漢文・漢文法基礎 > 十八史略 全文目次 > 東晋

5. 十八史略 東晉 (2012-01-26 08:32:17)

西晋の滅亡に際して多くの貴族が江南の地に疎開して、呉の旧都建業に同じ司馬氏を推戴して東晋を建てた(317年)。同時に中原の文化も移入され、江南の風土と融合して独自の文化を生み出した。

中宗元皇帝名睿、瑯琊王伷之孫也。宣帝懿生伷、伷生覲。或曰、睿母實與瑯琊小吏牛金通而生睿。嗣覲爲王。於惠・懐爲再從兄弟。懐帝時、睿爲安東將軍、都督揚州諸軍、鎭建業。睿以王導爲謀主、毎事咨焉。睿名論素輕。呉人初不附。導勷用諸名勝。顧榮・賀循・紀瞻等爲掾屬、撫綏新舊。江東歸心焉。後又得庾亮・卞壺等百餘人。謂之百六掾。

中宗元皇帝名は睿、瑯琊王伷(ろうやおう、ちゅう)の孫なり。宣帝懿(い)伷を生む。伷覲(きん)を生む。或いは曰く、「睿の母、実は瑯琊の小吏牛金と通じて睿を生めり」と。覲に嗣(つ)いで王と為る。恵・懐に於いては再従兄弟たり。懐帝の時、睿、安東將軍、揚州の諸軍に都督(ととく)し、建業に鎮(ちん)す。睿、王導を以って謀主(ぼうしゅ)と為し、事毎に咨(と)う。睿、名論素(もと)より軽し。呉人初め附かず。導、勧めて諸々の名勝を用う。顧栄(こえい)・賀循(がじゅん)・紀瞻(きせん)等掾属(えんぞく)と為り、新旧を撫綏(ぶすい)す。江東心を帰す。後又、庾亮(ゆりょう)・卞壺(べんこ)等百餘人を得たり。之を百六掾(えん)と謂う。

都督 地方の軍隊をとりしまる官。 再従兄弟 またいとこ。 鎮す 一地域を守備する。 謀主 主となって政策をめぐらす人、参謀。 名論 名誉と評判。 名勝 名望の勝れたひと、名士。 掾属 下役、属官。 撫綏 人民を安んずること。 

中宗元皇帝は名を睿という。瑯琊王伷の孫である。宣帝の懿が伷を生み、伷が覲を生んだ。或いは「睿の母は、実は瑯琊の小役人牛金と密通して睿を生んだ」という者もいた。覲の後を嗣いで王となった。恵帝と懐帝とは再従兄弟のあいだ柄である。懐帝の時に睿は安東將軍となり、揚州の諸軍を統率し、建業を守備していた。睿は王導を参謀にして何事によらず相談した。睿は名声、評判もそれほどはなく、初めから呉の人は心服していた訳ではなかった。そこで王導が勧めて、多くの地元の名士を用いることとし、顧栄・賀循・紀瞻等を補佐官に任用して、新天地に落ち着いた民と、旧くからの者を共にいつくしんだので、江東の人々も心を寄せるようになった。その後庾亮や卞壺ら百余人の名望家を得た。これを百六掾といった。

6. 十八史略 父母を喪(そう)するが若(ごと)し (2012-02-07 09:48:31)

晉豫州刺史祖逖卒。初逖取譙城、進屯雍丘。後趙鎭戍、歸逖者甚衆。逖與將士同甘苦、勸課農桑、撫納新附。帝以戴淵爲將軍、來督諸軍事。逖以己剪荊棘収河南地、而淵雍容一旦來統之、意甚怏怏。又聞王敦與朝廷構隙、將有内難、知大功不遂、感激發病卒。豫州士女、若喪父母。
鮮卑慕容廆、先是嘗遣使于晉、受帝命、爲平州刺史。至是以爲平州牧・遼東公。

晋の予州の刺史祖逖(そてき)卒(しゅっ)す。初め逖、譙城(しょうじょう)を取り、進んで雍丘(ようきゅう)に屯(たむろ)す。後趙の鎮戍(ちんじゅ)、逖に帰する者甚だ多し。逖、将士と甘苦を同じうし、勧めて農桑(のうそう)を課し、新附(しんぷ)を撫納(ぶのう)す。帝、戴淵(たいえん)を以って将軍と為し、来って諸軍の事を督せしむ。逖、己が荊棘(けいきょく)を剪(き)って河南の地を収めしに、淵、雍容(ようよう)として一旦来たって之を統(す)ぶるを以って、意甚だ怏怏(おうおう)たり。又王敦(おうとん)の朝廷と隙(げき)を構えて、将に内難有らんとするを聞いて、大功の遂げざるを知り、感激し病を発して卒す。予州の士女、父母を喪(そう)するが若(ごと)し。
鮮卑の慕容廆(ぼようかい)、是より先、嘗て使いを晋に遣わし、帝の命を受けて、平州の刺史と為る。是(ここ)に至って以って平州の牧・遼東公と為す。

譙城 河南省の県。 雍丘 安徽省の県名。 鎮戍 守備兵。 農桑 農耕と養蚕。 新附 新たに付き従う。 撫納 受け入れて慈しむこと。 雍容 ゆうゆうと、ゆったりと。 怏怏 不満、楽しまない様子。 感激 強く感じること。 牧 長官。

晋の予州の刺史祖逖が死んだ。初め逖は譙城を攻略し、進んで雍丘に駐屯した。後趙の守備兵で逖に帰順する者が続出した。それは部下と苦楽を共にして、兵士に農耕と養蚕を割り振って行なわせ、新たに帰服した者も手厚く受け入れた。ところが元帝が戴淵を将軍に任命して、諸軍を監督させた。祖逖は、自身がいばらの道を切り開いて河南の地を平定したにも拘わらず、戴淵が何の苦労もせずに乗り込んで来て統率させたので、祖逖は鬱々として楽しまずにいたところ、王敦が朝廷と対立し、今にも内乱にならんとしているのを聞いて、もはや中原を奪回することが絶望的であると悟り、憤激のあまり病を発して死んだのである。予州の人々は自分の父母を亡くしたように悲しんだ。
鮮卑の慕容廆は、嘗て使者を晋に送り、元帝から平州刺史の命を受けていたが、ここに至ってさらに平州の長官として、遼東公に任命した。

7. 十八史略 拓跋猗盧、王となる (2012-02-09 09:21:53)

初拓跋祿官死。猗盧總攝三部。劉琨與猗盧結爲兄弟。懷帝時、表爲大單于。封代公、帥、自雲中入雁門。琨與以陘北之地。由是盛。嘗爲琨援、大敗劉曜之兵於晉陽。猗盧城成樂爲北都、平城爲南都。愍帝進猗盧爵爲王、置官屬、食代・常山二郡。

初め拓跋祿官(たくばつろくかん)死す。猗盧(いろ)三部を総摂(そうせつ)す。劉琨、猗盧と結んで兄弟と為る。懐帝の時、表して大単于と為す。代公に封ぜられ、を帥(ひき)いて、雲中(うんちゅう)より雁門に入る。琨、与うるに陘北(けいほく)の地を以ってす。是に由って益々盛んなり。嘗て琨の援と為り、大いに劉曜の兵を晋陽に敗(やぶ)る。猗盧、成楽に城(きづ)いて北都と為し、平城を南都と為す。愍帝(びんてい)、猗盧の爵を進めて王と為し、官属を置き、代・常山の二郡を食(は)ましむ。

拓跋 鮮卑族の索頭の長(1月17日参照)力微―悉鹿―綽―弗―禄官―猗盧と続いた。総摂 全てを受け継ぐ。 雲中 山西省内の県名。雁門 山西省の中の郡名。 陘北 井陘の北。 成楽 綏遠省(すいえんしょう)の地名。 平城 山西省の県名。 官属 属官。 代と常山 ともに河北省の県名。

これより前、拓跋の禄官が死に、甥の猗盧が三部を引き継いだ。劉琨は猗盧と兄弟の契りを結び、懐帝に上表して猗盧を大単于にした。やがて代公に封ぜられて、部族を率いて雲中から雁門に入った。劉琨は井陘以北の地を与え、猗盧はこれによってますます盛んになった。ある時、劉琨の援軍となって晋陽で劉曜の軍を大敗させたことがあった。猗盧は成楽に城を築いて北都とし、平城を南都とした。愍帝は猗盧の爵位を進めて王とし、属官を置き代と常山の二郡を食邑として与えた。

8. 十八史略 鮮卑、骨肉の争い (2012-02-11 11:40:06)

猗盧愛少子、欲立爲嗣、而出其長子六脩、使六脩拝其弟、不從而去。大怒討之、兵敗而遇弑。猗它之子普根、討滅六脩而自立、尋卒。國人立猗盧弟之子鬱律。至是猗它之妻殺鬱律、而立其子賀■。鬱律子什翼犍在襁褓。母匿之袴下、得不殺。

猗盧少子を愛し、立てて嗣(し)と為さんと欲して、其の長子六脩(りくしゅう)を出し、六脩をして其の弟を拝せしむるに、従わずして去る。大いに怒って之を討ち、兵敗れて弑(しい)に遇う。猗它(いだ)の子普根(ふこん) 六脩を討滅して自ら立ち、尋(つ)いで卒す。国人猗盧が弟の子鬱律(うつりつ)を立つ。是(ここ)に至って猗它の妻、鬱律を殺して、其の子賀■(がとく)を立つ。鬱律の子什翼犍(じゅうよくけん) 襁褓(きょうほ)に在り。母之を袴下に匿(かく)して、殺されざるを得たり。

出し 宮中から出す。 猗它 它は施のつくりの部分、仮に它とした。 尋 間もなく。 ■ にんべんに辱。 襁褓 産着、おしめ、転じて乳飲み児の意。

猗盧は末子を寵愛し、後嗣ぎにしようとして長子の六脩を宮中から追い出し、弟を拝礼させようと命じたが、六脩は従わずに去った。怒った猗盧は六脩を討ったが、返って敗れて弑殺されてしまった。猗它の子の普根が六脩を討ち滅ぼして自立したが間もなく死んだ。そこで索頭の人々は猗盧の弟の子の鬱律を立てた。ところがここにきて猗它の妻が鬱律を殺して、自分の子の賀■を立てた。鬱律の子の什翼犍は未だ乳飲み児で母の袴の下に隠されて、殺戮から免れた。

9. 十八史略 王敦、功を恃んで驕恣なり (2012-02-14 08:30:50)

晉荊州刺史王敦反。初帝之始鎭江東也、敦與從弟導同心翼戴、推心任之、敦總征討、導專機政、羣從子弟、布列顯要。時人語曰、王與馬共天下。敦先領揚州刺史、都督征討諸軍。進爲鎭東大將軍、都督江・揚・荊・湘・交・廣六州諸軍事、江州刺史。尋領荊州。恃功驕恣。帝畏惡之。之引劉愧・刁協爲腹心、稍抑損王氏權。導亦漸見疎外。

晋の荊州の刺史王敦(おうとん)反す。初め、帝始めて江東を鎮(ちん)するや、敦、従弟導と心を同じうして翼戴し、心を推してこれに任じ、敦は征討を総(す)べ、導は機政を専(もっぱ)らにし、群従子弟、顕要に布列す。時人(じじん)語して曰く「王と馬と天下を共にす」と。敦、先に揚州の刺史を領し、征討の諸軍を都督す。進んで鎮東大将軍・都督江・揚・荊・湘・交・広、六州の諸軍事、江州の刺史となる。

9. 十八史略 王敦、功を恃んで驕恣なり (2012-02-14 08:30:50)(続き)

尋(つ)いで荊州を領す。功を恃んで驕恣(きょうし)なり。帝、畏れて之を悪(にく)む。乃ち劉愧(りゅうかい)・刁協(ちょうきょう)を引いて腹心と為し、稍(やや)王氏の権を抑損す。導も亦漸(ようや)く疎外せらる。

翼戴 盛り立てる。 推心 まごころを披瀝する。 総 統に同じ、統括する。 機政 政治の要、枢機。 顕要に布列 顕官要職に列する。 江・揚・荊・湘・交・広 江(江西)・揚(江南)・荊(湖北)・湘(湘南)・交(交趾)・広(広東)。 都督全軍を統帥し、正す官。 驕恣 驕慢放恣。 見 助辞、・・らる、せらる。

晋の荊州の刺史王敦が元帝に叛いた(322年)。王敦は初め元帝が江東を鎮定するにあたって、従弟の王導と心を一つにして援け盛り立て、元帝もまた真心を披瀝して二人を重用してきた。王敦は軍事統帥し、王導は政治の枢機にあずかった。その従弟や甥は高位顕官に名を列ねた。人々は「王氏と司馬氏が天下を共有している」と語り合った。
王敦はまず揚州刺史となり、征討の諸軍を統括していたが、やがて鎮東大将軍、江・揚・荊・湘・交・広の州軍事都督となり、荊州の刺史にもなった。そのため、功績をたのみ、おごり高ぶって、わがままに振るまうようになった。元帝は次第に王敦を恐れ嫌った。そこで劉愧と刁協を引き入れ腹心の家来とし、少しずつ王氏の権勢を削(そ)いでいった。王導もまた次第に疎んぜられるようになった。

10. 十八史略 周(しゅうぎ)、申救甚だ至れり (2012-02-16 14:05:20)

敦參軍錢鳳等凶狡。知敦有異志、陰爲畫策、至是敦遂兵武昌、以誅劉愧・刁協爲名。愧・協勸帝盡誅王氏。帝不許。導率宗族、毎旦詣臺待罪。周將入。導呼之曰、伯仁以百口累卿。不顧。入見帝、言導忠誠、申救甚至。帝納其言。醉而出。導又呼。不與言。顧左右曰、今年殺諸賊奴、取金印如斗大繫肘後。既出、又上表明導無罪。

敦の参軍銭鳳(せんほう)等凶狡(きょうこう)なり。敦の異志有るを知って、陰(ひそか)に為に画策せしが、是に至って敦遂に兵を武昌に挙げ、劉愧・刁協を誅するを以って名と為す。愧・協、帝に勧めて尽く王氏を誅せんとす。帝許さず。導、宗族を率いて、毎旦台に詣(いた)って罪を待つ。周(しゅうぎ)、将(まさ)に入らんとす。導、之を呼んで曰く「伯人(はくじん)百口を以って卿を累(わずら)わさん」と。顧みず。入って帝に見(まみ)え、導の忠誠を言い、申救(しんきゅう)甚だ至れり。帝、其の言を納(い)る。酔うて出づ。導又呼ぶ。、言を与(ま)たず、左右を顧みて曰く、「今年諸賊奴を殺し、金印の斗大の如くなるを取って肘後(ちゅうご)に繫(か)けん」と。既にして出で、又表を上(たてまつ)って導の罪無きを明らかにす。

参軍 軍事参与。 台 罪を裁く御史台のこと。 周 1月29日の記事中に周(しゅうがい)と読んだが、訂正します。 伯人 周のあざな。 百口 百人、一族こぞって。 申救 申し述べて助け救うこと。 不與言 他のテキストでは「ともに言わず」とある。 金印 黄金の印、諸侯の印。 斗大 一斗ますほどの大きさ。

王敦には参軍の銭鳳ら凶暴でずるがしこい者が多く、王敦に謀叛の心もちがあるのを察して、密かに敦の為に画策していたが、ここに至って、王敦は武昌で劉愧と刁協を誅するとして挙兵した。劉愧と刁協は王氏一族を残らず誅殺するよう勧めたが元帝は許さなかった。王導は一族を引き連れて毎朝御史台に赴き仕置きを待った。周が参内のため通りかかった。王導は呼びとめて「周どのを煩わして、一族百人の口にかえて、あなたのお口添えをお願いしたい」と言ったが、周は見向きもせずに通り過ぎた。参内して元帝に拝謁すると、王導の忠誠を言葉を尽して申し立てた。帝もその言を受け納れた。周が酔って退出するところを王導が待ちうけて、又声をかけた。周は耳を貸さずに、左右の者に「今年は賊どもを成敗して大きな金印を賜り、肩から吊るすとしよう」と聞こえよがしに語った。しかし、帰ると早速上書して王導の無罪を訴えた。

11. 十八史略 王敦叛し、元帝崩ず (2012-02-18 09:14:03)

幽冥の間、此の良友に負く

導不知恨之。帝召見導。導稽首曰、亂臣賊子、何代無之。不意今者近出臣族。帝跣而執其手曰、茂弘、方寄卿以百里之命。以爲前鋒大都督。敦至石頭城據之。曰、吾不復得爲盛事矣。協・隗等分道出戰、大敗而還、帝令百官詣石頭見敦。敦殺周。導不救。後料撿中書故事、見表、執之流涕曰、吾雖不殺伯仁、伯仁由我而死。幽冥之、負此良友。敦不朝而去、還武昌。帝憂憤成疾而崩。在位六年。改元者三。曰建武・大興・永昌。太子立。是爲肅宗明皇帝。

導知らずして之を恨む。帝召して導を見る。導稽首(けいしゅ)して曰く、「乱臣賊子、何れの世にか之無からん。意(おも)わざりき、今者(いま)近く臣が族に出でんとは」と。帝、跣(せん)して其の手を執って曰く、「茂弘、方(まさ)に卿に寄する百里の命を以ってせん」と。以って前鋒大都督と為す。敦、石頭城に至って之に拠(よ)る。曰く、「吾復盛徳の事を為すを得ず」と。協・隗(かい)等道を分って出でて戦い、大いに敗れて還る。
帝、百官をして石頭に詣(いた)って敦を見しむ。敦、周を殺す。導救わず。
後、中書の故事を料撿(りょうけん)しての表を見、之を執って流涕して曰く、「吾、伯仁を殺さずと雖も、伯仁我に由(よ)って死す。幽冥の間、此の良友に負(そむ)く」と。敦、朝(ちょう)せずして去り、武昌に還る。帝、憂憤して疾(やまい)を成して崩ず。在位六年。改元する者(こと)三、建武(けんぶ)・大興・永昌と曰う。太子立つ。是を肅宗明皇帝と為す。

稽首 首が地に着くほど深く拝すること。 跣して はだしで駆け寄ること。 茂弘 王導のあざな。 百里の命 百里四方の行政区の政令。 盛徳 すぐれた徳。 導救わず 周が王敦に捕えられたとき、王敦から王導に打診があったが王導は答えず、助命しなかったこと。 料撿 調査。 幽冥の間 幽冥はかすかで暗いこと、知らない間。

王導はそれと知らずに周に恨みをいだいた。元帝は程なく王導を召しだした。王導は額を地に付かんばかりにひれ伏して「乱臣賊子はいつの世にもあるものでございます。それが私めの身内から出ようとは思いもしませんでした」と申し上げた。元帝は履もはかずに駆け寄り、その手をとって「茂弘よ、そなたにこの国の政治を託そうと思っていたところぞ」と言い、前鋒大都督に任命した。
一方王敦は石頭城に至ってそこに立て籠もり「もうこうなっては後には引けぬ、徳高い振るまいなどできない」と言った。劉愧と刁協は二手に分かれて王敦と戦い大敗して還った。元帝は百官を石頭に遣って王敦を説得したが、その折、周等を捕えて殺したが、王導はあえて助命しなかった。
その後、王導が中書省で記録を調べていたところ、嘗ての周の上書を見つけた。王導はそれを手に握ったまま、涙を流してこう言った「私は伯仁を殺しはしなかったが、彼は私のせいで死んだのだ、ああ何も知らぬ間に真実の友に背いてしまった」と。結局王敦は参代もしないで石頭を去り、武昌に戻ってしまった。元帝は心痛のため病いを発して崩御してしまった。在位六年で改元すること三度、建武・大興・永昌がそれである。太子が帝位に就いた。肅宗明皇帝である。

12. 十八史略 明帝 (2012-02-21 10:02:16)

布衣の交わり

肅宗明皇帝名紹。幼而聰慧。嘗有使者從長安來。元帝問紹曰、長安近歟、日近。紹曰、長安近。但聞人從長安來、不聞人從日邊來。元帝奇其對。一日與羣臣語及之、復以問紹。紹曰、日近。元帝愕然曰、何異者之言邪。紹曰、擧頭見日、不見長安。元帝奇之。及長仁孝。喜文辭善武藝、好賢禮士、受規諌、與廋亮・温嶠等、爲布衣交。敦在石頭。以其有勇略、欲誣以不孝而廢之。頼嶠等衆論沮其謀、至是即位。敦謀簒位、移屯姑熟、自領揚州牧。

粛宗明皇帝、名は紹。幼にして聡慧(そうけい)なり。嘗て使者有って長安より来たる。元帝、紹に問うて曰く、「長安近きか、日近きか」と。紹の曰く、「長安近し。但だ人の長安より来るを聞けども、人の日辺より来るを聞かず」と。元帝其の対(こたえ)を奇とす。一日群臣と語って之に及び、復た以って紹に問う。紹の曰く、「日近し」と。元帝、愕然として曰く、「何ぞ間者(このごろ)の言に異なるか」と。紹の曰く、「頭を挙ぐれば日を見て、長安を見ず」と。元帝益々之を奇とす。長ずるに及んで仁孝なり。文辞を喜び、武芸を善くし、賢を好み士を礼し、規諌(きかん)を受け、廋亮(ゆりょう)・温嶠(おんきょう)等と布衣(ふい)の交りを為す。
敦、石頭に在り。其の勇略あるを以って、誣(し)うるに不孝を以ってし之を廃せんと欲す。嶠等の衆論に頼(よ)って其の謀(はかりごと)を沮(はば)みしが、是(ここ)に至って位に即きぬ。敦、位を簒(うば)わんことを謀(はか)り、屯(とん)を姑熟(こじゅく)に移して、自ら揚州の牧を領す。

間者 先日。 布衣の交り 身分を超えた交り、布衣は無位無冠の者が着る。 誣 誣告(ぶこく)、罪をでっちあげること。 牧 地方長官。

粛宗明皇帝は名を紹といった。幼い頃から聡明で、利発であった。嘗て長安から使者が来たとき、元帝が紹に、「ここから長安は近いかな、それともお日様の方が近いかな」と問いかけると、紹は「長安の方が近いです。長安から人が来ることは聞きますけど、お日さまの辺りから人が来たとは聞いたことがございません」と答えた。帝は大変喜んで、あるとき群臣を前にこの話を持ち出して、また紹を呼んで同じことを聞いた。紹は「お日さまが近いです」と答えたので元帝は大変驚いて、「どうしてこの前と違うのか」と言うと紹は「頭をあげるとお日さまは見えますけれど、長安は見ることができません」と答えたので、元帝はますます感心した。成長するにつれて慈悲深く、孝心篤く文章に親しみ、武芸にも秀で、賢者を好み、士を礼遇して、諫言を聞き入れて、廋亮や温嶠らと身分を超えた交友を結んだ。
王敦は、石頭城にいたころ、紹が勇気機略に富んでいることを危惧し、親に叛こうとしていると、中傷して廃位にしようと画策したが、温嶠ら多くの人々の反論に遇ってつぶされてしまった。元帝が崩じて紹が帝位に即いた(323年)。
王敦はなおも帝位の簒奪を謀り、姑熟に駐屯地を移して、自ら揚州の長官となった。

13. 十八史略 王敦死す (2012-02-23 09:04:51)

黄鬚鮮卑の児来たれるか

以王導爲司徒、加大都督、督諸軍討敦。敦復反、發兵而病。使郭璞筮之。璞曰、明公起事、禍必不久。敦大怒曰、卿壽幾何。璞曰、命盡今日日中。敦斬之。帝自出覗敦軍。敦晝夢日環其營、驚悟曰、黄鬚鮮卑兒來耶。帝母鮮卑出也。亟遣人追之、不及。帝帥諸軍、出屯南皇堂、夜募壯士渡水、掩敦兄王含軍、大破之。敦聞含敗曰、我兄老婢耳。門戸衰、世事去。因作勢起欲自行、困乏復臥、尋卒。敦黨悉平。發敦屍斬之。有司奏罪王氏兄弟、詔曰、司徒導以大義滅親。將十世宥之。悉無所問。

王導を以って司徒と為し、大都督を加え、諸軍を督して敦を討つ。敦復た反し、兵を発して病む。郭璞(かくはく)をして之を筮(ぜい)せしむ。璞の曰く、「明公事を起こさば、禍(わざわい)必ず久しからじ」と。敦大いに怒って曰く、「卿の寿(じゅ)幾何(いくばく)ぞ」と璞の曰く「命、今日の日中に尽きん」と。敦之を斬る。
帝、自ら出でて敦の軍を覗(うかが)う。敦、昼、日その営を環(めぐ)ると夢み、驚き悟(さ)めて曰く「黄鬚(こうしゅ)鮮卑の児来たれるか」と。帝の母は鮮卑の出なり。亟(すみやか)に人をして之を追わしめしかど、及ばざりき。帝、諸軍を帥(ひき)いて、出でて南皇堂に屯し夜、壮士を募って水を渡り、敦の兄の王含が軍を掩(おお)って、大いに之を破る。敦、含の敗れしことを聞いて曰く「我が兄は老婢のみ。門戸衰え、世事去りぬ」と。因(よ)って勢いを作(な)し、起って自ら行かんと欲し、困乏して復た臥し、尋(つ)いで卒(しゅっ)す。敦の党悉く平らぐ。敦の屍(しかばね)を発(あば)いて之を斬る。有司、王氏の兄弟(けいてい)を罪せんと奏す。詔(みことのり)して曰く「司徒導は大義を以って親(しん)を滅せり。将(まさ)に十世之を宥(ゆる)さんとす」と。悉く問う所無かりき。

司徒 丞相のこと。 大都督 全軍の総司令官。 明公 地位のある人に対する尊称。 有司 司(役目)がある、官吏、役人のこと。

明帝は、王導を司徒とし、大都督を加え、全軍を指揮して王敦を討たせた。王敦は再び謀叛を企てたが、挙兵間際に病にかかった。郭璞を呼んで企ての成否を占わせた。郭璞は「公が事を起こされるなら必ず禍が公に及びましょう」と占いの結果を申し上げた。王敦は激怒して「ならばその方の寿命はあとどれだけか」と聞いた。郭璞は「今日の昼の内に尽きるでしょう」王敦は郭璞を斬り殺した。
明帝は自ら王敦の陣を探りに出かけた。王敦は昼寝していて陽が陣営の周りをめぐる夢を見て、「さては黄色い鬚の鮮卑の小僧が来たか」といった。明帝の母
明帝は諸軍を率いて出陣し、南皇堂に陣を布いた。勇者を募って夜半に河を渡り王敦の兄の王含の軍を襲撃し、散々に打ち破った。王敦は王含の敗報を聞くと、「兄貴は老いぼれの下婢と同じだ。何の役にも立たずに一門は衰え、天下の事もこれで終わった」と歎きつつも気力を振り絞って起ちあがり、自ら出陣しようとしたが、力尽きて臥し、次いで息をひきとった(324年)。王敦の残党がことごとく平らげられたうえ、王敦の墓もあばかれ、死体が斬に処せられた。王氏の同族をすべて処罰すべきだとの上奏が出されたが、明帝は「王導は大義のために肉親の情を断ち切った、これより先十世まで罪を許す」と詔を下し、罪を問わなかった。

14. 十八史略 陶侃 (2012-02-25 08:06:40)

吾、力を中原に致さんとす。故に労を習う以陶侃都督荊・湘等州諸軍事。侃少孤貧。孝廉范逵過之。侃母湛氏、截髪賣爲酒食。逵薦侃。遂知名。初爲荊州都督劉弘所用、討義陽叛蠻張昌、又討破江東叛將陳敏、又撃破湘州劇賊杜弢、自江夏太守、爲荊州刺史。王敦疾之、左遷廣州刺史。侃在州、朝運百甓於齋外、暮運於齋内。人問其故。答曰、吾方致力中原。故習勞耳。至是復鎭荊州。士女相慶。

陶侃(とうかん)を以って荊・湘等の州の諸軍事を都督せしむ。侃少にして孤貧なり。孝廉の范逵(はんき)之に過(よぎ)る。侃の母湛(たん)氏、髪を截(き)って売って酒食と為す。逵、侃を薦む。遂に名を知らる。初め荊州都督の劉弘の用うる所と為り、義陽の叛蛮(はんばん) 張昌を討ち、又江東の叛将陳敏を討ち破り、又湘州劇賊杜弢(ととう)を撃ち破り、江夏(こうか)の太守より、荊州の刺史と為る。王敦之を疾(にく)んで、広州の刺史に左遷す。侃州に在って、朝に百甓(へき)を齋外(さいがい)に運び、暮れに齋内に運ぶ。人其の故を問う。答えて曰く「吾方(まさ)に力を中原に致さんとす。故に労を習うのみ」と。是に至って復た荊州に鎮(ちん)す。士女相慶す。

孝廉 孝行、廉直であるとして各地方から推挙されて朝廷に出仕した孝廉科。 過る 立ち寄る。 叛蠻 謀反を起こした蛮族。 劇賊 劇は激しく強いこと。 百甓 甓は敷き瓦。

明帝は陶侃を荊州・湘州の諸軍事を都督させた。陶侃は幼いとき父を亡くして、貧しい暮らしをしていた。あるとき孝廉科に推挙された范逵が立ち寄ったとき、陶侃の母湛氏が髪を売って食事のもてなしに充てた。范逵はそれに感じて陶侃を推挙し、名を知られるようになった。初め荊州都督の劉弘の配下となり、義陽で謀反した張昌を討ち、次に江東の叛将陳敏を討ち破り、さらに湘州の強賊杜弢を撃破した。それで江夏郡の太守から荊州の刺史に昇進したが、王敦ににくまれて広州の刺史に左遷された。そのころ陶侃は毎朝百枚の敷き瓦を部屋から運び出し、毎晩それを部屋に運び入れた。ある人がその訳を尋ねると、「いずれ中原に力を振るうときがくる。そのときに備えて辛苦に馴れておくのだよ」と答えた。こうして又、荊州を鎮め治めることになった。荊州の人々は互いに喜びあった。

15. 十八史略 聖人寸陰を惜しむ。衆人当に分陰を惜しむべし (2012-02-28 08:53:35)

侃性聰敏恭勤。嘗曰、大禹聖人。乃惜寸陰。衆人當惜分陰。取諸參佐酒器蒱博具、悉投於江曰、樗蒱者牧猪奴戲耳。嘗造船、籍竹頭木屑而掌之。後正會雪霽地濕。以木屑布地。及後有征蜀之師、得侃竹頭作釘裝船。其綜理微蜜類此。
帝崩。在位三年。改元者一、曰太寧。太子立。是爲顯宗成皇帝。

侃の性、聡敏恭勤なり。嘗て曰く、「大禹(たいう)は聖人なり。乃ち寸陰を惜しめり。衆人は当(まさ)に分陰(ふんいん)を惜しむべし」と。諸々の参佐(さんさ)の酒器蒱博(ほはく)の具を取って、悉く江に投じて曰く「樗蒱(ちょほ)は牧猪奴(ぼくちょど)の戯れのみ」と。嘗て船を造るや、竹頭木屑(ちくとうぼくせつ)を籍(せき)して之を掌(つかさど)らしむ。後正会(せいかい)に雪霽(は)れ地湿う。木屑を以って地に布(し)く。後に蜀を征する師あるに及んで、侃の竹頭を得て釘を作り船を装す。其の綜理(そうり)の微蜜(びみつ)なること此れに類せり。
帝崩ず。在位三年。改元する者(こと)一、太寧と曰う。太子立つ。是を顯宗成皇帝となす。

禹 伝説上の聖王、夏の始祖といわれる。 寸陰 一寸の光陰、寸暇。 参佐 部下、下役人。 蒱博 博奕ばくち。 樗蒱 さいころバクチ、ちょぼいち。 綜理 統一して管理すること。 籍 記録すること。 正会 新年の朝会。 綜理 総合的処理。

陶侃は聡明で鋭敏なうえ、慎み深く勤勉であった。あるとき「大禹は聖人でありながら、一寸の光陰も惜しんだ。まして凡人は一分の光陰も惜しまねばならない」といった。また多くの部下の酒器やばくち道具をすべて揚子江に投げ入れてこう言った「賭博などは豚飼いのする遊びだ」と。
あるとき、船を造っていて余った竹の切れ端や木屑を記録して保管させた。その後正月の朝見の際に、雪は上がったがぬかるんだ地面に、とっておいた木屑を敷いた。また蜀を征伐する軍をおこしたとき、竹の切れ端で釘を作り、軍船を修理した。陶侃が統括するにあたって緻密なことは、万事がこのようであった。
明帝が崩じた。在位三年。改元すること一回、太寧といった。太子が立った。これを顕宗成皇帝といった。

16. 十八史略 成帝 (2012-03-01 09:12:45)

父は忠臣たり、子は孝子たり。何ぞ恨みん

顯宗成皇帝名衍。母庾氏。五歳即位。司徒導與帝舅中書令庾亮輔政。太后臨朝。
歴陽内史蘇峻反。峻前守臨淮。於王敦再犯闕時、入衞有功。威望漸著。及在歴陽、卒鋭器精。志輕朝廷、招納亡命。庾亮修石頭城以備之、建請徴峻爲大司農。峻擧兵陥姑孰。尚書令卞壺督軍、與峻力戰死。二子随之、亦赴敵死。母撫其屍曰、父爲忠臣、子爲孝子。何恨。庾亮出奔。峻兵犯闕。陶侃・温嶠、入討峻斬之。

顕宗成皇帝、名は衍(えん)。母は庾氏(ゆし)。五歳にして即位す。司徒導、帝の舅(きゅう)中書令の庾亮と政(まつりごと)を輔(たす)く。太后朝(ちょう)に臨む。
歴陽の内史蘇峻(そしゅん)反す。峻前(さき)に臨淮(りんわい)に守たり。王敦の再び闕(けつ)を犯しし時に於いて、入衛して功有り。威望(いぼう)漸く著(あら)わる。歴陽に在るに及んで、卒鋭に器精なり。志、朝廷を軽んじ、亡命を招納(しょうのう)す。庾亮石頭城を修して以って之に備え、建請(けんせい)して峻を徴(ちょう)して大司農と為す。峻、兵を挙げて姑孰(こじゅく)を陥(おとしい)る。尚書令卞壺(べんこ)軍を督し、峻と力戦して死す。二子之に随(したが)い、亦敵に赴いて死す。母其の屍を撫して曰く、「父は忠臣たり、子は孝子たり。何ぞ恨みん」と。庾亮出奔す。峻の兵、闕を犯す。陶侃(とうかん)・温嶠(おんきょう)、入って峻を討って之を斬る。

歴陽 今の安徽省の県名。 内史 書記官。 臨淮 安徽省の郡名。 闕 宮城。 卒鋭 兵卒が精鋭なこと。 器精 兵器が精剛なこと。 亡命を招納 亡命者を招きいれること。 建請 建議要請。 大司農 財務長官、実権は無かった。 姑孰 安徽省の地名。 

顕宗成皇帝は名を衍という。母は庾氏でわずか五歳にして即位した。司徒の王導と帝の舅にあたる中書令の庾亮とで政治を補佐し、太后が帝に代わって朝廷に臨んだ。
歴陽の内史、蘇峻が謀叛を起こした。蘇峻は以前臨淮郡の太守であった。王敦が二度目に宮城に押し入ろうとしたとき、宮門を守って功があり、名が知れわたった。歴陽に移ってから兵を鍛え、武器を整えて次第に朝廷をも軽んじるようになり、亡命者を受け入れた。危機に感じた庾亮は石頭城を修理して来襲に備えることとし、蘇峻を大司農にして朝廷に参内させるよう奏上した。一方蘇峻はこれを機に謀叛の腹を決め、まず姑孰を陥れた。尚書令の卞壺が軍を指揮して力戦したが及ばずに敗死した。二人の子も続いて敵陣に斬り込んで死んでしまった。母はその屍骸を撫でながら「父さんは国のために死んで忠臣となり、お前たちは父さんに殉じて孝子となったのだもの、決して恨みはしないよ」と語りかけた。庾亮は敗走し、峻の兵が宮城に攻め入った。しかし陶侃と温嶠が反乱軍を討って蘇峻を斬り殺した。

1. 十八史略 温嶠裾を絶って母に別る (2012-03-03 09:14:26)

後趙主石勒、大破趙兵、獲趙主劉曜。曜與勒連攻戰、互勝負。曜攻後趙金墉城。勒自將救之、大戰于洛陽。趙兵大潰。曜醉堕馬、爲勒獲。歸殺之。前趙亡。
晉驃騎將軍温嶠卒。嶠初爲劉琨所遣、使江東。母不欲。嶠絶裾而去。既至不復得歸北。終身以爲恨。嶠盡心晉室。敦・峻之平皆嶠力。

後趙の主石勒(せきろく)、大いに趙の兵を破り、趙主の劉曜を獲(え)たり。曜、勒と連(しき)りに攻戦して互いに勝負あり。曜、後趙の金墉城(きんようじょう)を攻む。勒、自ら将として之を救い、大いに洛陽に戦う。趙の兵大いに潰(つい)ゆ。曜、酔うて馬より堕(お)ち、勒の為に獲らる。帰って之を殺す。前趙亡ぶ。
晋の驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)温嶠(おんきょう)卒す。嶠初め劉琨(りゅうこん)の為に遣(つか)わされて、江東に使いす。母欲せず。嶠、裾を絶って去る。既に至って復北に帰るを得ず。身を終うるまで以って恨みとなせり。嶠、心を晋室に尽す。敦・峻の平らぎしは皆嶠の力なり。

勝負 勝ったり負けたり。 前趙 後趙の石勒に対していう。

後趙の主の石勒は、趙の軍を大いに破って、趙主の劉曜を生け捕りにした。それまで劉曜と石勒は戦闘を続け、勝ち負けを繰り返していたが、このとき劉曜が金墉城を攻めた。石勒は急きょ自ら兵を指揮して救援に駆けつけ、洛陽で大会戦となった。趙の兵が総崩れとなり、劉曜は酔って落馬し、石勒の兵に捕えられた。石勒は凱旋してからこれを殺した。こうして前趙は亡んだ(329年)。
晋の驃騎将軍、温嶠が死んだ。温嶠は以前劉琨に遣わされて江東に使者となった。嶠の母が行かせまいと袖にとりすがったのを振り切って出発した。果たして二度と北に帰ることができず、母に背いたことを一生悔いた。嶠は誠心誠意晋の皇室のため尽した。王敦や蘇峻の乱が平定できたのも、皆温嶠の力であった。

2. 十八史略 日月の皎然たるが如くなるべし (2012-03-06 09:26:01)

後趙石勒稱天王、尋稱帝。嘗大饗羣臣、問曰、朕可方古何主。或曰、過於漢高。勒笑曰、人豈不自知。卿言太過。若遇高帝、當北面事之、與韓・彭比肩耳。若遇光武、當竝驅中原。未知鹿死誰手。大丈夫行事。當礌礌落落、如日月皎然。終不效曹孟・司馬仲達、欺人孤兒寡婦、狐媚以取天下也。勒雖不學、好使人讀書而聽之、時以其意論得失。聞者悦服。嘗聽讀漢書、至酈食其勸立六國後、驚曰、此法當失。何以遂得天下。及聞張良諌、乃曰、頼有此耳。後遣使修好于晉。晉焚其幣。勒卒。子弘立。

後趙の石勒、天王と称し、尋(つ)いで帝と称す。嘗て大いに群臣を饗し、問うて曰く「朕は古(いにしえ)の何(いず)れの主に方(くら)ぶべきか」と。或るひと曰く「漢高より過ぎたり」と。勒笑って曰く「人豈(あに)自ら知らざらんや。卿の言(げん)太(はなは)だ過ぎたり。若(も)し高帝に遇(あ)わば当(まさ)に北面して之に事(つか)うべく、韓・彭と肩を比べんのみ。若し光武に遇わば当に中原に並駆(へいく)すべし。未だ鹿の誰が手に死するを知らず。大丈夫、事を行うや、当に礌礌落落(らいらいらくらく)たること、日月(じつげつ)の皎然(こうぜん)たるが如くなるべし。終(つい)に曹孟・司馬仲達が、人の孤児、寡婦を欺き、狐媚(こび)して以って天下を取るに效(なら)わざるなり」と。勒学ばずと雖も、好んで人をして書を読ましめて之を聴き、時に其の意を以って得失を論ず。聞く者悦服(えっぷく)す。嘗て漢書を読むを聴き、酈食其(れきいき)が六国(りくこく)の後(のち)を立つるを勧むるに至って、驚いて曰く「此の法当(まさ)に失すべし。何を以ってか遂に天下を得たる」と。張良の諌めを聞くに及んで、乃ち曰く「頼(さいわい)に此れ有るのみ」と。のち、使いを遣わして好(よしみ)を晋に修(おさ)む。晋、其の幣(へい)を焚(や)く。勒卒す。子弘(こう)立つ。

漢高 前漢の高祖。 北面 君主は南面。臣下は北面して見えたから。 韓・彭 韓信と彭越。 鹿 「中原に鹿を遂う」は帝位を争うこと。 礌礌 磊磊におなじ、小事に拘らないさま。 落落 度量の大きいさま。 皎然 明らかなさま。 曹孟 曹操。 司馬仲達 司馬懿。 狐媚 人を惑わすこと。 悦服 よろこんで従うこと。 酈食其 既出2009.9.8ただし(れいいき)と誤ってルビを振った。 頼 おかげで、都合よく。 好を修む 修好 国と国とが仲良くすること。 幣 礼物、進物。

後趙の石勒は天王と称し、やがて帝と称するようになった。あるとき群臣を集めて饗応の席で「朕はいにしえの君主のうちでだれと比肩しうるであろうか」と言うと、一人が「漢の高祖にもすぐれておりましょう」と言うと、笑って「何のおのれの器量ぐらい知らずにどうする。そなたの言はちと過ぎるぞ、もし高祖と巡り合えたとしたら、臣下の礼を取ってせめて韓信や彭越と肩を並べる位いのものだ。もし光武帝に出会えたなら、中原に馬を駆ってどちらが覇権を手にするだろうか。大丈夫たるもの、事を成すにもこせこせせずにからりと日月の輝きの如くやってのけたいものだ。曹操や司馬懿のように孤児や寡婦をたぶらかすようなまねはしたくないものだ」言った。石勒は学問はしなかったが、好んで人に書物を読ませてそれを聞き、時に自分の考えでその得失を語るのだが、それが周りの者を感服させた。あるとき漢書を読ませていたが酈食其が六国の王の子孫を再び封ずるように進言する場面になると石勒は驚いて「まさかそんなことを聞き入れて、どうして天下が取れたのか」といぶかった。そして張良の諌めるに至って「なるほど、そのせいか」と納得した。後に使いをおくって晋と修好を結ぼうとしたが、晋はその礼物を焼いて、拒絶した。
石勒が亡くなった。子の弘が立った。

3. 十八史略 陶侃、夢に八翼を生ず。 (2012-03-08 08:45:01)

晉太尉陶侃卒。侃都督八州、威名赫然。或謂、侃曾夢生八翼上天門、至八重折左翼而下。力能跋扈、毎思折翼之夢、輒自制。在軍四十一年。明毅善斷。人不能欺。自南陵至白帝數千里、路不拾遺。
後趙石虎、殺其主弘、而自立爲趙天王、殺勒種無遺。
成、改國號曰漢。李雄以兄子班爲太子。雄卒。班立。雄子越、弑班而立其弟期。期忌雄弟漢王壽威名、使出屯于外。壽還、襲弑期而自立。

晋の太尉陶侃(とうかん)卒す。侃、八州を都督し、威名赫然たり。或いは謂う、侃曽(かつ)て夢に八翼を生じて天門に上り、八重(はっちょう)に至り、左翼を折って下る。力能(よ)く跋扈(ばっこ)すれども、翼を折るの夢を思う毎に、輒(すなわ)ち自制せりと。軍に在ること四十一年。明毅(めいき)にして善く断ず。人欺くこと能(あた)わず。南陵より白帝に至るまで数千里、路遺(お)ちたるを拾わず。
後趙の石虎、其の主弘を殺して、自立して趙天王と為り、勒の種を殺して遺(のこ)す無し。
成、国号を改めて漢と曰う。李雄兄の子班を以って太子と為す。雄卒す。班立つ。雄の子越、班を弑して其の弟の期を立つ。期、雄の弟漢王壽の威名を忌み、出でて外に屯せしむ。壽還り、襲うて期を弑して自立す。

八州 侃は明帝のとき荊・湘・雍・梁の四州を成帝のとき交・広・荊・江の四州を都督した。 八重 帝位が九重であるから、その一歩手前。 赫然 さかん、輝くさま。 跋扈 権勢を自由にすること。 明毅 明敏剛毅、才知がすぐれて意思が強いこと。 拾遺 落ちた物を拾うこと。 成 306年に成都王李雄が建てた国。

晋の太尉の陶侃が死んだ。侃は八州を治めて、威勢名望とも盛んであった。ある人が「陶侃が以前夢の中で八つの翼が生えて天門に上って、八重にまで達したが、九重に至る直前で左の翼を折ったために地に落ちた。それで、思うままに権力を行使することはできたが、翼を折った夢を思い出して自制したのだ」と言った。軍に在ること四十一年、明敏剛毅で決断力に富んでいたので誰も侃を欺くことはできなかった。南陵から白帝城に至るまで数千里の間、路に落ちている物を拾う者が居ないほどよく治まっていた。
後趙の石虎が、主の石弘を殺して自立して天王となり、石勒の子孫を残らず殺した。

成が国号を漢と改めた。李雄は兄の子班を太子とした。雄が死ぬと班が立ったが、雄の子の越が班を殺して弟の期を立てた。期は父の弟の漢王寿の威名を嫌って、成都から追い出して地方に駐屯させた。寿は還ると、不意に襲って期を殺して自ら立ったのであった。
4. 十八史略 拓跋什翼犍 (2012-03-10 17:18:12)

代王什翼犍立。先是代王賀■卒。弟紇那嗣。紇那出奔。鬱律子翳槐立。紇那復還。翳槐奔趙。趙納翳槐于代。翳槐臨卒、命諸大人、立弟什翼犍。自猗盧死、國多内難、離散。什翼犍雄勇有智略、能修祖業、始制百官。號令明白、
政事清簡。百姓安之。於是東自濊貊、西及破落那、南距陰山、北盡沙漠、率皆歸服。有衆數十萬人。拓跋氏自是愈大。

代王什翼犍(じゅうよくけん)立つ。是より先、代王賀■(がとく)卒す。弟紇那(こつな)嗣ぐ。紇那出奔す。鬱律(うつりつ)の子翳槐(えいかい)立つ。紇那復た還る。翳槐趙に奔(はし)る。趙、翳槐を代に納(い)る。翳槐卒するに臨み、諸大人に命じて弟什翼犍を立てしむ。猗盧(いろ)の死せしより、国に内難多く、離散す。什翼犍、雄勇(ゆうゆう)にして智略有り、よく祖業を修め、始めて百官を制す。号令明白にして、政事清簡なり。百姓(ひゃくせい)之を安んず。是(ここ)に於いて東は濊貊(かいはく)より、西は破落那(はらくな)に及び、南は陰山を距(へだ)て、北は沙漠を尽し、率(おおむ)ね皆帰服す。衆数十万人有り。拓跋氏(たくばつし)是より愈々大なり。

代 チベット系遊牧民族、拓跋氏(1.17参照)猗盧-普根―(幼帝)―鬱律―賀■―紇那―翳槐―什翼犍。■ 人偏に辱。 

代王の什翼犍が立った。これより前、代王賀とくが死んで弟の紇那が後を嗣いだ。その紇那が出奔してしまったので、鬱律の子翳槐を立てた。ところが紇那がまた戻って来たので翳槐は趙に逃げた。趙では翳槐を援けて再び代に入れて王となった。翳槐は死に臨んで支族の長たちに命じて、弟の什翼犍を立てさせた。猗盧が死んで以来代では内紛が多く、離散したもあった。什翼犍は勇気智略ともに優れ、よく父祖の業を受け継ぎ、始めて百官の制を定めた。命令は平明で政事は簡潔であったから人々は安泰に暮らしていた。こうして東は濊貊から西は破落那に、南は陰山を境に、北は沙漠一帯まで、殆んど皆帰服した。民衆は数十万に達し、拓跋氏はますます大きくなった。
5. 十八史略 人、堯舜に非ず、何ぞ毎事善を尽くすを得ん (2012-03-13 11:20:53)

晉丞相王導卒。初帝即位沖幼。毎見導必拝。既冠猶然。委政於導。導以門地、王述爲掾。述未知名。人謂之癡。既見、問江東米價。述張目不答。導曰、王掾不癡。導毎發言、一坐莫不贊歎。述正色曰、人非堯舜、何得毎事盡善。導改容謝之。導性寛厚、所委任諸將、多不奉法。大臣患之。

晋の丞相王導卒す。初め帝、位に即いて沖幼なり。導を見る毎に必ず拝す。既に冠すれども猶お然り。政を導に委(まか)す。導、門地を以って、王述を掾(えん)と為す。述未だ名を知られず。人之を癡(ち)と謂う。既に見るとき、江東の米価を問う。述、目を張って答えず。導曰く「王掾(おうえん)は癡ならず」と。導、言を発する毎に、一座賛嘆せずということ莫(な)し。述、色を正して曰く「人、堯舜に非ず、何ぞ毎事善を尽くすを得ん」と。導、容(かたち)を改めて之を謝す。導の性寛厚、委任する所の諸将、多くは法を奉ぜず。大臣之を患(うれ)う。

沖幼 沖もおさないこと。 冠 礼記に「二十を弱と曰う、冠す」から二十歳のこと、弱冠。 門地 家柄。 掾 副官。 

晋の丞相の王導が死んだ(330年)。初め成帝が即位したときは幼かったので、王導を見ると必ず拝した。すでに成人してからもそれは変わらなかった。政治はすべて王導に委ねられた。王導は家柄の点から王述を副官に任命した。名の通っていない王述は、周りから能力を疑われていた。あるとき王導が江東の米価を聞いたところ、王述は目を見開いたまま答えなかった。すると王導は「王副官はバカではないよ」と言った。導が何か言うたびに坐の人々は賛同しない者はいなかったが、王述は「人はだれも堯や舜にはなれません。どうして全ての事に最善ということがありましょうか」と言った。導はいずまいを正して王述に謝した。王導が寛大温厚であったため、任用された将軍の中には法を守らなかった者も多く大臣たちはそれを心配した。
6. 十八史略  角巾して第に帰らん (2012-03-15 09:58:44)

庾亮欲起兵廢導。或勸導蜜備。導曰、吾與元規、休戚是同。元規若來、吾便角巾歸第。復何懼哉。亮雖居外鎭而遥執朝權、據上流、擁強兵。趨勢者多歸之。導内不能平。嘗遇西風塵起、擧扇自蔽、徐曰、元規塵汚人。導簡素寡欲、善因事就功。雖無日用之、而歳計有餘。輔相三世、倉無儲穀、衣不重帛。

庾亮、兵を起こして導を廃せんと欲す。或るひと導に勧めて密かに備えしむ。導曰く「吾と元規とは、休戚是れ同じ。元規若(も)し来らば、吾便(すなわ)ち角巾して第(てい)に帰らん。復た何ぞ懼れんや」と。亮、外鎮に居ると雖も、而も遥かに朝権を執り、上流に拠(よ)って、強兵を擁す。勢いに趨(おもむ)く者多く之に帰す。導内平らかなる能(あた)わず。嘗て西風に塵の起こるに遇い、扇を挙げて自ら蔽い、徐(おもむろ)に曰く「元規の塵、人を汚す」と。
導、簡素寡欲、善く事に因(よ)って功を就(な)す。日用の役無しと雖も、而も歳計に余りあり。三世に輔相(ほしょう)として、倉に儲穀(ちょこく)無く、衣、帛(はく)を重ねず。

元規 庾亮のあざな。 休戚 休は幸い、戚は憂の意でよいことと悪いこと。 角巾 隠者のかぶりもの。 第 邸、やしき。 外鎮 地方鎮撫の役所。輔相 天子を輔けて政治を行う人。 儲穀 備蓄の穀物。

庾亮が兵を起こして王導を追放しようとする気配が窺えた。或る人が備えを固めるよう勧めたが、王導は「自分と元規とは共に国家の喜憂を分かち合う仲だ。もし元規がわしを逐おうとするなら、わしは隠者の頭巾をかむって家に帰るだけの話だ、何を懼れることがあろうか」と取り合わなかったが、庾亮が外に居ながら、遥かに朝廷の権勢をも握り、揚子江上流に本拠を置いて、強大な兵力を擁していた。勢力のおもむくところ付き従う者も多く、王導も内心穏やかではいられなかった。あるとき西風が砂ぼこりを巻き上げると扇で風をさえぎりながら「元規の塵かな人を汚す」とつぶやいた。
王導は簡素で欲が無く、最善の方法で物事を処理した。その日一日の益は無いようでも一年経った後には余りがでるといった風であった。元帝・明帝・成帝に宰相として仕えながら、倉には蓄えがなく、着る物も質素で、絹を重ねることがなかった。

7. 十八史略 ゆ亮、泥首して罪を謝す (2012-03-17 09:29:59)

晉司空庾亮卒。初蘇峻之亂、亮激之也。峻平、亮泥首謝罪、求外鎭自效。後都督江・荊等州諸軍事、辟殷浩參軍。浩與褚裒、皆識度清遠。善談老・易、擅名江東。而浩尤爲風流所宗。亮欲開復中原、上疏請率大衆、移鎭石城、遣諸軍羅布江・沔、爲伐趙之規。蔡謨曰、不能以大江禦蘇峻。安能以沔水禦石虎。乃詔亮、不聽移鎭。至是卒于武昌。

晋の司空庾亮(ゆりょう)卒(しゅっ)す。初め蘇峻の乱は、亮之を激したればなり。峻平らぎ、亮泥首(でいしゅ)して罪を謝し、外鎮を求めて自ら效(いた)す。後、江・荊等の州の諸軍事を都督し、殷浩(いんこう)を辟(め)して参軍とす。浩、褚裒(ちょほう)と、皆識度清遠なり。善く老・易を談じ、名を江東に擅(ほしいまま)にす。而して浩、尤も風流の為に宗(そう)とせらる。亮、中原を開復せんと欲し、上疏(じょうそ)して大衆を率い、移って石城を鎮し、諸軍を遣(や)って江・沔(べん)を羅布(らふ)し、趙を伐つの規を為さんと請う。蔡謨(さいぼ)曰く「大江を以って蘇峻を禦(ふせ)ぐこと能わずして、安(いずく)んぞ能(よ)く沔水を以って石虎を禦がん」と。乃ち亮に詔(みことのり)して、鎮を移すを聴(ゆる)さざりき。是に至って武昌に卒す。

泥首 頭を土につけて拝礼する。 效す つとめる、手柄をたてる。 識度 識見と度量。 風流 老荘思想を談論すること、風流人士、清談家。 開復 とりもどす、回復。 江沔 漢江と沔水。 羅布 つらねる、並べる。 規 計る、手本。

晋の司空の庾亮が死んだ。初め蘇峻の乱は、庾亮がそそのかしたからである。蘇峻の乱が平定されると庾亮は頭を地にすりつけて罪を詫び、自ら地方の鎮撫を志願し、功績をあげて償おうとした。後に江州・荊州等の州の諸軍事を都督し、殷浩を軍事参与に任用した。殷浩と褚裒とは、ともに識見度量が清明深遠で、よく老子や周易を談じて江東にあまねく知れ渡り、特に殷浩は風流人士として清談家の尊敬を集めていた。庾亮はまた中原を回復せんと欲し、上書して大衆を率い、移って石城を鎮し、諸軍を遣って江・沔を羅布し、趙を伐つの規を為さんと請う。蔡謨曰く「大江をもって蘇峻を防ぐことができなかったのに、どうして沔水をもって石虎を防ぐことができましょうか」と。そこで詔を下し、庾亮に鎮を移すことを許さなかった。こうして庾亮は志を遂げぬまま武昌で死んだ。

8. 十八史略 (2012-03-20 09:44:48)

晉封慕容皝爲燕王。自皝父廆爲遼東公、立皝爲世子。雄毅多權略、喜經術。廆卒。皝立。其下勸稱王。皝使請晉。遂封之。
帝在位十八年。頗有勤儉之。改元者二。曰咸和・咸康。崩。二子丕・奕在襁褓。帝母弟瑯琊王立。是爲康皇帝。

晋、慕容皝(ぼようこう)を封じて燕王と為す。皝の父廆(かい) 遼東公と為りしより、皝を立てて世子と為す。雄毅にして権略多く、経術を喜ぶ。廆卒す。皝立つ。其の下(しも)勧めて王と称せしむ。皝、晋に請わしむ。遂に之を封ぜり。
帝、在位十八年。頗る勤倹の徳有り。改元する者(こと)二。咸和(かんわ)・咸康という。崩ず。二子丕(ひ)・奕(えき)、襁褓(きょうほ)に在り。帝の母弟瑯琊王(ろうやおう)立つ。是を康皇帝と為す。

雄毅 雄々しく強いこと。 権略 臨機応変の計略。 経術 四書五経などの経書を学ぶこと。 襁褓 おしめ、乳飲み子のこと。母弟 同母の弟。

晋は慕容皝を封じて燕王とした。慕容皝の父廆は遼東公となってから皝を嗣に立てて世子に決めていた。勇壮剛毅で才略に富み、経書を読むことも好んだ。慕容廆が死ぬと、皝が立ったのを機に臣下が王と称することを勧めた。皝が晋に王号を請わせると、晋は願いを容れて燕王に封じた。
成帝は位に在ること十八年。たいそう勤勉倹約の美徳があった。改元すること二回、咸和、咸康という。帝が崩じたとき、丕と奕の二子がいたが、未だ乳呑み児であったので、帝の同母弟の瑯琊王が立った。これが康皇帝である。

9. 十八史略 康皇帝 (2012-03-22 13:47:45)

淵源出でずんば、当に蒼生を如何にすべき

康皇帝名嶽。成帝臨崩以嶽爲嗣。遂即位。
都督荊江等州軍事庾翼、爲人慷慨、喜功名、不尚浮華。殷浩才名冠世。翼弗之重曰、此輩宜束之高閣、俟天下太平、徐議其任耳。時人擬浩管葛、伺其出處、以卜興亡。曰、淵源不出、當如蒼生何。翼請浩爲司馬。不應。翼以王夷甫嘲之。

康皇帝名は嶽。成帝崩ずるに臨んで嶽を以って嗣(し)となせり。遂に位に即く。
都督荊江等の州軍事庾翼(ゆよく)、人となり慷慨、功名を喜び浮華を尚(たっと)ばず。殷浩の才名世に冠たり。翼之を重んぜずして曰く、「此の輩宜しく之を高閣に束(つか)ねて、天下の太平を俟(ま)って徐(おもむろ)に其の任を議すべきのみ」と。時人浩を管・葛(かつ)に擬し、其の出処を伺うて、以って興亡を卜(ぼく)す。曰く、「淵源出でずんば、当(まさ)に蒼生を如何にすべき」と。翼、浩を請うて司馬と為さんとす。応ぜず。翼、王夷甫を以って之を嘲る。

庾翼 庾亮の弟。 慷慨 意気盛んなこと。 管・葛 管仲と諸葛亮。 淵源 殷浩のあざな。 蒼生 人民。 王夷甫 王衍(既出2011.12.29)のこと。竹林の七賢の一人山濤が評して「天下の蒼生を誤る者は未だ必ずしも此の人に非ずんばあらざるなり」言った人物。

康皇帝は名を嶽という。成帝が崩ずるに際して嶽を後継ぎにし、位に即いた。
都督、荊・江等の州軍事である庾翼はその人となり、意気盛んにして功名を尊び、軽佻さを嫌った。当時殷浩の才名は天下に鳴り響いていたが、清談の風を嫌っていた庾翼は、「こんな連中は一からげにして高殿に放り込んで、太平になってから使い道でも考えればいい」と言った。それでも人々は殷浩を管仲・諸葛亮になぞらえ、その出処進退がそのまま国の興亡を左右するといって、「淵源が出なければわれわれはどうなるのか」とまで評判した。庾翼はそこで帝に請うて殷浩を司馬にしようとしたが、殷浩が断った。それで庾翼は王衍になぞらえて暗に殷浩を嘲った。

「乃公(だいこう)出でずんば蒼生を如何にせん」はここから出た。

10. 十八史略 ゆ翼、桓温を薦む (2012-03-24 09:28:25)

瑯琊内史桓温、豪爽有風概。翼嘗薦之曰、英雄之才、宜委以方・召之任。至是翼以滅胡取蜀爲己任、欲悉衆北伐、移鎭襄陽。詔翼都督征討諸軍。翼以温爲前鋒督。
韓主李壽卒。子勢立。
帝在位三年崩。改元者一。曰建元。太子立。是爲孝宗穆皇帝。

瑯琊(ろうや)の内史桓温(かんおん) 豪爽にして風概(ふうがい)有り。翼嘗て之を薦めて曰く、「英雄の才、宜しく委ねるに方・召の任を以ってすべし」と。是に至って翼、胡を滅ぼし蜀を取るを以って己が任と為し、衆を悉(つく)して北伐せんと欲し、移って襄陽を鎮(しず)む。翼に詔(みことのり)して征討の諸軍を都督せしむ。翼、温を以って前鋒の督(とく)と為す。
漢主李壽卒す。子勢立つ。
帝、在位三年にして崩ず。改元する者(こと)一。建元と曰う。太子立つ。是を孝宗穆(ぼく)皇帝と為す。

内史 内務大臣。 豪爽 気性がすぐれて爽やかなこと。 風概 風格。 方・召 方叔と召伯と共に周の中興の功臣。 

瑯琊の内史の桓温は、豪快で爽やか、風格があった。庾翼はあるとき桓温を推薦して、「英雄の才がある。周の功臣方叔と召伯に並ぶ役目を任せるべきである」といった。ここに至って庾翼は胡を滅ぼし、蜀の地を奪還することが自分の役目と考え、ある限りの兵を繰り出して北を討とうとして、襄陽に移って鎮台とした。康帝が庾翼に征討諸軍事都督の詔を下した。庾翼は桓温を前鋒の都督に任命した。
漢主の李寿が死んで子の勢が立った。
康帝が在位三年で崩じた(344年)改元すること一回で、建元という。太子が即位した、これが孝宗穆皇帝である。

1. 2012-03-27 08:48:59 | 十八史略 穆皇帝

孝宗穆皇帝名耼、三歳即位。會稽王輔政。
庾翼卒。以桓温都督荊・梁等州軍事。翼初表其子領荊州。何充曰、荊楚國之西門。豈可以白面少年當之。桓温英略過人。西任無出温者。丹陽尹劉惔。知温有不臣之志、謂曰、温不可使居形勝地。不聽。竟以温代翼。

(日本語訳)
孝宗穆皇帝、名は耼(たん)、三歳にして位に即く。会稽王(いく)、政を輔(たす)く。
庾翼卒す。桓温を以って荊・梁等の州軍事を都督せしむ。翼、初め其の子を表して荊州を領せしむ。何充(かじゅう)曰く、「荊は楚国の西門なり。豈(あ)に白面の少年を以って之に当(あ)つ可(べ)けんや。桓温は英略人に過ぐ。西任(せいにん)温に出づる者無し」と。丹陽の尹、劉惔(りゅうたん)、温が不臣の志有るを知り、に謂って曰く、「温は形勝の地に居(お)らしむべからず」と。聴かず。竟(つい)に温を以って翼に代(か)う。

(内容)
孝宗穆皇帝、名を耼といい、三歳で即位した。会稽王の司馬が政治を補佐した。
庾翼が死んだので、桓温を荊州、梁州の軍事都督に任命した。初め庾翼は自分の子に荊州を治めさせるよう上表したが、翼の死後、何充が「荊州は楚国の西門にあたる要衝の地です。どうしてなまっ白い青二才に任せられましょうか、それに比べて桓温は智恵策略に抜きんでています。西の任務はこれに過ぎる者は居りません」と反対した。丹陽の長官の劉惔が、桓温に野心のあることを見抜き、「桓温を要害の地に置くのは危険です、いけません」とに進言したが、聞き入れられず、結局桓温を庾翼の代わりにした。

2. 2012-03-29 09:11:06 | 十八史略 成漢滅び後趙乱る

漢主李勢、驕淫不恤國事。桓温帥師伐漢。拝表即行。進至成都。勢降。送建康。漢亡。
燕王慕容皝卒。子雋立。
趙天王石虎稱帝。尋卒。子世立。其兄遵弑之而自立。趙亂。晉征討都督褚裒、表請伐趙。朝野以爲、中原指期可復。蔡謨獨以爲、莫若度量力。經營分表、恐憂及朝廷。裒遣將、果敗没、
趙蒲洪遣使降晉。洪事趙累世、至是石閔言於趙主遵曰、蒲洪人傑也。今鎭關中。恐秦・雍非國家有。遵罷洪都督。洪怒歸枋頭、遂通于晉。

(日本語訳)
漢主李勢、驕淫(きょういん)にして国事を恤(うれ)えず。桓温、師を帥(ひき)いて漢を伐つ。拝表して即ち行く。進んで成都に至る。勢降る。建康に送る。漢亡ぶ。
燕王慕容皝(ぼようこう)卒す。子雋(しゅん)立つ。
趙天王石虎、帝と称す。尋(つ)いで卒す。子世(せい)立つ。その兄遵(じゅん)、之を弑して自立す。趙乱る。晋の征討都督褚裒(ちょほう)、表して趙を伐たんと請う。朝野以為(おも)えらく、「中原、期を指して復すべし」と。蔡謨(さいぼ)独り以為えらく、「徳を度(はか)り力を量るに若(し)くは莫(な)し。分表を経営せば、恐らくは、憂い朝廷に及ばん」と。裒、将を遣(や)る。果たして敗没す。
趙の蒲洪(ほこう)、使いを遣わして晋に降る。洪、趙に事(つか)うること累世、是(ここ)に至って、石閔(せきびん)、趙主遵に言って曰く、「蒲洪は人傑なり。今関中を鎮す。恐らくは、秦・雍(よう)は国家の有には非じ」と。遵、洪の都督を罷(や)む。洪、怒って枋頭(ほうとう)に帰り、遂に晋に通ず。

(内容)
漢主の李勢は驕り昂ぶって酒色に耽り、国事を顧みなかった。桓温は軍隊をひきいて、漢を伐った。表を奉りすぐさま進発して成都に軍を進めた。李勢は降伏して、建康に送られた。遂に成漢は亡んだ(347年)。
燕王の慕容皝が死んで、子の雋が後を嗣いだ。
趙天王石虎が帝と自称したが、ほどなく死んだ。子の世が立ったが、兄の石遵が世を弑して自ら立った。そのため趙の国内が乱れた。
晋の征討都督の褚裒が上奏文を奉って趙を伐ちたいと願い出た。朝野共に中原が晋の手に取り戻すことは時間の問題と思っていたが、蔡謨だけは、「徳と力をはかり較べるに越したことはない。身の程を超えたことを計画すると、災いは朝廷にまで及ぶ恐れがあるであろう」と危惧した。しかし褚裒が将を派遣して趙を攻めたが案の定敗れて戦死した。
趙の蒲洪が使いを遣わして晋に降った。蒲洪の家は代々趙に仕えていたが、この時になって石閔が、石遵に向かって「蒲洪はただ者ではありません。いま、関中を治めていますが、恐らく秦・雍の地は我が国のものではなくなりましょう」と言ったので、石遵は蒲洪を都督から解任した。蒲洪は怒って枋頭に帰り、遂に晋に内通したのである。

3. 2012-03-31 10:35:59 | 十八史略 張重華、自ら涼王を称す

涼州張重華、自稱涼王。初惠帝之世、張軌爲涼州刺史、威著西土。懷帝陥没。軌遣兵助愍帝於長安。帝以軌爲涼州牧西平公。軌卒。子寔立。寔爲妖賊所殺。弟茂立。趙主劉曜撃茂。茂降趙。茂卒。寔之子駿立。茂臨終語駿、必奉晉。不可失。駿雖復臣於後趙石勒、恥之。成帝時、假道於蜀、以通晉。駿卒。子重華立。晉遣使、仍拝西平公。重華自爲王。

(日本語訳)
涼州張重華、自ら涼王を称す。初め恵帝の世、張軌(ちょうき)涼州の刺史と為る。威、西土(せいど)に著(あら)わる。懐帝、陥没す。軌、兵を遣わして愍帝を長安に助けしむ。帝、軌を以って、涼州の牧西平公と為す。軌卒す。子寔(しょく)立つ。寔、妖賊の殺す所と為る。弟茂(も)立つ。趙主劉曜、茂を撃つ。茂、趙に降る。茂卒す。寔の子駿立つ。茂、終りに臨んで駿に語す、「必ず晋に奉ぜよ。失うべからず」と。駿、復た後趙の石勒に臣たりと雖も、之を恥ず。成帝の時、道を蜀に仮り、以って晋に通ず。駿卒す。子重華立つ。晋、使いを遣わし、仍(よ)って西平公に拝す。重華自ら王と為る。

(内容)
涼州の張重華がみずから涼王を名乗った(349年)。遡れば西晋恵帝の世、張軌が涼州の刺史となり、西方に威名をあげた。漢の劉聡が懐帝を滅ぼしたとき、張軌が長安に兵を派遣して愍帝を助けたため、涼州の牧とし、西平公とした。張軌の死後、子の寔が立ったが、寔は怪しい賊に殺され弟の茂が立った。趙王の劉曜は茂を撃ち、茂は趙に降った。茂が死ぬと、寔の子の駿が立った。茂は臨終のとき駿に、「必ず晋に仕えよ、捨ててはならぬ」と言い残した。張駿はまた後趙の石勒に臣従していたが、内心それを羞じていた。成帝の時になって蜀の道を通って晋に修好を求めた。張駿が死ぬと子の重華が立った。晋は使いを遣わして、それで西平公に任命したが、満足せず、自ら王と名乗った。

4. 2012-03-31 10:35:59 | 十八史略 五胡十六国

ここで五胡十六国を整理しておきたい。

五 胡   十六国   興亡年    建国者   都   征服国

モ       前趙(漢) 304329   劉淵    平陽   後趙
  匈奴    北涼 397439   沮渠蒙遜       北魏
ン       夏(大夏) 407~431   赫連勃勃       北魏

ゴ 羯(けつ) 後趙 319~351   石勒    鄴   ※冉閔

ル        前燕 337370   慕容皝        前秦
        後燕 384409   慕容氏   中山   北燕
系 鮮卑(せんぴ) 西秦 385431   乞伏国仁  金城   夏
         南涼 397414   禿髪烏孤       西秦
       南燕 398~410   慕容徳   滑台   東晋

チ        成(漢) 304347   李特    成都   東晋
ベ 氐(てい)   前秦 351394   苻健    長安   後秦
ッ        後涼 386403   呂光         後秦

系 羌(きょう)  後秦 384417   姚萇         東晋

漢       前涼 301376   張軌         前秦
族        西涼 400421   李    敦煌   北涼
         北燕 409~436   馮跋    竜城   北魏

※冉閔 後趙の臣

(内容)
五胡十六国の各国の興亡年、建国者、都、征服国などを一覧表にまとめたもの。

5. 2012-04-05 10:08:06 | 十八史略 後趙亡ぶ

後趙石鑑、弑其主遵、而自立。石閔又幽鑑、殺之而自立、改國號曰魏。殺虎三十八孫、盡滅石氏。閔姓冉、爲石氏所養、至是復其姓。後爲燕所破、執而殺之。
蒲洪自稱三秦王、改姓苻。洪先擒趙將麻秋。不殺而用其言。因宴爲秋所鴆。子健斬秋。代領洪衆。健入長安、自稱秦天王。已而稱帝。
燕王雋稱帝。

(日本語訳)
後趙の石鑑(せきかん) 其の主遵(じゅん)を弑(しい)して自立す。石閔(せきびん)又鑑を幽してこれを殺して自立し、国号を改め魏と曰う。虎の三十八孫を殺し、尽く石氏を滅ぼす。閔、姓は冉、石氏の養う所となり、是に至って其の姓に復す。後に燕の破る所と為り、執(とら)えて之を殺す。
蒲洪自ら三秦王と称し、姓を苻(ふ)と改む。洪、先に趙将の麻秋(ましゅう)を擒(とりこ)にす。殺さずして其の言を用う。宴するに因(よ)って秋の鴆(ちん)する所となる。子の健、秋を斬る。代って洪の衆を領す。健、長安に入り、自ら秦天王と称す。已にして帝と称す。
燕王雋(しゅん)、帝と称す。

(内容)
後趙の石鑑がその主君の遵を弑して自ら位に即いた。すると石閔が石鑑を幽閉して、これを殺して自立して、国号を改めて魏とした(350年)。そして石虎の孫38人を殺し、一族を根絶やしにした。石閔はもとの姓は冉といったが、石氏の養子になっていたのが、ここに至って元の姓に戻した。後に燕がこれを破って、捕えて殺した。
蒲洪が三秦王と称し、姓を苻と改めた。その苻洪が以前趙の将麻秋を生け捕りにしたが殺さずに、折にふれて意見を聞いていた。ところが、ある宴席で麻秋の仕込んだ鴆毒によって殺されてしまった。洪の子苻健は麻秋を斬り殺して苻洪の兵をひき継ぎ長安に入った。秦天王と自ら名乗り、後に帝と称した(351年)。
その年、燕王雋も皇帝を称した。

6. 2012-04-07 14:23:35 | 十八史略 殷浩大敗す

趙姚襄歸晉。而復叛。襄父弋仲、南安赤亭姜酋也。懷帝末、戎夏襁負、随之者敷萬、自稱扶風公。其後服於前趙劉曜。又事後趙石勒・石虎。虎甚重之、以爲冠軍大將軍。虎死。趙亂。至冉閔滅趙、弋仲遣使降晉。弋仲卒。襄率其衆来晉。詔襄屯譙城。後屯歴陽。揚・豫州都督殷浩在壽春。惡襄強盛、遺將襲之。爲襄所斬。先是朝廷聞中原大亂、復謀進取。浩受任、連年北伐無功、至是率諸軍再擧。襄伏甲邀之。浩至山桑。襄縦撃。浩大敗走。
涼張重華卒。子曜靈立。其下廢之而立張祚。

(日本語訳)
趙の姚襄(ようじょう)、晋に帰す。而して復た叛す。襄の父弋仲(よくちゅう)は南安赤亭の姜酋(きょうしゅう)なり。懐帝の末、戎夏(じゅうか)襁負(きょうふ)して、之に随(したが)う者数万、自ら扶風公(ふふうこう)と称す。その後前趙の劉曜に服す。又、後趙の石勒・石虎に事(つか)う。虎、甚だ之を重んじ、以って冠軍大将軍と為す。虎死す。趙乱る。冉閔(ぜんびん)、趙を滅ぼすに至って、弋仲、使いを遣わして晋に降る。弋仲、卒す。襄、その衆を率いて晋に来る。襄に詔(みことのり)して譙城(しょうじょう)に屯せしむ。後、歴陽に屯す。揚・予州の都督殷浩、寿春に在り。襄の強盛を悪(にく)み、将を遣わして之を襲わしむ。襄の斬る所と為る。是より先、朝廷、中原大いに乱ると聞き、復進取を謀る。浩、任を受け、連年北伐して功無し。是に至って、諸軍を率いて再挙す。襄、甲を伏せて之を邀(むか)う。浩、山桑に至る。襄縦撃(しょうげき)す。浩、大いに敗れて走る。
涼の張重華卒す。子の曜靈立つ。其の下(しも)之を廃して張祚(ちょうそ)を立つ。

(内容)
趙の姚襄は晋に帰順したが、後に叛いた。姚襄の父、弋仲は南安県の赤亭に住む姜族の酋長であったが、懐帝(307~312年)の末ごろ、姜族漢族ともに乳幼児を背負って付き随う者が数万人にも及んだので自ら扶風公と名乗った。その後前趙の劉曜に服属し、後に後趙の石勒・石虎に仕えた。石虎は弋仲を重用して冠軍大将軍にした。石虎が死んで、後趙が乱れて冉閔がこれを滅ぼすに至って、弋仲は使いを遣って晋に降った。弋仲が死ぬと、子の姚襄がその部下を率いて晋に降った。姚襄は詔によって譙城に駐屯し、後に歴陽に移った。揚州予州の都督殷浩は、寿春にいて、姚襄が強勢になってゆくことを危惧した。将を派遣して襲わせたが逆に斬られてしまった。
これより先、晋の朝廷では中原大いに乱れると聞いて。進んでこれを取り戻そうと企てた。殷浩がその大任を任されて、年々北を伐ったが戦果をあげることができなかった。ここに至って殷浩が自ら諸軍を率いて再び攻めた。まず姚襄を攻めた。姚襄は兵を伏せて待ちかまえ、山桑県にさしかかったところを襲った。殷浩は大敗北を喫して逃げ帰った。
涼の張重華が卒して、子の曜靈が立った。臣下がこれを廃して張祚を立てた。

7. 2012-04-10 10:42:16 | 十八史略 咄咄怪事

晉桓温因殷浩之敗、請廢浩、免爲庶人。朝廷初以浩抗温。浩廢。自此内外大權、一歸温矣。浩雖愁怨、不形辭色。嘗書空作咄咄怪事字。久之、郗超勸温、處浩令僕、以書告之。浩欣然。答書慮有誤、開閉十數。畢達空函。温大怒遂絶。卒於謫所。

(日本語訳)
晋の桓温、殷浩の敗に因って、浩を廃し、免じて庶人(しょじん)となさんと請う。朝廷初め浩を以って温に抗す。浩廃す。此より内外の大権、一に温に帰す。浩、愁怨(しゅうえん)すと雖も、辞色(じしょく)に形(あら)わさず。嘗(つね)に空に書して、咄咄怪事の字を作る。之を久しうして、郗超(ちちょう)、温に勧めて、浩を令僕に処(お)らしめ、書を以って之に告ぐ。浩、欣然たり。答書、誤り有るを慮(おもんばか)り、開閉すること十数。竟(つい)に空函を達す。温、大いに怒って、遂に絶つ。謫所(たくしょ)に卒す。

(内容)
晋の桓温は、殷浩の大敗を取り上げて、その職を免じて平民に落とすよう請願した。初め朝廷では殷浩の力で桓温を抑えようとしたが殷浩が失脚した今、内外の大権は桓温の身一つに集まった。殷浩は愁え怨んだけれど言葉や顔色には出さず、こころみに「咄咄怪事(いやはや奇怪なことだ)」と空書した。しばらくして郗超が桓温に勧めて、殷浩を尚書僕射という役に就かせようとして、書面でその旨を殷浩に知らせた。殷浩はたいそう喜んで、返事をしたためたが、間違いが無いか気になって、何度も封を開いているうちに空の封筒を送ってしまった。桓温は怒ってそれきり沙汰止みになり、殷浩は配所で世を去った。

8. 2012-04-12 08:35:08 | 十八史略 傍若無人

桓温帥師伐秦、大敗秦兵于藍田、轉戰至灞上。秦主苻健、閉長安小城自守。三輔皆來降。温撫諭居民使安堵。民爭持牛酒迎勞。男女夾路觀之。耆老有垂泣者。曰、不圖今日復覩官軍。北海王猛字景略、倜儻有大志。隱居華陰。聞温入關、被褐謁之。捫虱而談當世之務、旁若無人。温異之、問猛曰、吾奉命除殘賊。而三秦豪傑未有至者何也。猛曰、公不遠數千里、深入敵境。今長安咫尺、而不度灞水。百姓未知公心。所以不至。温黙然無以應。温與秦兵戰于白鹿原。不利。秦人清野。温軍乏食。欲與猛倶還。猛不就。

(日本語訳)
桓温、師を帥(ひき)いて秦を伐ち、大いに秦の兵を藍田(らんでん)に敗(やぶ)り、転戦して灞上(はじょう)に至る。秦主苻健、長安の小城を閉じて自ら守る。三輔(さんぽ)、皆来降す。温、居民を撫諭(ぶゆ)して安堵せしむ。民争うて牛酒を持して迎労(げいろう)す。男女、路を夾んで之を観る。耆老(きろう)涙を垂るる者有り。曰く、「図らざりき、今日復た官軍を覩(み)んとは」と。
北海の王猛、字(あざな)は景略、倜儻(てきとう)にして大志有り。華陰に隠居す。温、関に入ると聞き、褐(かつ)を被(き)て之に謁す。虱を捫(ひね)って当世の務めを談じ、旁(かたわら)に人無きが若(ごと)し。温之を異として、猛に問うて曰く、「吾命を奉じて残賊を除く。而(しかれど)も三秦の豪傑未だ至る者有らざるは何ぞや」と。猛曰く、「公、数千里を遠しとせず、深く敵境に入る。今、長安は咫尺(しせき)にして、しかも灞水を度(わた)らず。百姓(ひゃくせい)未だ公の心を知らず。至らざる所以なり」と。温、黙然として以って応ずる無し。温、秦の兵と白鹿原に戦う。利あらず。秦人、野(や)を清む。温の軍、食乏し。猛と倶に還らんと欲す。猛、就かず。

(内容)
桓温は軍隊を率いて秦を伐ち、藍田で秦の兵を破り、転戦して灞水のほとりまで来た。秦主の苻健は長安の小城に閉じこもって、守りを固めたが、長安近辺の地はこぞって降ってきた。桓温はこれらの民衆をやさしくいたわり、安堵させたので住民たちは肉や酒を差し入れて慰労した。男も女も道を挟んで行列を観、老いた者の中には「官軍を再びこの目で見られるとは思わなかった」と涙を流す者も居た。
北海の王猛は字を景略といい、独立不羈で大志をもっていた。華陰県に隠棲していたが、桓温が関中に入ったと聞き、粗末な身なりで会いにきた。虱をつぶしながら、人前を憚らずに当座の急務を説いた。桓温は只者ではないと見抜き、王猛に「私は天子の命を奉じて凶賊を討伐に来ている。なのに三秦の豪傑が一人として馳せ参じてこないのはどうしたことだろうか」尋ねた。すると王猛は「公は数千里を遠しとせず、深く敵地に入ってこられました。いま長安を目のあたりにしながら、なお灞水を渡ろうとなさいません。皆、公の心を測りかねております。それで誰も来ないのです」と答えた。桓温は黙ったまま何も言わなかった。
桓温は秦の兵と白鹿原で戦ったが、今度は苦戦した。秦が畑をすっかり刈り取って、何も残していなかったので、食糧に窮した。桓温は王猛を誘って引き揚げようとしたが、王猛は行をともにしなかった。

9. 2012-04-17 08:44:10 | 十八史略 神州をして陸沈せしむ

秦主健卒。子生立。
涼張祚淫虐被弑。子玄靚立。
姚襄降于燕、北據許昌、又攻洛陽。桓温督諸軍討襄。進至河上。與寮屬登平乗樓、北望中原歎曰、使神州陸沈百年。王夷甫諸人、不得不任其責。至伊水。襄戰連敗而走。温屯金墉、謁諸陵。置鎭戍而還。襄將西圖關中。秦遣兵拒撃斬襄。襄弟萇以衆降秦。

(日本語訳)
秦主健卒す。子の生立つ。
涼の張祚(ちょうそ)淫虐にして弑せらる。子の玄靚(げんせい)立つ。
姚襄(ようじょう)燕に降り、北のかた許昌に拠(よ)り、又洛陽を攻む。桓温、諸軍を督して、襄を討つ。進んで河上に至る。寮属と平乗楼に登り、北のかた中原を望んで歎じて曰く、「神州をして陸沈せしむる百年。王夷甫の諸人、其の責めに任ぜざるを得ず」と。伊水に至る。襄、戦って連(しき)りに敗れて走る。温、金墉(きんよう)に屯(たむろ)し、諸陵に謁す。鎮戍(ちんじゅ)を置いて還る。
襄、将(まさ)に西のかた関中を図らんとす。秦、兵を遣(つかわ)し拒(ふせ)ぎ撃って襄を斬る。襄の弟萇(ちょう)、衆を以って秦に降る。

(内容)
秦主の苻健が死んで、子の苻生が後を嗣いだ。
涼の張祚は淫虐だったので臣下に弑せられ、子の玄靚が立った。
姚襄は晋を見限って燕に降った。北方の許昌を根拠として、やがて又洛陽を攻めた。桓温は諸軍を指揮して姚襄を討った。黄河のほとりまで兵を進め、属官と楼船に立ち、北の中原を眺めやり「わが中華が夷狄に蹂躙されて百年とは、王衍等の空論の輩に責めが無いとは言わせぬぞ」と言った。桓温は伊水に達した。姚襄はここで桓温を迎え撃ったがことごとく敗れて逃げた。金墉に駐屯すると、晋代々の陵墓に参詣して、守備隊を残して帰還した。
一方、姚襄は西に進んで関中の攻略を謀った。秦は兵を差し向けて防ぎ、姚襄を斬り殺した。弟の姚萇(ようちょう)が残った軍勢を率いて晋に降伏した。

10. 2012-04-21 09:30:40 | 十八史略 哀帝、帝奕

哀皇帝名丕、即位二年而寝疾。又一年而崩。改元者二、曰隆和・興寧。弟瑯琊王立。是爲帝奕。
帝奕名奕、成帝之幼子也。既即位。以會稽王、爲丞相。
桓温自哀帝時、爲大司馬、都督中外諸軍事、録尚書事。加揚州牧。移鎭姑孰。以郗超爲參軍、王爲主簿。人語曰、髯參軍短主簿、能令公喜、能令公怒。
燕人攻陥洛陽。戍將死之。温帥師伐燕。戰于枋頭。大敗而還。
燕慕容垂既撃破晉軍。威名日盛。燕王忌之。垂奔秦。

哀皇帝名は丕(ひ)、即位二年にして疾(やまい)に寝(い)ぬ。又一年にして崩ず。改元する者(こと)二、隆和・興寧(こうねい)と曰う。弟瑯琊王立つ。是を帝奕(えき)と為す。
帝奕名奕、成帝の幼子なり。既に位に即く。会稽王(いく)を以って丞相と為す。
桓温、哀帝の時より、大司馬となり、中外の諸軍事を都督し、尚書の事を録す。揚州の牧を加えらる。移って姑孰(こじゅく)に鎮す。郗超(ちちょう)を以って参軍と為し、王(おうじゅん)を主簿と為す。人、語して曰く、髯参軍(ぜんさんぐん)短主簿、能く公をして喜ばしめ、能く公をして怒らしむ、と。
燕人攻めて洛陽を陥る。戍将(じゅしょう)之に死す。温、師を帥(ひき)いて燕を伐つ。枋頭(ほうとう)に戦う。大敗して還る。
燕の慕容垂、既に晋軍を撃ち破る。威名日に盛んなり。燕王之を忌む。垂、秦に奔(はし)る。

姑孰 今の安徽省の地名。 参軍 参謀。 主簿 書記官。 短主簿 ちび主簿。 戍将 守将。 枋頭 河南省の地名。

哀皇帝は名を丕という。即位二年で病気に罹りその後一年で崩御した。改元すること二回、隆和・興寧という。弟の瑯琊王が即位した。これが帝奕である。
帝奕は名が奕で、後に廃せられたので諡は無い。成帝の末の子である。即位すると会稽王のを丞相とした。
桓温は哀帝のときに大司馬となり、内外の軍事すべてを掌握し、尚書の事も司った。さらに揚州の長官を加えられ、姑孰に鎮台を移した。郗超を参謀に、王を書記官に任命した。人々は「公を喜ばせるのも怒らせるのも鬚参軍とちび主簿次第」と陰口を言い合った。
燕が洛陽を攻め落とした。守備の将軍が戦死したので、桓温が師団を率いて燕を伐ったが、枋頭の会戦で大敗して帰還した。
燕の慕容垂はすでに晋軍を撃ち破って、威名ますます高くなった。燕王の慕容暐は警戒心を抱きだした。そこで慕容垂は秦に亡命した。

11. 2012-04-24 10:08:59 | 十八史略 芳を百世に流す能わずんば亦当に臭を万年に遺すべし

秦王猛督諸軍伐燕。遂圍鄴。秦主苻堅入鄴。執燕主慕容暐以歸。
晉桓温陰蓄不臣之志。嘗撫枕歎曰、男子不能流芳百世、亦當遺臭萬年。欲先立功還受九錫。及枋頭之敗、威名頓挫。郗超。勸温行伊霍之事、以立大威權。温遂入朝。白太后廢帝。在位六年。改元者一、曰太和。會稽王立。是爲簡文皇帝。

(日本語訳)
秦の王猛諸軍を督して燕を伐つ。遂に鄴(ぎょう)を囲む。秦主苻堅(ふけん)鄴に入る。燕主慕容暐(ぼようい)を執(とら)えて以って帰る。
晋の桓温、陰(ひそか)に不臣の志を畜(たくわ)う。嘗て枕を撫して歎じて曰く、「男子芳を百世に流す能わずんば、亦当に臭を万年に遺すべし」と。先ず功を立て、還って九錫を受けんと欲す。枋頭(ほうとう)の敗に及んで、威名頓(とみ)に挫(くじ)く。郗超(ちちょう)、温に勧めて、伊霍(いかく)の事を行い、以って大威権を立てよと。温、遂に入朝す。太后に白(もう)して、帝を廃す。在位六年。改元する者(こと)一、太和と曰う。会稽王立つ。是を簡文皇帝と為す。

(内容)
秦の王猛は諸軍を指揮して燕を討ち、遂に鄴を包囲した。秦の主苻堅は鄴に入って燕主の慕容暐を捕えて帰った。
晋の桓温は密かに帝位を奪う野心を抱いていた。ある時、枕を撫でながら歎息して「男子たるもの美名を百代の末に伝えることができないなら、いっそ悪名を万年に遺すべきかもしれん」まず大功を立てて凱旋し、九錫を受けるという筋書きを書いたが、枋頭での大敗で威名がにわかに衰えてしまった。郗超は桓温に「伊尹と霍光にならって帝を廃し、新帝を擁立して大きい権勢を確立するのです」と勧めた。桓温は遂に意を決して参内し、太后に申し上げて帝奕を廃した(370年)。在位六年、改元すること一度、太和という。会稽王が立った。これが簡文皇帝である。

12. 2012-04-26 09:11:45 | 十八史略 簡文帝崩ず

簡文皇帝名、元帝子也。清虚寡欲、尤善玄言。桓温迎即位。九閲月而不豫。急召桓温入輔。如諸葛武侯・王丞相故事。温望帝臨終禪位、否即居攝。不副所望。時謝安・王担之在朝。温疑担之・安沮其事。心甚銜之。帝在位改元者一、曰咸安。太子立。是爲烈宗孝武皇帝。

(日本語訳)
簡文皇帝、名は(いく)。元帝の子なり。清虚寡欲にして、尤も玄言(げんげん)に善し。桓温迎えて位に即く。九たび月を閲(こ)えて不豫(ふよ)なり。急に桓温を召して、入って輔けしむ。諸葛武侯・王丞相の故事の如くす。温、帝の終わりに臨んで位を禅り、否(しから)ざれば、即ち摂(せつ)に居らんと望む。望むところに副(かな)わず。時に謝安(しゃあん)・王坦子(おうたんし)、朝に在り。温、坦之と安と、其の事を沮(はば)むと疑う。心甚だ之を銜(ふく)む。帝、在位改元する者(こと)一、咸安と曰う。太子立つ。是を烈宗孝武皇帝と為す。

(内容)
簡文皇帝、名をといい、元帝の子である。潔白で欲がなく、老子に造詣が深かった。桓温はを迎えて位に即けた。九ヶ月をこえて病に罹られた。急ぎ桓温を召しだして政治を輔けさせた。ちょうど諸葛亮が後主を、王導が成帝を輔佐した如くであった。簡文帝が亡くなる間際、桓温は自分に位を譲るか、摂政の地位に居ることを望んでいたが、かなわなかった。
当時、朝廷では謝安と王坦子が政務を執っていたが、桓温はこの二人が邪魔をしたのであろうと思い、心中おおいに恨んだ。簡文帝は在位中改元すること一回で、咸安という。太子が立った。これを烈宗孝武皇帝という。

13. 2012-04-28 08:38:49 | 十八史略 孝武皇帝

烈宗孝武皇帝名昌明、年十歳即位。
桓温來朝。詔謝安・王担之、迎于新亭。都下洶洶。云、欲誅王・謝、因移晉祚。担之甚懼。安色不變。温既至。百官拝于道側。温大陳兵衞延見朝士。担之流汗泱沽衣、倒執手板。安從容就席、謂温曰、安聞、諸侯有道、守在四鄰。明公何須壁後置人邪。温笑曰、正自不能不爾。遂命撤之。與安笑語移日。郗超臥帳中、聽其言。風動帳開。安笑曰、郗生可謂入幕之賓矣。温有疾還姑孰。疾篤。諷求九錫。安・担之故緩其事。尋卒。

(日本語訳)
烈宗孝武皇帝、名は昌明、年十歳にして位に即く。
桓温来朝す。謝安・王担之に詔(みことのり)して、新亭に迎えしむ。都下洶洶(きょうきょう)たり。云う、王・謝を誅して晋祚を移さんと欲す、と。担之甚だ懼る。安、神色変ぜず。温既に至る。百官、道の側(かたわら)に拝す。温大いに兵衛を陳して、朝士を延見す。担之、汗を流して衣を沽(うるお)し、倒(さかしま)に手板(しゅはん)を執る。安、従容として席に就き、温に謂って曰く、「安聞く、『諸侯道有れば、守り四隣に在り』と。明公何ぞ壁後に人を置くを須(もち)いんや」と。温笑って曰く、「正に自ら爾(しか)らざる能(あた)わず」と。遂に命じて之を撤す。安と笑語して日を移す。郗超(ちちょう)、帳中に臥して、其の言を聴く。風動いて帳開く。安笑って曰く、「郗生は入幕の賓と謂う可し」と。温、疾(しつ)有って姑孰(こじゅく)に還る。疾(やまい)篤し。諷して九錫を求む。安・担之故(ことさら)に其の事を緩(ゆる)うす。尋(つ)いで卒す。

(内容)
烈宗孝武皇帝、名を昌明という、年十歳にして即位した。
桓温が姑孰から来朝した。帝は謝安と王担之に詔して、新亭まで迎えさせた。都の内は懼れおののいて、「王担之と謝安を誅殺して、晋室を奪うのではないか」と噂し合った。王担之は大いに恐れたが、謝安は顔色を変えなかった。桓温が到着すると、百官は道の両側で拝礼した。温の衛兵は威圧するが如く居並び、やがて朝吏を引見した。担之は冷や汗で着物を濡らすほどで笏を逆さまに持つほどの醜態を見せたが、謝安はゆったりと席に着き桓温に向かって「私は『諸侯に徳有れば、四隣がそのまま守りとなる』と聞いております。壁の後ろに人を配置するなど必要無いでしょうに」と言った。桓温は苦笑して「その徳が無いばかりに、こうせざるを得ないのだよ」と。遂に衛兵に退去を命じ、謝安と談笑して時を移した。郗超は帳の中に潜んで、そのやりとりを聞いていたが一陣の風に帳がめくれてしまった。謝安は笑って「郗君は幕僚中の賓客というところですかな」と言った。
やがて桓温は病を得て姑孰に帰った。重篤になって、九錫のことをほのめかすと、二人はわざと返事を引き延ばしていたが遂に桓温は死去した(373年)。

14. 2012-05-01 09:31:52 | 十八史略 王猛の遺言

秦丞相王孟卒。秦主堅哭之曰、天不欲使吾平一六合邪。何奪吾景略之速也。孟臨終謂堅曰、晉雖僻處江南、然正朔相承上下安和。臣没之後、願勿以晉以爲圖。鮮卑・西羌、我之仇敵。終爲人患。宜漸除之以安社稷。
涼降于秦。先是張玄靚之叔父天錫、殺玄靚而自立。天錫荒于酒色政亂。秦伐之。兵至姑臧。天錫面縛出。送長安。

(日本語訳)
秦の丞相王猛卒す。秦主堅之を哭して曰く、「天、吾をして六合(りくごう)を平一(へいいつ)せしむるを欲せざるか。何ぞ吾が景略(けいりゃく)を奪うの速かなるや」と。猛終りに臨んで堅に謂って曰く、「晋、江南に僻処(へきしょ)すと雖も、然も正朔(せいさく)相承(う)け、上下(しょうか)安和なり。臣没して後、願わくは晋を以って図(と)と為す勿れ。鮮卑・西羌は、我が仇敵なり。終に人の患いを為さん。宜しく漸(ようや)く之を除いて以って社稷(しゃしょく)を安んずべし、」と。
涼、秦に降る。是より先、張玄靚(げんせい)の叔父天錫(てんせき)、玄靚を殺して自立す。天錫、酒色に荒み、政乱る。秦之を伐つ。兵、姑臧(こぞう)に至る。天錫、面縛(めんばく)して出づ。長安に送る。

(内容)
秦の丞相の王猛が死んだ。秦主の苻堅は哭礼して言った「天は私が天下を統一することを欲しないのであろうか。何ゆえこれほど急に景略を召してしまわれたのか」と。王猛は臨終に際して、苻堅に言い残した。「晋は今でこそ江南の地に逼塞していますが、正統を受け継ぎ君臣もあい和しています。私が死んだ後も決して晋と事を構えようなどとなさらないでください。むしろ鮮卑と西羌こそが、わが国の仇敵であり、ついには禍のもととなるでしょう。少しづつこれを取り除いて国の安泰をはかるのがよろしいでしょう」と。
涼が秦に降伏した。以前、張玄靚の叔父の天錫が玄靚を殺して自立した。ところが天錫は酒色に溺れて政治が乱れた。秦がこれを伐って都の姑臧に迫ると、天錫は自ら後ろ手に縛って降伏した。長安に送られて涼は滅亡した(376年)。

15. 2012-05-03 15:30:24 | 十八史略 謝安、謝玄を挙ぐ

代王拓跋什翼犍世子寔早卒。繼嗣未定。庶長子遂殺其諸弟、併殺什翼犍。會秦兵撃代。部衆逃潰。國中大亂。秦主苻堅分代爲二部。自河以東、屬代南部大人劉庫仁、自河以西、屬匈奴劉衞辰、使統其衆。代世子寔之子珪尚幼。母賀氏以珪走依賀訥。已而依庫仁。庫仁奉珪恩勤。不以廢興易意。
晉以秦人強盛憂。詔求良將可鎭禦北方者。謝安以兄子玄應詔。郗超歎之曰、安之明、乃能違衆擧親。玄才不負所擧。吾嘗見其使才、雖屐履、未嘗不得其任。玄鎭廣陵。得劉牢之等爲參軍。戰無不捷。號北府兵。敵人畏之。

(日本語訳)
代王の拓跋什翼犍(じゅうよくけん)の世子寔(しょく)、早く卒す。継嗣未だ定まらず。庶長子遂に其の諸弟を殺し、併せて什翼犍を殺す。会々(たまたま)秦兵、代を撃つ。部衆逃壊(とうかい)す。国中大いに乱る。秦主苻堅(ふけん)、代を分って二部と為す。河より以東、代の南部大人(たいじん)劉庫仁に属し、河より以西、匈奴の劉衛辰に属し、其の衆を統(す)べしむ。代の世子寔の子珪(けい)、尚お幼なり。母賀氏、珪を以って、走って賀訥(がとつ)に依(よ)る。已にして庫仁に依る。庫仁、珪を奉じて恩勤(おんきん)なり。廃興(はいこう)を以って意を易(か)えず。
晋、秦人の強盛を以って憂いと為す。詔(みことのり)して、良将の北方を鎮禦(ちんぎょ)す可き者を求む。謝安、兄の子玄を以って詔に応ず。郗超(ちちょう)、之を歎じて曰く、「安の明、乃ち能く衆に違うて親を挙ぐ。玄の才、挙ぐる所に負(そむ)かず。吾、嘗て其の才を使うを見るに、屐履(げきり)の間と雖も、未だ嘗て其の任を得ずんばあらず」と。玄、広陵に鎮す。劉牢之等を得て参軍と為す。戦って捷(か)たざる無し。北府兵と号す。敵人之を畏(おそ)る。

(内容)
代王の拓跋什翼犍の嗣子の寔は早く死んだ。後継ぎが決まらないうちに、第一庶子が遂に弟たちを殺し、什翼犍までも殺してしまった。ちょうど秦が代を攻めていたので国中が大混乱に陥った。秦主の苻堅は代を二つに分割して黄河から東の地域は代の南部の長の)劉庫仁に、黄河以西を匈奴の劉衛辰に統治させた。代の世子寔の子珪はまだ幼かったので、母の賀氏が実家の賀訥を頼ったがやがて劉庫仁に身を寄せた。庫仁は珪を手厚い恩情で世話をし、身の上の浮沈によって態度を変えるようなことはしなかった。
晋では秦の興隆を危惧して孝武帝は詔を下して、北方防禦の良将を募った。この時謝安は兄の子謝玄を推挙した。郗超は感心して「謝安の偉いところは、衆人なら躊躇する身内をあえて推挙したことだ。謝玄の才能はきっと期待を裏切らないであろう。嘗て私は玄が人材を使いこなすところを見たことがあるがどんなわずかな間にも、任にそぐわないことなど少しもなかった」と言った。謝玄は広陵を鎮撫することになり、劉牢之らを得て参謀とした。戦って勝たぬことがなかった。北府兵と呼ばれるようになり、敵の畏れるところとなった。

2012-05-03 15:33:55 十八史略 鞭を江に投ずるも、其の流れ断つべし

秦遣兵分道寇晉。陥諸郡、執襄陽刺史朱序以歸。已而議大擧。或謂晉有長江之險。堅曰、以吾之衆、投鞭於江、可斷其流。時中外皆諌。惟慕容垂・姚萇、欲乘其釁。勸之南伐。堅遂發長安戍卒六十餘萬、騎二十七萬。晉以謝石爲征討大都督、謝玄爲前鋒都督。督衆八萬拒之。劉牢之帥精兵五千趨洛澗、直渡水、撃秦前鋒梁成斬之。

秦兵を遣(や)り道を分って晋に寇(こう)す。諸郡を陥れ、襄陽の刺史朱序を執(とら)えて、以(ひい)て帰る。已にして大挙を議す。或るひと曰く、「晋に長江の険有り」と。堅曰く、「吾が衆を以ってせば、鞭を江に投ずるも、其の流れ断つ可(べ)し」と。時に中外皆諌む。惟だ慕容垂(ぼようすい)・姚萇(ようちょう)其の釁(きん)に乗ぜんと欲す。之を勧めて南伐せしむ。堅、遂に長安の戍卒(じゅそつ)六十余万、騎二十七万を発す。晋、謝石を以って征討大都督と為し、謝玄を前鋒都督と為す。衆八万を督して之を拒(ふせ)ぐ。劉牢之、精兵五千を帥(ひき)いて洛澗に趨(おもむ)き、直(ただち)に水を渡り、秦の前鋒梁成を撃って之を斬る。

以 たずさえる、引き連れる。 釁 隙。

秦は兵を派遣し、道を分けて攻め込んだ。諸郡を陥れて、襄陽郡の刺史の朱序を捕えて連れ帰った。そこでいよいよ大軍をもって晋を攻めるについて朝議を開いた。ある者が晋には長江という要害がありますと反対したが、苻堅は「わが大軍をもってすれば、鞭を投げ入れただけでも長江の流れはせき止められるわ」とはねつけた。この時朝廷の内外で晋討伐を諌めた。その中で慕容垂と姚萇のみが、出兵の隙に乗じて叛旗を翻えそうとの下心から、晋討伐を勧めた。苻堅は遂に長安の守備兵六十余万、騎兵二十七万を出動させた。一方晋では、謝石を征討大都督に、謝玄を前鋒都督に任命して総勢八万を率いて秦軍を防がせた。劉牢之は精兵五千を率いて洛澗に向かい、直ちに川を渡って秦の先鋒の梁成を攻撃してこれを斬った。
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2012-05-08 08:56:57 十八史略 風声鶴唳に驚く

石等水陸繼進。堅登壽陽城望見。晉兵部陣嚴整。又望見八公山草木、皆以爲晉兵、憮然有懼色。秦兵逼肥水而陣。玄使人謂曰、移陣少卻、使我兵得渡。以決勝負。可乎。堅欲聽晉兵半渡蹙之、麾兵使卻。秦兵退。不可復止。朱序在陣後、呼曰、秦兵敗矣。遂潰。玄等乘勝追撃。秦兵大敗。走者聞風聲鶴唳、皆以爲晉兵至。堅狼狽還長安。

石等、水陸継いで進む。堅、寿陽城に登って望見す。晋兵、部陣厳整なり。又八公山の草木を望見して、皆以って晋兵と為し、憮然として懼るる色有り。秦兵、肥水に逼(せま)って陣す。玄、人をして謂わしめて曰く、「陣を移して少しく卻(しりぞ)き、我が兵をして渡るを得しめよ。以って勝負を決せん。可ならんか」と。堅、晋兵に聴(ゆる)して、半ば渡るとき、之に蹙(せま)らんと欲し、兵を麾(さしまね)いて卻かしむ。秦兵、退く。復(また)とは止(とど)む可からず。朱序、陣後に在り、呼んで曰く、「秦兵敗る」と。遂に潰(つい)ゆ。玄等、勝ちに乗じて追撃す。秦兵、大いに敗る。走る者、風声鶴唳(かくれい)を聞いて、皆以って晋兵至ると為す。堅、狼狽して長安に還る。

八公山 寿陽の北にある。 肥水 寿陽の東を流れ、淮水に注ぐ。 風声鶴唳 風の音と鶴の鳴き声。

謝石等の本隊も水路陸路の両面から進んだ。苻堅は寿陽城に登って遠望すると、晋の陣営は整然としていた。また八公山の草木がみな晋の兵に見えて、堅に驚き怪しむ気色がうかがえた。秦の兵は肥水の間際に陣を布いた。謝玄は一計を案じ、人を苻堅に遣わして言わせた「陣を少し後退して、わが軍が川を渡れるようにされたい。その上で勝負を決してはいかがであろうか」と。苻堅はこれを受け入れて、陣を下げて晋軍が半ば渡ったときに急襲しようと考えた。ところが秦軍は一度退却をはじめると、止まることができなくなってしまった。それとみて秦軍の捕虜となって陣地の後方にいた朱序が、「秦軍が敗れた」と叫ぶと遂に総崩れになってしまった。謝玄等はこの機に乗じて追撃し、秦軍は大敗した。逃げまどう兵は風の音、鶴の鳴き声にも晋軍が迫ってきたかと脅える有り様であった。苻堅はあわてふためいて長安に逃げ帰った。
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2012-05-10 09:07:08 十八史略 謝安卒す

慕容垂叛秦、起於河内。自稱燕王。
姚萇叛秦、起於北地、自稱秦王。是爲後秦。
慕容沖叛秦、起兵平陽、稱帝。是爲西燕。攻長安。秦主苻堅出奔。後秦主萇、執而弑之。
晉太保謝安卒。安文雅過王導。有量。方秦寇至、朝野振動。安夷然圍碁賭墅。捷書至。安方與客碁。覽畢坐側。無喜色。碁罷。客問之。徐曰、小兒輩已遂破賊。客去。安入戸喜甚。不覺屐歯折。其矯情鎭物如此。

慕容垂秦に叛(はん)し、河内(かだい)に起り、自ら燕王と称す。
姚萇(ようちょう)秦に叛し、北地に起り、自ら秦王と称す。是を後秦と為す。
慕容沖(ぼようちゅう)秦に叛し、兵を平陽に起し、帝と称す。是を西燕と為す。長安を攻む。秦主苻堅出奔す。後秦の主萇、執(とら)えて之を弑す。
晋の太保謝安卒す。安、文雅王導に過ぐ。徳量有り。秦の寇(あだ)至るに方(あた)って、朝野(ちょうや)振動す。安、夷然(いぜん)として碁を囲んで墅(しょ)を賭(と)にす。捷書(しょうしょ)至る。安、方(まさ)に客と碁す。覧(み)畢(おわ)って坐側に(お)く。喜色無し。碁罷(や)む。客之を問う。徐(おもむろ)に曰く、「小児輩已(すで)に遂に賊を破る」と。客去る。安、戸(こ)に入り、喜ぶこと甚だし。屐歯(げきし)の折るるを覚えず。其の情を矯(た)め物を鎮(ちん)ずる事此(かく)の如し。

太保 三公の一、天子の徳を保つ。 徳量 徳のある人格、器量。 夷然 落ち着いた様子。 墅 別荘。 捷書 戦勝の知らせ。 小児輩 謝石、謝玄ら。 屐歯 下駄の歯。 鎮 しずまり居ること。

慕容垂が秦に叛いて河内で立ち、自ら燕王と称した(後燕)。
ついで姚萇が北地に独立して秦王と称した。これが後秦である。
慕容沖も秦に叛いて平陽で兵を起こし、帝と称した。これを西燕という。沖が長安を攻撃したので苻堅は逃げ出したが、後秦の主の姚萇が捕えて弑殺した。
晋の太保の謝安が死んだ。謝安は、学問、風雅ともに王導をも凌いでいた。又、人格も器量も備えていた。秦軍が侵入してきた。晋は官民ともに懼れ慄いている時、謝安は平然として客と別墅を賭けて碁を打っていた、戦勝の報告書が届き、見終って坐の側に置いただけで、喜色をあらわすわけでもなかった。碁を終えて客が尋ねると、事も無げに「身内の若い者が賊を平らげたということですよ」と答えた。しかし客が帰ると、屋内に戻るや狂喜して下駄の歯が欠けたのも気付かぬほどであった。謝安が感情を抑えて冷静に物事を処理する事、このようであった。
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2012-05-12 12:06:46 十八史略 五胡再び争乱す

秦主苻堅之子丕、稱帝于晉陽。
拓跋珪復立爲代王。先是、劉庫仁爲其下所殺。弟頭眷代領其衆。庫仁之子顯、殺頭眷而自立。又欲殺珪。珪奔賀蘭部、依其舅。諸部大人推珪爲主。遂即王位。徙居盛樂。後改稱魏。
燕主垂稱帝于中山
西燕人弑其主沖立段随。又殺随立慕容忠。又殺忠立慕容永。永撃秦主苻丕。丕敗南走。爲晉將軍邀撃殺之。慕容永稱帝於長子。
秦疏族苻登、稱帝於南安。
後秦姚萇、先是已入長安稱帝。苻登引兵數與後秦戰。互有勝負。
後秦主姚萇卒。子興立。撃登殺之。
燕主垂撃西燕抜長子。殺西燕主永。
燕主垂卒。子寶立。

秦主苻堅の子丕(ひ)、帝を晋陽に称す。
拓跋珪復た立って代王と為る。是より先、劉庫仁、其の下(しも)の殺す所と為る。弟頭眷(とうけん)、代って其の衆を領す。庫仁の子顕、頭眷を殺して自立す。又珪を殺さんと欲す。珪、賀蘭部(がらんぶ)に奔(はし)り、其の舅(きゅう)に依る。諸部の大人(たいじん)、珪を推して主と為す。遂に王位に即く。徙(うつ)って盛楽(せいらく)に居る。後改めて魏と称す。
燕主垂、帝を中山に称す。
西燕の人、其の主沖(ちゅう)を弑して段随(だんずい)を立つ。又随を殺して慕容忠を立つ。又忠を殺して慕容永を立つ。永、秦の主苻丕(ふひ)を撃つ。丕敗れて南に走る。晋の将軍の為に邀(むか)え撃たれて之に殺さる。慕容永、帝を長子に称す。
秦の疏族(そぞく)苻登(ふとう)、帝を南安に称す。
後秦の姚萇、是より先、已に長安に入って帝と称す。苻登、兵を引いて数しば後秦と戦う。互いに勝負有り。
後秦の主姚萇卒す。子興立つ。登を撃って之を殺す。
燕主垂、西燕を撃って、長子を抜く。西燕の主永を殺す。
燕主垂卒す。子宝(ほう)立つ。

長子 山西省の県名。 疏族 遠縁。 勝負 勝ったり負けたり。

秦主苻堅の子、苻丕が晋陽で帝と称した。
拓跋珪が再び立って代王となった。これより前、劉庫仁はその部下に殺された。そこで弟の劉頭眷があとを引き継いだ。ところが庫仁の子の劉顕が頭眷を殺して立ち、さらに庫仁の庇護の下に居た拓跋珪をも殺そうとしたので、珪は賀蘭部に逃げ母の実家の賀訥に身を寄せた。代の諸部族では珪を推して主君としたので、ここで王位に即き、都を盛楽に遷した。後に代を改め魏(北魏)と称した。
後燕の慕容垂は中山にて帝と称した(384年)。
西燕の左将軍韓延が主の慕容沖を弑して段随を立てたが、これも殺して慕容忠を立て、再び殺して慕容永を立てた。永は秦の苻丕を撃った。苻丕は敗れて南に逃げたところ、晋の将軍に迎え討たれて殺された。慕容永は長子において帝と称した。
秦主の遠縁の苻登が南安で立ち、帝と称した
後秦の姚萇は、これより以前、長安に入って帝と称した。苻登は兵を率いてしばしば後秦と戦い、勝ち負けを繰り返していた。後秦の姚萇が死に、その子の興が立った。興は苻登を撃ってこれを殺した(394年)。かくして前秦は滅亡した。
後燕の慕容垂は西燕を撃って長子を陥れ、慕容永を殺した。
後燕の垂が死に、子の宝が立った。
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2012-05-15 11:38:52 十八史略 孝武帝寵妃の殺すところとなる

自苻堅之敗、中原大亂。其大者慕容氏・姚氏、迭擧大號。其乗時而起、如秦故臣呂光、據涼州稱涼天王。鮮卑乞伏國仁、據隴右稱西秦王。國仁卒。弟乾歸繼之。後又有鮮卑禿髪烏孤。起河西、號南涼。
晉自敗秦以後、江左無事。會稽王道子爲政。帝嗜酒流連而已。長星見。帝擧酒向之曰、長星、勸汝一杯酒。世豈有萬年天子邪。
張貴人年三十、寵冠後宮。醉中戲之曰、汝以年亦當廢矣。貴人使婢蒙其面而弑之。在位十五年。改元者二、曰寧康・太元。太子立。是爲安皇帝。

苻堅の敗れてより、中原大いに乱る。其の大なる者、慕容氏・姚氏(ようし)迭(たがい)に大号を挙ぐ。其の時に乗じて起こるは、秦の故臣呂光の如き、涼州に拠(よ)って、涼天王と称す。鮮卑の乞伏國仁(きっぷくこくじん)、隴右(ろうゆう)に拠って西秦王と称す。國仁卒す。弟乾帰(けんき)之に継ぐ。後又、鮮卑の禿髪烏孤(とくはつうこ)有り。河西に起り、南涼と号す。
晋、秦を敗ってより以後、江左無事なり。会稽王道子、政を為す。帝、酒を嗜(たしな)んで流連するのみ。長星見(あら)わる。帝、酒を挙げて之に向かって曰く、「長星、汝に一杯の酒を勧む。世、豈万年の天子有らんや」と。
張貴人、年三十、寵(ちょう)後宮に冠たり。酔中之に戯れて曰く、「汝、年を以ってすれば亦当(まさ)に廃すべし」と。貴人、婢(ひ)をして其の面を蒙(おう)わしめて之を弑す。在位十五年。改元する者(こと)二、寧康・太元と曰う。太子立つ。是を安皇帝と為す。

江左 揚子江以東。 流連 遊興に耽る、いつづけ。 長星 ほうき星。 貴人 側室。

秦主の苻堅が敗れてから中原は大いに乱れた。その最も強大なものは慕容氏と姚氏である。この両氏が代わる代わる帝の号を称した。
その乱世に乗じて新たに起こったものとして、秦の臣下であった呂光のように涼州に拠って涼天王と称した。鮮卑の乞伏国仁は隴右の地を本拠として西秦王と称した。国仁が死ぬと、弟の乾帰が後を継いだ。後に又鮮卑の禿髪烏孤という者が河西に起こって南涼と号した。
晋が秦を敗ってから以後は江東に平和が訪れ、帝の弟会稽王の道子が政治をまかされ、孝武帝は酒に耽って日夜止むことが無い有り様であった。ある夜、ほうき星が現れた。帝は杯を挙げて星に向かって言うことには、「ほうき星よ汝に一杯の酒を捧げよう。天子といっても万年生きるわけではないのだから」
張貴人は三十歳を過ぎていたが、帝の寵愛は後宮第一であった。帝は酔いの戯れに「そなたも年齢からすればそろそろお役御免かなあ」といった。貴人は召使いに命じて帝の顔を塞いで殺してしまった。孝武帝は在位十五年、改元すること二回で、寧康・太元といった。太子が立った。これが安皇帝である。
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2012-05-15 11:45:36 十八史略 五胡十六国

再度五胡十六国を整理しておきたい。

五 胡    十六国   興亡年    建国者   都   征服国

モ        前趙(漢) 304329   劉淵    平陽   後趙
  匈奴     北涼 397439   沮渠蒙遜       北魏
ン        夏(大夏) 407~431   赫連勃勃       北魏

ゴ 羯(けつ)  後趙 319~351   石勒    鄴   ※冉閔

         前燕 337370   慕容皝        前秦
ル        後燕 384409   慕容氏   中山   北燕
  鮮卑(せんぴ) 西秦 385431   乞伏国仁  金城   夏
系        南涼 397414   禿髪烏孤       西秦
       南燕 398~410   慕容徳   滑台   東晋

チ        成(漢) 304347   李特    成都   東晋
ベ 氐(てい)   前秦 351394   苻健    長安   後秦
ッ        後涼 386403   呂光         後秦
ト  
系 羌(きょう) 後秦 384417   姚萇         東晋

漢        前涼 301376   張軌         前秦
族        西涼 400421   李    敦煌   北涼
         北燕 409~436   馮跋    竜城   北魏
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2012-05-17 08:30:58 十八史略 骨肉相食む

安皇帝名宗、幼不慧。口不能言、寒暑飢飽不辧。飮食寢興、皆非己出。既即位。會稽王以太傅輔政。
魏王拓跋珪、連歳攻燕。進圍中山。燕主慕容寶出奔。後爲其下所弑。
燕慕容稱帝。慕容麟襲殺而自立。魏王珪破麟走之。麟奔慕容心。爲所殺。往據廣固。後稱帝。是爲南燕。
燕慕容盛、稱帝於龍城。是爲北燕。
魏王珪稱帝。都平城。
涼段業稱涼王。據張掖。是爲北涼。
晉會稽王道子、專以政事委世子元顯。晉政亂。東土囂然。妖賊孫恩、因民心騒動、自海島出作亂。劉裕因討恩有功而起。

安皇帝名は徳宗、幼にして不慧(ふけい)なり。口言う能わず、寒暑飢飽を弁ぜず。飲食寝興(しんこう)皆己(おのれ)より出ずるに非ず。既に位に即く。会稽王、太傅(たいふ)を以って政を輔(たす)く。
魏王拓跋珪、連歳燕を攻む。進んで中山を囲む。燕主慕容宝出奔す。後、其の下(しも)の弑する所と為る。
燕の慕容、帝と称す。慕容麟、襲うてを殺して自立す。魏王珪、麟を破って之を走らす。麟、慕容徳に奔(はし)る。徳の殺す所と為る。徳往いて広固に拠(よ)る。後、帝と称す。是を南燕と為す。燕の慕容盛、帝を龍城に称す。是を北燕と為す。
魏王珪、帝と称す。平城に都す。
涼の段業(だんぎょう)、涼王と称す。張掖(ちょうえき)に拠る。是を北涼と為す。
晋の会稽王道子、専ら政事を以って世子元顕に委す。晋の政乱る。東土囂然(ごうぜん)たり。妖賊孫恩(そんおん)、民心の騒動に因(よ)って、海島より出でて乱を作(な)す。劉裕、恩を討って功有るに因って起こる。

不慧 智慧足らず。 太傅 三公の一、王子の教育係。 囂然 騒がしいさま。

安皇帝は名を徳宗といい、幼いときから智慧遅れで、ものも言えず、寒さ暑さ空腹も満腹も分らず、飲食から寝起きまで、人手を借りなければ何一つできなかった。やがて帝位に即くと会稽王の道子が太傅として政務を執った。
魏王の拓跋珪が連年にわたって燕をせめ、軍を進めて中山を包囲した。燕主の慕容宝は脱出したが、後に部下に殺された。
燕の慕容が帝を称した。慕容麟がこれを襲って慕容祥を殺して自立した。魏王の拓跋珪が、慕容麟を破って敗走させた。慕容麟は慕容徳のもとに逃げたが、徳に殺された。その慕容徳は広固に拠を移して、後に帝と称した(398年)。これを南燕という。燕の慕容盛が、慕容宝の後を嗣いで龍城で帝を称した。これを北燕という。
魏王の拓跋珪が、帝を称して平城を都とした。
涼の段業が涼王と称して張掖の地に拠った。これが北涼である。
一方晋では、会稽王の道子は自分の後継ぎの司馬元顕に政治を任せた。そのため国内が乱れ、江東は騒然となった。妖賊の孫恩は民心の動揺につけこんで東海より立って乱を起こした。このとき劉裕は賊を討った功により、頭角を顕した。
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2012-05-19 10:15:17 十八史略 

北涼沮渠蒙遜、弑段業而自立。蒙遜匈奴之種也。後遷姑臧。
涼王呂光卒、子紹立。庶兄簒、弑而代之。呂超又弑簒、而立其兄隆。隆後降秦、而涼亡。
隴西李據敦煌。是爲西涼。後徙酒泉。柔然起於漠北、奪高車之地而居之、呑併諸部。士馬繁盛、雄於北方。其地西至焉耆、東接朝鮮、南臨大漠。旁小國皆羈屬、與魏爲敵。晉盜孫恩、數爲劉裕等所敗。赴海死。其黨盧循・徐道覆復起。

北涼の沮渠蒙遜(そきょもうそん)、段業を弑(しい)して自立す。蒙遜は匈奴の種なり、後、姑臧(こぞう)に遷(うつ)る。
涼王呂光卒す。子紹立つ。庶兄簒、弑して之に代わる。呂超、又簒を弑して、その兄隆を立つ。隆、後、秦に降って涼亡ぶ。
隴西(ろうせい)の李(りこう)、敦煌(とんこう)に拠る。是を西涼となす。後、酒泉に徙(うつ)る。
柔然(じゅうぜん)、漠北(ばくほく)より起こって、高車(こうしゃ)の地を奪って之に居り、諸部を呑併(どんへい)す。士馬繁盛、北方に雄たり。その地、西は焉耆(えんぎ)に至り、東は朝鮮に接し、南は大漠(たいばく)に臨み、旁(かたわら)の小国皆羈属(きぞく)して、魏と敵となる。
晋の盗孫恩、数しば劉裕等の敗る所となる。海に赴いて死す。その党盧循(ろじゅん)・徐道覆(じょどうふく)、復た起こる。

北涼の沮渠蒙遜が、段業を弑殺して自ら位に即いた。蒙遜は匈奴の種属でその後、姑臧に都を移した。
涼王の呂光が亡くなり、子の呂紹が立った。腹違いの兄の呂纂が紹を殺して自分の兄の呂隆を立てた。だが二年後に秦に降って涼は滅んだ。
隴西の李が、敦煌の地に拠って立った(400年)。これが西涼である。後に酒泉に移った。
柔然は沙漠の北に起こり、高車国の地を奪って、本拠とし、諸部族を併呑した。士卒も軍馬も充実して、北方の雄となった。その地、西は焉耆から、東、朝鮮に接し、南は大砂漠に臨んだ。近隣の小国は皆従い、魏と対峙するようになった。
晋の妖賊の孫恩はしばしば劉裕らに討ち破られ、海に逃げて死んだ。だが一味の盧循・徐道覆がまた騒乱を起こした。
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2012-05-22 10:28:46 十八史略 劉裕、桓玄を斬り安帝を復位させる

晉桓玄反。初玄嗣父温爲南郡公。負其才地、以雄豪自處。嘗守義興。歎曰、父爲九州伯、兒爲五湖長。棄官歸國。後爲江州刺史、尋都督荊・江等八州軍事。據江陵。至是擧兵入建康。殺元顯、又殺道子。玄爲相國、封楚王、加九錫。已而迫帝禪位。劉裕起兵於京口討玄。與玄兵戰。大破之。玄出走、斬首於江陵。帝復位。劉裕鎭京口。
秦赫連勃勃、叛秦據朔方、自稱大夏天王。勃勃故匈奴劉衞辰之子也。

晋の桓玄、反す。初め玄、父温に嗣(つ)いで南郡公と為る。其の才地を負(たの)んで、雄豪を以って自ら処(お)る。嘗て義興に守たり。歎じて曰く、「父は九州の伯たり、児は五湖の長たり」と。官を棄てて国に帰る。後、江州の刺史となり、尋(つ)いで荊・江等八州の軍事を都督す。江陵に拠(よ)る。是(ここ)に至って、兵を挙げて建康に入る。元顕を殺し、又道子(どうし)を殺す。玄、相国となって、楚王に封ぜられ、九錫を加う。已にして帝に迫って位を禅(ゆず)らしむ。劉裕、兵を京口に起こして玄を討つ。玄の兵と戦う。大いに之を破る。玄、出走し、首を江陵に斬らる。帝、位に復す。劉裕、京口に鎮す。
秦の赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)、秦に叛して朔方(さくほう)に拠り、自ら大夏天王と称す。勃勃は故(もと)の匈奴劉衛辰の子なり。

晋の桓玄が謀叛した。初め桓玄は父桓温の後を嗣いで南郡の領主になったが、自身の才気と家門を拠り所に、英雄豪傑をもって任じていた。嘗て義興郡の太守になったが、「父は九州の長官であったのに、自分は五湖の長か」と憤慨し、官を辞めて南郡に帰ってしまった。後に江州の長官になり、続いて荊州、江州など八州の軍事を治めることとなり、江陵に本拠地を置いた。ここに至って遂に兵を挙げて建康に攻め入り、司馬元顕と、父の道子を殺した。
桓玄は相国となり、楚王に封じられ、九錫を加えられた。やがて安帝に迫って譲位させてしまった。そこで劉裕は京口で兵を挙げて桓玄を伐ち、大いにこれを破った。桓玄は都を落ち、江陵で捕えられて首を斬られた。安帝は再び位に即き、劉裕は京口に鎮台を置いた。
秦の赫連勃勃が秦に謀反を起こして、朔方郡を根城にして自ら大夏天王と名乗った。勃勃はもともと匈奴の劉衛辰の子である。

2012-05-24 08:50:24 十八史略 南燕滅ぶ

晉伐南燕。先是南燕主慕容卒。兄子超立。侵略晉邊。劉裕抗表伐之。
北燕爲其臣馮跋所滅。先是北燕主盛、爲其下所弑。叔父熙立。跋得罪於熙。弑之而立熙之養子高雲。未幾、又弑雲而自立。
魏主殺人之夫、而納其妻。與之生子紹。兇狠無頼。弑珪。齊王嗣殺紹而立。珪謚道武皇帝。廟號烈祖。
晉劉裕抜廣固。執慕容超、送建康斬之。南燕亡。

晋、南燕を伐つ。是より先、南燕の主、慕容徳卒す。兄の子超立つ。晋辺を侵略す。劉裕、表を抗(こう)して之を伐つ。
北燕、其の臣馮跋(ふうばつ)の滅ぼす所と為る。是より先、北燕の主盛、其の下の弑する所と為る。叔父熙(き)立つ。跋、罪を熙に得たり。之を弑して熙の養子高雲を立つ。未だ幾ばくならずして、又雲を弑して自立す。
魏主、人の夫を殺して、その妻を納(い)る。之と子紹を生む。兇狠無頼(きょうこんぶらい) 珪を弑す。斉王嗣(し)、紹を殺して立つ。珪を道武皇帝と謚(おくりな)す。廟を烈祖と号す。
晋の劉裕、広固を抜く。慕容超を執(とら)えて、建康に送って之を斬る。南燕亡ぶ。

表を抗して 抗は上げる、上表に同じ。 兇狠無頼 狠はゆがむ、ねじける。無頼 無法者。

晋が南燕を征伐した。それは以前南燕の慕容徳が死んで、兄の子の慕容超が立ち、晋の国境を侵略した。それで劉裕が書をたてまつって、討伐したのである。
北燕はその臣下の馮跋に滅ぼされた。これより前、北燕の主慕容盛が、その臣下に弑殺され、叔父の慕容熙が立った。馮跋が熙に罪を問われて、熙を殺してその養子の高雲を立てたが、間もなく高雲をも弑殺して自立した。
魏王の拓跋珪が人を殺してその妻を奪った。二人の間に子の紹が生まれたが、性質が凶悪無頼で、父の珪を殺した。そこで珪の長子の斉王嗣が、紹を殺して立ち、珪に道武皇帝とおくり名して、廟号を烈祖とした。
南燕の討伐に向かった劉裕は広固を陥落させ、慕容超を捕えて建康に送ったうえで斬った。南燕はここに滅んだ(410年)。
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2012-05-26 09:28:06 十八史略 南涼、後秦滅ぶ

盧循乘劉裕北伐、出自番禺、直下襲建康。劉裕被徴急還。諸軍力戰。循乃退。裕追破之。循走交州。爲刺史所敗。斬首送建康。
西秦乞伏韓歸、爲其下所弑。子熾盤立。
西秦襲滅南涼。先是南涼主禿髪烏孤卒。弟利鹿孤立。卒。弟■檀立。至是爲乞伏熾盤所襲。以■檀歸殺之。南涼亡。
後秦主姚興卒子泓立。晉大尉劉裕伐之。發彭城由洛陽、道武關・潼關入長安。泓敗出降。送建康斬之。後秦亡。             ■ 人偏に辱。

盧循(ろじゅん)劉裕の北伐に乗じて、番禺(ばんぐう)より出で、直ちに下って建康を襲う。劉裕徴(め)されて急に還る。諸軍力戦す。循乃(すなわ)ち退く。裕追って之を破る。循、交州に走る。刺史の敗る所と為る。首を斬って建康に送る。
西秦の乞伏韓帰(きっぷくかんき)、其の下の弑する所と為る。子熾盤(しはん)立つ。
西秦、襲うて南涼を滅ぼす。是より先、南涼の主禿髪烏孤(とくはつうこ)卒す。弟利鹿孤(りろくこ)立つ。卒す。弟■壇(とくだん)立つ。是(ここ)に至って、乞伏熾盤の襲う所と為る。■檀を以(い)て帰って之を殺す。南涼亡ぶ。
後秦の主姚興(ようこう)卒す。子泓(おう)、立つ。晋の大尉劉裕、之を伐つ。彭城を発し、洛陽より武関・潼関(どうかん)に道(どう)して長安に入る。泓、敗れて出でて降る。建康に送って之を斬る。後秦亡ぶ。

番禺 今の広東省の県名。 交州 今の江西省、ベトナムに近い。 以て 連れて、引き立てて。 彭城 今の江蘇省の県名。 武関・潼関 陜西省にある関所。 道して 通って。

盧循は劉裕が北伐に出たすきに番禺を出て長江を下って、建康を襲った。劉裕が急遽呼び戻され、諸軍が力戦したので、盧循は退却、劉裕が追撃して打ち破った。盧循は交州まで逃げて、その地の刺史に敗れ、首を斬られて建康に送られた。
西秦の乞伏韓帰はその臣下に殺されて、子の乞伏熾盤が立った。
南涼が西秦に襲われて滅亡した。これより前、南涼の禿髪烏孤が死んで、弟の利鹿孤が立ち、これも死んで、弟の■壇が立った。この時になって西秦の乞伏熾盤が襲撃して、■壇を連れ帰ってこれを殺した。こうして南涼は滅亡した(414年)。
後秦の姚興が死んで、子の姚泓が立った。晋の大尉の劉裕がこれを討つことになり、彭城を出発して洛陽より武関・潼関と道をとって、長安に入った。姚泓は敗れて城を出て降伏した。そして建康に送られて斬られた。こうして後秦も滅んだ(417年)。
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2012-05-31 10:17:15 十八史略 東晋亡ぶ

劉裕禅譲を受く
恭皇帝名文、即位之明年、劉裕進爵爲宋王。自彭城移鎭壽陽。又明年裕還建康。帝在位改元者一、曰元熙。禪位于裕。已而被弑。東晉自元皇帝、至是凡十一世、一百四年。西晉・東晉、通一百五十六年而亡。

恭皇帝名は徳文、即位の明年、劉裕爵を進めて宋王と為る。彭城より移って壽陽を鎮す。又明年、裕、建康に還る。帝、位に在って改元する者(こと)一、元熙(げんき)と曰う。位を裕に禅(ゆづ)る。已(すで)にして弑せらる。東晋は、元皇帝より、是(ここ)に至るまで凡(すべ)て十一世、一百四年。西晋・東晋、通じて一百五十六年にして亡ぶ。

恭皇帝は名を徳文といった。即位の翌年に劉裕が爵を進めて宋王を名乗った。彭城より移って壽陽を鎮守した。次の年、劉裕は建康に還った。位を劉裕に譲ったが、間もなく弑殺された。改元すること一回、元熙という。東晋は元皇帝から恭皇帝まで十一世、百四年であり、西晋、東晋通算すると百五十六年で亡んだ。(419年)
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最終更新:2025年01月04日 23:28