劉備

登録日:2017/04/01 Sat 17:49:57
更新日:2020/05/22 Fri 19:58:29
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劉備(りゅう-び)(161-223)
字は玄徳。後の世に昭烈皇帝……とはあまり呼ばれない。
幽州、涿の人。


【出生】

涿郡、今でいうと北京のあたりで生まれ育つ。当時の中華圏の北東端であり、後に勢力を立てる蜀とは対角線上の真逆である。
生家は古くは前漢の王家までさかのぼる属尽(世代を経て土着化した元皇族のこと)の家系で、代々州の官吏を務め、祖父は県令にまで出世している。
同じように豪族・官家化した無数の劉氏の中では特筆するような家ではなかったが、少なくとも庶民の家とは言えない出自ではある。
「朝廷の祭祀の費用を用立てることができなかったため、没落してしまったらしい」という説があるが、詳細は不明である。

しかし劉備が生まれて早くに父親が急死してしまい、たちまちの内に窮迫してしまった。幸い間もなく一族の支援によってそれなりの生活に戻ったようだが、なんというか、既に後の人生を予感させる激動の幼少期である。


【青春】

14歳になった劉備は、一族の支援の下に河北の名士盧植の元に遊学に出されることになった。

極貧の生活を体験し、親切な親戚に学資を出してもらって勉学に励む……という美しい苦学生的背景を持っていた劉備だったが、しかし彼は励まなかった…勉学には。
励んだのは闘犬や音楽やファッションであった。受験の反動で遊びまくる大学生の方でした。リアルすぎる。


しかし、決してそのことが無駄になっていたわけではない。
当時の劉備は既に若い学生たちから人気が高く、先輩の公孫サンと共に世代のリーダーとして立てられていた。この時代の経験と評判は、彼にとって生涯の財産となる。


【立つ】

184年に黄巾の乱が発生すると、劉備は地元で私兵を編成し官軍に参戦する。後に股肱の臣となる関羽張飛とはこの頃からのつきあい。

この戦ではそれなりの武功を上げ、戦後は地方の県尉(現代で言うと町の警察署長ぐらいの立場)に封じられる。
しかしある時、中央から来たお役人の態度が気に入らなかったので二百発もぶん殴って逃走するという暴挙に及び、速攻で野に下ることになった。これが若さか・・・

劉備はこの後も地方の賊を討伐して再び官職に任じられたり、それを賊軍に奪われたりと波乱万丈な半官僚生活を5年以上にわたって送ることになる。


【怒涛の移籍ラッシュ】


そして時191年。賊によって任地を追われた当時30歳の劉備は、これより39歳になるまでの9年間をかけて怒涛の移籍ラッシュを繰り広げることになる。
この流れを端的に述べると

◆任地から逃げて兄貴分(兄弟子)である公孫サンの下に逃げ込み、「公孫サンの客将」「袁術の下請け*1に。

◆公孫サンから徐州の陶謙の下に援軍として送られ、そのまま陶謙にひきとめられて「陶謙の客将」に。

◆陶謙の遺言で徐州牧(州の長官)に指名され、「徐州の統治者」に。

◆迎え入れた呂布に逆に徐州を乗っ取られ、曹操の下に避難。「曹操の客将」に。

董承によって曹操暗殺計画に参加させられ、コトが露見する前に再び徐州に派遣させてもらって曹操から離反。再び「徐州の統治者」に。

◆曹操自身が攻めてきたので敗走。河北の袁紹の下に逃げ出し、賓客として迎えられる。「袁紹の客将」に。

◆袁紹に荊州の劉表との連携を進言し自ら軍を率いて南進するが、袁紹自身が官渡の戦いで敗戦。孤立してしまい、劉表の下に逃げ込んで「劉表の客将」に。

「主君を7度は変えねば武士とは言えぬ」と豪語した藤堂ナントカさんも納得せざるを得ないであろう、凄まじい遍歴である。
乱世とは言えここまでコロコロ立場を変えてきた人間も珍しいが、その一見無節操な移籍史には大きな特徴がある。それは仕えた先を裏切ったことがないという点である(何気にこれは、藤堂ナントカさんも同じ)。
転身の末にかつての敵勢力に所属したことはあるが、敵対的に独立したことも、以前の君主を敵としたことも無い(袁紹の下に逃げ込んだ時は、既に公孫サンは滅びている)。
唯一の例外が曹操への叛逆だが、これに関しては「皇帝陛下の密勅を受けたため」という大義名分がある。

このため当時の世間的な劉備のイメージは「流浪の身ながら義侠心に厚い忠義の人」という非常にクリーンなものであり、また朝廷を牛耳る曹操への反乱によって「曹操の専横を憎む漢朝の忠臣」という扱いも受けるようになった。
後漢末は様々な点で名士たちからの「評判」が物を言った時代である。劉備の圧倒的人気の前には、曹操や袁紹ですら賓客の礼を取らざるを得なかったのだ。


【久々の独立起業】

劉表の元で久々に落ち着いて時を過ごしていた劉備だったが、208年になると北の憂いを取り除いた曹操が荊州への本格的侵攻を開始する。
おまけにその矢先に劉表が病死し、後を継いだ劉綜は最前線の劉備に無断で曹操への降伏を決定してしまった。
劉備は曹操への帰順を拒んだ多くの人々と共に、懇意にしていた劉表の長男、劉琦が守る江夏へと逃亡する(長坂の戦い)。

一時的に安全を確保した劉備だったが、しかし荊州の大半を制した曹操の前には残る江夏も時間の問題だった。
そこで劉備はいまだ江南で独立を保つ孫権勢力に眼をつけ、荊州に来ていた呉の臣魯粛に仲介を依頼し、荊州で配下に迎えた諸葛亮を送って同盟を締結した。

これに対し曹操はひるむことなく大軍を率いて南下、江南の武力制圧を試みるが、長江で孫権軍の奮闘に阻まれ大敗を喫してしまう(赤壁の戦い)。

これによって曹操の圧力から逃れた劉備は、逆侵攻した孫権軍と曹操軍が対峙している隙に、荊州南部を次々と攻略する。
おもいっきり漁夫の利を得られた形となった孫呉は不快を示すが、周瑜や程普、魯粛といった重鎮たちが次々死んでいったゆえの混乱もあり、劉備はこれを上手くはぐらかしつつ呉との同盟を堅持しつつも自身の勢力基盤を固めていった。


【蜀取り】

そして数年後、益州を支配していた劉璋から「漢中の張魯との抗争を助けてほしいので益州に兵を入れてほしい」という要請が届く。
どう考えても乱世で他国の領主に出していいお願いじゃないだろ、と思われるかもしれないが、前述の通り劉備は「義を重んじ、私欲がないクリーンな将軍」として知られており、劉璋や側近が彼なら安全だと考えたとしても不思議はない。
しかし実はこの要請の裏には、劉璋の臣下である張松法正らによる策謀があった。彼らは既に劉璋に見切りをつけており、劉備を新たな益州の君主として迎えるためにこの策を推進していたのである。
劉備は張松との相談の末、これを了承。劉璋の救援要請にこたえるふりをしつつ、その実乗っ取りの腹を固めて益州へと向かう。

大宴会と共に益州に迎えられた劉備は、ほどなくしてヤクザレベルの見事な因縁をつけて劉璋に宣戦布告。攻略戦を開始する。
途中でホウ統を失うなど苦戦もしたが、2年間に渡る侵攻の末、ついに益州を手に入れることに成功した。
ちなみに劉璋を裏切った時には劉璋側の関所にいたが、そこの兵士の家族を人質に取り、無理やり配下に組み込んだという逸話が残る。


【頂点】

こうして荊益二州の主となった劉備は、法や制度を整備して人材の登用や国力の増大に努め、その勢力を固めていった。
そして218年、ついに悲願であった曹操勢力への侵攻を開始する。

その第一の目標となった漢中を守るは曹魏の勇将夏侯淵であったが、勢いに乗る劉備軍には抗し得ず、定軍山での戦いにおいてまさかの戦死。
総大将を失った魏軍は大きく後退し、漢中の要衝をことごとく劉備に明け渡す結果となった。
ちなみに劉備本人は夏侯淵のことを「せっかちな奴にすぎぬ、いつかは戦死する」と評価しており、皮肉にも自軍によってその最後を的中させた形となった。

その後間もなく曹操率いる魏軍本隊も着陣するが、既に守りを固めた劉備軍を崩すことができず、無理攻めを避けた曹操は撤退。
初戦から約20年にして、曹操に対する劉備の初勝利であった。

またこの動きに前後し、荊州からは関羽率いる一軍が北上。長江に面する樊城を攻囲し、それを救難すべく送られた魏の援軍をことごく退けた。
そして漢中を抑えた劉備軍はさらに別動隊を送って上庸・房陵も攻略し、樊城方面への直接的な連絡路もつなげることに成功する。


【転落】

こうしてその歴史における最大領土を達成した蜀漢であったが、一方で荊州を巡った孫権との外交関係が極めて危険なことになりつつあった。

「荊州は赤壁の戦いの後に、劉備の要請で一時的に貸与した地方であるから、いい加減返せよ耳」

「荊州は劉表の没後に劉琦が受け継ぎ、その死後に劉備が継承したものであるから、元々俺らの土地なんだよアル中」

現代の領土問題と同様、この主張は双方共に事実を含んでいる。
が、呉側は「貸す貸さない以前に、荊州全土を呉が領有していたことは一度もない」という事実には頑なに触れず、
蜀側は蜀側で「経緯はどうあれ『返す』という発言をしてしまった」という事実を綺麗にスルーしており、両者ともに自分に都合のいい事実だけを主張していたのである。
そして現代ならともかく、乱世においてこういった平行線の解決法というのは相場が決まっている。

217年3月、孫権は濡須口で何度目かになる魏軍の攻撃を退けた後、曹操に対して降伏を申し入れた。
無論一時しのぎのため、形だけの降伏だけであることは誰の目にも明らかではあったが、しかし劉備や諸葛亮はあるいはこのことをもっと重要視すべきだっただろうか?

219年夏、魏を攻撃していた関羽軍は、突如として呂蒙率いる呉軍に本拠地江陵を奪われた。
後方を喪失した関羽軍は敵陣のど真ん中で孤立することになり、たちまちその軍勢は雲散霧消、関羽本人も呉軍によって殺される始末となった。

日の出の勢いにあった蜀漢は、長年の根拠地であった荊州、主力であった関羽軍を一度に失ってしまったのである。


【昭烈帝】

魏への侵攻を諦めて漢中の復興と経営に専念していた劉備だったが、220年に魏の曹丕が献帝より禅譲を受けて皇帝の座につくと、これに対抗し漢の継承者として皇帝を名乗る。
実際の献帝は禅譲後も山陽公として丁重に扱われたが、蜀では献帝が殺害されたものと考え、葬儀まで行っていた。
蜀には誤報が伝わったとされるが、大義名分を立てるための大本営発表と見る説もある。

そして221年、関羽の一件で呉への復仇の機会をうかがっていた劉備はついにその時が来たと判断。呉への侵攻を開始した。
皇帝が部下の個人的復仇でガチ戦争を仕掛けるというのは、常識的に考えればかなり問題行動である。
むしろ「仇討ちは大義名分に過ぎず、呉が荊州を奪って時間が経ち、荊州に地盤を築かれる前に荊州奪還を目指した」と見るのが素直な見方かもしれない。
蜀漢には諸葛亮を始め荊州出身者が多く、彼らを繋ぎ止める意味でも、また彼らが蜀漢政権内部で勢力を固める意味でも、荊州奪還は急務ではあった。
だが、正史でも関羽の復仇と見られており、傍から見て仇討ちを考えるほどの絆があったことは確かであろう。

劉備軍は当初破竹の勢いで進撃したが、江陵の手前の夷陵を含む一帯でついに攻勢限界に達してしまい、中途半端な包囲軌道のままで戦線は膠着する。
呉軍の指揮を任されていた陸遜はこれを見て取ると、水軍と陸軍を縦横に動かし、大規模な夜襲と火攻めを敢行。伸びきった陣を各所で寸断された劉備軍は壊滅的な打撃を受け、なすすべもなく壊走した。
陳寿によって「正史」蜀志に伝が立てられた人物は70人以上に達するが、その中で「夷陵の戦いに参加し」かつ「生き延びてその後も蜀で活躍した」人物は、なんと劉備自身を含めわずか2名
まさしく決定的な大敗であった。

命からがら逃げかえった劉備だったが、この大敗に気落ちしたのかほどなく発病。
死期を悟ると、滞在していた白帝城に子供たちや諸葛亮などの重臣を集めて遺言を残し、そのまま息を引き取った。

223年6月10日、享年64歳。


【子供達】


劉禅
ある意味では親父以上に愛されている三国志のアイドル。3594のアイドルか。
劉備が苦心して作った蜀漢を一代で滅亡させたことから、しばしば「中国史上屈指の暗君」とまで言われてしまう二代目皇帝。
しかし実際のところ、こういう「政治に無関心で、良臣をむやみに圧迫もしないが、悪臣の跳梁を掣肘することもない」という君主は『歴史上に掃いて捨てるほどいる、無気力系ダメ君主のテンプレ』であり、そのタイプとしては特筆する程ひどいというわけでもない。もっと酷い奴は、いくらでもいる。
今日では単なる「亡国の暗君」を越えて「暗君の代名詞」とまでされてしまったのは、「歴史上の人物」と言うより「三国志の登場人物」になってしまったが故の不幸と言えなくもない。

劉永
劉禅の異母弟。
兄と違って硬骨な正論家タイプで、劉禅の治世に政治への干渉を強める宦官黄皓に危機感を募らせ排斥を試みる。
しかし正論家にありがちなことに根回しスキルや説得力に欠けており、逆に黄皓の讒言によって劉禅から宮廷出禁を喰らう羽目になった。
劉備の子供たちの中では珍しく男気を示したためか、甥の劉諶と並んで創作物での扱いはかなり良い方。
劉備の子孫はそのほとんどが西晋~五胡十六国時代の動乱で殺されているのだが、この劉永の系統だけが唯一生き残って祭祀をつないでいる。

劉理
劉禅・劉永の異母弟。
馬超の娘を正妃として娶ったということ以外、書くことがないに等しい空気息子。しいて言えば病弱属性があるぐらい。

娘二人
名前が不明の娘二人。
長坂の戦いで妻や阿斗ちゃん同様に置き捨てられたが、残念ながらこちらには白馬に乗った趙雲様は現れなかった。そのまま曹操軍の捕虜になり、以後の消息は不明。くっころかな?

劉封
荊州時代に迎えた養子。元の姓は寇。
後に劉禅が生まれたため後継者の座を外れるが、その優れた軍才から劉備の唯一の親族武将として重用された。
シニア~シルバー揃いな劉備軍主力の平均年齢を一人で下げていた優秀な若手将校だったが、自分の任務を優先して関羽の援軍要請を拒否したことで劉備の寵を失い、諸葛亮の進言で自殺させられた。
劉備にとってはいろんな意味で黒歴史であり、しばしば存在自体をなかったことにされる(北方三国志とか)。


【人物】


 「度量が大きく、人を信じて使うのが上手いところは漢高祖(劉邦)にも匹敵する」
 「困難な時にあっても信義を曲げず、部下の信頼を裏切らなかったため、多くの優れた人物に慕われた」
などと、乱世に成り上がるのにふさわしい圧倒的カリスマ性を持っていたことが多くの資料から確認できる。
 「口数は少なく喜怒哀楽をあまり表に出さなかったが、人に対しては丁重だった」
とも言われており、なんかマフィアのボスのようなすごみもあったのだろう(その割に身近な人にはよく冗談を言っているが)。

一方でそういった「静かなる大物」像とは異なるアグレッシブな劉備も史書ではよく見られる。
人事運用に関しても「使えると見れば若かろうが新参だろうが一気に抜擢もするが、使えないと判断すれば即見切る」というワンマン中小企業の社長みたいなアクティブなスタイルが目立つ。この辺は、ライバルである曹操のやり方によく似ている。
親と子ぐらいの年齢差がある諸葛亮や、古参の張飛を差し置いていきなり大幹部に抜擢された魏延のように、彼の下でこそ輝けたであろう人材も多い。
ただ「こいつはダメだ!使えん!」と即決した人材の中には馬謖のように本物のハズレもいたが、見切りが早すぎて逸材を逃がしかけた(ホウ統とか蒋エンとか)こともある。お金がないからね、仕方ないね。
また、劉備自身が高く評価した人材も、李厳みたいに劉備が死んだ後に大失敗をやった人物もいたりする。
モロに使えない人材だと記録すら残らないと思われ、劉備がどれくらい人材登用に成功していたか、正確な評価は難しい所だろう。

また若い頃は指揮官として成り上がった劉備ではあるが、戦績を見る限り戦争はそれほど強いとは言えない。
特に大規模な戦闘になるとこれが顕著で、はっきりとした戦いだけを数えても勝率はぎりぎり5~6割と言ったところ。
遥かに多くの戦を経験しながら勝率8割超を維持した曹操とは雲泥の差であり、史書にも「軍略や権謀は曹操に比べてイマイチ」とキッパリ書かれてしまっている。
しかしながらスタート地点がいわば底辺もいいとこの劉備と、親の代から一勢力を築ける財に加えて有力な身内人材にも恵まれた曹操では、財産物資や人的資源に差がありすぎて単純比較は出来ない。
更にそんな状況なので劉備は徐州や長坂のような、開戦前からほぼ負け戦確定&戦争回避もほぼ不可避の状況も多かったことも留意する必要がある。
むしろこれほど負けておきながら最終的にあれほどの勢力を築いたというところが劉備のすごさともいえる。

その成功の秘密はなんといっても「逃げ足の早さ」にある。
と書くとなんかネガティブな感じではあるが、「勝てそうならば戦い、負けそうなら逃げる」というのは古今東西、勝利への大鉄則である。
これには「あくまでも負けそうな戦いだから逃げる」という分析・判断力も含まれている。
「逃げ腰で勝ち戦を逃す」といったことはほぼやってはならないし、「逃げるだけの、皆を納得させられる理由」も必要になってくる。臆病からの行動と思われてしまえば人はついてこないのだ。
しかし逃げてしまうと地盤や人材を失う場合が多いことも確かなので、そこからの立て直しも求められる。
そのため単純に逃げ足が速いだけでなく、逃げた後でもついてきてくれる忠臣や、人材を集められる名声があった、というのも重要である。
こうして考えると、単純に逃げているように見えて、劉備はその当たりのバランス感覚に非常に優れていた(そして、運もあった)ことが良く分かる。

この名声と逃げの両輪により、明日をも知れない弱小勢力ながらも比較的ローリスクハイリターンな行動を繰り返すことができ、最終的に三大勢力の一つにまで成りあがったと言っても過言ではない。
これらは、劉備が明確且つ周囲に誇れる長所である。

ただし、大勢力になると様々な影響がありすぎるため、流石にホイホイ逃げるわけにはいかなくなる
劉備最後の最後でやらかした大失点である夷陵の戦いは、なまじ劉備が大勢力になったゆえに「逃げて立て直せず、挽回が効かなくなってしまった」例でもあった。
しかも、夷陵の戦いの時点で三国は鼎立し、戦乱状態が一区切りついて人が流動しなくなっており、名声で人を集めることが困難になった。

皮肉にも劉備自身が作り出した三国鼎立が最後の最後で劉備の得意戦法を封じ、次世代に巨大なツケを残してしまったのである。
本当の意味での乱世の奸雄は、乱世だからこそ何度も群雄として舞い戻ることができた劉備なのかもしれない。

【外見】

「耳が自分の眼で見れるほど大きく、手は膝に届くほどの長さがあった。」
と史書に書かれており、どうやら人間よりテナガザルに近かった可能性がある。
しかし身長は7尺5寸(181センチ)もあり、当時としてはかなり大きめである。とするとむしろゴリラに近かったのかもしれない。

……まあこういったクリーチャーじみた造形は天子を表す相として後付けされたり過大に表現されたりするものなので、信ぴょう性があるのかと言われると微妙ではある。

また史書に「ヒゲがなかった(薄かった)」と書かれていることも有名。
文からは常にそうだった(元々生えていなかったor薄かった)のか、一時的にそうだった(剃っていた)のかは定かではないが、後者だとすれば相当なオシャレさんである。
当時ヒゲは成人男性のファッションの基本であり、そのスタンダードをあえて外してコーディネートを成立させるには相当なセンスが要求されたことだろう。
実際、史書には「音楽を愛し、美しい衣服を好んで身に着けた」とあるので、案外本当にレベルの高いオシャレ系だったのかもしれない。


【創作作品における昭烈帝】


一般的に「三国故事(三国志関連の創作)」における劉備は、中国文芸においては西遊記の三蔵法師や水滸伝の宋江と同じ分類にあてはめられる。

彼らは一応ストーリー展開において主役的存在ではあるのだが、それはむしろ受け手の感情を移入させる「ヒーロー」と言うよりは、そのヒーロー達を活躍させるための「舞台」に近い存在なのである。
これは現代の創作でもみられる「本来は主導的な主人公であったものが、周りの濃いキャラクターに要素をはく奪され、徐々に没個性的な存在になっていく」というある種普遍的な現象である。

大衆にとって三国故事とは「ヒーローの張飛、その兄貴分で神様の関羽、魔術師孔明、それに対するは大魔王曹操とその部下司馬懿鄧艾!」といったイメージが基本だった。
劉備は彼らを従える主君として好意的に描かれる人物ではあったものの、その主体性や存在感は限りなく希薄だったのである。
例えて言うなら子供たちに「劉備のこと好き?」と聞けば、100人中99人は「劉備好き!曹操嫌い!」というに違いないのだが、「三国志で誰が一番好き?」と聞いたら、「劉備!」という子供は100人中1人しかいませんでした、という感じ。


・三国故事黎明期
当初の三国モノのヒーローはなんといっても張飛一色で、張飛が曹操を一声で泣きながら逃亡させたり、一万の兵士を一人でぶった切ったり、妖怪変化(!?)と戦ったりと大暴れするのが常だった。
この頃の劉備は「張飛(または関羽)の主君」という以上の役割はほとんどなく、よくてお話の〆に出てきて張飛の蛮行剛勇をたたえてオチをつける、という程度の存在であった。


・説三分
やや風向きが変わってくるのは、科挙に挫折した知識階級の文筆家があふれ出し、大衆向け創作のレベルが大きく向上した宋~元の時代。

それまでは「張飛が出て殺す」的なマッポー的アトモスフィアに満ち溢れていた三国故事も、それなりにちゃんと構成された歴史ストーリーとしての体裁を整えていくようになってきた。
この為ヒーローサイドの中心人物である劉備も、単なる舞台装置にとどまらず、義兄弟や孔明など人気のあるヒーローたちが「仕えるに足る」人物として設定されていくようになったのである。

ただしこれは歴史上の劉備を反映させたというよりは、「ヒーローサイドのボス」、そして「大悪党曹操に相対する存在」という物語上の必要性から逆算して作られたキャラクター性であった。
結果としてこの時代の劉備は「仁愛の心にあふれ、人を疑うことも知らないお人好しで、しかし道義心が極めて強く、曹操の不義を憎む正義漢」という昭和特撮的正義漢といったキャラ付けをされている。

宋代に編纂された「三国志平話」では、項羽との戦いで功績を上げながらも劉邦に粛清された「梁王」彭越の生まれ変わりとされた。

・三国志演義
そして明代。それまでに蓄積されてきた三国故事を正史の流れに沿って編集、再構成した「三国志演義」が生まれるのだが、ここで問題が発生する。

前述の通り、乱世の雄である正史の劉備は、お話の中にしか存在しないような「聖人君子」では決してない。
役人をぶん殴って辞表をたたきつけたり妻子を放り出して自分だけ逃げたり火事場泥棒的に荊州を奪ったりヤクザ並の難癖をつけて蜀を奪い取ったり皇帝が禅譲したのに死亡したと主張して自分が即位したりといった非ヒーロー的所業も当然やらかしている。
よって演義に関わった作家たちは、「乱世の群雄」としての劉備と、創作で作り上げられてきた「仁君」劉備のイメージとの双方を両立させねばならないというジレンマに悩むことになった。

結果、聖人君子らしくないふるまいに関しては「やむを得ない事情があって苦悩しながらやった」ことにしたり「部下(主に張飛)が勝手にやった」ことにしたり、「相手の方が悪意を抱いていたので正当防衛だった」ということにしたりして、なんとか劉備のキャラクター性を守ろうとしたのだが、正直なところ成功しているかというと微妙なところ。
例えば初対面の敵将を捕虜にした時にしても、あるシーンでは丁重に説得を試みたり、あるシーンでは一瞬のためらいもなく斬首を命じたりと、キャラがブレッブレになってしまっている。
結果として演義の劉備は「基本的に聖人君子なんだけど、部下の言うことにあっさり流されるので主体性がなく、部下の言うままに非道もやるので一貫性もなく、もうただの偽善者なんじゃないのこれというレベルなのだが、しかし作中ではなぜか至誠の仁君扱いされる」という非常に安定しない人物となってしまった。

・その後
三国故事における劉備のキャラクター性はその後も基本的に変わることなく、「英雄たちが忠誠を捧げる象徴的な聖人君子」というイメージから逸脱することはなかった。
この画一的なイメージに変化が見え始めたのはごく近代のことで、「三国故事」自体がエンターテイメントジャンルの地位を降り、歴史書の「三国志」と同じく古典の一分野という立ち位置になってからのことである。

特に様々なジャンルでの三国志創作が盛んな日本では、それ以前のテンプレに縛られない多様な劉備が産まれている。
昨今では特に批判の対象になりがちな「偽善者」という演義の描写や、「漢室の復興」を唱え続けた正史の態度を掘り下げて、
本性は怜悧で狡猾な権謀家だが、普段は「仁徳の仮面」を被り文字通り善人と偽っている、芝居に巧みな権力者として描かれることもある。
漫画にもなった「封神演義」の改編翻訳元で知られる安能務は、劉備を「とぼけた「仁徳」の政治スローガンを掲げて、臆面もなく漢室の末裔と言い張りながら、そのじつ漢室のためには脛毛一本たりともすり減らしたことのない、しぶとい権謀家」と評した。


『演劇系』

前述の通り、三国故事における劉備は今でいう「主人公の親友」系ポジションなので、登場自体は多くとも主役級の位置を与えられることはほとんどない。
「桃園結義」においてすら、立ち回りでも口上でも主役は圧倒的に張飛と関羽であり、劉備は正直オマケに近い。三国志の後半になってくるともうホントに空気である。
そんな中で唯一劉備が輝ける題材は、演劇の本筋とも言える恋愛もの……つまり「孫夫人とのロミジュリ」である。
この分野における劉備の活躍は恋愛劇が盛んになった清代劇、つまり京劇において一際顕著であり、恋バナに関してだけは義兄弟たちの追随を許さない位置を築いている。


『三国志 Three Kingdoms』

現代中国の歴史大河ドラマでは、ようやく画一的な聖人君子像から脱却した劉備を見ることが出来る。
演義を元にした作品なので、基本的には仁徳の人なのだが、そんな自分をどこかで冷静に客観視しているようなクールさと、それでもなお仁義を貫こうとする凄みを垣間見せる。
演義における絶望的な主体性のなさと無自覚な偽善者臭さを、逆に「意識してそうふるまっている覚悟の人」という形に昇華させており、諸葛亮さえ時にハッとさせる君主らしさがかっこいい。
歴戦の勇将であるという正史要素を意識してか、個人の剣技も作中有数の腕前という設定であり、数は少ないがかっこいいアクションシーンも見られる。


『横山三国志』

ビジュアルは横山漫画のイケメン系主役顔(バビル二世系)。
基本的には三国志演義の劉備そのものだが、前述の通り演義劉備はキャラが安定してないので、絵になると余計シュールさが漂う。

「斬れっ」

物語の序盤ではとてつもなく主人公しているのだが、周りに人物が増えていくにしたがって急速にモブ化していくのが悲しい。


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:小ヾヽ     \       /
|//|::ヾヽ    ヾi川川ツ’
///:::::ヾヽ      `ヾリ\


蒼天航路

完璧超人すぎる曹操が有名な漫画だが、キャラとして革新的なのはむしろ劉備の方かもしれない。まさかの江戸っ子系チンピラキャラである*2
三国故事の流れが形成してきた理想的聖人君子としての劉備ではなく、史実の「泥臭く、人間臭い群雄」としての劉備を大胆に脚色し、ヤクザの親分のような任侠と、ある種少年のようなとてつもない包容力を持つ人物として描かれている。


『コーエー三国志』

基本的に演義のキャラクター性を踏襲しているためか、魅力以外は実に平凡な器用貧乏(byホウ統)。
イベントシーンでもそのキャラクター性は基本的に演義準拠の薄口で、キャラが明確なライバル曹操に比べるとあまり目立たない。
だが、隠しパラメータである「相性値」がちょうど中庸になっていることが多く、魏・呉どちらの武将もそれなりに配下にしやすい。何かと得をするイベントも多め(同じイベントでも、劉備だと発生条件が緩かったりする)であり、やはり主役クラスとして優遇されている。
ただし7あたりから明らかに蒼天航路の影響で一部で非常にはっちゃけはじめており、通常のストーリー外ではチンピラじみた軽い性格が出てくるようになった。
特に9や11でのチュートリアルにおける劉備は、もはや伝説レベルの公式が病気である。危険なことを言うな!


『三國無双』

CVは遠藤守哉。
蜀陣営の人物は基本的に三国志演義のイメージをそのまま踏襲しており、劉備も演義そのものの「大徳」で、キーワードの「仁」という言葉をしょっちゅう口にする。
しかし現代において、演義の劉備そのままで魅力的なキャラに仕上げることはなかなか難しいのも事実。
魏や呉も蜀と同じようにヒーローサイドとして描かれることもあって、プレイヤーからは「仁の刃ってなんだよ…」「なんで三国同じようなことやってても劉備だけ正義扱いなの?」などとツッコミが入ることも多々あった。

しかし正史の要素を大きく取り入れた6あたりから、理想としての「仁」と、現実の乱世における自分の所業との乖離に苦しむような描写も増えてきており、演義とは一味違う深みも出てきた感がある。
またどの作品においても夷陵の戦いでは遠藤氏の演技もあり必見の迫力である。
PS2シリーズでは武器は剣(尖剣)を使っていたが、PS3になった5以降では、演義の描写に従って「雌雄一対の剣」、つまり二刀流がメイン武器になった。性能は君主勢の中では高めな傾向がある。


『無双OROCHI』

無印で「劉備姫」的なキャラになったことで≪プレイヤーの腹筋が苦戦!即刻救援せよ!≫させたが、元ネタである演義の劉備を考えれば極めて伝統的な立ち位置であると言えなくもない。


『ニンジャスレイヤー』

「ハイヤーッ!」カンフー・シャウトを響かせながら、青龍刀の男はチャリオットの側面を蹴って前方回転で飛び出し、戦場へと躍り出た!
タダーン!彼の名はシャン・リウ・ベイ!あの男を抹殺すべく、ローマ法王と同盟を組んだドラゴン・エンペラーの軍勢が放った、屈強なカンフー・マスターである!
劉備曲解してんじゃねぇ!
多分元ネタはジャッキー・チェン主演の映画『ドラゴン・ブレイド』だと思われるが、時代が前漢後期なので200年位違う。
※あくまでも劇中劇の設定であり、本当に「劉備とあの男が戦った」事になっている訳ではない。どっちにしろ「何か吸ったのかな?」と疑われざるを得ないトンチキな発想ではあるが。


BB戦士三国伝





「悪は小であってもするな、善は小であってもなせ。ただ追記と修正とが能く記事を完成させるのだ。建て主は徳薄く、これを模範としてはならない。」

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