漢文・漢文法基礎 > 文検漢文科合格秘訣 笠松彬雄 著 後編

 

(6)漢文の試験について   島田氏

 

 多くの受験者は地方の独学受験者であるが、この科は相当参考書も多いから、文部省指定の書目をばこれ等の参考書によって勉強したら相当学力もつくと思う。そこで漢文研究の根本ともいうべきは、四書を熟読玩味し殆んど暗記するまでに徹底させることだ。これは支那の文学・哲学の根本になっている。

 復文の研究には児島さんの漢文典の概念をしっかり入れて置いて、四書を書き下したものを原文に依って練習したら先ずよかろう。

 設問の準備としては、支那の歴史の概念を捉えて、支那文学・哲学を研究する順序がよいと思う。それは問題の表面に表われるものは、主として文学・哲学といったものであるが、時の観念からそれ等を歴史に結び付けることが順序でなければならぬからだ。受験者の大きな欠点は、歴史の概念に乏しい点にある。之は人に教える上に於ても必要な知識なのだから、十分注意されたいものである。

 最後に口述試験の注意にもなろうから言うて置くが、正直に而も明瞭に考えるが得策である。例えば何々を知っているかと聞いて見ると、嘗て読んだこともなく知らぬことをば、如何にも知って居るかの如く答えるものがある。併し委員の方では、其の辺のことは大抵知って居るので、之を胡麻化そうとしても徒労であるばかりでなく、その人の成績の上にも人格の上にも関係することだから、男らしく知らざることを知らずと答える方が遥かによいのである。それから受験者の答えが曖昧だから正確の方へ導いて行く為「こうだろう」と問い返すと、受験者の方ではこれは反対の事を言っているのだろうと変にとって「否」と答えるものがある。委員の方では落第させようとして受験者のあら捜しをするのではなく、全く受験者の立場に同情して、出来るだけ救済して上げようとする考から、不審の点を正したり或る時は救い舟を出したりなどして居る。実際地方の受験者が予備に通って本試験に上京して落ちるのは残念であろう。子を思う親の心である。時に落第にするも孔明涙をふるってするので、之はどうすることも出来ないのである。

 

 

【八】最近出題の傾向

 

 各方面から出題傾向の研究を行って見たいと思う。

 1.漢文解釈予備試験出題の傾向

 

書名

大学

中庸

論語

孟子

十八史略

八家文

史記

小学

唐詩選

古文真宝

回 (年度)

26(大正元)

 

 

 

 

 

 

27(二年)

 

 

 

 

 

 

28(三年)

 

 

 

 

 

 

 

29(四年)

 

〇 〇

 

 

 

 

 

30(五年)

 

 

 

 

 

 

31(六年)

 

 

 

 

 

〇 〇

 

32(七年)

 

〇 〇

 

 

 

 

 

33(八年)

 

 

 

 

 

 

34(九年)

 

 

 

 

 

 

 

35(十年)

 

 

 

 

 

 

36(十一年)

 

 

 

 

 

 

37(十一年)

 

 

 

 

 

〇 〇

 

38(十二年)

 

 

 

 

 

〇 〇

 

39(十二年)

 

 

 

 

 

 

40(十三年)

 

 

 

 

 

 

41(十三年)

 

 

 

 

 

 

42(十四年)

 

 

 

 

 

〇 〇

 

43(十四年)

 

 

〇 〇

 

 

 

 

44(昭和元)

 

 

 

 

 

45(元)

 

 

〇 〇

 

 

 

 

〇 〇

47(二年)

 

 

 

 

 

 

 

49(三年)

 

 

 

 

 

〇 〇

 

51(四年)

 

 

〇 〇

 

 

 

〇 〇

 

53(五年)

 

 

 

 

 

〇 〇

 

55(六年)

 

 

 

 

 

 

 

〇 〇

 

 

 

2.漢文解釈本試験出題の傾向

 

書名

左伝

八家文

史記

韓非子

古文真宝

支那時文

中庸

大学

●論語

〇孟子

回 (年度)

26(大正元)

 

 

 

 

 

 

27(二年)

 

 

 

 

 

 

28(三年)

 

 

 

 

 

 

29(四年)

 

 

 

 

 

 

30(五年)

 

 

 

 

 

 

31(六年)

 

 

 

 

 

32(七年)

 

 

 

 

 

33(八年)

 

 

 

 

 

 

34(九年)

 

 

 

 

 

 

35(十年)

 

 

 

 

 

 

36(十一年)

 

 

 

 

 

 

37(十一年)

 

 

 

 

 

 

38(十二年)

 

 

 

 

 

 

39(十二年)

 

 

 

 

 

 

40(十三年)

 

 

 

 

 

 

41(十三年)

 

 

 

 

 

 

 

42(十四年)

 

 

 

〇 〇

 

 

 

43(十四年)

 

 

 

 

 

 

44(昭和元)

 

 

 

 

 

 

 

45(元)

 

 

 

 

 

 

47(二年)

 

 

 

 

 

 

49(三年)

 

 

 

 

 

 

51(四年)

 

 

 

 

 

53(五年)

 

 

 

 

 

 

55(六年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.口述試験出題の例

 

書名

論語

孟子

大学

中庸

回 (年度)

51回(昭和四)

 

49回(三)

〇 〇

 

 

 これは一二の実例を示しただけで分るから、これだけにして置く。最近ずっと四書集註から出て居る。

 

 

4.復文出題の傾向

 

書名

大学

中庸

論語

孟子

八家文

回 (年度)

53(昭和五年)

 

 

 

 

51(四年)

 

 

 

 

49(三年)

 

 

 

 

47(二年)

 

 

 

 

45(元年)

 

 

 

〇 〇

 

44(元年)

 

 

 

〇 〇

 

43(大正十四年)

 

 

〇 〇 〇

 

 

42(十四年)

 

 

 

〇 〇

 

 

 以上の、(1)(2)(3)をよく観察して見て次の表が出来上がる。最近10ヶ年のもの。

書名

予備試験

本試験

口述試験

復文

大学

2

1

 

3

中庸

2

 

 

2

論語

10

1

3

14

孟子

7

3

9

19

十八史略

5

 

 

 

5

八家文

4

5

 

1

10

史記

 

 

 

 

0

小学

2

 

 

 

2

唐詩選

15

 

 

 

15

古文真宝

1

 

 

 

1

左伝

9

 

 

 

9

韓非子

 

3

 

 

3

 

 口述試験問題が手許に無いので正確な数が出ないが大体の見当だけはつくと思う。論語と唐詩選の数は出題回数で無くて、問題数によって計算した。

〇予備試験に必ず出る書

唐詩選

孟 子

論 語

 

欠かさず出るもの

 

十八史略

八 家 文 

 

殆んど毎回出るもの

大学

中庸

次に出るもの。

小  学

古文真宝

割合が少い

 

〇本試験に出るもの

支那時文  これは一回も欠かさず出る。

左  伝  本試験の中心となるもの。最も多く出る。

韓 非 子  左伝に次ぐ中心書。

八家文

史 記

欠かさず出るもの

 

論語

孟子

最近よく出される

 

〇口述試験に出るもの

 先ず四書集註で独占の形である。恐らく当分はこのままで進むものと思う。即ち白文を読み、講義するのを主眼とするのである。

〇各書の出る個所

 〔唐詩選〕 全巻に亙って出されて居るが、古詩の中の長いものは出されない。絶句は矢張り一番多い。

五言古詩…3      七言古詩…1    五言律…6      五言排率…1    七言率…7      五言絶句…5    七言絶句…16

この中で同一の詩が二回出題されたのも相当あるから、出された回数にすると多い。

 最近十二年間の傾向を見ると、

五言古詩

七言古詩

五言律

五言排律

七言率

五言絶句

七言絶句

38

 

 

観猟

 

 

 

度桑乾

39

 

登古鄴城

 

 

 

 

 

40

 

 

岳陽楼

 

 

 

 

41

 

 

 

 

 

罷相作

従軍行

42

 

 

 

 

 

 

春夜落城、憶兄弟

43

懐張子房

 

 

 

 

 

 

44

 

 

兗州城

 

 

 

 

45

 

 

 

 

 

詠史

度桑乾

47

 

 

 

 

和賈至

 

 

49

 

 

 

 

 

三閭廟

与廬員外

51

 

 

 

 

 

 

赴北庭秋下荊門

53

 

 

 

 

 

逢侠者

塞下曲

 これで見ると最近の傾向は七言絶句と五言絶句とから各一題苑出されているのが普通の様である。時には受験者の裏をかいて、七言率や五言律から出すこともあるが、それ等は却って平易なものである。(昭和六年には七言絶句から二題出た)

 

〔四書〕 全部から出る。而してよく見ると篇によって数回出たのや出ない処もある。けれどもこれは厚薄なしに万遍なく研究し、復習の時に、よく出そうな処をやるとよいと思う。

 最近十ヶ年を調べて見ると、

回 (年度)

大学

中庸

論語

孟子

40(大正十三年)

小人間居

 

 

尽心上

41(十三年)

 

 

雍也

 

42(十四年)

堯舜師天下

 

 

尽心

43(十四年)

 

 

〇 〇

44(昭和元年)

 

君子専徳情

45(元年)

 

 

〇 〇

 

47(二年)

 

 

 

離婁下

49(三年)

 

子路問

憲問

 

51(四年)

 

 

公冶長・衛霊公

万草下

53(五年)

 

 

泰伯

 何にしても本書は予備の中心書である。

 

〔十八史略〕 よく読んで人名地名などを知って置くことである。これが分らぬでは基礎がないと言うことになる。全部の通読は望ましいがさてそんな余裕もあるまい。
 最近出題傾向を調べると、

(44)

昭和元年

李沆為相時

(    )

(47)

二年

隗囂

(光武紀)

(49)

三年

孝章皇帝

(東漢孝章紀)

(51)

四年

曹彬

(宋太祖紀)

(53)

五年

唐荘皇帝

(唐荘宗皇帝)

 初巻の方から余り出たことがない。大抵中頃以後が多く出題される。先ず漢以後だ。それかと言って初めの方も忽に出来ない。日本の古事記に相当する部分も支那を知る為に必要だから。

 

〔唐宋八家文〕 予備にも本試にも漢文にも至る処に出題される。程度が丁度文検受験者位に格恰の書である。同じ文が三回も繰り返されたなどがあり、二回目は珍しく無い位である。

 最近の出題傾向を一つ調べて見よう。

回 (年度)

蘇軾

蘇轍

欧陽修

王安石

40(大正十三年)

決雍蔽

 

 

 

41(十三年)

 

九曲亭記

 

 

43(十四年)

李氏山房…

上梅直…

 

 

尽心

44(昭和元年)

 

 

蘇氏文集序

 

45(元年)

(赤壁賦)

無沮善

 

 

 

47(二年)

敦教化

 

 

 

49(三年)

 

 

 

上仁宋皇帝

51(四年)

 

 

送除無党

 

53(五年)

 

 

答呉克秀才

 

 蘇軾のものが最近一番多く出されている。43回の如きは予試にも本試にも共に蘇軾のものが出された。

 次は欧陽修となって居るが、柳宗元、韓愈も従前は多く出題されたのである。

 赤壁賦は古文真宝の方であるが作者が同じであるから参考までに括弧して入れたのである。 

 

〔史記〕 勿論列伝だけでよいが、項羽の処は見て置く方がよいと思う。最近は余り出されないが見て置くことは必要だ。

〔小学〕 41回・42回と続けざまに出題されて、小学の必要を思わせたが、又でなくなった。善行、嘉言などから出て居る。

〔古文真宝〕 八家文の重複するものもあり、余り回数多くは出ないが、名篇を集めて居るのだから読んで面白い。

 

 大体以上は予備試験に主として出るものであったが、以下本試にのみ出題される左伝韓非子に就いて述べてみよう。

〔左伝〕 何回も繰り返す通り漢文科本試験は本書の十分なる読解力養成のみにて事足る位のもので、中心書中の中心書である。

 毎回欠かさず出される。最近の様子を見ると、

(40回)

大正十三年

昭公三年

(41回)

大正十三年

昭公五年

(42回)

大正十四年

僖公九年

(43回)

大正十四年

僖公二十七年

(44回)

昭和元年

昭公八年

(47回)

昭和二年

僖公四年

(49回)

昭和三年

昭公二十年

(51回)

昭和四年

宣公十五年

 これまでの出題は昭公と僖公とからばかり出題されて殆んど交互に出される有様であったが、51回には宣公から出された。

 今各篇回数を第1回から調べて見ると、

隠公…1 荘公…1 閔公…0 僖公…7 文公…1 宣公…1 成公…3 襄公…8 昭公…8 定公…0 哀公…0

となる。昭公・襄公・僖公などは最も注意して熟読反復すべきであろう。

〔韓非子〕 左伝の出題されない時にはきっと出される位、重要なるものである。

31回から八回程連続的に出題され毎回欠かさなかったが、最近少し出る率が少なくなって居る。而し近くその反動で又連続的に出されるものと思われる。
解老、孤憤、外儲説右上、顕学、外儲説、六反、姦劫弑臣、外儲説、孤憤。
 31回以後の出題個所を列記したのであるが、これから観察しても外儲説3、孤憤1、其他1宛であるが名高い個所から出題されている。

その他、説難、難言、難勢、五蠧、心度、安危、説林などは名高いが、全部読むとよい。

 

 

5.設問出題の傾向

 

回 (年度)

予備試験

本試験

39(十二年)

頼義の日本外史、張載の西銘

イ、許愼、鄭玄  ロ、本朝文粋 靖献遺言

40(十三年)

曹操父子の事跡、知行合一

イ、中唐の誠  ロ、宋濂、高啓

41(十三年)

蒙求、井田

一、朱陸学派の異同  二、方苞(望渓)、王士禎(漁洋)

42(十四年)

三綱五常、四六文

一、漢初ノ黄老  二、桐城派ノ文章

43(十四年)

濂洛関閩ノ学、建安ノ七子

一、楊子法言ト文中子  二、絶律排律古詩ノ形式上ノ区別

44(昭和元)

三体詩、古文真宝、訓詁学ト性理学

一、刑名学  二、文学史上ニ於ケル司馬光

45(元)

小学及近思録、淮南子、文中子

孔頴達、朱彝尊、駢儷文

47(二年)

格物致知、呂氏春秋、文心彫龍

孔子ノ仁ト墨翟ノ兼愛トノ異同、建安ノ文学

49(三年)

柳宗元、新井白石

風雅頌、説文

51(四年)

孝経、資治通鑑、文献通考

董仲舒、初唐四傑

 漢文科としての設問は支那哲学史、支那文学史、国文学史などから出題される。上述の表で分る様に予備試験には、我が国の漢学者、漢書等に就いて時々出ることもあるが、多くは支那の、著書、学者、儒学上の術語、哲学等に就いて出される。本試験は多く支那のものばかりである。

 最近のものを表示すると、

 

予備試験

本試験

人名

19

15

書名

13

術語

 井田の如きは政治に関しての事であるが、その当時の社会を知るにはこれ位の事を知って置く必要があると言うことになるのであろう。此処に術語と書いたが、寧ろ哲学思想の説明とした方がよいかも知れぬ。しかし大体の見当はこの数字からつくと思う。

 

 

6.作文出題の傾向

 本試験の漢作文の課題のみを列挙する。最近のものから既往へ遡って行くことにする。

迎教育勅語渙発四十年恭書所蔵(53回)

見利思義説(51回)

恭観今上即位図書感(49回)

仁者有勇説(47回)

過則勿憚改説(45回)

忠恕説(44回)

有文事者必有武備説(43回)

智仁勇説(42回)

読韓非子(41回)

君子不器説(40回)

剛健説(39回)

温故知新説(38回)

大勇説(37回)

 論語などのなかにあって名高く誰でも知って居る様な言葉が題となる。41回・49回は別として其他は同一である。儒学張りにカンカンの堅い文章を作って復文して漢文にすればよい。

 最近の傾向は時事問題を取り入れる様になって来た。即ち御大典の秋には今上即位図云々が出、勅語渙発四十年にはそれに関したものが出る類である。

 

【九】口述試験の研究

 

  1 口述試験

 

 私の漢文科を受験した時には、二百五十余名が本試を受けて、口述試験に残った者は僅か六十三名であった様に記憶して居る。その口述試験にも無事通過したものは五十名で十三名程は瀬戸際で脊負い投げを喰った。思い諦め様にも諦められなかったであろうと思う。斯う考えて来ると口述試験は総仕上げと言うことになるから、一層重要性を帯びて来る訳である。口述試験研究の忽諸に附すべからざるは自明の理である。

 而しそれをよく仔細に観察するならば三種の段階のあることに気づくだろう。

 (1)筆記試験が上々で口述の成績如何に関係せず合格の確定して居る者。

 (2)筆記試験が中位であるが口述の成績に依って合否の確定する者。

 (3)筆記試験が不出来であったが、口述試験の成績が非常によくば救われるもの。

 この中言わずと知れた(2)(3)に相当する者は全力を傾注してこの難関突破を試みるべきである。だからと言って二日や三日で口述試験の準備が出来る筈がない。前以て十分の注意を払って置くべきだ。譬え(1)に該当するものでも、よいのに越したことはない。散々味噌をつけたら発表までの幾日かを煩悶懊悩で送らねばならぬことになる。

 

 

  2 口述試験の準備

 

 最近の出題傾向で述べた様に、近年は殆んど毎年連続的に四書集註から出題される。それで試験委員の談話中にもあった様に、その白文の問題を約十分間位の下読の後は、委員の前に出て、読み且つ講義させられる訳であるから、集註の何処から出されても十分講義の出来る様になって置くことが必要だ。

 四書集註は委しく言えば、

  大学章句、中庸章句、論語集註、孟子集註、

 のことである。宋の大儒朱熹の著であって参考書としては、四書集註(上海本)などはよい。白文で出題されるものと全く同じものであるから。

 而し手に入り易いこと、研究に便なることから言えば、

  漢文大系本    四書

  簡野道明氏著補註 学庸章句

  〃        論語集註

  〃        孟子集註

 が手に入り易く見易い訳である。

 

 

  3 口述試験に対しての注意

 

 知らぬことは知らぬでよいから曖昧な答をしてはならない。真実の自分の力を見て頂く心算でなければならぬ。胡麻化そうとしても天下の学者を対手にして仲々胡麻化し終せるものではない。

 言語は明晰に出来るだけ丁重な言葉を使う様に注意せなければならぬ。

 

 

  4 口述試験の実際

 二三受験者の実記を拝借しよう。私の時のことは朧気にしか記憶がないので生々しいものの方が役に立つと思われるから。

 

  〇

 

 二十一日再び上京した。

 例の宿に着いて、明日国語の口述に出るのだと言う方と話して居ると、其の日漢文の口述に出た方が試験場から帰って来られた。

 問題は論語の註であった。学政篇(「為政篇」の誤り?)の

 

 孟武伯問孝子曰父母唯其疾之憂

武伯懿子之子名彘言父母愛子之心無所不至唯恐其有疾病常以為憂也人子体此而以父母之心為心則凡所以守其身者自不容於不謹矣豈不可以為孝乎旧説人子能使父母不以其陷於不義為憂而獨以其疾為憂乃可謂孝亦通

 

 で不容於不謹が読み得ないで困ったと語られた。

 いよいよ二十二日、口述試験の日である。七時に神田の店を出て試験場たる高等師範学校に向った。電車の中でやがて来ん口述受験の実際を想像しながら、試験場に着いて見るともう既に七八名の受験者が来て居た。

 漢文大系の註を読んでいる者、簡野先生の論語集註を読んで居る者、全くの試験気分である。段々と受験者が集った。全部で二十六七人も居たであろう。中に婦人が二人見えた。何れも二十一歳と言う方。やがて時間が来ると試験監督が来て、受験者の各に受験願書が渡された。

 抽籤で受験順が定められた。暫くすると一番が呼び出された。

 「少し控目にして呉れ。君が余り出来がよいと後の我々が大いに困るから。」

 「一番は必ず合格だから、安心して不出来にやって呉れ」などと揶揄半分の言葉に送られて一番が出て行った。

 二番三番四番と順々に呼び出されて、遂に自分の番が来た。

 グッとドアを押して内に入った。見ると検定委員の先生が二人並んで居られる。二人とも何れが誰か分らぬ。一礼して願書を一人の先生に差し出した。

 検定委員の先生の前に出る前に十五分間準備室で問題の下調べをさせられる。下調べと言っても何も参考書もある訳ではない。読めるか否か質問されそうな箇所の答え方位を考えるに過ぎない。

 問題は論語である。公冶長篇である。

 

 宰予昼寝子曰朽木不可雕也糞土之牆不可朽也於予與何誅

范氏曰君子之於学惟日孜孜斃而後已惟恐其不及也宰予昼寝自棄孰甚焉故夫子責之胡氏曰宰予不能以志帥気居然而倦是宴安之気勝儆戒之志惰也古之聖賢未嘗不以懈惰荒寧為懼勤勵不息自彊此孔子所以深責宰予也

 

 読みだけは通ったが如何なる質問をされるか不安でたまらぬ。范氏とは誰か胡氏とは誰か詳かでない。

 「それを読んで御覧なさい。」

 と一人の先生が言われた。

 始めから終りまで調子よく音に抑揚をつけて一回読んだ。読み返りにも成績の如何は関係する筈だと常に考えて居たので、下調べの際此の点に十分注意して準備して置いた。読方に誤りは無かったと見えて読み直しを命ぜられなかった。

 「講義して御覧。」

 と言われて、文字通り講義した。

 これから一問一答。

 「『以志帥気』を今一回詳しく講義しなさい。」

 講義する。

 「今講義中に志気之帥という語が出たが、それは何にあるか。」

 「孟子にあります。」

 「志と気との関係を言って御覧。」

 長々しく説明したが、自分ながら徹底した説明ではないと思った。

 「気のつく語を挙げて御覧。」

 「気象、勝気、陽気、元気、活気。」

 「ここの気はその元気に当ると思えばよい。」と教えて下さった。

 「宴安の気とはどういうことか。」

 説明する。

 「自強不息という語を何かで読んだことがあるか。」

 「戊申詔書にあります。」

 「何から出た語か。」

 「易にあると言うことですが、よく調べて見たことはありません。」

 「よく読めました。もうよろしいです。」

 といわれて立上がって一礼して室を出た。(牧羊生)

 

 

  〇

 

 口述は十二月二十二日に大塚の高師で行われました。私は第三日でした。当時の手記がありますのでそのまま次に掲載いたします。

 宰予昼寝子曰朽木不可雕也糞土之牆不可朽也於予與何誅

范氏曰君子之於学惟日孜孜斃而後已惟恐其不及也宰予昼寝自棄孰甚焉故夫子責之胡氏曰宰予不能以志帥気居然而倦是宴安之気勝儆戒之志惰也古之聖賢未嘗不以懈惰荒寧為懼勤励不息自彊此孔子所以深責宰予也

 

 〇「読んで下さい。」

 「ハイ。」

 〇「註の処だけ解釈して下さい。」

 「ハイ。」

 〇「あなたは古之聖賢云々の所を、為懼から返って読みましたが、それでは後の続工合変ではありませんか…そして勤励やまずんば自ら強しと読んだようですが、自ら強しとはどんなことですか。」

 「学問が深くなって自身が強くなることです。」

 後にして思えば出鱈目に自ら呆れる。

 〇「強しの字は他に読み方はありませんか。」

 先生はツトムと読ませるつもりらしかった。然し之も後の祭り。

 「自強と読めます。」

 〇「すると、勤励、不息、自強と同じ意味の字で、三つも並んで居ますが、古の聖賢はそれをやるのですか、やらぬのですか。」

 「やるのです。」

 小学生の如し、苦しい答。

 〇「そうすると…」

 「古の聖賢はまだかつて…自強せずんばあらず。」

 やっと正しく読む。

 〇「宴安の気とは何ですか。」

 「楽しみ安んずる事です。」

 総じて私の答は学問的でなく、余りに常識的であることに気がつく。

 〇「何かの本で見ましたか。」

 「わかりません。」

 〇「きっと読んだ筈ですよ。」

 「わかりません。」

 〇「左伝にあるのですね。以志帥気とはどんな意味ですか。」

 「自分のやろうとする心で、安逸の気を戒めるのです。」

 〇「こんな言葉を何かの本で見ましたか。」

 「孟子にありました。」

 〇「どんな言葉でしたか。」

 「………」

 〇「それ志は。」

 「それ志は気の帥なりです。」

 〇「支那の論語の註にどんなのがありますか。」

 余りの意外な問にはっとして、

 「鄭玄…」

 〇「鄭玄のもありましたが滅びましたね。その他は。」

 「何晏。」

 私は此の際、此の言葉が出たのを全く天佑だと思っている。まぐれ当りだった。

 〇「そう、何晏の本の名は。」

 「わかりません。」

 〇「論語集解ですね。日本の徳川時代の学者では。」

 「伊藤仁斎。」

 〇「何と言う本を書きましたか。」

 「………」

 〇「もう一人。」

 「荻生徂徠が居ります。」

 〇「本の名は。」

 ウッカリして、

 「大学解。」

 〇「それは大学でしょう。論語では。」

 上っているのに気がついて苦笑。

 「論語徴。」

 〇「仁斎は別号を何といいました。」

 「………」

 〇「古学先生ですね、だから。」

 「………」

 〇「論語古義ですね。此の註(机の問題を指す)は集註から取ったのですが、これは誰が書いたのですか。」

 「南宋の朱熹です。」

 〇「朱子の本とそれ以前の本と別つ時に何と呼びますか。」

 「新註と古註といいます。」

 〇「そうですね。あなたは読む力は可成りよく出来ていますが、(愚考するに、此のお言葉が真実だと己惚れさして頂くならば、それは筆記の訓点がよかった意味であろうか。口述では前記の如く深い痛手を負っている。)まだ広く本を読んでいない様ですから、今後は益々広く読まれるように進まれたらよいでしょう。よろしゅう御座います。」(約十五分)

 朱註は昨年出ましたので、今年はまさかと思いましたので、下読の時ギクリと来ました。大系本でも少くとも四書位はみっしりやって置くとどんなに力強いだろうと思いました。今顧みればよくまあこんな成績で合格したものだったと自分乍ら不思議な感じがします。(大和 瑞穂氏)

 

 

  〇

 

 二十一日。昨日来の雨名残りなく霽(は)れて、年晩の陽はうらうらと大東京の街々を恵み深く照らしている。

 我等の身の上にも幸あれ。

 八時までに今日の受験者二十三名が全部高師東館階上の控室に集った。若い人も老いた人も、誰もが一様に一様の緊張と不安との中に漂うている。

 やがて時間が来た。例の如く受験上の諸注意があってから、願書類を還付されて、いよいよ抽籤。

 かくて銘々の順番になるまでは、思い出したようにストウブの傍に寄り寄り、試験上の雑談が始まるが、それもしばらくして、何時止むとなくヒッソリとなる。受験の重苦しい空気が偲ばれる。

 一番二番が呼び出された。又一しきり問題の予想で花が咲いたが、まもなく元の様に皆は四書に集註本に眼が吸い取られて終う。十八史略本を持って来た自分には、不安でたまらない。幸にも同郷のYさんの所持本を拾読みさせて戴く。

 十一時近く、いよいよ自分の順番が来た。最後の審判だ。一種悲壮な感がする。下調室に入る。どんな問題だろう。

 机上の問題紙を見る。意外!!意外!!又しても孟子離婁章からである。

 

 孟子曰。人之所以異於禽獣者幾希。庶民去之。君子存之。

幾希少也。庶衆也。人物之生。同得天地之理以為性。同得天地之気以為形。其不同者。独人於其間得形気之正。而能有以全其性。為少異耳。雖曰少異。然人物之所以分。実在於此。衆人不知此而去之。則名雖為人。而実無以異於禽獣。君子知此而存之。是以戦兢惕厲。而卒能有以全其所受之理也。

 

 時間は二十分。下調には充分であるが、疑問の解釈は出来る筈がない。疑問は疑問として、室外に出て廊下で待つ事凡そ二十分位。

 前番者の帰って来るのに入り代って試験委員室に赴く。

 

 ドアーを開けて入ると、其処に委員の先生お二人が腰を掛けて居られた。一礼をして書類を差出し、前の机に腰を掛ける。

 机の上には下調室同様の印刷した問題紙が載せられてある。

 委「それを読んで御覧なさい。」

 私「孟子曰く、人の禽獣に異なる所以の者は少し。庶民は之を去り、君子は之を存す。幾希は少なり。庶は衆なり。人物の生るるや、同じく天地の理を得て以て性と為し、同じく天地の気を得て以て形と為す。其の同じからざる者は、独り人の其の問に於いて刑気の正を得、而して能く以て其の性を完うし、少異を為す有るのみ。少異と曰うと雖も、然も人物の分る、所以、実に此にあり。衆人は此を知らずして之を去る。則ち名人為すと雖も、而れども実は以て禽獣に異なる無し。君子は此を知りて之を存す。ここを以て戦兢惕厲、而して卒に能く以て其の受くる所の理を全うする有るなり。」

 下調の時、幾希は殆(ほと)んど希(まれ)なりと読むのではないかと、大分迷ったのだが自身がつかなかったので、註に従って読んで終った。

 次に而能有以全其性、為少異耳のところを而能有㆔以全㆓其性㆒、為㆓少異㆒耳とするか四五回も繰り返したのだが、前の通り読んで終った。

 委「中学生に教える積りで、其の語の所を解釈して御覧なさい。」

 私は極めて卑怯な態度であったが、出来るだけ万全策を取るつもりで、字面を辿り辿り表面的な解釈をして行った。自分としても情けなくもあり、不満足に堪えなかったが、漸くにして渋り渋り為し終った時、実際冷汗の背を湿らすを禁ぜざるを得なかった。

 委「第×行目のところ(而能有以全其性の項)何と読むかね。」

 前に読んだのが悪かったのだなと感じたが、下調に迷った事を言って、両方を読んで見た。そうすると「どちらがよいと思うか」と仰言られたので、後者に決めた。又、

 委「其の性を全うする有ってかね。」

 と念を押されたので、

 私「其の性を全うする有り、と致します。」

 委「そうだね。その方が口調も良くて宜しい。」

 委「人物とは何かね。」

 私「人間以外この世に生存する生物をいいます。」

 委「では樹木などをもいうのか。」

 私「イーエ、漢文に禽獣などとありますから、主として禽獣を指しているものと思います。」

 委「天地の理を得て以て性を為すとあるが、其の天地の理とは何をいうのか。」

 是には私も内心困ったなと思った。下調の時も、天地の理や天地の気を質問されたら、どう答えようかと全く見当がつかずに終ったのであったから、最早絶体絶命の至り、仕方がない。

 私「此の天地間に一環する道理だと思います。」

 委「一貫する道理とは何か。」

 私「孟子でいう本然の性ともいう可きものでありますまいか。」

 だんだんと脱線して行く。

 委「本然の性とは何か。」

 どこまでも追究される。

 私「すべての道義の根本となる誠などそうだろうと思います。」

 委「イヤ、もっと哲学的に説明して欲しいのだ。」

 私「どうも判然と分りかねます。」

 到頭兜を脱ぐ。

 委「じゃ、性とは何か。」

 私「性質と言う様なものです。」

 委「性質とはどういうものか。」

 私「宋代の学問でいった性理学などでの道心人心を指していうのでありますまいか。」

 薄氷を踏む気持―いや全くもう淵に陥込んでいるのかも知れぬ。

 委「質とはどういう事か。」

 私「本然の性に対して、外界の事情、境遇に依って左右され動揺させられる人心の如きものの、由って来る所のものだと思います。」

 自分でも何が何やらさっぱりわからぬ。

 委「本然の性の對して、他の之に対するものは。」

 私「気稟の性。」

 委「イーヤ、考え出せぬかナ………気質の性じゃ。」

 委「これらについては、もっとよく調べる必要があるね。」

 全く四分五裂、答弁の形をなして居ない。此の頃尚追究を重ねられた様に思うが、記憶が明瞭でないので省略する。

 委「衆人不知此而去之の之は何か。」

 私「少異だと思います。」

 委「君子知此而存之の之は何か。」

 私「同じく、人と禽獣との異なる点、少異だろうと思います。」

 委「戦兢の意義は?」

 私「戦々兢々の意味です。」

 委「其の意味は。」

 私「戦々兢々薄氷を踏む如しなど言いますから、小心翼々、よく注意深く慎重の態度を取る事と思います。」

 委「戦の意味は―兢―の意味は―其の出典は。」

 続々と質問される。

 委「惕厲の意味はどうかね。」

 私「よくわかりません。惕は怵惕の惕ですから、慈しむでないか知らと思いますし、厲は励と同じだと思います。それで、めぐみ励むの意と思います。」

 委「怵惕という意は。」

 私「怵惕惻隠の心など云いますから、矢張りメグムと思います。」

 委「委怵も惕と同じ意味かなァ。」

 委「孟子は何で調べたか。」

 私「大体漢文大系を中心としました。」

 委「それじゃ、是は分る筈だがね。しかしここでは之が一番むずかしい語だな。易経から出た語じゃ。」

 委「それじゃよろしい。」

 是で漸々にして口述が終って、外に出たが、全く以てお話にもならぬ。

 ホッと息はついたものの、自分の心の中には、黒雲のような苦しいわだかまりが、次から次へと拡大されて行く。

歳の幕の午下りの陽は、暖に何のくったくも無さそうに煦々と輝いている。往来の人の顔ものどかに見える。けれど自分の胸に―ああ遠く此処まで来て、そして最後のどたん場で、総てを水泡に帰せしめられるのかと思うと、自然に目頭の熱くなるのを感ぜずには居られなかった。唯自分として口述については、筆答試験を受ける以上に実力の涵養は肝要だと、此度という此度は泌々と体験したのであった。(扇濱生)

 

 【一〇】 断想

 

 「資格取っても就職口が無い」

 と心配して遊んで居る隙に一頁でもよいから参考書を読め。資格が取れたなら活路は自ずから開ける。

 遅疑逡巡して居る人は一生敗者として世を渡る人だ。

 

   □

 

 朗らかな心でありたい。生き甲斐を感じて生活したい。酔生夢死に近い生活は自己への冒涜だ。

 

   □

 

 朝顔が美しい花を咲かせて居る。蝉は朝早くからセッセと鳴いている。ー凡てが自己拡張に懸命の努力だ。朝寝と昼寝に過ごしてよかろうか。

 

   □

 

 寸言を拾録する。

×怠らず行かば千里の外も見ん牛のよし遅くとも。

×努力なくんば安楽なく休息なし。

×自ら労せずして獲る所の者は一も貴ぶに足るものなし。

×才は天より受くと雖も之を完成するは自修の功に由るなり。天分を惜しまずして人力を尽すべきなり。

×如何に弱き人と雖も其の全力を単一の目的に集注すれば必ずその事を成し得べし。点滴も絶えず墜つれば巌をもうがつ。

×人生は労力を費やさざる人には一物をも与えず。

×懶惰(らんだ)の頭脳は悪魔の工場なり。

×起てる農夫は坐せる紳士よりも高し。

×明日為すべき事は今日之を成せ。

×天は万物を人に与えずして働きに与うるものなり。

×仕事をば追うて仕事に追わるるな。

×唯進みて誤り倒るるも起き上がりて更に進め。

×男らしき仕事とは汝のなし能う事を全力を尽して為す事である。

×憂き事の尚此の上に積もれかし限ある身の力ためさん。

×気根強きものは勝ち弱きは敗けるべし。

×勤勉の人は万物を化して黄金となす術あり光陰と雖も亦之を黄金に化すべし。

 

   ×

 

 物に退屈するな。

 

   ×

 

 努力の手は成功をつかむ。

 

   ×

 

 努力は天才に勝つ。

 

   □

 

 初めて文検に取り掛かる人は、雲梯に登る位に過大視する。通過して安易なのに驚いてからは常識程度だと思う様になる。只自己の力を信ずべきだ。

 誰しも己惚れない人は無い。それで居て文検は到底取れぬと始めから諦めて見向きもせぬ人がある。矛盾も甚だしいでないか。

 骨折って苦労して永年かかっても合格せぬ位なら始めから手をつけぬ方が得だ・・・と言う。一体その損得は何を標準に言うのだろうか。

 

   □

 

 学校騒動があって十三名一度に馘首されることになった。退職すべき理由が出ないからと言って頑張ったのがたった一人だけ。其他は威嚇されて早速退職願を出して終った。「二級飛ばしてやるから」「何とか就職の方も考えてやるから」と言ったのは其の時だけであった。経済的に窮乏でビクビクした連中は退職後四ヶ月の今日、まだ退職給与金に有りつかず、今更腰の弱かった事を後悔もし憤慨もして居る。

 正しい理論を主張し得るのも結局金があってのことだ。これが無くては何時も御無理御尤で終らねば

ならぬ。

 

   □

 

 卒業早々貯金しようなどと思う者には研究心が起らぬ。新刊の書物を欲しいが金が惜しいと思う位では研究も何も出来そうなことはない。そんな人には昇級も遅く結局金の出来るのが遅い。世の中は面白いものだ。「急がば回れ」は瀬田の唐橋だけではない。

 研究心の旺盛なものは新刊書を買うにも金は入る事は入るが、よい地位にどんどん昇って結局は寿命も永く、研究せぬ者が僅かの小銭を貯えて首になる頃には大校長で収まって居られる。

 

   □

 

 一日の業務を終えて床に就く時、今日一日ほんとに緊張した心持で過し得たかと考えた時、満足して安らかな眠りにつける人は幾んど有るまい。

 やろうと思えば未だ未だやれたのに怠けて遊んで終ったり、或は全く無為に過して居たことに気付くことだろう。 緊張した生活、はち切れそうな充実した一日一日の集積ーそれがその人一生の功績事業となるのだ。

 ともすれば逃げて行く時を十分活用せなければならぬ。「秒に鞭うて!!」は慥に至言だ。

 

   □

 

 就蓐(就寝)する時、一日の働きを反省して満足してニッコリとして眠れる人は幸福である。無反省に寝入って終う人は向上なき人である。反省した結果焦慮する人は向上しつつある人である。

 大不満家であれ!!大野心家であれ!!大空想家であれ。若い者でありながら、小じんまりとまとまった様なものは恐るるに足らぬ。一生を平凡に過す人間だ。

 

   【一一】 受験者談話室

     ―受験記―

 

   はしがき

 勉強に倦んだ時、勉強に嫌気がさした時、受験などにこの青春を浪費(?)して終ってたまるものかと思われた時、二度目でも三度目でもよいから此の辺を繙(ひもと)いて見られたい。「これではならぬ。やろう!!」ときっと奮起されるであろうから。

 此処へは「文検世界」や「文検受験生」などへ掲載された血の記録、熱血の迸(ほとばし)りを転載することにする。筆者諸君も後輩への刺激発奮剤となる点に於いて無断転載を諒とされたい。最初の私の述懐から始める。

 

  1 過ぎ行くもの

 

 「小さき足跡」 至って平凡に小さい足跡を残して来たに過ぎない私であるが、有りのままに過去を語り、現代を話し、更に未来をも考えて見たいと思う。

 私は大正六年和歌山県師範学校を卒業した。そして海辺の一小村に教鞭を執る身となったが、其の一ヶ年の生活は先ず無自覚の一星霜であった。始めて教え児に接し我が担任の一学級を思いのままに活動せしめることに依って生ずる歓喜に心を打ち顫(ふる)わしめて夢の如き一歳の日子を過した。他を顧みる余裕も無く、只児童と一緒になって楽しい月日を費やした。

 翌年家兄の死に依って私は家庭の関係上故郷の山村に奉職することになった。旧友の多い故山に入っては、全くの村人と化して終って囲碁や将棋やさては浄瑠璃などに熱中して、真の教育者からは稍縁遠いものになって行った。これには種々の原因もあったのだが、一つは家庭の鉄鎖に縛られて故山に蟄居せねばならぬ運命づけられたことに起因して居たのである。

 斯くして貴かるべき二三年は過ぎ、新刊の書は読むでなく、徒らに新聞小説を唯一の読物として退歩廃頽の日を送って居た。けれどもこの頃何とはなしに生活に興味が無く緊張の無い其の日暮しで、何日も何日も心が満たされなかった。

 忘れもせぬ大正十二年末の冬休みの時であった。

 雪の日に炉辺で黙然として居る処へ、校友会誌が投げ込まれた。封切る隙ももどかしく同級生の動静を見た。―××が師範の訓導に、〇〇が中学校の教諭に、△△が女学校の教師に、それぞれに行く可き道を見出して邁進して居た。

 その時に「これではならぬ!」と思わず叫んだ。卒業後の四年間に或る者は文検に合格し、或る者は研究を積んで附属に入って居る。それに自分は何たる事だ。無意義にも等しい無自覚な日を過して何の向上も無く、何の希望も無く漫然としてその日その日を糊塗して居る。何たる惨めさだ!!。これではならぬと躍り上がったのである。

 早速三里ばかりの川下に友を訪ねた。じっとして居られなかったからである。友は喜んで迎えて呉れた。私は此処でも更に「これではならぬ」と叫ばざるを得なかった。と言うのは新聞の連載小説以外に読書もしなかった自分の眼を、彼の書棚から、哲学、宗教、其の他新刊の教育関係図書が金色燦然としてずらり行列して驚かしたからである。

 私は有りのままに自分の考を話した。向上したい。よりよき緊張の生活に入りたい。生き甲斐のある生活がしたい。それには如何なる努力をしたらよいであろうかと相談した。友は言った。「附属の訓導に行くか。文検取るかだ。この二つ以外に進む道は先ず無いよ。」

 二人で久しい間語り合って別れる時、私は文検を受けることに決心すると告げて別れた。

 

〔悲しい哉。薄志弱行の我〕 教育を受けようか、修身にしようか、それとも数学にしようか、国語にしようかなどと考え迷った。何れも皆自身の無いものばかりであるが、国語は何となしに深くやったら面白そうな気がした。迷い迷いつつも早速、早稲田の講義録を注文した。毎月二冊宛送られた。始めの中は待ち受けて居て読破した。三ヶ月目四ヶ月目になると、先の分をまだ一頁も読んで居ないのに後の分が来ると言う始末で、見るのさえ厭になって来た。

 ―会誌を見た時に起った興奮は早や醒めて終ったのである。―

 けれどもポケットへは毎時講義を入れて置いた。読む為では無く、虚栄からである。これ位の物は読んで居るぞと広告する為にである。隙の時にはそれでも思い出して一頁二頁と拾読みをした。

 斯くして一年は文検受検を覚悟しながら、中止の形で過ぎて終った。四月が来た。同級生はどんどんと昇級した。けれども怠けて居る私は矢張り本の黙阿弥であった。而も分教場へ左遷せられた。

 如何に薄志弱行の私も奮起せざるを得ぬことになった。朝から晩まで一人教員室に呆然と座って居るだけでは堪えきれなくなった。

 新刊書の濫読となり、講義録の精読となり夜も昼も読書した。柳子厚の墓誌銘などを読んで柳州の名声を博したのは永州に左遷せられたことに起因して居ると云う様な所に至ると、恰も子厚にでもなったつもりで大いに共鳴したものである。

 十二年郡教育会に「読方研究会」があって会員研究発表があったが、其の際に日頃濫読したところを以て「読むの本質」と題して研究発表をした。その為と言うのでもあるまいが、同級生などの推薦もあって翌年附属訓導として抜かれた。

 国語主任としての傍、受験準備をして翌十四年に予試本試ともに合格した。

 〔現代の生活〕 文検に合格すると同時に、「官報で見たが自分の学校へ来て呉れないか」と五箇所ばかりから手紙を貰った。今ならば就職難であろうが、十四年の私の時などは何処へでも行けた。しかし私は中学校へ出る考は毛頭なかった。文検を目指した理由は中等教員になるに非ずして、多少認められるには文検を取るか附属訓導になるか、何れかを選ばなければならなかったからである。その上八年余りもやって来た初等教育界に対しては十二分の未練執着があったので、惜しい気がしたが、友人達の勧告もあり、国語そのものの面白さも稍々分って来た時なので、愈々決心して中等教員の末班を汚すに至った。

 かくて十四年秋T中学校教諭拝命。昭和二年漢文科合格。翌三年初夏現在校Y中学校に転任。そして現代に及んで居る。未だに国漢科の末席を汚すの光栄に浴して居る。

 〔勉強の傍ら著書] 師範在学中から詩に興味を持って居たので、唐詩選の平易な講義を思い付いて着手した。

而し浅学非才の事とて意の如くならず、諸先輩の説を自己の脳力で咀嚼出来るだけして、それを最も了解し易く書いて行った。殊に早稲田の講義録に出たものは、そのままそっくり之に倣ったものなどもある。斯くて一学期中に纏め上げて昭和二年の秋出したが、一ヶ月足らずで三版を出し、三年で九版を出し非常な好評を得た。勿論宇野博士の序文のお陰であると思うが、又内容が繁簡その要を得て居ることにもよるだろうと自惚れている。「唐詩選詳解」と題する本で大同館から出した。

 私は毎時、少しなりとも自分の力で出来るだけの事をして、独学者の好伴侶となり、よき道連れとなり、慰安者となりたいと心がけて居る。今の処私としては最も平易にして能率を挙げ得る参考書を書くことだけが与えられた仕事の様に思うので勉強の傍ら書き纏めて居る。

 漢文科を受験した時に、史記・八家・左伝のよい選択のないのにはほとほと閉口した。漢文大系に依っても漢籍国字解本によっても、少年漢文叢書によっても、時間さえかけたら十分勉強は出来るのであるが、何がさて短時間で最も能率の多いやりかたをしようとするのであるから、あの全釈では手間取って仕方が無い。左伝をやるにさえ二三年の日子を費やして終う。殊に印刷其の物の体裁が頗る読みづらく出来ているので、内容は非常に親切に説かれて居るけれども読むのに倦怠を生じて仕方がない。それ等を思って「唐宋八家文詳解」「左伝詳解」を出した。左伝は今春二月に出したばかりであり八家文の方は既に再販を出した。両書ともに精髄を抜いてあの大冊の講義を見なくとも、此の一冊で十分事足りる様に仕上げた。

 そんな理由から「十八史略詳解」も啓文社から発行した。大いに実力を涵養し独学者の倦まず撓まず勉強出来る様に工夫した。今後とも著述を続けて行き度いと思って居る。

 [これから?] 目下私は第三次計画に取り掛かって居る。(第一次は国語、第二次は漢文、第三次は高等教員。)何時の日に成功を見得るであろうか。私如き駑馬は如何に鞭うてどもかの峻峰を攀(よ)じ得ぬかも知れない。けれども孜々として勤め、汲々としていそしんだら、やがては高嶺に立って玲瓏たる月光を仰ぐことが出来るものと信ずる。それを楽しみとして零細の時間をコツコツとして机に向って居る。

 年若い人々の合格談を聞かされる度毎に、本気になって勉強に取り掛かることの遅かった事を悔いつつ、遅れ走せながら進みたいと努力して居る。

 

 

  2 本試験征服記

 

 〔卒業早々受験〕 大正十二年岡山師範二部卒業後少々無謀とは思いましたが、翌十三年国漢科を受験した。僥倖にも予試に合格しました。本試は無論失敗に終りました。翌十四年四月から現在のA中学に職を奉ずることになりまして、勉学上にも何かと便宜を得同年夏の本試に国語科に合格しました。

 併しそれと同時に少し健康を損ねましたので、漢文をやりたいと思いながらも、はかばかしい勉強は出来ませんでした。殊に少々酒を飲むことなんか覚えて来まして、十五年の暮から昭和二年一ぱいは全然駄目でした。

 愈々本気になって、漢文科の準備にとりかかったのは昭和三年一月からでした。大体のプランを立てて同年十二月まで文字通り専念にやりました。好きな庭球や散歩なんかも殆んど中止の形で必勝を期して読みました。併し十二月の本試はまだまだ時文の研究が不十分であった為と漢作文が稍々出鱈目であった為失敗しました。

 翌四年は今まで郷里へ帰して置いた妻子を引き寄せて再び庭球生活を始めるやら、五月には足部の腫物のため病院通いをするやら、夏には母の重病続いて父の死等で随分ゴタゴタしましたので、可なり苦しい勉強をしなければなりませんでした。取り分け父の死に際会した時なんかは落胆も手伝って今年はとても落ちついた気持で準備なんか出来ない。一層のこと受験を中止しようかとまで思ったのでした。併し九月半ば頃その方もどうやら一段落ついたものですから又思い直して準備にとりかかりました。

 十二月十日上京するまで可なり真面目に読みました。こんな有様で五十一回の本試に幸にも合格する事が出来た訳なんです。漢文科を稍々真面目にやり出してから二ケ月かかった訳です。半ヶ年か一ヶ年少々の準備で合格せられます人々のことを思って誠におはずかしい次第です。以上大体私の通って来た道を述べましたから次に貧弱ながら私の準備法を述べさしていただきます。

 読みもしない本を羅列することは而後受験せらるる人々に対して親切でないと思いますから、ここには私の実際参考に供した書籍につき、ありのままに申述べることにいたします。これっぱかしの本を読んでパスするのかと読者の皆様が不思議にお思いになる位しか読んでいない私です。無論多くのものを読むと言うことは結構な事と存じますが、併しここにあげましたものだけを精読すれば合格する程度の実力は十分に養えることと信じます。

 (一)解釈方面

 A 左伝

  〇共益商社  高等漢文読本七

  〇鹽谷博士  左伝新鈔

  〇瀧澤良芳  左伝選釈

  〇少年叢書  春秋左氏伝講義

 右の内高等漢文を中心にやります。これは白文ですから(もっとも白文ともうしましても句読点だけはわりますが)始は少し骨が折れますが最初からこれで練って行きました。少年叢書を参考にしながら難解な処は余白へドンドン書き込むのです。

 併し返点送仮名は絶対につけません。少くも試験前これを見れば九分通りは了解出来るまで反復練習するのです。そしてこの本以外で大事な個所がありますからそれを新鈔と選釈で補います。大系本を一読したいとは思いましたが、何分時間の余裕もなし、それにこれでウンと白文練習をやって置けば左伝は大凡そ読みこなすことが出来ると考えましたので止しました。

 B 韓非子

  〇共益商社  高等漢文読本八

  〇吉波彦作  韓非子詳解

 吉波氏のものは実にいいと思います。これを中心にやりました。二三回精読すれば大体理解出来ます。高等漢文は少し量が少いので最後に復習的に見ました。併し左伝と同じく白文ですから実力を試すには手頃のいい本です。

 C 史記

 〇共益商社  高等漢文読本四

  〇漢文大系  史記列伝

  〇二大漢籍  史記列伝及項羽本紀

 高等漢文を中心にやりました。やはり白文ですからウンと力がつきます。分らない文を大系本や国字解本で見る程度にするのです。項羽本紀は無論入れてありますし、列伝全部はありませんけれ共これだけのものを理解して居れば他は十中八九分通り読解出来ます。

 D 四書

 四書の必要なことは予備本試共通です。四書は必ず予備のものなど独り合点することは甚だ無謀なことです。徹頭徹尾やりました。

  〇宇野博士  四書講義大学

  〇宇野博士  四書講義中庸

  〇簡野道明  論語解義

  〇簡野道明  孟子通解

 右のものを先ず精読してから左記のものをやりました。これは朱註によったものですから口述の準備として甚だ必要です。

  〇簡野道明  補註学庸章句

  〇簡野道明  補註論語集註

  〇簡野道明  孟子集註

 尚復文漢作文の準備にもなると思いまして大学論語孟子の前半を白文として筆写しました。

 E 時文

  〇田井嘉藤治  最近支那時文実鑑

  〇吉波彦作   漢文 白文訓読復文作文 研究要訣

 吉波氏の時文篇は全部精読し、時文実鑑は三分の二位まで研究しました。この外に昨夏広島県教育会主催の国漢講習会で斯波教授の講習を受けました。

 F 八家文

 最近八家文の読方が殆んど毎回本試に出されます。併し試験に出される程度のものでしたら以上AからFまでのものを精読していれば別にやらなくとも大体は読解出来ます。私は本試受験に際しては八家文として大部なものは読みませんでした。只

  塚本哲三  漢文解釈法

 の中の八家文の部を白文について見ただけです。予備の時読んだ記憶も多少はあったかも分りませんが本試には二度とも八家文の読方には苦しみませんでした。併し余裕があれば次の本位は見ておくといいと思います。

  〇鹽谷博士  唐宋八大家文鈔

  (二)設問方面

 A 文学史

  〇児島博士  支那文学史綱

  〇西澤道寛  支那文学概説

  〇橘文七   支那文学史要

  〇石川誠   漢文科研究者の為に

 児島博士の著を精読し、次いで西澤氏のものを一読しました。試験前になってから橘氏のものと石川氏のものを中心に只管暗記につとめました。この二書はノート代用として誠にいいと思います。合格するだけの力をつける点から考えますと後の二著を精読するのみで十分と思います。

 B 哲学史

  〇宇野博士  支那哲学史講話

 哲学史はこれ一冊を精読しただけでした。これだけで十分と思います。併し性理学の研究なんかには、朱子の近思録を読んで置くと口述の場合なんかに非常に役に立つことを感じました。お恥かしい次第ですが、私はこれを読んで居なかった為、口述の時まごつきました。委員の先生もこれを読む様に親切にお教え下さいました。

 今後の受験を希望される皆様は通読だけでもなさいます様切にお勧めいたします。

 C 文法

  〇児島博士  漢文典

  〇佐々木藤之助  漢文典

 児島博士の著を中心として佐々木氏の著を一読しました。尚吉波彦作氏の「漢文研究要訣」中の白文訓読篇は大いに参考になります。精読すべきだと思います。

 D 其の他

  〇鹽谷博士  支那文学概論講話

  〇石川誠   漢文科研究者の為に

 鹽谷博士の著は大変分り易く書かれていますので、一読するだけで大抵理解出来ます。石川氏の著の中で第一巻の汎論と第二巻の漢文学概論亦一読を要します。作詩法としては次のものを一読しました。

  〇森槐南  作詩法講話

  (三)漢作文

  〇吉波彦作  漢文研究要訣

 まとまったものとして見たのはこれ一冊です。併し真面目にこれを研究すれば大いに見る所があります。何を言っても作文は自ら作ることです。既往の題をとらえて一つでも多く作る努力を惜しんではならないと思います。私は約三十題ばかり作って見ました。作ったら唯我独尊をきめこまずにその道の人に必ず見ていただくことが何よりも肝要と思います。前述の佐々木氏の漢文典中には漢作文上の要領を可なり親切に述べてあります。

 尚私は半分位読んだだけでしたが次の書に就いて漢作文の要領を会得すべきだと思います。

  〇高於菟三  漢作文作法要義

  (四)問題集其他

  〇霜島勇気男  高等漢文漢語詳解

  〇瀧澤良芳   国語漢文科問題詳解

  〇中等学校漢文教科書  三・四・五の巻

 右は必ず一読すべきです。殊に漢文科教科書は徹底的に研究すべきです。私は富山房の服部博士のものによりました。

 以上大体私の準備法に就いて申述べました。月並的な方法で別にこれというべきものはございません。併し多少でも受験の皆様に参考になることが出来ますれば嬉しく存じます。

 合格したにつけても父にこのよろこびを分つことが出来ない事を非常に悲しく思います(岡山、岩佐氏)

 

 

   3 漢文科受験準備時代を語る

 

  ◇神の試練

 今年失敗すればもう受験は放擲(ほうてき)しようと思っていた予試であった。それが国語の方は可成り出来て、最も得意であるべき筈の漢文が思いがけぬ不成績に終ってしまった。もう駄目だと思った。

 受験最後の日、恩顧を受けている人に私は手紙を出した。

 「私の将来を決定する受験は全然失敗になって終ったらしい」と。それからの懊悩は友人達が心配して呉れる程に甚だしいものだった。少年時代からの逆境は随分苦しいものであったけれども、併し努力に相応して漸次光明の域に近づいて居る様に思って居た私は、「失敗は幸福の基」と言うよりも「私に失敗なる語無し、世人の所謂失敗なるものは、幸福の一部分なり」とも考えて居た。私の堅く心に銘じて居た信念でもあった。

 故に如何なる苦境の立っても決して失望はしなかった。苦しいとも思われなかった。不平や噴怨もなかった。一昨年昨年本試に二回落ちても落胆しなかった。努力すれば運命の神は決して自分を見捨てはしない。失敗があってもそれは神はより大いなる幸福を与えて呉れる為の一の試練に過ぎないのだ。かくて私は一切を運命の手に任せてしまっていた楽天的運命論者だったのだ。

 それが昨年三月のある機縁から信仰の団体と交渉を持つ様になり、宗教から見て運命論の極めて幼稚なものであることを知った。運命の神といった程度のところに安住して居る自分をつまらなく思って一文字に宗教へ走った。

 併し小さい理知と懐疑は遂に徹底した信仰を私に許さなかった。為に安心する境地を全然失って終った訳だ。恰度(ちょうど)その頃の予試の不成績だった。暗い将来を思って泣いた。過去の逆境を呪って身をたぎらせた。

 勿論本試の準備には少しも手をつけない。私は只管何も考えまいと務めた。殆んど馬鹿になり切って日がたった。所が思いがけなく予試の合格である。本試までに後二十日程しかない。短い時日だ。

 併し私のからだには力が漲(みなぎ)って来た。やるのだ。

 

  ◇祝賀会

 それから懸命の準備に取りかかった。国漢兩科を出題していたが、国語に二分の力をさき、残りの力を漢文に注いで、悪戦苦闘の日をつづけて行った。

 一身の興廃此の一戦に在りの緊張、今度こそ必ず合格してみせるの意気を以ての奮戦であった。筆答試験の日が来た。八分通りの安心を抱いて即日三島の震災の地に走り恩人の許に労力を捧げて数日過ぎた。帰京して口述をうけ、幾分の不安があったが、大して悲観もせず、発表の日を待ち、遂に合格の吉報に接することが出来た。此の日天気晴朗とでも言いたい気分だった。友人達が集って祝賀会を開いて呉れた席上私は私の通って来た十五年間の受験生活を回想した。波高しの苦しい過去であった。併し今はその波瀾重畳の過去に却って懐かしさを感ずるのだった。

 

  ◇受験生活十五箇年 

 小学を出る時、当時の私の村が専門学校出一人、中学校数名位のものであった為に、別に中学入試の熱望もなく、又貧の為のあきらめも手伝って何の苦しみも不平もなく当然の事として高等科へ進んだ。その時恩師は私の為に中学講義録を取って下さった。

 それが私の受験生活の発端だった。

 専検へ、専検へ、これを目標にして高等科を卒業して神社の小使になった。それから神戸へ出て歯科医の書生にそれから郵便局の事務員、外国商館の給仕へと、食う為の職業に転々して行った。

 その内に私は私の頭脳を余り信じ過ぎて居たことを知った。全くの独学に英語はリーダー四で、代数は級数、幾何は立体で行きづまらせてしまった。私自身に愛想をつかせて専検を放棄してしまった。

 十八の秋会社員にでもなるのだと考えて、三ヵ月の準備で商業会議所の試験を受けて一科だけ合格した。先ずこれからと思っていたその翌年の二月、父の死にあって帰郷し、兎も角一人して食う道を見つけなければならなかった時、幸に恩師の厚情によって一ルンベンは小学校の代用教員に採用されて、十九の四月初めて教壇に立った。

 その五月尋淮を受けて合格したが、師範出ではない為の苦痛を味わいつつ又その為に一層の努力をしながら、先生で満足しきれない寂しい日を続けて、教師生活五年の日は過ぎた。その間に尋正の受験に二回行ったが、一回はその地の図書館で小説に読み耽り、一回は一燈園へ走って、勿論合格することは出来なかった。

 あせっている中、某専門学校の入学試験を受けて見る気になった。十日間を山奥の家へと閉じこもって準備した程度の力で、それでも汽車賃を工面して上京した。課目は国漢だけであるが、日本外史と徒然草を読まなかった私には難問揃いであった。併し幸にビリの方から近い成績で入学することが出来た。先輩の好意で金は某会から借りることに話がついた。

 順風に帆をあげる幸運にめぐまれて意気揚々、学校生活に一歩を入れた。小学校教員免許状を有する者は卒業後漢文科高等教員の無試験検定の特典を受ける資格ありとの規則書を信じて入学後の私は幸運であった。六年後の輝かしい生活を想像して居た。私を尋淮である故に軽蔑していた小学校時代の同輩に対しての事も思った。光明にからだを包まれて一年は過ぎた。

 一年過ぎて幸福から絶望の谷間へ私はつき落されなければならなかった。規則書の小学校教員免許状のうちに尋淮免許状は入って居なかったのである。為に卒業後の特典は全然私には与えられない。怒って見てもどうにもならないのだ。今までの時間と金との空費、併し退学すれば借金一時払いの義務がある。といって此の先在学して何の効果があるのだ。進退に迷ったが結局在学することに定めて終った。在学中に中等教員の資格をとれば卒業後の特典をうけることが出来るかも知れぬとの頼りないことを便りとして文検への進路を辿ることに決意した。

 又これから受験生活がつづくのだ。やれ!元気よくやれ。学生であり独学生である私の生活が、それから慌ただしく続いて行った。入学した翌年千葉県へ小准を受けに行って体操で味噌をつけて帰った。その秋山梨へ行って時間に遅れて逃げ帰った。

 その翌年東京府の小准をうけ、長躯して奈良三重に転戦した。いずれも筆答にパスしたが、東京府の体操実地にだけ出席して合格し、二県のは棄権して終った。

 その四月皇典研究所の神職試験をうけて筆答にパスしたのは、私の受験史の道草だった。七月末東京府の発表があって、愈々予備試験へ取りかかる。本もない金もない。数冊の本のみによって予試を受け、僥倖にも合格、本試筆答も通過、破竹の勢いで口述に突進して功を一簣に欠いてしまった。これでいい。落胆もしない。失望もするな。

 翌年二回目の本試筆答は切り抜けた。今年こそはは決死の覚悟で、口述へ進んだ。結果は多少楽観して居たにも拘らず、万事休すの悲運に遭遇せなければならなかった。

 愈々翌年二回目の受験だ。今度合格しなければ、もう私の受験生活におさらばを告げてしまうのだ。この意気で昨年の一月を迎えていながら準備に手をつけないで七月まで過ぎて了った。

 八月の夏休を知己の家の留守番に組まれたを幸、毎日五時間を準備の時間にあて、克明に勉強して行った。予試を受けて後からの事は初に記した通り、再言する必要はない。

 

  ◇無試験制度

 小学校教員時代に私の編輯して居た文集に、「卒業生諸君に」と題して「学校は時間と金との浪費所である」と書いたことがある。現代学生生活をやって居ることから考えると独学時代のこの言葉は、全く当って居るとも言えないが、誤って居るとも言えぬ。独学によって受験する人々は、学校に入ることを羨望せないで、真の自己の力によって免許状を獲得すべきだ。無試験の特典ある学校にいてこんなこと言うのも変であるが、学校卒業生に与えられる無試験検定制度も全廃するのが至当だと私は思っている。

 学校出の智識は広い。けれども浅い。又狭くて浅いのも多い。私の知人にも無資格で入って無試験の特典が与えられぬ男がいる。その男より以下の成績の多くの者が卒業の時には得々として免許状を持って行くことなど、どう考えても不合理な話だ。

 

  ◇参考書

 準備と受験の実際を記すことは、私が一方学校生活をやって居る為、一般独学者諸氏の参考にはなるまいと思う。ただ受験に用いた書名だけをつらねて置くことにする。

 予備試験(国語は除く)

  四書    少年叢書四書講義 宇野博士著大学・中庸、四書集註(上海本)

  十八史略  漢籍国字解、箋註十八史略、少年叢書

  唐詩選   漢文大系

  八家文   漢文大系

  設問    支那文学史綱、支那哲学史講話、漢文捷径、漢文科研究者のために

 本試験

  左伝    少年叢書、春秋左氏伝校本、春秋左伝(上海本)

  史記    少年叢書、史記評林

  韓非子   韓非子集解(上海本)、韓非子講義、韓非子詳解

  時文    支那時文教程

  設問    予試と同じ

  口述    四書大全、東洋通史

 最後に私は明治三十六年生れ、兵庫県宍粟郡は私の郷里である。同郡は文検熱の盛んなところ、若し同郡の人で本誌の読者があれば健闘と成功を祈って止まない。(黒郎生)

 

 

4 恵まれざるの記

 

〔一将成功万骨枯〕若し断章主義を以てすれば自分は万卒の仲間に当たる、失敗者成功之母也の西諺から言えば、失敗何んぞ敢えて悲しむに足りない。然しながら功を誇るは易く恥を露すを好まぬが人情だ。漢書に覆車之戒あり、詩に曰わずや他山之石可以攻玉と。

 予備試験を終った其の夜、私は士気を鼓舞するために、安井息軒先生の三熟記を読んだ。そうして本試準備のプランを立てた。十二月二十五日まで七十八日。この間に史記、八家文、左傳、韓非子を読まねばならぬ。設問作文もやらねばならぬ。思えば多忙の事なる哉と嘆息せざるを得なかった。過にして九月までは渾身の勇気が凡て是れ予試に注がれてあったからだ。

〔本試への準備〕この七十八日を三期に分けて見た。

 第一期 読解

 第二期 時文 作文

 第三期 設問 既出問題研究

 

 読解で骨を折ったのは左傳だった。尤も私は先輩からの注意で、「予試と本試との間に期間が短いから予備の準備前に必らず本試の参考書の一つだけは後で見なくともよいという程度に実力を附けて置け」と言われたので、昨年十月から本年一月まで四月刊間、左傳を抄録し、且つ先輩から白文課題で採点して頂いて居たが、恥しい事には韓非子はまだ一度も目を通して居ない。八家文と史記とは中学の四五年の漢文を受け持った事があるので、どうやら一通りは見ている訳だった。

 漢作文には一番苦しんだ。山下賎夫氏の復文の系統的練習と、吉波彦作氏の漢文研究要訣をやって、高於菟三氏の漢文作法要義を一通り見て、皆川淇園の習文録を少し許りやった。

 韓非子は吉波氏の韓非子詳解を読んで菁萃録韓非子で整理した。

 十一月十二日、官報は本試験の日割を示して呉れた。見ると漢文筆答試験は十二月十四日である。俄然、私の計画に驚異と齟齬とを来した。それはプログラムよりも十日間も短縮されたからであった。だから大車輪大急行でやらねばならなかった。越えて十六日の官報は漢文予備試験の合格者の名を発表し、辛じて驥尾に附することができた。

 十二月九日、私は指導を受けた先輩に、匏有苦葉、済有深渉、深則広浅則掲の賦を送って非常の決心を示し、自ら背水の陣を布き、東都を指して勇ましくも進軍の門出に上ったのである。

 郊外の親戚の家は閑静で、勉強には此の上もなく好かった。私は先輩の意見を聞いて、一室に雑居させられる様な旅館生活には足を入れずに只一人静かに読書に耽って、暁燈燭只管参考書に親しむことができた。

〔本試験筆答の日〕愈々明日に迫った。いつもよりは早く床に入ったが、夜半夢破られて眠れなかった。八家文や韓非子の既出問題に一通り目を通して試験場に向った。電車の中では、共益社の高等漢文読本巻之七の左傳を見て居た。試験場についた頃は未だ開始の時間に間があったので受験者は余り集って居なかった。定刻近くなると、試験監督からの訓示があって、薄暗い場内にパッと点いた時、思わず私は胸のときめくを覚えた。

 私は場内を一瞥して見た。白髪禿頭の老翁もあれば美髯紅顔の士もあり彩とりどりの裡に、万緑叢中紅二点を発見し有髪紳士を後に瞠著たらしめた。これでは緊褌一番せねばならぬと考えた。見ると其の一人は今春或女学校で確かにお目に懸った方。あの時ストーブの傍で韓非子詳解を見て居られた方だった。顔見知りと言っては外にも一人美しいカイゼル髪の有る中学校の退役大尉、この人は去年も受けられたそうで、彼と同僚の私の先輩からその時の本試の問題を知らして戴いた事があったが、不幸にして尊名を知らなかった。

 受験者凡て百三十五名、机を見ると鹿子斑の欠席はあるが、満堂是一騎当千の闘士かと思うて貧弱な自分の力を顧みた時一種の戦慄を感ぜざるを得なかった。

 やがて答案用紙と問題とが配られる。一渡り目を通す。孟子、左傳、八家文、時文設問、作文、都合六題。

 第一に意外々々。出ると思った韓非子は意地悪く出ないで、出ないと思った(予試の復文に出て居たから)孟子の離婁が出た。先ず句読訓点をつける。次に解釈、最初の規矩方円之至也、聖人人倫之至也の至を至宝と解した。これは註の至極也に気がつかなかった誤りだ。それから欲レ為レ君尽二君道一、欲レ為レ臣尽二臣道一の欲の管到を間違えて、

 欲三為レ君尽二君道一、欲三為レ臣尽二臣道一

 と書いて終った。これは文法を思い出さぬ失敗だった。我ながらルーズの感がする。実際を言うと、孟子の出題は実に意外だった。それは四書は予備の時に見ただけだったから。これで見ても四書は徹底的にやらねばならぬ。

 第二が左傳、宣公十五年楚子園宋之條、支那の鳥居強右衛門たる解揚の処だ。霧島勇気男氏の「高等漢文漢語詳解」で確かに見た事がある既出問題だし、漢文講座に飯島忠夫氏の訳があったことを想出す。先ず読方から始めて句読点をつける。ヤマが三つ四つある。最後の、下臣護考(ママ)。死又何求。楚子舎之以帰。に至ってトント詰って了った。考の字がどうしても訓めない、仕方がない。「下臣死を獲考(ママ)せり、又何ぞ求めん。楚子之を舎るして以て帰らしむ」と無理に訓んだ。思えば是れが致命傷だった。後になって註をよく読んでいなかったことを悔いた。考成也以率也とある。ああしまった。註なくば漢文なしだ。漢文はどうしても原書に親しんで註をよく読まなくてはならぬ。

 第三は八家文、欧陽脩の送除無党南帰序だ。是は昨日既出問題集で読んだ所だ。これで見ても機尾出問題は忽にしてはならぬ。何となれば既出問題は大抵参考書中の名文のエキスであるからだ。

 第四は時文、これは只管漢文講座の内田復氏の時文と吉波彦作氏の漢文研究要訣を読んだ丈けで、先輩から借りた山田岳陽氏の支那時文釈義は只拾い読みをしたばかりで大なる自信がなかったが、ヤマは人名の係り工合と、弁公処接洽一功…だけだったので辛うじて仮名交り文に直した。以上一通り読方を終えて解釈を書き終った時は、もう二時間半を費やして了っていた。

 第五は設問、(一)董仲舒(二)初唐四傑

 (二)は既出問題だ。既出問題の設問は全部答案用紙に抄録していたので直ぐに書けた。児島氏の支那文学史綱と宮崎来城の作詩術に負う処が多かった。

 (一)の問題には全く面喰った。時代を前漢の武帝のことを後漢の武帝の時代などと間違って書いたり、賢良対策などはテンデ思い出せなかったりしたが、宇野博士の支那哲学概論と早大プリントの牧野氏の支那経学史とによって儒道二教の融和を計った人だったことだけを記したが、著書の春秋繁露はどうしても思出せなかった。陸賈の新語と間違えて書いたりもした。凡そ三行許り。自分ながら何と貧弱な答案だろうと思った。

 第六、最後に漢作文だ。題は見利思義説だ。一寸手が出ない、時間を見ると余す処一時間この時自分は文章軌範巻五の小序にあった、場屋中日晷有限、巧遅者不如拙速を想出さずには居られなかった。構想凡そ二十分、勇を揮って筆を呵す。

     見利思義議

 天下誰有不謂利者哉。利也者厚生也。利而無義不可以称利也。余嘗読論語。至子罕言利与命与仁。慨然嘆息矣。方今世人。汲々栖々営利之務。不日不索利。故見利敏而喩義迂焉。是以将相之尊、受縲絏之辱。如斯者見利而為有勇。見義而為無勇。昔日顔子在陋巷不改其楽。孔子曰不義富且貴、於我如浮雲。可以為箴矣。

 やっとの事で書き上げた時、与えられた四時間半の時間は遠慮もなく去って「起立」の声が鋭く耳に響いた。ああ運命は遂に決したのだ。読み返す時間さえない。況んや熟慮推敲の時をやだ。

〔万事窮矣〕斯くして不安の数日は過ぎた。私は答案の模様を先輩のY氏とS氏とに送って合否如何を待った。Y氏からは「大丈夫」と書いてあった。S氏からは「神ならぬ身にて到底判断を下し得ぬ処に候も多分合格すべしと愚考仕候」とあったが心配して居た漢作文だけは両氏とも褒めてくれた。

 十九日午後四時は成績発表の時刻だったので、雨の文部省前には受験者が黒山の様だった。悲喜交至のシーンが展開されていた。自分は静かな足取で掲示板に近づいた。不幸にして口述受験中に自分の番号を見出すことが出来なかった。万事窮矣。

 然し私は徒らに悲観しなかった。帰りの電車の中では徐ろに袖珍本の四書集註を繙くことが出来た程我ながら不思議な位ゆとりがあった。

 老詩人からは私の失敗を弔せずして却って祝して来た。友人からは鼓舞激励の手紙が着いた。私は涙を以て此等に感謝した。

 やがて自分の寓居に戻った時、書斎は雪で包まれて居た。私は寂しく独り此の詩を吟んだ。

  関レ戸且忘名利心。四隣人定夜沈沈

  草堂埋雪年将レ暮。独対二寒燈思古今一。

 来るべき庚午の歳yお。

 我は捲土重来の意気と鎧袖一触の勇気とを以て、無駄なく、無理なく怠らず、本試の鉄壁に邁進せんとして居る。 

 最後に言いたい事は、受験後の友人の談話によると、漢文科の授点法は総点三百点読解二百四十点、作文設問六十点だそうであることである。(五一回失敗生)

 

 

   5 半ヶ年合格

 

〔はしがき〕私は昭和三年度に国語科を合格し、昭和四年又僥倖にも漢文科を合格した訳でありますが、その実白状しますと其の間四年度第一次に柄にもない習字科の受験をしましたから―但し失敗でした。努力と時間は国語の二三倍は使って居ますが―漢文科の準備はその予試後から着手したので正味半ヶ年の準備しか出来なかった訳です。でもその半ヶ年は随分心身共酷使無理をしたものですが、とにかく普通の頭と健康の持主ならば半ヶ年でどうか準備が出来ることを体験上で信ずるものであります。

 然かるに国語科有資格者にして運の悪い方になると三四度も遠い国から多大の経費と日子を費して上京なさり失敗の恨を繰り返されている方のあるのは衷心同情に耐えないと共に、其処には屹度何等か準備上について欠陥のあることを思わされるのであります。ついては此処に私の体験上気づいたことや又準備の実際を赤裸々に告白し、受験生活に対して幾分の参考の資ともなればと思って敢えて誌上を汚す次第であります。

〔参考書の選定〕誰も言う常套句ですが、それだけ又動かすことの出来ない真理があると思います。書物あさりや濫読はやめて良書を精読することです。選定については雑誌を通じたり又本人についたりして経験者の指導を受けるのがよいと思います。但し試験合格を標準として。

〔研究の順序〕暗記的である設問はなるべく受験近くに、而して読解物を先にし、又同じ解釈物にしても思想の基礎をなす四書を先とし、左傳、韓非、八家、時文という順序がよいと思います。八家文は大部なものですが、其れ迄の書物が十分に咀嚼出来実力さえついて居れば、大系本によって恰も小説でも読んで行く様にさっさと渉るものであります。時文も同様です。古文によって白文が可なりにこなせるだけに実力がついて居れば、あとは二三の書物によって時文としての、特殊の用字熟語を一二千当って置けばよい様です。

〔作戦三分に実力七分〕作戦倒れは禁物、大体に於いて実力主義をとるのがよいと思います。と云って例えば左傳に於て二三行で終っている断片や又随処に出て来る易的の解や甚しきは経の部までも一々繰り返し読んで居てはまた受験としては迂なものだと思います。其処には三分の作戦が肝要。之を解釈物について具体的に申しますと、

 1過去の問題により出題傾向を呑み込むこと。

 2第一回は全部を丁寧に読んで行き、其の際出題されそうな処を片端から符号をつけて置き、二回目からはその個所のみを繰り返し読むこと。かくする時は頁数に於いて左傳は約四分の一、韓非は二分の一弱に整理することが出来ます。

〔設問〕に於いても

1出題傾向に就いて研究

2合格程度の深さに於いて確実に

3哲学史、文学史、文学概論、書籍解題等各別々に問題化した一覧表によって整理すること

 等の様にやるのが得策です。

〔一気呵成〕誰の頭でも既得のことをぐんぐん忘れて行って居るものです。而して忘れる量が日月と正比例するものです。故に一気呵成にやることです。試験間近く頑張りがどんなに価値大なるかを小生一流の算式で表わしますと

平常時の収得量を10とす(大体時間4時間の勉強として)

試験間近の収得量を20と仮定す(毎日8時間の勉強として)

毎日の忘れる量を5と仮定す(実際1年も前にやったら此位である)

試験に於ける価値―平常時=10-5=5

        ―試験時=20-0=20

価値上の此値=20÷5=4

即ち試験間近の一日は一年も前にやる四日分にも相当することになるのである。私はもっと無理して日に十時間から十二時間位までやりましたから一日分がこの算式で行くと或は五六日に相当したようなことも少くなかったかと思います。之が合格の秘訣とも言えるかと思います。

〔解釈物の重視〕之さえしっかりやって置けば、設問が少々しくじっても大した問題でない様です。殊に四書と左傳は最も重要視すべき様です。四書は朱註の白文によりて註まで自由自在にこなしておくことが肝要です。近年口述にはずっと朱註が出題されます。序に参考書としては博文館の漢文叢書中の四書(三冊)がよいです。之は朱註に又毛利貞齋が註をしたもので日本訳です。特におすすめします。

〔半ヶ年戦跡一覧表〕以上の考と作戦計画のもとに私が半ヶ年奮戦した実際を一覧表にして示して見ます。

 

第一回読破日

書名

頁数

読破回数

備考

自五、一七

漢文學び方の研究(西脇)

二四〇

 

至五、二一

復文の系統的練習(山下)

一七六

 

自五、二二

大學(宇野本)

二八二

 

 

中庸(宇野本)

二五二

 

 

論語(三島本)

四三八

 

 

孟子(簡野本)

一〇二五

 

自七、二七

四書朱註(白文)

三七五

 

自七、二八

至八、二〇

韓非子(国字解本)

二四四三

大系本参照して

自一〇、五

八家文(笠松本)

六七八

韓欧三蘇のみ

至一〇、二〇

八家文(大系本)

一三一七

 

自九、二一

時文(早大講義録)

一三〇

 

 

時文(吉波氏本)

一三〇

時文のところのみ

 

時文(時文実鑑)

三九七

 

自一〇、二一

至一一、二八

左傳、韓非子、四書時文の復習

 

 

 

自一一、二九

支那哲學史(宇野本)

三三九

 

至一〇、四

四書研究(教育學術會本)

四一二

参考までに

至一二、二

支那哲學概論(宇野本)

二三九

 

自一二、三

支那文學史(児島本)

三八一

 

至一二。六

漢文研究者のために

四九六

文學概論書籍解題として

自一二、七

至一二、一三

解釈物の総復習

 

 

 

自一二、一一

至一二、一三

設問の総復習

 

 

 

自一二、一五

至一二、二一

四書朱註(博文館本)

二八八三

孟子は時間がなくて出来なかった

 

 

附記

 1十二月六日上京、旅館での一週間の勉強は最も価値大であった。

 2作文は文法さえ徹底して四書がこなれていたら大したことはない様です。私は試験前日四五時間を費やして吉波本の白文時文云々の作文十四五篇をよみ、自分で三文作ってみたのみであった。

 3文法設問の各項は国語科予試の際整理したノートがあったので大助かり。

 4七月末から八月末までは大阪府下の能勢妙見山に避暑(毎日最高二十三四度)し専念左傳研究に没頭大体こんな次第であります。何分皆様の健康と御成功を祈って筆を擱くことにします(大谷氏)。

 

 

    6 六十三歳にて合格

 

(一)受験前の経歴及境遇

 余は山陰道の一部市に生れたものなるが、父は維新の改革の為に潘録に離れ、余の小学校に入りし頃は其の生活もまだ甚しく逼迫せざりしも、四ヶ年の小学課程を卒えて県の師範の附属校中等科に入る頃より漸時左前となりたれば、学校に行きて何でも勉強して偉いものにならねばならぬと思いながらも春さきになると、武者紙鳶を揚げることが至って大好きなる故に、通学せずして野原にて人の紙鳶をかりて揚げ、無我夢中になりて喜んで居りしが、一度より二度、二度より三度と度重なるに従い遂に学校行きは嫌になり、雨天の際には人通の少い家の檐下(のきした)にて落つる雨滴にて、真黒になりし草紙を無茶に濡らして持ち帰りしが、或時祖母より手習草紙を出せと言わるるにより、「何するものか」と怪しみながら、祖母のなす処を見れば、指先を濡し草子の上を擦りしに、水のみ着きしのみなれば大いに叱られしことを今以て記憶せり。之を以て大いに恐れ明日は進まぬ足を強いて前に出して、努めて学校に行きしに、悪太郎の生徒数人、余を見るや否や、「あのバカめが、何を思い出したか来やがった」と、こんな調子なるを以て、二三時間たったかたたぬに帰りて遊びたりき。かかる怠惰放縦の結果は、学年試験に落第となり、受持教員の申渡しによりて退校させらるることになりたり。是余が十一歳の時なりき。

 父は余の退校を命ぜられしを以て大いに怒り勘当すべしと言って青筋を立て頭上より湯気を立てて怒鳴りしも、余を熱愛せる伯母は之を気の毒に思い、幸に伯母の家に道春點の論語近藤圭造氏(?)の十八史略、唐詩選などがありしを以て、誰に問う人もなく、画字引と首っ引して、苦心惨憺して精進せり。かくの如き独学にても、勉強すれば、大なり小なりの本の意味も分って来るにより「漢文は面白いものだ」という念生じ来れり。諺に曰く「好きこそ物の上手なれ」と、好ければそれに親しむし、親しめば種々とより多く分って来る。そうなると愈々面白くなるといった調子になりき。

(二)受験の動機

かくの如くして徐々に漢文を研究する中に、十七歳の時に小学校授業生の試験を受けて幸に首席にパスせしを以て、愈々学問することに興味を覚え、殊に漢文は余の学問の中心となり、恰も蝸牛の歩みを続くる如く徐々に研究を続くる中に文検制度発布せられしを以て一つ是非やっつけようと決心せり。

(三)準備期間と準備法

 何分に授業生の初任給は四円五十銭にて、当今とは違って其の当時は昇給など二三年に一回といった位で、両親を養って行かねばならず、研究すべき本代などは残る筈なく、よしそれが有りしとても、当時は本屋に思わしき本もなく、例の外史や四書などを幾回も幾回も復習して、読書百遍意自通の独学的苦行を続けて、忘れぬようにし、又読書癖をつけようとせしものなりき。殊に現今と違って文検受験生向きの雑誌とて一冊もなき時代なれば僅に供覧せる本を独学にて辿り行くと言った調子なりき。故に準備法と言った如きもの先ず無しといって可なり。

 明治三十二年島根県師範学校第二種講習所に入りて十ケ月講習を修了して初めて尋正の資格を得しが、文検に没頭すれば、何処の学校へ行きても、腰掛教員として、多大の圧迫を受け、その為に、学校の勤務時間には絶対に研究書を読まざる事になし、宿或は学校の宿直室に於いて密に研究せむとすれば来客ありと言った風にて、実に弱らされたり。

 殊に兵庫県に大正五年度に入りしより、一層この圧迫を感ずること甚しかりき。

 而して大正十二年十月を以て小学校教員の職を退きし以後は、其境遇は全く波瀾重畳真に私自身生きた小説と思う位なり。

 東京に出でしは大正十四年の四月と思うが或は新聞配達となり或は筆生となり、或は外交員となり、あらゆる苦心刻骨の境遇にぷつかっても一心未だ嘗て一日たりとも文検一件を忘れず。唯だ最初文検決意の時より一回にて国漢ともに合格せむと望みしが、国漢二科を出願して国語は予試だけパスせしも、本試に落ちしは、所謂流星光底長蛇を逸すのそれよりも尚残念なりき。

 その文検決志の年より合格せし期間を通算すれば、驚く勿れ三十七八年の星霜を経過せしものなり。而して準備法は別に記述すべきことなく、唯だ漢文の指定必読書を中心として、精深に研究せりというに尽く。

(四)参考書と其の読破要領

 参考書は各文献雑誌にて教えられし良書を選んで、講読し、尚足らずと思う点は、図書館に行きて適当と思わるる書物をあさりて補足したりき。読破要領と云うものは無し。何分青年時代より精深に研究する癖つきしを以て甚しき遅読性なれば、指定書の研究に多大の日時を費やして所謂要領のよい受験勉強などせむとすること能わざりき。

(五)受験直前の準備法

 国語科も漢文科とともに、東華堂発行の文部省教員検定受験案内(国語及漢文科)によりて、出題せられし書目の統計をとりで(予試本試とも此の方法による)その最高点のもの程、注意して徹底的に読解することにせり。併かくすれば時間を非常に取るを以て、最初の一回は精深に研究して不審の所、記憶し易からざる所は、しるしをつけ置き、二回目の復習にも其の個所を解釈して見、解釈がつけば、そのしるしを消して更に他のかかる個所に進みて同一方法にて研究するが良法なりと思う。更に委しく言えば余は参考書の註釈を本文の傍に書いて記憶することにせしが、かくすれば覚ゆることはよく覚ゆるが、それでも時間が立てば忘却すること少なからず、寧ろ二回三回四回と前記の方法にて多読することが得策なりとするものなり(老儒生)。

 

 

 

 結び

 

 奮闘の血涙史を読んで血を湧き立たせない者は酔生夢死の徒だ。我々は一分一秒も軽忽にしてはならない。

 「やればきっと誰にでも出来る。」この信念で飽くまでも戦って欲しい。

 もう一息と言う処まで進んで置きながら絶望して断念する様な人々の多いことを衷心から遺憾に思う。

 

 やろう!

 

 やろう!

 

 人生は死ぬまで奮闘してこそ価値がある。無意義な灰色の生活などは呪われてあれ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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最終更新:2023年05月07日 17:56