諸葛亮
諸葛亮、字は孔明、琅邪陽都の人なり。漢の司隷校尉諸葛豐の後なり。父は圭、字は君貢、漢末に太山郡丞と為る。亮は早に孤なり、父の玄に従ひて袁術の署する所の豫章太守と為る、玄、亮及び亮が弟均を將て之が官に之く。會ふ、漢朝、更に朱皓を選びて玄に代ふ。玄、素より荊州牧劉表と舊有り、往きて之に依る。〈《獻帝春秋》に曰く、初め、豫章太守周術、病卒す、劉表、諸葛玄を上せて豫章太守と為し、南昌を治む。漢朝、周術の死を聞き、朱皓を遣はして玄に代へしむ。皓、揚州刺史劉繇に從ひて兵を求め、玄を擊つ、玄、退きて西城に屯し、皓、南昌に入る。建安二年正月、西城の民、反き、玄を殺し、首を送て繇に詣る。此の書の云ふ所、本傳と異なる。〉玄卒し、亮、躬ら隴畝を耕し、好んで《梁父吟》を為す。〈《漢晉春秋》に曰く、亮、南陽の鄧縣に家し、襄陽城の西二十里に在り、號して隆中と曰ふ。〉身長八尺、每に自ら管仲、樂毅に比す、時人、之を許さざる也。惟だ博陵の崔州平、潁川の徐庶元直のみ、亮と友善く、信然と謂ふ。〈按ずるに《崔氏譜》に、州平は、太尉烈の子、均が弟なり。《魏略》に曰く、亮、荊州に在り、建安の初め、潁川の石廣元、徐元直、汝南の孟公威等と倶に游學し、三人、精熟を務め、而して亮、獨り其の大略を觀る。每に晨夜從容、常に膝を抱きて長嘯し、而して三人に謂ひて曰く、「卿等三人、仕進して刺史郡守に至る可し。」と。三人が其の至る所を問へば、亮、但だ笑ふて言はず。後、公威、郷里を思い、北歸せんと欲す、亮、之に謂ひて曰く、「中國、士大夫饒し、遨遊、何ぞ必ず故郷ならんや!」と。臣松之以爲へらく、《魏略》の此の言、諸葛亮、公威が爲に計る者と謂ふ可し、若し兼ねて己が言と為すと謂はば、未だ其の心に達せざると謂ふ可し。老氏、知る人なるは智、自ら知るは明と稱す、凡そ賢達の流に在るは、固より必ず兼ねて之を有つ。諸葛亮が鑒識を以て、豈に能く自ら其の分を審らかにせざらんや?夫れ其れ高吟して時を俟つは、情、言に見れ、志氣の存する所、既に其の始に定まれり。若し中華に游步し、其の龍光を騁せしめば、豈に夫れ多士の能く沈翳する所ならんや!質を魏氏に委ね、其の器能を展さば、誠に陳長文、司馬仲達の能く頡頏する所に非ず、而るを況や餘に於いてをや!苟くも功業の就らざるを患へず、道の行はれざるを患へずんば、志、宇宙に恢びると雖も、終に北に向はざる者は、蓋し權御已に移り、漢祚將に傾かんとし、方まさ宗傑を翊贊し、以て微を興し絶を繼ぎ克復を己が任と為す故なり。豈に其れ區區利を邊鄙に在りとするのみならんや!此れ相如の謂ふ所の「鵾鵬、已に遼廓に翔る、而して羅する者、猶藪澤に視る」と者なり。公威、名を建て、魏に在りても亦た貴達す。〉
時に先主、新野に屯す。徐庶、先主に見ゆ、先主、之を器とし、先主に謂ひて曰く、「諸葛孔明なる者は、臥龍なり、將軍、豈に之を見んと願ふや?」と。〈《襄陽記》に曰く、劉備、世事を司馬德操に訪ふ。德操曰く、「儒生俗士、豈に時務を識らんや?時務を識る者は俊傑に在り。此の間に自ずから伏龍、鳳雛有り。」と。備、誰を爲すかと問へば、曰く、「諸葛孔明、龐士元なり。」と。〉先主曰く、「君、與に俱に来たらん。」と。庶曰く、「此の人、就ち見る可く、屈致す可からず。將軍、宜しく駕を枉げて之を顧みるべし。」と。是に由り先主、遂に亮に詣で、凡そ三たび往きて、乃ち見る。因りて人を屏けて曰く、「漢室、傾頹し、姦臣、命を竊み、主上、塵を蒙る。孤、德を度らず、力を量らず、大義を天下に信ぜんと欲す、而して智術、淺短にして、遂に猖(獗)〔蹶〕を用ゐ、今日に至る。然れども志、猶ほ未だ已まず、君、謂ふ、計將に安んぞ出でん。」と。亮、答へて曰く、「董卓より已來、豪傑、竝び起ち、州を跨ぎ郡を連ぬる者、勝げて數ふ可からず。曹操、袁紹に比すれば、則ち名微にして眾寡なり、然れども操、遂に能く紹を克ち、弱を以て強と為るは、惟だ天時のみならず、抑亦た人謀也。今、操、已に百萬の眾を擁し、天子を挾んで諸侯に令す、此れ誠に與に鋒を爭ふ可からず。孫權、江東に據有すること、已に三世を歴たり、國、險にして民附し、賢能、之が爲に用ゐらる、此れ以て援と爲す可く圖る可からず。荊州、北は漢、沔に據り、利は南海を盡くし、東は吳會に連なり、西は巴、蜀に通ず、此れ用武の國なるも、而して其の主、能く守る能はず、此れ殆ど天の將に將軍に資する所、將軍、豈に意有らんや?益州、險塞、沃野千里、天府の土、高祖、之に因りて帝業を成す。劉璋、闇弱、張魯、北に在り、民殷し國富めり、而して存恤を知らず、智能の士、明君を得んとす。將軍、既に帝室の冑、信義、四海に著はれ、英雄を總攬し、賢を思ふこと渴するが如し、若し荊、益を跨有し、其の巖阻を保ち、西は諸戎と和し、南は夷越を撫し、外は孫權と好を結び、內は政理を修むれば、天下に變有らば、則ち一上將を命じて荊州の軍を將ゐて以て宛、洛に向はしめ、將軍、身ら益州の眾を率ゐて秦川に出でん、百姓、孰か敢て簞食壺漿を以て將軍を迎へざらんや?誠に是の如くならば、則ち霸業成るべく、漢室興るべし。」と。先主曰く、「善し。」と。是に於いて亮と情好、日に密なり。關羽、張飛等、悅ばず、先主、之を解きて曰く、「孤が孔明有るは、猶ほ魚の水有るが如きなり。願はくは諸君、復た言ふこと勿れ。」と。羽、飛、乃ち止む。〈《魏略》に曰く、劉備、樊城に屯す。是の時、曹公、方まさに河北を定む、亮、荊州、次に敵を受くべきことを知り、而して劉表、性緩にして、軍事を曉らず。亮、乃ち北行して備に見ゆ、備、亮と舊に非ず、又、其の年少なるを以て、諸生を以て之を待つ。坐集、既に畢り、眾賓、皆去る、而して亮、獨り留まる、備、亦た其の欲する所を言はんと問はず。備、性、毦を結ぶを好む、時、適、人、髦牛の尾を以て備に與ふる者有り、備、因りて手ずから之を結ぶ。亮、乃ち進みて曰く、「明將軍、當に復た遠志有るべし、但だ毦を結ぶのみならんや!」と。備、亮の常人に非ざるを知り、乃ち毦を投じて答へて曰く、「是れ何の言ぞや!我、聊か以て憂ひを忘るるのみ。」と。亮、遂に言ひて曰く、「將軍、劉鎮南、孰れか曹公に與らんや?」と。備曰く、「及ばず。」と。亮、又た曰く、「將軍、自ら度るに何如ぞや?」と。備曰く、「亦た及ばず。」と。曰く、「今、皆、及ばず、而して將軍の眾、數千人に過ぎず、此を以て敵を待つは、非計を得ざるか!」と。備曰く、「我、亦た之を愁ふ、將に若に何せん?」と。亮曰く、「今、荊州、人の少なきに非ざるなり、而して籍を著す者寡し、平居に發調すれば、則ち人心悅ばず、鎮南に語り、國中に凡そ游戶有らば、皆、自ら實を爲さしめ、因りて録して以て眾を益す可し。」と。備、其の計ひに従ひ、故に眾、遂に強し。備、此に由りて亮、英略有るを知り、乃ち上客を以て之を禮す。九州春秋の言ふ所、亦た之が如し。臣松之以爲へらく、亮が表に云く「先帝、臣の卑鄙なるを以てせず、猥りに自ら枉げて屈し、臣を草廬の中に三たび顧み、臣に當世の事を諮りたまふ。」と、則ち亮が先づ備に詣でしに非ざるは、明らかなり。聞見、異辭有りと雖も、各、彼此を生ず、然れども乖背、是に至るは、亦た良に怪しむべきことと爲すべし。〉
劉表が長子琦、亦た深く亮を器とす。表、後妻の言を受け、少子琮を愛し、琦を悅ばず。琦、每に亮と謀りて自ら安んずるの術を欲す、亮、輒ち拒塞し、未だ與に畫を處せざる。琦、乃ち亮を將ゐて後園を游觀し、共に高樓に上り、飲宴の間、人に梯を去らしめ、因りて亮に謂ひて曰く、「今日、上は天に至らず、下は地に至らず、言、子が口に出で、吾が耳に入る、以て言ふ可からずや?」と。亮、答へて曰く、「君、申生、內に在りて危く、重耳、外に在りて安きを見ずや?」と。琦、意感悟し、陰に計を出づるを規す。會ふ、黃祖死し、出づるを得、遂に江夏太守と爲る。俄にして表卒し、琮、曹公の來て征するを聞き、使を遣して降を請ふ。先主、樊に在りて之を聞き、其の眾を率ゐて南行し、亮、徐庶と並びて從ふ、曹公に追破せられ、庶が母を獲らる。庶、先主に辭して其の心に指して曰く、「本、將軍と與に王霸の業を圖らんと欲せしは、此の方寸の地を以て也。今、已に老母を失ひ、方寸亂れたり、事に益無し、請ふ、此れより別る。」と。遂に曹公に詣る。〈《魏略》に曰く、庶、先づ名を福とす、本、單家の子なり、少くより任俠擊劍を好む。中平の末、嘗て人の爲に讎を報じ、白堊、面を突き、髪を被りて走り、吏の得るところと為り、其の姓字を問へば、口を閉ぢて言はず。吏、乃ち車の上に柱を立て維磔し、鼓を擊ちて以て市鄽に令す、敢て識る者莫く、而して其の黨伍、共に篡解し、脫するを得。是に於いて感激し、其の刀戟を棄て、更に疏巾單衣し、節を折りて學問す。始めて精舍に詣れば、諸生、其の前、賊を爲すを聞き、共に止まるを肯ぜず。福、乃ち卑躬早起し、常に獨り掃除し、動靜、意を先だち、經業を聽習し、義理、精熟す。遂に同郡の石韜と相親愛す。初平中、中州に兵起ち、乃ち韜と與に南客して荊州に至り、到りて、又、諸葛亮と特に相善くす。荊州內附に及び、孔明、劉備と相随ひて去る、福と韜、倶に來て北す。黃初中に至り、韜、仕へて郡守、典農校尉を歴し、福、右中郎將、御史中丞に至る。大和中に逮び、諸葛亮、隴右に出づ、元直、廣元が仕財の此の如きを聞き、嘆きて曰く、「魏、殊に多士なるか!何ぞ彼れ二人が見用せられざる乎?」と。庶、後數年、病卒す、碑、彭城に在り、今猶ほ存せり。〉
先主、夏口に至る、亮曰く、「事、急なり、請ふ命を奉じて孫將軍に救ひを求めん。」と。時に權、軍を柴桑に擁し、成敗を觀望す、亮、權を説きて曰く、「海內、大いに亂れ、將軍、兵を起こして江東を據有し、劉豫州も亦た眾を漢南に收め、曹操と竝びて天下を爭ふ。今、操、大難を芟夷し、略ぼ已に平たり、遂に荊州を破り、威、四海を震はす。英雄、武を用ふる所無く、故に豫州、遁逃して此に至る。將軍、力を量りて之を處せよ。若し能く吳、越の眾を以て中國と抗衡せば、早に之と絕つに如かず、若し當たる能はざれば、何ぞ兵を案じ甲を束ね、北面して之に事へざらん!今、將軍、外に服從の名を託し、而して內に猶豫の計を懷き、事、急にして斷ぜずんば、禍、至ること日無し!」と。權曰く、「苟くも君の言の如ならば、劉豫州、何ぞ遂に之に事へざる乎?」と。亮曰く、「田横、齊の壯士のみ、猶ほ義を守りて辱められず、況んや劉豫州、王室の冑、英才、世を蓋ひ、眾士、仰ぎ慕ふこと、水の海に歸するが如き、若し事、之を濟さずんば、此れ乃ち天なり、安んぞ能く復た之が下と爲らんや!」と。權、勃然として曰く、「吾、能く全吳の地、十萬の眾を擧げて、人の制を受くる能はず。吾が計、決せり!劉豫州に非ざれば、曹操に當たる可き者莫し、然れども豫州、新に敗れたる後、安んぞ能く此の難に抗せんや?」と。亮曰く、「豫州の軍、長坂に敗れたりと雖も、今、戰士の還る者及び關羽が水軍、精甲萬人、劉琦、江夏の戰士を合せ亦た萬人に下らざるなり。曹操の眾、遠くより來て疲弊し、豫州を追ふを聞き、輕騎、一日一夜、三百餘里を行く、此れ謂ゆる『彊弩の末、勢ひ能く魯縞を穿つ能はざる』と者也。故に兵法、之を忌む、曰く『必ず上將軍を蹶す』と。且つ北方の人は、水戰に習はず、又、荊州の民、操に附する者は、兵勢に逼せらるるのみ、心服に非ざる也。今、將軍、誠に能く猛將を命じて兵數萬を統べ、豫州と協規同力せば、操の軍を破る必せん。操の軍、破れれば、必ず北還す、此の如くなれば則ち荊、吳の勢、彊く、鼎足の形を成さん。成敗の機、今日に在り。」と。權、大いに悅び、即ち周瑜、程普、魯肅等に水軍三萬を遣はし、亮に隨ひて先主に詣で、力を併せて曹公を拒む。〈袁子に曰く、張子布、亮を孫權に薦む、亮、留まるを肯ぜず。人、其の故を問へば、曰く、「孫將軍は人主と謂ふ可し、然れども其の度を觀るに、亮を賢と能くするも、能く亮を盡くさず、吾、是を以て留まらず。」と。臣松之以爲へらく、袁孝尼、文を著し論を立て、甚だ諸葛が爲人を重くす、此の言に至りては則ち之を殊に遠し。亮が君臣の相遇を觀れば、希世の一時と謂ふ可く、終始、分を以てし、誰か能く之を間せん?寧ろ中、斷金を違ひ、甫めて擇主を懷き、設し權、其の量を盡くさば、便ち當に翻然として去就せんや?葛生が己を行ふこと、豈に其れ然らんや!關羽、曹公の獲るところと爲り、之に遇ふこと甚だ厚し、能く其の用を盡くすと謂ふ可し、猶ほ義、本に背かず、曾て孔明の雲長に若かざることを謂はん乎!〉曹公、赤壁に敗れ、軍を引いて鄴に歸る。先主、遂に江南を收め、亮を以て軍師中郎將と爲し、零陵、桂陽、長沙の三郡を督し、其の賦稅を調へ、以て軍實に充つ。〈《零陵先賢傳》に云ふ、亮、時に臨烝に住む。〉
建安十六年、益州牧劉璋、法正を遣はして先主を迎え、張魯を擊たしむ。亮、關羽と荊州を鎮む。先主、葭萌より還りて璋を攻む、亮、張飛、趙雲等と眾を率ゐて江を泝り、郡縣を分けて定め、先主と與に成都を圍む。成都平定し、亮を以て軍師將軍と爲し、左將軍府事を署す。先主、外出せば、亮、常に成都を鎮守し、食足兵足す。二十六年、群下、先主に尊號を稱せんことを勸む、先主、未だ許さず、亮、説ひて曰く、「昔、吳漢、耿弇等、初めて世祖に帝位に即かんことを勸め、世祖、辭讓し、前後、數四、耿純、言を進めて曰く、『天下の英雄、喁喁として、冀はくは望む所有らんことを。如し議に從はざる者有らば、士大夫、各々歸りて主を求め、公に從ふこと無からん。』と。世祖、純の言の深至なるに感じ、遂に然諾す。今、曹氏、漢を簒し、天下、主無し、大王、劉氏の苗族、世を紹きて起つ、今、帝位に即くは、乃ち其の宜なり。士大夫、大王に隨ひて久しく勤苦する者、亦た尺寸の功を望むこと純が言の如きのみ。」と。先主、是に於いて帝位に即き、亮を策して丞相と爲し、曰く、「朕、家に遭ひて造らず、大統を奉承し、兢兢業業として、敢て康寧ならず、百姓を靖めんとす、未だ綏むる能はざるを懼る。於戲、丞相亮、其れ朕が意を悉くし、朕が闕を輔くるを怠ること無く、重光を宣ふを助け、以て天下を照明せよ、君、其れ勖めよ!」と。亮、丞相を以て尚書事を録し、節を假る。張飛卒する後、司隸校尉を領す。〈《蜀記》に曰く、晉の初め、扶風王駿、關中を鎮む、司馬高平劉寶、長史滎陽桓隰の諸官屬士大夫、共に諸葛亮を論ず、于時、譚る者は多く亮が身を託する所を非と爲し、蜀民を勞困し、力小さく謀大きく、德を度り力を量る能はざるを譏る。金城郭沖、以爲へらく、亮、權智英略、管、晏に逾ゆる有り、功業、未だ濟らず、論ずる者、惑へり、亮が五事を條りて隱沒して世に聞こえざる者を示す、寶等、亦た復た難ずること能はず。扶風王、慨然として沖が言を善しとす。臣松之以爲へらく、亮が異美なるは、誠に聞かんと願ふ所なるも、然れども沖の説く所、實に皆、疑ふ可きことなり、謹みて事に隨ひて之を難ずること左の如し、其の《一事》に曰く、亮の刑法峻急にして、百姓を刻剝す、君子小人より咸、怨歎を懷き、法正、諫めて曰く、「昔、高祖、關に入るに、法を三章に約し、秦民、德を知る、今、君、威力を假借し、一州を跨據し、初めて其の國を有つも、未だ惠撫を垂れず、且つ客主の義、宜しく相降下すべし、願はくは刑を緩め禁を弛め、以て其の望みを慰めよ。」と。亮、答へて曰く、「君、其の一を知り、其の二を知らざる也。秦、無道を以て、政苛く民怨み、匹夫、大呼して、天下、土崩す、高祖、之に因りて、以て弘濟す可し。劉璋、闇弱、焉より已來、累世の恩有り、文法羈縻し、相承奉し、德政を擧げず、威刑を肅せざるなり。蜀土の人士、專權自恣し、君臣の道、漸く陵替に以てす。之を寵するに位を以てすれば、位、極まれば則ち賤し、之を順へるに恩を以てすれば、恩、竭きれば則ち慢ず。弊を致す所以、實に此に由る。吾、今、之を威するに法を以てすれば、法行はれて則ち恩を知り、之を限するに爵を以てすれば、爵加はれば則ち榮を知らん。榮恩、竝び濟はれば、上下、節有るなり。治を爲すの要、斯に於いて著はる。」と。◇難じて曰く、案ずるに法正は劉主の前、死す、今、法正諫むると稱すれば、則ち劉主、在るなり。諸葛、職は股肱と爲し、事は元首に歸す、劉主の世、亮、又、未だ益州を領せず、慶賞刑政は、己より出でず。沖の述ぶる所の亮が答を尋ぬれば、專ら自ら其の能有りとする、人臣の自ら處るの宜に違ふ有り。亮が謙順の體を以てすれば、殆ど必ず然らざるなり。又、亮が刑法峻急にして、百姓を刻剝すと云ふは、未だ善政を以て刻剝と稱するを聞かず。其の《二事》に曰く、曹公、刺客を遣はして劉備に見しむ、方まさに交接を得、魏を伐つ形勢を論じ開く、甚だ備が計に合す。稍々親近せんと欲すれば、刺者、未だ便を得て會はず、既にして亮入れば、魏客、神色、失措す。亮、因りて之を察し、亦た非常人なるを知る。須臾、客、廁に行くが如く、備、亮に謂ひて曰く、「向、奇士を得たり、以て君が補益を助くるに足る。」と。亮、所在を問ふに、備曰く、「起つ者は其の人也。」と。亮、徐に歎きて曰く、「客が色動き而して神懼れ、視、低く而して數に忤るを觀るに、姦形、外に漏れ、邪心、內に藏す、必ず曹氏が刺客也。」と。之を追へば、已に牆を越え走り去る。◇難じて曰く、凡そ刺客を爲すは、皆、暴虎馮河、死して悔い無き者也。劉主、知る人の鑒有るも、而して此の客に惑ふは、則ち此の客、必ず一時が奇士也。又、諸葛に語りて云く「以て君が補益を助くるに足る」と、則ち亦た諸葛が流亞也。凡そ諸葛が儔の如き、鮮く人を爲て刺客を爲す者有らず、時の主も亦た當に其の器用を惜み、必ず之を死地に投ぜざる也。且つ此の人、死せず、要すに応に顯達して魏を爲すべし、竟に是れ誰ぞ乎?何ぞ其の寂滅にして聞こえざらんや!〉
章武三年春、先主、永安に於いて病篤く、亮を成都に召し、以て後事を屬し、亮に謂ひて曰く、「君の才、曹丕に十倍す、必ず能く國を安んじ、終に大事を定めん。若し嗣子、輔くべきならば、之を輔け、如し其の才無きならば、君、自ら取る可し。」と。亮、涕泣して曰く、「臣、敢て股肱の力を竭し、忠貞の節を效し、之を死を以て繼がん!」と。先主、又た詔を爲て後主に勅して曰く、「汝、丞相と從事し、之に事ふること父の如くせよ。」と。〈孫盛曰く、夫れ道を杖き義を扶け、體、信順を存し、然る後、能く主を匡け功を濟し、終に大業を定める。語に曰く、弈する者、釭を舉げて定まらざれば猶ほ其の偶に勝つ能はず、況んや君が才否を量りて二三其の節を爲して、以て強鄰を摧服し四海を囊括せんとするをや?備が亮に命ずる、亂、孰れか甚だしきや!世、或いは備の以て委付の誠を固くせんと欲し、且つ一蜀人の志を以てすると謂ふ。君子曰く、然らず、苟くも寄する所、忠賢ならば、則ち若斯の誨を須ゐず、如し其の人に非ざれば、宜しく篡逆の塗を啓くべからず。是を以て古の顧命は、必ず話言を貽す。詭偽の辭は、託孤の謂に非ず。幸ひ劉禪が闇弱にして猜險の性無きに値ひ、諸葛、威略、以て異端を檢衛するに足る、故に異同の心をして自り起るに由無からしむるのみ。然らずんば、殆ど疑隙不逞の釁を生ずべし。之を權と謂ふは、亦た惑ひならずや!〉
建興元年、亮を武鄉侯に封じ、府を開きて事を治む。頃の間に、又、益州牧を領す。政事、巨細無く、咸、亮に決す。南中の諸郡、竝びに皆叛亂す、亮、新に大喪に遭へるを以て、故に未だ便ち兵を加へず、且つ使を遣はして吳に聘し、因りて和親を結び、遂に與國と爲す。〈亮集に曰く、是の歲、魏の司徒華歆、司空王朗、尚書令陳群、太史令許芝、謁者僕射諸葛璋、各々書を亮に與へ、天命人事と陳べ、國を擧げて籓を稱せしめんと欲す。亮、遂に書を報ぜず、正議を作りて曰く、「昔、項羽に在りては、起つこと德に由らず、華夏に處ると雖も、帝者の勢を秉り、卒に湯鑊に就き、後世の爲の永戒と爲る。魏、審かに鑒みず、今、之に次ぐ、身を免るるを幸ひと爲し、戒めを子孫に在り。而して二三子、各々耆艾の齒を以て、偽指を承けて書を進め、崇、竦が莽の功を稱するが若く、亦た將に元禍に逼り苟くも免れんと欲する者なるか!昔、世祖の創跡舊基、羸卒數千を奮ひ、莽の彊旅四十餘萬を昆陽の郊に摧く。夫れ道を據り淫を討つは、眾寡に在らず。孟德に至りては、其の譎勝の力を以て、數十萬の師を擧げ、張郃を陽平に救ひ、勢ひ窮まり慮へ悔い、僅かに能く自ら脫し、其の鋒銳の眾を辱しめ、遂に漢中の地を喪ふ、深く神器は妄りに獲るべからざることを知り、旋還未だ至らず、感毒して死す。子桓淫逸、之を繼ぎて簒す。縱ひ二三子、多く蘇、張が詭靡の説を逞しくし、歡兜が滔天の辭を奉進し、以て唐帝を誣毀し、禹、稷を諷解せんと欲するは、謂ゆる徒に文藻を喪ひ翰墨を煩勞する者也。夫れ大人君子の爲さざる所也。又た軍誡に曰く、『萬人、必ず死す、天下を橫行す。』と。昔、軒轅氏、卒數萬を整へ、四方を制し、海內を定めたり、況んや數十萬の眾を以て、正道を據りて有罪に臨むをや、干擬するを得べきか!」と。〉
三年春、亮、眾を率ゐて南征す、〈詔、亮に金鈇鉞一具、曲蓋一、前後の羽葆鼓吹各一部、虎賁六十人を賜ふ。事、亮集に在り。〉其の秋、悉く平ぐ。軍資の出る所、國、以て富饒なり、〈《漢晉春秋》に曰く、亮、南中に至り、所在、戰捷す。孟獲なる者は、夷、漢の服するところと聞きて、生きて之を致すを募る。既に得れば、營陳の間を觀せしめ、問ひて曰く、「此の軍、何如?」と。獲、對へて曰く、「向に虛實を知らざるが故に敗れたり。今、蒙りて營陳を觀看するを賜はれば、若し祗に此の如きならば、即ち必ず易く勝つべし。」と。亮、笑ひ、縱ひて更戰せしめ、七たび縱ちて七たび禽へれども、而して亮、猶ほ獲を遣はす。獲、止まり去らず、曰く、「公、天威なり、南人、復た反せじ。」と。遂に滇池に至る。南中平ぎ、皆、即ち其の渠率を以て之を用ふ。或いは以て亮を諫む、亮曰く、「若し外人を留めば、則ち當に兵を留むべき、兵留まれば則ち食する所無し、一、易からざるなり。
加えて夷、新に破傷を負ひ、父兄、死喪せり、外人を留めて兵無き者は、必ず禍患を成さん、二、易からざるなり。又、夷、累ねて廢殺の罪有り、自ら嫌釁重きを嫌ふ、若し外人を留めば、終に相信ぜず、三、易からざるなり。今、吾、兵を留めず、糧を運ばずして、綱紀粗く定まり、夷、漢、粗く安んぜんと欲する故なり。」と。〉乃ち戎を治め武を講じ、以て大舉を俟つ。五年、諸軍を率ゐて北のかた漢中に駐し、發するに臨み、疏を上せて曰く、
先帝、創業、未だ半ばならずして中道に崩殂す、今天下、三つに分れ、益州、疲弊せり、此れ誠に危急存亡の秋なり。然れども侍衛の臣、內に懈らず、忠志の士、外に身を忘るる者は、蓋し先帝の殊遇を追い、之を陛下に報ぜんと欲するなり。誠に宜しく聖聽を開張し、以て先帝の遺德を光ならしめ、志士の氣を恢弘すべく、妄りに自ら菲薄し、引喻失義し、以て忠諫の路を塞ぐべからざるなり。宮中、府中は倶に一體と爲し、陟罰臧否、宜しく異同すべからず。若し姦を爲し科を犯す者及び忠善を爲す者有らば、宜しく有司に付して其の刑賞を論ぜしめ、以て陛下が平明の理を昭らかにすべし、宜しく偏私して、內外、法を異にすべからざるなり。侍中、侍郎の郭攸之、費禕、董允等は、此れ皆、良實にして、志慮、忠純なり、是を以て先帝、簡拔して以て陛下に遺す。愚以爲へらく、宮中の事、事、大小無く、悉く之に咨り、然る後に施行すれば、必ず能く闕漏を裨補し、廣益する所有らん。將軍向寵、性行淑均にして、軍事を曉暢し、昔日、試用せらる、先帝、之を稱へて能と曰く、是を以て衆議、寵を擧げて督と爲す。愚以爲へらく、營中の事、事、大小無く、悉く之に咨れば、必ず能く行陣を和睦せしめ、優劣、所を得しめん。賢臣を親しみ、小人を遠ざくるは、此れ先漢の興隆せし所以なり。小人を親しみ、賢臣を遠ざくるは、此れ後漢の傾頹せし所以なり。先帝、在りし時、每に臣と與に此の事を論ずるに、未だ嘗て桓、靈を嘆息痛恨せざる無し。侍中、尚書、長史、參軍、此れ悉く貞良死節の臣なり、願はくは陛下、之を親しみ信じたまへ、則ち漢室の隆、計日而して待つ可きなり。
臣、本、布衣、躬ら南陽に耕し、苟くも性命を全うすること亂世に於て、聞達を諸侯に求めず。先帝、臣が卑鄙なるを以てせず、猥りに自ら枉げて屈し、臣を草廬の中に三たび顧み、臣に當世の事を諮りたまふ、是に由りて感激し、遂に先帝に驅馳を許す。後、傾覆に値ひ、敗軍の際に任を受け、危難の間に命を奉る、爾來、二十有一年なり。〈臣松之案ずるに、劉備、建安十三年を以て敗れ、亮をして吳に使いせしめ、亮、建興五年を以て表を抗して北伐す、傾覆より此に至るまで、整へて二十年なり。然れば則ち備が始めて亮と相遇ふは、敗軍の前一年の時なり。〉先帝、臣の謹慎なるを知り、故に崩ずるに臨みて臣に大事を寄せたまふ也。命を受けて已來、夙夜、憂歎し、託付、效をなさざるを恐れ、以て先帝の明を傷つけんことを、故に五月、瀘を渡り、深く不毛に入る。〈漢書地理志に曰く、瀘は惟だ水、牂牁郡句町縣より出づ。〉今、南方、已に定まり、兵甲已に足れり、當に三軍を獎率し、北のかた中原を定め、庶幾はくは駑鈍を竭し、姦凶を攘除し、漢室を興復し、舊都に還らんと。此れ臣が先帝に報ずる所以にして、而して陛下に忠なる職分なり。
至於、斟酌損益、忠言を盡さんことは、則ち攸之、禕、允が任なり。願はくは陛下、臣に討賊興復の效を託し給へ。效をなさざれば、則ち臣の罪を治め、以て先帝の靈に告げよ。若し興德の言無きならば、則ち攸之、禕、允等の慢を責め、以て其の咎を彰らかにせよ。陛下も亦た宜しく自ら謀り、以て善道を諮諏し、雅言を察納し、深く先帝の遺詔を追いたまへ。臣、恩を受け感激に勝へず、今、當に遠離せん、表に臨み涕零し、言ふ所を知らず。
遂に行き、沔陽に屯す。〈郭沖《三事》に曰く、亮、陽平に屯し、魏延が諸軍を遣はして兵を併せて東下せしめ、亮は惟だ萬人を留めて城を守らしむ。晉の宣帝、二十萬の眾を率ゐて亮を拒む、而して延が軍と錯道し、徑に前に至り、亮が六十里の所に當たる、偵候、宣帝に白して亮が城中に在りて兵少なく力弱しと説く。亮も亦た宣帝の垂に至ることを知り、已に相逼ると與に、前に延が軍に赴かんと欲すれども、相去ること又た遠し、跡を回して反追すれば、勢ひ相及ばず、將士、失色し、其の計を知る莫し。亮、意氣自若として、軍中に皆旗を臥せ鼓を息め、妄りに出でて菴幔をなすことを得ざらしめ、又た四大城門を開き、地を埽いて却て洒せしむ。宣帝、常に亮の持重なるを謂ひ、而るに猥りに勢弱なるを見て、其れ伏兵有らんことを疑ひ、是に於いて軍を引いて北のかた山に趣く。明日の食時に、亮、參佐に謂ひて手を拊ち大笑して曰く、「司馬懿、必ず吾を怯なりと謂ひ、將に彊伏有らんとし、山に循りて走るなり。」と。候邏、還りて白するに、亮が言の如し。宣帝、後、知り、深く以て恨と為す。◇難じて曰く、案ずるに、陽平は漢中に在り。亮、初め陽平に屯し、宣帝は尚、荊州都督と為り、宛城を鎮む、曹真が死する後、始めて亮と關中に於いて相抗禦すのみ。魏、嘗て宣帝を宛より西城を由りて蜀を伐たしむ、霖雨に値ひ、果さず。此の前後に、復た陽平に於いて交兵の事有る無し。就いて沖が言の如くなれば、宣帝、既に二十萬の衆を擧げ、已に亮が兵少なく力弱きを知り、若し其れ伏兵有らんことを疑はば、正に防を設け持重すべきのみ、何ぞ便ち走るに至らんや?案ずるに《魏延傳》に云ふ、「延、每に亮に隨ひて出づれば、輒ち精兵萬人を請ひ、亮と異道を以て潼關に會せんと欲す、亮、之を制して許さず、延、常に亮を怯と爲し、己が才の用い盡くされざるを歎ず。」と。亮、尚ほ延を萬人を以て別統と爲さず、豈に沖が言の如く、頓に重兵をして前に將ゐ、而して輕弱を以て自ら守るを得んや!且つ沖が扶風王と與に言ふは、顯らかに宣帝が短を彰らかにし、子を對へて父を毀るは、理の容れざる所なり、而して云ふ「扶風王、慨然として沖の言を善しとす」と、故に此の書の擧引、皆、虛しと知る。〉
六年春、聲を揚げて斜谷道を由りて眉を取り、趙雲、鄧芝をして疑軍と爲し、箕谷に據らしめ、魏の大將軍曹真、衆を擧げて之を拒む。亮、身ら諸軍を率ゐて祁山を攻め、戎陳整齊にして、賞罰肅にして號令明、南安、天水、安定の三郡、魏に叛いて亮に應じ、關中、響震す。〈《魏略》に曰く、始め、國家、蜀中には惟だ劉備有るのみと爲す。備、既に死し、數歲、寂然として聲無し、是を以て略ぼ備豫無し、而して卒に亮が出づるを聞き、朝野、恐懼し、隴右、祁山、尤も甚だし、故に三郡、同時に亮に應ず。〉魏の明帝、西のかた長安を鎮め、張郃に命じて亮を拒ましむ、亮、馬謖をして諸軍を督せしめて前に在らしめ、郃と街亭に戰ふ。謖、亮の節度に違ひ、擧動、宜しきを失ひ、大いに張郃に破らる。亮、西縣の千餘家を拔き、漢中に還る、〈郭沖《四事》に曰く、亮、祁山を出づ、隴西、南安の二郡、時に應じて降る、天水を圍み、冀城を抜き、姜維を虜とし、士女數千人を驅略して蜀に還る。人、皆、亮を賀す、亮、顏色、愀然として戚容有り、謝して曰く、「普天の下、漢民に非ざる莫し、國家の威力、未だ擧らず、百姓をして豺狼の吻に困らしむ。一夫に死有れば、皆、亮が罪なり、此を以て相賀するは、能く愧ぢと爲らざらんや。」と。是に於いて蜀人、咸、亮に魏を吞むの志有り、惟だ境を拓かんとするのみならざるを知る。◇難じて曰く、亮、魏を吞むの志有ること久し、此に始めず衆人、方まさに知る也。且つ于時、師出でて成る所無く、傷缺にして反る者衆く、三郡、歸降すれども有する能はず。姜維は、天水の一匹夫のみ、之を獲れば則ち魏に於いて何の損有りや?西縣の千家を拔くは、街亭の喪ふ所を補はず、何を以て功と爲す、而して蜀人、相賀す乎?〉謖を戮して以て眾に謝す。疏を上せて曰く、「臣、弱才を以て、叨窃して非據し、親ら旄鉞を秉りて以て三軍を厲ましむるも、能く章を訓へ法を明らかにせず、事に臨みて懼れ、街亭に命に違ふの闕有り、箕谷に戒めざるの失に至る、咎、皆、臣が授任、方なきに在り。臣、明、人を知らず、事を恤むること多く闇く、《春秋》は帥を責む、臣、職、是れ當る。請ふ自ら三等を貶し、以て其の咎を督めん。」と。是を以て亮を右將軍と爲し、丞相事を行ひ、所統べること前の如し。〈《漢晉春秋》に曰く、或いは亮に更に兵を発せんと勸むる者有れば、亮曰く、「大軍、祁山、箕谷に在り、皆、賊より多し、而して能く賊を破ること能はず、賊の破る所と爲るは、則ち此の病、兵少なきに在らず、一人のみに在り。今、兵を減じ將を省き、罰を明らかにし過を思ひ、變通の道を將來に校へん、若し能はざる者ならば、兵多しと雖も何の益有らん!今より已後、諸、國に忠慮有る者は、但だ勤めて吾が闕を攻めれば、則ち事、定まるべく、賊、死すべき、功、足を蹻げて待つ可きのみ。」と。是に於いて微勞を考へ、烈壯を甄び、咎を引いて躬を責め、失ふ所を天下に布き、兵を厲まし武を講じ、以て後圖と為す、戎士簡練にして、民、其の敗を忘る。亮、孫權が曹休を破り、魏兵が東下し、關中虛弱なるを聞き、十一月、言を上して曰く、
先帝、漢、賊、兩立すべからず、王業偏安すべからずと慮へたまひ、故に臣に賊を討つことを託したまふ也。先帝の明を以てし、臣が才を量る、故に臣が賊を伐つは才弱く敵強きことを知る也、然れども賊を伐たずんば、王業も亦た亡ぶべし、惟だ坐して亡を待つのみ、孰れか之を伐つに如かん?是の故に臣に託して疑はざるなり。臣、命を受けし日より、寢に席を安んぜず、食に味を甘んぜず、思惟北征、宜しく先づ南に入るべし、故に五月、瀘を渡り、深く不毛に入り、日を竝べて食す。臣、自ら惜しまざるに非ず也、顧みるに王業、蜀都に偏全することを得ざれば、故に危難を冒して以て先帝の遺意を奉るなり、而して議ずる者、非計と爲すと謂ふ。今、賊、適、西に疲れたり、又、東に務む、兵法、勞に乗ず、此れ進趨の時なり。謹んで其の事を陳ぶること左の如し。高帝は日月を明らかに竝べ、謀臣、淵深なり、然れども險を渉り創を被り、危うくして然る後に安んず。今、陛下、未だ高帝に及ばず、謀臣、良、平に如かず、而して長計を以て勝ちを取り、坐して天下を定まんと欲するは、此れ臣の未だ解せざる一也。劉繇、王朗は各々州郡に據り、安んじ計を言ひ、動もすれば聖人を引く、群疑、滿腹、衆難、胸を塞ぐ、今歲、戰はずんば、明年、徵せず、孫策をして坐大せしめ、遂に江東を竝べしむる、此れ臣の未だ解せざる二也。曹操は智計、人に殊絕す、其の兵を用ふるや、彷彿たり孫、吳の如し、然れども南陽に困しみ、烏巣に險しく、祁連に危く、黎陽に逼り、幾んど北山に敗れ、殆んど潼關に死せんとす、然る後、偽りて一時を定むるのみ、況んや臣が才弱くして、而して危うからずして之を定めんと欲するをや、此れ臣の未だ解せざる三也。曹操、五たび昌霸を攻めて下さず、四たび巢湖を越えて成らず、李服を任用すれば而して李服、之を圖り、夏侯を委任すれば而して夏侯敗亡す、先帝、每に操を稱へて能と爲すも、猶ほ此の失有り、況んや臣が駑下にして、何ぞ必ず勝たんや?此れ臣の未だ解せざる四也。臣が漢中に到りてより、中間期年のみ、然れども趙雲、陽群、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等を喪ひ、及び曲長屯將七十餘人、突將無前。賨、叟、青羌の散騎、武騎千餘人、此れ皆、數十年之內に糾合したる四方の精銳、一州の所有に非ず、若し復た數年ならば、則ち三分が二を損ぜん、當に何を以て敵を圖らん?此れ臣の未だ解せざる五也。今、民窮まり兵疲れたり、而して事、息む可からず、事、息む可からずならば、則ち住するも行も勞費正しく等しくして、而して今之を圖らずんば、一州の地を以て賊と持久せんと欲するは、此れ臣の未だ解せざる六也。夫れ平らげ難き者は、事也。昔、先帝、楚に於いて軍を敗りたまふ、此の時に當り、曹操、手を拊ち、天下を以て定まりたりと謂ふ。然る後、先帝、東は吳、越に連なり、西は巴、蜀を取り、兵を擧げて北征し、夏侯、首を授く、此れ操の失計にして漢事が將に成らんとす。然る後、吳、更に盟に違ひ、關羽、毀敗し、秭歸に蹉跌し、曹丕、帝を稱す。凡そ事、是の如し、難く逆見す可し。臣、鞠躬盡力、死して後已む、成敗利鈍に至りては、臣が明の能く逆睹する所に非ざる也。
于時、散關の役有り。此の表、亮集に所無し、張儼《默記》に出づ。〉
冬、亮、復た散關に出で、陳倉を圍む、曹真、之を拒む、亮、糧盡きて還る。魏將軍王雙、騎を率ゐて亮を追ふ、亮、與に戰ひ、之を破り、雙を斬る。七年、亮、陳式を遣はして武都、陰平を攻む。魏の雍州刺史郭淮、衆を率ゐて式を擊たんと欲す、亮、自ら出でて建威に至る、淮、退還し、遂に二郡を平ぐ。詔、亮を策して曰く、「街亭の役は、咎、馬謖に由る、而るに君、愆を引いて、深く自ら貶抑す、重ねて君が意に違ひ、聽順して守る所とす。前年、師を耀し、王雙を馘斬し、今歲、爰征し、郭淮、遁走す、氐、羌を降集し、二郡を興復し、威、凶暴を鎮め、功勳、顯然たり。方今、天下騷擾し、元惡、未だ梟されず、君、大任を受け、國の重きを幹し、而るに久しく自ら挹損す、以て洪烈を光揚する所以に非ず。今、君を丞相に復し、君、其れ辭むこと勿れ。」と。〈《漢晉春秋》に曰く、是の歲、孫權、尊號を稱し、其の群臣、二帝を竝尊して來て告ぐ。議する者、咸、之に交ふるに益無く、而して名體、順ならずと爲し、宜しく正義を顯明し、其の盟好を絕つべしとす。亮曰く、「權の僭逆の心、久しきなり、國家の其の釁情を略する所以は、掎角の援を求むる也。今、若し顯絕を加へば、讎、我を必ず深くせん、便ち當に移兵して東(戍)し、之と角力すべし、須く其の土を竝べ、乃ち中原を議すべし。彼、賢才尚ほ多く、將相、緝穆たり、未だ一朝に定める可からず。兵を頓して相持し、坐して老いるを須ちば、北賊をして計を得しめ、算の上の者に非ざるなり。昔、孝文、匈奴に卑辭し、先帝、吳盟に優與せしは、皆、權通變に應じ、弘く遠益を思ふ、匹夫の爲す(分)者に非ざる也。今、議する者、咸、權の利は鼎足に在り、力を竝べる能はず、且つ志望以て滿ち、上岸の情無しと爲す、此を推するに、皆、是の如くにして非なり。何を以て?其の智力、侔しからざる故に、江を限して自ら保つなり、權の江を越ゆる能はざるは、猶ほ魏賊が漢を渡る能はざるが如し、力余有りて利を取らざるに非ざる也。若し大軍、討ちを致せば、彼、高きは當に其の地を分裂して以て後規と為し、下きは當に民を略し境を廣め、武を內に示す、端坐する者に非ざる也。若し其の動かざるに就きて我と睦まば、我が北伐、東顧の憂ひ無く、河南の衆、盡く西せず、此の利を爲すは、亦た已に深し。權が僭するの罪は、未だ宜しく明らかなるべからず。」乃ち衛尉陳震を遣はして權の正號を慶賀せしむ。〉
九年、亮、復た祁山に出で、木牛を以て運ぶ、〈《漢晉春秋》に曰く、亮、祁山を圍み、鮮卑の軻比能を招く、比能等、故北地の石城に至りて以て亮に應ず。是に於いて魏の大司馬曹真、疾有り、司馬宣王、荊州より入朝す、魏の明帝曰く、「西方の事、重く、君に莫くば付する可き者無し。」乃ち西のかた長安に屯せしめ、張郃、費曜、戴陵、郭淮等を督せしむ。宣王、曜、陵をして精兵四千を留めて上邽を守らしめ、餘衆、悉く出でて、西のかた祁山を救ふ。郃、兵を分けて雍、郿に駐めんと欲す、宣王曰く、「前軍の能く獨り之に當たる者を料るに、將軍が言是也、若し當たる能はざるに而して前後を分つならば、此れ楚の三軍の黥布に禽へらるる所以なり。」遂に進む。亮、兵を分けて留めて攻め、自ら宣王を上邽に逆ふ。郭淮、費曜等、亮を徼む、亮、之を破り、因りて大いに其の麥を芟刈し、宣王と上邽の東に遇ふ、兵を斂めて險に依り、軍、交はるを得ず、亮、引きて還る。宣王、亮を鹵城に尋ぬ。張郃曰く、「彼、遠くより來て我を逆ひ、戰を請ふて得ず、我に戰はずして利在りと謂ひ、長計を以て之を制せんと欲する也。且つ祁山、大軍の近きに在るを知り、人情自ら固し、宜しく此に屯まり、奇兵を分けて、其の後に出でて示し、宜しく前進して敢て逼らざるべからず、坐して民望を失ふ也。今、亮、縣軍して食少なし、亦た行去らん。」と。宣王、從はず、故に亮を尋ぬ。既に至りて、又、山に登りて營を掘り、戰を肯ぜず。賈栩、魏平、數たび戰を請ひ、因りて曰く、「公、蜀を畏るること虎の如し、天下の笑ひ奈何!」と。宣王、之を病む。諸將、咸、戰を請ふ。五月辛巳、乃ち張郃をして無當監何平を南圍に攻めしめ、自ら中道に案じて亮に向ふ。亮、魏延、高翔、吳班をして赴きて拒ましめ、大いに之を破り、甲首三千級、玄鎧五千領、角弩三千一百張を獲、宣王、還りて營を保つ。〉糧盡きて軍を退き、魏將張郃と交戰し、郃を射殺す。〈郭沖《五事》に曰く、魏の明帝、自ら蜀を徵し、長安に幸し、宣王を遣はして張郃が諸軍を督せしめ、雍、涼の勁卒三十餘萬、潛かに軍し密に進み、規りて劍閣に向はんとす。亮、時、祁山に在り、旌旗利器、險要に守り、十二更の下、在る者、八萬なり。時に魏軍、初めて陳し、幡兵、適、交はり、參佐、咸、賊衆、強盛にして、力に非ざれば制する能はずと以爲へり、宜しく權って下兵を停むること一月、以て聲勢を竝べんとす。亮曰く、「吾、武を統べ師を行るは、大信を本と爲す、原を得て信を失ふは、古人の惜しむ所なり、去る者は裝を束ねて期を待ち、妻子、鶴望して日を計る、徵難に臨むと雖も、義、廢する所にあらず。」皆、催遣して去らしむ。是に於いて去る者は感悅し、原って留まって一戰せんとし、住する者は憤踴し、死命を致さんと思ふ。相謂ひて曰く、「諸葛公の恩は、死するも猶ほ報ゆる能はざる也。」と。戰に臨むの日、拔刃爭先せずんば莫く、一を以て十に當たり、張郃を殺し、宣王を却け、一戰大いに剋す、此れ信に由るなり。◇難じて曰く、臣松之案ずるに、亮が前に祁山に出でしに、魏の明帝、身ら長安に至るのみ、此の年、復た自ら來たらず。且つ亮が軍、關、隴に在り、魏の人、何に由りて亮を越え徑に劍閣に向はんことを得んや?亮、既に戰場に在り、本より久しく住むの規無く、而して方まさに兵を休めて蜀に還るは、皆、經通の言に非ず。孫盛、習鑿齒、異同を搜求するに、遺す所無し、而して竝びに沖が言を載せず、其の乖剌、多きを知る。〉
十二年春、亮、悉く大衆を斜谷を由りて出し、流馬を以て運び、武功五丈原に據り、司馬宣王と渭南に對す。亮、每に糧の繼がざるを患ひ、己が志の申べざるを以て、是を以て兵を分けて屯田し、久しく駐まるの基を爲す。耕す者は渭濱の居民の間に雜り、而して百姓、安堵し、軍、私無し。〈《漢晉春秋》に曰く、亮、自ら至りて、數たび挑戰す。宣王も亦た表して固く戰を請ふ。衛尉辛毗をして節を執りて以て之を制せしむ。姜維、亮に謂ひて曰く、「辛佐治、節を杖き來到すれば、賊、復た出でざらん。」と。亮曰く、「彼、本より戰情無く、戰を固く請ふ所以は、以て其の衆に武を示すのみ。將、軍に在らば、君命、受けざる所有り、苟くも能く吾を制せば、豈に千里にして戰を請はんや!」と。《魏氏春秋》に曰く、亮が使至り、其の寢食及び其の事の煩簡を問ひ、戎事を問はず。使、對へて曰く、「諸葛公、夙興夜寐し、罰、二十以上は、皆、親ら之を攬む、啖ふ食、數升に至らず。」と。宣王曰く、「亮、將に死せん。」と。〉相持すること百餘日。其の年八月、亮、疾病み、軍に卒す、時に年五十四。〈《魏書》に曰く、亮、糧盡きて勢ひ窮まり、憂恚し歐血し、一夕にして營を燒いて遁走し、谷に入り、道に病を発して卒す。《漢晉春秋》に曰く、亮、郭氏塢に卒す。《晉陽秋》に曰く、星、赤くして芒角有り、東北より西南に流れ、亮が營に投じ、三たび投じて再還し、往けば大、還れば小なり。俄にして亮卒す。臣松之以爲へらく、亮、渭濱に在りて、魏人、跡を躡めば、勝負の形、未だ測量すべからず、而して歐血すと云ふは、蓋し亮の自亡ずるに因りて自ら誇大する也。夫れ孔明が略を以て、豈に仲達が爲に歐血せんや?及至劉琨、師を喪ひ、晉の元帝に箋するに、亦た云ふ「亮軍敗れ歐血す」と、此れ則ち虛記を引いて以て言を爲す也。其の谷に入りて卒すと云ふは、蜀人、谷に入りて發喪する故也。〉軍の退くに及び、宣王、其の營壘の處所を案行し、曰く、「天下の奇才也!」と。〈《漢晉春秋》に曰く、楊儀等、軍を整へて出づ、百姓、奔りて宣王に告ぐ、宣王、之を追ふ。姜維、儀をして旗を反し鼓を鳴らしめ、將に宣王に向はんとするが若くせしめれば、宣王、乃ち退き、敢て逼らず。是に於いて儀、陳を結んで去り、谷に入りて然る後に發喪す。宣王が退けるや、百姓、之が爲に諺を爲りて曰く「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と。或いは以て宣王に告ぐ、宣王曰く、「吾、生を料る能ふ、便に死を料らざる也。」と。〉
亮、遺命して漢中定軍山に葬り、山に因りて墳と爲し、塚、棺を容るるに足る、斂を時服を以てし、器物を須ひず。詔策に曰く、
惟だ君、體資文武、明叡篤誠、遺をうけて孤を託し、朕が躬を匡輔し、絕を繼ぎ微を興し、志は靖亂に存す。爰ち六師を整へ、歲として征せざる無く、神武赫然として、威は八荒を震はし、將に殊功を季漢に建て、伊、周の巨勳に參せんとす。如何ぞ弔はざらん、事、垂に克せんと臨みて、疾に遘ひ隕喪す!朕、用て傷悼し、肝心、裂くるが若し。夫れ德を崇め功を序し、行を紀し謚を命ずるは、將來を光昭にし、刊載して朽ちざる所以なり。使を持節左中郎將杜瓊をして、君に丞相武郷侯の印綬を贈り、君を謚して忠武侯と爲す。魂にして靈あらば、茲の寵榮を嘉せよ。嗚呼哀哉!嗚呼哀哉!
初め、亮、自ら後主に表して曰く、「成都に桑八百株、薄田十五頃有り、子弟の衣食は、自ら餘饒有り。臣が外任に在るに至りては、別調度無く、隨身の衣食は、悉く官に仰ぎ、別て生を治めず、以て尺寸を長じんと欲す。若し臣が死するの日、內に餘帛無く、外に贏財無からしめ、以て陛下に負かんことを。」と。及び卒すれば、其の言の如し。
亮、性、巧思に長じ、連弩、木牛流馬を損益するは、皆、其の意より出づ。兵法を推演し、八陣圖を作れば、咸、其の要を得たりと云ふ。〈《魏氏春秋》に曰く、亮、八務、七戒、六恐、五懼を作り、皆、條章有り、以て臣子を訓厲す。又、連弩を損益して、之を元戎と謂ひ、鐵を以て矢と爲し、矢の長さ八寸、一弩に十矢俱に發す。《亮集》に木牛流馬の法を作るを載せて曰く、「木牛なる者は、方腹曲頭、一脚四足、頭、領中に入り、舌、腹に著く。載多くして行少し、宜しく大用すべく、小使すべからず。特行する者は數十里、群行する者は二十里也。曲なる者は牛頭と爲し、雙なる者は牛腳と爲し、橫なる者は牛領と爲し、轉なる者は牛足と爲し、覆なる者は牛背と爲し、方なる者は牛腹と爲し、垂るる者は牛舌と爲し、曲なる者は牛肋と爲し、刻する者は牛齒と爲し、立する者は牛角と爲し、細き者は牛鞅と爲し、攝する者は牛鞦軸と爲す。牛、雙轅を仰ぎ、人、六尺を行き、牛、四步を行く。一歲の糧を載せ、日、二十里を行く、而して人、大いに勞せず。流馬の尺寸の數は、肋の長さ三尺五寸、廣さ三寸、厚さ二寸二分、左右同じ。前軸孔の分墨は頭を去ること四寸、徑中二寸。前腳孔の分墨は二寸、前軸孔を去ること四寸五分、廣さ一寸。前杠孔は前腳孔を去る分墨二寸七分、孔の長さ二寸、廣さ一寸。後軸孔は前杠を去る分墨一尺五分、大小、前と同じ。後腳孔は後軸孔を去る分墨三寸五分、大小、前と同じ。後杠孔は後腳孔を去る分墨二寸七分、後載剋は後杠孔を去る分墨四寸五分。前杠の長さ一尺八寸、廣さ二寸、厚さ一寸五分。後杠は等しく版方囊二枚、厚さ八分、長さ二尺七寸、高さ一尺六寸五分、廣さ一尺六寸、每枚、米二斛三斗を受く。上杠孔より肋下を去ること七寸、前後同じ。上杠孔より下杠孔を去る分墨一尺三寸、孔の長さ一寸五分、廣さ七分、八孔同じ。前後の四腳、廣さ二寸、厚さ一寸五分。形制、象の如し、靬の長さ四寸、徑面四寸三分。孔の徑中三腳杠、長さ二尺一寸、廣さ一寸五分、厚さ一寸四分、杠耳と同じ。」と。〉亮が言教書奏、多く觀る可き有り、別して一集と爲す。
景耀六年春、亮の廟を沔陽に立てるを詔す。〈《襄陽記》に曰く、亮、初めて亡ければ、所在、各、廟を立てんことを求む、朝議、禮秩を以て聽さず、百姓、遂に時節に因りて私に之を道陌の上に祭る。事を言ふ者、或いは以爲へらく、成都に廟を立てんことを聽す可き者有り、後主、從はず。步兵校尉習隆、中書郎向充等、共に表を上せて曰く、「臣、聞く、周人、召伯の德を懷き、甘棠、之が爲に伐たれず。越王、范蠡の功を思ひ、金に鑄して以て其の像を存す。漢の興りより已來、小善小德にして圖形立廟する者多し。況んや亮の德范、遐邇にして、勛、季世を蓋ひ、王室の壞れざるは、實に斯の人に是れ賴る、而して蒸嘗は私門に止まり、廟像は闕けて立てられる莫く、百姓をして巷祭せしめ、戎夷、野祀せしむるは、德を存念し功を述追し在昔を述ぶる所以に非ざる也。今、若し盡く民心に順ひなば、則ち瀆して典無く、之を京師に建てば、又、宗廟に逼る、此れ聖懷が惟疑する所以也。臣、愚かに以爲へらく、宜しく其の墓に近きに因りて、之を沔陽に立て、其の親屬をして時に賜祭せしめ、凡そ其の臣故吏、祠を奉ぜんと欲する者は、皆、廟に至るを限る。其の私祀を斷ち、以て正禮を崇むべし。」と。是に於いて始めて之に從ふ。〉秋、魏の鎮西將軍鐘會、蜀を征し、漢川に至り、亮の廟を祭し、軍士をして亮が墓所の左右に於いて芻牧樵採するを得ざらしむ。亮が弟均、官、長水校尉に至る。亮が子瞻、爵を嗣ぐ。〈《襄陽記》に曰く、黃承彥なる者は、高爽開列、沔南の名士と爲り、諸葛孔明に謂ひて曰く、「君が婦を擇ぶを聞く、身に醜女有り、黃頭黑色なるも、而して才、相配するに堪へる。」と。孔明、許諾すれば、即ち載せて之を送る。時人、以爲へらく笑樂とし、郷里、之が爲に諺を爲して曰く、「孔明が婦を擇ぶを爲す莫れ、正しく阿承が醜女を得。」と。〉
諸葛氏集目錄
開府作牧第一 權制第二 南征第三
北出第四 計算第五 訓厲第六
綜覈上第七 綜覈下第八 雜言上第九
雜言第十 貴和第十一 兵要第十二
傳運第十三 與孫權書第十四 與諸葛謹書第十五
與孟達書第十六 廢李平第十七 法檢上第十八
法檢下第十九 科令上第二十 科令下第二十一
軍令上第二十二 軍令中第二十三 軍令下第二十四
右、二十四篇、凡そ十萬四千一百一十二字。
臣壽等言す、臣、前、著作郎に在り、侍中領中書監濟北侯臣荀勖、中書令關內侯臣和嶠、奏す、臣をして故蜀丞相諸葛亮が故事を定めしむ。亮は危國を毗佐し、阻を負ひて賓せず、然れども猶ほ其の言を存録す、善に遺すこと有らんことを恥づ、誠に是大晉光明至德、澤は無疆に被る、古より已來、未だ之が倫有らざるなり。輒ち複重を削除し、類に隨ひて相從ふ、凡そ二十四篇と爲す。篇名、右の如し。
亮は少くより逸衆の才、英霸の器有り、身長八尺、容貌甚だ偉く、時人、之を異とす。漢末の亂を造るや、叔父玄に隨ひて難を荊州に避け、躬ら野を耕し、聞達を求めず。時、左將軍劉備、亮に殊量有るを以て、乃ち亮を草廬の中に三たび顧みる。亮、深く備の雄姿傑出するを謂ひ、遂に帶を解き誠を寫し、厚く相結納す。魏の武帝の荊州を南征するに及び、劉琮、州を擧げて質を委す、而して備、勢を失ひ眾寡く、錐を立てる地無し。亮、時に年二十七、乃ち奇策を建て、身ら孫權に使いし、吳會に援を求む。權、既に宿より備を仰ぎ服し、又、亮の奇雅なるを觀、甚だ敬重し、即ち兵三萬を遣はして以て備を助く。備、用ゐるを得て武帝と交戰し、大いに其の軍を破り、勝に乗じて克捷し、江南、悉く平ぐ。後、備、又、西のかた益州を取る。益州、既に定まれば、亮を以て軍師將軍と爲す。備、尊號を稱し、亮を拜して丞相と爲し、尚書事を録す。備、殂没に及び、嗣子、幼弱にして、事、巨細無く、亮、皆、之を專らにす。是に於いて外は東吳に連なり、內は南越を平げ、法を立て度を施し、戎旅を整理し、工械技巧、物の其の極みを究め、科教嚴明にして、賞罰必ず信有り、惡無くんば懲らざる無く、善無くんば顯さざる無く、吏は奸を容れず、人は自ら厲むを懷き、道は遺を拾はず、彊は弱を侵さず、風化、肅然たる也。
此の時に當り、亮の素志は、進んでは龍驤虎視し、四海を包括せんと欲し、退んでは陵を跨ぎ邊疆を跨ぎ、宇內を震蕩せんと欲す。又、自ら以爲へらく、身の無きの日なれば、則ち未だ能く中原に蹈涉し、上國に抗衡する者有らじと、是を以て兵を用ゐるに戢めず、屢、其の武を耀す。然れども亮が才は、戎を治むるを長と爲し、奇謀を短と爲し、民を理めるの幹は、將略に優る。而して與に対敵する所は、或いは人傑に値ひ、加えて衆寡侔はざるに、攻守、體を異にすれば、故に連年、衆を動かすと雖も、未だ克つこと有る能はず。昔、蕭何、韓信を薦め、管仲、王子城父を舉ぐるは、皆、己が長を忖り、兼ねて有る能はざる故也。亮が器能政理は、抑亦た管、蕭が亞匹なり、而して時の名將、城父、韓信無ければ、故に功業をして陵遲せしめ、大義、及ばざる邪?蓋し天命、歸するところ有り、智力を以て爭ふ可からざる也。
青龍二年春、亮、衆を帥ゐて武功に出で、兵を分けて屯田し、久しく駐まるの基を爲す。其の秋、病卒し、黎庶、追思し、以て口實と爲す。今に至るまで梁、益の民、亮を咨述する者は、言、猶ほ耳に在り、甘棠の召公を詠じ、鄭人が子產を歌ふと雖も、以て遠譬するに無き也。孟軻に云ふ有り、「逸道を以て民を使はしむれば、勞すと雖も怨まず。生道を以て人を殺せば、死すと雖も忿らず。」と、信なるかな!論ずる者、或いは亮が文彩の艷ならざるを怪しみ、而して丁寧周至に過ぎると爲す。臣、愚かに以爲へらく、咎繇は大賢也、周公は聖人也、之を尚書に考ふれば、咎繇が謨は略にして雅、周公の誥は煩にして悉し。何を以て?咎繇は舜、禹と與に共談し、周公は群下と矢誓する故也。亮が與に言ふ所、盡く衆人の凡士なれば、故に其の文指、遠く及ぶことを得ざる也。然れども其の聲教遺言、皆、事を經て物を綜へ、公誠の心、文墨に形はれ、以て其の人意理を知るに足る、而して當世に補する所有り。
伏して惟ふに、陛下、古聖の蹤を邁え、蕩然として忌むこと無く、故に敵國の誹謗の言と雖も、咸、其の辭を肆にして革諱する所無く、大通の道を明かにする所以也。謹んで録寫して著作に上詣す。臣、壽、誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪。泰始十年二月一日癸巳、平陽侯相臣陳壽上。
諸葛喬
喬、字は伯松、亮が兄瑾が第二子なり、本、字は仲慎とす。兄の元遜と與に俱に時に名有り、論ずる者、喬の才は兄に及ばず、而して性業は之に過ぎると爲す。初め、亮、未だ子有らざれば、喬を求めて嗣と爲す、瑾、孫權に啓して喬を遣はして西に來らしむ、亮、喬を以て己が適子と爲す、故に其の字を易ふ焉。拜して駙馬都尉と爲し、亮に隨ひて漢中に至る。〈亮、兄瑾に與ふる書に曰く、「喬、本、當に成都に還るべし、今、諸將が子弟、皆、傳運することを得れば、思惟に宜しく榮辱を同じくすべし。今、喬をして五六百兵を督せしめ、諸子弟と與に谷中に傳へしむ。」書、亮集に在り。〉年二十五、建興(元)[六]年に卒す。子に攀有り、官、行護軍翊武將軍に至る、亦た早に卒す。諸葛恪、吳に於いて誅せられれば、子孫、皆盡く、而して亮、自ら冑裔有るを以て、故に攀、還りて瑾が後と爲る。
諸葛瞻
瞻、字は思遠。建興十二年、亮、武功に出で、瑾に書して曰く、「瞻、今、已に八歲、聰慧にして愛すべく、其の早く成るを嫌ひ、恐らくは重器と爲らざるのみ。」と。年十七、公主を尚り、拜して騎都尉と爲す。其の明年、羽林中郎將と爲り、屢遷して射聲校尉、侍中、尚書僕射、軍師將軍を加へる。瞻、書畫を工み、強識念にして、蜀人、亮を追思し、咸、其の才敏を愛す。每に朝廷に一善政佳事有れば、瞻が所建倡する所に非ずと雖も、百姓、皆、相傳へて告げて曰く、「葛侯が爲す所也。」と。是を以て美聲溢譽し、其の實に過ぎたる有り。景耀四年、行都護衛將軍と爲り、輔國大將軍南鄉侯董厥と與に竝び尚書事を平らぐ。六年冬、魏の征西將軍鄧艾、蜀を伐ち、陰平より景谷道傍を由りて入る。瞻、諸軍を督して涪に至りて停住し、前鋒破れ、退還し、綿竹に住す。艾、書を遣はして瞻を誘ひて曰く、「若し降る者有らば、必ず表して琅邪王と爲さん。」と。瞻、怒り、艾が使を斬る。遂に戰ひ、大敗し、陣に臨み死す、時に年三十七。衆皆離散し、艾、長驅して成都に至る。瞻が長子尚、瞻と與に俱に沒す。〈干寶曰く、瞻、智、以て危を扶くるに足らず、勇、以て敵を拒むに足らざるも、而して能く外に國に負かず、內に父の志を改めず、忠孝、存す。《華陽國志》に曰く、尚、嘆きて曰く、「父子、國の重恩を荷ひ、早く黃皓を斬らず、以て傾敗に至る、生きて何を爲さん!」と。乃ち魏軍に馳せ赴き死す。〉次子に京及び攀の子に顯等有り、咸熙元年之內、河東に移す。〈案ずるに《諸葛氏譜》に云ふ、京、字は行宗。《晉泰始起居注》に載せる詔に曰く、「諸葛亮、蜀に在り、其の心力を盡し、其の子瞻、難に臨みて義に死す、天下の善一也。」其の孫、京、才に隨ひて吏を署し、後、郿令と爲る。尚書僕射山濤が《啓事》に曰く、「郿令諸葛京は、祖父は亮、漢亂に遇ひて分隔し、父子、蜀に在り、天命に達せずと雖も、要するに盡心所事と爲す。京、郿を治むること自ら復た稱有る、臣、以爲へらく、宜しく東宮舍人に補し、以て人を事ふるの理を明かにし、梁、益の論に副ふべし。」と。京、位、江州刺史に至る。〉
董厥
董厥なる者は、丞相亮の時、府令史と爲り、亮、之を稱へて曰く、「董令史は良士也。吾、每に之と與に言ふに、思慎宜適なり。」と。徙して主簿と爲す。亮が卒する後、稍々遷りて尚書僕射に至り、陳祗に代はりて尚書令と爲り、大將軍に遷り、平台事を以てす、而して義陽の樊建、之に代はる。〈案ずるに《晉百官表》に、董厥、字は龔襲、亦た義陽の人。建の字は長元。〉延熙(二)十四年、校尉を以て吳に使ふ、孫權の病篤きに値ひ、自ら建を見ず。權、諸葛恪に問ひて曰く、「樊建は何如なるか宗預也?」と。恪、對へて曰く、「才識は預に及ばず、而して雅性は之に過ぐる。」と。後、侍中と爲り、中書令を守る。瞻、厥、建が事を統ぶるより、姜維、常に征伐外に在り、宦人黃皓、機柄を竊弄し、咸、共に將護して、能く匡矯する無し。〈孫盛《異同記》に曰く、瞻、厥等は維が好戰して功無く、國內疲弊せると以爲へり、宜しく後主に表して、召還して益州刺史と爲し、其の兵權を奪ふべしと。蜀の長老、猶ほ瞻が閻宇を以て維に代ふの故事を以て表と爲す。晉の永和三年、蜀史常璩、蜀の長老に説いて云く、「陳壽は嘗て瞻が吏と爲り、瞻が辱むる所と爲る、故に此の事に因りて黃皓に惡を歸し、而して瞻の能く匡矯する能はざると云ふ也。」と。〉然れども建は特に皓と好往來せず。蜀の破るるの明年春、厥、建、俱に京都に詣で、同じく相國參軍と爲り、其の秋、竝びに散騎常侍を兼ね、蜀の使をして慰勞せしむ。〈《漢晉春秋》に曰く、樊建、給事中と爲り、晉の武帝、諸葛亮の治國を問ふに、建、對へて曰く、「惡を聞けば必ず改め、而して過を矜らず、賞罰の信、神明を感ずるに足る。」と。帝曰く、「善きかな!使はくは我、此の人を得て以て自ら輔くれば、豈に今日の勞有らんや!」と。建、稽首して曰く、「臣、竊かに天下の論を聞くに、皆、鄧艾は枉見すと謂ひ、陛下、知りて理せず、此れ豈に馮唐が所謂『頗、牧を得ると雖も用ふる能はざる』と者なるか!」と。帝、笑ひて曰く、「吾、方まさに之を明かにせんと欲す、卿が言は我が意を起こす。」と。是に於いて詔を発して艾を治む焉。〉
評
評に曰く、諸葛亮の相國と爲るや、百姓を撫し、儀軌を示し、官職を約し、權制に從ひ、誠心を開き、公道を布く。盡忠益時なる者は讎と雖も必ず賞し、法を犯し怠慢なる者は親と雖も必ず罰す、罪を服し情を輸する者は重きと雖も必ず釋し、游辭巧飾する者は輕きと雖も必ず戮す。善は微に無くんば賞せざる無く、惡は纖に無くんば貶せざる無し。庶事精練にして、物を其の本を理め、名に循ひて實を責め、虛偽は齒とせず。終に邦域の內、咸、畏れ而して之を愛す、刑政峻きと雖も怨む者無きは、其の用心平らにして勸戒明らかにするを以て也。識治の良才、管、蕭の亞匹と謂ふ可き矣。然れども連年、衆を動かすも、未だ成功する能はざるは、蓋し應變將略、其の長とする所に非ざるか!
〈《袁子》に曰く、或いは諸葛亮は何如なる人と問ふ、袁子曰く、張飛、關羽、劉備と俱に起ち、爪牙腹心の臣、而して武人也。晚く諸葛亮を得、因りて以て佐相と爲し、而して群臣、悅服す、劉備、信ずるに足る、亮は重きに足る故也。其の六尺の孤を受け、一國の政を攝するに及び、凡庸の君に事へ、權を專らにして禮を失はず、君の事を行ひて國人疑はず、此の如ければ即ち以て君臣百姓の心、欣戴する矣。法を行ふこと嚴にして國人悅服し、民を用ふるに其の力を盡くせば而して下、怨まず。其の兵、出入すること賓の如く、行くこと寇せず、芻蕘の者は獵せず、國中に在るが如し。其の兵を用ふるや、止まること山の如く、進退すること風の如く、兵を出すの日、天下震動すれども、而して人心憂へず。亮、死して今數十年、國人、歌ひ思ふこと、周人の召公を思ふが如し。孔子曰く「雍は以て南面す可し」と、諸葛亮、焉に有り。又、諸葛亮、始めて隴右に出づれば、南安、天水、安定の三郡人、之に應ず、若し亮、速に進まば、則ち三郡は中國の有に非ざる也、而るに亮、徐行して進まず、既にして官兵隴に上れば、三郡復す、亮、尺寸の功無く、此の機を失ふ、何ぞや?袁子曰く、蜀兵輕銳、良將少なし、亮、始めて出づれば、未だ中國の彊弱を知らず、是を以て疑ひて之を嘗むるなり。且つ大會する者は近功を求めず、進まざる所以なり。曰く、何を以て其の疑ふを知るや?袁子曰く、初めに出ること遅重、屯營重複、後、降を轉ぜて未だ兵を進めて戰はんと欲す、亮、勇にして能く鬥ふ、三郡反るも速に応ぜざる、此れ其の疑徵なり。曰く、何を以て其の勇にして能く鬥ふを知るや?袁子曰く、亮が街亭に在るや、前軍大いに破れ、亮、屯去ること數里、救はず、官兵相接す、又、徐行す、此れ其の勇也。亮が軍を行るや、安靜にして堅重なり、安靜なれば則ち易く動き、堅重なれば則ち以て進退す可し。亮、法令明にして、賞罰信有り、士卒、命を用ゐ、險に赴きて顧みず、此れ能く鬥ふ所以也。曰く、亮、數萬の衆を率ゐて、其の興造する所、數十萬の功の如し、是れ其の奇なる者也。至る所、營壘、井竈、圊溷、籓籬、障塞、皆、繩墨に應じ、一月の行、之を去ること始め至るが如し、勞費にして徒に飾好を爲す、何ぞや?袁子曰く、蜀人、輕脫、亮、故に堅く之を用ふる也。曰く、何を以て其の然るを知るや?袁子曰く、亮、實を治め名を治めず、志大にして欲する所遠く、近速を求める者にあらざる也。曰く、亮、官府、次舍、橋梁、道路を治むることを好む、此れ急務に非ず、何ぞや?袁子曰く、小國、賢才少なし、故に其の尊嚴ならんと欲する也。亮が蜀を治むるや、田疇、辟け、倉廩、實ち、器械、利く、蓄積、饒り、朝會華ならず、路に醉人無し。夫れ本立ちて故に末治る、餘力有りて然る後に小事に及ぶ、此れ其の功を勸むる所以也。曰く、子の諸葛亮を論ずるや、則ち證有り。亮が才を以て其の功の少なきは、何ぞや?袁子曰く、亮は、本を持つ者也、其の應變に於いては、則ち長とする所に非ざる也、故に敢て其の短を用ひず。曰く、然れば則ち吾子、之を美と爲す、何ぞや?袁子曰く、此れ固より賢者の遠き矣、安んぞ以て備體に責められんや。夫れ能く短とする所を知りて用ゐざるは、此れ賢者の大也。短とする所を知れば則ち長とする所を知る矣。夫れ前識と言と中たらざるは、亮の用ゐざる所也、此れ吾が所謂可と爲す也。吳の大鴻臚張儼、默記を作れば、其の佐篇を述べて亮と司馬宣王の書を論じて曰く、漢朝傾覆し、天下崩壞し、豪傑の士、神器を競ひ希む。魏氏、中土を跨ぎ、劉氏、益州に據り、竝びに兵を海內に稱し、世の霸主と爲る。諸葛、司馬の二相、際會に遭值し、身を明主に託し、或いは功を蜀、漢に收め、或いは名を伊、洛に冊す。丕、備、既に沒し、後嗣、統を繼ぎ、各々保阿の任を受け、幼主を輔翼し、然諾の誠に負かず、亦た一國の宗臣、霸王の賢佐也。前世を歴て近事を觀るに、二相の優劣、得るべく詳らかなる也。孔明は巴、蜀の地より起こり、一州の土を蹈む、之を大國に方すれば、其の戰士人民は、蓋し九分の一有り、而して貢贄を以て大吳と爲し、北敵と對抗し、至りて耕戰に伍有り、刑法整齊、步卒數萬を提げ、長驅して祁山に到り、慨然として河、洛に馬を飲めんとするの志有り。仲達は天下十倍の地を據り、兼倂の衆を仗り、牢城を據り、精銳を擁し、敵を禽せんとするの意無く、務めて自ら保全するのみ、彼をして孔明をして自ら來たり自ら去らしむ。若し此の人、亡びず、其の志意を終へば、連年、運思し、刻日して謀を興せば、則ち涼、雍は甲を解かず、中國、鞍を釋さず、勝負の勢、亦た已に決せり。昔、子產は鄭を治め、諸侯敢て兵を加へず、蜀相、其れ之に近し矣。之を司馬に方すれば、亦た優ならずや?或いは曰く、兵は兇器、戰は危事也、國有る者は境內を保安し、百姓を綏靜せんと務めずして、土地を開闢し、天下を征伐することを好むは、未だ計を得たりと爲さず也。諸葛丞相、誠に匡佐の才有るも、然れども孤絶の地に處り、戰士、五萬に滿たず、自ら關を閉ぢ險を守り、君臣、事無きに可なり。空しく師旅を勞し、歲として征せざる無く、未だ咫尺の地を進め、帝王の基を開く能はずして、國內をして其の荒殘を受けしめ、西土に其の役調を苦しむ。魏の司馬懿は才、兵衆を用ふ、未だ易く輕んず可からず、敵を量りて進むは、兵家の慎む所なり。若し丞相、必ず以て之を策する所有らば、則ち未だ坦然の勳を見ず、若し之を裁するに策無くんば、則ち明哲の謂に非ず、海內歸向の意也、余、竊かに之を疑ふ、請ふ、其の説を聞かん。答へて曰く、蓋し聞く、湯は七十里を以て、文王は百里の地を以て、天下を有つ、皆、征伐を用ゐて之を定む。揖讓して王位に登る者は、惟だ舜、禹のみ。今、蜀、魏、敵戰の國と爲り、勢ひ俱に王たる可からず、操、備の時より、彊弱懸殊、而るに備、猶ほ兵を出して陽平し、夏侯淵を禽とす。羽、襄陽を圍み、曹仁を降伏せんと將し、于禁を生け獲る、當時、北邊、大小、憂懼し、孟德、身ら南陽に出づ、樂進、徐晃等、救ひを爲すに、圍、即ち解けず、故に蔣子通が彼時、許を徙して河を渡らんとするの計有りと云ふ、會ふ、國家、南郡を襲取り、羽、乃ち軍を解く。玄德と操、智力の多少、士衆の衆寡、兵を用ひ軍を行るの道、同年して語る可からず、猶ほ暫く以て勝を取る能ふ、是の時、又た大吳が掎角の勢も無き也。今、仲達が才、孔明に減ずる、當時、勢、曩日と異なり、玄德、尚ほ與に抗衡す、孔明、何を以て出軍して敵を圖る可からざる邪?昔、樂毅は弱燕の衆を以て、從う五國の兵を兼ね、長驅して彊齊を下し、七十餘城を下す。今、蜀漢の卒、燕軍に少なからず、君臣の接、樂毅に信有り、加ふるに國家、脣齒の援と爲り、東西相應し、首尾蛇の如し、形勢重大にして、五國の兵に比ならず也、何ぞ彼を憚りて可からざらんや?夫れ兵は奇を以て勝ち、敵を制するは智を以てす、土地の廣狹、人馬の多少、未だ偏に恃む可からざる也。余、彼が國を治むるの體を觀るに、當時、既に肅整なり、遺教、後に在り、其の辭意、懇切にして、進取の圖を陳べ、忠謀謇謇として、義、主に形はる、古の管、晏と雖も、何を以て之を加へんや?〉
〈《蜀記》に曰く、晉の永興中、鎮南將軍劉弘、隆中に至り、亮が故宅を觀、碣を立てて閭を表し、太傅掾犍爲の李興に命じて文を爲らしめて曰く、「天子、我に命じて、沔の陽に於いて、鼓鼙を聽きて永く思ひ、庶幾はくは先哲の遺光を、隆山に登りて以て遠望し、諸葛が故郷を軾せしむ。蓋し神物、機に應じ、大器、方無く、通人、滯無く、大德、常ならず。故に谷風發すれば騶虞嘯き、雲雷昇れば潛鱗驤る。摯、三聘に褐を解き、尼、招きを得て裳を褰げ、管、命を受けて豹變し、貢、感激して以て莊を回す、徐生の寶を摘むを異とし、臥龍を深藏より釋く、偉なるかな劉氏の傾蓋、嘉なるかな吾子が周行。夫れ己を知るの主有れば、則ち命を竭すの良有り、固より我漢鼎を三分し、我邊荒を跨帶し、我北面に抗衡し、我魏疆を馳騁する所以也。英なるかな吾子、獨り天靈を含み、豈に神の祇か、豈に人の精か、何の思ひ深き、何の德の清き!異世通夢、恨むらくは同生ぜざることを。子の八陣を推す、孫、吳に在らず、木牛の奇、則ち般模に非ず、神弩の功、一何ぞ微妙なる!千井齊しく甃ひ、又た何の祕要なる!昔、顛、夭に在りては、名有りて跡無し、孰れか吾儕の、良籌妙畫なるに若かん?臧文、既に沒し、言を以て稱せられ、又た未だ子の、言行竝び徵するに若かざる也。夷吾は坫を返し、樂毅は終らず、奚ぞ爾に比せん、明哲、沖を守る。臨終、受寄し、過を讓ること許由が如く、扆を負ひ事に臨み、民言流さず。刑は鄭に中たり、教は魯に美し、蜀民、恥を知り、河、渭安堵す。皋に非ざれば伊、寧ろ彼の管、晏か、豈徒に聖宣、慷慨として屢たび歎ずるのみならんや!昔、爾が隱るるは、惟だ此の宅を卜し、仁智の處する所、能く規廓無からんや。日居月諸、時、其の夕に殞す、誰か能く沒せざらん、貴きは遺格有る也。惟だ子の勳、風を移して世を來たし、餘典を詠歌せば、懦夫將に厲まん。遐きかな邈きかな、厥の規、卓きかな、凡そ吾子が若きは、究む可きに難し已。疇昔の乖、萬里、塗を殊にす、今、我、來りて思ひ、爾が故墟を覿る。漢高、豐、沛に魂を歸し、太公、五世にして周に反る、罔兩を想ひて髣髴し、影響の餘有らんことを冀ふ。魂にして靈あらば、豈に其れ諸を識らんや!」と。王隱《晉書》に云ふ、李興は、密の子、一名は安なり。
最終更新:2025年01月03日 23:15