翌朝、既にハノン軍の準備は整っていた。さすがにグリューゲルとバイゲリッターの精鋭と言ったところである。隊もハノン、ラケル、ホームズをそれぞれ隊長とした3隊と分けられている。元からハノンは本陣を置くつもりはなかったのだ。もちろん、ホームズ隊の中にはリュナンが紛れ込んでおり、慣れない弓を構えていた。
ハノンは弓の手入れを終えると、愛馬にまたがって鉢巻を巻いた。この鉢巻はセーナが若い頃に使っていたもので、ハノンはお守りのように戦の時には常に巻くようにしていた。他の将兵たちもすっかり準備万端で、ハノンの命を待っていた。
しかし予定していた出撃時間となっても、ハノンは瞳を閉じたまま命を出そうとはしなかった。主将の考えを把握しているラケルや将兵たちは大人しくしているが、やがてホームズが飛んできた。が、ハノンの重臣とも言えるディルに止められた。
彼女は盲目の女神マリアンの旧臣であったが、ライトの戦いで彼女が戦死した後はセーナのグリューゲルに加入しながら、特例としてラケルのヴェルダン家にも仕えることになり、マリアン時代の実績から要職に就いていた。
ちなみにディルと双璧を成した聖騎士セシルもグリューゲルに参加していたが、後進の育成のためにヴェスティア帝都に留まっている。セーナも不在となった今は万が一の場合に備えて、旧知の仲間やまだ仕官していない騎士候補の鍛錬を急いでいると言われている。
「申し訳ありません。今、ハノン様は集中されておられます。ホームズ様ならば、何をお考えかおわかりになられるかと思います。」
ホームズが奥で瞳を閉じているハノンを見ると、ディルが制止した理由はすぐわかった。
(風を待っているのか。)
ホームズも海の男である。そして弓使いでもあるなら、その大切さはわかった。ふと、ハノンが瞳が開けた。
「ホームズさん、申し訳ありません。出陣は1時間後に繰り下げます。・・・その時に良い風が吹きそうなんで。ディル、母上に隊にもお知らせして。」
これにディルは頭を下げて、すぐに伝令を走らせた。周りの将兵たちは一度緊張を緩め、構えていた姿勢を一度解いた。このあたりのオンオフの切り替えはさすがであった。
そして一時間後、ついにハノンが仕掛けた。とはいえ、まだ風が変わった様子はなかった。しかしハノン隊は主将の指示に従って、一気に駆け出す。それに並行して、ラケル・ホームズ両隊も続く。まずハノン隊は南西の方陣を目掛けて、進路を南東に向けた。
『全員、武器をアーバンレストに変更!放てー!』
ハノン隊は彼女の命のもと、すぐに弓を持ち替えて、弓を放った。
リーベリア出身であるラケルとフリードの血を引くハノンにとってユグドラルより種類の多いリーベリアの弓武器を利用することはほぼ必然であった。しかし将兵はディル配下の弓兵が大半だったため、当然これらの弓の扱いには不慣れであり、しかも人によってはやはりリーベリア大陸を後進大陸と蔑視し、その弓を使いたがらないものもいた。ハノンはそう言ったものを懇々と説いて、積極的にリーベリアの弓の訓練・活用を実施していった。それは母ラケルも同じで、精鋭バイゲリッターも時間はかけたものの、一通り扱えるまでにはなっていた。
その成果をハノンはこの機にフル活用するのだ。まずはシュータには及ばぬも、普通の弓の倍の射程があるアーバンレストによる攻撃である。当然、サカの民にシュータ以外でこの距離から攻撃を受けるとは思っておらず、軽度とはいえ早速部隊が混乱し始める。反撃の矢も散発的だが、それらももちろんハノン隊には届くわけがなかった。
「ええい、動くな。ここで動けば、八門陣が機能しなくなる!」
さすがに南西部隊の将もこれが釣り出しだと冷静に見ており、まずは部隊の収拾に努める。だが今度は思わぬ方向から矢が飛んでくることになる。
後続のラケル・ホームズ隊はハノンとは異なって、一端北東に方向を向けたかと思えば、ハノンと同じように南東方向に舵を切って、大胆にも西部隊と南西部隊の中間に切り込んでいたのだ。つまり、南西部隊は南北から矢の雨に晒されることになったのだ。
「こんなところを通り抜けろとか無茶言うぜ。」
ホームズは悪口をはきながらも巧みに部隊を操っていた。もちろん無傷の西部隊に接触するにあたって、ハノン隊と同様にアーバンレストによる攻撃を行っている。
「さ、弓を持ち替えて、適当に射ちまくれ。狙い打つなよ、とにかく数さえ射ればいいんだ!」
正確無比な矢を射ることが売りのバイゲリッターに対して、ホームズはその性格とは真逆のことを命じた。これに将兵たちも頷いて、矢筒から多くの矢を取り出した。直後、ラケル・ホームズ隊から凄まじい数の矢が西部隊・南西部隊に降り注ぐことになる。
「なんだこの矢の数は?!」
南西部隊の将兵たちは文字通りの矢の雨に混乱していた。ホームズの言うように狙いは滅茶苦茶なので、狙い撃ちされるものはいないが、矢の数が敵の人数から予測された量の数倍は飛来してきているため、流れ矢にあたる形で負傷者が続出していたのだ。しかもそれだけではない。あまりにもあちらの矢の数が多いため、こちらから放った矢が途中で打ち落とされてしまっていたのだ。
「おい、南部隊に援軍を頼め!ここは持たんぞ!!」
悲鳴を上げて、援軍を求めようとしたが、その先の南部隊は南東部隊と共に既に先行していたハノン隊の猛攻を受けていた。この頃から西から東へ風が流れ始める。
ハノン隊は南部隊をアーバンレストで一撃した後、一気に進路を北に変えて、南部隊と南東部隊の間にねじ込んだ。そしてラケル・ホームズ隊と同様に通常の弓に持ち替えて、矢の雨をお見舞いした。しかもこの頃にはラケル・ホームズ隊は南西部隊の東側、つまり南部隊と南西部隊の間に入っており、ハノン隊に注視していた南部隊はあっさりと背後から風に乗った強烈な弓矢攻撃を受けることになった。既に南西部隊に抵抗する力がなくなっていたため、両隊は容赦なく南部隊に矢を射かけられるため、南部隊の混乱ぶりは尋常ではなかった。そして南部隊が混乱したのを感じたハノンは容赦なく南東部隊に弓を食らわす。
ただし南東部隊はまだ被害が軽微であったことから、当然のように矢の返礼があった。しかしその矢の多くはハノン隊に届くことはなかった。命中精度を無視して数多く矢を放っているのもあるが、南東部隊からするとハノン隊を狙うには強烈な向かい風が障害となっていたのだ。ハノンはこの瞬間の、この風を待っていたのだ。
「よし、それじゃ、武器を剣に持ち替えて、今度はあそこに突入するわ!」
そして抜き放った剣が指した先は東部隊であった。当然、まさか八門陣の中から食い込まれるとは思わなかった東部隊は北東部隊と本陣からの援護を待たずして、半壊状態となった。
そして最後に忘れられては困るとばかりに、八門陣を通り抜けたラケル・ホームズ隊が南東部隊にアーバンレストの一斉射を挨拶ばかりにお見舞いして、一気に戦場を東に抜けていった。
本陣含めて9つあった部隊のうち、西・南西・南・南東・東部隊の5部隊がハノンというたった一度の暴風によって瞬く間に半壊していた。しかも恐ろしいのはこの被害を受けた部隊全てで死者が出たのは片手で数えるほどだったという。ただ生き残ったものは腕や足に複数の矢を受けて、しばらくは戦うのは不可能というものが大半で、南西・南の部隊長も腕を負傷するほどであった。各部隊からの被害状況を聞いた長老は思わず唸った。
「これほどとはな・・・。」
それからの長老の決断は早かった。すぐに八門の将や若手の将兵を呼ぶと、開口一番にこう宣言した。
「我らの負けじゃ。あの娘にはどう逆立ちしても勝てぬ。これ以上、痛めつけられる前に降伏する。」
これに八門の将は項垂れながらも、承諾した。戦っていない北面の将たちも戦況を聞いて、ハノンに対する恐怖を強めていたのだ。
だが、これに血気に逸る若者たちが反発した。今回の戦はあまりにも守りに入り過ぎたののが敗因だと、暗に長老を批判さえしていた。これに八門の将たちは叱責しようとするが、長老はそれを制した。
「そうじゃ、今回はわしらの失策で負けたのじゃ。敗戦の責はわしら老いぼれどもが背負えばよい。そなたらには責はないのだから、あの娘に胸を張って降れば良い。そして、もしあの娘たちがラグナに敗れるようであれば、わしらの首をラグナに差し出せばよい。」
思わぬ言葉に若者たちも次の言葉が出せずにいた。
「じゃがな、次の負けはサカの滅び、誇りの失墜を意味する。それをそなたらに任せることになるが、良いな。」
規模の違いはあるが、長老の考えはセーナの禍根の鎖を巻きつけるものに通じるものがあった。彼は自身の進退を賭けてサカとラグナを引き離そうとしていたのだ。
(長年、下っ端として働かせておいて、窮地に陥れば心のない軍勢を援軍に寄越すなど、どさくさに紛れてブルガルを我が物とするつもりじゃろう。)
草原のおきてに縛られてはいるものの、サカのものたちの心は既にラグナから離れつつあったのは事実であった。ラグナもそれを敏感に感じ取って、援軍には『人形』と称する部隊しか送っていなかった。他の地域に対してセーナの猛攻が始まっていたというのもあるが、彼らとサカの民で共倒れを策していたのだろう。そしてそんなサカの思いを察したものがいた。ほかならぬハノンであった。
実はハノンと長老は裏で密約を交わしていた。ハノンから長老に対しては
『ラグナを倒すために支援と道案内を頼みたい。代わりとしてサカ地域の自治・独立を命に賭けて保障します。』
と依頼している。この自治・独立の保障は東部にあるエレブ唯一の都市ブルガルの領有も含んでいる。ラグナの真意を知った長老たちが心を揺さぶられる内容であった。対して長老は
『呑む用意はある。しかし我らは草原の掟に従い、戦わずして降ることは出来ぬ。今度の戦にて守りの戦を披露するゆえ、存分に打ち破って欲しい。ただし願わくば、我らをラグナと戦える余力を残した敗戦を所望する。』
と返していた。呑むとはいえ滅茶苦茶な前提条件が付いたが、ハノンはすぐに諾と返していた。そしてこれが今の戦いに繋がったが、まさか長老はここまであっさりと成し遂げるとは思っていなかった。
ハノンとて長老の条件が難しいことはわかっていたが、サカの民の協力は今後に向けても必要であるから心から従わせる必要はあった。とはいえ、長老の言うように徒に犠牲を強いては後の禍根にもなる。ならば、と考えたのがサカの民に対して隔絶した力を見せ付けて、敵わないと思わせるのが近道だと思ったのだ。しかしただ見せるだけでは犠牲を大いに強いることもある。ハノンは戦い方を大いに工夫することにした。
もともとハノンのグリューゲル弓騎士団も、ラケルのバイゲリッターでも世界随一の命中力を誇る部隊である。つまりはいかに少ない攻撃で敵を討つかを強みとしてきた。つまりハノンの今回戦いたい戦法とは真逆である。ならば、その命中精度を下げさせれば敵を討たずに済むのではないかと考えた。そのために元々命中に難のあるアーバンレストを使わせたり、狙いを絞らないうちに放たせるために全隊にでたらめでも多くの矢を射させたのだ。それは見事にハマり、普段ならば胸や頭を狙っていた矢が色々なところに散り、先の報告にもあったように腕や足に流れ矢としてようやく当たる程度になったのだ。これであれば、命を奪うこともなく、かといってすぐの反撃が不可能になる程度の傷を負わせることができた。数日もすれば負傷したものの大半はまた戦えるようになることだろう。まさに長老が望んだ結果を、ハノンは導き出して見せたのだ。
もちろんそんなことはおくびにも出さず、苦汁の決断を装って若者たちを懇々と説いていった。彼らも責任を長老が背負うと言っている以上は何も返せず、やがては折れることになった。
「それで良い。どれ、ではわしの最後の務めを果たして参ろうかの。」
長老はすぐにハノンのところへ向かっていった。この成り行きにはハノンの母も当然のように驚いていた。
(これが人を振り向かせる力と義・・・。ハノン、まさかあなたから教えてもらうことになるなんてね。でも、ありがとう。この年になって、人を導くためのものを教わったわ。)
ハノンの思いを知り、ラケルの頬をうっすらと光るものが伝っていた。
こうしてハノンはわずか数時間の戦で、サカの民を屈服させてしまった。この戦は後世まで語り草となって残り、疾風のハノンとして語り継がれることになった。
ともあれ、サカの民とハノン軍は数日の休憩でそれぞれの疲れ・傷を癒した後は敵となったラグナ軍からブルガルを守るために、東へと急行することになった。