トラキア軍のヴェルク砦奪取によって、南北の均衡は完全に崩れた。キュアン2世はその砦の陥落を奪取したばかりのマンスター城にて知った。と同時に心の中でフィンに対して哀悼の意を表した。しかしすぐに決然とした表情を戻して、目の前で落ち着きのないマンスター家の者たちに言い放った。
「トラキアの動きが不穏ゆえに我々は国許に取って返します。貴公らの武運をお祈りします。」
すでにマンスター城のすぐそこには万を持して出陣してきた『トラキアの進む盾』ことハンニバル2世が迫ってきている。今、キュアン2世たちレンスターの精鋭に去られては敵わぬと必死に共闘を懇願するも、キュアンはつれなかった。
「この地のことは我々よりも貴公らのことがよく知っているではないか。我々は足手まといになりたくないので、ここで退散させていただきます。」
言葉こそ穏便だったものの、その口調には
(言うとおりにした結果がこの様だ。)
と罵っている様がよく伝わってくる。口元を引きつらせながらもレンスター軍を帰したら、せっかくの旧領復帰を果たした苦労が水の泡となるマンスター家の者たちはついに額を床につけてまで彼らを留めようとしていた。あまりにも見苦しい態度についにキュアンが声を荒げた。
「そこまで見苦しき様を見せておいて、よく騎士を名乗れましたな。万策尽きた今、潔く散られるのも騎士たる道ではないのか!」
そう言われるも彼らは何よりも死が恐ろしかった。しかしキュアンは彼らの懇願を最後まで撥ね付けて、レンスターへと急いで帰って行った。
残されたマンスター家は悲惨を極めることになる。地の利を活かそうにも肝心の兵力が全くないために、易々とハンニバル軍に侵入を許して、呆気なく散っていった。ここにレンスター家と双璧を為した、北部トラキア連邦の片翼・マンスター家が滅んだ。
猛烈な勢いで城内に流れ込んでいくハンニバル隊を遥か眼下に望みながら、トラキアの若き王フィリップは北の地に引導を渡すべく、『3頭の竜』を動かすべく最後の采配を振るおうとしていた。いくらレンスター軍がマンスターから急いで帰ろうとも、もはや間に合うはずはない。つまりこの一閃で長く続いた南北の亀裂が南による統一でようやく終わるのだ。まだ若いフィリップだが、父アリオーンから伝えられてきたトラキア家の苦渋の歴史を慮ってか、珍しく頬を上気させている。万感の思いを込めて、最後の采配を振り下ろす・・・。
その瞬間、ヴェルク砦から遣いが飛んできた。
「申し上げます!フィリス様以下、レンスター軍残党が降伏を願い出ています。」
その報せにせっかくの決断に水を差されて、嫌な顔をしたフィリップだったが、フィアンセであるフィリスが戻ってきたことにはやはり笑顔がこぼれた。すぐに
「会おう。」
と応えて、総攻撃をしばらく遅らせるように命じて、自身もヴェルク砦に戻っていった。
フィリスはフィンの奮闘で砦を脱出した後で、これからの去就に関して悩んだ。もしこれが半年前のレンスターなら一もなく二もなくレンスターに戻ったのだが、今は養父でありレンスター最大の功臣フィンをこのような僻地に送る主君キュアンに対して愛想を尽かしていたためにどうにも足が重かった。かといって、婚約しているとはいえ敵国のフィリップに簡単に降るというのも彼女の騎士として意地が拒否反応を起こしている。そこで彼女は今、自身を守ってくれるフィンの部下たちだった騎士たちに意見を求めた。すると彼らは迷いもなくレンスターに戻らずトラキアへ降伏するということを口にした。彼らにとって主君はキュアンでもリーフでもなく、あくまでフィンであってその主君を見殺しにしたレンスター家は憎むべき存在になっていたのだ。それを知ったフィリスは即座に軍を反転させ、白旗を掲げながら崩れかかったヴェルク砦の門をくぐった。
さすがに国王フィリップの許婚だけあって、フィリスには戒めをされることはなかった。すぐに砦に戻ってきたフィリップと対面するや、フィリス目に涙を浮かべてフィリップの元に飛びついた。一瞬、周りのトラキア家臣が暗殺するのか、とギョッとしたものの、フィリスは槍を預けていたことが伝わったので安心して、二人の雰囲気を邪魔しないように静々とその場を立ち去っていく。この陣に詰めていたアルテナを目を細めながら、静かに部屋を後にした。彼女の長女ミントもまた、トラキアの重臣ハンニバル2世の許婚となって今もマンスター城で彼を支えているのだろう。この二人の対談は思いのほか長くは行われなかった。しかしこの戦を最後にフィリスは槍を捨てながらもフィンの遺志を継いで、新しきトラキアのために新たな卵を見出す活動を始め、その後半生の全てをフィンの愛槍・勇者の槍を託すに値する勇者を探すことに没頭していく。そしてフィリスとフィリップがフィンの遺書を読むのはもう少し先のことになる。
フィリスとフィリップの邂逅はトラキア軍に安息の時を与え、結局その日はそれ以上の活動を起こすことはなかった。
翌日、フィリップにとって誤算が相次ぎ、軍事行動を起こすに起こせない状態に陥ることになる。レンスターの南に位置するアルスター家と、東に位置するコノート家が相次いでトラキアへの降伏の使者を立ててきたのだ。互いにマンスター家の滅亡を知って家の保身を賭けて、雄弁な使者を派遣してきたのだ。もともとマンスター家に比べてはトラキア家に同情的な立場を示してきた両家ではあるが、この期に及んでの変節にフィリップも苦い顔を隠そうともしない。しかしフィリップは彼らを拒むことになれば、将来トラキアに降ろうとするものはあきらめて、最悪の場合に死力を尽くして抵抗してくるだろう。またこういう乱世になった場合はコノート家やアルスター家のように単独で道を切り開いていけないものはどうしても大樹に寄り添わなければ生きていけない。姑息と言われても『家を守る』ことは死活問題なのだ。そして今まで寄り添ってきたレンスターという大樹が倒壊寸前であれば、トラキアという生まれ変わった大樹に擦り寄るのは彼らにとって当然の決断とも言えた。だからこそその理を知るフィリップも生理的嫌悪を抑えて、彼らに応対することになった。
結局、この日も2家との和議交渉にて忙殺され、その挙句に『3頭の竜』のうち2頭の標的が味方となったために作戦を練り直す必要にも捉われたために表向きは何事もなく終わった。なお『3頭の竜』の標的はレンスター家と、未だに反トラキアを標榜しているマンスター地方西方に位置するメルゲン家の2家に絞られることになった。
北と西に竜の頭を向けて、日の出を迎えたヴェルク要塞だが、ついに戦機は熟さずに腐りきってしまった。ヴェスティアでセーナとシグルド2世の間で結ばれた停戦を告げる使者がトラキア軍に滑り込むようにして駆け込んできたためだ。この使者を務めるのはグリューゲル十勇者の一人で、フィリップと親しいサルーンである。もちろん傍らには妻リーネも付き添っている。セーナ直筆の書状を受け取った時は思わずフィリップは天を仰いだ。
「勝ちの目しか出ないサイコロを捨てよ、と言うのか。」
思わず呻いたフィリップに、フィリスもついに怒声をあげる。
「これじゃ、何のために養父様は亡くなったのよ!」
もう少し早く停戦が結ばれていればフィンは死ぬこともなかっただろうし、遅ければ遅いでフィリップによる北の制圧は完了していたのだ。周りも怒りを込めながら
「何ゆえに中原(旧グランベルを指し示す、もちろん今はヴェスティアである)の言うとおりに聞かねばならないのだ!」
「このまま北を抑えるべし。」
息巻く発言にも百戦錬磨サルーンは表情を崩す気配はない。元は主君と仰いだフィリップの決断を待つだけである。
対するフィリップも熟慮する。もしこの停戦を受け入れなければどうなるか。たとえトラキアがヴェスティア決戦に参戦しなくとも最終決戦が不可避なのは変わらないだろうし、この半島の情勢も変えられるはずはない。問題はその後だ。フィリップの目の前には無人の沃野が至るところに広がっているのだ。北はナディアが出払った後のイザークが、さらに手を伸ばせば北西のシレジアがあるのだが、ここもライトは決戦に向けて決戦兵力を引き抜いていくだろうからガラガラと言えるだろう。トラキアの国力からすれば両国とも容易に抑えられることになるのだ。そうなればセーナが勝とうとも、シグルドが勝とうとも最終的にはトラキアが群を抜いた国力を持つことになり、その気になればユグドラル全土の掌握も不可ではなくなる。ただしこの場合、豊富な国力を得ると共に耐え難い汚名をこうむることになる。フィリップがその人生を賭けて振り払おうとしてきた『ハイエナ』という汚名だ。『ハイエナ』に関してはもう説明しなくてもいいであろう。この汚名のためにトラキアは幾度となく辛い目に会ってきた。言うまでもなく、この汚名はマイナスに働くことはあってもプラスに働くことはないだろう。それを拒むならばセーナとシグルドの交わした停戦に乗るしか、フィリップには手はない。『実』を取るか、『名』を取るか、実に難しい決断だが、フィリップはすぐに目を開けて言い放った。
「停戦に応じることにする。すぐに手勢をまとめて、ヴェスティアに向かうことにしよう。」
フィリップは名を取った。確かに拒んでイザーク・シレジアに攻め込んでも、落とせると言う確証があるわけではない。イザークならばフィリップにも自信はあるが、シレジアをも落とす自信はフィリップには皆無だった。なぜならライトがヴェスティアに向かおうとも、その父セティが国に残るのは確実で、しかも要害レヴィングラードに篭もられれば落とせる自信がなかったこともあった。レヴィングラードで手こずっている間に中原での決戦が終結した場合はトラキアにとっては最悪の結末を迎える恐れすらあるのだ。トラキア半島を席巻する智謀を身につけたフィリップは、確かに大局を見る目もしっかりと養っていたのだ。
半ばフィリップを試すように見ていたサルーンは思いのほか早い決断に、その成長を感じて心から感服した。フィリップからその旨を書いた書状を受け取ったサルーンは今度はキュアンの元へ向かうようで、すぐにその身を翻してヴェルク砦を去って行った。サルーンを去った後、さすがに浅慮なトラキアの家臣たちは荒れたものの、
「私を信じてくれないか。」
というフィリップの一言ですぐに鎮まった。無骨者の多いトラキアの騎士たちだが、主君に対する忠誠は疑いもない。主君がこれだけ明確に道を示した以上は、彼らも文句なく従わねばならない。それだけの形が今のトラキアには出来上がっていたのだ。
サルーンとリーネはその後、自国へ必死に撤退しているレンスター軍に駆けつけて、シグルド2世直筆の書状をキュアンの元に渡した。そしてその書状を受け取ったときのキュアンの表情をサルーンは一生覚えていくことになる。ガルダ島で共に戦ったこともあって名将として認識していたキュアンが滂沱のごとく涙を流していたのだ。義兄の侠気によって命を救われたと感じた故の涙だとサルーンはこの時推測していたが、その真実は裏をまだ理解していないサルーンに求めるのは酷というものだった。真実はと言えば、己の『自滅の策』が義兄の手によって閉ざされた挙句に、フィンという稀有の勇者の血を捧げてしまったことであり、彼の魂を心から悼んでの涙であった。
一時は激情にかられて停戦を無視してフィリップをけしかけようとも思ったキュアンだが、シグルドの書状にあった最後の言葉を読んで急速に冷めていった。
『辺境で己を追い込んでの無駄死には無用。中原にて華々しく散ることこそ、レンスター家とお前の最期の使命ではないのか。』
キュアンはもともとシグルドとセーナが一度停戦して、最後の大決戦に望むという筋書きは知っている。知っているからこそ、その停戦の使者が着く前に半島の禍根を全て断っておきたかったのだが、義兄は全てを見抜いていたために行動力の高いサルーンを使者に求めて、キュアンのために一肌脱いだのだ。あとは自分次第であったが、義兄の言葉に考えを改めた。ここまで自分たちを追い込んだ以上、遅かれ早かれトラキア半島は南の手で統一されるであろう。ならば亡くなったフィンのためにも最後は中原の戦でレンスターの意地を見せることを決意した。その言葉が出てくるのには本人が思っている以上に時間がかかっていたのだが、フィリップがその言葉を恭しく受け取ってトラキアの戦乱はここに終結した。
イザーク、アグストリア、ヴェスティア、そしてトラキア、各地であがった戦火はセーナとシグルド2世、二人のそれぞれの思惑のもとに消し止められた。だがその途上にて多くの勇者がその命を散らせた。セーナ股肱の臣カインに、トラキア半島の勇者フィン、彼らの思いを背負って、生き残った者たちはついにユグドラル史上稀に見る大戦・ヴェスティア決戦に臨んでいく。