2012-06-02 09:29:19 十八史略 南北朝
南朝、自晉以傳梁、梁傳陳。北朝、自諸國併於魏、魏後分爲西魏・東魏、東魏傳北齊、西魏傳後周、後周併北齊、而傳之隋。隋滅陳、然後南北混爲一。今以南爲提頭、而附北於其。
南朝は、晋より以って之を宋に伝え、宋は之を斉に伝え、斉は梁に伝え、梁は陳に伝う。
北朝は、諸国魏に併(あわ)せられてより、魏、後分かれて西魏・東魏と為り、東魏は北斉に伝え、西魏は後周に伝え、後周は北斉を併せて、之を隋に伝う。隋、陳を滅ぼし、然る後南北混じて一と為る。今南を以って提頭(ていとう)と為して、北を其の間に附す。
提頭 はじめに掲げる。
南朝
宋――斉――梁――陳――隋
北朝
魏――東魏―北斉↓
西魏―――後周――隋
宋は八世59年・斉は七世23年・梁は四世55年・陳は五世32年
魏は十世115年・東魏は一世17年・北斉は六世28年
西魏は三世22年・後周は五世15年
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2012-06-05 15:20:52 十八史略 宋
寄奴は王者為り、死せず
宋高祖武皇帝姓劉氏、名裕、彭城人也。相傳爲漢楚元王交之後。裕生而母死。父僑居京口、將棄之。從母救而乳之。及長勇健有大志。僅識字。小字寄奴。嘗行大虵、撃傷之。後至其所、見有群兒擣藥。裕問、何爲。答曰、吾王爲劉寄奴所傷。裕曰、何不殺之。兒曰、寄奴王者、不死。裕叱之。即散不見。初參劉牢之軍事。嘗遣覘賊。遇賊數千人。裕奮長刀獨驅之。衆軍因乗勢、進撃大破之。裕由是知名。其後爲將相、二十餘年。誅桓玄、平孫恩・盧循、滅南燕・後秦、卒受晉禪。
宋の高祖武皇帝、姓は劉氏、名は裕、彭城の人なり。相伝えて漢の楚の元王、交の後(のち)と為す。裕生まれて母死す。父、京口(けいこう)に僑居(きょうきょ)し、将(まさ)に之を棄てんとす。従母救うて之に乳す。長ずるに及んで勇健にして大志有り。僅かに字を識る。小字は寄奴。嘗て行(ゆ)いて大虵(たいだ)に遇い、撃って之を傷つく。後、其の所に至るに、群児の薬を擣(つ)くもの有るを見る。裕問う、「何をか為す」と。答えて曰く、「吾が王、劉寄奴の為に傷つけらる」と。裕曰く、「何ぞ之を殺さざる」と。児の曰く、「寄奴は王者為り、死せず」と。裕之を叱(しっ)す。即ち散じて見えざりき。初め劉牢之(りゅうろうし)の軍事に参たり。嘗て賊を覘(うかが)わしむ。賊数千人に遇う。裕、長刀を奮って独り之を駆る。衆軍因(よ)って勢いに乗じて、進み撃って大いに之を破る。裕、是に由(よ)って名を知らる。其の後、将相(しょうしょう)たること二十四年。桓玄を誅し、孫恩・盧循(ろじゅん)を平らげ、南燕・後秦を滅ぼし、卒(つい)に晋の禅(ゆずり)を受く。
僑居 寓居、仮り住まい。 従母 母かたのおば。 大虵 大蛇。 参 参謀。
宋の高祖武皇帝、姓は劉氏、名を裕といい、彭城の人である。言い伝えでは漢の世の楚の元王、名は交の子孫だという。裕が生まれると母はすぐに死んだ。父は京口にわび住いしていた。裕を棄てようとしたが、母方のおばが救って乳を与えて育てた。長ずるに及んで、剛勇強健で大志を抱いていた。学問といえばただ字を知っている程であった。幼名を寄奴という。あるとき道に大蛇に出遭い、之を傷つけた。後にその場所に行ってみると、大勢の子どもが臼で薬を搗いているのを見た。裕が「何をしているのか」と聞くと、「我等の王様が劉寄奴というものに傷つけられた。それで薬を作っているのです」と答えた。裕が重ねて「なぜ寄奴を殺さないのか」と問うと、「寄奴は王となる者です、殺すことができないのです」と言う。そこで裕が叱りつけると、すぐさま散り散りになった。
裕は初め、劉牢之の軍事参謀となった。ある時、賊の偵察を命じられたとき、賊数千人と遭遇した。裕は長刀を奮って真っ先に斬り込んだ。従う兵はこれに勢いを得て進撃して賊を破った。これ以来、裕の名が知れ渡ったのである。その後、将軍となり宰相となって、二十年余り、桓玄を誅し、孫恩・盧循を平らげ、南燕・後秦を滅ぼして、ついに晋の禅譲を受けるに至った。
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2012-06-07 14:39:00 十八史略 宋武帝劉裕崩ず
西涼李卒。諡曰武昭王。子歆立數年。至是爲北涼沮渠蒙遜誘、與戰殺之。西涼亡。
宋主在位三年。改元者一、曰永初。殂。太子立。是爲廢帝滎陽王。
廢帝滎陽王名義符。年十七即位。居喪無禮、遊戯無度。
魏主嗣殂。諡明元皇帝、廟號太宗。子立。
宋主在位三年。改元者一、曰景平。徐羨之・傅亮・謝晦、廢而弑之。宜都王立。是爲太宗文皇帝
文皇帝名義。素有令望。少帝廢、迎入即位。
夏主勃勃殂。子昌立。
西涼の李(りこう)卒す。諡(おくりな)して武昭王と曰う。子、歆(きん)立って数年。是(ここ)に至って北涼の沮渠蒙遜(そきょもうそん)の為に誘(あざむ)かれ、与に戦って之に殺さる。西涼亡ぶ。
宋主在位三年。改元する者(こと)一、永初と曰う。殂(そ)す。太子立つ。是を廃帝滎陽王(けいようおう)と為す。
廃帝滎陽王、名は義符。年十七にして位に即く。喪に居て礼無く、遊戯度無し。
魏主嗣(し)殂す。明元皇帝と諡し、廟を太宗と号す。子(とう)立つ。
宋主在位三年。改元する者一、景平と曰う。徐羨之(じょせんし)・傅亮(ふりょう)・謝晦(しゃかい)、廃して之を弑す。宜都王(ぎとおう)立つ。之を太宗文皇帝と為す。
文皇帝名義隆。素(もと)より令望(れいぼう)有り。少帝の廃せらるるや、迎え入れられて位に即く。
夏主勃勃殂す。子の昌立つ。
西涼の李が死んだ。諡して武昭王という。子の歆が嗣いで数年。このときになって北涼の沮渠蒙遜に欺かれて、戦いの末殺され西涼は亡んだ。
宋の劉裕が位に在ること三年にして逝去した。改元すること一、永初という。太子が立った。後に廃せられたのでこれを廃帝滎陽王という。滎陽王は名を義符という、十七歳で即位した。父の喪にあって礼儀を知らず、遊び呆けて節度がなかった。
魏主の嗣が死んだ。明元皇帝と諡して、廟号を太宗といった。子のが立った。
宋では徐羨之・傅亮・謝晦、が廃してこれを弑した。在位三年、改元すること一、景平という。宜都王が立った。これを太宗文皇帝という。文皇帝は名を義隆といい、平素から人望厚く、評判が高かった。少帝滎陽王が廃せられると宮中に迎え入れられ、即位した。
夏王の赫連勃勃が死んで、子の昌が立った。
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2012-06-12 10:30:23 十八史略 帰去来の辞
豈能く五斗米の為に腰を折って郷里の小児に向かわんや
晉徴士陶潛卒。潛字淵明。潯陽人。侃之曾孫也。少有高趣。嘗爲彭澤令。八十日郡督郵至。吏曰、應束帶見之。潛歎曰、我豈能爲五斗米、折腰向郷里小兒。即日解印綬去、賦歸去來辭、著五柳先生傳。徴不就。自以先世爲潛晉臣、自宋高祖王業漸、不復肯仕、至是終世。號靖節先生。
魏數與夏戰。至是執其主昌、以歸。
夏赫連定、稱帝於平涼。
西秦主乞伏熾盤卒。子暮木立。
晋の徴士(ちょうし)陶潜卒(しゅっ)す。潜字は淵明。潯陽(じんよう)の人、侃(かん)の曾孫なり。少(わか)くして高趣あり。嘗て彭澤(ほうたく)の令と為る。八十日にして郡の督郵(とくゆう)至る。吏曰く「応(まさ)に束帯して見(まみ)ゆべし」と。潜歎じて曰く「我、豈能く五斗米(ごとべい)の為に腰を折って郷里の小児に向かわんや」と。即日印綬を解いて去り、帰去来の辞を賦し、五柳先生伝を著し、徴されて就(つ)かず。自ら先世(せんせい)晋の臣たるを以って宋の高祖の王業漸く隆(さか)んなりしより、復た肯(あえ)て仕えざりしが、是(ここ)に至って世を終(お)う。靖節(せいせつ)先生と号す。
魏数しば夏と戦う。是に至って其の主昌を執(とら)えて、以(い)て帰る。
夏の赫連定(てい)、帝を平涼に称す。
西秦の主乞伏熾盤(きっぷくしはん)卒(しゅ)す。子暮木(ぼぼく)立つ。
徴士 召されても仕えないひと。 督郵 郡の巡察官。 五斗米 僅かな俸禄。 以 召し連れて。
晋の徴士の陶潜が死んだ。潜は字を淵明といい、潯陽の人で、陶侃の曾孫である。若い頃より雅趣に富んでいた。嘗て彭澤県の令となったが、八十日ほど経って郡の巡察官が視察に来た。県の役人が「礼装して面会せねばなりません」といった。陶潜は歎息して「私がなんで五斗米の俸禄のために、腰を屈して田舎の若僧に拝礼せねばならぬのか」といって、その日に印綬を解いて辞職して去った。このとき帰去来の辞を賦し、そして五柳先生の伝を著わした。宋の時代になって召されたが、自分の父祖が晋の家臣であったからとして、宋の高祖の王業が盛んになってからも敢えて仕えなかった。このときになって世を去った。人は靖節先生と呼んだ。
魏はしばしば夏と戦い、夏主の赫連昌を捕えて連れ帰った。
夏の赫連定(勃勃の弟)が平涼で帝を称した。
西秦の乞伏熾盤が死んで子の暮木が立った。
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2012-06-12 15:03:13 お詫びと訂正
今日送信の記事中に重大な誤りがあったので訂正いたします。西秦の主乞伏熾盤卒す。子暮木立つ。は暮末(ぼまつ)の誤りでした。お詫びして訂正いたします。
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2012-06-14 14:20:18 十八史略
北燕馮跋殂。弟弘立。
夏主定撃西秦、以暮末歸、殺之。西秦亡。定又撃北涼、欲奪其地。吐谷渾襲其軍、執定送魏。夏亡。吐谷渾者、慕容氏之別種也。
北涼沮渠蒙遜卒。子牧犍立。
宋謝靈運以罪誅。靈運好爲山澤之游。從者數百人、伐木開徑。百姓驚擾。或表其有異志。爲臨川内吏。有司糾之。被収。靈運興兵逃逸、作詩曰、韓亡子房奮、秦帝魯連恥。追討擒之、徙廣州。已而棄市。
北燕の馮跋(ふうばつ)殂(そ)す。弟弘立つ。
夏主定、西秦を撃ち、暮末(ぼまつ)を以(い)て帰り、之を殺す。西秦亡ぶ。定、又北涼を撃って、其の地を奪わんと欲す。吐谷渾(とよくこん)其の軍を襲い、定を執(とら)えて魏に送る。夏亡ぶ。吐谷渾は慕容氏の別種なり。
北涼の沮渠蒙遜(そきょもうそん)卒(しゅっ)す。子の牧犍(ぼくけん)立つ。
宋の謝霊運、罪を以って誅せらる。霊運、好んで山澤の游をなす。従者数百人、木を伐って径を開く。百姓(ひゃくせい)驚擾(きょうじょう)す。或るひと其の異志有るを表す。臨川の内史と為る。有司、之を糾(ただ)す。収(とら)えらる。霊運、兵を興して逃逸(とういつ)し、詩を作って曰く、
「韓亡んで子房奮い、秦、帝となって魯連恥づ」と。追討して之を擒(とりこ)にし、廣州に徙(うつ)す。已にして棄市(きし)せらる。
殂 正統でない天子の死に用いる。前出、魏主の嗣や夏主の赫連勃勃など。 以て帰り 連れ帰り。 謝霊運 謝玄の孫、名門の貴族、山水詩人として後の李白等に影響を与えた。 驚擾 驚きさわぐ。 異志 謀反の心。 内史 書記官。 有司 役人。 子房 張良の字、秦の始皇帝の暗殺に失敗したが劉邦の臣となって、秦を滅ぼした。 魯連 戦国斉の高節の士魯仲連、のこと。
北燕の馮跋が死んで弟の弘が立った。
夏の赫連定が西秦を撃ち、秦主の暮末を捕え、連れ帰ってこれを殺した。かくして西秦が亡んだ。赫連定は又北涼を攻めてその地を奪おうとした。ところが吐谷渾が夏の軍を急襲して定を捕えて北魏に送った。夏はこれによって亡んだ。吐谷渾は慕容氏の別の種族である。
北涼の沮渠蒙遜が死んで子の牧犍が立った。
宋の謝霊運が罪を得て誅殺された。霊運は山すそや谷深く分け入って遊猟することを好み、数百人の従者を伴い、木を伐り、道を開いて、人々を驚き騒がせた。ある人が謀反の疑いがあると上表したが、幸い不問に付された。臨川の書記官に任ぜられたが、改めないので司直の咎めるところとなり、収容された。霊運は兵を興して逃げ去り、宋に服従できない心情を詩に託した。
韓亡んで張良奮い立ち 秦帝となって魯仲連恥ず。
文帝は謝霊運を追討して捕え、広州に移したが後に斬罪に処し、屍を市中にさらした(433年)。
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2012-06-16 08:41:14 十八史略 燕、北涼亡ぶ
魏伐燕。馮弘奔高麗、而被殺。燕亡。
魏伐涼。姑臧潰。牧犍降、後被殺。北涼亡。
魏殺其司徒崔浩。浩自明元時、已爲謀臣、輒有功。信道士寇謙之、勸魏主崇奉、立天師道場。而最惡佛法。誅沙門、毀佛像・佛書。魏主命浩修國史。書先世事皆詳實、刊石立之衢路。北人忿恚、譖浩暴揚國惡。魏帝大怒、遂案誅之、夷其族。
魏、燕を伐つ。馮弘(ふうこう)高麗に奔(はし)って殺さる。燕亡ぶ(436年)。
魏、涼を伐つ。姑臧(こぞう)潰(つい)ゆ。牧犍(ぼくけん)降り、後に殺さる。北涼亡ぶ(439年)。
魏、其の司徒崔浩(さいこう)を殺す。浩、明元の時より、已に謀臣と為って輒(すなわ)ち功有り。道士の寇謙之(こうけんし)を信じ、魏主に勧めて崇奉(すうほう)せしめ、天師道場を立つ。而して、最も仏法を悪(にく)み、沙門を誅し、佛像・佛書を毀(こぼ)つ。魏主、浩に命じて、国史を修めしむ。先世の事を書するに皆、実を詳(つまびら)かにし、石に刊(かん)して之を衢路(くろ)に立つ。北人、忿恚(ふんい)し、浩が国悪を暴揚(ばくよう)するを譖(しん)す。魏帝大いに怒り、遂に案じて之を誅し、其の族を夷(い)す。
明元 明元帝拓跋嗣。 沙門 僧侶。 刊 刻に同じ。 衢路 大通りの辻。 忿恚 忿も恚も怒ること。 国悪 国の恥。 暴揚 あばき晒すこと。 案 罪状を調べること。 夷 みなごろし。
魏が北燕を攻めたので馮弘は高麗に逃げたがそこで殺され、北燕は亡んだ。
魏はさらに北涼の討伐に向かった。都の姑臧は潰滅し、北涼の主牧犍は降伏し後に殺された。北涼はここに亡んだ。
魏の太武帝(とう)が司徒の崔浩を誅殺した。崔浩は明元帝の頃から、重臣として功績をあげていた。道士の寇謙之を信じ、帝にも勧めて信奉させ、天師道場なるものを建立させた。仏教を徹底的に嫌い、僧侶を殺し、仏像、経典を破棄した。太武帝は崔浩に命じて国史を編纂させたところ、魏の先代の事績をすべてありのままに書いて、石に刻して路の四辻に立てた。鮮卑拓跋氏と出自を同じくする者たちが憤慨して浩が国の恥部を暴露し、言いふらすのはけしからんと糾弾した。太武帝も激怒して遂にその罪をとりあげ、誅殺し、一族も皆殺しにした。
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2012-06-19 08:52:25 十八史略 南北朝の対立
宋・魏連年互相侵伐。王玄謨勸宋大擧。沈慶之諌曰、畊當問奴、織當問婢。今欲伐國。奈何與白面書生謀之。宋竟遣玄謨出師、取碻■、進圍滑臺。先是魏主聞宋取河南、怒曰、我生髪未燥、已聞河南是我地。今天時尚熱。姑斂戍北歸、俟河氷合、以鐵騎蹂之。至冬魏主自將渡河。衆號百萬。鞞鼓之聲震天地。玄謨懼走。魏人追撃、玄謨敗走。魏帝引兵南下、直至瓜歩、聲言欲渡江。建康震懼、民皆荷擔而立。 ■石偏に敖
宋・魏連年互いに相侵伐(しんばつ)す。王玄謨(おうげんぼ)宋に勧めて大挙せしめんとす。沈慶之(しんけいし)諌めて曰く、「畊(こう)は当(まさ)に奴(ど)に問うべく、織は当に婢(ひ)に問うべし。今国を伐たんと欲す。奈何(いかん)ぞ白面の書生と之を謀らん」と。宋、竟(つい)に玄謨をして師を出さしめ、碻■(こうごう)を取り、進んで滑台を囲む。是より先、魏主、宋が河南を取れりと聞き、怒って曰く「我生まれて髪未だ燥(かわ)かざるに、已(すで)に河南は是我が地なりと聞けり。今、天の時尚お熱す。姑(しばら)く戍(まもり)を斂(おさ)めて北に帰り、河氷の合(がっ)するを俟(ま)って、鉄騎を以って之を蹂(ふ)ましめん」と。冬に至って魏主自ら将として河を渡る。衆百万と号す。鞞鼓(へいこ)の声、天地に震(ふる)う。玄謨、懼れて走る。魏人追撃し、玄謨敗走す。魏帝、兵を引いて南下し、直ちに瓜歩に至り、江を渡らんと欲すと声言す。建康震懼(しんく)し、民、皆荷擔(かたん)して立つ。
畊 耕すこと。 師 軍隊。 碻■(こうごう)山東省荏平県。 滑台 河南省滑県。 姑 しばらく、とりあえず。 鞞鼓 馬上で打つ攻め鼓。 瓜歩 江蘇省六合県。 声言 声明する、言いふらす。 荷擔 になう。
南朝の宋と北朝の魏は、何年にもわたって侵攻を繰り返していた。宋の王玄謨は文帝に大攻勢をかけるべきですと進言した。沈慶之が諌めて、「田畑のことは下男に聞くべきです。機織りは下女に聞かねばわかりません。今、北を討つという大事を白面の一書生と謀ってよいものでしょうか」と言った。しかし文帝は玄謨を将として兵を出した。碻■を攻め取り、さらに兵を進めて滑台をとり囲んだ。
これより先、魏の太武帝は宋が河南の地を取ったと聞き、大いに怒って、「わしは生まれてまだうぶ毛も乾かないうちから河南は我が領地と聞かされている。今は暑い時期だから、守備兵をまとめて北に帰るが、黄河に氷が張りつめる冬を待って、わが精鋭の騎馬軍団で存分に蹂躙してくれよう」と言った。
冬になって魏主自ら軍を率いて黄河を渡って南下した。その兵百万と号し、軍鼓は天地に轟いた。王玄謨は恐れて退却した。魏兵が追撃すると玄謨は総崩れとなって敗走した。魏帝は兵を率いてさらに南下し、建康の対岸の瓜歩に急行し、揚子江までもおし渡るぞと言いふらした。
宋都建康は震えおののき、民衆は家財をまとめて逃げようとした。
2012-06-21 09:27:43 十八史略 元嘉の政衰う
春燕林木に巣くう
宋主登石頭城、北望歎曰、檀道濟若在、豈使胡馬至此。道濟立功前朝、老於用兵。先是以讒被収。目光如炬、脱幘投地曰、乃壞汝萬里長城。既誅。魏人聞之喜曰、呉子輩、不足復憚。至是長驅。無能禦者。宋人或欲斬玄謨。沈慶之止之曰、佛狸威震天下。控弦百萬、豈玄謨所能當。殺戰將以自弱、非計也。魏師還。殺掠不可勝計。丁壯者斬截、嬰兒貫槊上盤舞。所過赤地、春燕歸巣於林木。自宋主即位、二十八年、號爲小康。至是兵革之後、邑里蕭條。元嘉之政衰矣。
宋主、石頭城に登り、北望して歎じて曰く、「檀道濟(だんどうさい)若(も)し在らば、豈(あに)胡馬(こば)をして此(ここ)に至らしめんや」と。道濟、功を前朝に立て、兵を用うるに老(た)けたり。是より先、讒(ざん)を以って収(とら)えらる。目光炬(きょ)の如く、幘(さく)を脱して地に投じて曰く、「乃(すなわ)ち汝が万里の長城を懐(やぶ)る」と。既に誅せらる。魏人之を聞いて喜んで曰く「呉子の輩、復た憚るに足らず」と。是に至って長躯す。能く禦(ふせ)ぐ者無し。宋人或いは玄謨(げんぼ)を斬らんと欲す。沈慶之(しんけいし)之を止めて曰く「佛狸(ふつり)の威天下に震(ふる)う。控弦(こうげん)百万、豈玄謨が能く当る所ならんや。戦将を殺して以って自ら弱むるは、計に非らざるなり」と。魏師還る。殺掠(さつりゃく)、勝(あ)げて計るべからず。丁壮の者は斬截(ざんせつ)し、嬰児は槊上(さくじょう)に貫いて盤舞(はんぶ)す。過ぐる所は赤地となり、春燕、帰って林木に巣(すく)う。宋主位に即きしより、二十八年の間、号して小康と為す。是(ここ)に至って、兵革(へいかく)の後、邑里(ゆうり)蕭條たり。元嘉の政衰う。
老 老練。 炬 たいまつの火。 幘 頭巾。 呉子の輩 建康はその昔呉の地だからいう。 佛狸 魏の太武帝の字。 控弦 軍勢、控は弓を引くこと。 槊上 ほこに貫かれる。 盤舞 ぐるぐる振り回す。 赤地 まるはだかの土地。 兵革 武器とよろい、戦争のこと。
宋の文帝は石頭城に登って北を眺めやり、歎息して言った。「檀道濟が居てくれさえすれば、ここまで胡の馬を眼にすることはなかったろうに」と。この道濟は武帝の時に功績を上げて、用兵に老練であった。これより前、謀反の企てがあると讒言されて捕えられた。このとき道濟は真っ赤な目を剥き頭巾を叩きつけて、「自分で自身の守りの長城を壊すつもりか」と叫んだ。道濟が誅殺されると魏では大喜びで「これで宋に心配な人物は居なくなった」といった。ここに及んで魏軍が深く攻め寄せてきても、宋では防ぎ止める者が居なかった。人々の恨みは王玄謨に集まり、斬るべしの声が上がったが沈慶之が「魏主の仏狸の威光は天下を震い動かしている。その部下百万人が弓をしぼってくるのに玄謨がかなう訳がない、大将を殺して自分から力を弱めるのは得策ではなかろう」と言って庇った。やがて魏軍は引きあげたが、虐殺略奪の限りをつくし去った。若者壮年は斬りきざまれ、嬰児は矛で突き刺され、ぐるぐる廻された。過ぎ去った跡は丸裸になり、燕が帰ってきても巣をかける家がなく林の木に巣をかけるありさまであった。宋の文帝が即位して二十八年間平穏に過ぎたが、ここにきて兵乱を受け、村里は荒れ果て、元嘉の治は最後に衰えたのであった。
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2012-06-26 09:02:25 十八史略 魏の宗愛と宋の太子劭、主を弑殺す。
魏中常侍宗愛、譖東宮官屬。多坐誅死。太子晃以憂卒。魏主追悼不已。愛懼弑主。後諡曰太武皇帝、廟號世祖。晃之子濬立。討愛誅之。
宋太子劭、巫蠱呪詛。事覺、宋主擬廢之。劭。弑主而自立。主在位三十年。改元者一、曰元嘉。武陵王擧兵弑劭。王立。是爲世祖孝武皇帝。
孝武皇帝名駿。即位十二年殂。改元者二、曰孝建、曰大明。太子立。是爲廢帝。
魏の中常侍(ちゅうじょうじ)宗愛、東宮の官属を譖(しん)す。多く坐して誅死せらる。太子晃(こう)、憂いを以って卒す。魏主追悼して已(や)まず。愛、懼れて主を弑す。後諡(おくりな)して太武皇帝と曰い、廟を世祖と号す。晃の子濬(しゅん)立つ。愛を討って之を誅す。
宋の太子劭(しょう)、巫蠱(ふこ)呪詛(じゅそ)す。事覚(あら)われ、宋主之を廃せんと擬す。劭、主を弑して自立す。主、在位三十年、改元する者(こと)一、元嘉と曰う。武陵王、兵を挙げて劭を誅す。王立つ。是を世祖孝武皇帝と為す。
孝武皇帝、名は駿。位に即いて十二年にして殂(そ)す。改元する者二、孝建と曰い、大明と曰う。太子立つ。是を廃帝と為す。
巫蠱 巫は巫女(みこ)蠱は虫を用いてするまじない。 擬・・しようとする。
魏の中常侍の宗愛という者が、太子づきの役人を讒言し、多くの役人が罪に連坐して殺された。太子の晃は心痛のあまり世を去った。魏主はたいそうこれを悼んだ。宗愛は自分に対する恨みになるのを恐れて弑殺してしまった。後におくり名して太武皇帝といい、廟号を世祖と呼んだ。晃の子濬が即位し(452年)宗愛を討って誅殺した。
宋では太子の劭が巫蠱によって文帝を呪い殺そうとした。事が露見して文帝は太子を廃嫡しようとしたが、劭が先手を打って帝を弑殺して自ら天子になった(453年)。文帝は在位三十年、改元は一回、元嘉という。武陵王が兵を挙げて劭を殺して立った。これが世祖孝武皇帝である。
孝武皇帝、名は駿。即位して十二年にして亡くなった。年号を改めること二回、孝建と大明という。太子が後を継いだ。これが廃帝である。
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2012-06-28 12:55:17 十八史略 廃帝子業、不道をなす
廢帝名子業。即位居喪、傲惰無戚容。孝武疏忌骨肉、多誅殺、至是尤甚。
魏帝濬殂。諡曰文成皇帝、廟號高宗。初太武經營四方、國頗虚耗。文成嗣以鎭靜、懷集中外。人心復安。子弘立。
宋主畏忌諸父湘東王等、幽於殿内棰曳、無復人理、恣爲不道。中外騒然。宋人弑之。在位二年。改元者一、曰景和。湘東王立。是爲太宗明皇帝。
廃帝名は子業。位に即き喪に居て、傲惰(ごうだ)にして戚容(せきよう)無し。孝武、骨肉を疏忌(そき)して誅殺すること多かりしが、是に至って尤も甚(はなはだ)し。
魏帝濬(しゅん)殂(そ)す。諡(おくりな)して文成皇帝と曰い、廟を高宗と号す。初め太武、四方を経営し、国頗(すこぶ)る虚耗(きょこう)す。文成嗣(つ)いで以って鎮静し、中外を懐集(かいしゅう)す。人心復た安し。子弘立つ。
宋主、諸父(しょほ) 湘東王等を畏忌(いき)し、殿内に幽して棰曳(すいえい)し、復た人理無く、恣(ほしいまま)に不道を為す。中外騒然たり。宋人之を弑す。在位二年。改元する者(こと)一、景和と曰う。湘東王立つ。是を太宗明皇帝と為す。
傲惰 傲はあそぶ、遊び怠ける。 戚容 悼み悲しむ容貌。 疏忌 うとんじる嫌う。 経営 もとは縄ばりをして建物や町をつくることだが、ここでは兵を出して征服すること。 虚耗 衰える。 懐集 てなづけ集める。 諸父 叔父伯父。 畏忌 おそれ嫌う。 棰曳 棰はむち打つ、曳は引きずり廻す。
廃帝の名は子業という。即位して未だ喪中でありながら、自堕落になり、先帝を悼むそぶりも見せなかった。孝武帝駿も肉親を嫌い多くを誅殺したが、廃帝になってさらに甚だしくなった。
魏帝の拓跋濬が亡くなった。文世帝と諡して廟号を高宗と呼んだ。前の太武帝は四方に出兵して、国力が疲弊したので文世帝が国情を平静にし、内外から人をなつかせ集めたので、人心は安らかになったのであった。子の弘が位に即いた(465年)。
宋の主子業は叔父の湘東王らに謀反の疑いをもち、宮殿に幽閉し、杖で打ったり、引きずり廻したり、およそ人倫をわきまえず、非道の振るまいを繰り返したので、内外が騒然となり、宋人の寿戚之がついに子業を弑殺した。在位二年、改元すること一回で景和という。湘東王が立った。これを太宗明皇帝という。
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2012-06-30 09:03:06 十八史略 蕭道成台頭す
明皇帝名。即位八年殂。改元者一、曰泰始。自帝之初、蕭道成將兵、征討有功。尋鎭淮陰、収養豪俊。賓客始盛。已而爲南兗州刺史。至是褚淵薦爲右衞將軍。與顧命大臣、共掌機事。太子立。是爲後廢帝。
後廢帝名。明帝無子。實嬖人李道兒之子也。明帝子之。殺諸王十五六人、惟恐之不立。十歳即位。桂陽王休範擧兵反、攻建康。蕭道成撃斬之。道成爲中領軍。
明皇帝名は(いく)。位に即いて八年にして殂す。改元する者(こと)一、泰始と曰う。帝の初めより、蕭道成(しょうどうせい)、兵に将として、征討して功有り。尋(つ)いで淮陰(わいいん)に鎮(ちん)して豪俊を収養す。賓客始めて盛んなり。已にして南兗州(なんえんしゅう)の刺史となる。是(ここ)に至って、褚淵(ちょえん)薦めて右衛将軍(ゆうえいしょうぐん)と為す。顧命の大臣と共に機事(きじ)を掌(つかさど)る。太子立つ。是を後廃帝と為す。
後廃帝名は(いく)。明帝、子無し。、実は嬖人(へいじん)李道兒の子なり。明帝、之を子とす。諸王十五六人を殺し、惟だの立たざらんことを恐る。十歳にして位に即く。桂陽王休範、兵を挙げて反し、建康を攻む。蕭道成、撃って之を斬る。道成、中領軍となる。
淮陰 江蘇省の地名。 南兗州 江蘇省中部。 顧命 天子の遺言。 機事 機密に属する事項。 嬖人 寵臣。
明皇帝の名はという。即位して八年で亡くなった。改元すること一回、泰始という。帝の即位の初めから蕭道成が兵を率いて各地を討伐して功を立てた。そして淮陰を鎮定し、英俊豪傑を召し抱えたので賓客が盛んになった。やがて南兗州の刺史となったが、明帝が亡くなると褚淵の推薦で右衛将軍になった。遺命を託された重臣たちと共に、国の枢要にあずかるようになった。太子が即位した(472年)。これが後廃帝である。
後廃帝名はである。明帝には子がなく、は明帝お気に入りの李道兒の子であったが之を子とした。自分の後継ぎにするために、兄孝武帝の子十五、六人を殺した。は即位した時に十歳であった。
桂陽王の休範が叛して兵を挙げ、建康を攻めた。蕭道成がこれを破って斬り殺し、功によって中領軍となった。
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2012-07-03 11:02:01 十八史略 馮太后献文皇帝弘を弑し、勅命と称す
先是魏獻文帝弘、傳位於太子宏、自稱太上皇帝。以宏幼仍總萬機。太上聰睿夙成、剛毅有斷。而好黄老・浮屠之學。故常有遺世之意。其母馮太后、有所幸李奕。爲太上所誅。馮太后怒、遂弑之而稱制。
宋主驕恣嗜殺、中外憂惶。蕭道成與袁粲・褚淵謀廢立。粲不可。淵贊之。遂弑之。在位六年。改元者一、曰元徽、安成王立。是爲順皇帝。
是より先、魏の献文皇帝弘、位を太子宏に伝え、自ら太上皇帝と称す。宏の幼なるを以って、仍(な)お万機を総(す)ぶ。太上、聡睿夙成(そうえいしゅくせい)、剛毅にして断有り。而して黄老・浮屠(ふと)の学を好む。故に常に遺世の意有り。其の母馮太后(ふうたいこう)、幸(こう)する所の李奕(りえき)というもの有り。太上の為に誅せらる。馮太后怒り、遂に之を弑して制を称す。
宋主、驕恣(きょうし)にして殺を嗜(この)み、中外憂惶(ゆうこう)す。蕭道成、袁粲・褚淵と廃立を謀る。粲可かず。淵之を賛す。遂に之を弑す。在位六年、改元すること一、元徽(げんき)と曰う。安成王立つ。是を順皇帝となす。
聡睿 聡く、考え深いこと。 夙成 早くから出来上がっていること。 黄老 黄帝と老子。 浮屠 仏陀。 遺世 出家遁世。 幸する かわいがる。 制を称す 制は天子の命。 驕恣 おごり高ぶって気ままなこと。 憂惶 うれい恐れる。
これより前、魏の献文皇帝弘は、太子の宏に位を譲り、自ら太上皇帝と称した。だが宏が幼少だったため、政治は自ら執った。太上皇帝は聡明で若くして大人の風格があり、剛毅にして決断力に富んでいた。しかも老荘に共鳴し、仏の教えにも傾倒していたので遁世の願望をも密かに抱いていた。
その母の馮太后が李奕という者を寵愛していたが、太上皇帝によってこの男が処刑された。母は怒りにかられて太上皇帝を弑殺し、勅命と称して政治を執りおこなった。
一方宋では劉は驕慢放恣とめどなく、人を殺すことを愉しむようになってしまい、朝廷の内も外も憂い恐れた。蕭道成は、袁粲・褚淵とに廃立を持ちかけた。袁粲は賛同しなかったが、褚淵の同意を得て遂に弑殺してしまった。宋主劉、在位六年、改元すること一回、元徽という。安成王が即位した(477年)これが順皇帝である。
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憐れむべし石頭城
順皇帝名準。桂陽王休範子也。明帝子之。至是即位。
宋袁粲謀誅蕭道成。褚淵以其謀告道成。粲父子倶被殺於石頭城。百姓哀之曰、可憐石頭城、寧爲袁粲死、不作褚淵生。沈攸之亦擧兵江陵討道成。軍潰、走而縊死。道成爲相國齊公、加九錫。已而進爵爲王。宋主在位三年。改元者一、曰昇明。禪于齊。泣而彈指曰、願後身世世、勿復生天王家。齊弑之。而滅其族。自宋高祖、至是八世、凡五十九年而亡。
順皇帝名は準。桂陽王休範の子なり。明帝之を子とす。是に至って位に即く。
宋の袁粲(えんさん)、蕭道成(しょうどうせい)を誅せんと謀(はか)る。褚淵(ちょえん)、其の謀(はかりごと)を以って道成に告ぐ。粲父子倶(とも)に石頭城に殺さる。百姓之を哀しんで曰く、「憐れむ可し石頭城。寧ろ袁粲となって死すとも褚淵となって生きじ」と。沈攸之(しんゆうし)も亦兵を江陵に挙げて道成を討つ。軍潰(つい)え、走って縊死(いし)す。道成、相国斉公と為り、九錫を加う。已にして爵を進めて王と為る。宋主在位三年。改元する者(こと)一、昇明と曰う。斉に禅(ゆず)る。泣いて弾指(だんし)して曰く、「願わくは後身世世、復天王の家に生まるる勿らんことを」と。斉之を弑して其の族を滅ぼす。宋の高祖より、是に至るまで八世、凡(すべ)て五十九年にして亡ぶ。
順皇帝名は準。桂陽王休範の子で、明帝の子になっていたが、この時になって即位した。
宋の袁粲が蕭道成の専横を見かねてこれを除こうとした。褚淵がその謀議を蕭道成に漏らしたため、袁粲親子は石頭城で殺された。人々はこれを哀しんで歌った。「憐れなり石頭城。丈夫袁粲玉砕す。讒夫褚淵瓦全を羞じず」次いで沈攸之も江陵で挙兵したが、あえなく潰え逃げて自ら首をくくった。蕭道成は相国斉公となり、九錫の特権を与えられ、やがて順帝にとって代わって王となった。宋主順皇帝は在位三年、改元すること一回で昇明という。位を斉に禅譲したがそのとき泣いて指をはじきながら「生まれ代ってくるときは未来永劫王家にだけは生まれまい」と言った。やがて斉は順皇帝を殺し、その一族を根絶やしにした。宋の高祖からここに至るまで八世、五十九年で亡んだのである。
齊太祖高皇帝姓蕭氏、名道成。蘭陵人也。相傳爲漢相國何之後。深沈有大量、博學能文。肩有赤誌、如日月状。宋時在軍中久。民或言其有異相。宋疑之、而不能殺也。竟代宋。性清儉。毎曰、使我治天下十年、當使黄金同土價。在位四年殂。改元者一、曰建元。太子立。是爲世祖武皇帝。
武皇帝名賾。即位十一年殂。改元者一、曰永明。太子長楙已卒。太孫立。是爲廢帝鬱林王。
廢帝鬱林王名昭業。即位一年。改元曰隆昌。西昌侯鸞弑之。新安王立。是爲廢帝海陵王。
斉の太祖高帝姓は蕭氏、名は道成。蘭陵の人なり。相伝えて漢の相国何(か)の後と為す。深沈(しんちん)にして大量有り、博学にして文を能くす。肩に赤誌(せきし)有って日月(じつげつ)の状の如し。宋の時、軍中に在ること久し。民間、或いは其の異相有るを言う。宋之を疑えども、殺す能わざりしなり。竟(つい)に宋に代る。性清倹(せいけん)なり。毎(つね)に曰く、「我をして天下を治むること十年ならしめば、当(まさ)に黄金をして土の価に同じからしむべし」と。在位四年にして殂(そ)す。改元すること一、建元と曰う。太子立つ。是を世祖武皇帝と為す。
武皇帝、名は賾(さく)。位に即いて十一年にして殂す。改元すること一、永明と曰う。太子長楙(ちょうぼう)已に卒す。太孫立つ。是を廃帝鬱林王(うつりんおう)と為す。
廃帝鬱林王、名は昭業。位に即いて一年、改元して隆昌と曰う。西昌侯鸞(らん)之を弑す。新安王立つ。是を廃帝海陵王と為す。
赤誌 あか痣。 黄金を土の価に同じくす 道成の清廉の徳が行き渡り、万民の黄金への執着が薄れるであろう。 長楙 正しくは楙の下に心が付く。
斉の太祖高皇帝は姓を蕭氏、名は道成といい、蘭陵の人である。代々漢の相国蕭何の末裔と伝えられていた。沈着にして度量があり、博学にして文章をよくした。肩に赤い痣があり、日月の形をしていた。宋のとき長く軍にいたが、常人と異なる相があるという人がいた。宋の朝廷ではこれを疑ったが殺すことはできなかった。そして遂に宋に代わって帝位に即いたのであった。性は清廉勤倹で人に語って、「私に十年天下を治めさせたら、黄金を土と同じ価値にまで下げてみせるのだが」といっていた。高皇帝は在位四年で亡くなった。改元すること一回、建元という。太子が立ったこれが世祖武皇帝である。
武皇帝は名を賾という、位に即いて十一年で亡くなった。改元すること一回で永明といった。太子の長楙が先に死んだので太孫が立った。これを廃帝鬱林王という。
廃帝鬱林王は名を昭業といった。位に即くこと一年、元号を隆昌としたが、西昌侯鸞に弑殺された。継いで新安王が立った。これが廃帝海陵王である。
廢帝海陵王名昭文。爲鸞所立。改元延興。鸞自爲宣城王。帝即位未四月。廢而弑之。宣城王自立。是爲高宗明皇帝。
明皇帝名鸞。高帝之兄子也。高帝愛之過於己子。而武帝之太子長楙最惡之。及得志、殺高・武子孫、無遺類。即位五年殂。改元者二、曰建武・永泰、太子立。是爲廢帝東昏侯。
廢帝東昏侯名寶巻。自在東宮不好學。嬉戲無度。既即位、不接朝士。惟親信嬖倖、屡誅大臣。
魏主宏殂。在位二十七年。仁孝恭儉、制禮作樂。蔚然有太平之風。禁胡服・胡語。改姓元氏、遷都洛陽。爲魏盛之主、謚曰孝文皇帝、廟號高祖。太子恪立。
廃帝海陵王名は昭文。鸞(らん)の立つる所となる。延興と改元す。鸞自ら宣城王となる。帝、位に即いて未だ四月(げつ)ならず。廃して是を弑(しい)す。宣城王自立す。是を高宗明皇帝となす。
明皇帝、名は鸞。高帝の兄の子なり。高帝之を愛すること己の子よりも過ぎたり。而して武帝の太子長楙(ちょうぼう)最も之を悪(にく)む。志を得るに及んで、高・武の子孫を殺して遺類(いるい)無し。位に即いて五年にして殂(そ)す。改元すること二、建武・永泰と曰う。太子立つ。是を廃帝東昏侯となす。
廃帝東昏侯、名は宝巻。東宮に在りしより学を好まず。嬉戲(きぎ)度無し。既に位に即いて、朝士に接せず。惟(ただ) 嬖倖(へいこう)を親信し、屡しば大臣を誅す。
魏主宏、殂す。在位二十七年。仁孝恭倹(きょうけん)にして礼を制し楽を作る。蔚然(うつぜん)として太平の風あり。胡服・胡語を禁じ、姓を元氏と改め、都を洛陽に遷(うつ)す。魏の盛徳の主たるが為に謚(おくりな)して孝文皇帝と曰い、廟を高祖と号す。太子恪(かく)立つ。
遺類 生き残った血族。 朝士 朝廷の重臣。 嬖倖 お気に入り。 蔚然 盛んなさま。
廃帝海陵王、名は昭文。西昌侯鸞に立てられて即位し、年号を延興と改めた。鸞は自ら宣城王となった。帝が即位してわずか四箇月でこれを廃して弑殺し、宣城王自ら立って帝となった。これが高宗明皇帝である。
明皇帝は名を鸞といい、高帝の兄の子である。高帝は自分の子よりも鸞を可愛がったので、武帝の太子の長楙はひどく憎んでいた。鸞が望みを達して帝位に即くと高帝・武帝の子孫を根絶やしにして、一人として遺さなかった。即位五年で没した。改元すること二回、建武・永泰である。太子が後を嗣いだ(498年)。これが廃帝東昏侯である。
廃帝東昏侯、名は宝巻。太子のときから学問をせず、遊びふざけて止めど無かった。即位してからも朝廷の重臣や役人に接見すること無く、気に入りの寵臣だけを近づけて信任し、しばしば大臣を誅殺した。
北魏では拓跋宏が没した。在位二十七年、仁孝にして恭倹、礼を制し、楽を定め、太平の気運が盛んに沸き、天下を覆った。鮮卑の服装と言葉を禁じ、中華の風に変え、自ら姓を拓跋氏から元氏に改め、都を平城から洛陽に遷した。魏王朝きっての徳の高い主であったということで、孝文皇帝と謚し、廟号を高祖とした。太子の恪が後を嗣いだ。
齊主昏淫狂恣。所幸潘妃、以金爲蓮花、帖地上使歩之、曰、此歩歩生蓮花也。左右用事、賊虐日甚、太尉陳顯達、先擧兵襲建康、敗死。將軍崔慧景、受命出討叛州、還兵逼建康。時南豫州刺史蕭懿將兵在近。齊主急召、入援。慧景敗死。以懿爲尚書。懿弟南雍州刺史衍、使人勸懿行伊霍故事。不爾亟還歴陽。懿不能用。竟賜死。衍起兵襄陽、引而東圍建康。齊人弑主而迎衍。主在位三年。改元者一、曰永元。時南康王先已自立。是爲和皇帝。
斉主、昏淫狂恣なり。幸する所の潘妃(はんひ)、金を以って蓮花をつくり、地上に帖(じょう)して之を歩ましめ、曰く、「此れ歩歩蓮花を生ずるなり」と。左右事を用い、賊虐日に甚だし。太尉陳顕達(ちんけんたつ)、先ず兵を挙げて建康を襲い、敗死す。将軍崔慧景(さいけいけい)命を受けて出でて叛州を討ち、兵を還して建康に逼(せま)る。時に南豫州の刺史蕭懿(しょうい)、兵に将として近きに在り。斉主急に召し、入って援けしむ。慧景敗死す。懿を以って尚書と為す。懿の弟南雍州(なんようしゅう)の刺史衍(えん)、人をして懿に伊霍の故事を行え、爾(しか)らずんば亟(すみや)かに歴陽に還れと勧めしむ。懿、用うること能わず。竟(つい)に死を賜う。衍、兵を襄陽に起し、引いて東(ひがし)して建康を囲む。斉人、主を弑して衍を迎う。主在位三年。改元すること一、永元と曰う。時に南康王、先に已に自立す。是を和皇帝と為す。
昏淫狂恣 暗愚・淫乱・凶暴・放縦。 幸 寵愛。 帖 貼り付ける。 叛州 謀叛を起した州。 伊霍 殷の伊尹と漢の霍光、暗帝を放逐した。
一方斉主東昏侯は、暗愚で淫乱、狂暴でだらしなかった。寵愛する潘妃のために黄金で蓮の花をつくり、地面に貼り付けてその上を歩かせ、「これこそ歩む毎に蓮の花を生ずる天女の姿だ」と喜んだ。政治は左右の側近が取り仕切って、それも残忍さを増していった。太尉の陳顕達がついに兵を挙げて、建康を襲ったが敗れて死んだ。次い将軍の崔慧景が、命を受けて、謀叛した諸州を討伐に出たが、兵を返して建康に迫った。その時ちょうど南予州の刺史蕭懿が近くに駐屯していた。斉主は急に呼び寄せ、都に入って朝廷の軍を援けさせた。それで崔慧景も敗死した。功績によって蕭懿は尚書になった。弟の南雍州の刺史蕭衍が人づてに「殷の伊尹と漢の霍光が帝を追放した例に倣うことです、それができなければ、即刻歴陽に帰るのが身のためです」と勧めた。蕭懿がその忠告を実行できないでいると、ほどなく朝廷から死を命じられた。蕭衍は襄陽に兵を挙げ東にむかって建康を囲んだ。斉の民が主を弑して蕭衍を迎え入れた(501年)。東昏侯は在位三年、改元すること一回で永元という。
これより先、南康王が自ら位に即いていた。これが和皇帝である。
和皇帝名寶融。東昏末、寶融起兵於江陵。已而稱帝、改元曰中興。未及東歸、齊太后稱制、以蕭衍爲相國、封梁公、加九錫。尋進爵爲王。齊主至姑孰。詔禪于梁。即位僅一年被弑。齊自高帝至是七世、凡二十三年而亡。
和皇帝、名は宝融。東昏の末、宝融兵を江陵に起こす。已にして帝と称し、改元して中興と曰う。未だ東帰するに及ばず。斉の太后、制を称して、蕭衍(しょうえん)を以って相国となし、梁公に封じ、九錫を加う。尋(つ)いで爵を進めて王と為す。
斉主、姑孰に至る。詔(みことのり)して梁に禅(ゆず)る。位に即いてより僅か一年にして弑せらる。
斉、高帝より是に至るまで七世、凡(すべ)て二十三年にして亡ぶ。
東帰 建康に入ること。 制 勅命。 斉主 和皇帝のこと。
和皇帝の名は宝融である。東昏公が未だ位に在ったときから江陵に兵を起して自ら皇帝と称して、年号を中興と改めていた。だが和帝が東の建康に帰ることを果たさないうちに、斉の太后が勅命と称して、蕭衍を相国にし、梁公に封じて、さらに九錫を加えた。ついで爵位を進めて梁王とした。
和帝は姑孰まで来たところで、詔を発して梁に帝位をゆずった。位に即いて僅か一年で弑殺された。斉は高帝よりここに至るまで七世、二十三年で亡んだ。
最終更新:2025年07月12日 09:54