漢文・漢文法基礎 > 十八史略 全文目次 > 南北朝(梁)

これより先、編集を優先させたため日付降順(新しいものから上になっている)となっています。

申し訳ありませんが時系列でみたい方は、下から見てください。

 

 

十八史略 北周、北斉を滅ぼす

2012-08-16 10:01:57 | 十八史略
昨夜、終戦の日に、NHKの番組で衝撃を受けた。先の大戦でソ連軍が参戦に踏み切ることを陸海軍は把握していた。というもので、この極秘情報は軍の上層部で握りつぶしていたようである。互いに口を閉ざし、会議だけが繰り返され日を費やしていた。早く停戦交渉にはいれば、広島・長崎の原子爆弾はもとより、シベリア抑留も防げたはずで今更ながら悔やまれてならない。翻って福島原発の事故の経緯をみるとき、過去の忌まわしい体質が払拭されているかどうか、はなはだ疑問である。

北齊主湛、傳位於太子緯、自稱太上皇帝。
陳主起自囏難、知民疾苦。性明察儉勤。在位八年殂。改元者二、曰天嘉、曰天康。太子立。是爲廢帝臨海王。
廢帝臨海王名伯宗。在位三年。改元者一、曰灮大。爲安成王頊所廢。
北齊上皇湛殂。諡曰武成皇帝
陳安成王自立。是爲高宗宣皇帝。
宣皇帝名頊。初陥入長安。文帝時、周人送頊還陳。至是即位。
周主邕誅宇文護、始親政。
北齊後主緯、多嬖寵、政亂。周伐齊入鄴、執緯、歸殺之、夷其族。北齊建國五世。三十年而亡。

北斉の主湛(たん)、位を太子緯(い)に伝え、自ら太上皇帝と称す。
陳主、囏難(かんなん)より起こって民の疾苦(しっく)を知る。性明察にして倹勤なり。在位八年にして殂(そ )す。改元すること二、天嘉といい、天康という。太子立つ。これを廃帝臨海王と為す。
廃帝臨海王、名は伯宗。在位三年改元すること一、灮大(こうだい)という。安成王頊(ぎょく)の廃する所と為る。
北斉の上皇湛殂す。諡して武成皇帝という。
陳の安成王自立す。是を高宗宣皇帝と為す。
宣皇帝、名は頊(ぎょく)。初め長安に陥入(かんにゅう)せらる。文帝の時、周人頊を送って陳に還す。是(ここ)に至って位に即く。
周主邕(よう)、宇文護を誅して、始めて政(まつりごと)を親(みずか)らす。
北斉の後主緯、嬖寵(へいちょう)多く、政乱る。周、斉を伐って鄴(ぎょう)に入り、緯を執(とら)え、帰って之を殺し、其の族を夷(たいら)ぐ。北斉、国を建つること五世、三十年にして亡びぬ。


囏難 艱難におなじ。 灮 光の古字。 陥入 没入に同じ、財は没収、身柄は移されること。 嬖寵 嬖は気に入り。

北斉の国主高湛が帝位を太子の緯に伝えて自らは太上皇帝と称した。
陳主の文帝蒨(せん)は艱難の間から身を起こしたので、人々の苦難をよく知っていた。そのうえ人となりも明敏でつつましやかで勤勉だった。在位八年で世を去った(566年)。改元すること二回、天嘉と天康という。太子が立った。これが廃帝臨海王である。
廃帝臨海王は名を伯宗という。位に在ること三年、年号を改めること一回で光大という。安成王頊によって廃位させられた(568年)。
この年、北斉では上皇の高湛が死んだ。おくり名して武成皇帝という。
陳の安成王が廃帝を追放したのち、自ら帝位に即いた。高宗宣皇帝である。
高宗宣皇帝は名を頊である。以前西魏のために長安に抑留されていたが文帝のときに、西魏を亡ぼした北周が陳に送還してくれた。それで位に即いたのである。
北周の国主宇文邕は、太師の宇文護を誅殺し、始めて政治を自らの手で行った。
北斉の後主の高緯は佞臣、寵臣を多く近づけ、政治が乱れた。北周は北斉に攻め入って、都の鄴を陥れ、緯を捕えて連れ帰って殺し、一族を根絶やしにした。北斉は国を建ててから五世、三十年で亡んだ(577年)。ここに再び北朝は統一されたのである。
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十八史略 骨肉の争い

2012-08-14 14:46:47 | 十八史略
文皇帝名蒨。武帝之兄子也。在武帝平梁亂時、已有功。至是即位。
周王毓稱帝。
北齊主洋、盡滅元氏之族。洋殂。諡曰文宣皇帝。
周宇文護憚周帝明敏有識量、進毒弑之。諡曰明皇帝。毓弟邕立。
北齊文宣帝之母弟、常山王演、廢其主殷而自立。尋弑殷。演立一年而殂。諡曰孝昭皇帝。母弟長廣王湛、又廢演子百年而自立。後殺百年。
後梁主詧殂。太子巋立。

文皇帝名は蒨(せん)。武帝の兄の子なり。武帝が梁の乱を平らげし時に在って已に功有り。是に至って位に即く。
周王毓(いく)、帝と称す。
北斉の主洋、尽く元氏の族を滅す。洋殂(そ)す。諡(おくり名)して文宣皇帝と曰う。
周の宇文護、周帝の明敏にして識量有るを憚り、毒を進めて之を弑す。おくり名して明皇帝と曰う。毓の弟邕(よう)立つ。
北斉の文宣帝の母弟、常山王演、其の主殷を廃して自立す。尋(つ)いで殷を弑す。演立って一年にして殂す。おくり名して孝昭皇帝と曰う。母弟、長広王湛(たん)、又演の子百年を廃して自立す。後百年を殺す。
後梁の主詧(さつ) 殂す。太子巋(き)立つ。


文皇帝名は蒨で武帝の兄の子である。武帝が梁の反乱を鎮定したときから、功績を重ね、ここに至って位に即いた。
この頃北周では王と称していた宇文毓(いく)が皇帝を称した。
北斉では国主の高洋が、東魏の王族の元氏をことごとく滅ぼしたが、この年世を去った。おくり名を文宣皇帝という。
北周の宇文護は周帝毓が聡明で見識度量に富むことに怖れをいだき、毒を進めて弑殺した。明皇帝とおくり名した。毓の弟邕が立った。
また北斉では文宣帝の同母弟で常山王の高演が、文宣帝の死後、位を継いだ高殷を廃して、自ら帝位に即き、間もなく殷を殺した。その高演は一年後に世を去った。おくり名を孝昭皇帝という。その同母弟の長広王高湛が演の子百年を廃して自ら帝位に即き、後に百年を殺した。
後梁の主蕭詧が亡くなって太子の巋が立った。
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十八史略 陳の高祖

2012-08-11 08:28:54 | 十八史略
陳高祖武皇帝姓陳。名覇先。呉興人也。梁武帝大同中、爲廣州參軍。廣有亂。討平之。以功爲將軍。尋爲交州司馬、西江都護、高要太守、督七郡諸軍、屢平寇亂。侯景陥臺城。覇先時守始興。結郡中豪傑、起兵討景、先取江州、爲州刺史、引兵會諸軍、卒以平景、遂爲將相於梁、以至受禪。即位三年殂。改元者一、曰永定。子二人。昌・頊。皆以江陵陥時、没入長安。臨川王立。是爲世祖文皇帝。

陳の高祖武皇帝、姓は陳、名は覇先。呉興の人なり。梁の武帝の大同中、広州の参軍と為る。広に乱あり。討って之を平らぐ。功を以って将軍と為る。尋(つ)いで交州の司馬、西江の都護、高要の太守と為り、七郡の諸軍を督し、しばしば寇乱(こうらん)を平らぐ。侯景台城を陥(おとしい)る。覇先、時に始興に守たり。郡中の豪傑と結び、兵を起して景を討ち、先ず江州を取り、州の刺史と為り、兵を引いて諸軍を会し、卒(つい)に以って景を平らげ、遂に梁に将相と為り、以って禅(ゆずり)を受くるに至る。位に即いて三年にして殂(そ)す。改元すること一、永定と曰う。子二人有り。昌・頊(ぎょく)という。皆江陵の陥(おちい)りし時を以って、長安に没入(ぼつにゅう)す。臨川王立つ。是を世祖文皇帝と為す。

呉興 浙江省の郡の名。 広州 広東省の郡。 交州 越南北部の地。 西江 広西自治区附近。 高要 広東省の地名。 始興 広東省の郡。 江州 江西、福建省地方。 参軍 軍事参与。 司馬 軍事を管掌する将軍の属官。 都護 辺境の統治にあたる官。 太守 郡の長官。 刺史 州の行政の最高責任者。 寇乱 寇は徒党を組んで害を加えること。 台城 宮城。 没入 官により没収されること。

陳の高祖武皇帝、姓は陳、名は覇先といい、呉興の人である。梁の武帝の大同年間に、広州の参軍と為り、そこで起こった反乱を討って鎮圧し、その功によって将軍になった。続いて交州の司馬、西江の都護、高要の太守となって七郡の諸軍を率いて、しばしば擾乱を平らげた。
侯景が建康の宮城を陥れたとき、覇先は始興郡の太守であったが、郡中の剛勇の士を糾合して兵を起して侯景討伐に立ち上がり、まず江州を攻略して刺史となり、兵を率いて各地の軍を集め、ついに侯景の乱を平定した。そして大将軍、相国となって遂に梁より禅譲を受けるに至った。
位に即いて三年で歿した。改元したのは一回、永定という。陳昌・陳頊という二人の子がいたが、西魏が江陵に攻め入ったとき、家財ともども長安に送られた。それで甥の臨川王が立った(559年)。これが世祖文皇帝である。
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十八史略 西魏は北周に、梁は陳覇先に禅譲す

2012-08-09 08:34:08 | 十八史略

敬皇帝名方智。元帝子也。年十三即位。陳覇先爲丞相。
西魏太師大冢宰安定公宇文泰卒。世子覺嗣。年十五。宇文護輔之。未幾、以覺爲周公。
西魏主廓禪于周。廓遇弑。後諡曰恭皇帝。西魏建國四世。二十四年而亡。覺。稱周天王。性剛果、惡護之專。護弑之。後諡曰孝閔皇帝。立泰之長子毓。
梁丞相陳覇先、爲相國、封陳公、加九錫、尋進爵爲王。梁主改元者二、曰詔泰、曰太平。尸位未三年而禪于陳、尋遇弑。梁自高祖武帝、至是四世。凡五十六年而亡。

敬皇帝名は方智。元帝の子なり。年十三にして位に即く。陳覇先、丞相となる。
西魏の太師大冢宰(たいちょうさい)安定公宇文泰卒(しゅっ)す。世子覚嗣(つ)ぐ。年十五なり。宇文護之を輔(たす)く。未だ幾ばくならずして、覚を以って周公となす。
西魏の主廓、周に禅(ゆず)る。廓、弑に遇う。後おくり名して恭皇帝と曰う。西魏、国を建つること四世、二十四年にして亡びぬ。覚、周天王と称す。性剛果にして、護の専(せん)なるを悪(にく)む。護之を弑す。後おくり名して孝閔皇帝と曰う。泰の長子毓(いく)を立つ。
梁の丞相陳覇先、相国となり、陳公に封ぜられ、九錫を加え、尋(つ)いで爵を進めて王となる。梁主、改元すること二、詔泰と曰い、太平と曰う。尸位(しい)未だ三年ならずして陳に禅(ゆず)り、尋いで弑に遇う。梁、高祖武帝自り、是に至るまで四世、凡(すべ)て五十六年にして亡びぬ。


大冢宰 天子を補佐し百官を統率する周代の官制。 世嗣 諸侯の後継ぎ。 剛果 剛毅果敢。 九錫 天子から賜った九種の特典、車馬・衣服・楽器・朱戸(門を朱塗りにする特典)・納陛(宮殿に昇降する権利)・虎賁(こほん勇猛な兵士三百人)・弓矢・鈇鉞(ふえつ 殺生の権)・秬鬯(きょちょう 祭祀に用いる酒)。 尸位 名目だけの帝位。 

敬皇帝の名は方智といい、元帝の子である。十三歳で帝位に即いた。陳覇先が丞相となった。
西魏の太師大冢宰で安定公の宇文泰が亡くなった。世嗣の宇文覚が後を継いだが十五歳だったので従兄の宇文護が輔佐した。間もなく覚が周公に任ぜられた。
西魏の国主元廓が周公に禅譲した(557年)元廓はすぐに弑殺され、後に恭皇帝とおくり名された。西魏は国を建てて四代、二十四年で滅んだ。宇文覚は周天王と称し、国は北周と呼ばれた。覚は生来剛毅で決断力に富んでいた。しかし政治の実権は従兄の宇文護がにぎっているのでこころよく思っていなかった。それと察知した護が先手をとって覚を弑殺して、後に孝閔皇帝とおくり名した。そして宇文泰の長男毓を立てた。
梁では丞相の陳覇先が相国となり、陳公に封ぜられ、さらに九錫が加えられた。つづいて爵位を進めて王となった。
西魏が滅んだ年、梁主の敬帝は詔泰・太平と二度改元し、名目だけの帝位にあること三年ならずして、陳王覇先に禅譲し、ついで弑殺された。梁は高祖武帝から敬帝まで四世五十六年で滅亡した。
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十八史略 書万巻を読めども猶今日有り

2012-08-07 08:50:30 | 十八史略
突厥攻柔然。北齊撃突厥遷柔然。是時柔然衰、突厥始強大。
西魏宇文泰、廢其主欽、而立其弟廓。欽遇弑。
西魏遣柱國于謹、伐梁入江陵。梁主焚古今圖書十四萬巻、歎曰、文武之道今夜盡矣。乃出降。或問、何意焚書。曰、讀書萬巻、猶有今日。尋被殺。在位三年。改元者一、曰承聖。
西魏取襄陽、徙梁王詧于江陵、使稱帝、屯兵守之。是爲後梁。臣于西魏。王僧辯・陳覇先、奉晉安王、稱制于建康。貞陽侯淵明、先是爲北齊所獲。至是以兵納之。王僧辯奉歸建康稱帝。陳覇先殺僧辯、廢淵明、立晉安王。是爲敬皇帝。

突厥、柔然を攻む。北斉、突厥を撃って柔然を遷(うつ)す。是の時柔然衰え、突厥始めて強大なり。
西魏の宇文泰、其の主欽を廃して、其の弟廓(かく)を立つ。欽、弑に遇う。
西魏、柱国(ちゅうこく)于謹(うきん)を遣(や)り、梁を伐って、江陵に入らしむ。梁主、古今の図書十四万巻を焚(や)き、歎じて曰く、「文武の道、今夜尽きぬ」と。乃ち出でて降る。或ひと問う、「何の意あって書を焚く」と。曰く、「書万巻を読めども猶今日有り」と。尋(つ)いで殺さる。在位三年。改元すること一、承聖と曰う。
西魏、襄陽を取り、梁王詧(さつ)を江陵に徙(うつ)し、帝と称せしめ、兵を屯(たむろ)して之を守る。是を後梁と為す。西魏に臣たり。王僧辯・陳覇先、晋安王を奉じて、制を建康に称せしむ。貞陽侯淵明、是より先、北斉の為に獲(え)らる。ここに至って兵を以って之を納(い)る。王僧辯、奉じて建康に帰り、帝と称せしむ。陳覇先、僧辯を殺し、淵明を廃して、晋安王を立つ。是を敬皇帝となす。


突厥 トルコ系遊牧帝国、六世紀後半、唐に征服された。 柔然 モンゴル系の遊牧民国家555年突厥に滅ぼされた。 柱国 官名。 

突厥が柔然を攻めた。北斉は突厥を撃って柔然を馬邑川(山西省北部)に遷した。柔然はこの時すっかり衰え、突厥は強大になっていった。
西魏の宇文泰が、国主の欽を帝位から逐い、欽の弟の廓を立てた(554年)欽はほどなく弑殺された。
西魏は柱国の于謹を派遣して梁を伐って江陵に攻め入った。梁の国主元帝蕭繹は、図書十四万巻を焚き(剣を折って)歎息して「文武の道今夜尽きぬ」と言って城から出て降伏した。ある人が「どうして書を焚かれたのでしょうか」と聞かれて「万巻の書を読んでも結局今日という日を迎えたではないか」と答えた。そして間もなく殺された。在位三年、改元すること一、承聖といった。
西魏、襄陽を攻略して、梁王蕭詧を江陵に移して帝を称えさせ、兵を駐屯させて保護した。これを後梁といい、西魏に臣従した。王僧辯と陳覇先は、晋安王の蕭方智を奉じ、建康で勅命を出させて代わって政治をおこなった。
貞陽侯の蕭淵明が、これより前に北斉に捕虜になっていたが、警護の兵とともに送り返されてきた。王僧辯は淵明を奉じて建康に帰ると淵明を皇帝と称させた。ところが陳覇先は王僧辯を殺し、淵明を廃して晋安王方智を立てた。これが敬皇帝である。

十八史略 ペコン

2012-08-04 10:57:30 | 十八史略
8月2日の記事で詧をはつがしらに言としたが、正しくは祭の示を言に換えたものです。軽率でありましたごめんなさい。
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十八史略 侯景その下のために斬らる

2012-08-04 09:08:36 | 十八史略

西魏主寶炬殂。諡曰文皇帝。太子欽立。
侯景自立爲漢王、廢梁主弑之。尸位不及三年。改元者一、曰大寶。景立豫章王棟。已而簒位。先是始興太守陳覇先、起兵討景。湘東王遣王僧辯討景。景簒數
月、而爲僧辯・覇先所敗、亡走呉、欲入海、爲其下所斬。送尸建康。傳首江陵、截其手足、送於北齊。湘東王立。是爲元皇帝。
元皇帝名繹。一目眇、性殘忍。即位于江陵。自侯景之亂、州郡太半入西魏、蜀亦爲魏有。梁自巴陵以下至建康、以長江爲限。

西魏の主宝炬(ほうきょ)殂(そ)す。おくり名して文皇帝と曰う。太子欽立つ。
侯景、自ら立って漢王と為り、梁主を廃して之を弑す。尸位(しい)三年に及ばず。改元する者一、大宝と曰う。景、予章王棟(とう)を立つ。已にして位を簒(うば)う。是より先、始興の太守陳覇先(ちんはせん)兵を起して景を討つ。湘東王、王僧辯(おうそうべん)をして景を討たしむ。景、簒いて数月にして、僧弁・覇先の為に敗られ、亡(に)げて呉に走り、海に入らんと欲し、其の下(しも)の為に斬らる。尸(し)を建康に送り、首を江陵に伝え、其の手足を截(き)って、北斉に送る。湘東王立つ。是を元皇帝と為す。
元皇帝名は繹。一目眇(びょう)にして、性残忍なり。江陵に即位す。侯景の乱より、州郡太半西魏に入り、蜀も亦魏の為に有せらる。梁は巴陵より以下建康に至るまで、長江を以って限りと為す。


尸位 名目だけの位。 江陵 湘東王、後の元帝繹が居た。 北斉 高洋が善見より奪った東魏の後。 眇 すがめ、斜視。

西魏の国主元宝炬が世を去った(551年)。おくり名して文皇帝という。太子の元欽が即位した。同じ年、侯景が自ら漢王を称し、梁主蕭綱を廃してこれを弑殺した。綱は名目だけの帝位に即いて三年に満たないで世を去った。改元すること一回、大宝といった。侯景は予章王の蕭棟を立てたが、やがて帝位を簒奪した。
これより前、始興郡の太守陳覇先は侯景討伐の兵を挙げた。ここにきて、湘東王も王僧辯に討伐の指令を出した。侯景は簒奪して数ヶ月で僧辯・覇先に撃ち破られて、呉に逃亡し、さらに海に乗り出そうとして、部下に斬り殺された。屍骸は建康に送り、首を江陵に、手足を切り離して北斉に送られた。湘東王蕭繹が梁の帝位に即いた(552年)。これが元皇帝である。
元皇帝、名は繹。すが眼で残忍な性格であった。江陵で帝位に即いたが、侯景の乱以来、領土の大半は西魏の勢力下に入り、蜀もまた、西魏の領するところとなっていた。巴陵から建康まで、それも長江を北限とする地域を有するのみであった。
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十八史略 東魏、建国より、十七年にして亡ぶ

2012-08-02 10:02:00 | 十八史略
簡文皇帝名綱。在東宮十八年、而後遇侯景之亂。既立、受制於景而已。湘東王繹鎭江陵、自稱假黃鉞大都督・中外諸軍承制。岳陽王詧、昭明太子統之第三子也。鎭襄陽、與繹相攻。詧遣使降于西魏、以求援。
東魏大將軍渤海王澄、先是爲其下所殺。弟洋爲丞相、封齊王。逼東魏主禪位、尋弑之。諡曰孝靜皇帝。東魏建國一十七年而亡。
西魏立梁蕭詧爲梁王。

簡文皇帝、名は綱(こう)。東宮に在ること十八年にして侯景の乱に遇(あ)う。既に立てども、制を景に受くるのみ。湘東王繹(えき)、江陵に鎮し、自ら仮黄鉞(かこうえつ)大都督・中外諸軍承制(しょうせい)と称す。岳陽王詧(さつ)は、昭明太子統の第三子なり。襄陽に鎮し、繹と相攻む。詧、使を遣わして西魏に降り、以って援(たすけ)を求む。
東魏の大将軍渤海王澄(ちょう)、是より先、其の下(しも)の殺す所となる。弟洋、丞相と為り、斉王に封ぜらる。東魏の主に逼(せま)って位を禅(ゆづ)らしめ、尋(つ)いで之を弑す。おくり名して孝静皇帝と曰う。東魏、国を建ててより、十七年にして亡ぶ。
西魏、梁の蕭詧を立てて梁王と為す。


仮黄鉞 黄鉞は本来天子が賊を討伐するため将軍に授けた黄金の鉞、大都督に授けることはないので仮を付した。 承制 詔を奉じ天子に代わって命令すること。詧 はつがしらに言。 昭明太子統 武帝の長子 文選(もんぜん)を編纂した。531年30歳で歿す。 

簡文皇帝、名は綱といい、太子となって十八年で侯景の乱に遇い、やがて帝位に即いたが、侯景からさまざまな制約を受ける身であった。
湘東王の蕭繹は、江陵に駐屯し、みずから仮黄鉞大都督・中外諸軍承制を称していた。岳陽王蕭詧は、昭明太子蕭統の第三子で襄陽を根城にして蕭繹と衝突した。蕭詧は使者を送って西魏に降伏して援軍を求めた。
東魏の大将軍で渤海王の高澄は、これより前に部下に殺され、弟の高洋が丞相に任じられ斉王に封じられていたが、東魏の主元善見に逼って無理やり帝位を禅(ゆず)らせ(550年)、ついで弑殺した。おくり名して孝静皇帝といった。東魏は建国から十七年で亡んだ。
西魏が、梁の元帝繹を殺して亡命して来ていた蕭詧を立てて梁王とした。(その経緯は後に述べる)
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十八史略 梁の武帝憤死す

2012-07-31 08:58:02 | 十八史略
景退謂人曰、吾常跨鞍對陣、矢石交下、了無怖心。今見蕭公、使人自慴。豈非天威難犯、吾不可以復見此人。梁主爲景所制、飮膳亦被裁損、憂憤成疾。口苦索蜜不得。再曰荷荷遂殂。在位四十八年。改元者七、曰天監・普通・大通・中大通・大同・中大同・太清。壽八十六。先是、太子統、仁明孝儉、好學有文、在東宮三十年而終。梁主舍嫡孫而立別子、至是即位。是爲太宗簡文皇帝。

景、退いて人に謂って曰く、「吾、常に鞍に跨(またが)り陣に対し、矢石(しせき)交々(こもごも)下れども了(つい)に怖るる心無し。今蕭公を見るに、人をして自(おのずか)ら慴(おそ)れしむ。豈天威犯し難きに非ざらんや。吾以って復此の人を見る可からず」と。梁主、景の制(せい)する所となり、飲膳(いんぜん)も亦裁損(さいそん)せられ、憂憤して疾(やまい)を成す。口苦くして蜜を索(もと)むれども得ず。再び荷荷(かか)と曰いて遂に殂(そ)す。在位四十八年、改元すること七、天監・普通・大通・中大通・大同・中大同・太清と曰う。寿八十六。先是、太子統、仁明孝倹、学を好み文有り。東宮に在ること三十年にして終る。梁主、嫡孫を舍(す)てて別子を立つ。是に至って位に即く。是を太宗簡文皇帝と為す。

蕭公 梁の武帝の姓。 制 規制。 裁損 節減。 荷荷 怒鳴る声。

侯景は退出すると、人に「わしはいつも馬に跨って、敵陣に対し、矢や石が降り注いでもついぞ怖れる気はなかった。ところが今蕭公の前に出たとき、身のすくむ思いをした。これこそ天与の威厳というものだろうか、二度と会いたくないものだ」と言った。武帝は侯景からさまざまな制約を受け、飲食をも十分与えられなくなり、憂いと憤りでとうとう病気になった。口が苦く蜜を求めたが与えられず、二度怒声を発してこと切れた(549年)。位に在ること四十八年。改元すること七回、天監(てんかん)・普通・大通・中大通・大同・中大同・太清という。歳は八十六であった。これより前、昭明太子蕭統は仁徳があり、聡明で控えめ、学問を好み、文才があったが、東宮に在ること三十年で世を去った。武帝は嫡孫の歓を嫌い、別の子を立てて皇太子とし、ここに至って即位した。これが太宗簡文皇帝である。
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十八史略 侯景、梁武帝に謁見す。

2012-07-28 09:36:44 | 十八史略

東魏遣慕容紹宗撃景。景敗南走、襲梁壽春、據之請命。梁就以爲南豫州牧。既而東魏求成於梁。意欲得景。景恨梁通東魏、遂反於壽陽、引兵南渡、圍建康。梁主自即位以來、江左久無事。惟崇佛法、屢捨身佛寺。上下化之。及景逼臺城、援兵至者、爲景所敗。梁主遣人與景盟、以爲大丞相。臺城受圍、五月而陥。景入見。引就三公位。梁主神色不變。謂景曰、卿在軍中久。毋乃爲勞。景不敢仰視。流汗不能對。

東魏、慕容紹宗を遣わして景を撃たしむ。景敗れて南に走り、梁の寿春を襲うて、之に拠(よ)って命を請う。梁、就(つ)いて以って南予州の牧と為す。既にして東魏、成(たいらぎ)を梁に求む。意、景を得んと欲するなり。景、梁の東魏に通ぜしを恨み、遂に寿陽に反し、兵を引いて南に渡り、建康を囲む。梁主、位に即いてより以来、江左(こうさ)久しく無事なり。惟仏法を崇(たっと)び、しばしば身を仏寺に捨つ。上下(しょうか)之に化す。景の台城に逼(せま)るに及び、援兵の至る者、景の敗(やぶ)る所となる。梁主、人を遣わして景を盟(ちか)わしめ、以って大丞相と為す。台城囲みを受くること五月にして陥る。景入って見(まみ)ゆ。引いて三公の位に就(つ)かしむ。梁主、神色変ぜず。景に謂って曰く、「卿、軍中に在ること久し。乃(すなわ)ち労を為すこと毋(なか)らんや」と。景、敢えて仰ぎ視ず。汗を流して、対(こた)うる能(あた)わず。

寿春 今の安徽省の地。 成 和議。 寿陽 寿春におなじ。 江左 江東の地。 台城 宮城。 毋らんや 反語、いやあったであろうの意。

東魏は慕容紹宗を派遣して侯景を撃たせた。侯景は敗れて南に逃げ、梁の寿春の不意をつき、立て籠もったうえで梁にこの地の長官に任命することを要求した。言われるままに梁は侯景を南予州の牧に任命した。やがて東魏は、梁に和議を申し入れた。その意図するところは侯景の引渡しにあった。侯景は梁と東魏が通じたことを根にもって、遂に寿陽で謀叛し、兵を率いて江南に渡り、建康を囲んだ。
梁は武帝が即位してから、平穏無事であり、帝はひたすら仏法をあがめ、しばしば仏寺に籠り捨身の行をしたので、民衆までも徳化されていた。侯景が宮城に逼ると、援軍はことごとく打ち破られてしまった。武帝はやむなく使者を遣わして、侯景に大丞相の地位を約して和議を結んだ。宮城が包囲を受けて五ヶ月にして陥落した。侯景が宮城に入って謁見すると、武帝は侯景を引き入れ、三公の位に就かせた。この時の武帝の様子は泰然として、侯景に向かって「卿も久しく軍中にあってさぞ疲れたことであろう」とねぎらいの言葉さえかけた。侯景は恐れいって顔も上げられず、汗を流して一言も返すことができなかった。

 

十八史略 侯景は飛揚跋扈の志有り

2012-07-26 09:18:03 | 十八史略
先是熒惑入南斗。梁主曰、熒惑入南斗、天子下殿走。乃跣下殿禳之。及聞脩出奔、慙曰、虜亦應天象邪。脩至長安、踰半年又與泰有隙。泰鴆之。後諡曰孝武皇帝。孝武既遇弑。泰立南陽王寶炬。歡與泰連年相攻戰、互有勝負。歡卒。遺言囑其子澄曰、侯景有飛揚跋扈之志。非汝所能御。堪敵景者、惟慕容紹宗。景果以河南降西魏、未幾復附于梁。梁封景爲河南王。景使至梁、梁羣臣皆不欲納。梁主亦自謂、我國家如金甌無一傷缺。恐納景因以生事。惟朱异力勸納之。

是より先、熒惑(けいわく)南斗に入る。梁主曰く、「熒惑南斗に入れば、天子、殿(でん)を下って走る」と。乃ち跣(せん)して殿を下って之を禳(はら)う。脩の出奔せしを聞くに及び、慙(は)じて曰く、「虜(りょ)も亦天象(てんしょう)に応ずるか」と。脩、長安に至り、半年を踰(こ)えて又泰と隙(げき)有り。泰之を鴆(ちん)す。後、諡(おくりな)して孝武皇帝と曰う。孝武既に弑に遇(あ)う。泰、南陽王宝炬(ほうきょ)を立つ。歓、泰と連年相攻戦し、互いに勝負有り。
歓卒す。遺言して其の子澄(ちょう)に嘱(しょく)して曰く、「侯景は飛揚跋扈の志有り。汝が能く御する所に非ず。景に敵するに堪(た)うる者は、惟慕容紹宗(ぼようしょうそう)のみ」と。景、果たして河南を以って西魏に降り、未だ幾(いくばく)ならずして復梁に附く。梁、景を封じて河南王と為す。景の使い、梁に至るや、梁の群臣、皆納るるを欲せず。梁主も亦自ら謂う「我が国家は金甌(きんおう)の一傷缺(しょうけつ)無きが如し。恐らくは景を納るれば、因って以って事を生ぜん」と。惟朱异(しゅい)のみ力(つと)めて之を納れしむ。


熒惑 火星、不吉な星。 跣 はだし。 天象 天体の起す現象。 勝負 勝ったり負けたりする。 飛揚跋扈 天翔け地を渉猟する志、高い地位に上り権勢を欲しいままにすること。 西魏 長安に逃れた元脩の魏。 金甌 金のかめ。 傷缺 缺は欠、欠けること。

これに先立って、熒惑が南斗星の坐に入るということがあった。梁主の武帝は「熒惑星が南斗の星座を侵すのは天子が玉座を下って逃げ出す前兆ではないか」と言って、裸足で宮殿から出て厄払いをした。やがて魏の元脩が洛陽を落ち延びたとの報を聞くと、「夷にも天の啓示は及ぶものか」と言って、厄払いをしたことを慚じた。元脩は、長安に来て半年あまりになり、宇文泰と仲違いが生じると泰によって毒殺され、後に孝武皇帝とおくり名された。宇文泰は脩を弑殺すると今度は南陽王の宝炬を立てた。
東魏の高歓と西魏の宇文泰は年々戦いをして、互いに勝ち負けを繰り返していた。やがて高歓が世を去ったが、死に臨んで子の高澄に遺言して「侯景という男は大きな野望をもっていて、とてもお前が適う相手ではない、対等にわたり合えるのは慕容紹宗ひとりだけだろう」と言った。果たして侯景は河南の地を献じて西魏に投じ、さらに梁につき従った。梁は侯景を河南王に封じた。
侯景の使者が梁に来たとき、梁の臣は侯景を迎え入れることに反対した。梁主も自ら「我が国は傷一つない黄金の甕のように治まっている。受け入れればむしろ禍をひきおこすであろう」とためらいをあらわにした。ただ朱异だけが、強く侯景を受け入れるよう主張し、武帝を説き伏せた。
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十八史略 北魏分かれて東魏・西魏となる

2012-07-24 09:08:38 | 十八史略

爾朱世隆與爾朱兆、立宗室長廣王曄、入洛陽。子攸遇弑。後諡曰孝莊皇帝。世隆又以曄疎遠廢之、立孝文之姪廣陵王恭。高歡起兵誅爾朱氏、入洛陽、廢恭而立孝文之孫平陽王脩。脩弑恭。後諡曰節閔皇帝。高歡爲大丞相、建府於晉陽居之。魏主畏歡、謀伐晉陽。歡擁兵來。魏主奔長安、依關西大都督宇文泰、以泰爲大丞相。歡追魏主、不及。遂立清河王世子善見於洛陽、遷于鄴。魏自道武至是十二世。一百四十九年、而分爲東魏・西魏。

爾朱世隆(じしゅせいりゅう)、爾朱兆と、宗室の長広王曄(よう)を立てて、洛陽に入る。子攸、弑に遇う。後諡(おくりな)して孝荘皇帝と曰う。世隆は又、曄の疎遠なるを以って之を廃し、孝文の姪(てつ)広陵王恭を立つ。
高歓、兵を起して爾朱氏を誅し、洛陽に入り、恭を廃して孝文の孫、平陽王脩を立つ。脩、恭を弑す。後おくりなして節閔(せつびん)皇帝と曰う。高歓大丞相となり、府を晋陽に建てて之に居る。魏主、歓を畏れ、晋陽を伐たんことを謀る。歓、兵を擁して来たる。魏主、長安に奔(はし)り、関西(かんせい)の大都督、宇文泰に依り、泰を以って大丞相となす。歓、魏主を追いしも及ばず、遂に清河王の世子、善見を洛陽に立てて、鄴(ぎょう)に遷(うつ)る。
魏は道武より是に至るまで十二世。一百四十九年にして、分かれて東魏・西魏となる。


爾朱栄の従弟の爾朱世隆は甥の兆とともに、北魏の宗室に連なる長広王曄を立てて洛陽に入り、子攸を弑殺した(530年)。のちに孝荘皇帝とおくりなした。
世隆は後に曄を、王室の血筋から遠いとしてこれを廃し新たに文帝の甥の広陵王恭を立てた。
そこで高歓は兵を挙げて爾朱氏を誅し、洛陽に入って恭を廃し、文帝の孫にあたる平陽王脩を立てた。脩は恭を弑札殺した。後に節閔皇帝とおくりなした。高歓は大丞相となり、晋陽に幕府を開いてここを根城とした。魏主の元脩はこれを畏れて密かに晋陽を伐とうとしたが、高歓が先手を打って洛陽に攻め寄せた。元脩は長安に逃げて、関西大都督の宇文泰を頼り、泰を大丞相に任じた。高歓は元脩を追ったが、追いつけなかった。そこで清河王の世子、元善見を洛陽で帝位に即かせ、鄴に遷都した(534年)。北魏は道武帝からここに至るまで十二代、百四十九年で、高歓の立てた元善見の東魏と、長安に逃れた元脩の西魏の二つに分かれた。
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十八史略 魏主子攸、爾朱栄を刺殺す

2012-07-21 08:29:27 | 十八史略
魏胡太后臨朝以來、嬖倖用事、政事縱弛、盜賊蠭起、封疆日蹙。魏主詡寖長、太后自知所爲不謹、務爲壅蔽、母子嫌隙日深。時六州大都督秀容酋長爾朱榮、兵強。高歡見榮、即勸擧兵清帝側。會魏主殂。胡太后鴆之也。後諡曰孝明皇帝。爾朱榮擧兵、立孝文之姪長樂王子攸、沈胡后于河。封榮太原王。還晉陽。北海王奔梁。梁立之、遣將送入洛陽。子攸出奔。爾朱榮渡河來救。走死。子攸歸。加榮天柱大將軍。榮蓄不臣之志。魏主陰謀誅榮。榮入。手刺之。

魏の胡太后朝に臨んで以来、嬖倖(へいこう)事を用い、政事縦弛(しょうし)し、盗賊蜂起して、封疆(ほうきょう)日に蹙(ちぢ)まる。魏主詡(く)、寖(ようや)く長じ、太后自ら為す所の不謹なるを知り、務めて壅蔽(ようへい)をなし、母子の嫌隙(けんげき)日に深し。
時に六州の大都督、秀容の酋長爾朱栄(じしゅえい)、兵強し。高歓、栄を見て即ち兵を挙げて帝側を清めんことを勧む。魏主の殂(そ)するに会う。胡太后之を鴆(ちん)せしなり。後諡(おくりな)して孝明皇帝と曰う。
爾朱栄、兵を挙げて、孝文の姪(てつ)長楽王子攸(しゆう)を立て、胡后を河に沈む。栄を太原王に封ず。晋陽に還る。
北海王(こう)、梁に奔(はし)る。梁之を立て、将をして送って洛陽に入らしむ。子攸出奔す。爾朱栄、河を渡って来たり救う。、走り死す。子攸帰る。栄に天柱大将軍を加う。栄、不臣の志を畜う。魏主、陰かに栄を誅せんと謀(はか)る。栄入る。手ずから之を刺す。


嬖倖 お気に入り。 縦弛 弛むこと。 封疆 封土の境。 壅蔽 壅はふさぐ、蔽はおおう。隠して知らせないこと。 嫌隙 すきま。 六州 并・肆・益・広・恒・雲。 秀容 山西省朔県。 姪(てつ) 甥。

魏の胡太后が朝廷に臨むようになってからは、寵臣が国事を握り、政治が緩んででたらめになり、各地に盗賊が蜂起して、領土も日々にせばまった。魏主の元詡が成長するにつれ、太后も自身の不謹慎な所業を羞じ、つとめて不行跡を隠そうとしたので、母と子の隙間がひろがった。
そのころ、六州(りくしゅう)の大都督で秀容の酋長爾朱栄の兵は強勢であった。高勧は爾朱栄に会うと、挙兵して魏主の側近を粛清するよう勧めた。ところがそのうち詡が世を去った。胡太后が毒殺したのである。後に孝明皇帝と諡された。
そこで爾朱栄が挙兵して孝文帝の甥にあたる、長楽王の子攸を立て、太后を黄河に沈めて殺した。功績によって爾朱栄は太原王に封じられ、晋陽に還った。
すると同じく孝文帝の甥の北海王が梁に亡命した。梁はを立てて、将軍を伴って洛陽に進軍させた。子攸は洛陽を逃れると、爾朱栄が黄河を渡って救援に駆けつけ、は敗走して死んだ。子攸が再び洛陽に帰ると、爾朱栄に天柱大将軍の称号を与えた。やがて爾朱栄は謀叛の野望を抱きはじめ、魏主子攸はこれを察知すると密かに栄を誅殺しようと謀り、参内したとき自ら手を下して刺し殺した(530年)。
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十八史略 北魏乱る

2012-07-19 15:03:22 | 十八史略

彝父子不以爲意。至是羽林・虎賁近千人、相率至尚書省、詬罵以瓦石撃省門。上下懾懼、不敢禁討。遂至彝第焚其舎、曳彝父子、毆撃投火中。仲瑀重傷走免。彝死。遠近震駭。胡后収其凶強八人斬之、餘不復治。大赦以安之。懐朔鎭函使高歡、至洛陽、見張彝之死、還家傾貲以結客。或問其故。歡曰、宿衞相率焚大臣之第、朝廷懼而不問。爲政如此、事可知矣。財物豈可常守邪。歡自先世坐法徙北邊、遂習鮮卑之俗。沈深有大志。與侯景等相友善。以任侠雄郷里。

彝(い)父子、以って意と為さず。是に至って羽林・虎賁(こほん)千人に近く、相率いて尚書省に至り、詬罵(こうば)して、瓦石を以って省門を撃つ。上下(しょうか) 懾懼(しょうく)し、敢えて禁討(きんとう)せず。遂に彝の第(てい)に至りその舎を焚(や)き、彝父子を曳き、殴撃(おうげき)して火中に投ず。仲瑀(ちゅうう)、重傷して走り免る。彝死す。遠近震駭(しんがい)す。胡后その凶強八人を収(とら)えて之を斬り、余は復た治(ち)せず。大赦して以って之を安んず。
懐朔鎮(かいさくちん)の函使(かんし)高歓、洛陽に至り、張彝の死するを見て、家に帰り貲(し)を傾けて以って客に結ぶ。或るひとその故を問う。歓曰く、「宿衛、相率いて大臣の第を焚けども、朝廷懼れて問わず。政をなすこと此(かく)の如くんば、事知るべし。財物は豈常に守るべけんや」と。歓は先世より法に坐して北辺に徙(うつ)り、遂に鮮卑の俗に習う。沈深(ちんしん)にして大志有り。侯景等と相友とし善し。任侠を以って郷里に雄たり。


羽林・虎賁 羽林は天子の宿営を守備する近衛、虎賁は虎の奔る如く勇猛な軍隊。 詬罵 ののしり、辱しめること。 懾懼 恐れおののくこと。 禁討 禁止討伐。 第 邸。 治 取り締まる。 函使 文書を京師に運ぶ役人。 貲 資産。 任侠 男だて。

彝父子はさして意に介さなかった。やがて羽林・虎賁といった近衛の兵士が千人近く徒党を組んで尚書省に来ると、罵声をあびせながら投石し、省の門を打ち破った。中では上も下も恐れ慄き、敢えておさえ鎮める者も居なかった。遂に彝の屋敷に火をつけ、親子を引きずり出した。散々に殴りつけて火中に投げ込んだ。仲瑀は重傷を負いながら、からくも逃げ出したが張彝はそこで命を落とした。これを見て遠近みな懼れ慄いたが胡太后は首謀者八人を斬っただけでそれ以外は不問にして安堵させる処置をとった。懐朔鎮の文書吏の高歓は洛陽に居合わせて、この争乱を目撃すると、家に帰るなり費用を顧みず客を招いて交わりを結んだ。ある人が訳を尋ねると、「近衛の兵たちが徒党を組んで大臣の邸宅を焼き討ちにしても、朝廷は兵を恐れて手を下さない。政治がこのような有様ではこの先どうなるかわかったものではない。財産など無事に守ることができるかわからない。ならば今から顔を売っておいたほうが余程ましだろう」と言った。高歓は先の世から罪に連坐して北方の故郷地帯に移され、すっかり鮮卑の風に馴染んでいた。かれは沈着で思慮深く大きい志をもっており、侯景らを友として交わり男伊達をもって郷里で重んじられていた。
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十八史略 梁

2012-07-17 08:26:26 | 十八史略

梁高祖武皇帝姓蕭氏、名衍、齊之疎族也。母張氏。見菖蒲生花。旁人皆不見、呑之。已而生衍。英達有文學。東昏初、衍鎭襄陽。知齊將亂、乃密修武備、聚驍勇以萬數。伐材沈檀溪、積茆如岡阜。兄懿死。衍建牙集衆、出檀溪竹木装艦、葺之以茆。事皆立辨。兵起一年餘、遂入建康、受禪即帝位。
魏主恪殂。謚曰宣武皇帝、廟號世宗。子詡立。甫六歳。母胡氏稱制。及魏主既長、好遊騁、不親視朝。而胡后方淫亂。魏政始亂。將軍張彝之子仲瑀、上封事排抑武人。喧謗盈路。立榜大巷、尅期會集屠其家。

梁の高祖武皇帝姓は蕭(しょう)氏、名は衍(えん)、斉の疎族(そぞく)なり。母張氏、菖蒲、花を生ずるを見る。旁人(ぼうじん)は皆見ず。之を呑む。已にして衍を生む。英達にして文学有り。東昏の初め衍、襄陽を鎮(ちん)す。斉の将(まさ)に乱れんとするを知って、乃ち密かに武備を修め、驍勇(ぎょうゆう)を聚(あつ)むること万を以って数う。材を伐って檀溪(だんけい)に沈め、茆(ぼう)を積むこと岡阜(こうふ)の如くす。兄懿(い)死す。衍、牙(が)を建てて衆を集め、檀溪の竹木を出して艦を装い、之を葺(ふ)くに茆を以ってす。皆立ちどころに辨ず。兵起こって一年余、遂に建康に入り、禅(ゆずり)を受けて帝位に即く。
魏主恪(かく)殂(そ)す。謚(おくりな)して宣武皇帝と曰い、廟を世宗と号す。子詡(く)立つ。甫(はじ)めて六歳なり。母胡氏、制を称す。魏主既に長ずるに及び、遊騁(ゆうてい)を好み、親(みずか)ら朝(ちょう)を視ず。而して胡后方(まさ)に淫乱なり。魏の政(まつりごと)始めて乱る。将軍張彝(ちょうい)の子仲瑀(ちゅうう)、封事(ほうじ)を上(たてまつ)って武人を排抑(はいよく)す。喧謗(けんぼう)路に盈(み)つ。榜(ぼう)を大巷(たいこう)に立て、期を尅(こく)して会集し、其の家を屠(ほふ)らんとす。


疎族 遠い一族。 英達 英明。 驍勇 武勇に勝れた者。 牙 竿の先を象牙で飾った将軍旗。 辨ず おさめる。 甫 始めに同じ。 遊騁 馬を走らせて遊ぶこと。 封事 密封した意見書。 排抑 排斥抑制。 喧謗 やかましく誹謗する。 榜 立札。 尅 区切る。

梁の高祖武皇帝は姓を蕭氏、名は衍といった。斉の皇室の遠い一族にあたる。母の張氏があるとき、菖蒲の花が咲くのを見たが、傍らの誰もが見なかった。摘んで帰って呑んだところ、身ごもって衍を生んだ。衍は英明で学問にも秀でていた。斉の東昏侯の頃、襄陽を鎮定していたが、斉が早晩混乱することを見越して、密かに軍備を整え、勇士を集めて万に及んだ。また材木を伐って檀溪に沈めておき、一方では萱を刈って岡のように積んでおいた。
兄の蕭懿が迫られて死んだことを聞くと、すぐさま大将軍の旗を掲げて軍勢を集め、檀溪の木材や竹を出して艦を造り、萱で屋根を葺いた。すべて手際よく事をおさめた。こうして兵を挙げて一年余り、建康に入り、禅譲を受けて帝位に即いたのである(502年)。
北魏の主元恪が死んだ。宣武皇帝と謚し、廟号を世宗とした。子の詡が継いだ。わずか六歳であったので、母の胡氏が魏主恪の遺命と称して政治を行った。詡が成長すると、野原に馬を駆って遊ぶばかりで朝廷を顧みなかった。その上胡太后は淫乱にふけったので、北魏の政治は乱れ始めた。将軍張彝の子仲瑀が密封の意見書をたてまつって、軍人を排斥しようとしたので、それを誹謗する声が巷に満ちた。日時を決めて集まり、張彝の家を襲って皆殺しにしようと書いた立札を大通りに立てた。

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最終更新:2025年07月12日 09:59