セーナとアリシアの交渉後、ユグドラル大陸全域に停戦の使者が各地に散らばる戦場に飛び出していった。シレジア・イザーク国境で対峙するライトとナディアのもとにはシグルド軍からアリシアが、アグストリアのハイラインで睨み合うエルトシャン2世とリュナンらにはセーナ軍からグーイが使者として向かっていった。それをヴェスティア宮殿の城壁から眺めていたラケルはふと溜め息をついた。この大戦で別れてしまった弟ルカとの戦いは避けることはできたものの、今度起こるであろう大決戦で彼女は弟と決着を付けねばならないと思うと気が滅入るようだ。ヴェスティア城に来て以来、ずっと顔の冴えない彼女にフリードが明るく振る舞った。
「ようやく一段落付けましたね!」
フリードとラケルは同じリーベリア出身ということで5年前から親交を深め、フリードは十勇者としての鍛錬を積みながらも積極的にラケルのユングヴィ統治を手伝っていた関係もあって、今回もセーナからラケルを見守る役目を任じられていたのだ。弟の暴走に心を痛めながらも、優しく接してくれるフリードには感謝しているようでラケルもようやく笑みを浮かべた。
「このまま戦が終わってくれれば何よりなんですが。」
5年経ってもラケルの優しい性格は変わらない。セーナは戦を辞めたいと思いつつも兄の決死の覚悟に触れて、結局最後の一大決戦への思いを新たにしているのに対して、ラケルはあくまでも不毛な戦は続けたくないと思っている。この二人の間に立っているフリードはどちらが正しいのかはまだわからない。答えがないまま、大陸は後に天下分け目と呼ばれる一大決戦へと流れていく。

 しかしもう一つ、遅く燃え上がった戦火があった。沈黙を守っていたレンスター軍が守備が手薄なマンスター城を急襲したのだ。ただその理由に周りの者たちは驚いた。5年前の戦いで己の決断で領土を失うことになった旧マンスター家の人間たちが居候させてもらっていたレンスター家のキュアン2世に旧領復帰を盛んに進言して、それをキュアンがあっさりと認めてしまったのだ。祖父の代から3代に渡って仕える重臣中の重臣フィンらが必死に諌めたものの、取り入れられないどころか、辺境とも言えるトラキア半島の中央を縦断する山脈に築かれているヴェルク砦に赴かせてしまったのだ。この決断に、昔の名将キュアン2世はどこに行ったのか、と嘆くものも相次いだが、フィンはそれも主命ならばとやむを得ずヴェルク砦へと向かうことになった。
 そしてこのキュアンによるマンスター制圧は同じく不気味な沈黙を守っていたトラキアの目を覚ますことになる。この乱世にキュアンが動かないはずはないと睨んでいた南の雄フィリップは敢えてマンスターをガラガラにしてキュアンがここに兵力を集中させているうちに、彼が軽視していたヴェルク砦へとトラキア自慢の大竜騎士団を送り込んで制圧するという策を採ったのだ。
 果たしてヴェルク砦は十重二十重と重厚な包囲網が布かれ、それを守るフィンは妙にさっぱりとした表情をしている。すぐそばにはフィンに拾われた女騎士フィリスが頬を真っ赤にし、この僻地に向かわせたキュアンに対してしきりに怒声をあげていた。
「そう怒るな、フィリス。」
とフィンがなだめるも既にこの砦に残っているレンスター兵の多くは功臣中の功臣であるフィンをこの地に送り込んだキュアンに対する怨嗟の声は特に強い。それでも離脱する兵士はいないことからフィンに対する忠誠の厚さがうかがえる。すでにトラキア軍総大将フィリップから降伏勧告を受けたものの、あっさりと撥ね付けているためにもうすぐ総攻撃を受けることになろう。敵勢は30万を優に超えるどころか更に後続が続いているのに対して、レンスター軍はわずかに2万。いくらユグドラル屈指の戦歴を誇るフィンと言えども、マンスター地方を襲った疫病から病み上がったばかりの体では無謀な戦となる。ついでにフィリスはフィンから二文字をもらっているのは名前を見てもわかるが、実はここで対峙しているフィリップも昔はフィリスと共にフィンに槍の手ほどきを受けている。しかもフィリスとフィリップはつい7ヶ月前に婚約の契りを交わしたばかりなのだ。
「フィリス、北の包囲が手薄なうちにこの砦を落ち延びるんだ。」
すぐさま反駁しようとするフィリスだが、有無を言わさぬ視線を返して言った。
「いいか、キュアン様がマンスターに手を出した以上、遅かれ早かれレンスターは滅びる。たとえシグルド様たちが各所で勝ちを取ろうとも、我々を援護するには遠すぎるからな。そしてキュアン様も・・・」
と言いかけて言葉を止めた。言えるはずもないだろう、キュアンが自ら国を滅ぼすために道化を演じているとは・・・。
 フィンがこのヴェルク砦に着いた翌早朝、彼らを追うようにある女性がフィンのもとを訪れていた。キュアンの母・ナンナである。彼女はわずか5年で名将から愚将に落ちぶれたキュアン2世の真意を伝えに駆けつけてきたのだ。


 それは半年前のこと、フィリスとフィリップの婚約が発表されてようやく確執の強かった南北が融和に向かうと人々が信じていた矢先、突然の悲報をトラキア半島を駆け抜けた。セリス、アレスと並んでユグドラル三傑となぞらえていたリーフが長い闘病生活の末に病死してしまったのだ。すぐにリーフを弔う国葬が行われたが、まだ戦乱の気配もなかっために三傑唯一の生き残りとなったアレスに、セーナ、シグルド2世、エルトシャン2世、フィリップやセティらに加えてキュアンの妹ミーシャ、リーフの姉アルテナとその娘ミントももちろん参列した。あまりにも惜しい人物の死に大陸中が涙した。
 リーフの死の直前、看病するナンナの制止を振り切ってキュアンは父と面会した。すでに顔には死相も出ておりリーフは何も話ができなかったものの、その瞳は未だにセリスやアレスが持っていった輝きを有していた。キュアンは短い命を果てようとしている父にすべてを語っておきたかったのだ。
 トラキア半島の北と南の関係は幾度か触れたが、25年前のセリス解放戦争後も立場を変えて確執が存在していた。戦前は国力こそ乏しいものの圧倒的な軍事力を有していたトラキアと、数多くの王国が分立して資源が豊かなマンスター地方がほぼ対等の立場で屹立していたのだが、戦後はトラキアが敗戦国、レンスターが戦勝国となったことで見事に逆転した。軍事力も失ったトラキアは北に救援を乞う立場となり、北は全ての面で南よりも優位に立つことになった。ここでリーフのもとにまとまっていたマンスターは援助を快諾して、しばらくの間は北と南の融和は進んでいくように思われた。だがその北をまとめるべきリーフが疫病に倒れたことで、北の人間に湧き出てはならない感情が一気に噴出してしまうことになる。戦前から受けてきた積年の恨みだ。特にその侵攻の激しかったマンスター家によるトラキアへの反発は激しくなり、前に触れたかのようにトラキアへの支援を突如として打ち切ってしまった。この頃にキュアン2世は物心を付くようになったのだが、まだまだ純真な心を持っていた彼にとってこれらの動きは心に大きな傷を付けることになり、人の内面に持つ暗い部分を印象付けられることになった。またこれを見て見ぬふりを続けたレンスター諸国の振る舞いにもキュアンは嫌気が指していた。
 やがて彼はシグルド2世、エルトシャン2世らと出会い、祖父の名を受け継いだ。次第に自身の才覚が露わになって名将と称えられるようになると、今までマンスター家の言われるままになっていた諸侯が手の平を返すように彼に近づき始めることになる。それが心から忠誠を誓うことではなく、己の栄達のためであるのは名将キュアンの目に見切れないはずはなかった。隣に飢えと窮乏に苦しんでいる国があるというのに、自身たちはそれを見ようとせずに更なる栄華を求めようとしている人間たちを見て、キュアンは悟ってしまった。
『北はもう腐り切ってしまった』
と。祖父キュアンがその命を賭けて、父リーフが血と涙を流して手に入れた結果がこんな結末になろうとは。
 そして南に目を転ずれば、必死に行ったグランベルとの交渉を成功させて、再びガッチリと結ばれた主従のもとに見事な復興を遂げている。民は貧しいものの、今を懸命に生きている。この現状を見た瞬間に、キュアンは恐るべき決断を下した。
『腐り切った膿は取り除かねばならない。』
 この決意をリーフに伝えたところ、彼は涙を流してコクリと頷いた。ようやく息子の深い考えを知ることが出来たこともあってか、わずかながら口元も微笑んで見えた。彼のやろうとしていることは父と祖父が築いたものを全て壊そうということなのだが、父は怒ろうともせずに穏やかに息子の髪を撫でた。その直後、冷徹な名将キュアンの頬に一筋の涙が流れ、父のもとに飛びついた・・・。


 その事実を傍らから聞いていたナンナはその頃を思い出させるように、死を迎えようとしている最後の忠臣フィンに語っていた。この時、フィンは戦働きしか出来なかった己を激しく責めた。もし自身がもう少し深い考えを巡らせられるようになっていれば、感情のままに動くミレトスを抑えられたかもしれなかったのだ。だがナンナはそんなフィンを優しくかばった。
「疫病がマンスターを襲った時点で北は滅びる運命だったと思います。」
そう、すべては北を襲った疫病が原因と言える。このせいでリーフもフィンも倒れたことで、マンスターの台頭を呼び込んでしまったのは事実なのだから。そして疫病と言うものは天の配剤によってもたらされるもの、つまりマンスターは天に見放されていたと言っても過言ではないのだ。

 そんな日を思い出しながらもフィンはそれをフィリスに説明しなかった。説明しても今のフィリスには理解できる保証はないし、何よりもそんな時間はなかった。フィンは己を見出してくれた主君キュアンから頂いた勇者の槍に、懐から出した手紙をフィリスに授けた。
「この大乱の全てが決した時、この手紙をフィリップ様と読むといい。いいか、これを読むまでは決して死ぬな。」
鬼気迫る養父の言葉に、まだ若いフィリスはついにあきらめた。
 数時間後、養父から譲られた馬と槍を掲げて、フィリア率いるレンスター軍が飛び出した。フィリップはそれが敵味方に分かれた恋人フィリスの手勢だと知るや、抵抗せずに逃がすように命じた。もともと追い詰められたものは思わぬ一手を喰らうこともあるので、そう見るものも少なくなかったので異論を唱えるものはいなかった。
「やはり師匠が残られたか・・・。」
フィリップは敵味方に分かれても今までの人間関係を重んじている。フィンに対しても病と闘いながらも幼い頃にフィリスと共に槍を合わせた思い出が忘れられずにいたのだ。祖父にハイエナの元祖とすら呼ばれたトラバントを持つとは思えないくらいの硬骨漢ぶりである。
「フィリスを泣かしたくはないが、これも定めだ。」
そう言いながら愛竜を砦に向けて、指示を出した。そして采配が一閃させる。トラキアの大竜騎士団による総攻撃がついに始まった。
 主を真意を知らずに恨みを連ねていたレンスター兵だが、敵が寄せてくるとさすがに文句も言ってられない。決死の抵抗を見せ付けるも、数の差は如何ともし難く、各所で兵が分断されては確固撃破されていく。すでにレンスター軍には組織的な抵抗は不可能になっていく。
 そしてフィンとフィリップが対峙する。
「師匠、やはり戦わねばならないのですか。」
天槍グングニルを構えながらもフィリップはやはりフィンを討ち取ることに躊躇いがあった。だがフィンはすでに槍をしごいている。病み上がりとは思えない位に覇気が富んでいた。
「フィリップ様、ご立派な国王になられましたな。さぁ、後は私を乗り越えるだけです。」
クッと唸るフィリップだが、もはや逡巡はない。グングニルを構えて、フィンに繰り出す。しかしフィンは何も抵抗を見せず、グングニルはそのままフィンの胸を刺し貫いた。驚いたのはフィリップだった。これは陽動のための突きだったはずで、こうもあっさりフィンが負けを選ぶとは思えなかったのだ。
「師匠、なぜ!なぜだ!?」
半ば憤るフィリップにフィンは
「これでいいのです。天に見放された我らは道を明け渡すことしか出来ないのです。」
フィンの最期の言葉は、しかしフィリップにはまだ理解できなかった。その真意に気付けるのはまだ先のことになる。果たしてキュアン、リーフ、キュアン2世と3世代に渡って忠実に仕えてきたフィンはその愛弟子の槍にかかって天上に召されていった。またシグルドの時代を知る者がこの世を去った。
 フィンを討つも虚しさに支配されていたフィリップだったが、その心とは裏腹に即座にレンスター残党に降伏を勧告した。フィンを失ったレンスター兵を愕然として槍を落として、ついに士気が萎えた。フィリップは残った彼らを歴戦の勇士と称えて、希望するものにはレンスターへと帰すことにしたのだが、その多くはそのままトラキア軍に編入されていった。この僻地に送った冷酷なキュアンの元で仕えても、報われることはないと踏んだのであろう。こうしてレンスターの勇士たちは心からトラキアへ臣従を誓った。

 キュアンが僻地と見たヴェルク砦なのだが、トラキアにとってこの砦は戦略的にはかなりのウエイトを占めることになっていた。西にはアルスター城、北東にコノート城、東にマンスター城、北西にレンスター城に見渡せる位置にあったのだ。騎馬兵しかいない北にとって山岳にある砦は守備にも手間取り、まさに邪魔そのものだが、これだけの要衝を睨めるヴェルク砦に名だたる竜騎士団を揃えるトラキアにとってはまさに理想の砦だったのだ。そしてフィリップはトラキア家に伝わる伝家の宝刀を抜き放った。
「『三頭の竜』をアルスター、コノート、レンスターへ向けよ。」
三頭の竜、トラキア家に伝わる伝統の戦術であり、セリス解放戦争時にフィリップの父アリオーンがトラキア国内の奥深くまで入りこんだセリス軍の後方を寸断するために用いたものである。いわば守りの戦術なのだが、フィリップはこれを攻めに転換して、キュアンがマンスターを攻略した隙にアルスター、コノート、レンスターに狙いをつけたのだ。しかもフィリップの戦術に隙はない。
「ハンニバルの様子はどうだ?」
すでにフィリップがトラキアを発ったのと同時にハンニバルもカパトギア鉄鋼騎士団を率いてミーズ城を発っていた。すぐにマンスター方面に遣いに出ていたものが報告を伝える。
「あと数時間でマンスターに到着するそうです。」
愁眉を開いたフィリップはついに断を下して、叫んだ。
「これで半島に渦巻く禍根を全て断つのだ。皆、奮えぇ!!」
 そのトラキア半島にヴェスティアからの停戦の使者が届くまであと僅か。

 

 

 

 

 

最終更新:2011年07月23日 22:17