昨夜、終戦の日に、NHKの番組で衝撃を受けた。先の大戦でソ連軍が参戦に踏み切ることを陸海軍は把握していた。というもので、この極秘情報は軍の上層部で握りつぶしていたようである。互いに口を閉ざし、会議だけが繰り返され日を費やしていた。早く停戦交渉にはいれば、広島・長崎の原子爆弾はもとより、シベリア抑留も防げたはずで今更ながら悔やまれてならない。翻って福島原発の事故の経緯をみるとき、過去の忌まわしい体質が払拭されているかどうか、はなはだ疑問である。
北齊主湛、傳位於太子緯、自稱太上皇帝。
陳主起自囏難、知民疾苦。性明察儉勤。在位八年殂。改元者二、曰天嘉、曰天康。太子立。是爲廢帝臨海王。
廢帝臨海王名伯宗。在位三年。改元者一、曰灮大。爲安成王頊所廢。
北齊上皇湛殂。諡曰武成皇帝
陳安成王自立。是爲高宗宣皇帝。
宣皇帝名頊。初陥入長安。文帝時、周人送頊還陳。至是即位。
周主邕誅宇文護、始親政。
北齊後主緯、多嬖寵、政亂。周伐齊入鄴、執緯、歸殺之、夷其族。北齊建國五世。三十年而亡。
北斉の主湛(たん)、位を太子緯(い)に伝え、自ら太上皇帝と称す。
陳主、囏難(かんなん)より起こって民の疾苦(しっく)を知る。性明察にして倹勤なり。在位八年にして殂(そ )す。改元すること二、天嘉といい、天康という。太子立つ。これを廃帝臨海王と為す。
廃帝臨海王、名は伯宗。在位三年改元すること一、灮大(こうだい)という。安成王頊(ぎょく)の廃する所と為る。
北斉の上皇湛殂す。諡して武成皇帝という。
陳の安成王自立す。是を高宗宣皇帝と為す。
宣皇帝、名は頊(ぎょく)。初め長安に陥入(かんにゅう)せらる。文帝の時、周人頊を送って陳に還す。是(ここ)に至って位に即く。
周主邕(よう)、宇文護を誅して、始めて政(まつりごと)を親(みずか)らす。
北斉の後主緯、嬖寵(へいちょう)多く、政乱る。周、斉を伐って鄴(ぎょう)に入り、緯を執(とら)え、帰って之を殺し、其の族を夷(たいら)ぐ。北斉、国を建つること五世、三十年にして亡びぬ。
囏難 艱難におなじ。 灮 光の古字。 陥入 没入に同じ、財は没収、身柄は移されること。 嬖寵 嬖は気に入り。
北斉の国主高湛が帝位を太子の緯に伝えて自らは太上皇帝と称した。
陳主の文帝蒨(せん)は艱難の間から身を起こしたので、人々の苦難をよく知っていた。そのうえ人となりも明敏でつつましやかで勤勉だった。在位八年で世を去った(566年)。改元すること二回、天嘉と天康という。太子が立った。これが廃帝臨海王である。
廃帝臨海王は名を伯宗という。位に在ること三年、年号を改めること一回で光大という。安成王頊によって廃位させられた(568年)。
この年、北斉では上皇の高湛が死んだ。おくり名して武成皇帝という。
陳の安成王が廃帝を追放したのち、自ら帝位に即いた。高宗宣皇帝である。
高宗宣皇帝は名を頊である。以前西魏のために長安に抑留されていたが文帝のときに、西魏を亡ぼした北周が陳に送還してくれた。それで位に即いたのである。
北周の国主宇文邕は、太師の宇文護を誅殺し、始めて政治を自らの手で行った。
北斉の後主の高緯は佞臣、寵臣を多く近づけ、政治が乱れた。北周は北斉に攻め入って、都の鄴を陥れ、緯を捕えて連れ帰って殺し、一族を根絶やしにした。北斉は国を建ててから五世、三十年で亡んだ(577年)。ここに再び北朝は統一されたのである。
北齊主湛、傳位於太子緯、自稱太上皇帝。
陳主起自囏難、知民疾苦。性明察儉勤。在位八年殂。改元者二、曰天嘉、曰天康。太子立。是爲廢帝臨海王。
廢帝臨海王名伯宗。在位三年。改元者一、曰灮大。爲安成王頊所廢。
北齊上皇湛殂。諡曰武成皇帝
陳安成王自立。是爲高宗宣皇帝。
宣皇帝名頊。初陥入長安。文帝時、周人送頊還陳。至是即位。
周主邕誅宇文護、始親政。
北齊後主緯、多嬖寵、政亂。周伐齊入鄴、執緯、歸殺之、夷其族。北齊建國五世。三十年而亡。
北斉の主湛(たん)、位を太子緯(い)に伝え、自ら太上皇帝と称す。
陳主、囏難(かんなん)より起こって民の疾苦(しっく)を知る。性明察にして倹勤なり。在位八年にして殂(そ )す。改元すること二、天嘉といい、天康という。太子立つ。これを廃帝臨海王と為す。
廃帝臨海王、名は伯宗。在位三年改元すること一、灮大(こうだい)という。安成王頊(ぎょく)の廃する所と為る。
北斉の上皇湛殂す。諡して武成皇帝という。
陳の安成王自立す。是を高宗宣皇帝と為す。
宣皇帝、名は頊(ぎょく)。初め長安に陥入(かんにゅう)せらる。文帝の時、周人頊を送って陳に還す。是(ここ)に至って位に即く。
周主邕(よう)、宇文護を誅して、始めて政(まつりごと)を親(みずか)らす。
北斉の後主緯、嬖寵(へいちょう)多く、政乱る。周、斉を伐って鄴(ぎょう)に入り、緯を執(とら)え、帰って之を殺し、其の族を夷(たいら)ぐ。北斉、国を建つること五世、三十年にして亡びぬ。
囏難 艱難におなじ。 灮 光の古字。 陥入 没入に同じ、財は没収、身柄は移されること。 嬖寵 嬖は気に入り。
北斉の国主高湛が帝位を太子の緯に伝えて自らは太上皇帝と称した。
陳主の文帝蒨(せん)は艱難の間から身を起こしたので、人々の苦難をよく知っていた。そのうえ人となりも明敏でつつましやかで勤勉だった。在位八年で世を去った(566年)。改元すること二回、天嘉と天康という。太子が立った。これが廃帝臨海王である。
廃帝臨海王は名を伯宗という。位に在ること三年、年号を改めること一回で光大という。安成王頊によって廃位させられた(568年)。
この年、北斉では上皇の高湛が死んだ。おくり名して武成皇帝という。
陳の安成王が廃帝を追放したのち、自ら帝位に即いた。高宗宣皇帝である。
高宗宣皇帝は名を頊である。以前西魏のために長安に抑留されていたが文帝のときに、西魏を亡ぼした北周が陳に送還してくれた。それで位に即いたのである。
北周の国主宇文邕は、太師の宇文護を誅殺し、始めて政治を自らの手で行った。
北斉の後主の高緯は佞臣、寵臣を多く近づけ、政治が乱れた。北周は北斉に攻め入って、都の鄴を陥れ、緯を捕えて連れ帰って殺し、一族を根絶やしにした。北斉は国を建ててから五世、三十年で亡んだ(577年)。ここに再び北朝は統一されたのである。