すでにセーナは風の迷宮をカナンに向かって戻っていた。リーヴェたちが降臨した瞬間に大勢を判断し、手早く手勢をまとめて離脱していた。もちろん新たな戦が勃発した祖国グランベルへ一刻も早く帰国するためである。約一週間かけて邪神の神殿で向かった道をわずか3日で引き返した。しかしその途上にある人物がセーナを試すために訪れた。
それは傍目から見ればただの吟遊詩人の姿をしている。しかし風の迷宮という場所に吟遊詩人がいるわけがない。それでいてセーナたちの進路を塞ぐように立っているのである。すぐにゲインが彼をどけようとするが、その詩人は石のごとく留まりつづける。業を煮やしたゲインが炎の剣を振るって、詩人に火球を放った。するとどうだろうか、火球は詩人に炸裂すると思われた瞬間、それは霧散した。その時には後続のセーナたちも合流して、その詩人の魔力に戦慄した。詩人はセーナの姿を認めるや、軽く会釈をして言った。
「あなたがファルシオンを継ぎし者ですね。セーナ皇女、時間に猶予がないのかもしれないが、あなたの実力を試させてもらう。」
敵意を剥き出しにしないものの、「試す」と言われればセーナも応じなければならない。それがグランベルへの最短経路なのだ。セーナは鞘からファルシオンを抜いて、その詩人に相対した。
「なるほど確かにファルシオン・・・。ならばこの魔法を耐えられるかな。」
直後、詩人からおびただしい闇のオーラが溢れ出した。しかもその密度はあのガーゼルの比ではない。それは彼の魔力にひるんだゲインの反応を見ても明らかである。不気味な詠唱を続ける詩人の周りに青白い炎が浮かび上がり、迷宮を暗く照らす。セーナはこの瞬間、ファルシオンでも太刀打ちできないことを悟り、剣を鞘に戻した。ファルシオンの魔法防御力は確かに強力だが、この詩人の圧倒的な刃からすれば付け焼き刃のプラスにしかならないのである。そんな小手先の手段で、この闇魔法を守りきれるはずがない。ならば・・・受け流すのみ。この姿勢を見た詩人は詠唱中ながらも思わず唸った。
(ほう、そう来るか・・・。だが果たしてこの魔法を流し切れるか。)
しだいに詩人を囲む青白い炎が彼の手の前で収束する。
(来るッ!!)
セーナはその魔法を受けるのは初めてである。しかしなぜかその魔法のタイミングを見切っていた。セーナの予測どおり、1つにまとまって漆黒の玉となった直後、詩人がそれを放った。
『エレシュキガル』
巨大な波動となってセーナを襲う。しかしセーナはそれに対して決して身構えようとはしない。ミカやゲインは息を呑んでそれを見守るしかない。ゲインは為す術がなく、ミカは未だに魔力が回復していないのだ。その闇の波動は真っ直ぐにセーナを狙っていた。まもなくそれがセーナを襲おうとした瞬間、その詩人を始め全ての将兵たちが目を疑った。さっきまで恐ろしく太かった波動がセーナのすぐ目の前で、行く筋にも分かれてセーナの横を通り過ぎていったのである。
(まさか、あの魔力でこのエレシュキガルを受け流すとは・・・・。)
この詩人の名はホルス。後に世界の命運を決める人物の一人となる。
「さすがは神君マルスの再来・・。恐れ入った。」
そしてホルスは道の端に立って、セーナに進軍を促した。
「さぁ、行くがいい。愛すべき祖国に再び光を満たすのだ。」
事情は全くわからないが、とにかく道を空けてもらったのでセーナはすぐに進軍を指示した。ゲインが先鋒となって、迅速に風の神殿に向かって走り去っていく。やがてセーナもホルスの横を通り過ぎようとした時、彼女がホルスに言った。
「ノルゼリアではありがとう。」
ホルスはまたしても舌を巻いた。セーナはその人物の持つ魔力の雰囲気で人を判断することがある。そしてあのノルゼリアの大激戦時にセーナを襲うとした黒い竜を妨害したもう一頭の竜と目の前の詩人の魔力の雰囲気を読み取って同一人物と判断できたのである。もっともセーナの後に続いてくるある女性がいなければ彼女も判断できなかったはずであった。その女性を見つけた時、ホルスはセーナが己を判断できた理由を知った。ホルスがその女性、チキに軽く会釈をした。同じ竜石で人と竜に変身できるマムクートである。チキも軽く会釈して、すぐセーナたちの後を続いていった。それを見送ったホルスは呟いた。
「もしかしたらマルス公より上かもしれない。」
そしてホルスは闇へと同化していった。
だがアクシデントはこれだけではなかった。セーナがふとファルシオンを手に持った。どこか違和感を感じたのである。それを示すようにファルシオンが強く輝き始め、しだいにそれが秘める圧倒的な魔力がセーナを圧迫し始める。セーナが限界に近付いた時、一気にファルシオンが猛烈な光を放った。それは聖なる光で包まれている邪神の祭壇まで届くほどであった。
セーナが息も絶え絶えになりながらも、無意識的にファルシオンを鞘に収めて、状況を理解するために辺りを見回した。するとセーナのすぐ隣に見たことのない剣が床に突き刺さっていた。すぐに剣を持ってみたところ、どこか懐かしい風がセーナを包み込む。
「これは・・・ティルフィング!」
形は原型を留めていないが、それが持つ雰囲気は紛れもなく聖剣ティルフィングであった。多少性質にも変化が感じられたが、祖父シグルド、父セリスが振るっていた感触が伝わってくるので間違いない。そう悟ったセーナはティルフィングに語りかけた。
「そう、お前はやっぱり『ティルフィング』のままがいいのね・・・。」
剣にも意志がある。後にセーナはこう残している。ティルフィングはそれを顕著に表した武器だった。しかしティルフィングが分裂したことでファルシオンが無力化されていないのだろうか。不安となったセーナはすぐにファルシオンを再び鞘から取り出して、眺めた。すると全く分裂前と変化している様子は見受けられなかった。それどころか苦笑いをしているかのように薄く輝く始末である。これには思わずセーナも吹き出して、ファルシオンをしまった。
「私に聖剣は二振りもいらない・・。ティルフィング、あなたは元の持ち主のところに返してあげるわ。」
そういってセーナはティルフィングを身近な布で包んで、再度行軍を再開した。
そんなこんだで進軍は途中で止まることはあったがガーゼル壊滅からわずか3日でカナンへの帰還を果たした。するとユリアを先頭に、グリューゲル騎馬部隊、そして飛行部隊が荘厳な隊列を作って、セーナを出迎えた。カインや、ノルゼリアから帰還したアベルらはゲイン、ミカ隊の疲労困憊した姿を見て思わず言葉を失った。それだけカナンを出発した時と、今帰還してきた時の違いがハッキリしていた。カインらが計画していた宴は中止として、その日は終日休むことになった。セーナはこの日の夜までカインからのもらった情報を整理していた。だが今、リーヴェが怪しく動き始めている。「黒き雨」の被害を受け、十数万人の死傷者を出したばかりだというのに、水の神殿で消えたリュナンを謀反人に仕立てて、それを足がかりにリーベリアをこの手でまとめてしまおうと企んでいるという。これを事前に察知したセーナは自身のリーヴェ支援をきっかけにして早急に彼女に接近した貴族たちを通じて、これをすぐに知らせるように情報網を整備していた。そしてもし事が起こった時に備えて、エーデルリッターをノルゼリアに、南リーヴェにレジスタンス・ブルーバーズを配している。そしてリーベリア西部に散って、ホームズ軍に武具の輸送と、「黒き雨」対策のために外交作戦を展開していたエーデルリッター別働隊はすでにラゼリアに入っている。つまりリーヴェ包囲網はほぼ完璧に整っていることになる。ここにセーナのリーベリア最後の鬼謀が発揮している。
次の日、セーナは当面の本営ガルダ島へ向けて、出発した。その進撃速度は当時のリーベリアでは考えられないスピードで、わずか1日でバージェへ到着し、そしてさらに1日でガルダへ着くほどだった。こうしてユグドラルから訪れた女神はリーベリアを去っていった・・・。