セーナのカナン帰還から遅れること一週間、リュナン、セネト、ホームズ、そして大地母神ミラドナによって生き返ったリチャードが水の神殿から出てきた。一同はリムネーを経由して、ノルゼリアへ入った。ここでリュナンたちはリーヴェの貴族たちが傭兵をかき集めてラゼリアへ進撃したことを知った。それをすでに知ったエーデルリッターのミーシャは全軍を率いて、彼らを討伐すべくノルゼリアを発った後だった。その主なきノルゼリアはエーデルリッターのおかげでわずかながら復興が進んでいた。
「黒き雨」対策のためにまず屋根を修理していたことが、連合軍がこの廃墟都市に駐留するのに助けとなった。収容能力を一気に回復したノルゼリアは連合軍60万を受け入れて、この日はそれぞれの持ち場で思い思いの一日を過ごすことになった。
その夜、未だにリュナン軍に留まっていたリベカの元にラケルが訪れた。
「リベカさん、セーナ皇女はもうユグドラルに向かったと言われているのにどうしてあなたはまだここに残っているのですか?」
実は影で、リュナン軍にいたパピヨンと、なぜかリチャード軍のアジャスがセーナ軍に向かっている。パピヨンはセーナの去り際にリーベリアに残るか、ユグドラルに付いてくるのかと問われ、彼は前者を選んだ。そして同じく彼女の計らいでクリシーヌと会って、今までの出来事、ユグドラルに向かう決意を話した。まさかとは思っていたが、パピヨンいやアルドから真実を聞いたクリシーヌはリーベリアで彼を待つことを伝えた。それを聞いたアルドは笑顔をしながらクリシーヌに背を向けて、再びセーナの忠実な騎士パピヨンへと戻っていた。そしてそれを遠目から見ていたアジャスがニヤニヤしながらパピヨンの後を付いていったわけである。しかしセーナの影武者を務めるほどセーナに忠実なはずのリベカが未だにリュナン軍に留まっている。それをラケルが聞きに来たわけである。
「それは簡単なことです。あなたのご決心をお待ちしているのです。」
それを聞いたラケルは苦悶の表情になった。リベカが真に言いたいことは聖弓イチイバルをもらった時点で悟っている。セーナがこれから故郷グランベルに戻るに当たって、まず戦うことになるのがユングヴィ家である。寡兵ながら圧倒的な戦力を持つセーナはユングヴィと戦って負けるつもりはないが、それを滅ぼすつもりはない。しかしユングヴィ家の当主は誇り高き聖騎士の1人、ファバルである。寡兵のセーナに戦って負けるとすれば、その責を一身に背負ってユングヴィを滅亡に導く行動を取る可能性が非常に高いのだ。それゆえにセーナはどうしても同じくユングヴィ直系のラケルをユグドラルに帰還させたかったのである。しかしそれはラケルの気持ちを無視していた。セーナとてそれは承知している。承知しているからこそ、ラケルに自発的な意志でユグドラルに来て欲しかったため、リベカを未だにリュナン軍に残しているのである。だがセーナの心を知るリベカはラケルの心にあえて深く切り込んだ。
「私はつい最近まで人も殺せぬ一村人でした。それがいきなりユグドラルの名家を継ぐなどできるはずがありません。」
確かに正論である。しかしセーナと違って辛口なリベカはどんどん切り込んでいく。
「確かにあなたは今までは普通の人でした。しかしその内面にはユグドラルの歴史に沿って綿々と続いてきた弓神ウルの血が入っていることも忘れないで下さい。その血を継ぐのはもうあなたを除いていないのですから。」
聖弓イチイバルを使えることがその証である。リベカはさらに続ける。
「それにあなたがユングヴィ全体の執政を取るわけではありません。ユングヴィの旧臣たちにほとんどを委任してもよろしいですし、セーナ様のおられるヴェスティアもユングヴィの隣国。セーナ様はあなたの執政を全面的に支援するつもりです。」
意味の捉え方を誤ると、ユングヴィがヴェスティアに傀儡にされる可能性もあるが、ラケルはセーナにそういうことを企む人間でないと判断している。ラケルは再び考え込んで、しばしの沈黙が流れた。
そしてラケルは決意した。
「リベカさん、私もガルダへ向かいます。」
それを聞いたリベカが笑顔を満面に浮かべて言った。
「主セーナに代わって、お礼を申し上げます。」
この瞬間、ラケルはユングヴィ後継者を名乗り、リベカとの立場は逆転した。リベカはすぐさま口調を改めて、丁重に礼を述べたのである。これにはラケルは驚いて、今までのリベカに戻るように言うが、堅いリベカは言うことを利かない。結局苦笑いを浮かべながらラケルは荷造りのために自分の陣所に戻っていった。そしてこの大戦を共に戦ってきた部下たちにユグドラル行きを伝えて彼らには今までの主君サーシャに従うように命じた。しかし部下たちのほとんどはラケルに付いていくといって聞かなかった。それだけラケルは部下に慕われていたのだ。ラケルは目を潤ませながら、彼らに感謝した。こうしてラケル隊全体を挙げての撤収作業が始まった。一方リベカはリュナンとサーシャに事の次第を説明して、軍からの離脱を伝えた。リュナンは即座に了承した。対してサーシャは一旦はラケルに付いていく気概を見せたが、リュナンに諌められて取り合えず母国ウエルトに戻ってから駆けつけることをリベカに伝えた。
次の日、粛々とラケル隊がリュナン、サーシャ、ホームズらに見送られてノルゼリアを発っていった。彼らはカナン、バージェとつたって3日後、セーナが休憩を取っていたガルダ島に合流することになった。
さらにこの日、ラケル隊のモノより明らかに大規模な陣の撤収作業が始まった。いよいよセネト軍がゾーア地方平定のための軍を興すためである。セネトはまずはついさっきまでゾーア攻めをしていたリチャードを訪れて、ゾーア攻めの正当性を主張、そしてその許可を求めたのだ。グエンカオスの罠により、その手勢のほとんどを失ったリチャードはすぐのゾーア攻めは無理である。己の不甲斐なさに憤りながらもリチャードはセネトに後事を任せるしかなかった。こうしてセネトのゾーア攻めが始まる。
セネトは次にリュナン、ホームズらを訪れて、翌日出立することを伝えた。そしてホームズ隊に捕虜となっている「ゾーアの魔女」カルラの引渡しを強く求めた。最後の死闘で魔方陣の立て直しに貢献したカルラであったが、やはり前科があり過ぎたために捕虜の扱いになっている。シゲンが強く主張した「極刑免除」を条件にカルラはセネト軍に渡されたが、セネトはそのつもりはなかった。確かに母や叔父バルカを始め、陰湿な手を使いつづけた魔女であるが、彼女の協力がなければガーゼルを打ち破れずに「黒き雨」にやられていたのである。セネトもこれに重点を置き、カルラの戒めを解いた。一部には猛烈に反対するものもいたが、セネトがそれらを無視したために結局そういう声が自然と鳴り止んだ。セネトの真意はカルラにゾーア地方を任せることである。あの地をまとめあげることで彼女の前半生の贖罪をさせようとした。
次の日、ラケル隊に続いて約20万のセネト軍がノルゼリアを出発した。苦々しい顔で見送るリチャードだが、そんな彼に朗報が届く。土の迷宮で別れたノール5世がグエンの罠によって逃げ出した兵たちをまとめあげて、ゾーア地方に近いサイの地に集結しているとの事である。リチャードは即座にノールに遣いを出して、セネトの援軍に就くように命じた。本心ではやはり独力で落として欲しかったが、ノールとレダ三姉妹のみでは厳しいのが現実である。それでも少しでもセネトに対する発言を高めるために援軍を命じたわけである。その報を受けたセネトはすぐに使者をノルゼリアに引き返させ、リチャードに感謝の意を伝えた。
セネト軍がカナンに入った直後、カナン、ソフィアなどの旧カナン領の諸国に兵を集めるように触れまわった。すると各国から兵が集まり、カナン三連星が全盛時と同じ規模の120万もの大軍が集った。セネトがカナンに着いて数日後、この大軍を率いて北進した。旧ソフィア領の軍はバージェに集結してから北上し、セネト本軍はカナンから真っ直ぐ北上したためか、意外なほど進軍はスムーズに進んで数日でノール軍5万が待つサイの地に集結した。
セネト・レシエ・ノール連合軍はすぐに進撃を始め、リチャードが辛酸を舐めたソニア要塞へ向けて行った。先鋒はカルラ、第二陣にゼノン、第三陣がレダ三姉妹とシルヴァが務め、第四陣はセネト本人が率いる本隊とノールが率いるリチャード軍、殿にはヴェーヌとレシエが配されている。セネトの成長を見てきたテムジン、カティナはリュナンたちと行動を共にして本国エリアルへの帰途についている。道に詳しいカルラ、レダ三姉妹らの先導で迷うことなく進軍したセネト軍はすぐにソニア要塞へと到着した。すぐに攻撃を開始したが、やはり篭城兵の士気は非常に高くセネト軍は簡単に撃退された。
その夜、セネトはカルラを呼び出して、篭城兵に向かって降伏・開城を求める使者に命じた。その際に全権をカルラに任せて、すべてを彼女に委ねることにした。
翌日カルラは要塞に赴いて、彼らに降伏・開城を求めた。主君グエンカオスの死を聞き、生気を失う者も現れたが、大半の者はゾーアを裏切ったカルラへの批判を口にして全くカルラの要求を呑もうとしない。結局物別れとなってカルラは要塞を叩き出されるように追い出された。その時、わずかにカルラに従うゾーネンブルメたちが付いて出てきたが大勢に影響はない。事の仔細を聞いたセネトはこのソニア要塞付近にある間道の有無をカルラに問い、そこにカルラ、ノール、レダ三姉妹の各隊を移動させた。彼らの移動して出た先はソニア要塞の背後であった。そしてセネト軍の総攻撃が始まった。グエンの死に衝撃を受け、さらに背後にも回られた篭城兵の精神的ショックは甚大で各所で降伏するものが相次いで、カルラをたたき出した勢いはどこへやら次々と要所が陥落していった。さらにカルラ率いるゾーネンブルメ、レシエ、ヴェーヌ率いるセネト空軍が各方向から侵入していき、篭城兵は少ない兵をさらに各所に分配しなければならなくなった。こうなると圧倒的多数を誇るセネト軍の独壇場となる。セネト軍の猛攻の前に万策尽きた篭城兵たちは全面降伏をして、リチャードがあれだけ苦しんだソニア要塞はわずか2日で陥落した。
それからは堰を断たれた水のようにセネト軍はゾーア地方を雪崩れ込んだ。しかしソニア要塞が陥落した今、ガーゼル残党にはもはや戦う力はなく、各地で降伏・開城する動きが連続してついにセネト軍はゾーア地方を完全に掌握した。
セネトはこの地を以前からの考えどおりにカルラに任せて、すぐに撤退に入った。当のカルラは思わぬことに驚いたが、すぐに我を取り戻してセネトに忠誠を誓った。これにはカルラ加入当時に猛烈にカルラを批判していた者たちも己の目を疑い、そしてセネトの寛大さに感動していた。
これよりカルラは心あるガーゼル教国の旧臣たちの復帰を勧め、カナン傘下のゾーア公国として独自の道を歩むことになった。そしてユグドラルの動乱が収まった頃、シゲンがここに加わって彼女の執政を影で助けていたのはあまり知られていない。十数年後、ゾーア人の権威回復に全力を注いだカルラは後に「ゾーアの母」と呼ばれるようになり、この世を去った。