概要
第二次世界大戦期のウマムスタン陸軍の軍人。北部カザフ地域の旧カザフ・ハン国王家に連なる名門テムロフ家の出身。第二次大戦中にはウマムスタン東部戦線義勇軍団の軍団長を務めた。大ウマムスタン主義者として知られる。また、特殊な状況でなければ常に故郷のカザフ訛りのテュルク語(スレ内では関西弁として表現)で話すことでも知られる。
主な身分
- ウマムスタン陸軍少将(派遣時)、のちに中将
戦歴
1942年
スターリングラードの戦い、ウラヌス作戦
- 11月8日、義勇軍団がヴォルゴグラード(現実世界のスターリングラード)に到着。ゲルウマン第6軍による攻勢を撃退。
- 11月17日、ウラヌス作戦発動。ヴォルゴグラード南部の第4騎兵軍団と共に第13機械化軍団、第4機械化軍団といった突破部隊の支援を開始。
- 11月20日に赤軍第13機械化軍団が第29自動車化師団により壊滅。第4機械化軍団も潰走し、さらに進軍してきた第29自動車化師団と交戦開始。TYi-137を押し出してこれを撃退、壊滅せしめる。
1943年
小土星作戦、及び付随する作戦
- 1月13日に発動されたヴォロネジ・ハリコフ戦略攻勢作戦に参加。脱出を目指すロマーニャ軍を追撃する。殲滅は叶わなかったものの4万人中3万人が戦死・脱落し、脱落した者の多くを義勇軍団の捕虜とすることに成功する。
- 1月29日に開始された跳躍作戦(ギャロップ作戦)に参加。ロストフ、クラスノダール攻略において中心的な役割を果たす。義勇軍の活躍により、カフカース地域からゲルウマン軍が完全に駆逐される。
- 2月25日に赤軍から「とにかく何でも良いからゲルウマン軍に圧をかけろ」という要請(この時赤軍はゲルウマン軍の『後手からの一撃(バックハンド・ブロウ)』によりポポフ機動軍が壊滅するなど危機的状況に陥っていた)を受け、クラスノダールから一気に北上し、ドネツク及びマリウポリへ攻勢を仕掛け、ホリト軍支隊と激突。
- ホリト支隊を撃破し3月10日にマリウポリ、3月15日にドネツクを陥落せしめる。この時Laz-41E早期警戒機が投入される。
- 雪解けの泥濘が始まっていたことに加えて、先の14日にゲルウマン軍がハリコフ奪還宣言を行っていたことを受け、赤軍勢力がドネツ川まで押し戻されることを見越しルハンスクへの後退準備を開始。
- しかし、ゲルウマン軍の大部隊が明らかにドネツク奪還を目指して進んできており、義勇軍団が完全にドネツクから去るよりも先に接敵する可能性が高く、このまま撤退した場合、後方から攻撃を受けることになるという情報が入り撤退を取りやめ。ドネツクでの迎撃準備を始める。
- ゲルウマン側重装甲猟兵の活躍により床役の歩兵部隊が大打撃を負うものの、鉄床作戦により敵の撃退に成功する。
クルスクの戦い
- その後は補給、新装備の受領、訓練を行いつつ待機。
- 6月10日にクルスクの戦い開始。南方軍集団の快進撃を受け赤軍司令部が戦略予備の投入を決定、同時に義勇軍団にも出撃要請が来る。これを了承し、第5親衛戦車軍とともに西進、南方軍集団の最も強力な装甲戦力たる第2SS装甲軍団の撃滅のため、プロホロフカに進出。プロホロフカ戦車戦に参加する。
- 戦闘開始当初は赤軍の戦術的失敗もあり大損害を負い、義勇軍団が救出に動く場面もあったものの、第5親衛戦車軍は粘り強く抵抗。同時に義勇軍団はプロホロフカ西方の226.6高地への攻撃を開始した。窮地にあった赤軍第2戦車軍団を救いつつ、第1SS装甲擲弾兵師団の支配地域を見下ろせる位置にある同高地の確保を目指す。この時TIq-143重駆逐戦車が初めて実戦に投入される。
- ティーガー戦車をTIq-143が撃破したこともあり、226.6高地の確保に成功。
- その後第5親衛戦車軍が第1SS装甲擲弾兵師団左翼を狙って側面攻撃を実施。しかし第13装甲中隊のティーガー戦車が派遣され、攻勢は頓挫。この側面攻撃の失敗によって逆に第1、第2SS装甲擲弾兵師団押し込まれた第5親衛戦車軍は序盤の戦闘での多数の戦車喪失も合わさってプロホロフカからの撤退を決定。必然的に後背地を脅かされることになる東部戦線義勇軍団も226.6高地から退くこととなり、最終的に第2SS装甲軍団が6月20日にプロホロフカ占領を宣言。プロホロフカ戦車戦は第5親衛戦車軍と東部義勇軍団の敗北に終わる。
第二次プロホロフカ戦車戦
- 同時期、北方ではウマエトが優勢な状況であり、北方でゲルウマン軍が包囲されるか、南方で赤軍が包囲されるか、あるいは痛み分けかといった状況であった。そのような戦況の中、南方軍集団はプロホロフカ占領の翌日にはクルスクへ向かっての進撃を決定した。しかし、第5親衛戦車軍、第2戦車軍団共に装甲戦力をほぼ喪失していた。
- それでも東部義勇軍団はゲルウマン軍の装甲軍団に対抗可能な装甲戦力をクルスク南方に残していた。その結果プロホロフカ失陥直後、義勇軍団は赤軍司令部からの依頼により、残存する赤軍戦車軍団を纏め上げ、ステップ方面軍から再びやってくる増援部隊到着まで南方軍集団装甲軍団の拘束を行うことになった。
- こうして勃発した第二次プロホロフカ戦車戦であったが、エースが操るティーガー戦車は巧みに偽装された義勇軍団のTIq-143重駆逐戦車を発見し撃破。最新鋭のTYi-137-60騎兵戦車を中心に義勇軍団も反撃するものの、TYi-137-60騎兵戦車と正面からまともに撃ち合えるのはティーガー戦車とパンター戦車だけであると既に把握していたゲルウマン軍はティーガー戦車とパンター戦車を前面に立たせて盾役にとし、それ以外の機動力があるⅢ号とⅣ号は側面へ回り込ませることにした。これが大当たりし、義勇軍団のTYi-137-60騎兵戦車は次々と撃破または戦闘不能に追いやられた。
- この状況を受け、テムロフは部隊の後退を指示。射撃統制とTIq-143の砲火力によって敵部隊の前進を食い止めることに成功したものの、魔王とも呼ばれる例のスツーカ乗りによりTIq-143が無力された。
- 空襲に歩調を合わせ防衛戦が崩れたティーガー戦車が次々と突撃を開始。同時にこれ以上の継戦は不可能と判断したテムロフは東方への撤退を全部隊に伝達し、義勇軍団の完全な壊滅を避けるために志願兵を募り、QKab-143(駆逐戦車型TKab-135)を死兵として退却した。
- この第二次プロホロフカ戦車戦で東部戦線義勇軍団の機甲戦力は多大な損害を負い、回復にはおよそ一年の時間を必要とした。
- 機械化騎兵師団が戦闘不能となる中でも、残存した機械化歩兵師団や砲兵連隊は戦い続け、ルミャンツェフ作戦、そしてドニエプル川の戦いに参加した。
1944年
バグラチオン作戦
- 国内への兵器配備、連合国へのレンドリース、西部軍団への供給もあり東部義勇軍団の主力たる機械化騎兵師団の再建には一年ほどかかり、次の主な作戦参加はバグラチオン作戦であった。
- この時「プリピャチ湖沼は戦車でも突破可能である」ということで第1ベラウマシア方面軍司令官(ロコソフスキー)とテムロフの意見が一致し、作戦が決行。ウマムスタン軍はTYi-144重歩兵戦車、TYi-145重騎兵戦車、そしてウマエト軍もT-34-85、IS-2といった改良型や新型重戦車を投入し、モギリョフ、ボブルイスクのゲルウマン軍を6月24日までに壊滅せしめた。
- ボリゾフ攻防戦ではバグラチオン作戦第2段階(ミンスク解放戦)で最も激しい戦車戦が展開し、5装甲軍団は善戦したものの、5日目にボリソフ南部から義勇軍団が渡河し、第5装甲軍団の側面を突くことに成功。結果、第5装甲軍団は保有する全てのティーガー戦車を全損。その他の戦車も数多く撃破され、事実上消滅した。
- 7月3日、ミンスクを赤軍と共に解放した。この後、当初の目標を達成した赤軍司令部は作戦第3段階として北方のバルト地域へ逃れようとするゲルウマン軍の追撃、そして西方のポルスカ、首都ワルシャワに流れるヴィスワ川東岸への橋頭堡構築を狙った二方向への攻勢を行うことを決め、義勇軍団はルブリン-ブレスト攻勢に参加した。
- ブレスト東部に広がるポリーシャ地域はプリピャチ川と西ブーフ川に挟まれた湿地と森林が混在した土地が広がっており、機動戦は困難であった。先のモギリョフやボブルイスクへの攻撃と同様に湿地帯突破に機動戦を検討したものの、ルブリン-ブレスト地域がゲルウマン軍勢力圏のど真ん中であることや赤軍の補給状況を鑑みて不可能と判断。第1ベラウマシア方面軍と足並みをそろえてブレストとその北方に陣取る第4装甲軍団を攻撃することにした。また、この時の赤軍は一連の攻勢、縦深攻撃があまりにも上手く行き過ぎたことで補給や航空支援が徐々に途切れ始めており、攻勢限界一歩手前に近い状況だったため、赤軍司令部はこのルブリン-ブレスト攻勢をバグラチオン作戦最後の攻勢と定めていた。
- 7月19日、赤軍第70軍の渡河をきっかけにブレストのゲルウマン軍との戦闘が勃発。義勇軍団は要塞戦を迂回して、ブレストを遮断するため、北方に陣取る第4装甲軍団へ攻撃を開始…したものの、ゲルウマン軍は当時の赤軍の最善手、損害を抑えるためにブレスト要塞線という要衝を迂回し遮断するという戦術を読み切り、さらにその障害となる第4装甲軍団を排除するために有力な機動戦力であるウマムスタン義勇軍団を赤軍司令部が差し向けることも読み切りった。そのためゲルウマン軍はビャウォヴィエジャ森に防御陣地と掩体を構築。ナースホルン、8.8cm砲の十字砲火で義勇軍団重騎兵連隊の先頭集団に大損害と混乱を与えた後、ティーガー戦車を一気に投入した。
- この知らせを受けたテムロフ軍団長は1年前と同じように装甲戦力が壊滅することを予感し、全部隊に転進を命令。何とか被害を最小限に抑えたもののブレスト攻略に時間を取られることになった。
- 結果としてゲルウマン軍は遅滞戦闘に成功。第4装甲軍団にワルシャワへの後退を指示し、ワルシャワ前面には赤軍の攻撃で損耗していたもののゲルウマン軍中央軍集団の有力な装甲戦力が集結することとなった。
- 同時期に、赤軍司令部とウマムスタン政府の『強制収容所の解放に立ち合って欲しい』という要請を受けルブリンに飛ぶことになった。これにより第三帝国の絶滅政策が世界的に広められると共に、ウマムスタン本国には強化人間計画の情報がもたらされた。
ワルシャワ解放
- そんな中、義勇軍団はブレストからワルシャワまで進軍。7月29日から続いていたワルシャワ前面での赤軍第2戦車軍とゲルウマン軍装甲軍団の激突に参加する。義勇軍団が到着したのは8月1日、ゲルウマン軍第5SS装甲師団が先行する赤軍第3戦車軍団と後詰めの赤軍第8親衛戦車軍団の間に軍団の繋ぎ目を見出し、これを分断し赤軍第3戦車軍団が逆包囲の危機にさらされ、天秤がゲルウマン軍に傾きかけた時であった。赤軍、ゲルウマン軍、義勇軍団が入り混じり、ここにワルシャワ戦車戦あるいはラジミンの戦いと呼ばれる戦闘が勃発した。
- 同時にワルシャワではポルスカ(ポーランド)国内軍による蜂起、ワルシャワ蜂起が開始。兵力的にポルスカ国内軍が優位を確保した上、ワルシャワ公国時代から繋がりのあるウマムスタンが国内軍を支援。ウマムスタン製の小銃及び短機関銃が行き渡っていた。
- 結果的に赤軍第3戦車軍団は包囲網の突破に成功。(重装備の大部分を喪失)義勇軍団重騎兵連隊は第3SS装甲軍団の動きが急に鈍くなったところを突いて撃退することに成功。そのまま西進し、半壊した赤軍第3戦車軍団と出会いこれを救出した。
- 同時期に赤軍のレズノフ上等兵とディミトリ二等兵の超人的な活躍もありワルシャワ蜂起が大成功。各所でバリケードが構築されたことで先のワルシャワ戦車戦で勝ち越したSS装甲軍団は行場を失った。結果、SS装甲軍団は北上する形でワルシャワ市街地を迂回し、撤退。ウマムスタン義勇軍団は赤軍第2戦車軍に先んじて、ワルシャワに到達し、市民から歓迎されることとなった。
1945年
ヴィスワ=オーデル攻勢
- 1945年1月12日、赤軍はヴィスワ=オーデル攻勢を開始。同時にポルスカに住んでいたゲルウマン人は赤軍から避難を開始。ゲルウマン宣伝省が映像として収めた1944年10月にオストプロイセンのネマースドルフで赤軍による民間人虐殺事件のような赤軍の報復・復讐をゲルウマン人達が大いに恐れたためであった。この避難民は約一千万人以上とも言われ、多くは赤軍に轢き潰されたものの、幾らかは(収容所におけるゲルウマン人の非道な扱いを見た将校による反対こそあったものの)東部戦線義勇軍団へ積極的に投降したグループは生き残ることができた。
- しかし、ゲルウマン軍は敵前逃亡を行なった部隊と義勇軍団に投降しようとする避難民をゲルウマン民族の恥として処分し、更に投降ビラで自らの位置を曝け出したウマムスタン義勇軍団を撃滅するために部隊を派遣。その部隊にはかつて黒土地帯で戦った重装甲猟兵大隊も含まれていた。
- これに対し義勇軍団はTIq-143-90戦車支援戦闘車を前面に押し出し迎撃を開始。重装甲猟兵もまた薬物による改造などもあり勇敢に、直感も駆使しつつ戦ったものの撃破された。重装甲猟兵の壊滅を目撃した後衛のゲルウマン軍部隊は明らかに動揺しながら退却し、義勇軍団は避難民を守り通すことが出来た。(後にこの戦闘結果を受け各国では戦車に対装甲猟兵用のキャニスター弾や榴散弾を数発は搭載するようになり、これは現代まで続いている)
- ゲルウマン軍の抵抗を排除した義勇軍団は東ポメラニア攻撃に参加。当初は楽観的な雰囲気が漂っていたものの、シュタルガルト及びシュチェチンにて武装SSの装甲擲弾兵師団が複数確認され、更にそれらがこの状況下で攻勢に打って出たことで虚を突かれた赤軍部隊が幾つか潰走、混乱に陥っていたことが明らかになった。
- 義勇軍団、赤軍は協力して同ゲルウマン軍を攻撃。シュタルガルト周辺の赤軍部隊の救出と敵装甲軍団の対処を行った。国民擲弾兵のパンツァーファウストなどといった脅威こそあったものの結果として圧勝した。
- この攻勢の結果赤軍のベルリン陥落を阻むものは何一つなくなった。1945年4月16日、赤軍第1ベラウマシア方面軍は夜明け前に攻撃を開始し、オーデル川を突破した。
ベルリン攻防戦
- 義勇軍団は赤軍と共にゼーロウ高地への攻撃を開始、赤軍の士気も高かった…ものの当時のオーデル川は春の雪解けで増水し始めており、それに目をつけたゲルウマン軍司令官が意図的に氾濫を起こし、周辺の平地を沼地へと変えてしまい、攻勢は思うように進まなかった。
- 攻勢初日の4月16日、更には4月17日の2日間は殆どぬかるみに足を取られるだけで終わり、めぼしい成果は挙げられず、これに第1ベラウマシア方面軍司令官(ジューコフ)は大いに苛ついた。というのも、彼はベルリン南方を担当する第1ユークレイン方面軍司令官(コーネフ)とベルリン一番乗りをどちらが先に成し遂げるかで争っている状況であった。そこでジューコフは背に腹は代えられぬということでこの2日間、やや後方で待機していたウマムスタン義勇軍団の投入を決めた。
- テムロフとしては赤軍の『ベルリン攻略に義勇軍団、不要ッ!この"赤軍戦車軍団"だけあればいいっ!!』という打算からの手のひら返しに幕僚共々呆れていたものの、4月18日から攻勢に参加した。
- 義勇軍団はそれまでの赤軍の攻勢から進軍可能なルートがわかり始めていたということもあり、快調に進撃を続けた。赤軍、テムロフ、そしてその幕僚ともにベルリン攻略という今次大戦のフィナレーを迎えつつあることによる興奮から、状況を楽観していたこともあり、何の疑いもなく進軍を続けた。結果、ベルリンまで約40kmの地点に差し掛かった時点でティーアガルテン砲台による猛烈な反撃を浴びることになった。
- 砲撃で軍に混乱が広がり、同時にそれまで一切姿を見せてこなかったケーニヒスティーガー、ヤークトティーガー、エレファント、パンターといったゲルウマン軍の誇る鋼鉄の猛獣達が一斉に現れ、襲いかかってきたことで混乱に拍車がかかった。こうしてベルリン戦車戦が勃発した。
- この戦車戦は3日3晩続き、ゲルウマン軍がZielgerät1229標的暗視装置を発展させた暗視装置を搭載したケーニヒスティーガー、更にはギリギリ実戦に間に合った超重戦車マウスといった兵器を投入することで一時は赤軍がオーデル川岸辺ギリギリまで追い詰められる危機的状況に陥ったりしたものの、最終的に義勇空軍のLaz-41B戦略爆撃機がティーアガルテン砲台を集中爆撃で沈黙させ、義勇軍団重騎兵連隊のTIq-143重駆逐戦車が砲撃戦を制して化け物鼠(マウス)を退治したことで何とか勝利をもぎ取った。
- その後赤軍第5打撃軍と共同しベルリンを東方から攻撃、テムロフ率いる義勇軍団はウンター・デン・リンデンの博物館島を攻め落とし、ベルリン王宮に旗を掲げ、第11SS義勇装甲擲弾兵師団や第33SS武装擲弾兵師団といった外国人義勇兵を中心に組織された部隊に対して投降を呼びかけつつ、ブランデンブルク門に迫った。
- そして、先のベルリン戦車戦でゲルウマン軍の捕虜となっていた大佐(サムソンビッグ)がゲルウマン軍の監視を掻い潜って抜け出し義勇軍団の兵の"護衛”により"帰還"。テムロフはこの大佐に「その旗を帝国議事堂に掲げてこい」と命令した。
- 激烈な戦闘の末同大佐は共に脱出した赤軍兵と共にライヒスタークに連隊旗、そして赤旗を掲げ、その写真を撮影することに成功した。これによりウマムスタンは第二次世界大戦における存在感を示した。
- 同時にテムロフ指揮下の義勇軍団はベルリン市民に対して略奪や暴行を行なった赤軍将兵の取り締まりを行い、それにより義勇軍団が赤軍の論争が行われた。
逸話
- ヴォルゴグラード防衛への貢献から天王星作戦における第一功とされ、書記長より勲章が授与されると知らされた時の第一声が『冗談はよしてくれ』
- ウマムスタン政府からカガンの名で『モスコーの勲章授与式に必ず出席するように』と正式な命令書が届いた時には『カガンは人の心とか無いんか?』、『何が悲しくてあんな筆髭のおっさんと笑顔で握手せなあかんのや』などとボヤいていた。
- 勲章授与の順番がテムロフ少将の番になった時、書記長と対面して一言、『ほんまに背丈以外は似とるんやな』と呟いた(書記長がプロパガンダでは背の高い俳優を自分の代役として立てていたことを指している。書記長のコンプレックスたる身長を揶揄したとも取られかねない発言)
- 跳躍作戦における活躍から度々「カフカースの解放者」とも呼ばれる。