時はまた少しさかのぼる。マリクがバーハラにてセーナに対して挙兵してまもなく、トラキア連邦の首府ミーズにて南部トラキア王国の新国王フィリップ、北部トラキア連合の盟主代理キュアン2世、そして連邦盟主アルテナが集まった。数日経っても挙兵する気配のない北部トラキア連合の姿勢に業を煮やしたフィリップが呼びかけ、これにアルテナが同調したため今回の緊急会議が催されたのだ。この会議にはこの3人だけなく、北部トラキア連合を支える各地域の国王や、南部からも前国王アリオーンらも参加しており何年かぶりにこれだけの人数が揃ったのも歴史の浅い連邦としてでも珍しいことであった。
果たしてこの大会議は新国王になってから外交デビューするフィリップの怒号から始まった。彼は北部連合の諸侯らを睨み付けて叫んだ。
「こんな場でいきなりになるが、何ゆえに北の諸侯らは戦支度をしないのか?」
こういう正式な場とはいえ、荒い言葉遣いをするフィリップに北部連合の諸侯は鼻白んだ。とりわけ盟主レンスターと並ぶ発言力を持つマンスター国王は逆にフィリップを睨み返す有様だった。北と南の反発、それはフィリップの祖父トラバントの時代から特に激化していたが、セリス解放戦争後からはその様相もいささか事情が異なっていた。
セーナの祖父シグルドが活躍していた頃のトラキア半島は南のトラキア王国を率いていた当時の国王トラバントが肥沃の地であった北の地、つまりマンスター地方を求めて激しく戦火を交えていた。これに敢然と立ち向かったのが北の守護者レンスター王国だった。精鋭ランスリッターは他のマンスター諸国と奮闘し、幾度となくこれを跳ね返してきた。やがてシグルドはグランベルから追われる立場となり、彼の義弟でありレンスター王子であったキュアンも彼を支援すべくかの地に向かった。そしてそれをハイエナのように追っていたのがトラバントであった。彼はキュアン率いるランスリッターが身動きのできなくなる広大な砂漠に入った時に後ろから襲い掛かり、ついにはキュアンを討ち、彼の長女アルテナを奪ったのだ。これでトラバント、いやトラキアの宿願が果たされたかと思いきや、トラキア軍が体勢を立て直そうとしている間にシグルド軍を打ち破ったグランベル軍がマンスターに雪崩れ込んできた。同盟国グランベルにレンスターを除くマンスター地方を制圧されたトラキアはまた再び忍従の時を強いられることになる。
そしてトラキアの転機は20年後、シグルドの遺児セリスの蜂起によって訪れた。電撃的にイザークを落とし、キュアンの遺児リーフ率いるレンスターの残党と合流した解放軍は瞬く間にフリージ家の手からマンスター地方を解放させた。ここでトラバント、アリオーン親子はトラキア半島の覇権を賭けてセリス解放軍に挑むことになる。しかしトラバントのあまりにも強引な手法にキュアンのもう一人の遺児で、トラバントによって育てられていたアルテナや、トラキアの盾と称されていた名将ハンニバル(1世)らの離反にあい、国王トラバントは解放軍に討たれ、王子アリオーンは一時行方不明となったことでトラキアは滅び、今度こそトラキア半島は統一されたはずだった。しかしアリオーンは解放戦争末期にて再び現れた。長年、妹として育ったアルテナと槍を交えるものの、最後には彼女の決死の説得に折れて解放軍に下った。果たしてトラキアは敗戦国と認められながらもアルテナの必死の交渉で今までの本領を安堵されることになり、トラキア半島は南北それぞれに協調しあいながら生きていけるように連邦制として再始動した。
しかしトラキアの不運はまだ続く。本領を安堵されたといってもトラキアは土地が痩せていて生産力の乏しい国、とても自立した経済を維持することなど不可能だった。そこでアリオーンは北部連合に救いを求めた。北をまとめるリーフを即座に快諾し、毎日のように色々な物資がトラキア王国に送られていった。しかしその援助も突如として止められることになる。トラキアへの玄関を務めるマンスター王家がトラキアへの支援物資の供出を拒んだのだ。なお北部トラキア連合の各王家はグランベル帝国が進行してくる以前にいた者たちの末裔によって治められていたが、それだけに積年のトラキアに対する恨みも強い。そしてその恨みからトラキアへの支援物資の8割強を占めていたマンスター家が支援を打ち切ったことでトラキア家は再び窮乏した。もちろん他にも理由はある。この当時、マンスター地方を未曾有の疫病が襲っていたのだ。これにより北部連合は大打撃を受けることになったのだが、それでもマンスターはなんとか疫病の被害は少なかったので十分トラキアへの支援はできる余力があったはずだが、マンスター家はこれを理由付けにした。これに憤ったアリオーンはすぐに盟主リーフに談判したが、果たして彼からの返答はなかった。というのも先の疫病の対策の陣頭指揮を執っていたのが紛れもなくリーフであり、不幸なことに彼自身が疫病にかかりすでに連合の執政をとれなくなっていた。辛うじて一命は取り留めたものの今に至って不自由な生活が続いている。この一件で北部連合の実権はレンスター家ではなく、大領主であり、レンスターに次ぐ家格を誇る反トラキアの急先鋒たるマンスター家が舵を取ることとなったのだ。今でこそリーフの長男キュアン2世の台頭でレンスターも発言力を取り戻したものの、連合発足ほどの圧倒的なものではない。それゆえトラキア支援はそれ以降プッツリ切れてしまったままなのだ。こうなるとトラキアはグランベルに助けを求めるしかなかった。セリスはすぐに快諾し、トラキアのもう一つの隣国ミレトスを通じて莫大な支援物資を送り、こうしてトラキアは窮地を突破した。しかしこれらの件を通じてトラキア半島の北と南の溝が深まったのは言うまでもない。
フィリップの怒号にキュアン2世が冷静に応じた。
「今回の戦はマリク皇子とセーナ皇女の私闘と我々は判断する。よって無意味に私闘に加わり、民を泣かしてはならない。これが我々の意見です。」
とは言うものの、コノート、アルスター両国王はどうやら納得していない表情をしているのがフィリップの目にもわかった。この2王国はバルド同盟に参加させてくれたセーナに対して好意を抱いており、できるならば彼女の傘下に入って戦いたいというのが彼らの心情だった。しかも自分たちのトラキアへの仕打ちに同情にも似た感情を抱いているのも事実であった。しかし発言力はレンスターとマンスターにある。ここで足並みを乱せば、最悪の場合国が潰されることを薄々と感じていた彼らはフィリップに同調できなかったのだ。これを本能的に察したフィリップは返した。
「それは言葉としては格好良いかもしれないが、要は日和見ということではないのか?」
この時代、騎士道が浸透しているユグドラルにおいて日和見は裏切りの次に唾棄されるものとされている。
「どう思おうが結構、我々はこれ以上民を泣かせるようなことはできない。」
「では今回の決断はシグルド(2世)殿らとの密約ですかな?」
ここでフィリップが仕掛けた。この時点で中立を宣言しているのはエルトシャン2世のアグストリア(後にセーナ派に)、シグルド2世の預かるヴェスティア、シグルド2世の妻ナディアとその兄クリードの治めるイザーク、そしてキュアン2世が事実上の盟主を務めるこの北部トラキア連合である。そしてシグルド2世、エルトシャン2世、キュアン2世らは義兄弟であり、これらが裏で繋がっているのは明確であろうが、フィリップがここを指摘したのだ。もしYESと答えれば、キュアンは公私を混同していることになり、先ほどの「私闘」発言の意味があいまいになるのだ。それを知っているのかキュアン2世はただ笑みを返すのみだった。これにはさすがのフィリップも激した。
「もはや結構、そなたらが動かないのならばこちらで勝手に戦ってきてやる!これ以上、議論していては我々も日和見扱いされてしまうからな!」
しかし何とかアルテナが宥め、フィリップを落ち着かせた。それからも連邦盟主アルテナが一生懸命に両者の間に入って、どうにか歩調を合わせるべく調整しようとしたものの、やはり平行線をたどるだけだった。会議は数時間にも及んだ。やがて業を煮やしたのかキュアン2世が驚くべき、言葉を残して席を発っていった。
「フィリップ王子、どうやら我々はやはりどこまでも同じ道を歩めないようですな。そうなればこんなお飾りの同盟などあってないようなもの。アルテナ殿、我々北部トラキア連合は南北トラキア同盟(トラキア連邦の基幹となっている同盟)を破棄させていただきます。」
それはセリスとリーフが苦心して作り上げた同盟をあっさりと破棄して、紛れもなくトラキア半島が一昔前の争乱状態に戻るということだ。愕然としたアルテナはすぐにキュアン2世を呼び返そうとしたが、それより早くフィリップが完全に沸騰してしまった。椅子を弾き飛ばさんばかりに立ち上がり、キュアン2世とは逆の方向に去っていった。
こうしてトラキア連邦は崩壊した。トラキア王国のフィリップはすぐに王都に戻るや否や、準備していたトラキア軍全軍をグランベルに向けて出発させた。しかしここでフィリップは一つの意趣返しを北部連合に向けて行った。マリク派のもう一つの勢力ミレトス王国に入るのにその国境にある北部連合の一国メルゲン王国に無断進入したのだ。メルゲン軍が怒って駆けつけた時にはすでにトラキア軍に去っており、それを知ったメルゲン王はキュアン2世にトラキア侵攻を進言したが、すぐに否定された。あくまで中立を貫く姿勢のようだが、それならそれで同盟を決裂させた理由がわからない。それを知りたいがためにフィリップは発破をかけたのだが、キュアン2世はそれに乗らなかったわけだ。
ミレトス侵攻の橋頭堡となるペルルークを激しい戦闘の後に落としてからしばらくしてセーナからイード支援の要請があったフィリップは即座に父アリオーンに十万の兵を仕立ててイード砂漠に向かわせた。このとき同じ轍を踏ませないように国境を固めていたメルゲン兵とアリオーン率いる兵が激突したのだが、アリオーンはすぐに国境兵を蹴散らしてイードへと向かって行き、マリアン率いるイード軍は討たれ、アリオーンは援軍としての役目を大いに果たした。一方、ミレトスに侵攻したフィリップはいよいよマリクを熱烈に後援する地下組織クロノスと激突する。