十八史略 昭烈皇帝
2011-10-29 09:56:08 | 十八史略
昭烈皇帝諱備、字玄、漢景帝子中山靖王勝之後。有大志。少言語、喜怒不形。身長七尺五寸。垂手下膝、顧自見其耳。
蜀中傳言、曹丕簒立、帝已遇害。於是漢中王、發喪制服、諡曰孝愍皇帝。夏四月、即帝位於武擔之南、大赦、改元章武。
以諸葛亮爲丞相、許靖爲司徒。
立宗廟、袷祭高皇帝以下。
立夫人呉氏爲皇后、子禪爲皇太子。
昭烈皇帝諱(いみな)は備、字(あざな)は玄徳。漢の景帝の子の中山靖王勝の後(のち)なり。大志有り。言語少なく、喜怒形(あら)わさず。身の長(たけ)七尺五寸。手を垂るれば膝より下り、顧みれば自ら其の耳を見るという。
蜀中伝えて言う、曹丕簒立(さんりつ)して、帝已に害に遇えりと。是(ここ)に於いて漢中王、喪を発し服を制し、諡(おくりな)して孝愍皇帝(こうびんこうてい)と曰う。夏四月、帝位に武担の南に即き、大赦し、元を章武と改む。
諸葛亮を以って丞相と為し、許靖(きょせい)を司徒と為す。
宗廟を立てて、高皇帝以下を袷祭(こうさい)す。
夫人の呉氏を立てて皇后と為し、子の禅を皇太子と為す。
諱 生きているときは名といい、死んでからいみなと言う。字 男子が成人後につける別名。 諡 死後にその徳を称えて贈る称号。 簒立 帝位を奪って代り立つ。 服を制し 喪に服すこと。 武擔 武担山。袷祭 あわせ祭る、合祀。
昭烈皇帝は諱は備、字は玄徳。漢の景帝の子の中山に封ぜられた靖王勝の後裔である。大志を抱き、口数少なく、喜怒を表さなかった。身の丈七尺五寸、手を垂れると膝より下まで届き、ふり返ると自分の耳が見えたといわれる。
曹丕が帝位を奪って立ち、献帝は殺害されたとの噂が伝わった。漢中王劉備は国中に喪を発して自ら服喪して、献帝に孝愍皇帝と諡を贈った。この夏の四月、漢中王は武担山の南で帝位に即き(221年)大赦を行い、元号を章武とした。
また諸葛亮を丞相に、許靖を司徒に任命した。
宗廟を立てて、高祖以下の皇帝をあわせ祭った。
夫人の呉氏を皇后に立て、子の禅を皇太子とした。
十八史略 車載斗量あげて数うべからず。
2011-11-01 10:57:43 | 十八史略
魏主丕、姓曹氏、沛國譙人也。父操爲魏王、丕嗣位。首立九品官人之法。州郡皆置九品中正、區別人物、第其高下。丕既簒漢、自立爲帝、追尊操爲太祖武皇帝、改元黄初。
帝恥關羽之没、自將伐孫權。權求和不許。權遣使於魏。魏封權爲呉王。魏主問呉使趙咨曰、呉王頗知學乎。咨曰、呉王任賢使能、志存經略。雖有餘閑博覧書史、不效書生尋章摘句。魏主曰、呉難魏乎。咨曰、帶甲百萬、江・漢爲池。南難之有。曰、呉如大夫者幾人。咨曰、聰明特達者、八九十人。如臣之比、車載斗量不可勝數。
魏主丕、姓は曹氏、沛国(はいこく)譙(しょう)の人なり。父の操、魏王と為り、丕位を嗣(つ)ぐ。首として九品もて人を官するの法を立つ。州郡皆九品の中正を置き、人物を区別して、其の高下を第(つい)でしむ。丕既に漢を簒(うば)い、自ら立って帝と為り、操を追尊して太祖武皇帝と為し、黄初(こうしょ)と改元す。
帝、関羽の没せしを恥ぢ、自ら将として孫権を伐つ。権、和を求むれども許さず。権、使いを魏に遣わす。魏、権を封じて呉王と為す。魏主、呉の使いの趙咨(ちょうし)に問うて曰く、「呉王、頗る学を知れるか」と。咨の曰く、「呉王は賢を任じ能を使い、志経略に存す。余閑有れば博く書史を覧ると雖も、書生の章を尋ね句を摘むに效(なら)わず」と。魏主曰く、「呉は魏を難(はばか)るか」と。咨の曰く「帯甲百万、江・漢を池と為す。何の難ることか之有らん」と。曰く、「呉に大夫の如き者幾人かある」と。咨の曰く「聡明特達の者、八九十人あり。臣の如きは、車に載せ斗もて量(はか)るとも、勝(あ)げて数う可からず」と。
譙 安徽省毫県。 九品中正 官名、各地の人物を九等に評価して推挙した。 等 順序を定める、格付け。 頗る すこし、かなり。 難るか 憂え、恐れる。 帯甲 甲冑をつけた兵士。 江・漢 揚子江と漢水。 勝 ①あげる、たえる、こらえる、できる、すぎる、しのぐ、のる、あげて、ことごとく②かつ、まさる、すぐれる。
魏の国主丕、姓は曹氏、沛国譙のひとなり。父の操、魏王となり、丕が位を嗣いだ。まず手始めに官吏登用の九品官人法を定めた。それは州、郡に九品中正官を置き、人物の優劣を区別たもので、高下の順序をつけて任用することとした。丕はやがて漢の帝位を奪って、みずから皇帝となり、父の操を追尊して太祖武皇帝とし、年号を黄初(こうしょ)と改元した。(220年)
昭烈帝劉備は関羽が呉軍に討たれたことを悔み、自ら兵をひきいて孫権を伐ちに出発した。孫権は和睦を求めたが容れられず、魏に使いを遣って救いを求めた。魏はそれを受けて、孫権を呉王に封じた。このとき、曹丕は呉の使いの趙咨に問いかけた。「呉王は少しは学問をなされるかな。」咨は答えて「呉王は賢者を登用して有能の者を使い、その志すところは天下統治にありますから、余暇には歴史書を読みますが、書生が一字一句を追求するようなことはございません。」また、「呉は魏を恐れているか」「甲冑をつけた兵士が百万、揚子江・漢水が濠となっております、なにを恐れることがありましょう。」さらに、「貴公ほどの人はどのくらい居られるか」「聡明で特出した者が八、九十人おります。わたくし程度の者なら、車に積み、ますで計ってもすべて数え切れないくらいであります。」
十八史略 昭烈帝劉備崩ず
2011-11-03 17:27:59 | 十八史略
帝自巫峽至夷陵、立數十屯、與呉軍相拒累月。呉將陸遜、連破其四十餘營。帝夜遁。
魏主責呉侍子。不至。怒伐之。呉王改元黄武、臨江拒守。
三年、夏四月、帝崩。在位三年。改元者一、曰章武。諡曰昭烈皇帝。太子禪即位。封亮爲武郷侯。太子既立。是爲後皇帝。
帝、巫峽(ふきょう)より夷陵(いりょう)に数十屯を立て、呉軍と相拒(ふせ)ぐこと累月(るいげつ)、呉将陸遜、連(しき)りにその四十余営を破る。帝、夜遁(の)がる。
魏主、呉の侍子(じし)を責む。至らず。怒って之を伐つ。呉王元(げん)を黄武と改め、江に臨んで拒(ふせ)ぎ守る。
三年夏四月、帝崩ず。在位三年。元を改むる者(こと)一、章武と曰う。諡(おくりな)して昭烈皇帝と曰う。太子の禅、位に即く。亮を封じて武郷侯と為す。太子既に立つ。是を後皇帝と為す。
屯 駐屯地。 連 しきりに、つづけて。 侍子 自分の子を差し出して天子に仕えさせる一種の人質。
昭烈帝劉備は、巫峽から夷陵にかけて数十の陣営を築いて、呉軍と対峙すること幾月かにおよんだ。呉の将陸遜が続けざまに四十余りを撃ち破ったので、帝は夜にまぎれて逃げ帰った。
魏の曹丕は孫権が約束の人質を出さないのを責めたが、遂に怒って呉を攻めた。呉王孫権は元号を黄武と改め、揚子江に臨んで魏軍と対峙した。
漢の章武三年(223年)夏四月、昭烈帝が崩じた。改元は一度で章武である。諡を昭烈皇帝という。太子の禅が位を継ぎ、諸葛亮を武郷侯に封じた。太子が即位した、これが後皇帝(こうこうてい)である。
十八史略 昭烈皇帝の遺言
2011-11-05 09:16:23 | 十八史略
嗣子輔く可くんば之を輔けよ
後皇帝名禪、字公嗣、昭烈皇帝子也。年十七即位。改元建興。丞相諸葛亮受遺詔輔政。昭烈臨終謂亮曰、君才十倍曹丕。必能安國家、終定大事。嗣子可輔輔之。如其不可、君可自取。亮涕泣曰、臣敢不竭股肱之力、效忠貞之節、繼之以死。亮乃約官職、修法制、下教曰、夫參署者、集衆思、廣忠也。若遠小嫌、難相違覆、曠闕損矣。亮乃遣芝、使呉修好。芝見呉王曰、蜀有重險之固。呉有三江之阻。共爲脣齒、進可兼并天下、退可鼎足而立。呉遂絶魏專與漢和。
後皇帝、名は禅、字は公嗣(こうし)、昭烈皇帝の子なり。年十七にして位に即く。元を建興と改む。丞相の諸葛亮、遺詔を受けて政を輔(たす)く。昭烈、終りに臨んで亮に謂って曰く、「君の才は曹丕に十倍せり。必ず能く国家を安んじ、終(つい)に大事を定めん。嗣子輔く可くんば之を輔けよ。如(も)し其れ不可ならば、君、自ら取る可し」と。亮、涕泣(ていきゅう)して曰く、「臣敢えて股肱(ここう)の力を竭(つく)し、忠貞の節を效(いた)し、之に継ぐに死を以ってせざらんや、」と。亮乃ち官職を約し、法制を修め、教えを下して曰く、「夫(そ)れ参署は、衆思(しゅうし)を集め、忠益を広むるなり。若し小嫌(しょうけん)を遠ざけ、相違覆(いふく)することを難(はばか)らば、曠闕(こうけつ)して損あらん、」と。亮、乃ち芝(とうし)を遣わし、呉に使いして好(よしみ)を修めしむ。芝、呉王に見(まみ)えて曰く、「蜀に重険(じゅうけん)の固(かため)有り。呉に三江の阻(そ)有り。共に唇歯(しんし)を為さば、進んでは天下を兼并(けんぺい)す可く、退いては鼎足(ていそく)して立つ可し、」と。呉、遂に魏と絶(た)ち、専ら漢と和す。
敢不 反語、(敢えて・・せざらんや)と読む。不敢は否定(敢えて・・せず)。 股肱 ももとひじ、全身。 参署 合議制、大勢が参加してその結果に署名する。 衆思 多くの意見。 忠益 忠言の益。 小嫌 些細な気がね。 違覆 異見を述べ、繰り返し審議すること。 曠闕 曠は空しい、闕は欠けること、ないがしろになること。 三江 呉淞・銭塘・浦陽。 唇歯 親密な間柄。 兼并 併せもつ。 鼎足 三本足、蜀、呉、魏が並び立つ。
後皇帝、名は禅、字は公嗣といい、昭烈皇帝の子である。十七歳で位に即き、年号を建興と改めた。丞相の諸葛亮は昭烈皇帝の遺言を受けて政治を補佐した。昭烈帝の臨終の際、亮に「君の才能は魏の曹丕に比べて十倍にも勝る。国家を安泰にし、天下統一の大事をなすことができよう。補佐するに足る器量が禅にあるなら、援けてやって欲しい、もしその甲斐が無いようなら、君自ら天下を取ってくれ」と言った。亮は涙を流して、「私は何としても臣下として全力をもって、忠節を尽し、ついには一命をも投げ出さずにおられましょうか」と申し上げた。こうして亮はまず官職を簡素にし、法制を改め、群臣に、「そもそも参署とは衆知を集め、忠言の益を広めるためのものである。もし些細な気兼ねから異議をさしはさむことを憚り審議を繰り返すことを厭えば、天下の政務はなおざりになり、ひいては国の大損失となるであろう。」と訓示した。ついで諸葛亮は芝を使者として呉に派遣し、好(よし)みを通じさせた。芝は呉王に面会して、「わが蜀にはいく重もの天然の要害があります。貴国には呉淞・銭塘・浦陽の三江の険阻があります。共に唇と歯のような切っても切れぬ間柄となれば、進んでは天下を併せ持つことが出来ましょう。退いては鼎の足のように三国が並び立つことができます。」と言上した。呉王は魏と絶ち、もっぱら蜀漢と親しく交わった。
十八史略 猛獲七縦七禽
2011-11-08 11:04:26 | 十八史略
魏主以舟師撃呉。呉列艦于江。江水盛長。魏主臨望、歎曰、我雖有武夫千羣、無所施也。於是還師。
南夷畔漢。丞相亮往平之。有孟獲者。素爲夷漢所服。亮生致獲、使觀營陣、緃使更戰。七緃七禽、猶遺獲。獲不去曰、公天威也。南人不復反矣。
魏主又以舟師臨呉。見波濤洶湧、歎曰、嗟乎、固天所以限南北也。
魏主丕殂。僭位七年。改元者一、曰黄初。諡曰文皇帝。子叡立。是爲明帝。叡母被誅。丕嘗與叡出獵、見子母鹿。既射其母、使叡射其子。叡泣曰、陛下已殺其母。臣不忍殺其子。丕惻然。及是爲嗣即位。
處士管寧、字幼安。自東漢末、避地遼東三十七年。魏徴之。乃浮海西歸。拝官不受。
魏主舟師(しゅうし)を以って呉を撃つ。呉、艦を江に列す。江水盛長す。魏主、臨望(りんぼう)し、歎じて曰く、我、武夫(ぶふ)千群有りと雖も、施す所無きなり、と。是(ここ)に於いて師を還す。
南夷、漢に畔(そむ)く。丞相亮、往(ゆ)いて之を平らぐ。孟獲という者有り。素より夷漢(いかん)の服する所と為る。亮、獲を生致(せいち)し、営陣を観(み)しめ、縦(ゆる)して更に戦わしむ。七縦七禽(しちしょうしちきん)、猶獲を遣(や)る。獲、去らずして曰く、公は天威なり。南人復た反せず、と。
魏主、又舟師を以って呉に臨む。波濤の洶湧(きょうよう)するを見て、歎じて曰く、嗟乎(ああ)、固(まこと)に天の南北に限る所以(ゆえん)なり、と。
魏主丕、殂(そ)す。位を僭(せん)すること七年。改元する者(こと)一、黄初と曰う。諡(おくりな)して文皇帝と曰う。子の叡(えい)立つ。是を明帝と為す。叡の母、誅せらる。
丕、嘗て叡と出でて猟し、子母(しぼ)の鹿を見る。既に其の母を射(い)、叡をして其の子を射しむ。叡、泣いて曰く、陛下、已に其の母を殺せり。臣、其の子を殺すに忍びず、と。丕惻然(そくぜん)たり。是(ここ)に及んで、嗣と為り、位に即く。
処士管寧(かんねい)、字は幼安。東漢の末より、地を遼東に避くること三十七年。魏、之を徴(め)す。乃ち海に浮かんで西に帰る。官に拝すれども、受けず。
舟師 水軍、ふないくさ。 夷漢の服する所 夷も漢も共に畏服する。 生致 生け捕り。 七縦七禽 七度解き放って七度捕える。 洶湧 波が逆巻くさま。殂す 死ぬこと。 僭 身分を侵すこと、僭称。 惻然 あわれみ、心を痛めること。処士 仕官していない人。
魏主曹丕が水軍を率いて呉を攻めた。呉は軍船を揚子江に並べてこれを迎えた。折しも揚子江の水かさは増していた。曹丕はそれを見ると、「千隊ものつわものを率いているが、これではどうしようもない」と軍を帰した。
その頃、雲南の族が漢に叛いた。丞相の諸葛亮が出兵してこれを平定したが、猛獲という勇者がおり、族はもとより、漢でもその勇猛ぶりは知れ渡っていた。亮はこの猛獲を生け捕りにして、漢の陣営を見せた後、解き放って再度戦う機会を与えた。七たび解き放って七たびとらえた。なおも行かせようとすると、猛獲はこう言った「公の武威は天賦のものです。南のものは二度と叛きません」と。
その後、曹丕は再び水軍を発して呉に向かったが、又もや逆巻く波に遮られた。嘆息して「ああ、まことにこの揚子江は、天が南と北に天下を分かとうという意志のあらわれであろうか」と言った。
魏主曹丕が病死した(226年)。帝位を僭称すること七年、改元すること一度、黄初といった。文皇帝とおくりなした。子の叡が位に立った。これを明帝という。叡の母は以前に讒言にあって誅殺されていた。
曹丕はある日、叡をつれて猟にでかけ、親子づれの鹿を見つけた。丕がすかさず母鹿を射止めると叡に向かって子鹿を射るよう命じた。叡は泣いて訴えた「陛下は母鹿を殺しました。私はその子を殺すに忍びません」と。それを聞いて丕は悲痛な思いをした。こうして叡が後嗣ぎとなり、位に即いたのである。
民間の士に管寧という者がいた。字を幼安といい、東漢の末から、乱世を避けて、遼東の地に居ること三十七年もの間に及んだ。曹丕がこれを招いたところ、海路西に向かって魏に帰ってきたが、士官を固辞して受けなかった。
十八史略 出師の表
2011-11-10 14:39:17 | 十八史略
漢丞相亮、率諸軍北伐魏。臨發上疏曰、今天下三分、州疲弊。此危急存亡之秋也。宜開張聖聽、不宜塞忠諌之路。宮中・府中、倶爲一體。陟罰臧否、不宜異同。若有作姦犯科及忠善者、宜付有司論其刑賞、以昭平明之治。親賢臣遠小人、此先漢所以興隆也。親小人遠賢臣、此後漢所以傾頽也。臣本布衣、躬畊南陽、苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以當世之事。由是感激、許先帝以驅馳。先帝知臣謹慎、臨崩、寄以大事。受命以來、夙夜憂懼、恐付託不效、以傷先帝之明。故五月渡瀘、深入不毛。今南方已定、兵甲已足。當奬率三軍、北定中原。興復漢室、還于舊都、此臣所以報先帝而忠陛下之職分也。遂屯漢中。
漢の丞相亮、諸軍を率いて、北のかた魏を伐つ。発するに臨んで、上疏(じょうそ)して曰く、「今、天下三分し、益州疲弊せり。此れ危急存亡の秋(とき)なり。宜しく聖聴を開帳すべく、宜しく忠諌(ちゅうかん)の路を塞ぐべからず。宮中・府中は倶(とも)に一体たり。臧否(ぞうひ)を陟罰(ちょくばつ)するに、宜しく異同あるべからず。若し、姦を作(な)し、科を犯し、及び忠善の者有らば、宜しく有司に付して、その刑賞を論じ、以って平明の治を昭(あきら)かにすべし。賢臣を親しみ、小人を遠ざくるは、此れ先漢の興隆せし所以なり。小人を親しみ、賢人を遠ざくるは、此れ後漢の傾頽(けいたい)せし所以なり。臣、本(もと)布衣(ふい)、南陽に躬畊(きゅうこう)し、性命を乱世に苟全(こうぜん)して、聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めず。先帝、臣が卑鄙(ひひ)なるを以ってせず、猥(みだ)りに自ら枉屈(おうくつ)して、臣を草廬(そうろ)の中に三顧し、臣に諮(と)うに当世の事を以ってす。是に由(よ)って感激し、先帝に許すに駆馳(くち)を以ってす。先帝、臣の謹慎なるを知り、崩ずるに臨み、寄するに大事を以ってせり。命を受けてより以来、夙夜(しゅくや)憂懼(ゆうく)し、付託の效(こう)あらずして、以って先帝の明を傷(そこな)わんことを恐る。故に五月、瀘(ろ)を渡り、深く不毛に入る。今、南方、すでに定まり、兵甲すでに足る。当(まさ)に三軍を奨率(しょうそつ)して、北のかた中原を定むべし。漢室を興復し、旧都を還(かえ)さんことは、此れ臣が先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり」と。遂に漢中に屯(たむろ)す。
上疏 書をたてまつること。 聖聴を開帳 臣下の言葉をよく聴くこと。 忠諌 忠義の諫言。 宮中・府中 宮中は禁中・府中は幕府。 臧否 善悪。 陟罰 陟は登る、褒賞と罰則。 先漢 文帝・景帝の治世。 後漢 桓帝・霊帝の治世。 布衣 無官、庶人。 躬畊 みずから耕す。 苟全 とりあえず全うする。 聞達 世間に知れること。 卑鄙 身分が低いこと。 枉屈 曲げ、屈めること。 草廬 粗末ないおり。 三顧 三度訪ねる、目上の人が礼を尽くすこと。 駆馳 奔走すること。 夙夜 一日中。 憂懼 憂え恐れること。 效 効に同じ。 瀘 瀘水。 兵甲 兵は武器、甲はよろい。 奨率 奨帥、励まし率いる。
漢の丞相亮がいよいよ三軍を率いて魏を伐つことになった。出発に臨んで後皇帝に書(出師の表)を奉った。(227年)
「今、天下三分し、わが益州は最も疲弊しており、まさに危急存亡のときであります。陛下にはよく臣下の言葉をお聞きになりまして、忠義の諫言にはどうか路を閉ざされませぬようなされませ。
宮廷と政府とは一体であります。善悪の賞罰には違いがあってはなりません。もし悪事を行い罪を犯す者、あるいは忠義善良な者は、役人に命じて刑罰、褒賞を決めさせ、政治の公平正明を天下に示すべきであります。
賢臣を近づけ小人を遠ざけたことが先漢の興隆した原因でありますし、小人を近づけ賢臣を遠ざけたことこそ、後漢が衰亡した原因であります。
私はもと無官の平民で、南陽にみずから田を耕し、この乱世にただ一命を大事にと、諸侯に仕えての栄達に背を向けて参りました。先帝は私が卑しい身分であるにも拘わらず、自ら高貴な身を枉げられて、三度もむさくるしい庵を訪れられて、当世の急務について下問されました。これがために感激して先帝のために奔走することを誓ったのであります。
先帝は私がつつしみ深いことをお認めになり、ご臨終の際、私に国家の大事を託されました。ご遺命を受けてよりこのかた、日夜心を砕き、ご信任に背いて先帝の聖明を汚すようなことがないかと恐れておりました。それ故五月、瀘水を渡って、深く不毛の地に入ったのでございます。
今、南方はすでに平定され、軍備も整いました。三軍を励まして、北のかた中原の地を平定すべきと考えます。漢の王室を復興し、旧都長安にふたたび還ることこそ私が先帝の恩に報い、陛下に忠誠を尽くすためのつとめであります。」こうして漢中に兵を進めて駐屯した。
十八史略 死して後已まん
2011-11-15 09:10:49 | 十八史略
後の出師の表
明年、率大軍攻祁山。戎陣整齊、號令明肅。始魏以昭烈既崩、數歳寂然無聞、略無所備。猝聞亮出、朝野恐懼。於是天水・安定等郡、皆應亮、關中響震。魏主如長安、遣張郃拒之。亮使馬謖督諸軍戰于街亭。謖違亮節度。郃大破之。亮乃還漢中。已而復言於漢帝曰、漢賊不兩立、王業不偏安。臣鞠躬盡力、死而後已。至於成敗利鈍、非臣所能逆覩也。引兵出散關、圍陳倉。不克。
明年、大軍を率いて、祁山(きざん)を攻む。戎陣(じゅうじん)整斉、号令明肅(めいしゅく)なり。始め魏、昭烈既に崩じ、数歳寂然として聞くこと無きを以って、略(ほぼ)備うる所無し。猝(にわか)に亮の出づるを聞き、朝野恐懼(きょうく)す。是(ここ)に於いて天水・安定等の郡、皆亮に応じ、関中響震(きょうしん)す。魏主、長安に如(ゆ)き、張郃(ちょうこう)をして之を拒(ふせ)がしむ。亮、馬謖(ばしょく)をして諸軍を督(とく)し、街亭に戦わしむ。謖、亮の節度に違(たが)う。郃大いに之を破る。亮乃ち関中に還る。已(すで)にして復(また)漢帝に言(もう)して曰く、「漢と賊とは両立せず、王業は偏安(へんあん)せず。臣、鞠躬(きくきゅう)して力を尽し、死して後に已(や)まん。成敗利鈍(りどん)に至っては、臣が能く逆(あらかじ)め覩(み)る所に非ざるなり」と。兵を引いて散関より出で、陳倉を圍(かこ)む。克たず。
祁山 甘粛省西和県。 明肅 明らかでだらけないこと。 響震 驚き騒ぐこと。 天水・安定 甘粛省の一地名。 節度 指図。 偏安 辺鄙な地に安んじる。 鞠躬 身を屈め敬う、転じて一事に専念して顧みる余裕がないこと。利鈍 鋭いかなまくらか、うまくいくかいかないか。 逆覩 逆はあらかじめ、予知すること
翌年、諸葛亮は大軍を率いて魏の祁山を攻めた。漢軍の陣営は整然、号令は厳かで明らかであった。当初は魏では蜀の昭烈帝が崩御してから数年間ひっそり静まりかえっていたので、備えをしていなかった。そこに突然亮が攻め込んだという知らせに、朝廷はもとより地方でも大いに恐れおののいた。かくて天水・安定等の諸郡は、皆亮に呼応したので関中は大騒ぎになった。
魏主曹叡は長安に赴き、張郃に防禦を命じた。亮は馬謖に諸軍を指揮させて街亭で戦わせた。ところが馬謖は亮の指図に背いたので張郃のために散々に打ち破られた。亮は残兵をまとめて関中に帰った。そしてまた帝に書を奉って(後の出師の表)「漢と賊(魏)とは両立せず、王業は僻地蜀に安んじていて成るものではありません。臣亮、ただひたすら力を尽して、死して後已まんの覚悟であります。もとより勝敗成否は臣の予知するところではありません」と申し上げた。そして兵をひきいて散関(陜西省宝鶏県)から打って出て、陳倉(同)を囲んだが、勝つには至らなかった。
十八史略 木牛流馬
2011-11-17 10:36:05 | 十八史略
呉王孫權、自稱皇帝於武昌、追尊父堅、爲武烈皇帝、兄策爲長沙桓王。已而遷都建業。
蜀漢丞相亮、又伐魏圍祁山。魏遣司馬懿督諸軍拒亮。懿不肯戰。賈詡等曰、公畏蜀如虎。奈天下笑何。懿乃使張郃向亮。亮逆戰。魏兵大敗。亮以糧盡退軍。郃追之、與亮戰、中伏弩而死。亮還勸農講武、作木牛流馬、治邸閣、息民休士、三年而後用之。悉衆十萬、又由斜谷口伐魏、進軍渭南。魏大將軍司馬懿引兵拒守。
呉王孫権、自ら皇帝を武昌に称し、父堅を追尊して武烈皇帝と為し、兄策を長沙桓王(ちょうさかんおう)と為す。已(すで)にして都を建業に遷(うつ)す。
蜀漢の丞相亮、また魏を伐ち、祁山(きざん)を囲む。魏、司馬懿(しばい)をして、諸軍を督して、亮を拒(ふせ)がしむ。懿、肯(あえ)て戦わず。賈詡(かく)等曰く、「公、蜀を畏(おそる)ること虎の如し。天下の笑いを奈何(いかん)せん」と。懿、乃ち張郃(ちょうこう)をして亮に向かわしむ。亮、逆(むか)え戦う。魏の兵、大いに敗る。亮、糧の尽くるを以って軍を退く。郃、之を追い、亮と戦い、伏弩に中(あた)って死す。亮、還って農を勧め武を講じ、木牛流馬を作り、邸閣を治め、民を息(やす)め士を休め、三年にして後に之を用う。衆十万を悉(つ)くして、又斜谷口(やこくこう)より魏を伐ち、進んで渭南(いなん)に軍す。魏の大将軍司馬懿、兵を引いて拒守(きょしゅ)す。
木牛流馬 牛馬をかたどった兵糧運搬の仕掛け。 邸閣 食糧庫。 斜谷口 陜西省褒城県にある。
呉王の孫権は、武昌にて自ら皇帝を称し、父孫堅に武烈皇帝の称を追尊し、兄孫策を長沙桓王として建業に遷都した。
蜀漢の丞相亮は再び魏を伐って祁山を包囲した。魏は司馬懿を派遣し諸軍を督励して亮を防いだが敢えて戦わなかった。部将の賈詡等が「公は蜀を虎のように畏れておられるが、天下の物笑いになるのをいかがいたしますか」と責めたので張郃を遣って諸葛亮に向かわせた。亮はこれを迎え撃って魏軍を散々に破った。その後亮は糧食が尽きたので、兵を引いた。張郃はその機に乗じて亮を追撃したが伏兵の弩(いしゆみ)に射られて死んだ。
諸葛亮は蜀に還って農業を奨励し、武術を習わせ、木牛流馬と呼ぶ兵糧を運ぶ仕掛け車を作り、糧秣倉庫を造り、民と兵士を休息させて三年後に再び動員した。総勢十万をくり出し斜谷口から魏に侵攻し、渭水の南に布陣した。魏の大将軍司馬懿が兵を率いて守り防いだ。
十八史略 死せる諸葛生ける仲達を走らしむ
2011-11-19 09:29:25 | 十八史略
亮以前者數出、皆運糧不繼、使己志不伸、乃分兵屯田。耕者雜於渭濱居民之、而百姓安堵、軍無私焉。亮數挑懿戰。懿不出。乃遣以巾幗婦人之服。亮使者至懿軍。懿問其寢食及事煩簡、而不及戎事。使者曰、諸葛公夙興夜寐、罰二十以上皆親覽。所噉食、不至數升。懿告人曰、食少事煩、其能久乎。
亮病篤。有大星、赤而芒、墜亮營中。未幾亮卒。楊儀整軍還。百姓奔告懿。懿追之。姜維令儀反旗鳴鼓、若將向懿。懿不敢逼。百姓爲之諺曰、死諸葛、走生仲達。懿笑曰、吾能料生、不能料死。
亮、前者(さき)に数しば出でしが、皆、運糧継がず、己(おの)が志をして伸びざらしめしを以って、乃ち兵を分って屯田す。耕す者、渭浜(いひん)居民の間に雑(まじ)り、而も百姓(ひゃくせい)安堵し、軍に私(わたくし)無し。亮、しばしば懿に戦を挑む。懿、出でず。乃ち遣(おく)るに巾幗(きんかく)婦人の服を以ってす。亮の使者、懿の軍に至る。懿、其の寝食及び事の煩簡を問うて、戎事(じゅうじ)に及ばず。使者曰く、「諸葛公、夙(つと)に興(お)き、夜に寝(い)ね、罰二十以上は皆親(みずか)ら覧(み)る。噉食(たんしょく)するところは、数升に至らず」と。懿、人に告げて曰く、「食少なく事煩わし、其れ能(よ)く久しからんや」と。
亮、病篤(あつ)し。大星有り、赤くして芒あり、亮の営中に墜つ。未だ幾(いくばく)ならずして亮卒す。(ちょうし)楊儀、軍を整えて還る。百姓奔(はし)って懿に告ぐ。懿之を追う。姜維(きょうい)、儀をして旗を反(かえ)し鼓を鳴らし、将(まさ)に懿に向かわんとするが若(ごと)くせしむ。懿敢えて逼(せま)らず。百姓之が為に諺(ことわざ)して曰く、「死せる諸葛、生ける仲達を走らしむ」と。懿笑って曰く、「吾能(よ)く生を料(はか)れども、死を料ること能わず」と。
運糧 兵糧の運搬。 渭浜 渭水の水辺。 屯田 兵士がその土地で耕作しながら駐留すること。 巾幗 婦人の髪飾り。 戎事 軍事。 噉食 噉は食らう、食事。 数升 漢の升は合と同じで日本の勺より少し多い。 丞相の次官。 仲達 司馬懿のあざな。
諸葛亮はこれまで何回も出兵しながら、いつも食糧の補給がうまくいかず、目的を達せられなかったので、今度は兵士を手分けして屯田させることにした。耕作する兵士は渭水の水辺の住民の中に混じったが、百姓たちは安心して生活し、兵士の方にも私欲を満たそうとする者がいなかった。
亮は繰り返し戦いを挑んだが、司馬懿は討って出ようとしなかったそこで亮は婦人服と髪飾りを贈って懿を挑発した。亮の使者が魏の軍営にきたとき、懿は亮の寝食、仕事ぶりなど日常の生活について尋ね、軍事には触れなかった。使者は「公は朝早くから起き、夜更けてから寝みます。杖二十ほどの軽い罪でもご自身で裁かれます。食事は日に数升(勺)しか召し上がりません」と答えた。懿は傍らの者に言った「食が細く、多忙とあれば、そう長い命ではあるまい」
果たして亮は病に罹った。ある夜のこと、赤く大きなほうき星が亮の営中に墜ちた。その後間もなく諸葛亮は亡くなった。次官の楊儀は軍をまとめて撤退にかかった。土地の者が急いで懿に通報し、懿は追撃にかかった。蜀の陣営では姜維が楊儀に勧めて、旗の向きを変え、太鼓を打ち鳴らして魏軍に反撃するかに見せかけた。懿は追撃を止めて引き上げてしまった。土地の者は「死んだ諸葛亮孔明が生きた司馬懿仲達を退散させた」と評したのを聞いて懿は苦笑して「生きている人間なら予想はできるが、死んだ人間ではどうにもならぬ」と言った。
十八史略 泣いて馬謖を斬る
2011-11-22 12:57:23 | 十八史略
亮嘗推演兵法、作八陣圖。至是懿案行其營壘、歎曰、天下奇材也。亮爲政無私。馬謖素爲亮所知。及敗軍流涕斬之、而卹其後。李平・廖立、皆爲亮所廃廢。及聞亮之喪、皆歎息流涕、卒至發病死。史稱、亮開誠心、布公道。刑政雖峻而無怨者。眞識治之良材。而謂其材長於治國、將略非所長、則非也。初丞相亮、嘗表於帝曰、臣成都有桑八百株、薄田十五頃。子弟衣食自有餘。不別治生以長尺寸。臣死之日、不使内有餘帛、外有贏財、以負陛下。至是卒。如其言。諡忠武。
亮、嘗て兵法を推演(すいえん)して、八陣の図を作る。是(ここ)に至って、懿、其の営塁を案行(あんこう)し、歎じて曰く、「天下の奇材なり」と。
亮政を為すこと私(わたくし)無し。馬謖(ばしょく)素より亮の知る所と為る。軍を敗(やぶ)るに及び、流涕して之を斬り、而(しか)して其の後を卹(あわれ)む。李平・廖立(りょうりゅう)皆亮の廃する所と為る。亮の喪(そう)を聞くに及び、皆歎息流涕(りゅうてい)し、卒(つい)に病を発して死するに至る。史に称す、亮、誠心を開き、公道を布(し)く。刑政(けいせい)、峻(しゅん)なりと雖も而も怨む者無し。真に治(ち)を識るの良材なりと。而して其の材、国を治むるに長じて、将略は長ずる所に非ずと謂うは、則ち非なり。初め丞相亮、嘗て帝に表して曰く、「臣、成都に桑八百株、薄田(はくでん)十五頃(けい)有り。子弟の衣食自(おのずか)ら余り有り。別に生を治めて以って尺寸(せきすん)を長ぜず。臣死するの日、内に余帛(よはく)有り、外に贏財(えいざい)有って、以って陛下に負(そむ)かしめず」と。是(ここ)に至って卒(しゅっ)す。其の言の如し。忠武と諡(おくりな)す。
推演 推し広める、推理演繹。 八陣の図 八種の陣形、魚鱗・鶴翼・長蛇・偃月・鉾矢・方円・衡軛・雁行。 案行 調べてまわる。 史に称す 陳寿の三国志に言う。 薄田 痩せ地。 頃 面積の単位、畝(ほ)の百倍。 帛 絹布。 贏財 余った財産。
亮は嘗て兵法を推し広めて八陣の図をつくった。亮の死後懿はその陣営の跡を調べまわり、感歎して言った「まさに天下の奇才というべきか」と。
亮は政治を行うのに私心を差し挟まなかった。馬謖は日頃亮から厚遇を受けていたが、軍を敗戦に陥らせたときには、涙をのんでこれを斬った。そして残された遺族に手厚い保護を与えた。李平と廖立はともに亮によって罷免されたが、亮の訃報に接すると涙を流して歎き、そのために病を得て死んだほどであった。三国志で「諸葛亮は真心を尽し公平な政治を行った刑罰は厳しかったが、それを怨む者はいなかった。政治の要諦を心得た優れた人物であった」と述べている。しかしさらに「その才は国を治めるにはすぐれているが、将としての智略はいまだしである」と断じているのは不当である。以前丞相亮は後帝に、「臣は成都に桑八百株と、やせ地とはいえ十五頃の田があります。子弟を養うには十分すぎるほどでございます。別に生業を営んで多少の財を得ようとは思いません。臣の死後、家の内外に余分な絹や財産を残して、陛下の信頼を裏切るようなことはございません。」と上奏したことがあった。はたして没した後はそのとおりであった。忠武とおくり名された。
十八史略 司馬懿、曹爽を殺す。
2011-11-29 14:04:52 | 十八史略
漢自丞相亮既亡、蔣琬爲政。楊敏毀琬曰、作事憒憒、不及前人。或請推治敏。琬曰、吾實不如前人、無可推。琬卒。費褘・董允、爲政。公亮盡忠。允卒。姜維與、費褘竝爲政。
魏曹爽驕奢無度。司馬懿殺之。懿爲魏丞相、加九錫不受。爽之黨夏侯覇奔蜀。姜維問之曰、懿得政。復有征伐志否。覇曰、彼營立家門、未遑外事。有鍾士季者。雖少若管朝政、呉・蜀之憂也。
魏司馬懿卒。以其子師爲撫軍大將軍、録尚書事。
呉主殂。諡曰太皇帝。子亮立。
漢費褘、汎愛不疑。降人刺殺之。姜維用事、數出兵攻魏。
漢、丞相亮、既に滅びしより、蔣琬(しょうえん)、政を為す。楊敏、琬を毀(そし)って曰く、「事を作(な)すこと憒憒(かいかい)たり、前人に及ばず」と。或いは敏を推治(すいち)せんと請う。琬曰く、「吾実に前人に如かず、推す可き無し」と。琬卒す。費褘(ひい)・董允(とういん)政を為す。公亮(こうりょう)にして忠を尽くす。允卒す。姜維(きょうい)、費褘と竝びに政を為す。
魏の曹爽(そうそう)驕奢(きょうしゃ)にして度無し。司馬懿(しばい)、之を殺す。懿、魏の丞相と為り、九錫(きゅうしゃく)を加うれども受けず。爽の党の夏侯覇(かこうは)、蜀に奔(はし)る。姜維之に問うて曰く、「懿、政を得たり。復征伐の志有りや否や」と。覇曰く、「彼、家門を営立して、未だ外の事に遑(いとま)あらず。鍾士季(しょうしき)という者有り。少(わか)しと雖も若(も)し朝政を管せば、呉・蜀の憂いならん」と。
魏の司馬懿卒す。其の子師を以って、撫軍大将軍と為し、尚書の事を録せしむ。
呉主殂(そ)す。諡(おくりな)して太皇帝と曰う。子亮立つ。
漢の費褘、汎(ひろ)く愛して疑わず。降人之を刺し殺す。姜維、事を用い、数しば兵を出だして魏を攻む。
憒憒 こころ乱れるさま。 推治 罪を取り調べる=推問。 公亮 公平で明らかなこと。 九錫 天子から賜る九種の品や特典。輿馬、衣服、楽器、虎賁(勇者三百人)、弓矢、鈇鉞(ふえつ=殺生の権)、秬鬯(きょちょう=祭酒)、朱戸(朱塗りの門)、納陛(宮殿内の階段、取り次ぎ無しで直接天子に謁見できる権利)。 録尚書事 宮中の文書をつかさどる尚書を総括する。 事を用い 政治をおこなうこと。
漢では、丞相亮が亡くなってから、蔣琬が政治をおこなっていた。楊敏がそれを「迷ってばかりで決断が遅い、とても前の諸葛公には及ばぬ」と、漏らした。ある人が楊敏を罪に問うよう要請したところ、「私は確かに諸葛公に及ばないのだ、処罰のしようがない」と取り上げなかった。やがて琬が死ぬと、費褘と董允が政治にあたった。
魏の曹爽が驕奢限りなく、司馬懿がこれを殺した。司馬懿は魏の丞相になり、九錫を賜ったが、受けなかった。曹爽の一派の夏侯覇は蜀に逃げた。蜀の姜維が覇に尋ねて「司馬懿は実権を手にいれたようだが、他国を伐つ気はあるだろうか」と。覇は「彼は一門の繁栄に心を奪われており、他国の事にまで目を向けるまでには至って降りません。ただし鍾士季という者がおります。まだ弱年でありますが、朝政にあずかるようになると、呉や蜀にとって憂いのもとになるでしょう」と言った。
魏の司馬懿が亡くなった。その子の師を撫軍大将軍とした、併せて録尚書事に任じられた。
呉主孫権が歿した。太皇帝と諡して、子の孫亮が後を嗣いだ。
漢の費褘はひろく人を愛して疑うことがなかった。そのため魏の降人に暗殺された。そこで姜維が代って政治を行い、何回か兵を出して魏を攻めた
十八史略 司馬師、黄鉞を握る
2011-12-01 11:38:18 | 十八史略
魏李豐、數爲魏主所召。司馬師知其議己殺之。魏主不平。左右勸誅師。魏主不敢發。師廢魏主。僭位十六年。改元者二、曰正始・嘉平。師迎立高貴郷公。是爲廢帝。名髦。文帝之孫、明帝之姪。年十四即位。
揚州都督毋丘險・刺史文欽、起兵討司馬師。師撃敗之。師卒。弟昭爲大將軍、録尚書事。已而爲大都督、假黄鉞。揚州都督諸葛誕、起兵討昭。昭攻殺之。昭爲相國、封晉公。加九錫不受。
魏の李豊、数しば魏主の召す所と為る。司馬師其の己を議することを知って之を殺す。魏主平かならず。左右、師を誅せんことを勧む。魏主、敢えて発せず。師、魏主を廃す。位を僭(せん)すること十六年。改元する者(こと)二、正始・嘉平と曰う。師、高貴郷公を迎立す。是を廃帝と為す。名は髦(ぼう)。文帝の孫にして、明帝の姪(てつ)なり。年十四にして位に即く。
揚州の都督毋丘倹(ぶきゅうけん)・刺史文欽、兵を起こして司馬師を討つ。師、撃って之を敗る。師卒す。弟の昭、大将軍と為り、録尚書事と為る。已(すで)にして大都督と為り、黄鉞(こうえつ)を仮(か)る。揚州の都督諸葛誕、兵を起こして昭を討つ。昭、之を攻め殺す。昭、相国(しょうこく)と為り、晋公に封ぜらる。九錫を加うれども受けず。
高貴郷公 高貴は邑の名、郷公は王の庶子の封爵の名。 廃帝 強制されて位を退いた皇帝。 姪 おい、めい。 毋丘倹 毌丘倹(かんきゅうけん)とも。 相国 宰相。 黄鉞を仮る 黄金で飾った斧、天子の持つべきもの、それで仮るといった。
魏の李豊がしばしば国主曹芳に呼ばれるようになった。司馬師はそれが自分に対する謀議であることを知って、李豊を殺してしまった。曹芳は心中穏やかならず、左右の近臣も司馬師を誅殺するよう勧められながら、踏み切れずにいたところ、逆に師によって廃位されてしまった(254年)。帝位を僭称すること十六年、改元すること二回、正始・嘉平である。
司馬師は高貴郷公を迎えてこれを立てた。後に廃帝になった曹髦で文帝の孫、明帝の甥にあたり、十四歳で即位した。
揚州都督の毋丘倹と刺史の文欽が兵を挙げて師を討とうとした。司馬師はこれを撃破したが、病で歿した。後を託された弟の司馬昭が、大将軍、録尚書事、さらに大都督となり、天子の持つべき黄鉞を手にするに至った。揚州都督の諸葛誕が挙兵して昭を討とうとしたが、敗れて殺された。司馬昭はやがて相国となり、晋公に封ぜられ、九錫を加えられたが受けなかった
十八史略
2011-12-03 08:51:09 | 十八史略
呉主亮親政。數出中書、視太帝時舊事。嘗食生梅索蜜。蜜中有鼠矢。召藏吏問曰、黄門從爾求蜜邪。吏曰、向求不敢與。黄門不服。令破鼠矢。矢中燥。因大笑曰、若矢先在蜜中、中外倶濕。今外濕内燥。必黄門所爲也。詰之果服。左右驚慄。大將軍孫綝、以其多所難問稱疾不朝。以兵圍宮、廢亮爲會稽王、迎立瑯琊王休。休立。以綝爲丞相。綝又無禮於新君。遂被誅。
呉主亮、政(まつりごと)を親(みずか)らす。数しば中書に出でて、太帝の時の旧事を視る。嘗て生梅を食いて、蜜を求む。蜜中に鼠矢(そし)有り。蔵吏(ぞうり)を召して問うて曰く、「黄門、爾(なんじ)より蜜を求めしか」と。吏曰く、「向(さき)に求めしも敢えて與えざりき」と。黄門服せず。鼠矢を破らしむ。矢中(しちゅう)燥(かわ)く。因(よ)って大笑して曰く、「若(も)し矢、先より蜜中に在らば、中外倶(とも)に湿(うるお)わん。今外湿い内燥く。必ず黄門の為す所ならん」と。之を詰(なじ)れば、果たして服せり。左右驚き慄(おのの)く。大将軍孫綝(そんちん)、其の難問する所多きを以って、疾(やまい)と称して朝せず。兵を以って宮を圍(かこ)み、亮を廃して会稽王と為し、瑯琊王(ろうやおう)休を迎え立つ。休立つ。綝を以って丞相と為す。綝又新君に礼無し。遂に誅せらる。
鼠矢 矢は糞。 黄門 宦官。
呉主孫亮がみずから政治を行い、しばしば中書省に出向いて、太帝の時の記録を調べた。あるとき、生梅を食べたあと、蜜を持ってこさせたが、中に鼠の糞が入っていた。蔵役人を呼びつけ「宦官がこの蜜をもらいに来たことはないか」と聞くと、「さきごろ参りましたが、渡しませんでした」と答えた。だがその宦官は覚えがないと言い張る。孫亮は、その糞を二つに割らせ、その中が乾いているのを見て、大笑いして「もし糞が以前からずっと蜜に浸かっていたなら中も外も湿っているはずだ、これは外湿って中は乾いている。宦官のいやがらせに違いなかろう」問い詰めてみると、果たして罪を認めた。左右の者は、驚き恐れいった。大将軍の孫綝は、たびたび鋭く問い詰められるので、病いと称して参内しなくなった。遂には兵を率いて宮中を包囲し、孫亮を廃して会稽王にしてしまった。やがて瑯琊王の曹休を迎えて立てた。休が位に即くと孫綝を丞相に任じた。孫綝は新帝をもないがしろにしたのでやがて誅殺された。
十八史略
2011-12-06 09:28:20 | 十八史略
魏主髦見威權日去、不勝其忿。曰、司馬昭之心、路人所知也。率殿中宿衞蒼頭・官僮、鼔譟出、欲誅昭。昭之黨賈充、入與魏主戰、成濟抽戈刺魏主髦。殞于車下。追廢爲庶人。僭位七年。改元者二、曰正元・甘露。司馬昭迎立常道郷公璜。是爲魏元皇帝。常道郷公元皇帝、初名璜、燕王宇之子、操之孫也。年十五即位。改名奐。
魏主髦(ぼう)威権日に去るを見て、其の忿(いかり)に勝(た)えず。曰く、「司馬昭の心は路人も知る所なり」と。殿中の宿衛・蒼頭(そうとう)・官僮(かんどう)を率いて、鼔譟(こそう)して出で、昭を誅せんと欲す。昭の党賈充(かじゅう)、入って魏主と戦い、成濟、戈を抽(ぬ)いて魏主髦を刺す。車下に殞(お)つ。追廃(ついはい)して庶人(しょじん)と為す。僭位(せんい)七年。改元する者(こと)二、正元・甘露と曰う。司馬昭、常道郷公璜(こう)を迎え立つ。是を魏の元皇帝と為す。常道公元皇帝、初めの名は璜、燕王宇の子、操の孫なり。年十五にして即位す。名を奐(かん)と改む。
宿衛 宿直護衛の兵。 蒼頭 雑兵士卒。 官僮 給仕、召使い。 鼔譟 鼔は鼓を打つこと。 殞つ 命を落とす。 追廃 死後帝位を廃すること。
魏主曹髦は朝廷の威信が日増しに失われてゆくのを見るにつけ、怒りに耐え切れず、「司馬昭の野心は旅人までも知っていることだ」と言って殿中の護衛兵、雑兵、召使いまで駆りだした。鼓を鳴らし、喚声をあげて昭を誅殺しようとしたが、昭の党の賈充が宮中に押し入って戦い、一味の成済が戈を抜いて刺し、曹髦は車から落ちて死んだ。
死後帝位を廃され庶民とされた。帝位を僭称すること七年、改元すること二、正元・甘露という。司馬昭は常道郷公の璜を迎え立てた。これが魏の元皇帝である。(260年) 常道公元皇帝は初めの名は璜といい、燕王宇の子、曹操の孫にあたる。十五歳で即位し、名を奐と改めた。
十八史略 蜀の諸葛瞻父子討ち死にす
2011-12-08 11:52:22 | 十八史略
漢姜維屢伐魏。司馬昭患之、遣艾・鍾會、將兵入寇。會從斜谷・駱谷・子午谷、趨漢中、艾自狄道、趨甘松・沓中、以綴姜維。維聞會聞已入漢中、引兵從沓中還。艾追躡之大戰。維敗走、還守劍閣、以拒會。艾進至陰陰平、行無人之地七百里鑿山通道、造作橋閣。山高谷深。艾以氈自裹、推轉而下。將士皆攀木縁崖、魚貫而進。至江油。以書誘漢將諸葛瞻。瞻斬其使。列陣綿竹以待。敗績。漢將軍諸葛瞻死之。瞻子尚曰、父子荷國重恩。不早斬黄皓、使敗國殄民。用生何爲。策馬冒陳而死。
漢の姜維(きょうい) 屢しば魏を伐つ。司馬昭之を患(うれ)い、艾(とうがい)・鍾会をして、兵を将(ひき)いて入寇(にゅうこう)せしむ。会は斜谷(やこく)・駱谷(らくこく)・子午谷(しごこく)より、漢中に趨(おもむ)き、艾は狄道(てきどう)より、甘松・沓中(とうちゅう)に趨き、以って姜維を綴(てい)す。維、会已に漢中に入りしと聞き、兵を引いて沓中より還る。艾、之を追躡(ついしょう)して大いに戦う。維、敗走し、還って剣閣を守り、以って会を拒(ふせ)ぐ。艾、進んで陰平に至り、無人の地を行くこと七百里、山を鑿(うが)って道を通じ、橋閣を造作す。山高く谷深し。艾、氈(せん)を以って自ら裹(つつ)み、推転して下る。将士、皆木に攀(よ)じ崖に縁(よ)り、魚貫(ぎょかん)して進む。江油に至る。書を以って漢の将、諸葛瞻(しょかつせん)を誘う。瞻、其の使いを斬り、陣を綿竹に列して以って待つ。敗績す。漢の将諸葛瞻、之に死す。瞻の子尚曰く、「父子、国の重恩を荷う。早く黄皓を斬らず、国を敗(やぶ)り民を殄(てん)せしむ。用(も)って生くるも、何をかなさん」と。馬に策(むちう)ち陳(じん)を冒して死す。
遣 使役の助字。・・をして、・・せしむ。 入寇 寇はあだする。 綴 釘付けにする。 追躡 追いかける。 剣閣 蜀と魏の境界にある大剣山、小剣山、閣道(架け橋が多いことから。 氈 毛氈。 魚貫 魚の串刺し。 敗績 大敗する、功績をなくする意。 黄皓 蜀の宦官、蜀衰退の元凶といわれる。 殄 滅ぼす。 用 以と同じ。 策 鞭、むちうつ。 陳 陣に同じ。
漢の姜維が、度々魏を攻めた。司馬昭はこれを思い患い、艾と鍾会を将軍として、蜀に攻め入らせた。鍾会は斜谷・駱谷・子午谷(いずれも陜西省中部の谷の名)から、艾は狄道(甘粛省)より、甘松・沓中に侵攻して姜維の軍を釘付けにした。姜維は鍾会がすでに関中に入ったと聞くと兵を沓中からひきあげようとした。艾はこれを追撃して激しく攻め立てた。姜維の軍は敗走して剣閣にたどり着いて鍾会を防いだ。艾は進んで陰平(甘粛省と四川省の境)に達した。無人の地を行くこと七百里、山を掘って道をつけ、桟道を架け渡して進んだ。高い山と深い谷に阻まれたとき艾は自分の身に毛氈を巻きつけ、転がり下った。将兵たちも、木によじ登り、崖に取り付いて魚の串刺しのように一列になって進んだ。遂に難所を越え江油に至った。まず蜀の将諸葛瞻に書を送り、降服を迫った。諸葛瞻は使者を斬り、陣を綿竹に布いて、魏軍を待った。蜀軍は大敗して諸葛瞻は討ち死にした。瞻の子尚は「私ども父子は国の大恩を受けてきた。奸臣の黄皓を斬らなかったばかりに、国を滅亡させ、民を絶やすことになった。生き永らえて何の甲斐があろう」と、馬に鞭打って敵陣に斬り込んで討ち死にした。
十八史略 司馬炎、魏を亡ぼす
2011-12-10 09:45:46 | 十八史略
漢人不意魏兵卒至、不爲城守。乃遣使奉璽綬、詣艾降。皇子北地王怒曰、若理窮力屈、禍敗將及、便當父子君臣、背城一戰、同死社稷、以見先帝可也。奈何降乎。帝不聽。哭於昭烈之廟、先殺妻子而後自殺。艾至成都。帝出降。魏封爲安樂公。帝在位四十一年、改元者四、曰建興・延煕・景耀・炎興。右自高帝元年乙未、至後帝禪炎興癸未、凡二十六帝、通四百六十九年而漢亡。
呉主休殂。諡曰景皇帝。兄子烏程侯皓立。
魏司馬昭、先是已受九錫。已而進爵爲晉王。昭卒、子炎嗣。魏主奐僭位六年、改元二、曰景元・咸煕。炎迫魏主禪位、封爲陳留王。後卒。晉人諡之曰元。
魏自曹丕至是凡五世、四十六年而亡。
自漢亡後、又歴甲申、闕正統一年。
漢人、魏兵の卒(にわか)に至るを意(おも)わず、城守(じょうしゅ)を為さず。乃ち使いを遣わして璽綬を奉ぜしめ、艾(がい)に詣(いた)って降る。皇子(こうし)北地王(しん)怒って曰く、「若し理窮まり力屈して、禍敗(かはい)将(まさ)に及ばんとせば、便(すなわ)ち当(まさ)に父子君臣、城を背にして一戦し、同じく社稷に死し、以って先帝に見(まみ)えて可なるべし。奈何(いかん)ぞ降らん」と。帝聴かず。、昭烈の廟に哭し、先ず妻子を殺して後に自殺せり。艾、成都に至る。帝出でて降る。魏、封じて安楽公と為す。帝、位に在ること四十一年、元を改むる者(こと)四、建興・延煕(えんき)・景耀(けいよう)・炎興と曰う。右、高帝の元年乙未(いつび)より、後帝禅の炎興癸未(きび)に至るまで、凡(すべ)て二十六帝、通じて四百六十九年にして漢亡びたり。
呉主休、殂(そ)す。諡(おくりな)して景皇帝と曰う。兄の子烏程侯(うていこう)皓(こう)立つ。
魏の司馬昭、是より先、已に九錫を受く。已にして爵を進めて晋王と為る。昭卒し、子の炎嗣(つ)ぐ。魏主奐、僭位六年、改元すること二、景元・咸煕(かんき)と曰う。炎、魏主に迫って位を禅(ゆず)らしめ、封じて陳留王と為す。後卒す。晋人之に諡して元と曰う。
魏、曹丕より是(ここ)に至るまで凡て五世、四十六年にして亡ぶ。
漢亡んでより後、又甲申(こうしん)を歴(へ)て、正統を闕(か)くこと一年なり。
城守 城を守ること。 璽綬 印璽とそれを佩びる紐。 詣 至る、伺候する。 社稷 建国のときに祭った土地の神の社と五穀の神の稷で国家のこと。 乙未 きのとひつじ。 癸未 みずのとひつじ。 甲申 かのえさる。
蜀漢では魏の兵がこれほど早く攻め込んで来るとは思わず、城の守りをしていなかった。そこで帝は使者に印綬を持たせて、艾に降伏を申し入れた。これを聞いて皇子の北地王劉は大いに怒って「すじみちに行き詰まり、力もつきはてて国に災禍が迫ったならば、父子君臣城を背に存分に戦い、ともに国家のために殉じてこそ、先帝にお目見えできるというものです。どうして降伏などなさるのですか」と諌めたが帝は聴き入れなかった。は昭烈帝の廟前で哭し、まず妻子を殺し、自ら命を絶った。艾が成都に到着すると、帝は城を出て降伏した。魏は帝を安楽公に封じた(263年)。後帝劉禅は位に在ること四十一年、年号を改めること四回、建興・延煕・景耀・炎興である。前漢の高帝の元年乙未の年から後帝禅の炎興癸未の年まで、あわせて二十六代、四百六十九年で漢は滅亡した。
呉王孫休が病死した。景皇帝とおくり名された。兄の子の烏程侯孫皓が即位した。
魏の司馬昭は、これより先に九錫を受けていて、間もなく爵を進めて晋王となった。昭が亡くなり、子の炎があとを嗣いだ。
魏の曹奐は位を僭すること六年、改元すること二、景元・咸煕という。炎、魏主に迫って位を譲らせ、陳留王に封じたが後に亡くなってから晋は元とおくり名した。
魏は曹丕からここに至るまであわせて五代、四十六年で滅亡した。
漢が亡んで、さらに甲申の歳を経ており晋が興る(乙酉の歳)まで一年の間、正統の天子がいなかったことになる。
十八史略 司馬炎西晋を建国
2011-12-13 17:58:23 | 十八史略
西晉世祖武皇帝姓司馬、名炎、河内人、昭之子、懿之孫也。昭爲晉王、議立世子。議者、以炎髪立委地、手垂過膝、臣之相、遂立。已而嗣爲王、即帝位。追尊懿爲宣皇帝、師爲景皇帝、昭爲文皇帝、大封宗室。晉有滅呉之志。以羊祜都督荊州事。呉以陸抗都督諸軍。祜與抗對境、使命常通。抗遣祜酒。祜飲之不疑。抗疾。祜與之成樂。抗即服之曰、豈有酖人羊叔子哉。祜務修政、以懐呉人、毎交兵、刻日方戰、不掩襲。抗亦告其邊戍、各保分界而已、毋求細利。時呉主皓不修政、而欲兼并、使術士筮取天下。對曰、庚子歳、青蓋當入洛陽。蓋謂銜璧之事。而皓不悟。用諸將謀、數侵盗晉邊。抗諌不聽。抗卒。
西晋世祖武皇帝、姓は司馬、名は炎、河内(かだい)の人、昭の子、懿の孫なり。昭、晋王と為り、世子(せいし)を立てんことを議す。議する者、炎が髪、立てば地に委(い)し、手、垂るれば膝より過ぎ、人臣の相に非らざるを以って、遂に立つ。已にして嗣(つ)いで王と為り、帝位に即く。懿を追尊して宣皇帝と為し、師を景皇帝と為し、昭を文皇帝と為し、大いに宗室を封ず。晋、呉を滅ぼすの志有り。羊祜(ようこ)を以って荊州の事を都督せしむ。呉、陸抗(りくこう)を以って諸軍を都督せしむ。祜、抗と境を対し、使命常に通ず。抗、祜に酒を遣(おく)る。祜、之を飲んで疑わず。抗、疾(や)む。祜、之に成薬を与う。抗、即ち、之を服して曰く、「豈人を酖する羊叔子(ようしゅくし)有らんや」と。祜、務めて徳政を修め、以って呉人を懐(なづ)け、兵を交(まじ)うる毎に、日を刻して、方(まさ)に戦いて、掩襲(えんしゅう)せず。抗も亦其の辺戍(へんじゅ)に告げて、「各々分界(ぶんかい)を保つのみ、細利を求むること毋(なか)れ」と。時に、呉主皓、徳政を修めずして、兼并(けんぺい)せんと欲し、術士をして、天下を取らんことを筮(ぜい)せしむ。対(こた)えて曰く「庚子の歳、青蓋(せいがい)当(まさ)に洛陽に入るべし」と。蓋(けだ)し、璧を銜(ふく)むの事を謂うなり。而れども皓、悟らず。諸将の謀(はかりごと)を用いて、数しば晋の辺を侵盗(しんとう)す。抗、諌むれども聴かず。抗、卒す。
地に委し 地に届き。 使命 音信を通ずること。 酖する 毒殺する鴆に通ずる。 羊叔子 羊祜のあざな。 掩襲 急襲、不意討ち。 辺戍 辺境の守備軍。 分界 さかいめ、分担地域。 兼并 併せて一つにすること。
術士 方術をつかう者。 筮 占う。 青蓋 皇太子が王に降されるこき乗る青いほろの車。 璧を銜む 国王が敵に降伏するとき、後ろ手に縛られて、璧を口に銜えて捧げたので、こういった。
西晋の世祖武皇帝、姓は司馬で名は炎、河内(かだい)の人、昭の子、懿の孫なり。昭、晋王と為って、嗣子を決める評議が行われた。それに加わった者
達は炎の髪が、立っても地にたれるほど長く、手を下げると、膝の下にまで届くのは人の臣となる相ではないとして、あと嗣ぎに立てた。司馬昭を嗣いで晋王となり、やがて帝位に即いた。司馬懿を追尊して宣皇帝とし、司馬師
を景皇帝として、父昭を文皇帝として、一族をあげて王に封じた。
晋は呉を滅ぼそうとしていた。羊祜に荊州の都督を命じ、呉はそれに対して陸抗が諸軍の都督に任じた。羊祜も陸抗も国境を接していたが常に使者を行き来させていた、陸抗が酒を贈ると羊祜は疑いもせずにこれを飲み、陸抗が病気になると羊祜が薬を届けた。危ぶむ部下に陸抗は「人に毒を盛るような羊叔子ではないわ」とすぐに服用した。羊祜は徳政を布き、呉の人びとをも懐け、戦闘を交えるにも日時を決めてそれを守り、不意討ちをかけるようなことはしなかった。陸抗も国境部隊に「それぞれ受け持ち地域を守ればそれで良し、些細な手柄など考えるな」と布令ていた。
この頃、呉主の孫皓は善政を布かないばかりか、領土の併呑を求め、方術士に天下を取ることを占いさせた。「庚子の歳に、青蓋が洛陽にるであろう」との卦を示した。これは皓が天子に降伏することを意味していたが、皓は自分に都合よく解釈して、部将達の謀を用いてたびたび晋の国境を侵略した。そして陸抗の諌めを聴かず、抗もやがて亡くなった。
十八史略 外寧ければ、必ず内の憂い有り
2011-12-15 15:52:34 | 十八史略
祜請伐呉。議者多不同。祜歎曰、天下不如意事、十常七八。惟杜預・張華贊其計。祜病。求入朝面陳。晉帝欲使祜臥護諸將。祜曰、取呉不必臣行。但平呉之後、當勞聖慮耳。祜卒。以杜預爲鎭南大將軍、督荊州軍事。呉主皓淫虐日甚。預表請速征之。表至。張華適與帝棊、即推枰斂手贊其決。帝許之。山濤告人曰、自非聖人、外寧必有内憂。釋呉爲外懼、豈非算乎。時濤爲吏部尚書。
祜(こ)呉を伐たんと請う。議する者、多くは同ぜず。祜、歎じて曰く「天下、意の如くならざる事、十に常に七八」と。惟、杜預(とよ)・張華のみ其の計を賛(たす)く。祜、病む。朝に入って面(まのあた)りに陳(の)べんことを求む。晋帝、祜をして、臥しながら諸将を護せしめんと欲す。祜曰く「呉を取るは、臣の行(こう)を必せず。但(ただ)呉を平らぐるの後、当(まさ)に聖慮を労すべきのみ」と。祜卒す。杜預を以って鎮南大将軍と為し、荊州の軍事を督せしむ。呉主皓、淫虐日に甚だし。預、表して、速かに之を征せんことを請う。表至る。張華、適(たまた)ま帝と棊(き)す、即ち枰(へい)を推し、手を斂(おさ)めて、其の決を賛く。帝、之を許す。山濤、人に告げて曰く、「聖人に非ざるよりは、外(ほか)寧(やす)ければ、必ず内の憂い有り。呉を釈(ゆる)して、外(そと)の懼れと為さんこと、豈算に非ざらんや」と。時に濤、吏部尚書たり。
表 天子にたてまつる文書。 棊 囲碁。 枰 碁盤。 算 得失。吏部尚書 人事担当長官。
羊祜は呉を討伐するよう奏請した。しかし評議に加わった者の多くが反対した。羊祜は「世の中、思い通りにならないことが十中七八か」と歎いた。た
だ杜預と張華だけは賛成していた。羊祜が病気になり、朝廷に出て、直接意見を述べたいと願い出た。晋帝は、羊祜に寝ながらでもよいから将軍たちの力になるよう望んだが、羊祜は「呉を取るには必ずしも私が行く必要はございません。むしろ呉を平定された後に心を致されますように」と言った。祜が亡くなった。帝は杜預を鎮南大将軍に任命し、荊州の軍事を統括させた。一方、呉主皓の暴虐は日ごとに激しくなった。そこで杜預は上奏して直ちに呉を討ちたいと申し出た。その上奏文が着いたとき、帝は張華を相手に碁を打っていたが、張華は碁盤を押しやって裁可を促がしたので帝はこれを聞き入れた。
山濤は後日人にこう語った「聖人でない限り、外患が治まれば必ず内憂が起きるものだ、ここは呉を見逃して、外患にしておくほうが晋のためではないだろうか」このとき山濤は吏部尚書であった。
十八史略 竹林の七賢
2011-12-20 10:17:35 | 十八史略
山公の啓事
濤昔在魏晉之、與嵆康・阮籍・籍兄子咸・向秀・王戎・劉伶相友。號竹林七賢。皆崇尚老莊虚無之學、輕蔑禮法、縱酒昏酣、遺落世事。士大夫皆慕效之、謂之放達。惟濤惟仍留意世事、至是典選、甄抜人物、各爲題目而奏之。時人稱之爲山啓事。
濤、昔、魏晋の間に在って、嵆康(けいこう)・阮籍(げんせき)・籍の兄の子咸(かん)・向秀(しょうしゅう)・王戎(おうじゅう)・劉伶(りゅうれい)と相友(ゆう)たり。竹林の七賢と号す。皆、老荘虚無の学を崇尚(すうしょう)し、礼法を軽蔑し、縦酒(しょうしゅ) 昏酣(こんかん)、世事を遺落(いらく)す。士大夫、皆之を慕效(ぼこう)した。之を放達(ほうたつ)と謂う。惟、濤は仍(なお)世事に留め、是(ここ)に至って、選を典(つかさど)り、人物を甄抜(けんばつ)し、各々題目を為(つく)って之を奏す。時人、之を称して山公(さんこう)の啓事と為す。
崇尚 あがめたっとぶ。 縦酒 酒をほしいままに飲む。 昏酣 泥酔すること。 遺落 なげやりにする。 慕效 慕いならう。 放達 気ままにふるまうこと。 甄抜 才能を見分けて引き立てること。 啓事 天子などに申し上げる書面。
山濤はかつて魏から晋に代る時代に嵆康・阮籍・阮籍の甥の咸・向秀・王戎・劉伶と親交があり、竹林の七賢と呼ばれていた。皆老子や荘子の虚無の学を信奉し、礼法を軽蔑して、酒をとめどなく飲んでは泥酔し、世事をないがしろにした。当時の士大夫はこの風を慕い倣って放達と称していた。ただ山濤だけは世事にも心を留めて、吏部尚書となって官吏の人選をつかさどり、才能を見分けて引き上げるために、各項目ごとに特性を奏上した。人々は「山公の啓事」と呼んだ。
十八史略 呉亡ぶ
2011-12-22 09:14:53 | 十八史略
晉大擧伐呉。杜預出江陵、王濬下巴蜀。呉人於江磧要害處、竝以鐵鎖横江截之。又作鐵錐長丈餘、暗置江中、逆拒舟艦。濬作大筏先行、遇錐輒著筏而去。又作大炬、灌以麻油、遇鎖焼之。須臾融液斷絶。於是船無所礙、遂先克上流諸郡。預遣人、率奇兵夜渡。呉將懼曰、北來諸軍、乃飛渡江也。預分兵、與濬合攻武昌降之。預謂兵威已振、譬如破竹。數節之後、迎刃而解。無復著手擧也。遂指授羣帥方略、徑造建業。濬戎卒八萬、方舟百里、擧帆直指建業、鼓譟入石頭城。呉主皓面縛輿櫬降。封歸命侯。遂符庚子入洛之讖。自大帝至是四世、稱帝者、凡五十二年而亡。遡孫策定江東以來、通八十餘年。
晋、大挙して呉を伐つ。杜預は江陵より出で、王濬(おうしゅん)は巴蜀より下る。呉人(ごひと)、江磧(こうせき)要害の処に於いて、並びに鉄鎖を以って江に横たえて、之を截(た)つ。又、鉄錐の長さ丈余なるを作り、暗に江中に置き、舟艦を逆(むか)え拒(ふせ)ぐ。濬、大筏(だいばつ)を作り、水を善(よ)くする者をして、筏を以って先行し、錐に遇(あ)えば輒(すなわ)ち筏を著(つ)けて去らしむ。又、大炬(たいきょ)を作り、灌(そそ)ぐに麻油を以ってし、鎖に遇えば之を焼く。須臾に融液して断絶す。是(ここ)に於いて、船礙(さわ)る所無く、遂に先ず上流諸郡に克つ。預、人を遣わし、奇兵を率(ひき)いて、夜、渡らしむ。呉の将懼(おそれ)て曰く「北来の諸軍、乃ち江を飛び渡るや」と。預、兵を分かち、濬と合して、武昌を攻め之を降す。預、謂(おも)えらく、「兵威(へいい)已(すで)に振るう、譬えば竹を破(わ)るが如し。数節の後は、刃(やいば)を迎えて解く。復た手を著(つ)くる処なし」と。遂に群帥(ぐんすい)に方略(ほうりゃく)を指授(しじゅ)し、径(ただ)ちに建業に造(いた)る。濬が戎卒(じゅうそつ)八万、舟を方(なら)ぶること百里、帆を挙げて直ちに建業を指し、鼓譟(こそう)して石頭城に入る。
呉主皓、面縛(めんばく)輿櫬(よしん)して降る。帰命侯に封ず。遂に「庚子洛に入る」の讖(しん)に符す。大帝より是(ここ)に至って四世、帝と称する者(こと)、凡(すべ)て五十二年にして亡ぶ。孫策が江東を定めしより以来に遡れば、通じて八十余年なり。
磧 河原。 礙 障害。 面縛 後ろ手に縛って面をさらすこと。 輿櫬 櫬は棺、棺桶を車に積んで死の覚悟を示すこと。 讖 占いの卦。
晋は大軍を派遣して呉を伐つことになった。杜預は江陵から、王濬は巴蜀から水軍を率いて下った。呉の軍は揚子江の河原の要害に鉄の鎖を張り渡してさえぎり、又一丈に余る鉄の錐を密かに水中に植え、晋の軍船を待ち受け防ごうとした。王濬は大きい筏を作り、水練に長じた兵を選りすぐって筏に乗せて先に行かせて、鉄錐を探して除いた。また大きい松明を作り、胡麻油を注いで鉄鎖に遭うと、これを焼いた。たちまち溶かし切った。こうして船団は障碍をすべて取り除いて上流の諸郡で勝ちをおさめた。一方杜預は部下に、奇兵をひきいて、夜陰にまぎれて揚子江を渡らせた。呉の将は大いに恐れて「北の晋軍は、揚子江を飛んで渡ったのか」と言った。杜預は兵を分け、王濬と合流し、武昌を攻めてこれを降した。この時点で晋軍の中には、一旦兵を収めて来年再度攻めてはどうかの意見もあったが、杜預は「今は兵の士気が上がっている。例えば刃物で竹を割るようなもので、最初に二節ほど刃を入れるだけで、あとは竹が刃を迎え入れるように難なく割れる、力など要らぬものだ」と言って進軍を決して、各部将に戦略を授けて直ちに呉の都の建業を目指させた。王濬の軍勢八万、船を連ねること百里、帆を上げて太鼓を打ち、喚声を挙げて石頭城に突入した。
呉主皓は両手を後ろ手に縛り、顔を前に差し出し、棺桶を載せた車を従えて降参して出た。晋は呉主皓を許し帰命侯に封じた。ここでまさにあの庚子の年洛陽に入るの予言に符合したわけである。太帝孫権からここに至るまで四世、帝を称すること五十二年で亡んだ。孫策が江東を平定してから八十年余りであった。
最終更新:2023年04月09日 14:14