漢文・漢文法基礎 > 十八史略 全文目次 > 初唐

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十八史略 猶お肉を割いて以って腹に充つるがごとし

2012-10-25 10:10:39 | 十八史略
有上書請去佞臣者。曰、願陽怒以試之、執理不屈者直臣也。畏威順旨者佞臣也。上曰、吾自爲詐、何以責臣下之直乎。朕方以至誠治天下。或請重法禁盗。上曰、當去奢省費、輕徭薄賦。選用廉吏、使民衣食有餘、自不爲盗。安用重法邪。自是數年之後、路不拾遺、商旅野宿焉。上嘗曰、君依於國、國依於民。刻民以奉君、猶割肉以充腹。腹飽而身斃。君富而國亡矣。

上書して佞臣を去らんと請う者有り。曰く、「願わくは陽(いつわ)り怒って以って之を試みんに、理を執(と)って屈せざる者は直臣なり。威を畏れて旨(むね)に順(したが)う者は佞臣なり」と。上曰く、「吾自ら詐(いつわり)を為さば、何を以ってか臣下の直を責めんや。朕方(まさ)に至誠を以って天下を治めん」と。或ひと法を重くして盗を禁ぜんと請う。上曰く、「当(まさ)に奢(おごり)を去って費(ついえ)を省き、徭(よう)を軽くし賦を薄くすべし。廉吏を選用して、民の衣食をして余り有らしめば、自ら盗を為さじ。安(いずく)んぞ重法を用いんや」と。是より数年の後、路遺(お)ちたるを拾わず、商旅(しょうりょ)野宿せり。上、嘗て曰く「君は国に依り、国は民に依る。民を刻(こく)して以って君に奉ずるは、猶お肉を割いて以って腹に充(み)つるがごとし。腹は飽くとも身は斃(たお)れん。君は富むとも国は亡びん」と。

陽 見せかけること。 徭 夫役。 賦 税。 廉吏 清廉な役人。 商旅 商人や旅人。 刻 苛酷

佞臣を遠ざけるようにと上書する者があった。その者の言うには「わざと理不尽に叱責してみてください。道理を主張してどこまでも屈しない者が廉直の臣です。威光を恐れてすぐに仰せに従う者が佞臣であります。」太宗はすぐさま反論して「余が自ら偽りをして、どうして臣下に正直であれと求めることができようか。朕はひたすら誠実を以って天下を治めるだけだ」と言った。またあるひとが刑罰を重くして盗賊を撲滅するよう願い出た。帝が言われるには「上に立つ者が奢りを無くして出費を抑え、夫役を減らして、年貢を軽くすることである。また清廉な官吏を登用して、ひとびとの衣食を余りあるものにすれば、盗みなど無くなろう、どうして刑を重くする必要があろう。」それから数年、落し物を拾っても懐に入れず、行商人や旅人が野宿できるようになった。太帝はまたこうも言った「国があればこそ君があり、民があればこそ国があるのだ、民を搾取して君のものにするのは、わが身の肉を切り裂いて腹を満たそうとするようなものだ。腹は満ちても命はちぢむ。君は富み栄えても国は亡びるだけだ」
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十八史略 弘文館を置き四部二十余万巻を聚む

2012-10-23 08:25:26 | 十八史略

突厥頡利・突利二可汗、合十餘萬騎入寇、進至渭水便橋之北。上自與房玄齢等六騎、徑詣渭水上、與頡利隔水語、責以負約。突厥大驚、皆下馬羅拜。俄而諸軍繼至、旗甲蔽野。頡利懼請盟而退。
置弘文、聚四部二十餘萬、選天下文學之士。虞世南等以本官兼學士。聽朝之隙、引入内殿、講論前言往行、商榷政事、或夜分乃罷。取三品以上子孫、充弘文學士。

突厥(とっけつ)の頡利(けつり)・突利の二可汗、十余万騎を合わせて入寇(にゅうこう)し、進んで渭水便橋の北に至る。上(しょう)、自ら房玄齢等六騎と、径(ただち)に渭水の上(ほとり)に詣(いた)り、頡利と水を隔てて語り、責むるに約に負(そむ)くを以ってす。突厥大いに驚き、皆馬より下って羅拝(らはい)す。俄かにして諸軍継いで至り、旗甲(きこう)野を蔽う。頡利懼れて盟を請うて退きぬ。
弘文館を置き、四部二十余万を聚(あつ)め、天下文学の士を選ぶ。虞世南(ぐせいなん)等本官を以って学士を兼ぬ。朝を聴くの隙(ひま)内殿に引き入れて、前言往行を講論し、政事を商榷(しょうかく)し、或いは夜分にして乃ち罷(や)む。三品(さんぽん)以上の子孫を取って、弘文館の学士(生)に充(あ)つ。


可汗 汗(ハン)、首長。 羅拝 並んで拝すこと。 四部 四庫に同じ、経書・歴史・諸子百家・詩文などその他の集。 本官 本来の官職。 前言往行 先哲諸賢の言行。 商榷 商ははかる榷はくらべる、比較商量。 三品 親王の第三位階。 弘文館の学士 学生の誤りか。

突厥の頡利と突利の二可汗が、十余万騎を糾合して辺境を侵し渭水便橋の北にまで入ってきた。太宗世民は自ら房玄齢ら六騎を従えて渭水の南岸まで行き、頡利と川を隔てて対峙し、すぐる年の盟約に叛いた罪をなじった。突厥は太宗の威厳に大いに驚き、皆馬を下りて並んで拝礼した。すると間もなく唐の諸軍が到着し、旗じるしや甲冑があたりを蔽い尽くした。頡利は恐れて和睦の盟約を自ら願い出て引き上げた。
翌九月、弘文館を開き、経・史・子・集の四部の書籍二十万余巻を集め、国中の学問の士を選び、虞世南らには本来の任務と兼ねさせて弘文館学士とした。太宗は政務の僅かな暇をみつけて、学士らを内殿に呼び、古人の言行について議論したり、古今の政治の長短を比較討論して、時には夜半に及ぶことがあった。また三品以上の身分の子弟の中から学生を選んで学問を学ばせた。
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十八史略 十八学士

2012-10-20 09:00:40 | 十八史略

王暇日輒至中、討論文籍、或至夜分。使閻立本圖像、褚亮爲贊。號十八學士。士大夫得預其選者、時人謂之登瀛洲。時府僚多補外、如晦亦出。玄齢曰、餘人不足惜、如晦王佐才。大王欲經營四方、非不可。王即奏留之、使參謀帷幄。剖決如流。玄齢毎入奏事、高祖曰、玄齢爲吾兒謀事。雖隔千里、如對面語。秦王功蓋天下、身幾危。頼玄齢・如晦決策。至是即位。首放宮女三千餘人。

王、暇日(かじつ)には輒(すなわ)ち、館中に至って、文籍を討論し、或いは夜分に至る。閻立本(えんりつぽん)をして像を図せしめ、褚亮(ちょりょう)をして賛を為らしむ。十八学士と号す。士大夫のその選に預ることを得る者をば、時の人之を登瀛洲(とうえいしゅう)と謂う。
時に府僚(ふりょう)多くは外に補せられ、如晦も亦出ず。玄齢曰く、「余人は惜しむに足らず。如晦は王佐の才なり。大王、四方を経営せんと欲せば、如晦に非ざれば不可なり」と。王即ち奏して之を留め、帷幄に参謀せしむ。剖決(ぼうけつ)流るが如し。玄齢入って事を奏する毎に、高祖曰く、「玄齢吾が児の為に事を謀る。千里を隔つと雖も、面に対(むか)いて語るが如し」と。
秦王、功天下を蓋(おお)い、身幾(ほとん)ど危うし。玄齢・如晦に頼って策を決す。是(ここ)に至って即位す。首として宮女三千余人を放つ。


賛 徳を称揚する四字句で押韻する。 登瀛洲 瀛洲は三神山のひとつで東海上にあって神仙が棲むという。 府僚 秦王府の幕僚。 王佐 王の補佐。 帷幄に参謀 枢密の議会に参画する。 剖決 裁決。 首 手始め。

秦王世民は政務が早く終ると、文学館に赴いて学問や書籍について、討論した。時には夜分にわたることもあった。閻立本に学士の像を画かせ、褚亮に賛をつくらせて十八学士と呼んだ。士大夫でこの中に選ばれた者のことを、人は「登瀛洲」と呼んで名誉を讃えた。
この頃秦王府の属官たちは建成らの画策によって次々に地方官に転属させられ、杜如晦もまた出されてしまった。房玄齢は秦王世民に、「他の人はさておき、杜如晦は帝王の補佐となる人材であります。大王が天下を統治されることを望まれるなら、如晦なくては適いません」とうったえた。秦王はすぐさま高祖に奏上して如晦を秦王府に留め置いて、より枢機に預からせると、裁決は滞ることがなかった。また玄齢が参内して高祖に奏上するごとに「玄齢は世民のためによく政務を謀ってくれる。わしは遠く千里も離れていながらまるで世民と対面して話しているような気がする」と褒めた。
秦王の功績が顕われて名声が上がるにつれて、かえって身の危険が増してきた。玄齢と如晦の助言によって玄武門の変事を決断し、ここに至って即位することになったのである。まず初めに手をつけたことは、宮女三千人を後宮から出したことである。


文学館学士十八人のうち著名な四人
杜如晦(585~630) 字は克明、陜西京兆の人。尚書右僕射となり、決断力に長じた。

房玄齢(578~648) 字は喬、尚書左僕射となり、右僕射の杜如晦とともに貞観の治を現         出した。深謀遠慮の人。
虞世南(558~638) 字は伯施、浙江余姚のひと。「北堂書鈔」を著す。特に書に長じ、         孔子廟堂碑が残る。
孔頴達(574~648) くようだつとも、字は仲達、河北衡水のひと。国子祭酒となり、顔         師古と共に「五経正義」「隋書」などを撰。
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十八史略 濟世安民

2012-10-18 08:58:50 | 十八史略

太宗文武皇帝名世民。幼日有書生見之曰、龍鳳之姿、天日之表。其年幾冠、必能濟世安民。書生去。高祖使人追之。不見。乃採其語爲名。年十八擧義兵。李密降唐初見高祖、色尚傲。及見秦王、不敢仰視。退而歎曰、眞英主也。高祖、以秦王功高、特置天策上將。位在王公上。以秦王爲之。開府置屬。開館以延文學之士。杜如晦・房玄齢・虞世南・褚亮・姚志廉・李玄道・蔡允恭・薛元敬・願相時・蘇勗・于志寧・蘇世長・薛収・李守素・陸明・孔頴達・蓋文達・許敬宗爲文學學士、分爲三番、更日直宿。

太宗文武皇帝、名は世民。幼(よう)なりし日、書生有り、之を見て曰く、「龍鳳の姿、天日(てんじつ)の表あり。其の年、冠するに幾(ちか)くして、必ず能く世を済(すく)い民を安(やす)んぜん」と。書生去る。高祖、人をして之を追わしむ。見えず。乃ち其の語を採って名となす。年十八にして義兵を挙ぐ。李密、唐に降(くだ)り、初めて高祖に見(まみ)えて、色、尚傲(おご)れり。秦王に見ゆるに及んで、敢えて仰ぎ視ず。退いて歎じて曰く、「真の英主なり」と。高祖、秦王の功高きを以って、特に天策上将を置く。位、王公の上に在り。秦王を以って之と為す。府を開いて属を置く。館を開いて以って文学の士を延(ひ)く。杜如晦(とじょかい)・房玄齢(ぼうげんれい)・虞世南(ぐせいなん)・褚亮(ちょりょう)・姚志廉(ようしれん)・李玄道・蔡允恭(さいいんきょう)・薛元敬(せつげんけい)・願相時(がんしょうじ)・蘇勗(そきょく)・于志寧(うしねい)・蘇世長・薛収(せっしゅう)・李守素・陸明・孔頴達(くえいたつ)・蓋文達(こうぶんたつ)・許敬宗(きょけいそう)を文学館の学士と為し、分(わか)って三番と為し、日を更(か)えて直宿(ちょくしゅく)せしむ。

天日の表 太陽のような容貌。 冠 元服加冠。 天策上将 高祖が世民のために特に天策府という官署をつくった、その長。 府 天策府。 属 部下。 延く 結集する。 三番 三班。 直宿 宿直。

太宗文武皇帝の名は世民。まだ小さい頃、ある書生が幼子を見て、「まるで龍や鳳凰の気高さ、太陽のような相をしている。加冠する年齢に近くなれば、必ずよく世を済い民を安らかにすることであろう」と言って去った。高祖は急いで人をやって追わせたが、見失ってしまった。その書生の言葉を採って世民と名づけた。年十八で義兵を挙げ、遂に天下を平定した。李密が敗れて唐に降り、初めて高祖に謁見したとき、その顔にはなお倣岸不遜の色をたたえていたが、秦王世民に会った時には、まともに顔を見ることができず、退いて歎息して言うには、「彼こそ真の英主というものだ」と。
高祖は秦王の功績が他に抜きんでていたので、特に天策府を設けて王公の上位とした。世民を上将に就かせ、属官を置いた。
また学問所を設け、十八人の学者、杜如晦・房玄齢・虞世南・褚亮・姚志廉・李玄道・蔡允恭・薛元敬・願相時・蘇勗・于志寧・蘇世長・薛収・李守素・陸明・孔頴達・蓋文達・許敬宗を三班に分け、交替でつめさせた。
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唐代の主な官制

2012-10-16 17:27:27 | 十八史略

三師(太師・太傅・太保) 直接政務には関与せず、空位の場合もある。
三公(太尉・司空・司徒) 同じ
六省
   中書省 長官を令という。天子の命令を伝え、詔勅を奏する。
   尚書省 長官を令という。政務を統べ、詔勅を施行する。僕射を統括。
   門下省 長官を侍中という。中書省の宣奏した詔勅を審査履奏する。
       以上を三省といい、長官を宰相という。
   秘書省 長を監という。経籍図書のことを掌る。
   殿中省 長を監という。衣服車乗のことを掌る。
   内侍省 長を内侍という。宮内に供奉し、制令の伝達を掌る。

      左僕射   尚書省の管轄下、以下の三部を統括する。
       吏部 人材の進退、官吏の任免を掌る。長を尚書という。
       戸部 人民賦課税のことを掌る。長官を尚書という。
       礼部 儀礼のことを掌る。 長官を尚書という。

      右僕射   尚書省の管轄下、以下の三部を統括する。
       兵部 軍旅、武官のことを掌る。長官を尚書という。
       刑部 刑罰のことを掌る。
       工部 宮室、器物、水利のことを掌る。
             以上を六部という。

 

 

 

十八史略 魏徴、自若として屈せず

2012-10-16 08:59:17 | 十八史略

於是密奏、兄弟專欲殺臣、似爲世充・建報讐。明日帥兵伏玄武門。建成・元吉入、覺有變欲還。世民追射建成殺之。尉遅敬射殺元吉。
遂立世民爲太子、軍國事悉委太子處決、然後聞奏。
初東宮官屬魏徴、屢勸建成除世民。及是世民召徴、責以離間兄弟。徴擧止自若對不屈。世民禮之。王珪亦嘗爲建成謀。皆以為諌議大夫。
帝自稱爲太上皇帝、詔傳位於太子。是爲太宗文武皇帝。

是(ここ)に於いて密かに奏すらく、「兄弟(けいてい)専ら臣を殺さんと欲し、世充・建徳の為に讐(あだ)を報ずるに似たり」と。明日(めいじつ)兵を帥(ひき)いて玄武門に伏す。建成・元吉入り、変有るを覚(さと)って還らんと欲す。世民、追いて建成を射て之を殺す。尉遅敬徳(うつちけいとく)、元吉を射殺す。
遂に世民を立てて太子と為し、軍国の事悉く太子に委ねて処決せしめ、然る後聞奏せしむ。
初め東宮の官属魏徴(ぎちょう)、屡しば建成に勧めて世民を除かんとす。是に及んで世民、徴を召し、責むるに兄弟を離間するを以ってす。徴、挙止自若として対(こた)えて屈せず。世民之を礼す。王珪も亦嘗て建成の為に謀る。皆以って諌議大夫(かんぎたいふ)となす。
帝自ら称して太上皇帝となり、詔(みことのり)して位を太子に伝う。是を太宗文武皇帝となす。


軍国 軍事と国事。 諌議大夫 天子を諌め、政治の得失を論じた官。

世民は密かに高祖に奏上して、「兄と弟はまるで王世充や竇建徳(とうけんとく)の復讐のように私の命を狙っています」と訴えた。次の日、兵を率いて玄武門に待ち伏せした。建成と元吉は門に踏み入れると、ただならぬ気配を感じ取り、きびすを返した世民はこれを追って建成に矢を射かけて殺した。続いて尉遅敬徳が元吉を射殺した。
ここに至って帝は世民を立てて太子とし、国事、軍事ともに世民に委ね、事後に帝に奏上することとした。
これ以前、東宮付きの魏徴はしばしば建成に、世民を無き者にするよう進言していたが、ここに至って、世民は魏徴を召喚して、兄弟を離間した罪を糾弾した。しかし徴は、恐れる風もなく、一つひとつに反論して屈しなかった。世民は感じ入って、礼を以って遇した。王珪もまた、建成の謀略に参画したが、魏徴とともに諌議大夫に登用した。
変後二か月、武徳九年(626年)八月、帝は自ら太上皇帝と名乗り、詔を下して帝位を太子世民に譲った。これが太宗文武皇帝である。
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十八史略 周公の事を行わしめん

2012-10-13 12:41:47 | 十八史略
初唐之起晉陽、皆世民之謀。帝欲以世民爲儲嗣。世民固辭而止。太子建成、喜酒色遊畋、齊王元吉多過失。而世民功名日盛。建成乃與元吉、協謀傾世民曲意諂事諸妃嬪。世民獨不事之。由是左右皆譽建成・元吉、而短世民。
武九年六月、太白經天、見秦分、建成・元吉欲殺世民。秦府僚屬、勸王行周公之事、力請乃決。

初め唐の晋陽に起こりしは、皆、世民の謀なり。帝、世民を以って儲嗣と為さんと欲す。世民固辞して止む。太子建成は、酒色遊畋(ゆうでん)を喜(この)み、斉王元吉は過失多し。而して世民は功名日に盛んなり。建成乃(すなわ)ち、元吉と、謀を協(あわ)せて世民を傾けんとし、意を曲げて諸妃嬪(ひひん)に諂事(てんじ)す。世民、独り之を事とせず。是に由(よ)って、左右皆建成・元吉を誉めて、世民を短(そし)る。
武九年六月、太白天を経(わた)り、秦の分に見(あらわ)る。建成・元吉、世民を殺さんと欲す。秦府の僚属、王に勧めて周公の事を行わしめんとし、力め請うて乃ち決す。


儲嗣 世継ぎ、世子。 遊畋 狩猟。 諂事 へつらい仕える。 妃嬪 帝の宮女、女官。 太白 金星。 天を経る 日中に現れた、凶事とされる。 周公の事 周の武王發が崩じ、成王誦が継いだが、幼いため武王の弟周公が政を摂った。このとき兄弟の管叔と蔡叔が中傷したので、周公が二人を誅した故事。

初め唐が晋陽から興ったのは、すべて世民の知略によったものである。それで帝は世民を世継ぎに考えていたが、世民が固辞したために沙汰やみになった。高祖の長男、建成は酒色と遊猟を好み、三男の斉王元吉は過失が多かった。世民の声望は日に日に高まっていった。そこで建成と元吉は結託して世民を陥れようと謀って、まず帝のお気に入りの女官たちに取り入った。世民はもちろんそんなことには無関心であったから、帝の側近たちは建成と元吉を褒めそやし、世民をけなした。
武徳九年六月、太白星が日中天空をよぎり、秦の地に対応する南方に現れた。これを秦王が天子となる前兆だとする噂が立った。建成と元吉はいよいよ世民を亡き者にしようとした。それに気づいた秦王の幕僚たちは、昔周公が兄の管叔と弟の蔡叔を、周室の安泰のために誅した故事に倣うように口を極めて説いた。世民はここでようやく意を決した。
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十八史略 三年ごとに戸籍をつくる

2012-10-11 08:34:23 | 十八史略
歳役二旬、不役則収其庸、日三尺。有事而加役者、旬有五日免其調、三旬租調倶免。水旱蟲霜、十損四以上免租、損六以上免調、損七以上、課役倶免。民貲堯分九等。百戸爲里、五里爲郷、四家爲鄰、四鄰爲保、在城邑者爲坊、田野者爲村。食祿之家、無得與民爭利、工商雜類、無預士伍。男女始生爲黄、四歳爲小、十六爲中、二十爲丁、六十爲老。歳造計帳、三歳造戸籍。

歳役は二旬、役せざれば則ちその庸を収むること日に三尺なり。事有って役を加うる者は、旬有五日なればその調を免じ、三旬なれば租調ともに免ず。水旱蟲霜には、十に四以上を損すれば租を免じ、六以上を損すれば調を免じ、七以上を損すれば、課役倶に免ず。民の貲業(しぎょう)を九等に分つ。百戸を里と為し、五里を郷(ごう)と為し、四家を鄰(りん)と為し、四鄰を保(ほう)と為し、城邑(じょうゆう)に在るものを坊と為し、田野は村と為す。禄を食(は)むの家は、民と利を争うを得ること無く、工商雑類は、士伍に預かること無し。男女始めて生まるるを黄(こう)と為し、四歳を小と為し、十六を中と為し、二十を丁と為し、六十を老と為す。歳ごとに計帳を造り、三歳に戸籍を造る。

旬 十日。 貲業 財産。 士伍 黄 髪の毛が黒くないから。 

また一年に二十日間労役を課し、もし服さなければ、代わりに一日あたり、綾絹絁ならば三尺、(布ならば二割増し)を納めさせた。もし労役を余分にした場合は、十五日であれば調を免じ、三十日であれば租・調ともに免じた。水害・旱魃・虫害・霜害には十のうち四以上収穫が減った場合は租を免除し、十の六以上減収になった場合は調を免除し、七以上になれば、租調も庸役もともに免除することにした。また民の財産を九つの等級に分けた。民家百戸を里、五里を郷とし、民家四軒を鄰とし、四鄰を保とした。その集落が城下にある場合は坊とし、田野にあるときは村とした。官途に就いて禄を食んでいるものは、民と利益を争う生業を行ってはならず、工商その他の雑業に従事するものは、士人の仲に入ることを許さないこととした。また男女とも生まれたてのものを黄といい、四歳を小といい、十六から中といい、二十歳になると丁といった。六十歳になると老といった。毎年帳簿をつくり、三年毎に戸籍簿を作った。
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十八史略 均田、租庸調を定む

2012-10-09 10:12:07 | 十八史略
慶州都督楊文幹反。遣秦王世民討平之。
突厥入寇。遣秦王世民禦之。遇於豳州。世民帥騎馳詣虜陣、告之曰、「我秦王也」。虜不敢戰。受盟而退。
唐興七年、僭僞皆亡、天下既定。是歳初置州縣郷學、帝親詣國子學、釋奠于先聖先師。始定官制、頒新律令。定均田租庸調法、丁中之民、給田一頃、篤疾減十之六、寡妻妾減七。皆以十之二爲世業、八爲口分、毎丁歳入租粟二石、調随土地所宜、綾絹絁布。

慶州都督の楊文幹反す。秦王世民を遣わして之を討って平らかしむ。
突厥入寇(にゅうこう)す。秦王世民を遣わして之を禦がしむ。豳州(ひんしゅう)に遇う。世民、騎を帥(ひき)いて馳せて虜陣に詣(いた)り、之に告げて曰く、「我は秦王なり」と。虜敢えて戦わず。盟を受けて退く。
唐、興ってより七年、僭僞(せんぎ)皆亡び、天下既に定まる。是の歳州県郷の学を置き、帝親(みずか)ら国士学に詣(いた)って、先聖先師を釈奠(せきてん)す。始めて官制を定め、新律令を頒(わか)つ。均田(きんでん)租庸調(そようちょう)の法を定め、丁中の民に、田一頃(いっけい)を給し、篤疾(とくしつ)は十の六を減じ、寡妻妾(かさいしょう)は七を減ず。皆十の二を以って世業と為し、八を口分と為し、丁ごとに歳に租粟(そぞく)二石を入れしめ、調は土地の宜しき所に従いて、綾絹絁布(りょうけんしふ)とす。


盟を受けて 和睦を誓って。 僭僞 帝や王を僭称していた者。 国士学 国士監に属し、三品以上の子弟を教育する。 先聖先師を釈奠 周公と孔子を祭る。 均田 耕地を均等に配分する法。 租庸調 丁者にかかる賦課、租は穀物、庸は労役、調は絹や綿。 丁中の民 丁者は二十歳~五十九歳中者は十六歳~十九歳。 田一頃 五尺平方を歩、二百四十歩を一畝、百畝を一頃とする。5.8ha。 篤疾 重病人。 寡妻妾 やもめ。 世業 国から与えられ、子孫に受け継がれる田。 口分 各戸の人数別に与えられる田地。 綾絹絁布 絁はあしぎぬ、粗い糸で織った絹布。 布は麻布。

慶州都督の楊文幹が謀叛した。秦王李世民を遣わして之を討って平定した。
突厥が辺境を侵してきた。これも李世民が迎え撃って豳州で対峙した。世民は騎兵を引き連れ、突厥の陣に至り、「我は秦王なり」と名乗りをあげた。突厥は戦意を失い和睦の盟を受けて引き上げて行った。
唐が興ってより七年にして、帝、王を僭称していた者は全て滅んで天下統一が成った。(624年)
この年に初めて州・県・郷にそれぞれ学校を設置し、高祖自ら国士学に出向き、先聖周公と先師孔子を丁重に祭った。さらに官制を新たに定め、律令を公布した。均田制と租庸調の制も定められた。二十歳から五十九歳までの丁者と十六歳から十九歳までの中者に田地一頃(百畝)を与え、重病者は十分の四、四十畝を夫を亡くした妻には十分の三の三十畝を与えた。そしてすべてそのうちの二割を国に返さなくてよい世業田とし、八割を口分田とした。丁者一人ごとに租として穀物二石を納めさせ、その土地によって綾・絹・綿・麻を調として納めさせた。
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十八史略 李世民、長安に凱旋す。

2012-10-06 09:28:50 | 十八史略

世民至長安、被黄金甲、二十五將從其後。鐵騎萬匹、甲士三萬、獻俘太廟、斬建於市、赦世充、尋使人潛殺之。
竇建故將劉黒闥、始起兵於漳南。
唐遣將李靖伐梁。梁主蕭銑降。送長安斬之。
杜伏威撃呉主李子通、執送長安。伏誅。
劉黒闥自稱漢東王。
楚主林士弘卒。其衆遂散。
漢東將執黒闥降唐。斬之。
唐淮南道行臺僕射輔公祏、反於丹陽。唐將撃斬之。

世民、長安に至るや、黄金の甲(よろい)を被(き)、二十五将その後に従う。鉄騎万匹(ばんひつ)、甲士三万、俘(とりこ)を太廟に献じ、建徳を市に斬り、世充を赦し、尋(つ)いで人をして潜かに之を殺さしむ。
竇建徳の故(もと)の将、劉黒闥(りゅうこくたつ)、始めて兵を漳南に起す。
唐、将李靖を遣わして梁を伐たしむ。梁主蕭銑(しょうせん)、降る。長安に送って之を斬る。
杜伏威(とふくい)、呉主李子通を撃ち、執(とら)えて長安に送る。誅に伏す。
劉黒闥自ら漢東王と称す。楚主林士弘卒す。其の衆遂に散ず。
漢東の将、黒闥を執えて唐に降る。之を斬る。
唐の淮南道(わいなんどう)の行台僕射(こうだいぼくや)の輔公祏(ほこうせき)、丹陽に反す。唐の将撃って之を斬る。


行台僕射 行台は中央官庁から地方に出張して事務を扱う役所。僕射は六省のうちの尚書省に属し、左僕射は吏部・戸部・礼部に、右僕射は兵部・刑部・工部の六部に分かれそれぞれ長官を尚書と呼んだ。

李世民が長安に凱旋した。黄金色に輝くよろいを着け、二十五人の将軍が後に従い、鉄騎一万、武装した兵士三万、俘虜二人を祖先の廟に献じて先ず竇建を市中で斬り、王世充を赦したが、すぐに人を遣って命を奪った。
竇建のかつての部下、劉黒闥が漳南で挙兵した。
唐、将李靖を遣わして梁を討伐させた。梁主の蕭銑が降伏したので、長安に送って斬った。杜伏威が呉主の李子通を攻め、捕えて長安に送った。子通は誅殺された。劉黒闥が自ら漢東王と称した。楚主の林士弘が死に、その部下たちはとうとう離散した。漢東王の将が主の劉黒闥を捕えて唐に降った。劉黒闥は斬られた。唐の淮南道の行台僕射、輔公祏が、丹陽で謀叛を起こした。唐の将軍がこれを伐って斬った。

 

 

十八史略 唐の天下統一成る。

2012-10-04 10:52:27 | 十八史略

竇建取河北諸州、自稱夏王。
李密叛唐。唐人獲而斬之。
夏主竇建、破宇文化及誅之。
隋主侗立一年。王世充廢之、而自立爲鄭帝、尋弑侗。
唐遣將襲涼主李軌、執歸殺之。河西平。
沈法興稱梁王於毘陵。
李子通稱呉帝於江都。
杜伏威降唐。
唐秦王世民、撃定陽將宋金剛破之。定陽可汗劉武周及金剛、皆走死。
唐秦王世民、督諸軍伐鄭。
呉主李子通襲梁。梁主沈法興走死。
夏主竇建救鄭。唐秦王世民、大破擒之。鄭主王世充降。

竇建徳(とうけんとく)河北の諸州を取って自ら夏王と称す。
李密、唐に叛(そむ)く。唐人(とうひと)獲(とら)えて之を斬る。
夏主竇建徳、宇文化及を破り之を誅す。
隋主侗(どう)立って一年、王世充之を廃し、自立して鄭帝となり、尋(つ)いで侗を弑す。唐、将を遣わして涼主李軌を襲い、執(とら)え帰って之を殺す。河西平ぐ。沈法興(しんほうこう)、梁王を毗陵(ひりょう)に称す。李子通、呉帝を江都に称す。杜伏威唐に降る。唐の秦王世民、定陽の将宋金剛を撃って之を破る。定陽の可汗(かがん)劉武周及び金剛、皆走り死す。唐の秦王世民、諸軍を督し、鄭を伐つ。
呉主李子通、梁を襲う。梁主沈法興、走り死す。
夏主竇建、鄭を救う。唐の秦王世民、大いに破って之を擒(とりこ)にす。鄭主王世充降る。


隋主侗 隋の恭帝侑の弟で東都の留守越王、王世充らが立てて同じく恭帝と自称した。 可汗 汗、首領。

竇建徳が河北の諸州を攻略して自ら夏王と称した。
李密が唐に叛いたので、唐の人がこれを捕えて斬った。
夏主の竇建徳が、宇文化及を破って誅殺した。
隋の恭帝を名乗った楊侗が立って一年で、王世充はこれを廃して自ら鄭帝となり、やがて侗を弑殺した。
唐が將を派遣して涼主の李軌を襲って、これを捕え、連れ帰って殺した。これで河西は平定した。
沈法興が、毘陵で梁王と称し、李子通が江都で呉帝と称した。
歴陽の杜伏威が唐に降った。唐の秦王世民、定陽の将の宋金剛を攻撃して之を破った。定陽の可汗の劉武周と金剛は、ともに敗走して死んだ。
ここで李世民は諸将を統括して鄭の討伐にかかった。
呉主の李子通が梁を襲った。梁主沈法興は敗走して死んだ。
夏主の竇建が、鄭を救援した。唐の世民はこれと戦い、おおいに破って建徳を捕虜にした。鄭の王世充は降伏した。こうして最強の敵王世充を下した620年に天下統一が成ったといえる。
このときわが国では推古天皇28年、聖徳太子が亡くなる2年前である。
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十八史略 関中の群盗李淵に降る

2012-10-02 08:34:32 | 十八史略

淵留兵圍河東、自引兵西、遣世子建成守潼關。世民徇渭北。關中羣盗、悉降於淵。合諸軍圍長安、克之、立恭帝。淵爲大丞相・唐王、加九錫。尋受禪、立子建成爲皇太子、世民爲秦王、元吉爲齊王。
隋東都留守越王侗、煬帝之孫也。亦爲衆所立、稱帝於洛陽。
秦主薛擧卒。子仁杲立。
魏公李密、與隋兵戰、大敗降於唐。
宇文化及、弑其所立主浩、自稱許帝。
涼王李軌稱帝。
唐秦王世民破秦。秦王薛仁杲降。送長安斬於市。
李密之將徐世勣、據密舊境降唐、賜姓李。

淵、兵を留めて河東を囲み、自ら兵を引いて西し、世子建成を遣わして、潼関(どうかん)を守らしむ。世民、渭北(いほく)を徇(とな)う。関中の群盗、悉く淵に降る。諸軍を合わせて長安を囲んで、之に克ち、恭帝を立つ。淵、大丞相・唐王となり、九錫を加う。尋(つ)いで禅(ゆづり)を受け、子建成を立てて皇太子となし、世民を秦王となし、元吉(げんきつ)を斉王となす。
隋の東都の留守(りゅうしゅ)越王侗(どう)は、煬帝の孫なり。亦衆の立つる所となり、帝を洛陽に称す。
秦主薛挙卒す。子仁杲(じんこう)立つ。
魏公李密、隋の兵と戦い、大敗して唐に降る。
宇文化及、其の立つる所の主浩を弑して、自ら許帝と称す。
涼王李軌、帝と称す。
唐の秦王世民、秦を破る。秦王薛仁杲、降る。長安に送って、市に斬る。
李密の将徐世勣(じょせいせき)、密の旧境に拠って唐に降り、姓を李と賜う。


潼関 今の陜西省にあった関所。 徇う 説得して降す。 九錫 九種の特権。

李淵は一隊を留めて河東を囲ませ、残りを率いて西に向かい、長子の建成を遣わして関中に至る要衝、潼関を守らせ、世民には渭水の北岸地域を説き巡らせた。こうして関中の群盗等は尽く李淵に降った。さらに諸軍をまとめると長安を囲みこれに勝ち煬帝に代えて、楊侑を立て恭帝とした。同時に自ら大丞相となり、唐王となり九錫を加え、遂に恭帝から禅譲を受けた形で帝位に即いた。そして、長子建成を皇太子に、次子世民を秦王に、三男元吉を斉王にした。
隋の東都洛陽の留守である越王楊侗は煬帝の孫にあたるが、多くの臣下に立てられて、洛陽で帝を称した。秦主の薛挙が死んで子の仁杲が立った。
魏公の李密が隋と戦って大敗を喫し、唐に降った。
宇文化及が、自分が立てた主の楊浩を弑して、自ら許帝と称した。
涼王の李軌が帝を称した。
秦王李世民が薛氏の秦を破った。仁杲が降伏したので長安に送り市中で斬った。
李密の将、徐世勣は李密の旧領地に拠っていたが、唐に降ったので李姓を賜った。
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十八史略 李淵挙兵す

2012-09-29 09:43:40 | 十八史略

會煬帝以淵不能禦寇、遣使者執詣江都。世民與寂等、復説曰、事已迫矣。宜早
定計。且晉陽士馬精強、宮監蓄積巨萬。代王幼冲、關中豪傑竝起。公若鼔行而西、撫而有之、如探嚢中物耳。淵乃召募起兵。遠近赴集。仍遣使借兵於突厥。世民引兵撃西河抜之、斬郡丞高儒、數之曰、汝指野鳥爲鸞、以欺人主。吾興義兵、正爲誅侫人耳。進兵取霍邑、克臨汾・絳郡、下韓城降馮翊。

会(たまたま) 煬帝、淵が寇(こう)を禦(ふせ)ぐこと能(あた)わざるを以って、使者を遣わし、執(とら)えて江都に詣(いた)らしむ。世民、寂らと、復説いて曰く、「事已(すで)に迫れり。宜しく早く計を定むべし、且つ晋陽の士馬は精強にして、宮監(きゅうかん)の蓄積は巨万なり。代王幼冲(ようちゅう)にして、関中の豪傑並び起これり。公若し鼔行(ここう)して西し、撫して之を有せば、嚢中(のうちゅう)の物を探るが如きのみ」と。淵乃ち召募(してしょうぼ)して兵を起す。遠近赴き集まる。仍(よ)って使いを遣わして兵を突厥に借る。世民、兵を引いて西河を撃って之を抜き、郡丞(ぐんじょう)高徳儒を斬り、之を数(せ)めて曰く、「汝、野鳥を指して鸞(らん)となし、以って人主を欺く。吾義兵を起すは、正に侫人を誅せんが為のみ」と。兵を進めて霍邑(かくゆう)を取り、臨汾(りんぷん)・絳郡に克ち、韓城を下し馮翊(ひょうよく)を降す。

宮監 晋陽宮の蔵。 幼冲 ともに幼いこと。 鼔行 陣太鼓を打ちながら進軍する。 郡丞 郡の次官。 数める 罪状を数えあげて詰問する。 鸞 瑞鳥。 

たまたまその時、煬帝は李淵が突厥の侵攻を防ぐことができなかったことを責めて使者を遣わし、捕えて江都に送らせようとした。世民は裴寂らと再び説いて「事はいよいよ切迫しております。速やかに決断せねばなりません。晋陽の兵馬は精強です。離宮には巨万の富が蓄積されています。代王は幼少で後ろだてもなく、関中では一かどの豪傑どもが並び起こっています。父上が軍鼓を打ち鳴らして西に向かい、連中を取り込めば、袋の中を探り取るようなものでございます」と促がした。李淵はここにきてようやく兵を招集して軍を起した。すると四方から続々と馳せ参じて来た。そして使者を派遣して突厥からも兵を借りた。世民は兵を率いて西河郡を攻め落とし、郡の次官の高徳儒を引き出し、「お前はただの野鳥を太平の世に現れるという鸞と偽り、君主を欺き取り入った。我々が義兵を起したのはお前のようなへつらい人を誅滅するためだ」と罪状をあげて斬った。世民はさらに兵を進めて霍邑県を取り、臨汾県・絳郡を陥れ、韓城県を下し、馮翊郡を降した。
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十八史略 家を破り身を亡ぼすも、亦汝に由らん

2012-09-27 08:59:01 | 十八史略

淵曰、吾豈忍告。汝愼勿出口。明日復説曰、人皆傳、李氏當應圖讖。故李金才無故族滅。大人能盡賊、則功高不賞、身危矣。惟昨日之言、可以救禍。此萬全策。願勿疑。淵歎曰、吾一夕思汝言、亦大有理。今日破家亡身、亦由汝。化家爲國、亦由汝矣。先是裴寂私以晉陽宮人侍淵。淵從寂飮。酒酣寂曰、二郎陰養士馬、欲擧大事、正爲寂以宮人侍公、恐事覺併誅耳。

淵曰く、「吾、豈告ぐるに忍びんや。汝、慎んで口より出だす勿れ」と。明日(めいじつ)、復た説いて曰く、「人皆伝う、李子当(まさ)に図讖(としん)に応ずべしと。故に、李金才は故無くして族滅せられぬ。大人(たいじん)能(よ)く賊を尽くさば、則ち功高くして賞せられず、身益々危からん。惟昨日の言、以って禍を救う可し。此れ万全の策なり。願わくは疑う勿れ」と。淵、歎じて曰く、「吾一夕、汝の言を思うに、亦大いに理あり。今日(こんにち)、家を破り身を亡ぼすも、亦汝に由(よ)らん。家を化して国を為すも、亦汝に由らん」と。是より先、裴寂(はいせき)、私(ひそか)に晋陽の宮人を以って淵に侍せしむ。淵、寂に従って飲む。酒酣(たけなわ)にして寂曰く、「二郎陰(ひそか)に士馬を養い、大事を挙げんと欲するは、正に寂が宮人を以って公に侍せしめ、事覚(あら)われなば併せ誅せられんことを恐るるが為のみ。

図讖 予言書。 李金才 予言書に合致する者と疑われて一族皆殺しにされた。

淵はそれを聞くと「どうして死罪などにできようか。だからお前もきっと口を慎むのだぞ」と言った。あくる日世民はまた説いて「世間では、李氏が予言書にある通り、天下を覆すに違いない、とうわさしています。ですから彼の李金才も皆殺しの憂き目に遇ったのではどざいませんか。父上が賊を掃討しましても、称揚されることはありますまい。むしろますます御身が危険になるばかりでございます。ただ一つ昨日申し上げた手立てのみ、この危機を救う万全の策でございます。決して疑わないでください」と再び決行を促した。李淵は「わしはゆうべ一晩考えたがお前の言ったこともおおいに理がある、この家が絶え、身を亡ぼすも、家が興り一国にするもお前の考えに賭けてみようか、とも思う」と苦渋に満ちた面持ちで答えた。
これより前、裴寂もまた手をまわして、晋陽の宮女を連れだして密かに李淵の側に侍らせておいた。ある日のこと、李淵は裴寂の邸で酒を飲んでいた。宴たけなわになった頃「ご次男は将士と軍馬を養っておられるが、ご存じでしょうか、それは何故かといえば、私が密かに宮女を連れ出してあなたの側に侍らせたから、それが発覚すればあなたと私のみならず、自身も巻き添えになると恐れたからでございます」と暗に決行を促した。
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十八史略 敢えて死を辞せず

2012-09-25 11:28:40 | 十八史略
文靜謂世民曰、今主上南巡、羣盗萬數。當此之際、有眞主驅駕而用之、取天下如反掌耳。太原百姓収拾、可得十萬人。尊公所將兵復數萬、以此乘虡入關、號令天下、不過半年、帝業成矣。世民笑曰、君言正合我意。乃陰部署。而淵不知也。會淵兵拒突厥不利、恐獲罪。世民乘説淵、順民心興義兵、轉禍爲福。淵大驚曰、汝安得爲此言。吾今執汝告縣官。世民徐曰、世民覩天時人事如此。故敢發言。必執告。不敢辭死。

文静、世民に謂いて曰く、「今主上南巡し、群盗万もて数う。此の際に当り、真主有って駆駕(くが)して之を用いば、天下を取らんこと掌(たなごころ)を反すが如きのみ。太原の百姓(ひゃくせい)収拾せば、十万人を得(う)べし。尊公の将たる所の兵また数万あり。此れを以って虚に乗じて関に入り、天下に号令せば、半年を過ぎずして、帝業成らん」と。世民笑いて曰く、「君が言正に我が意に合えり」と。乃ち陰(ひそか)に部署す。而して淵は知らざるなり。会(たまたま)淵の兵、突厥を拒(ふせ)いで利あらず、罪を得んことを恐る。世民、間に乗じて淵に説く、「民心に順(したが)いて義兵を興さば、禍を転じて福となさん」と。淵、大いに驚いて曰く、「汝、安(いずく)んぞ此の言を為すを得ん。吾いま、汝を執(とらえ)て県官に告げん」と。世民徐(おもむろ)に曰く、「世民、天の時人の事を覩(み)るに此(かく)の如し、故に敢えて言を発す。必ず執えて告ぐとも、敢えて死を辞せず」と。


主上 煬帝のこと。 真主 真に天子として相応しい者。 駆駕 馬を走らせること、使役すること。 尊公 李淵のこと。 部署 手はずを整える。 県官 朝廷の意。 覩 観に同じ。

劉文静が李淵の二男の世民に説いた。「今、帝は南に巡幸したまま江都に留まって還ろうとしません。その間に中原は、万を数える盗賊が群がり起こっています。この機会に、真の天子たるにふさわしい人物唐公が、この連中を上手く使うことです。この地太原の民十万、お父上の兵も数万ありましょう、これだけ居ればこの隙に乗じて関中に入り、天下に号令すれば半年を経ずして手中におさめることができましょう。」世民は「いやはや君も同じことを考えたものだな」と会心の笑みを浮かべて頷いた。そして密かに手はずを整え始めたが、李淵には一切知らせなかった。ちょうどその頃、李淵の部下が突厥と戦って敗れた。煬帝の怒りを恐れていた李淵に、世民が吹き込んだ「民の気持ちはご存知でしょうここで正義の兵を起こせば、禍いを転じて福となすことができるでしょう」と。李淵おおいに驚いて「何を言う気は確かか、正気ならばひっ捕らえて役人に引き渡さなければならん」世民は落ち着いた口調で「この私が天の運行と世情を見極めたうえで敢えて申し上げました。捕えて役人に引き渡すとも、死罪を申し渡されようとも、やむを得ないことです」と言った。

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最終更新:2025年07月12日 10:04