レダの谷を離脱し、リグリアへの道を急ぐアルドたちはアベルの進言でリチャードたちと合流するために立ち止まることになった。この頃にはアルドも落ち着きを取り戻しつつあり、かつ、セーナが倒れる前の聡明な頃の彼に戻りつつあった。
「アベル、今まですまなかった。」
怒りに任せて、アベルのことを疎ましく思っていたことを詫びたのだ。これにアベルは優しく首を振った。
「セーナ様が倒れられれば無理はありません。私とて一時は我を失いかけましたから。」
実際はアベルはしっかりと自我を保ち、むしろ衝撃に揺れるミーシャやレナを支えていたのだが、ここは敢えて配慮して見せた。
「私の方こそ今まで独断に動きまして申し訳ありませんでした。」
しかしアルドは気にも留めない。元は自分を助けるためにしてくれたことを今の彼はしっかりと理解しているからだ。
 しばらくして狼狽しながらもティーネ率いるレダ軍が合流してきた。
「アルド皇子、アベルさん、申し訳ありません、ミーシャさんをレダの谷へ置いて来てしまいました。」
頭を下げるティーネに、元々死を覚悟して突撃していったことを知るアベルは静かに目を閉じた。
「気になさらず、ティーネ女王。妻はそれで本望だったのです。」
もっともこの頃、ミーシャは死んではいなかった。ティーエがクラニオンになった間隙を付いて、レダの谷を離脱することには成功していたのだ。
「それよりもティーエ様の姿が見えませんが・・・。」
アベルの問いに、すぐにティーネが顔を俯いたことで彼は全てを察した。また奥でリチャードが伏せていることもあってか、アベルもアルドも何がレダの谷で起こったのかは悟った。
「申し訳ありません。」
その場はしばらくレダの谷に残っていった者たちへの哀悼に包まれることになった。
 「それよりもどうしてこちらで待っていたのです?」
静かな沈黙を破ってティーネがアルドたちに聞く。
「まだまだ敵は罠を張っている気配があるからです。特にこれから先に・・。そうだね、アベル。」
後を引き継いでアベルが続けた。
「その通りです。あまり長く説明する時間はありませんが、この先の丘陵地帯に大軍勢が展開している恐れが高いのです。あの・・・フリージ丘陵の時のように・・・。」
目の前には峻険な山が左右に連なっており、アベルの目には大口を開けた魔物ように見えていた。


 フリージ丘陵、ヴェスティアに仕えるものでこれほど苦い歴史はない。ヴェスティア動乱の初期、当時の十勇者の制止を振り切ってヴェスティア宮殿を飛び出したセーナにシグルド2世が攻めかかり、セーナ自身の命すら危険に晒されたほどの負け戦となった、セーナ唯一にして最大の負け戦である。

 今、アベルはグリューゲル筆頭カインを亡くし、若き筆頭ハルトムートが別行動しているとあってヴェスティア勢の頭脳を担っており、必死に数少ない諜報衆をやりくりして敵の作戦を見極めることもしていた。その中で彼はラグナ軍の中に恐ろしいほど人間の戦いに精通しているものが中枢にいることを感じていた。いくら竜が戦闘能力が極めて高いと言えども、劣等種と蔑む人間の戦術を容れるわけはなく、そのために人の戦い方には疎いと思っていたのだが、リグリア要塞に来てからというもの、その組織的な戦い方にアベルは正直舌を巻いていたのだ。
 すぐにアベルはミューの手勢である不死の軍勢『エインフェリア』に目を付けた。ソニア要塞ではセーナと対等に張り合ったナディアと軍神シグルド2世が分派されていると聞いるが、彼らは世界に名だたる軍略家のはずである。そんな二人を押し退けてまでミューの軍師入る人物が誰なのか、アベルは必死に考えた。そして一人見つけたのだ。
 その男は十勇者・最強の男カインである。アベルは言うまでもないが、彼に半生付き合ってきただけにその真価を知っている。世評ではセーナの名に隠れていたために十勇者筆頭と言えどもさほど高くないのだが、実力では彼女も頼りにした位のものを有している。それを証明することが実は一つある。ヴェスティアの宰相も務めたミカは弟子のルゼル、そしてそのルゼルからまた弟子のアトスへと着実にヴェスティア軍の軍略が受け継がれているのだが、その軍略の元はミカが師事していたカインのものなのだ。ミカが後世まで残そうとしている軍略が並なはずはない。そしてカインはフリージ丘陵の奇襲戦時は重病だったとは言え、最期の出陣を果たしていた戦いである。詳細は嫌なほど知っていた。


 まだ確認しているわけではないが、アベルは自説が正しいとほぼ確信していた。しかしそれを説明している暇はなかった。ティータらレダ勢が来た時点で、レダの谷の敵勢が追ってくる恐れがあったのだ。
 「皇子、ティーネ皇女はここからは立ち止まってはなりません。よろしいですか?」
いつの間にかリグリア要塞軍の軍師となったアベルはカインの軍略を打ち破ろうと必死だった。その熱意はしっかりとアルドとティーネに伝わっており、二人は彼が巨大な敵と戦おうとしていることを理解していた。
「レナ様、そしてアレクスは何としても横を守れ。」
指名された息子夫婦が決然と頷いた。それに満足したアベルがティーネの傍らにいる女魔道士に視線を移した。
「ライラ殿、申し訳ないが、私と共に後方を守ってくれますか?」
ライラは即答した。
「私のような者を選んでいただき光栄です。」
そして最後に奥の方で静かに見つめていたセドリック・ディアナ夫妻を見つけて言う。
「『自由の翼』の方々はアルド様、ティーネ様の前を切り開いていただきたい。あなた方の突撃に我らの命運を託します。」
「そのあたりは任せられよ。絶対に後退せずに突き進んでみせるさ!」
決然と返したセドリックに、アベルは満足そうに頷いた。
「皆さん、ここが正念場です!生きてリグリアへ戻るのです!!」
アベルの言葉に全員が頷いていた。ここにヴェスティアとレダの思いは一つになった。ここに壮烈なヴェスティア・レダ軍の決死行が始まった。
 その直後だった、両側の山腹が崩れるようにしてミューの軍勢が襲いかかってきたのは。


 またレダの谷を辛うじて離脱したミーシャは500までに減った手勢をどうにかまとめ上げて、迂回しつつリグリア要塞を目指していた。
「ミーシャ様、大丈夫ですか?」
ティーエの精鋭サイファードの数少ない生き残りである若い魔法騎士アートゥはミーシャの体の容態をずっと心配していた。何しろ片腕は火傷で膨れ上がり、足からも多くの傷から未だに血が止まらずにいたのだ。アートゥは医術の心得もあって彼女の応急処置を施していたが、それでも本格的な治療がすぐに必要なのは変わらなかった。
「どうにかなるわ。心配しないで、あなたたちを絶対にリグリアに帰してあげるわ。」
ミーシャは無理に笑顔を作って、周りに心配させまいとさせた。ガーディアンフォース、ブラックストライク、そしてサイファード、三精鋭の生き残りは彼女の配慮に感謝し、今はただリグリアに戻ろうと誓うのだった。
 だがそんな傷だらけの軍勢を睨む者がいた。
「やはり敗残兵が通ったか、軍師殿の言うことはさすがだな。」
この者もミューの手先であった。やがて槍を構え、黒き鎧を付けた馬に跨るや、後ろに控えていた軍勢に号令をかけた。
「ゾーアの旗をかかげよ!小数とはいえ、我らを陥れた者たちに逆襲の牙を突き付けるのだ!!」
直後、黒き軍勢がミーシャの軍勢に襲いかかる。
 「まだいたの?!アートゥ、私の言うことをよく聞いて・・・。」
すぐにミーシャはその軍勢の存在を察知し、アートゥを呼び出した。
「ここは私が何とかするから、あなたはリグリアに急行しなさい。」
「ちょっと待って下さい!あの軍勢は我らの数倍はあります。とてもミーシャ様だけでは無理です!」
「それはわかってるわ、だから私のガーディアンフォースで食い止めます。だからあなたたちは早く離脱しなさい!」
とはいえ、ミーシャのガーディアンフォースとて、もう300名ほどしかいなかった。
「ですが!満身創痍なミーシャ様を残して、我々だけがおめおめとリグリアに戻ることなど我々の面子にも関わります!」
「あなたも面子が大事というのね。いい、あなたたちは面子を守ることなんかよりも真っ先にやるべきことがあるの。それはレダの谷での出来事を一言違いもなく、リグリアに戻る仲間たちに伝えることよ!!」
つい数時間前、アベルやサルーンを言い負かした迫力で言われれば、若いアートゥには反論する術は持たなかった。
「ここは私が命も代えて守ります。だから早く行きなさい!」
そう言って、ミーシャは槍をアートゥの馬に軽く刺した。痛みに襲われた馬は大きく嘶いて南の方向へと全速で駆けていく。
「ブラックストライク、サイファードの者たちは後に続きなさい!ここはどうにかします!」
これに二精鋭が静かに従い、続いて行く。去っていくもの一人一人がミーシャに対して敬礼をしており、ミーシャも笑顔で彼らを見送っていった。

 その間にガーディアンフォースは陣形を立て直して、一気に黒き軍勢の突撃を受け止めた。華麗な戦振りをする(P)グリューゲルとは対照的に、ガーディアンフォースは粘りが売りであるために、強烈な衝撃力を持つこの突撃を受けても、後退することはあっても崩れることはなかった。ここにレダの二精鋭を見送ったミーシャが合流してきて、一気に反撃に転じた。
「ガーディアンフォースよ、最期まで私の意地に付き合ってくれてありがとう!でもこれがどうやら本当に最後になるようね。竜の手先たちにヴェスティアにガーディアンフォースあり、というところを見せつけるのよ!!」
ミーシャの檄に将兵たちは疲れた体に鞭打って奮闘していき、一時は黒き軍勢を追い返すまでになった。

 この戦いを見ていた一人の騎士がいる。
「あれこそ、騎士の中の騎士だな。異国の地に来るのは慣れないが、あの者を救うぞ!全軍、突撃!!」
この言葉にどこから現れたのか、謎の軍勢が黒き軍勢の後方に現れてきた。
 「どこから来た軍勢だ?!」
黒き軍勢の指揮官は狼狽し、
「まだ援軍があったの?」
とミーシャもその軍勢の登場に目の前が暗くなる思いがしていた。
「ならば、せめてこの軍勢の指揮官を打ち倒してくれる!」
黒き軍勢の指揮官は焦慮に駆られ、一気にガーディアンフォースへと打ちこんだ。
 この黒き軍勢を率いる指揮官の名はジーク、かつてはリュナン軍にも属してリーベリアの戦役にも度々顔を出していたのだが、ガーゼルの手先であったことが発覚して離脱。セネトとリチャードを相手にレダに戦い、ホームズとも戦った実績があるが、怒りのリュナンによってその命を落としていた。軍略に関しては相変わらず半人前のままだが、槍捌きはさすがだった。
 群れを為して襲いかかってくるガーディアンフォースの将兵を打ち破って、ついにミーシャに迫っていた。
「貴様が指揮官か。だがその身体で戦えるかな。」
猛々しい言葉だったが、この頃のミーシャには一騎討ちするほどの体力は残っていなかった。乱戦の指揮に夢中になったばかりに傷口が開いて、出血が止まらなくなり、意識が朦朧としていたのだ。
「返事はなしか。ならば遠慮なく、命をいただく!」
そして槍を繰り出したが、謎の突きによってジークの突きは弾かれた。
「何者だ!」
「貴様の軍勢を背後から襲ったものだ。」
その顔には仮面が付けられていたが、金髪が眩しいくらいに戦場に映えていた。
「そうか、やはり貴様らはリグリアの手の者だな。ならば、まとめて打ち倒してやる!」
 だがその仮面騎士とジークの戦いは、仮面騎士の一方的な攻勢に終始していた。
「馬鹿な、これほど精緻で豪快な槍捌きをする騎士など聞いたことがない!」
辛うじて守っているジークは正直、仮面騎士に恐怖を覚えていた。これを見守るミーシャは薄れていく意識の中で、その姿を焼きつけていく。どことなく夫アベルと印象が被るが、彼の醸し出すオーラはセーナのような王者の空気をも醸し出していた。
 やがて仮面騎士はジークの槍を振り上げて、その胸を一気に突いた。その突きに淀みはなく、華麗に、しかしまっすぐにジークの心臓を貫いていた。
「どうせ、また生き返るつもりならば、ここで死んでも問題はないな?」
仮面騎士の皮肉に、ジークは唇を噛みしめただけで何も言わないまま、倒れて行く。それを見届けた仮面騎士はミーシャの方に振り向いたところ、突然ミーシャが馬上から崩れてきた。慌てて受け止める仮面騎士に、ミーシャは息も絶え絶えに聞く。
「あなたは・・・一体・・・。」
「シリウス、それで満足してくれるかな?」
 シリウス、それはアカネイア大陸に伝わる伝説の槍騎士が名乗った、もうひとつの名であった。それをミーシャも知っている。
「あなたも・・・・天上から・・・・・・・舞い戻って?」
シリウスはミーシャの体がもうもたないことを理解していた。ならば、最期まで疑問を背負いこませるのは非情だろうとシリウスは思い、すべてをゆっくりと打ち明けた。
「そうだ・・・ったん・・ですか。ならば・・・みん・・なも・・・。」
「わかっている。そちらの方は私などよりはるかに頼りになる者が向かっているさ。」
「よか・・・った。・・・・ありがとう・・ございます。」
これがミーシャが放った最期の言葉であった。シリウスは彼女の亡骸を抱え、生き残ったガーディアンフォースをまとめ、アートゥの去った後を追った。そして彼に追いつくと彼女の遺体を託して、ミーシャの死に愕然としている彼の目の前でシリウスはふぅと消えて行った。


 そしてアベルたちの死闘も予期せぬ方向へと向かっていた。アルドたちこそ丘陵の突破に成功したものの、カインの指揮するミュー軍の攻撃は緩むことなくアベルたちが孤立してしまうことになった。アベルとライラは絶望の中、懸命に抵抗していたところ、突如として謎の軍勢が、アベル隊から見て北東から南へと斜めにミュー軍に斬りかかってきた。その衝撃力は想像以上に甚大で、すぐに退路となる南方の部隊が即座に壊滅するほどだった。
「誰だか知らないが、今のうちに逃げるぞ!!」
乱戦の中で負傷したライラを収容したアベル・ライラ隊は迅速に極端な前傾陣形となって、謎の軍勢が空けた穴に突入していった。負けじとミュー軍もすぐに西方、北方の軍勢が突っ込んでくるが、先ほどの軍勢が一気に二つの軍勢を貫いていったことで追撃どころではなくなった。
(あれは・・・流星陣・・・。一体、どんな人が指揮しているのだ!)
 アベルはその軍勢を構成する兵たちの鎧にある紋章があることを見つけていた。その紋章は聖剣ファルシオンの印。つまりはアリティアの軍勢であるようなのだが、本物のアリティア軍は遠くアカネイア大陸で先年の傷を癒しているはずであった。では何者なのか、アベルには結局わかることはなく、ただリグリアへと馬を急がせるしかなかった。

 「お前がもう一人のカインか。人の名前をもらっておいて、旧主の軍勢に剣を向けるとはな!」
怒りにまかせて赤髪の男が、ミュー軍を指揮するカインを見つけて斬りかかってきた。話からすると彼の名もカインというようだ。また隣には緑髪の騎士も付いてきていた。
「しかしおかげで私はもう一人のアベルを助けることができたから、何とも言えないがな。」
どうやらその緑髪の騎士もまたアベルというらしい。その二人の背後からセーナたちを彷彿とさせる蒼髪の青年が出てきた。
「時の皇帝セリスに討たれた復讐を、長い時をかけて晴らそうとする愚かな宰相クレスよ。目の前のカインもアベルも君には心底怒っているようだが、今回はこれで見逃してあげることにしよう。命の尊厳も無視してこの世界に舞い戻りながら、復讐心のまま、忠義という騎士として最高の誇りを捨てたあなたにはこれから裁きが下ることになろう。」
そしてカインとアベルを促して、今まで来た道を戻ることにした。そこに敢えてクレスと呼ばれたカインが呼び止める。
「あなたに何がわかる、アリティア国王マルスよ!私は散々セリスに尽くした揚句に、裏切られバーハラで殺されたのだぞ!その屈辱を晴らすのが何が悪いというのだ!!」
さすがにクレスは青年の正体をすぐに悟っていた。そして彼はまた自らミューに組した真意を話しだす。

 彼がミューに従うのは彼の言うとおりセリスへの憎しみからであった。解放戦争の末期にアレス軍に加わってアグストリア解放戦で手柄を立てたクレスはセリスによって宰相に任じられ、戦後で混乱するユグドラルを際立った政治手腕で治めていたが、彼はそのことに誇りも感じていたらしい。しかしセリスの妻ユリアと関係を持って、ユリアがセーナを産んでからが彼の人生の転機であった。
 嫉妬と裏切りを感じたセリスはクレスをバーハラでクーデター分子として討ち果たしたのだ。セーナたちには生き延びたことにしているのだが、ここで確かに一度死んでいた。そしてその時に発生したセリスへの猛烈な憎しみをミューはキャッチして、彼女の持つ魔法リザレクションにて蘇生させた。そしてそれなりにセーナに近いところに住まわせ、生き伸びていた親友アベルやボルスと接触、彼らを通じてグリューゲルへと入ることになり、それからは十勇者筆頭としてセーナを助けながら、世界中の力を一つにまとめさせ、まとまったところを一気に叩くというラグナの深謀をも支えることとなったのだ。
 そしてその深謀の準備がままならない内にカインは病没した。セーナによってまとめさせようとカインは最期まで良き父を演じたが、もちろんミューによって再び蘇生されることになる。ただミューの魔力の関係で蘇生したのはつい半年前であり、世界はあらかた決着がついていたこともあって、今度はセーナの元に戻ることはなく、ミューと共に今回のリグリアからレダにかける一大決戦を企んでいたことになる。

そんなクレスにマルスも涼しく言い返す。
「あなたにはわかりますまい。愛する女性に裏切られたばかりか、まさか自分の右腕と信じていた男との間に、いつの間にか子供まで作っていたことを知った時の気持ちを。だがセリス皇帝は立派だった、後とは言え、あなたを討ったことを早計だったと判断し、あまつさえその子供セーナをしっかりと育ませたのだからな。」
そう言うマルスもまたシーダとカチュアという二人の女性を愛してしまった経緯を持っているため、元々強くいうつもりはなかったのだが、やはり心情的にクレスに対して本気で怒っているようだ。
「クレスよ、もしあなたに騎士としての意地があるのならば、ヴェスティアを滅ぼして見せよ。君の言うことが正義ならば、姑息な手を使うラグナと結ばずとも出来たのではないのか?」
そして再び歩み出した。クレスは今まで見せなかったほどの鋭い眼光でマルスたちを睨んでいたが、彼らは気にする風もなくその場を去って行った。


 マルスたちは白光りする巨大な船に集結していた。この巨大な船は命の方舟という。命と運命を司るブラギ神が余りにも命を冒涜するラグナたちに対して、ついに決断を下し、天上にいるマルスたちを呼び起こして下界へと遣わすために使われた船である。マルスたちや先ほどミーシャを救ったシリウス、否、カミュもここから飛び出していったのだ。
「どうだった、カイン、アベル。久しぶりに一緒に戦った感じは。」
マルスが先ほどの丘陵戦を振り返っていた。
「共に戦えたのは嬉しいのですが、いいのですか?あのクレスとやらを放っておいて。」
危惧するアベルに、マルスは静かに言った。
「彼ならば勝手に滅びるさ。それにしても皮肉なものだな。セリス皇帝に殺されて、復讐を誓ってセーナに仕えたというのに、その下で偽りながらも仕えていた頃の方が輝いているように見えるんだからな。それだけ今の彼は前が見えてないんだからな。」
 ふと視線を移すと、シーダが目に入った。
「シーダ、君にはどうしても謝らなければいけないことがあるんだ。」
実はマルス、生前にカチュアと関係をもったことを話していなかったのだ。しかしシーダは首を横に振った。
「あなたがずっと悩んでいたことくらい、わかりました。私からは何も言うことはありません。あなたがカチュアを愛するだけでなく、私のことも懸命に愛してくれたのだから・・・。」
顔を赤らめながら言うシーダに、マルスは心から感謝した。それだけでなく、シーダは後ろのほうで静かにこちらを見ていたカチュアを見つけては
「カチュア、あなたもここに来て、一緒に話しましょ。」
と気安く話しかけたのだから、当のカチュアもさすがに驚いた。シーダはマルスを愛しているからこそ、彼の愛したカチュアも認めたのだろう。長い年月を超えてマルスが懸念していたことはシーダの深い愛によってようやく氷解した。
 そして一人の女性がまたマルスに話しかけてきた。
「マルス、私はちょっと東の方に行ってくるわ。後でブラギ様にお願いして天上に戻るから、先に戻っていて。」
「姉上がそう言うのでしたら、我々は先に『昇る』ことに致しましょう。」
その女性はマルスの姉エリスである。傍らには老人が立っているが、さすがにマルスも誰だかわからないでいる。戸惑うマルスに、その老人がふぁふぁふぁと笑って話す。
「まぁ、忘れられても仕方ないですな。ずっと1000年近く理を外れて歴史を見守ってきたのですからな。」
「マルス、彼はマリクよ。もちろんセーナの兄君ではなく、私の夫の方ね。」
エリスの言葉に、思わずマルスは驚いた。
「そうか、マリクはずっと生きていたのか。さぞかし辛かっただろうに。」
「何の、私ももうあと幾ばくの命もないですから、すぐにそちらへ行けます。」
「ならば姉上も退屈しなくて済むが、まさかその老けたまま天上に来るのか?」
惚けるマルスに、さすがにマリクも吹き出した。
「それはこちらも勘弁願いたいものです。マルス様やエリスのように若い肉体で天上で暮らしたいものです。」
「ならば、ブラギ神にお願いしておくことにしよう。そういえば、チキもまだ生きているんだったな。」
「ええ、ですが、彼女もラグナの暴走で心理的に追い詰められているようで・・・。」
「そうか、綺麗になった彼女にも会いたかったけど、それは出来ないみたいだな・・・。」
 しばしの談笑の後、今まで静かだった命の方舟が輝きだした。
「とうとう、戻るのか。マリク、天上で待ってるが、急ぐ必要はないからな。それに姉上、東の方もお願い致します。」
これにエリスもマリクも頷いて、マルスはカインたちを促して方舟へと戻って行った。そして会釈をして仮面をつけたカミュも静かに入って行く。また上空からも天馬騎士や竜騎士などが戻って行く。どうやらマルス時代の英雄・勇者たちがこぞってこの世界に降りてきていたらしく、エリス以外の全員が乗り終えるまでにはかなりの時間がかかっていた。
 しかしそれも終わり、すべての入り口を閉じた方舟は厳かに上昇を始め、やがて漆黒の空へと消えて行った。

 

 

 

 

 

 

最終更新:2011年10月08日 20:24