楊貴妃
楊貴妃(ようきひ、719年〜756年)は、中国唐代の皇妃で「
世界三大美女」の一人として知られる歴史上の人物です。
彼女の本名は楊玉環(ようぎょくかん)で、「貴妃」というのは皇帝の妃としての称号です。その美しさは「傾国の美女」と称され、唐の玄宗皇帝に深く寵愛されました。
概要
- 出自と結婚
- 楊貴妃は蜀(現在の四川省)で生まれ、幼少期に両親を亡くし叔父に育てられました
- 彼女は当初、玄宗皇帝の十八男・寿王李瑁(りぼう)の妃となりましたが、その美貌が玄宗に見初められ、後に玄宗自身の後宮に迎えられました
- 玄宗皇帝との関係
- 楊貴妃は745年、26歳で「貴妃」の地位を授けられ、実質的に皇后と同等の扱いを受けるようになりました
- 彼女はただ美しいだけではなく、音楽や舞踊にも優れた才能を持ち、玄宗を魅了しました
- 特に琵琶や舞踊でその才能を発揮したとされています
- 一族の台頭と安史の乱
- 楊貴妃が寵愛を受けたことで、一族も高い地位を得ました。特に従兄弟の楊国忠は宰相として権勢を振るいましたが、軍人安禄山との対立が激化し、755年に安史の乱が勃発します
- 乱によって唐朝は混乱し、首都長安から玄宗と楊貴妃は蜀へ逃れることになりました
- 悲劇的な最期
- 蜀への逃避行中、兵士たちが乱の原因として楊国忠と楊貴妃を非難し、楊国忠を殺害しました
- その後、兵士たちはさらに楊貴妃の死を要求し、最終的に玄宗は彼女を縊死(首吊り)させる命令を下しました
- 彼女が亡くなった場所は馬嵬坡(ばかいは)とされています
- 死後と伝説
- 楊貴妃の死後、その美貌と悲劇的な運命が詩や物語で語り継がれました
- 特に唐代の詩人白楽天による『長恨歌』では、玄宗と楊貴妃の愛が「比翼連理」(天では翼を並べる鳥となり、地では枝を連ねる木となる)として描かれています
- また、一部では彼女が実際には死んでおらず、日本や他国へ逃れたという伝説も存在します
- 文化的影響
- 楊貴妃は中国四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人でもあり、その美貌や物語は能や戯曲、小説など多くの文学作品で取り上げられてきました
- 現代でも映画やゲームなどでキャラクター化されるなど、その名声は広く知られています
楊貴妃は、美貌だけでなく、その悲劇的な人生や玄宗との愛によって、中国文化だけでなく世界的にも象徴的な存在となっています。
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最終更新:2024年12月07日 09:49