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正史三国志(wikisource中文)
太祖武皇帝、沛国譙の人なり、姓は曹、諱は操、字は孟徳、漢の相国曹参の後なり。〈〔『曹瞞伝』曰く:〕太祖一名は吉利、小字は阿瞞。王沈『魏書』曰く:その先は黄帝に出づ。当高陽の世、陸終の子を安と曰い、是を曹姓と為す。周の武王殷を克ち、先世の後を存し、曹侠を邾に封ず。春秋の世、盟会に与し、戦国に逮りて、楚に滅ぼさる。子孫分流し、或いは沛に家す。漢の高祖の起こるに、曹参功を以て平陽侯に封ぜられ、世襲爵土す、絶え復た紹ぎ、今に適嗣国を容城に於てす。〉桓帝の世、曹騰中常侍大長秋と為り、費亭侯に封ぜらる。〈司馬彪『続漢書』曰く:騰の父を節と曰い、字を元偉、素より仁厚を以て称す。隣人亡豕する者有り、節の豕に相類し、門に詣りこれを認む、節これと争わず;後に亡豕自ら其の家に還る、豕の主人大いに慙じ、認めし豕を送る、并に辞謝し節、節笑い而して之を受く。由是郷党貴叹す。長子を伯興、次子を仲興、次子を叔興。騰字を季興、少黄門従官を除く。永寧元年、鄧太后黄門令に詔して中黄門従官年少温謹なる者を選び、皇太子に書を配せしむ、騰その選に応ず。太子特に騰を親愛し、飲食賞賜衆と異有り。順帝即位し、小黄門と為り、中常侍大長秋に遷る。省闥に在ること三十余年、四帝に歴事し、未だ嘗て過有らず。好んで賢能を進達し、終に毀傷する所無かりし。其の称荐する所、若くは陳留の虞放、辺韶、南陽の延固、張温、弘農の張奐、潁川の堂谿典等、皆位を公卿に致し、而してその善を伐らず。蜀郡太守因計吏を以て敬を修し騰に於いて、益州刺史の种暠函谷関に其の牋を搜り得る、太守に上げ、并に騰が内臣外交する、当にする所ずと奏す、官を免じ治罪せんことを請う。帝曰く:「牋外より来り、騰の書出ず、其の罪に非ず。」乃ち暠の奏を寝す。騰介意せず、常に暠を称歎し、以て暠得て事上の節を為す。暠後に司徒と為り、人に語りて曰く:「今日公と為るは、乃ち曹常侍の恩なり。」騰の行事、皆此の類なり。桓帝即位し、騰を以て先帝の旧臣、忠孝彰著、費亭侯に封ぜられ、位を特進に加う。太和三年、騰を追尊して曰く高皇帝。〉養子嵩嗣ぎ、官太尉に至り、其の生出の本末を審る能わず。〈『続漢書』曰く:嵩字を巨高。質性敦慎、所在忠孝。司隷校尉と為り、霊帝擢げて大司農、大鴻臚と為し、崔烈に代わりて太尉と為す。黄初元年、嵩を追尊して曰く太皇帝。呉人作る『曹瞞伝』及び郭頒『世語』並に云う:嵩、夏侯氏の子、夏侯惇の叔父。太祖惇に於て従父兄弟と為る。〉嵩太祖を生む。

太祖少くして機警、権数有り、而して任侠放蕩、行業を治めず、故に世人未だ之を奇とせず;〈『曹瞞伝』云う:太祖少くして飛鷹走狗を好み、遊蕩すること度無し、その叔父数言う之を嵩に於いて。太祖これを患う、後に叔父に逢う路に於いて、乃ち陽敗し面喎り口;叔父怪しみて其の故を問う、太祖曰く:「卒中風を悪み。」叔父告ぐ之を嵩に於いて。嵩驚愕し、太祖を呼び、太祖口貌故の如し。嵩問いて曰く:「叔父言う汝中風、已に差し乎。」太祖曰く:「初め中風せず、但愛を失いし叔父に於いて、故に罔を見ればなり。」嵩乃ち疑う。自後叔父告ぐる所有り、嵩終に復た信ぜず、太祖於て是れ益々意を肆にす。〉惟れ梁国の橋玄、南陽の何顒異とす。玄太祖に謂いて曰く:「天下将に乱れんとす、命世の才に非ずしては能く済わず、能くこれを安んずる者は、その君に在るや。」〈『魏書』曰く:太尉橋玄、世に名の知る人、太祖を覩して之を異とし、曰く:「吾れ天下の名士を見ること多し、未だ君の若く有る者無し!君善く自持す。吾れ老いぬ!願わくは妻子を以て託と為さん。」由是れ声名益々重し。『続漢書』曰く:玄字を公祖、厳明才略有り、人物に長ず。張璠『漢紀』曰く:玄位を中外に歴し、剛断を以て称し、謙倹士を下し、王爵を以て私親とせず。光和の中太尉と為り、久病を以て策罷せられ、太中大夫を拝し、卒す、家貧しく産業乏しく、柩殯うる所無し。當世これを以て称して名臣と為す。『世語』曰く:玄太祖に謂いて曰く:「君未だ名無く、許子将に交わる可し。」太祖乃ち子将を造り、子将納る、由是れ知名す。孫盛『異同雑語』云う:太祖嘗て私に中常侍張讓の室に入り、讓これを覚ゆ;乃ち手戟を舞いて庭に於いて、垣を踰えて出ず。才武人に絶し、之を害する能わず。博覧群書、特に兵法を好み、諸家の兵法を抄集し、名づけて接要と曰い、また孫武の十三篇を注し、皆世に伝わる。嘗て許子将に問いて曰く:「我は何如の人ぞ。」子将答えず。固くこれを問うに、子将曰く:「子は治世の能臣、乱世の姦雄。」太祖大いに笑う。〉年二十にして、孝廉に挙げられ郎と為り、洛陽北部尉を除き、頓丘令に遷る、

《曹瞞伝》に曰く:太祖初めて尉の廨に入り、四門を繕治す。五色の棒を造り、門の左右に各々十余枚を縣し、禁を犯す者有れば、豪彊を避けず、皆棒殺す。後数月して、霊帝小黄門蹇碩の叔父夜行を愛し幸い、即ちこれを殺す。京師跡を斂め、敢えて犯す者莫し。近習の寵臣咸これを疾む、然れども傷う能わず、於是共に称薦す、故に遷りて頓丘令となる。〉徵して議郎と拜せらる。〈『魏書』に曰く:太祖從妹夫の㶏彊侯宋奇誅せられ、從坐して官を免ぜらる。後に古学を明に能くし、復た徵して議郎と拜せらる。先に大将軍竇武、太傅陳蕃閹官を誅せんと謀りて、反って害せらる。太祖上書して武等の正直なるにして陷害を見、姦邪朝に盈ち、善人壅塞し、その言甚だ切なり;霊帝用いる能わず。是れ後詔書に三府を勑し:州県の政理に効無く、民の作る謠言を爲す者免じてこれを罷す。三公傾邪して、皆世の見用を希み、貨賂並びに行い、彊者怨を爲し、舉奏を見ず、弱者道を守り、多く陷毀を被る。太祖これを疾む。是の歳災異を以て博に得失を問う、因りて復た上書して切諌し、三公の舉奏専ら貴戚を回避するの意を說ぶ。奏上して、天子感寤し、これを三府に示して責讓し、諸の謠言を以て徵する者皆議郎と拜す。是れ後政教日に乱れ、豪猾益々熾く、多く摧毀する所あり;太祖匡正する能わざるを知り、遂に復た言を献ぜず。〉

光和の末、黄巾起つ。騎都尉に拜せられ、潁川の賊を討つ。濟南相に遷り、国に十余県有り、長吏多く貴戚に阿附し、贓污狼藉す、於是これを奏してその八を免ず;淫祀を禁斷し、姦宄逃竄し、郡界肅然たり。〈『魏書』に曰く:長吏取ること貪饕にして、貴勢に依倚し、前相を歴るも舉するを見ざる;太祖至るを聞き、咸皆舉免し、小大震怖し、姦宄遁逃し、他郡に竄入す。政教大いに行わる、一郡清平たり。初め、城陽景王劉章漢に功有りしを以て、故にその国の為に祠を立て、青州の諸郡相倣效し、濟南尤も盛んにして、六百余祠に至る。賈人或いは二千石の輿服を假し導従して倡楽を作し、奢侈日に甚だしく、民は貧窮に坐し、歴世の長吏敢えて禁絶する者無し。太祖到り、皆祠屋を毀壞し、止むること官吏民をして祠祀するを得ざらしむ。及び政を秉るに至り、遂に姦邪鬼神の事を除き、世の淫祀由りてこれを絶つ。〉久しからず、徵して還りて東郡太守と為る;就かず、疾を称して郷里に歸る。〈『魏書』に曰く:於是権臣専ら朝にし、貴戚横恣たり。太祖道を違えて容を取り能わず。数数干忤し、家禍を爲すを恐れ、遂に留まること宿衞を乞う。議郎に拜せられ、常に疾病を託し、輙ち告して郷里に歸る;室を城外に築き、春夏書伝を習い読み、秋冬弋獵し、以て自ら楽しむ。〉

頃之くして、冀州刺史王芬、南陽許攸、沛国周旌等豪傑を連結し、霊帝を廃して、合肥侯を立てんと謀り、以て太祖に告ぐ、太祖これを拒む。芬等遂に敗る。〈司馬彪『九州春秋』に曰く:於是陳蕃の子逸と術士平原の襄楷芬の坐に會す、楷曰く:「天文宦者に利あらず、黄門、常侍の貴族滅ぶ。」逸喜ぶ。芬曰く:「若し然らば、芬願わくは駆除せん。」於是攸等と結謀す。霊帝北巡して河間の旧宅に欲す、芬等謀りて因りてこの難を作さんとし、上書して言う黒山の賊郡県を攻劫し、起兵を得ることを求む。会北方に赤気有り、東西竟天し、太史上言して「当に陰謀有るべし、北行宜しからず」と、帝乃ち止む。芬に兵を罷むることを勑し、俄かにしてこれを徵す。芬懼れ、自殺す。

《魏書》載太祖芬を拒む辞に曰く:「夫れ廃立の事は、天下の至りて不祥なり。古人の権を有し成敗の計を軽重してこれを行う者は、伊尹、霍光是なり。伊尹は至忠の誠を懐き、宰臣の勢を据え、官司の上に処す。故に進退廃置し、計を従事して立つ。及び霍光の国を託するの任を受け、宗臣の位を藉り、内は太后の秉政の重に因り、外は群卿の同欲の勢有り、昌邑即位の日浅く、未だ貴寵無く、朝に讜臣乏しく、議は密近より出ず。故に計行は転圜の如く、事成は摧朽の如し。今諸君徒らに曩者の易きを見て、未だ当今の難きを覩ず。諸君自ら度り、衆を結び党を連ね、何ぞ七国に若かん。合肥の貴、孰れか呉、楚に若かん。而して非常を造作し、必ず克たらんと欲望するは、亦た危うからずや!」〉

金城の辺章、韓遂刺史郡守を殺して以て叛し、衆十余万、天下騒動す。太祖を徴して典軍校尉と為す。会に霊帝崩じ、太子即位し、太后臨朝す。大将軍何進袁紹と謀りて宦官を誅さんとす、太后聴かず。進乃ち董卓を召し、以て太后を脅さんと欲す、〈《魏書》曰く:太祖聞きてこれを笑い曰く:「閹豎の官は、古今宜しく有るべし、但し世主当たらずしてこれに権寵を假し、至るに此に使む。既にその罪を治むるに、当に元悪を誅すべし、一獄吏足る矣、何ぞ必ずしも紛紛として外将を召さんや。尽くこれを誅さんと欲すれば、事必ず宣露す、吾れその敗るるを見ん。」〉卓未だ至らずして進殺さる。卓到り、帝を廃して弘農王と為し献帝を立て、京都大いに乱る。卓太祖を表して驍騎校尉と為し、計事を与にせんと欲す。太祖乃ち姓名を変易し、間行して東に帰る。〈《魏書》曰く:太祖卓終に必ず覆敗す、遂に就きて拝せず、逃れて郷里に帰る。数騎を従えて故人成臯の呂伯奢を過ぐ;伯奢在らず、その子賓客と共に太祖を劫し、馬及び物を取る、太祖手刃して数人を撃殺す。『世語』曰く:太祖伯奢を過ぐ。伯奢出行し、五子皆在り、賓主の礼を備う。太祖自ら以て卓の命に背き、其の己を図るを疑い、手剣して夜に八人を殺して去る。孫盛『雑記』曰く:太祖その食器の声を聞き、以て己を図ると為し、遂に夜にこれを殺す。既にして悽愴して曰く:「寧ろ我人に負くとも、人我に負くる毋かれ!」遂に行く。〉関を出で、中牟を過ぐ、亭長これを疑い、執えて県に詣る、邑中或いは竊かにこれを識り、請いて解かるるを得。〈『世語』曰く:中牟これを疑いて亡人と為し、県に拘るを見る。時に掾も亦た已に卓の書を被る;唯だ功曹心にこれ太祖と知り、世方に乱れ、宜しく天下の雄儁を拘るべからず、因りて白してこれを釈せしむ。〉卓遂に太后及び弘農王を殺す。太祖陳留に至り、家財を散じ、義兵を合し、将に以て卓を誅さんとす。冬十二月、始めて兵を己吾に起こす、〈『世語』曰く:陳留孝廉の衛茲家財を以て太祖に資し、使して兵を起こさしむ、衆五千人有り。〉是の歳中平六年なり。

初平元年春正月、後将軍袁術、冀州牧韓馥、〈《英雄記》曰く:馥字を文節、潁川の人なり。御史中丞と為る。董卓冀州牧に挙ぐ。時に冀州民人殷盛、兵糧優足す。袁紹の勃海に在るに、馥その興兵を恐れ、数部の従事を遣わしてこれを守らしめ、動揺するを得ず。東郡太守橋瑁詐りて京師三公の移書を作りて州郡に与え、卓の罪悪を陳べ、「逼迫を見、以て自救する無く、義兵を企望し、国の患難を解かん」と云う。馥移を得て、諸従事に請いて問いて曰く:「今当に袁氏を助けんか、董卓を助けんか?」治中従事劉子惠曰く:「今兵を興すは国の為なり、何ぞ袁、董を謂わん!」馥自ら言短きを知りて慙色有り。子惠復た言いて曰く:「兵は凶事なり、首と為すべからず;今宜しく往きて他州を視、発動する者有らば、然る後にこれに和すべし。冀州は他州に於いて弱と為さず、他人の功未だ冀州の右に在る者有らず。」馥これを然とす。馥乃ち書を作りて紹に与え、卓の悪を道い、その挙兵を聴す。〉豫州刺史孔伷、〈《英雄記》曰く:伷字を公緒、陳留の人なり。張璠『漢紀』、鄭泰卓に説きて云う:「孔公緒能く清談高論し、枯を噓き生を吹く。」〉兗州刺史劉岱、〈岱、劉繇の兄、事『呉志』に見ゆ。〉河内太守王匡、〈《英雄記》曰く:匡字を公節、泰山の人なり。財を軽んじ施すを好み、任侠を以て聞こゆ。大将軍何進府に辟し符使を進む、匡徐州に於いて彊弩五百を発し西して京師に詣る。会に進敗れ、匡郷里に還る。家を起こし、河内太守を拝す。謝承『後漢書』曰く:匡少くして蔡邕と善し。その年卓軍の為に敗れ、走りて泰山に還り、勁勇を収集して数千人を得、張邈と合せんと欲す。匡先ず執金吾胡母班を殺す。班の親属憤怒に勝えず、太祖と勢を并せ、共に匡を殺す。〉勃海太守袁紹、陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、〈《英雄記》曰く:瑁字を元偉、玄の族子なり。先ず兗州刺史と為り、甚だ威恵有り。〉山陽太守袁遺、〈遺字を伯業、紹の従兄なり。長安令と為る。河間の張超嘗て遺を太尉朱儁に薦め、遺を称して「冠世の懿有り、時を幹るの量有り。その忠允亮直、固より天の縦する所なり;若し乃ち載籍を包羅し、百氏を管綜し、高に登りて能く賦し、物を覩て名を知る、これを今日に求むれば、邈焉として儔靡し。」事超集に在り。『英雄記』曰く:紹後に遺を用いて揚州刺史と為し、袁術の為に敗る。太祖称して「長大して能く勤学する者は、惟だ吾と袁伯業のみ。」語文帝『典論』に在り。〉済北相鮑信〈信事子『勛伝』に見ゆ。〉同時に倶に兵を起こし、衆各々数万、紹を推して盟主と為す。太祖奮武将軍を行う。

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最終更新:2024年11月09日 23:05