五仏について、もう少し詳しく説明したいと思います。
これは、日本の密教でも、あるいは、インド、チベットの密教でも、二門を数えます。二門というのは、まず、胎蔵界、そして、金剛界ですね。胎蔵界とは何かというと、わたしたちの愛、現世あるいは、あの世での利益、それを眠らせるという意味、それを貯蔵するという意味、そこから胎蔵界という意味がきている。
そして、金剛界というのは何か、わたしたちの堅固な生き方、金剛というのはヴァジラという意味ですね。これは竪固、崩れないもの、いいですか。わたしたちの堅固な生き方、それを表わしているのが金剛界です。
そして、今、ケイマが説明しましたとおり、その金剛界には五仏がいます。そして、五仏にそれぞれ侍者がついています。例えばアクショブヤには、ヴァジラサットヴァの妃がついていますね。これは、えー、今、ここの方は、ほとんどいろいろな宗教遍歴がおありでしょうから、おわかりだと思うけども、金剛薩た(「土」(つちへん)に「垂」)といわれてる人たちです。その一群を率いているのがアクショブヤですね。
そして、ラトナ部は、ラトナサンバヴア、これに従っているのがラトナ部、これはどういうことかと言いますとね、よくをえてごらんなさい。強靱な意志というものは、いいですか、わたしたちにこの世での素晴らしい結果を、あるいは、あの世での素晴らしい結果を招いてくれます。例えば、他の人が遊んでいるとき、一生懸命勉強する。そうすると、当然いい学校へ行ける。あるいは、他の人が遊んでいるとき、必死に仕事をする。そうすると、わたしたちは他の人よりも豊かな生活ができる。このように強靭な意志、これは宝を生み出すわけです。だからそれを、宝生如来と訳しています。いいですか。そして、そのラトナサンバヴァ、宝生如来に従う宝生部の一族がいます。
まあ 密教とヨーガは若干関係がありますけども、シヴァ神は、この宝生部に属すると言われています、一応ね。宝生部、ラトナサンバヴァ、イコールシヴァだという説が、今の密教の考え方では中心です、主流です。
そして、アミターバ、これは、あなた方が、「南無阿弥陀部仏、南無阿弥陀部仏とと唱える阿弥陀如来のことだ。アミターバが率いているのは、蓮華部の聖衆、これは何かというとね、観音様、この観音様たちを率いているのが、阿弥陀如来だということになっている。いいですか。ではなぜ、そのアミターバ、阿弥陀如来が、わたしたちを救済するのか。わかりますか、これは。
これは、こういうことだ。この世でもそうだし、あの世でもそうだが、わたしたちが苦しんでいるのは、正確な理解、例えば、この世に対する正確な理解、あの世に対する正確な理解がないからだ。
例えば、Aという人がいて、その人に対して正確に理解していたら、だまされることもないだろう。あるいは、これ以上無理してはいけないよ、というときに無理をしなかったなら、病気にかかることもないだろう。正確な識別智というのはね、それを表わしているんだ。
つまり、わたしたちがこの世、あるいは、あの世で生きているときにね、何が正しくて、何が正しくないか、何がわたしたちを幸福にして、何がわたしたちを不幸にするか、これを確実に理解させてくれる仏様、これが阿弥陀如来です。
そして、アモガシッディ、不空成就如来、あるいはね、釈迦牟尼如来と同体だといわれている、があります。つまり、シッディというのは成就という意味だ。皆さんは、シッディを超能力と考えているかもしんないけども、そうではない。もともとの意味というのは、成就しましたよ、ここまであなたは、この段階までいきましたよという意味で、シッディは使われている。だから、アモガシッディが仏陀になっている。いいですか。
そして、わたしたちは、瞑想中の経験、これを持ってあの世へ行くならば、迷うことはない。
例えば、透明光が差し込んでくる。これは知らなければ非常に怖い。暗闇から急にね、ものすごい明るい世界に飛び出すわけだから。そうすると、わたしたちは鈍い白い光のデーヴァの世界、天界へ引きずり込まれてしまう。
ところが、修行上で、ダルマカーヤ、法界のエネルギーを、もし経験しているならば、当然法界へ入っていくでしょう。
わたしたちが、なぜ修行が必要だといったらね、わたしたちの修行の経験こそが、わたしたちに真理を教えてくれるんだよ。例えば、いくらわたしが、透明光は法身の光であると、白銀光は報身の光であると、赤紫の光は変化身の光であると、いいですか、それを本に書いたとしよう。ところが、あなた方はそれを知らない。経験がないんだから。わずかにシャクティーパットのときに、明るくなった。まあ、それはいろんなランクがある。あるいは、色が見えた。スタートの位置は、それによって知ることができるだろう。そして、修行が進んでくると、そのうち、アージュニャー・チァクラのところにパッパッパッと、光るようになる。そして、最後には、シャンバビー・ムドラー、あるいは、ウンマニー・ムドラーをね、行じると、周りが一変します。初めはね、白銀光が来る。そして、透明光が射し込んでくる。これが、法界、報界といわれているね、世界に入る。そして、皆さんがその光に包まれたとき、真我がどういう状態であるか、あるいは、心というものがね、どういう状態であるか、理解できるだろう。このプロセスを、アモガシッディと言っています。
そして、この四つがすべて備わったとき、あなた方にはね、もう苦しむ必要はない。ヴァイローチャナ、大日如来の世界に入っていきます。
ただし、いいですか、金剛界でうたわれているヴァイローチャナは、ひととおりこの四つの完成だが、いいですか、もう一度見てごらんなさい。ヴァムだ、ヴァム、ヴァム。ところが、これは、ヨーガでは水元素になっている。ラム、ヴァム、ラム、ヤム、ハムと、マンダラに並べたらね。つまり、これは功徳というものを根本にして、東・南・西・北、そして中央に入っていったという証なんだね、これは。だから、世界という意味においては、もっと、ラム、ヤム、ハムという世界があると思ってよい。そして、オウム、サティアンというね、世界が。
しかし、普通の人が、修行によって到達できる限界というのは、ヴァムなんだ。というよりもね、もっと言い方を換えれば、この肉体を持っていて成就できる世界の最高点が、ヴァムだと思いなさい。
じゃあ、わたしたちは、このサティアンの世界まで行けないのかと。そういうことはない。
そこで出てくるのが、胎蔵界だ。だから、皆さんが、金剛界の修行が完全に成就したならば、次は、胎蔵界へ行くことができるよ。これは、ヨーガも密教も同じだ。
そして、少し修行について説明しておきましょう。今回、皆さんの曼陀羅に付けた水というのはね、わたしの弟子たちが、十人ぐらいかかって三時間、修法してます。一人三時間だ。そして、最後にわたしが、それを修法し直している。だから、トータルすると、そうだね、一日半ぐらい修法し続けた水だと、思ってよろしい。だから、この水は相当にパワーがあるよ。そこらへんの水道から、水を汲んで浸けたわけではない。
そして、これを東方に飾りなさい。だから、あなた方が東向きになれるようにね、飾る。で、悪いことが起き出したら、もう、この曼陀羅の力はないと思いなさい。そしたら、オウムに送り返すように。こちらで、きちんと供養して、空性に返すから、いいね。
はい、それでは、曼陀羅について質問があれば答えるし、なければ、いつものとおり説法に入ります。
(ケイマ大師)どうぞ。
(質問者A)あのー、方角から見て、家の中心から見て、東に貼っとけば、よろしいでしょうか。
(尊師)そうです。
(質問者B)よろしいでしょうか。
(ケイマ大師)はいどうぞ。
(質問者B)すいませんけど、床の間とか、その中心になるべきものを持っていないマンションだとどうなるんでしょう。
(尊師)いや、もうかまわないよ、壁で。
(質問者B)はい、わかりました。壁ですね。
(尊師)もう、どっこでもかまわない、それは。
(ケイマ大師)……はよろしいですか。はい。
(質問者C)例えば、こう、ベッドで寝てますよね。足を
向ける‥…。
(尊師)まあ、本当はベッドの方向を変えてほしいけども、足を向けてもいいよ。東方というのは意味があるんだね、これは。先程も説明したとおり、わたしたちの修行を完成させるためには、ベースに功徳が必要なんだよ。だから東から入るわけだ。
四つの四無量心について、今日は話したいと思います。わたしたちが解脱するためには、二つのプロセスをたどらなければならない。これは、いいですか、俗に言うところの、エンライトメント、それからセルフ・リアライゼーション、このもし、一方が欠けたならば、それは片手落ちということになる。
つまり、セルフ・リアライゼーションというのは何であるか、これはね、俗に言うところの悟りだ。そして、エンライトメントというのは、クンダリニー・ヨーガの成就だ、いいですか。そして、一般に言われている禅の悟りというのは、セルフ・リアライゼーションに属すと。だから、シッディを持っていない。
逆に、セルフ・リアライゼーションなしにエンライトした人は、大変わかりづらい人生を送る。当然、この世で大変わかりづらい人生を送るわけだから、あの世に行っても、大変わかりづらい人生を送る。しかし、大変パワーを持っているわけだね。
そして、セルフ・リアライゼーションに最も到達する早道というのは、ジュニアーナ・ヨーガだ。エンライトメントに最も早く到達するやり方というのは、クンダリニー・ヨーガ、アモガシッディの世界だね。
そして、わたしが「シャンバラ新聞」に書いている四つの思いを集中するところ、四念処だね、これは。身・受・心・法。それから、今、書き出している四つの無量心、愛、哀れみ、褒めることからくる喜び、そして、一切を平等に見る、この四つだね。日本の仏教界では、この平等心を一切に無感動になれと言っているが、そうではない。一切を平等に見るということと、無感動になるということは違う。
それは、四念処にしろ、四無量心にしろ、わたしたちの心を、エゴを崩壊させてくれる。そして、わたしたちは、エゴが崩壊したときに悟りを開くことができる。これがセルフリアライゼーションです。つまり、四念処、四無量心、このプロセスというのはね、わたしたちにとって悟りのプロセスなんだ。いいですか。
もし、皆さんが、四念処、四無量心を確実に理解したというならばね、そのとき、その人は、一方の仏陀になることができるだろうね、悟りという意味においては。だから、四念処、四無量心、この二つというものは、最も大切な瞑想なんだよ。そして、わたしたちは、そのプロセスをたどらない限り、悟りというものを開くことができない。それは、四念処にしろ、四無量心にしろ、アンチ・エゴだからね。エゴが最も嫌がることをやるわけだから。
例えばだよ、ここに愛する人がいる。そして、憎む相手がいる。この二人を平等に見れますか。当然、見ることはできない。それをやれというわけだからね。わたしたちの心は大変苦しむだろう。そして、それに対して、平等に見ることができるようになったなら、わたしたちの心の許容量、幅、これは大変広がっていることになるね。そして、愛だ。もちろん、根底に平等心がない愛なんていうのはあり得ない。それはわかるね。
では、この愛の瞑想はいったいどうしたらいいんだ。それはね、例えばだ、街を歩いている、そうすると、母親が子供をおんぶしている。そのときのうれしそうな顔、そのとき、あなた方は母親になりなさい。完全になり切りなさい。あるいは、子供のことを考えて叱っている母親、父親、もちろん、憎しみを持って叱っているのは駄目だよ。それは感じるはずだ。そのとき、あなた方は一緒に母親や父親になんなさい。というのはね、例えば、あなた方には、母親がいて、父親がいて、あるいは、子供がいて、夫がいて、というこの世でのね、条件があるだろう。そして、その条件というのは、前生において作り上げられたものにすぎないんだ。だから、例えば、自分の目の前を歩いている、道端でだよ、日の前を歩いている女性が、前生では妻だったかもしれないわけだ。あるいはいたずらをしている子供が、前生では父親だったかもしれない、あるいは恋人だったかもしれない。そうなってくるとね、わたしたちが今の家族に対して強すぎる愛情を持つ根拠というのは、崩れてくるわけだ。
というのは、なぜかわかるか。今、 一生懸命愛着したとしたって、来世はまた変わってしまうよ、相手が。例えば、今、わたしたちが憎しみを持っている相手と結婚するかもしれない。それは、わたしたちの、いいカルマ、悪いカルマによって変わってくる。「麻原、そんなこと言ったって、それは違うだろうが。じゃあなぜ結婚するんだ」と言うかもしれない。しかし、よく考えてごらん。わたしたちは、いろんな相手と結婚している。そしてだ、人間として最高の快楽、つまリセックスだ、これは。それを互いに堪能し合っているはずだ。しかし、理解できるどころか、わたしたちは、互いに相手を傷付け合ってるじゃないか。なぜだ、じやあ、それは。それは、悪いカルマで結び付いた場合だ。そして、いいカルマで結び付いた場合、そういう条件がなくとも、相手は、一生懸命サポートしてくれる、手助けしてくれる。
つまり、条件としては二つあるんだ。最も憎しみを持って死んだ場合、その憎しみを持った相手と結婚する可能性は非常に強い。そして、互いに足を引っ張り合う。逆に、最も愛し合って死んだ場合、これも結ばれるだろう。そして、それは、互いに互いを理解し合おうとし、手助けをするだろう。
だからね、わたしたちは、結婚というものに対して、夫婦生活というのものに対して、あるいは、親子というものに対して、強い執者を持つ必要はないんだ。
じゃあだ、「麻原、じゃあ、義務を放棄していいのか」と。それとこれとは違う。なぜか。もし、君たちが、あなた方が、解脱できなかったとしようね。そうすると、あなた方は、おそらく人間界に生まれ変わるだろう。その理由は、一生懸命修行をしているからだ。最も修行に適している世界、これは人間界だからだね。そうするとだ、この世で、例えば子供に対しては無視と、妻に対しては無視と、夫に対しては無視と、こういうやり方をしていたら、そのカルマが次の世で、あなた方に返ってくるだろう。あなた方が無視される環境になるということだね。つまり、わたしたちが投げかけたボールしか、わたしたちは受け取ることができないんだ。だから、どんな人に対しても親切にしなさい、ということになる。
わたしはね、一九八六年、この年の目標として、まず、最終救済である解脱者を作るためのシステムを生成したいと思った。そしてそれは、少しずつ少しずつ実を結んでいる。
しかしだ、わたしの愛する一人の聖者、ラーマクリシュナ・パラマハンサというのがいる。彼はこう言っている。確かに、最高のカルマを持つ者にとって、解脱というものは救済であると。しかし、一般の人たちはそこまでカルマがないと。例えば、その人たちはお金を欲しがるだろう、あるいはいい生活をしたいと思うだろう、いい相手と巡り会いたいと思うだろう、あるいは病気を癒したいと思うだろう、と言っている。そして、それを救すことがね、救済だと。つまり、段階があるんだと言っている。病気を治したい者には、治してやればいい、現世的な喜びを求めたい者には、求めさせればいいじゃないかと。そして、それででき上がったリレーションね、関係によって、その人たちを正しい真の生活に導き入れ、そして最終的に、解脱させることが本当の救済ではないかと。そして、ラーマクリシュナ・パラマハンサは、それを実践した。その弟子であるスワミ・ヴィヴェーカーナンダ、彼も同じように実践した。そして、ヨーガというものとこの世に広めたわけだ。
まあ、彼らが広めたヨーガというのは、ハタ・ヨーガではない。ラージャ・ヨーガ、それからパクティー・ヨーガという二つのヨーガだけどもね。そしてわたしは、もうあと二時間前後で来る一九八七年の目標としてはね、この三門、つまり、最もいいカルマの人は解脱しようじゃないかと。そして、病気で苦しんでいる人間に対しては、それを救済しようじゃないかと。他の悩みで苦しんでる人間に対しては、それを救済しようじゃないかと。そして、最もカルマの優れている人たちは、その人たちを救済してあげなさいという方向でね、いきたいと思っている。
だから、これは、皆さんの協力なしには、わたしのこの世での役割というものは、達成できないだろう。
しかしだ、わたしたちがもし、最終救済である解脱を捨てたならば、それは何の意味もなさない。じゃなぜだ。それは、日本をこの世に残さなきゃならないんだ、わたしたちは。救世主をわたしたちは残さなきゃならないんだ、この世に。それは、あなた方がやるしかない。そのためにはね、先程言った、四つの心を住する処、四念処、それからね、四つの無量心、これを実践してほしい。心の訓練のために、人が喜んでいたら、あなた方も参加しなさいよ、それに。人が悲しんでいたら、あなた方も参加しなさい。そして、少しのことでも、相手を心から誉める訓練をしなさい。そして、身内、あるいは、敵対している相手の区別なく、相手の意見をよく理解するように訓練しなさい。これが最も早道だ。そして、あなた方しかいない、救済できるのはね。それは、今の宗教、日本の宗教の中で、解脱というプロセスを歩いているのは、あなた方しかいないからだ。わたしとわたしの弟手たちは、あなた方のお手伝いをしよう。
最終更新:2017年12月02日 23:33