十八史略 武帝崩ず
2011-12-24 08:46:00 | 十八史略
羊車留まるところ酣宴す
晉代魏十有六年、至太康元年而滅呉、又十年帝崩。帝初即位、嘗焚雉頭裘於太極殿前、以示儉。既而侈緃。後宮數千。常乘羊車。宮人挿竹葉干門、洒鹽以待之。羊車所至、即留酣宴。與羣臣語、未嘗有經國遠謀。自呉既平、謂天下無事、盡去州郡武備。山濤獨憂之。漢魏以來、羌胡・鮮卑降者、多處塞内諸郡。郭欽嘗上疏謂、宜及平呉之威、漸徙内郡雜胡於邊地、峻四夷出入之防、明先王荒服之制。帝不聽。卒爲天下患。帝在位改元者三、曰泰始・咸寧・太康。太子立。是爲孝惠皇帝。
晋、魏に代って十有六年、太康元年に至って呉を滅ぼし、又十年にして帝崩ず。帝初め位に即き、嘗て雉頭裘(ちとうきゅう)を太極殿の前に焚(や)いて、以って倹を示す。既にして侈縦(ししょう)なり。後宮数千あり。常に羊車に乗る。宮人、竹葉を門に挿しはさみ、塩を洒(そそ)いで以って之を待つ。羊車の至る所、即ち留まって酣宴(かんえん)す。群臣と語るに、未だ嘗て経国の遠謀有らず。呉既に平らぎしより、天下無事なりと謂いて、尽く州郡の武備を去る。山濤独り之を憂う。漢魏以来、羌胡(きょうこ)・鮮卑(せんぴ)の降る者、多く塞内の諸郡に処(お)る。郭欽(かくきん)嘗て上疏(じょうそ)して謂う「宜しく呉を平らぐるの威に及んで、漸(ようや)く内郡の雑胡を辺地に徙(うつ)し、四夷(しい)出入の防ぎを峻(たか)くし、先王荒服(こうふく)の制を明らかにすべし」と。帝聴かず。卒(つい)に天下の患(うれ)いを為す。帝、位に在って改元すること三、泰始・咸寧(かんねい)・太康と曰う。太子立つ。是を孝惠皇帝と為す。
雉頭裘 雉の頭の毛でつくった防寒衣。 侈縦 ぜいたくをほしいままにする。 酣宴 酒宴。 経国 国を治めること。 荒服の制 都から最も遠い地域、異民族の居住地区分、五服。
晋、魏に代って十六年、太康元年に呉を滅ぼし、又十年にして帝崩じた。(290年)帝は当初、雉の頭の羽で織った外套を太極殿の前で焚いて節倹の範を示したこともあったが、次第に奢侈にふけるようになった。後宮には宮女数千人を置き、羊に引かせた車で往来していた。宮女たちは竹の葉を門に挿し、塩を振って帝を待った。羊が立ち止まるとそこで酒宴を開くのである。群臣との間で国の経営の遠謀を語ることもなくなり、呉を平定してからは、もはや天下泰平であるからと、州郡の備えを去ってしまった。山濤独りがこれを憂慮した。漢魏以来羌族や鮮卑族の降伏した者が国内に多く住みついていた。郭欽は嘗て上疏して「呉を平定した威光が衰えないうちに、内地に住む異民族を辺地に移し、四方の夷狄の出入りを厳重に防ぎ、先王の定められた五服の区分を明確にすべきであります」と申し上げたが、帝は耳をかさなかった。これが後々天下の禍根となった。武帝は在位中改元すること三回、泰始・咸寧・太康といった。太子が即位した。これが孝恵皇帝である。
十八史略 恵帝
2011-12-27 08:42:17 | 十八史略
この座惜しむ可し
孝惠皇帝名衷、性不慧。爲太子時、納妃賈氏。充之女也。多權詐。衞瓘嘗侍武帝、陽醉跪于前、以手撫床曰、此座可惜。武帝悟、密封尚書疑事、令太子決之。賈氏大懼、倩外人具草代對、令太子自寫。武帝悦得不廢。至是即位。賈氏爲皇后預政。皇太后楊氏、乃帝母楊后之從妹。父駿爲太傅。賈后殺駿而廢太后、殺太宰汝南王亮、殺太保衞瓘、殺楚王瑋、以衆望用張華・裴頠・王戎、管機要。華盡忠帝室。后雖凶險、猶知敬重、與頠同心輔政。數年之、雖暗主在上、而朝野安靜。
孝惠皇帝、名は衷(ちゅう)、性不慧(ふけい)なり。太子たりし時、妃賈氏(かし)を納(い)る。充の女(むすめ)なり。権詐(けんさ)多し。衞瓘(えいかん)、嘗て武帝に侍し、陽(いつわ)り酔うて前に跪(ひざまづ)き、手を以って床(しょう)を撫(ぶ)して曰く「この座、惜しむ可し」と。武帝悟り、尚書の疑事(ぎじ)を密封し、太子をして、之を決せしむ。賈氏大いに懼れ、外人を倩(やと)い、草(そう)を具して代って対(こた)えしめ、太子をして自ら写さしむ。武帝悦(よろこ)び、廃せざるを得たり。是(ここ)に至って即位す。賈氏、皇后と為って政(まつりごと)に預かる。皇太后楊氏は乃ち帝の母楊后(ようこう)の従妹なり。父の駿は太傅(たいふ)たり。賈后、駿を殺して、太后を廃し、太宰(たいさい)汝南王亮を殺し、太保(たいほ)衞瓘(えいかん)を殺し、楚王瑋(い)を殺し、衆望を以って張華・裴頠(はいき)・王戎を用いて、機要(きよう)を管せしむ。華、忠を帝室に尽す。后、凶険なりと雖も、猶敬重(けいちょう)することを知り、頠と心を同じうして政を輔(たす)く。数年の間、暗主上(かみ)に在りと雖も、而も朝野(ちょうや)安静なり。
不慧 慧はさとい事。 権詐 いつわり。 陽 うわべ。 床 牀、寝台。 疑事 判断しがたい事。 外人 部外の人。 草を具し 草稿を用意する。 太傅 三公の一、天子の補佐役太師の次位。太宰 百官の長、総理大臣。 太保 三公の一、天子や皇太子の教育係、太傅の次位。 機要 枢機。
孝惠皇帝、名は衷で生来愚鈍であった。皇太子だった時、賈充の娘を妃としたが、いつわりの多い女だった。ある時、衞瓘が武帝と酒のお相手をしていた時、酔った振りをしてへたれこみ、帝の寝台を擦りながら「もったいないことですなあ、この座を」とつぶやいた。武帝はそれと悟って、尚書から上奏された事案を密封して、太子にこれを裁決させてみる事にした。妃の賈氏はおおいに懼れて外部の者に手をまわして、決裁の草稿を作らせ、太子の自筆で写しとらせた。武帝はそれを見て出来栄えに満足して、廃嫡を免れた。
太子が即位すると、賈妃は皇后となり、政治に参画するようになった。
恵帝の生母楊后は早世したため、いとこを次の皇后にした(皇太后)。その父の楊駿が太傅となっていたが、賈后は楊駿を殺し、皇太后を廃して庶人にした。又太宰の汝南王司馬亮を殺し、太保の衞瓘を殺し、楚王司馬瑋をもつぎつぎに殺した。そして衆望をあつめる張華・裴頠・王戎を用いて枢機にあずからせた。とりわけ張華は帝室に忠誠をつくした。賈皇后は凶悪陰険であったが、それでも人をうやまい尊重することは心得ていた。張華と裴頠は心をあわせて政治を補佐したから、数年間は暗君を戴いているとはいえ、朝廷も世間も安穏な日がつづいた。
十八史略 晋朝混乱す
2011-12-29 08:51:41 | 十八史略
太子遹非賈后所生。后廢殺之。征西大將軍趙王倫、矯詔勒兵入宮、廢后殺之、殺張華・裴頠。倫爲相國。淮南王允、率兵討倫、不克死。倫殺衞尉石崇。崇有愛妾緑珠。倫嬖人孫秀求之。不與。秀誣崇、奉允爲亂。収之。崇曰、奴輩利吾財耳。収者曰、知財爲禍、何不早散之。遂被殺。倫自加九錫、逼帝禪位。黨與皆爲卿相、奴卒亦加爵位。毎朝會、貂蝉盈坐。時人語曰、貂不足、狗尾續。齊王冏鎭許昌、成都王頴鎭鄴、河王顒、鎭關中。各擧兵討倫。倫伏誅。
太子遹(いつ) 賈后の生む所に非らず。后、廃して之を殺す。征西大将軍趙王倫(りん)、詔を矯(いつわ)り、兵を勒(ろく)して宮に入り、后を廃して之を殺し、張華・裴頠(はいき)を殺す。倫、相国と為る。淮南王允いん)、兵を率いて倫を討つ。克たずして死す。倫、衞尉石崇(せきすう)を殺す。崇に愛妾緑珠あり。倫の嬖人(へいじん)孫秀、之を求む。与えず。秀、崇を誣(し)う、「允を奉じて乱をなさんとす」と。之を収(とら)う。崇曰く、「奴輩、吾が財を利するのみ」と。収うる者曰く、「財の禍たるを知らば、何ぞ早く之を散ぜざる」と。遂に殺さる。倫、自ら九錫を加え、帝に逼(せま)って位を禅(ゆず)らしむ。党与(とうよ)皆卿相(けいしょう)と為り、奴卒(どそつ)も亦爵位を加う。朝会(ちょうかい)する毎に、貂蝉(ちょうせん)坐に盈(み)つ。時人(じじん)語して曰く、「貂足らず、狗尾(こうび)続(つ)ぐ」と。斉王冏(けい)、許昌に鎮(ちん)し、成都王頴(えい) 鄴(ぎょう)に鎮し、河間王顒(ぎょう)、関中に鎮す。各々兵を挙げて倫を討つ。倫、誅に伏す。
衞尉 九卿の一、宮城防衛を司った。 嬖人 気に入りの家来。 誣う 誣告、事実を偽って、告訴する。 吾が財 愛妾緑珠のこと。 貂蝉 てんの尾と蝉の翅で飾った冠、高位高官。
十八史略 三語の掾
2011-12-29 08:51:41 | 十八史略
三語の掾
戎與時浮沈、無所匡救。性復貪吝。田園遍天下。執牙籌晝夜會計。家有好李。恐人得其種、常鑚其核。凡所賞抜、專事虡名。阮咸之子瞻見戎。戎問曰、聖人貴名教、老莊明自然。其旨異同。瞻曰、將無同。戎咨嗟良久。遂辟之。時號三語掾。是時王衍・樂廣、皆善清談。衍神情明秀。少時山濤見之曰、何物老嫗、生寧馨兒。然誤天下蒼生者、未必非此人也。衍弟澄、及阮咸・咸從子脩・胡毋輔之・謝鯤・畢卓等、皆以任放爲達、醉裸不以爲非。比舎郎釀熟。卓夜至甕盜飮、爲守者所縛。旦視之畢吏部也。樂廣聞而笑之曰、名教中自有樂地。何必乃爾。初魏時、何晏等立論。以天地萬物、皆以無爲本。衍等愛重之。裴頠著崇有論、不能救。
戎(じゅう)、時と与(とも)に浮沈し、匡救(きょうきゅう)する所無し。性、復貪吝(たんりん)なり。田園天下に遍(あまね)し。牙籌(がちゅう)を執(と)って昼夜会計す。家に好李有り。人の其の種を得んことを恐れて、常に其の核を鑚(き)る。凡そ賞抜(しょうばつ)する所、専(もっぱ)ら虚名を事とす。阮咸(げんかん)の子瞻(せん)戎に見(まみ)ゆ。戎問うて曰く、「聖人は名教を貴び、老荘は自然を明らかにす。其の旨異なるか、同じきか」と。瞻曰く、「将(はた)同じこと無からんや」と。戎、咨嗟(しさ)すること良(やや)久し。遂に之を辟(め)す。時に三語の掾(えん)と号す。是(こ)の時、王衍(おうえん)・樂廣(がくこう)、皆清談を善くす。衍、神情(しんじょう)明秀なり。少(わか)き時、山濤之を見て曰く、「何物の老嫗(ろうう)か寧馨兒(ねいけいじ)を生める。然れども天下の蒼生(そうせい)を誤る者は、未だ必ずしも此の人に非らずんばあらざるなり」と。衍の弟澄(ちょう)、及び阮咸・咸の従子脩・胡毋輔之(こぶほし)・謝鯤(しゃこん)・畢卓(ひったく)等、皆任放を以って達(たつ)と為し、酔裸(すいら)して以って非と為さず。舎を比(なら)ぶる郎が醸熟す。卓、夜、甕の間に至って盗み飲み、守者の縛する所と為る。旦(あした)に之を視れば畢吏部なり、樂廣聞いて之を笑って曰く、「名教(めいきょう)の中自(おのずか)ら楽地有り。何ぞ必ずしも乃(すなわ)ち爾(しか)るや」と。初め魏の時、何晏(かあん)等論を立つ。以(おも)えらく、天地万物、皆無を以って本と為すと。衍等之を愛重(あいちょう)す。裴頠(はいき)、崇有論(すうゆうろん)を著(あら)わせども、救うこと能わず。
匡救 悪いところをただし救う。 貪吝 むさぼり、出し惜しみ。 田園 田畑。 牙籌 象牙で作ったそろばん。 鑚る 穴を開ける。 賞抜 賞誉抜擢すること。 名教 人として守るべき道を明らかにする教え、儒教。 咨嗟 ためいきをつく。 辟す 官吏に取り立てる。 掾 三等官、した役。 神情 顔色容姿。 寧馨兒 寧馨はこのような、神童。 蒼生 人民。 比舎 隣家。
王戎は時勢と共に移り変わる人物で、悪政をただし世を救うことをせず、利を貪り、施すことをしなかった。至る所に田畑を持ち、昼夜を分かたず、象牙のそろばんを弾いていた。家に良い実をつけるすももの木があったが、その種が人の手に渡るのを恐れて、いつも種に穴をあけていた。人を抜擢するときも虚名を重んじた。阮咸の子の阮瞻と会ったとき、王戎が「聖人は人として守るべき道を教え、老荘は無為自然を教えたが、その本質は異なるのか、はた同じであるのか」と問うた。阮瞻は「どうして同じでないといえましょうか」と答えた。王戎はしばし、ためいきをついていたが、遂に瞻を取り立てた。世間では{三語の役人}と呼んだ。
この頃、王衍・楽広らが清談にかぶれていた。王衍は顔つきが端正で、若い頃山濤がこれを見て「どんな母親だろうかこのような子をうんだのは。しかし後々天下の人々を誤らせるのはきっとこの人に違いない」と言った。
王衍の弟王澄、及び阮咸・咸の甥の阮脩・胡毋輔之・謝鯤・畢卓等は皆気ままな振るまいを闊達であるとして、酔って裸になることも平気だった。隣の家の酒がちょうど飲み頃になったのを知り、夜更けに忍び込んで盗み飲みをしていて、番人に見つかり縛りあげられてしまった。朝になって視ると吏部郎の畢卓であった。楽広がこれを聞いて「聖人の説く名教の中にだって、自ずと楽しい境地があるというのに、何もこんなことまでしなくて良いのに」と笑って言った。
嘗て魏の時代に何晏等が天地万物すべて 無 を根本であるという論を立てた。王衍らはこの節を信奉していた。そこで裴頠が崇有論を著したが、世の風潮を変えることはできなかった。
十八史略 八王の乱
2012-01-05 16:22:49 | 十八史略
冏輔政。驕奢擅權。顒使長沙王乂殺之。頴亦恃功驕奢。已而與顒擧兵反。乂奉帝及頴戰。頴將陸機戰敗被収。歎曰、華亭鶴唳可復聞乎。與弟雲、皆爲頴所殺。機・雲皆陸抗子也。頴進兵入京師、爲丞相。已而還鄴。顒表頴爲皇太弟。東海王越、奉帝命征頴。頴遣兵拒戰于蕩陰。乘輿敗績。侍中嵆紹、以身衞帝。被殺、血濺帝衣。頴迎帝入鄴。左右欲浣帝衣。帝曰、嵆侍中血、勿浣也。頴奉帝還洛。顒將張方在洛、遷帝於長安。顒廢太弟頴、更立豫章王熾爲太弟。東海王越發兵、西入長安、奉帝還洛、以越輔政。成都王頴、先據洛陽。已而奔長安、又自武關奔新野、遂北濟河、収故將士、爲頓丘太守所執。時范陽王虓據鄴。送頴於虓。未幾被殺。
冏(けい)、政(まつりごと)を輔(たす)く。驕奢(きょうしゃ)にして権を擅(ほしいまま)にす。顒(ぎょう)、長沙王乂(かい)をして之を殺さしむ。頴(えい)も亦驕奢なり。已(すで)にして顒と兵を挙げて反す。乂、帝を奉じて頴と戦う。頴の将陸機、戦い敗れて収(とら)えらる。歎じて曰く、「華亭の鶴唳(かくれい)復た聞く可(べ)けんや」と。弟雲と皆頴の殺す所と為る。機・雲は皆陸抗(りくこう)の子なり。頴、兵を進めて京師に入り、丞相と為る。已にして鄴(ぎょう)に還る。顒、頴を表して皇太弟と為す。東海王越、帝の命を奉じて頴を征す。頴、兵を遣わして蕩陰に拒(ふせ)ぎ戦う。乗輿(じょうよ)敗績(はいせき)す。侍中嵆紹(けいしょう)、身を以って帝を衛(まも)る。殺さる。血、帝の衣に濺(そそ)ぐ。頴、帝を迎えて鄴に入る。左右、帝の衣を浣(あら)わんと欲す。帝曰く「嵆侍中の血なり、浣うこと勿れ」と。頴、帝を奉じて洛に還る。顒の将張方、洛に在り、帝を長安に遷(うつ)す。顒、太弟頴を廃して、更に予章王熾(し)を立てて太弟と為す。東海王越、兵を発して西のかた長安に入り、帝を奉じて洛に還り、越を以って政を輔けしむ。成都王頴、先に洛陽に拠(よ)る。已にして長安に奔(はし)り、又、武関より新野に奔り、遂に北のかた河を済(わた)り、故(もと)の将士を収め、頓丘(とんきゅう)太守の執(とら)うる所と為る。時に、范陽王虓(こう)鄴に拠る。頴を虓(こう)に送る。未だ幾(いくばく)ならずして殺さる。
華亭 江蘇省松江県、陸機の領内。 鶴唳 鶴の鳴き声。 乗輿 天子の乗物、転じて天子。 敗績 大敗して過去の功績を失うこと。 侍中 天子の顧問官。
斉王司馬冏(しばけい)が朝政の補佐にあたったが、驕りたかぶって権勢をほしいままにした。司馬顒(しばぎょう)は長沙王司馬乂(しばかい)に冏を殺させた。司馬頴(しばえい)もまた、司馬倫討伐の功をたのんで驕奢になり、やがて司馬顒と共に兵を挙げて恵帝に謀叛した。司馬乂は帝を奉じて司馬頴らと戦ったがこの時、頴の部将の陸機は、敗戦の罪に問われ「華亭の鶴の鳴き声を聞くことができなくなった」と歎息して弟の陸雲とともに、頴に殺された。二人は嘗ての呉将陸抗の子である。その後、頴は兵を進めて京師に入り、丞相となったが、やがて鄴に還った。司馬顒は帝に上奏して頴を皇太弟にした。東海王の越は、恵帝の詔を奉じて頴を征伐した。頴は兵を遣わして蕩陰で防戦した。この戦いに帝の軍が惨敗した。侍中の嵆紹が身体を張って帝を庇って殺された。血しぶきが帝の衣にかかった。司馬頴は恵帝を迎え、鄴に入らせた。左右の者が衣を洗おうとしたところ、恵帝はそれをおしとどめて、「嵆侍中の血なり洗ってはならぬ」と命じた。やがて司馬頴は恵帝を奉じて洛陽に還った。洛陽にた司馬顒の部将の張方が恵帝を長安に遷した。そして司馬頴を太弟を廃し、代わりに予章王司馬熾を立てて皇太弟とした。東海王の司馬越は再び兵を挙げて西に向かい長安に入り、恵帝を奉じて洛陽に還った。そして司馬越が政治を補佐した。それまで洛陽を占拠していた司馬頴は長安へ逃れ、さらに武関から新野へ逃れた後、北上して黄河を渡り、もとの部下の将士を糾合して倦土重来を期したが、頓丘太守に捕えられてしまった。当時范陽王の司馬虓が鄴に拠っていた。頴は司馬虓のもとに送られ、間もなく殺された。
十八史略 恵帝、華林園に蛙鳴を聞く
2012-01-07 08:46:41 | 十八史略
天下大いに乱る
帝食麺中毒而崩。或曰、東海王越鴆之也。帝昏愚。天下大饑。帝曰、何不食肉糜。華林園聞蛙鳴。帝曰、彼鳴者糜、爲官乎、爲私乎。左右戲之曰、在官地者爲官、在私地者爲私。方賈氏專政、時人知將亂。索靖指洛陽宮門銅駝、歎曰、會見汝在荊棘中耳。趙王倫亂後、諸王迭相殘滅、天下大亂。
帝、麺を食らい、毒に中(あた)って崩ず。或ひと曰く、「東海王越、之を鴆(ちん)するなり」と。帝昏愚なり。天下大いに餞(う)う。帝曰く、「何ぞ肉糜(にくび)を食らわざる」と。
華林園に蛙鳴(あめい)を聞く。帝曰く、「彼(か)の鳴く者は、官の為にするか、私の為にするか」と。左右、之に戯れて曰く、「官地に在る者は官の為にし、私地に在る者は私の為にす」と。
賈氏の政を専らにするに方(あた)って、時人、将(まさ)に乱れんとするを知る。索靖(さくせい)洛陽宮門の銅駝(どうだ)を指さして歎じて曰く、「会(かなら)ず、汝が荊棘(けいきょく)の中に在るを見んのみ」と。
趙王倫の乱後、諸王、迭(たが)いに相残滅し、天下大いに乱る
鴆 鴆毒。 肉糜 肉入りの粥。 銅駝 銅製の駱駝像。
恵帝は麺を食べて中毒を起こして死んだ(307年)。東海王司馬越が鴆毒を盛って殺したという人もいた。
恵帝は暗愚の性質と思われていた。天下が飢饉にあえいでいた年、帝は「米が無いのならどうして肉粥を食べないのか」と言われた。また華林園に遊んだとき、蛙の声を聞き、左右の者にこう言った。「あの蛙は役目と心得て鳴いているのか、それとも勝手に鳴いているのか」と。側近の者はあきれて「官の土地にいる蛙は 官の為に鳴いています。私有地にいる蛙は自分の為に鳴いております」と半ばあなどって答えた。
賈后が朝政を左右するようになって、当時の人々は世が乱れはじめたことを知った。索靖という者が、洛陽宮の門前の駱駝の銅像を指さし、「きっと廃墟の草むらにお前だけが立っていることだろうよ」と歎息した。果たして趙王司馬倫の乱の後、諸王が互いに攻め合い滅ぼし合って、天下は大いに乱れた。
十八史略 匈奴国を興す
2012-01-10 08:39:49 | 十八史略
劉淵興于左國城。淵故南匈奴之後。匈奴由漢魏以來臣中國。其先世自以漢甥冒漢姓。父豹爲左部帥。生淵。幼而雋異、博習經史。嘗曰、吾恥随陸無武、遇高帝而不能建封侯業、絳灌無文、遇文帝而不能興庠序之教。豈不惜哉。於是兼學武事。姿貌魁偉。初爲侍子在洛。豹死。武帝以淵代爲五部帥。既而爲北部都尉。五部豪傑多歸之。及帝世、以爲五部大都督。成都王頴、表爲左賢王。嘗使將兵在鄴。
劉淵、左国城に興る。淵は故(もと)の南匈奴の後(のち)なり。匈奴は漢魏より以来、中国に臣たり。其の先世、自ら漢の甥(そう)なるを以って漢の姓を冒(おか)す。父豹、左部の帥(すい)たり。淵を生む。幼にして雋異(しゅんい)、博く経史を習う。嘗て曰く、「吾、随陸(ずいりく)、武無く、高帝に遇えども封侯の業を建つる能(あた)わず絳灌(こうかん)、文無く、文帝に遇えども庠序(しょうじょ)の教えを興す能わざるを恥ず。豈惜しからずや」と。是(ここ)に於いて、武事を兼ね学ぶ。姿貌(しぼう)魁偉(かいい)。初め、侍子(じし)と為り、洛に在り。豹死す。武帝、淵を以って代わって、五部の帥と為す。既にして北部都尉と為る。五部の豪傑、多く之に帰す。帝の世に及んで、以って五部の大都督と為す。成都王頴(えい)、表して左賢王と為す。嘗て兵に将として鄴(ぎょう)に在らしむ。
左国城 山東省の地名。 漢の甥 漢の外孫(匈奴の祖冒頓単于が漢の高祖から娘?をもらったから)。 雋異 雋はすぐれる、秀才。随陸 漢の随何と陸賈、学問を以って高祖に仕えた。 絳灌 漢の降侯周勃と灌嬰 共に文帝に仕えて武功があった。 庠序 学校、周で庠といい、殷では序といった。 姿貌魁偉 姿容貌が大きく立派なさま。 侍子 諸侯や匈奴の王が天子の側に差し出した人質。 五部の帥 嘗て曹操が匈奴を左右前後中に分けたが、そのすべてのかしら。 都尉 軍司令官。 大都督 総司令官。 左賢王 匈奴の貴族の称号。
劉淵が左国城に国を興した(304年、後に前趙となる)。劉淵は南匈奴の単于の後裔である。漢魏時代より臣として仕えていた。その昔、漢の外孫となったことから、劉の姓を名乗り漢王と称していた。父の劉豹は匈奴左部の統領であった。その子として生まれた劉淵は幼少の頃から人にすぐれ、経書、史書を博く学んだ。嘗てこう言ったことがある。「あの漢の随何と陸賈は武勇に欠け、高帝の時代に遇いながら、諸侯となることができず、降侯周勃と灌嬰は学問が無かったばかりに、文帝の世に遇いながら教育を振興することが出来なかったことが気がかりで、惜しまれて仕方ない」と言って、武の道もおろそかにしなかった。淵は姿顔立ちが大きく立派だった。初めは人質として洛陽にいたが、父の劉豹が亡くなったので、武帝は淵を匈奴五部の統帥とした。やがて北部の都尉となったが、多くのおもだった者は淵に心服した。恵帝の世になって、五部大都督に任じ、さらに司馬頴の上表によって左賢王に封じた。嘗ては兵を率いて鄴に駐在したこともあった。
十八史略 劉淵・劉聡・劉曜
2012-01-12 09:13:45 | 十八史略
淵子聰、亦驍勇絶人、博渉經史善屬文、彎弓三百斤。淵從祖宣曰、漢亡以來、我單于徒有虡號、無復尺土。自餘王侯、降同編戸。今吾衆雖衰、猶二萬。奈何斂手受役、奄過百年。司馬氏骨肉相殘、四海鼎沸。左賢王英武超世。復呼韓邪之業、此其時也。乃相與謀推之。淵説頴。請帥五部來助。既至左國城、宣等推爲大單于。二旬衆五萬、都離石。胡晉歸之者愈衆。乃建國號曰漢、稱漢王。淵有族子曜、生而眉白、目有赤光。幼聰慧、有膽量。亦好讀書屬文。射能洞鐵七寸。至是爲淵將。
淵の子聡、亦驍勇(ぎょうゆう)人に絶す。博く経史に渉(わた)り、善く文を属(しょく)し、弓三百斤なるを彎(ひ)く。淵の従祖(じゅうそ)宣曰く、「漢亡んでより以来、我が単于、徒(いたずら)に虚号あって、復尺土(せきど)無し。自余(じよ)の王侯、降って編戸(へんこ)に同じ。今、吾が衆、衰えたりと雖も、猶二万あり。奈何(なん)ぞ、手を斂(おさ)めて役を受け、奄として百年を過ごさんや。司馬氏、骨肉相残(そこな)い、四海鼎沸(ていふつ)す。左賢王、英武世に超ゆ。呼韓邪の業を復せんは、此れその時なり」と。乃(すなわ)ち相与に謀って之を推す。淵、頴に説く、「請う帰って五部を帥(ひき)いて来り助けん」と。既に左国城に至れば、宣等推して大単于と為す。二旬の間に衆五万、離石に都(みやこ)す。胡・晋の之に帰する者愈々衆(おお)し。乃ち国号を建てて漢と曰い、漢王と称す。淵、族子曜有り、生まれながらにして眉白く、目に赤光あり。幼にして聡慧、胆量あり。亦た好んで書を読み文を属(しょく)す。射は能く鉄を洞(どう)すること七寸。是に至って淵の将となる。
驍勇 勇ましく強い。 属 つづる。 弓三百斤 弓の強さ、常人の2倍にあたる。 従祖 祖父母の兄弟。 自余 その外。 編戸 戸籍に編入すること、平民。 斂め ちじこめる、こまねく。 奄 塞がる、絶え入る。 鼎沸 かなえの湯が沸騰する。 呼韓邪 呼韓邪単于、漢の宣帝の時、匈奴を統一した。 族子 従弟の子。 洞 穴をあける。
劉淵の子劉聡もまた人にすぐれて勇猛であり、経書、史書にも通暁し、文章を綴ることもたくみで、さらに三百斤の弓を引く膂力をもっていた。
劉淵の祖父の兄弟の宣が言うことには「漢が亡んでよりこの方、単于とはただ名ばかりで、一尺の土地も無い。他の王侯にいたっては落ちぶれて平民になった者もいる。いまわが部族は衰えたりとえどもまだ二万を擁している。手をこまねいて使役を甘んじて受け、このまま空しく一生を送ってよいものか。司馬氏は骨肉の争いに明け暮れて、天下は乱れ沸きかえっている。わが左賢王は英明武勇世に並ぶべき者がない。古の呼韓邪単于の偉業を再び達成するのは今をおいてない」と。匈奴の主だった者が相談して淵を統領に推した。劉淵は司馬頴に説いて「一旦国に帰って、五部の兵を率いて戻り助力いたしましょう」と申し出た。こうして劉淵が左国城に帰ると、宣等は劉淵を推して大単于とした。二十日ほどで五万人が集結した。淵は離石に都を開いた。匈奴、晋の別なく淵に帰服する者がますます多くなった。そこで国号を漢と定め、漢王と称した。
淵の兄弟の子に曜という者がいたが、生まれつき眉が白く、眼に赤い光を宿していた。幼少の頃から利発な上に、胆力度量があり、また読書を好み、文章もよくした。弓を取れば七寸の鉄板を射ぬくほどの力を持っていた。曜もこの時淵の部将になった。
十八史略 氐姜の李氏・鮮卑の慕容氏の勃興
2012-01-14 17:37:14 | 十八史略
巴西氐李特、初以流民入蜀。旬月衆二萬。據廣漢、進攻成都、爲刺史羅尚所敗、斬其首。弟流代領其衆。勢復盛。流死。弟雄代、攻走羅尚、入成都。至是自稱成都王。
鮮卑慕容廆、自武帝時已爲寇。既而降。以爲鮮卑都督。廆生皝。自遼東徙居徒河、又徙大棘城。及帝世、慕容部愈盛。
巴西(はせい)の氐(てい)李特(りとく)、初め流民を以(ひき)いて蜀に入る。旬月にして衆二万。広漢に拠(よ)り、進んで成都を攻め、刺史羅尚(らしょう)の敗る所と為り、其の首を斬らる。弟流、代って其の衆を領す。勢い復盛んなり。流死す。弟雄代り、攻めて羅尚を走らせ、成都に入る。是に至って自ら成都王と称す。
鮮卑(せんぴ)の慕容、廆(ぼようかい)、武帝の時より已に寇(あだ)を為す。既にして降る。以って鮮卑の都督と為す。廆、皝(こう)を生む。遼東より徙(うつ)って徒河に居り、又大棘城(だいきょくじょう)に徙る。帝の世に及び、慕容の部愈々盛んなり。
巴西 四川省中部。 氐 氐姜、チベット系遊牧民族。 広漢 四川省遂寧県。 刺史 地方監察官。 鮮卑 モンゴル系遊牧民三国時代に慕容・宇文・拓跋などの部族に分裂した。
巴西郡の氐族の李特は初め流民を率いて、蜀に入ってきた。十ヶ月ほどの間に二万人にもふくれあがった。広漢郡を根城にして、成都を攻めたが刺史の羅尚に破れて首を斬られた。弟の李流が後を継いで勢力をもりかえした。李流が死ぬとまた弟の李雄が後をつぎ、羅尚を破って逃走させて成都を占拠して自ら成都王と称した(304年)。
鮮卑族の慕容、廆は武帝の時から辺境を侵していたが、すでに晋に帰順して鮮卑の都督となっていた。慕容廆の子が皝である。遼東から徒河に、さらに大棘城に移った(294年)。恵帝の時代に慕容氏の部族は大いに盛んになった。
1. 十八史略 鮮卑の拓跋氏興る (2012-01-17 13:45:20)
鮮卑索頭拓跋氏、先是有質子在晉。武帝遣歸。既而拓跋力微、又遣其子入貢。力微死。子悉禄官立。及帝世、索頭分國爲三部。一居上谷之北、禄官自統之。一居代郡參合陂之北、使兄子猗■統之。一居定襄之盛樂故城、使猗■弟猗盧統之。晉人附者稍衆。猗■渡漠北巡。西略諸國。降附者三十餘國。拓跋氏之盛始於此。夷狄亂華之禍、皆萌蘖於韓・魏・晉、至帝之世、乘中國大亂、始四起。
帝在位十七年、改元者五、曰元康・永康・太安・永興・光熙。太弟立。是爲孝懐皇帝。
鮮卑の索頭(さくとう)拓跋氏(たくばつし)、是より先、質子(ちし)有って晋に在り。武帝遣(や)り帰す。既にして拓跋力微(りょくび)、又其の子を遣わして、入貢(にゅうこう)せしむ。力微死す。子、悉禄官(しつろくかん)立つ。帝の世に及んで、索頭、国を分かって三部と為す。一は上谷の北に居り、禄官自ら之を統(す)ぶ。一は代郡参合陂(たいぐんさんごうは)の北に居り、兄の子猗它(いだ)をして之を統べしむ。一は定襄の盛楽故城に居り、猗它の弟猗盧(いろ)をして之を統べしむ。晋人(しんひと)の附く者稍(やや)多し。猗它、漠(ばく)を渡って北巡し、西のかた諸国を略す。降り附く者、三十余国。拓跋氏の盛んなる、此に始まる。夷狄(いてき)、華を乱るの禍は皆、漢・魏・晋の間に萌蘖(ほうげつ)し、帝の世に至って中国の大乱に乗じて始めて四(よも)に起これり。帝在位十七年、改元する者(こと)五、元康・永康・太安・永興・光熙と曰(い)う。太弟立つ。是を孝懐皇帝と為す。
索頭 鮮卑の一種族。 拓跋氏 拓跋力微には沙漠汗、悉鹿、綽(しゃく)、禄官がいたが長子沙漠汗は謀略により殺され、次子悉鹿が後を継いだ。その後は綽―弗(沙漠汗の三男)―禄官―猗盧と続いた。 悉禄官 禄官か悉鹿か不明、悉鹿ならば277年、禄官ならば295年。 猗■ ■は施のつくり部分。宋書には猗駞と書かれるが仮に它と表記する。沙漠汗の長子。 漠 沙漠。 萌蘖 きざし、萌めばえと蘖ひこばえ。
鮮卑の支族索頭部の拓跋氏は、以前子を人質として晋に入れていたが、武帝はその子を送り還してやった。やがて拓跋力微は長子砂漠汗を質子として遣わした。その力微が死んだ。後に子の悉禄官が立った。恵帝の時代に入って、索頭は国を三部に分けた(299年)。ひとつは上谷の北、禄官自ら統治した。一つは代郡の参合陂の北、これは兄砂漠汗の子の猗它を頭にした。もう一つは定襄の盛楽故城に猗它の弟猗盧を遣った。晋の人で拓跋氏に従う者が次第に増えてきた。猗它はその後沙漠を渡り、北方を巡って、西の諸国を攻略した。降伏して帰順したものが三十国余りにのぼった。拓跋氏の隆盛はここに始まった。
異民族が中華を乱す禍いは漢・魏・晋を通じて兆し恵帝の代になって中国の大乱に乗じて、始めて四方から起こったのである。
恵帝は在位十七年、改元する者(こと)五回、元康・永康・太安・永興・光熙である。皇太弟が後を嗣いだ。これを孝懐皇帝という。
2. 十八史略 孝懐皇帝 (2012-01-19 13:53:55)
孝懐皇帝名熾。當恵帝之十五年、武帝子二十五人、兄弟相屠之餘、存者三人而已。熾其一也。素好學。故立爲太弟。至是即位。
成都王李雄稱帝、國號成。
漢主劉淵稱帝、徙都平陽。遣其子聰及石勒等、攻晉内郡、以至洛陽。勒武郷羯人也。先是嘗至洛陽、倚上東門長嘯。王衍識其有異。後爲寇、已而從漢。
漢王淵卒。子和立。聰弑而代之。
孝懐皇帝名は熾(し)。恵帝の十五年に当って、武帝の子二十五人、兄弟(けいてい)相屠(ほふ)るの余り、存する者三人のみ。熾は其の一也。素(もと)より学を好む。故に立って太弟と為る。是(ここ)に至って即位す。
成都王李雄、帝と称し、国を成と号す。
漢主劉淵、帝と称し、徙(うつ)って平陽に都(みやこ)す。其の子聡及び石勒(せきろく)等を遣わして、晋の内郡を攻め、以って洛陽に至らしむ。勒は武郷の羯人(けつじん)なり。是より先、嘗て洛陽に至り、上東門に倚(よ)って長嘯(ちょうしょう)す。王衍(おうえん)、其の異有るを識る。後、寇(こう)を為し、已(すで)にして漢に従う。
漢主淵卒す。子和(か)立つ。聡、弑(しい)して之に代る。
羯人 五胡の一族で山西省に居住した。族長の石勒は後に後趙を建てた。 長嘯 声を長く引いて詩を吟ずる。 寇 あだ、害をくわえる。
孝懐皇帝は名を熾といった。恵帝の十五年目になると、二十五人もいた武帝の子は互いに殺し合って、僅か三人になってしまっていた。司馬熾はその一人で、平生から学問を好んだので、太帝に立てられていたが、ここに至って帝位に即いた。
成都王の李雄は自ら帝と称して国号を成と名乗った。
漢主の劉淵も帝を称して離石から移って平陽を都と定めた。子の聡は石勒を派遣して、晋の内地の諸郡を攻め、洛陽に迫らせた。石勒は武郷の羯族の長で、以前に洛陽に行ったとき、上東門に倚りかかって長嘯していたときがあった。たまたま通りかかった太尉の王衍が、これを聞いて謀反の心を感じ取っていたが、はたして後に晋に攻め入って、間もなく漢主に従った。
漢主の淵が死んで、子の和が立ったが、聡は兄の和を殺して、之に代った。
3. 十八史略 かならず鋒刃を以ってす可からず (2012-01-21 09:10:52)
太傅東海王越、遣兵入宿衞。仍遣使、以羽檄徴天下兵入援。越自帥兵討石勒、卒于軍。勒兵敗越軍、執太尉王衍等。衍自言、少無宦情、不豫世事。《因勸勒稱尊號、冀以自免。勒曰、君少壯登朝、名蓋四海、身居重任、何得言無宦情邪。破壊天下、非君而誰。命左右扶出。衆人畏死、多自陳述。獨襄陽王範神色儼然、顧呵之曰、今日之事、何復紛紜。勒謂孔萇曰》、吾行天下多矣、未嘗見此輩人。尚可存乎。或曰、彼皆晉之王公。終不爲吾用。勒曰、雖然要不可以鋒刃。夜使人排書墻殺之。
漢主聰遣呼延晏、將兵攻洛陽。劉曜・王彌・石勒皆會。遂陥洛陽、執帝送平陽。尋被殺。
帝在位六年。改元者一、曰永嘉。秦王立於長安。是爲孝愍皇帝。
太傅(たいふ)東海王越、兵を遣わし入って宿衛せしむ。仍(よ)って使いを遣わし、羽檄(うげき)を以って天下の兵を徴(め)し、入って援(たす)けしむ。越自ら兵を帥(ひき)いて石勒を討ち、軍に卒(しゅ)っす。勒の兵、越の軍を敗(やぶ)り、太尉王衍等を執(とら)う。衍自ら言う、「少(わか)きより宦情(かんじょう)無く、世事に予(あずか)らず」と。《因(よ)って勒に勧めて尊号を称(とな)え、以って自ら免ぜらるるを冀(ねが)う。勒曰く、「君少壮より朝に登り、名は四海を蓋(おお)う。身は重任に居り、何ぞ宦情無しと言うを得んや。天下を破壊するは君に非ずして誰かせんや」と。左右に命じて扶(ささ)え出だす。
衆人死を畏れ、多くは自ら陳述す。独り襄陽王範、神色儼然(げんぜん)たり。顧み呵(しか)って曰く「今日の事、何ぞ復た紛紜(ふんうん)たる」と。
勒、孔萇(こうちょう)に謂って曰く》「吾、天下を行(めぐ)ることおおけれど、未だ嘗て此の輩の人を見ず。尚存すべきか」と。或る人曰く、「彼皆晋の王公なり。終(つい)に吾が用を為さじ」と。勒曰く「然りと雖も、要(かなら)ず加うるに鋒刃を以ってす可からず」と。夜人をして墻(かき)を排(お)して之を殺さしむ。
漢主聡、呼延晏(こえんあん)を遣わして、兵に将として洛陽を攻めしむ。劉曜・王弥・石勒皆会す。遂に洛陽を陥れ、帝を執(とら)えて平陽に送る。尋(つ)いで殺さる。
帝、在位六年。改元する者(こと)一、永嘉と曰う。秦王長安に立つ。是を孝愍皇帝(こうびんこうてい)と為す。
羽檄 急ぎを示す羽を挿した檄文。 宦情 神色 態度。 儼然 厳然に同じ。 呵 叱ると、嗤うの両方の意味がある。 紛紜 入り乱れる、ごたごたする。 或る人 孔萇。 鋒刃 ほこ、やいば、刃物。 《 》この間は十八史略には無いが、意味の繋がりが不自然なので、資治通鑑(しじつがん)に拠って補填した。
太傅の東海王越が兵を洛陽に派遣して宮中を宿衛させた。さらに使者を出して急ぎの檄をとばして諸国の兵を徴集し、洛陽に送り込んだ。司馬越も自ら兵を率いて、石勒と戦ったが軍中に没した。石勒の兵は越の軍を大敗させて、太尉の王衍等を捕えた。王衍はこの期に及んで延命をこころみた。「自分は若い頃から役所づとめがいやで、世間のことには疎く、まつりごとには預かりませんでした」と。そのうえ石勒に尊号を名乗るよう勧めて、罪を逃れようとした。石勒は「そなたは若年から朝に登り、名は四界にとどろいている。なんで今更役所勤めが本意ではなかったなど言えるのか。晋の天下を滅ぼすのはそなたでなくて誰だと言うのだ」と罵った。左右の者に命じて、王衍を抱え立たせてつれ出した。ともに捕えられた者たちも死罪を恐れてさまざまに述べたてたが、ひとり襄陽王の司馬範だけは、態度が立派で取り乱したところがなく、畏れ慄く者たちを見回して「今日の事は今更しかたないこと、うろたえるでない」と叱った。石勒は、傍らの孔萇に「わしは天下をめぐることが多いが、未だ嘗てこのような人物を見たことがない、生かしておくべきか」と言ったところ、石勒は「彼らは皆晋の王公です、生かしておいても、我々のためにはならないでしょう」と答えた。石勒は「そうは言うものの司馬範だけは決して刃物をもって殺してはならぬ」と命じ、夜、塀を押し倒して殺した。
漢主の聡は、呼延晏という者を派遣して、兵に将として洛陽を攻めさせた。劉曜・王弥・石勒等の軍が皆合流し、遂に洛陽を陥れて帝を捕えて平陽に送った。間もなく命を奪った(313年)
懐帝は在位六年、改元すること一回、永嘉である。秦王が長安で即位した。孝愍皇帝である。
4. 十八史略 西晋の終焉 (2012-01-24 09:48:53)
孝愍皇帝名業。呉王晏之子、武帝孫也。封秦王。洛陽既陥、荀藩奉王趨許昌。時年十二。已而索綝迎入雍州。刺史賈疋等、奉爲皇太子、建行臺盗殺疋。麹允領雍州。懐帝凶問至。王即位於長安
石勒遣石虎攻鄴、陥而撽之。
漢屢寇長安。麹允・索綝屢敗之。未幾漢兵連陥諸郡逼長安、先陥外城。麹允・索綝退守小城、内外斷絶。城中饑甚。帝出降。漢將劉曜送平陽。聰享羣臣、命帝著青衣、行酒洗爵、又使執蓋。後遇害。帝在位四年。改元者一、曰建興。西晉自武帝至是凡四世、五十二年。瑯琊王立於建業。是爲中宗元皇帝。
孝愍皇帝名は業。呉王晏(あん)の子、武帝の孫なり。秦王に封ぜらる。洛陽既に陥り、荀藩(じゅんはん)、王を奉じて許昌に趨(はし)る。時に年十二。已にして、索綝(さくちん)、迎えて雍州(ようしゅう)に入る。刺史賈疋(かが)等、奉じて皇太子と為し、行台(こうだい)を建つ。盗、疋を殺す。麹允(きくいん)、雍州を領す。懐帝の凶問(きょうぶん)至る。王、長安に即位す。
石勒、石虎を遣わして鄴(ぎょう)を攻めしめ、陥れてこれに拠(よ)る。
漢、屡しば長安に寇(あだ)す。麹允・索綝屡しば之を敗る。未だ幾(いくばく)ならずして、漢の兵、連(しきり)に諸郡を陥れて、長安に逼(せま)り、先ず外城を陥れる。麹允・索綝、退いて小城を守り、内外断絶す。城中饑(う)うること甚だし。帝、出でて降る。漢の将劉曜、平陽に送る。聡、群臣を享し、帝に命じ、青衣を著(つ)けて、酒を行い爵を洗わしめ、又蓋(がい)を執(と)らしむ。後に害に遇(あ)う。帝、在位四年。改元する者一、建興を曰う。西晋は、武帝より是(ここ)に至るまで、凡(すべ)て四世、五十二年。。瑯琊王(ろうやおう)建業に立つ。是を中宗元皇帝と為す。
行台 臨時朝廷、行在所。 雍州 陜西省南部。 盗 賊。 凶問 凶報。 享し 酒宴を開くこと。 青衣 身分の低い者の衣服。 爵 さかずき。 蓋 日よけの傘。
孝愍皇帝名は業という。呉王晏の子で、武帝の孫にあたる。秦王に封ぜられた。洛陽が陥落したので、荀藩が秦王を奉じて許昌に逃れた。時に業は十二歳であった。やがて索綝が王を迎えて雍州に入った。刺史の賈疋等も、王を立てて皇太子とし、行在所を設けた。後に賈疋が賊に殺されたので、麹允が雍州を統治した。やがて懐帝殺害の報が入ったので、秦王は長安で即位した。
石勒は、石虎を遣わして鄴を攻めさせ、陥落させた。そしてここを根拠にした。
漢軍はたびたび長安を攻めた。麹允・索綝、はその都度撃退していたが、間もなく漢軍は諸郡を陥れて長安に迫り、外城を陥落させた。麹允と索綝は退いて小城に立てこもったが、内外の連絡が絶え、すまじい飢餓が襲った。愍帝は遂に城を出て降伏した。漢の将軍劉曜は帝を平陽に送った。劉聡は戦勝を祝って、群臣を饗応した。その折、帝に命じて賎民の青い衣を着け、酌をさせ、杯を洗わせたり、日よけの傘を持たせて、さんざんに辱めた上ついに殺した。
帝は在位四年で改元すること一回、建興といった。西晋は武帝からここにいたるまで四世、五十二年であった。その後、瑯琊王が建業で即位した。これが中宗元皇帝である。
最終更新:2025年01月04日 22:53