時は少し遡り、嵐の奇襲戦が繰り広げられた直後に戻る。ちょうどガルダ島にリーベリア諸侯が集結して、ユグドラル上陸へ向けて気勢を上げていた頃である。セーナの奇襲から立て直しながらも未だにヴェスティア宮殿を遠巻きに囲むシアルフィ本陣になぜかグリューゲルの甲冑を着けた騎士が訪れてきた。その男は元グリューゲル兵卒であると申して、貴重な情報をシグルド2世に届けたいと言い張り、訝しむ見張り番と口論を続けていた。女騎士隊長アリシアがその問答を聞きつけて駆けつけると、その者はアリシアを見つめるや否や瞳を輝かした。しかしすぐにコホンと咳した男は丁寧に事情を説明した。
「決してシグルド殿には損にはなりません。」
もともと忠という言葉では世界一と言われるグリューゲルから裏切り者が出るとは思っていないアリシアだが、とりあえず話しだけは聞いてみるつもりになっていた。
「わかりました。しかし貴方のことを信じているわけではありませんので、私たちもシグルド様の傍らで監視させていただくのが条件です。」
そう聞いた男はふと考えながらも、すぐに白い歯を覗かせて頭を下げた。
その男は先導するアリシアの体を足から頭まで舐めるように眺めていた。
(なるほど、シグルドが信頼するだけのことはあるか。それにしてもユグドラルは美女が多くてたまんねぇな。)
ニタニタしながらも表向きは謹厳な表情を崩さない。一方のアリシアは背後からの粘着的な視線に嫌悪感を抱くも、この女騎士は女であることを捨てているので辛うじて耐えることが出来た。やがて嵐の奇襲戦でも揺らぐことがなかった本陣にまずアリシアが入り、主に事の経緯を告げると、すぐにアリシアは渋い顔をして戻ってきた。もはや生理的にこの男のことを嫌っていることが表情に表れている。
「シグルド様がお会いになられるそうです。」
そう聞くとその男は飄々と本陣の幕をめくって入ろうとしたところをアリシアがグイと引き止めた。左手を差し出して、暗に携帯している武器を預けよ、というわけである。
「おっと、失礼した。」
あくまで瓢げた気配を崩さずに剣をアリシアに手渡して、本陣に入っていく。その剣を見てアリシアは大いに驚くことになる。恐ろしいほどの年代が経っているくらいに鞘や柄がくたびれていたのだ。
(いったいあの男は何者だ。)
ますます疑念を深めながらアリシアもその男に続く。
「おお、あなたが勇名轟くシグルド様ですか。初めまして。」
親しげに話しかけるその男だが、シグルドはすぐに核心を突くよう促した。
「ここは戦場だ。お前が元グリューゲルの者だと聞いたが、所詮は私に会うための方便であろう。言いたいことがあったらさっさと述べてもらおう。」
ユグドラルの軍神の威圧的な物言いにその男は内心で舌打ちしたが、そこは変わり身の上手である。少しも表情を変えずに瓢げて見せる。
「さすがはシグルド殿ですな、そちらにお嬢さんと共にシアルフィの人材はさすがに素晴らしいですな。」
そう言って、その男は急に声音を重く低いものに変えた。
「そんなシグルド殿に我が主は協力したいと申し出ております。」
目の前の男が、適当な繰言を並べてその報酬を得ようという、ただの小者だと思っていたシグルドはその者の言うことが理解できなかった。
「では貴公はアカネイアかリーベリアのどこかからの遣いかね?」
シグルドが『お前』から『貴公』に変えたのは第三国からの遣いだと判断したのだろう。だがその男は平然と
「どちらでもありませんよ。」
謎の言葉を紡ぎ続けるその男の言葉に周りの猛者たちもしきりに首を傾げている。ではどこの遣いか、と言いたげな者もいる。
「我々は『影』に生きるものなり。」
「・・・影、暗黒教団みたいなものか。」
シグルドの問いに憤然と返す。
「あのような弱卒と一緒にしないでもらいたい。」
その口調からは暗黒教団についても知っているかのようであった。その時、直感の鋭いシグルドは一つの問いをする。
「では、5年前の大戦で兄貴(マリク)を裏で支援していたのはお前らか?」
その問いが待っていたかのようにその男はにっこりと笑って言い放つ。
「ご明察。」
5年前のヴェルトマー決戦においてシグルドは直接マリク直属の十二魔将軍とは戦っていないが、セーナから何者かが後ろにいると聞かされている。そして目の前にいるのが、その後ろ盾だと自ら宣言したのだ。
「あの折は運悪くセーナを討ち取ることができませんでしたが、今回、シグルド殿と我が主が手を取れば、勝ちを得ることなど造作もありません。」
この後に及んで主の名も、自分の名も言わない男にシグルドは苛立っている。
「お引取り願おう。」
ほう、と言った顔でシグルドを見上げる。
「我が力を欲しくはありませんか?」
「くどいぞ。それに我々はセーナに討つために立ち上がったのではない。『あいつの理想を叶えてやるため』に兵をあげたのだ!」
シグルドはあくまで『あいつ』とぼやかしたが、男はすぐにそれがセーナであると判断した。
「なるほど、それは失礼しました。ならば我々は指をくわえて眺めていることにしております。」
そう言って飄々と去っていこうとするのをシグルドが引き止める。
「待て、貴様の名は何だ?」
『お前』、『貴公』と経て、ついに『貴様』とまで呼ばれた男は振り向いて言い放つ。
「我が名はクラウス。」
そしてアリシアから剣を取ったかと思えば、ふっと消え去った。
その夜、ヴェスティアの風に吹かれながらセーナはもうすぐ1歳になる長女エレナを抱えながら、ヴェスティア宮殿の外郭にまで出てきていた。もちろん護衛のためにグーイやサルーンも付いてきている。なお長男リアルトは宮殿に残してきたクレストと共にミカに見守られながら、すやすやと寝息を立てている。エレナは母に似ての戦好きか、この戦いが始まってから夜が非常に遅くなり、今もそのつぶらな瞳を至るところに動かしている。それに気付かないセーナは今ようやくシグルドが立った理由を見つけつつあった。
それはもう8年前のことであろうか。セーナがヴェスティアを治めて、ようやく落ち着き始めた頃のことである。父セリスに呼ばれてカインとアベル、ミカを連れてバーハラ城を訪れたことがあった。何でも家族揃って食事でも取りたいとユリアがセリスに頼んでの食事会のようである。セーナが指定された部屋に着くと、すでにまだ若きセリスとユリア、そしてこの頃からセーナに対して敵意を示してきた長兄マリク、シアルフィから駆けつけてきた次兄シグルド2世もすでに待っている。
「遅いではないか。」
即座にマリクが棘のある言葉を吐くが、父は優しくとりなす。
「良いではないか、マリク。急にこのような食卓を設けた我々にも責があるのだから。」
そう言われたマリクが口を尖らせながらも黙り込む。とにかくセーナの到着で、久しぶりに5人が揃って食卓を囲むことになった。
和やかな雑談が十分ほど続いて、急にセリスが3人の子供たちに質問をした。
「お前たちに聞いておきたいことがある。」
言われた3人は食事の手を止めて、視線と共にセリスに集中する。
「今まで私はお前たちに世界を戦のない平和なものにしたいと言ってきた。お前たちもその考えで今を生きているとは思うが、どうすれば世界を平和にできるか、お前たちがどう考えているか聞いてみたい。」
恐ろしく重大な話題を振ってきたことに3人の子供たちは当惑するが、すぐにシグルドが両手を挙げて降参した。
「父上、そういった難しい話は勘弁していただきたい。」
武は立つが、頭の回転は若干鈍いシグルドの情けない顔にユリアがくすりと笑みをこぼす。それにつられてセリスも苦笑して
「そうだったな、オイフェに育てられたお前には無理だったかもな。」
思えばオイフェも戦においては機略縦横であったが、国づくりの理想とかは持ち合わせていなかった。というよりはセリスに委ねていたと言ったほうが正しいだろう。だからこそ養子のシグルドにもわかるはずはなかった。
「ではマリク、セーナ、お前たちはどうだ。」
そこに暖かい瞳はなく、二人を試す冷たさが漂っている。それを知ってか知らずか、まずマリクが声をあげた。
「戦を無くすのは戦しかありません。戦をしてユグドラルに混在する国々を一つにまとめれば、対抗勢力は自然になくなるではないですか。」
もうこの頃にはロプトウスに精神を侵され始めているマリクは強硬論による大陸制圧論を述べた。するとすぐにセリスが聞く。
「なるほど一つにまとめようというわけか。しばらくはそれでいいかもしれないが、もしその国の内部が腐敗して、民に暴政を敷き始めたらどうすればいいのだ?むずむざと次の良き統治者が現われるまで待つのか?」
マリクの言う大陸制圧論は確かに戦はなくなる。しかしセリスの言うように唯一の制圧国家が時代と共に腐敗した場合、民が新しい政権を求めて立ち上がってもその巨大すぎる力にあっさりと抑えられるであろう。セリスの言う『平和な世界』とはただ単に『戦のなくなった世界』というだけでなく、『民が安心して過ごせる世界』という意味を含んでいたことをマリクは失念していたことに気付いた。
「父上の仰るとおりです。」
うなだれながらも父の言うことの方が正しかったと実感したマリクは八つ当たり気味にセーナに答えを促した。それを目の端に捉えたセーナはセリスをまっすぐに見据えて言う。
「大方は兄上と同じです。やはり戦なくして戦を治めることはできないと思います。しかし私はこの大陸を三分する大陸三分の計を考えています。この場合、大陸に3つの国があるために大陸の覇権をかけて戦が起きる可能性もありますが、この3国を高い次元で拮抗した国力に分割してしまえば、巨大なエネルギー同士の衝突を恐れて大戦に発展する恐れは限りなく低くなります。また政権腐敗による圧政に対しても、民は他の国に逃れればいいですし、他国と通じて兵を挙げるもいいですし、志ある国が義を掲げてその国を滅ぼすのもいいですし、いくらでもやり方はあるでしょう。何しろ大陸のエネルギーをほぼ均等に3等分するのですから、一極集中する愚を犯すよりは安全だと思います。」
理路整然としたセーナの言葉にユリアとシグルドは口をアングリと空けていた。セリスもまだ10代にしてここまで考えていたことに内心で舌を巻いていた。
(ここまで考えていたとはな。やはりクレスの娘だな。)
そしてセリスが頷いた。それは父がセーナと同じことを考えている証であった。
一時間ほどの食事会が終わり、それぞれが寝室に戻っていった。マリクはセーナにいい顔をされてしまったのでかなり不満げな顔をしており、セーナが持ち込んだヴェスティア産のワインを飲んでほろ酔いのユリアがセリスに抱えられるようにして去っていった。セーナも久しぶりの家族揃っての食事によほど満足したのか上機嫌でカインやアベルを連れて用意された寝室に戻っていった。だが部屋を出る際にセーナはもう一度振り返った。どうも自身の『大陸三分の計』を聞いてから、かなり紅潮しているシグルドの顔があった。翌日にはさすがに平静としてセーナと共にバーハラを出たが、すでにシグルドの心中は据わっていた。
(私が妹のために人柱になれないだろうか。)
あの時のシグルドの顔を思い出してセーナは確信に至りつつある。
(やはり『大陸三分の計』などと大それたことを言うんじゃなかった。)
あの食事会で言ったのはあくまで『理想』であり、セーナにはそれを果たそうという思いは微塵もなかったのだ。だが無情にも周りが、よりにもよって一番頼りにしていた兄シグルドがセーナのために動き始めたが故に、各地で悲劇が起きている。そしてもう兄とは一緒に過ごすことができない寂しさもあった。そう思うと頬に一筋の光が伝う。そして胸に抱えたエレナをキュっと抱きしめるのであった。
一方のシグルド2世もあの頃に戻っていた。
あの食事会から2年後、セーナがリーベリアへと旅立った頃のことである。突然、シグルド2世がバーハラのセリスに呼び出された。バーハラ宮殿の一室に呼び出されたシグルドだが、そこにはイザークにいるはずの妻ナディアの姿もある。
「突然呼び出してすまないな。時間が惜しいゆえに早速本題に入っても構わないか?」
すでにバーハラはマリクとその配下となった地下組織クロノスによって牛耳られつつあった。シグルドもそれを知ってかすぐに頷いた。
「お前はまだ2年前の食事会のことを覚えているか?」
「忘れるわけがありませんよ。セーナの『大陸三分の計』に驚かされた時のことですな。」
いつの間にかシグルドの口調がオイフェのものに似てきていることに内心で苦笑しながらも、セリスは頷いた。そして大陸の命運を決する一言を言い放った。
「ではお前にセーナの『大陸三分の計』を実現させるための犠牲になってくれるか?」
ハッとするシグルド・ナディア夫妻だが、その心中は妻と夫とでかなり異なっている。ナディアはセーナの『大陸三分の計』のことは聞いていたが義父の言葉が真のものとは思えず、シグルドは2年前から決意していたとは言え、どうすれば実現できるか悩んでいた『大陸三分の計』を父から授けられて驚いていた。それが言葉になった。
「父上、しかしどうすればこの大陸を3勢力に分断するのですか。」
シグルドの言うことは最もである。現在、ユグドラル大陸はアグストリア・ヴェルダン・グランベル・シレジア・イザーク・北部トラキア連邦・南部トラキア王国・ミレトス・イードなど、とにかく多数の勢力があったのだ。これをたった3つに減らせなどというのはかなり、いや歴史を覆すほどの血を見なければならないはずなのだ。だがセリスは
「これから私の言うことをよく聞くのだ。」
と言って、再び興奮しつつある猛き次男をなだめる。そしてセリスの生死を超越した大謀計が愛しい次男夫婦に託された。
それからセリスが話したことはセーナが歩んだ歴史とさほど変わっていなかった。いやそう仕向けたと言ってもいいだろう。リーベリア勢力との強力な繋ぎを得たセーナはシレジア・トラキアらと連携して、各地で長兄マリク勢を圧倒。ヴェルトマー決戦にて全てのカタをつけたセーナはグランベルを解体して、新たにヴェスティア帝国を樹立する。この時点でヴェルダン・イード・ミレトスが滅んでいるが、実はセリスはここまで完全に読み切っていたのだ。大戦後、シグルドは父の読みに完全に兜を脱いだというが、それからは彼らの協力がセリスの大謀計にとって必要不可欠となる。セリスが目をつけたのはシグルド・キュアン2世・エルトシャン2世の三人が義兄弟の契りを交わし、シグルドがナディアと結婚していたことである。もし彼らを除けば、残る勢力はヴェスティア・シレジア・トラキアの三勢力となり、セーナの言う『大陸三分』が成立することになる。そしてそれに気付いたセリスは非情にも彼らをその『犠牲』に捧げようとしたのだ。しかも驚くべきはシグルドがそれを二つ返事で了承したことだ。あまりの非情さにナディアは目を腫らしながらもシグルドを諌めたが、彼の決意は変わらず
「今変えねば、いつ変える。」
とナディアに言い聞かせるのみ。確かにセリスとセーナが作り出した激動の時代は今度いつ訪れるかわからない。そして今度起きた場合は人類の存亡に関わる最終戦争にならないとも限らない。ならば多少血を流そうとも意図的にユグドラルに巨大な楔を打たねばならない、とシグルドは考えていたのだ。ナディアも仕方なく折れ、彼女を説得させたのと同じようにエルトとキュアンも了の返事を得るにいたった。
だが彼らが生き延びる術がないわけでもない。セリスがこの大謀計を打ち明けた際にこう加えている。
「いいか、たとえセーナに勝たせるとは言っても、手を抜くな。セーナを追い詰める気概で行かなければ、あいつは納得しない性格だからな。そして武運あってお前たちがセーナを打ち破った場合はお前たちが新たな『大陸三分の計』を作り上げ、セーナの遺志を継ぐのだ。」
確かにシグルドたちが勝った場合も大陸三分は不可ではない。シグルドはヴェスティア傘下だが、他にイザーク、アグストリア、北部トラキア連邦という三勢力を有している。シグルドが妻ナディアのイザーク傘下になれば、あっさりと別の『大陸三分の計』が成り立つことになるのだ。しかしシグルドはこれをキッパリと拒否して、セリスのもとを去っていた。
「あくまでセーナのために。」
シグルドの腹はセリスが思っている以上に据わっていたのだ。
気が付けばシグルドの目に眩しいばかりの朝日が刺しこんでくる。
「もう朝か・・・。」
朝食を食べて、陣内を巡察したシグルドはしばらくしてアリシアを呼び出した。
(これ以上、ユグドラルを荒らすことはできない。あとは最終段階に入るだけだ。)
セリスが編み、ナディアが紡いだ大謀計。すでに3分の2は達成している。後はこのヴェスティアの地でユグドラルの未来を決するだけであった。目を閉じて黙祷するシグルドの元に息を切らしながらアリシアが入ってきた。ついでにアリシアも今回の謀計のことを知っている。
「この書状をセーナに届けてくれ。委細はお前の思うままにやるといい。」
「ハッ、必ずやお役目を果たして参ります。」
決然とした瞳を返すアリシアを見送ったシグルドは他の者に命じて、軍をヴェスティア南部に移動させた。
このシグルド軍の動きを敏感に捉えたセーナたちだったが、すぐにアリシアが使者として来たことが伝わって下手な動きが取れなくなった。嵐の奇襲戦から若干体調を崩し気味のセーナだったが、アリシアが来たと知るやリベカを立てるわけにもいかなく自ら応対することにした。隣のライトが座るべき場所にはまだ彼が不在のために宰相のゲインが座り、アリシアを待つ。やがてレイラに招かれたアリシアが二人の前で跪き、厳かにシグルドからの書状を床に置く。レイラがそれを受け取り、まずは宰相のゲインに読んでもらい、次いでセーナが一読する。そしてセーナがゲインに向くや、彼はすぐに頷いて元の主君セーナに全てを委ねた。
「アリシア、そのように堅苦しくならなくて構わないわ。まずは顔をあげてちょうだい。」
敵とはいえ、礼を重んじるアリシアの態度は素晴らしいが、セーナが堅苦しいのが苦手なのはそのへんの子供でも知っている。アリシアもこのまま顔を伏せていてはセーナに失礼だと思い、顔をあげる。
「久しぶりに会えたと思ったら、敵味方なんてね、世の中は非情なものね。」
しみじみと言いながら、セーナはこの大謀計を産み出したセリスに若干の恨みを感じつつあった。
「寂しきことなれど、これが運命なれば仕方ないかと。失礼ですが、お返事を頂けないでしょうか?」
シグルドの渡した書状、それは決戦状と呼べるものである。今ユグドラルではシレジア・アグストリア・ヴェスティアなどと全国に渡って戦火が交えている。各地域で戦う軍勢をここに呼び寄せて、最後の一大決戦を行おうというわけだ。なおヴェスティアに全軍が揃うまでは両陣営は停戦となる。この申し出はセーナにとっても否やはない。
「もちろん了承したと伝えておいて。ただ私も一つ条件があるわ。もしこの決戦で武運あらず私が敗れても私の子供たちの命を保護して欲しいわ。」
セーナも3児の母である。もっとも腹の中には4人目の子供もいるが、もしバレればミカから決戦への出陣を強硬に止められるので誰にも打ち明けられずにおり、もちろんここでも言えるはずがない。母としての情を覗かせたセーナにアリシアは優しく言う。
「その件についてはこのアリシアが命に代えてもお約束いたします。ですが・・・。」
「わかってます。もし私が勝った場合はレナとリードの命を取るようなことは決してしないわ。」
レナはシグルドとナディアの子、リードはエルトシャン2世の嫡子である。ただしキュアン2世には子どころか妻すらおらず、後継はセーナの元にいる彼の妹ミーシャに自動的に移るわけだが、南との軋轢形成、バルド同盟崩壊などと悪評のつきない北部トラキアをセーナは存続させるようには思えなかった。だがアリシアもそんなセーナの思惑を薄々と見抜きながらもあえて無視して、今回の申し出の確約に素直に感謝の意を示した。
「セーナ様に確約をいただきまして、私も大任を果たすことができました。」
「あともう一つ、今回の決戦の決着が付くまではフィーリアに宰相を務めてもらって、他地域の混乱を治めてもらいたいと思ってます。」
あくまでもこれ以上混乱を広げたくないというセーナの思いにアリシアも即座に頷いたのを見て、交渉はようやく終わりに向かった。
「アリシア、無駄かもしれないけれど兄上に伝えて。今からでもまだ間に合うから、愚かな考えをやめて、って。」
セーナの言う『愚かな考え』とはセーナの掲げる『大陸三分の計』のためにシグルドが犠牲になろうとしていることである。兄を思うセーナの願いを悟ったアリシアもどうにかしたい激情にかられたが、すぐにそんな思いを仕舞いこんだ。
「ハッ、必ずやそのお言葉をお伝えします。それでは失礼させていただきます。」
そう言うや、己の心を悟られないうちにその身を翻して、去っていった。
「アリシアも辛いでしょうに。」
敬愛する主君が死に向かっていることを、アリシアはどう思っているのか。それは彼女しか分からない。
とにかくシグルドとセーナの取り決めでヴェスティア決戦へ向けての布石が整ったことになった。しかし停戦を告げる使者が届くまでに新たな悲劇が起こることになる。それはシレジアでもアグストリアでもない。ユグドラル一、情勢が不安定なトラキア半島で起きた。