青の地平のトーラ ストーリー:前日譚-3780
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A prequel for Tora
はなのいろはうつりにけりな、……
― 1 ―
クラスタニアでは今日も雨が降り続いていた。彩音回廊による天候制御がなされている第三塔において、五日も連続して雨が降ることは非常に珍しいことである。巨樹に抱かれたこの地では少々の雨はむしろ楽しむものだという意識があるが、さすがにこの長雨を楽しもうという者はいないようだ。それを示すかのように、ふだんは多くのレーヴァテイルたちで賑わうプロムナードはひっそりと静まりかえっていた。晴れた日には色とりどりのボートが浮かぶ大きな池も、今日はざらついた鈍色の水面をただ空に曝していた。
池のほとりの緩やかな丘の上はクラスタニア政府や軍の幹部向けの区画になっていて、他の場所のものより一回り大きな家が立ち並んでいる。ファンシーに溢れたクラスタニアの例に漏れず、この場所の住人たちも競って庭や家を装飾している。
そんな中にも一軒、飾り気のほとんどない家が存在する。ただし、この家の住人が無頓着だというわけではない。庭は手入れが行き届いていて、その一角をよく見ると、小さな築山の周りに自然石を周到に配した造作になっていたようだ。しかし、長雨によって土が流れ出し、築山は泥濘に塗れた無残な姿に変わり果てていた。家の中から窓越しにその様子を眺めていた青髪の女性は、ひとつ大きなため息をつき、部屋の奥へと戻っていった。
池のほとりの緩やかな丘の上はクラスタニア政府や軍の幹部向けの区画になっていて、他の場所のものより一回り大きな家が立ち並んでいる。ファンシーに溢れたクラスタニアの例に漏れず、この場所の住人たちも競って庭や家を装飾している。
そんな中にも一軒、飾り気のほとんどない家が存在する。ただし、この家の住人が無頓着だというわけではない。庭は手入れが行き届いていて、その一角をよく見ると、小さな築山の周りに自然石を周到に配した造作になっていたようだ。しかし、長雨によって土が流れ出し、築山は泥濘に塗れた無残な姿に変わり果てていた。家の中から窓越しにその様子を眺めていた青髪の女性は、ひとつ大きなため息をつき、部屋の奥へと戻っていった。
惑星再生の日から4年。つまり、クラスタニアの体制が大きく変化してから4年の月日が経った。スレイヴの人間が解放され、また、アルキア支配時代以来数十年ぶりに、クラスタニア上層にも僅かながら人間が居住するようになっている。しかし、変化はそれだけに留まらない。人間世界の文化が解禁され、こうやってアルキアのテレモ局制作の番組をクラスタニア本国でも楽しむことができるようになった。
――「クラスタニアで暮らしていて不満なことは?」
――「そりゃあ、男子トイレが少なすぎることです。買い物でプロムナードにいたときにトイレに行きたくなって、だけど周りに全然なくって、結局家まで戻る破目になったときは死ぬかと思いましたよ、本当に。」
――「他には?」
――「後は……やっぱり、この街は男っぽさが全然なくて息苦しくなります。建物だけならまだしも、あの……まいまいスクーターだっけ、あれはやめてほしい。乗り物って、もっと男のロマンを感じるものでしょう!?」
――「そりゃあ、男子トイレが少なすぎることです。買い物でプロムナードにいたときにトイレに行きたくなって、だけど周りに全然なくって、結局家まで戻る破目になったときは死ぬかと思いましたよ、本当に。」
――「他には?」
――「後は……やっぱり、この街は男っぽさが全然なくて息苦しくなります。建物だけならまだしも、あの……まいまいスクーターだっけ、あれはやめてほしい。乗り物って、もっと男のロマンを感じるものでしょう!?」
青髪の女性、トーラは、カウチに身を横たえながらぼーっとテレモの画面を眺めていた。既に正午を回っているにも関わらず寝間着のままの彼女の瞳には、もはや生気というものが感じられない。どちらかというと一人で過ごすことを好む彼女でも、さすがに五日間ずっと家から一歩も出ていなければ、人間世界の新奇で猥雑な娯楽も退屈を紛らすための少しの慰めにもならないようだ。
やがて、トーラはテレモを消そうとし――しかし、思考が停止したかのようなだらしない表情でまる2分ほど動きを止め――結局消さないまま、のそのそとキッチンへ向かった。そして、冷蔵庫を開けたところで、彼女の表情と動作が再び固まった。どうやら昼食にしようと目論んでいたらしいが、冷蔵庫の中には食材らしきものはほとんど残ってはいなかった。硬直した表情のまま再度ため息をつき、トーラは二階の自室へと引っ込んでいった。
やがて、トーラはテレモを消そうとし――しかし、思考が停止したかのようなだらしない表情でまる2分ほど動きを止め――結局消さないまま、のそのそとキッチンへ向かった。そして、冷蔵庫を開けたところで、彼女の表情と動作が再び固まった。どうやら昼食にしようと目論んでいたらしいが、冷蔵庫の中には食材らしきものはほとんど残ってはいなかった。硬直した表情のまま再度ため息をつき、トーラは二階の自室へと引っ込んでいった。
しばらくして、着替えを済ませたトーラがガレージに姿を見せた。厚手のジャケットにスラックスという中性的な恰好、チョーカーとやや深めに開いた胸元がかろうじて女性らしさをアピールしているものの、クラスタニアにおいてはかなり異質ではある。とはいえ、周囲の目や最新の流行をいちいち気にして思い悩むような年頃は、彼女はとうの昔に通り過ぎている。
園芸用具などが雑然と積まれたガレージの中央、トーラは慣れた手つきで“男のロマンの欠片もない乗り物”に雨よけの幌を素早く設えた。フリッパーの回転する甲高い音が響き、トーラを乗せたまいまいスクーターはゆっくりと家を離れ、降る雨に霞む街の中へと消えていった。
園芸用具などが雑然と積まれたガレージの中央、トーラは慣れた手つきで“男のロマンの欠片もない乗り物”に雨よけの幌を素早く設えた。フリッパーの回転する甲高い音が響き、トーラを乗せたまいまいスクーターはゆっくりと家を離れ、降る雨に霞む街の中へと消えていった。
― 2 ―
クラスタニア下層、旧スレイヴ街区。ここは、数年前までは多くの人間――クラスタニアにより“浄化”された人間が閉じ込められていた収容所だ。その人間たちは惑星再生と同時期に解放され、治療を受けて一部は社会復帰を始めている。その結果、この場所に立ち並ぶ建物のほとんどは今では放棄されている。
しかし、スレイヴは無人になったわけではない。クラスタニアを支えるインフラ施設や工場がいくつか立地していて、今でもレーヴァテイルたちの手により操業を続けている。また、グランヴァートゲージのスレイヴ北駅の周辺では、アルキアや大牙からの商人たちが店を構えた常設の市が形成され、塔の上下交易の一端を担っている。
しかし、スレイヴは無人になったわけではない。クラスタニアを支えるインフラ施設や工場がいくつか立地していて、今でもレーヴァテイルたちの手により操業を続けている。また、グランヴァートゲージのスレイヴ北駅の周辺では、アルキアや大牙からの商人たちが店を構えた常設の市が形成され、塔の上下交易の一端を担っている。
上層と下層を結ぶエレベーターを降りたトーラの目に映るものは、モノトーンの色褪せた街並みと、相変わらずの雨である。上層の池や小川から絶え間なく落ちてくる水のおかげで、スレイヴでは中央付近の一部を除いて雨が降り止むことはない。そのことを考慮に入れたとしても、この日はいつもよりひっそりとした雰囲気が漂っていた。纏わりつく湿った空気を振り払うかのように、大きな黒い傘を大げさな動作で開き、トーラは市場の一角を目指して歩き出した。
数分の後にたどり着いた店は、スレイヴの独居房を改装して作られた粗末なものであった。店自体は新しいものであるはずなのにも関わらず古臭い書体で書かれた看板に“ミズモリ食堂”とあるのを見ると、ここはいわゆる大衆食堂のようだ。クラスタニア上層では存在すら許されなさそうなみすぼらしい店も、ここでは周囲と調和して不思議なオーラを放っている。何より“水漏り”という名前がこの街にぴったりだ――この店に来るたび、トーラはそう思う。
数分の後にたどり着いた店は、スレイヴの独居房を改装して作られた粗末なものであった。店自体は新しいものであるはずなのにも関わらず古臭い書体で書かれた看板に“ミズモリ食堂”とあるのを見ると、ここはいわゆる大衆食堂のようだ。クラスタニア上層では存在すら許されなさそうなみすぼらしい店も、ここでは周囲と調和して不思議なオーラを放っている。何より“水漏り”という名前がこの街にぴったりだ――この店に来るたび、トーラはそう思う。
お昼どきを過ぎた店内は閑散としていた。中に入ったトーラは、いつも通りよっこら定食を注文すると、いつも通りセルフサービスの水を取り、いつも通りにテレモが見える席に陣取った。注文が出てくるまでには時間はかからなかった。うず高く積まれたキャベツの千切りの山を注意深く切り崩し、ご飯の上に乗せ、ソースをかけてご飯と共に食す一連の動作もまたいつも通りである。
トーラの前にそびえる緑の山の標高が半分くらいになったところで、新たな客が店に入ってきた。トーラにとって予想外だったのは、その客が声を掛けてきたことだった。
トーラの前にそびえる緑の山の標高が半分くらいになったところで、新たな客が店に入ってきた。トーラにとって予想外だったのは、その客が声を掛けてきたことだった。
「あっ、トーラじゃない。またここで食べてたの?」
吃驚したはずみで激しく噎せるトーラを心配するそぶりもなく、その客はこいくちうどんを注文し、トーラのテーブルの向かいに座った。建物の中だというのに、被ったままのフードを外す気はないようだ。
「カ、カナメ……?」
「まさかとは思ったけど、本当にいるとは思ってなかったわー」
「まさかとは思ったけど、本当にいるとは思ってなかったわー」
やや褐色がかった肌のカナメと呼ばれた若い女性は、そう言うと屈託なく笑った。
「別にどこで食べても、私の勝手でしょう」
「そりゃそうだけどさー、精神的な老化がかなりキてるんじゃないの? いつも同じような行動ばっかりしてるってことは」
「はいはい、どうせ老化してますよ……」
「そりゃそうだけどさー、精神的な老化がかなりキてるんじゃないの? いつも同じような行動ばっかりしてるってことは」
「はいはい、どうせ老化してますよ……」
トーラはふてくされたような表情をして、キャベツの山の切り崩し作業を再開した。どう見ても二十代前半の容貌からは全く想像できないが、彼女の年齢は三桁に達している。そして、トーラほどではないものの、外見年齢と実年齢との乖離はカナメという女性もまた同じである。ちょうど運ばれてきたうどんを一口啜ると、カナメはまた話を始めた。
「ここしばらく、下のほうに全く来てなかったみたいだけど、どうしたの? 例の件、諦めちゃったの?」
「別に、諦めては……。近いうちにまた行く予定だったのだけど、クラスタニアはここの所ずっと雨続きで、なかなか」
「けど、たぶん地表は雨降ってないでしょ? そもそも彩音回廊の範囲外なんだから」
「別に、諦めては……。近いうちにまた行く予定だったのだけど、クラスタニアはここの所ずっと雨続きで、なかなか」
「けど、たぶん地表は雨降ってないでしょ? そもそも彩音回廊の範囲外なんだから」
トーラの手が僅かにぶれて、千切りの数本がトレーの上へぱらぱらと落ちた。虚を突かれたような彼女の表情を知ってか知らずか、カナメの話は続く。
「実は、あたしがこっちに来たのもそれなんだよね。塔全体でもう五日も大雨が続いてるんでしょ?」
「ああそっか、雨を止めるための祈祷をして、という依頼が来てるのね」
「そういうこと。昨日はアルキアでお仕事して、今日はこれからクラスタニア」
「ああそっか、雨を止めるための祈祷をして、という依頼が来てるのね」
「そういうこと。昨日はアルキアでお仕事して、今日はこれからクラスタニア」
トーラが人間ではなくレーヴァテイルβ純血種であるのと同様、カナメも人間とはまた違う生命体である。彼女の本名は雨霽奏芽里水(あまはらし・そうが・りすい)といい、妖家――シエール風に言うところのテル族――の一員である。妖家はその流派によって異なる能力を持つが、彼女の能力は、天候変化である。よって彼女は、表向きには、雨乞いの祈祷師を生業としている。主に大牙の人々から依頼を受け、祈祷のほか農業指導なども行っているようだ。
「だけど逆を言えば、こっちは彩音回廊の効果範囲内なんだから、いくらカナメの能力があっても天気を変えるのは難しいんじゃないの?」
「まあ実際そうなんだけどねー。本気で天気を変えたいなら、アカネ将軍にでも頼んで彩音回廊を調整してもらったほうが確実なのは間違いないはず」
「まあ実際そうなんだけどねー。本気で天気を変えたいなら、アカネ将軍にでも頼んで彩音回廊を調整してもらったほうが確実なのは間違いないはず」
刹那、トーラの表情が微かに曇った。カナメは今度はそれを見逃さなかったようだが、あえてそれを話題にはせず、元の話を続けた。
「でも、信じる者は救われるっていうでしょ」
「なにそれ」
「非科学的だと分かっていても占いを信じる人は、クラスタニアにだって多いでしょ?トーラは信じてなさそうだけどね。まあ、つまり、それと同じこと」
「それじゃ私は救われないみたいじゃない」
「言葉のアヤだってば。ともかく、あたしが行って踊って祈祷するのを見ることで皆の一時の気休めになるのなら、あたしはそれで構わない。それに、もう五日も降り続いてるなら、そろそろ明日あたりに都合よく晴れてくれるんじゃないかなー」
「それこそ、確率論的には非科学的な話でしょ……」
「なにそれ」
「非科学的だと分かっていても占いを信じる人は、クラスタニアにだって多いでしょ?トーラは信じてなさそうだけどね。まあ、つまり、それと同じこと」
「それじゃ私は救われないみたいじゃない」
「言葉のアヤだってば。ともかく、あたしが行って踊って祈祷するのを見ることで皆の一時の気休めになるのなら、あたしはそれで構わない。それに、もう五日も降り続いてるなら、そろそろ明日あたりに都合よく晴れてくれるんじゃないかなー」
「それこそ、確率論的には非科学的な話でしょ……」
とりとめのない話は、二人の前に並ぶ器が全て空になっても続いた。約束の時刻が近づいていることにようやく気づき、カナメは慌ただしく席を立った。
「仕事が終わったら、家に遊びに行ってもいい?」
「喜んで」
「じゃあついでに、もしこのあと時間があるなら、私の踊りを見に来る?」
「ちょっとそれは……。これから買い物しないといけないから。食材が全然ないし」
「てことは、ここ五日まったく家から出てなかったと見た。その分だと、ずっと家の中でダラダラしっぱなしで、特に流し台とかゴミ袋とかが女の子としてあるまじき恥ずかしい状態になってるんじゃないのー?」
「まさかカナメ、私の家にまで監視カメラか何かを仕掛けてないでしょうねぇ……?」
「喜んで」
「じゃあついでに、もしこのあと時間があるなら、私の踊りを見に来る?」
「ちょっとそれは……。これから買い物しないといけないから。食材が全然ないし」
「てことは、ここ五日まったく家から出てなかったと見た。その分だと、ずっと家の中でダラダラしっぱなしで、特に流し台とかゴミ袋とかが女の子としてあるまじき恥ずかしい状態になってるんじゃないのー?」
「まさかカナメ、私の家にまで監視カメラか何かを仕掛けてないでしょうねぇ……?」
もともと低い声のトーンを一段と下げて怖い口調で問うトーラだが、顔が真っ赤になっている所を見ると、カナメの描写はかなり正確だったようだ。そんな虎の尾を踏むような真似はしないと言わんばかりの表情で、怖い怖い、と返すカナメ。対してトーラはぶっきらぼうに、さっさと行けという仕草で応戦する。
追い立てられるように軽い別れの挨拶と勘定を済ませたカナメだが、ふと何かを思い出したように元のテーブルへと戻ってきた。
追い立てられるように軽い別れの挨拶と勘定を済ませたカナメだが、ふと何かを思い出したように元のテーブルへと戻ってきた。
「持って行っても邪魔になるから、やっぱり先に渡しとく。はい、これ、お土産」
「お土産? ……お土産、って?」
「お土産? ……お土産、って?」
怪訝な顔で言葉を繰り返すトーラ。青紫の双眸からは怒りの色はもう消え失せている。カナメは紙袋をテーブルに置き、中から品物をひとつひとつ取り出して見せた。
「ちょうど今朝、アルキアにメタ・ファルスからの商船が着いてね。買ってきちゃった。ほら、これなんか懐かしいでしょ?」
「あ……」
「あ……」
カナメが示したのは、“くるるくだんごバー”の手作りセットだ。クルルクという作物は荒れた環境に強くどこででも穫れるものであり、ソル・クラスタにももちろん存在する。このクルルクの実を蒸して潰してこねて丸めただけの単純な料理がくるるくだんごで、これまた当然ソル・クラスタにも存在する。メタ・ファルスのくるるくだんごの特徴は、それが広く主食として食べられていること、故にさまざまな調理のバリエーションがあることだ。このくるるくだんごバーも、様々な色と形のだんごを組み合わせて作った、メタ・ファルス独特のものだ。そして、このメタ・ファルスの郷土料理をソル・クラスタで生まれ育ったトーラやカナメが懐かしいと思うのには理由がある。
一年ほど前、この世界の基盤である第三塔“ハーヴェスターシャ”は消えかかっていた。より正確に言うと、消滅が差し迫っていることが、塔の管理者であるティリアから発表された。もし塔が消滅したならば、塔の一部であるクラスタニアも共に消え、またアルキアや大牙も予断を許さない状況に陥る。そうして、全ての住民を避難させるという前代未聞のプロジェクトが始まり、たったひと月でそれは見事に成し遂げられた。――塔は実際には消えなかった、という点に目を瞑れば。
ともかくも、トーラとカナメはこのときメタ・ファルスに避難している。特にトーラはメタ・ファルスの自然や文化にいたく感激し、一時はそこに永住することを考えていた。しかしながら、その希望が叶うことはなかった。塔が消えなかったこと、そして元クラスタニア軍幹部という彼女の経歴がメタ・ファルスに留まることを許さなかった。
一年ほど前、この世界の基盤である第三塔“ハーヴェスターシャ”は消えかかっていた。より正確に言うと、消滅が差し迫っていることが、塔の管理者であるティリアから発表された。もし塔が消滅したならば、塔の一部であるクラスタニアも共に消え、またアルキアや大牙も予断を許さない状況に陥る。そうして、全ての住民を避難させるという前代未聞のプロジェクトが始まり、たったひと月でそれは見事に成し遂げられた。――塔は実際には消えなかった、という点に目を瞑れば。
ともかくも、トーラとカナメはこのときメタ・ファルスに避難している。特にトーラはメタ・ファルスの自然や文化にいたく感激し、一時はそこに永住することを考えていた。しかしながら、その希望が叶うことはなかった。塔が消えなかったこと、そして元クラスタニア軍幹部という彼女の経歴がメタ・ファルスに留まることを許さなかった。
パッケージに描かれたくるるくだんごバーの絵からメタ・ファルスに思いを馳せるトーラを見て、カナメは満足そうな笑みを浮かべた。
「なんかもの凄い量のゲロッゴが輸入されてたみたいだけど、トーラはそういうのには興味ないでしょ。だから、ちょっと別方向から攻めてみた」
「これは?」
「これは?」
可愛らしいデザインの青い小瓶を指してトーラが尋ねた。中には黒い粉末と、キラキラと輝く粒が入っているようだ。
「えっと、プラネタ……何だっけ? 名前忘れたけど、入浴剤らしいよ。これを入れて明かりを消すと、お風呂の中が星空みたいになるんだって」
「へぇー、面白そう」
「でしょ? お風呂で気持ちよくなって、いい気分転換になるといいな」
「ありがとう、さっそく今日にでも使ってみる」
「それじゃあね、また後で」
「へぇー、面白そう」
「でしょ? お風呂で気持ちよくなって、いい気分転換になるといいな」
「ありがとう、さっそく今日にでも使ってみる」
「それじゃあね、また後で」
ロングスカートを翻し、カナメは小走りに去っていった。他の客の姿も既になく、店内は再びテレモからの退屈な音声に包まれた。食事の最後にトーラはいつも通り熱いお茶を注文し、いつも通り少し冷めるまで待ち、いつも通りに五回に分けて飲み干した。紙ナプキンで軽く口元を拭き、代金をトレーに乗せ、ごちそうさまと声を掛けながら返す一連の動作もまたいつも通りである。
店先に立つトーラの目に映るものは、不景気な顔をした行商人たちの屋台と、相変わらずの雨である。終わらない雨の中、一つ増えた荷物に視線を送り、呟く。
店先に立つトーラの目に映るものは、不景気な顔をした行商人たちの屋台と、相変わらずの雨である。終わらない雨の中、一つ増えた荷物に視線を送り、呟く。
「なにか、お返しを考えなきゃなあ……」
彼女は大きな黒い傘を丁寧に開くと、紙袋を濡れないように慎重に抱え、市場の中へ向かって緩やかに歩き出した。
― 3 ―
この世界の太陽ソルが、雲平線ではなく地平線に沈むようになって久しい。夕刻の訪れとともに、まだ植生の乏しい大地が水平に近くなった陽に照らされ、光を反射して眩く輝く。クラスタニアから見下ろすその光景は、さながら黄金の原野だ。しかし今日は、塔周辺にだけ続く局地的な雨により霞み、地表の存在すら見てとることができなかった。
買い物を済ませて家に戻ってきたトーラは、まず驚くべき早業で片付けを遂行した。食器が積まれていたシンクは綺麗に磨かれ、乾燥機の中に放置されていた洗濯物は畳んで仕舞われ、溜まっていたゴミはとりあえずガレージに投げ込まれた。客室のベッドも念のため整えられている。
掃除を終え、そのまま夕食の準備に移行する。無駄なく手際よく調理を進めていくところを見ると、トーラは料理のほうは得意なようだ。次々と運ばれていくご馳走の品数は、早くもテーブルから溢れそうなほどだ。最後に彼女はお土産の品に手を付けた。くるるく粉に水と砂糖を加え捏ねて寝かせた生地を三つに分割し、一つを赤く、一つを緑に着色する。掌に軽く収まるくらいの量の生地を取り、丸めて形を整え、串に刺していく。後は少々の飾りをすれば、メタ・ファルス伝統の、しかしどの世界の誰もが懐かしさを覚えるような、素朴で愛おしい姿のくるるくだんごバーのできあがりとなる。
ちょうどそのとき、薄暗くなった外に人影が現れた。どうやら、カナメが仕事を終えてやってきたようだ。トーラは彼女を玄関で出迎えた。
掃除を終え、そのまま夕食の準備に移行する。無駄なく手際よく調理を進めていくところを見ると、トーラは料理のほうは得意なようだ。次々と運ばれていくご馳走の品数は、早くもテーブルから溢れそうなほどだ。最後に彼女はお土産の品に手を付けた。くるるく粉に水と砂糖を加え捏ねて寝かせた生地を三つに分割し、一つを赤く、一つを緑に着色する。掌に軽く収まるくらいの量の生地を取り、丸めて形を整え、串に刺していく。後は少々の飾りをすれば、メタ・ファルス伝統の、しかしどの世界の誰もが懐かしさを覚えるような、素朴で愛おしい姿のくるるくだんごバーのできあがりとなる。
ちょうどそのとき、薄暗くなった外に人影が現れた。どうやら、カナメが仕事を終えてやってきたようだ。トーラは彼女を玄関で出迎えた。
「うう、寒寒っ、ここらでいいかげん雨止んでくれないかなー」
「カナメ、今日は何をしにクラスタニアに来たのよ」
「えーっと……何だっけ?」
「カナメ、今日は何をしにクラスタニアに来たのよ」
「えーっと……何だっけ?」
くすくすと笑い合う二人。カナメは傘を畳み、ずっと被っていたフードを外した。自然とトーラの視線はそちらへと向く。ベリーショートの白髪の間から生えた二本の角は、彼女がテル族であることの何よりの証左である。カナメには尻尾も生えているわけだが、さすがにこれはトーラも一度しか見たことがない。
角をまじまじと見られていることに気が付いたカナメは、何かを思いついたのか、突如悪戯っぽく表情を歪ませた。そして左手の指を二本、トーラの右胸のすぐ下の場所を目掛け、素早く突きだした。だがトーラもさる者で、右腕を回して目にも止まらぬ速さでガード、悪意ある手は外へいなされ虚空を衝いた。その勢いで突き出されたままの腕をねじり込み、痛い痛いとわめくカナメを強引に家の中へと引きずり込んでいった。
角をまじまじと見られていることに気が付いたカナメは、何かを思いついたのか、突如悪戯っぽく表情を歪ませた。そして左手の指を二本、トーラの右胸のすぐ下の場所を目掛け、素早く突きだした。だがトーラもさる者で、右腕を回して目にも止まらぬ速さでガード、悪意ある手は外へいなされ虚空を衝いた。その勢いで突き出されたままの腕をねじり込み、痛い痛いとわめくカナメを強引に家の中へと引きずり込んでいった。
「まったく、いつまで経っても子供なんだから」
「あいにくだけど、老け込むにはまだ早いんで」
「親の顔が見てみたいわ」
「とっくに知ってるくせに。というか、レーヴァテイルでもそんな言い回しするんだ」
「あいにくだけど、老け込むにはまだ早いんで」
「親の顔が見てみたいわ」
「とっくに知ってるくせに。というか、レーヴァテイルでもそんな言い回しするんだ」
食卓に着いてからもなお、二人の軽口の応酬は続いている。
「そりゃあ私自身には親がいるわけじゃないけど、別にいいじゃない」
「トーラって本当、人間のこと好きだよねー」
「どういう意味よ」
「トーラが想像したような意味じゃなくて、もっと広い意味で」
「そういう返し方に困る言い回し、止めてくれない?」
「トーラって本当、人間のこと好きだよねー」
「どういう意味よ」
「トーラが想像したような意味じゃなくて、もっと広い意味で」
「そういう返し方に困る言い回し、止めてくれない?」
間を取って考えを整理する時間を稼ごうと、トーラはゆっくりと炭酸水を口に含んだ。それを見てカナメもにょ?肝の串焼きに手を伸ばす。少しの沈黙の時間が流れ、トーラは再び口を開いた。
「――長いこと人間の社会で暮らしていればそうなるでしょ。人間の寿命は私たちよりもずっと短くて、私が上帝門に居た四十年の間に一生がすっぽり含まれる者は一人や二人ではない。多くの人間の生と死に立ち会ってきた。……この小さな生き物たちに対して憐憫の情を抱くのは、自然なことではないの?」
カナメは首を横に振って答える。
「まーた強がっちゃって。昔はどうだったか知らないけど、今はもう、そんなペットか何かを見るような目で人間を見てはいないことはあたしも知ってるよ」
トーラの回答は無言である。カナメの言葉は続く。
「メタ・ファルス大好きでしょ? 軍に呼び戻されてクラスタニアに帰ることが決まったとき、珍しくトーラのほうから訪ねてきて、メタ・ファルスへの想いを泣きながら語ってたじゃない。あのとき何て言ってたっけ?」
なおも答えは返ってこない。焦れたように、カナメは手に持った串で外を指して言う。
「最近庭に作ったアレも、メタファリカを表現したものでしょ?」
「! どうしてそれを……」
「石の配置からなんとなくそう思っただけだけど、やっぱりね。未練タラタラじゃない」
「! どうしてそれを……」
「石の配置からなんとなくそう思っただけだけど、やっぱりね。未練タラタラじゃない」
再びトーラは無言になるが、先ほどと違って言葉に詰まっている様子だ。
「トーラと人間との間にはいろんな事情があることも、人間に対しての想いがそう単純なものではないこともあたしは知ってる。だけど、その感情をあえて一言で言うとするならば、やっぱり“愛”になると思うんだよね」
「……」
「もちろんクラスタニア――少し前までのね、では、そんなことは大っぴらにできるわけがなかった。ところがクラスタニアは変わり、さらに去年メタ・ファルスに行ったことがきっかけで、その“愛”を表現したいと思うようになった。だけど、実際にどう表現していいか分からず、ずっと右往左往しているのが現状なんじゃないの」
「……でも、私は」
「……」
「もちろんクラスタニア――少し前までのね、では、そんなことは大っぴらにできるわけがなかった。ところがクラスタニアは変わり、さらに去年メタ・ファルスに行ったことがきっかけで、その“愛”を表現したいと思うようになった。だけど、実際にどう表現していいか分からず、ずっと右往左往しているのが現状なんじゃないの」
「……でも、私は」
「逃げちゃいなよ」
言葉を遮るようにくるるくだんごバーを相手の顔に向け、カナメは言った。何かを言いかけた桃色の唇の動きが止まったのを見届けると、カナメは伸ばした腕を引き、大きく口を開けて上段のだんごにかぶりついた。数口分はある大きなだんごを食べ終えるまで、トーラは困惑した様子で見つめていた。
「ここに住んでいればそれこそ百年分のしがらみがあるだろうから、メタ・ファルスでもどこでも、移住しちゃえばいいじゃない」
「私には、このソル・クラスタでやることが……」
「それだって、余生を全部使うほどの時間はかからないでしょ。せいぜいあと数年。それが終わったらどうするの?」
「終わってから考えればいいでしょ。だいたい、私は今でもクラスタニア軍の上級大佐であって、退役したとはいえまたいつ招集されてもおかしくはない」
「私には、このソル・クラスタでやることが……」
「それだって、余生を全部使うほどの時間はかからないでしょ。せいぜいあと数年。それが終わったらどうするの?」
「終わってから考えればいいでしょ。だいたい、私は今でもクラスタニア軍の上級大佐であって、退役したとはいえまたいつ招集されてもおかしくはない」
今度はカナメが沈黙する。真意を探ろうとしてか、彼女は顔をやや伏せたまま視線だけを上げてトーラの表情を観察した。――これは苦し紛れの発言ではなさそうだ。ついさっきまでの態度とはうってかわって、おそるおそる彼女は問う。
「……近いうちに招集される可能性、あるの?」
世界に平和が訪れ、またスレイヴの人間が支えていたインフラを維持するため、現在クラスタニア軍は大規模な人員削減と異動の真っ最中である。そんな状況でわざわざ元軍人にまで動員をかけるような事態は一つしか思い浮かばない。すなわち、一年前と同じ――
「ねえ、やっぱり、塔は消えちゃうの!?」
語気を荒げるカナメに対し、トーラは力なく首を振る。
「分からない。ただ、去年の避難のときにティリア殿が言っていた余命一ヶ月というのが、全くのでたらめであるとは私には思えない」
レーヴァテイルβ純血種には寿命の感覚がある。そしてそれは、自らの死期が近づくほどはっきりと認識できるようになる。多くの仲間たちを見送ってきた中で、トーラはこのことを伝え聞いている。それを踏まえての類推として彼女は断言した。
「今の状態が変わらないとするなら、どんなに長くとも五年は持たない」
「……五年」
「……五年」
頭の中で何かを計算しているのか、カナメは自らの手をじっと眺めていた。やがて、観念したかのように、一つ大きなため息をついた。
「それで、もし招集されたら、軍に戻るの?」
「戻らざるを得ないでしょうねえ。現に一度予測が外れている以上、二度目の避難はずっと大変なことになるだろうから、人手が必要になるはず」
「そうだろうね。……でも、」
「戻らざるを得ないでしょうねえ。現に一度予測が外れている以上、二度目の避難はずっと大変なことになるだろうから、人手が必要になるはず」
「そうだろうね。……でも、」
カナメはトーラの目を見据えながら問う。
「トーラはそれでいいの?」
一呼吸の間。トーラは毅然として答える。
「緊急時においては自分の個人的な意思など関係ない。私を棄て一丸となって困難に立ち向かうことこそ、誇り高きクラスタニアの軍人としての――」
「クラスタニアも無くなっちゃうんだよ?」
「クラスタニアも無くなっちゃうんだよ?」
青紫の瞳に動揺が走った。それを読み取ったカナメは、しかし相好を崩して言った。
「その反応を見て安心したよ。もし『クラスタニアが消滅するその日まで私は――』とか迷いなく言いだしたらどうしようかと思った」
「……」
「その分だと、とりあえずクラスタニアと心中する気はなさそうだからね」
「……まあ、仕方のないことだから」
「……」
「その分だと、とりあえずクラスタニアと心中する気はなさそうだからね」
「……まあ、仕方のないことだから」
トーラも精いっぱいの微笑みを返そうとした。誰が見ても作り笑いと分かる悲しげな笑顔だったが、カナメはそれでも良しとしたようだ。
「うん、仕方ないよね」
「はい」
「クラスタニアはなかなかトーラを解放してくれない、ってとこか。難しいもんだね」
「もう百年も生きてるのに、いつまで経っても悩みは尽きそうにないってこと」
「はい」
「クラスタニアはなかなかトーラを解放してくれない、ってとこか。難しいもんだね」
「もう百年も生きてるのに、いつまで経っても悩みは尽きそうにないってこと」
「ねえ、もし本当に逃げ出したくなったら、まずはあたしに相談してね? あたしたち妖家が、きっとトーラの力になれるから」
「大丈夫、皆を置いて逃げたりはしないから。もちろん、カナメのことも」
「そういうことじゃなくて…… まあいいや、なんでもない」
「大丈夫、皆を置いて逃げたりはしないから。もちろん、カナメのことも」
「そういうことじゃなくて…… まあいいや、なんでもない」
カナメは、再構築されつつある世界規模のテル族コミュニティのことに言及しようとして、思い留まった。トーラが現実から逃げ出すことは絶対にないと、そう信じたから。
「……ありがとう」
「こっちこそごめんね、暗い話にしちゃって。さあ、こっからは楽しくやろう!」
「こっちこそごめんね、暗い話にしちゃって。さあ、こっからは楽しくやろう!」
― 4 ―
外はすっかり暗くなっていた。雨は相も変わらず降り続いていたが、だいぶ小降りになってきたのを見ると、カナメの祈祷が天に――いや、彩音回廊に、通じたのかもしれない。丘の麓の大きな池は、対岸の街の明かりを反射してゆらゆらと煌めいていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、カナメは自分の家へと帰っていった。もちろんトーラはここに泊まっていくことを勧めたが、上帝門行きの飛空艇の最終便に間に合うから、と言って譲らなかった。その割には、誘いを断るときに半ば焦ったような顔をしていたのがやや不自然ではあったが、トーラは特に気にはしなかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、カナメは自分の家へと帰っていった。もちろんトーラはここに泊まっていくことを勧めたが、上帝門行きの飛空艇の最終便に間に合うから、と言って譲らなかった。その割には、誘いを断るときに半ば焦ったような顔をしていたのがやや不自然ではあったが、トーラは特に気にはしなかった。
――「……市長には厳しい状況が続いています」
――「次のニュースです。昨年の全塔避難によって凍結されていた堕天峰国際空港の計画について、政府と大牙連合の協議の結果、来年度中に建設を開始することで合意……」
――「次のニュースです。昨年の全塔避難によって凍結されていた堕天峰国際空港の計画について、政府と大牙連合の協議の結果、来年度中に建設を開始することで合意……」
部屋の中にはテレモの音声だけが響いている。食卓の後片付けもそこそこに、トーラはカウチに横たわっていた。滅多にない来客に張り切り過ぎてさすがに疲れが出たのか、早くも眠そうな目をしている。うとうとと眠りに落ちそうになること数回、洗い物は明日にすることにして今日はお風呂に入ってから寝ようとようやく決心し、トーラはやっとの思いで身体を起こした。
長い眠りの季節は終わり、星は急速に変化している。旧い常識や枯れた因習は次々と塗り替えられ、新しい世界のもたらす新たな文化が根付いて花を咲かせる。それを待ちわびていたのは自分も同じだったはずなのに、いつの間にか自分だけが取り残されているような錯覚に陥る。世界は確かに平和になったはずだ、だけど自分の悩みは何一つ解決されていない。理想の生き方はすぐそこにあるはずなのに、それに向かって手を伸ばすことすらままならない。それは、雨降るクラスタニアから見下ろしても、アルシエル再生を実感することができないように。
クラスタニア、人間たち、世界の情勢、……そして自らの過去。鳥籠の扉は、まだ開きそうにない。
クラスタニア、人間たち、世界の情勢、……そして自らの過去。鳥籠の扉は、まだ開きそうにない。
広く清潔な浴室、造形は美しいがあまり機能的とは言えなさそうな湯舟の中、トーラはまたも思索に耽っている。だんだんと憂いに染まりつつある心を映してか、その身体は心地よく調整された温度の湯へ徐々に沈んでいく。水面が口元まで達したところで、気分を変えようとして大きく身を捩った。そして、カナメとの楽しい時間に思いを巡らせたところで、プレゼントがあったことを思い出したようだ。浴室から出たトーラは、タオルで身体を軽く拭うと、部屋に置きっぱなしの入浴剤を何も身に纏わぬまま取りに行った。
――この後、トーラが酷い目に遭ったことは言うまでもない。ただ、カナメが言っていた通り、とりあえず気分転換には成功したようだ。
翌日。長く続いた雨はついに上がった。クラスタニアを包む巨樹の葉から垂れ落ちる雫は、六日ぶりの柔らかな陽光に照らされ、まるで宝石のような輝きを放っていた。久方の光満つ日を我先に謳歌しようと集う人かな、プロムナードには朝から多くのレーヴァテイルたちが行き交い、それぞれ買い物や立ち話を楽しんでいる。
丘の上の住宅街は、住人たちが出かけているため今日も静かである。トーラも他からやや遅れて、飾り気の乏しい家の外に姿を現した。ジーンズにコートの出で立ち、大きなバックパックを背負いさらにマントまで羽織っているのを見ると、彼女はこれから地表へと旅に出るようだ。
出かけ際、トーラは庭の“メタファリカ”をしばらく眺めていた。土の流れ出した築山の見てくれは無残なままだが、降った雨の作った水溜まりに囲まれて島のように浮かぶ佇まいは、それはそれで悪くないものだ。庭の新たな構想に思いを馳せながら、トーラは軽い足取りで空港を目指し歩いていった。
丘の上の住宅街は、住人たちが出かけているため今日も静かである。トーラも他からやや遅れて、飾り気の乏しい家の外に姿を現した。ジーンズにコートの出で立ち、大きなバックパックを背負いさらにマントまで羽織っているのを見ると、彼女はこれから地表へと旅に出るようだ。
出かけ際、トーラは庭の“メタファリカ”をしばらく眺めていた。土の流れ出した築山の見てくれは無残なままだが、降った雨の作った水溜まりに囲まれて島のように浮かぶ佇まいは、それはそれで悪くないものだ。庭の新たな構想に思いを馳せながら、トーラは軽い足取りで空港を目指し歩いていった。
生まれたばかりの地平は、どこまでも青く広がっている。
― 了 ―