し、李固と杜喬は投獄されて牢死した。
三閲月 閲はかぞえる、三ヶ月が経つ。 跋扈 跋はおどりこえる、扈は竹やな、大魚が跳ねて自由にふるまう、帝を無視して権勢を自由にすること。 定策 天子を擁立すること。
十八史略
2011-08-23 09:04:08 | 十八史略
荀淑・陳寔 徳星あらわる。
前朗陵侯相潁川荀淑、少博學有高行。李固・李膺等、皆師宗之。相朗陵。治稱神君、子八人、時人稱爲八龍。其六曰爽。字慈明。人言、荀氏八龍、慈明無雙。縣令命其里、曰高陽里。爽嘗謁李膺。因爲之御。既還喜曰、今日乃得御李君矣。同郡陳寔與淑齊名。嘗詣淑。長子紀字元方、御車、次子字季方驂乗、孫羣字長文、尚幼。抱車中、至淑家。八龍更迭侍左右。淑孫字文若、尚幼。抱置膝上。太史奏、星見。五百里内有賢人聚。
寔嘗爲大丘長、修清浄。吏民追思之。紀・之子、問其父優劣於其祖。寔曰、元方難爲兄、季方難爲弟。
前(さき)の朗陵侯の相(しょう)潁川(えいせん)の荀淑(じゅんしゅく)、少(わか)くして博学、高行(こうこう)有り。李固・李膺(りよう)等、皆之を師宗(しそう)とす。朗陵に相たり。治、神君と称す。子八人、時人(じじん)称して八龍と為す。其の六を爽と曰(い)う。字(あざな)は慈明。人言(いわ)く、荀氏八龍、慈明無双なり、と。県令其の里に命じて、高陽里と曰(い)う。爽嘗て李膺に謁す。因って之が為に御す。既に還り、喜んで曰く、今日(こんにち)乃ち李君に御するを得たり、と。
同郡の陳寔(ちんしょく)、淑と名を斉(ひと)しうす。嘗て淑に詣(いた)る。長子紀、字は元方、車を御し、次子(しん)、字は季方、驂乗し、孫群、字は長文、尚幼なり。車中に抱かれて、淑が家に至る。八龍更(こも)ごも迭(たが)意に左右に侍す。淑の孫(いく)、字は文若、尚幼なり。膝上(しつじょう)に放置す。
太史奏す、徳星見(あら)わる。五百里の内、賢人の聚(あつ)まる有らん、と。
寔嘗て大丘の長と為り、徳を修めて清浄なり。吏民之を追思(ついし)す。紀・の子、其の父の優劣を其の祖に問う。寔曰く、元方は兄(けい)たり難く、季方は弟たり難し、と。
前の朗陵侯の宰相で潁川の荀淑は、若いころから博学で高潔であった。李固や李膺たちは皆荀淑を師と仰いでいた。朗陵の宰相となると、その施政により神君と讃えれていた。荀淑には八人の男子がいて、八龍と呼んでいた。その六番目を爽といい、字を慈明といったが、人はまた八龍の中で並ぶ者なしと見做していた。県令はその里をいにしえの高陽氏にあやかって、高陽里と呼ぶように布令した。爽はあるとき李膺を訪ね、その折、李膺の御者をさせてもらったことがあり、喜んで家に還って「きょうは李君を御すことができた」と言った。
同じ郡の陳寔も荀淑と並んで名声が高かった。あるとき陳寔が荀淑を訪れた。長男の紀、字は元方が車を御し、次男の、字は季方が陪乗し、幼い孫の群、字は長文は、車の中で抱かれて荀淑の家に着いた。淑の家では八龍たちがかわるがわる出てきてもてなした。まだ幼い孫の、字は文若は、膝の上に抱かれていた。
この日、天文官が帝に奏上した「徳星があらわれました。五百里内に賢人が集まっているのでありましょう」と。
陳寔は嘗て大丘いうまちの長となってよく徳を修めて清廉であった。そのため部下も民も、後になつかしみ慕った。ある時、長男紀の子と次男の子が互いの父の優劣を祖父の寔に聞くと、「元方も季方もどちらが兄、どちらが弟とも言いかねるな」と答えた。
八龍 荀倹・荀緄・荀靖・荀壽・荀詵・荀爽・荀粛・荀剪 高陽里 伝説上の帝王顓頊(せんぎょく)、高陽氏に八人の賢人、八(がい)がいたことによる。 太史 天文、暦算をつかさどり、あわせて国史を記録する官。
十八史略 荀淑・陳寔
2011-08-23 09:26:23 | 十八史略
徳星あらわる。
前朗陵侯相潁川荀淑、少博學有高行。李固・李膺等、皆師宗之。相朗陵。治稱神君、子八人、時人稱爲八龍。其六曰爽。字慈明。人言、荀氏八龍、慈明無雙。縣令命其里、曰高陽里。爽嘗謁李膺。因爲之御。既還喜曰、今日乃得御李君矣。同郡陳寔與淑齊名。嘗詣淑。長子紀字元方、御車、次子字季方驂乗、孫羣字長文、尚幼。抱車中、至淑家。八龍更迭侍左右。淑孫字文若、尚幼。抱置膝上。太史奏、星見。五百里内有賢人聚。
寔嘗爲大丘長、修清浄。吏民追思之。紀・之子、問其父優劣於其祖。寔曰、元方難爲兄、季方難爲弟。
前(さき)の朗陵侯の相(しょう)潁川(えいせん)の荀淑(じゅんしゅく)、少(わか)くして博学、高行(こうこう)有り。李固・李膺(りよう)等、皆之を師宗(しそう)とす。朗陵に相たり。治、神君と称す。子八人、時人(じじん)称して八龍と為す。其の六を爽と曰(い)う。字(あざな)は慈明。人言(いわ)く、荀氏八龍、慈明無双なり、と。県令其の里に命じて、高陽里と曰(い)う。爽嘗て李膺に謁す。因って之が為に御す。既に還り、喜んで曰く、今日(こんにち)乃ち李君に御するを得たり、と。
同郡の陳寔(ちんしょく)、淑と名を斉(ひと)しうす。嘗て淑に詣(いた)る。長子紀、字は元方、車を御し、次子(しん)、字は季方、驂乗し、孫群、字は長文、尚幼なり。車中に抱かれて、淑が家に至る。八龍更(こも)ごも迭(たが)意に左右に侍す。淑の孫(いく)、字は文若、尚幼なり。膝上(しつじょう)に放置す。
太史奏す、徳星見(あら)わる。五百里の内、賢人の聚(あつ)まる有らん、と。
寔嘗て大丘の長と為り、徳を修めて清浄なり。吏民之を追思(ついし)す。紀・の子、其の父の優劣を其の祖に問う。寔曰く、元方は兄(けい)たり難く、季方は弟たり難し、と。
前の朗陵侯の宰相で潁川の荀淑は、若いころから博学で高潔であった。李固や李膺たちは皆荀淑を師と仰いでいた。朗陵の宰相となると、その施政により神君と讃えれていた。荀淑には八人の男子がいて、八龍と呼んでいた。その六番目を爽といい、字を慈明といったが、人はまた八龍の中で並ぶ者なしと見做していた。県令はその里をいにしえの高陽氏にあやかって、高陽里と呼ぶように布令した。爽はあるとき李膺を訪ね、その折、李膺の御者をさせてもらったことがあり、喜んで家に還って「きょうは李君を御すことができた」と言った。
同じ郡の陳寔も荀淑と並んで名声が高かった。あるとき陳寔が荀淑を訪れた。長男の紀、字は元方が車を御し、次男の、字は季方が陪乗し、幼い孫の群、字は長文は、車の中で抱かれて荀淑の家に着いた。淑の家では八龍たちがかわるがわる出てきてもてなした。まだ幼い孫の、字は文若は、膝の上に抱かれていた。
この日、天文官が帝に奏上した「徳星があらわれました。五百里内に賢人が集まっているのでありましょう」と。
陳寔は嘗て大丘いうまちの長となってよく徳を修めて清廉であった。そのため部下も民も、後になつかしみ慕った。ある時、長男紀の子と次男の子が互いの父の優劣を祖父の寔に聞くと、「元方も季方もどちらが兄、どちらが弟とも言いかねるな」と答えた。
八龍 荀倹・荀緄・荀靖・荀壽・荀詵・荀爽・荀粛・荀剪。 高陽里 伝説上の帝王顓頊(せんぎょく)高陽氏に八人の賢人、八(がい)がいたことによる。 太史 天文、暦算をつかさどり、あわせて国史を記録する官。
十八史略 崔寔の政論
2011-08-25 13:06:18 | 十八史略
詔擧獨行之士。涿郡崔寔至公車。不對策、退而著政論。略曰、聖人能與世推移、俗士苦不知變。以爲、結繩之約、可復治亂秦之緒、干之舞、可以解平城之圍。夫刑罰者、治亂之藥石也。教者、興平之粱肉也。以教除殘、是以粱肉治疾也。以刑罰治平、是以藥石供養也。自數世以來、政多恩貸。馭委其轡、馬駘其銜、四牡横犇、皇路險傾。方將拑勒鞬輈、以救之。豈暇鳴和鑾清節奏哉。昔文帝雖除肉刑、當斬右趾棄市、笞者往往至死。是文帝以嚴致平、非以寛致平也。仲長統見其書曰、凡爲人主、宜寫一通置之坐側。
詔(みことのり)して独行の士を挙げしむ。涿郡(たくぐん)の崔寔(さいしょく)公車に至る。対策せずして、退いて政論を著わす。略に曰く、聖人は能く世と推移し、俗士は変を知らざるに苦しむ。以為(おも)えらく、結縄(けつじょう)の約は復た乱秦の緒を治む可く、干(かんう)の舞は、以って平城の囲みを解く可し、と。夫れ刑罰は乱を治むるの薬石なり。徳教は、平を興すの粱肉なり。徳教を以って残を除くは、是れ粱肉を以って疾を治むるなり。刑罰を以って平を治むるは、是れ薬石を以って養に供うるなり。数世より以来、政(まつりごと)恩貸(おんたい)多し。馭(ぎょ)はその轡(たずな)を委(す)て、馬はその銜(くつわ)を駘(ぬ)ぎ、四牡(しぼ)横に犇(はし)り、皇路険傾(けんけい)す。方(まさ)に将(まさ)に勒(ろく)を拑(けん)し、輈(ちゅう)を鞬(けん)して、以って之を救わんとす。豈和鑾(からん)を鳴らし、節奏を清うするに暇(いとま)あらんや。昔、文帝、肉刑を除くと雖も、右趾(ゆうし)を斬るに当るは棄市(きし)し、笞者(ちしゃ)は往往死に至る。是れ文帝厳を以って平を致し、寛を以って平を致すに非ざるなり、と。仲長統(ちゅうちょうとう)其の書を見て曰く、凡そ人主(じんしゅ)たるものは、宜しく一通を写して之を坐側(ざそく)に置くべし、と。
独行の士 人におもねることなく、正義を行う人。 公車 役所の名。 対策 答案を書くこと。 結縄 文字の無かった時代、縄を結んで約束とした。 干 干は盾、舞の小道具、禹王が舞い蛮族が服従したという。 平城の囲みを解く 前漢の武帝が匈奴に包囲された際、陳平の奇計によって難を逃れた事。粱肉 よい穀物とうまい肉。 残を除く 賊を退ける。 恩貸 めぐみ、恩を限られた人に与えること。 四牡 四頭の牡馬。 皇路 皇帝の馬車。 勒を拑し おもがいを握る。 輈を鞬して ながえを繋いで。 和鑾 馬に付ける鈴。 節奏 調子をとる。 右趾 右足。 棄市 死者を市にさらす刑。 笞者 鞭打ちの刑に処された者。 人主 人の上に立つ者。
桓帝は詔勅を下して、独行の士を推薦させた。河北の涿郡から崔寔が役所まで来たが、試験には応じずに帰り、政論一編を著した。大略はこうである。
聖人はよく時勢に順応できるが、俗人は変化を知らないから苦しむのである。思うに、上古、縄を結んで約束の印としたそのやり方で、乱れた秦の政治を変革する糸口となり、また禹王が蛮族を帰服させた舞をもって、高祖が匈奴の囲みを解く事ができたと考えているのである。
そもそも刑罰というものは乱世を治める薬であり、徳教は太平を興す美食である。徳教によって賊を除こうとするのは、美食によって病気を治そうとするものであり、刑罰によって太平を招来するのは、薬を栄養にしようとするものです。この数世より、政治にはただ寛容さばかりが多く、例えて言えば、馭者は手綱を放し、馬はくつばみを外し、四頭立ての馬車は横ざまに走り、天子の御車は覆えらんばかりであります。今こそまさにおもがいを引きしめ、ながえを繋ぎ、これを救わなければなりません。どうして鈴を鳴らして、調子をとってなど言っている暇があるでしょうか。昔、文帝は身体を傷つける刑は廃止したというが、右足を切る刑に相当するも罪人を獄門にかけてさらし、鞭打ちの刑をもしばしば死に至らしめた。これは文帝が厳格さによって太平を招来したのであって、寛大さで招かれたのではない。
仲長統がこの書を見て「すべて人に君たる者は、この書一通を写して座右に置くべきであろう」と言った。
十八史略 朱穆
2011-08-27 09:32:30 | 十八史略
朱穆爲冀州刺史。令長望風、解印去者數十人。及到奏劾貪汚。有宦者歸葬父用玉匣。穆案驗、剖其棺出之。上聞大怒、徴穆詣廷尉。太學生劉陶等數千人、上書訟穆。謂中官竊持國柄、手握王爵、口銜天憲。穆獨亢然不顧。竭心懐憂、爲上深計。臣願代穆罪。上赦之。陶又上疏、乞以穆及李膺輔王室。書奏不省。
梁冀凶恣日積。以外戚用事者二十年。威行内外、天子拱手而已。上與宦者單超等謀、勒兵収冀印綬。冀自殺。梁氏無少長皆棄市。超等五人皆侯。自冀誅、天下想望異政。黄璚首爲太尉。
朱穆(しゅぼく)、冀州(きしゅう)の刺史と為る。令長(れいちょう)、風(ふう)を望み、印を解いて去る者数十人。到るに及んで貪汚(たんお)を奏劾(そうがい)す。宦者父を帰葬(きそう)するに玉匣(ぎょっこう)を用うるもの有り。穆、案験(あんけん)して、その棺を剖(ひら)いて之を出す。上(しょう)聞いて大いに怒り、穆を徴(め)して廷尉に詣(いた)らしむ。太学生劉陶等数千人、上書して穆を訟(うった)う。謂(いわ)く中官国柄(こくへい)を竊持(せつじ)し、手に王爵を握り、口に天憲を銜(ふく)む。穆独り亢然として顧みず。心を竭(つく)し憂いを懐き、上の為に深く計る。臣、願わくは穆が罪に代らん、と。上之を赦す。陶、又上疏(じょうそ)して、穆及び李膺(りよう)を以って王室を輔(たす)けんと乞う。書、奏すれども省せず。
梁冀、凶恣(きょうし)日に積む。外戚を以って事を用うる者(こと)二十年。威内外に行われ、天子手を拱(きょう)するのみ。上、宦者單超(ぜんちょう)等と謀り、兵を勒(ろく)して冀が印綬を収む。冀自殺す。梁氏少長と無く皆棄市せらる。超等五人皆侯たり。冀の誅より天下、異政を想望す。黄璚(こうけい)首として太尉と為る。
令長 県令、邑長。 望風 評判を知る。 貪汚 欲深くきたないこと。 奏劾 罪状を奏上すること。 玉匣 玉片を綴り合わせて遺体を覆う葬服、王侯のみに許されたもの。 案験 取り調べ、吟味。 中官 宮中の宦官。 国柄 国家統治の権。 竊持 ぬすみ持つ。天憲 天子の法令。 亢然 昂然に同じ、意気さかんなさま。 上疏 事情を記して奉ること、上書。 省せず つまびらかにしない。 凶恣 凶悪な行いをほしいままにすること。 拱手 腕組みをする、何もしないこと。 勒 勒兵、軍隊を統御すること。 太尉 三公の一、軍事長官。
朱穆が冀州の刺史となった。それを聞くと県令や邑長で自ら辞めて逃げ去る者が数十人に及んだ。着任して直ちに汚職まみれの官吏どもを弾劾する上奏文を奉った。ある宦官が、その父を郷里に埋葬する際、天子の礼である、玉をちりばめた葬服を用いた者があった。朱穆はこれを取り調べ、墓をあばいて取り出させた。帝はそれを聞いて大いに怒り、朱穆を呼び戻して廷尉に引き渡した。太学生の劉陶等数千人が、帝に上書して穆の無実を訴えて「宦官が国家の権力を盗み取り、手には爵位与奪の権を握り、口には天子の法令を銜えている。朱穆だけは昂然としてわが身を顧みず、心底これを憂い、陛下の為に深く考えているのです。どうか私を代りに罰してください」と嘆願した。桓帝はそれで朱穆を赦した。劉陶はまた上書して朱穆と李膺の二人を王室の補佐役にされたいと願い出たが、何の音沙汰もなかった。
梁冀の凶悪専横は日ごとに増してきた。外戚であることを利用して政権を専らにすること二十年におよび、威は朝廷の内外に行われたが、桓帝はただ手をこまねいているだけであったが、たまりかねて宦官の單超と謀り、急遽兵を整えて、冀の大将軍の印綬を取り上げた。そこで冀は自殺し、梁一門は老若を問わず、すべて獄門にさらされた。單超ら五人が諸侯となった。冀が誅せられてから、人々は新しい政治を待望した、まず最初に黄璚が太尉となった。
十八史略 愚及ぶ可からざる也
2011-08-30 10:09:02 | 十八史略
陳蕃薦處士徐穉・姜肱等。穉字孺子、豫章人。陳蕃爲守時、特設一榻以待穉去則縣之。穉不應諸公之辟。然聞其死、輒負笈赴弔。豫炙一鷄、以酒漬綿、暴乾裹之、到冢隧外、以水漬綿、白茆藉飯、以鷄置前。祭畢留謁、不見喪主而行。肱彭城人、與二弟仲海・季江倶孝友。常共被。嘗遇盗。兄弟爭死。盗兩釋之。穉・肱被徴。皆不至。黄璚卒、四方名士、會葬者七千人、穉至。進爵哀哭、置生芻墓前而去。諸名士曰、此必南州高士徐孺子也。使陳留茆容追之。問國事。不答、太原郭泰曰、孺子不答國事、是其愚不可及也。泰初游洛陽。李膺與爲友。膺嘗歸郷里。送車數千兩。膺惟與泰同舟而濟。衆賓望之者、如神仙焉。
容年四十餘、畊於野。遇雨避樹下。衆皆箕踞。容獨危坐愈恭。泰見而異之遂勸令學。
陳蕃(ちんばん)処士徐穉(じょち)・姜肱(きょうこう)らを薦(すす)む。穉、字は孺子(じゅし)、予章の人なり。陳蕃守たりし時、特に一榻(いっとう)を設けて穉を待つ。去れば則ち之を懸(か)く。穉、緒公の辟(めし)に応ぜず。然れども其の死を聞けば、輒(すなわ)ち笈(きゅう)を負うて赴き弔す。予(あらかじ)め一鶏を炙り、酒を以って綿に漬(ひた)し、暴乾(ばくかん)して之を裹(つつ)み、冢隧(ちょうすい)の外(ほとり)に到り、水を以って綿に漬し、白茆(はくぼう)を飯に藉(し)き、鶏を以って前に置く。祭り畢(おわ)って謁(えつ)を留め、喪主を見ずして行(さ)る。
肱(こう)は彭城(ほうじょう)の人なり。二弟仲海・季江倶(とも)に孝友なり。常に被(ひ)を共にす。嘗て盗に遇う。兄弟(けいてい)死を争う。盗両(ふた)りながら之を釈(ゆる)す。
穉・肱徴(め)さる。皆至らず。黄璚(こうけい)卒す。四方の名士、葬に会する者七千人。穉至る。爵を進めて哀哭(あいこく)し、生芻(せいすう)を墓前に置いて去る。諸名士曰く、此れ必ず南州の高士徐孺子ならん、と。陳留の茆容(ぼうよう)をして之を追わしむ。国事を問う。答えず。太原の郭泰(かくたい)曰く、孺子国事を答えざるは、是れ其の愚及ぶ可からざるなり。泰初め洛陽に游ぶ。李膺与(とも)に友たり。膺嘗て郷里に帰る。送車数千両。膺惟(ひと)り泰と舟を同じうして済(わた)る。衆賓之を望む者、神仙の如しという。
容、年四十余、野に畊(たがや)す。雨に遇うて樹下に避く。衆皆箕踞(ききょ)す。容、独り危坐して愈々恭(うやうや)し。泰、見て之を異とし、遂に勧めて学ばしむ。
処士 仕官していない人。 榻 しじ、腰掛けと寝台を兼ねたもの。 辟 招聘。 笈 背負い箱。 暴乾 日にさらす。 裹 つつむ。 冢隧 冢は墓、隧は墓の通路。 白茆 ちがや。 藉 敷く。 謁 名札、名刺。 孝友 親孝行で仲が良い。 被 ふとん。 進爵 盃を進める。 生芻 刈りたてのまぐさ。 愚及ぶ可からざるなり 孔子の言った言葉、別掲。 箕踞 あぐら。
陳蕃は在野の士、徐穉や姜肱らを推挙した。徐穉はあざなを孺子といい、予章の人である。陳蕃が太守であった時、特に腰かけを徐穉のために用意して迎え、帰ると壁に懸けて他人には座らせなかった。徐穉は諸侯からの招きに応じなかった。しかし、その人たちが死んだことを聞くと、笈を背に、駆けつけて弔った。まず鶏を一羽炙り、酒にひたして乾かした綿でそれを包み、墓穴のそばに来て、水で綿をひたして酒をもどし、茅(ちがや)を飯の下に敷き、鶏をその前に供えて弔った。まつり終わると、名札を置いて、喪主には会わずに立ち去った。
姜肱は彭城の人で、二人の弟、仲海と季江と共に親孝行で兄弟仲がよく、いつも一つ布団に寝ていた。あるとき盗賊に出会ったが、互いに自分を先に殺せと庇ったので、盗賊は見逃して立ち去ったことがあった。徐穉と姜肱は共に朝廷から召されたが、応じなかった。
黄璚が世を去った。各地の名士で会葬する者七千人に及んだ。徐穉も杯を進めて哀しみ哭し、刈りたてのまぐさを墓前に置いて立ち去った。名士たちは口々に「南州の高士徐孺子に違いない」と言って、陳留の茆容に後を追わせて国事について聞かせたが、何も答えなかった。太原の郭泰がこれを聞いて「孺子が何も語らなかったのは、孔子が言うところの及ぶ可からざる愚ということだ」と評した。泰は初めて洛陽に遊学したとき、李膺は郭泰を友として遇した。ある時、李膺が故郷に帰るとき、見送りの車が数千輌にのぼったが、李膺は郭泰だけを舟に伴って黄河を渡って行った。見送る人たちはこれを見て「まるで神仙のようだ」と感嘆した。
茆容は四十余りのころ、畑を耕していて雨に遇い、樹の下に避けていた。そのとき皆はあぐらをかいていたが、容だけは行儀よく正坐していた。郭泰はそれを見て、見込があると思い、勧めて学問をさせたのである。
武子(ねいぶし)
2011-08-30 10:33:58 | 十八史略
論語公冶長篇にある。紀元前七世紀、衛の名宰相武子が、道が行われているときは自分の考えを述べるが、道の行われていないときは、とぼけて愚を装ったという。孔子は「私は知者ぶりは真似ができるが、愚者ぶりは真似ができない」と語った。
子曰、武子、邦有道則知。邦無道則愚。其知可及也、其愚不可及也。
子曰く、武子、邦に道あるときは則ち知。邦に道無きときは則ち愚。その知は及ぶ可きなり、その愚は及ぶべからざるなり
十八史略 枳棘は鸞鳳の栖む所に非ず
2011-09-01 13:16:19 | 十八史略
鉅鹿孟敏、荷甑墜地。不顧而去。泰見問之。曰、甑已破焉。視之何。泰亦勸令學。自餘因泰奨進、成名者甚衆。泰與有道不就。曰、吾夜觀乾象、晝察人事。天之所廢、不可支也。陳留仇香、名覽、年四十、爲蒲亭長、民有陳元。母告元不幸。香親到其家、爲陳人倫。感悟、卒爲孝子。考城令王奐、署香爲主簿。謂曰、陳元不罰而化之。得無少鷹鸇之志邪。香曰、以爲鷹鸇不若鸞鳳。奐曰、枳棘非鸞鳳所栖。百里非大賢之路。乃資香入太學。常自守。泰就房見之。起拝牀下曰、君泰之師也。不應徴辟而卒。
鉅鹿(きょろく)の孟敏、甑(そう)を荷(にな)うて地に墜(おと)す。顧(かえり)みずして去る。泰見て之を問う。曰く、甑已(すで)に破る。之を視るも何の益あらん、と。泰亦勧めて学ばしむ。自余泰の奨進に因って、名を成す者甚だ衆(おお)し。泰、有道に挙げられしも就かず。曰く、吾、夜は乾象(けんしょう)を観、昼は人事を察す。天の廃する所は、支う可からざるなり、と。
陳留の仇香(きゅうこう)名は覧、年四十にして、蒲亭(ほてい)の長と為る。民に陳元というもの有り。母、元が不孝を告ぐ。香、親(みずか)ら其の家に到り、為に人倫を陳(の)ぶ。感悟して卒(つい)に孝子と為る。
考城の令王奐(おうかん)、香を署して主簿と為す。謂って曰く、陳元、罰せずして之を化(か)す。鷹鸇(ようせん)の志を少(か)く無きを得んや、と。香曰く、以為(おも)えらく、鷹鸇は鸞鳳(らんぽう)に若(し)かず、と。奐曰く、枳棘は鸞鳳の栖(す)む所に非ず。百里は大賢の路に非ず、と。乃ち香に資して太学に入らしむ。常に自ら守る。泰、房に就いて之を見る。起って床下に拝して曰く、君は泰の師なり、と。徴辟(ちょうへき)に応ぜずして卒(しゅっ)す。
甑 瓦製の蒸し器。 自余 このほか。 有道 科挙の科目。 乾象 天体現象、乾坤は天地のこと。鷹鸇 鷹や隼。 鸞鳳 ともに想像上の鳥、鸞は鶏に似て羽は五色、声は宮・商・角・徴・羽の五音に合うという。 徴辟 朝廷に召されること。
また鉅鹿の孟敏は、あるとき背負っていたこしきを落としたが、振り返りもせず立ち去った。郭泰がそれを見て訳を聞くと、「割れてしまったものを見ても何の足しにもならないでしょう」と答えた。それでこれも勧めて学ばせた。このほか郭泰が引き立てて名をなした者は非常に多かった。泰は嘗て有道の科に推挙されたが官には就かず、その訳を「私は夜は天文を観、昼は人を視ているが、天が見放したものは、人の力ではどうにもならないものだ」と言った。
陳留の仇香は、名を覧といい、四十のとき、蒲亭の邑長となった。そこに陳元という者がいた。その母が元の親不孝を訴えてきた。仇香はその家に赴き、元に、人の道を説いて聞かせたので、はっと悟って孝子となった。考城の県令王奐はそれを聞いて仇香を、主簿に取り立てたたが、「陳元を罰せず説いて化したのは、鷹や隼のような峻厳さには欠けるといえるかな」と評すると、仇香は「鷹や隼の勇猛さは、仁鳥の鸞や鳳には及ぶところではございません」と答えた。王奐は感服して、「からたちの枝は鸞や鳳の棲むところではないと聞く、百里四方のこの県は君のような大賢がいる場所ではない」と言って香に学資を出して太学に入れた。常に身を堅く守って慎み深かった。ある日郭泰が宿舎を訪れて会い、坐を起って香の床下にひざまずいて言った「貴公は私の師です」と。香もまた招聘には応ぜず世を去った。
十八史略 登竜門
2011-09-03 09:14:07 | 十八史略
自黄璚以來、三公如楊秉・劉寵、皆人望。寵嘗守會稽。郡大治。被徴。有五六老叟。自山谷出、人賷百錢送之曰、明府下車以來、狗不夜吠。民不見吏。今聞、當見棄去。故自扶奉送。寵曰、吾政何能及公言邪。勤苦父老。爲人選一大錢受之。後入司空。秉立朝正直。爲河南尹。時嘗以仵宦官得罪。後爲太尉、以卒。陳蕃繼秉爲太尉。數言李膺、以爲司隷校尉。宦官畏之。皆鞠躬屏氣不敢出宮省。時朝廷綱紀頽弛。膺獨持風裁、以聲名自尚。士有被其容接者、名爲登龍門云。
黄璚(こうけい)より以来、三公楊秉(ようへい)・劉寵(りゅうちょう)の如き、皆人望有り。寵、嘗て会稽に守(しゅ)たり。郡大いに治まる。徴(め)さる。五六の老叟(ろうそう)有り。山谷(さんこく)の間より出で、人ごとに百銭を賷(もたら)して之を送って曰く、明府(めいふ)車を下(くだ)って以来、狗、夜吠えず。民、吏を見ず。今聞く、当(まさ)に棄て去らるべし、と。故に自ら扶(たす)けて奉送す、と。寵曰く、吾が政何ぞ能く公の言に及ばんや、父老に勤苦す、と。為に人ごとに一大銭を選んで之を受く。後入って司空と為る。秉、朝(ちょう)に立って正直(せいちょく)なり。河南の尹(いん)と為る。時に嘗て宦官に仵(さか)らうを以って罪を得たり。後、太尉と為り、以って卒(しゅっ)す。陳蕃(ちんばん)、秉に継いで太尉と為る。数しば李膺(りよう)を言い、以って司隷校尉と為す。宦官之を畏(おそ)る。皆鞠躬(きくきゅう)気を屏(しりぞ)けて、敢えて宮省を出でず。時に朝廷綱紀頽弛(たいし)す。膺独り風裁を持し、声名を以って自ら尚(とうと)ぶ。士其の容接(ようせつ)を被る者有れば、名づけて登竜門と為すと云う。
三公 太尉、司徒、司空。 明府 太守。 賷 贈る、齎に同じ。 自ら扶けて 杖を突いて。 正直 厳正剛直。 鞠躬 身をひそめ、つつしむ。 風裁 教化や法律で人々を正しく導くこと。風は教え裁はさばき。 容接 近づきになる。 登竜門 竜門と名づけられた急流を登りきった魚は竜になれるとされ、そこから栄達する入り口にたとえられた。
黄璚が太尉になって以来、三公に任じられた楊秉(ようへい)・劉寵(りゅうちょう)といった人たちは、皆人望があった。劉寵は、嘗て会稽の太守であったが、郡内がよく治まった。朝廷に召されたとき、五六人の老人が山の谷間から出てきて、それぞれ百銭を餞別として贈って言った「名君のあなたさまが着任されてから、夜に犬が吠えかかることがなくなり、取り立ての役人の姿を民が見かけることもなくなりました。今度あなたさまがこの地をあとにして都に帰られると聞き、こうして杖をついて見送りにやって来ました」劉寵は「私の政治があなたがたの言われるような立派なものではない。ご老人たち、わざわざご苦労をおかけした、かたじけない」と言い、せっかくだからと大銭一枚づつを受け取った。そして朝廷に入り司空となったのである。
楊秉は朝廷にあって厳正剛直で知られた。河南の長官になったとき、宦官に逆らったとして罪を得たことがあったが後に太尉となって世を去った。陳蕃がその後をうけて太尉となった。ことあるごとに李膺を推挙して、司隷校尉とした。宦官たちは李膺を恐れ、頭を低くし、息をひそめて、宮中から外へ出ようとしなかった。当時朝廷の規律はゆるみきっていたが、李膺だけは教導、さばきを厳にし、名誉を重んじて自らを高く持していた。士人たちは李膺の知遇を得た者がいると登竜門を為した。と言った。
十八史略 党人の議
2011-09-06 08:37:16 | 十八史略
以劉寛爲尚書令。寛嘗歴典三郡、多仁恕。吏民有過、以蒲鞭罰之。
初上爲侯時、受學於甘陵周福。及即位、擢爲尚書。時同郡房植有名。郷人謡曰、天下規矩房伯武、因師獲印周仲進。二家賓客、互相譏揣成隙。由是有甘陵南北部。黨人之議始此。汝南太守宗資、以范滂爲功曹、南陽太守成瑨、以岑晊爲功曹。皆襃善糾違。滂尤剛勁、疾惡如讎。二郡謡曰、如南太守范猛博。南陽宗資主畫諾。南陽太守岑公孝。弘農成瑨但坐嘯。太學諸生三萬餘人、郭泰・賈彪爲之冠。與陳蕃・李膺更相推重。學中語曰、天下模楷李元禮、不畏強禦陳仲擧。於是中外承風、競以臧否相尚。
劉寛を以って尚書令と為す。寛嘗て三郡を歴典(れきてん)し、仁如(じんじょ)多し。吏民過ち有れば、蒲鞭(ほべん)を以ってこれを罰す。
初め上(しょう)、侯たりし時、学を甘陵の周福に受く。位に即くに及んで、擢(ぬき)んでて尚書と為す。時に同郡の房植(ぼうしょく)名有り。郷人謡って曰く、
天下の規矩(きく)は房伯武、師たるに因って印を獲(え)しは周仲進。
二家の賓客、互いに相譏揣(きし)して隙(げき)を成す。是に由って甘陵の南北部有り。党人の議此(ここ)に始まる。汝南の太守宗資、范滂(はんぼう)を以って功曹(こうそう)と為し、南陽の太守成瑨(せいしん)、岑晊(しんしつ)を以って功曹と為す。皆善を襃(ほう)して緯を糾す。滂尤(もっと)も剛勁(ごうけい)、悪を疾(にく)むこと讎(あだ)の如し、二郡謡って曰く、
汝南の太守は范猛博。南陽の宗資(そうし)は画諾(かくだく)を主(つかさど)る。南陽 の太守は 岑公孝。弘農の成瑨(せいしん)は但(た)だ坐嘯(ざしょう)す。
太学の諸生三万余人、郭泰(かくたい)・賈彪(かひょう)之が冠たり。陳蕃(ちんばん)・李膺(りよう)と更(たがい)に相推重(すいちょう)す。学中語って曰く、
「天下の模楷(ぼかい)は李元礼、強禦(きょうぎょ)を畏(おそ)れざるは陳仲挙」と。
是(ここ)に於いて中外風(ふう)を承け、競って臧否(ぞうひ)を以って相尚(とうと)ぶ。
歴典 歴任、典はつかさどる。 仁如 思いやりがある。 蒲鞭 がまの鞭、形だけの罰。 規矩 模範。 房伯武 房植のあざな。 周仲進 周福のあざな。 譏揣 譏はそしる、揣は計り、長短をくらべて誹謗する。 党人 政治上の派で仲間を組むひと。 功曹 郡の属吏。 剛勁 ともに強い。 范猛博 范滂。 画諾 諾と画くこと、めくら判。 岑公孝 岑晊。 弘農 弘農郡。 坐嘯 何もしないで、詩歌をくちずさむこと。 推重 尊び重んじること。 模楷 模範。 李元礼 李膺。 強禦 手ごわい悪人。 陳仲挙 陳蕃。 臧否 善悪。
次回につづく。
十八史略 党人の議
2011-09-08 09:24:32 | 十八史略
前回注釈で仁恕を仁如と書いてしまいました、恕はゆるすの意です訂正いたします。
劉寛を尚書令に任命した(165年)。寛は嘗て三郡の地方官を歴任し思いやりに篤い政治を行った。吏民に過ちがあると蒲の鞭で叩いて罰した。
桓帝が蠡吾侯(れいごこう)であった時、甘陵郡の周福から学問を受けたので、帝位に即くと周福を抜擢して尚書とした。そのころ同じ郡の房植は名望があったが、官職には就けなかった。それで甘陵ではこんな謡がはやった。
「天下の模範は房伯武、天子を教えた周仲進、天より印綬がころがり込んだ。」
房と周二家の食客たちは、互いの長短を言いつのって、不和になった。そのため甘陵は南北で対峙するようになり、いわゆる党人の争いはここから始まるのである。汝南郡の太守宗資は范滂を功曹の官につけ、南陽郡の太守成瑨は岑晊を功曹とした。滂も晊も善行を誉め、非緯を糾弾した。特に范滂は剛直で、悪を憎むこと仇敵のようであった。二つの郡の民が謡っていうには、
「汝南の太守は范猛博、南陽生まれの宗資はただめくら判。南陽の太守は岑公孝、弘農生まれの成瑨は詩をうなるだけ」
当時の太学の学生は三万余人。郭泰と賈彪の二人が主導して陳蕃と李膺とは互いに尊びあっていた。そこで太学の中では「天下の模範は李元礼(李膺)、凶悪人を恐れないのは陳仲挙(陳蕃)」と言いあった。そこで朝廷の内外ともに、この風潮がひろがり、人の善悪を評価することが重んじられるようになった。
十八史略 党錮の獄
2011-09-13 10:22:59 | 十八史略
たまたま成瑨と、太原郡の太守の劉しつが、赦免となった宦官の党派を取り調べて殺してしまった。桓帝は二人を召して投獄し、処刑して市にさらそうとした。また山陽郡の太守の翟超は張倹を督郵に登用して、宦官の規制を超えた墓や屋敷を取り壊した。東海王の宰相黄浮も、法を犯した宦官の家族を捕えて死刑に処した。宦官たちは冤罪であると訴え、翟超・張倹・黄浮は処罰された。太尉の陳蕃は再三帝を諌めて反対したが聞き入れなかった。宦官たちはさらに人を使って李膺を誣告する書をたてまつった。「李膺は太学の遊学の士を取り込んで、党派をつくり、朝廷を誹謗して風俗を惑乱しています」と。桓帝は激怒して、郡国に詔勅をくだして、党人を逮捕しようとした。その書類が三公の府に回付されたが、陳蕃は署名を拒否した。そのため帝はいよいよ怒って李膺たちを北寺の獄に投じた。告訴状には杜密・陳寔・范滂等二百人の名があがっており、使者が四方に追補に向かった。陳蕃は再び口を極めて諫言したので、帝は蕃を罷免してしまった。これで朝廷の百官はふるえあがり、それ以上党人のために弁護する者が居なくなった。潁川の賈彪がこれを聞き、「私が西に出向いて斡旋しなければこの大難は解決しまいよ」と言って洛陽に行き、皇后の父、竇武に説いて罪を赦すよう上疏させた。一方、取り調べでの供述には宦官の子弟の名も出たので、宦官たちはこれを懼れて、帝に奏上して党人二百余人を赦して故郷に帰らせ、その名を三公の府に書き留めて終身仕官の道をふさいだ。
在位二十一年、改元すること七回すなわち、建和・和平・元嘉・永興・永壽・延熹・永康である。桓帝は崩じた(167年)。竇皇后は、解瀆亭侯を迎えて帝位に即けた。これを孝霊皇帝という
十八史略 霊帝
2011-09-15 14:09:53 | 十八史略
宦官逆襲す
孝靈皇帝名宏、章帝玄孫也。年十二即位。竇太后臨朝。竇武爲大將軍、陳蕃爲太傅。徴天下名賢。李膺・杜密等、皆列于朝。天下想望太平。蕃・武共議、以宦官操弄國柄、濁亂海内、奏誅曹節・王甫等。謀泄。宦者夜召所親、歃血共盟、請帝御前殿、作詔板、拝王甫黄門令、使其黨持節収武等、誣以大逆。先執陳蕃殺之。武自殺。梟首都亭。遷太后於南宮。
孝霊皇帝名は宏、章帝の玄孫也。年十二にして位に即く。竇太后(とうたいこう)、朝に臨む。竇武を大将軍と為し、陳蕃を太傅(たいふ)と為す。天下の名賢を徴(め)す。李膺(りよう)・杜密等、皆朝に列す。天下太平を想望す。蕃・武共に議して、宦官国柄(こくへい)を操弄し、海内(かいだい)を濁乱するを以って、奏して曹節・王甫等を誅せんとす。謀(はかりごと)泄(も)る。宦者、夜親(しん)を召し、血を歃(すす)って共に盟(ちか)い、帝に請うて前殿に御せしめ、詔板(しょうはん)を作って、王甫を黄門令に拝し、其の党をして節を持して武等を収めしめ、誣(し)うるに大逆を以ってす。先ず陳蕃を執(とら)えて之を殺す。武自殺す。首を都亭に梟(きょう)す。太后を南宮に遷(うつ)す。
太傅 天子の師。 国柄 一国の政権。 親 仲間。 詔板 詔書と同じ。 節 君命を受けた使者が帯びるしるし。 誣 罪におとす。 梟す 木にかけてさらす、さらし首。
孝霊皇帝の名は宏、章帝の玄孫である。年十二歳で即位した。竇太后が朝廷に出て政治を執り、父の竇武を大将軍とし、陳蕃を太傅にして、天下の名高い賢者を招いた。李膺・杜密等も朝廷に出仕するようになり、人々はこれで天下太平を招来すると想い望んだ。陳蕃と竇武は協議して、宦官たちが国権をほしいままにし、天下を混乱させたとして、曹節・王甫等を誅殺するよう奏上する手はずを整えた。ところがこの謀が漏れて宦官たちが急遽仲間をあつめ、血をすすって盟い合った。そして霊帝に要請して前殿に出御させ、王甫を黄門令に任命する詔勅を作り、一味に天子の節を持たせて竇武らを捕えさせ、大逆罪の罪を負わせた。まず陳蕃を捕えて殺し、竇武は自殺した。そして首を洛陽の物見台にさらした。太后は南宮に移された。
十八史略 三君、八俊
2011-09-17 12:06:55 | 十八史略
李膺初雖廢錮、士大夫皆高其道、而汚穢朝廷、更相標榜。爲稱號、以竇武・陳蕃・劉淑、爲三君。言一世之所宗也。李膺・荀・杜密・王暢・劉祐・魏朗・趙典・朱㝢爲八俊。言人英也。郭泰・范滂・尹勳・巴肅・宗慈・夏馥・蔡衍・羊陟爲八顧、言能以行引人也。張儉・翟超・岑晊・菀康・劉表・陳翔・孔・檀敷爲八及。言能導人追宗也。度尚・張邈・王孝・劉儒・胡毋班・秦周・蕃嚮・王章爲八廚。言能以利救人也。及陳蕃・竇武用事、復擧抜膺等。陳・竇死、膺等復廢錮。
李膺初め廃錮(はいこ)せらると雖も、士大夫皆其の道を高しとし、而して朝廷を汚穢(おわい)として、更々(こもごも)相標榜す。称号を為(つく)り、竇武・陳蕃・劉淑を以って三君と為す。言うは、一世の宗とする所なり。李膺・荀(じゅんいく)・杜密・王暢(おうちょう)・劉祐・魏朗・趙典・朱ウ(しゅう)を八俊と為す。言うは人英なり。郭泰・范滂(はんぼう)・尹勳(いんくん)・巴肅(はしゅく)・宗慈・夏馥(かふく)・蔡衍(さいえん)・羊陟(ようちょく)を八顧(はっこ)と為す。言うは能く徳行を以って人を引くなり。張儉・翟超(てきちょう)・岑晊(しんしつ)・菀康(えんこう)・劉表・陳翔・孔(こういく)・檀敷(だんふ)を八及と為す。言うは能く人を導いて追宗(ついそう)せらる。度尚(たくしょう)・張邈(ちょうばく)・王孝・劉儒・胡毋班(こぶはん)・秦周(しんしゅう)・蕃嚮(ひきょう)・王章を八廚(はっちゅう)と為す。言うは能く利を以って人を救うなり。
陳蕃・竇武事を用うるに及んで、復た膺等を挙抜(きょばつ)す。陳・竇死して、膺等復た廃錮せらる。
相標 誉めはやす。 朱ウ ウかんむりに禹。 蕃嚮 蕃、姓の場合は「ひ」、名の場合は「ばん」
李膺は初め官職を廃され仕官の道を閉ざされたが、士大夫たちは皆その高潔さをほめ、かえって朝廷こそ汚濁に満ちているとして、さまざまな称号をつくって誉めたたえた。竇武・陳蕃・劉淑を三君と呼んだ。それは、この三人を世の宗師とするというのである。李膺・荀・杜密・王暢・劉祐・魏朗・趙典・朱ウを八俊と呼んだ。それは人の中の英傑であるとの意である。郭泰・范滂・尹勳・巴肅・宗慈・夏馥・蔡衍・羊陟を八顧と呼んだ。それは徳をもってよく人を引き立てるというのである。張儉・翟超・岑晊・菀康・劉表・陳翔・孔・檀敷を八及と呼んだ。よく人を導いて崇拝されるというのである。度尚・張邈・王孝・劉儒・胡毋班・秦周・蕃嚮・王章を八廚と呼んだ。よく人の難儀を救うというのである。
陳蕃と竇武が政権の座に就いてから李膺等を抜擢したが、陳竇二人が死ぬと再び李膺たちは官職から追放された。
十八史略 李・杜と名を斉しうするを得
2011-09-20 12:00:14 | 十八史略
曹節諷有司、奏諸鈎黨。膺詣詔獄孝死。滂就捕。母與訣曰、汝今得與李杜齊名。死亦何憾。滂跪受教、再拝而辭。顧其子曰、使汝爲惡、惡不可爲。使汝爲善、我不爲惡。聞者爲之流涕。黨人死者百人、其死徙廢錮者、又六七百人。郭泰私痛曰、詩云、人之云亡、邦國殄瘁。漢室滅矣。但未知瞻烏爰止、于誰之屋耳。泰雖好臧否、而不爲危言覈論。故處濁世、而禍不及焉。
曹節、有司(ゆうし)に諷して、諸鈎党(こうとう)を奏せしむ。膺(よう)、詔獄(しょうごく)に詣(いた)って孝死(こうし)す。滂(ぼう)、捕に就(つ)く。母与(とも)に訣(けっ)して曰く、「汝、今李・杜と名を斉(ひと)しうするを得(う)。死するも亦何ぞ憾(うら)みん」と。滂、跪(ひざまづ)いて教えを受け、再拝して辞す。其の子を顧みて曰く、「汝をして悪を為さしめんとするも、悪は為す可からず。汝をして善を為さしめんとすれば、我悪を為さず」と。聞く者之が為に流涕す。党人死する者百人、其の死徙(しし)廃錮(はいこ)せらるる者、又六七百人なり。郭泰私(ひそ)かに痛んで曰く、詩に云(い)う、人の云(ここ)に亡ぶる、邦国殄瘁(てんすい)すと。漢室滅びん。但(ただ)未だ烏(からす)を瞻(み)るに爰(ここ)に止まる、誰(た)が屋(おく)に于(お)いてするかを知らざるのみ」と。泰好んで臧否(ぞうひ)すと雖も、而(しか)も危言覈論(かくろん)を為さず。故に濁世に処して、而も禍い及ばず。
有司 役人。 諷して ほのめかして。 鈎党 たがいに繋がり合った党。 詔獄 天子の詔によって開かれた裁判。 詣 いたる。 孝死 拷問による死。 訣 別れ。 李・杜 李膺・杜密。 死徙 獄死と流刑、徒は別字。 廃錮 官職追放。 殄瘁 殄(た)え瘁(やむ)、疲弊する。 瞻烏 烏は覇権、瞻は仰ぎ見る。 臧否 是非善悪。 危言 穏やかな言葉を選ぶこと。 覈論 評論。
宦官の曹節は役人にほのめかして、党人同士の繋がりを奏上させた。李膺は投獄され拷問のすえ殺された。范滂も捕えられた。母は別れに臨んで「これでお前は李膺さま・杜密さまと同じ名誉を受けることができたのですから恨みません」と言った。范滂は跪いて教えを受け、再拝して別れを告げると、我が子に向って「お前をこのような目に遭わせぬために正義を棄てさせようとも思ったが、悪事はやはりしてはならぬことだ。お前を善にとどまらせるためにも、私は悪と決別した」と言うと、聞く者は皆、涙を流した。このとき、党人で殺された者は百人に及び、死んだり流されたり、官職を追われた者が六七百人に達した。
郭泰はひそかに悲しみ嘆き、「詩経にこうある(人のここに滅ぶ、邦国つかれる殄え瘁む)と。漢室は滅亡するであろう、ただ、(烏をみるにここに止まる。誰が屋においてするか)と。それがまだわからないだけだ」郭泰は事の善悪を批評したが、言葉を慎重に選んで過激な発言をしなかったので、乱世に身を置きながら禍いを被ることがなかった。
十八史略 銅臭を嫌うのみ
2011-09-22 08:59:09 | 十八史略
詔諸儒正五經文字。命蔡邕爲古文・篆・隷三體、書之刻石、立太學門外。
上好文學、引諸生能文賦者、竝待制鴻都門下。置立太學。諸生皆斗筲小人、君子恥之。
開西邸賣官。各有賈。崔烈以五百萬得司徒。問其子以外議何如。子曰、人嫌其銅臭耳。
諸儒に詔(みことのり)して五経の文字を正さしむ。蔡邕(さいよう)に命じて 古文・篆(てん)・隷(れい)三体を為(つく)らしめ、之を書して石に刻し、太學の門外に立つ。
上(しょう)文学を好み、諸生の文賦(ぶんふ)を能くする者を引いて、並びに鴻都(こうと)門下に待制(たいせい)せしむ。太学を置立(ちりつ)す。諸生皆斗筲(とそう)の小人にして、君子之を恥づ。
西邸を開いて官を売る。各々賈(あたい)有り。崔烈(さいれつ)五百萬を以って司徒を得たり。其の子に問うに外議(がいぎ)如何を以ってす。子(こ)曰く、人其の銅臭を嫌うのみと。
五経 易・書・詩・礼・春秋。 古文 蝌蚪(かと)文字、竹簡に漆で書いたので、おたまじゃくし(蝌蚪)に似ていたから。 篆・隷 書体。 鴻都門 洛陽の門の名、中に太学があった。 待制 みことのりが下るのを待つ、唐代には官名になった。 斗筲 穀物をはかる枡、筲は一斗二升、器量の小さいひと。あるいは枡で計ってばかりいる収奪に熱心なこと。 外議 世評。 銅臭 財貨を貴び財貨によって立身する者を卑しむ言葉。
霊帝は儒者たちに詔勅を下して五経を校訂させ、蔡邕に命じて、古文・篆書・隷書の三種の字体で書かせて石に刻み、太学の門内に立てた。
帝は学問を好み学生のなかで文章や詩賦に秀でた者を呼び、鴻都門の中で召し出しを待たせることにし、そこに太学を設置した。しかし呼ばれた学生は皆器量の小さい者ばかりで、高徳の士は同列にみられるのを恥じた。
霊帝は西園に邸を設けて官爵を売った。それぞれの官位に値がつけられていた。崔烈は五百万銭で司徒の官を買った。そしてその子に世間の評判を聞くと、子は「みな銭くさいと嫌っているだけですよ」と答えた。
十八史略 董卓少帝を廃す
2011-09-27 08:31:38 | 十八史略
上崩。在位二十二年、改元者四、曰建寧・熹平・光和・中平、子辨立。何太后臨朝。后兄大將軍何進、録尚書事。袁紹勸進誅宦官。太后未肯。紹等畫策、召四方猛將、引兵向京、以脅太后、遂召將軍董卓之兵。卓未至。進爲宦官所殺。紹勒兵捕諸宦官、無少長皆殺之。凡二千餘人。有無鬚而誤死者。卓至問亂由。辨年十四、語不可了。陳留王答無遺。卓欲廢立。紹不可。卓怒。紹出奔。卓遂廢辨。陳留王立。是爲孝獻皇帝。
上(しょう)崩ず。在位二十二年、改元する者(こと)四、建寧(けんねい)・熹平(きへい)・光和・中平と曰う。子の弁立つ。何太后朝に臨む。后の兄大将軍何進(かしん)、録尚書事となる。袁紹(えんしょう)、進に宦官を誅せよと勧む。太后未だ肯(がえ)んぜず。紹等画策し、四方の猛将を召し、兵を引いて京(けい)に向かい、以って太后を脅かし、遂に将軍董卓(とうたく)の兵を召す。卓未だ至らず。進、宦官の殺す所と為る。紹、兵を勒(ろく)して諸々の宦官を捕え、少長と無く皆之を殺す。凡そ二千余人なり。鬚(ひげ)無くして誤って死する者有り。卓至って乱の由(よし)を問う。弁年十四、語了す可からず。陳留王、答えて遺(のこ)す無し。卓、廃立せんと欲す。紹、可(き)かず。卓怒る。紹出奔す。卓遂に弁を廃す。陳留王立つ。是を孝献皇帝と為す。
録尚書事 尚書の事を録す、文書の事をつかさどる尚書を総監する。高官が兼任した。
霊帝が崩じた(189年)。在位二十二年で改元すること四回、建寧・熹平・光和・中平という。子の弁が位に即いた。何太后が朝に臨んで、政治を執り、太后の兄の大将軍何進が録尚書事になった。司隷校尉の袁紹が宦官を誅殺すべし、と何進に勧めたが、太后が承知しなかった。そこで袁紹たちは画策して、各地の勇猛な将を招集し、兵を率いて洛陽に向わせて太后を脅かした。そしてついに将軍董卓の軍を呼び寄せた。だが董卓の軍が洛陽に到着する前に、何進が宦官に謀殺された。袁紹は兵を指揮して宦官を捕え、老若を問わずことごとく殺してしまった。その数二千人余り、中には鬚がないため誤って殺された者もあった。やがて董卓が到着して、動乱の訳を尋ねたが、弁は年が十四であったが、要領を得なかった。弟の陳留王が逐一答えて遺漏がなかった。董卓は帝を廃位にして陳留王を立てようとしたが袁紹が承知しなかった。董卓は怒り、袁紹は洛陽を去った。董卓は遂に弁を廃位し、陳留王を即位させた。これが孝献皇帝である。
十八史略 袁紹・孫堅・袁術挙兵す
2011-09-29 10:14:48 | 十八史略
孝獻皇帝名協、九歳爲董卓所立。關東州郡、起兵討卓、推袁紹爲盟主。卓焼洛陽宮廟、遷都長安。長沙太守富春孫堅、起兵討卓。至南陽。衆數萬、與袁術合兵。術與紹同祖。皆故太尉袁安之玄孫也。袁氏四世五公、富貴異於佗公族。紹壯健有威容、愛士。士輻湊。術亦俠氣。至是皆起。堅撃敗卓兵。術遺堅圖荊州。爲劉表將黄祖歩兵所射死。
孝献皇帝、名は協、九歳にして董卓の立つ所と為る。関東の州郡、兵を起こして卓を討ち、袁紹(えんしょう)を推(お)して盟主と為す。卓、洛陽の宮廟(きゅうびょう)を焼き、都を長安に遷(うつ)す。長沙の太守富春の孫堅(そんけん)、兵を起こして卓を討つ。南陽に至る。衆(しゅう)数万、袁術(えんじゅつ)と兵を合(がっ)す。術は紹と同祖なり。皆、故(もと)の太尉袁安の玄孫なり。袁氏、四世五公、富貴、佗(た)の公族に異なり。紹、壮健にして威容あり、士を愛す。士輻湊(ふくそう)す。術も亦侠気あり。是(ここ)に至って皆起こる。堅撃って卓の兵を敗る。術、堅をして荊州を図らしむ。劉表の将黄祖(こうそ)の歩兵の射る所と為って死す。
盟主 同盟の主宰者。 四世五公 四代で五人も三公を輩出した。 佗 他に同じ。 輻湊 八方から集まること。輻は車輪のスポーク、や。湊は集まる。
孝献皇帝は名を協といい、九歳で董卓に立てられて帝位に即いた。董卓の暴虐を憎み、函谷関から東の州郡が兵を起こして董卓を攻めた。袁紹を主宰に推し立てた。董卓は洛陽の宮殿や宗廟を焼き払い、長安に遷都した。
長沙の太守で富春の孫堅も董卓討伐の兵を挙げ、南陽に着いた。兵力は数万、袁術の軍と連合した。袁術と袁紹は先祖が同じでかつての太尉袁安の曾孫である。袁氏は四代の間に五人も三公の位にあり、その富貴なことは、他の三公の家を凌いでいた。袁紹は身体が壮健で威厳があり、部下を重んじたので、天下の士が皆袁紹のもとに集まって来た。袁術も侠気に富んでいたので、このときとばかりに一斉に兵を起こした。孫堅が先ず董卓の軍を破った。袁術は孫堅に荊州を攻略させたが、劉表の将で黄祖の歩兵に射られて孫堅は死んだ。
十八史略 劉備と孫策。
2011-10-04 10:36:06 | 十八史略
涿郡劉備、字玄、其先出於景帝。中山靖王勝之後也。有大志。少語言、喜怒不形於色。河東關羽、涿郡張飛、與備相善。備起。二人從之。
孫堅之子策、與弟權留富春。遷于舒。堅死、策年十七。往見袁術。得其父餘兵。策十餘歳時、已交結知名。舒人周瑜、與策同年。亦英達夙成。至是從策起。策東渡江轉鬭、所向無敢當其鋒者。百姓聞孫郎至、皆失魂魄。所至一無所犯。民皆大悦。
涿郡(たくぐん)の劉備、字は玄、其の先(せん)は景帝より出ず。中山靖王(ちゅうざんせいおう)勝の後(のち)なり。大志有り。語言(ごげん)少なく、喜怒、色に形(あら)わさず。河東の関羽、涿郡の張飛、備と相善(よ)し。備起こる。二人(ににん)之に従う。
孫堅の子策、弟権と富春に留まる。舒(じょ)に遷(うつ)る。堅死するとき、策年十七。往(ゆ)いて袁術に見(まみ)ゆ。其の父の余兵を得たり。策十余歳の時、すでに交結(こうけつ)して名を知らる。舒人(じょひと)周瑜(しゅうゆ)、策と同年なり。亦英達(えいたつ)夙成(しゅくせい)なり。是(ここ)に至って策に従って起こる。策、東のかた江を渡って転闘し、向う所敢えて其の鋒(ほこ)に当る者無し。百姓(ひゃくせい)、孫郎至ると聞き、皆魂魄を失う。至る所一も犯す所無し。民皆大いに悦(よろこ)ぶ。
交結 まじわる。 夙成 若くして学業などができあがっていること、早熟。
涿郡(河北省)の劉備、字は玄徳、先祖は景帝の第六子の中山靖王勝の後裔である。かねてから大志を抱き、寡黙にして感情を顔にださなかった。
河東(山西省南部)の関羽、涿郡の張飛が劉備と親交があり、兵を挙げると二人はこれに加わった。
孫堅の子孫策は弟の孫権と富春県(浙江省)に留まり、後に舒州(山東省)に移った。孫堅が死んだとき孫策は十七歳であったが、袁術に会って父の残兵を受け継いだ。十歳余りの時にすでに豪傑たちと交わりを結び、名を知られていた。
舒州の人周瑜も孫策と同年でやはり早くから英才を謳われていたが、ここに至って孫策のもとに馳せ参じた。東を目指し揚子江を渡って転戦したが、鋒の前に立ち向かう者はなかった。人びとは孫策が来ると聞くと、みな震え上がったが、いよいよ来てみると掠奪も一切無かったので、大いに喜んだ。
十八史略 曹操呂布を殺す。
2011-10-06 08:23:45 | 十八史略
初曹操自討卓時、戰于滎陽、還屯河内。尋領東郡太守、治東武陽。已而入兗州據之。自領刺史。遣使上書、以爲兗州牧。上還洛陽。操入朝、遷上於許。
操撃殺呂布。初布自關中出奔袁術。又歸袁紹。已而又去。爲操所攻、走歸劉備。尋又襲備。據下邳。備走歸操。操遣備屯沛。布使陳登見操、求爲徐州牧。不得。登還謂布曰、登見曹公言、養將軍如養虎。當飽其肉。不飽則噬人。公曰、不然。譬如養鷹。饑則附人、飽則颺去。布復攻備。備走復歸操。操撃布、至下邳。布屢戰皆敗。困迫降。操縛之曰、縛虎不得不急。卒縊殺之。備從操還許。
初め曹操、卓を討つ時より、滎陽(けいよう)に戦い、還って河内(かだい)に屯(とん)す。尋(つ)いで東郡の太守を領し、東武陽を治む。已にして兗州(えんしゅう)に入って之に拠(よ)る。自ら刺史(しし)を領す。使いを遣わして上書し、以って兗州の牧と為る。上(しょう)、洛陽に還る。操、入朝し、上を許に遷(うつ)す。
操、撃って呂布を殺す。初め布、関中より袁術に出奔す。又袁紹に帰す。已(すで)にして又去る。操の攻むる所と為って、走って劉備に帰す。尋(つ)いで又備を襲う。下邳(かひ)に拠(よ)る。備走って操に帰す。操、備をして沛(はい)に屯せしむ。布、陳登(ちんとう)をして操に見(まみ)えしめ、徐州の牧と為らんことを求む。得ず。登還って布に謂って曰く、登、曹公に見えて言う、「将軍を養うは虎を養うが如し。当に其の肉に飽かしむべし。飽かずんば則ち人を噬(か)まん」と。公曰く、「然らず。譬(たと)えば鷹を養うが如し。饑うれば則ち人に附き、飽けば則ち颺(あが)り去る」と。布復た備を攻む。備走って復操に帰す。操、布を撃って、下邳に至る。布屡しば戦って皆敗る。困迫して降る。操之を縛(ばく)して曰く、「虎を縛するは急ならざるを得ず」と。卒(つい)に之を縊殺(いさつ)す。備、操に従って許に還る。
滎陽 河南省の地名。 河内 河南の黄河の北。 尋 両手を広げた長さ、たずねる、なみ、等の意味があるが、間もなく。 東武陽 山東省の一地方。 兗州 山東省西部。 刺史 監察官。 牧 長官。 許 河南省許昌県。 下邳 江蘇省邳県。 沛 江蘇省にある、漢の高祖の生地。
初め曹操は董卓を討つ時から、滎陽で戦いに参加し、引きあげて河内に駐屯した。ついで東郡の太守となり、東武陽を治めていた。やがて兗州に入り、ここを根城として、自ら兗州の監察官となった。そして使いを立てて上書し正式に兗州の長官となった。献帝が長安から洛陽に帰ると、曹操は入朝して、帝を許に遷した。
曹操が呂布を討って殺した。これより先、呂布は董卓を殺したあと、関中から袁術のもとへと逃げたが次いで袁紹を頼って行った。やがてまたそこを去り、曹操に攻められて、劉備のもとに身を寄せた。次には劉備の不意をついて下邳に立てこもったので、劉備は逃れて曹操を頼って行き、曹操は劉備を沛に駐屯させた。呂布は陳登を曹操のもとへ遣って、徐州の長官の地位を求めたが、出来なかった。陳登は還って呂布に言った。「私が曹操どのと会見した折、将軍は
例えて言えば、虎を飼うようなもので喰い飽きるほど餌を与えるべきです。喰い足りないと人に噛みつきましょう。と申しましたら、曹操どのはそれは違う、鷹を飼うようなもので、飢えているあいだは懐くが餌に飽きると飛び去ってしまうものだ。と申されました」と。
呂布は再び劉備を攻め、備は追われて再び曹操を頼った。曹操は呂布を討伐すべく下邳に進軍した。すべての戦いに敗れた呂布は進退窮まって降伏した。曹操は呂布を縛り上げ、「虎を捕えたからには急がねばならぬ」と言って、くびり殺した。劉備は曹操に従って許に還った。
十八史略 孫策、袁紹、袁術死す
2011-10-08 14:41:24 | 十八史略
袁術初據南陽。已而據壽春。以讖言代漢者當塗高、自云、名字應之。遂稱帝。淫侈甚。既而資實空虛。不能自立。欲奔袁紹。操遣劉備邀之。術走還、歐血死。
孫策既定江東、欲襲許。未發。故所殺呉郡守許貢之奴、因其出獵、伏而射之。創甚。呼弟權代領其衆曰、擧江東之衆、決機於兩陣之、與天下爭衡、卿不如我。任賢使能、各盡其心以保江東、我不如卿。卒。年二十六。
袁紹據冀州。簡精兵十萬、騎一萬、欲攻許。沮授諌曰、曹操奉天子以令天下。今擧兵南向、於義則違。竊爲公懼之。紹不聽。操與紹相拒於官渡。襲破紹輜重。紹軍大潰。慚憤歐血死。
袁術初め南陽に拠(よ)る。已にして寿春に拠る。讖(しん)に、[漢に代る者は塗(みち)に当って高し]と言う以って、自ら、名字之に応ずを云い、遂に帝と称す。淫侈(いんし)甚だし。既にして資実空虚なり。自立する能わず。袁紹に奔(はし)らんと欲す。操、劉備をして之を邀(むか)えしむ。術走り還り、血を欧(は)いて死す。
孫策既に江東を定め、許を襲わんと欲す未だ発せず。故(もと)殺す所の呉郡の太守許貢(きょこう)の奴(ど)、其の出でて猟するに因(よ)って、伏して之を射る。創(きず)甚(はなは)だし。弟権を呼んで、代わってその衆を領せしめて曰く、「江東の衆を挙げて、機を両陣の間に決し、天下と衡(こう)を争うは、卿(けい)我に如かず。賢に任じ能を使い、各々其の心を尽くさしめて、以って江東を保つは、我、卿に如かず」と。卒す。年二十六なり。
袁紹、冀州(きしゅう)に拠る。精兵十万、騎一万を簡(えら)び、許を攻めんと欲す。沮授(そじゅ)諌めて曰く、「曹操、天子を奉じて以って天下に令す。今兵を挙げて南に向かわば、義に於いて則ち違わん。窃(ひそ)かに公の為に之を懼る」と。紹聴かず。操、紹と官渡に相拒(ふせ)ぐ。襲うて紹の輜重を破る。紹の軍大いに潰(つい)ゆ。慚憤(ざんぷん)して血を欧いて死す。
讖 予言書。 塗(みち) 路。 名字之に応ず 名の術には道路の意味があり、あざなが公路であったから。 淫侈 淫楽と奢侈。 機 勝機。 衡 均衡。 輜重 輸送、補給部隊。
袁術は初め南陽郡に拠っていたが、後に寿春を本拠とした。予言書に、「漢に代わる者は途(みち)に当って高し」とあるのを、我が名に符合するとして、遂に帝と自ら称した。淫楽と奢侈(しゃし)にふけり、財政が窮乏して自立することができなくなって、袁紹のもとを頼ろうとしたが、曹操は劉備に途中を遮らせたので、袁術は再び寿春に逃げもどり、悲憤のあまり血を吐いて死んだ。
孫策は江東を平定し、曹操の拠っている許を攻めようとした。まだ出発しない
うちに、嘗て殺害した呉郡の太守許貢の家僕が、孫策が猟に出たのを待ち構えて矢を射た。その傷が恢復しないと見極めた孫策は、弟の孫権を呼んで、軍の統率を引き継がせたうえで「江東の軍勢を引きつれて敵味方の間で勝機をつかみ、天下に雌雄を争うのは、お前は私に及ばない。しかし、賢者や能力の優れた者を取り立て、使いこなし、忠誠を尽くさせて、江東を維持してゆくのは、私はお前に及ばない」と言い残して死んだ。二十六歳の若さであった。
袁紹は冀州に拠っていた。精兵十万、騎兵一万を選りすぐって曹操の許を攻めようとした。すると沮授が、「曹操は天子を奉じて号令しています。今兵を挙げて南の許に向かうのは、大義にもとります。私はひそかにあなた様のためにならないかと心配です」といさめたが、袁紹は耳を貸さなかった。曹操は官渡で迎え撃ち、袁紹の輸送部隊を急襲してこれを破り、軍は潰滅した。袁紹は愧じと憤りのあまり血を吐いて死んだ。
十八史略 髀肉の歎
2011-10-11 10:36:32 | 十八史略
老のまさに至らんとするに、功業建たず
車騎將軍董承、稱受密詔、與劉備誅曹操。操一日從容謂備曰、今天下英雄、唯使君與操耳。備方食。失匕筯。値雷震詭曰、聖人云、迅雷風烈必變。良有以也。備既被遣邀袁術。因之徐州。起兵討操。操撃之。備先奔冀州。領兵至汝南。自汝南奔荊州。歸劉表。嘗於表坐。起至厠。還慨然流涕。表怪問之。備曰、常時身不離鞍。髀肉皆消。今不復騎。髀裏肉生。日月如流、老將至、功業不建。是以悲耳。
車騎将軍董承(とうしょう)、密詔を受くと称し、劉備と曹操を誅せんとす。操一日従容として備に謂って曰く、「今天下の英雄は唯使君(しくん)と操とのみ」と。備方(まさ)に食す。匕筯(ひちょ)を失っす。雷震に値(あ)って詭(いつわ)って曰く、「聖人云う、迅雷風烈には必ず変ず、と。良(まこと)に以(ゆえ)有り」と。
備既に遣(つか)わされて袁術を邀(むか)う。因(よ)って徐州に之(ゆ)き、兵を起こして操を討つ。操之を撃(う)つ。備先づ冀州(きしゅう)に奔(はし)る。兵を領して汝南に至る。汝南より荊州(けいしゅう)に奔り、劉表に帰す。嘗て表の坐に於いて、起って厠に至る。還って慨然として涕(なみだ)を流す。表怪しみて之を問う。備曰く「常時身鞍を離れず、髀肉(ひにく)皆消す。今復た騎(の)らず。髀肉生ず。日月流るるが如く、老の将(まさ)に至らんとするに、功業建たず。是を以って悲しむのみ」と。
使君 州の長官である刺史あるいは郡の長官の太守の尊称。 匕筯 匙と箸。値 あう、遭に同じ。 聖人 孔子。 迅雷風烈には・・論語郷党篇にある。
良 まことに。 髀肉 ももの肉。
車騎将軍の董承が、献帝から内密の詔を受けたとして、劉備と謀って曹操を討とうとした。ある日曹操は悠揚として劉備に語りかけた「さしあたって今、英雄といえるのは貴君とこの操だけであろうな」と。ちょうど食事中の劉備ははっとして箸を取り落とした。そのとき雷鳴が轟いたので、「あの孔子さまでさえ雷や烈しい風には顔色を変えたと言われますが、まことにもっともであります」ととりつくろった。
やがて劉備は袁術を迎え撃つために派遣されることになった。それを機に徐州に行き、そこで曹操討伐の兵を挙げた。曹操はこれを撃ち破り、劉備はまず冀州に逃れ、兵をまとめて汝南郡に行き、汝南から荊州に逃げ、劉表のもとに身を寄せた。ある日、劉表と同坐していたとき、厠に立ったが、帰ってくると嘆き悲しみ、涙を流したので、劉表はいぶかって訳を聞くと、劉備が答えた。「これまでは戦場に在って鞍から身を離すことがなく腿の肉はそげ落ちていましたが、このところ馬に乗る機会が無くなって、腿に肉が付いてきました。月日の経つのは早いもので、老いが迫っているというのに未だ功業が立ちません。それが悲しいのです」と。
十八史略 三顧の礼。水魚の交わり。
2011-10-13 09:43:35 | 十八史略
瑯琊諸葛亮、寓居襄陽隆中。毎自比管仲・樂毅。備訪士於司馬徽。徽曰、識時務者在俊傑。此自有伏龍・鳳雛。諸葛孔明・龐士元也。徐庶亦謂備曰、諸葛孔明臥龍也。備三往乃得見亮、問策。亮曰、操擁百萬之衆。挾天子令諸侯。此誠不可與爭鋒。孫權據有江東、國險而民附。可與爲援、而不可圖。荊州用武之國、州險塞、沃野千里。天府之土。若跨有荊・、保其巖阻、天下有變、荊州之軍向宛・洛、州之衆出秦川、孰不箪食壺漿、以迎將軍乎。備曰、善。與亮情好日密。曰、孤之有孔明、猶魚之有水也。士元名統、龐公從子也。公素有重名。亮毎至其家、獨拝床下。
瑯琊(ろうや)の諸葛亮(しょかつりょう)、襄陽の隆中に寓居(ぐうきょ)す。毎(つね)に自ら管仲・楽毅に比す。備、士を司馬徽(しばき)に訪(と)う。徽曰く、「時務(じむ)を識る者は俊傑に在り。此の間自ら伏龍(ふくりょう)・鳳雛(ほうすう)有り。諸葛孔明・龐士元(ほうしげん)なり」と。徐庶(じょしょ)も亦備に謂って曰く、「諸葛孔明は臥龍なり」と。備、三たび往いて乃ち亮を見るを得、策を問う。亮曰く、「操、百万の衆を擁し、天子を挟(さしはさ)んで諸侯に令す。此れ誠に与(とも)に鋒(ほこ)を争う可からず。孫権、江東に拠有(きょゆう)し、国険にして民附く。与に援(えん)と為す可くして、図る可からず。荊州は武を用うるの国、益州は険塞(けんそく)、沃野千里。天府(てんぷ)の土なり。若し荊・益を跨有(こゆう)し、其の巌阻(がんそ)を保ち、天下変有らば、荊州の軍は宛(えん)・洛に向かい、益州の衆は秦川(しんせん)に出でば、孰(たれ)か箪食壺漿(たんしこしょう)して、以って将軍を迎えざらんや」と。備曰く、「善し」と。亮と情好(じょうこう)日に密なり。曰く、「孤(こ)の孔明あるは、猶魚の水有るがごとし」と。
士元、名は統、龐徳公(ほうとくこう)の従子なり。徳公素(もと)より重名(じゅうめい)有り。亮其の家に至る毎に、独り床下に拝す。
瑯琊 山東省南部の地名。 襄陽の隆中 湖北省襄陽県の隆中山。 管仲 春秋時代斉の宰相。楽毅 戦国時代の燕の将軍。 時務 当世の急務。 三たび往いて 三顧の礼。 図る 画策する。 天府 天然の庫、豊かな土地。 跨有 領有。 箪食壺漿 飲食物、箪食は竹の器に入れた飯、壺漿は壺に入れた飲み物。 魚の水あるが如し 水魚の交わり。 従子 甥。
瑯琊の人諸葛亮は襄陽の隆中山に寓居し、つねづね管仲、楽毅になぞらえていた。ある時、劉備は司馬徽に当代の傑物を尋ねた。すると「時局の急務を認識している者は俊傑といえるだろうが、中でも伏龍、鳳雛と言われる大人物がいる。それが諸葛孔明と龐士元だよ」と答えた。徐庶からも「諸葛亮は臥龍なり」と聞かされていた。そこで劉備は三度亮を訪ねてやっと会うことができた。劉備が天下経略の策を問うと、「曹操は百万の兵を擁し、天子を奉じて諸侯に号令しています。決して兵を交えてはいけません。孫権は江東を根城にして、その地は険阻で人民もよくなついています。共に援けあうべきであって、策略を用いて事をかまえるべきではありません。この荊州は武略を用いるのに適した国であり、益州は険阻な要害に恵まれ、そのうえ肥沃の野が続くまさに天恵の宝ともいうべき地であります。この二州を領有し、嶮しい地勢に守られつつ、天下の大事にあたって荊州の軍は宛から洛陽に向け、益州の軍隊は、秦川に撃って出れば、誰もが食物と飲み物を用意して将軍を迎えるに違いありません」と答えた。劉備はこれは良いと喜び、以後日増しに親密になってゆき、「自分にとって孔明はなお魚に水があるようなものだ」と言うようになった。
龐士元は名を統といい、龐徳公の甥である。公は平素から評判の高い人物であった。諸葛亮がその家に行くたびに、自分だけは床下から拝礼した。
十八史略 将軍と呉に会猟せん
2011-10-15 11:02:09 | 十八史略
曹操撃劉表。表卒。子擧荊州降操。劉備奔江陵。操追之。備走夏口。操進軍江陵、遂東下。亮謂備曰、請求救於孫將軍。亮見權説之。權大悦。操遣權書曰、今治水軍八十萬衆、與將軍會獵於呉。權以示羣下。莫不失色。張昭請迎之。魯肅以爲不可、勸權召周瑜。瑜至。曰、請得數萬精兵、進往夏口、保爲將軍破之。權抜刀斫前奏案曰、諸將吏敢言迎操者、與此案同。遂以瑜督三萬人、與備并力逆操、進遇於赤壁。
曹操、劉表を撃つ。表卒す。子(そう)、荊州を挙げて操に降る。劉備江陵に奔(はし)る。操之を追う。備、夏口に走る。操、軍を江陵に進め、遂に東に下る。亮、備に謂って曰く、「請う救いを孫将軍に求めん」と。亮、権に見(まみ)えて之に説く。権大いに悦ぶ。操、権に書を遣(おく)って曰く、「今水軍八十万衆を治め、将軍と呉に会猟(かいりょう)せん」と。権、以って群下に示す、色を失わざるもの莫(な)し。張昭之を迎えんと請う。魯肅以って不可と為し、権に勧めて周瑜を召さしむ。瑜至る。曰く、「請う数万の精兵を得て、進んで夏口に往き、保(ほ)して将軍の為に之を破らん」と。権、刀を抜いて前の奏案を斫(き)って曰く、「諸将吏敢えて操を迎えんと言う者は、此の案と同じからん」と。遂に瑜を以って三万人を督(とく)せしめ、備と力を併せて操を逆(むか)え、進んで赤壁に遇う。
江陵 湖北省江陵県。 夏口 湖北省武昌城の西。 治め 統率する。 会猟共に狩をすることだが、暗に決戦を挑むこと。 保 請合う。 奏案 上奏文を読む机。
曹操が劉表を攻撃した。前後して劉表が死に、子のが荊州をすべて献じて曹操に降った。劉備は江陵に逃れたが、曹操が追撃してきたので、さらに夏口に逃れた。曹操は軍を江陵に進め、さらに揚子江を下って東に向かった。諸葛亮は劉備に呉の孫権に救援を求めるよう勧め、自ら孫権のもとに赴いて同盟を説くと、孫権は大いに喜んだ。ところが曹操から「わが水軍八十万を率いて呉の地に赴き、孫将軍と狩りをしたいと思うが、いかがであろうか」と恫喝にもとれる書が届いた。孫権はこれを諸将に見せると皆畏れて顔色を変えた。張昭がまず曹操を迎えて降るよう説いたが魯粛がひとり反対を称え、周瑜を召して意見を聞くよう勧めた。周瑜は伺候すると「私に数万の精兵をお貸しください。夏口まで出陣して必ずや曹操を打ち破ってごらんにいれます」と請け合った。孫権は刀を抜いて机ごと断ち切って「今後曹操を迎えて降ろうなどと言う者がいたらこの机と同じになると思え」と言った。かくて周瑜に三万の兵を統率させ、劉備とともに曹操を迎え撃たせた。両軍は進んで赤壁の地で曹操の軍とあいまみえた。
十八史略 赤壁の戦い
2011-10-18 10:04:02 | 十八史略
子を生まばまさに孫仲謀の如くなるべし
瑜部將黄蓋曰、操軍方連船艦、首尾相接、可燒而走也。乃取蒙衝・鬭艦十艘、載燥荻枯柴、灌油其中、裹帷幔、上建旌旗、豫備走舸、繋於其尾。先以書遣操、詐欲降。時東南風急。蓋以十艘最著前、中江擧帆、餘船以次倶進。操軍皆指言、蓋降。去二里餘、同時發火。火烈風猛、船往如箭。燒盡北船、烟焰漲天。人馬溺燒、死者甚衆。瑜等率輕鋭、靁鼔大進。北軍大壊、操走還。後屢加兵於權、不得志。操歎息曰、生子當如孫仲謀。向者劉景昇兒子、豚犬耳。
瑜の部将黄蓋曰く、「操軍方(まさ)に船艦を連ね、首尾相接す、焼いて走らす可し」と。乃ち蒙衝(もうしょう)闘艦十艘を取り、燥荻枯柴(そうてきこさい)を載せて、油を其の中に潅(そそ)ぎ、帷幔(いまん)に裹(つつ)んで、上に旌旗(せいき)を建て、予め走舸(そうか)を備えて、其の尾に繋ぐ。先づ書を以って操に遣り、詐(いつわ)って降らんと欲すと為す。時に東南の風急なり。蓋、十艘を以って最も前に著(つ)け、中江(ちゅうこう)に帆を挙げ、余船、次(じ)を以って倶(とも)に進む。操の軍皆指さして言う、蓋降ると。去ること二里余、同時に火を発す。火烈しく風猛(たけ)く、船の往くこと箭(や)の如し。北船を焼き尽くし、烟焰(えんえん)天に漲る。人馬溺焼(できしょう)し、死する者甚だ衆(おお)し。瑜等軽鋭(けいえい)を率いて、靁鼔(らいこ)して大いに進む。北軍大いに壊(やぶ)れ、操走り還る。後屢しば兵を権に加うれども、志を得ず。操嘆息して曰く、「子を生まば当(まさ)に孫仲謀(そんちゅうぼう)の如くなるべし。向者(さき)の劉景昇の児子は、豚犬のみ」と。
首尾 舳艫(じくろ)、へさき、とも(舳も艫もともに船首船尾)。 蒙衝(艨艟) 敵船に衝突して突き破る軍船。 帷幔 幕、とばり。 走舸 はや舟。 靁鼔 靁は雷の古字、鼔 鼓を打つこと、鼔と鼓は別字。 豚犬のみ 自分の子を謙遜して豚児というのはここから。 孫仲謀 孫権の字。 劉景昇 劉表の字。
周瑜の部将黄蓋が言うには「曹操の軍は船首に船尾が接するほどの大船団であります。火攻めにして潰走させるべきでしょう」と。そこで突破船と戦闘艦十艘を選び枯草や柴を積み込み、油をそそぎ、幕で包んで上に旗を立てた。そして予め船尾に速舟を繋いだ。それから曹操に書を送り、偽って降伏を申し出ておいた。折から東南の風が激しくなった。黄蓋は十艘を先頭に揚子江の中流に帆をあげ、他の船も並んで後に続いた。曹操の軍はそれを指さして「黄蓋が降参してきた」と言い合っていた。操軍との間が二里ほどに迫ったころ、一斉に火を放った。火は激しく風強く、火船は矢の如く進み曹操軍の船団に突入し、焼き尽くした。焔と煙が天をおおうばかり、人馬はあるいは焼け死に、あるいは溺れ死に、さらに周瑜の率いる軽装の精鋭が鼓をとどろかせて、追い打ちをかけた。曹操軍は大敗し、散りぢりになって逃げ帰った。その後、しばしば戦いを仕かけたがことごとく失敗した。曹操は歎息してこう言った「子を持つなら孫権のような子が欲しい、さきに降伏した劉表の子などは豚か犬のようなものだ」
十八史略 別れて三日ならば即ち当に刮目して相待つべし
2011-10-20 10:27:42 | 十八史略
劉備徇荊州・江南諸郡。周瑜上疏於權曰、備有梟雄之姿。而有關羽・張飛、熊虎之將。聚此三人在疆埸。恐蛟龍得雲雨、終非池中物也。宜徙備置呉。權不從。瑜方議圖北方。會病卒。魯肅代領其兵。肅勸以荊州借劉備。權從之。權將呂蒙、初不學。權勸蒙讀書。魯肅後與蒙論議。大驚曰、卿非復呉下阿蒙。蒙曰、士別三日、即當刮目相待。
劉備、荊州・江南諸郡を徇(とな)う。周瑜、権に上疏(じょうそ)して曰く「備は梟雄の姿(し)有り。而して関羽・張飛、熊虎(ゆうこ)の将有り。此の三人を聚(あつ)めて疆埸(きょうえき)に在らしむ。恐らくは蛟龍の雲雨を得ば、終に池中の物に非ず。宜しく備を徙(うつ)して呉に置くべし」と。権従わず。瑜方(まさ)に北方を図(はか)らんことを議す。会(たまた)ま病(や)んで卒す。魯肅(ろしゅく)代って其の兵を領す。肅、権に勧めて荊州を以って劉備に借(か)さしむ。権之に従う。
権の将呂蒙(りょもう)、初め学ばず。権、蒙勧めて書を読ましむ。魯肅後に蒙と論議す。大いに驚いて曰く「卿は復(ま)た呉下の阿蒙に非ず」と。蒙曰く「士別れて三日ならば、即ち当(まさ)に刮目して相待つべし」と。
徇(とな)う 従える。 梟雄 勇猛な英雄。 疆埸 疆も埸(えき)も国ざかい。 蛟龍 みずち。 借 貸す意味もある。 阿蒙 阿は愛称。 刮目 目をこすってよく見る。
劉備は、荊州から江南の緒郡を説いて、帰服させていった。周瑜は孫権に「劉備は梟雄の相をしており、そのうえ関羽・張飛の猛将がおります。いまこの三人があつまって国境に集結しております。龍がひとたび雲雨を得たならば、池の中にじっとしている訳がありません、劉備だけをどうにかして呉の地に置くのがよろしいでしょう」と上書した。しかし孫権はこれに従わなかった。周瑜は一方で北の曹操を討つ策を図っていたが、病気で世を去ってしまった。魯肅が後を承けてその軍を率いることとなった。魯肅は荊州をしばらく劉備に貸すよう進言し、孫権はそれを聞き入れた。
孫権の将の呂蒙は無学であったが孫権が勧めて学問をさせた。しばらくして魯肅が呂蒙と議論したところ、大変驚いて「貴公はもはや私の知る呉下の蒙君ではない、まるで別人だ」と言うと、呂蒙は「士たるもの別れて三日も経ったら、よく目をこすって見なければなりませんな」と切り返した。
十八史略 関羽斬らる
2011-10-22 10:56:43 | 十八史略
驥足(きそく)を展(の)ぶるを得ん
劉備初用龐統、爲耒陽令。不治。魯肅遣備書曰、士元非百里才。使爲治中別駕、乃得展其驥足耳。備用之。勸取州。備留關羽守荊州、引兵泝流、自巴入蜀、襲劉璋、入成都。備既得州。孫權使人從備求荊州。備不肯還。遂爭之。已而分荊州。備自蜀取漢中、自立爲漢中王。漢中將關羽、自江陵出、攻燓城取襄陽。自許以南、往往遙應羽。威震華夏。曹操至議徙許都以避其鋒。司馬懿曰、備權外親内疎。關羽得志、權必不願也。可遣人勸權躡其後。許割江南以封權。操從之。時魯肅已死、呂蒙代之。亦勸權亦圖羽。操師救燓。權將陸遜、又襲羽後。羽狼狽走還。權軍獲羽斬之。遂定荊州。
劉備初め龐統(ほうとう)を用いて、耒陽(らいよう)の令と為す。治まらず。魯肅、備に書を遣(おく)って曰く、「士元(しげん)は百里の才に非ず。治中別駕(ちちゅうべつが)たらしめば、乃ち其の驥足(きそく)を展(の)ぶるを得んのみ」と。備之を用う。益州を取らんことを勧む。備、関羽を留めて荊州を守らしめ、兵を引いて流れを泝(さかのぼ)り、巴(は)より蜀に入り、劉璋(りゅうしょう)を襲って、成都に入る。備既に益州を得たり。孫権、人をして備従(よ)り荊州を求めしむ。備肯(あえ)て還さず。遂に之を争う。已にして荊州を分(わか)つ。備、蜀より漢中を取り、自立して漢中王と為る。漢中の将関羽、江陵より出でて、燓城(はんじょう)を攻めて襄陽(じょうよう)を取る。許(きょ)より以南、往々遥かに羽に応ず。威、華夏に震(ふる)う。曹操、許の都を徙(うつ)して以って其の鋒(ほこ)を避けんと議するに至る。司馬懿(しばい)曰く、「備と権とは外親にして内疎(そ)なり、関羽志を得(え)ば、権必ず願わざるなり。人をして権に勧めて其の後ろを躡(ふ)ましむ可し。江南を割いて以って権を封ぜんことを許せ」と。操之に従う。時に魯肅、已に死し、呂蒙之に代わる。亦権に勧めて羽を図(はか)らしむ。操の師、燓を救う。権の将陸遜、又羽が後ろを襲う。羽狼狽して走り還る。権の軍、羽を獲(え)て之を斬る。遂に荊州を定む。
士元 龐統の字。 治中別駕 刺史の副官。 驥 一日千里を走るといわれる駿馬。 往々 あちこち。 華夏 華は文華、夏は大きい。文化のひらけた大きい国。 躡(ふ)む 後を追うこと。 師 軍隊。
劉備は初め龐統を用いて耒陽の県令にしたが、少しも成果が現れなかった。そこに魯肅から「士元(龐統)はわずか百里四方の県を治める才ではありません。治中別駕に取り立てれば、その才能を存分に発揮できるでしょう」という書が届き、劉備は従った。すると龐統は益州を取ることを進言した。劉備は関羽に荊州の留守を任せ、兵を率いて揚子江をさかのぼり、巴郡から蜀郡へ進み、益州の牧の劉璋を襲って成都を占領した。すると孫権が使いをよこして、荊州の返還を求めた。劉備がはねつけて争いになったが、和睦して荊州を二分した。その後、劉備は蜀から漢中に進出して、自ら漢中王となった。
漢中王の将関羽は江陵県から進出して燓城を攻め、襄陽県を攻め取った。許から南の地方にも、はるか遠く関羽に呼応しようという動きがあって、その勢威は広大な地域に響きわたった。曹操のもとでは許の都を移してその矛先を避ける議論まで出るに至った。司馬懿が反対して、「劉備と孫権とはうわべは親しそうにしていますが、内心は反目しあっています。関羽が勢いをのばすことは孫権にとって願わしくないことでありましょう。そこで、人をやって、関羽を背後から脅かすよう孫権を説得すべきです。そのために江南の地を割いて王に封ずることを許すのです」曹操はこの意見を容れた。
このとき魯肅はすでに死に、呂蒙がこれに代っていたが、やはり関羽を攻めることを勧めていた。曹操の軍が燓城を救援に向かうと、孫権の部将の陸遜が関羽の背後を襲った。関羽はうろたえて荊州に逃げ帰るところを孫権の軍が捕えて斬り殺し、荊州は平定された。
十八史略 禪譲―漢の献帝から魏の曹丕へ
2011-10-25 09:05:28 | 十八史略
初曹操自兗州牧、入爲丞相。領冀州牧。封魏公。作銅雀臺於鄴。已而進爵爲王。用天子車服。出入警蹕。以子丕爲王太子。操卒。丕立。自爲丞相・冀州牧。魏羣臣言、魏當代漢。丕遂迫帝禪位、以帝爲山陽公。帝在位改元者三、曰初平・興平・建安。元年至二十五年、則皆曹操爲政時也。共三十一年。禪位又十四年而卒。漢自高祖元年爲王、五年爲帝、至是二十四世、四百二十六年。
初め曹操、兗州(えんしゅう)の牧より、入って丞相と為る。冀州(きしゅう)の牧を領す。魏公に封ぜらる。銅雀台を鄴(ぎょう)に作る。已にして爵を進めて王と為り、天子の車服を用い、出入(しゅつにゅう)に警蹕(けいひつ)す。子丕(ひ)を以って王太子と為す。操卒す。丕立つ。自ら丞相・冀州の牧と為る。魏の群臣、魏は当(まさ)に漢に代わるべしと言う。丕遂に帝に迫り位を禅(ゆず)らしめ、帝を以って山陽公と為す。帝位に在り改元する者(こと)三、初平・興平・建安と曰う。元年より二十五年に至るまでは、則ち皆曹操の政を為しし時なり。共に三十一年なり。位を禅って又十四年にして卒す。漢、高祖元年に王と為り、五年に帝と為りしより、是(ここ)に至って二十四世、四百二十六年なり。
兗州 山東、河南の地。 冀州 河北、山西の二省と河南の一部。 鄴 曹操が都を置いた河南省の地。 警蹕 天子行幸の折、人払いすること。警は出るとき、蹕は帰るとき。 禅る 禅譲。
曹操は初め兗州の長官から、朝廷に入って丞相になり、冀州の長官を兼任した。その後、魏公に封ぜられ銅雀台を鄴に造った。やがて公から王になり、車馬から衣服まで天子に倣い、出入の際には露払いして通行止めにした。子の曹丕を王太子と称した。曹操が死んで、曹丕が立ち、自ら丞相と冀州の長官になった。魏の群臣は口々に魏が漢にとって代わるべきだと言い、曹丕はついに献帝に迫って譲位させ、帝を山陽公とした。(220年)
献帝は位に在って改元すること三回、初平・興平・建安という。建安元年から二十五年までは曹操が政治を執り行った。献帝の在位は三十一年間、位を譲ってから十四年で没した。漢は高祖劉邦が元年に王となり、五年に帝となってからここに至るまで二十四世、四百二十六年であった。
十八史略 三国序
2011-10-27 09:13:13 | 十八史略
按曾氏云、天下非一統者、本可各自一國編集。又恐初學讀者、迷其時代之先後。今但以一國源流相接者爲提頭、而附同時之國於其。而曾氏而仍陳壽之舊、以魏稱帝、而附漢・呉。剡既遵朱子綱目義例、而改正少微通鑑矣。今復正此書、以漢接統云。
按(あん)ずるに曽氏の云(いわ)く、「天下一統に非ざる者は、本(もと)各自一国に編集すべし。又、初学の読者、その時代の先後に迷わんことを恐る。今但だ一国源流相接する者を以って提頭となして、同時の国をその間に附す」と。而して曽氏は陳寿の旧に仍(よ)り、魏を以って帝と称して、漢と呉を附せり。剡(えん)既に朱子の綱目の義例に遵(したが)って、少微通鑑(しょうびつがん)を改正せり。今復た此の書を正し、漢を以って統を接がしむと云う。
曽氏 曹先之、十八史略の編者。 提頭 先頭にかかげる。 陳寿 西晋の史家「三国志」を撰す。 剡 劉剡 この序文の著者。 綱目 通鑑綱目、司馬光の資治通鑑を宋の朱子が撰した書。 義例 体裁。 少微通鑑 宋の江贄の通鑑節要。
思うに、曹先之は「天下が統一されていないときは、それぞれの国ごとに編集するのが本来ではあるが、一方初学の読者がその時代の前後関係に迷うことになりかねない。そこでここでは一国の本源とつながっているものをまず先に掲げ、同時代の国を間に付け加えることとした」と述べている。そして曹先之は陳寿の旧例に倣って、魏を正統と見做し漢と呉をとを付け加えている。
すでに、私劉剡は朱子の通鑑綱目の体裁に従って、少微通鑑を改めたことがあるが、今またこの曹先之の旧本を正して、蜀漢が正統を継ぐものとすることとした。
最終更新:2023年04月04日 01:24