有上書請去佞臣者。曰、願陽怒以試之、執理不屈者直臣也。畏威順旨者佞臣也。上曰、吾自爲詐、何以責臣下之直乎。朕方以至誠治天下。或請重法禁盗。上曰、當去奢省費、輕徭薄賦。選用廉吏、使民衣食有餘、自不爲盗。安用重法邪。自是數年之後、路不拾遺、商旅野宿焉。上嘗曰、君依於國、國依於民。刻民以奉君、猶割肉以充腹。腹飽而身斃。君富而國亡矣。
上書して佞臣を去らんと請う者有り。曰く、「願わくは陽(いつわ)り怒って以って之を試みんに、理を執(と)って屈せざる者は直臣なり。威を畏れて旨(むね)に順(したが)う者は佞臣なり」と。上曰く、「吾自ら詐(いつわり)を為さば、何を以ってか臣下の直を責めんや。朕方(まさ)に至誠を以って天下を治めん」と。或ひと法を重くして盗を禁ぜんと請う。上曰く、「当(まさ)に奢(おごり)を去って費(ついえ)を省き、徭(よう)を軽くし賦を薄くすべし。廉吏を選用して、民の衣食をして余り有らしめば、自ら盗を為さじ。安(いずく)んぞ重法を用いんや」と。是より数年の後、路遺(お)ちたるを拾わず、商旅(しょうりょ)野宿せり。上、嘗て曰く「君は国に依り、国は民に依る。民を刻(こく)して以って君に奉ずるは、猶お肉を割いて以って腹に充(み)つるがごとし。腹は飽くとも身は斃(たお)れん。君は富むとも国は亡びん」と。
陽 見せかけること。 徭 夫役。 賦 税。 廉吏 清廉な役人。 商旅 商人や旅人。 刻 苛酷
佞臣を遠ざけるようにと上書する者があった。その者の言うには「わざと理不尽に叱責してみてください。道理を主張してどこまでも屈しない者が廉直の臣です。威光を恐れてすぐに仰せに従う者が佞臣であります。」太宗はすぐさま反論して「余が自ら偽りをして、どうして臣下に正直であれと求めることができようか。朕はひたすら誠実を以って天下を治めるだけだ」と言った。またあるひとが刑罰を重くして盗賊を撲滅するよう願い出た。帝が言われるには「上に立つ者が奢りを無くして出費を抑え、夫役を減らして、年貢を軽くすることである。また清廉な官吏を登用して、ひとびとの衣食を余りあるものにすれば、盗みなど無くなろう、どうして刑を重くする必要があろう。」それから数年、落し物を拾っても懐に入れず、行商人や旅人が野宿できるようになった。太帝はまたこうも言った「国があればこそ君があり、民があればこそ国があるのだ、民を搾取して君のものにするのは、わが身の肉を切り裂いて腹を満たそうとするようなものだ。腹は満ちても命はちぢむ。君は富み栄えても国は亡びるだけだ」
上書して佞臣を去らんと請う者有り。曰く、「願わくは陽(いつわ)り怒って以って之を試みんに、理を執(と)って屈せざる者は直臣なり。威を畏れて旨(むね)に順(したが)う者は佞臣なり」と。上曰く、「吾自ら詐(いつわり)を為さば、何を以ってか臣下の直を責めんや。朕方(まさ)に至誠を以って天下を治めん」と。或ひと法を重くして盗を禁ぜんと請う。上曰く、「当(まさ)に奢(おごり)を去って費(ついえ)を省き、徭(よう)を軽くし賦を薄くすべし。廉吏を選用して、民の衣食をして余り有らしめば、自ら盗を為さじ。安(いずく)んぞ重法を用いんや」と。是より数年の後、路遺(お)ちたるを拾わず、商旅(しょうりょ)野宿せり。上、嘗て曰く「君は国に依り、国は民に依る。民を刻(こく)して以って君に奉ずるは、猶お肉を割いて以って腹に充(み)つるがごとし。腹は飽くとも身は斃(たお)れん。君は富むとも国は亡びん」と。
陽 見せかけること。 徭 夫役。 賦 税。 廉吏 清廉な役人。 商旅 商人や旅人。 刻 苛酷
佞臣を遠ざけるようにと上書する者があった。その者の言うには「わざと理不尽に叱責してみてください。道理を主張してどこまでも屈しない者が廉直の臣です。威光を恐れてすぐに仰せに従う者が佞臣であります。」太宗はすぐさま反論して「余が自ら偽りをして、どうして臣下に正直であれと求めることができようか。朕はひたすら誠実を以って天下を治めるだけだ」と言った。またあるひとが刑罰を重くして盗賊を撲滅するよう願い出た。帝が言われるには「上に立つ者が奢りを無くして出費を抑え、夫役を減らして、年貢を軽くすることである。また清廉な官吏を登用して、ひとびとの衣食を余りあるものにすれば、盗みなど無くなろう、どうして刑を重くする必要があろう。」それから数年、落し物を拾っても懐に入れず、行商人や旅人が野宿できるようになった。太帝はまたこうも言った「国があればこそ君があり、民があればこそ国があるのだ、民を搾取して君のものにするのは、わが身の肉を切り裂いて腹を満たそうとするようなものだ。腹は満ちても命はちぢむ。君は富み栄えても国は亡びるだけだ」
突厥頡利・突利二可汗、合十餘萬騎入寇、進至渭水便橋之北。上自與房玄齢等六騎、徑詣渭水上、與頡利隔水語、責以負約。突厥大驚、皆下馬羅拜。俄而諸軍繼至、旗甲蔽野。頡利懼請盟而退。
置弘文、聚四部二十餘萬、選天下文學之士。虞世南等以本官兼學士。聽朝之隙、引入内殿、講論前言往行、商榷政事、或夜分乃罷。取三品以上子孫、充弘文學士。
突厥(とっけつ)の頡利(けつり)・突利の二可汗、十余万騎を合わせて入寇(にゅうこう)し、進んで渭水便橋の北に至る。上(しょう)、自ら房玄齢等六騎と、径(ただち)に渭水の上(ほとり)に詣(いた)り、頡利と水を隔てて語り、責むるに約に負(そむ)くを以ってす。突厥大いに驚き、皆馬より下って羅拝(らはい)す。俄かにして諸軍継いで至り、旗甲(きこう)野を蔽う。頡利懼れて盟を請うて退きぬ。
弘文館を置き、四部二十余万を聚(あつ)め、天下文学の士を選ぶ。虞世南(ぐせいなん)等本官を以って学士を兼ぬ。朝を聴くの隙(ひま)内殿に引き入れて、前言往行を講論し、政事を商榷(しょうかく)し、或いは夜分にして乃ち罷(や)む。三品(さんぽん)以上の子孫を取って、弘文館の学士(生)に充(あ)つ。
可汗 汗(ハン)、首長。 羅拝 並んで拝すこと。 四部 四庫に同じ、経書・歴史・諸子百家・詩文などその他の集。 本官 本来の官職。 前言往行 先哲諸賢の言行。 商榷 商ははかる榷はくらべる、比較商量。 三品 親王の第三位階。 弘文館の学士 学生の誤りか。
突厥の頡利と突利の二可汗が、十余万騎を糾合して辺境を侵し渭水便橋の北にまで入ってきた。太宗世民は自ら房玄齢ら六騎を従えて渭水の南岸まで行き、頡利と川を隔てて対峙し、すぐる年の盟約に叛いた罪をなじった。突厥は太宗の威厳に大いに驚き、皆馬を下りて並んで拝礼した。すると間もなく唐の諸軍が到着し、旗じるしや甲冑があたりを蔽い尽くした。頡利は恐れて和睦の盟約を自ら願い出て引き上げた。
翌九月、弘文館を開き、経・史・子・集の四部の書籍二十万余巻を集め、国中の学問の士を選び、虞世南らには本来の任務と兼ねさせて弘文館学士とした。太宗は政務の僅かな暇をみつけて、学士らを内殿に呼び、古人の言行について議論したり、古今の政治の長短を比較討論して、時には夜半に及ぶことがあった。また三品以上の身分の子弟の中から学生を選んで学問を学ばせた。
王暇日輒至中、討論文籍、或至夜分。使閻立本圖像、褚亮爲贊。號十八學士。士大夫得預其選者、時人謂之登瀛洲。時府僚多補外、如晦亦出。玄齢曰、餘人不足惜、如晦王佐才。大王欲經營四方、非不可。王即奏留之、使參謀帷幄。剖決如流。玄齢毎入奏事、高祖曰、玄齢爲吾兒謀事。雖隔千里、如對面語。秦王功蓋天下、身幾危。頼玄齢・如晦決策。至是即位。首放宮女三千餘人。
王、暇日(かじつ)には輒(すなわ)ち、館中に至って、文籍を討論し、或いは夜分に至る。閻立本(えんりつぽん)をして像を図せしめ、褚亮(ちょりょう)をして賛を為らしむ。十八学士と号す。士大夫のその選に預ることを得る者をば、時の人之を登瀛洲(とうえいしゅう)と謂う。
時に府僚(ふりょう)多くは外に補せられ、如晦も亦出ず。玄齢曰く、「余人は惜しむに足らず。如晦は王佐の才なり。大王、四方を経営せんと欲せば、如晦に非ざれば不可なり」と。王即ち奏して之を留め、帷幄に参謀せしむ。剖決(ぼうけつ)流るが如し。玄齢入って事を奏する毎に、高祖曰く、「玄齢吾が児の為に事を謀る。千里を隔つと雖も、面に対(むか)いて語るが如し」と。
秦王、功天下を蓋(おお)い、身幾(ほとん)ど危うし。玄齢・如晦に頼って策を決す。是(ここ)に至って即位す。首として宮女三千余人を放つ。
賛 徳を称揚する四字句で押韻する。 登瀛洲 瀛洲は三神山のひとつで東海上にあって神仙が棲むという。 府僚 秦王府の幕僚。 王佐 王の補佐。 帷幄に参謀 枢密の議会に参画する。 剖決 裁決。 首 手始め。
秦王世民は政務が早く終ると、文学館に赴いて学問や書籍について、討論した。時には夜分にわたることもあった。閻立本に学士の像を画かせ、褚亮に賛をつくらせて十八学士と呼んだ。士大夫でこの中に選ばれた者のことを、人は「登瀛洲」と呼んで名誉を讃えた。
この頃秦王府の属官たちは建成らの画策によって次々に地方官に転属させられ、杜如晦もまた出されてしまった。房玄齢は秦王世民に、「他の人はさておき、杜如晦は帝王の補佐となる人材であります。大王が天下を統治されることを望まれるなら、如晦なくては適いません」とうったえた。秦王はすぐさま高祖に奏上して如晦を秦王府に留め置いて、より枢機に預からせると、裁決は滞ることがなかった。また玄齢が参内して高祖に奏上するごとに「玄齢は世民のためによく政務を謀ってくれる。わしは遠く千里も離れていながらまるで世民と対面して話しているような気がする」と褒めた。
秦王の功績が顕われて名声が上がるにつれて、かえって身の危険が増してきた。玄齢と如晦の助言によって玄武門の変事を決断し、ここに至って即位することになったのである。まず初めに手をつけたことは、宮女三千人を後宮から出したことである。
文学館学士十八人のうち著名な四人
杜如晦(585~630) 字は克明、陜西京兆の人。尚書右僕射となり、決断力に長じた。
房玄齢(578~648) 字は喬、尚書左僕射となり、右僕射の杜如晦とともに貞観の治を現 出した。深謀遠慮の人。
虞世南(558~638) 字は伯施、浙江余姚のひと。「北堂書鈔」を著す。特に書に長じ、 孔子廟堂碑が残る。
孔頴達(574~648) くようだつとも、字は仲達、河北衡水のひと。国子祭酒となり、顔 師古と共に「五経正義」「隋書」などを撰。
太宗文武皇帝名世民。幼日有書生見之曰、龍鳳之姿、天日之表。其年幾冠、必能濟世安民。書生去。高祖使人追之。不見。乃採其語爲名。年十八擧義兵。李密降唐初見高祖、色尚傲。及見秦王、不敢仰視。退而歎曰、眞英主也。高祖、以秦王功高、特置天策上將。位在王公上。以秦王爲之。開府置屬。開館以延文學之士。杜如晦・房玄齢・虞世南・褚亮・姚志廉・李玄道・蔡允恭・薛元敬・願相時・蘇勗・于志寧・蘇世長・薛収・李守素・陸明・孔頴達・蓋文達・許敬宗爲文學學士、分爲三番、更日直宿。
太宗文武皇帝、名は世民。幼(よう)なりし日、書生有り、之を見て曰く、「龍鳳の姿、天日(てんじつ)の表あり。其の年、冠するに幾(ちか)くして、必ず能く世を済(すく)い民を安(やす)んぜん」と。書生去る。高祖、人をして之を追わしむ。見えず。乃ち其の語を採って名となす。年十八にして義兵を挙ぐ。李密、唐に降(くだ)り、初めて高祖に見(まみ)えて、色、尚傲(おご)れり。秦王に見ゆるに及んで、敢えて仰ぎ視ず。退いて歎じて曰く、「真の英主なり」と。高祖、秦王の功高きを以って、特に天策上将を置く。位、王公の上に在り。秦王を以って之と為す。府を開いて属を置く。館を開いて以って文学の士を延(ひ)く。杜如晦(とじょかい)・房玄齢(ぼうげんれい)・虞世南(ぐせいなん)・褚亮(ちょりょう)・姚志廉(ようしれん)・李玄道・蔡允恭(さいいんきょう)・薛元敬(せつげんけい)・願相時(がんしょうじ)・蘇勗(そきょく)・于志寧(うしねい)・蘇世長・薛収(せっしゅう)・李守素・陸明・孔頴達(くえいたつ)・蓋文達(こうぶんたつ)・許敬宗(きょけいそう)を文学館の学士と為し、分(わか)って三番と為し、日を更(か)えて直宿(ちょくしゅく)せしむ。
天日の表 太陽のような容貌。 冠 元服加冠。 天策上将 高祖が世民のために特に天策府という官署をつくった、その長。 府 天策府。 属 部下。 延く 結集する。 三番 三班。 直宿 宿直。
太宗文武皇帝の名は世民。まだ小さい頃、ある書生が幼子を見て、「まるで龍や鳳凰の気高さ、太陽のような相をしている。加冠する年齢に近くなれば、必ずよく世を済い民を安らかにすることであろう」と言って去った。高祖は急いで人をやって追わせたが、見失ってしまった。その書生の言葉を採って世民と名づけた。年十八で義兵を挙げ、遂に天下を平定した。李密が敗れて唐に降り、初めて高祖に謁見したとき、その顔にはなお倣岸不遜の色をたたえていたが、秦王世民に会った時には、まともに顔を見ることができず、退いて歎息して言うには、「彼こそ真の英主というものだ」と。
高祖は秦王の功績が他に抜きんでていたので、特に天策府を設けて王公の上位とした。世民を上将に就かせ、属官を置いた。
また学問所を設け、十八人の学者、杜如晦・房玄齢・虞世南・褚亮・姚志廉・李玄道・蔡允恭・薛元敬・願相時・蘇勗・于志寧・蘇世長・薛収・李守素・陸明・孔頴達・蓋文達・許敬宗を三班に分け、交替でつめさせた。
三師(太師・太傅・太保) 直接政務には関与せず、空位の場合もある。
三公(太尉・司空・司徒) 同じ
六省
中書省 長官を令という。天子の命令を伝え、詔勅を奏する。
尚書省 長官を令という。政務を統べ、詔勅を施行する。僕射を統括。
門下省 長官を侍中という。中書省の宣奏した詔勅を審査履奏する。
以上を三省といい、長官を宰相という。
秘書省 長を監という。経籍図書のことを掌る。
殿中省 長を監という。衣服車乗のことを掌る。
内侍省 長を内侍という。宮内に供奉し、制令の伝達を掌る。
左僕射 尚書省の管轄下、以下の三部を統括する。
吏部 人材の進退、官吏の任免を掌る。長を尚書という。
戸部 人民賦課税のことを掌る。長官を尚書という。
礼部 儀礼のことを掌る。 長官を尚書という。
右僕射 尚書省の管轄下、以下の三部を統括する。
兵部 軍旅、武官のことを掌る。長官を尚書という。
刑部 刑罰のことを掌る。
工部 宮室、器物、水利のことを掌る。
以上を六部という。
十八史略 魏徴、自若として屈せず
於是密奏、兄弟專欲殺臣、似爲世充・建報讐。明日帥兵伏玄武門。建成・元吉入、覺有變欲還。世民追射建成殺之。尉遅敬射殺元吉。
遂立世民爲太子、軍國事悉委太子處決、然後聞奏。
初東宮官屬魏徴、屢勸建成除世民。及是世民召徴、責以離間兄弟。徴擧止自若對不屈。世民禮之。王珪亦嘗爲建成謀。皆以為諌議大夫。
帝自稱爲太上皇帝、詔傳位於太子。是爲太宗文武皇帝。
是(ここ)に於いて密かに奏すらく、「兄弟(けいてい)専ら臣を殺さんと欲し、世充・建徳の為に讐(あだ)を報ずるに似たり」と。明日(めいじつ)兵を帥(ひき)いて玄武門に伏す。建成・元吉入り、変有るを覚(さと)って還らんと欲す。世民、追いて建成を射て之を殺す。尉遅敬徳(うつちけいとく)、元吉を射殺す。
遂に世民を立てて太子と為し、軍国の事悉く太子に委ねて処決せしめ、然る後聞奏せしむ。
初め東宮の官属魏徴(ぎちょう)、屡しば建成に勧めて世民を除かんとす。是に及んで世民、徴を召し、責むるに兄弟を離間するを以ってす。徴、挙止自若として対(こた)えて屈せず。世民之を礼す。王珪も亦嘗て建成の為に謀る。皆以って諌議大夫(かんぎたいふ)となす。
帝自ら称して太上皇帝となり、詔(みことのり)して位を太子に伝う。是を太宗文武皇帝となす。
軍国 軍事と国事。 諌議大夫 天子を諌め、政治の得失を論じた官。
世民は密かに高祖に奏上して、「兄と弟はまるで王世充や竇建徳(とうけんとく)の復讐のように私の命を狙っています」と訴えた。次の日、兵を率いて玄武門に待ち伏せした。建成と元吉は門に踏み入れると、ただならぬ気配を感じ取り、きびすを返した世民はこれを追って建成に矢を射かけて殺した。続いて尉遅敬徳が元吉を射殺した。
ここに至って帝は世民を立てて太子とし、国事、軍事ともに世民に委ね、事後に帝に奏上することとした。
これ以前、東宮付きの魏徴はしばしば建成に、世民を無き者にするよう進言していたが、ここに至って、世民は魏徴を召喚して、兄弟を離間した罪を糾弾した。しかし徴は、恐れる風もなく、一つひとつに反論して屈しなかった。世民は感じ入って、礼を以って遇した。王珪もまた、建成の謀略に参画したが、魏徴とともに諌議大夫に登用した。
変後二か月、武徳九年(626年)八月、帝は自ら太上皇帝と名乗り、詔を下して帝位を太子世民に譲った。これが太宗文武皇帝である。