漢文・漢文法基礎 > 文検漢文科合格秘訣 笠松彬雄 著

巻首に

 

 受験にいそしんで居られる諸君に何時か呼びかけて親しく語りたいと思いつつも、今まで其の機会が無かった。二三の註釈本で片言隻句を以て語ったことがあったが、思いのままに私の抱懐する考を述べる時が無かった。

 今回計らずもその機会が与えられることになった。と言うのは大同館主阪本氏の慫慂しょうようによって本書をものすることになったからである。漢文受験の指導書は私の様な未熟者が出さなくとも既に二三種それぞれに特徴を持った立派なものが出来て居るのであるが、私の屋下屋を架するの愚を敢えてするのは、漢文科受験を中心として衷心から諸君と語り合いたい念願の為に外ならぬのである。

 為せば為し得る有為の資を抱きながら、未だ覚醒せずに惰眠を貪って居る人々に、「暁は来たぞ!!」と警鐘を打ち鳴らして、共々に手を取って進みたいのである。道草を喰っている人々にも「さあ油断なしに進もう」と背後から押して見たい。

 「自分はつまらぬ人間だ!!」と自分で愛想をつかしてかかる位冒涜なことは無いだろう。有為の資を抱きながら小成に安んじて安閑として一生を過して終う位惜しいことは無い。「文検なんて、及びもつかぬ、俺の頭などでは何年かかっても駄目だ」などと始めから諦めて終う人々の多いのは一体何故であろうか。

 私は言う。「文検に合格する位は平凡な頭の持主で大丈夫だ」と普通の頭でありさえすれば沢山だ。天才でなくとも秀才でなくとも平々凡々の人間で沢山だ。只やろう!!と言う確乎たる決心さえ出来た人なら二三年で何学科によらずきっと合格する。万が一若し合格しなとしたら、それは要領が悪いのだ。無駄な勉強に没頭して居るのだ。そんなことして居ては何年経っても合格は出来ない。要領よく短時間で合格するにはそれ相当の方法がある筈だ。

 その要領を指導する書としては余りに本書は貧弱であるかも知れぬが、これを十分信じてこの方法に従ってやって呉れさえすれば一ヵ年後はきっと漢文科合格の栄冠は勝ち得られると信ずる。迷わずに一つ実行されたい。

 現今の人々に欠乏して居る物は熱である。精神一到何事か成らざらんやとか吾も人なり彼も人なりとかの意気に奮い起つ者の少ないことは慨なげかわしいことだ。大いにやろうじゃないか。我々の前には高等教員試験の峻坂が待って居る。これ位の小さい坂道に辟易してはならない。文検位は楽々と一挙に屠って終おうでは無いか。

 諸君の勉学される机辺に、この小著が訪れて少しでも緊張味を齎したら私の望に叶ったのである。読書に倦いた時、もう断念しようと思った時、世の中が厭になった時、この小著によって奮起して欲しい。どの頁をめくられても諸君を思って筆を運んだ熱意だけは受け取って呉れようから……。

  昭和六年秋        東近江にて

                  著者識

 

       

 

 

 

文検漢文科合格秘訣

目次

[一]序説

(1)奮起すべきの秋

(2)国語科だけでは半人前

(3)決心→敢行→合格

 

[二]試験概説

(1)試験の概要

(2)予備試験と本試験

(3)参考試験委員其の他

(4)出願の手続

 

[三]計画案の作製

(1)計画案作製の必要

(2)計画案作製上の諸注意

(3)一ヵ年合格の計画案

(4)計画案の運用

 

[四]参考書

(1)はしがき

(2)解釈の参考書」

(3)設問の参考書

(4)其他の参考書

(5)参考書余録

 

[五]研究法(※(2)の「解釈の研究法」は、主に漢文の訓読法と解釈の仕方を述べたものであり、当然訓点が振ってあるが、web公開の便宜上、それらを忠実に載せることはできなかった。よって掲載を諦めた。

(1)緒言

(2)解釈の研究法

(3)設問の研究法

(4)口述の研究法

(5)仕上げ

 

[六]答案の研究

(1)要領よくきびきびした答案

(2)文字を綺麗に速く書く

 

[七]試験委員の談話

(1)漢文の成績が低下してきた

(2)漢文科受験準備の急所

(3)国漢科予試答案審査所感

(4)試験成績を見て

(5)漢文科研究者の根本的態度

(6)漢文の試験に就いて

 

[八]最近出題の傾向

(1)漢文解釈予備試験出題の傾向

(2)漢文解釈本試験出題の傾向

(3)口述試験出題の傾向

(4)復文出題の傾向

(5)設問出題の傾向

(6)作文出題の傾向

 

[九]口述試験の研究

(1)口述試験

(2)口述試験の準備

(3)口述試験に対しての注意

(4)口述試験の実際

 

[一〇]断想

 

[一一]受験者談話室

(1)過ぎ行くもの

(2)本試征服記

(3)漢文科受験準備時代を語る

(4)恵まれざるの記

(5)半ヵ年合格

(6)六十三歳にて合格

結び

附録

[一]文検検定に関する諸規則

[二]最近文検問題集

文検漢文科合格秘訣

             笠松彬雄 著

 

[一]序説

(1)奮起すべきの秋

 

 有資格者教員の大洪水!!

 就職に喘ぐ教師群、

 失職を哭する阿鼻叫喚!

 ……とまではいかずとも、毎年毎年一万人以上の有資格者が社会へ吐き出され、而も需要は僅かに千四五百に過ぎず、残りの八千五六百は敗残の身のうらぶれて、喘ぎを続けて行く。羽が生えて飛ぶ勢であった高師出さえも、就職難の声に脅かされるの現状である。

 何と教師の多いことよ!!

 けれども諸君、心配すること勿れだ。何時の世とても喩に漏れず、「人多き人の中にも人ぞなき」の嘆、至って深いものがある。人多くして而も役立つ人物に乏しい今日である。有為の士の奮起を望むこと大旱の雲霓を望むよりも尚甚だしきものがある。奮起すべきは此の時である。腕ある者の立つべきは今なのだ。

 有資格者の寥々たる時代には、資格さえあれば誰彼無しに採用された。玉石混淆も甚だしくて、石でありながらよい地位に一躍して達したものもあった。

 けれども今は実力の時代となって来た。麗々しい何々学校出身は何の看板にも役立たなくなって来た。裸一貫、出身学校の立看板なしに、腕と腕との競争になって来た。所謂文検出の台頭すべき好機が廻って来たのである。

 私立大学出身などの有資格者が、職を求めてうようよと泳ぎ廻って居る時に、文検出は此等競争者を一蹴して涼しい顔ですぐにどんどんと就職して行く。宜なるかな、腕の時代なること!!

 国漢科などは特に有資格者が多くて就職困難であるけれども、一度官報にその氏名が発表せらるるや、直に草廬を三顧して諸葛孔明の出廬を請うた如く、諸君を訪れる劉備が踵を接することであろう。

 諸君!!就職に就いて危惧の念を懐く勿れ。それよりも優秀の成績にてパスせんことを祈れ。実力さえあればきっと誰かが拾い出すに相違ない。

 私の最近聞いた話――。

 「コツコツと朝は早くから夜遅くまで、所謂夙興夜寝を文字通り行って、而も二三年の日子を費やして、うまく行って合格だ。運が悪かったら何年目に合格するか見当もつかない。而もだ。僥倖にして合格した処で、今の現状では就職などは思いもつかぬ。して見れば文検位馬鹿馬鹿しい話しが無い。書籍代は嵩み、健康は損ね、家庭は暗くなる位が関の山だ。それよりものんびりと魚釣りに囲碁に思いのまま生活する方が一生の利得とくだ。」

 斯う言う考の持主は此の書を読むの資格がない。

 しかし蛇足ながら之に反駁を加えて見ると、一生の得とか損とかを評価する標準が全然違って居ること、就職に対して杞憂を抱き過ぎること、更に根元に遡って言うならば、向上なき生活に満足して居ることである。

 我々お互いは向上なき生活に満足してはならない。平凡に無難に長生きをしようなどと考えてはならぬ。百歳まで長生して何の事業もせずに死んでいく人があり、三十歳に足らずで死んで、国家に関係する大業績を残す人もある。丈夫は当に玉砕すべきである。瓦全を愧づべきだ。

 今年担任して居た五年の一生徒が三高に入学しようとして、夜半尚端座して勉強に熱中するのを見た母親が、「早くお寝みなさい。身体に触るといけないから」と子の身体を心配の余り再三注意したところ、「三高に入学できない位なら、身体が達者でも仕方がありません」と、ずばと答えたと聞いたが、此の意気こそ望ましいものだ。向上の無い生活を十年や二十年延長して見た処で五十歩百歩だ。それよりも緊張した短年月の向上への精進こそ我々の辿るべき白路なのだ。

 躊躇すべきでは無い。奮起すべきの秋!

 

 

(2)国語科だけでは半人前

 

国語科だけでは半人前だ。国語の教師で国漢の合格する人なら漢文も何の困難もなしに合格するに決って居る。而も予備試験を受ける為に、相当はやって居る筈である。今一歩の努力である。

中学校令が改正されて、国語と漢文が接近して終って、今にも一科目になって終いそうだ。一学年などは国語時間中に漢文入門を教授する様にさなって来た。名称も従来は「国語及ビ漢文」と変更なって来て、一科目とする色彩を明瞭にした。

早晩、検定も当初の通りに国語漢文両科を一度に合格せねば免許状を貰うことが出来ない様になり、従来の免許状も書き変えられると思う。即ち国語科だけでは今後の国語科教師とはなり得ないことにより、結局国語科と漢文科と二科目の免許状所有者は一枚の新しい国語科免許状を下附され、今まで国語科だけの人ならば漢文科を受験合格せなければ、新しい国語科免許状は下附されないことになると思われる。

従って国語科だけの人々は是が非でも漢文科に合格して置くことが必要である。

よくこんな話を聞いたり、質問されたりする。

「近く漢文科が廃止されるようだから、漢文のべんきょうをしても無駄ではないか」と。

此の疑問は私自身も一寸持ったことがある。全く漢文が廃止されて終うものとの誤解からであった。たとい漢文科と言う科の名目が仮に無くなったとした処で、国語科の名の下に堂々とこれまでの漢文科は事実存続するに違いない。それであるから漢文なる名目は姿を消したところで、国漢の教師になろうと思えば従前通りの漢文試験を受けなくてはならぬ。決してこの方面から考えても無駄にはならない。

更に高所に目を転じて考察するならば、漢文学の影響を受けて培養され成育して来た国文学を研究するにはどうしても漢文学の研究が必須欠くべからざるものとなって来る。近い話が故事熟語の一語にせよ、枕草子の一節うぃ講義するにせよ、漢文のお陰を被らぬと言うことは無い。勉強して無駄になると言う様な馬鹿な間違った考えは毛頭起こすべきでは無いと信ずる。

大体此の書を手にせられる諸君は、国語科合格者だと思うが、中には漢文の方から進もうとして居られる人もあるだろうと思う。漢文の方が得意だと思うなら先ず漢文を征服してからと言うのも一法ではあろうが、概して言えば国語の方は容易で、漢文の方は少し厄介だ。而し、何れにした処で各人自信のあるものから進んだらよい。二か一時にやることは、二兎を追う者は一兎をも得ずの結果に、えてなり勝ちであるから、確実に段階的に進む方がよい。

 

 

(3)決心→敢行→合格

 

静かに反省して見ると、我々一日の中凡そ幾時間位勉強して居るだろうか。恐らく一分も一秒も自己を培う為に努力して居ない人も居るのではなかろうか。新聞の連載小説と三面記事を読むのが最大の勉強で、新刊の書物も読むではなく、それかと言って教材の研究に没頭するでも無く、無駄話に花を咲かして、職員室に煙草の煙幕を張る位で、その日その日を糊塗して過ごして居る人々も随分多い様に思われる。

その無駄に費やす零細の時間の利用と、家庭にごろごろ寝転んで居る不節制な時間の利用とに依って、自己を培い、よりよき自己の実現を企図したらどんなものであろう。

こんな愚痴は、本書を読まれる人々に対しては所謂釈迦に説法の観があるが、余りに小さい現状に満足し愉悦して居る人々の多いのが、腹立たしいので書いて終った。

ただ何事も、決心→敢行→月桂冠だ。

「漢文は仲々厄介なそうだ。俺などでは到底合格せぬだろう。合格もせぬのに三年四年の日を費やすのは惜しい話だ。囲碁でも上達して書籍代だけ酒でも飲もう」

などなど、自分が自分で自分の力を見縊って終う者が可成り多い。彼も人なり我も人なりの自信が無くては何事も成功せない。同じ人間に生れながら、彼のなし遂げた仕事が自分に何故出来ないのだろうと、その不甲斐のないのに泣くのはよい。自分の努力の足らぬのに切歯するのはよい。誘惑に打ち克ち得ないことに立腹するのはよい。

而し頭から自分の力では到底不可能だと諦めてかかることは大禁物である。勿論自惚れの余り強いのも困り物ではあるが、尻込みの消極主義に勝ること万々である。

そこで、漢文科を愈々受験しよう!!と決心が出来たら、敢然猛進、馬車車的の驀進をやる。中途で立ち止って右顧左眄したり、目的地の遠望をして落胆したり、甚だしきは、長大息之を久うして、もう止めて置こうなどと弱音を吐いたりもしてはならぬ。

苟も決心した以上はやり遂げねばならぬ。二度や三度の失敗は伴うかも知れないが、人生の行路から言えばそれ位のことは何でも無い。

敢行すればきっと成功に到達する。

その成功までの過程―而も最短距離のコースを示そうとするのが本書の使命である。

 

[二]試験概説

(1)試験の概要

 

 初めの中は国語漢文科として合併して一科であったものが、大正十年から独立して、国語科と漢文科の二科となった。そうして現今にまで及んで居るのであるが早晩は、前節で述べた様に国語漢文が一科となり試験も一緒に施行されることになろうと思う。

 而しその改正案が発表されるまでは、二科各々独立したものとして別々に受験したらよい訳である。

 試験は始めは年一回であったが、教員払底期の大正十一年から年二回宛と変更になった。而しその後教員が沢山増加してきたので昭和二年から又元通りの年一回になって終わった。国語漢文は秋季に行われる。

 試験の出願締切は、七月の末か八月上旬かで、それ以前五月か六月頃の官報によって告示される。そして予備試験は九月末か十月中に行われ、その結果は十一月中に官報で発表(予備試験合格者)され、十二月に本試験が施行されて、その合格者氏名が翌一月頃の官報に出るのが通則になって居る。多少の早い遅いは年々ある様だが大体これ位である。締切期日に遅れて終って折角の苦労が水泡に帰する様なことがあっては、つまらない。官報に注意して期日に間に合う様にせねばならない。官報は中学校は勿論とっているが、田舎の小学校などで一寸見られない時は、村役場に行くと必ずある。その上いつもいつも官報にばかり注意して居なくとも、何か一種位刺激の材料に受験物の雑誌を取って居たら委しく報道される。

 だが大抵は国語科合格者であろうから予備試験は受ける必要が無い。直ぐに本試験だけ受けたらよいのである。それでは始めて漢文科の方を先に征服しようとする方は、一体どうしたらよいか?と言うと、前述した様に予備試験を受けそれから本試、後述と進んで行かねばならない。

 

 

(2)予備試験と本試験

 

 言うまでも無く一班に承知して居られる如く、試験は予備と本試との二つに分れる。まだ国語科を取って居ない人で漢文科を受験しようとするならば此の予備試験から進んで行かねばならない。漢文科を受けるにしても予備試験だけは必ず国語と漢文の両科目に亙って受けなければならない。従って国語科を受験する者も予備試験には漢文を受けねばならぬ。即ち国語科を受ける者と漢文科を受ける者との予備試験問題は全然同一である。

 予備試験では更に、中等教員か小学校正教員かの免許状を持って居ない者は、教育大意と国民道徳要領との試験を受けなければならぬ。

 予備試験を受験する者は、試験日の一二日前に受験地に行くといい。そして試験の前日頃地方庁に行くといい。そして試験の前日頃地方庁に行って受験票を受け取り(此の時捺印せねばならぬから形印を持参する)、試験場の下検分をも済まして置く。

 予備試験は全くの筆記試験である。用紙は配布される。持参の必要が無い。ナイフ万年筆、インク、吸取紙などを机上に置いて、受験票も出して置く。用紙が配布されると、それに受験票に書いて居る受験番号を記入して、自分の姓名は決して書かない。

 問題を受け取ったなら心を静めてよく注意書を読む。必ず一問毎に別々の用紙に書くのである。これは採点する人が違うから一々別紙とするのである。若し二枚以上になったら一問毎に別々に紙捩りで綴じる。

 試験の結果は二十日余り後の官報で発表される。私は東京の宿屋から案内状で知った。

 本試験は東京でやる。本試験は筆記試験と口述試験とに分れ、筆記試験は予備試験と何等変わりなし。その筆記試験の結果が受験後一週間位して、文部省の正門に掲示される。それには第一日の口述試験には、何番と何番と、第二日は何番と何番とと言う工合に発表される。郷里の近い人は帰るが遠い者はその日までぶらぶらして発表の日を待つのである。発表があると第何日目かを見て、後述の準備などする。

 私の受けた時は、筆記試験はお茶の水女高師で受け、口述は大塚の高師で受けた。予備試験に合格した者が二〇〇名で、昨年の本試で不合格になって今年一緒に受験する者と合すと二五六名であった。その中筆記試験に合格した者は六十三名であった。

 口述試験は高師の東館で受けたが、その日は受験者の履歴書を返されて、抽籤で順番を定め、順次考査場へ行くのである。履歴書を持って行ってその時試験委員に渡すのである。口述のことは後で委しく記すことにする。

 口述試験が終るとこれで本試験が全部終了したことになる。その結果は一ヶ月位後の官報に発表され、間もなく出願地方庁を経て免許状が下附される。

 

 

(3)参考試験委員其の他

 

 前述の如く予備試験から本試へ進む者には国語の方も必要であるからそれも便宜記して見ると、文部省指定の参考書は

国語<古事記、万葉集、源氏物語、枕草子、大鏡、増鏡、古今和歌集、新古今和歌集、平家物語、太平記、徒然草、俳句、謡曲、現代文

漢文<大学、中庸、論語、孟子、小学、韓非子、左伝、史記、十八史略、唐宋八家文、古文真宝後集、唐詩選

 この他に設問に応ずる為の参考書もあるが、委しくは参考書の解説の処で述べることにする。

 試験委員は、年に依って多少の変更はあるけれども、大体に於いて次の先生方である。

          [国語]

御歌所寄人         鳥野幸次先生

東京帝国大学教授      藤村作博士

東京高等師範学校教授    松井簡治博士

同             保科孝一先生

東京女子高等師範学校教授  尾上八郎博士

第一高等学校教授      菊池壽人先生

 

      [漢文]

東京帝国大学教授      宇野哲人博士

東京高等師範学校教授    諸橋徹次博士

第一高等学校教授      島田釣一先生

学習院教授         小柳司気太博士

早稲田大学教授       牧野謙太郎先生

 

 どの先生がどう言う方面を担当せられるかは分って居るのであろうが、我々では忖度出来ぬ。誰が何方面であろうとも、決して試験委員の説そのままを書かなければ不合格などと言うことはないから、詮索は無用である。而し委員の先生の著書は見られるだけ見て置くと便宜が多いことは事実である。

 何点以上は合格だろうかと言う風の疑問はよく持つものであるが、六十点位でなかろうかと思われる。このことに就いては、大月静夫氏著「文検国語科受験法」に詳しく記されて居るから参照せられたい。同署の十七頁にある。

 予備を受験する時に、「自分は漢文科だから、国語の方は大目に見て呉れるだろう」などと考えてはならぬ。国語科受験者も同じ程度で採点せられる。

 

(4)出願の手続

 官報の告示と公告をよく見て、巻末の付録の様式に従って願書を書いて出す。

 国語科合格者ならば、受験者の処へ国語科合格と記入する。漢文科からやろうとする人なら受験資格の処へ「小本正」とか「専正」とか「中学校卒業」とか記入する訳である。

 履歴書は前述した様に口述の時に、委員が見ながら試問されるのであるから、出来るだけ綺麗に書いておく方がよい。

 受験料は7円である。本籍地現住地の上に貼って、最後の氏名の下に押すのと同じ形印で、消印する。そして自分の受験しようとする府県の学務課宛に書留便で出したらよい。なるべく早く出してたとえ不備の点があっても、返戻されて十分訂正する余裕のある様にして置く。

 

[三]計画案の作製

(1)計画案作製の必要

 

 行き着き放題、出鱈目の勉強では何年経っても成功は覚束ない。例外が出来たり遊んで終ったりして中々予定表を作って置いてさえ実行が困難であるのに、何の計画もなしに、只漫然と「来年受験したいから少しは勉強しておこう」位のことで始めても合格しないこと請合いである。

 頗る綿密に用意周到なる予定案を作製して、例外なしに之を実行して行くならば、二年なり三年なり経過した時に、受験準備が出来上る訳である。

 只実行にあるのみである。

 而しその計画案は綿密であればある程効果を挙げ易い訳である。それでは如何にして計画案を作製するか。以下順序として私の考えを述べよう。

 

 

(2)計画案作製上の諸注意

 

 綿密である程よいが、綿密になればなる程計画案の作製は困難を加えるのである。何故なら先ず何年でこれを完成させるか、一日何時間ずつ之に当てるか、参考書はどれどれに依るか、等々と言う先決問題が出て来るからである。

 国語科の合格者なら一ヵ年で大丈夫である。漢文科から始める人ならば、国語の準備も入るし、その上まだ大してやって居ないと思われるから二年は当然見なければなるまい。

 一日に大体四時間やればよい。多い程勿論よいのであるが平均して毎日四時間やると言うことは仲々の難事業である。どんな時間を利用するかなどは追って述べて行く。

 参考書は一体どれとどれに依ったらよかろうか?これは本書の参考書の解説欄を見て、「この本は何と何とを買う」、「この本はあれを誰から借る」、「あれは学校のを見る」等と参考書を決定せねばならぬ。

 そこで大体の見当が付いたら計画案作製に取りかかる。

 

 

(3)一ヵ年合格の計画案

 

 一ヵ年で仕上げようとするのは楽な仕事ではない。五年六年を費やしてさえ仲々に合格しない人さえあるに、一ヵ年の勉強だけで一挙に牙城を屠ろうとするのであるじゃら、十分の覚悟と努力とを必要とするのは勿論である。

 これでは短期に過ぎて自信を以て受験出来ないという人は、二ヵ年計画にして、月数を二倍にして行けば十分出来る訳だ。

 以下一例を示してみよう。参考書の関係などで多少先後することもあろうと思われるが、大体の見当はつくことと思う。

 

計画表

月次

漢文解釈

設問

一月

唐宋八家文、唐詩選

漢文典、時文

二月

 

三月

古文真宝後集

四書集註

四月

 

五月

史記列伝、十八史略

漢作文、復文

六月

 

七月

韓非子

支那哲学史

八月

 

九月

左伝

支那哲学史

十月

 

十一月

擬答案作製

擬答案作製

十二月

総復習

総復習

 

備考)中学卒や、専正などで教育大意・国民道徳大意などやらねばならぬ者は、これ以上にやらねばならぬ。

 漢文科から始める者は、予備試験の、国語科の勉強の為に、徒然草、増鏡、大鏡、平家物語、太平記、古今集、新古今、国文学史、文法等をやらなければならぬ。それでこの一ヵ年の表では無理である。

 

(4)計画案の運用

 

 以上述べた計画案はほんのアウトラインである。家で譬えるならばやっと骨組みが終ったに過ぎない。どんなに上手に立派に之を仕上げて行くかは、これからの運用如何にある。

 先ず始めるに必要なだけの書物を購入するか借用するかして調達する。本が無いからと言うので計画案の順序の反対などにやったり、順序を換えてやったりしては面白くない。最も効果が多いだろうと思われる順序に配列して居るのであるから、その順を狂わせたらそれだけ斬新的の段階が前後する訳である。

 一日四時間(出来得べくば多い程よいが)として、一ヶ月の中に二千頁を読破して、それを消化して行こうとするには、

  2000頁/4時間×30=2000/120時間=50/3

となり、一時間に十七頁位宛確実にやって行けばきっと二千頁は完全に読了出来る。これはほんの一例に過ぎないが…。

而し例外の時―来客があったり、家の用事が突発したり、学校の仕事が増加したりして―の遣繰りを日曜土曜の二日間にして、少しは予定よりも進み得る様にするとよい。余り欲張った計画案を立てて置くと、融通がつきにくく、二三日も病気で寝ることになれば、もう計画に大きな狂いを生じて終って挽回が出来ないと言う羽目に陥る。

夏期休暇、冬期休暇、春休み等の一週間以上も学校の休む時には、午前中五時間位の時間は十分出来るから、それは予定の中へ入れてもよい。又入れて置かないで不足と思われた分を復習してもよい。今後は秋の初旬に国漢科の試験があるのであるから、夏期休暇の利用法如何は、相当に大きい結果を齎して来る訳である。

更に一日の中で、朝晩の中、漢文解釈の方の準備を朝するか、夜するか、朝するならば、何時から何時までが適当か。設問の準備は何時するか、夜は何時からかと言う風に綿密にやらねばならない。

朝五時から七時まで二時間、夕食後七時から十時までの三時間、放課後帰宅して夕食前の一時間と合計六時間位の時間は捻出されそうであるが、さてやって見ると仲々困難であるから、先ず四時間として、朝の二時間に設問の準備、夜の部に解釈方向の準備をやればよい。

整然と勉強の頁数と時間とが割り当てられても、そこは人間の悲しさ、苦痛を感じて来て嫌気がさしたり、自信が持てなくなって迷って来たりする。その時が実際一番危険な時で、その心の油断が長く続いて予定をめちゃめちゃにして終うと、中止の形となり頓挫を来たして終う。

そんな時は受験雑誌を読むなり、受験記を読むなりして、不屈不撓でやって居る人々を見、自分の怠惰心を鞭撻し、初志を貫徹せずんば已まずの意気を奮い立たせるとよい。

 

[四]参考書

(1)はしがき

 

 文検成功の鍵は良書の選択にあると言っても過言でない位までに選択が必要である。折角多大の時間と労力とを費やして読破して行くのに、つまらぬ参考書では実力もつかないし、役にも立たないことになる。

 良書と言う意味は、斯界の権威書の意味ではない。私の所謂良書とは、間違少なくして、了解し易き書の意である。如何に学会に於いて重視されて居る権威ある書物でも、文検受験者の学力に不適当なものならば、良書とは言い得ない。

 良書とは即ち。

 〈1〉講義の煩簡に注意して文検受験者の程度に適切なるもの。

 〈2〉精髄を抜粋して居て、最少の時間に最大の効果を収め得るもの。

 〈3〉価の低廉なるもの。

 等の条件を具備したもので無ければならぬ。文検受験の為に編纂された便利書があるならば、それが一番よい訳である。而し中には、文検受験用と銘は打って居るが、何の考えも無しに、無闇に書きなぐられた書物もあるから、そこで、大体此処に標準になりそうな書名を列挙して行きたいと思う。

 国語科方面の参考書の必要な人は、大月氏著の「国語科受験法」を参照されたい。三十二頁に委しく出て居るから…。

 更に一言したいことは、時々受験記を見ると、「一流の書物に依って勉強すべきだ。史書集註や少なくとも漢文大系本でやる」などとの理想論を述べて居ることに就いてである。学界の重鎮が長年月を費やした著書や先哲の書き残した註釈書に依って飽くまでも学究者の態度を取り正々堂々と歩を進めて行くことは誠に望ましいことであるが、それは理想論に終り、机上の空論に終る。そんな事をして居たら日暮れて道遠しの嘆に陥るだろう。

 高教試験などは一流の書物によって学究者としての研究の態度を保持すべきであるが、文検に於いてはそんな必要は無い。最も簡便にやれる方法で速成を目指すべきであろう。

 受験者は大袈裟な話に肝を潰してはならぬ。原本に依るべきだなどと駄法螺を吹いて喜んで居る者の言に迷わされてはならない。望洋の嘆を懐いて断念すべきではない。

 自分の力に適応した書によって、文検恐るるに足らずの態度で進んで欲しい。然し一流の権威書がどんどん氷解される人は、最善最高の参考書によるべきは勿論一番よい方法である。その位の人なら文検など受けなくともよい。大学の教授位は勤まるであろう。

 以上良書とは如何なるものかに就いて参考書選択の標準を示したが、次に注意すべきは

  中心書は一冊

 として、それを精読することである。あれもこれも走り読みすることは我々検定受験者には大禁物である。分って居るのか分って居ないのかさえ分らない様な勉強をして置くから不合格になるのである。若し余裕が十分有る人は、その中心書に他書の研究を記入して行くとよい。

 

 

(2)解釈の参考書

 

 〔大学

 大学は元、礼記中にあったが、宋以前の学者は余り之を尊ばなかったのに、宋時代になって、司馬光が礼記中から抜いて「大学広義」を作った。程子は表章して論語・孟子・中庸と共に子弟の教科として、「諸学徳に入るの門なり」と言った。併し大学は道徳と政治との関係を論じたものと言う方が当たって居る。それは兎に角として四書の一として多く読まれるに至った。

 註釈本としては

 ○宇野哲人博士著 四書講義(大学)

 が一番よい。其他にも沢山あって挙げ尽くせない位あるけれども、これで他は見なくてよい。全部を読むべきである。

 

中庸

 子思が倫理の本体を誠とした。これを論理付けて述べたのが中庸である。これこそ修養書であり、格言となって居る多くの言葉が出て来て面白い。

 これも参考書としては

 ○宇野哲人博士著 四書講義(中庸)

 これ一冊で十分である。全部精読する。「詩に曰く」とか「書に曰く」とか詩経や書経のことにも関係があり興味が深い本である。

 

 〔論語

 孔子の弟子達が論撰したもので、孔子の言行に依って儒教の如何なるものかを説明している。修養書であるから、研究することによって多大の刺戟を受け発奮し、愉快の裏にこれを読破することが出来る。この中にも沢山故事熟語等の原拠がある。

  ○島田釣一氏著 論語全解

 がよい。私は大町桂月の著した「論語評釈」で面白く読んだ。尚教育学術會著「文検受検用論語解義」がある。これは本文を白文としてあるから練習に都合がよい。

 

 〔孟子

 孟子が孔子の道を祖述したものである。比喩が整然として居るから、難解な処は時々あるが全体としては、非常に面白い、全くうまく譬えて居るのに感嘆することがある。

 参考書としては、矢張り

  ○島田釣一氏著 孟子全解

 が手取り早く要領を得られると思う。又最近出来た

  ○文検受験用 孟子解義

 これも中々初学者の為に至れり尽くせりの書で其儘答案に用いられる程である。

 中心書を一冊に、精読主義で進むと言うモットーの下に、以上の良書を選択した訳であるが、設問の準備―と言うよりも口述の準備と言った方が適切なんだが、その為に四書集註をやるから、以上の四書(大学・中庸・論語・孟子)に漢文の註したものを再びやる訳である。この事は又後で述べる。

 

  〔十八史略

 史記・漢書・後漢書…南宋史に至る十八の史書から抄略した為に十八史略と名付けられるのである。史書として見ても価値があるし、修養の書と見ても面白い。その文章も簡明であり、漢文入門として格恰のものである。

  ○桂湖村氏著 十八史略国字解 上下二巻

  ○笠松彬雄著 十八史略評解

 は最もよい。これは全訳であるから、その骨髄をつかむだけならば拙著「十八史略詳解」で十分である。文検程度としてはこれの方が手早く会得し得る。

 

  〔史記

 史記と言っても列伝の個所だけである。文章は紀伝体の権輿として、二十四史の冠冕として頗る勝れたものである。これには文検受検に適当と思われる本はない。而しそう大して難解でも無いから

○漢文体系本の「史記評林」でやるとよい。抄出して解釈した本に

  ○森山右一氏著 文検受験用 史記選釈

 がある。あの大部の物を僅に三百頁ばかりに文検問題を基いて抄出したのであるから、これだけは一寸不安な気もする。

  ○国字解本 史記列伝

 はよいけれども、一寸手がつけられない位浩瀚である。

 

  〔左伝

 孔子が筆削した春秋の註釈書で、左氏の書いた伝であるから、春秋左氏伝と言うのを略して左伝と称うるのである。左伝は漢文本試の中心書であり、精髄である。これさえ十分征服して置けば八九分までは合格したのと同様である。

  ○竹添井々氏著 左氏会箋 三十巻

 は権威ある書で、漢文大系中に収められて居るが、一寸手出しが出来ぬ。而し時間は長くかかってもよいからコツコツやろうと言う人にはこれ以上よい本はない。而し手取り早く左伝の学習を終りたい人々は

  ○笠松 彬雄著 精要左伝詳解

 を熟読すればよい。文検合格を目的とするのならば本書で十分である。どんな初心者にも了解出来る様に頗る詳密に解釈している。

 

  〔韓非子

 韓の諸公子が、法術の要を説いた書物である。識見の俊邁なことや、さては行文の凌勵奇矯なことは比喩する者もなく、本書位なる程と感心させられる書物はない。

  ○吉波彦作氏著 精要韓非子詳解

 は良書である。

 

  〔八家文

 「南宋八大家文読本」と言う処を略して、唐宋八家文、若しくは唯だ単に、八家文と言うのである。唐と宋とから八人の大文豪を選び出して、その文章を収録して、模範文章たらしめたものである。

 韓退之を始めとして柳宗元、老蘇、大蘇(蘇東坡)、小蘇、欧陽脩、王安石、曾鞏の八人で、諸君の既にご承知の通りである。本書は予備にも本試にも共に出題されることは史書と同様である。

 註釈本は

  ○笠松 彬雄著 精要唐宋八家文詳解

 で十分である。二三回も反復して置けば了解出来る。

 

  〔古文真宝

 古詩文の中で真に宝となし得るに足ると思うものを集めたものである。前集と後集とに分れて居るが、前集は詩集で、後集が文集である。

 八家文と重複したり、文章軌範と重複したりするものが可成多い。

 註釈書としては

  ○吉波彦作著 古文真宝(後集)詳解

 がよい。

 詩の全盛期なる唐時代の詩を選したもので、此の名がある。明の李攀龍編と言われるけれども、偽書であることは明瞭で、射利の為に出版屋が李攀龍の名を巻首に冠らせたものである。而し大体に於いて唐時代の代表作を網羅して居て、吟誦措かざらしむるものがある。

  ○笠松 彬雄著 唐詩選詳解

 は文検受験者の為に特に執筆したものであるから、無駄なく勉強出来る。最近簡野道明氏著の「唐詩選詳説」が出たが頗る詳密なものである。

    ×    ×    ×    ×

 以上で大体漢文解釈に関する参考書の紹介が終ったから一目瞭然たらしめる為に表示する。(※この表は当時の字体のままにした)

 

予備試験

著者

書名

定価

発行所

桂湖村

笠松彬雄

宇野哲人

宇野哲人

島田釣一

島田釣一

笠松彬雄

笠松彬雄

十八史畧國字解

十八史畧詳解

四書講義(大學)

四書講義(中庸)

論語全解

孟子全解

唐詩選詳解

唐宋八家文詳解

5,00

2,80

2,30

2,80

1,80

2,70

2,80

4,80

早大出版部

啓文藤

大同館

大同館

有精堂

有精堂

大同館

大同館

 

本試験

著者

書名

定価

発行所

森山右一

笠松彬雄

吉波彦作

吉波彦作

笠松彬雄

史記選釋

左傳詳解

韓非子詳解

古文眞寶(後集)詳解

唐宋八家文詳解

3,50

3,50

4,80

3,80

4,80

大同館

大同館

大同館

大同館

大同館

 

 

(3)設問の参考書

 

 支那時文は解釈の部に入るべきであるが、便宜上此の所で述べる。

 

支那時文

 支那時文とは、支那で現今新聞雑誌等に用いて居る各種の通用文のことである。即ち現今行われて居る通俗文のことである。語句にも全然意味の取れぬ物が出て来るから一寸厄介である。而し大体は我々の漢文の力を以て読解は出来るが、特別な意味の言葉などは見て置く必要がある。

 参考書としては

  ○吉波彦作氏著 漢文白文訓読・復文作文・支那時文研究要訣

 がよい。一般に定評のある書である。

  ○田井嘉藤次氏著 最近支那時文宝鑑

 で見てもよい。

 

 〔漢文典

 私などは漢文典知らずに受験したりして随分無鉄砲な事をやった。解釈するのにも作文するのにも文典の力が必要である。深い研究はやって居る隙も無いけれども大体は知って居なければならぬ。

  ○石川誠氏著 復文作文応用漢文典概説

  ○佐々木藤之助著 漢文典

 等によったらよい。

 漢文の相当出来る人なら

  ○児島献吉郎氏著 漢文典

  ○同著 続漢文典

 

 〔四書集註

 口述試験の準備であり、漢文の註に馴れる為であり、四書の解釈方面を補う為でもある。徹底的にやることは望ましいことであるが、言うべくして行われ得べくも無いから、こんな書物にも親しんで行くと言う程度でよい。根気よく見て居ると、少しずつ分って来る。

  ○漢文大系本

 によるとよい。上欄には註釈もあり大抵読めると思われる。

 

漢作文、復文

 これは読んで知る性質のものでない。幾度かの練習によって習熟すべき性質のものである。根気よく練習を積んで会得しなければならぬ。

  ○吉波彦作氏著 漢文白文訓読・作文復文・支那時文研究要訣

 によって、練習されたらよい。私などはこの書のお陰でうんと力が付いた。其他にも同種の書物が沢山あるがこれで十分である。

 

 〔支那文学史

 従来まとまった良書はなかったが最近に左の書が出版せられた

  ○小林甚之助著 文部省検定受検参考支那文学史要

 最近の出題傾向を中心に系統だてこれまでの文検問題を集めて各時代に各章に掲げてあるので大変都合がよい。

  ○石川誠氏著 文検漢文科研究者の為に

  ○佐々木藤之助著 漢文科の組織的研究

 などの支那文学史の部に依っても十分受験が出来る。

 ○児島献吉氏著 支那文学史

 は良書であるが、惜しい哉絶版である。私はこれを早稲田の講義録で読んだ。

 

 〔支那哲学史

これは迷うことが入らぬ。

 ○宇野哲人氏著 贈訂支那哲学史講話

 一冊を熟読することによって、支那太古より近世に至るまでの哲学を整然として知り悉することが出来る。

 

 

(4)其他の参考書

 

○    霜島勇気男氏著 高等漢文漢語詳解《設問の解釈があって便利》

○    龍澤良芳著 文検受験用国語漢文科問題詳解

○    岡田稔氏著 小学新釈《重要な個所抜の註釈である》

○    教育学術界著 文検受験用論語解義《本文が白文の為に練習に都合がよい》

○    簡野道明氏著 論語解義

○    簡野道明氏著 孟子通解

○    教育学術界著 文検受験用孟子解義

○    石川誠氏著 文検漢文研究者の為に

 

 

(5)参考書余録

 

 私は殆ど早稲田の講義録によって国語科を受けた。毎月二冊ずつ来るのを片端から読んで行くのであるが講義録が枚数に制限があるから、切れ切れでまとまらないのが欠点だ。最後になって綴じ直さなければならぬ。それに一ヵ年半もかかってやっと完結であり仲々悠長なものである。速成には不適当である。

 漢文講座などはよい。

 しかし何と言っても、以上挙げた中心参考書を十分読破して受験するの賢明に及ぶものがない。迷わず恐れず、躊躇せず以上の参考書を徹底的に征服したら合格は誠に易々たるものである。

 受験に関係の有る雑誌を見て刺激を受けることも重要なことがらである。月一回宛訪れて呉れて撓み勝ちな心を鞭って呉れる。中には感奮させる体験記もあり、参考になる受験法や、学力養成の講座もあろう。一種は必ず読むべきだ。誌上を通じて慰め会う意味から言っても必要である。

  文検世界 文検受験生

 前者は老舗として貫録を占し後者は新しい編輯法によった雑誌である。

 其他刺激を得べきものに

○    大月静夫氏著 若き検定学徒の手記

○    山田耕氏著 小検より文検まで独学研究者の為に

○    稲家詛風氏著 青年教師の歩める道

 

[五]研究法(※(2)の「解釈の研究法」は、主に漢文の訓読法と解釈の仕方を述べたものであり、当然訓点が振ってあるが、web公開の便宜上、それらを忠実に載せることはできなかった。よって掲載を諦めた。
 

【五】研究法

(1)緒言

 

 文検は恐るるに足らぬ、高等常識試験に過ぎない。と言ったとて、そんなに容易なものではない。一生かかってものらくらとして受験したのでは合格はしない。文検々々と口ににはたやすく言い得るが、いざ一挙屠ろうと思って、見上げると中々高い城砦である。

 であるから文検に志した以上は不撓の精神で飽くまでも完成せずんば已まずの意気で進まなければならない。

 

(一)目標を失うな

 常に文検に志して居ることを念頭から忘れてはならなぬ。道を歩む時、散歩する時、食事する時―総べての時に、文検に志して居ることを忘れてはならね。「文検突破!!」の目標さえ見失わなかったら日常の生活も緊張を加えるであろうし、無駄に時間を費やさないであろう。

 同僚の下品な雑談に花を咲かす時、静かに文学史の復習をやる時もあろう。囲碁に皆の耽って居る時に、昨夜の抽き出した疑問の個所を学校の図書で研究することもあろう。要するに充実した生活を続けて行くべきだ。

 

(二)陰口を気にかけるな。

 大きい事を口にして如何にも英雄豪傑らしいことを剛語して居る連中も案外心の狭いもので、他人の成功立身出世を非常に嫉むものである。それで文検などに志して孜々として勉強を継続する者は、同僚から毛嫌いされる。悪口陰口も言われる。恐れられるのである。

 人間だもの陰口されることは相当苦痛である。時には孤独を嘆じて文検などは断念して終わるとまで思うこともあるに違いないが、翻って合格後の輝かしい考えると又勇気を奮い起こして、いそしむのである。嫉む者には嫉ましてやるが可い。笑う者には笑わしてやるがよい。自分は自分として自己の深化を計ったらよい。行き詰った自己を救うて呉れるものは文検のみだ。

 陰口位に辟易してはならない。「犬は恐ろしいから吠えるのだ」そうな、そうだ彼等も薄気味悪いから悪口陰口するのだ。

 

(三)命あっての物種

 拮据黽勉(きっきょびんべん)、数年の後憧憬の文検突破は成功しても身体が虚弱になる様では面白くない。散歩も運動も十分心得てやるべきである。

 放課後の一時間位はテニスか捕球か何かをやるとよい。疲れた頭を回復させ、気分は爽快になり身体は剛健になる。これ以上よい方法はない。而し対手のない時、雨の日などは出来ないから散歩する。その目的地も出来るなら五六町の場所にあるお宮へ参詣する様にしたらよい。参った度毎に今日までの健康なことに対する感謝と、今後の健康ならんことに対する祈祷、薄志弱行の自分の志のぐらつかぬ様にお祈りするのである。この方法は非常に効果が大である。森厳なる社の前に額づいて、「来年の文検に幸あらしめ給え」と祈ってもよい。撓み勝ちな心の手綱を神様の力で締めて貰うのである。若し見晴らしのよい場所や、閑静な場所であるならば書物を携えて行って勉強してもよい。印象深く記憶出来ることだろう。

 人間は緊張さえして居れば決して病魔に犯されない筈なのだ。油断したり怠けたりして居るときも、つと病に捉まる。

 

(四)精読主義に終始せよ

 広く浅く読んで悔を残してはならぬ。句調が自然と口を突いて突出する位にまで熟読せなければならぬ。一語句を聞いて先後の関係が思い浮かぶ位にならねばならぬ。少量の精読こそ文検の正道である。そこには確実なる智識の収得がある。不確実な物を山程積んでも砂上の楼閣で何の役にも立たぬ。

 

(五)交友関係に注意すること

 環境の整理と言った方がよいかもしれぬ。釣好きの連れや囲碁将棋好きの友達と交っては時間を空費するばかりだ。断然廃するのが一番よいが都合が悪かったら已むを得ざる場合の外は対手せざること、此方から決して誘い出さぬことにして置けばよい。

 兎角青年時代には若き女性との交りに全力を注ぎたくなり易い。「青春我に幾時ぞ、紅き血潮のさめぬ間に」と言う様なことを言って、「この二度とない黄金時代を何を苦しんで嫌な勉強に費やしてよかろうか」などと考えるものであるが、其の時によく考えて貰わねばならぬ。現状の地位身分で得られる女性と、文検合格後に得られる女性は果たしてどんなであろうか。これを思って先づ文検突破の先決問題であることを知って欲しい。三十才位までは未だ未だ女性の事は考えないで此方に没頭して居てよい。ぐんぐんと研究が積んで高等教員でも合格してから、十分の選択をして女性を得るならただ御意のままにどんなのでも手に入るであろう。年若くして人の親となり安月俸に貧乏するよりも遥かによい方法である。

 小我を殺して大我に就くのである。明日のに今日の苦労をして置くのである。而し少しやれば決して苦痛ではなくきっと面白味を発見し、やがては楽しみとさえなって来るであろう。

 

 

※(2)の「解釈の研究法」は、主に漢文の訓読法と解釈の仕方を述べたものであり、当然訓点が振ってあるが、web公開の便宜上、それらを忠実に載せることはできなかった。よって掲載を諦めた。

 

(3)設問の研究

 

〔研究の方法〕

 設問に出されるものは記憶を主としたものである。文学史でも文学概論でも言語学でも皆前後左右に連絡があり順序正しく記憶することは困難なものである。その為に「ノート」に取って最小限度に簡約して書いて置く。智識が確実になりよく記憶が出来、整理された知識を持ち得ることになる。

 

▲機械的記憶の方法

 記憶にはよく了解して秩序的に記憶するのと、無茶苦茶であるが兎に角丸暗記するのとがある。即ち機械的の記憶である。これは何の連絡も無いものを記憶するので忘れ易いものである。この忘れ易いのを防ぐ為に聯想を利用して順序立てて記憶する方法を取るとよい。その方法は、先づ自分の家を出発点として西の方向へなり東の方向へなり、隣家を数えて一二三四五…二十位まで順番を作る。そして八番と言えばその八番に当った家が眼前に浮ぶ様に何回もこれを練習する。十五番はどの家、十番は誰の家と言う練習が出来たら、その家の一二三四回となって居る順序に結びつけて記憶して行くのである。

 今八代集を記憶するとする。

 自分の家―紀伊の国(私の郷里は和歌山)であるから紀貫之を思い出し、その友の紀友則に連絡する。これが古今集。

 一軒隣―大きい梨の木があるので、梨壷の五歌仙を聯想する。古今集より後に撰ばれたから後撰集。

 二軒隣―椿の花の美しく咲く家だ。それで花山院を思い出し、子供等がよくその落椿を拾い集めて遊んで居るから拾遺集と覚える。

 三軒隣―二軒目の直ぐ隣であるから拾遺集とは関係があって即ち後拾遺集である。

 四軒隣―葉鶏頭をよく作る家だから葉が金色に光って居て金葉集だ。この家に老人があるから俊頼(としより)の編だと覚える。

 五軒隣―辨口が伸々上手な内儀だから詞葉集。

 六軒隣―剽軽者(ひょうきんもの)の居る家でよく万歳の真似などして居るから万歳ならぬ千載集と記憶する。

 七軒隣―新古今、恰度自分の家の分家に当るので面白いことには古今集からの分家の新古今となる。

 

 これは私の記憶して居るほんの一例に過ぎないが、文学史は皆此の方法で秩序立てる。従って年代順に人物を並べることなんかは易々たるものである。

 「ノート作成法」は省略する。委しく大月氏の「国語科受験法」の中に出て居るから…。要点を掴んで最小限度の必要なことだけ記載することだ。

 

▲支那文学史の研究

 その時代の概観、特徴などを研究し、主要中心人物を記憶し、著書と結びつける、著書の内容に就いては大体だけ知って居ればよいので、委しくやる必要はない。例えば、「詩品」と問題に出た場合には、

 斉梁時代の鐘嶸の著、詩話の祖であって、漢魏以後百余人の作詩の優劣作者の月旦を記したもの

と書けたら満点に近いが、合格するだけならば、

 六朝時代の鐘嶸の著、詩に就いて意見を述べたもの

と位に書けたらよい訳だ。

 而し文部省指定の参考書は勿論内容も著者も委しく調べて置く必要がある。時には比較評論せなければならぬこともある。

 

▲支那哲学史の研究

 これは余程確り記憶せぬと混同して終って異同を述べよと言われても分らなくなるから、常に比較をしたり反対説を考えたりせなければならぬ。

 「二程の理気説と、朱子とを比較せよ」などの問題が出た時に面喰う様ではならぬ。明瞭にノートなどに取って比較して記憶して置くことが必要である。

 時に設問として哲学上の術語が出される。これも小さいことだと思って粗末に取扱ってはならない。十分注意すべきだ。

 

▲復文の研究

 これは練習だ。漢文法を会得してそれから推論して斯くなる筈であると学問的にやって行くのは中々手間取るから、簡便に早く出来る様になるには、練習によって、こんな場合には斯うなるのだと記憶する。何故斯うなるのかを研究し出した仲々六(む)つかしい問題になって終う。それには合格してから研究しても遅くはない。先づ何よりも合格への突進が先決問題だ。

 

▲作文の研究

 復文が十分出来るならば、作文は案外容易なものである。勿論名文などは作れないが、漢文の少し位はやっと分って居ると言う程度の作文ならば易々たるものだ。普通の文語体の文を作って、それを復文しても漢作文が出来るが、何となく歯切れが悪く、引き締まったキビキビした文にならぬ。漢作文は矢張り漢文直訳文を練習して置かないとよい物にならぬ。私などは二三の文例を暗誦して置いてそれを骨子として前後左右を補綴した。始めから自分の力だけで作文を書き上げようとするのは無理である。

 

 

(4)口述の研究法

 これは別に欄を設けて委しく述べたいと思って居るが、大抵漢文科は四書集註が問題として出される。

 それで此の方面の準備をして置くことが必要である。今その一例を示すと、昭和四年(五十一回)の漢文科口述試験問題は、

喜怒哀楽之未発。謂之中。発而皆中節。謂之和。中也者天下之大本也。和也者天下之達道也。

(註)喜怒哀楽情也。其未発則性也。無所偏倚。故謂之中。発皆中節。情之正也。無所乖戻。故謂之和。大本者天命之性。天下之理皆由此出。道之体也。達道者循性之謂。天下古今之所共由。道之用也。此言性情之徳。以明道不可離之意。(中庸)

 

孟子曰。人之所以異於禽獣者幾希。庶民去之君子存之。

(註)幾希少也。庶衆也。人物之生。同得天地之理以為性。同得天地之気以為形。其不同者独人於其間得形気之正。而能有以全其性。為少異耳。雖曰少異然人物之所以分。実在於此。衆人不知此而去之。則名雖為人。而実無以異於禽獣。君子知此而存之。是以戦兢惕厲。而卒能有以全其所受之理也(孟子離婁下)。

 

 これが十分に訓読も出来、解釈も出来るならば口述の方は大丈夫だと思う。私などは準備が全く無かった為に散々に間違って、しどろもどろの体で引揚げたことであった。

 

 

(5)仕上げ

 計画表の中の擬答案作製と総復習とが此の仕上げに相当する。一通り予定通りの勉強が出来たら巻末付録の試験問題集によって擬答案を作製して見るのである。その作り方等は次の章に委細説明するが、大体自分の力で消化出来、どうかこうか答案が書けなそうならばそれで、その方面のことはまずまずよいとして、若し手の付けられぬ位のものが出て来たとすると、その方面の勉強がまだ不十分であると言うことに帰着する。

 再びその方面の研究へ逆戻りせねばならぬ。そして丹念に復習を終って更に問題に当って見て、すらすら分ればよろしいし、分らぬならば更に研究の要がある。この方法を撓まず繰り返すことが仕上げである。文学史哲学史などはもうノートばかりでやったらよい。

 時に同志があるならば互に出題し合って答案を検討し合うのも一つの面白い仕上げ法だ。先輩に出題して貰って答案の批評を請うのも良法である。而しこれは十分了解を得て置いてからやるべきで、未知の人などに突然答案など送りつけることは失礼になる。

 

【六】答案の研究

 

(1)要領よくきびきびした答案

 簡潔な文章で、要領よく、きびきびした答案でなければならぬ。だれ切った弛んだ答案は試験委員をうんざりせしめる。その中へ混じってピリとする様な気の利いた一字一句もそつのない答案が見えると「フム、中々やるわい」と思わせる。それで合格だ。

 同じ解釈を同じ調子で同じ方法でやる中に、整頓された急所に触れた答案が出て来ると、思わず愉快になって良い点がつけたくなるのは人情だ。平常勉強する時から特に気を付けて居なければならぬ。

 一歳二歳の日子の結晶だと言って差し出す研究物、即ち答案が何の苦労もない薄っぺらい物であったら、今までの努力が瀬戸際で捨てられて終うであろう。合格か否かの制定は、この答案のみにかかって居ることを十分知ったら、そんなに迂闊な答案は書いて出せない筈である。けれども案外多くの人は力さえあればどんなに書いても佳いものだと誤信して居る。それは勿論有り余る力の人ならどんな下手な順序で書きなぐっても随所にその人の滋味が泌み出て、「仲々実力があるぞ」と感ぜさせることが出来るが、多くは八の力を十に見せたいのだ。それが為には要領よく書く方法を研究せねばならない。

 抽象的に只、要領よく、きびきびした答案と言って終っては余りに捉え所がないから少しく説明してみよう。と言って実例を出さなければ普遍的に何へでも応用出来る様な順序方法などはない。問題に当面して初めてこの問題の急所は此処だと分る訳である。

 四十五回(大正十五年)に

  (イ)淮南子及ビ文中子ノ著者

  (ロ)小学及ビ近思録

 に就いて知れる所を記せと言うのが出て居る。

 右に対して要領よくきびきびとした答案を書いて見ようならば、

  (イ)淮南子ー著者 淮南王劉安(前漢時代。老荘主義を鼓吹した)

     文中子ー著者 王通(隋時代。儒家に属する)

  (ロ)1.小学

名義と作者。南宋の大儒家朱熹の著で、「大学」に対して「小学」と命名した。

形式と内容。内容は修養方面のことを述べて居る。

     2.近思録

名義と作者 同じく朱熹の著。名義は論語中の語から取ったもの。

形式と内容 十四巻あるが雑録で統一がない。大極説を始め格物致知等が論ぜられて居る。

以上の数語で十分である。

 (イ)に就いては「淮南子と何故言われるかと言うこと、それは、淮南王の著であるからである。淮南王は漢の高祖の子淮南王厲王の子で実は賓客に集録せしめたものである。形式は内篇外篇に分れ今は二十一篇だけ残り三十三篇は亡失した」などと書く必要はない。

 「賓客に集撰せしめた」と言うことは附記する方がよいが、若し曖昧にしか記憶が無かったら書かない方がよい。文中子に就いてもその通りである。

 (ロ)に就いては、先づ書物の作者、その書の内容はどうしても説明せなければならぬ。それが抜けて居たら他の事を如何に縷々と述べ立てても徒労である。

 尚その要領は模範答案などによって、会得されたい。

 

(2)文字を綺麗に速く書く

 下手でも宜しいから綺麗に書く練習をして置かねばならぬ。字形よりも分り易いか否かが問題である。次に速く書く練習が必要だ。四時間半あれば随分長い様に思うがさて答案を作って見ると二時間や三時間は瞬く隙に飛んで終う。時間は迫るこつこつと暗記して居ると言う様では気が急くから碌な答案ができない。この二つは一朝一夕に出来ないことであるから平常から、注意して常に練習を怠らぬ様にする。特別にその時間を設けなくとも平常の業務に従事して居る中に注意してやれば十分出来ることだ。

 

【七】試験委員の談話

 少くとも一星霜、多きは数星霜の日子と多大の労力とを費して、研究した結果を、身血を注いで作り上げた答案が、果してどう言う考を持った人々に依って評価され合否を決定されるのであろうかと考えて来ると、試験委員の談話も決して等閑に附せられるべき問題ではない。大いに関心を以てその説を拝聴すべきである。以下二三のものをあちこちから拾録して見る。

 而して委員の方々は理想論を述べられる。我々は理想論を実行して居たのでは合格が何時巡って来るか見当がつかなくなる、その心境で読んで見るべきだ。

 

(1)漢文の成績が低下して来た   児島氏(※原本では姓名が書かれているが、ここでは特に個人名を載せる必要はないと判断し、姓のみを載せることにした。以下同じ)

 漢文を受験する人の学力が、近年非常に低下して来たように思われる。或る雑誌に出て居た一国語科合格者の疑答案を見ると、其の中復文の所などは非常な間違をなしている。どう見ても一二点より外に採点の仕ようのないものである。

 自暴者不可与有言也。自棄者不可与有為也。言非礼儀謂之自暴也。吾身不能居仁由義謂之自棄也。

とあるべきを、

自暴者与不可有云也。自棄者与不可有為也。言非礼儀云之自暴也。吾身居仁不能由義謂之自棄也。

と書いている。与の置き場所と不能居仁などは、之を誤ってはならぬ箇所であるのに、平気で間違って居られる。

 

 

(2)漢文科受験準備の急所  小柳氏

 

 一、東洋文化と漢文 

多くの答案の中には非常に悪いのがあります。単に様子を見に来ただけであって、自分としても及第出来る等と思って試験に臨まれたとは思えない。漢文の素養の全くないと云ってもいい様なのが見受けられます。斯様な甚だしいのは除くとしましても、全体として学力が足りないと言うこと、及び年一年と低下の傾向にあると言うことは、否定することの出来ない事実であろうと思われます。教育が多義多端に分れて居り昔程国漢に対して多くの時間を割り当てることの不可能である今日に於ては、学力の低下は必然的のものである。大勢の然らしむ処として、敢えて学ぶ方の側の人のみを責める訳には行かないかも知れません。教育上に於ける漢文の位置を論ずる為には或は教育制度の事にまで及ばなければならないかとも考えられますが、今暫く之に論究することを止め単に学力の点に就いて考えて見ましても、之が低下を来すと云うことは決して、喜ぶべき現象ではなかろうかと考えられます。

 尤も近年国漢を刑死する風がないではありません。学力の低下は此の傾向に原因して居るのかもしれませんが、若しそうであるとするならば之は誠に遺憾なことであります。何となれば、東洋の文化と漢文とは密接不離の関係に在り、東洋を知らんとするには是非とも漢文を必要とし、漢文を離れて東洋を知らんとするは、木に縁って魚を求むるが如きものであるからであります。私は漢文を謳歌して之が偏重を力説するものではありませんが、之を軽視することには賛意を表することが出来ません。欧米の文化にも大なる長所がある事は否定しません。然し横文字のみを学ぶことや、西洋文明のみに接することが、我々の目的でもなければ、又教育上採らざるべき策ではないでありましょう。彼の国の文明に接すると共に又東洋文明をに併せ知るべきではないでしょうか。彼我相補う所ある様、洋の東西に亙りて広く目を注ぐことが採らるべき道ではないでしょうか。現在の教育制度が改革された暁には、或種の学校に於ては漢文が教授されなくなるかも知れませんが、たとえ教授されなくなっても、漢文は宛も西洋文明に於けるLate Greekの如く、其の重要性に於ては聊かも変る処がないでありましょう。随って之を軽視することには反対でありまして、学力の低下が若し此処に原因して居るとしますれば、此の考え方は一日も早く改められんことを希望するものであります。

 

 二、漢文としての普通学

 学力が次第に低下して来て居ると言うことは、之を軽視することにも因るのでしょうが、亦他方之を学ぶに当っての態度が誤っているいる為では無かろうかと考えられます。順序を追って進むべきであるのに、直に高い程度のものに取りかかるかと云うことに原因していることが少なくない様であります。漢文を勉強するには漢文としての普通学が必要であって先ず四書十八史略より始め、之に精通し以て基礎を養うべきであります。基礎を作ることを怠り直ちに詩経書経を読まんとするのは、宛も加減を知らずして代数幾何を学ぶが如きものであって、効果の無いことは勿論であります。然るに十八史略は子供の読む物の如く考えて読まなかったり、或は読むとしても抜書を読んで全部を精読せない。為に時代の観念もなければ人の名も書けないと云うことになるのであります。例えば蘇東坡や李白は何時頃の人かと尋ねても知らなかったり、堯舜と云う字も知らないと云う様なことが生ずるのであります。斯様な事では試験を受ける資格の無いのは勿論、苟も漢文を学んだとは云えないでありましょう。四書十八史略は何処から出されても一通り解釈が出来る様になっていなければなりません。将来先生となった時にも困ります。文学歴史を始め故事・熟語・固有名詞等大抵の事は十八史略に出て居ますから、之を精読して居れば先ず大体のことは分り、他の程度の高い書に及んだ時にも極めて楽であり、又口述の際などにも見苦しいことなどは無かろうと考えられます。普通学とも言うべき四書十八史略に精通したならば、次に文章軌範、八家文等の文章に進み、更に唐詩選、三体詩等の詩に進むべきでありましょう。

 要之、先ず順序を追って進むべきであります。然るに普通学を修めずして直に詩経書経にかかるが如き本末を顛倒したことをするが為に、折角の勉強も非常に効果が薄くなり、結局力がつかないと云う結果を招来するのでありますから、此の点大いに反省する処あって、決して焦ることなく、先ず根柢を養うことに勉むべきでありましょう。白文を読む力は年一年と落ちる一方ですが、上海版の本で容易に手に入るのがありますから、これなどによって出来るだけ白文を読む力をつけておかれることを望みます。

 

 三、漢作文及び口述試験

 漢作文に対しては余り多くを期待して居ません。ただ文字の顛倒や、文法上の誤がなければ、先ず大体に於いていいとしなければならないでしょう。文字の選択と言う点までは要求出来ない様であります。

 口述試験は白文を読ませ、教授法を試験するのがその趣旨であります。試験委員に対する答では無く、生徒に対する講義の形式を取るのであって総て生徒に言い聞かせる本位で行うのであります。講義の士振り、説明の士振りを見るのでありますが、その時によって出来不出来もある事でありましょうから、試験管の方でも仲々その辺の斟酌がむずかしいのであります。勿論此の際本試験の成績を考慮に入れて居るのでありまして、本試の成績がよければ口述が甚だしく不出来で無い限り従来は大抵、及第の圏内に入り得ているようであります。

 

 

(3)国漢科予試答案審査所感   内野氏

 

 一、漢文の基礎的知識

 去る十月施行した中等教員国漢科検定の予備試験答案を審査して、感じた点について受験者並びに研究者の為に留意考慮して貰いたいと思うこと二三を述べよう。

 一番驚いた事は、漢文の形式と云うものをまるで理解して居ないで、自分勝手な読み方をして居る者の多かったことである。漢文読法の中、下から上への返し等に就いて、初学の者でも知って居なければならぬ位のことを、漢文の規則に拠らないで、勝手の考えで下から上へ返して読んでいる。随って人名や地名や官名と云うものを、或は動詞として読んで居たり、又は形容詞として読んで居たりする珍妙な答案が甚だ少なくなかった。 之等はつまり漢文の読み方の基礎知識として、知って居なければならぬ漢文特有の形式を理解して居ないこと、換言すれば、漢文の文法的知識が極めて薄弱だと言う結果によるのである。同時に又人名や地名や官名やを動詞にしたり形容詞にしたりして読むなどは、歴史的知識が極めて僅少な結果であると思われる。之等のことは試験場に望んで急に追い付くものではないから、平素より十分に注意していなければならない事柄である。

 

 二、註釈書の選択

 又甚だ遺憾に思ったことは、ある問題に対して、幾つかの異説を並べ比較するのもよいが、其の説なるものが、大抵現代の人、それも余り権威にならない人が受験用に書き下した講義本を引合いに出して居ることである。現代の而も余り権威にならぬ人の説を幾つか並べて居るのでは甚だ困る。そうしたことをするより、鄭玄なら鄭玄、朱子なら朱子と言った人の説を、唯一つだけでよいから挙げて置いて貰いたい。此の様な欠陥を示す人は、其の原拠ともなるべき註釈書を読まないで、手取り早く仮名交りの解釈本に依って終う為で、従って其の学問に根底が無く、上すべりがしていけない。

 我々の希望としては四書などは少なくとも朱子の註位充分読んで居て貰いたい。近年、本試験に四書の朱子註などが読まされて居るのであるが、仲々読めないようである。之等は将来受験者の大いに努力して準備しなければならない点であると思う。

 

 三、設問について

 設問と云う項目の下に、書物の名前などを掲げて其の解答を求めて居るのであるが、之は漢文常識とでも言うべきものであって、これ位の事が分らない様では、漢文が教えられぬと言う程度の、極めてやさしいものなのであるが、それでいてさて受験者の答案を見ると、随分突飛な出鱈目な解答が出て来る。これは独学の人が多いので已むを得ない現象ではあろうが、それ等の人はつとめて図書館などを利用して、漢文を学ぶ上の材料に就いて十分研究して置く可きである。

 之を要するにそうした漢文常識とも言うべき方面の知識の甚だしく欠如して居ることを、今度の試験に於いて特に痛感したのであった。

 

 四、国文法の知識

 尚最後に、予備試験では国語科受験者と漢文科受験者と同一問題で試験するのであるが、答案を見ると、国語科の受験者でさえも、漢文の送り仮名を多く誤っているのに驚いた。即ちそれは日本の文法に合致しない読み方をしていることである。音便を間違え、語尾と語源との区別がよく分らぬ者などが多くあった。漢文の返点や送り仮名は、少しばかりの約束を覚えさえすれば、後は凡て国文法の力で完全に分るものなのである。然るにそれが案外にも乱雑であったのには驚いた。受験者は将来、送り仮名などを付けるに当って国文法の力を応用して行くことに注意しなければならない。

 以上は自分が予備試験を終えて、特に気付いた受験者の欠点を述べたのだが、今後の受験者は、少くとも以上のことに充分注意して準備し、且つ研究して戴き度いことを切に望むものである。

 

 

(4)試験成績を見て   牧野氏

 

 一、中等教育改善規定

 前年第五十三回の文検受験者の数はこの就職難の不況に拘わらず志願者は例年よりも多かった。それは如何なる関係若しくは影響か、我々は充分知らないが、察するに望を将来の教育界の者に属したる結果だと思う。将来の教育は果して如何にしてよきかと言うことは既に社会の大問題になっている。文部省辺りでも、師範学校・中学校・実業学校に関しての規則の改定をやって居る。既に其の中では公然と発表になって居る者もあるが、今茲に改めて向上進歩を計ると言うことは至極結構なことであるが、何と言っても教育は人である。機械ではない。如何に規則や法令をよくしても、第一其の局に当る教育其の人が問題である。

 「其人存則其政挙其人亡則其政熄」という古聖の訓言があるが、如何によい政治でも、政治を行う人が立派でなければ法典や規則が整って居ても駄目である。という意味だが、誠にその通りであるが、殊に教育は教師の人物に俟つことが大なるものである。これは吾輩が言うまでもなく、既に受験者諸氏於いて充分承知されて居ることと思う。

 

 二、試験成績を見て

 近来の文検受験者の成績を見るに、大抵どの科も同じ様な声を試験委員が放って居る様に思われる。それは明治は勿論大正の初め頃よりは遺憾な事には他の事は暫く措いて学力が少しずつ減退して居るのではないかと疑われる点もある。それは一概に減退しているとは言えないが、仮に漢文科の一科目に就いて見ても其の科の主要科目に於いても云えるのである。答案は出してあっても其の答案の内容振りが中にはどうも解釈力の点に於いて、又読方に点に於いても之を往年の受験者の答案に比較すると掩う可からざる遺憾があることを免れない。之は国語科に於いても同様な声を聞いて居る。なかなか比較的時間の多くない中で、受験科目が多いからして無理は無いとも思われるけれども、人間に大正の人頃のも、現代の人も変りは無い。茲に至ると受験者の努力が又一層尽くされることを希望して止まないのである。

 

 三、漢作文と復文につきて

 試験の採点の上に於いては凡ての受験科目に就きて総点は決定する訳であるが、主要科目に於いて失敗をとることが多い時はこれ如何とも匡救すべき方法のないことは矢張り他の試験も同じ事である。主要科目さえよければ、他の科目は如何様でもよいという様な考は持っては宜しくないが、既にその科目に於いて主要科目と認められている科目は特に注意を要さなければならないのである。

 読書はもとより作文をも少し注意と努力とを準備の時に要求する。他の作文は暫く措いて、漢文科に於いては、予備試験に復文と言うのがあり、本試験に於いては平易なる漢文を作らせる。字数は三百字位な程度である。この復文と言うものは受験者に取って、頗る苦痛と言う声を聞いて居るが、この復文の練習をも少し多くやって置く必要がある。

 それは何の書でもよいから、自分で漢文二十字位のものを一旦漢文直訳体の文に書いてそれをもとの漢文に復訳する様に努めて行くべきである。初めそれをやる時は、文字の位置が顛倒したり間違ったりしてとんでもない所へもって行くというようなことが、自分が復文したものと、もとの漢文と対照する時は直ぐに分ってくる。それが余りに間違いが多いので、これでは駄目であると言う考を起こして十分に励み努めることを怠り勝ちになる。ここを一つ謂所勉学心を引き起こして間違が多ければ多い程それを少くするように努めて行って居る中には自然にその間違が少くなってくる。そうして自分が漢文に復訳したものと初めに書物からとった漢文との違いが全くないとは僅かの時日の練習では保証は出来ないが、先ず自分の間違が原文と照して僅かばかりの間違ですむ位になった時に、其の道の先輩の人、尤も漢文専門の人ならよい、仮令専門でなくても自分の信ずる人について、自分は斯くの如くなるのがよいと思うが、もとの書物の原文とは違っているが、其の原文の意味は一体どう言うものであろうか、自分の訳したのとどういう意味から違って来るのであろうかと言う様に質問して置けば、自然にこれが脳裏に止って居て、試験場に臨んだ場合でも、さ程の苦労を要することはない。それを漢文典を見るとか、或は復文の参考書等というものを見てやるときは初めから法則に拘泥して束縛を受ける様な感があって充分に自分の力をつけることが出来ぬ。さればと言って漢文典の法則や参考書を全く無視してはならないことは当然なことである。

 何と言っても作文は実地である。読書をはなれて実地にやって見なくては分らぬ。実地で行くようにしなければならぬ。本試験の時の作文も同様な心掛を加えて行かなければならぬ。

 

 四、今後の受験者に望む

 多数の受験者の中には或は万一を僥倖して来る人もあるかもしれないが、僥倖はどこまでも僥倖である。幸にして受験の時に僥倖が得られれる様なことがあっても、合格後実地の職に就いた時に直に其の馬脚は露われることである。自己の精力なり精神なりを正当に尽してそれで行かない場合は不幸と言うもので、天地に対しても又良心には恥じないのである。

 将来の教育者として立つ者は誠心誠意を以て事に当らねば、仮令政府が如何に法令を改めて見た所で、畢竟先に言った様な「其人存則其政挙其人亡則其政熄」ということになって、只それは虚飾、徒労に過ぎないことになると思うのである。我輩は政府に向ってもどうか誠意を以て事に当られることを希望すると共に、実際の事に当られる教員諸君に同一なる冀望を持つ者である。それ故に受験者諸子に於いては、今一層努力されることを切に希うのである。

 

 

(5)漢文科研究者の根本的態度   小柳氏

 

〔漢文教師の自覚を促す点〕

 漢文科を受験する人は動(やや)もすると自分の将来負担すべき学科を何だか非常にむずかしいものだという風に考えている。而して愈々(いよいよ)教員になると、同僚などに対し、漢文は至難な面倒なものだ、中学校の初年級などでは難しいと云う人もあるが、之は非常に誤った考えであるし、又それは引いて自分で自分の学問の勢力範囲を狭小にすることである。世間では英語とか数学の難しいのは当然だが、漢文のむずかしい所を研究して苦しむのは、つまらぬことだと考えている。そこに更に漢文を教える教師自身が、漢文をむつかしい面倒なものであると考える謬見を以て臨むならば、漢文の生命は何等理解されないし、世間はますます漢文を疎外し更に自らの学問の勢力範囲を減少するものであると云える。

 

〔漢字と日本人及日本文化との関係〕

 東京朝日新聞六月十一日の行政整理座談会に平生氏という人が「我国の小学校で漢字を教えるのを全廃したら、尋常六年は尋常四年で終るように二ヶ年短縮出来て、この二ヶ年の教育費用を節約することが出来る。この節約出来る費用は一ヶ年約七千五百万円であるが、世の中の人は、漢字に執着心があって、仲々行なわれないようであろうが、行なわれたら幸だ」という意味のことを述べられているが、成程そうかも知れぬ。二ヶ年と言う日子と多額の経費が節約され得るのであるから。然し乍ら我国では仮名だけでは用が弁じないのである。如何に小学校で仮名でつづりを教えて、漢字を廃しても、小学校を出て社会に出たらどんな簡易な職業に就いても、社会に漢字があるから、用を弁ずることが出来ないで、非常に不便になるであろう。英国の如く一般に表音文学でなければ行なわれぬことである。然らば漢字を全廃して仮名だけにするかと言うに是もまた困難である。結局平生氏の意見は不可能の説といわねばならぬ。

 我が国の様な文化の程度の高い国で、今更仮名やローマ字に変えることは至難な事であり、又無意味なことであろうと思う。勿論便利と言うことは理論的には分るが、社会の事は凡て便利のみで片付ける事は出来ないし、実施上甚だ困難のことである。凡て必要があれば無理に成し遂げなくとも自然に改廃されて行くのである。

 元来漢字は日本人と密接な関係がある。往昔は勿論、今日我々の言葉にも漢語が入っていて、若し之を除けば用をなさない位である。そうして言語に漢語を用いている以上は漢字を除くわけには行かない。本来漢字は表音文字であるから、表音文字の仮名では十分に之をうつし取ることが出来ない。万葉集は万葉仮名で、昔から書かれてあるが、普通の仮名を振ってなければ読めない。又漢字漢語の意味を知らなければ意味が通じない。従って今ローマ字や仮名にしてしまえば、その仮名なりローマ字の傍に振仮名をつけると同様、漢字を振らなければ意味が分らないであろう。小学校で漢字を全廃せば国民一般の教育程度が低くなり、或は十年か二十年後の人にとりては、現代の我々の書いたものは、読めなくなるだろう。従って国民の大部分は自国の歴史又は文化に関係する文書を理解すること能わず精神も理想も無い国民となるだろう。

 

〔我国の歴史と漢文の関係〕

 漢文がむすかしくて教育上種々の問題が起ることは知っているが、それは自然の解決を待つ他に仕方がないことであって、人力を以て改めようとする意図は不合理なことである。然るに文部省の国語調査などは漢字を減じたり増したりしているが、之等の増減は一体何を標準としてやっているのであるか、少しも意味をなさぬことである。必要があれば自然に減って行き、又増えて行くのであるのに、わざわざそんなことをする必要が何処にあろうか。殊に漢字は我国に絶対に必要なものである。従って漢文も何処までも保存して行くべきである。

 漢文は西洋のギリシャ語ラテン語とは決して同じものではない。相似て居る点もあるが非常に異なっている。等しく古典という意味では似ているが。ギリシャ、ラテン語は現代の西洋では使われていない。然るに日本では現代の日常に使用している点に大いにその性質を異にしているのである。漢文は現在生きて働いていて死語ではない。我国の六大国史其他国家に必要な文献は漢文で出来ているのである。それが読めなくては我国の歴史や本当のことは分らない。今の教育は外国語本位の教育だから、外国のものは読めるが日本のものは読めない、で外国から種々の思想が侵入して来ると、すぐそれを理解し、之にかぶれるが、自分の歴史を読み思想を理解する力が出来ていない。漢字漢文の知識が無いから此等の書物を読まんとするも、読む事が出来ない様になって居る。そんな教育で所謂危険思想を防ぐのは矛盾している。まるで危険思想の入るように、便利な教育を施しながら、一方には之を防ごうとしているものである。

 

〔漢学の意義の再考察〕

 漢文は従来の文化の結晶物である。従って漢字漢文は大切なものであり必要なものであるということを、学校教育の任に当る者は理解して、そこを目的にしなければならない。ただ文字の返り点をつけたり送り仮名をつけたりすることを教えて漢文教授の能事足れりとするものは浅薄な思想である。返り点や送り仮名をつけたりするのが漢文教育の目的ではない。大切な精神即ち漢学精神を把握していなくてはならないのである。

 現今でもドイツ学とか英学とか言う言葉は行なわれて居なくて、英語、ドイツ語であるが、之に対し漢学ということは一種の意味を持っている。その漢学の意味をよく理解しないもの、それを考えねば西洋の語学を習うのと同一であるようではならぬ。其の点をよく考えることが必要である。

 漢文を修める人、文献漢文科を受験しようとする人は、そうした根本的なことに注意しなければ無意味であると思うのである。

 

 

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最終更新:2023年05月07日 17:54