漢文・漢文法基礎 > 十八史略 全文目次 > 隋~唐

十八史略 唐、神堯皇帝

2012-09-22 12:59:39 | 十八史略

唐高祖堯皇帝姓李氏、名淵。隴西成紀人也。西涼武昭王之後。祖虎仕西魏有功。封隴西公。父於周世封唐公。淵襲爵。隋煬帝以淵爲弘化留守。御衆寛簡。人多附之。煬帝以淵相表奇異、名應圖讖忌之。淵懼、縱酒納賂以自晦。天下盗起。以淵爲山西・河東撫慰大使。承制黜捗、討捕羣盗多捷。突厥寇邊。詔淵撃之。淵次子世民、聰明勇決、識量過人。見隋室方亂、陰有安天下之志。與晉陽宮監裴寂・晉陽令劉文靜相結。

唐の高祖、神堯皇帝(しんぎょうこうてい)、姓は李氏、名は淵。隴西(ろうせい)成紀の人なり。西涼の武昭王(こう)の後(のち)なり。祖の虎(こ)、西魏に仕えて功有り。隴西公(ろうせいこう)に封ぜらる。父の(へい)、周の世に於いて唐公に封ぜらる。淵、爵を襲(つ)ぐ。隋の煬帝、淵を以って弘化の留守(りゅうしゅ)と為す。衆を御すること寛簡(かんかん)なり。人多く之に附く。煬帝、淵の相表奇異にして名、図讖(としん)に応ずるを以って之を忌む。淵懼れ、酒を縦(ほしいまま)にし賂(まいない)を納(い)れて以って自ら晦(くら)ます。天下盗起こる。淵を以って山西・河東の撫慰大使と為す。制を承けて黜捗(ちゅっちょく)し、群盗を討捕(とうほ)して多く捷(か)つ。突厥、辺に寇(あだ)す。淵に詔(みことのり)して之を撃たしむ。淵の次子世民、聡明勇決にして、識量人に過ぐ。隋室の方(まさ)に乱るるを見て、陰(ひそか)に天下を安んずるの志有り。晋陽の宮監(きゅうかん) 裴寂(はいせき)・晋陽の令劉文静(りゅうぶんせい)と相結ぶ。

寛簡 ゆるやかで簡素。 相表 人相。 留守 天子が行幸や遠征に出た間、代って都を守る。 図讖 預言書、「深水、黄楊を歿す」とあった。深水は淵に付会し、楊は隋帝に付会する。 黜捗 黜は退ける、捗は登用すること。 宮監 離宮の監督。 

唐の高祖、神堯皇帝、姓は李氏、名は淵。隴西成紀の人である。西涼の武昭王李の後裔である。祖父の李虎は西魏に仕えて功績をあげ、隴西公に封じられ、父の李は北周のとき唐公に封じられた。李淵はその爵位を嗣いだ。
隋の煬帝が淵を弘化郡の留守の役にしたところ、部下の統率にあたって、寛大で細かいことを追求しなかったので、多くの人が附き慕った。煬帝は李淵の相が非凡であり、さらに名が預言書と符合していたので、忌み嫌った。淵は誅伐されることを恐れ、酒浸りになったり、賄賂を受け入れたりして凡庸をよそおった。
天下に群盗が蜂起した。煬帝は李淵を山西・河東の撫慰大使に任命した。李淵は慎重に官吏の任免にも煬帝の決裁をあおいだ。そして次々に群盗を討伐していった。その後突厥が辺境を侵略してきたときも李淵に討伐の詔勅が下った。
ところで淵の次男の世民は聡明で、勇気と決断に富み、識見と度量ともに人に優れていた。隋の皇室が乱れているのを見るにつけ、天下を泰平にしようとする志を強くした。そして晋陽の離宮監督官の裴寂と晋陽の長官の劉文静の二人と誼(よしみ)を通じた。
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十八史略 隋帝恭、唐王に禅(ゆず)る

2012-09-20 08:35:20 | 十八史略

恭皇帝名侑。煬帝之孫也。年十三爲李淵所立。改大業十三年爲義寧。淵爲大丞相、封唐王。煬帝在江都、淫虐日甚、酒巵不離口。見中原已、無心北歸。從駕多關中人、思歸遂謀叛、以許公宇文化及爲主、夜引兵入宮、縊殺煬帝。宗室無少長皆死。惟存秦王浩立之、而自爲大丞相、擁衆而西。
梁蕭銑稱帝於江陵。
隋帝侑、即位半年禪于唐。隋自高祖至是三世、凡三十七年而亡。

恭皇帝名は侑(ゆう)、煬帝の孫なり。年十三にして李淵の立つところとなる。大業十三年を改めて義寧(ぎねい)となす。淵、大丞相となり、唐王に封ぜらる。煬帝、江都に在って、淫虐日に甚だしく、酒巵(しゅし)口を離さず。中原の已に乱れたるを見て、北帰(ほっき)するに心無し、駕(が)に従うものは関中の人多く、帰を思うて遂に謀叛し、許公の宇文化及(うぶんかきゅう)を以って主となし、夜兵を引いて宮に入り、煬帝を縊殺(いさつ)す。宗室少長となく皆死せり。惟だ秦王浩を存して之を立て、自ら大丞相となり、衆を擁して西す。
梁の蕭銑、帝を江陵に称す。
隋帝侑、位に即いて半年にして唐に禅(ゆず)る。隋、高祖自(よ)りここに至るまで三世、凡(すべ)て三十七年にして亡ぶ。


恭皇帝は名を侑といい、煬帝の孫である。十三歳にして李淵に立てられた。大業十三年を改めて、義寧元年とした。李淵は大丞相となり、唐王に封ぜられた。煬帝は江都の離宮に留まって、淫虐は日に日にひどくなるばかりで、酒盃を口から離す間もなかった。中原が争乱の地と化したのを知っても、北の長安に帰る気は無くしていた。帝の車駕に従ってきた者は関中の人が多く、帰心を募らせた末にとうとう煬帝に背いた。許公の宇文化及が首謀して、夜兵を率いて宮中に入り、煬帝を縊(くび)り殺した。帝の一族は老若となく皆殺しにした。ただ秦王浩だけは殺さず帝とし、化及は大丞相となって西の関中へと向かった。
梁王を名乗っていた蕭銑は江陵で帝を称した。
隋の恭帝侑が、即位して半年で唐に禅譲した(618年)。隋は高祖文帝からここに至るまで三世、あわせて三十七年で滅亡した。
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十八史略 李淵、太原に兵を起す

2012-09-18 09:12:38 | 十八史略

鄱陽賊帥林士弘、稱楚帝、據江南。 杜伏威據歴陽。 竇建稱長樂王。
馬邑校尉劉武周、朔方郎將梁師都、各據郡起兵。 李蜜據興洛倉、略取河南諸郡、稱魏公。 突厥立劉武周、爲定陽可汗、取樓煩・定襄・雁門諸郡。
梁師都取雕陰・弘化・延安等郡、自稱梁帝。金城校尉薛擧、起兵隴西、自稱西秦覇王。 武威司馬李軌、起兵河西、自稱涼王。 薛擧自稱秦帝、徙據天水。
蕭銑起兵巴陵、自稱梁王。
唐公李淵、起兵太原、克諸郡、入長安。時隋大業十二年。帝在江都。淵遥尊爲太上皇、而立代王。是爲恭皇帝。

鄱陽(はよう)の賊帥(ぞくすい)林士弘、楚帝と称して江南に拠(よ)る。
杜伏威(とふくい)歴陽に拠る。
竇建(とうけんとく)長楽王と称す。
馬邑(ばゆう)の校尉劉武周、朔方(さくほう)の郎將梁師都、各々郡に拠って兵を起こす。
李蜜、興洛倉に拠って河南の諸郡を略取し、魏公と称す。
突厥(とっけつ)劉武周を立てて、定陽可汗(かかん)と為し、樓煩(ろうはん)・定襄(ていじょう)・雁門(がんもん)の諸郡を取る。
梁師都、雕陰(ちょういん)・弘化・延安等の郡を取り、自ら梁帝と称す。
金城の校尉薛擧(せつきょ)、兵を隴西(ろうせい)に起し、自ら西秦の覇王と称す。
武威の司馬李軌(りき)、兵を河西に起し、自ら涼王と称す。
薛擧自ら秦帝と称し、徙(うつ)って天水に拠る。
蕭銑起(しょうせんき)兵を巴陵に起し、自ら梁王と称す。
唐公李淵(りえん)、兵を太原に起す、諸郡に克って、長安に入る。時に隋の大業十二年なり。帝は江都に在り。淵遥かに尊んで太上皇と為し、代王を立つ。是を恭皇帝と為す。


鄱陽の盗賊の頭目の林士弘が、楚帝と称して江南に拠を置いた。杜伏威は歴陽に拠った。先に反乱を起した竇建は長楽王と称した。
馬邑の校尉劉武周と、朔方の郎將梁師都は各々郡に拠って兵を起こした。
李蜜は、興洛倉を根城に河南の諸郡を攻略して、魏公と称した。
突厥が馬邑の劉武周を立て、定陽可汗とし、樓煩・定襄・雁門の諸郡を取った。
梁師都は、雕陰・弘化・延安等の郡を取り、自ら梁帝と称した。
金城の校尉薛擧、隴西に挙兵し、自ら西秦の覇王と称した。
武威の司馬李軌、兵を河西に起し、自ら涼王と称した。
薛擧自ら秦帝と称し、本拠を天水に徙した。
蕭銑起兵を巴陵に起し、自ら梁王と称す。
唐公の李淵が、太原で挙兵し、次つぎと各地を攻め、すべてに勝ってついに長安に入った。時に隋の大業十二年(616年)である。この時煬帝は遠く江都に逃れており、李淵はここぞとばかり煬帝を太上皇に祭り上げて、代りの王を立てた。是が恭皇帝である。
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十八史略 楊氏衰退李氏興隆

2012-09-15 08:32:50 | 十八史略

蒲山公李密兵起。蜜少有才略。志氣雄遠、輕財好士。嘗乘黄牛、以漢書掛牛角讀之。楚公楊素遇而奇之。由是與素子玄感游。初從玄感起兵、玄感敗、蜜變姓名亡匿。時人皆云、楊氏將滅。李氏將興。又有民謡。歌曰、桃李子、皇后走楊州、宛轉花園裏。勿浪語、誰道許。謂桃李子者、逃亡李氏子也。莫浪語、誰道許者、蜜也。蜜遂與群盗翟譲等起、攻滎陽下之、建牙統所部西行、説下諸城大獲。

蒲山公(ほざんこう)李密の兵起る。蜜少(わかき)より才略有り。志気雄遠、財を軽んじ士を好む。嘗て黄牛(こうぎゅう)に乗じ、漢書を以って牛の角に掛けて之を読む。楚公楊素、遇(あ)うて之を奇とす。是に由って素の子玄感と遊ぶ。初め玄感に従って兵を起ししが、玄感敗れしかば、蜜、姓名を変じて亡(に)げ匿(かく)る。時の人皆云う、「楊氏将(まさ)に滅びんとす。李氏将に興らんとす」と。又民謡有り。歌って曰く「桃李子あり、皇后楊州に走り、花園の裏(うち)に宛転(えんてん)す。浪(みだり)に語る勿れ、誰か許(か)く道(い)う」と。桃李子ありと謂うは、逃亡の李氏が子なり。浪りに語る莫(な)かれ、誰か許く道うとは蜜にするなり。密遂に群盗翟譲(てきじょう)等と起って滎陽(けいよう)を攻めて之を下し、牙(が)を建て所部を統(す)べて西行(せいこう)し、説いて諸城を下し大いに獲(え)たり。

黄牛 毛色の黄褐色の農耕牛。 皇后 皇帝と后と。 宛転 ゆるやかにめぐるさま。 牙 大将軍旗。 

蒲山公李密が謀叛の兵を挙げた。李蜜は若いころから才智機略に富み、気宇壮大で、金銭を軽んじ、士と交わることを好んだ。ある時黄牛に跨り角に漢書を引っかけて読んでいた。楚公の楊素にたまたま出会って、人物を見込まれ、楊素の子玄感と交遊が始まった。玄感が挙兵したときに従ったが、玄感が敗れたので、李密は姓名を変えて逃げ隠れた。時に人々がこう噂した。
「楊氏はこれで終わりだろう。李氏が興るに違いない」と。
またこんな歌がはやった。「桃李の子よ、皇后(きみ)は楊州へ行ったまま、花園を逍遥して戻ろうとしない。しっ、めったなことを言うもんじゃないよ、誰だいそんなこと言うのは」と。桃李の子とは桃は逃に通じ、李子は李氏の子である、つまり李密は逃げたままなのに、皇帝は遊び呆けて、という暗喩であった。やがて李密は盗賊の翟譲等と再起の兵を挙げ、滎陽を攻め下し、大将軍の旗を立てて、配下を統括して西に向かい、説いて諸城を降して、軍資金と糧食を獲た。
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十八史略 楊玄感叛す

2012-09-13 09:12:07 | 十八史略

帝所徴四方兵、皆集涿郡。一百一十三萬。餽運者倍之。首尾亙千餘里。帝至遼東、攻城不克、諸軍大敗而還。明年再徴兵、自將撃之。
楚公楊玄感、見朝政日紊、潛謀作亂。至是督運黎陽遂反。帝引軍還、遣將撃之。玄感自洛陽引兵趨潼關、兵敗走死。帝又如涿郡、伐高麗。高麗遣使請降。帝還長安。已而如洛陽、如汾陽、如江都、巡遊仍無虡歳。

帝徴(め)す所の四方の兵、皆涿郡(たくぐん)に集まる。百十三万なり。餽運(きうん)する者之に倍す。首尾千余里に亙(わた)る。帝、遼東に至り、城を攻めて克たず、諸軍大いに敗れて還る。明年再び兵を徴し、自ら将として之を撃つ。
楚公楊玄感(ようげんかん)朝政の日に紊(みだ)るるを見て、潜(ひそか)に乱を作(な)さんことを謀る。是(ここ)に至って黎陽(れいよう)に督運(とくうん)して遂に反す。帝、軍を引いて還り、将を遣わして之を撃たしむ。玄感、洛陽より兵を引いて潼関(どうかん)に趨(はし)り、兵敗れて走り死す。帝又涿郡に如(ゆ)き、高麗を伐つ。高麗使いを遣わして降を請う。帝、長安に還る。已にして洛陽に如き、汾陽(ふんよう)に如き、江都に如き、巡遊仍(な)お虚歳(きょさい)無し。

餽運 糧食輸送。 首尾 先頭から最後尾まで。 督運 輸送の監督。 

帝が徴発した四方の兵がすべて涿郡に集まった。その数百十三万人に及んだ。兵糧運搬はその倍もあり、先頭から最後尾まで千里以上にも達した。帝は遼東に至り、城を攻めたが勝てなかった。多くの部隊が痛手を受けて撤退した。煬帝は明年再び兵を徴発して、自ら率いて高句麗を攻めた。
楚公の楊玄感は朝廷の政治が日々に乱れるのをみて、密かに謀叛の心を抱いた。たまたま黎陽県で食糧運搬の監督にあたることになったのを機会に、遂に叛いた。煬帝は軍を引いて帰り、将を遣わしてこれを撃たせた。玄感は洛陽から撤退して潼関まで逃げたが、軍勢が敗れ逃れて死んだ。帝は再び涿郡に行き、高句麗を伐った。高句麗は使者を遣わして降服を請い帝は長安に還った。
しばらくすると帝は洛陽に、汾陽に、また江都にと巡遊に明け暮れ、何も無い年はなかった。

 

 

 

 

十八史略 天下騒動す

2012-09-11 09:05:12 | 十八史略

徴高麗王入朝。不至。大業七年、帝自將撃高麗、徴天下兵會涿郡。勅河南・淮南・江南、造戎車五萬乘。供載衣甲等、發河南・河北民夫供軍須。江淮以南民夫船運黎陽及洛口諸倉米。舳艫千里、往還常數十萬人。晝夜不絶。死者相枕。天下騒動、百姓窮困、始相聚爲盗。
漳南竇建兵起。

高麗王を徴(め)して入朝せしむ。至らず。大業七年、帝自ら将として高麗を撃ち、天下の兵を徴して涿郡に会せしむ。河南・淮南・江南に勅(ちょく)して、戎車五万乗を造らしめて、衣甲等を供載(きょうさい)し、河南・河北の民夫を発して軍須(ぐんしゅ)に供す。江淮以南の民夫は、船をもて黎陽及び洛口諸倉の米を運ばしむ。舳艫(じくろ)千里、往還するもの常に数十万人。昼夜絶えず。死する者相(あい)枕す。天下騒動し、百姓(ひゃくせい)窮困し、始めて相聚(あつ)まって盗をなす。
漳南(しょうなん)の竇建(とうけんとく)の兵起る。


煬帝は高麗王に朝貢を求めたが、応じなかった。そこで大業七年(611年)、帝自ら軍を率いて高句麗を伐つこととし、天下の兵を徴発して涿郡に集結させた。河南・淮南・江南に勅令を下し兵車五万輌を造らせて、軍衣や甲冑を運搬する用に供し、河南・河北の民を徴して雑務にあたらせ、揚子江、淮河以南の民には船で黎陽倉及び洛口倉の米を運ばせた。船隊は舳先と艫とが接して千里にも及び、往き来する船を曳くもの常に数十万人、それが昼夜にわたったので、力尽きて斃れ、死屍累々目を覆うばかりであった。ここに天下の安寧は失われ、民は生きてゆけぬほどに追い詰められて、徒党を組んで盗賊となる者まであらわれた。
漳南の竇建徳がまず反乱を起こした。
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十八史略 営造巡遊、虚歳無し

2012-09-08 08:23:33 | 十八史略
鷹師、散楽を徴す
置洛口倉於鞏東南原上。城周二十餘里。穿三千窖。置興洛倉於洛陽北。城周十里。穿三百窖。窖皆容八千石。帝或如洛陽、或如江都、或北巡至楡林・金河、或如五原、巡長城、或巡河右。營造巡遊無虚歳。徴天下鷹師。至者萬餘人。徴天下散樂。諸蕃來朝、陳百戲於端門。執絲竹者萬八千人。終月而罷。費巨萬。歳以爲常。

洛口倉を鞏(きょう)の東南の原上に置く。城の周二十余里。三千窖(こう)を穿(うが)つ。興洛倉を洛陽の北に置く。城の周十里。三百窖を穿つ。窖皆八千石を容(い)る。帝或いは洛陽に如(ゆ)き、或いは江都に如き、或いは北巡して楡林(ゆりん)・金河に至り、或いは五原に如き、長城を巡り、或いは河右(かゆう)を巡る。営造巡遊、虚歳(きょさい)無し。天下の鷹師(ようし)を徴(ちょう)す。至る者万余人。天下の散楽(さんがく)を徴す。諸蕃(しょはん)来朝すれば、百戲(ひゃくぎ)を端門(たんもん)に陳(ちん)す。糸竹を執(と)る者万八千人。月を終(お)えて罷む。費巨万。歳々以って常となす。

鞏 今の河南省内の県。 窖 穴倉。 楡林・金河 ともに陜西省。 五原 山西省内。 河右 黄河北部。 虚歳 何もしない年。 散楽 民間の舞楽、わが国に入って猿楽や田楽になった。 端門 正門。 糸竹 楽器。

煬帝は洛口倉という穀倉を鞏県の東南に設けた。周囲二十里余りの城郭を築いて、その中に三千の穴倉を掘った。また興洛倉を洛陽の北に設けた。これは周囲十里で穴倉は三百、いずれも一つの穴に八千石の穀物を容れることができた。煬帝は或いは洛陽に、或いは江都に、また北方を巡って楡林・金河に、或いは五原に足をのばし、黄河の北岸に沿って巡り、ただの一年も造営か巡幸の無い年はなかった。また狩猟や遊芸を好み、国中から鷹匠を徴発したところ一万余人に及んだ。また散楽をよくする者を徴して、来朝する蕃夷を宮城の正門前で迎えたが、楽人だけで一万八千人に及び、一ヶ月にわたって続けられた。その費用は幾万とも知れず。毎年繰り返された。
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十八史略 月夜、西苑に夜遊の曲を奏す

2012-09-06 09:27:37 | 十八史略
西苑周二百里。其内爲海。周十餘里。爲蓬莱・方丈・瀛州諸山。高百餘尺。臺觀宮殿、羅絡山上。海北有渠。縈紆注海。縁渠作十六院。門皆臨渠、窮極華麗。宮樹凋落、翦綵爲花葉綴之。沼内亦翦綵爲荷芰菱芡、色渝則易新者。好以月夜、從宮女數千騎、遊西苑、作夜遊曲、馬上奏之。
後又開永濟渠、引沁水、南達于河、北通涿郡。又營汾陽宮。又穿江南河、自京口至餘杭八百里。

西苑は周二百里。その内に海をつくる。周十余里。蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅ
う)の諸山を為(つく)る。高さ百余尺。台観宮殿、山上に羅絡(ららく)せり。海の
北に渠(きょ)有り。縈紆(えいう)して海に注ぐ。渠に縁(よ)って十六院を作る。門皆渠に臨み、華麗を窮極せり。宮樹凋落(ちょうらく)すれば翦綵(せんさい)して花葉を為(つく)り之を綴る。沼内(しょうない)にも亦翦綵して荷芰菱芡(かきりょうけん)を為り、色渝(かわ)れば則ち新しき者に易(か)う。好んで月夜を以って宮女数千騎を従えて、西苑に遊び、清夜遊(せいやゆう)の曲を作って、馬上に之を奏せしめたり。
後に又、永済渠を開き、沁水(しんすい)を引き、南のかた河に達し、北のかた涿郡(たくぐん)に通ず。又汾陽宮(ふんようきゅう)を営む。又江南河(こうなんか)を穿(うが)ち、京口(けいこう)より余杭(よこう)に至ること八百里なり。


蓬莱・方丈・瀛州 神仙の棲むという東方海上の島に象った山。 台観 物見台。 羅絡 並び連ねること。 縈紆 くねくねと曲がること。 翦綵 綵はあやぎぬ。 荷芰菱芡 はす、ひし、みずぶき、すべて水草の名。 清夜遊 魏の曹植の詩に曲をつけたもの。 涿郡 今の河北省にある郡。 京口 江蘇省の鎮江。 余杭 浙江省の県名。

西苑は周囲二百里もあり、その中に海まで造った。周囲が十余里、中に蓬莱・方丈・瀛州という三つの神山になぞらえて高さ百尺余りの山を築き、山上には楼台や宮殿が軒を連ねた。その北側に水路を掘り、うねうねと海に至り、水路に沿って十六の宮殿を造営した。その門はすべて水路に向かって開かれ華麗を極めていた。冬になって木々がしぼみ、落葉するとあやぎぬで花や葉を作って飾り付けた。池の内でも、蓮や菱をつくり、色が褪せると新しいものに取り替えた。月の夜には宮女数千騎を引き連れて西苑に遊び、清夜遊の曲を演奏させて楽しんだ。その後、永済渠を開削した。沁水を引いて、南は黄河に達し、北は涿郡まで通じた。又汾陽宮を造営し、江南河を穿(うが)って、京口から余杭までに至るまで、八百里に及んだ。
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十八史略 煬帝

2012-09-04 08:46:28 | 十八史略
煬帝大運河網を開削す
煬皇帝名廣。開皇末、立爲太子。是日天下地震。即位首營洛陽顯仁宮、發江嶺奇材異石。又求海内嘉木異草、珍禽奇獸、以實苑囿。又開通濟渠、自長安西苑、引穀洛水、達于河、引河入汴、引汴入泗、以達于淮。又發民開邗溝入江、旁築御道、樹以柳。自長安至江都、置離宮四十餘所。遣人往江南、造龍舟及雜船數萬艘、以備遊幸之用。

煬皇帝名は広。開皇の末、立って太子となる。是(こ)の日天下地震す。位に即くや首として洛陽の顕仁宮(けんじんきゅう)を営み、江嶺の奇材異石を発す。又海内の嘉木異草、珍禽奇獣を求めて、以って苑囿(えんゆう)に実(み)つ。又通済渠(つうさいきょ)を開き、長安の西苑より、穀洛(こくらく)の水を引いて、河(か)に達し、河を引いて汴(べん)に入れ、汴を引いて泗(し)に入れ、以って淮(わい)に達せしむ。又民を発して邗溝(かんこう)を開いて江に入れ、旁(かたわら)に御道を築き、植うるに柳を以ってす。長安より江都に至るまで、離宮を置くこと四十余所。人を遣り江南に往いて、龍舟及び、雑船数万艘を造らしめ、以って。遊幸の用に備う。

江嶺 揚子江と五嶺。 苑囿 草木を植え、禽獣を飼う苑。 通済渠 運河の名。 穀洛 穀水、洛水。 邗溝 運河の名。 御道 行幸のための道路。 龍舟 天子の御座船。

煬皇帝、名は広という。開皇の末に皇太子になった。その日、大地震に見舞われた。位に即くとすぐ洛陽に顕仁宮を造営した。揚子江から五嶺にかけて珍しい木材や石材を徴発し、各地の銘木、貴草を集め、珍らしい鳥や獣を求めて御苑を満たした。また通済渠を開鑿して長安の西苑から穀水、洛水の水を引いて黄河に通じ、黄河から汴水に、汴水から泗水を経て淮水に通じる大運河を通した。さらに人びとを徴用して邗溝を開き、淮水と揚子江を繋げ、運河沿いに行幸道を設け柳を植えさせた。長安から江都に至るまで四十に余る離宮を造営した。江南に人を遣って壮麗な御座船やさまざまな船数万艘を造らせて行幸や遊覧のために備えさせた。
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十八史略 

2012-09-01 08:57:49 | 十八史略
文帝、太子広の弑するところとなる
帝所寵陳夫人出更衣、爲太子所逼、拒之得免。帝怪其色有異、問故。夫人泫然曰、太子無禮。帝恚抵床曰、畜生、何足付大事。獨孤誤我。將召故太子勇。廣聞之、令右庶子張衡入侍疾、因弑帝、遣人縊殺勇。帝性嚴重、勤於政事。令行禁止。雖嗇於財、賞功不吝。愛養百姓、勸課農桑、輕徭薄賦、自奉儉薄。天下化之。受禪之初、民戸不満四百萬、未年踰八百萬。然自以詐力得天下、猜忌苛察、信受讒言、功臣故舊、無終始保全者。在位二十四年。改元者二、曰開皇・仁壽。太子立。是爲煬皇帝。

帝の寵する所の陳婦人出でて更衣し、太子の逼(せま)る所となり、之を拒んで免(のが)るるを得たり。帝其の神色の異有ることを怪しみ、故(ゆえ)を問う。夫人泫然(げんぜん)として曰く、「太子無礼なり」と。帝恚(いか)って床を抵(たた)いて曰く、「畜生、何ぞ大事を付すに足らん。独孤我を誤る」と。将に故(もと)の太子勇を召さんとす。弘、之を聞き、右庶子(ゆうしょし)の張衡をして入って疾(やまい)に侍(じ)せしめ、因(よ)って帝を弑す。人を遣(や)って勇を縊(くびり)殺さしむ。帝、性厳重にして政事に勤む。令すれば行われ、禁ずれば止む。財に嗇(しょく)なりと雖も、功を賞するに吝(やぶさ)かならず。百姓を愛養し、農桑を勧課(かんか)し、徭(よう)を軽くし、賦を薄くす。自ら奉ずること倹薄(けんはく)なり。天下之に化す。受禅の初め、民戸四百萬に満たざりしが、末年には八百萬を踰(こ)えたり。然れども自ら詐力をもって天下を得たれば、猜忌苛察(さいきかさつ)にして、讒言を信受し、功臣故旧、終始保全する者無し。在位二十四年、改元すること二、開皇・仁寿という。太子立つ。是を煬皇帝と為す。

神色 顔色。 泫然 涙を流して泣くさま。 畜生 人に畜(やしな)われて生きているもの、転じて人でなし。 右庶子 東宮附きの官名。 勧課 勧奨と課役。 徭 夫役。 賦 租税。 倹薄 つづましいこと。 猜忌 疑い嫌うこと。 苛察 厳しく詮索すること。

文帝の寵愛した陳夫人が、帝前を出て着替えをしている時、太子が挑みかかった。からくも逃れたが、文帝がその顔色が尋常でないのを訝って問い詰めると、眼から涙をあふれさせ、「太子が無礼な振る舞いに及びました」とうったえた。文帝は床をこぶしで叩いて「畜生めこんな奴に天下を渡そうとしたのか。わしは独孤のために大事を誤ったわ」と激怒した。もとの勇を太子に戻そうとしたが、広がこれを聞くと、右庶子の張衡を病床に就かせ、隙をみて帝を弑殺し、さらに人を遣って勇を絞め殺してしまった。文帝は厳格で重々しく政治に勤めたので、令を出せばすぐに行われ、禁止すればすぐ止んだ。けちではあったが、功績を賞するときは金銭を惜しまなかった。人々を慈しみ養い、農業養蚕を奨励して、労役を軽くし、租税を少なくして自身の用度は切り詰めたので天下皆帝の徳に倣った。文帝が周から位を承けたときは戸数四百万に満たなかったが、治世の末年には八百万をこえた。しかし自ら謀略によって天下を得ただけに猜疑心が強く、厳しく追求することが多いため、功臣や旧知で身を全うした者が居なかった。在位二十四年、改元すること二、開皇、仁寿という。太子が即位した。これが煬皇帝である。

昨日八月三十一日は二百十日、旧暦では七月十四日で満月でした。電灯を消し、窓を開け放って月光をたのしみました。十四日の満月は始めて知りました。一ヶ月に二度満月があることも三年に一度ぐらいだそうです。

十八史略 太子楊勇を廃す

2012-08-30 08:42:13 | 十八史略
王通十二策を献ず
開皇二十年、廢太子勇爲庶人。初帝使勇參政事。時有損。勇性寛厚。率意無矯飾。帝性節儉。勇服用侈。恩寵始衰。勇多内寵、妃無寵死。而多庶子。獨孤皇后深惡之。晉王廣彌自矯飾、爲奪嫡計。后贊帝廢勇、而立廣太子。
龍門王通、詣闕獻太平十二策。帝不能用。罷、教授於河汾之。弟子自遠至者甚衆。
仁壽四年、帝不豫、召太子入居殿中。太子預擬帝不諱後事、爲書問僕射楊素得報。宮人誤送帝所。帝覧之大恚。

開皇二十年、太子勇を廃して庶人と為す。初め帝、勇をして政事を参決せしむ。時に損益あり。勇の性は寛厚なり。率意(そつい)にして矯飾(きょうしょく)無し。帝の性は節倹(せつけん)なり。勇、服用侈(おご)る。恩寵始めて衰う。勇、内寵多く、妃、寵無くして死す。而して庶子多し。独孤皇后(どっここうごう)深く之を悪(にく)む。晋王広、弥(いよいよ)自ら矯飾して、嫡(ちゃく)を奪うの計をなす。后、帝を賛(たす)けて勇を廃せしめ、而して広を立てて太子と為す。
龍門の王通、闕(けつ)に詣(いた)って太平の十二策を献ず。帝用いること能わず。罷(や)めて帰り、河汾(かふん)の間に教授す。弟子(ていし)遠きより至る者甚だ衆(おお)し。
仁壽四年、帝不豫なり。太子を召し、入って殿中に居らしむ。太子預(あらかじ)め帝の不諱(ふき)の後の事を擬(ぎ)し、書を為(つく)って僕射(ぼくや)の楊素に問いて報を得たり。宮人誤って帝の所に送る。帝之を覧(み)て大いに恚(いか)る。


損益 令を削ることと益すこと。他に成功と失敗と。 矯飾 いつわり飾ること。 服用 服装や調度。 内寵 寵姫、愛妾。 独孤皇后 勇の実母。 不諱 死。 闕 宮殿。 河汾 黄河・汾水。 不豫 豫は悦の意、天子の病気。 僕射 宰相。

開皇二十年に、太子の楊勇を廃して庶人に落とした。初め帝は勇に政治に参画、決定させていたが、上手く処理することも、失敗することもあった。勇の性質は心が寛く温厚で率直で飾り気がなかった。ところが文帝がつましく贅沢を嫌ったのに対し、勇は服装にしても調度にいても派手好みであった。それで恩寵に多少の隙間ができた。さらに勇は寵姫を多く抱え、正妃には見向きもしない日が続き、とうとう元妃は悶死して、妾腹の子が多く居た。母の独孤皇后はこれをたいそう憎んだ。晋王の楊広は、うわべをとり繕い、兄に取って代ろうと画策した。独孤皇后はついに文帝に勧めて、勇を廃して広を皇太子に立てた。
龍門の王通が、宮中に参内して、天下太平の十二策を献上したが、文帝は採用することが無かった。王通は仕官を罷めて故郷に帰り、黄河と汾水の間で若者を教育した。遠近から多くの弟子が慕い集まった。
仁寿四年、文帝は病の床に臥し、皇太子の広を宮中に詰めさせた。太子は文帝死後の対策を施すべく、文書をもって僕射の楊素に意見を求めた。楊素からの返信を宮人が誤って文帝のもとに届けたため。帝はひどく腹を立てた。

 
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十八史略 隋の文皇帝

2012-08-28 09:09:12 | 十八史略
隋高祖文皇帝、姓楊氏。名堅。弘農人也。相傳爲東漢太尉震之後。父忠仕魏及周、以功封隋公。堅襲爵。堅生而有異。宅旁有尼寺。一尼抱歸自鞠之。一日尼出。付其母自抱。角出鱗起。母大驚堕之地。尼心動。亟還見之曰、驚我兒、致令晩得天下。及長相表奇異。周人嘗告武帝、晋六茹堅有反相。堅聞之深自晦匿。女爲周宣帝后。周靜帝立。堅以太后父秉政、遂移周祚。即位九年、平陳天下爲一。

隋の高祖文皇帝、姓は楊氏、名は堅。弘農の人なり。相伝う、東漢の太尉震の後(のち)たりと。父の忠、魏及び周に仕えて、功を以って隋公に封ぜらる。堅、爵を襲(つ)ぐ。堅、生まれて異有り。宅の旁(かたわら)に尼寺(にじ)有り。一尼抱き帰って自ら之を鞠(やしな)う。一日尼出ず。其の母に付して自ら抱かしむ。角出で鱗起こる。母大いに驚いて之を地に墜(おと)す。尼(に)心動く。亟(すみやか)に還って之を見て曰く、「我が児を驚かして、晩(おそ)く天下を得しむるを致せり」と。長ずるに及んで相表(そうひょう)奇異なり。周人(しゅうひと)嘗て武帝に告ぐ、「晋六茹堅(ふりくじょけん)、反相有り」と。堅之を聞いて深く自ら晦匿(かいとく)す。女(じょ)、周の宣帝の后となる。周の静帝立つ。堅、太后の父というを以って、政を秉(と)り、遂に周の祚(そ)を移せり。位に即いて九年、陳を平らげて天下一(いつ)となる。

太尉震 後漢安帝のとき宦官と対立した楊震、「天知る、地知る、子(なんじ)知る、我知る」で有名。2011.8.9既出。 鞠 育に同じ。 相表 人相。 晋六茹 楊堅の父忠が西魏の恭帝から賜った鮮卑の姓。 晦匿 才能を隠すこと。 
祚 天子の位。


隋の高祖文皇帝は、姓は楊氏、名は堅。弘農(河南省)の人である。後漢の太尉震の後裔とつたえられる。父の楊忠が、北魏及び北周に仕えて、功績によって隋公に封ぜら、堅はその爵位を継いだ。楊堅は生誕にあたって怪異なことがあった。屋敷の傍らにあった尼寺の一人が連れ帰って養育した。ある日その尼僧が外出する際、生みの母に預けて行った。抱いていると角が生え、鱗が生じた。驚いた母はその子を地面に落としてしまった。胸騒ぎがした尼僧が急ぎ帰ってこれを目のあたりにすると、母にむかって「あなたは自分の子を驚かして、天下を取る時期を遅らせてしまったのですよ」と言った。成長するにつれ人相が凡人と違ってきた。あるひとが「晋六茹堅に謀叛の相が表れております」と武帝に告げた。それを伝え聞いた堅は自分の才智を隠した。
やがて娘が宣帝の皇后となり、ついで静帝が即位すると皇太后の父ということで政治の実権を握り、ついには天子の位をも自分のものにした。即位して九年、陳を平定して天下を一つにまとめた。
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十八史略 郭璞の予言

2012-08-23 09:06:54 | 十八史略

宦官近習、内外連結、宗戚縦横、貨賂公行。孔範與貴嬪、結爲兄弟。範自謂、文武才能、擧朝莫及。將帥微有過失、即奪兵權。由是文武解體、以至覆滅。
後梁主巋殂。太子立。隋主廢而滅之。自詧稱帝於江陵、臣於西魏・周・隋。所統數郡而已。凡三十三年而亡。
隋以晉王廣爲元帥、帥師伐陳。揚素・韓擒虎・賀若弼、分道而出。高熲爲元帥長史。問薛道衡、江東可克乎。對曰、克之。郭璞言、江東分王三百年、與中國合。此數將周。

宦官近習、内外連結し、宗戚縦横し、貨賂(かろ)公行。孔範、貴嬪(きひん)と結んで兄弟となる。範自ら謂(おも)えらく、文武の才能、挙朝及ぶ莫(な)し、と。将帥微(すこ)しく過失有れば、即ち兵権を奪う。是に由って、文武解体し、以って覆滅(ふくめつ)するに至れり。
後梁の主巋(き)殂(そ)す。太子(そう)立つ。隋主廃して之を滅ぼす。詧(さつ)が帝を江陵に称せしより、西魏・周・隋に臣たり。統(す)ぶる所数郡のみ。凡て三十三年にして亡びぬ。
隋、晋王広を以って元帥と為し、師を帥(ひき)いて陳を伐たしむ。揚素・韓擒虎(かんきんこ)・賀若弼(がじゃくひつ)、道を分って出ず。高熲(こうけい)、元帥の長史たり。薛道衡(せつどうこう)に問う、「江東克(か)つべきか」と。対えて曰く、「之に克たん。郭璞(かくはく)の言に、江東分れて王たること三百年にして、中国と合(がっ)せんと。此の数将(まさ)に周(あまね)からんとす}と。


宗戚 一族と外戚と。 縦横 勝手に振る舞うこと。 貨賂 賄賂。 兄弟 義兄妹。 挙朝 朝廷を挙げて。 文武解体 文官・武官がばらばらになる。 覆滅 転覆滅亡。 長史 副官。 郭璞 西晋の人、2月23日既出  周 満たすこと。

宦官と近習とが、内と外とで気脈を通じ、帝の宗族も外戚も勝手気ままにふるまい、賄賂が公然とやりとりされた。孔範は孔貴嬪と義兄妹の契りを結び、「朝廷の何処にも文武の才能で自分に及ぶ者はなかろう」と思い込んだ。そして将軍たちに少しでも落度があるとたちどころに兵馬の権を取り上げてしまった。そのため文官、武官とも君主から離れて陳は滅亡の一途を辿っていった。
後梁の主、蕭巋が死んだ(585年)。太子のが立ったが、翌々年隋の楊堅によって廃せられ、国が滅亡した。後梁は蕭詧が江陵で帝を称してから、西魏、北周、隋に臣下の礼をとり、統治したのも数郡にすぎないまま三十三年で滅んだ。
隋は晋王広(後の煬帝)を元帥とし、兵を率いて陳を伐たせた。揚素・韓擒虎・賀若弼の三人が分かれて軍を進めた。元帥の副官の高熲が薛道衡に「江東の陳に勝てるだろうか」とたずねると、薛が答えて「勝てるでしょう、郭璞の予言によると、江東に分かれて立てた王朝は三百年経つと中国として一つになる、とある。ちょうどこの年数になろうとしています」と言った。
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十八史略 玉樹後庭花

2012-08-21 10:02:16 | 十八史略
長城公煬公名叔寶。自爲太子、與事江、爲長夜之飮。即位未幾。起臨春・結綺・望仙閣。各高數十丈、連延數十、皆以沈檀爲之、金玉珠翠爲之飾、珠簾寶帳、服玩瑰麗、近古未有。其下積石爲山、引水爲池、雜植花卉。陳主居臨春閣、貴妃張麗華居結綺、龔・孔二貴嬪居望仙、複道往來。江爲宰輔、不親政事。日與孔範等文士、侍宴後庭。謂之狎客。使諸貴嬪與客唱和。其曲有玉樹後庭花等。君臣酣歌、自夕達旦。

後主長城公煬公、名は叔寶(しゅくほう)。太子たりしより、事(せんじ)江(こうそう)と長夜の飲を為す。位に即いて未だ幾ばくならずして、臨春・結綺(けっき)・望仙閣を起す。各々高さ数十丈、連延数十間、皆沈檀(ちんだん)を以って之を爲(つく)り、金玉珠翠(きんぎょくしゅすい)を以って之が飾となし、珠簾寶帳(しゅれんほうちょう)、服玩瑰麗(ふくがんかいれい)、近古(きんこ)未だ有らず。其の下、石を積んで山と為し、水を引いて池と為し、花卉(かき)を雑(まじ)え植う。陳主は臨春閣に居り、貴妃張麗華は結綺に居り、龔(きょう)・孔の二貴嬪は望仙に居り、複道より往来す。江、宰輔(さいほ)となり、政事を親(みず)からせず。日々に孔範等の文士と後庭に侍宴(じえん)す。之を狎客(おうかく)と謂う。諸々の貴嬪をして、客と唱和せしむ。其の曲に玉樹後庭花等有り。君臣酣歌(かんか)して、夕より旦(あした)に達す。

事 皇后・皇太子の家事をつかさどる官。 沈檀 沈水の香木と栴檀の香木。 服玩 服と身の廻り品。 瑰麗 きわめて美しいこと。 複道 上下二層の渡り廊下。 宰輔 宰相。 後庭 後宮。 狎客 なれなれしい客。 酣歌 酔いかつ歌う。

後主長城公煬公は、名を叔寶という。太子であった時から事の江と、夜を徹しての酒宴に耽った。位に即いて間もなく臨春閣・結綺閣・望仙閣を造営した。いずれも高さ数十丈、長さ数十間におよび、皆、沈香や栴檀の香木で造り黄金や玉、真珠や翡翠で飾り、珠玉で綴られた簾やとばりをかかげ、衣服や身の周りの品もこの上なく美しいものばかりで古今類を見ない華麗さであった。高殿の下は石を積んで築山とし、水をひいて池をつくり、さまざまな草花を植えた。後主自身は臨春閣に住み、貴妃の張麗華は結綺閣に、貴嬪の龔氏・孔氏は望仙閣に住まわせ二層の回廊で往き来した。江は宰相になりながら政治には見向きもせず、毎日孔範等の文人と後宮の酒宴にはべり、世の人に太鼓持ち仲間と揶揄されていた。後主は貴嬪たちに客達と詩歌を唱和させたが、その中に後主自らつくった詩「玉樹後庭花」などがあった。君と臣、飲んでは歌い、歌っては酔って夕べから朝にまで及んだ。

<参考>
玉樹後庭花        陳叔宝
麗宇芳林高閣に対し       新粧の艶質本より城を傾く
戸に映じ嬌を凝らして乍ち進まず 帷を出で態(こび)を含み笑いて相い迎う
妖姫臉(かお)は花の露を含むに似て 玉樹流光後庭を照らす

唐の詩人杜牧は250年ほど後、このように詠じている。

秦淮に泊す                杜牧
煙は寒水を籠め月は沙を籠む   夜秦淮に泊して酒家に近し
商女は知らず亡国の恨み     江を隔てて猶唱う後庭花
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十八史略 隋王楊堅、北周を亡ぼす

2012-08-18 09:00:40 | 十八史略

周主邕、深沈有遠識。政事嚴明。稱爲賢主。滅齊一年而殂。壽三十六。諡曰武皇帝。太子贇立、立皇后楊氏。后父隋公楊堅用事、爲上柱國大司馬。贇自爲太子時、好昵近小人。立未一年、傳位於子闡、自稱天元皇帝。驕侈彌甚。未一年而殂。諡曰宣皇帝。楊堅自爲大丞相、進相國隋王、加九錫。未幾、周主闡禪位于隋、尋被弑。隋主盡滅宇文氏之族。周自稱帝、至是五世、二十五年而亡。
陳主在位十四年。改元者一、曰大建。殂。太子立。是爲後主長城公煬公。

周主邕(よう)、深沈(しんちん)にして遠識有り。政事厳明なり。称して賢主と為す。斉を滅ぼして一年にして殂(そ)す。寿三十六。諡(おくりな)して武皇帝と曰う。太子贇(いん)立ち、皇后楊氏を立つ。后の父隋公楊堅、事を用い、上柱国大司馬と為る。贇、太子たりし時より、好んで小人を昵近(じっきん)す。立って未だ一年ならずして、位を子闡(せん)に伝え、自ら天元皇帝と称す。驕侈(きょうし)弥(いよいよ)甚(はなは)だし。未だ一年ならずして殂す。諡(おくりな)して宣皇帝と曰う。楊堅自ら大丞相と為り、相国隋王に進み、九錫を加う。未だ幾(いくば)くならずして、周主闡、位を隋に禅(ゆず)り、尋(つ)いで弑せらる。隋主尽(ことごと)く宇文氏の族を滅ぼす。周、帝と称してより、是(ここ)に至るまで五世、二十五年にして亡びぬ。
陳主、在位十四年。改元すること一、大建と曰う。殂す。太子立つ。是を後主長城公煬公(ようこう)と為す。


昵近 昵懇にして近づけること。 

周主の宇文邕は、沈着で先を見通す識見をもっており、政治は厳正公明であったので賢主と讃えられた。北斉を滅ぼして一年にして没した。三十六歳であった。武皇帝とおくり名された。太子の贇が即位し、皇后として楊氏を立てた。楊皇后の父で隋公の楊堅が政治を専らにし、上柱国大司馬となった。贇は皇太子であったころから、好んで小人物を近づけた。即位して一年足らずで位を子の闡に譲り、自身は天元皇帝と称した。驕りたかぶることがいよいよつのり、一年経たぬうちに死んだ。おくり名して宣皇帝といった。
楊堅は自ら大丞相となり、相国隋王に進み、九種の特権を得た。そして間もなく、北周の主静帝宇文闡は帝位を隋に禅(ゆず)り、すぐに弑殺された。楊堅は他の宇文氏一族をも皆殺しにした。北周は帝と称してからここまで五世、二十五年で亡び、北朝は隋にとって代わられた。
一方南朝の陳では宣帝頊が在位十四年で死んだ。改元すること一回、大建という。太子が立った。これが後主長城公煬公である。

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最終更新:2025年07月12日 10:02