廖化

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廖化 - (2019/10/15 (火) 05:12:48) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2010/02/07(日) 20:56:25
更新日:2023/03/06 Mon 12:49:55
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廖化とは、三国時代における蜀漢の武将である。

若いころは廖淳と名乗っていたが廖化のほうが知名度が高いのでこちらで統一する。
字は元倹。

特に目立った功績をあげたわけではないが、劉備の荊州獲得から蜀漢の滅亡まで戦い抜いた。


【正史における経歴】

正史での初登場は、劉備が荊州を制圧したとき、関羽の幕僚(主簿)として。

孫権呂蒙が、いままさに魏と戦っていた関羽を背後から討ったことで荊州方面軍が壊滅すると、後方にいた廖化も捕らえられてしまう。
しかし、劉備のもとに戻りたいという思いを持っていた彼は、廖化は死んだ」とデマを流し、呂蒙の死の混乱と劉備の侵攻もあり、蜀軍に帰参することに成功。
夷陵の戦いにそのまま参戦するが、敗退している。

劉備が死ぬと諸葛亮の参軍となり、北伐にも参戦
北伐軍が武都・陰平郡を平定すると、廖化は広武太守と陰平太守を兼任して、守護を任されている


諸葛亮亡きあとはいよいよ将軍として目立つようになる。
238年9月、魏の守善羌侯である宕蕈(とうしん)の陣営を攻撃。
雍州刺史だった郭淮は王贇(おういん)・游奕(ゆうえき)に軍勢をあずけ、山の東西から廖化を挟み撃ちさせたが、
廖化はまず游奕の軍団を打ち破り、さらに王贇を討ち取る戦果を挙げる。地味だがやる時はやる男である。


248年、魏に反乱を起こした羌族の治無戴を出迎えた。
のちに成重山に留まって城を築き、羌族たちから人質を取り立てる。
郭淮が諸将の反対を押し切って軍勢を二手に分け、夏侯覇には沓中へ姜維を追わせ、自分は諸軍を率いて廖化を攻撃したときは、夏侯覇の追撃を振り切った姜維に助けられた。


翌249年秋、姜維はまたも北方へ進出したが郭淮に阻まれてしまう。
そこで廖化は、郭淮の隙を突いて三日後に軍を返して白水の南岸に布陣し、鄧艾と対峙した。
廖化が鄧艾を釘付けにし、姜維が東進して洮城を奪取する計画であったが、鄧艾たちにはすでに見抜かれており、姜維が洮城に着いたころにはすでに鄧艾が引き返して立てこもっていた。


その後も昇進し右車騎将軍仮節領并州刺史となり、中郷侯に封ぜられた。
果断激烈をもって讃えられ、官位は張翼と同等・宗預の上で、廖化が張翼とともに大将となったとき、人々は「前に王平・句扶あり、後に張翼・廖化あり」と語り合った。


姜維に代わり諸葛瞻(諸葛亮の息子)が政治を取り仕切るようになると挨拶に行こうと宗預を誘ったが
「七十も過ぎたわしらが、若い連中に媚を売ろうというのか! みっともない真似はやめて、せいぜい長生きを望むんじゃな!」と断られた。


262年、姜維が懲りずに北伐をしようとすると、左伝からの引用で『戦いはやめなければ必ず我が身を焼くことになる』と前置きしてから、
「姜維は知恵でも力量でも、丞相はおろか敵よりも劣る。なのに戦って勝てる訳が無かろうに」と述べ、張翼らと姜維を批判している。

とはいえ、ならばご意見番になれるほど長生きし、軍を代表するほど昇進していたあなたは、何をしていたのかという話にもなろうが。

蜀漢では姜維に対する風当たりが不当なほどに強い。
上述の諸葛瞻たちも、内政を担うべき立場にありながら国政を混乱させて国力を衰退させ、しかも姜維の北伐を国力の消耗と批判していた。

これは廖化だけに限らない問題であったが、当時の蜀軍では有数の地位にあった廖化も、少なくとも蜀軍の不振を無責任に批判できる立場にはない
そしてこうした君臣や臣下間の不協和音や責任転嫁、職務怠慢や綱紀の緩みが、蜀漢そのものの衰退を招くことになる。



263年、魏軍が侵攻して来ると姜維、張翼らと剣閣を守備し鍾会を足止めするが、鄧艾が成都を落としたことでついに投降
姜維・張翼が鍾会をそそのかして起こした混乱も生き延び、翌年、洛陽への護送の途中に、長い戦いの人生の幕を下ろした。

享年は不明だが、上述の宗預に罵倒された場面で七十歳以上とされているので、それ以上であることは確実。
この時代の常識からすると言うまでもなくかなりの高齢である。
異様なまでに長生きだった+最晩年まで武将をやっていたために、彼が死んだと伝わっても「どうせ偽装じゃないのか」「そもそも死ぬのかアイツ」などと簡単に信じてもらえなかったとか、
あげく「廖化は二人いて、264年に死んだ廖化は二代目だったんだよ!!」「な、なんだってー」なんて言う説も存在する。


【三国演義での活躍】


演義ではなぜか登場が大幅に前倒しされており、関羽が曹操のもとから離れて劉備を求め千里行をしていた時が初登場。
しかもこの時、廖化は黄巾賊の残党という、後々からするととんでもないことになる設定をぶら下げてくる。

この時は、仲間の一人が関羽が護衛していた劉備の妻を強姦しようとしたために彼を斬り、関羽に仕えたいと申し出た。
しかし関羽からは「賊出身の人はちょっと……」と断られてしまう。(同じく黄巾残党の周倉は召し抱えたのだが)

その後しばらく行方不明扱いとなっているが、劉備の荊州獲得時になにげなく関羽の幕僚として再登場する。
関羽が呂蒙に攻められた際には孟達劉封援軍を求めに走る拒否されてしまい、やむなく成都に駆けることになるが、間に合わず関羽は処刑されてしまう。
廖化にとっては上司や仲間を見殺しにされたわけで、劉封が魏に寝返った孟達を逃がしたばかりか返り討ちに遭って逃げ込んでくると、劉封を殺すように劉備に進言している。
もっとも、廖化の弾劾がなくても劉封の処刑は免れなかっただろうが……


その後、北伐期に再登場。脇役としてときおり名が挙がる。
諸葛亮が司馬懿を追い詰めたときには、逃げ続ける司馬懿を延々と追い続け、あと一歩で討ち取れる勢いだった
しかし、司馬懿は道が分かれていたところで、自分の選んだ道と別の道に己の兜を置いて逃げた。
廖化は兜の方の道を追いかけて、取り逃がしてしまう。

それでも廖化はじめ諸将は大手柄だと笑いあい、諸葛亮も表向きは迎合するが、
あとで諸葛亮は「関羽どのなら司馬懿を捕まえられたはずなのに、廖化は取り逃がすし、逃がしたのに喜ぶようでは我々は……」と密かに落胆するというエピソードがある。
このエピソードのせいで「蜀には大将がいない、廖化が大将をやっている」などという人材不足の諺に使われてしまうハメに。


三国演義はどの版でも、基本的に諸葛亮死後はかなり記述が薄くなる。
そのため、廖化の決して少なくない出番や活躍も記載されないか目立たない名有り武将のような扱いとなる。せいぜい『姜維の副官』というぐらいか。


しかし、死んだときは正史と同じく264年の洛陽行きの途中となっており、184年の黄巾の乱に参加していたという設定からすると、八十年以上を活躍したことになる。
まともに考えると九十代後半か百歳オーバー
仮に「黄巾残党」というのを「黄巾の乱当時の党員の、息子」という意味として、関羽に出会った200年当時15歳だったと仮定しても、没年が79歳になる
しかし正史でも七十歳は軽く超えていたらしいので、あながちあり得なくもないというのが怖いところ。


【各作品での廖化】


●横山三国志
出てるけど活躍しない。
司馬懿を取り逃がす話はばっちり描かれているので凡将という印象が強いだろう。

蒼天航路
初出は関羽の額の矢傷を縫う役として登場。
その後、反応がなくなった江陵、公安に兵站の確認に向かうがすでに呂蒙の手に落ちており、孫皎に蹴られて捕らえられる。
その時の蹴られようや孫皎の発言から、こっちの廖化は死んだような気もする。
ここで死んだのが初代で、この後活躍するのは二代目廖化、ということなのか。

●無双シリーズ
モブ、むしろモブじゃないと違和感が。

●コーエー三国志シリーズ
昔の作品から登場しているが、能力としては悪くはないが良くもないというレベル。
育成可能の作品では呂岱に並ぶ長寿のため育成対象になったりする。

●三国志大戦
凡将呼ばわりされる元凶。
3/4騎馬無特技の安定スペックに、便利な汎用計略の奮激戦法を持つ。
防戦の時に真価を発揮する姿はまさに凡将であり、人気であった。
が、3に移行する際に絵師が変わり調子に乗ったか、攻城時に「もう凡将と呼ばせん」、落城時に「凡将卒業よ!」とかほざき始めた為に、
使われてはいるが、嫌われ始め、某ランカー等旧カードを使う者も多い。

新生・三国志大戦では武力が2に下げられてしまい、計略もこれまた強化戦法にされてしまった。
キャラ付けとしては「指示に忠実な指揮官」と言うべきだが、凡将台詞はきっちりあったりする(主にさんぽけで聞ける)。




「俺のような凡将は、ただただ追記・修正するのみよ!」

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