グルニア陥落から二週間余り、ロイトは事態の急変への対応に追われ、カシミア大橋の北岸まで撤退していた。グルニアを落としたリュナン率いるリーヴェ・ウエルト連合軍は逃亡したシレジア兵の収容などの戦後処理のために未だにグルニア王都を動いていないが、アルド・マケドニア連合軍は撤退したロイト軍を緩やかに追撃してラーマン地方を再び制圧している。だがロイトはそちらに目を向けている余裕はない。本拠地アリティアが、突如現われたセーナ軍によって陥落していたのだ。応急処置を施そうにも忠臣として恃んでいたカーティスがセーナに寝返ったことで、アリティアにおけるロイト陣営の楔はなくなっており、ロイト自ら対処せねばならなくなっている。
セーナが今回採った作戦名は【剣と槍】。セーナは先発したライト・アルド・リュナン軍を【剣】、現在大陸東部で奮闘するエレナ・アーサー軍を【槍】としたものである。もっとも後者の槍は開戦当初はセーナ自らが率いる軍勢になる予定だったが、その作戦により深みを増して自身の軍勢を【小剣】をアリティアに突き刺したことになる。作戦の概略は今までの戦いの経緯とほぼ重なっている。まずは【剣】となるライト軍が最初にロイト軍と衝突。この軍勢で二十年越しの大計を成就させるべく策を練ってきたロイトの引き出しを強引に開かせておいて、かつ、目をライト軍のみに向けさせる。決して大軍の雌雄を決しさせる軍勢ではなく、それゆえに一撃の重さには若干劣るが、何事にも柔軟に対応できる【剣】に例えられた。この剣によって視線を向けさせたところに、全く別のところから【槍】を繰り出して致命傷を負わせるのがこの作戦の胆である。槍は見た目どおりに一直線で衝撃力はかなり持っているが、横槍を入れられるとすぐにその威力が落ちる、最悪繰り出した槍を止めてしまうという特徴を持っている。そして実際にそれを示すように、現在は予測外の動きを見せるアカネイア軍によってアカネイアへとつながる中央公路の入り口で怒涛の進撃を止められてしまっていた。だがセーナはアカネイア軍の動きを冷静に判断して【小剣】を繰り出した。攻撃力に期待は持てないが、急所を突くことが出来れば想像以上の成果を上げられる特徴を持っているが、セーナは【剣】と【槍】で見事に隙間を広げてアリティアという急所を突くことに成功したのだ。引き入れたのは先述の通りにロイトの忠臣カーティスである。ロイトがセーナ十勇者カイを寝返らせたが、セーナも同じ時間をかけてロイトの忠臣を引き剥がさせていた。カーティスの寝返りで強固な要塞となっていたアリティアも防衛機能は停止して、そこにはるばるヴェスティアからアルバトロスを引き連れたセーナが急襲すれば保つことは不可能となるであろう。
なおセーナはアリティア占領と共にヴェスティアの皇帝に就くことを宣言している。この戦で失策の続いたライトを押しのけてのことで、ついにセーナは痺れを切らせて行動に出たのだ。これでようやくヴェスティア帝国はこの国を創り上げたセーナの手に戻ってきたことになる。
セーナのアリティア占拠後、セーナを援護するためにアリティアの隣国グラがアリティアからの独立を正式に宣言して、女王ジャンヌを中心とした精鋭15万の軍勢をアリティアに送り出した。すでに残りの半数でアカネイア傘下のオレルアンに侵攻しているグラだが、この混乱に乗じて大胆にも二方面作戦に出たのだ。ジャンヌはアリティア到着と共にセーナと会見に及び、改めて手を取り合うことを約束し、セーナとの間に同盟を結ぶこととなった。これでアリティアの安全を確保したセーナはカーティス傘下のアリティア軍を守らせて、自身とグラ軍を引き連れてグルニアに向かうこととなる。
これだけの情報が一度に届けられたロイトは当初は何から手を付けるべきか迷ったが、カイの助言でセーナとの雌雄を決するべく北上した結果、現在のカシミア大橋北岸に留まることになった。
「これからどうするんだ。前と後に敵を持てば、勝てないぞ。」
未だにロイトの声は上擦っている。
「ロイト様、落ち着きください。情報によればセーナ様の軍勢は未だに万を超えないとのこと、すぐさま向かえば勝ちは確実です。」
「何、グラがセーナに付いたのではないのか?」
「グラ王国軍はセーナ様より2日遅れて行軍しているそうです。これだけ離れていれば手は出せません。」
それは真である。アリティアで同盟締結を果たしたが、ジャンヌはグルニアのヌヴィエム同様になかなか強かであった。協力姿勢を明言しているにも関わらず、今回はセーナの力量を確認するべく本気で戦わない腹積もりらしい。そのことをロイトに告げると、
「セーナにしては迂闊過ぎはしないか?ごく少数でカダイン砂漠に突っ込むなど、正気の沙汰ではない。」
「ですが、砂漠でしたらセーナ様得意の奇策など打てませぬ。打つならここしかありません。」
いつになく熱く語るカイに、ロイトも頷いている。
「だが、我らがセーナを討ちにいけば、アルドの軍勢が黙ってはおらんだろ。」
今でこそ緩やかに進んでいるが、先日の戦では想像以上の俊敏さを見せており、油断は出来ない。
「おそらく数的にはこちらの方が辛いかもしれませんが、10万を私が率いてセーナ様に当たりますので、残りの軍勢でロイト様はこの地を死守してください。」
アリティア陥落という大衝撃にも関わらず、ロイト軍自体は思いのほか落ち着いている。離脱者も出さず、今も50万近い軍勢を残しているのだ。
「40万か・・。それなら大丈夫だが、むしろわずか10万でセーナを倒せるか。」
だがカイは大げさなほど大きく頷く。
「それこそご心配無用です。プラウド殿も連れて行きますし、つい最近カダインで雇った傭兵団も投入します。それにセーナ様の元にはグリューゲルはおりません。グリューゲルこそ無敗で恐ろしいですが、セーナ様は無敗ではありません。確かにアルバトロスは強力ですが、数で押し捲れば勝ちは間違いありません。」
カイの言うことは理路整然としており、すでにロイトの帷幕に入るようになったアリティアの若獅子プラウドはしきりに唸りっぱなしである。ロイトも同様ですぐにカイの策を採用すると、軍勢を分けるべく色々と命を下し始めた。
その夜、カイ軍先鋒に命じられたプラウドが密かにロイトに呼び出された。
「プラウド、いいか、お前に密命を遣わす。カイに、少しでも怪しいことがあればその剣で斬れ!」
思いも寄らぬ命にプラウドは思わず反問しそうになったが、済んでのところで息を呑んだ。すでに信頼していたカーティスに寝返られたことで、カイもセーナからの間者ではないかと疑い始めている。プラウドが反問できなかったのはロイトに対して若干の同情を催したからである。曖昧に生返事したプラウドは足早にカイのもとへ向かった。
「軍師様、ロイト様があなたを疑っています。今のうちにお逃げください。」
しかし、言われたカイは落ち着き払って動こうとはしない。
「プラウド殿、ご忠告ありがとうございます。ですが、私はここを去るわけにいきません。」
驚くプラウドは反問するが、
「私はあくまでセーナ様との知恵比べをしたいのみです。ここを離れればそれも叶いません。たとえ命を落とそうともそれもまた天命です。」
と言って、腰をどんと据えたままである。
「ですが、ここを逃れてもいずれセーナはアカネイアと戦うのでは?ならばアカネイアに行くことも可能かと。」
「それはありません。あの国はあまりにも古すぎます。四名臣が実質、国を動かしている現状では私が参戦しようとも余地はありません。ならばたとえ命を狙われようとも私は己の道を貫くのみです。」
壮烈なる覚悟に触れたプラウドはもうかける言葉を失っている。死を賭してセーナと戦いたい、そんな思いにさせるセーナはどれほどなのかプラウドも非常に気になりつつあった。いつの間にか熱くなったプラウドは決然と言い放った。
「わかりました、やりましょう軍師様。そして必ずやセーナを打ち破りましょう!」
コクリと頷くカイはプラウドを見送った後、静かにロイトの元に向かった。
「ロイト様、私がセーナ様に寝返ると思っておられると聞きまして、申し開きのつもりで参りました。」
「プラウドか!おのれぇ、口の軽い奴め。どいつもこいつも役に立たんやつめ。」
怒りに震えるロイトに、冷静にプラウドが言う。
「プラウドも私を思いやった結果の行動です。責は彼を推挙した私にあります。」
一呼吸おいてから更に続けた。
「よろしいですか。今苛立つことこそがセーナ様の策なのです。あの方は戦で戦うことも恐ろしく強いですが、何よりも人の心理を突くことの方が遥かに上です。」
だがロイトはカイを睨み付けたまま、微動だにしない。それを見たカイは溜め息を一息つく。そして今までの温和な顔を一変させて、口調もガラリと変えて言い放った。
「セーナを相手に味方がバラバラの状態で勝てると本気でお思いか。」
そして剣を抜き放って、ロイトに向ける。
「もし私の死出の戦を邪魔するというのでしたら、今ここでロイト様、あなたの憂い通りのことを成し遂げましょうか。」
カイの言葉にようやくロイトが反応する。
「死出の戦だと?どういうことだ。」
「私もかつてのカイン様と同じ病を得てしまいました。もうあと1ヶ月と持つことはないでしょう。おそらく今度の戦が私にとって最期に戦い、そして最初で最後となるセーナ様との腕比べ、邪念なく戦わせてください。」
それはカイの命をかけた説得である。言いようによってはロイトはセーナと戦うための踏み台とも捉えかねないが、ロイトはカイの本音を聞けただけで十分だった。先ほどまでの険しい顔は消え、穏やかとはいかないが普段のロイトに戻っている。
「死病か・・・。だから死出の戦をするために、私の誘いに乗ってくれたのだな。」
「そういうことになります。」
「わかった。この戦、存分に戦うがいい。これでお前に裏切られれば、それこそ私にアリティアを治める器量がないということだ。」
「ありがとうございます。」
丁寧に叩頭したカイは静かに退出していった。そして自身のテントに戻ると、一気に咳き込んで倒れ込んだ。手には口から吐いたと思われる血がベッタリと付いている。
「あと一週間、この体よ、耐えてくれ。」
翌日、カイ率いる別働隊が出発した。己の生き甲斐をかつての主君に見せ付けるために、若獅子プラウドたちと共にカダイン砂漠へと向かっていく。セーナとカイ、二人の戦いはもうわずか。